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無意識日記
宇多田光 word:i_
 



今夜の「NEWS ZERO」で、ひとまず露出は一旦落ち着きますかね。来月にまだフジテレビNEXTだったか何かがあるけれども。チャートの方はもしかしたら4週連続1位もあるだろうかという雲行きで。今夜のテレビ出演でまた少々上積みするかもしれないし、推移次第だねぇ。

昨夜はヒカルも3週連続1位について触れていて、確かに、発売前はそこまで行くとは自信をもって言い切れなかったろうな。どれだけベテランでも、いや、キャリアが長い程、売上が水物なのはよく御存知だろう。

全米3位、という見出しも踊った。盛り過ぎ。iTunesチャートで瞬間3位とか6位とか、勿論偉業だがビルボードTop200で週間3位や6位をとるのは訳が違う。今回は米国国内発売がなかった為(知らんかったわ)チャート対象外と見なされたのは残念だったが、何位相当だったのかは気になる。次作がいつになるかはわからないが、早い時期であれば米国国内発売も検討されるだろう。

特に、Kingdom Heartsの新しい主題歌の話が出てくれば事情が変わってくる。米国での同シリーズの人気は相当であるらしく、今回も、全く関係ないのに名前を出してくる人が多数居た。『This Is The One』でも、難儀な難儀なディズニーとの交渉を乗り越えて『Simple And Clean』、『Sanctuary - opening version -』『Sanctuary - ending version -』を収録した。それだけな訴求力が、あるのだ。ヒカルが次のアルバムでEVAとダブルパンチをかました日には『Fantome』を遥かに上回るリアクションが期待され得る。

事がそう簡単に運ばないのは勿論わかっている。しかし、3週連続1位で「やれるんだ」という実感を得れたのは、今後の活動を推進するにあたって、大きい。ヒカル自身もだが、周囲のモチベーションが段違いだろう。まずは来年のツアー、そして次作に向けて、着実に歩を進めていって欲しいものである。

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『二時間だけのバカンス』のビデオや『クローゼット』という歌詞(「カミングアウトしてない」の意、だそうで)、または『ともだち』の歌詞全般を取り上げてヒカルが今回LGBTを真っ向から取り上げてくれたと話題沸騰、特にその界隈から絶賛を浴びているようだが、『Fantome』で最もLGBT色が強いのは(いや、豊かなのは、かな)、ジェンダー論まっしぐらな『俺の彼女』だろう。

理由は単純で、登場人物がそれぞれ「男」と「女」を"演じて"いるからだ。"演じる"のであるから、宝塚や歌舞伎同様、「男」は男である必要はないし「女」は女である必要はない。本人の指向性向身体的特徴は脇に置いて、兎も角"演じている"事が何より重要である。

まぁ、慌てず見て行きましょう。

次の一節は『愛想もいい』である。『気立てもいい』とかでもよかったのだろうが、次が『気の利く子だと』な為「気」が被るのを避けたのだろう。そして『仲間内でも評判だし』だ。ここが、前も述べた通り『彼女』の『彼女』たる所以だ。俺様にとって彼女とは仲間内で評判になる事こそ価値なのだ。コミュニティー内でのステイタスとしての恋人、パートナー。ただ2人で居るだけでなく、2人がカップルであるという関係性及び個々人の性質もまたコミュニティーに受け入れられている。そこが重要である。


『ヘイ。』


更に歌詞は続く。『俺の彼女は趣味や仕事に干渉してこない』。『ヘイ。』『帰りが遅くなっても聞かない 細かいこと』『あ・うー・あああ。』―メロディーはリフレイン、繰り返しだ。前段の内容を更に補強する一節、二文である。この曲ではこのリフレイン、「繰り返し」が非常に重要になってくる。何かを繰り返したらそれは何らかの伏線か、或いはどこかの伏線の回収かもしれない、と疑った方がいいだろう。

もっとも、単純な繰り返しは1つもない。この曲は常に変化を繰り返す。つまり、何度も繰り返されるのは変化だけだしその変化も1つとして同じではありえない。それを念頭に置いて、歌詞を吟味しなくては。

ここでは、バッキングに変化が出ている、のだがそこらへんの話からまた次回。ヘイ。

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日本語の場合一人称すら社会的関係性に影響される、という話、『俺』という言葉に集約されている。つまるところ『俺の彼女』の『俺』は精一杯強がる事を強いられている。ややこしく言えば、この歌自体が『俺』という一人称の本質を描いた詞を携えているという見方も、いや、見方ができる。更に踏み込めば『俺の彼女』は『俺』そのものだ。

尊大さにその本質を認めるならば、一人称を敬称で彩るのも必然なるかな。「俺様」という呼称は「僕様」や「私様」の必然性(の無さ)を圧倒する。なお残念ながらここに「ぼへ様」は入らない。

そういう「俺(様)」にとっての『彼女』であるから、如何に自分を引き立ててくれるかが重要となる。極めれば「あなた様」と呼んでくれる位の淑女が求められる。現実には「俺様」は自虐、「あなた様」は皮肉にしか使えない。歌詞にも、出てこない。

冒頭、イントロもなしでいきなり『俺の彼女はそこそこ美人』から歌は入る。もう既にこの時点で世界観が決まっている。何がどう見えているか。日本語ならではの『俺』『彼女』『そこそこ』。まず容姿の話から切り出しているのもポイントが高い。この『そこそこ』の卑屈さよ。実際にどう、というよりは謙遜と自尊心のバランスが如何にも日本語人らしい。

「とびきり美人」とかではいけないのだ。余りに美しすぎると、俺と彼女が並んだ時に彼女の方が主役になってしまう。レディーファーストという言い訳を育めた文化圏なら手放しで称える事も出来ようが、そうでない国では「主人の後を三歩下がって」が求められる。「器量はいいが、俺様を食う訳でもない」という"俺様の彼女"に求められる理想像が『そこそこ美人』には込められている。

音程もいい『美人』で跳ね上がる。ヒカルは元々よくやる手だが、音程の上がる場面に「ん」の音を持ってくるのは冒険だ。ここの跳ね上がりで、聴き手は「なんて鼻につく言い方だ」と『俺』に対して鼻持ちならない感情を抱く。「そこそこ」と言いながら『彼女』が美人である事を自慢していて、いや、正確には、器量のいい女性をモノにした「俺様」の度量を自慢していて鼻につく。そう強く感じさせる効果がこの『びじん』での音程の上がり方に込められている。「うわ、なんかイヤミなヤツが登場したな」と一瞬で思わせる。歌を全部聴き終わっている人なら御存知の通り、勿論それはフリ、伏線として機能している訳だが。

イントロなしの10秒足らずで既にヒカルはこうやってリスナーに「どう思って貰いたいか」を簡潔に提示し、実際にそう思って貰う事に成功している。出だしで「お」と思った瞬間に既にもう我々は彼女のペースにノせられてるのだ。もう我々は否応無しにこの歌に惹き付けられている。

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『俺の彼女』。もうタイトル発表の時点ですぐに目を引いた。インパクト抜群。曲調も予想出来なかったし、ヒカルが"どういうつもりで"こんなタイトルにしたがったのか見当もつかなかったが、果たして、今目の前にある楽曲は貴方の御期待に沿えたであろうか。

『俺』の『彼女』。まず、『俺』。ヒカルが初めて本格的に使う一人称だ。男性性を表現する為に使われる訳だから、勿論の如く曲中では男性を演じる。荒々しさや雄々しさと言い換えてもいいが、最終的には「強がり」の為、だ。

『彼女』の方は、『日曜の朝』のあの一節によって余計クローズアップされた。『彼氏だとか彼女だとか呼び合わない方が僕は好きだ』。一人称が『僕』であるにもかかわらず、この一節は宇多田ヒカルの"本音"として受け止められている。

そもそもこの『僕』は、「彼氏彼女」の呼び方のどこが気に入らないのか。

英語の授業でhe,his,himは彼、she,her,herは彼女と習う。三人称だ。なぜ三人称が、恋人やパートナーを呼ぶ時に使われるのか。それは、これが使われる場面の多くが、お互いが不在であるからだ。2人で居る時は「わたしとあなた」「おれとおまえ」である間柄を、第三者に説明紹介する時に「彼氏彼女」は登場する。『俺の彼女』はまさに、『俺』が『彼女』を紹介(自慢?のろけ)する所から始まる。

ここらへん、たとえば英語の「ダーリン(darling)」「ハニー(honey)」とは随分違う。日本語として、カタカナ語として使われる時でさえ、ダーリンとハニーは場合を選ばない。「おお、愛しのマイ・ハニー!」「愛してるわダーリン」と二人きりの時にも言うし「私のダーリンったら素敵なの」と誰かにのろける時にも使える。流石に実際に使ってるとこ見たことない(筈だ)けど、使えるのは間違いない。

しかし、二人きりの時にお互いを「彼氏」「彼女」と呼び合うのは極めて稀だ。「あなた、私の彼氏なんでしょ!」くらいの使い方は出来るが、これは相手を指す呼称ではないし、そもそも、こうやって二人きりの時に使われるのは、ご覧のように、お互いが彼氏なのか彼女なのかが疑わしかったりあらためて問われたりする時である。既に危うい。

即ち、「彼氏彼女」という関係性は、必ず第三者が介在しなければ成り立たないのである。『日曜の朝』の『僕』が『彼氏だとか彼女だとか呼び合』う事を厭うのは、つまり、第三者と関係なく二人きりの世界で居たい事のあらわれであると解釈できるのではないか。『お祝いだお葬式だ』の一節も浮き世がまるで遠い国の出来事のように感じさせる。二人きりの空間からは遠く離れている。

『俺の彼女』は、そういった認識から出発してみたい。第三者が介在するからこその三人称、そして『彼女』、そして『俺』。如何にヒカルの作詞術が巧みなのか、嫌になるまで聞かせてあげましょうよ。

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はぁ。今日は夏日になりそうなんですか。最近異常気象って言わなくなったけど、今年こそ正真正銘の異常気象じゃないっすかね。もう10月も中旬なのに夏日で。昔は「この程度の揺らぎで異常気象はないだろ平均じゃなくて分散みろよ」と言ってたのに今は逆。なますに懲りてあつものを一気飲みかよと。なんのこっちゃ。

『Fantome』関連のダウンロード数についてニュースが出ていた。全世界で15万ダウンロードとか。うん、みみっちい(笑)。だって10ヶ国で割っても1.5万なんだから、結局何ヶ国でチャートインしたんだっけ。ただ、配信はやっぱりシングルが優勢で、『花束を君に』はもう60万ダウンロードだそうな。いつのまに。でシングルの合計は150万を超えるとか何とか。なんだか色々と計算が合わない気がするけど、こちらはなかなかいい数字。普通に大ヒット曲と呼んでよさそうですね。

アウトサイダーと自ら言う人がメインストリームの中央を走るというのは何とも痛快というか奇妙というか、と思ったが選挙をやったら無党派層が最大勢力、スポーツやったらフランチャイズより代表戦、という国民性だった。こう、アイデンティティが無いところがいい。

実際、アイデンティティという概念がなかったから今こうやってカタカナ言葉で表記しなければいけないのだ。島国で侵略が少なかったからとか理由をつける事は出来るが、取り敢えず事実として無節操にその時その時の祭りを楽しむ、という態度は一貫している。今デパートにでも行けばもう既にハロウィンとクリスマスとお節料理の予約が出来る。冬至にはゆずを浮かべカボチャを頬張るだろうし。いやはや。

そういう意味ではウタダも祭りのひとつとして消費される運命にある。その中で3週連続1位で目立っているのは流石というか何というか。ヒカルの歌はその中で、部外者としての疎外感を核にして売れている。真ん中が空虚というのも、この国らしい。

英語の構造は、前も述べた通り一人称、二人称、三人称の順に組み立てられる。ただ構文が異なるだけではなく、実際に世界の見方が異なるのである。一人称や二人称にバリエーションがないのも偶然ではない。抽象的な個が世界の前提として言語に組み入れられている。

日本語においては一人称も二人称も多様である。私、僕、俺、儂、手前、当方、、君、貴方、貴君、その方、お前、そち、うぬ…お互いの社会的関係性や個の気分や性格で容易に豹変する。そういう意味では日本語の人称と英語の人称は全く別のものだとわかる。英語の方は、そもそも社会的関係性や個々の性格以前に「I」と「you」が存在するのだ。

それを踏まえると、日本語で勝負すると誓った『Fantome』というアルバムで、『俺の彼女』という日本語独特の(というか、英語にはない)"色のついた一人称"を冠する曲が収録されたのもある程度必然的に思えてくる。次回はそこらへんの話からしていきますか。

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『NEWS ZERO』の二回目は20日の木曜日に決まったか。よかったよかった。またニュースで飛んだらその時はその時で。楽しみを後に取っておいているだけだと、思っておこう。

スペシャやテレ朝で同業者たちによる『Fantome』の…絶賛、と言っていいだろうな、数々のレビューを聴いていると、やはり特別な存在なんだなと気づかされる。先週のワイドナショーもそうだが(藤圭子絶賛の流れはヒカル大喜び間違い無しだったな)、ヒカルの話になると雰囲気が変わる。はっきり言って私は気まずい。同じくワイドナショーでまっちゃんが福原愛の記者会見に対して「文句の付けどころが無くて面白くない」みたいな事を言っていたが、それと似た空気を感じる。福原はスポーツ選手で結婚会見だから"他人事"で済ませておけばよいが、歌手の歌の話となると、芸能人たちにとってはいわば"同じ土俵"の話になる為、降参する時はマヂである。数少ない(本当に稀少な)ヒカルと"話せる"才能である筈の桑田佳祐ですら『Fantome』に対して早々に白旗をあげてしまった。昨日日本シリーズ進出を決めた日ハムの4番の中田も大谷の165kmパフォーマンスに対して「馬鹿馬鹿しくなってくる」と呆れていたが、
宇多田ヒカルという存在は多くのミュージシャン、芸能人たちにとって、プロ野球選手にとっての大谷翔平みたいな感じなのだろう。怪物とか化け物みたいな存在だ。

ここまでスケールが大きいと、とっとともっとデカいステージに行ってくれないとやりづらくて仕方がない。気まずいとはそういう事だ。イチローなんか7年連続首位打者という無双を続け過ぎた為、NPB終盤は死球攻めに遭って誰も得しない展開になってしまった。とっととメジャーリーグに行くべきだったのだ。もっとも、彼の場合はそのメジャーリーグに行ってすら年間最多安打記録262本と10年連続200安打という「向こう100年破りようのない記録」を達成してメジャーリーグでもレジェンドになってしまったが。

ヒカルの場合も同様に、才能に見合う器は地球サイズにならざるを得ないが、言語の壁というのは本当に難しい。ノーベル文学賞って各国でどう受け取られているのだろう。いや、それを言ったら医学生理学も化学も物理学も「知の壁」が聳えていて一般市民には直接価値がわからないのだから、それに較べればメロディーとリズムという全人類共通の価値を持つ音楽というジャンルは恵まれているかもしれない。

逆から考えるべきか。ノーベル文学賞は、伝わらない人々が大勢居るから権威付けされるべきなのだと。「わからないかもしれませんがこれは大変に価値のある事なんですよ」「へぇ、そうなんですか」というやり取りが賞の意義だ。とすれば、音楽に賞なんか要らないと言ってもいい。いや、でも、勿論アメリカにはグラミー賞というのがあってその年にもう一度売り出されるミュージシャンが100を超える部門で選出されて…





…といった話は私やっぱり苦手なので、自分の耳に聞こえてくるものについて語ろうそうしよう、って先週言ったとこでしたな、やれやれ。

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『Fantome』はこのままいくとオリコンチャートで3週連続の首位を獲得する見込みという事で、何より。事前にはここまで売れるとは思っていなかった。売れる匂いがしないとか書いてすいませんでしたm(_ _)m

メディアが総じて好意的なのが有り難い。穿った見方をすれば、叩く事も可能だった筈だ。「オリジナルアルバムでは過去最悪の売上。前作から半減。」という見出しをつける事も出来た筈だ。それをしなかったのは、叩いては的外れと謗られる空気が出来上がっていた為だろう。

メディアの"印象操作"は大胆である。先週、卓球女子の平野美宇がワールドカップを制したが、大胆にも「中国選手以外では史上初の栄冠」という感じで讃えた記事もあった。事実であるから構わないものの、この大会は最初から中国代表の2人が故障で欠場が決まっていた為、やる前から中国選手以外が優勝する事が決まっていたのである。そういう意味では当たり前の話でしかないのだが、「リオ五輪の補欠選手が金メダル級の活躍」というニュースバリューに飛びついた為こうなった。まぁ平野の場合あと二年もすれば中国選手に勝ち始めるので再来年か再々来年あたりに中国選手を倒してワールドカップをとればいいだけだが。

今回、ヒカルがメディアを見方につけられたのは何といっても"通常盤仕様1形態"の力による所が大きい。これは直接的には売上に影響を及ぼさなかったばかりかやはり本来なら二種程度出した方が初週総売上は上だったように思う。しかし、その潔さが新聞雑誌テレビネット、そしてラジオといったメディアを引っ張る原動力になった。特に101局パワープレイ&特番オンエアに際しては「音楽をプッシュする」という大義名分の為にどうしても必要な潔さだったとみる。

昨日はなんと全局55局で『ファントーム・アワー』が放送された。これらの影響が売上に出るのは今週になろうが、リスナーのうち、1局あたり平均100人がCDを買いに走ればまたチャートの上位に顔を出す。101局とか55局というのはそれくらいにスケールがでかい。平均が100人という見立てですら結構控えめかもしれないし。

一応、今日和歌山と京都でのオンエアによって『ファントーム・アワー』ウィークは幕を閉じる。しかしシェアラジオはまだこれから一週間ある。また、いつになるかは知らないが「NEWS ZERO」での2回目の出演もある。『Fantome』旋風はまだまだもう一息終わらないのです。

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『Fantome』において「つまるところ何が言いたかったか」を最も凝縮した歌は『道』だろうが、しかし、以前述べたようにこの曲はアルバムタイトルにならなかった。即ち、アルバムタイトルは『道』にはならなかった。

それをどう捉えるか。曲名としてすら特殊だろうにいわんやアルバムタイトルをやという解釈も成り立つが、寧ろもっとシンプルに「このアルバムにおいて本当に言いたかった事には未だ辿り着いていない。それは未来に在る。」という事だろう。道半ばだから曲のタイトルは『道』になったし、多分それは「未知」でもあるだろうから、まだ辿り着くべき場所の気配しか感じられない、即ち『Fantome』なのだろうと。案外ロジックはしっかりしている。

ではなぜフランス語なのか、英語で「Phantom」ではいけなかったのか、となるのが自然な疑問だろう。私が思うに、これはヒカルの都合だ。恐らく、「外国語」を使いたかったのだ、と。ヒカルにとって英語はもうひとつの母語でしかないから、言葉の意味がダイレクトに伝わってきてしまう。もっとあやふやな印象がいい、しかし、ならば全く意味のわからない言語だとそれはそれで「無意味」や「意味不明」に陥る。「はっきりとはわからないけれど、なんとなくならわかるかも」という距離感の言語がフランス語だったのではないか。僕らにとっての英語みたいなものだ。ちょっと意味はあやふやだけど、響きや見た目がいい感じだね、というあの僕らが英語の歌に触れた時の感じをヒカルは知らない。その感覚を自分も持つ事が出来て尚且つそれをリスナーと共有できるとなるとという選択肢。今やイタリア語とかわかりすぎるくらいわかってるかもしれないしな。

実際、ヒカルがフランス語の唄を歌うのは『俺の彼女』が初めてではなく、過去に『Hymne a l'『amour 〜愛のアンセム』と『ぼくはくま』がある。やはり「よくわかる訳じゃないけど、少しはわかる」距離感があるのではないか。

ただし。言語能力の高い人は振り返ったらもう新しい言語を習得している。実はヒカルは既にフランス語ペラペラかもしんない。発音は最初っから御墨付きだったんだし。そこはどうか。私の推理の如何は今後ヒカルがフランス語に対してどんな距離感をとっていくかで明らかになるだろう。今そこまでフランス語を操れなくてこれから学んでいくというのなら、今回のようなアルバムタイトルの付け方はこれっきりになるかもしれない。そういう意味でも『二度と作れない』アルバムなのかもしれない。わからない。しかし、未来が無くてはこんな作品は生まれ得ない事だけは確かだ。未来への気配こそが、"Fantome"の中核であるべきだろう。

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ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞で案の定微妙な空気になってて笑った。まぁそうだよな。

小さい頃に“We Are The World”を観て「どうしてこのおっさんは音程を無視するんだ」と憤ったのが彼の第一印象。今なら、歌詞の響きを重視した結果だと理解も出来るが当時はそんな所までアタマが回っていなかった。大抵の日本人は、それ位の第一印象で止まっているから彼が来日してもTOKYO DOME 2daysとかにはならずZepp Tokyo 5daysとかになる。要は日本じゃコアなファン以外には売れてないんだ。そら微妙な空気にもなる。

そもそも英語がわからないんだから「歌詞を重視してメロディーを崩した」と言っても通用する筈がない。ボブディラン自体の影響力は歌詞だけにとどまらないが、今回は文学賞受賞なので興味はそこにあるだろう。毎年の文学賞は、英語圏からの選出が多いとあって「誰?」と一言言えば事足りたのだがディランの場合中途半端に知名度があるからそういう訳にもいかず。何とも厄介なのです。

歌詞は文学か、という論争は寝てスルーしよう。議論の中から生まれてくるものが何かあるかもわからないから論争自体はしておいてくれればいいが結論は気にしても仕方がない。


『Fantome』も海外で微妙な空気を生んでないかなぁという心配はある。今までの日本語曲群は、歌の中に英語によるキャッチーなフレーズを入れてある事が多く、他の日本語詞がわからなくてもどこかとっかかりがあった。しかし、今回はそれに乏しい。聴いてみたはいいものの、何が起こっているのかよくわからないという事になりかねない。『俺の彼女』などは歌詞の推移と曲の展開が連動しているから、もしかしたら唐突な印象を与えているかもしれない。将来ノーベル賞をとるなら、そこは課題になるだろう。

逆に、曲さえよければ、興味をもってもらえる。どういう意味なんだろうとさえ思って貰えればあとは歌詞を翻訳サイトに放り込むだけだ。『俺の彼女』ではフランス語人と日本語人が互いにそうすればよい。

歌詞という存在の強みはそこにある。曲で興味をもっともらいさえすれば、いつのまにか伝わっている。前も書いた通り、音楽の流通は書籍出版以来の言葉の世界規模伝染の革命である。ノーベル賞を貰ってなんら問題はない。書籍と似たようなものだし、更により強力な面もあるのだから。それにしても、ホント、何で今年だったんだろうね。わからんわ。

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あら、ボブ・ディランがノーベル文学賞を。何故今年、という疑問以外納得の受賞なので特に言う事はない。レノンが生きてたらどっちが先だったかという興味はあったが…ってこの話過去に丸々やってるな。省略。

我らがヒカルの方はというと、年に1人貰える賞を貰って喜ぶよりノーベルの側に立つべき人なので、もっと長い目で見ますか。宇多田ヒカル賞を創設しても果たして貰える人が出てくるかどうかですが。

ヒカルが『真夏の通り雨』でやろうとした事、いや、やってしまった事を突き詰めていければ、全く新しい芸術が生まれるだろう、という話もまた前にした通り。私がそれを書いた時と局面が少し違うのは、インタビューでヒカルがこの歌の歌詞の事を『中年女性が若い頃の恋を思い出して』と言っていた事。あら、それだと不倫とは限らないわね。巧く仰有る事、ヒカルさん。

母の死を悼む歌と若かりし頃の恋、それをただ重ねるだけでなく、その2つが重なる事自体に意味があるのだが、そのヒカルの口調だと、そこまで考えていなかったかもしれない。エヴァンゲリオンの新しいエンディングにとんでもないヒントを与えてしまったのかもしれないのに。久々に"無自覚の天才"がヒカルにあらわれたとすれば、いやはや、楽しみだな。

少しわき道にそれておこう。It's a loiterer, loiterer, loiterer...って何の替え歌やねん。この若い頃の恋が『Be My Last』で歌われているとすれば、私には特にしっくり来る。『間違った恋をしたけど間違いじゃなかった』の一節はもうまさに。更にそこに冒頭の『母さんどうして 育てたものまで 自分で壊さなきゃ ならない日が来るの』を被せると、物語がぐっと近くなる。一言で言えばマザコン男だが、エヴァンゲリオンだってマザコンの話だし、ヒカルさんが究極のマザコンなのは御覧の通り、というかあそこまでベタ惚れだとコンプレックスではない何かに昇華している気がするけど。

中年女性の設定がまだあやふやなので、その違和感は残る。中年なのは今なのか昔もなのか、いやでもそれは大した問題じゃないな、若い息吹をそこに感じたというのが重要なのだ。野暮を承知でいえば、母親にとって息子とは小さな恋人だと。

恋愛感情が如何にどこから生まれるかの物語である。『Be My Last』が衝撃的なのは、恋愛・失恋・悲恋の物語なのに冒頭に母親を呼ぶ事である。そんな恋の歌って、ある? アリ? あらない? あら、ない?

そこを今回『真夏の通り雨』で突いてきたとすれば余りにもエグい。エグ過ぎる。抉らざるものEXILE。何でもない。今俺はぐらかした? 知ぃらない。

ここから先はヒカルに任せるが、この"道"を本当に突き進めるならば、人間心理の新しい真実の描写への手掛かりとしてこの上無い足跡を残す事になる。ディランやレノンより遥かに偉大な、21世紀や新しい千年紀を代表する"詩人"の誕生だ。果たしてそれが生きているうちに見られるか。寿命もあるけれど、ヒカルがそれだけ元気に密度濃く活動しなきゃいけない訳で、それがいちばん過酷なのよね。私からしたら、ヒカルには健康で居て貰いたいものですから。贅沢ですみません。

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『ファントーム・アワー』のジングルってどちらかというとAMラジオのノリだよね。ヒカルのラジオのイメージがそっちなんだろうか。オールナイトニッポンとか。

昨日の関東では文化放送で『ファントーム・アワー』が放送された。AM放送だ。雑音にまみれながら聴くヒカルの声もいいもんだ。FMと違ってAMはRadikoで聴かず受信機で聴くと独特の音質で、これに味を感じる。

しかし、モノラルな事もあって、案の定音楽、器楽演奏はよく聞こえない。そのワシャワシャの中から突き抜けてくるヒカルの歌声。力強いなと思っていたら最後に藤圭子だ。その声の通りのよさといったら、ない。

考えてみれば藤圭子が活躍したのは60〜70年代。CDなんてまだまだ先の話で、ラジオも基本的にAM放送局しかなかった。藤圭子は「AMラジオの時代」の寵児でもある訳だ。一方でテレビが「娯楽の王様」として君臨し始めてもいる頃だが。

なるほど、これだけ通る声、AMラジオで有利な訳だ。流石にレコーディング時に「家庭のラジオ受信機での聞こえ具合」まで気を配らなかっただろうが、結果的に藤圭子の歌は超特大ヒットしていた訳で、そのうちの多くの人々がAMラジオで藤圭子の歌声を知り、レコードを買い求めたのだろう。

その時代から半世紀。よもやその歌手の娘もまた歌手になってAMラジオに登場し、そこで2人の歌をそれぞれに流すだなんて御釈迦様でも見通せなかったのではないか。随分と時間のかかった壮大な物語だが、歌自体に変わりはない。代わりもいない。また半世紀後に、今度は親子孫三代にわたって選曲してくれる番組も、在るかもわかんない。それまで存続頑張れAMラジオ放送局。或いは我々も頑張れよ。

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「NEWS ZERO」の今週のヒカル出演分が延期になったですか。まぁニュース番組だし最初から想定してましたさ、と言おうとしたのですが。ですが。

ほう、都内で夕方停電があったと。そいで数十万軒だか数十万人だかに影響があったと。でも今はもう復旧していて停電はしてないと。原因は電力会社の火災らしい、と。火災で死者はおろか怪我人も出てないと。・・・夜に全国ネットで特集するようなニュースか??

関東ローカルならわかるよ。被害にあった人は沢山居る。でも他の地域の人達にとっては「へぇ、そう。」で終わるニュースでしょ。停電で特別編成組むのは関東ローカルだけにしておいて、他の地域は普通に放送すりゃいいじゃん。

それでヒカルの顔を拝み声で耳と心を潤す機会を関東以外の人間から奪う理由になる? 北海道や沖縄で2,3%の世帯が停電した時も特別編成組んでくれんの?

全国的な影響力が違う? 首都で首都機能が麻痺したから・・・ってそれもう終わってんでしょ? 時間の無駄じゃね?

昔まっちゃんがヤクルト優勝の放送で激怒したって話思い出したよ。そう目くじら立てるなよって周りは言ったかもしれないけど、やっぱ地上波テレビ局の考え方って変だわ。電波を独占してるの忘れて感覚が入れ違ってしまっているのだろう。

ま、いちばん怖いのはその考え方を無批判に受け入れてる大衆の方だけどね。私もその一部なのだけれど。あぁ、怖い。


、、、と、いう風に私さっきまで機嫌が悪かったんだけど、文化放送から聞こえてきた"マイ・ウェイ"が素晴らしくって一気に機嫌がなおってしまった。歌っていいもんだね。そして俺って単純だね。この日記の事は、あっさり忘れることと致しましょう。別に放送しなくなっちゃった訳ではないし、そもそもおいら関東民でした。自縄自縛ね。

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『ファントーム・アワー』ではCMが放送されている。民放だから当然なのだが、『Kuma Power Hour』の時はCMといってもほぼ番宣のみだった事を考えると、ほんの少しばかり新鮮である。

今回の制作に関しては、サントリーとRadikoが主なスポンサーのようだが、いちばん自社の"商品"を広告しているのはユニバーサル・ミュージックだ。一時間まるまる(ではなかったけど)『Fantome』のよさをアピール。合間に天然水とRadikoの宣伝が入る構成だ。天然水のBGMも『道』だから、あのCMを聴いて天然水と『道』とどっちを買いたくなったかは一度リスナーに訊いてみたい。

商売の話になると途端に下世話な印象を与えるが、それは、大抵の場合「宣伝です」と宣言しないからだ。下ネタトークを隠語と暗喩で固めるのと同様に、直接的な言い方を避けると途端にいかがわしくなる。よく「ステルス・マーケティング」という言われ方をするが、宣伝というものは多かれ少なかれステルス性をもっている。それをそれだと言わない事だ。

しかし、それで誰が困るという訳でもない。リスナーが「騙された」という印象を持たなければ、新しいコンテンツとの出逢いの仲介をしてくれている訳で。宣伝自体は非常にありがたいものなのだ。

今回の各「宣伝」の効果は、たちどころにあらわれるだろう。『Fantome』の売上枚数、「サントリー天然水」の出荷本数、「シェアラジオ」の利用回数。そのどれもを繋ぎ合わせているのが宇多田ヒカルとなると、彼女ひとりで「産業」を担っているのだなと痛感する。実際、今の我々は「好景気」にわいている。まるで80年代のような浮かれ気分。そういうのもたまになら、悪くないかもしれないね。

そして今夜は「NEWS ZERO」の2回目、明日夜はスペースシャワーテレビでヒカルも見たがっていた特集番組だ。まだまだ『Fantome』ウィークは、いや、『Fantome』月間は続いていく。暫くは夢の中みたいだな〜。

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嗚呼、耳が幸せ。

『ファントーム・アワー』を聴いた。まだ聴いてない人は先にシェアラジオしてから、ね。



内容にせよ選曲にせよ無難で一安心。はっちゃけ過ぎる事もなく淡々と『Fantome』の収録曲を紹介していく。特に奇を衒う事もなく、しかしちゃんと個性的で、「巧まざる巧み」を感じてしまった。退屈な場面の少ない、よく出来た歌番組だ。毎週やってよ。

変な話、アルバムを聴くよりこうやってラジオを聴く方が、自分が何故この人を好きなのかの確認になる。面白い事を言った瞬間より、何気ない言い回しやふとした語尾にほんわかする。「幸せ」って、そうだ、こういうのを言うんだと思い出した気分である。大袈裟だけど。

『Fantome』からの楽曲、限られた時間の中でコラボレーションの3曲を総て紹介していた。どの歌を出してもクォリティー的には変わりないので、話題性や食いつき、エピソードの話し易さといった点からこうした選曲になったものだと思われる。『忘却』がいちばん好きかもしれない、か。そうかそうか。

「検索」を『カタカタ』と表現するのは、しかし、昭和生まれの感覚ではないか。今は大抵スマートフォンでしゅらしゅしゅしゅだぞ。(←輪をかけて昭和)

そんな事はいい。やはりハイライトは、しかし、最後の曲だろう。いい選曲だった。やられた。いやはや、ならば、この曲を、ヒカル自身が、ライブで歌わなきゃいけないぞ? 101局だぞ? みんなこの番組聴いてるぞ? これ唄ったら皆感動するぞ? 自信がない? またまた〜(笑)。大丈夫、誰も何とも比較しないってば。そういう歌詞なんだし。あとは、自分で乗り越えるだけだ。さぁ、唄ってみなさんせ:-)

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前回の内容を書いてみて「やっぱこういう話は向いてないな」と痛感した。まぁ別にいいんだけど。

オリコンチャートが発表になって2週目の『Fantome』は10万枚を売って2週連続首位獲得。やれやれ、面目を保ったとかいうと何様と謗られそうだが、いや見事なものだ。累計50万枚は絵空事ではなくなってきた。

現代は情報流通のスピードは速くなっているが特に所得が増えている訳でも物価が下がっている訳でもないので人がモノを買う量やスピードはそれほど変わっていない。そんな中で購買対象として選ばれているのは、素直に、嬉しい。

今日からラジオ特番『宇多田ヒカルのファントーム・アワー』のオンエアが始まる。と言っても、ここを読んでいるような人はシェアラジオの機能を使うだろうから、「今日から一週間いつでもラジオ特番が聞ける」とでも言った方が正確だろうか。新しい機能に馴染む為の看板番組を託され、たぶん普段からラジオを聴いている人のうちのかなりが『ファントーム・アワー』に遭遇する事になるだろう。

流石に、今回は流す曲を自分の書いた曲中心にするだろう。『Kuma Power Hour』でも、自分の曲を流した回数は少なかった。4回とか5回とかかな。そういう意味では、リラックスして自分勝手にというよりはリスナー目線を意識した上での番組になっているかな。できれば『#ヒカルパイセンに聞け』ラジオ出張版があればいいのだが、こればっかりは収録のタイミングがあるから何とも言えない。これだけの局数にマスターを納品するのだから、かなり前の段階で収録しているものと思われる。理由はどうあれ、InterFMでの出席率を思い出すと担当者の寿命が縮んでいくわね。その為、例えばチャートアクションに対するリアクションなどは期待できないかもしれない。淡々と自曲の解説をして自曲を流す番組になる? だとしたらえらい新鮮だなぁ。当然、AMでも流すような番組で英語ペラペラって事もないだろう。逆に『俺の彼女』のフランス語を朗読とかしてくれたら悶絶するわ。

オンエアは今日の12時からスタート。どれだけ聴き逃しても次があるからと油断しないでね。一週間なんてあっという間なんだよ〜。

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