Cup Noodle ! という訳で(イヤ若い人は知らんて)ウタダボットを眺めていると飄々としていて上昇欲などとは無縁に思える光だが、当然それだけではあんな卓越した創作物を生み出せる道理もない。勿論、「どうやったら(あんな)曲が作れるんですか?」との質問に対して「あんた自分が二本の足で立ててる理由説明できる?」と返す人なので(註:普段から自然にやってる事だしあらためてそう訊かれても答えようがない、の意)(あと、質問を質問で返すなァなのだが、実際は光はもっとちゃんと丁寧に答えているので念の為)、スタートラインから常人とは違うというのは間違いないのだが、それだけでは到底カバーしきれない歌詞や編曲の存在は、光の苦悩が消え去らない事の示唆になっている。何故そこまで苦労しなくちゃならんのかという問いには、負け嫌いだからだとか怒りの感情がどうとか仕事だからとか締め切りがあるからとか色々あるだろうけれど、結局の所は楽曲に対する愛情が深い事につきる。愛というだけでは漠然模糊として掴
み所がないが、愛情なら誰かに何かに注ぐイメージが湧き上がってくる。熱があるだけではただ皆魘されるだけだが情熱とする事でやはりこれも一点に注いだり傾けたり出来るようになる。愛や熱といったエネルギーとしてのポテンシャルに一定の方向性と"動き"を与える"情"。この1ヶ月のツイートからわかるように、光からは常に情が溢れ出ている。それは、存在だけではない行動を伴った何かでなければならないという実存的な(といっていいのか)価値観がずっと彼女にあるからだ。一方で、ガスになってこの星を覆い尽くしたいとまた愛や熱のようなただの"存在"に帰依したい願望があったりもする。ポテンシャルを育てなくては"動き"は生まれないし、動きがなくてはポテンシャルは何の価値も生まない。ただのポテンシャルが何かを生むのは人々の記憶と恐怖の感情の構造だろうけどこれ以上話をとっちらかしたくないので今朝はここまでで失礼っ。
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