自分で過去に調べておいて早速結構記憶があやふやなのだが、ヒカルが長者番付(昔は高額納税者の氏名が公表されていた)で最も多額の納税をしたのは「First Love」を700万枚売った1999年ではなく、2004年だったらしい。
最初はちょっと意外に思ったが、2位に100万枚以上というぶっちぎりの差をつけてオリコン年間アルバムチャート第1位になった「Single Collection Vol.1」に加え、同じく年間6位の「EXODUS」もリリースになったのが大きかった。それでも枚数的には1999年の半分程度でとても追いつける額にはなりそうにないのが不思議だが、取り敢えず「EXODUS」でプロデューサーとしてクレジットされてたのが大きいのではないかと勝手に解釈している。
市場全体の縮小幅まで考えると、この2004年がHikaruの市場的ピークだったという言い方も出来るかもしれないが、Hikaruの場合自身の振る舞いで市場規模自体まで左右できてしまう面もある(冷静に考えれば凄い話だ)ので、一概にはいえないだろうか。
それに、ここで「一時代の終わり」を印象付けたのは大きかった。2004年は2月に「ヒカルの5」が開催され、何だか全米に送り出す為の壮行会みたいな雰囲気だったし、3月に件のSCv1を出して「やっぱり宇多田は凄かった」感を出して過去を総括しつつ、4月にリリースされた“誰かの願いが叶うころ”が売れ線度外視の曲調だった事も含め、徐々にヒカルが日本から離れつつある雰囲気の中で「EXODUS」が発売された。
今振り返っても変な感じである。NintendoDSのCMのお陰でHikaruの露出は寧ろ増えてた。Easy Breezyが日本のFMでヒットしたのも相俟って「EXODUS」はミリオンセラーだ。しかし、そこでピタッと情報が止まってしまった。余り関心のない大多数にとっては「嗚呼、ウタダって今海の向こうで活動してんじゃないの?」という感じだったろうが、関心のある人間からしたら「それがそうでもないんだよ」だったのだ。ここらへんの「途切れ感」が「一時代のフェイドアウト」を演出した感は否めない。結局、一年後に戻ってきてリリースしたのは日本語シングルで、まるでヒットさせる気のない突き放したぶっきらぼうな"Be My Last"だった。
たらればはいいとして、ここで生まれた意識の食い違いみたいなもんが、Flavor Of Lifeの大ヒットまでずっと続いていた気がする。この頃に何が起こっていたのか、まぁ何十年後かにでもちらっと話してくれたらいいのにな。
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