無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ほんの1ヶ月前までの予定では、自分はちょうど今頃「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を観賞して滂沱の涙をそれこそサントリー天然水CMに出てくる激烈な滝のように流しまくっていた筈だった。狂った。まぁしゃあない。

つまりエヴァもエヴァーも延期になっている訳だけど、これどっちが先に公開されるんかねぇ? 自分には凄く大きな問題だ。前から散々繰り返しているように、昨今の京アニは高品質過ぎて目眩がする。今や湯水のように予算が使えるであろう新海誠の作品の高品質すら京アニは集団的作家性である意味上回っている。あの放火事件が史上最悪と呼ばれるのもむべなるかな。悲しい。

絶対に比較してしまう。映画なんてどれもそれぞれに独立した作品なんだから、その没頭する2時間をそれぞれに楽しめばよくて、あっちよりこっちがとか比較する事は本来意味が無い。その時楽しめたかどうかが総てだ。本来は。

だが、残念な事にエヴァはそういう作品ではない。アニメーションを中心とした人々の営みと巻き込まれた言論総てを包括した、ある意味現実世界をアミューズメント・パーク化した壮大な社会実験なのだ。故にハマる人は人生を賭けてハマってしまう。時に宗教的とすらいえる熱狂的な支持者を生み出し続けたのも、作品が語られる運命にあったからだ。そりゃアニメーション映画の途中で映画館の観客席を実写で流すような批評性の強い挑戦をすりゃ、語られるしかないわな。

そんな立ち位置にある作品であるからには、人々が観賞するタイミング、文脈というのは非常に重要なのだ。庵野総監督がライブ感を重視しているのは周知の事実だろうが、となってくると、アニメファンは「アニメ業界の中での現在のエヴァの立ち位置」について語らざるを得ない。繰り返すが、これは作品の構造的宿命なのである。

そんな“くっそめんどくせー”作品の主題歌を請け負って13年なのが宇多田ヒカルなのだ。プログレッシブ・ナイフを突き立てるシーンに感情移入して何度も観てしまうという真性のエヴァ・ヲタクとして繰り出してきた主題歌2.5曲は映画の評判の毀誉褒貶すら蹴散らす程の泰然自若の高い評価を受け続けてきた。果たしてそのヒカルが、刻々と状況が変わっていく2020年の世界の中で、「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」をどう捉えているか、或いは、捉え直そうとしているか、これは大変興味深い。


私が最もありそうだと思う展開はこうだ。既に完成した主題歌は変わらない。変えない。しかし、刻々と変化する世界情勢を鑑みて庵野総監督は主題歌に更に寄り添いそれに沿って改変を加えるとライブ感が増すことに気づき、一部台詞を(歌の影響を強くして)変えてきたり、或いはBGMを足し引きしてきたりするのではないか。完パケギリギリまでハイクォリティにこだわればこだわるほど、ヒカルの歌の「千里眼ぶり」が明らかになっていく。そんな予想である。

予言めいているが、ただ単に私の妄想なので話26万2144分の1位で聞いておいてね。

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