無意識日記
宇多田光 word:i_
 



差別にしろいじめにしろ「そんな意図はなかった」「あちらにも悪い所はある」といった言い訳が常に聞かれる。これは、常に的外れだ。前に書いた通り、差別は差別のある社会があるから差別になるのだ。わかりやすく言えば、弱い者いじめだから駄目なのだ。

属する社会同士の力が拮抗していれば、相手の事を悪く言ったり嘲笑したりするのは差別とは言わない。ただの侮蔑行為である。イギリス人がオランダ人に対して酷い事を言い続けてもあまり「イギリス人によるオランダ人差別」とは言わない。場所にもよるが、イギリスとオランダなら対等に喧嘩ができる(というか、どちらが勝つかわからない)からだ。白人社会における黒人は、歴史的に圧倒的な弱者であって、だからこそ黒人に対する表現は細心の注意を払わなければならないのだ。

意図の有る無しは、確かに今後については判断の材料になるだろうが、"既に言ってしまった事"や"既に伝わってしまった事"に対しては何ら意味を持たない。言説が差別のある社会に放り込まれたらもうそれは後戻りが出来ないのである。勿論、「差別される方にも悪い所がある」というのも意味がない。当たり前だからだ。黒人が差別されていようがいまいが、黒人の中にも善人と悪人が、いやさ善行と悪行があるだろう。問題はそこではない。白人が圧倒的に強い社会が存在するからいけないのである。それを潰さない限り、黒人差別はなくならないし、グローバルな情報社会を利用する限り、無関係な筈の黄色人種である我々も、表現に注意しなければならない。


と、いう長い長い説話を経て音楽の話。ヒップホップがアメリカの商業音楽で「最強」になって大分経つ。元々アメリカでは黒人音楽が強い。ジャズやブルーズ、ソウルやヒップホップは黒人音楽の系譜である。一方で白人はカントリーミュージックを主軸にポップミュージックを展開してきた。そんな中に、黒人音楽から派生した白人音楽であるロック・ミュージックや、ハリウッドを中心とした映画音楽・ポップミュージックがチャートを賑わす、というのがこの百年の歴史である。従って、こと音楽に関しては一概に「黒人が弱い」とは言い切れず、しかし背後のアメリカ社会は一世紀経っても黒人差別がなくならない国だ。ここがややこしい。

アメリカの白人音楽の象徴であるカントリーミュージックが盛んなのは保守的といわれる南部の地域だ。私は実際にみた事がある訳ではないが、未だに黒人に対して差別意識があるらしい。おいおい、21世紀にもなって、と言い出しそうになったけれど、自国に目を向けてみると今でも隣国を差別対象としてみる人間がわんさかいる。我々は関東大震災直後の時代にでも住んでいるのかという位。これではアメリカに呆れられない。完全にどっこいどっこいだ。

でまぁ細かい話をすっ飛ばすと、90年代にヒップホップ/ソウルが商業音楽として大成功して以降、世界の商業音楽・大衆音楽は実質黒人主導になっているのだから、この世界では「黒人差別」だなんてあると言えるのだろうか、という疑問が湧くのだ。多くの黒人アーティストたちが同じ黒人たちからは勿論白人や黄色人種からもリスペクトを受けている今、もうわざわざヒップホップやジャズのアーティストに「黒人」という冠をつけなくてもよくなってきているのではないか。即ち、音楽の世界で「人種」という概念が不要になりつつあるのではないか、というちょっと夢想的なまでにポジティブな見方である。

どうなのだろう。例えば、ヒカルでいえば『In The Flesh 2010 』と『Fantome』、更に『大空で抱きしめて』『Forevermore』『あなた』で演奏している海外のミュージシャンたちのうち、誰が黒人で誰が白人か、気にしている人はどれ位居るのだろう。少なくとも私は、殆ど気にしていない。考えた事もない。いいサウンドを運んでくれる優れたミュージシャンたちがそこに居るというだけである。何なら、性別も年齢も気にしていないけどな。

この論点、実は手ごわい。続きはまたもう少し話を整理してからになるだろうな。ヒカルが「人種意識」について何か呟いてく…ちと無理かなぁ。

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