無意識日記
宇多田光 word:i_
 



せっかくなのでこのまま脇道に逸れていってしまおう。メディアバイアスの話なんかするつもりじゃなかったんだけどついでだついで。

放射能の恐怖に怯える人々に幾らデータを示して安全だと主張しても無駄である。彼らは実際は安全なんて欲してはいない。不安を解消したいだけなのだ。自分の中にリアルに存在している不安にどう対処すればいいのか教えて欲しいのであって、そのリアルさに一切触れないまま「貴方の不安は錯覚ですよ」と安全を主張しても、それは敵対的な行為である。こういう場合まず欲せられるのは"共感"。不安と恐怖に怯えている人々にとっては安全を声高に叫ぶ人より「危険です!」と言ってくれる人の方に共感する。自分の中にリアルに存在する感情が現実に根ざしたものであると言ってくれるからだ。このバイアスがある限り、丁寧に「直ちに健康に害を及ぼすレベルではない」と告げても「じゃあ暫く経ったら影響が出るんだな」という風に悪い方へ悪い方へ考える。これは「最悪の事態に備えて慎重に考えている」のでは、ない。悪い方へ考えた方が自分の中の感情に対して受容的だからである。その点を見過ごして字面どおり受け止めて「いや最悪の事態といってもこの程度
だしそうなる確率はとても低い」と返すのは更に逆効果。そのスパイラルは「嘘をついて騙すな」という身も蓋もない自己防衛に行き着く。こうなるともう話は進まない。

何故こんな事になるかというと、言葉に対する感受方針がまるで違うからである。安全だと主張する人たちは"放射能"ということばを意味として捉えている。α線β線γ線はそれぞれヘリウム原子核云々で各々の電離作用はこれ位でそれが遺伝子を傷つけてこれ位になると発ガン性をこれ位高めるという研究があるらしい…という風。そしてもう一方は"放射能"ということばをきいたとき、人生の中でことばの登場した文脈全体のイメージ、即ち個々の"印象"に基づいて反応する。似たようなことばに"エネルギー"があるだろう。一方は"物体にかけた力と移動距離の積分"と同じ次元をもつ量、という意味に基づいて考えるが、他方は"なんかみなぎってるヤツ"(かめはめ波みたいな)となにやら実体があるという風に捉えている。つまり、"放射能"ということばのもつイメージ、この60年間蓄積されてきたイメージの悪さがある以上、幾ら安全を叫んだ所で無駄なのである。

あ、今福島第一原発の周辺は危険ですよ。念の為。


で、その"ことばのイメージ"に人より大きく影響されるのがミュージシャン、特に作詞家で、っていう話になる予定だったんだけどまぁもうそんな話はしなくていいかな(^^ゞ

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