無意識日記
宇多田光 word:i_
 



一人称と二人称の組み合わせで最も幻惑的な歌詞を持つ曲といえばやはりGoodbye Happinessだろうか。何度聴いても何が何だかよくわからない。幻惑的な歌詞を知恵の輪を解き解すが如く鮮やかに解説出来たらいいのだが今の私は色々確認しつつ「やっぱりわからん」と言うしかない。出だしがまずこれだ。

『甘いお菓子消えた後には
 寂しそうな男の子
 雲一つないsummer day』

これを歌っているのは誰だろう。この曲の"ナレーター"だろうか、それともこの歌の描く世界の中でその男の子と一緒に居る登場人物の1人だろうか。だとしたら女の子だよな…と思っていたら次がこうだ。

『日に焼けた手足 白いワンピースが
 汚れようがお構いなし
 無意識の楽園』

前節の"雲一つないsummer day"から"日に焼けた手足"なのでここは場面転換が行われていない。同じ地続きの情景だ。ここらへんのさり気ない繋ぎがまた巧いのだがそれは今は本題ではないからいいとして、白いワンピースを着ているからには女の子だろうに、ここを歌ってるのは誰だ? またもやナレーターか、それとも男の子にバトンタッチしたのか。まぁずっとナレーターだったらいいか、と気持ちに整理をつけたらこれが来る。

『夢の終わりに待ったは無し
 ある日君の名を知った』

え。君っていうからには歌の中の登場人物だよね~。いやナレーターが実は時間が経った後の登場人物で、なんていう朝ドラ的手法もあるから油断は出来ないが何より"君"ってどっち?? 男の子?女の子?それとも両方? ラノベ的に書けば『『ある日君の名を知った』』なの?? どっちどっち??

『So Goodbye Loneliness
 恋の歌口ずさんで
 あなたの瞳に映る私は
 笑っているわ』

あーもうややこしい。私、というからには、というか恋の歌口ずさんでサマになるのは女の子の方ということで!

『So Goodbye Happiness
 何も知らずにはしゃいでた
 あの頃へはもう戻れないね
 それでもいいの Love Me』

ここは語尾からして女の子!

『考えすぎたりヤケおこしちゃいけない
 子どもだましさ 浮き世なんざ』

ん? いきなり男性的な口調になったかな?

『人は1人になった時に
 愛の意味に気づくんだ』

これはどっちとも取れるけどやっぱ男の子かな~。

『過ぎ去りしdays
 優しい歌を聴かせて
 出会った頃の気持ちを
 今でも覚えていますか?』

あー、さっき歌を歌ってたのが歌ってたのが女の子だったからそれをおねだりするのは男の子の方だね。

『So Goodbye Innocence
 何も知らずにはしゃいでた
 あの頃へはもう戻れないね
 君のせいだよ Kiss Me』

うわ、なんかイケメンのセリフ。じゃなきゃ激しく勘違い野郎。どっちにしろ男の子だわこれ。

『おお、万物が廻り廻る
 Oh ダーリン ダーリン
 誰かに乗り換えたりしません
 Only You』

っとと、ダーリンっていうからにはこれは女の子のセリフかなと思いきや英語だと男女どちらもダーリンなんだよね~。だからこれはどっちともとれる。またもや『『~』』のパターンか!?

『ありのままで生きていけたらいいよね
 大事な時もう一人の私が
 邪魔をするの』

私、っていうから女の子かな~?

『So Goodbye Happiness
 何も知らずにはしゃいでた
 あの頃へ戻りたいね Baby
 そしてもう一度 Kiss Me』

Babyっていうからには男の子のセリフっぽいんだけど、これもダーリン同様英語だと両性の可能性があるから、わからん!


という訳でこの歌は視点があっちに行ったりこっちに行ったりしてどっちのセリフかわからん所がたくさんあるってこった。でも、ただ一つ確実に言える事がある! どっちのセリフにしたってどうせ2人とも相手とKissしたがってるんだから「2人は幸せなKissをして終了!!」ってこった! お二人さん末長くお幸せに! 以上!

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歌詞の「あなた」と関連してよく言われるのが「君(きみ)」との使い分けだ。「私」と「僕」のようにかなり性差がハッキリ区別される(「私」は両性、「僕」は男性)のに対し、あなたと君は「なんとなく女性から男性へかな~」と「なんとなく男性から女性へかな~」と"ちょっとだけ偏ってる"感が漂ってくるので、歌詞を解釈する時に幅が広がりやすい。

結論から言ってしまえば、ヒカルの場合、それほど「あなた」と「きみ」の使い分けに神経を尖らせている訳でもない。「私」と「僕」も同様だ。「君と僕」の関係と「私とあなた」の関係を対比させる、なんて事もしない。では何故これらがヒカルの歌詞の中でも使い分けられてるかというと、毎度お馴染みメロディーの尺と音韻の制限によるものだ。

例えばPassionでは前半で『僕らは少しだけ怯えていた』『僕らはいつまでも眠っていた』と“僕ら”が二度出てくるが、最終パートでは『わたしたちに出来なかったことを』と“わたしたち”になっている。この僕らとわたしたちが同じ意味なのか違う意味なのか、文脈だけでは判断がつきづらい。いやそもそも、“僕ら”自体、ヒカルが「過去の僕、今の僕、未来の僕を合わせて“僕ら”」だと言っているくらいだから、歌詞だけでその"正統な"解釈を当てられる人は殆ど居ないだろう。それを考えると、僕らとわたしたちの違いなんて我々には到底"正しく"解釈できそうもない。

それより、それぞれのパートでメロディーに割り当てられる文字数がそれぞれ3文字と5文字だったからこうなった、と解釈する方がよっぽどわかりやすい。確かに、作詞という作業はどちらが先というのはたとえ本人ですら難しいので、予め文字数がそれぞれ3文字と5文字に決まっていたと言い切るつもりは毛頭無い。それどころか、Simple And Cleanにみられるように、歌詞に合わないからとメロディーの方を変えてしまう荒業だって使える。作詞と作曲両方を1人でやっているからの特権ではあるのだが。

そういった、恐らく錯綜したであろう創作の過程は我々には与り知らぬ事なので、今ある歌詞を出来るだけ素直に解釈するのが気楽である。そうなった時に”尺の都合"というのは明解である。それだけだ。

何より、歌詞の解釈に"正統性“、つまり作者本来の意図を斟酌するべきだなんていうルールは一切存在しない。読んだ人が読んだように、聴いた人が聴いたように解釈すればよい。そこで生まれた誤解や誤読の数々が次の創作を生むのだから。ただ、解釈に際して「ヒカルはこういう気持ちで書いたに違いない」と言い始めるのであれば話は別で、その場合は本人にしっかり問い質さなければいけない。それをするかしないかだ。今はしない。が、深読みのし過ぎは作詞者にとって"負荷"読みになってしまうという事だけは肝に銘じておいてうただきたい。いやまぁ、のんびり聴こうぜ。

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