ステージおきたま

無農薬百姓33年
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コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

”わたし”の居場所

2009-02-28 12:14:25 | 教育

 不安の時代だ。あっちでもこっでも、悩んでいる。未曾有の不景気の話しは、まずは置く。自分探しの問題だ。"わたし"って誰?”わたし”の居場所はどこ?”わたし”が生きてるってどういうこと?誰もが、とは言わないが、どしんと居座る”わたし”、あるい、ゆらゆらとらえどころ無い”わたし”って奴に手こずってる。

 中学や高校なんかは、とりわけこの悩みが深刻なんだと思う。人との距離がつかめない子、引きこもりがちの子、完全自信喪失の子、いるよね。普段明るく元気に振る舞ってる奴も、聞いてみると意外にも自分は孤独だ、なんて思ってる。

 いえいえ、僕だって、実は毎日が不安!不機嫌の虫との戦いの日々なんだ。自分ってどんだけのもんじゃい?って突っ込む自分が今はかなり優勢を保っている。まったくなぁ、ジジイになってもかよ!って自分でもうんざりする。そう言えば、定年退職後アルコール依存症になる男性が激増中って話しも、わかるなぁ!仕事、職場、会社、それまで不平不満はあったって、自分の居場所は間違いなくあったのに、突然、すべてが消え去るわけだから。そう、居場所が無くなるってこと。

 中高生にもこの悩みかなり普遍的。じゃあ、居場所ってなんだ?

 もちろん”わたし”の部屋とか、”わたし”の家といった物理的な空間のことじゃない。自分が安心して居座ることのできる所ってことだ。”わたし”が”わたし”であることを許されている場所。”わたし”は誰?とか、”わたし”は何故生きてるの?なんて疑問を忘れさせてくれる場所だ。

 で、この居場所は、結局他者との関わりの中にしかない。おじさんたちが会社に所属することで、不安を感じなかったのは、その中で”わたし”の仕事があったから、”わたし”の価値(=存在)が認められたからだ。つまり、”わたし”の居場所があったってこと。

 今時の中高生は、この居場所を失っている。だからとっても不安だ。その不安から逃れるためにメールにのめり込む。居場所を確認するために、クラスの中でグループを作る。グループの絆を確かめるために、時には、誰かをハメチにする。

 でも、メールもグループもどこか浅い。表面でつながっている。友達って言葉が、バラ色の信頼で語れなくなってしまった。とりあえずのもの、ともかくの仲間。それは家族も同じだ。まして、先生など話しにならない。不安、孤独は広く深く広がっている。

 じゃあ、どうやって、”わたし”の居場所を見つけ出す?

 簡単じゃないけど、矛盾してるかもしれないけど、やっぱり、人とのつながりの中にしかないんじゃないかな。友達もダメ、家族もダメ、学校もダメってもう八方ふさがりだけど、それでも、どっかに新しい絆の手がかりをさぐるしかないんじゃないだろうか。

 で、その小さな小さな可能性を、僕は演劇部の活動に見いだせたと思っている。

 高校の演劇部に入る人って、目立ちたがり屋で、濃厚キャラの人ってイメージ強いかもしれない。でも、実際はまるで正反対!地味~で、人付き合いが下手で、えっ!ほんとに舞台に立ちたいの?ってつい聞いてしまいかねない生徒が多い。中学時代、不登校とか、保健室登校なんて子も毎年何人かいる。公演の際、中学校に宣伝に行かせると、お前が演劇部!!!ってびっくりマークが五つも六つも付くこともしばしばだ。

 そんな生徒たちが、2年も活動続けると、他の部の生徒から、演劇部って個性的な人多いっすよね、なんて言われることになる。実際、やたら明るく元気になってるし、ある意味羽目が外れている。あんなに悩んでいた、人との距離もいつの間にか、上手にとれるようになっている。心の不安もいつしか薄れてきているようだ。そうだ!演劇部は悩みに効く!!

 その理由だ、問題は。演劇の本質とも言える自己表現ってことも大きな要因だが、これについては、また、いつかだ。ここで問題にした”わたし”の居場所ってことで考えるなら、演劇部がその居場所を提供できたってことだ。”わたし”が、その中にいて、間違いなく意味があって、そして、それを皆が認めてくれている、そんな居場所に演劇部がなっているってことだ。

 演劇部が何故、居場所になれたのか?所属して熱中するってことなら、どんな部活動でも効果的だ。運動部の団体競技なんか、とてもいい。そこで、選手になって試合に出て、時間いっぱい走り回れば、自ずと一体感、自分の役割意識も満足させられるだろう。でも、ベンチに入れる人数には制限がある。補欠とか、さらに補欠にもなれなかった者は、どうなる?昔なら、そんな下積みの苦労を尊しとする風潮もあったから、部員たちも、下積みなりに納得して卒業して行ったし、優秀な指導者ならば、そういったあぶれた部員にも適切な役割を与え、場所を作ってやれるとは思う。

 じゃあ、演劇部はどこが違う?

 それは、全員で舞台を支えるってことだ。キャスト、スタッフの違いはあるが、誰一人欠けても、舞台は成り立たない。それぞれの持ち場持ち場で、専門的な仕事をこなし、舞台を創り上げる。誰もが、自分の仕事の重要性を理解している。例えば、上演中に大黒幕(舞台の一番奥にある幕)を開閉するなんて単純な仕事でも、舞台効果上は最重要ポイントになるし、照明や音響となれば、これはもう、高度のエンジニアだ。その仕事にやりがいと誇りを持たないわけがない。

 さらに、芝居を制作して行く課程も、すべての人間がその能力なりに力を合わせる。お互いに意思疎通しないことには、装置も衣装も小道具も作れはしない。毎日、打ち合わせをし、頭を付き合わせて相談し、意見を戦わせながら、身体を使ってモノを作っていく。言い合いが、時には、喧嘩になることだってある。それでも、部員すべてが、あいつが居なくちゃって認め合っている。誰一人欠けても、舞台は創れないことを知っている。この相互交流、相互確認が、実は、”わたし”は誰?って不安によく効くってことなんだ。そう!誰かに認めてもらうってこと。カウンセリングなんかの口先ではなく、実際の活動の場で、あなたが必要だって、感じさせることなんだ。

 まあ、いつもいつもこう上手く行ってる訳ではないが、置農演劇部の活動を通して、”わたし”の居場所を確認し、しっかりと自信を持って社会に巣立って行ったものはかなりの数に上る。

 この経験を、学校でも、社会でも生かせないものかと思う。ポイントは二つだ。仲間から認められる”わたし”がいるってことが一つ。その”わたし”が仲間と何かを成し遂げるってことがもう一つの要点だ。

 学校やクラスは、共に成し遂げる場ではない。”わたし”の確認も希薄で不安定だ。目的に向かって一つになれる部活動、その意義は、ますます大きくなってきている。その部活動を、全部員の居場所が見つけられる場にする必要がある。そのためには、、まず、切らないこと、力不足とか、着いてこれないとかで切り捨てないこと。それと、全員に一人一人かけがえのない位置を与えること。そして、仲間全員がそのことをはっきりと認識することだ。

 そう、”きみ”が居なくちゃ、始まらない!って。 

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