文翔館公演の企画書提出の期限が迫ってるんだ。今週中には投函しなくちゃなんない。決まっているのは、明治時代の女学校を書くということだけ。ストーリーはもちろん、タイトルも決まってない。本番は10月を予定しているので、とりあえず、仮のタイトル、なんとなくのあらすじでもいいことはいいんだけど、う~ん、去年の企画書もそうなってるからね、一年考えて全然進んでないのかって思われる,癪じゃない。せめて、タイトルだけでも、と、資料を拾い読みする毎日なんだ。と言っても、子どもミュージカルの台本が優先なので、台本を書くのに行き詰まると、やおら、明治本引っ張り出し、ぐでーっとしながらページを繰っている。
僕の場合、台本書くときには、必ず関連の本を取り寄せて事前学習する。まあ、4~5冊ってところが普通だけど、今回の子どもミュージカル、『合い言葉は!もったいない』なんかだと、マータイさんの本は避けたので、残飯関係の本はわずか1冊しか手に入らなかった。山下惣一著『この大いなる残飯よ!』(家の光協会)だ。もの言う百姓山下さんが、家の光協会の若い編集者と東京の残飯事情を覗きまくったルポルタージュだ。
山下さんの曰く、料理屋の残飯を見せてもらうのは、女性に汚れたパンティ見せてとお願いするのと同じくらい不躾で、当然のことながら正面切って、その残飯の実態には迫れなかったようだ。その辺、最後まで、痒い所に手が届かないって感は否めない本だったが、それでも、随所にへぇー、や、ほー、や、ふむふむ!が散りばめられた本だった。その一例、都庁ビルの地下には生ゴミ用のどでかい冷蔵庫が設置されてるんだって。へぇー!だよね。それにしても、パンティの比喩、山下さんらしいよ、都会出のカッコマンの僕には絶対できない表現だね。おっと、そんなことはどうでもいい。で、この本からつまみ食いできたプロットは、残飯紳士。早朝の繁華街をカラスとともに、残飯を探し歩く人たちのことだ。これは子どもミュージカルに使わせていただくことにした。これ一つ、まあ、こんなもんだ、資料当たりなんて。一つ使えればめっけもんなんだ。
さて、明治の話しだ。これは、かなり気負ってるからね、もうすでに10冊以上は読んだ。明治の通史やら、女学生の日記やら、女学生の生活一般を描いたものやら、当時の芸能ネタを集めた本、山形県関係の本、仙台の事件帳とかとか。それぞれにへぇーやほーはたしかにあったのだけど、どうも今ひとつピン来なかったんだ。うーん!やばい!これは書けない!と音を上げ書けたとき、出会ったのが、森まゆみ著『明治快女伝=わたしはわたしよ』(文春文庫)だった。これは凄い。圧倒された。子どもミュージカルなんて忘れて一晩で読み切ってしまった。
明治に生きた52人の女たちの伝記。一人に当てられるページは8ページほど、この限られた字数の中で、一人一人が生き生きと蘇ってくるんだ、凄い。書き手・森さんの技倆は素晴らしい、言うまでもない。でも、それを越えて、森さん自身の熱い思いなんだよ、それが乗り移って過去の女たちがそれぞれの姿で堂々と自己主張して来るんだ。活躍の場は様々だ。階層も千差万別。思いを遂げた者もいれば、歴史の淀みに飲み込まれた者もいる。その一人一人の生きる場にしっかりと降りたって、その声を聞き、時代の鼓動を聞きながら、その人生を共に歩み通しているんだ。
それにしても、ここに取り上げられた女性たちの存在感はどうだろう。民権運動、教育、舞台、歌人、女性解放、労働運動、果ては、犯罪に浮き名を流した女まで、なんと魅力的なことか。なんと逞しいことか。時代に翻弄されながらも、信念をしっかり生ききった女性たち。こんな素晴らしい女たちを、人生の先輩として持っている、素晴らしいことだってつくづくと感じた。
これで書ける!大変だけど、書ける!読み終えて直感した。誰を書くのか、どう書くのか、そんなことは全然決まっていない。でも、書ける、きっと書ける。こんな閃きを与えてくれたこの本に、とことん感謝だ。
さあ、、また、振り出しに戻って資料読みだ。この女性たちの生きた時代の空気を感じよう。彼女たちの頬をなでた風に吹かれてみよう。まずは、名著『日本の百年』だ。その2松本三之介編著『わき立つ民論』。良い本は良い本との出会いを導いてくれる。この本についてもいつかここに書くが、また、子どもミュージカルの台本に戻る時間だ。