土左日記 原文
対比読下及び訳文付き (1)
注意事項
本ブログでは紀貫之著「土左日記」の原文を扱っています。今日の高校生や大学生が学ぶ、また、教科書や大学入試などに使われるテキストである藤原定家翻訳本「土佐日記」などとは違うものであることをご理解下さい。伝存する「土佐日記」は鎌倉時代以降の「土左日記」に対する翻訳本であって、そこには翻訳者の解釈を含んだものであることは研究からは明白ですし、本文に対する表記方法自体がまったくに違います。
大学入学試験は入学と云うことが目的ですので、学問上の正誤の世界ではありません。従いまして、高校生のみなさんは本来の学問研究とは別物と理解し、入学と云う目的の為に藤原定家翻訳本「土佐日記」を勉学して下さい。なお、本ブログでは原文鑑賞を目的としており、鎌倉時代に成立した藤原定家翻訳本「土佐日記」などは扱っていません。
はじめに
ここで紹介する「土左日記 原文」は、高千穂大学の経営学部教授 渋谷栄一氏が率いる渋谷栄一(国語・国文学)研究室の研究成果である「平成7年度文部省科学研究費補助金《研究成果報告書》研究種目一般研究(C)課題番号 07801057; 藤原定家自筆の仮名文字に関するテキストデータベースと画像データベースの作成研究『定家本「土左日記」本文の基礎的研究』」を使用させて頂いています。
本来の原文表記は句読点も無い一行十四文字表記ですが、ここではその表記スタイルには従っていません。原文の表記スタイルについては『定家本「土左日記」本文の基礎的研究』を参照願います。
次に、「対比読下及び訳文付き」は、入手が容易で広く知られている岩波文庫「土左日記 鈴木知太郎校注」を参考に使かわさせて頂いています。なお、「土左日記 原文」を参照し、音を示す借字による表記ではなく漢語として原文で漢字が使われているものは原文表記に従っています。また、原文の解釈で「訳文」が違うものもあります。つまり、岩波文庫「土左日記」そのものの引き写しにはなっていません。従いまして、鑑賞以外での使用については、注意をお願いいたします。
なお、岩波文庫の「土左日記」は青谿書屋本(藤原為家自筆本系統)を底本にしています。このため、原文の底本となった前田家蔵書本(藤原定家自筆本)との「原文とその対比読下」において違う底本を使うことからの異同が生じている可能性があります。この異同の有無の検証は行っていません。
参考に前田家蔵書本と青谿書屋本とでは、その表示が相違するものが相互にそれぞれ百廿八か所と三十七か所あるそうです。ただし、藤原定家は「无(mo)」の借字を意図的に「毛」や「裳」に換字しています。これが六六か所もありますので、他の場所でも「定家仮名遣い」に従い換字したものがあるでしょうが、全文一万一千七百九十余文字あまりに対しては大勢に影響はないものと考えます。
原文紹介の目的
弊作業員は、ブログ「竹取翁と万葉集のお勉強」で紹介するように万葉集の歌を鑑賞しています。その鑑賞のため万葉集の歌の訓み、特に「之」の文字をどのように訓むかを自習しています。
この自習において、万葉集に入らぬ歌を集めた古今和歌集を編纂した時代、その表裏として万葉集を完全に読めた時代、その時代の平安貴族はどのように「之」の文字を認識していたかを調べています。その過程において、既に「秋萩帖 伝小野道風筆」の第一紙 第一首及び第二首の原文をブログにて紹介しました。ここでは「土左日記 原文」を紹介し、紀貫之が「之」の文字をどのように訓んでいたかを推察する資料として提供したいと思います。なお、このような背景があるため、「土左日記」自体の研究ではないことを、ご了解下さい。
弊作業員の数えではこの「土左日記 原文」では「之」の文字は三七六回、使われていています。そして、それは音を示す借字であり、訓みは「し」の音字だけです。ちなみに秋萩帖に収められた全四八首に「之」の文字は五四回使われ、それの訓みは全て「し」と読みます。これは、現在の校本万葉集を基にした「訓読み万葉集」が万葉集歌で使われる音字を示す借字(万葉仮名)の「之」の文字を「し」、「の」、「が」等と訓む姿とは、大きく違うものです。
おまけですが、秋萩帖では「所」の文字は二三回使われ、それの訓みは全て「そ」と読みます。ところが、この「土左日記 原文」では「所」の文字は漢語の「所(=ところ)」として使われ、音を表す借字の「そ」は「曽」の文字が使われています。
このような自習の目的にこれを整理しています。
補足として、紀貫之の自筆本の題名は「土左日記」ですが、藤原定家以降の漢字混じり平仮名に翻訳されたものは自筆本との混同を避けるためか題名が「土佐日記」と改訂されています。現在、テキストとして採用されているものは、基本的に翻訳本の「土佐日記」であることは指摘するまでもありません。ただし、世界標準とするとき、それを原文とは称しません。
土左日記
乎止己毛春止以不日記止以不物遠ゝ武奈毛志天心美武止天寸留奈利
をとこもすといふ日記といふ物をゝむなもして心みむとてするなり
男もすといふ日記といふ物を、女もして心みむとて、するなり。
楚礼乃止之ゝ波数乃者川可安満利飛止比乃日乃以奴能時爾加止天数
それのとしゝはすのはつかあまりひとひの日のいぬの時にかとてす
それの年十二月の二十日あまり一日の日の戌の時に、門出す。
曽乃与之伊左ゝ加爾物耳加幾徒久
そのよしいさゝかに物にかきつく
そのよし、いささかにものに書きつく。
安留人安可多乃与止勢以徒止世者天ゝ礼以乃己止ゝ毛美奈志遠部天
ある人あかたのよとせいつとせはてゝれいのことゝもみなしをへて
ある人、県の四年五年果てて、例の事どもみなし終へて、
計由奈止ゝ利天寸武堂知与利以亭ゝ舟爾乃留部幾所部王多類
けゆなとゝりてすむたちよりいてゝ舟にのるへき所へわたる
解由など取りて、住む館より出でて、舟に乗るべき所へ渡る。
加礼己礼志留之良奴遠久利寸止之己呂与久ゝ良部川留人ゝ奈武和可礼可多具思日天
かれこれしるしらぬをくりすとしころよくゝらへつる人ゝなむわかれかたく思ひて
かれこれ、知る知らぬ、送りす。年来よく比べつる人々なむ、別れ難く思ひて、
新幾里爾止可久之徒ゝ乃ゝ之留宇知爾夜不个奴
しきりにとかくしつゝのゝしるうちに夜ふけぬ
しきりにとかくしつつ、ののしるうちに夜更けぬ。
廿二日爾以徒美乃久爾万天止太飛良可爾願堂川布知者良乃止幾左禰布奈地奈礼止
廿二日にいつみのくにまてとたひらかに願たつふちはらのときさねふな地なれと
廿二日に、和泉の国までと、平らかに願立つ。藤原時実、舟地なれど、
武万乃者那武个数加美之奈可毛恵飛安幾天以止安也之久志保宇美乃保止利爾天
むまのはなむけすかみしなかもゑひあきていとあやしくしほうみのほとりにて
餞す。上し中も、酔ひ飽きて、いとあやしく、潮海のほとりにて、
阿左礼安部里
あされあへり
あざれあへり。
廿三日也幾乃也寸乃利止以不人安利
廿三日やきのやすのりといふ人あり
廿三日、八木康則といふ人あり。
己乃人久爾ゝ加奈良寸之毛以飛徒可不毛乃爾毛安良春奈利
この人くにゝかならすしもいひつかふものにもあらすなり
この人、国に必ずしも云ひ使ふ者にもあらずなり。
己礼曽堂ゝ波之幾也宇爾天武満乃者那武个志多留加美可良爾也安良武
これそたゝはしきやうにてむまのはなむけしたるかみからにやあらむ
これぞ、たたはしきやうにて、餞したる。守がらにやあらむ。
久爾人乃心乃徒禰止之天以万者止天見衣寸奈留遠心安留物者波知寸曽奈武幾个留
くに人の心のつねとしていまはとて見えすなるを心ある物ははちすそなむきける
国人の心のつねとして、いまはとて、見えずなるを、心ある者は、恥ぢずぞなむ来ける。
己礼者毛乃爾与里天保武留爾之毛安良寸
これはものによりてほむるにしもあらす
これは物によりてほむるにしもあらず。
廿四日講師武万乃者那武个之爾以天万世利
廿四日講師むまのはなむけしにいてませり
廿四日、講師、餞しに出でませり。
安里止安留上下和良八末天恵比之礼天一文字遠多爾志良奴毛乃之加
ありとある上下わらはまてゑひしれて一文字をたにしらぬものしか
ありとある上下童まで、酔ひしれて、一文字をだに知らぬ者しが、
安之者十文字爾布美天曽安曽不
あしは十文字にふみてそあそふ
足は十文字に踏みてぞ遊ぶ。
廿五日加美乃堂知与利与比爾布美毛天幾多奈利
廿五日かみのたちよりよひにふみもてきたなり
廿五日、守の館より、呼びに文持て来たなり。
与者礼天以多利天日飛止比与比止与止可久安曽不也宇爾天安个爾个利
よはれていたりて日ひとひよひとよとかくあそふやうにてあけにけり
呼ばれて到りて、日一日、夜一夜、とかく遊ぶやうにて明けにけり。
廿六日猶加美乃多知爾天安留爾安留之ゝ能ゝ之利天郎等末天爾毛乃加徒个多利
廿六日猶かみのたちにてあるにあるしゝのゝしりて郎等まてにものかつけたり
廿六日、猶、守の館にてあるに、饗応し、ののしりて、郎等までに物かづけたり。
加良宇多己恵安計天以飛个利也万止宇太安留之毛満良宇止毛己止人毛以比安部利个利
からうたこゑあけていひけりやまとうたあるしもまらうともこと人もいひあへりけり
漢詩、声上げて云ひけり。和歌、主人も、客人も、他人も云ひあへりけり。
加良宇多者己礼爾衣加ゝ寸也万止宇多安留之乃加美乃与女利个留
からうたはこれにえかゝすやまとうたあるしのかみのよめりける
漢詩は、これにえ書かず。和歌、主人の守の詠めりける、
美也己以天ゝ幾美爾安者武止己之物遠己之可比毛奈久和可礼奴留可那
みやこいてゝきみにあはむとこし物をこしかひもなくわかれぬるかな
都出でて君に逢はむと来し物を来しかひもなく別れぬるかな
止奈无安利个礼者加部留左幾乃可美乃与女利个累
となむありけれはかへるさきのかみのよめりける
となむありければ、帰る前の守の詠めりける
志呂多部乃浪地遠止遠久由幾可日天和礼爾ゝ部幾者太礼奈良奈久爾
しろたへの浪地をとをくゆきかひてわれにゝへきはたれならなくに
白妙の浪地を遠く行き交ひて我に似べきは誰ならなくに
己止人ゝゝ乃毛安利个礼止佐可之幾毛奈可留部之
こと人ゝのもありけれとさかしきもなかるへし
他人々のもありけれど、さかしきもなかるべし。
止可久以比天左幾乃加美以末乃毛ゝ呂止毛爾於里天
とかくいひてさきのかみいまのもゝろともにおりて
とかく云ひて、前の守、今のも、もろともに下りて、
今乃安留之毛左幾乃毛手止利可者之天恵比己止爾心与个奈留己止之天以天爾个利
今のあるしもさきのも手とりかはしてゑひことに心よけなることしていてにけり
今の主人も、前のも、手取り交はして、酔言に心よげなることして、出でにけり。
廿七日於保川与利宇良止遠左之天己幾以徒
廿七日おほつよりうらとをさしてこきいつ
廿七日、大津より浦戸をさして漕ぎ出づ。
加久数留宇知爾京爾天宇万礼多利之遠无奈己久爾ゝ天爾和可爾宇世爾之加者
かくするうちに京にてうまれたりしをむなこくにゝてにわかにうせにしかは
かくするうちに、京にて生まれたりし女児、国にて俄かに失せにしかば、
己乃己呂乃以天多知以曽幾遠見礼止奈爾己止毛以者須京部加部留爾
このころのいてたちいそきを見れとなにこともいはす京へかへるに
このころの出で立ち、いそぎを見れど、何言も云はず、京へ帰るに、
遠无奈己乃奈幾乃美曽加奈之比己不留
をむなこのなきのみそかなしひこふる
女児の亡きのみぞ悲しび恋ふる。
安留人ゝ毛衣多部寸己乃安飛多爾安累飛止乃加幾天以多世留宇多
ある人ゝもえたへすこのあひたにあるひとのかきていたせるうた
ある人々もえ堪へず。この間に、ある人の書きて出だせる歌、
美也己部止思不毛乃ゝ加奈之幾者加部良奴人乃安礼者奈利个利
みやこへと思ふものゝかなしきはかへらぬ人のあれはなりけり
京へと思ふものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり
又安留時爾者
又ある時には
又、ある時には、
安累毛乃止和寸礼川ゝ猶奈幾人遠以徒良止ゝ不曽加奈之可利个留
あるものとわすれつゝ猶なき人をいつらとゝふそかなしかりける
あるものと忘れつつ、なほ、亡き人をいづらと問ふぞ悲しかりける
止伊比个留安比多爾加己乃左幾止以不止己呂爾
といひけるあひたにかこのさきといふところに
と云ひける間に、鹿児の崎と云ふ所に、
加美乃者良可良又己止人己礼可礼左計奈爾止毛天遠比幾天以曽爾於里為天
かみのはらから又こと人これかれさけなにともてをひきていそにおりゐて
守の同胞、又、他人、これかれ酒なにと持て追ひ来て、磯に下り居て、
和可礼可多幾己止遠以不加美乃多知乃人ゝ乃奈可爾己乃幾多留人ゝ曽
わかれかたきことをいふかみのたちの人ゝのなかにこのきたる人ゝそ
別れがたきことを云ふ。守の館の人々のなかに、この来たる人々ぞ
己ゝ呂安留也宇爾以者礼本乃女久加久和可礼可多久以比天
こゝろあるやうにいはれほのめくかくわかれかたくいひて
心あるやうに云はれほのめく。かく別れがたく云ひて、
加乃比止ゝゝ乃久知安三毛ゝ呂者知爾天己乃宇美部爾天爾奈比以多世留宇多
かのひとゝゝのくちあみもゝろはちにてこのうみへにてになひいたせるうた
かの人々の口網ももろはちにて、この海辺にて、担ひ出だせる歌、
於之止思不人也止万留止安之可毛乃宇知武礼天己曽和礼者幾爾个礼
おしと思ふ人やとまるとあしかものうちむれてこそわれはきにけれ
惜しと思ふ人やとまると葦鴨のうち群れてこそ我は来にけれ
止以比天安利个礼者以止以多久女天ゝ由久人乃与女利个留
といひてありけれはいといたくめてゝゆく人のよめりける
と言ひてありければ、いといたく愛でて、行く人の詠めりける、
佐乎左世止曽己比毛志良奴和多川美乃婦可幾心遠幾美爾見留可那
さをさせとそこひもしらぬわたつみのふかき心をきみに見るかな
棹させど底ひも知らぬわたつみの深き心を君に見るかな
止以不安比多爾加知止利物乃安者礼毛之良天遠乃礼之左个遠久良日徒礼者
といふあひたにかちとり物のあはれもしらてをのれしさけをくらひつれは
と云ふ間に、楫取もののあはれも知で、己し酒を食らひつれば、
波也久以奈武止天志本美知奴風毛布幾奴部之止左和計八舟爾乃利奈无止寸
はやくいなむとてしほみちぬ風もふきぬへしとさわけは舟にのりなむとす
早く往なむとて、「潮満ちぬ。風も吹きぬべし」と騒げば、舟に乗りなむとす。
己乃於利爾安留比止ゝゝ於里不之爾徒遣天加良乃宇多止毛時爾ゝ川可者之幾以不
このおりにあるひとゝゝおりふしにつけてからのうたとも時にゝつかはしきいふ
この折に、ある人々、折節につけて、漢詩ども、時に似つかはしき云ふ。
又安留人爾之久爾奈礼止加飛宇多奈止以不
又ある人にしくになれとかひうたなといふ
また、ある人「西国なれど、甲斐歌」など云ふ。
加久宇多不爾布奈也可堂乃知利毛曽良由久ゝ毛ゝ堂ゝ与日奴止曽以不奈留
かくうたふにふなやかたのちりもそらゆくゝもゝたゝよひぬとそいふなる
かく歌ふに、「船屋形の塵も空行く雲ゝ漂ひぬ」とぞ云ふなる。
己与比宇良止爾止末留布知者良乃止幾左禰多知者那乃春恵比良己止人ゝ遠比幾太利
こよひうらとにとまるふちはらのときさねたちはなのすゑひらこと人ゝをひきたり
今宵、浦戸に泊る。藤原時実、橘末平、他人々、追ひ来たり。
廿八日宇良止与利己幾以天ゝ於保美那止遠ゝ不
廿八日うらとよりこきいてゝおほみなとをゝふ
廿八日、浦戸より漕ぎ出でて、大湊を追ふ。
己乃安比多爾者也久乃可美乃己山久知能千美禰左計与幾物止毛ゝ天幾天布禰爾以礼多利
このあひたにはやくのかみのこ山くちの千みねさけよき物ともゝてきてふねにいれたり
この間に、はやくの守の子、山口千峯、酒、美物ども持て来て、船に入れたり。
由久ゝゝ乃美久不
ゆくゝゝのみくふ
ゆくゆく、飲み食ふ。
廿九日於保美奈止爾止万礼利具春之布利者部天止宇曽白散左遣久者部天毛亭幾多利
廿九日おほみなとにとまれりくすしふりはへてとうそ白散さけくはへてもてきたり
廿九日、大湊に泊れり。医師、振り放へて、屠蘇、白散、酒加へて持て来たり。
心佐之安留爾ゝ多利
心さしあるにゝたり
志あるに似たり。
対比読下及び訳文付き (1)
注意事項
本ブログでは紀貫之著「土左日記」の原文を扱っています。今日の高校生や大学生が学ぶ、また、教科書や大学入試などに使われるテキストである藤原定家翻訳本「土佐日記」などとは違うものであることをご理解下さい。伝存する「土佐日記」は鎌倉時代以降の「土左日記」に対する翻訳本であって、そこには翻訳者の解釈を含んだものであることは研究からは明白ですし、本文に対する表記方法自体がまったくに違います。
大学入学試験は入学と云うことが目的ですので、学問上の正誤の世界ではありません。従いまして、高校生のみなさんは本来の学問研究とは別物と理解し、入学と云う目的の為に藤原定家翻訳本「土佐日記」を勉学して下さい。なお、本ブログでは原文鑑賞を目的としており、鎌倉時代に成立した藤原定家翻訳本「土佐日記」などは扱っていません。
はじめに
ここで紹介する「土左日記 原文」は、高千穂大学の経営学部教授 渋谷栄一氏が率いる渋谷栄一(国語・国文学)研究室の研究成果である「平成7年度文部省科学研究費補助金《研究成果報告書》研究種目一般研究(C)課題番号 07801057; 藤原定家自筆の仮名文字に関するテキストデータベースと画像データベースの作成研究『定家本「土左日記」本文の基礎的研究』」を使用させて頂いています。
本来の原文表記は句読点も無い一行十四文字表記ですが、ここではその表記スタイルには従っていません。原文の表記スタイルについては『定家本「土左日記」本文の基礎的研究』を参照願います。
次に、「対比読下及び訳文付き」は、入手が容易で広く知られている岩波文庫「土左日記 鈴木知太郎校注」を参考に使かわさせて頂いています。なお、「土左日記 原文」を参照し、音を示す借字による表記ではなく漢語として原文で漢字が使われているものは原文表記に従っています。また、原文の解釈で「訳文」が違うものもあります。つまり、岩波文庫「土左日記」そのものの引き写しにはなっていません。従いまして、鑑賞以外での使用については、注意をお願いいたします。
なお、岩波文庫の「土左日記」は青谿書屋本(藤原為家自筆本系統)を底本にしています。このため、原文の底本となった前田家蔵書本(藤原定家自筆本)との「原文とその対比読下」において違う底本を使うことからの異同が生じている可能性があります。この異同の有無の検証は行っていません。
参考に前田家蔵書本と青谿書屋本とでは、その表示が相違するものが相互にそれぞれ百廿八か所と三十七か所あるそうです。ただし、藤原定家は「无(mo)」の借字を意図的に「毛」や「裳」に換字しています。これが六六か所もありますので、他の場所でも「定家仮名遣い」に従い換字したものがあるでしょうが、全文一万一千七百九十余文字あまりに対しては大勢に影響はないものと考えます。
原文紹介の目的
弊作業員は、ブログ「竹取翁と万葉集のお勉強」で紹介するように万葉集の歌を鑑賞しています。その鑑賞のため万葉集の歌の訓み、特に「之」の文字をどのように訓むかを自習しています。
この自習において、万葉集に入らぬ歌を集めた古今和歌集を編纂した時代、その表裏として万葉集を完全に読めた時代、その時代の平安貴族はどのように「之」の文字を認識していたかを調べています。その過程において、既に「秋萩帖 伝小野道風筆」の第一紙 第一首及び第二首の原文をブログにて紹介しました。ここでは「土左日記 原文」を紹介し、紀貫之が「之」の文字をどのように訓んでいたかを推察する資料として提供したいと思います。なお、このような背景があるため、「土左日記」自体の研究ではないことを、ご了解下さい。
弊作業員の数えではこの「土左日記 原文」では「之」の文字は三七六回、使われていています。そして、それは音を示す借字であり、訓みは「し」の音字だけです。ちなみに秋萩帖に収められた全四八首に「之」の文字は五四回使われ、それの訓みは全て「し」と読みます。これは、現在の校本万葉集を基にした「訓読み万葉集」が万葉集歌で使われる音字を示す借字(万葉仮名)の「之」の文字を「し」、「の」、「が」等と訓む姿とは、大きく違うものです。
おまけですが、秋萩帖では「所」の文字は二三回使われ、それの訓みは全て「そ」と読みます。ところが、この「土左日記 原文」では「所」の文字は漢語の「所(=ところ)」として使われ、音を表す借字の「そ」は「曽」の文字が使われています。
このような自習の目的にこれを整理しています。
補足として、紀貫之の自筆本の題名は「土左日記」ですが、藤原定家以降の漢字混じり平仮名に翻訳されたものは自筆本との混同を避けるためか題名が「土佐日記」と改訂されています。現在、テキストとして採用されているものは、基本的に翻訳本の「土佐日記」であることは指摘するまでもありません。ただし、世界標準とするとき、それを原文とは称しません。
土左日記
乎止己毛春止以不日記止以不物遠ゝ武奈毛志天心美武止天寸留奈利
をとこもすといふ日記といふ物をゝむなもして心みむとてするなり
男もすといふ日記といふ物を、女もして心みむとて、するなり。
楚礼乃止之ゝ波数乃者川可安満利飛止比乃日乃以奴能時爾加止天数
それのとしゝはすのはつかあまりひとひの日のいぬの時にかとてす
それの年十二月の二十日あまり一日の日の戌の時に、門出す。
曽乃与之伊左ゝ加爾物耳加幾徒久
そのよしいさゝかに物にかきつく
そのよし、いささかにものに書きつく。
安留人安可多乃与止勢以徒止世者天ゝ礼以乃己止ゝ毛美奈志遠部天
ある人あかたのよとせいつとせはてゝれいのことゝもみなしをへて
ある人、県の四年五年果てて、例の事どもみなし終へて、
計由奈止ゝ利天寸武堂知与利以亭ゝ舟爾乃留部幾所部王多類
けゆなとゝりてすむたちよりいてゝ舟にのるへき所へわたる
解由など取りて、住む館より出でて、舟に乗るべき所へ渡る。
加礼己礼志留之良奴遠久利寸止之己呂与久ゝ良部川留人ゝ奈武和可礼可多具思日天
かれこれしるしらぬをくりすとしころよくゝらへつる人ゝなむわかれかたく思ひて
かれこれ、知る知らぬ、送りす。年来よく比べつる人々なむ、別れ難く思ひて、
新幾里爾止可久之徒ゝ乃ゝ之留宇知爾夜不个奴
しきりにとかくしつゝのゝしるうちに夜ふけぬ
しきりにとかくしつつ、ののしるうちに夜更けぬ。
廿二日爾以徒美乃久爾万天止太飛良可爾願堂川布知者良乃止幾左禰布奈地奈礼止
廿二日にいつみのくにまてとたひらかに願たつふちはらのときさねふな地なれと
廿二日に、和泉の国までと、平らかに願立つ。藤原時実、舟地なれど、
武万乃者那武个数加美之奈可毛恵飛安幾天以止安也之久志保宇美乃保止利爾天
むまのはなむけすかみしなかもゑひあきていとあやしくしほうみのほとりにて
餞す。上し中も、酔ひ飽きて、いとあやしく、潮海のほとりにて、
阿左礼安部里
あされあへり
あざれあへり。
廿三日也幾乃也寸乃利止以不人安利
廿三日やきのやすのりといふ人あり
廿三日、八木康則といふ人あり。
己乃人久爾ゝ加奈良寸之毛以飛徒可不毛乃爾毛安良春奈利
この人くにゝかならすしもいひつかふものにもあらすなり
この人、国に必ずしも云ひ使ふ者にもあらずなり。
己礼曽堂ゝ波之幾也宇爾天武満乃者那武个志多留加美可良爾也安良武
これそたゝはしきやうにてむまのはなむけしたるかみからにやあらむ
これぞ、たたはしきやうにて、餞したる。守がらにやあらむ。
久爾人乃心乃徒禰止之天以万者止天見衣寸奈留遠心安留物者波知寸曽奈武幾个留
くに人の心のつねとしていまはとて見えすなるを心ある物ははちすそなむきける
国人の心のつねとして、いまはとて、見えずなるを、心ある者は、恥ぢずぞなむ来ける。
己礼者毛乃爾与里天保武留爾之毛安良寸
これはものによりてほむるにしもあらす
これは物によりてほむるにしもあらず。
廿四日講師武万乃者那武个之爾以天万世利
廿四日講師むまのはなむけしにいてませり
廿四日、講師、餞しに出でませり。
安里止安留上下和良八末天恵比之礼天一文字遠多爾志良奴毛乃之加
ありとある上下わらはまてゑひしれて一文字をたにしらぬものしか
ありとある上下童まで、酔ひしれて、一文字をだに知らぬ者しが、
安之者十文字爾布美天曽安曽不
あしは十文字にふみてそあそふ
足は十文字に踏みてぞ遊ぶ。
廿五日加美乃堂知与利与比爾布美毛天幾多奈利
廿五日かみのたちよりよひにふみもてきたなり
廿五日、守の館より、呼びに文持て来たなり。
与者礼天以多利天日飛止比与比止与止可久安曽不也宇爾天安个爾个利
よはれていたりて日ひとひよひとよとかくあそふやうにてあけにけり
呼ばれて到りて、日一日、夜一夜、とかく遊ぶやうにて明けにけり。
廿六日猶加美乃多知爾天安留爾安留之ゝ能ゝ之利天郎等末天爾毛乃加徒个多利
廿六日猶かみのたちにてあるにあるしゝのゝしりて郎等まてにものかつけたり
廿六日、猶、守の館にてあるに、饗応し、ののしりて、郎等までに物かづけたり。
加良宇多己恵安計天以飛个利也万止宇太安留之毛満良宇止毛己止人毛以比安部利个利
からうたこゑあけていひけりやまとうたあるしもまらうともこと人もいひあへりけり
漢詩、声上げて云ひけり。和歌、主人も、客人も、他人も云ひあへりけり。
加良宇多者己礼爾衣加ゝ寸也万止宇多安留之乃加美乃与女利个留
からうたはこれにえかゝすやまとうたあるしのかみのよめりける
漢詩は、これにえ書かず。和歌、主人の守の詠めりける、
美也己以天ゝ幾美爾安者武止己之物遠己之可比毛奈久和可礼奴留可那
みやこいてゝきみにあはむとこし物をこしかひもなくわかれぬるかな
都出でて君に逢はむと来し物を来しかひもなく別れぬるかな
止奈无安利个礼者加部留左幾乃可美乃与女利个累
となむありけれはかへるさきのかみのよめりける
となむありければ、帰る前の守の詠めりける
志呂多部乃浪地遠止遠久由幾可日天和礼爾ゝ部幾者太礼奈良奈久爾
しろたへの浪地をとをくゆきかひてわれにゝへきはたれならなくに
白妙の浪地を遠く行き交ひて我に似べきは誰ならなくに
己止人ゝゝ乃毛安利个礼止佐可之幾毛奈可留部之
こと人ゝのもありけれとさかしきもなかるへし
他人々のもありけれど、さかしきもなかるべし。
止可久以比天左幾乃加美以末乃毛ゝ呂止毛爾於里天
とかくいひてさきのかみいまのもゝろともにおりて
とかく云ひて、前の守、今のも、もろともに下りて、
今乃安留之毛左幾乃毛手止利可者之天恵比己止爾心与个奈留己止之天以天爾个利
今のあるしもさきのも手とりかはしてゑひことに心よけなることしていてにけり
今の主人も、前のも、手取り交はして、酔言に心よげなることして、出でにけり。
廿七日於保川与利宇良止遠左之天己幾以徒
廿七日おほつよりうらとをさしてこきいつ
廿七日、大津より浦戸をさして漕ぎ出づ。
加久数留宇知爾京爾天宇万礼多利之遠无奈己久爾ゝ天爾和可爾宇世爾之加者
かくするうちに京にてうまれたりしをむなこくにゝてにわかにうせにしかは
かくするうちに、京にて生まれたりし女児、国にて俄かに失せにしかば、
己乃己呂乃以天多知以曽幾遠見礼止奈爾己止毛以者須京部加部留爾
このころのいてたちいそきを見れとなにこともいはす京へかへるに
このころの出で立ち、いそぎを見れど、何言も云はず、京へ帰るに、
遠无奈己乃奈幾乃美曽加奈之比己不留
をむなこのなきのみそかなしひこふる
女児の亡きのみぞ悲しび恋ふる。
安留人ゝ毛衣多部寸己乃安飛多爾安累飛止乃加幾天以多世留宇多
ある人ゝもえたへすこのあひたにあるひとのかきていたせるうた
ある人々もえ堪へず。この間に、ある人の書きて出だせる歌、
美也己部止思不毛乃ゝ加奈之幾者加部良奴人乃安礼者奈利个利
みやこへと思ふものゝかなしきはかへらぬ人のあれはなりけり
京へと思ふものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり
又安留時爾者
又ある時には
又、ある時には、
安累毛乃止和寸礼川ゝ猶奈幾人遠以徒良止ゝ不曽加奈之可利个留
あるものとわすれつゝ猶なき人をいつらとゝふそかなしかりける
あるものと忘れつつ、なほ、亡き人をいづらと問ふぞ悲しかりける
止伊比个留安比多爾加己乃左幾止以不止己呂爾
といひけるあひたにかこのさきといふところに
と云ひける間に、鹿児の崎と云ふ所に、
加美乃者良可良又己止人己礼可礼左計奈爾止毛天遠比幾天以曽爾於里為天
かみのはらから又こと人これかれさけなにともてをひきていそにおりゐて
守の同胞、又、他人、これかれ酒なにと持て追ひ来て、磯に下り居て、
和可礼可多幾己止遠以不加美乃多知乃人ゝ乃奈可爾己乃幾多留人ゝ曽
わかれかたきことをいふかみのたちの人ゝのなかにこのきたる人ゝそ
別れがたきことを云ふ。守の館の人々のなかに、この来たる人々ぞ
己ゝ呂安留也宇爾以者礼本乃女久加久和可礼可多久以比天
こゝろあるやうにいはれほのめくかくわかれかたくいひて
心あるやうに云はれほのめく。かく別れがたく云ひて、
加乃比止ゝゝ乃久知安三毛ゝ呂者知爾天己乃宇美部爾天爾奈比以多世留宇多
かのひとゝゝのくちあみもゝろはちにてこのうみへにてになひいたせるうた
かの人々の口網ももろはちにて、この海辺にて、担ひ出だせる歌、
於之止思不人也止万留止安之可毛乃宇知武礼天己曽和礼者幾爾个礼
おしと思ふ人やとまるとあしかものうちむれてこそわれはきにけれ
惜しと思ふ人やとまると葦鴨のうち群れてこそ我は来にけれ
止以比天安利个礼者以止以多久女天ゝ由久人乃与女利个留
といひてありけれはいといたくめてゝゆく人のよめりける
と言ひてありければ、いといたく愛でて、行く人の詠めりける、
佐乎左世止曽己比毛志良奴和多川美乃婦可幾心遠幾美爾見留可那
さをさせとそこひもしらぬわたつみのふかき心をきみに見るかな
棹させど底ひも知らぬわたつみの深き心を君に見るかな
止以不安比多爾加知止利物乃安者礼毛之良天遠乃礼之左个遠久良日徒礼者
といふあひたにかちとり物のあはれもしらてをのれしさけをくらひつれは
と云ふ間に、楫取もののあはれも知で、己し酒を食らひつれば、
波也久以奈武止天志本美知奴風毛布幾奴部之止左和計八舟爾乃利奈无止寸
はやくいなむとてしほみちぬ風もふきぬへしとさわけは舟にのりなむとす
早く往なむとて、「潮満ちぬ。風も吹きぬべし」と騒げば、舟に乗りなむとす。
己乃於利爾安留比止ゝゝ於里不之爾徒遣天加良乃宇多止毛時爾ゝ川可者之幾以不
このおりにあるひとゝゝおりふしにつけてからのうたとも時にゝつかはしきいふ
この折に、ある人々、折節につけて、漢詩ども、時に似つかはしき云ふ。
又安留人爾之久爾奈礼止加飛宇多奈止以不
又ある人にしくになれとかひうたなといふ
また、ある人「西国なれど、甲斐歌」など云ふ。
加久宇多不爾布奈也可堂乃知利毛曽良由久ゝ毛ゝ堂ゝ与日奴止曽以不奈留
かくうたふにふなやかたのちりもそらゆくゝもゝたゝよひぬとそいふなる
かく歌ふに、「船屋形の塵も空行く雲ゝ漂ひぬ」とぞ云ふなる。
己与比宇良止爾止末留布知者良乃止幾左禰多知者那乃春恵比良己止人ゝ遠比幾太利
こよひうらとにとまるふちはらのときさねたちはなのすゑひらこと人ゝをひきたり
今宵、浦戸に泊る。藤原時実、橘末平、他人々、追ひ来たり。
廿八日宇良止与利己幾以天ゝ於保美那止遠ゝ不
廿八日うらとよりこきいてゝおほみなとをゝふ
廿八日、浦戸より漕ぎ出でて、大湊を追ふ。
己乃安比多爾者也久乃可美乃己山久知能千美禰左計与幾物止毛ゝ天幾天布禰爾以礼多利
このあひたにはやくのかみのこ山くちの千みねさけよき物ともゝてきてふねにいれたり
この間に、はやくの守の子、山口千峯、酒、美物ども持て来て、船に入れたり。
由久ゝゝ乃美久不
ゆくゝゝのみくふ
ゆくゆく、飲み食ふ。
廿九日於保美奈止爾止万礼利具春之布利者部天止宇曽白散左遣久者部天毛亭幾多利
廿九日おほみなとにとまれりくすしふりはへてとうそ白散さけくはへてもてきたり
廿九日、大湊に泊れり。医師、振り放へて、屠蘇、白散、酒加へて持て来たり。
心佐之安留爾ゝ多利
心さしあるにゝたり
志あるに似たり。
三条西家本の字母とは全く違うので疑問に思ったのですが、三条西家本ではなく定家自筆本の字母を記されていたのですね。
私は定家自筆本の影印本は所持していませんが、定家自筆本はネットで閲覧できますから、ネットの画像を見て改めて字母を私のブログに書いてみます。書き終えましたら又ご連絡致します。
お手数をおかけいたしました。
なお、紹介しましたように万葉仮名「之」の読み方を個人レベルで調べるための基礎資料の準備です。そのため、土左日記自体の研究ではないことをご了承下さい。
こちらのブログのURLを貼っておられたので、こちらのブログ主の方と思ったのですが、知恵袋の質問は削除されたようで確認ができません。
もし別人でしたら失礼しました。
この回答者の御方は国文学の正統な教育を受けたお方と思いますが、私はそのようなものではありません。
単なる万葉集が好きな素人です。
幣ブログの背景をご了承下さい。