竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

再読、今日のみそひと謌 火

2019年04月30日 | 再読、今日のみそひと...
再読、今日のみそひと謌 火

集歌 3598 奴波多麻能 欲波安氣奴良 多麻能宇良尓 安佐里須流多豆 奈伎和多流奈里
訓読 ぬばたまの夜は明けぬらし玉の浦にあさりする鶴(たづ)鳴き渡るなり
私訳 漆黒の夜は明けるらしい。玉の浦で餌を探す鶴の啼き声が響き渡る。

集歌 3599 月余美能 比可里乎伎欲美 神嶋乃 伊素末乃宇良由 船出須和礼波
訓読 月読(つきよみ)の光りを清み神島の礒廻(いそま)の浦ゆ船出す吾(わ)れは
私訳 月の光が清らかなので、(広島県福山市の)神島の磯廻の湊から船出をする。私たちは。

集歌 3600 波奈礼蘇尓 多弖流牟漏能木 宇多我多毛 比左之伎時乎 須疑尓家流香母
訓読 離れ礒(いそ)に立てるむろの木うたがたも久しき時を過ぎにけるかも
私訳 離れ磯に立っているムロの木は、まこと、長い年月を過ぎて来たのだな。

集歌 3601 之麻思久母 比等利安里宇流 毛能尓安礼也 之麻能牟漏能木 波奈礼弖安流良武
訓読 しましくもひとりありうるものにあれや島のむろの木離れてあるらむ
私訳 暫くの間も独りでいるものでしょうか。それなのに島のムロの木は、ひとり離れて立っている。
左注 右八首、乗船入海路上作謌
注訓 右は八首、船に乗り海に入り路の上にて作れる歌

集歌 3602 安乎尓余志 奈良能美夜古尓 多奈妣家流 安麻能之良久毛 見礼杼安可奴加毛
訓読 あをによし奈良の宮にたなびける天の白雲見れど飽かぬかも
私訳 若葉の色つやが美しい奈良の京にまで棚引く天の白雲は、見ていても飽きないものです。
左注 右一首、詠雲
注訓 右の一首は、雲を詠う
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再読、今日のみそひと謌 月

2019年04月29日 | 再読、今日のみそひと...
再読、今日のみそひと謌 月

集歌 3593 大伴能 美津尓布奈能里 許藝出而者 伊都礼乃思麻尓 伊保里世武和礼
訓読 大伴の御津(みつ)に船乗り漕ぎ出(い)にはいづれの島に廬(いほ)りせむ吾(あ)れ
私訳 大伴の御津から船に乗り漕ぎ出して、次はどこにの島に停泊するのだろうか。我々は。
左注 右三首、臨發之時作歌
注訓 右は三首、發(た)ちに臨みし時に作れる歌

集歌 3594 之保麻都等 安里家流布祢乎 思良受之弖 久夜之久妹乎 和可礼伎尓家利
訓読 潮待つとありける船を知らずして悔(くや)しく妹を別れ来にけり
私訳 潮を待って停船していると知らないで、残念なことに貴女と別れて来てしまった。

集歌 3595 安佐妣良伎 許藝弖天久礼婆 牟故能宇良能 之保非能可多尓 多豆我許恵須毛
訓読 朝開き漕ぎ出て来れば武庫の浦の潮干(しほひ)の潟に鶴(たづ)が声すも
私訳 朝が明けるのを待って船を漕ぎ出てくると武庫の浦の潮の干いた潟に鶴の声がする。

集歌 3596 和伎母故我 可多美尓見牟乎 印南都麻 之良奈美多加弥 与曽尓可母美牟
訓読 吾妹子が形見に見むを印南(いなみ)都麻(つま)白波高み外(よそ)にかも見む
私訳 私の愛しい貴女の形見にしようと、近くで見たいのに妻の名のある印南の都麻は白波が高いので遠く沖合から見ましょう。

集歌 3597 和多都美能於 伎津之良奈美 多知久良思 安麻乎等女等母 思麻我久礼見由
訓読 わたつみの沖つ白波立ち来らし海人(あま)娘子(をとめ)ども島(しま)隠(かく)る見ゆ
私訳 渡す海の海神の治める沖に白波が立って来るらしい。海人少女たちが乗る船が島影に隠れて行くのが見える。
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万葉雑記 色眼鏡 番外編 野炎を見る

2019年04月28日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 番外編 野炎を見る

 万葉集巻一に柿本人麻呂が詠う有名な「安騎野に宿り」の歌があります。この歌は長歌とそれに付けられた反歌四首で構成する歌群ですから、歌群として歌を鑑賞する必要があります。
 今回は、ちょっと、面白い写真がありましたので、それをこの歌の鑑賞の参照として、写真を紹介します。朝日が昇る寸前、山の端から一筋の赤い光線が雲を照らします。紹介するものはたった一本で旭日旗のような状況ではありませんが、集歌48の歌の「野炎 立所見而」の雰囲気は感じられます。ただ、写真が下手で判り難いのは、ご勘弁を。

軽皇子宿干安騎野時、柿本朝臣人麿作歌
標訓 軽皇子の安騎の野に宿(やど)りしし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌
集歌45 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須登 太敷為 京乎置而 隠口乃 泊瀬山者 真木立 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去来者 三雪落 安騎乃大野尓 旗須為寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而
訓読 やすみしし わご大王(おほきみ) 高照らす 日し皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 京(みやこ)を置きて 隠口の 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を 石が根 禁樹(さへき)おしなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さりくれば み雪降る 阿騎の大野に 旗(はた)薄(すすき) 小竹(しの)をおしなべ 草枕 旅宿りせす 古(いにしへ)思ひて
私訳 天下をあまねく承知される我が大王の君の天上までも照らし上げる日の御子が神でありながら神らしく統治なされている京を後方に置いて、山に籠る入り口の泊瀬の山には立派な木が立っている険しい山道を行く手をさえぎる大岩や木々を押し倒して坂を鳥が朝に越えるようにして来て、蜻蛉玉のように夕日の光が移り変わる夕刻も過ぎると、雪が降る阿騎の大野に薄や篠笹を押し倒して草を枕にするような旅の宿りをする。昔の出来事を思い出して。

短歌
集歌46 阿騎乃尓 宿旅人 打靡 寐毛宿良自八方 古部念尓
訓読 阿騎の野に宿(やど)る旅人打ち靡き眼(い)も寝(ぬ)らしやも古(いにしへ)思ふに
私訳 阿騎の野に宿る旅人は薄や篠笹のように体を押し倒して自分から先に寝ることができるでしょうか。昔の出来事を思い出すのに。

集歌47 真草苅 荒野者雖有 葉 過去君之 形見跡曽来師
訓読 ま草刈る荒野にはあれど黄葉(もみぢは)の過ぎにし君の形見とそ来し
私訳 本来なら大嘗宮の束草を刈り取る荒野なのですが、このように黄葉の葉が散り過ぎるようにお隠れになった君の形見。その形見の御子といっしょに来た。

集歌48 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
訓読 東(ひむがし)し野(の)し炎(かぎろひ)し立つ見えてかへり見すれば月西渡る
私訳 夜通し昔の出来事を思い出していて、ふと、東の野に朝焼けの光が雲間から立つのが見えて、振り返って見ると昨夜を一夜中に照らした月が西に渡って沈み逝く。

集歌49 日雙斯 皇子命乃 馬副而 御羯立師斯 時者来向
訓読 日並し皇子し尊の馬並(な)めて御猟(みかり)立たしし時は来向かふ
私訳 日並皇子の尊が馬を並び立てて御狩をなされた、そのような時刻になってきたようです。

 注意として、長歌で「旗須為寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而」と歌うように、過去にこの土地で何かを経験した人が、改めで旅の途中での野宿をした、その時の出来事を詠ったものです。まず、巻狩りでの仮眠の状況を旅の宿りとは言いません。
 そのため、この歌群を安騎野での遊猟の歌と解釈する人がいるようですが、それは間違いです。歌群最後に置く集歌49の歌は、昔、日並皇子が御狩を開始された、その同じ時刻になったと詠うだけです。これらの歌群には狩の情景はどこにも示していないことに気付いて、歌を鑑賞する必要があります。



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万葉集 長歌を鑑賞する 集歌4169

2019年04月28日 | 万葉集 長歌を楽しむ
万葉集 長歌を鑑賞する 集歌4169

為家婦贈在京尊母所誂作謌一首并短謌
標訓 家婦(かふ)の京(みやこ)に在(いま)す尊母に贈らむが為に、誂(あとら)へて作れる謌一首并せて短謌
集歌4169 霍公鳥 来喧五月尓 咲尓保布 花橘乃 香吉 於夜能御言 朝暮尓 不聞日麻祢久 安麻射可流 夷尓之居者 安之比奇乃 山乃多乎里尓 立雲乎 余曽能未見都追 嘆蘇良 夜須家久奈久尓 念蘇良 苦伎毛能乎 奈呉乃海部之 潜取云 真珠乃 見我保之御面 多太向 将見時麻泥波 松栢乃 佐賀延伊麻佐祢 尊安我吉美 (御面謂之美於毛和)

<標準的な解釈(「萬葉集 釋注」伊藤博、集英社文庫)>
訓読 ほととぎす 来鳴く五月(さつき)に 咲きにほふ 花橘の かぐはしき 親の御言(みこと) 朝夕(あさよひ)に 聞かぬ日まねく 天(あま)離(さ)る 鄙にし居れば あしひきの 山のたをりに 立つ雲を よそのみ見つつ 嘆くそら 安けくなくに 思ふそら 苦しきものを 奈呉(なご)の海人(あま)の 潜(かづ)き取るといふ 白玉の 見が欲し御面(みおもわ) 直(ただ)向(むか)ひ 見む時までは 松柏(まつかへ)の 栄えいまさね 貴(たふと)き我(あ)が君 (御面は「みおもわ」と謂ふ)
意訳 時鳥が来て鳴く五月に咲き薫る花橘のように、かぐわしい母上様のお言葉、そのお声を朝に夕に聞かぬ日が積もるばかりで、都遠く離れたこんな鄙の地に住んでいるので、累々と重なる山の尾根に立つ雲、その雲を遠くから見やるばかりで、嘆く心は休まる暇もなく、思う心は苦しくてなりません。奈呉の海人がもぐって採るという真珠のように、見たい見たいと思う御面、そのお顔を目の当たりに見るその時までは、どうか常盤の松や柏のように、お変わりなく元気でいらして下さい。尊い我が母君様。<御面は「みおもわ」と訓みます>

<西本願寺本万葉集の原文を忠実に訓むときの解釈>
訓読 霍公鳥(ほととぎす) 来鳴く五月(さつき)に 咲きにほふ 花橘の かぐはしき 親の御言(みこと) 朝暮(あさよひ)に 聞かぬ日まねく 天離る 鄙にし居れば あしひきの 山のたをりに 立つ雲を よそのみ見つつ 嘆くそら 安けくなくに 思ふそら 苦しきものを 奈呉の海人(あま)の 潜き取るといふ 白玉の 見が欲し御面(みおもわ) 直(ただ)向(むか)ひ 見む時までは 松柏(まつかへ)の 栄えいまさね 貴き吾(あ)が君 (御面は「みおもわ」と謂ふ)
私訳 ホトトギスが飛び来て鳴く五月に咲きほこる花橘のように芳しい母上の御言葉を、朝夕に聞かない日々が多くなり、都から離れた鄙であるので、足を引くような険しい山の峰の谷間に遠くから見るように、遠くから嘆いても気持ちも休まらず、お慕いしても心苦しいのに、奈呉の海人が潜って取ると云う真珠のように、見てみたいと思う貴女のお顔を、直に向かい合ってお会いできる時までは、松柏のようにお元気で居て下さい。貴き私の貴女。

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万葉雑記 色眼鏡 三一六 今週のみそひと歌を振り返る その一三六

2019年04月27日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三一六 今週のみそひと歌を振り返る その一三六

 今週はやっと巻十四 東歌を終えて、巻十五 遣新羅使歌へと入っていきます。
 最初に巻十五 遣新羅使歌を鑑賞する上で弊ブログの立場を紹介します。弊ブログではこの遣新羅使歌はただ一回の遣新羅使での歌を集めたのではなく、複数回のものを集め、編纂して出来上がったものとしています。そのため、歌の進行は遣新羅使と同じ方向・道程を辿りますが、一方、歌で詠われ季節感などの統一性はなく、乱れがあるとしています。さらに、遣新羅使が難波大津で新羅船のような大船で乗り出したのか、それとも瀬戸内海沿岸を行く中規模船で九州まで移動し、博多那津から大船で乗り出したのかは、都度の遣新羅使の状況によるとしますから、歌で詠う船中などの様子に統一性はないとしています。このような視点で万葉集の歌を鑑賞するのは素人が行う弊ブログぐらいですので、日々の鑑賞を眺められるとき、ご注意を願います。
 参考として遣新羅使の出発前後の様子を紹介しますと、巻十五の巻頭の歌である集歌3578の歌は播磨国の武庫の浦の情景から恋人との別れを詠います。一方、集歌3590の歌は出発前のわずかな時間を割いて、男は難波の御津から生駒山を越えて奈良の都の恋人に会いに行きます。加えて来週に鑑賞する歌ですが、集歌3593の歌では明確に難波の御津からずっと先の湊に向けて出港します。目と鼻の先の武庫の津ではありません。
 湊機能から難波の御津から大船で出航した場合、大船は兵庫県尼崎市にある武庫の浦に寄港することなく、瀬戸内海直航航路で穴門へ向かいます。一方、難波の御津から見て淀川の対岸となる武庫の浦に寄港するのは島や浦伝いに航行する瀬戸内海沿岸連絡航路で中型船や小型船です。この場合は、朝鮮海峡横断に際しては大宰府の那津で大船に乗り換える必要があります。参考として平安時代初期の延喜式にはこの二つの航路とその時の傭船費用が紹介されていますので、弊ブログはこの延喜式の規定を尊重し解釈に利用しています。
 このように歌を鑑賞しますと、さて、遣新羅使はどのような船に乗ったのか、また、その航路はどうだったのかと興味が湧きます。そして、その興味を追及しますと、この遣新羅使歌はただ一回の遣新羅使での歌を集めたのではないことが推測できることになります。

集歌 3578 武庫能浦乃 伊里江能渚鳥 羽具久毛流 伎美乎波奈礼弖 古非尓之奴倍之
訓読 武庫の浦の入江の渚鳥(すどり)羽(は)ぐくもる君を離(はな)れて恋に死ぬべし
私訳 武庫の浦の入江の渚に巣を作る渚鳥が雛を羽で隠すように、家に籠っている貴女から離れてしますと、恋しくて死んでしまうでしょう。

集歌 3590 伊毛尓安波受 安良婆須敝奈美 伊波祢布牟 伊故麻乃山乎 故延弖曽安我久流
訓読 妹に逢はずあらばすべなみ岩根(いはね)踏む生駒の山を越えてぞ吾(あ)が来る
私訳 貴女に逢えないのならどうしようもない。険しい岩道を踏み越える生駒山を越えて私が貴女の許へやって来る。

参考歌:来週に鑑賞する歌です
集歌 3593 大伴能 美津尓布奈能里 許藝出而者 伊都礼乃思麻尓 伊保里世武和礼
訓読 大伴の御津(みつ)に船乗り漕ぎ出(い)にはいづれの島に廬(いほ)りせむ吾(あ)れ
私訳 大伴の御津から船に乗り漕ぎ出して、次はどこにの島に停泊するのだろうか。我々は。

 次に季節感を見てみます。
 基本的に遣新羅使による使いは遣唐使のような年単位での旅程ではありません。新羅国の首都金城(現在の慶州市)は半島南東部に位置し、その距離からして1年以内の旅程です。そのため、旅の歌に四季を詠う場合でも、旅での支障を予定するような翌年の季節を詠うことはありません。それでは不吉であり、旅の無事を求める予祝にはなりません。
そうした時、集歌3581の歌や集歌3589の歌は出発前の別れの場面であり、歌が詠う季節は夏です。秋ではありません。
 では集歌3591の歌はどうでしょうか。出発直前か、出航直後です。まだ、途中の寄港地には至っていません。それなのに歌では「許呂母弖佐牟伎=衣手寒き」と詠います。いくら床を共にする恋人と別れて来たと云っても、夏の季節に「衣手寒き」と詠うでしょうか。それにただ一回の遣新羅使での歌を集めたしますと、このような季節感の無い頓珍漢な歌を採歌して載せる必要があったでしょうか。複数の遣新羅使での歌から色々と採歌するならば、季節感の統一には目をつぶったと思いますし、実際上、遣新羅使が毎回同じ月に出発なければ、季節感の統一は無理です。

集歌 3581 秋佐良婆 安比見牟毛能乎 奈尓之可母 奇里尓多都倍久 奈氣伎之麻佐牟
訓読 秋さらば相見むものを何しかも霧に立つべく嘆きしまさむ
私訳 秋になったらまた互いに逢うことが出来るのに、どうして霧が立ち込めるようなため息となる深い嘆きをなさるのですか。

集歌 3589 由布佐礼婆 比具良之伎奈久 伊故麻山 古延弖曽安我久流 伊毛我目乎保里
訓読 夕さればひぐらし来鳴く生駒山越えてぞ吾が来る妹が目を欲り
私訳 役所の仕事も終わり夕暮れになると、ひぐらしがやって来て鳴く生駒山を越えて私が貴女の許へやって来る。貴女に逢いたい一心で。

集歌 3591 妹等安里之 時者安礼杼毛 和可礼弖波 許呂母弖佐牟伎 母能尓曽安里家流
訓読 妹とありし時はあれども別れては衣手寒きものにぞありける
私訳 貴女と一緒にいたときは良かったけれど、貴女と離れては衣の袖が寒いことが感じられます。

 今回は、巻十五の最初に触れたものから地理関係や季節感の違和感について紹介しましたが、この巻十五に載る遣新羅使歌を標準解釈に従ってただ一回での旅路の歌としますと矛盾だらけになります。従来の鑑賞は歴代の遣新羅使の記録や往路復路の時期・季節感と云うものを真剣には捉えていない平安時代最末期から鎌倉時代に為された和歌としての鑑賞・解釈を、校本万葉集以降に遣新羅使の記録と結び付け天平八年の阿部継麻呂が大使だった時のものと決めつけた悲劇があります。
 背景として、一般書籍では目次に相当する、万葉集の目録には「天平八年丙子夏六月、遣新羅国之時、使人等各悲別贈答、及海路之上慟旅陳思作歌。并当所誦詠古歌」とありますから、この目録を信じれば、巻十五に載る遣新羅使歌は天平八年に為された遣新羅使に係る歌となり、その天平八年の遣新羅使の大使は阿部継麻呂ですから、何が問題なのかとなります。
 ところが、万葉集と云うものを書籍として研究した成果からしますと、万葉集の本文たる詩歌集と万葉集の目録とは直接には関係しない別々のものであり、目録は万葉集が成立した後に本文を書写する時に便宜的に付けられたのであろうと推定されています。つまり、巻十五本文の巻頭に載せられた標題「遣新羅使人等悲別贈答及海路慟情陳思并當所誦之古歌」は本来のものですが、目録の「天平八年丙子夏六月、遣新羅国之時、使人等各悲別贈答、及海路之上慟旅陳思作歌。并当所誦詠古歌」は後年に便宜的に付けられたものですから、目録のその文章自体が本文から検討・評価しなければいけないものとなっています。目録から本文の詩歌を鑑賞してはいけないのです。これは弊ブログ特有の主張ではなく、万葉集研究での共通した認識です。
 万葉集目録の研究では、本文の題詞をそのままに抜き出して目次としたのでは本文中に何が載せているかが明確にならないので、平安時代の早い時期に万葉集を研究した人や書写した人が本文案内のメモのようなものとして便宜的な目次(目録)を作り、それが慣習となったのではないかとします。そのため、各種の万葉集古本では本文の原歌表記以上に目録が不安定となっています。このため、目録は書写した人の万葉集読解水準の評価には使える可能性がありますが、目録から万葉集本文の研究には使えません。
 なお、万葉集本文と目録との関係に対する研究成果が広く世間に知られたのが、木下正俊氏の「万葉集論考」など以降のものとしますと印刷版校本万葉集が出版された後のこととなります。ご存知のように阿蘇瑞枝氏によって万葉集原歌表記に四種類の区分があることが再評価されたのも同時期です。およそ、万葉集の研究では昭和30年台後半から昭和40年台前半まで以前は、万葉集を原歌表記から研究することや古本表記を厳密研究することは流行っていませんでした。校本万葉集は明治期に成った研究であり、その出版は関東大震災の影響で延び、昭和期になって印字版が出版されました。このため新増補分を除きますと本体の本質は昭和初期までの万葉集の研究です。そのため新増補分を含めても昭和末期から平成期の研究が反映できていないものとなっています。
 他方、現在ではインターネットなどで巻十五 遣新羅使歌の研究論文を見ることが容易ですが、天平八年の阿部継麻呂を大使としたものと決めつけたものについては、このような目録の成立の背景や性格を失念したものであり、校本万葉集を過信したものとして微笑ましく受け止めてください。国費が投入された研究がネット上で公開される現在のルール下では、研究において校本万葉集とそこからの定訓を使うことは簡便ですが、それは近々の研究成果が反映していない40年以上も前となる古典ですので引用・使用には危険があります。
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