竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 百六八 「万葉集」の題に遊ぶ

2016年04月30日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百六八 「万葉集」の題に遊ぶ

 今回は「万葉集」と云う詩歌集の作品名称「万葉集」というものに注目して、馬鹿話を展開しています。当然、弊ブログの馬鹿話ですから、専門家からしますと、内容は無知無養の夜郎自大が為すほら話以下の代物です。今回もそのような代物であることを踏まえて、ご入場下さい。

 さて、インターネットで遊んでいますと、「万葉集について」と云うHPに次のような文章を見つけました。

[新日本古典文学大系 万葉集一](参考文献3)の冒頭に以下の記述がある。
鎌倉時代の仙覚は、「万葉」を「ヨロズノコトノハ」(万葉集仮名序)とした(仙覚「万葉集注釈」)
契沖は、「仙覚の説をさらに詳細に述べ」「此の集万世マデモ伝ハリネト祝テ名ヅケタルカ」(契沖「万葉代匠記」[精選本])と説いた。
参考資料3では、以下のように結論している。
「何何集」とは、「何何」を「集」める書物という意味である。したがって、「万葉集」は、「万葉」を「集」めたものである。「万葉」を「万世(よろづのよ)」という契沖の説は、明確に否定されるべき。ただし、「万葉」を「万世」と理解し、「万世の作品」を含意するものとした上で、万世の古(いにしえ)より伝わった歌を集めるもの、あるいは、永遠に伝わるべき不朽の名作を集めるものという解釈が、なお可能である。
ここでは、「万葉」は「よろづのことのは」と「よろづのよ」を掛けて、両方の意味を持たせて使われていると理解する。
さらに、「よろづのよ」には「万葉集」編纂以前の時代をも含み、「万葉集」は「後世を含め、身分を問わず、あらゆる時代のすぐれた歌を集め、「倭(やまと)の精神遺産」の記録としての歌集」との意味と希望をも持たせたものと理解したい。


 また、紹介しました解説に現れる「ヨロズノコトノハ」と云うものと似た文章として『古今和歌集』に付けられた仮名序には「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」と云う冒頭文節があります。
 他方、インターネット質問ページの「知恵袋」には寄せられた「万葉集」と云う題名の由来に対する質問に対して、次のような回答が寄せられています。

トンデモ回答があったので補足します。 「よろづの言の葉」の集、という解釈は、江戸時代の国学者たちが唱えた説ですが、現代の研究では否定されています。これは、どんな初心者向きの解説書にも書かれていることです。

 この「補足します」と云う説明の由来は、先の「『何何集』とは、『何何』を『集』める書物という意味である。したがって、『万葉集』は、『万葉』を『集』めたものである。『万葉』を『万世(よろづのよ)』という契沖の説は、明確に否定されるべき」と云う解説を下敷きにしていると推定されます。ただし、「補足します」と云う説明の由来をこのような文章を根拠にしているのですと、文学や和歌の研究には遠い人の解説ではないでしょうか。「万葉集について」と云うHPでの解説の後半にありますように和歌を主体とした発想では「葉」には「世」の意味合いを含ませているという日本語での可能性は否定できませんから、「トンデモ回答があったので補足します」と云うのは、少し、片手落ちの贔屓批評と云う可能性が残ります。また、当時の日本では『日本後記』の延暦十六年(七九七)二月己巳の条に「庶飛英騰茂。與二儀而垂風。彰善癉惡。傳萬葉而作鑒。(庶はくは、英を飛ばし茂を騰げ、二儀とともに風を垂れ、善を彰し悪を癉ましめ、萬葉に伝へて鏨となさむことを。)」と云う文章があり、ここでは「萬葉」の「葉」は「萬世」の「世」を意味しています。およそ、「契沖の説は明確に否定されるべき」と云う論を建てた人は、このような奈良時代から平安時代での慣用的な用法を見落としていたのかもしれません。また、平安時代平城天皇へ斎部廣成が奉じた『古語拾遺』にも「萬葉」と云う言葉が使われ、「葉」は「萬世」の「世」を意味しています。明治から昭和初期の人の想像とは違い、奈良時代において「葉」と云う言葉が紙面を一葉、二葉と数えるだけではないのです。
 それに「契沖の説は明確に否定されるべき」と云うものにおいて、厳密に「『万葉集』と云う題名は漢文章の思想で得られたものであって、和文章としての思想は無い」と決めつけることは出来ません。もし、日本語と云うベースを下にした時、和歌特有の掛詞的な発想を否定するのはどうでしょうか。なお、『万葉集』は古代韓国語で記述された詩歌集であると云う立場では、「万葉集」と云うものは漢語的であるべきですので、「万葉集」は、「万葉」を「集」めたものである。と云う論議にならなければいけません。ただ、弊ブログでは『万葉集』と云う作品は大和言葉で詠われた歌を漢語と万葉仮名と云う漢字文字だけで記した作品としていて、古代韓国語による作品とは認めていません。
 当然、一般教養を受講する大学生的には「万葉集の時代には、まだ、掛詞や縁語などを駆使した技巧的な歌は無く、それらは『古今和歌集』の時代になって誕生した」と云う古い時代の噂話からそのように思い込むでしょうから、専門課程で学ぶ大学生とは違い『万葉集』と云う作品の題名自体に掛詞の思想を導入することは難しいかもしれません。

万葉集での掛詞の用法例:
<例一>
紀女郎贈大伴宿祢家持謌二首  女郎名曰小鹿也
標訓 紀女郎(きのいらつめ)の大伴宿祢家持に贈れる謌二首  女郎(いらつめ)の名を曰はく小鹿なり
集歌762 神左夫跡 不欲者不有 八也多八 如是為而後二 佐夫之家牟可聞
訓読 神さぶと否(いな)にはあらね早(はや)多(さは)は如(か)くして後(のち)に寂(さぶ)しけむかも
私訳 歳を経て年老いたと拒むのではありません。既にそのような歳だからと、そんな理由で恋を拒むとしたら後で悔いが残るでしょう。
別訳 神の社がすっかり古びてしまったと嫌がるのではありません。ただ、それでもこのような古びた社の姿では、これらは残念だと思うでしょう。
注意 原文の「八也多八」を、現在は一般には「八多也八多」と創作して鑑賞します。

大伴宿祢家持和謌一首
標訓 大伴宿祢家持の和(こた)へたる謌一首
集歌764 百年尓 老舌出而 与余牟友 吾者不厭 戀者益友
訓読 百年(ももとし)に老舌(おひした)出(い)でてよよむとも吾は厭(い)とはじ恋ひは益(ま)すとも
私訳 百歳になり年老い口を開けたままで舌を出しよぼよぼになっても、私は嫌がることはありません。恋心が増しても。
別訓 百年(ももとし)に老羊歯(おひしだ)出(い)でてよよむとも吾は厭(い)とはじ恋ひは益(ま)すとも
別訳 その神の社で百年もの歳月を経た古い羊歯が鬱蒼と茂り、その葉をたわませていても、それを古びたとは思いません。反って、ふさわしいとの思いは増しても。

<例二>
集歌4128 久佐麻久良 多比能於伎奈等 於母保之天 波里曽多麻敝流 奴波牟物能毛賀
訓読 草枕旅の翁(おきな)と思ほして針ぞ賜へる縫はむものもが
私訳 草を枕とする苦しい旅を行く老人と思われて、針を下さった。何か、縫うものがあればよいのだが。
試訓 草枕旅の置き女(な)と思ほして榛(はり)ぞ賜へる寝(ぬ)はむ者もが
試訳 草を枕とする苦しい旅を行く宿に置く遊女と思われて、榛染めした新しい衣を頂いた。私と共寝をしたい人なのでしょう。

集歌4129 芳理夫久路 等利安宜麻敝尓 於吉可邊佐倍波 於能等母於能夜 宇良毛都藝多利
訓読 針袋(はりふくろ)取り上げ前に置き反さへばおのともおのや裏も継ぎたり
私訳 針の入った袋を取り出し前に置いて裏反してみると、なんとまあ、中まで縫ってある。
試訓 針袋取り上げ前に置き返さへば己友(おのとも)己(おの)や心(うら)も継ぎたり
試訳 針の入った袋を取り出し前に置いて、お礼をすれば、友と自分との気持ちも継ぎます。

 このように『万葉集』に掛詞技法の歌を探せば、相当数を見つけることも出来ます。さらに困ったことに『古今和歌集』以降の歌とは違い、『万葉集』では掛詞技法を使ったもので表の歌と裏の歌で相聞問答を行うような高度な作業をしています。漢語と万葉仮名と云う漢字文字だけによる表記方法にこのような技法を織り込んでいますから、鎌倉からの「伝承」やそれを前提とした「先達の論文」などに縛られますと、色眼鏡なく原歌からそれを楽しむという行為は一般的な社会人でなければ難しいのかもしれません。それで「トンデモ回答があったので補足します」と云うような発想に辿り着くのでしょう。

 さて、話題を変えまして、先に少し紹介しましたが、平安時代初期に和風を好まれた平城天皇は斎部廣成が奉じた『古語拾遺』で「流万葉之英風、興廢繼絶、補千載之闕典(万葉の英風を流し、廢を興し絶を繼ぎ、千載の闕典を補ふ)」と賞されています。
 万葉集の編纂の歴史では平城天皇はキーとなる人物で、万葉集編纂の論議の中で「古今集では、清和天皇の問いに文屋有季が答えた歌(古今歌番997)と仮名序ならびに真名序とにおいて、都合3度も、万葉集は平城天皇の時代に成立したと明言しています。」と云うものがあります。これを説明するものとして、折口信夫の『万葉集のなり立ち』では「万葉編纂の時代と、其為事に与つた人とに就ては、いろ/\の説がある。併し、其拠り処となつてゐる第一の有力な証拠は、唯万葉集自身と、古今集の仮名・漢字二様の序があるばかりである。仮名序に拠ると、『万葉集』の出来たのは奈良の宮の御代で醍醐天皇から十代前、年数は百年余以前、といふことになる。起算点を醍醐天皇に置くと、平城天皇の時世となつて、其御代始めの大同元年まで、かつきり百年になる。」と記しています。また、『古今和歌集』の真名序に「昔、平城天子、詔侍臣令撰万葉集。自爾来、時歴十代、数過百年」と記すのは有名な話題です。
 一方、『源氏物語』 の梅枝の章 に現れる「嵯峨の帝の、古万葉集をえらび書かせ給へる四巻」 という物語からしますと平城天皇とその次の嵯峨天皇の時代までには何らかの大部の万葉集が存在し、そこから秀歌を選択して成った四巻本の万葉集が存在していたと思われます。さらに『新撰萬葉集』の上巻序には「夫萬葉集者、古歌之流也。・・・中略・・・。於是奉綸、綍鎍綜緝之外、更在人口、盡以撰集、成數十卷。裝其要妙、韞匱待價」とあります。この「奉綸」の主語が気になる処ですが、『新撰萬葉集』からは明確に知ることはできません。ただし、同序の「文句錯亂、非詩非賦、字對雜揉、雖入難悟。所謂仰彌高、鑽彌堅者乎。然而、有意者進、無智者退而已。」と云う文章からしますと、万葉集の歌が詠われ、記録されていた時代の天皇ではありません。歌を記録した時代の人々はその表記で歌が読めていたはずですから「雖入難悟」ではありません。つまり、宇多天皇・醍醐天皇の時代から見て「古」の天皇ですが、万葉集の中で一番時代が若いとされる大伴家持が詠う天平寶字三年正月の歌からしまして孝謙天皇からは後の天皇となります。これらのものから一般には『新撰萬葉集』に云う「數十卷の万葉集」を「奉綸」した相手の最有力候補は平城天皇と類推します。(参考として、この論法からしますと、二十巻万葉集は平城天皇の時代にはなく、古今和歌集成立の前に成ったと考えられます。ここから人によっては二十巻万葉集と云う作品は宇多天皇・醍醐天皇の時代に再編纂されて成ったものと考えます。)
 こうした時、『古語拾遺』での平城天皇の業績である「興廢繼絶」の「廢」と「絶」とは何かが気にかかります。これは真名序での「思継既絶之風、欲興久廃之道」と同じものを示しているのでしょうか。もし、そうであれば平城天皇も醍醐天皇も、共に漢風の方向に対して和風の風を吹かせた人となります。対比において、平城天皇は先の時代である平城京時代の和歌を類聚し、醍醐天皇は平安時代初期の和歌を類聚したことになります。そして、その平城天皇の時代には斎部廣成が「流万葉之英風」と記述するように「万葉」と云う言葉が世に存在していたことになります。
 なお、二十巻本万葉集の中心的な編纂者に大伴家持を推定する人もいるようですが、もし、そのような人が大伴家持の立場であったなら、「どのように万葉集を編纂するか」と云う命題において、巻十七から巻二十までの四巻の編纂結果をどのように評価するのでしょうか。自分でしたらちょっと気恥ずかしい気分と文学での無能さを痛恨することになると思います。そして、あれは無かったのもとして、もう一度やり直させて下さいと懇願すると思います。巻一から巻七、また、巻八から巻十六とは違い、後半部四巻はその程度の編纂でしかありません。時に歌日記をそのまま抜粋したのではないかと評され、後半部四巻は編纂したのか、どうか不明とも評される詩歌集の編纂においてトンデモな代物です。


 以上、簡単に「万葉集の題」に遊びました。この遊びから類推できますように、もし、『万葉集』の参考書に「古典文学大系」や「古典文学全集」を今でも挙げる人がいましたら、それに対しては『万葉集』の解釈の歴史において、「そのような解釈も存在した」と云うような古典書籍を扱うような態度で臨むのが良いのではないでしょうか。残念ながらそれらの「大系本」や「全集本」は、現代の万葉集歌鑑賞での原歌表記を尊重して歌を解釈すべきと云うものとは、立場が違い、それゆえにすでに時代において遅れたものとなっています。伝統や伝承、また、師弟関係や歌道と云う人事は重要と思いますが、それはそれで科学的な学問研究とは違う方向です。
 『古語拾遺』や『日本後記』など文学とは違う方向から「萬葉」と云う言葉はその時代において「万世」や「万世に及ぶ」を意味するような常用的な言葉であったとか、『新撰萬葉集』の序文の漢文章から酔論を述べるのは、確かに万葉学からしれば場違いな「トンデモ論」です。ただ、学際を越えた総合的な検討に耐えないものは、逆に「〇〇学会」と云う同好会サークルでの仲間内の馬鹿話にしかなりません。

 今回も場違いな酔論・暴論でした。申し訳ありません。
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今日の古今 みそひと歌 金

2016年04月29日 | 古今 みそひと歌
今日の古今 みそひと歌 金

比叡に登りて帰りまうで来てよめる 貫之
歌番八七 
原歌 やまたかみみつつわかこしさくらはなかせはこころにまかすへらなり
標準 山たかみみつつわがこしさくら花風は心にまかすべらなり
解釈 山高み見つつ我が来し桜花風は心にまかすべらなり
注意 「こころにまかす」と云う言葉の解釈が難しい歌です。「まかす」は「任かす」と解釈しますが、主語は誰でしょうか。標準では主語は「風」として「風がその想いのままに吹かせ花を散らせるだろう」とします。ただし、主語を貫之自身としますと、今、比叡の寺に参拝の為に登り、その道中で見てきた桜は、きっと、風がその花を散らすだろうなと云う自分の思いに任せ、それを惜しいとか、残念と云う雑念を払うと云うような解釈も成り立ちます。その時、詞書の「まうで来て」と云うものが利いてきます。もし、主語が貫之自身でしたら現実にはまだ花散らしの風は吹いていないことになります。

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今日の古今 みそひと歌 木

2016年04月28日 | 古今 みそひと歌
今日の古今 みそひと歌 木

桜の散るをよめる 凡河内躬恒
歌番八六 
原歌 ゆきとのみふるたにあるをさくらはないかにちれとかかせのふくらむ
標準 雪とのみふるだにあるをさくら花いかにちれとか風の吹くらむ
解釈 雪とのみ降るだにあるを桜花いかに散れとか風の吹くらむ
注意 平安時代のお約束である「桜の散るさまを雪の降るさまに見立てた」ものです。そのお約束を、大げさに詠うとこのような歌になるのでしょう。その分、歌の受け手には優しい歌となります。初句を「雪」と「逝き」との掛詞とみるかは好みです。掛詞なら「逝き」、「降る」、「散れ」、「吹く」との言葉遊びもあるかもしれません。参考に「雪」と「降る」、「桜」と「散れ」、「風」と「吹く」との三つの言葉の組み合わせが一つの歌の中にあると面白がることもあります。

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今日の古今 みそひと歌 水

2016年04月27日 | 古今 みそひと歌
今日の古今 みそひと歌 水

春宮帯刀陣にて桜の花の散るをよめる 藤原好風
歌番八五 
原歌 はるかせははなのあたりをよきてふけこころつからやうつろふとみむ
標準 春風は花のあたりをよぎてふけ心づからやうつろふと見む
解釈 春風は花のあたりを避きて吹け心づからや移ろふと見む
注意 詞書の「春宮帯刀陣にて」とは春宮坊の帯刀舎人が詰めた陣所(詰所)を意味します。藤原好風には寛平十年(898)に左兵衛少尉。延喜十一年(911)に従五位下出羽介との記録があるようです。歌は藤原好風の舎人時代の歌でしょうか。なお、歌の「心づからや」は「自分の心の内からは」と云うような意味合いでしょうか。鑑賞は歌のままにします。

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今日の古今 みそひと歌 火

2016年04月26日 | 古今 みそひと歌
今日の古今 みそひと歌 火

桜の花の散るをよめる 紀友則
歌番八四 
原歌 ひさかたのひかりのとけきはるのひにしつこころなくはなのちるらむ
標準 久方のひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ
解釈 久方の光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ
注意 百人一首にも採られている有名な歌です。鑑賞は歌のままにします。ただ、為にする議論を提供しますと、二句目「ひかりのとけき」は標準には「光長閑けき」と解釈しますが、「光+の+とけき」と云う言葉の組み合わせとも解釈が可能です。冬から春となり、日の日差しがだんだんと強くなって、周囲を温もらせているとも解釈が可能です。実に為にする話です。

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