竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 百六八 「万葉集」の題に遊ぶ

2016年04月30日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百六八 「万葉集」の題に遊ぶ

 今回は「万葉集」と云う詩歌集の作品名称「万葉集」というものに注目して、馬鹿話を展開しています。当然、弊ブログの馬鹿話ですから、専門家からしますと、内容は無知無養の夜郎自大が為すほら話以下の代物です。今回もそのような代物であることを踏まえて、ご入場下さい。

 さて、インターネットで遊んでいますと、「万葉集について」と云うHPに次のような文章を見つけました。

[新日本古典文学大系 万葉集一](参考文献3)の冒頭に以下の記述がある。
鎌倉時代の仙覚は、「万葉」を「ヨロズノコトノハ」(万葉集仮名序)とした(仙覚「万葉集注釈」)
契沖は、「仙覚の説をさらに詳細に述べ」「此の集万世マデモ伝ハリネト祝テ名ヅケタルカ」(契沖「万葉代匠記」[精選本])と説いた。
参考資料3では、以下のように結論している。
「何何集」とは、「何何」を「集」める書物という意味である。したがって、「万葉集」は、「万葉」を「集」めたものである。「万葉」を「万世(よろづのよ)」という契沖の説は、明確に否定されるべき。ただし、「万葉」を「万世」と理解し、「万世の作品」を含意するものとした上で、万世の古(いにしえ)より伝わった歌を集めるもの、あるいは、永遠に伝わるべき不朽の名作を集めるものという解釈が、なお可能である。
ここでは、「万葉」は「よろづのことのは」と「よろづのよ」を掛けて、両方の意味を持たせて使われていると理解する。
さらに、「よろづのよ」には「万葉集」編纂以前の時代をも含み、「万葉集」は「後世を含め、身分を問わず、あらゆる時代のすぐれた歌を集め、「倭(やまと)の精神遺産」の記録としての歌集」との意味と希望をも持たせたものと理解したい。


 また、紹介しました解説に現れる「ヨロズノコトノハ」と云うものと似た文章として『古今和歌集』に付けられた仮名序には「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」と云う冒頭文節があります。
 他方、インターネット質問ページの「知恵袋」には寄せられた「万葉集」と云う題名の由来に対する質問に対して、次のような回答が寄せられています。

トンデモ回答があったので補足します。 「よろづの言の葉」の集、という解釈は、江戸時代の国学者たちが唱えた説ですが、現代の研究では否定されています。これは、どんな初心者向きの解説書にも書かれていることです。

 この「補足します」と云う説明の由来は、先の「『何何集』とは、『何何』を『集』める書物という意味である。したがって、『万葉集』は、『万葉』を『集』めたものである。『万葉』を『万世(よろづのよ)』という契沖の説は、明確に否定されるべき」と云う解説を下敷きにしていると推定されます。ただし、「補足します」と云う説明の由来をこのような文章を根拠にしているのですと、文学や和歌の研究には遠い人の解説ではないでしょうか。「万葉集について」と云うHPでの解説の後半にありますように和歌を主体とした発想では「葉」には「世」の意味合いを含ませているという日本語での可能性は否定できませんから、「トンデモ回答があったので補足します」と云うのは、少し、片手落ちの贔屓批評と云う可能性が残ります。また、当時の日本では『日本後記』の延暦十六年(七九七)二月己巳の条に「庶飛英騰茂。與二儀而垂風。彰善癉惡。傳萬葉而作鑒。(庶はくは、英を飛ばし茂を騰げ、二儀とともに風を垂れ、善を彰し悪を癉ましめ、萬葉に伝へて鏨となさむことを。)」と云う文章があり、ここでは「萬葉」の「葉」は「萬世」の「世」を意味しています。およそ、「契沖の説は明確に否定されるべき」と云う論を建てた人は、このような奈良時代から平安時代での慣用的な用法を見落としていたのかもしれません。また、平安時代平城天皇へ斎部廣成が奉じた『古語拾遺』にも「萬葉」と云う言葉が使われ、「葉」は「萬世」の「世」を意味しています。明治から昭和初期の人の想像とは違い、奈良時代において「葉」と云う言葉が紙面を一葉、二葉と数えるだけではないのです。
 それに「契沖の説は明確に否定されるべき」と云うものにおいて、厳密に「『万葉集』と云う題名は漢文章の思想で得られたものであって、和文章としての思想は無い」と決めつけることは出来ません。もし、日本語と云うベースを下にした時、和歌特有の掛詞的な発想を否定するのはどうでしょうか。なお、『万葉集』は古代韓国語で記述された詩歌集であると云う立場では、「万葉集」と云うものは漢語的であるべきですので、「万葉集」は、「万葉」を「集」めたものである。と云う論議にならなければいけません。ただ、弊ブログでは『万葉集』と云う作品は大和言葉で詠われた歌を漢語と万葉仮名と云う漢字文字だけで記した作品としていて、古代韓国語による作品とは認めていません。
 当然、一般教養を受講する大学生的には「万葉集の時代には、まだ、掛詞や縁語などを駆使した技巧的な歌は無く、それらは『古今和歌集』の時代になって誕生した」と云う古い時代の噂話からそのように思い込むでしょうから、専門課程で学ぶ大学生とは違い『万葉集』と云う作品の題名自体に掛詞の思想を導入することは難しいかもしれません。

万葉集での掛詞の用法例:
<例一>
紀女郎贈大伴宿祢家持謌二首  女郎名曰小鹿也
標訓 紀女郎(きのいらつめ)の大伴宿祢家持に贈れる謌二首  女郎(いらつめ)の名を曰はく小鹿なり
集歌762 神左夫跡 不欲者不有 八也多八 如是為而後二 佐夫之家牟可聞
訓読 神さぶと否(いな)にはあらね早(はや)多(さは)は如(か)くして後(のち)に寂(さぶ)しけむかも
私訳 歳を経て年老いたと拒むのではありません。既にそのような歳だからと、そんな理由で恋を拒むとしたら後で悔いが残るでしょう。
別訳 神の社がすっかり古びてしまったと嫌がるのではありません。ただ、それでもこのような古びた社の姿では、これらは残念だと思うでしょう。
注意 原文の「八也多八」を、現在は一般には「八多也八多」と創作して鑑賞します。

大伴宿祢家持和謌一首
標訓 大伴宿祢家持の和(こた)へたる謌一首
集歌764 百年尓 老舌出而 与余牟友 吾者不厭 戀者益友
訓読 百年(ももとし)に老舌(おひした)出(い)でてよよむとも吾は厭(い)とはじ恋ひは益(ま)すとも
私訳 百歳になり年老い口を開けたままで舌を出しよぼよぼになっても、私は嫌がることはありません。恋心が増しても。
別訓 百年(ももとし)に老羊歯(おひしだ)出(い)でてよよむとも吾は厭(い)とはじ恋ひは益(ま)すとも
別訳 その神の社で百年もの歳月を経た古い羊歯が鬱蒼と茂り、その葉をたわませていても、それを古びたとは思いません。反って、ふさわしいとの思いは増しても。

<例二>
集歌4128 久佐麻久良 多比能於伎奈等 於母保之天 波里曽多麻敝流 奴波牟物能毛賀
訓読 草枕旅の翁(おきな)と思ほして針ぞ賜へる縫はむものもが
私訳 草を枕とする苦しい旅を行く老人と思われて、針を下さった。何か、縫うものがあればよいのだが。
試訓 草枕旅の置き女(な)と思ほして榛(はり)ぞ賜へる寝(ぬ)はむ者もが
試訳 草を枕とする苦しい旅を行く宿に置く遊女と思われて、榛染めした新しい衣を頂いた。私と共寝をしたい人なのでしょう。

集歌4129 芳理夫久路 等利安宜麻敝尓 於吉可邊佐倍波 於能等母於能夜 宇良毛都藝多利
訓読 針袋(はりふくろ)取り上げ前に置き反さへばおのともおのや裏も継ぎたり
私訳 針の入った袋を取り出し前に置いて裏反してみると、なんとまあ、中まで縫ってある。
試訓 針袋取り上げ前に置き返さへば己友(おのとも)己(おの)や心(うら)も継ぎたり
試訳 針の入った袋を取り出し前に置いて、お礼をすれば、友と自分との気持ちも継ぎます。

 このように『万葉集』に掛詞技法の歌を探せば、相当数を見つけることも出来ます。さらに困ったことに『古今和歌集』以降の歌とは違い、『万葉集』では掛詞技法を使ったもので表の歌と裏の歌で相聞問答を行うような高度な作業をしています。漢語と万葉仮名と云う漢字文字だけによる表記方法にこのような技法を織り込んでいますから、鎌倉からの「伝承」やそれを前提とした「先達の論文」などに縛られますと、色眼鏡なく原歌からそれを楽しむという行為は一般的な社会人でなければ難しいのかもしれません。それで「トンデモ回答があったので補足します」と云うような発想に辿り着くのでしょう。

 さて、話題を変えまして、先に少し紹介しましたが、平安時代初期に和風を好まれた平城天皇は斎部廣成が奉じた『古語拾遺』で「流万葉之英風、興廢繼絶、補千載之闕典(万葉の英風を流し、廢を興し絶を繼ぎ、千載の闕典を補ふ)」と賞されています。
 万葉集の編纂の歴史では平城天皇はキーとなる人物で、万葉集編纂の論議の中で「古今集では、清和天皇の問いに文屋有季が答えた歌(古今歌番997)と仮名序ならびに真名序とにおいて、都合3度も、万葉集は平城天皇の時代に成立したと明言しています。」と云うものがあります。これを説明するものとして、折口信夫の『万葉集のなり立ち』では「万葉編纂の時代と、其為事に与つた人とに就ては、いろ/\の説がある。併し、其拠り処となつてゐる第一の有力な証拠は、唯万葉集自身と、古今集の仮名・漢字二様の序があるばかりである。仮名序に拠ると、『万葉集』の出来たのは奈良の宮の御代で醍醐天皇から十代前、年数は百年余以前、といふことになる。起算点を醍醐天皇に置くと、平城天皇の時世となつて、其御代始めの大同元年まで、かつきり百年になる。」と記しています。また、『古今和歌集』の真名序に「昔、平城天子、詔侍臣令撰万葉集。自爾来、時歴十代、数過百年」と記すのは有名な話題です。
 一方、『源氏物語』 の梅枝の章 に現れる「嵯峨の帝の、古万葉集をえらび書かせ給へる四巻」 という物語からしますと平城天皇とその次の嵯峨天皇の時代までには何らかの大部の万葉集が存在し、そこから秀歌を選択して成った四巻本の万葉集が存在していたと思われます。さらに『新撰萬葉集』の上巻序には「夫萬葉集者、古歌之流也。・・・中略・・・。於是奉綸、綍鎍綜緝之外、更在人口、盡以撰集、成數十卷。裝其要妙、韞匱待價」とあります。この「奉綸」の主語が気になる処ですが、『新撰萬葉集』からは明確に知ることはできません。ただし、同序の「文句錯亂、非詩非賦、字對雜揉、雖入難悟。所謂仰彌高、鑽彌堅者乎。然而、有意者進、無智者退而已。」と云う文章からしますと、万葉集の歌が詠われ、記録されていた時代の天皇ではありません。歌を記録した時代の人々はその表記で歌が読めていたはずですから「雖入難悟」ではありません。つまり、宇多天皇・醍醐天皇の時代から見て「古」の天皇ですが、万葉集の中で一番時代が若いとされる大伴家持が詠う天平寶字三年正月の歌からしまして孝謙天皇からは後の天皇となります。これらのものから一般には『新撰萬葉集』に云う「數十卷の万葉集」を「奉綸」した相手の最有力候補は平城天皇と類推します。(参考として、この論法からしますと、二十巻万葉集は平城天皇の時代にはなく、古今和歌集成立の前に成ったと考えられます。ここから人によっては二十巻万葉集と云う作品は宇多天皇・醍醐天皇の時代に再編纂されて成ったものと考えます。)
 こうした時、『古語拾遺』での平城天皇の業績である「興廢繼絶」の「廢」と「絶」とは何かが気にかかります。これは真名序での「思継既絶之風、欲興久廃之道」と同じものを示しているのでしょうか。もし、そうであれば平城天皇も醍醐天皇も、共に漢風の方向に対して和風の風を吹かせた人となります。対比において、平城天皇は先の時代である平城京時代の和歌を類聚し、醍醐天皇は平安時代初期の和歌を類聚したことになります。そして、その平城天皇の時代には斎部廣成が「流万葉之英風」と記述するように「万葉」と云う言葉が世に存在していたことになります。
 なお、二十巻本万葉集の中心的な編纂者に大伴家持を推定する人もいるようですが、もし、そのような人が大伴家持の立場であったなら、「どのように万葉集を編纂するか」と云う命題において、巻十七から巻二十までの四巻の編纂結果をどのように評価するのでしょうか。自分でしたらちょっと気恥ずかしい気分と文学での無能さを痛恨することになると思います。そして、あれは無かったのもとして、もう一度やり直させて下さいと懇願すると思います。巻一から巻七、また、巻八から巻十六とは違い、後半部四巻はその程度の編纂でしかありません。時に歌日記をそのまま抜粋したのではないかと評され、後半部四巻は編纂したのか、どうか不明とも評される詩歌集の編纂においてトンデモな代物です。


 以上、簡単に「万葉集の題」に遊びました。この遊びから類推できますように、もし、『万葉集』の参考書に「古典文学大系」や「古典文学全集」を今でも挙げる人がいましたら、それに対しては『万葉集』の解釈の歴史において、「そのような解釈も存在した」と云うような古典書籍を扱うような態度で臨むのが良いのではないでしょうか。残念ながらそれらの「大系本」や「全集本」は、現代の万葉集歌鑑賞での原歌表記を尊重して歌を解釈すべきと云うものとは、立場が違い、それゆえにすでに時代において遅れたものとなっています。伝統や伝承、また、師弟関係や歌道と云う人事は重要と思いますが、それはそれで科学的な学問研究とは違う方向です。
 『古語拾遺』や『日本後記』など文学とは違う方向から「萬葉」と云う言葉はその時代において「万世」や「万世に及ぶ」を意味するような常用的な言葉であったとか、『新撰萬葉集』の序文の漢文章から酔論を述べるのは、確かに万葉学からしれば場違いな「トンデモ論」です。ただ、学際を越えた総合的な検討に耐えないものは、逆に「〇〇学会」と云う同好会サークルでの仲間内の馬鹿話にしかなりません。

 今回も場違いな酔論・暴論でした。申し訳ありません。
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万葉雑記 色眼鏡 百六七 維摩講の歌

2016年04月23日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百六七 維摩講の歌

 一度、「仏教と性の馬鹿話」で万葉時代での社会と仏教の関係、その仏教の万葉集への影響について遊びました。今回は直接に仏教に関わる歌で遊びます。その直接に仏教と関わるとして万葉集を探しますと、維摩経に関係する歌があります。それが巻八に載る集歌1594の歌です。今回はこの歌に注目し、その周辺を遊んでみたいと思います。
 次に紹介する集歌1594の歌は万葉集に掲載する順からしますと、天平十一年冬十月に催された維摩講で詠われた歌となります。

佛前唱謌一首
標訓 佛の前で唱(うた)ひたる謌一首
集歌1594 思具礼能雨 無間莫零 紅尓 丹保敝流山之 落巻惜毛
訓読 時雨(しぐれ)の雨間(ま)なくな降りそ紅(くれなゐ)に色付(にほへ)る山し落(ち)りまく惜しも
私訳 時雨の雨よ、絶え間なく降るでない。雨に打たれて、紅に染まる山の紅葉が散るのが惜しい。
右、冬十月皇后宮之維摩講、終日供養大唐高麗等種々音樂、尓乃唱此歌詞。弾琴者市原王、忍坂王(後賜姓大原真人赤麻呂也) 歌子者田口朝臣家守、河邊朝臣東人、置始連長谷等十數人也。
注訓 右は、冬十月の皇后宮(きさきのみや)の維摩講に、終日(ひねもす)大唐・高麗等の種々(くさぐさ)の音樂を供養し、尓(しかるのち)の此の歌詞(うた)を唱(うた)ふ。弾琴(ことひき)は市原王(いちはらのおほきみ)、忍坂王(おさかのおほきみ)(後に姓(かばね)、大原真人赤麻呂を賜へり) 歌子(うたひと)は田口朝臣家守、河邊朝臣東人、置始連(おきそめのむらじ)長谷(はつせ)等(たち)の十數人なり。


 ここで、集歌1594の歌の標題に使われる「佛」と云う漢字文字に注目しますと、万葉集ではその「佛」と云う文字に関係する作品が全部で五作品あります。逆に四千五百首ほどの作品を集めた詩集であっても特定の「佛」と云う文字に注目すると五作品しかないとも指摘できます。この背景から表面上の表記だけに注目しますと「万葉集には仏教の影響がみられない」と云う前近代の論評の論拠の一つとなります。
 先に「佛と云う文字に関係する作品は五作品」と紹介し、「五首」と紹介しなかったのには理由があります。実はその内の二作品は山上憶良の漢詩文(「沈痾自哀文」と「悲歎俗道、假合即離、易去難留詩」)に含まれるもので和歌の作品ではありません。他方、残りの三作品は和歌ですので三首として数えることが出来るものです。その和歌としては、すでに紹介した集歌1594の歌と次に紹介する巻十六に載る集歌3841の歌、集歌3849の歌及び集歌3850の歌となります。このように仏教と云うものが身近であった奈良時代を代表する文学作品である万葉集としては載せる「佛」と云う文字関連の作品は非常に少ないものとなっています。

<参考資料一>
大神朝臣奥守報嗤謌一首
標訓 大神朝臣奥守の報(こた)へて嗤(わら)ひたる謌一首
集歌3841 佛造 真朱不足者 水渟 池田乃阿曽我 鼻上乎穿礼
表歌
訓読 仏造る真朱(まそ)足らずは水渟(た)まる池田の崖(あそ)が鼻の上(うへ)を穿(ほ)れ
私訳 仏を造る真っ赤な真朱が足りないのなら、水が溜まる池田の崖のその先の上を掘れ。
裏歌
訓読 仏造る真朱(まそ)足らずは水渟(た)まる池田の朝臣(あそ)が鼻の上(うへ)を穿(ほ)れ
私訳 仏を造る真っ赤な真朱が足りないのなら、鼻水が溜まる池田の朝臣のその鼻の上を掘れ。

<参考資料二>
厭世間無常謌二首
標訓 世間(よのなか)を厭(いと)ひ、常(つね)無き謌二首
集歌3849 生死之 二海乎 厭見 潮干乃山乎 之努比鶴鴨
訓読 生き死にし、二つの海を厭(いと)はしみ潮干(しほひ)の山を偲ひつるかも
私訳 生まれ、死ぬ。この二つの人の定めの世界を厭わしく想い、海の水が引ききって再び潮が満ちる、そのような絶え間ない変化の世界から不動の山を慕ってしまう。

集歌3850 世間之 繁借廬尓 住々而 将至國之 多附不知聞
訓読 世間(よのなか)し繁き仮廬(かりほ)に住み住みに至らむ国したづき知らずも
私訳 この世の煩わしい仮の人生に住み暮らしていても、やがて訪れるであろう死して旅行く国の、そこでの暮らしぶりすら知ってはいない。
右謌二首、河原寺之佛堂裏在倭琴面之
注訓 右の謌二首は、河原寺の佛堂の裏(くりのうち)の倭(やまと)琴(こと)の面(おも)に在りと。
注意 左注の「河原寺」は飛鳥にあった飛鳥浄御原宮時代を代表する官制大寺ですが、平城京遷都でも移転することなく、かの地に残り、平安時代には衰微し、廃寺となっています。従いまして、「佛堂裏在」は「大寺が持つ仏具庫裏(くり)に保管してある」と解釈します。また、集歌3849の歌の初句及び二句の言葉「生死之二海乎」は次の華厳経の一節に由来すると指摘されています。
<補足資料:華厳経抜粋>
復與五百大聲聞倶。悉覺眞諦證如實際。深入法性離生死海。安住如來虚空境界。離結使縛著一切。遊行虚空。於諸佛所疑惑悉滅。深入信向諸佛大海。


 紹介しました和歌でも歌には特徴があります。仏教の理念を正面から見据えた集歌3849と集歌3850の歌があれば、一方、仏教仏像を単なる物と捉えたような駄洒落を詠う集歌3841の歌、仏前で詠ったと称しますが仏教とは直接には関係しないと思われる集歌1594の歌があります。この姿もまた仏教信心と万葉集の歌と云う観点からしますと、仏教の影響が薄いとするところかもしれません。

 さて、集歌1594の歌に戻りますと、歌の標題「佛前唱謌」や左注「終日供養大唐高麗等種々音樂、尓乃唱此歌詞。」からしますと、仏教に関係する歌の様に思えます。ところが、どうも、背景からしますと、そうでないかもしれません。
 歌の左注に示す「皇后宮」とは聖武天皇の皇后安宿媛(仏名、光明子)のことで、歴史では光明皇后と称されます。そして、歌の左注からしますと、光明皇后はそうとうな派手好きだったと推定されます。本来の仏教を真剣に信仰しますと、仏教教義では歌舞音曲は禁止事項ですので仏事では読経が主体になるべきです。たとえ呪術を行う密教仏教でもあったとしても高野山の戒律が示すように法会で呪法秘儀の行法を行ったとしてもそこにおいて奏楽器や鼓などを使用した音曲は行わないはずです。そのため、真言密教などでは読経が声明音楽へと変化し、また、護摩壇供養のなどの呪法秘儀の行法も形式美を持った仏教芸術へと進化を遂げています。まだまだ、戒律に対して砕け始めた平安後期から鎌倉時代ではありません。天平と云う奈良時代、戒律護持のために大唐から戒律の専門家である鑑真を招へいしようとする時代です。おおよそ、声明や呪法秘儀は仏教が教義において歌舞音曲が禁止されていることからの進化なのですが、対して、集歌1594の歌の解説からしますと光明皇后は仏供養として大唐や高麗などの異国情緒豊かないろいろな音樂を演じさせています。
 歌の左注からしますと、講の式次第において、光明皇后が主催した維摩講(後の維摩会?)では禅師による法要(講義)の後に琴などの楽器や歌声などにより大唐や高麗などの異国情緒豊かないろいろな音樂を演じ仏にささげた、その後、集歌1594の和歌を詠いその講を閉めたと思われます。
さらに歌が詠われた時期と光明皇后と云うキーワードから、この維摩講と云う法会の禅師に大唐留学僧である玄の存在が現れて来ます。玄は天平九年(737)には僧正の身分となり、皇室の仏教施設である内道場の禅師になるとともに、このころ、藤原不比等の旧邸宅であり、それを引き継いだ光明皇后が持寺に改造して天平八年以前に成った海龍王寺(隅寺)の初代住持に就任したと伝承されています。従いまして、維摩講の禅師はこの玄僧正が執ったと推定して良いのではないでしょうか。
 歌の左注から光明皇后はそうとうな派手好きとしましたが、維摩講の禅師であろう玄僧正のアドバイスによっては、歌舞音曲で仏を供養することをしなかったかもしれません。およそ、光明皇后も玄僧正も確信を持った派手好きだったと思われます。

 ここで、先祖供養としての歌舞音曲ではないかと疑問を持つお方に対して、少し、雑談をしたいと思います。
 さて、集歌1594の歌の発端となった維摩講を開設しますと、維摩講は維摩経を講ずる法会のことです。その法会の中心となる維摩経は在家の長者・維摩詰の病気に際して見舞いに行った文殊菩薩と維摩詰の問答を下にしたもので、およそ、維摩経は在家の長者である維摩詰による「空」の境地を説いた大乗仏教系の仏教経典なのです。
 日本での維摩講は、古く、近江朝時代に藤原鎌足によって創始され、毎年十月に行われたと『藤氏家伝・鎌足伝』によって伝わっています。また、『興福寺縁起』によると鎌足が病に際したとき、維摩経「問疾品(もんしつほん)」を誦ませたところ、たちまち病が平癒したそうです。なお、現代に伝わる『藤氏家伝・鎌足伝』は後期平城京時代から平安時代ごろの知識で記されたものが含まれていますし、『興福寺縁起』には治承四年十二月二八日(1181)の平重衡ら平氏の軍勢による南都焼き討ち事件に端緒を持つ南都寺院復興勧進運動の中で生まれた新しい伝承が、ある程度含まれているとされています。従いまして、どこまでが奈良時代の真実かは不明です。特に光明皇后に関係する伝承の多くは南都寺院復興勧進と云う募金活動の中で生まれた創作説話が由来であって、史実的な信頼性は無いとされています。およそ、現代に伝わる光明皇后伝説は信仰として扱う範疇のものです。
 光明皇后伝説を棚上げとしますと、その維摩講は歴史の中では呪術的な病人祈祷として始まったとされ、維摩講と病気平癒の結びつきは、少なくとも八世紀段階には成立していたと近世までの歴史研究者間ではそのように認識されていたと推定されます。なお、本来の維摩講は維摩会(ゆいまえ)と云う法会を行う会合であって、そこでは法説を聞いたり、法解釈を討議したりする仏法学問研究の場です。呪術的な病人祈祷を行うものではありません。少なくとも奈良時代の宮中の御斎会、興福寺の維摩会、薬師寺の最勝会を「南京三会(なんきょうさんえ)」と称した平安時代初期までの伝承ではないと思われます。これ以降の平安後期から鎌倉時代に生まれた伝承でしょう。
 ただその伝承では、維摩講は藤原鎌足によって創始されたとされ、鎌足の死後、すぐに講は中断、ところが時代が下って慶雲二年(705)七月の藤原不比等が病臥不豫をきっかけに不比等の「誓願」により再興したと伝承します。さらに伝承では養老四年(720)の不比等没後に維摩信仰は再び衰えたが、天平五年(733)三月になって光明皇后の自己の病平癒への「重願」で再再度、復興したとします。その後、天平後期に光明皇后と藤原仲麻呂によって財源が強化され、維摩講は藤原氏による法会から、国家の関与する法会へと発展したと伝えます。それでも奈良時代の興福寺の維摩会は学僧の見識などを確認し、高僧への登竜門的な場であって、歌舞音曲の世界ではありません。
 およそ伝承からしますと、飛鳥から奈良時代の病気平癒にかかわる維摩講は特定の権力者の個人的な嗜好に由来を持つようで、社会的な民衆信仰に由来するものではなかったようです。またそれを裏付けるように、歴史において藤原鎌足は近江朝時代に山科寺を興し、彼の死後、飛鳥浄御原宮遷都に合わせ、山科寺は厩坂寺として大和に移り、さらに平城京遷都では興福寺に移ったとされます。この山科寺、厩坂寺、興福寺の流れにおいて、その宗派は法相宗であったとされています。それで興福寺は法相宗大本山興福寺と称します。この法相宗は日本へは留学僧である道昭、智通、玄たちによって伝えられたとします。
 一般には天平五年になって皇后宮での行われた維摩講の端緒は、光明皇后による藤原鎌足七十回忌の供養と近代では考えられています。別案としては同年三月が光明皇后の母である県犬養橘三千代の四十九日にあたり、同五月には光明皇后自身が「枕席不安」の状態にあるため、母にちなむ追善法要と皇后自身の病気平癒も目的であったとも推定されています。ただし、当時は死後四十九日で成仏するとされ、よほどの悪行を積んだ人でない限り、この世から縁が切れ、あの世で仏縁を結ぶとされています。藤原鎌足七十回忌説と云うのは平安時代中期以降の神仏混淆を悪用した仏教界で生じた「喜捨」と云う集金を目的としたものが根拠のようですので、さてはて、どうでしょうか。
 参考として、飛鳥寺→法興寺→飛鳥大寺→元興寺と云う遍歴を持つ平城京にあった道昭が法相宗を説いた元興寺は平安時代には興福寺の支配下に組み込まれています。なぜ、この元興寺を紹介したかと云いますと、飛鳥時代の斉明天皇四年(658)に「飛鳥寺で福亮が維摩経を陶原に講ずる」という記録を持って維摩会の起原とされているからなのです。負け犬の遠吠えではありませんが、飛鳥寺の大切な歴史は、藤原氏と興福寺に乗っ取られたようです。

 今回も万葉集からの脱線がひどいことになりました。反省する次第です。
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資料編 是貞親王家歌合 (仁和二宮歌合) (原文、和歌、解釈付)

2016年04月22日 | 資料書庫
資料編 是貞親王家歌合(仁和二宮歌合)(原文、和歌、解釈付)

 紹介する是貞親王家歌合は、「宇多天皇が新撰万葉集を編纂するに先立って、親王に託してその元となる是貞親王家歌合の撰定を行っている」と紹介されるように親王の側近で形成する歌人たちが秀歌を集めてその優劣を比べた「撰歌合」と推定される歌合集です。後年のように歌会を開き左右に分かれて歌を合せたものではなかったと思われます。そうしたとき、新撰万葉集の成立が寛平五年(893)秋であり、是貞親王家歌合に載る歌が新撰万葉集に採用されているという関係から、この歌合集の成立はそれ以前と見なされています。おおよそ、歌合集の歌のテーマは秋であり、是貞親王の「親王」の尊称から臣籍降下から親王に復帰した寛平三年以降の秋の時期と推定されますから、寛平三年または四年の秋と考えて良いのではないでしょうか。
 資料提供として、先に新撰万葉集に関係するものとして寛平御時后宮歌合を万葉集を鑑賞するときの参考資料として紹介しました。ここではさらに新撰万葉集に関係するであろうと推定されている、この是貞親王家歌合を資料として紹介します。
 なお、是貞親王家歌合はインターネット上ではほとんど資料が出回っておらず、非常に資料収集に苦労するものがあります。ここでは「国際日本文化研究センター和歌データベース」(「日文研」)から引用を行い、
 ここで、歌の紹介において、次のような約束を取らせて頂きます。
1. 是貞親王家歌合に載る歌と補足資料として紹介する歌集での歌が同じ場合は、作歌者名の後にその歌集名を紹介します。
2. 歌に異同がある場合は、是貞親王家歌合に載る歌の後に歌集名とその歌集に載る異同歌を紹介します。
3. 歌番号は国際日本文化研究センター和歌データベースのものに従います。
4. 比較参照として「新編国歌大観第五巻(角川書店)」(以下、「角川」)を使います。
5. 原歌は清音ひらがな表記とします。
6. 読み易さの補助として漢字交じり平仮名への「和歌」を紹介します。

 最後に重要なことですが、この資料は正統な教育を受けていないものが行ったものです。特に「和歌」や「解釈」は私の自己流であり、なんらかの信頼がおけるものからの写しではありません。つまり、まともな学問ではありませんから正式な資料調査の予備的なものにしか使えません。この資料を参照や参考とされる場合、その取り扱いには十分に注意をお願い致します。

資料参照:
 是貞親王家歌合 (国際日本文化研究センター)
 是貞親王家歌合 (新編国歌大観 第五巻 角川書店)

是貞親王家歌合
一番
左  壬生忠岑 
歌番〇一 新撰万葉集収載歌
原歌 やまたもる あきのかりほに おくつゆは いなおほせとりの なみたなりけり
和歌 山田守る 秋の刈り穂に 置く露は いなおほせ鳥の 涙なりけり
解釈 実った山の田を守る、その秋の刈り取った稲穂に置く露は、その名のような稲を負わせる稲負鳥の涙なのでした。
右  
歌番〇二 
原歌 たつたひめ いかなるかみに あれはかは やまをちくさに あきはそむらむ
和歌 龍田姫 いかなる神に あればかは 山を千種に 秋は染むらむ
解釈 龍田姫はいかなる神であるのだからでしょうか、その霊験により龍田の山を種々折々の彩りに秋を染めるのでしょう。

二番  
左  読み人知れず (一説に壬生忠岑の作と云う)
歌番〇三 
原歌 はまちとり あきとしなれは あさきりに かたまとはして なかぬひそなき
和歌 浜千鳥 秋としなれば 朝霧に 方まどはして 鳴かぬ日ぞなき
解釈 浜千鳥は、秋になると朝霧に方向を見失ってあちこちで鳴かない日はありません。
右  
歌番〇四
原歌 あきくれは みやまさとこそ わひしけれ よるはほたるを ともしひにして
和歌 秋来れば み山里こそ わびしけれ 夜はほたるを ともしびにして
解釈 秋に来てみると、この山里は心淋しいものがあります、夜は微かな蛍の光をともしびにして(夜をすごしますから。)

三番
左  
歌番〇五
原歌 おとはやま あきとしなれは からにしき かけたることも みゆるもみちは
和歌 おとは山 秋としなれば 唐錦 掛けたることも 見ゆるもみぢ葉
解釈 音羽山、秋の季節になれば唐錦を山に掛けたかのように思える、美しい紅葉です。
右  
歌番〇六
原歌 をみなへし なにのこころに なけれとも あきはさくへき こともゆゆしく
和歌 女郎花 なにの心に なけれども 秋は咲べき こともゆゆしく
解釈 女郎花は特別に何かを思うことはありませんが、ただ、秋に必ず咲くことも、また、その美しい花と同じように大切です。

四番
左  
歌番〇七
原歌 あさことに やまにたちまふ あさきりは もみちみせしと をしむなりけり
和歌 朝ごとに 山にたちまふ 朝霧は もみぢ見せじと 惜しむなりけり
解釈 毎朝に山に立ち舞う朝霧は、紅葉の様子を見せたくないと、景色を見せることを惜しんでいます。
右  読み人知れず
歌番〇八 忠岑集収載歌および後撰和歌集収載歌
原歌 あきのよは ひとをしつめて つれつれと かきなすことの ねにそたてつる
和歌 秋の夜は 人をしづめて 徒然と かきなすことの 音にぞ立てつる
解釈 秋の夜は周囲の人を寝沈めて、為すことも無いままに掻き鳴らす琴の音に、ただただ、独り寂しく泣いてしまいます。

五番
左  
歌番〇九
原歌 ひさかたの あまてるつきの にこりなく きみかみよをは ともにとそおもふ
和歌 ひさかたの 天照る月の にごりなく 君が御世をば 共にとぞ思ふ
解釈 遥か彼方の天空に照り輝く月が濁りなく澄み切っているように、君の清らかで光り輝く御代を共に過ごしたいと思います。
右  
歌番一〇
原歌 よひよひに あきのくさはに おくつゆの たまにぬかむと とれはきえつつ
和歌 宵々に 秋の草葉に 置く露の 玉に貫かむと 取れば消えつつ
解釈 光り輝く宵ごとに秋の草葉に置く露を、玉に貫こうと思って手に取れば消えて行ってしまいます。

六番
左  
歌番一一
原歌 しくれふる あきのやまへを ゆくときは こころにもあらぬ そてそひちける
和歌 時雨降る 秋の山辺を 行くときは 心にもあらぬ 袖ぞ濡ちける
解釈 時雨が降る秋の山辺を道行く時は、思いもがけずに袖がしっぽりと濡れてしまいます。
右  
歌番一二
原歌 としことに いかなるつゆの おけはかも あきのやまへの いろこかるらむ
和歌 年ごとに いかなる露の 置けばかも 秋の山辺の 色濃かるらむ
解釈 毎年毎に、どのような露が置いたからでしょうか、秋の山辺の色は濃くなるでしょう。

七番
左  
歌番一三 後撰和歌集収載歌、ただし、詞書は無し
原歌 たつたかは あきはみつなく あせななむ あかぬもみちの なかるれはをし
和歌 龍田川 秋は水なく あせななむ あかぬもみぢの 流るれば惜し
解釈 龍田河、秋になると河の水は無くなり浅瀬になってほしい、水嵩があるので、見ることに飽きることが無い紅葉の葉が流れ去るのは実に残念です。
右  
歌番一四
原歌 いなつまは あるかなきかに みゆれとも あきのたのみは ほにそいてける
和歌 いなづまは あるかなきかに 見ゆれども 秋の頼みは 穂にぞ出でける
解釈 稲妻は音もして光った、音はしても光ってないと見ることは出来るけど、稲妻の言われである秋の実りの期待は、その穂の実り具合に出て来ます。
注意 稲妻は神鳴りであり、稲の実りを約束する神様です。

八番
左  
歌番一五
原歌 あまのはら やとかすひとの なけれはや あきくるかりの ねをはなくらむ
和歌 天の原 宿貸す人の なければや 秋来る雁の 音をばなくらむ
解釈 天の原に宿を貸す人が居ないからでしょうか、秋に飛び来る雁は「カリ、カリ(借りたい、借りたい)」とばかりに、鳴き音を上げて鳴いているのでしょう。
右  
歌番一六
原歌 としことに あきくることの うれしきは かりにつけても きみやとふとそ
和歌 年ごとに 秋来ることの うれしきは 雁につけても 君や問ふとそ
解釈 毎年ことに秋がやって来ることがうれしいことには、雁の訪れに付けても、私がどうしているかと、貴方が消息を聞いて来ることにあります。

九番
左  
歌番一七
原歌 ひくらしの なくあきやまを こえくれは ことそともなく ものそかなしき
和歌 ひぐらしの 鳴く秋山を 越え来れば ことそとも鳴く ものぞかなしき
解釈 ヒグラシの鳴く秋山を越えて来ましたが、なにごとも無くただ鳴いていたことが、物足りないものがあります。
右  
歌番一八
原歌 あきののと なりそしにける くさむらの みるひことにも まさるつゆかな
和歌 秋の野と なりそしにける 草むらの 見る日ごとにも まさる露かな
解釈 秋の野原となってしまいました、草むらは眺める日ぎとに、より増して置く露です。

十番
左  壬生忠岑
歌番一九 古今和歌集収載歌
原歌 あめふれは かさとりやまの もみちはは ゆきかふひとの そてさへそてる
和歌 雨降れば かさとり山の もみぢ葉は 行きかふ人の 袖さへそてる
解釈 一雨毎に雨が降れば笠取山の美しく紅葉した葉は、行き交う人の袖までを彩で輝かせます。
右  
歌番二〇
原歌 くりかへし わかみをわけて なみたこそ あきのしくれに おとらさりけれ
和歌 くりかへし 我が身をわけて 涙こそ 秋の時雨に おとらさりけれ
解釈 何度も何度も私の身分の違いを知って残念に思い流す涙こそは、秋の時雨に劣りませんでした。

十一番
左  
歌番二一
原歌 さをしかの しからみふする あきはきは たまなすつゆそ つつみたりける
和歌 さ牡鹿の しがらみ臥する 秋萩は 玉なす露ぞ つつみたりける
解釈 立派な角を持つ牡鹿が纏わり付けて臥す秋萩は、玉の風情をした露を包み潜めています。
右  壬生忠岑
歌番二二 古今和歌集収載歌
原歌 かみなひの みむろのやまを わけゆけは にしきたちきる ここちこそすれ
和歌 神名備の 御室の山を 分け行けは 錦裁ち切る ここちこそすれ
解釈 紅葉で彩った神が鎮座する御室の山を分け行くと、錦の布を裁ち切ったような気持ちがします。

十二番
左  
歌番二三
原歌 わひひとの としふるさとは あきののの むしのやとりの なるそわひしき
和歌 わび人の としふる里は 秋の野の 蟲の宿りの なるぞわびしき
解釈 世を厭う人が年を送って過ごす里が秋の野の虫の寝床となってしまったのは、心淋しいものがあります。
右  壬生忠岑
歌番二四 古今和歌集収載歌
原歌 あきのよの つゆをはつゆと おきなから かりのなみたや のへをそむらむ
和歌 秋の夜の 露をばつゆと 置きながら 雁の涙や 野辺を染むらむ
解釈 秋の夜の露をほんのつゆほどに置きながら、「カリ、カリ(仮初め、仮初め)」と悲し気に鳴く雁の涙は野辺を紅葉に染めているのだろうか。

十三番
左  
歌番二五
原歌 あきのよに ひとまつことの わひしきは むしさへともに なけはなりけり
和歌 秋の夜 人待つことの わびしきは 蟲さへともに 鳴けばなりけり
解釈 秋の夜に、あの人を待つことの辛いこととは、虫さえも同情して共に泣いてしまうことです。
右  
歌番二六
原歌 ちりまかふ あきのもみちを みることに そてにしくれの ふらぬひはなし
和歌 散まがふ 秋のもみぢを 見るごとに 袖に時雨の 降らぬ日はなし
解釈 散り交がう秋の紅葉を眺めるたびごとに、袖に時雨が降り懸からない日はありません。

十四番
左  
歌番二七
原歌 あさきりに かたまとはして なくかりの こゑそたえせぬ あきのやまへは
和歌 朝霧に 方まとはして 鳴く雁の 声ぞ絶えせぬ 秋の山辺は
解釈 朝霧に鳴いているその方向を惑わして、鳴く雁の声が絶えることがありません、この秋の山辺では。
右  壬生忠岑
歌番二八 忠岑集および古今和歌集収載歌
原歌 やまさとは あきこそことに かなしけれ しかのなくねに めをさましつつ
和歌 山里は 秋こそことに かなしけれ 鹿の鳴く音に 目をさましつつ
解釈 山里は秋こそ特別にもの悲しいものです、静かな夜を裂く鹿の鳴く声に目を覚ましながらしみじみと感じます。

十五番
左  
歌番二九
原歌 やまさとは あきこそものは かなしけれ ねさめねさめに しかはなきつつ
和歌 山里は 秋こそものは かなしけれ 寝ざめ寝ざに 鹿は鳴きつつ
解釈 山里は秋こそ物思いすることは寂しいものがあります、静かな夜を裂く声に寝覚め寝覚め、寝させないその鹿は鳴き続けます。
右  
歌番三〇
原歌 ことのねを かせのしらへに まかせては たつたひめこそ あきはひくらし
和歌 ことの音を 風のしらべに まかせては 龍田姫こそ 秋はひくらし
解釈 琴がたてる音を風の奏でる曲調に任せてみると、あの龍田姫は、きっと、秋にはヒグラシが鳴くように調べを弾くようだ。
異同 後撰和歌集
原歌 まつのねに かせのしらへを まかせては たつたひめこそ あきはひくらし.
和歌 松の根に 風のしらべを まかせては 龍田姫こそ 秋はひくらし
解釈 松の枝がさせる音に風の調べを任せてみると、あの龍田姫は、きっと、秋にはヒグラシが鳴くように調べを弾くようだ。

十六番
左  
歌番三一
原歌 しらつゆの おきしくのへを みることに あはれはあきそ かすまさりける
和歌 白露の 置きしく野辺を 見るごとに あはれは秋ぞ 数まさりける
解釈 白露を置いた野辺の風情を眺めるたびに、その素晴らしさは秋にこそあれこれと他の季節に比べ数は勝ります。
右  
歌番三二
原歌 あきかせの うちふくからに はなもはも みたれてもちる のへのくさきか
和歌 秋風の 打ち吹くからに 花も葉も 乱れても散る 野辺の草木か
解釈 秋風が打ち吹くために、花も葉も乱れて散る、これが野辺の草木の定めなのでしょうか。

十七番
左  源宗于
歌番三三 
原歌 あきくれは むしとともにそ なかれぬる ひともくさはも かれぬとおもへは
和歌 秋来れは 蟲とともにぞ なかれぬる 人も草葉も 枯れぬと思へば
解釈 秋の季節がやって来ると、虫とともにその定めに泣いてしまいます、人も草葉も時の移ろいに離れ、また、枯れていく定めと思うと。
右  読み人知れず
歌番三四 
原歌 からにしき みたれるのへと みえつるは あきのこのはの ふるにさりける
和歌 唐錦 乱れる野辺と 見えつるは 秋の木の葉の ふるにさりける
解釈 唐錦の衣が乱れる、その言葉でありませんが、風に吹き乱れた野辺と見えたのは、秋の木の葉が紅葉して降り散った姿でした。

十八番
左  
歌番三五
原歌 よもきふに つゆのおきしく あきのよは ひとりぬるみも そてそぬれける
和歌 蓬生に 露の置きしく 秋の夜は ひとり寝る身も 袖ぞ濡れける
解釈 生い乱れた蓬生に露が置いている、その秋の夜は、独りで寝る身は人を恋する思いで袖が涙で濡れてしまいました。
右  読み人知れず
歌番三六 
原歌 あしひきの やまへによする しらなみは くれなゐふかく あきそみえける
和歌 あしひきの 山辺に寄する 白波は 紅深く 秋ぞ見えける
解釈 足を曳くような険しい山辺に打ち寄せる白波の先には、紅葉した山の紅が深く、秋が見えました。

十九番
左  紀貫之
歌番三七 新撰万葉集収載歌
原歌 なにしおはは しひてたのまむ をみなへし ひとのこころの あきはうくとも
和歌 名にし負はば しひて頼まむ 女郎花 人の心の あきは憂くとも
解釈 「おみな」と言う名前を持っているのだから、無理だとしても貴女に慕われるでしょうことへの信頼を寄せます、女郎花よ。貴女の気持ちの、秋と言う響きのような、私が貴女から「飽き」られることは辛くとも。
異同歌 後撰和歌集
原歌 名にし負へば しひて頼まむ 女郎花 花の心の あきは憂くとも
解釈 「おみな」と言う名前を持っているのだから、無理だとしても貴女に慕われるでしょうことへの信頼を寄せます、女郎花よ。その花の気持ちの、秋と言う響きのような、私が「飽き」られることは辛くとも。
右  読み人知れず
歌番三八 
原歌 あきのよを ひとりねたらむ あまのかは ふちせたとらす いさわたりなむ
和歌 秋の夜を ひとり寝たらむ 天の川 淵瀬たどらす いざ渡りなむ
解釈 あの人は秋の夜を貴方と共寝することなく独りで寝たのだろうか、今日は七夕、天の川の淵や瀬にまごつくことなく、さあ、渡りましょう。

二十番
左  
歌番三九
原歌 むらさきの ねさへいろこき くさなれや あきのことこと のへをそむらむ
和歌 むらさきの 根さへ色濃き 草なれや 秋のことごと 野辺を染むらむ
解釈 紫草は根までも色が濃い草なのでしょうか、秋のことごとの野辺を彩濃く染めています。
右  
歌番四〇
原歌 あきのよに ひとをみまくの ほしけれは あまのかはらを たちもならすか
和歌 秋の夜に 人を見まくの 欲しければ 天の川原を たちもならすか
解釈 秋の夜に恋人に逢いたいと願うならば、天の河原の流れを絶ち平らにならすのでしょうか。

二一番
左  
歌番四一 
原歌 あきのよに たれをまつとか ひくらしの ゆふくれことに なきまさるらむ
和歌 秋の夜に 誰れを待つとか ひぐらしの 夕暮れごとに 鳴きまさるらむ
解釈 秋の夜に誰を待つのだろうか、この日一日を暮らした、ヒグラシは夕暮れが近づくごとに鳴き声が大きく勝ります。
右  紀貫之
歌番四二 後撰和歌集収載歌、ただし、「是貞親王家歌合」の詞書は無し
原歌 あきかせの ふきくるよひは きりきりす くさのねことに こゑみたれけり
和歌 秋風の 吹き来る宵は きりぎりす 草の根ごとに 声見たれけり
解釈 秋風の吹いて来る宵は、キリギリスが草の根ごとに鳴き声が鳴き乱れているよ。

次の歌番四三は歌番四四とは合わないため、個人の判断で独立とした。

歌  紀貫之
歌番四三 
原歌 あきのよに かりかもなきて わたるなる わかおもふひとの ことつてやせる
和歌 秋の夜に 雁鴨鳴きて 渡るなる 我が思ふ人の 言づてやせる
解釈 秋の夜に雁なのだろうか、鳴いて空を渡って行くようだ、私が想うあの人からの言伝をしているのか。
異同歌 後撰和歌集
原歌 あきのよに かりかもなきて わたるなり わかおもふひとの ことつてやせし
和歌 秋の夜に 雁鴨鳴きて 渡るなり 我が思ふ人の 言づてやせし
解釈 秋の夜に雁なのだろうか、鳴いて空を渡って行くようだ、私が想うあの人からの言伝をしているのだろうか。

二二番
左  
歌番四四
原歌 おくつゆに くちゆくのへの くさのはや あきのほたると なりわたるらむ
和歌 置く露に 朽ち行く野辺の 草の葉や 秋のほたると なり渡るらむ
解釈 葉に置く露に朽ち行く野辺の草の葉は、まるでその露が秋の蛍となって輝かせて時が過ぎゆきます。
右  
歌番四五
原歌 あきかせに すむよもきふの かれゆけは こゑのことこと むしそなくなる
和歌 秋風に すむ蓬生の 枯れ行けは 声のことごと 蟲ぞ鳴くなる
解釈 秋風が吹く中に住処とする蓬生が枯れ行くと、鳴き声それぞれにいろいろな虫が鳴きます。

二三番
左  読み人知れず(ただし、友則集に載る)
歌番四六 友則集及び後撰和歌集収載歌(後撰では讀人志らず)
原歌 みることに あきにもなるか たつたひめ もみちそむとや やまはきるらむ
和歌 見るごとに 秋にもなるか 龍田姫 黄葉嫉むとや 山は着るらむ
解釈 眺めるたびに秋の景色になるのだなぁ、龍田の姫も木々を彩とりどりに紅葉に染めると言う、その山の紅葉を龍田の姫は着ることでしょう。
右  
歌番四七
原歌 ひとしれぬ なみたやそらに くもりつつ あきのしくれと ふりまさるらむ
和歌 人知れぬ 涙やそらに 曇りつつ 秋の時雨と 降りまさるらむ
解釈 貴方に私の思いが気付かれないで流す涙は虚しい、その「そら」の言葉の響きではありませんが、空は曇りゆき秋の時雨と降る、その降る時雨より私の流す涙は勝るでしょうね。

二四番
左  
歌番四八 古今和歌集収載歌
原歌 あきくれは やまとよむまて なくしかに われおとらめや ひとりぬるよは
和歌 秋来くれば 山響むまで 鳴く鹿に 我れおとらめや ひとり寝る夜は
解釈 秋の季節が来ると山を響ますまで大きな声で鳴く鹿に、私の淋しさに泣くその泣き声が劣るでしょうか、貴方いない床で私独りが寝る夜には。
右  
歌番四九
原歌 かりのみと あはのそらなる なみたこそ あきのたもとの つゆとおくらめ
和歌 かりのみと あはのそらなる 涙こそ 秋の袂の 露と置くらめ
解釈 貴方の私への振る舞いは仮初めだけと、泡のような儚く虚しい気持ちで流す涙は、秋の時期に袂を濡らす露のようにしとどに置くでしょう。

二五番
左  
歌番五〇
原歌 やまかはの たきつせしはし よとまなむ あきのもみちの いろとめてみむ
和歌 山川の たぎつ瀬しばし 淀まなむ 秋の黄葉の 色とめて見む
解釈 山を流れる激流の瀬も少しの間は淀むでしょう、流れる秋の紅葉の葉の彩りを留めて眺めたいものです。
右  
歌番五一 後撰和歌集収載歌、ただし、詞書は無し
原歌 しらたまの あきのこのはに やとれると みつるはつゆの はかるなりけり
和歌 白玉の 秋の木の葉に 宿れると みつるは露の ばかるなりけり
解釈 白い美しい玉が秋の木の葉の上に宿っていると見えるのは、露が人の目を欺いていたからです。

二六番
左  
歌番五二
原歌 ゆきかへり ここもかしこも かりなれや あきくることに ねをはなくらむ
和歌 行きかへり ここもかしこも 雁なれや 秋来るごとに 音をは鳴くらむ
解釈 渡りの往き還り、ここもかしこも雁だけなのだろうか、やって来る秋毎に鳴き音を上げて雁が鳴きます。
異同歌 後撰和歌集
原歌 ゆきかへり ここもかしこも たひなれや くるあきことに かりかりとなく
和歌 行きかへり ここもかしこも 旅なれや 来る秋ごとに かりかりと鳴く
解釈 渡りの往き還り、ここもかしこも旅の道中なのだろうか、やって来る秋毎に、ここの場所は「仮、仮」と、仮の宿とばかりに「カリカリ」と雁が鳴きます。

右  
歌番五三
原歌 あきのよに かりとなくねを きくときは わかみのうへと おもひこそすれ
和歌 秋の夜に かりと鳴く音を 聞くときは 我が身のうへと 思ひこそすれ
解釈 秋の夜に雁が「カリ、カリ」と鳴く声を聞くときは、私は貴方にとっては「仮初」の身の女だと思ってしまいます。

二七番
左  
歌番五四
原歌 いまよりは いさまつかけに たちよらむ あきのもみちは かせさそひけり
和歌 今よりは いざまつ影に たちよらむ 秋のもみぢ葉 風さそひけり
解釈 今から、さぁ、松の木陰に立ち寄りましょう、秋の紅葉した葉が風を誘っています。
右  
歌番五五 後撰和歌集収載歌、ただし、詞書は無し
原歌 あきのよの つきのひかりは きよけれと ひとのこころの くまはてらさす
和歌 秋の夜の 月のひかりは 清よけれど 人の心の 隅は照らさず
解釈 秋の夜の月の光は清いのですが、でも、私があの人に想いを寄せる、その人の心の隅までは、はっきり気が付くほどには照らしません。

二八番
左  
歌番五六  末句、五文字欠字
原歌 ゆふたすき かけてのみこそ こひしけれ あきとしなれは ひとххххх
和歌 夕たすき かけてのみこそ 恋ひしけれ 秋としなれば ひとххххх
解釈 辻占のために夕たすきをかける、その言葉ではありませんが、願いを掛けるからこそ、一層に恋しいのです、人肌恋しい肌寒い秋の季節になれば、貴方が恋しいのです。
右  
歌番五七
原歌 いりひさす やまとそみゆる もみちはの あきのことこと てらすなりけり
和歌 入日さす 山とぞ見ゆる もみぢ葉の 秋のことごと 照らすなりけり
解釈 入り日が射す赤く染まった山かとばかりに見えます、紅葉した葉によって秋の山がことごとく光照らすように彩っています。

二九番
左  壬生忠岑
歌番五八 古今和歌集収載歌
原歌 ひさかたの つきのかつらも あきはなほ もみちすれはや てりまさるらむ
和歌 ひさかたの月の桂も秋はなほ紅葉すればや照りまさるらむ
解釈 遥か彼方の、その月に生えると言う桂の木も、秋になると紅葉するからなのか、月の光がより明るく照り勝って見えます。
右  
歌番五九 後撰和歌集収載歌、ただし、詞書は無し
原歌 あきはきの えたもとををに なりゆくは しらつゆおもく おけはなりけり
和歌 秋萩の 枝もとををに なりゆくは 白露おもく 置けばなりけり
解釈 上を向いて茂っていた秋の萩の花枝も次第に撓わにしなっていくのは、白露が重く置いたからだから。

三〇番
左  
歌番六〇
原歌 ひとりしも あきにはあはなくに よのなかの かなしきことを もてなやむらむ
和歌 ひとりしも 秋には遭はなくに 世の中の かなしきことを もてなやむらむ
解釈 私、たった一人だけで秋に遭う訳ではないけれど、世の中の淋しいことを身に受けて悩んでしまいます。
右  
歌番六一  
原歌 あきかせに なみやたつらむ あまのかは すくるまもなく つきのなかるる
和歌 秋風に 波や立つらむ 天の川 過ぐる間もなく 月の流るる
解釈 秋風に浪が立つでしょう、その天の河を渡り過ぎる間も無く、ただ、月が流れて行きます。
異同歌 新撰万葉集
原歌 あきかせに なみやたつらむ あまのかは わたるまもなく つきのなかるる
和歌 秋風に 波や立つらむ 天の川 渡る間もなく 月の流るる
解釈 秋風に浪が立つでしょう、その天の河に渡る間も無く、ただ、月が流れて行きます。
異同歌 後撰和歌集
原歌 あきかせに なみやたつらむ あまのかは わたるせもなく つきのなかるる
和歌 秋風に 波や立つらむ 天の川 渡るる瀬もなく 月の流るる
解釈 秋風に浪が立つでしょう、その天の河に渡る瀬も無く、ただ、月が流れて行きます。

三一番
左  大江千里
歌番六二 古今和歌集収載歌
原歌 つきみれは ちちにものこそ かなしけれ わかみひとつの あきにはあらねと
和歌 月見れば 千ぢにものこそ かなしけれ 我が身ひとつの 秋にはあらねと
解釈 月を見るとあれこれと淋しい思いがします、我が身独りだけの秋ではありませんが。
右  
歌番六三 
原歌 ゆめののち むなしきとこは あらしかし あきのもなかも こひしかりけり
和歌 夢ののち むなしき床は あらしかし 秋のもなかも 恋ひしかりけり
解釈 夢だけで貴方に逢った後の虚しい思いだけが残る床はあって欲しくはない、秋の最中、その言葉の響きではありませんが、貴方の気持ちに私への飽きがやって来た時であっても、貴方が恋しく思うのです。

三二番
左  
歌番六四 
原歌 もみちはの たまれるかりの なみたには あきのつきこそ かけやとしけれ
和歌 もみちはの たまれるかりの なみたには あきのつきこそ かけやとしけれ
解釈 紅葉の葉に溜まる雁の涙で紅葉が進むと言うが、その溜まれる涙の滴に月の光こそに、姿を宿している。
異同歌 後撰和歌集
原歌 もみちはに たまれるかりの なみたには つきのかけこそ うつるへらなれ
和歌 もみちはに たまれるかりの なみたには つきのかけこそ うつるへらなれ
解釈 紅葉の葉に溜まる雁の涙で紅葉が進むと言うが、その溜まれる涙の滴に月の光こそ、写っているようだ。
右  
歌番六五 
原歌 あきくとも みとりのかへて あらませは ちらすそあらまし もみちならねと
和歌 秋来とも 緑のかへで あらませは 散らすそあらまし もみぢならねと
解釈 秋の季節がやって来ても緑色のカエデの葉があったなら、風は散らしてしまうことはないでしょう、紅葉にはなっていないとして。

三三番
左  
歌番六六 
原歌 しつはたに こひはすれとも こぬひとを まつむしのねそ あきはかなしき
和歌 倭文幡に こひはすれとも 来ぬ人を まつ蟲の音ぞ 秋はかなしき
解釈 倭錦の布を請う、その言葉の響きではありませんが、恋焦がれてもやって来ない人を待つ、その言葉の響きのような、松虫の鳴き声、その鳴き声がする秋はもの悲しいです。
右  
歌番六七 
原歌 あきのむし なとわひしけに こゑのする たのめしかけに つゆやもりくる
和歌 秋の蟲 などわびしげに 声のする たのめしかけに 露やもりくる
解釈 秋の虫が、なぜか、寂しげに鳴く声がする、住処と頼んで潜む草陰に露が漏れて来る。
異同歌 新撰万葉集
原歌 あきのむし なにわひしらに こゑのする たのみしかけに つゆやもりゆく
和歌 秋の蟲 なにわびしらに 声のする たのみしかけに 露やもりゆく
解釈 秋の虫が、なぜか、寂しげに鳴く声がする、住処と頼んで潜む草陰に露が漏れ落ちて来る。

三四番
左  
歌番六八 
原歌 もみちはの なかれてゆけは やまかはの あさきせたにも あきはふかみぬ
和歌 もみぢ葉の 流れて行けば 山川の あさき瀬田にも 秋は深かみぬ
解釈 紅葉した葉が流れていくと、山を流れる川が流れ込む水嵩浅い瀬田にも流れ着き、秋は深まりました。
右  
歌番六九 
原歌 もみちはの なかるるあきは かはことに にしきあらふと ひとはみるらむ
和歌 もみぢ葉の 流るる秋は 川ごとに 錦洗ふと 人は見るらむ
解釈 紅葉の葉が川面を流れる秋は、その河ごとに、錦の布を洗っているのかと、人は眺めるでしょう。
異同歌 後撰和歌集
原歌 もみちはの なかるるあきは かはことに にしきあらふと ひとやみるらむ
和歌 もみぢ葉の 流るる秋は 川ごとに 錦洗ふと 人や見るらむ
解釈 紅葉の葉が川面を流れる秋は、その河ごとに、錦の布を洗っているのかと、人は眺めるでしょうか。

三五番
左  
歌番七〇 
原歌 ひしくれは よるもめかれし きくのはな あきすきぬれは あふへきものか
和歌 秘しくれは 夜も目離れじ 菊の花 秋すぎぬれは あふべきものか
解釈 他の人には秘密にしていると、夜になっても眺め飽きない菊の花よ、秋の季節が過ぎ行けば、このように出会うべきものでしょうか。
右  紀友則
歌番七一 古今和歌集収載歌
原歌 つゆなから をりてかささむ きくのはな おいせぬあきの ひさしかるへく
和歌 露ながら 折りてかざさむ 菊の花 老いせぬ秋の ひさしかるべく
解釈 露を置いたままに手折って頭に飾りとして挿そう、菊の花よ。その菊の花に置く露にあやかり人が老いることのないと言う、この秋の祝いがいつまでも長く続くようにと。

補注一:古今和歌集に載る是貞親王家歌合の歌 二十三首
注意事項として、古今和歌集で「是貞親王家歌合の歌(これさたのみこの家の歌合のうた)」との詞書を持つもので、是貞親王家歌合に載らない歌が十四首あります。従いまして今日に伝わる是貞親王家歌合と紀貫之時代のものとが一致しない可能性もあります。

一 (載らぬ歌)
古今歌番一八九 
詞書 これさたのみこの家の歌合のうた よみ人しらす
原歌 いつはとは ときはわかねと あきのよそ ものおもふことの かきりなりける
和歌 いつはとは ときはわかねと 秋の夜そ もの思ふことの かぎりなりける
解釈 どの季節とは限らず、いつでも物思いはするものだが、秋の夜ばかりは、限りなく物思いをしてしまいます。


古今歌番一九三 大江千里
詞書 これさたのみこの家の歌合によめる 大江千里
原歌 つきみれは ちちにものこそ かなしけれ わかみひとつの あきにはあらねと
和歌 月見れば ちぢにものこそ かなしけれ 我が身ひとつの 秋にはあらねと
解釈 月を見るとあれこれと淋しい思いがします、我が身独りだけの秋ではありませんが。


古今歌番一九四 壬生忠岑
詞書 これさたのみこの家の歌合によめる たたみね
原歌 ひさかたの つきのかつらも あきはなほ もみちすれはや てりまさるらむ
和歌 ひさかたの 月の桂も 秋はなほ もみぢすればや 照りまさるらむ
解釈 遥か彼方の、その月に生えると言う桂の木も、秋になると紅葉するからなのか、月の光がより明るく照り勝って見えます。

四 (載らぬ歌)
古今歌番一九七 藤原敏行
詞書 これさたのみこの家の歌合のうた としゆきの朝臣
原歌 あきのよの あくるもしらす なくむしは わかことものや かなしかるらむ
和歌 秋の夜の あくるもしらず 鳴く蟲は 我がことものや かなしかるらむ
解釈 秋の夜が明けて来るのも知らずに鳴く虫は、私と同じことのように物寂しく思い泣いているようだ。

五 (載らぬ歌)
古今歌番二〇七 紀友則 
詞書 これさたのみこの家の歌合のうた とものり
原歌 あきかせに はつかりかねそ きこゆなる たかたまつさを かけてきつらむ
和歌 秋風に はつ雁かねそ 聞こゆなる 誰がたまづさを かけて来つらむ
解釈 秋風に乗って初雁の声が聞こえて来る。北の国から、いったい誰の消息を知らせる文を身に掛けて来たのであろうか。

六 
古今歌番二一四 壬生忠岑
詞書 これさたのみこの家の歌合のうた たたみね
原歌 やまさとは あきこそことに わひしけれ しかのなくねに めをさましつつ
和歌 山里は 秋こそことに わびしけれ 鹿の鳴く音に 目をさましつつ
解釈 山里は秋こそ特別にもの悲しいものです、静かな夜を裂く鹿の鳴く声に目を覚ましながらしみじみと感じます。

七 (載らぬ歌)
古今歌番二一五 
詞書 これさたのみこの家の歌合のうた よみ人しらす
原歌 おくやまに もみちふみわけ なくしかの こゑきくときそ あきはかなしき
和歌 奥山に もみぢ踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋はかなしき
解釈 奥山で散り降った紅葉を踏みながら妻を求めて鳴く牡鹿の声を聞くとき、その秋の時間は淋しいものです。

八 (載らぬ歌)
古今歌番二一八 藤原敏行
詞書 これさたのみこの家の歌合によめる 藤原としゆきの朝臣
原歌 あきはきの はなさきにけり たかさこの をのへのしかは いまやなくらむ
和歌 秋萩の 花咲きにけり 高砂の 小野辺の鹿は いまや鳴くらむ
解釈 また今年も秋になり萩の花が咲きました、高砂の小野の野辺の鹿は今まさに鳴いています。

九 (載らぬ歌)
古今歌番二二五 文屋朝康
詞書 是貞のみこの家の歌合によめる 文屋あさやす
原歌 あきののに おくしらつゆは たまなれや つらぬきかくる くものいとすち
和歌 秋の野に 置く白露は 玉なれや 貫きかくる 蜘蛛のいとすぢ
解釈 秋の野の草葉に置く白露は玉なのだろうか、露珠を貫き括った蜘蛛の糸筋がまるで輝く首飾りのようです。

一〇 (載らぬ歌)
古今歌番二二八 藤原敏行
詞書 是貞のみこの家の歌合のうた としゆきの朝臣
原歌 あきののに やとりはすへし をみなへし なをむつましみ たひならなくに
和歌 秋の野に 宿りはすべし 女郎花 汝を睦ましみ 旅ならなくに
解釈 秋の野原に泊まるとしよう、女郎花、お前を睦ましく思うから。でも、この宿りは旅で来た訳も無いのだけど。

一一 (載らぬ歌)
古今歌番二三九 藤原敏行
詞書 これさたのみこの家の歌合によめる としゆきの朝臣
原歌 なにひとか きてぬきかけし ふちはかま くるあきことに のへをにほはす
和歌 なに人か きてぬきかけし 藤袴 来る秋ごとに 野辺を匂はす
解釈 どのような女性が脱いでかけた藤袴なのか、毎年にやって来る秋ごとに野辺を香しい匂いを漂わせます。

一二 (載らぬ歌)
古今歌番二四九 文屋康秀
詞書 これさたのみこの家の歌合のうた 文屋やすひて
原歌 ふくからに あきのくさきの しをるれは うへやまかせを あらしといふらむ
和歌 吹くからに 秋の草木の 萎るれば うべ山風を 嵐といふらむ
解釈 風が吹けば秋の草木はすぐにしおれてしまから、それで、山からの風を、その字の通りにあらし(嵐)というのでしょう。

一三 (載らぬ歌)
古今歌番二五〇 文屋康秀
詞書 これさたのみこの家の歌合のうた 文屋やすひて
原歌 くさもきも いろかはれとも わたつうみの なみのはなにそ あきなかりける
和歌 草も木も 色変はれども わたつ海の 波の花にそ 秋なかりける
解釈 草も木も色は変わるけれども、大船を渡す大きな海に立つ浪の花には秋の様子はありませんでした。(反って、冬模様です。)

一四 (載らぬ歌)
古今歌番二五七 藤原敏行
詞書 これさたのみこの家の歌合によめる としゆきの朝臣
原歌 しらつゆの いろはひとつを いかにして あきのこのはを ちちにそむらむ
和歌 白露の 色はひとつを いかにして 秋の木の葉を 千ぢに染むらむ
解釈 秋に置く露の色は白一色だけなのを、どのようにして秋の木の葉をさまざまな色に染めるのでしょうか。

一五
古今歌番二五八 壬生忠岑
詞書 これさたのみこの家の歌合によめる 壬生忠岑
原歌 あきのよの つゆをはつゆと おきなから かりのなみたや のへをそむらむ
和歌 秋の夜の 露をばつゆと 置きながら かりの涙や 野辺を染むらむ
解釈 秋の夜の露をほんのつゆほどに置きながら、「カリ、カリ(仮初め、仮初め)」と悲し気に鳴く雁の涙は野辺を紅葉に染めているのだろうか。

一六
歌番二六三 壬生忠岑
詞書 これさたのみこの家の歌合によめる たたみね
原歌 あめふれは かさとりやまの もみちはは ゆきかふひとの そてさへそてる
和歌 雨降れば かさとり山の もみぢ葉は 行きかふ人の 袖さへぞ照る
解釈 一雨毎に雨が降れば笠取山の美しく紅葉した葉は、行き交う人の袖までを彩で輝かせます。

一七 (載らぬ歌)
古今歌番二六六 
詞書 是貞のみこの家の歌合のうた よみ人しらす
原歌 あききりは けさはなたちそ さほやまの ははそのもみち よそにてもみむ
和歌 秋霧は 今朝はな立ちそ 佐保山の ははそのもみぢ よそにても見む
解釈 秋霧は今朝だけは立つな、佐保山の「ははそ」の木の紅葉の様子を遠くからでも眺めたいから。

一八
古今歌番二七〇 紀友則
詞書 これさたのみこの家の歌合のうた きのとものり
原歌 つゆなから をりてかささむ きくのはな おいせぬあきの ひさしかるへく
和歌 露ながら 折りてかざさむ 菊の花 老いせぬ秋の ひさしかるべく
解釈 露を置いたままに手折って頭に飾りとして挿そう、菊の花よ。その菊の花に置く露にあやかり人が老いることのないと言う、この秋の祝いがいつまでも長く続くようにと。

一九
古今歌番二七八 
詞書 これさたのみこの家の歌合のうた よみ人しらす
原歌 いろかはる あきのきくをは ひととせに ふたたひにほふ はなとこそみれ
和歌 色かはる 秋の菊をば ひととせに ふたたひ匂ふ 花とこそ見れ
解釈 季節が進むと色が変わる秋の菊を、一年のうちに二度咲き匂う花であると思います。

二〇
古今歌番二九五 藤原敏行
詞書 これさたのみこの家の歌合のうた としゆきの朝臣
原歌 わかきつる かたもしられす くらふやま ききのこのはの ちるとまかふに
和歌 我がきつる 方もしられず くらぶ山 木々の木の葉の 散るとまがふに
解釈 自分が来た方角さえ分からなくなってしまうほどに、その暗いという名を持つ暗部山」その暗部山の木々の木の葉が散り乱れているので一層に暗くなります。

二一
古今歌番二九六 壬生忠岑
詞書 これさたのみこの家の歌合のうた たたみね
原歌 かみなひの みむろのやまを あきゆけは にしきたちきる ここちこそすれ
和歌 神奈備の 御室の山を 秋ゆけは 錦たつきる ここちこそすれ
解釈 紅葉で彩った神が鎮座する御室の山を分け行くと、錦の布を裁ち切ったような気持ちがします。

二二
古今歌番三〇六 壬生忠岑
詞書 是貞のみこの家の歌合のうた たたみね
原歌 やまたもる あきのかりいほに おくつゆは いなおほせとりの なみたなりけり
和歌 山田守る 秋のかりいほに 置く露は 稲負鳥の 涙なりけり
解釈 実った山の田を守る、その秋の刈り取った稲穂に置く露は、その名のような稲を負わせる稲負鳥の涙なのでした。

二三 
古今歌番五八二 
詞書 これさだのみこの家の歌合のうた よみ人しらす
原歌 あきなれは やまとよむまて なくしかに われおとらめや ひとりぬるよは
和歌 秋なれば 山とよむまで 鳴く鹿に 我れおとらめや ひとり寝る夜は
解釈 秋の季節が来ると山を響ますまで大きな声で鳴く鹿に、私の淋しさに泣くその泣き声が劣るでしょうか、貴方いない床で私独りが寝る夜には。

補注二:『後撰和歌集』に載る「是貞親王家歌合」の詞書を持つ歌 五首
一  (載らぬ歌)
後撰歌番二一七  
詞書 惟貞の親王の家の歌合に 讀人しらず
原歌 にはかにも かせのすすしく なりぬるか あきたつひとは むへもいひけり
和歌 俄にも 風の凉しく 成ぬるか 秋立つ日とは むべもいひけり
解釈 急に風が涼しくなったのか、秋立つ日とは、なるほど、よく行ったものです。


後撰歌番二六五  壬生忠岑
詞書 是貞のみこの家の歌合に 壬生忠岑
原歌 まつのねに かせのしらへを まかせては たつたひめこそ あきはひくらし
和歌 松の根に 風のしらべを 任せては 龍田姫こそ 秋はひぐらし
解釈 松の枝がさせる音に風の調べを任せてみると、龍田姫は、きっと、秋には調べを弾くようだ。

三  (載らぬ歌)
後撰歌番三二三  
詞書 惟貞のみこの家の歌合に 讀人志らず
原歌 あきのよは つきのひかりは きよけれと ひとのこころの くまはてらさす
和歌 あきの夜の 月のひかりは 清けれど 人の心の くまは照さず
解釈 秋の海の水面に姿を映す月を、何度も寄せ立ち返して浪は洗うけれど、色も形も変りません。

四  (載らぬ歌)
後撰歌番三二四  
詞書 惟貞のみこの家の歌合に 讀人志らず
原歌 あきのつき つねにかくてる ものならは やいにふるみは ましらさらまし
和歌 秋の月 常にかくてる 物ならば 闇にふる身は 交らざらまし
解釈 秋の夜の月の光は清いのですが、でも、私があの人に想いを寄せる、その人の心の隅までは、はっきり気が付くほどには照らしません。

五  (載らぬ歌、諸本によりては詞書なし)
後撰歌番三三四  
詞書 是貞のみこの家の歌合の歌 讀人志らず
原歌 あきのよは ひとをしすめて つれつれと かきなすことの ねにそなきむる
和歌 秋の夜は 人を靜めて 徒然と かきなす琴の 音にぞ鳴きぬる
解釈 秋の夜は周囲の人を寝沈めて、為すことも無いままに掻き鳴らす琴の音に、ただただ、独り寂しく泣いてしまいます。

 ここで是貞親王家歌合の編纂時期の推定では、この是貞親王家歌合の収載和歌が新撰万葉集に載るものと数首ほど共通点があるために、新撰万葉集の成立以前となる寛平五年(八九三)九月以前に編纂されたのではないかと推定されています。しかしながらその確証はありません。あくまで、新撰万葉集の編纂時に是貞親王家歌合に載る歌、数首ほどを選定したであろうとの推定です。ただし、寛平御時后宮歌合から選定したと思われる歌数と比べまして圧倒的に少歌数ですので、その確証はありません。偶然と云う可能性も否定できません。
 さらに本来の歌合の歌集ですとその表記スタイルは左右に各一首の二首一組になると思われますが、この是貞親王家歌合はそのような形式ではありません。また、古今和歌集の標題に「これさだのみこの家の歌合せのうた」と案内する二十三首の歌がすべて是貞親王家歌合に載せられているわけでもありません。古今和歌集では「これさだのみこの家の歌合せのうた」と紹介しますから、「是貞親王の主催で複数回ほど開催された歌合での歌」と云う意味合いかもしれませんし、逆に伝本である是貞親王家歌合が本来の姿を留めていないのかもしれません。
 そうした時、作品名では是貞親王家歌合とありますが、この歌合は初期の歌合本である「寛平御時菊合」や「亭子院女郎花歌合」などにみられる十二番歌合のような形式で、歌会で歌人たちが左右に分かれ、それぞれが決められたテーマに合わせて寄せた歌を競い合うようなものではなかったようです。漢語通りに、あるテーマに沿った歌を集め、合わせた歌集です。この歌合のテーマは「秋」ですが、載せられる歌は初秋の「萩花」や「七夕」から晩秋の「落葉」までを詠います。およそ、旧暦七月初頭から九月月末に渡る長い季節の移ろいがあります。なお、「亭子院女郎花歌合」では歌合の宴の前に講師に寄せて左右に合わせた歌と、歌合の宴の当日に詠まれた歌とを明確に区分しています。従いまして、歌が、いつ、詠われたのかを推定することは非常に困難です。
 もう一つ、この是貞親王家歌合に載る歌はほとんどが無名歌人の歌か、身分の低い者たちのものです。推定でそのような人たちは是貞親王とは同席もできませんし、内庭の土間にも入れるかどうかも判断に困るような人たちです。穿って、その時代の秀歌を是貞親王とその御付の人たちが集め、選んだのかもしれません。そのような意味合いでの「歌合」かもしれません。
 確認しますが、壬生忠岑は有名歌人ですが身分は地下人ですし、この当時、紀貫之もまだ微官です。貫之は古今和歌集を奉呈したとされる延喜五年(九〇五)の段階でも官位不詳の御書所預と云う身分ですし、同じく壬生忠岑は右衛門府生と云う無官位の雑人の身分で書生と云う職務です。話題としています是貞親王家歌合の選定の時代はそれよりさらに前の時代です。
 最後に是貞親王家歌合と深く関係する古今和歌集と後撰和歌集に「是貞親王家歌合の歌」との標題を持って載せられている歌を紹介します。不思議に是貞親王家歌合に載る歌とそれらは一致しません。何かがあるのでしょうが、その何かは謎のままです。
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資料編 亭子院女郎花合(朱雀院女郎花合)(原文、和歌、解釈付)

2016年04月19日 | 資料書庫
資料編 亭子院女郎花合(朱雀院女郎花合)(原文、和歌、解釈付)

 紹介する亭子院女郎花合とは宇多天皇が退位した翌年となる昌泰元年秋(898)に居を構えた朱雀院で開催された歌会での歌合集です。この亭子院女郎花合の「亭子院」とは天皇位から退位した後の宇多上皇又は宇多法皇を意味します。他方、延喜五年(905)四月の成立・奏上された古今和歌集では歌合が行われた場所の方を採用して「朱雀院女郎花合」の形で扱われており、都合、八首に「朱雀院の女郎花あはせによみてたてまつりける」との詞書が付けられています。
 その昌泰元年秋の歌会のテーマは「をみなえし」ですが、集載する歌には「をみなえし」の花とは別に「をみなえし」と云う文字を織り込んだ歌や各句頭に「を」、「み」、「な」、「え」、「し」と云う文字を順に織り込んだ高度な折句の歌もあります。その歌が披露された歌会では宇多上皇と中宮温子とのお二方がそれぞれ左右の方人の頭(歌合での左右を応援する人々の長)を務めたと伝わっています。
 なお、この亭子院女郎花合はインターネット上ではほとんど資料が出回っておらず、非常に資料収集に苦労するものがあります。ここでは「国際日本文化研究センター和歌データベース(日文研)」から引用を行い、それに補足情報を付けています。
 歌の紹介において、次のようなスタイルを取らせて頂きます。
 原歌は「国際日本文化研究センター和歌データベース」の清音ひらがな表記に従う。
 原歌で掛け字と思われる箇所はそれ明記して採用する。
 歌人名などは「新編日本古典文学全集 古今和歌集(小学館)」に集載する「亭子院女郎花合」より参照した。
 歌番号は「国際日本文化研究センター和歌データベース」のものに従う。
 参考としてインターネットで閲覧できる古写本などとして次のようなものがあります。ただし、これらはすべて歌合十一番二十二首となっていて、五十一首を載せる「日文研」や国歌大観のものと大きく相違しています。
 肥前松平文庫「亭子院御時女郎花合」
 群書類聚13(和歌部)「朱雀院女郎花合」

 最後に重要なことですが、この資料は正統な教育を受けていないものが行ったものです。特に漢字交じりひらかなの和歌とその現代語訳の解釈は自己流であり、「小学館」からの写しではありません。つまり、まともな学問ではありませんから正式な資料調査の予備的なものにしか使えません。この資料を参照や参考とされる場合、その取り扱いには十分に注意をお願い致します。

参照資料:
 亭子院女郎花合 (新編日本古典文学全集 古今和歌集収蔵 小学館)
 亭子院御時女郎花合 (国際日本文化研究センター)
 亭子院御時女郎花合 (肥前松平文庫)
 朱雀院女郎花合 (群書類聚13和歌部)
 新編国歌大観 歌合編 (角川書店)

亭子院女郎花合
一番
左  
歌番号〇一 (五句目 句頭「や」は「掛け字」としています)
原歌 くさかくれ あきすきぬへき をみなへし にほひゆゑにや やまつみえぬらむ
和歌 草かくれ 秋過ぎぬべき 女郎花 匂ひゆゑにや やまづ見えぬらむ
解釈 草陰に隠れ、秋を過ごしてしまうような女郎花、それでも香しい匂いがゆえなのか、絶えず人に気付かれてしまう。
右  
歌番号〇二
原歌 あらかねの つちのしたにて あきへしは けふのうらてを まつをみなへし
和歌 あらがねの 土の下にて 秋経しは 今日の占手を まつ女郎花
解釈 荒れた地の鉱石を出だす土の下にて秋の季節を経たのは、今日の盛儀の次席である「占手」を得たのは、まず、女郎花の美しさからです。
注意 宮中相撲などの盛儀の席順で主席は「最手(ほて)」、次席を「占手」と呼びます。

二番
左  
歌番号〇三
原歌 あきののを みなへしるとも ささわけに ぬれにしそてや はなとみゆらむ
和歌 秋の野を みなへしるとも 笹わけに 濡れにし袖や 花と見ゆらむ
解釈 秋の野を皆が歩き経ていったので、露の置く笹を分けて濡れてしまった袖、その袖模様で野に咲く花のように見えるでしょう。
右  左大臣(藤原時平;この敬称は正式には昌泰二年二月以降)
歌番号〇四
原歌 をみなへし あきののかせに うちなひき こころひとつを たれによすらむ
和歌 女郎花 秋の野風に うち靡き 心ひとつを 誰れに寄すらむ
解釈 女郎花のような貴女、女郎花が秋の風に打ち靡く、貴女の誠実な一つの心を誰に寄せるのでしょうか。

三番
左  
歌番号〇五
原歌 あきことに さきはくれとも をみなへし けふをまつとの なにこそありけれ
和歌 秋ごとに 咲きは来れとも 女郎花 今朝をまつとの なにこそありけれ
解釈 毎年の秋ごとに咲く季節はやって来ますが、女郎花よ、美しく花咲く今朝を待っていると、それを待っていただけのことはありました。
右  
歌番号〇六
原歌 さやかにも けさはみえすや をみなへし きりのまかきに たちかくれつつ
和歌 さやかにも 今朝は見えずや 女郎花 霧の真垣に 立ち隠れつつ
解釈 はっきりとは今朝も見えません、女郎花よ、霧が立ち込める立派な垣根の先に立ち隠れています。

四番
左  
歌番号〇七
原歌 しらつゆの おけるあしたの をみなへし はなにもはにも たまそかかれる
和歌 白露の 置ける朝の 女郎花 花にも葉にも 玉ぞかかれる
解釈 白露が置いた朝の女郎花よ、花にも葉にも美しい玉が掛かっています。
右  
歌番号〇八
原歌 をみなへし たてるのさとを うちすきて うらみむつゆに ぬれやわたらむ
和歌 女郎花 たてるの里を うち過ぎて うらみむ露に 濡れやわたらむ
解釈 女郎花の花が一面に咲き立っている里を、通り過ぎていくと、過ぎ行く秋を恨むような露に袖はすっかり濡れてしまうでしょう。

五番
左  
歌番号〇九
原歌 あさきりと のへにむれたる をみなへし あきをすくさす いひもとめなむ
和歌 朝霧と 野辺にむれたる 女郎花 秋を過さず 言ひもとめなむ
解釈 朝霧に包まれて野辺に群れている女郎花よ、秋の季節を虚しく過ごさないように、声を掛けて今に留めましょう。
注意 「小学館」では末句が「いひそとめなむ」と異同があります。
右  
歌番号一〇
原歌 あきかせの ふきそめしより をみなへし いろふかくのみ みゆるのへかな
和歌 秋風の 吹きそめしより 女郎花 色深くのみ 見ゆる野辺かな
解釈 肌寒い秋風が吹き始めた時から、女郎花よ、花色が深くなったと感じられる野辺の景色です。

六番
左  
歌番号一一
原歌 かくをしむ あきにしあはは をみなへし うつろふことは わすれやはせぬ
和歌 かく惜しむ 秋にし遭はば 女郎花 移ろふことは わすれやはせぬ
解釈 このように惜しむ秋に出会ったのだから、女郎花よ、お前は自身の花の色があせて行く、そのことを忘れないでしょうか、いや、きっと、忘れてしまうでしょう。いつまでも。
右  
歌番号一二
原歌 なかきよに たれたのめけむ をみなへし ひとまつむしの えたことになく
和歌 長き夜に 誰れ頼めけむ 女郎花 ひとまつむしの 枝ごとに鳴く
解釈 秋のこの長い夜に、一体、誰が来ることを期待するのだろうか、女郎花よ、人を待つ、その言葉の響きではないが、松虫が枝ごとに鳴いています。

七番
左  壬生忠岑
歌番号一三
原歌 ひとのみる ことやくるしき をみなへし あききりにのみ たちかくるらむ
和歌 人の見る ことやくるしき 女郎花 秋霧にのみ 立ち隠るらむ
解釈 あの人に見つめられることが嫌なのだろうか、女郎花よ、秋の霧の中に、その立ち姿を隠します。
右  
歌番号一四
原歌 とりてみは はかなからむや をみなへし そてにつつめる しらつゆのたま
和歌 取りて見は はかなからむや 女郎花 袖につつめる 白露の玉
解釈 美しいと手に取って眺めれば儚く消えてしまうでしょう、女郎花の葉の袖に大切に包んでいる白露の玉は。

八番
左  凡河内躬恒
歌番号一五
原歌 をみなへし ふきすきてくる あきかせは めにはみえねと かこそしるけれ
和歌 女郎花 吹き過きて来る 秋風は 目には見えねと 香こぞ知るけれ
解釈 女郎花よ、ほのかに吹き過ぎて来る秋風は目には見えませんが、花の香りでそれに気づかされます。
右  
歌番号一六
原歌 ひさかたの つきひとをとこ をみなへし あまたあるのへを すきかてにする
和歌 ひさかたの 月人壮士 女郎花 あまたある野辺を 過ぎがてにする
解釈 遥か彼方の月に棲む壮士は、美しい女郎花がたくさんに咲く野辺を通り過ぎ難そうな振る舞いです。

九番
左  藤原興風
歌番号一七  
原歌 あきののの つゆにおかるる をみなへし はらふひとなみ ぬれつつやふる
和歌 秋の野の 露に置かるる 女郎花 払ふひとなみ 濡れつつやふる
解釈 秋の野に露に置き懸かる女郎花よ、それを払う人もいなくて、いつまでも濡れたままで時が過ぎるのでしょう。
右  
歌番号一八
原歌 あたなりと なにそたちぬる をみなへし なとあきののに おひそめにけむ
和歌 仇なりと 名にぞ立ちぬる 女郎花 など秋の野に 思ひ染めにけむ
解釈 浮気な人と噂話に名が立ちました、その女郎花よ、どうして秋の野、飽きの野(浮気な男)に恋の思いを染めたのか。

十番
左  
歌番号一九
原歌 をみなへし うつろふあきの ほとをなみ ねさへうつして をしむけふかな
和歌 女郎花 移ろふ秋の 程をなみ ねさへ移して 惜しむ今日かな
解釈 女郎花、花色も褪せ枯れていく秋の季節なので、私の屋敷へと根さえも掘り移して、過ぎ行く季節を惜しむ、今日であります。
右  
歌番号二〇
原歌 うつらすは ふゆともわかし をみなへし ときはのえたに さきかへるらむ
和歌 移らすは 冬ともわかし 女郎花 常盤の枝に 咲きかへるらむ
解釈 花色が褪せて枯れて行かなければ冬の季節とも気が付かなかった、女郎花よ、いつまでも美しい常盤の枝に咲き返らないものでしょうか。

十一番
左  御製(宇多上皇)
歌番号二一  
原歌 をみなへし このあきまてそ まさるへき つよをもぬきて たまにまとはせ
和歌 女郎花 この秋までぞ 勝るべき 勁(つよ)をも貫きて 玉に纏はせ
解釈 女郎花よ、この秋が終わるまで美しくいなさい、立派に花を糸に貫いて美しい玉として身に纏わせましょう。
異同 女郎花 この秋までぞ まばるべき 露をも貫きて 玉にまどはせ(「小学館」)
右  后宮(中宮温子)
歌番号二二  
原歌 きみにより のへをはなれし をみなへし おなしこころに あきをととめよ
和歌 君により 野辺をはなれし 女郎花 おなじ心に 秋をとどめよ
解釈 上皇の御手により花飾りとして野辺を離れた女郎花の花よ、野に居た時と同じ気持ちで、秋の風情を花飾りに留めなさい。

これ以下の歌は伝本によっては集載がありません。インターネットで参照が容易な次のものでは先の十一番の歌組までです。
 群書類聚13(和歌部):「朱雀院女郎花合」
 肥前松平文庫「亭子院御時女郎花合」


これは、合わせぬ歌ども
をみなへしといふ言を句の上下にてよめる

歌番号二三 (各句の頭の文字が「を」、「む」、「な」、「て」、「し」です)
原歌 をるはなを むなしくなさむ なををしな てふにもなして しひやとめまし
和歌 折る花を 虚しくなさむ 名を惜しな てふにもなして 強ひや止めまし
解釈 手折った花をこのままに枯らし虚しくすることは、女郎花の名が惜しいです、秋が過ぎ行く今日であっても無理にでも枯れ行くのを引き留めましょう。
注意 「小学館」は四句目「てふにもなして」を「蝶にもなして」と解釈し、他は折句の「てふ」を「けふ」と解釈します。

歌番号二四 (各句の頭の文字が「を」、「む」、「な」、「て」、「し」です)
原歌 をるひとを みなうらめしみ なけくかな てるひにあてて しもにおかせし
和歌 折る人を みな恨めしみ 嘆くかな 照る日にあてて 霜に置かせし
解釈 花を手折る人を皆が恨み嘆いています、女郎花は野の照る日に当てて、霜を置かさないで、(いつまでも美しくいて欲しい。)

歌番号二五 (初句の四字は欠字、各句の頭の文字が「を」、「む」、「な」、「て」、「し」です)
原歌 をXXXX むつれなつれむ なそもあやな てにとりつみて しはしかくさし
和歌 をXXXX 睦れな連れむ なぞもあやな 手に取り摘みて しばし隠さじ
解釈 (参考:小田深山)、そこへ皆で睦ましく連れ立って行こう、さてどうして理由もないのに、女郎花の花を手に取り摘み持ち、しばし、人目から隠さないでしょうか、いや、これは自分だけと隠してしまいます。

これは上のかぎりにすゑたり

歌番号二六 (各句の頭の文字が「を」、「む」、「な」、「へ」、「し」です)
原歌 をののえは みなくちにけり なにもせて へしほとをたに しらすさりける
和歌 小野の江は 水口にけり なにもせで 経しほどをだに 知らずざりける
解釈 小野の入り江は川の河口です、まったく気が付かないで通り過ぎたのですが、小野の入り江が河口だとは知りませんでした。
別案 斧の柄は みな朽ちにけり なにもせで 経しほどをだに 知らずざりける(小学館)
解釈 ふと我に帰ったときには斧の柄が、皆、朽ちてしまっていました、私は何もしていないのに、その過ぎ去った時間に気が付きませんでした。

歌番号二七 (各句の頭の文字が「を」、「む」、「な」、「へ」、「し」です)
原歌 をせきやま みちふみまかひ なかそらに へむやそのあきの しらぬやまへに
和歌 をせき山 路踏みまがひ なか空に 経むやその秋の 知らぬ山辺に
解釈 小関山、その山路を踏み入り迷い、落ち着かない気持ちで時を過ごすのか、その秋の道を知らない山辺に居て。

歌番号二八 (各句の頭の文字が「を」、「み」、「な」、「て」、「し」です)
原歌 をりもちて みしはなゆゑに なこりなく てまさへまかひ しみつきにけり
和歌 折り持ちて 見し花ゆゑに なごりなく てまさへまがひ しみつきにけり
解釈 手折って手に持ち眺めた花のために、しみじみと花を眺める余裕もなく、花を持つ手の間にも花びらが散り交がい、私の手にその花の香りが染みついてしまいました。

これは、その日、みな人々によませ給ふ

歌番号二九  源のつらなり(源連)
原歌 わかやとを みなへしひとの すきゆかは あきのくさはは しくれさらまし
和歌 我が宿を 見なへし人の すきゆかば 秋の草葉は 時雨ざらまし
解釈 私の屋敷に咲く女郎花の花を眺めた人が通り過ぎていくのですから、その時は秋の草葉は時雨に降れることもないでしょう。

歌番号三〇  致行(源宗于)
原歌 をしめとも えたにとまらぬ もみちはを みなへしおきて あきののちみむ
和歌 惜しめども 枝に留まらぬ 紅葉を みなへし置きて 秋ののち見む
解釈 いくら残念に思っても、枝に留まらない紅葉を、皆、押し葉に留めて置いて、秋が過ぎ去ってから見返しましょう。

歌番号三一  のちかた
原歌 いまよりは なてておほさむ をみなへし ときあるあきに あふとおもへは
和歌 今よりは なてておほさむ 女郎花 ときある秋に 逢ふと思へば
解釈 今からは大切に撫でるように育てましょう、女郎花よ、眺める時が来る秋に、その花の盛りに逢うでしょうと思うと。

歌番号三二  すすく(源漑)
原歌 あききりに ゆくへやまとふ をみなへし はかなくのへに ひとりほのめく
和歌 秋霧に ゆくへやまとふ 女郎花 はかなく野辺に ひとりほのめく
解釈 秋の霧に行き先を迷ったのか、女郎花よ、心細そうに野辺の中で、一群れが霧の中でぼうっと見える。

歌番号三三  もとより
原歌 たつたやま あきをみなへし すくさねは おくるぬさこそ もみちなりけれ
和歌 龍田山 秋をみなへし すぐさねば おくる幣こそ 紅葉なりけれ
解釈 龍田山、その秋の木々のみなが時を過ごし終えていないので、龍田の神に贈る幣こそが、真っ赤に色付いた紅葉だったのです。

歌番号三四  好風(藤原好風)
原歌 あききりを みなへしなひく ふくかせを このひともとに はなはちるらし
和歌 秋霧を みなへし靡く 吹く風を このひともとに 花は散るらし
解釈 秋の霧の中を女郎花の皆が押し伏せて靡く、その吹く風を恨んで、この一本の女郎花の花は散るでしょう。

歌番号三五  やすき
原歌 をみなへし あきののをわけ をりつれは やとあれぬとて まつむしそなく
和歌 女郎花 秋の野を分け 折りつれば 宿あれぬとて まつ蟲ぞなく
解釈 女郎花、秋の野を押し分けてそれを手折れば、私の住む宿が人の手で荒れてしまったと、松虫が悲し気に泣いています。

歌番号三六  あまね
原歌 むしのねに なきまとはせる をみなへし をれはたもとに きりのこりゐる
和歌 蟲の音に 鳴きまとはせる 女郎花 折れば袂に きりのこりゐる
解釈 人がやって来ると虫の音に鳴き惑わされている女郎花、その女郎花を手折れば、袂は虫の涙のような僅かな霧が懸かり残ったように濡れている。

歌番号三七  希世(平希世)
原歌 なにしおへは あはれとおもふを をみなへし たれをうしとか またきうつろふ
和歌 なにしおへば あはれと思ふを 女郎花 誰れを憂しとか またき移ろふ
解釈 文字で書けば女郎花と言う名前を背負えば、優雅だと思う、その女郎花の花よ、それなのに、誰の誘いを嫌ってか、早くも花の命を終えようとする。

歌番号三八  もとゆき
原歌 ちるはなを みなへしはなの あはかせの ふかむことをは くるしからしな
和歌 散る花を みなへし花の 遭は風の 吹かむことをば 苦しからしな
解釈 散ってしまうべき花を、皆、終わらせてしまった女郎花の花は、秋に遭うべき風が吹くだろうことを辛いこととは思わないでしょう。

歌番号三九
原歌 ときのまも あきのいろをや をみなへし なかきあたなに いはれはてなむ
和歌 ときの間も 秋の色をや 女郎花 長きあだなに いはれ果てなむ
解釈 秋と言う季節の間も、秋を代表する花の色として、女郎花よ、長い間を美しいと評判であった、その評判のいわれを最後まで果たして咲いていて欲しい。

歌番号四〇
原歌 あきののの くさをみなへし しらぬみは はなのなにこそ おとろかれぬれ
和歌 秋の野の 草をみなへし しらぬみは 花の名にこそ 驚かれぬれ
解釈 秋の野の草の名を、皆、一通りほどは知らない私は、これが女郎花と知らされた、その花の名にこそ、これがそれなのかとばかり、驚いてしまいました。

歌番号四一 (各句の頭の文字が「を」、「み」、「な」、「へ」、「し」です)
原歌 をとこやま みねふみわけて なくしかは へしとやおもふ しひてあきには
和歌 をとこ山 峰踏み分けて 鳴く鹿は 経しとや思ふ しひて秋には
解釈 男山、その峯を踏み分けて鳴く鹿が、このままに通り過ぎたくないと思う、無性に、この秋の景色に。

歌番号四二 (各句の頭の文字が「を」、「み」、「な」、「へ」、「し」です)
原歌 をくらやま みねのもみちは なにをいとに へてかおりけむ しるやしらすや
和歌 をぐら山 峰の紅葉は なにをいとに 綜てかおりけむ 知るや知らすや
解釈 小倉山、その峯の紅葉は何を縦糸にしてあのような彩りの布を織ったのでしょうか、それは誰にも判らないことらしい。

歌番号四三
原歌 ありへても くちしはてねは をみなへし ひとさかりゆく あきもありけり
和歌 ありへても くちしはてねは 女郎花 ひとさかりゆく 秋もありけり
解釈 このままに時を経ても、やがては朽ち果てねばならない、女郎花よ、一つの花盛りがあって散り逝く、そのような秋があってもいいでしょう。

歌番号四四
原歌 おほよそに なへてをらるな をみなへし のちうきものそ ひとのこころは
和歌 おほよそに なべて折らるな 女郎花 のち憂きものぞ 人の心は
解釈 雰囲気に任せてすっかりその気で手折られるな、女郎花よ、簡単に手折られてしまったその後は辛いものですよ、あなたを手折ったその人の心持ちからは。

歌番号四五
原歌 をみなへし やまののくさと ふりしかと さかゆくときも ありけむものを
和歌 女郎花 山の野草と 経りしかど 栄ゆくときも ありけむものを
解釈 女郎花と、今では一つの山の野の草と時を経てなってしまったが、花の盛りの時もあったのですが。

歌番号四六
原歌 をみなへし さけるやまへの あきかせは ふくゆふかけを たれかかたらむ
和歌 女郎花 咲ける山辺の 秋風は 吹く夕影を 誰か語らむ
解釈 女郎花が咲いている山の辺に秋風が吹く、その風が吹く夕暮れの赤き日の光の野辺の様を、さて、誰が私と語り合うのでしょうか。ねぇ、貴女。

歌番号四七
原歌 をみなへし なとかあきしも にほふらむ はなのこころを ひともしれとか
和歌 女郎花 などか秋しも 匂ふらむ 花の心を 人も知れとか
解釈 女郎花(のような貴女)よ、どうしてこの秋の季節に咲き誇るのでしょう、その盛りとなった花の心を、あの人にも知って欲しいと言う訳なのでしょうか。

歌番号四八
原歌 てをとらは ひとやとかめむ をみなへし にほへるのへに やとやからまし
和歌 手を取らば 人やとがめむ 女郎花 匂ほへる野辺に 宿や借らまし
解釈 (貴女と言う花を)手に手折って取れば、人はきっと怪しむでしょう、その女郎花(のような貴女)よ。それならば、その女郎花が咲き誇る野辺に今宵の宿を借りましょう。

歌番号四九
原歌 やほとめの そてかとそみる をみなへし きみをいはひて なてはしめてき
和歌 やほとめの 袖かとぞ見る 女郎花 君を祝ひて なてはじめてき
解釈 八人の乙女の袖かと思いました、その女郎花の花は、貴方の長寿を祝って、永遠の時のために岩を撫で始めたのでしょう。
注意 天女が袖で岩を撫でて、その岩が擦れ失せるまでの、永遠の時間の説話が題材です。

歌番号五〇
原歌 うゑなから かつはたのます をみなへし うつろふあきの ほとしなけれは
和歌 植ゑながら かつは頼のます 女郎花 移ろふ秋の ほとしなければ
解釈 わざわざと女郎花を植え替えながら、それでも美しく咲き誇ることを大きくは期待はしない、その女郎花、だって、過ぎ行く秋の時間はそれほど長くはないのだから。

歌番号五一  伊勢
原歌 のへことに たちかくれつつ をみなへし ふくあきかせの みえすもあらなむ
和歌 野辺ごとに 立ち隠れつつ 女郎花 吹く秋風の 見えずもあらなむ
解釈 野辺ごとに美しく立ち咲いてはいても物陰に隠れている女郎花、花を散らす吹く秋風にその女郎花を見つけられないでいて欲しいものです。

以上、紹介をしました。

補足資料:古今和歌集に載る亭子院女郎花合(朱雀院女郎花合)の歌八首
古今和歌集では「朱雀院女郎花合」の名称の詞書を与えた上で歌を採歌しています。およそ、古今和歌集では「朱雀院女郎花合」と云う別な名称の歌合集から採歌したことになっていますが、群書類聚13(和歌部)「朱雀院女郎花合」や肥前松平文庫「亭子院御時女郎花合」を参照しますと、同じ歌を載せた歌合集です。そうした時、古今和歌集に載る亭子院女郎花合(朱雀院女郎花合)の歌八首を確認しますと、八首中三首だけが亭子院女郎花合に確認できるだけです。従いまして、残り五首の状況からしますと伝存する亭子院女郎花合と紀貫之の時代のものとでは相違している可能性があります。

一  
古今歌番号二三〇  左大臣(藤原時平)
詞書 朱雀院の女郎花あはせによみてたてまつりける
原歌 をみなへし あきののかせに うちなひき こころひとつを たれによすらむ
和歌 女郎花 秋の野風に うちなびき 心ひとつを 誰によすらむ
解釈 女郎花のような愛しい貴女、秋の野に吹く風に女郎花が打ち靡くように、その貴女のたった一つの心を誰に寄せるのだろうか。

二  (この歌、亭子院女郎花合に無し)
古今歌番号二三一  藤原定方
詞書 朱雀院の女郎花あはせによみてたてまつりける
原歌 あきならて あふことかたき をみなへし あまのかはらに おひぬものゆゑ
和歌 秋ならで あふことかたき 女郎花 天の河原に おひぬものゆゑ
解釈 秋でなくては逢うことが難しい女郎花よ、お前はあの七夕の天の河原に生えている訳でもないのに。

三  (この歌、亭子院女郎花合に無し)
古今歌番号二三二  紀貫之
詞書 朱雀院の女郎花あはせによみてたてまつりける
原歌 たかあきに あらぬものゆゑ をみなへし なそいろにいてて またきうつろふ
和歌 たが秋に あらぬものゆゑ 女郎花 なぞ色にいでて まだきうつろふ
解釈 誰に限った秋にでもないものだからか、女郎花よ、どうして、すぐに花色を現わして、まだその時期でもないのに、早くも色褪せてしまうのか。

四  (この歌、亭子院女郎花合に無し)
古今歌番号二三三  凡河内躬恒
詞書 朱雀院の女郎花あはせによみてたてまつりける
原歌 つまこふる しかそなくなる をみなへし おのかすむのの はなとしらすや
和歌 つま恋ふる 鹿ぞ鳴くなる 女郎花 おのがすむ野の 花と知らずや
解釈 妻を求めて鹿が鳴いている。その野に咲く女郎花は自分の住んでいる野の花だと知らないのだろうか。

五  
古今歌番号二三四  凡河内躬恒
詞書 朱雀院の女郎花あはせによみてたてまつりける
原歌 をみなへし ふきすきてくる あきかせは めにはみへねと かこそしるけれ
和歌 女郎花 吹きすぎてくる 秋風は 目には見へねど 香こそしるけれ
解釈 女郎花よ、吹き過ぎて来る秋風は目には見えないが、女郎花の花の香りで気づかされます。

六  
古今歌番号二三五  壬生忠岑
詞書 朱雀院の女郎花あはせによみてたてまつりける
原歌 ひとのみる ことやくるしき をみなへし あききりにのみ たちかくるらむ
和歌 人の見る ことやくるしき 女郎花 秋霧にのみ 立ち隠るらむ
解釈 人がじろじろと見ることが嫌なのか、女郎花は秋霧にだけ己が身を立ち隠れるようです。

七  (この歌、亭子院女郎花合に無し)
古今歌番号二三六  壬生忠岑
詞書 朱雀院の女郎花あはせによみてたてまつりける
原歌 ひとりのみ なかむるよりは をみなへし わかすむやとに うゑてみましを
和歌 ひとりのみ ながむるよりは 女郎花 我が住む宿に 植ゑて見ましを
解釈 私ただ独りで眺めているよりも、女郎花は、私が住む屋敷に移し植えて、友を呼び眺めたいものです。

八  (この歌、亭子院女郎花合に無し)
古今歌番号四三九  紀貫之
詞書 朱雀院の女郎花あはせの時に、女郎花といふ五文字を句のかしらにおきてよめる
原歌 をくらやま みねたちならし なくしかの へにけむあきを しるひとそなき
和歌 をぐら山 峰たちならし 鳴く鹿の へにけむ秋を 知る人ぞなき
解釈 小倉山の、その峰に立ち馴れて鳴く鹿が過ごしてきただろう秋の様子を知る人はいません。

 私が紹介する亭子院女郎花合、是貞親王家歌合、寛平御時后宮歌合、亭子院歌合などを参照すると、平安時代初期での歌合は事前に歌会を仕切る講師が歌を収集し、その中から秀歌を選別した上で左右の対となる歌番組を編成し、宴の当日に講師が歌番組を披露し、歌への講評と優劣及びその理由を紹介したと思われます。
 風流士のたしなみとして歌会の宴で即興から歌を作り詠うことがあっても、歌合の歌は事前に準備され、主催者側での秀歌選別を経たものだったと考えられます。このような状況を踏まえますと、歌合集には載らないが古今和歌集や後撰和歌集などに歌合集の歌と紹介されるのは、ときにそれは落選歌であったかもしれません。
 一方、古今和歌集などでの歌に付けられた「秋の歌合せしける時によめる(巻五歌番号二五一)」のような詞書から歌が創作された時期の推定は可能ですが、亭子院女郎花合の歌番号二九以下の歌に「これは、その日、みな人々によませ給ふ」との注記が付けられるように歌合集に載る歌であるから、それらはすべて歌合の宴の招集が呼びかけられたときに創作されたとすることは疑問です。作品の創作時期と披露では歌人が四十代以上の人物ですと、可能性として二十年以上前に創作された歌である可能性も残ります。万葉集に例を取りますと次のような山上憶良が詠う歌があり、その作品の構想・着手時期(神亀二年:725)と披露の時期(天平五年:734)とでは大きく違います。

万葉集歌番号九〇三
原文 倭父手纒 數母不在 身尓波在等 千年尓母可等 意母保由留加母
訓読 倭文(しつ)手纒き数にも在(あ)らぬ身には在れど千歳(ちとせ)にもがと思ほゆるかも
左注として付けられた説明文
原文 去神龜二年作之 但以故更載於茲。天平五年六月丙申朔三日戊戌作
訓読 去る神龜二年に之を作れり。但し、以つて故に更(さら)に茲(ここ)に載す。天平五年六月丙申の朔(ついたち)にして三日戊戌の日に作れり。

 このように平安初期の歌合でのルールからすると、標準的な研究者が漠然と歌合歌はその歌合で創作されたものと云う仮定の設定は非常に危ういものになりますし、そこらから古今和歌集の再編纂時期を推定することはさらに危ういことになります。
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資料編 延喜十三年亭子院歌合(原文、和歌、解釈及び亭子院歌合日記付)

2016年04月17日 | 資料書庫
資料編 延喜十三年亭子院歌合(原文、和歌、解釈及び亭子院歌合日記付)

 ここでは延喜十三年亭子院歌合の歌と共に伊勢が書き残した亭子院歌合日記付を併せて紹介します。
 さて、その延喜十三年亭子院歌合と云う歌集は延喜十三年(913)に宇多法皇が自分の御所としていた亭子院において開いた歌合での歌を記録したものです。この歌合は歌人である伊勢が書き残した日記によって世に知られていますが、伊勢が書き残した日記からしますと、歌合は「二月」、「三月」、「四月」を題としてそれぞれ十番、十番、五番の歌を合わせた歌会であったと思われます。つまり、伊勢が残した原典では二十五番五十首の歌を載せたものとなります。
 ところが、現代に伝わる延喜十三年亭子院歌合の写本では、「四月」の五番にさらに五番を追加して十番二十首とし、他に「恋」と云う題で新たに十番二十首が付加されています。つまり、「二月」、「三月」、「四月」、「恋」の四つの部立でそれぞれ十番二十首、都合八十首の歌を載せた歌合歌集として伝わっています。つまり、後年に十五番三十首が追記されたことになります。
 伝わる歌合から推定して、この歌合は宴の当日に新たに作成した歌を詠い披露するのではなく、事前に計画・通知されたテーマに合わせて招待予定の歌人がそれぞれに歌を用意して幹事歌人(講師:推定で宇多法皇側近、六位蔵人藤原忠房)に提出し、幹事歌人が提出された歌を取捨選択した上で番組を作り、宴の当日に左右の歌の優劣について当時の有名歌人であった藤原忠房が講師を務め、彼から判定と講評を聞くようなものだったと思われます。これを示すように、歌合の番組では左右ともに同じ歌人の歌の組み合わせが少なくとも三組が載せられています。実際には講師の予定であった藤原忠房は宴当日に欠席し、宴の主催者である宇多法皇が事前の判定に対しての講評を行っています。それを伊勢は「右は勝ちたれど、内の御歌ふたつを勝にておきたれば(歌合の結果は右方が勝ったのであるが、じつは法皇の二首のお歌を勝ちにしておいたのだから)」と記録しています。
 参考として歌合の歌の前に、伊勢が記したとする亭子院歌合日記を紹介します。亭子院歌合日記の風景からしますと、歌々は事前に用意されたものであり、当日に即興で詠ったものではありませんから、古今和歌集の集載歌と延喜十三年亭子院歌合の集載歌との重複をもって古今和歌集の再編纂が延喜五年以降にもあったとの根拠にすることは出来ません。歌合集からは亭子院歌合に載る歌が延喜十三年春に新作されたと云うことはどこにも示されていないのです。
 本編はその四十番の歌を載せた歌合集となる小学館の「日本古典文学全集 古今和歌集」に収容する「延喜十三年亭子院歌合」に従っています。このため、インターネットで参照が容易な国際日本文化研究センター収容の「亭子院歌合」とは相違しています。
 ここでの歌の紹介において、次のような約束を取らせて頂きます。
 原歌は「国際日本文化研究センター和歌データベース」の清音ひらがな表記に従う。
 歌人名や詞書などは小学館『日本古典文学全集 古今和歌集』に収容する「延喜十三年亭子院歌合」に従う。
 歌番号は私が本編集のために独自に付けた。
 歌人名を漢字表記にしたものもある。
 亭子院歌合日記は『王朝日記文芸抄(金井利浩)』から引用し、漢字は仮名に直した。
 さらに補記をいたしますと、「小学館」のものにおいて歌番号五九の歌は欠落していますし、歌番号七一の歌は歌合とならない歌、つまり、左右二首一組ではなく一首単独の歌として載せられています。従いまして欠落を含めますと、ある時点での伊勢本からの写本では八十一首(歌の存在は八十首)が載る歌合集です。私の編集ではこの歌数「八十一」を採用しています。対して「小学館」は八十であり、「日文研」は七十です。なお、紹介します歌は歌番号、歌人、原歌、和歌、解釈の順とし、二首一組としています。歌人の中で身分の低い蔵人や女蔵人が詠うものに対して伊勢の記録にはその詠い手の名前はありません。
 最後に重要なことですが、この資料は正統な教育を受けていないものが行ったものです。特に読解の便を計って付けた「和歌」と「解釈」は私の自己流であり、「小学館」からの写しではありません。つまり、まともな学問ではありませんから正式な資料調査の予備的なものにしか使えません。この資料を参照や参考とされる場合、その取り扱いには十分に注意をお願い致します。

資料参照:
 延喜十三年亭子院歌合 (日本古典文学全集 古今和歌集収蔵 小学館)
 延喜十三年亭子院歌合 (国際日本文化研究センター)
 亭子院歌合日記 (王朝日記文芸抄 金井利浩 武蔵野書院)
 延喜十三年三月十三日亭子院歌合 (日本古典文学大系 歌合集 岩波書店)
 新編国歌大観 歌合編 (角川書店)

亭子院歌合日記 伊勢

ひたりのとう(左頭)をんな(女)ろくのみや(六宮)、かた(方)のみこ、おほんせうと(御兄人)のなかのまつりこと(中務)のし(四)のみこ(親王)、たんしよう(弾正)のこ(五)のみこ(親王)、なかのものまうすつかさ(中納言)ふちはらのさたかた(藤原定方)朝臣、さゑもんのかみ(左衛門督)なかみつ(有実)朝臣、うたよみ、ふちはらのおきかせ(藤原興風)、おふしかうちのみつね(凡河内躬恒)、かたうと(方人)、むねゆき(致行)、よしかせ(好風)らなむ。
みきのとう(右頭)をんな(女)ななのみや(七宮)、かた(方)のみこ(親王)、おほんせうと(御兄人)のこうつけ(上野)のはちのみや(八宮)、せいはのさたかす(清和貞数)のはちのみや(八宮)、なかのものまうすつかさ(中納言)みなもとののほる(源昇)朝臣、うゑもんのかみ(右衛門督)きよつら(清貫)朝臣、うた(歌)よみ、これのり(是則)、つらゆき(貫之)、かたうと(方人)、かねみ(兼覧)のおほきみ(王)、きよみちの朝臣。
みかと(帝)のおほむしようふそく(御装束)、ひはたいろ(檜皮色)のおほんそ(御衣)にしようわいろ(承和色)のおほんはかま(御袴)。をとこをむな(男女)、ひたり(左)はあかいろにさくらかさね、みき(右)はあをいろにやなきかさね。ひたり(左)はうたよみ、かすさしのわらは(童)、れいのあかいろにうすすはう(薄蘇芳)あや(綾)のうへのはかま、みき(右)にはあをいろにもえき(萌葱)のあや(綾)のうへのはかま。かたかたのみこ(方方親王)、あをいろあかいろみなたてまつれり。
かくて、ひたり(左)のそふ(奏)はみのとき(巳時)にたてまつる。かた(方)のみや(宮)たちみなしようそく(装束)めでたくして、すはま(州浜)たてまつる。まふちきみ(大夫)よたり(四人)かけり(担けり)。かく(楽)はわうしきてう(黄鍾調)にていせのうみ(伊勢海)といふうたをあそふ。みき(右)のすはま(州浜)はうまのとき(午時)にたてまつる。おほきなるわらは(童)よたり(四人)、みつら(美豆良)ゆひ、しかいは(四海波)きて(着て)かけり(担けり)。かく(楽)はそうてう(双調)にてたけかは(竹河)といふうたをいとしつやかにあそひて、かたみや(方宮)たちもてはやしてまゐりたまふ。ひたりのそふ(左奏)はさくらのえたにつけて、なかのものまうすつかさ(中務)のみこ(親王)もたまへり。みき(右)はやなきにつけて、かうつけ(上野)のみこ(親王)もたまへり。うた(歌)は、したん(紫檀)のはこちひさくて、おなしこといれたり。かんたちめ(上達部)、はしのひたりみき(左右)にみなあかれ(上かれ)てさふらひたまふ。によくらふと(女蔵人)よたり(四人)つつひたりみき(左右)にさふらはせたまふ。うた(歌)のかんし(講師)は、をんな(女)なむつかまつりける。みす(御簾)いちしやくこすん(一尺五寸)はかりまきあけて、うた(歌)よまむとするに、うへ(上)のおほせたまふ。このうたをたれかはききはやしてことわらむとする。たたふさ(忠房)やさふらふとおほせたまふ。さふらはすとまうしたまへは、さうさうしからせたまふ。
みき(右)はかちたれとも、うち(内)のおほんうた(御歌)ふたつをかちにておきたれは、みき(右)ひとつ(一)まけたり。されと、ほとときすのはうのはなにつけたり。よ(夜)のうたは、うふね(浮舟)してかかり(篝)にいれてもたせたり。ひたりのかた(左方)のみや(宮)に、みき(右)のかたのたてまつりたまひける、しろかねのつほのおほきなるふたつに、しん(沈)あはせたきもの(薫物)いれたりけり。かた(方)のをんな、ひとひと(人々)にみなそうそく(装束)たま(給)ひけり。
たい(題)はきさらき(二月)やよひ(三月)うつき(四月)なり。

注意:文中の()の中の漢字が王朝日記文芸抄(金井利浩)で示すもので、それを伊勢の時代の言葉に直しています。なお、日本古典文学大系 歌合集では漢字交じりひらかなの文章で紹介した上で亭子院歌合の中に地文扱いで取り込み、本来の姿を留めていません。扱う資料で趣が大きく違いますので、そこは参照目的に応じて対応をお願いします。


延喜十三年三月十三日亭子院歌合


二月 十首
二月一番 持
左  伊勢
歌番号〇一 
原歌 あをやきの えたにかかれる はるさめは いともてぬける たまかとそみる
和歌 青柳の 枝にかかれる 春雨は 糸もてぬける 玉かとぞ見る
解釈 青柳の枝に降り懸かる春雨は、糸で貫いた珠とばかりに見えます。
右  坂上是則
歌番号〇二 
原歌 あさみとり そめてみたるる あをやきの いとをははるの かせやよるらむ
和歌 浅緑 そめて乱れる 青柳の 糸をばはるの 風や縒るらむ
解釈 浅緑に染めて乱れる青柳の枝、その糸のような枝を春風が靡かせ縒っているように見えます。

二月二番 持
左  凡河内躬恒
歌番号〇三 
原歌 さかさらむ ものならなくに さくらはな おもかけにのみ またきみゆらむ
和歌 咲かざれむ ものならなくに 桜花 面影にのみ まだき見ゆらむ
解釈 咲かないと言うものでは無いので、散る過ぎた桜花は、思い出の中で未だに眺めています。
右  紀貫之
歌番号〇四 
原歌 やまさくら さきぬるときは つねよりも みねのしらくも たちまさりけり
和歌 山桜 咲きむるときは つねよりも 峰の白雲 たちまさりけり
解釈 山桜が咲き誇っている時は、日ごろに眺める峰に懸かる白雲が一層に立ち勝っているように見えます。

二月三番
左  凡河内躬恒
歌番号〇五 勝
原歌 きつつのみ なくうくひすの ふるさとは ちりにしうめの はなにさりける
和歌 来つつのみ 鳴く鶯の 故里は 散りにし梅の 花にざりける
解釈 飛び来て留まることもなく鳴く鶯の古き里は、散る過ぎた梅の花の風情のようです。
右  坂上是則
歌番号〇六 
原歌 みちよへて なるてふももは ことしより はなさくはるに あひそしにける
和歌 三千代経て なるてふ桃は 今年より 花咲く春に あひぞしにける
解釈 三千年の時を経て実が成ると言う西王母の長寿の桃の話ではありませんが、今年から植えて待っていた桃の花が咲く春に出会うことが出来ました。

二月四番
左  藤原季方
歌番号〇七 
原歌 いそのかみ ふるのやまへの さくらはな こそみしはなの いろやのこれる
和歌 いそのかみ 布留の山べの 桜花 去年見し花の 色やのこれる
解釈 石上の布留の里の山辺に咲く今年の桜花、それは去年に眺めた花の色どりが残っているかのようです。
右  伊勢
歌番号〇八 勝
原歌 ほともなく ちりなむものを さくらはな ここらひささも またせつるかな
和歌 ほどもなく 散りなむものを 桜花 ここらひささも 待たせつるかな
解釈 すこし時が経てば散り過ぎて行くはずの桜花、でもたいそう長く、その咲き出すのを待たせます。

二月五番
左  紀貫之
歌番号〇九 勝
原歌 はるかすみ たちしかくせは やまさくら ひとしれすこそ ちりぬへらなれ
和歌 春霞 たちし隠せば 山桜 人知れずこそ 散りぬべらなれ
解釈 このように春霞が立ってその姿を隠してしまえば、盛りの山桜は人が気づかぬ間に散り過ぎてしまうでしょうね。
右  藤原興風
歌番号一〇 
原歌 たのまれぬ はなのこころと おもへはや ちらぬさきより うくひすのなく
和歌 頼まれぬ 花の心と 思へばや 散らぬさきより 鶯の鳴く
解釈 いつまでも咲いているだろうとは当てには出来ない花の気持ちと私が思うからだろうか、花が散り過ぎ来て行く前から鶯が鳴いている。

二月六番
左  御製(宇多法皇)
歌番号一一 勝
原歌 はるかせの ふかぬよにたに あらませは こころのとかに はなはみてまし
和歌 春風の 吹かぬ世にだに あらませば 心のどかに 花は見てまし
解釈 花散らしの春風が吹かないこの世であったなら、花が散り逝くことを気に掛けず、心穏やかに盛りの花を見ていられるでしょう。
右  (判者の藤原忠房)
歌番号一二 
原歌 ちりぬとも ありとたのまむ さくらはな はるはすきぬと われにきかすな
和歌 散りぬとも ありとたのまぬ 桜花 春は過ぎぬと われに聞かすな
解釈 散ったとしても、まだ、散ってはいないと思いましょう、その桜花、花が散り春は過ぎて行きましたと、私に季節の移ろいを聞かさないでくれ。
注意 歌合集では右の歌人を判者の藤原忠房と推定します。

二月七番
左  紀貫之
歌番号一三 勝
原歌 さくらちる このしたかせは さむからて そらにしられぬ ゆきそふりける
和歌 桜散る 木の下風は 寒からで 空に知られぬ 雪ぞ降りけり
解釈 桜の花が散る、この木の下に吹く風は、もう、寒くはないが、ここには天空に気付かれない、この花の雪が降っています。
右  凡河内躬恒
歌番号一四 
原歌 わかこころ はるのやまへに あくかれて なかなかしひを けふもくらしつ
和歌 わが心 春の山べに あくがれて ながながし日を 今日も暮らしつ
解釈 私の気持ちは春の野辺の風情に心が躍り抜け出て、長々しく日が延びた日を、今日も過ごしました。

二月八番 持
左  凡河内躬恒
歌番号一五 
原歌 さくらはな いかてかひとの をりてみぬ のちこそまさる いろもいてこめ
和歌 桜花 いかでか人の 折りてみぬ のちこそまさる 色もいでこめ
解釈 あの美しい桜の花をどうして人は手折って眺めないのだろうか、手折って屋敷内に活けたのちにはより一層に美しさも見いだせるでしょうに。
右  凡河内躬恒
歌番号一六 
原歌 うたたねの ゆめにやあるらむ さくらはな はかなくみてそ やみぬへらなる
和歌 うたた寝の 夢にやあるらむ 桜花 はかなく見てぞ やみぬべらなる
解釈 僅かな間のうたた寝で見た夢なのでしょうか、桜の花よ、ほんのわずかな間に眺めて散って花の季節は終わってしまったようです。

二月九番 持
左  藤原興風
歌番号一七 
原歌 ふりはへて はなみにくれは くらふやま いととかすみの たちかくすらむ
和歌 ふりはへて 花見にくれば くらぶ山 いとど霞の 立ち隠すらむ
解釈 わざわざと花を眺めに来ましたが、暗部山は大層に霞が立って山桜の姿を隠すようです。
右  
歌番号一八 (躬恒集の歌)
原歌 いもやすく ねられさりけり はるのよは はなのちるのみ ゆめにみえつつ
和歌 寝もやすく 寝られざりけり 春の夜は 花の散るのみ 夢に見えつつ
解釈 やすやすとは安眠するすることが出来ません、春の夜は桜の花が散る様子だけが夢に現れて。(気が気ではありません)

二月十番 持
左  凡河内躬恒
歌番号一九 
原歌 ふるさとに かすみとひわけ ゆくかりは たひのそらにや はるをすくらむ
和歌 故里に 霞とびわけ ゆく雁は 旅の空にや 春を過ぎらむ
解釈 古き里に霞を飛び分けて行く雁は、旅の空の上からこの春の風景を眺めて過ぎて行くのでしょう。
右  
歌番号二〇 
原歌 ちるはなを ぬきしとめねは あをやきの いとはよるとも かひやなからむ
和歌 散る花を ぬきしとめねば 青柳の 糸は縒るとも かひやなからむ
解釈 散る花をその枝の糸に貫いて留めてなければ、青柳の美しい浅緑の枝の糸は風に靡き縒っても、今一つ甲斐は無いでしょう。

三月 十首
三月一番
左  藤原興風
歌番号二一 勝
原歌 みてかへる こころあかねは さくらはな さけるあたりに やとやからまし
和歌 見て帰る 心飽かねば 桜花 咲けるあたりに 宿やからまし
解釈 眺めて帰るのにまだ心が満足しないので、この桜の花が咲いているあたりに宿を借りましょう。
右  大中臣頼基
歌番号二二 
原歌 しののめに おきてみつれは さくらはな またよをこめて ちりにけるかな
和歌 しののめに 起きて見つれば 桜花 また夜をこめて 散りにけるかな
解釈 夜が白み始める東雲の時に起きて眺めると、桜花よ、なおもまだ夜を通して花を散らしていたのですね。

三月二番 持
左  凡河内躬恒
歌番号二三 
原歌 うつつには さらにもいはし さくらはな ゆめにもちると みえはうからむ
和歌 うつつには さらにも言はじ 桜花 夢にも散ると 見えは憂からむ
解釈 現実にそれを見てからは、さらに重ねて散るなとは言いません、桜花よ、夢の中でさえも散る姿を見ると、心が寂しくなりますから。
右  坂上是則
歌番号二四 
原歌 はなのいろを うつしととめよ かかみやま はるよりのちに かけやみゆると
和歌 花の色を うつしととめよ 鏡山 春よりのちに 影や見ゆると
解釈 この花の姿を写し留めなさい、鏡と言う名を持つ鏡山よ、春が過ぎた後に、その思い出の姿を眺めるようにと。

三月三番
左  凡河内躬恒
歌番号二五 勝
原歌 めにみえて かせはふけとも あをやきの なひくかたにそ はなはちりける
和歌 目に見えて 風は吹けとも 青柳の なひくかたにぞ 花は散りける
解釈 確かに目には見えない、その風は吹いているが、青柳の浅緑の枝糸が靡く方向に花は散り舞っています。
右  藤原興風
歌番号二六 
原歌 あしひきの やまふきのはな さきにけり ゐてのかはつは いまやなくらむ
和歌 あしひきの 山吹の花 咲きにけり 井出の蛙は いまや鳴くらむ
解釈 葦や檜の生える里の山の山吹の花が咲きました、あの井出の里の玉水に棲む蛙も、今はもう鳴いているでしょう。

三月四番
左  
歌番号二七 
原歌 さはみつに かはつなくなり やまふきの うつろふいろや そこにみゆらむ
和歌 沢水に 蛙鳴くなり 山吹の うつろふ色や 底に見ゆらむ
解釈 沢水に蛙が鳴いています、山吹の散り逝く花びらが沢の水面に見えます。
右  
歌番号二八 勝
原歌 ちりてゆく かたをたにみむ はるかすみ はなのあたりは たちもさらなむ
和歌 散りてゆく かたをだに見む 春霞 花のあたりは 立ちも去らなむ
解釈 花が散って逝く方向ばかりを眺めます、でも、春霞は花の周囲に立っても風に流れ去って欲しいものです。

三月五番
左  
歌番号二九 勝
原歌 むさしのに いろやかよへる ふちのはな わかむらさきに そめてみゆらむ
和歌 武蔵野に 色やかよへる 藤の花 若紫に 染て見ゆらむ
解釈 紫草で有名な武蔵野に色を通じあっているのだろうか、野に咲く藤の花は若紫色に染め上げたよういに眺められます。
右  藤原興風
歌番号三〇 
原歌 あかすして すきゆくはるを よふことり よひかへしつと きてもつけなむ
和歌 飽かずして 過ぎゆく春を 呼子鳥 よひかへしつと 来ても告げなむ
解釈 まだ、飽きてもいない内に過ぎていく春を、その名前のように呼子鳥よ、このように春を呼び返しましたと、飛び来て告げて欲しいものです。

三月六番 持
左  凡河内躬恒
歌番号三一 
原歌 はるふかき いろこそなけれ やまふきの はなにこころを まつそそめつる
和歌 春深き 色こそなけれ 山吹の 花に心を まつぞ染めつる
解釈 春の季節が深まる、その山野に彩りは少ないが、咲く山吹の花に、私の心は、まず、染められました。
右  兼覧王
歌番号三二 
原歌 かせふけは おもほゆるかな すみのえの きしのふちなみ いまやさくらむ
和歌 風吹けば おもほゆるかな 住の江の 岸の藤波 いまや咲くらむ
解釈 春風が吹くと思い出される、住之江の岸の藤波、今、咲いているでしょうね。

三月七番 持
左  凡河内躬恒
歌番号三三 
原歌 かけてのみ みつつそしのふ むらさきに いくしほそめし ふちのはなそも
和歌 かけてのみ 見つつぞしのぶ 紫に いくしほ染めし 藤の花そも
解釈 心に懸けて、この景色を眺めながら思い出しましょう、紫草にどれほどに漬けて染めたか、それほどに色濃きこの藤の花ですね。
右  坂上是則
歌番号三四 
原歌 みなそこに しつめるはなの かけみれは はるのふかくも なりにけるかな
和歌 水底に 沈める花の 影見れば 春の深くも なりにけるかな
解釈 水の底に散り沈んでいる花の姿を眺めると、春の季節も花が散る逝く季節とばかりに深くなってしまったのですね。

三月八番 持
左  藤原興風
歌番号三五 
原歌 ふくかせに とまりもあへす ちるときは やへやまふきの はなもかひなし
和歌 吹く風に とまりもあへず 散るときは 八重山吹の 花もかひなし
解釈 吹く風に枝に留まることも出来ずに散り逝く時は、八重咲の山吹の花の姿をしても甲斐がないのですね。
右  紀貫之
歌番号三六 
原歌 をしめとも たちもとまらす ゆくはるを なこそのせきの せきもとめなむ
和歌 惜しめとも 立ちもとまらす ゆく春を 勿来のせきの せきも止めなむ
解釈 この季節を惜しんでみても、立ち留まらないで逝く春を、「な、こそ(=来てくれるな)」と言う名を持つ東北の勿来の関と言う関があるから、北へと帰る春を堰止めて欲しいものです。

三月九番
左  紀貫之
歌番号三七 
原歌 さくらはな ちりぬるかせの なこりには みつなきそらに なみそたちける
和歌 さくら花 散りぬる風の なごりには 水なき空に 波ぞ立ちける
解釈 桜の花が散ってしまった、その風の名残りとして、水が無いはずの空に花びらで浪模様が立ちました。
右  御製(宇多法皇)
歌番号三八 勝
原歌 みなそこに はるやくるらむ みよしのの よしののかはに かはつなくなり
和歌 水底に 春や来るらむ み芳野の 吉野の川に 蛙鳴くなり
解釈 川の水の底に春が来たようです、み芳野を流れる、その吉野川に蛙が鳴いています。

三月十番 持
左  凡河内躬恒
歌番号三九 
原歌 はなみつつ をしむかひなく けふくれて ほかのはるとや あすはなりなむ
和歌 花見つつ 惜しむかひなく 今日暮れて ほかの春とや 明日はなりなむ
解釈 花を眺め散るのを惜しんだ甲斐も無く花は散り、その今日の一日が暮れて、花の無い別の春の景色に明日はなるのでしょう。
右  凡河内躬恒
歌番号四〇 
原歌 けふのみと はるをおもはぬ ときたにも たつことやすき はなのかけかは
和歌 今日のみと 春を思はぬ ときだにも 立つことやすき 花のかげかは
解釈 今日一日だけとは、この春があると思わない時であっても、ここから立ち去ることが難しい、この花の風情であります。


四月 五首
四月一番
左  源雅固
歌番号四一 勝
原歌 みやまいてて まつはつこゑは ほとときす よふかくまたむ わかやとになけ
和歌 深山いでて まづ初声は 郭公 夜深くまたむ わが宿に鳴け
解釈 深山を飛び出してまず聞かせるその初声は、ホトトギスよ、夜深くまでに起きて待っている、この私の屋敷で鳴け。
右  凡河内躬恒
歌番号四二 
原歌 けふよりは なつのころもに なりぬれと きるひとさへは かはらさりけり
和歌 今日よりは 夏の衣に なりぬれと 着る人さへは かはらざりけり
解釈 暦の夏となる今日からは夏の衣を着ることになったので、でも、それを着た人だけは変わることはありませんでした。

四月二番 持
左  藤原興風
歌番号四三 
原歌 やまさとに しるひともかな ほとときす なきぬときかは つけもくるかに
和歌 山里に 知る人もかな 郭公 鳴きぬと聞かば 告げもくるがに
解釈 山里に私の知る人に居て欲しい、ホトトギスが鳴いたと聞いたら、すぐに私に告げに来るような人が欲しいものです。
右  
歌番号四四 
原歌 なつきぬと ひとしもつけぬ わかやとに やまほとときす はやくなくなり
和歌 夏来きぬと 人しも告げぬ わが宿に 山郭公 はやく鳴くなり
解釈 夏が来たと誰一人告げもしない私の屋敷に、夏を告げるホトトギスは、早くも鳴いています。

四月三番
左  凡河内躬恒
歌番号四五 勝
原歌 むらさきに あふみつなれや かきつはた そこのいろさへ かはらさるらむ
和歌 紫に あふ水なれや かきつばた 底の色さへ かはらざるらむ
解釈 紫に染める紫草に出会って水なのでしょうか、それで、かきつばたの咲く、この水の底の色までも、かきつばたの花色と変わらないのでしょう。
右  
歌番号四六 
原歌 ほとときす こゑのみするは ふくかせの おとはのやまに なけはなりけり
和歌 ほととぎす 声のみするは 吹く風の 音羽の山に 鳴けばなりけり
解釈 ホトトギス、姿を見せずにその鳴く声だけがするのは、吹く風が音を立てて吹くと言う音羽の山で鳴いているからです。

四月四番
左  凡河内躬恒
歌番号四七 勝
原歌 われききて ひとにはつけむ ほとときす おもふもしるく まつここになけ
和歌 われ聞きて 人に告げけむ ほととぎす 思ふもしるく まづここに鳴け
解釈 私が最初に初音を聞いてからそれを人に告げましょう、ホトトギスよ、私の思い通りに、まず、この私の屋敷でその初音を鳴け。
右  
歌番号四八 
原歌 かたをかの あしたのはらを とよむまて やまほとときす いまそなくなる
和歌 片岡の 朝の原を とよむまで 山郭公 いまぞ鳴くなる
解釈 片岡の朝の原を鳴き響かせるまで、山ホトトギスが、今、鳴いています。

四月五番
左  
歌番号四九 
原歌 さよふけて なとかなくらむ ほとときす たひねのやとを かすひとやなき
和歌 さ夜ふけて などか鳴くらむ ほととぎす 旅寝の宿を かす人やなき
解釈 やや夜が更けてから、どうして鳴くのでしょうか、ホトトギスよ、この時間では、それをずっと聞きたいとして、急な旅寝の宿を貸してくれる人もいません。
右  藤原興風
歌番号五〇 勝
原歌 なつのいけに よるへさためぬ うきくさの みつよりほかに ゆくかたもなし
和歌 夏の池に よるべ定めぬ 浮草の 水よりほかに ゆくかたもなし
解釈 夏の池で吹き寄せる岸も定めない浮草は、水の流れに従う他に流れ行く先もありません。(私も、有力な寄辺が無いので、世の流れに任せるままです。)

これ以降の歌は原典である伊勢の記録にはありません。後年の写本時に追記されたと思われるものです。従いまして、これ以降では採用する写本により相違があります。ここでは小学館の『日本古典文学全集 古今和歌集』に載せる「延喜十三年亭子院歌合」(十巻本歌合 尊経閣文庫所蔵本)に従っています。そのため国際日本文化研究センター収容の「亭子院歌合」とは相違していますし、国歌大観とも違います。国際日本文化研究センターのものは夏 四月の部立において歌番号五一から歌番号六〇の十首の収載はありません。また、歌合とならない歌番号七一の収載もありません。都合、十一首に相違があります。なお、国歌大観では夏 四月の部立では六番以降の各五首合計十首は載せません。

歌合で披露されていませんので勝負は付けられていません。
四月 六番
左  
歌番号五一 
原歌 いつれをか それともわかむ うのはなの さけるかきねを てらすつきかけ
和歌 いづれをか それとも分かむ 卯の花の 咲ける垣根を 照す月影
解釈 どれが花かと、それがそれだと区別しましょう、真っ白な卯の花が咲いている垣根を照らす白く輝く月の光です。
右  
歌番号五二 
原歌 このなつも かはらさりけり はつこゑは ならしのをかに なくほとときす
和歌 この夏も かはらざりけり 初声は ならしの岡に なく郭公
解釈 この夏もその鳴き声は去年と同じで変わりませんでした、その初声は。その音色で奈良思の岡で鳴くホトトギスです。

四月七番
左  
歌番号五三 
原歌 なつのよの またもねなくに あけぬれは きのふけふとも おもひまとひぬ
和歌 夏の夜の まだも寝なくに 明けぬれは 昨日今日とも 思ひまとひぬ
解釈 短い夏の夜をまだ寝てもいないのに明けてしまうと、今が昨日なのかそれとも今日なのか、思い迷います。
右  
歌番号五四 
原歌 うのはなの さけるかきねは しらくもの おりゐるとこそ あやまたれけれ
和歌 卯の花の 咲ける垣根は 白雲の 下りゐるとこそ あやまたれけれ
解釈 真っ白な卯の花が咲く垣根は、白雲が下り居るところとばかりに見間違いました。

四月八番
左  
歌番号五五 
原歌 さくはなの ちりつつうかふ みすのおもに いかてうきくさ ねさしそめけむ
和歌 咲く花の 散りつつ浮かぶ 水の面に いかで浮草 根ざしそめけむ
解釈 咲く花が散りつつ浮かぶ水の面に、どのようにして浮草は根を張ってそこに留まるでしょう。いや、留まることはありません。
右  
歌番号五六 
原歌 まつひとは つねならなくに ほとときす おもひのほかに なかはうからむ
和歌 待つ人は つねならなくに 郭公 おもひのほかに 鳴かは憂からむ
解釈 待つ人は必ずいると言う訳でもないが、皆が初声を聞きたがる、そのホトトギスよ、思いのほかに、お前が鳴くと心が沈むものがあります。

四月九番
左  
歌番号五七 
原歌 たまくしけ ふたかみやまの ほとときす いまそあけくれ なきわたるなる
和歌 たまくしげ 二上山の ほとときす 今ぞ明け暮れ 鳴きわたるなる
解釈 美しい櫛笥、その櫛笥の蓋の響きではないが、二上山のホトトギスは、今とばかりに明け暮れと、鳴き渡っています。
右  
歌番号五八 
原歌 ほとときす のちのさつきも ありとてや なかくうつきを すくしはてつる
和歌 郭公 のちの五月も ありとてや なかく卯月を 過ぐしはてつる
解釈 ホトトギス、来月の五月もここにいるでしょうか、長くこの卯月をここで過ごして暮らしていました。

四月十番
左  
歌番号五九 
原歌 (この歌欠ける)
和歌 
解釈 
右  
歌番号六〇 
原歌 なつなれは ふかくさやまの ほとときす なくこゑしげく なりまさるなり
和歌 夏なれば 深草山の ほととぎす 鳴く声しげく なりまさるなり
解釈 夏の季節だからこそ、深草山のホトトギスよ、その鳴く声は頻繁になって以前よりも高絵が大きくなりました。

恋 各五首
注意 部立では各五首ですが、実際は各十首に独立した院(宇多法皇)の歌が載ります。なお、五番までは歌合での勝負は示されています。
恋一番
左  凡河内躬恒
歌番号六一 勝
原歌 なみたかは いかなるみつか なかるらむ なとわかこひを けすひとになき
和歌 涙川 いかなる水か 流かるらむ なとわか恋を 消す人になき
解釈 涙川にはどのような水が流れているのだろうか、どうして私の恋焦がれる恋の思いを消してくれる人が居ないのだろうか。
右  藤原興風
歌番号六二 
原歌 みをもかへ おもふものから こひといへは もゆるなかにも いるこころかな
和歌 身をもかへ 思ふものから 恋といへは 燃ゆるなかにも 入る心かな
解釈 人を恋焦がれる身をもそれが実なら何物かに換えても良いと思うものと言うのであるが、恋すると言えば、燃えるものの中にも飛び込むほどの気持ちです。

恋二番 持
左  凡河内躬恒
歌番号六三 
原歌 たれにより おもひくたくる こころそは しらぬそひとの つらさなりける
和歌 誰により 思ひくだくる 心ぞは 知らぬぞ人の つらさなりける
解釈 いったい誰により恋焦がれる思いが砕ける、その私の気持ちを気が付いてくれない、貴女の態度が無情なのです。
右  凡河内躬恒
歌番号六四 
原歌 はつかしの もりのはつかに みしものを なとしたくさの しけきこひなる
和歌 羽束師の 森のはつかに 見しものを なと下草の 繁き恋なる
解釈 森は羽束師が良いと言う、その羽束師の森を「はつかに(わずかに)」に眺めただけではありませんが、わずかに見ただけに、どうして、下草が茂るではないが、激しく繁る貴女への恋なのでしょうか。

恋三番 持
左  凡河内躬恒
歌番号六五 
原歌 ひとのうへと おもひしものを わかこひに なしてやきみか たたにやみぬる
和歌 人のうへと 思ひしものを わが恋に なしてや君か ただにやみぬる
解釈 恋焦がれることは他人の身の上のことと思っていましたが、そのようになった私の恋心を、どうして貴女は何も無かったように簡単に恋を終わらせるのか。
右  
歌番号六六 
原歌 あしまよふ なにはのうらに ひくふねの つなてなかくも こひわたるかな
和歌 芦迷ふ 難波の浦に ひく舟の 綱手ながくも 恋わたるかな
解釈 芦が風に乱れ迷う、その難波の浦に曳く船の綱手が長い、その言葉のように、このように私は長い間も貴女に恋焦がれているものですね。

恋四番
左  凡河内躬恒
歌番号六七 
原歌 うつつにも ゆめにもひとに よるしあへは くれゆくはかり うれしきはなし
和歌 うつつにも 夢にも人に 夜しあへば 暮れゆくばかり うれしきはなし
解釈 現実でも夢の中でも貴女に夜に逢えるものならば、暮れ行くことばかりは、これほどにうれしいものはありません。
右  
歌番号六八 勝
原歌 たまもかる ものとはなしに きみこふる わかころもての かわくときなき
和歌 玉藻刈る ものとはなしに 君恋ふる わか衣手の かわくときなき
解釈 美しい玉藻を刈る、そのようなことでは無くて、貴方に恋焦がれる、その私の衣手は恋の苦しみに流す涙で乾く時はありません。

恋五番 持
左  伊勢
歌番号六九 
原歌 あふことの きみにたえにし わかみより いくらのなみた なかれいてぬらむ
和歌 逢ふことの 君に絶えにし わが身より いくらの涙 流れいてぬらむ
解釈 逢うこと、その行為が貴方とに絶えて無くなった私の身より、いったい、どれほどの涙が出て流れ去るのでしょうか。
右  紀貫之
歌番号七〇 
原歌 きみこひの あまりにしかは しのふれと ひとのしるらむ ことのわひしさ
和歌 君恋の あまりにしかは 忍ぶれと 人の知るらむ ことのわびしさ
解釈 貴女を恋焦がれる思いが余りに余ってしまへば、思いを隠そうと耐え忍んでも、貴女は気付いてしますでしょう、そのことが困ったことです。

以下は本来なら歌合で扱われていないものです。また歌合で披露されていませんので勝負は付けられていません。
番外
歌番号七一    院(宇多法皇) 左も右もこれは合わせずなりぬ
原歌 ゆきかへり ちとりなくなる はまうゆふの こころへたてて おもふものかは
和歌 ゆきかへり 千鳥鳴くなる 浜木綿の 心へだてて 思ふものかは
解釈 左だ、右だと、砂浜を行きつ戻りつする千鳥が鳴いている、その浜辺の浜木綿の茂る葉が砂浜と区切るように心を隔ててものを思うでしょうか。いや、このようなことはありません。(歌の判定は公平な判断です。)
注意 国歌大観ではこの歌に歌番号は付けていていません。

恋六番
左  
歌番号七二 
原歌 あはすして いけらむことの かたけれは いまはわかみを ありとやはおもふ
和歌 逢はずして 生けらむことの かたければ いまはわが身を ありとやは思ふ
解釈 貴女に逢わないで生きて行くことが難しいならば、今はこの我が身がこの世に有るとは思いません。(ただの抜け殻だけです。)
右  
歌番号七三 
原歌 あふことの かたのかたみは なみたかは こひしとおもへは まつさきにたつ
和歌 逢ふことの かたの形見は なみだ川 恋しと思もへば まづさきにたつ
解釈 貴女に逢うことが難しい、その「かた(方)」との形見(思い出)は何もなく、その「なみ」の言葉の響きのような涙川、涙は恋しいと思うと、まず、先に立ちて流れ出ます。

恋七番
左  
歌番号七四 
原歌 ひとこふと はかなきしにを われやせむ みのあらはこそ のちもあひみめ
和歌 人恋ふと はかなき死を われやせむ 身のあらばこそ のちも逢ひ見め
解釈 人を恋して、ただ、その恋に死ぬようなつまらない死に方を私がするでしょうか、生きているこの身があるからこそ、これから先にも機会があり逢い恋が出来るでしょう。
右  
歌番号七五 
原歌 ゆふされは やまのはにいつる つきくさの うつしこころは きみにそめてき
和歌 夕されば 山の端にいづる 月草の うつし心は 君に染めてき
解釈 夕べがやって来ると、山の端から出て来る月、その言葉では無いが、月草(露草)のような移り気な私の気持ちは、はっきりと貴方に染めました。
注意 月草は露草の異名で消えやすい淡い青色の染料です。それで和歌では移ろい易い例えに使います。「うつしこころ」は「現し心」ではな「移し心」の解釈です。

恋八番
左  
歌番号七六 
原歌 つゆはかり たのみおかなむ ことのはに しはしもとまる いのちありやと
和歌 露ばかり 頼みおかなむ 言の葉に しばしもとまる 命ありやと
解釈 儚く消える露ほどに貴方の私への愛情への信頼を寄せましょう、貴方の言葉によって、少しばかりはこの世に繋ぎ止める命があると知って欲しいものです。
右  
歌番号七七 
原歌 はるさめの よにふるそらも おもほえす くもゐなからに ひとこふるみは
和歌 春雨の 世にふるそらも おもほえず 雲居ながらに 人恋ふる身は
解釈 春雨がこの世の中に降っている、その空模様にも気づきません。だって、雲居のような手も届かない身分の貴女、その貴女を恋焦がれるこの我が身ですから。

恋九番
左  
歌番号七八 
原歌 みにこひの あまりにしかは しのふれと ひとのしるらむ ことのわひしき
和歌 身に恋の あまりにしかば 忍ぶれど人 の知るらむ ことのわびしき
解釈 我が身にこの恋心が余りに余ってしまったので、愛があふれ出して恋心を隠し忍んでいても、貴女に気付かれてしまう、このことは困ったことです。
右  
歌番号七九 
原歌 きみこふる わかみひさしく なりぬれは そてになみたも みえぬへらなり
和歌 君恋ふる わが身ひさしく なりぬれば 袖に涙も 見えぬべらなり
解釈 貴女に恋焦がれる、そのような私の身の上は長くなったので、忍ぶ恋の辛さに流す涙も枯れて、もう、袖に涙で濡らす印も見えなくなりそうです。

恋十番
左  
歌番号八〇 
原歌 あひみても つつむおもひの くるしきは ひとまにのみそ ねはなかれける
和歌 あひ見ても つつむ思ひの くるしきは 人間にのみぞ 音は泣かれける
解釈 貴方と逢ったとしても人には隠さないと思う気持ちの苦しさに、見咎められない人のいないところで声を上げて泣けてきます。
右  
歌番号八一 
原歌 なつくさに あらぬものから ひとこふる おもひしけくも なりまさるかな
和歌 夏草に あらぬものから 人恋ふる 思ひ繁くも なりまさるかな
解釈 限りを知らず繁る夏草ではありませんが、貴女を恋焦がれる思いはますます生い茂って行くばかりです。

 つたない鑑賞として、亭子院女郎花合、是貞親王家歌合、寛平御時后宮歌合、亭子院歌合などを参照しますと、当時の歌合は事前に歌会を仕切る講師が歌を収集し、その中から秀歌を選別した上で左右の対となる歌番組を編成し、宴の当日に講師が歌番組を披露し、歌への講評と優劣を紹介したと思われます。推定でこの『亭子院歌合』の講師は宇多法皇側近であった六位蔵人藤原忠房です。従いまして、『亭子院歌合』に載る歌は延喜十三年春以前に詠われた歌ですが、いつに詠われた歌かは確定できません。およそ、『亭子院歌合』に載る歌で歌番号五一以降の歌は予定された番組であって、当日に創作・披露された歌ではありません。そのため、この延喜十三年亭子院歌合に載る歌と延喜五年に奉呈された『古今和歌集』との先後を決めることは出来ないことになります。
コメント (2)
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