竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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今日のみそひと歌 月曜日

2015年11月30日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと歌 月曜日

集歌905 和可家礼婆 道行之良士 末比波世武 之多敝乃使 於比弖登保良世
訓読 稚(わか)ければ道行き知らじ幣(まひ)は為(せ)む黄泉(したへ)の使(つか)ひ負(お)ひて通らせ
私訳 まだ稚いので、死出の道を知らないでしょう。神への祈りの捧げ物をしましょう。あの世への使いよ、責任を持って稚き御方を通らせなさい。

集歌906 布施於吉弖 吾波許比能武 阿射無加受 多太尓率去弖 阿麻治思良之米
訓読 布施(ふせ)置きて吾(わ)れは祈(こ)ひ祷(の)む欺(あざむ)かず直(ただ)に率(ゐ)去(ゆ)きて天道(あまぢ)知らしめ
私訳 仏への祈りの布施を捧げ置いて、私は祈り願いましょう。願いを欺くことなく、稚き御方を尊い仏である貴方が率いて、あの世への天上の道をお授けなさい。

集歌908 毎年 如是裳見牡鹿 三吉野乃 清河内之 多藝津白浪
訓読 毎年(としのは)しかくも見てしかみ吉野の清き河内し激(たぎ)つ白浪
私訳 毎年のように、今、私が見るように見ていたのでしょう。吉野の清らかな河内に飛沫をあげる白波は。

集歌909 山高三 白木綿花 落多藝追 瀧之河内者 雖見不飽香聞
訓読 山高み白(しろ)木綿花(ゆふはな)に落(ふ)り激(たぎ)つ瀧(たぎ)し河内(かふち)は見れど飽かぬかも
私訳 山容が高い。白い幣の木綿の花のように白い飛沫を降らす激流の河内は、見ていても飽きることがありません。

集歌910 神柄加 見欲賀藍 三吉野乃 瀧河内者 雖見不飽鴨
訓読 神からか見が欲(ほ)しからむみ吉野の瀧(たぎ)し河内(かふち)は見れど飽かぬかも
私訳 神の由縁からか見たいと思うのでしょう。吉野の激流の河内は、見ていても飽きることはありません。

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万葉集 長歌を鑑賞する 集歌917

2015年11月29日 | 万葉集 長歌を楽しむ
万葉集 長歌を鑑賞する 集歌917

神龜元年甲子冬十月五日、幸于紀伊國時、山部宿祢赤人作謌一首并短謌
標訓 神亀元年甲子の冬十月五日に、紀伊國に幸(いでま)しし時に、山部宿祢赤人の作れる謌一首并せて短謌
集歌917 安見知之 和期大王之 常宮等 仕奉流 左日鹿野由 背上尓所見 奥嶋 清波瀲尓 風吹者 白浪左和伎 潮干者 玉藻苅管 神代従 然曽尊吉 玉津嶋夜麻

<標準的な解釈(「萬葉集 釋注」伊藤博、集英社文庫)>
訓読 やすみしし 我(わ)ご大君(おほきみ)の 常宮(とこみや)と 仕(つか)へ奉(まつ)れる 雑賀(そひが)野(の)ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚(なぎさ)に 風吹けば 白波騒(さわ)き 潮(しほ)干(ふ)れば 玉藻刈りつつ 神代(かむよ)より しかぞ貴き 玉津島(たまつしま)山(やま)
意訳 安らかに天下を支配されるわれらの大君の、とこしえに輝く立派な宮として下々の者がお仕え申しあげている雑賀野に向き合って見える沖の島、その島の清らかな渚に、風が吹けば白波が立ち騒ぎ、潮が引けば美しい藻を刈りつづけてきたのだ。ああ、神代以来、そんなにも貴いところなのだ、沖の玉津島山は。

<西本願寺本万葉集の原文を忠実に訓むときの解釈>
訓読 やすみしし 吾(わ)ご大王(おほきみ)し 常宮(とこみや)と 仕(つか)へ奉(まつ)れる 雑賀(そひが)野(の)ゆ 背上(そがひ)に見ゆる 沖つ島 清き渚(なぎさ)に 風吹けば 白浪騒(さわ)き 潮(しほ)干(ふ)れば 玉藻刈りつつ 神代(かむよ)より 然(しか)ぞ貴き 玉津島(たまつしま)山(やま)
私訳 八方を遍く承知なられる吾等の大王の永遠の宮殿として、この宮殿に土地をお仕え申し上げる雑賀野。その雑賀野の背景に見える沖の島。その清き渚に風が吹くと白浪が立ち騒ぎ、潮は引くと美しい藻を刈っている。神代からこのようにこの地は貴いことです。この玉津の島山の地は。

注意 原文の「背上尓所見」は、一般に「背匕尓所見」と記し「背向(そがひ)に見ゆる」と訓みます。

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万葉雑記 色眼鏡 百四六 ご紹介の漢詩と懐風藻について

2015年11月28日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百四六 ご紹介の漢詩と懐風藻について

 弊ブログに、柿本人麻呂に漢詩がないことについてご意見があり、それに対して奈良時代に成立したであろう原始万葉集は大和歌の詩歌集であり、懐風藻が漢詩集ではないかと鑑賞を紹介しました。なお、平安時代になって成立した二十巻本万葉集では巻五は大伴旅人と山上憶良への遺作集のような雰囲気があり、また、巻十七以降は資料集的なおまけの巻であると酔論を展開しました。
 その勢いで、現在に伝わる懐風藻は本来の懐風藻の姿をしておらず後年の改訂版であり、この改訂版で本来は載せられていたであろう柿本人麻呂や山上憶良の作品は削除されたであろうと暴論を述べました。その暴論に対して、「いやはや、なんとも・・・」という感想が寄せられました。
 今回は万葉集とは直接に関係しませんが、その懐風藻について、少し酔論・暴論を述べたいと思いますし、それで以って、コメントへの回答とさせて頂きたいと思います。その手始めに、長いですが懐風藻の序文を紹介します。

懷風藻序           懐風藻の序
逖聽前修、遐觀載籍      逖に前修を聽き、遐く載籍を觀るに
襲山降蹕之世、橿原建邦之時  襲山に蹕を降す世、橿原に邦を建てし時に
天造艸創、人文未作      天造艸創、人文未だ作らず
至於神后征坎品帝乘乾     神后坎を征し品帝乾に乘ずるに至りて
百濟入朝啓於龍編於馬厩    百濟入朝して龍編を馬厩に啓き
高麗上表圖烏冊於鳥文     高麗上表して烏冊を鳥文に図しき
王仁始導蒙於輕島、      王仁始めて蒙を輕島に導き
辰爾終敷教於譯田       辰爾終に教へを譯田に敷く
遂使俗漸洙泗之風、      遂に使して俗をして洙泗の風に漸み
人趨齊魯之學         人をして齊魯の學に趨かしむ
逮乎聖太子、        聖太子に逮みて
設爵分官、肇制禮義      爵を設け官を分ち、肇めて禮義を制す
然而、專崇釋教、未遑篇章   然れども、專ら釋教を崇めて、未だ篇章に遑あらず
及至淡海先帝之受命也     淡海先帝の命を受くるに至るに及びや
恢開帝業、弘闡皇猷      帝業を恢開し、皇猷を弘闡して
道格乾坤、功光宇宙      道乾坤に格り、功宇宙に光れり
既而以為、調風化俗、     既して以つて為す、風を調へ俗を化することは
莫尚於文           文より尚きは莫く
潤光身、孰先於學      に潤ひ身を光らすことは、孰れか學より先ならんと
爰則、建庠序、徵茂才、    爰に則ち、庠序を建て、茂才を徵して
定五禮、興百度        五禮を定め、百度を興す
憲章法則、規模弘遠、     憲章法則、規模弘遠なること
夐古以來、未之有也      夐古以來、未だこれ有らざるなり
於是、三階平煥、四海殷昌、  是に於いて、三階平煥、四海殷昌
旒無為、巖廊多暇      旒無為にして、巖廊暇多し
旋招文學之士、時開置醴之遊  文學の士を旋招し、時に置醴の遊びを開く
當此之際、          此の際に当りて
宸瀚垂文、賢臣獻頌      宸瀚文を垂れ、賢臣頌を獻ず
雕章麗筆、非唯百篇      雕章麗筆、唯百篇のみにあらず
但時經亂離、悉從煨燼     但し時、亂離を經て、悉く煨燼に從ふ
言念湮滅、軫悼傷懷      言の湮滅を念じ、軫悼して懷ひを傷む
自茲以降、詞人間出      茲より以降、詞は人間に出す
龍潛王子、翔雲鶴於風筆    龍潛の王子、雲鶴を風筆に翔らし
鳳翥天皇、泛月舟於霧渚    鳳翥の天皇、月舟を霧渚に泛ぶ
神納言之悲白鬢、       神納言が白鬢を悲しみ
藤太政之詠玄造        藤太政が玄造を詠ぜる
騰茂實於前朝、        茂實を前朝に騰せ
飛英聲於後代         英聲を後代に飛ばす
余以薄官餘、遊心文囿    余、薄官の餘間を以て、心を文囿に遊ばしむ
閱古人之遺跡、        古人の遺跡を閱し
想風月之舊遊         風月の舊遊を想ふ
雖音塵眇焉、而餘翰斯在    雖、音塵眇焉たりといへども、餘翰ここに在り
撫芳題而遙憶、        芳題を撫して遙かに憶ひ
不覺涙之泫然         涙の泫然たるを覺へず
攀縟藻而遐尋、        縟藻を攀ぢて遐く尋ね
惜風聲之空墜         風聲の空しく墜ることを惜しむ
遂乃收魯壁之餘磊、      遂に乃ち魯壁の餘磊を收め
綜秦灰之逸文         秦灰の逸文を綜ぶ
遠自淡海、云暨平都      遠く淡海より、平都におよぶと云う
凡一百二十篇、勒成一卷    凡そ一百二十篇、勒して一卷と成す
作者六十四人、具題姓名、   作者六十四人、具さに姓名を題し
并顯爵里、冠于篇首      并せて爵里を顯はして、篇首に冠らしむ
余撰此文意者、        余は此の文を撰する意は
為將不忘先哲遺風       將に先哲の遺風を忘れざらむと為す
故以懷風名之云爾       故に懷風の名を以つて、これを云ふことしかり
于時天平勝寶三年歳在辛卯冬十一月也。
               時に天平勝寶三年歳辛卯に在る冬十一月なり


 まず、ウキペディアの懐風藻の解説では次のような解説を見ることが出来ます。
「近江朝から奈良朝までの64人の作者による116首の詩を収めるが、序文には120とあり、現存する写本は原本と異なると想像されている。」
 つまり、伝在する懐風藻と原本となる懐風藻とは違うものであり、現在の懐風藻は後年に改編が行われたものであると云うことは周知されたことなのです。いつもの弊ブログ独特の解釈ではありません。今回の酔論・暴論は現在の懐風藻は後年に改編されたものであるということを前提とします。従いまして、懐風藻に載る序文や爵里が示すものが正しく歴史を物語るかは保証されません。これもまた前提とします。ここまでの話で、ずいぶんと従来の懐風藻への態度と違うことに驚かれるかもしれませんが、ここまでは興味を持つ一般人に周知されたことであり、理論的な帰結となります。
 こうした時、序文に「遠自淡海、云暨平都」と云う一節があります。訓じますと「遠く淡海より平都に暨ぶと云う」であり、意は「近江朝から平城朝までに及ぶと謂う」です。この文章、不思議と思いませんか? この文章は近江朝から平城朝までの漢詩を収集して懐風藻と漢詩集を編んだ人物が記した巻頭序文です。その序文に「云」と云う言葉をなぜ選んだのでしょうか。本来なら不要な文字ではないでしょうか。文字数を揃える目的なら「在」や「当」などを選択するべきではないでしょうか。
 次に序文に次のような文節があります。

自茲以降、詞人間出      茲より以降、詞は人間に出す
龍潛王子、翔雲鶴於風筆    龍潛の王子、雲鶴を風筆に翔らし
鳳翥天皇、泛月舟於霧渚    鳳翥の天皇、月舟を霧渚に泛ぶ
神納言之悲白鬢、       神納言が白鬢を悲しみ
藤太政之詠玄造        藤太政が玄造を詠ぜる
騰茂實於前朝、        茂實を前朝に騰せ
飛英聲於後代         英聲を後代に飛ばす

 この分節の前の文節が「但時經亂離、悉從煨燼、言念湮滅、軫悼傷懷」であり、後の文節が「余以薄官餘、遊心文囿、閱古人之遺跡、想風月之舊遊」です。非常に文章的な接続と構成に疑問があります。「但時經亂離、悉從煨燼、言念湮滅、軫悼傷懷」の文節は暗に壬申の乱での戦乱と大津宮の荒廃を示すものですから、本来ですと「遂乃收魯壁之餘磊、綜秦灰之逸文」へとつながるべきものです。その修辞としても「龍潛王子・・・」以下の文節の挟み方に疑問があります。
 さらに、問題はこの「龍潛王子・・・」以下の文節では大津皇子、文武天皇、大神高市麻呂、藤原不比等の四人の漢詩を取り上げていますが、大津皇子の漢詩は未完成詩の習作中のものであり、文武天皇のものは明らかに漢詩作歌学習時の習作です。本来なら代表作とすべきではありません。
 ここで、すこし寄り道をして、『魏鄭公諫録』に載る「對帝王之興有天命」を以下に紹介します。誠実に忠言を為し唐太宗に仕えた魏徴の言語録は『貞観政要』や『魏鄭公諫録』に収められていますが、その編纂の動機は則天武后以降の混乱収拾後に中宗によって王族一族に対して創業当時を思い出せとの思いでなされたものであり、大唐でも世に知られたのはその後の玄宗皇帝の時代とされます。このような経緯から日本への伝来は早くて平安時代、桓武天皇の時代とされています。天平年間ではありません。
 一方、大津皇子の詩歌「述志」の添えられた後人聯句は、その使われる言葉「赤雀」や「潛龍勿用」から魏徴の言語録は『魏鄭公諫録』によったのではないかと酔論されます。つまり、ここからも懐風藻の序文「龍潛王子、翔雲鶴於風筆」は平安時代、桓武天皇の時代以降のものとなります。時代が合わないのです。

『魏鄭公諫録』 (魏徴)
對帝王之興有天命
太宗問侍臣曰、帝王之興、必有天命、非幸而得之也。房玄齡對曰、王者必有天命。太宗曰、此言是也。朕觀古之帝王、有天命者、其勢如神、不行而至、其無天命、終至滅亡。昔周文王・漢高祖啟洪祚、初受命、則赤雀來、始發跡則五星聚。此並上天垂示、徴驗不虚。非天所命、理難妄得。朕若仕隋朝、不過三衛、亦自惰慢、不為時須。公對曰、易云潛龍勿用。言聖潛藏之時、自不為凡庶所識、所以漢祖仕秦、不逾亭長。

 同様に詩歌を鑑賞しますと、序文に対しても疑問が次々に湧いてきます。文武天皇の「詠月」は出だしでは三日月を月の船と見立てて詠いますが、中盤以降では満月を眺めての歌となっています。支離滅裂です。古代、王は作詩にその人となりを観察したと云いますが、それならば支離滅裂の歌を詠う文武天皇はどうなのかという問題が提起されます。
 次いで、大神高市麻呂の詩が特別に取り上げて見るべきものなのか、また、漢詩の作詩能力に疑問符が付けられている藤原史をなぜ載せたのかと云う疑問もあります。そのためか、これらの作品群は正面から鑑賞することが出来ないために次のような評論が紹介されています。彼らのは漢詩じゃない、仲間内の漢字文字を使った遊びとの判断です。

江口孝夫氏も、「この時代の作詩は詩人の作ではなく、漢学者や一部の教養人たちの社交上の余技」なので、「詩情が乏しいのはやむをえない」とし、「一篇のまとまり」、「秀句、対句の出来栄え」を互いに「楽しみ、ほめあうところで充分な役割をはたしえた」(江口孝夫『懐風藻』講談社、2000年、269頁)と評価する。

 そして、大和文化の万葉集との対比と云う面からしますと、漢文であり仏教という側面から懐風藻の序文に載る大津皇子、文武天皇、大神高市麻呂、藤原史はその仏教政治と聖武天皇の時代であると云うことを踏まえて鑑賞すべきとします。この中で大神高市麻呂は三輪山全山を仏教寺院で埋め尽くし、明治時代まで一大仏教聖地とした第一人者ですか、そのような指摘ももっともなことと思われます。ただし、懐風藻に仏教を中心とした編纂があるかと云うとそれはありません。従いまして、懐風藻の序文が支離滅裂であるがゆえに、それを真とする解説もまた支離滅裂にならざるを得ないのです。
 さらにさらに、懐風藻の序文では「作者六十四人、具題姓名、并顯爵里、冠于篇首」とありますが、現在に伝わる懐風藻では歌人の経歴などを示す「爵里」は八人のみです。特に詩番号十二の中臣朝臣大島以降は「二首,自茲以降諸人未得傳記」とありますが、実際には詩番号二六の釋辨正、詩番号百三の釋道慈、詩番号百十の釋道融には「爵里」が付けられています。参考として釋道融には「釋道融 五首」とあり、本来は五詩が載るところ一詩しか紹介されていません。そのため伝本では「自此以下、可有五首詩、云爾有疑」と記します。

 以上を眺めたとき、「飛鳥浄御原宮から藤原京時代を代表する柿本人麻呂、前期平城京時代を代表する山上憶良の漢詩が、なぜ、懐風藻にないのか」と問題に突き当たります。この二人が全くに漢詩を詠わなかった可能性はありません。人麻呂の漢詩体歌は有名な詩体問題の一つですし、山上憶良の漢詩は万葉集に載ります。また、押さえておくべき事項として、懐風藻には聖武天皇からすれば反体制派で鎮圧した長屋王とその関係者には秀歌が多数存在しますから、時代として漢詩が詠えなかったわけでもありません。漢文能力に疑問が存在する藤原史を基準としてはいけないのです。
 従いまして、柿本人麻呂と山上憶良は漢詩作品を作ったと考えられますし、彼らの作歌能力や漢語漢字選択能力からしまして漢詩秀歌は存在したと考えます。およそ、消去法からの帰結として、原懐風藻には藤原京時代を代表する柿本人麻呂、前期平城京時代を代表する山上憶良の漢詩は載せられていただろうし、その時、歌人の経歴などを示す「爵里」も付けられていた。だが、それは桓武天皇や嵯峨天皇の歴史に合致しないため、嵯峨天皇の時代の焚書運動の中で原懐風藻は失せ、新たに桓武天皇の続日本紀の歴史に沿う懐風藻が生まれたと考えます。その傍証が文武天皇の即位の由来を示す葛野王の「爵里」です。弊ブログで持統天皇に関係して葛野王の「爵里」について触れましたが、この「爵里」は情報誘導を試みた典型的な作文経歴書です。使うことは出来ません。

 真面目に原典となるものを鑑賞しますと、従来の解釈が「結論を設定し、それに向けての原典鑑賞」に由来するものが、多々、あるようです。なお、このような酔論や暴論は正統な教育を受けず、また、そのような学会にも所属していない者が批判を受けずに垂れ流す「トンデモ説」であります。眉に唾を付けた、そのようなものとして扱って下さい。



<参考資料>
大津皇子 四首より
詩番号六
七言 述志 志を述ぶ
天紙風筆畫雲鶴 天紙風筆 雲鶴を画き
山機霜杼織葉錦 山機霜杼 葉錦を織る
[後人聯句] [後人の聯句]
赤雀含書時不至 赤雀 書を含みて 時に至らず
潛龍勿用未安寢 潛龍 用ゐること勿く 未だ安寢せず


文武天皇 三首 [年二十五] より
詩番号十五
五言 詠月 一首 月を詠ず
月舟移霧渚 月舟 霧渚に移り
楓楫泛霞濱 楓楫 霞濱に泛ぶ
臺上澄流耀 臺上 澄み流る耀
酒中沈去輪 酒中 沈み去る輪
水下斜陰碎 水下りて斜陰碎け
樹落秋光新 樹落ちて秋光新た
獨以星間鏡 獨り星間の鏡を以ちて
還浮雲漢津 還た雲漢の津に浮かぶ


從三位中納言大神朝臣高市麻呂 一首 [年五十] より
詩番号十八
五言 從駕 應詔 駕に從ふ 詔に應す
臥病已白鬢 病に臥して已に白鬢
意謂入黄塵 意に謂ふ 黄塵に入らむと
不期逐恩詔 期せずして恩詔を逐ひ
從駕上林春 駕に從ふ 上林の春
松巖鳴泉落 松巖 鳴泉落ち
竹浦笑花新 竹浦 笑花新た
臣是先進輩 臣は是れ先進の輩
濫陪後車賓 濫りに陪す 後車の賓


贈正一位太政大臣藤原朝臣史 五首 [年六十二] より
詩番号二九
五言 元日應詔一首 元日 詔應
正朝觀萬國 正朝 萬國を觀み
元日臨兆民 元日 兆民に臨む
斉政敷玄造 政を斉へて玄造を敷き
撫機御紫宸 機を撫して紫宸を御す
年華已非故 年華 已に故きにあらず
淑氣亦惟新 淑氣 またこれ新たなり
鮮雲秀五彩 鮮雲 五彩秀で
麗景耀三春 麗景 三春耀く
濟濟周行士 濟濟たる周行の士
穆穆我朝人 穆穆たる我朝の人
感遊天澤 に感じて天澤に遊び
飲和惟聖塵 和を飲みて聖塵を惟ふ


釋道融 五首
詩番号百十
詩題:我所思兮在無漏
我所思兮在無漏 我が思ふところは無漏にあり
欲往從兮貪瞋難 往いて從はむと欲して貪瞋かたし
路險易兮在由己 路の險易は己に由るにあり
壯士去兮不復還 壯士去つてまた還らず
[自此以下、可有五首詩、云爾有疑。]
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今日のみそひと歌 金曜日

2015年11月27日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと歌 金曜日

集歌4494 水鳥乃 可毛羽能伊呂乃 青馬乎 家布美流比等波 可藝利奈之等伊布
訓読 水鳥の鴨羽(かもは)の色の青馬(あおむま)を今日見る人は限りなしといふ
私訳 水鳥の鴨の羽の色のような青馬を今日見る人は、その命に限りがないと云います。

集歌4495 打奈婢久 波流等毛之流久 宇具比須波 宇恵木之樹間乎 奈伎和多良奈牟
訓読 うち靡く春ともしるく鴬は植木の木間(このま)を鳴き渡らなむ
私訳 風に木葉が靡く春だとはっきり知られるように、鶯は植木の木々の間を啼き渡るでしょう。

集歌4496 宇良賣之久 伎美波母安流加 夜度乃烏梅能 知利須具流麻弖 美之米受安利家流
訓読 恨めしく君はもあるか宿の梅の散り過ぐるまで見しめずありける
試訳 あなたは、何と、うらめしい人でしょう。梅の花が咲き散って実を結ぶように、お宅で保管してあった大伴旅人の「烏梅の花の宴」の歌集が、このように「宇梅乃波奈(うめのはな)」と云う歌集して実を結ぶまで見せてくださらなかったのですね。

集歌4497 美牟等伊波婆 伊奈等伊波米也 宇梅乃波奈 知利須具流麻弖 伎美我伎麻左奴
訓読 見むと言はば否と言はめや梅の花散り過ぐるまで君が来まさぬ
試訳 そうではありません。貴方が「宇梅乃波奈」を見たいとおっしゃれば、どうしていやだといいましょう。梅の花が咲き散り実になるように「宇梅乃波奈」の完成まで、あなたがおいでにならなかっただけですよ。

集歌4498 波之伎余之 家布能安路自波 伊蘇麻都能 都祢尓伊麻佐祢 伊麻母美流其等
訓読 はしきよし今日の主人は礒松の常にいまさね今も見るごと
試訳 麗しいこの日の主人である「宇梅乃波奈」の歌集本よ、この屋敷の主人である中臣清麿様の磯の松が常緑であるように、これからも、末長く、変わらなく在ってください。今、見ている姿のように。

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今日のみそひと歌 木曜日

2015年11月26日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと歌 木曜日

集歌3572 安杼毛敝可 阿自久麻夜末乃 由豆流波乃 布敷麻留等伎尓 可是布可受可母
訓読 何(あ)ど思へか阿自久麻(あじくま)山(やま)の弓絃葉(ゆつるは)の含(ふふ)まる時に風吹かずかも
私訳 貴方は、どう、思うでしょうか。阿自久麻山のゆずる葉の花がつぼみの時に、その花を散らすような風が吹かないと云えますか。

集歌3573 安之比奇能 夜麻可都良加氣 麻之波尓母 衣我多奇可氣乎 於吉夜可良佐武
訓読 あしひきの山葛(やまかづら)かげましばにも得がたきかげを置きや枯らさむ
私訳 葦や桧の生える山の山葛かげの、そうめったに得られない葛かげだから、そのままにして枯らすことはしない。

集歌3574 乎佐刀奈流 波奈多知波奈乎 比伎余治弖 乎良無登須礼杼 宇良和可美許曽
訓読 小里(をさと)なる花橘を引き攀(よ)ぢて折らむとすれどうら若みこそ
私訳 あの里に生える花橘の枝を引き捩って、その枝を無理に折ろうとするけど、まだ若いので・・・。

集歌3575 美夜自呂乃 渚可敝尓多弖流 可保我波奈 莫佐吉伊弖曽祢 許米弖思努波武
訓読 美夜自呂(みやじろ)の砂丘辺(すかへ)に立てる貌(かほ)が花な咲き出でそね隠(こ)めて偲(しの)はむ
私訳 美夜自呂の砂丘に生える貌花よ、決っして、咲き出すな。人に隠して、その花を賞美しよう。

集歌3576 奈波之呂乃 吉奈宜我波奈乎 伎奴尓須里 奈流留麻尓末仁 安是可加奈思家
訓読 苗代(なはしろ)の小水葱(こなぎ)が花を衣(きぬ)に摺り褻(な)るるまにまに何(あぜ)か愛(かな)しけ
私訳 苗代に生える小水葱の花を衣に摺り染めて、その衣を着て褻(な)れる。その言葉のひびきではないが、お前の肌身に馴(な)れるにつれて、どうしてお前が愛おしくなるのだろう。

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