竹取翁と万葉集のお勉強

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山上憶良を鑑賞する  有馬皇子の挽歌

2010年08月30日 | 万葉集 雑記
有馬皇子の挽歌

 先の集歌34の歌が、朱鳥四年(690)の紀伊国への御幸における川島皇子への代作と思われますが、この歌も同じ朱鳥四年(690)の紀伊国への御幸での歌でしょう。歌の標に「追ひて和へたる謌」とありますので、先行する有間皇子の御製とされる集歌141と142の歌を受けての長忌寸意吉麻呂が詠う集歌143と144の歌に対する、答歌の位置にあるようです。
 集歌145の歌は、山上憶良を始め人々は「有間皇子の変」の真相を知っていますが、それを公表してはいけない事も知っているような詠い様です。さて、「有間皇子の変」の当時に十九歳ともされ、場合によっては未成年扱いとなる年若い有間皇子と蘇我蝦夷をクーデタで襲ったような百戦錬磨の中大兄との間で、一体なにがあったのでしょうか。その真実は、ただ、山上憶良が詠うように松だけが知っていることなのでしょうか。
 参考に、朱鳥四年の紀伊国への御幸には柿本人麻呂も随行したと思われますが、万葉集に伝わるのはこの朱鳥四年ではなく、大寶元年の文武天皇の紀伊国の御幸の時のものです。

山上臣憶良追和謌一首
標訓 山上臣憶良の追(お)ひて和(こた)へたる謌一首

集歌145 鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武

訓読 鳥(とり)翔(かけ)り成(あ)り通(かよ)ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ

私訳 皇子の生まれ変わりの鳥が飛び翔けて行く。しっかり見たいと目を凝らして見ても、人も神も何があったかは知らない。ただ、松の木が見届けただけだ。

右件歌等、雖不挽柩之時所作、唯擬歌意。故以載于挽歌類焉。
注訓 右の件の歌どもは、柩(ひつぎ)を挽(ひ)く時に作る所にあらずといへども、、唯、歌の意(こころ)に擬(なぞら)ふ。故以(ゆゑ)に挽歌の類(たぐひ)に載す。


参考歌 その一
有間皇子自傷結松枝謌二首
標訓 有間皇子の自ら傷みて松が枝を結べる歌二首

集歌141 磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武

訓読 磐白(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結び真(ま)幸(さき)くあらばまた還り見む

私訳 磐代の浜の松の枝を引き寄せ結び、旅が恙無く無事であったら、また、帰りに見ましょう。


集歌142 家有者 笥尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉尓盛

訓読 家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

私訳 家にいたならば高付きの食器に盛る飯を、草を枕に寝るような旅なので椎の葉に盛っている。


参考歌 その二
長忌寸意吉麻呂見結松哀咽謌二首
標訓 長忌寸意吉麻呂の結び松を見て哀しび咽(むせ)べる歌二首

集歌143 磐代乃 岸之松枝 将結 人者反而 復将見鴨

訓読 磐代(いはしろ)の岸の松が枝(え)結びけむ人は反(かへ)りてまた見けむかも

私訳 磐代の海岸の崖の松の枝を結ぶ人は、無事に帰って来て再び見ましょう。


集歌144 磐代之 野中尓立有 結松 情毛不解 古所念

訓読 磐代(いはしろ)の野中に立てる結び松情(こころ)も解(と)けず古(いにしへ)念(おも)ほゆ

私訳 磐代の野の中に立っている枝を結んだ松。結んだ枝が解けないように私の心も寛げず、昔の出来事が思い出されます。


参考歌 その三
大寶元年辛丑、幸干紀伊國時結松歌一首(柿本朝臣人麿歌集中出也)
標訓 大寶元年辛丑、紀伊国に幸(いでま)しし時に結び松の歌一首(柿本朝臣人麿歌集の中に出づ)

集歌146 後将見跡 君之結有 磐代乃 子松之宇礼乎 又将見香聞

訓読 後見むと君が結べる磐代(いはしろ)の小松が枝末(うれ)をまたも見むかも

私訳 後でまた見ようと貴方が結んだ磐代の小松の枝を、貴方はまた見られたでしょうか

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山上憶良を鑑賞する  本郷を憶ひて作れる歌

2010年08月28日 | 万葉集 雑記
本郷を憶ひて作れる歌

 この歌は「日本」の表記を持つ歌で有名で、この歌の詠われた大宝二年から慶雲元年頃の時代を「日本」の国号が使われ始めた時とする説もあるようです。当然、万葉集を楽しむ人間から見ると微苦笑をするような、万葉集からの日本の歴史を知らないのではないかと思えるような説です。
 なお、漢字表記で「日本」と表記しますが、おおむね「やまと」と読むのが伝統ですし、私もそのように解釈しています。

山上臣憶良、在大唐時憶本郷作謌
標訓 山上臣憶良の、大唐に在(あり)し時に本郷(くに)を憶(おも)ひて作れる謌。
集歌63 去来子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武

訓読 いざ子ども早く日本(やまと)へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ

私訳 さあ、大和の国から離れて大唐に来た皆の者、早く大和の国に帰ろう。難波の大伴の御津の浜の松も、その名のように吾ら健士を待ちわびているだろう。

 山上憶良は、大宝元年(701)正月二十三日に粟田朝臣真人を大使とする遣唐使の随員として無位から正八位上の少録に叙任され、唐に赴いています。この少録の役職から推測して遣唐使副使の坂合部宿禰大分の通訳か秘書官のような立場だったと思われます。粟田朝臣真人を大使とする遣唐使の一行は慶雲元年(704)七月一日付けの記事で、慶雲元年七月一日以前に大宰府に帰着していることが確認できますので、遣唐使の随員であると云う職務から推定して、山上憶良もまた、このときに帰着していると思われます。ここから、集歌63の歌は、慶雲元年五月頃の歌と思われます。
 さて、面白いことに山上憶良が「在大唐時憶本郷作謌」を詠った時に、もう一人の遣唐使の随員が歌を詠って懐風藻にその歌を残しています。ただし、山上憶良は和歌で歌を詠い、釋辨正は漢詩で歌を詠っています。ここで、理解しないといけないのは、山上憶良は当時大和を代表する第一級の漢文・漢語の教養人ですし、そのための遣唐使副使の書記のような立場での渡唐です。その彼が、大唐での惜別の宴会で能力として漢詩が詠えなかったのではなく、万葉集には山上憶良の詠う漢詩がありますから、このとき、彼は敢えて漢詩で詠わなかったようです。実に不思議です。また、なぜか、懐風藻には山上憶良の歌が柿本人麻呂と同様に取られていませんから、彼らが生きた時代に何らかの意図があるのかもしれません。
 なお、万葉集において「日本」の表記の最初のものは集歌44の歌の朱鳥六年(692)と思われ、次に詠われたのが朱鳥八年(694)の藤原京遷都の時の歌である集歌52の歌と推定されます。ここらから、「日本」の国号とは、およそ、太政大臣高市皇子の時代に「日之皇子」と対になって、国家神道の整備に従って、わが国独自に制定されたもののようです。このため、物語としては面白いのですが、穏やかな性質を持った人の意味を持ち中華の蛮族への蔑視がある中での「倭」の字ですが、その「倭」の字を嫌った説などから「日本」の国号と遣唐使との直接の関係を見出すのは難しいのではないでしょうか。

参考歌 その一 懐風藻より
釋辨正 二首より一首
五言 在唐憶本郷 一絶     在唐憶本郷
日邊瞻日本          日邊 日本を瞻み
雲裏望雲瑞          雲裏 雲瑞を望む
遠游勞遠國          遠游 遠國に勞し
長恨苦長安          長恨 長安に苦む



参考歌 その二
石上大臣従駕作謌
集歌44 吾妹子乎 去来見乃山乎 高三香裳 日本能不所見 國遠見可聞
訓読 吾妹子(わぎもこ)をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも

私訳 私の恋人をさあ(いざ)見ようとするが、いざ見の山は高くて大和の国は見えない。国を遠く来たからか。

右、日本紀曰、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、浄廣肆廣瀬王等為留守官。於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位撃上於朝、重諌曰、農作之前車駕未可以動。辛未天皇不従諌、遂幸伊勢。五月乙丑朔庚午、御阿胡行宮。

訓読 右は、日本紀に曰はく「朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔の戊辰、浄廣肆廣瀬王等を以ちて留守の官となす。ここに中納言三輪朝臣高市麻呂その冠位を脱ぎて朝(みかど)に撃上(ささ)げ、重ねて諌めて曰はく『農作(なりはひ)の前に車駕(みかど)いまだ以ちて動くべからず』といふ。辛未、天皇諌(いさめ)に従はず、遂に伊勢に幸(いでま)す。五月乙丑の朔の庚午、阿胡の行宮に御(おは)す」といへり。


参考歌 その三
藤原京御井歌
標訓 藤原京の御井の歌
集歌52 八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 麁妙乃 藤井我原尓 大御門 始賜而 埴安乃 堤上尓 在立之 見之賜者 日本乃 青香具山者 日経乃 大御門尓 春山跡 之美佐備立有 畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 耳高之 青菅山者 背友乃 大御門尓 宜名倍 神佐備立有 名細 吉野乃山者 影友乃 大御門従 雲居尓曽 遠久有家留 高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃 水許曽婆 常尓有米 御井之清水

訓読 やすみしし わご大王(おほきみ) 高照らす 日の御子 荒栲の 藤井が原に 大御門(おほみかど) 始め給ひて埴安(はにやす)の 堤の上に 在(あ)り立(た)たし 見し給へば 大和の 青香具山は 日の経(たて)の 大御門に 春山と 繁さび立てり 畝火(うねひ)の この瑞山(みづやま)は 日の緯(よこ)の 大御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青菅山は 背面(そとも)の 大御門に 宜しなへ 神さび立てり 名くはし 吉野の山は 影面(かげとも)の 大御門ゆ 雲居にそ 遠くありける 高知るや 天の御蔭(みかげ) 天知るや 日の御影(みかげ)の 水こそば 常にあらめ 御井の清水

私訳 天下をあまねく統治されるわが大王の天の神の国まで高く照らす日の御子の、人の踏み入れていない神聖な藤井ガ原に新しい宮城を始めなさって、埴安の堤の上に御出でになりお立ちになって周囲を御覧になると、大和の青々とした香具山は日の縦の線上の宮城の春山のように木々が繁り立っている、畝傍のこの瑞々しい山は日の横の線上の宮城の瑞山として相応しい山容をしている、耳成の青々とした菅の山は背面の宮城に相応しく神の山らしくそそり立っている、名も相応しい吉野の山は日の指す方向の宮城から雲が立ち上るような遠くにある。天の神の国まで高く知られている天の宮殿、天の神も知っている日の御子の宮殿の水こそは常にあるだろう。御井の清水よ。

短歌
集歌53 藤原之 大宮都加倍 安礼衝哉 處女之友者 乏吉呂賀聞
訓読 藤原の大宮仕へ生(あ)れつぐや処女(おとめ)がともは羨(とも)しきろかも

私訳 藤原の宮城に仕えるために生まれてきたのでしょうか。この立派な宮城に仕える処女の友はうらやましく思うでしょう。

右歌、作者未詳
注訓 右の歌は、作者いまだ詳らかならず

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山上憶良を鑑賞する  朱鳥四年、紀伊国の歌

2010年08月26日 | 万葉集 雑記
朱鳥四年、紀伊国の歌

 集歌34の歌には、「山上謌一首」と標の付く集歌1716の歌の異伝があります。それで、後年に集歌34の歌の標に「或云、山上臣憶良作」の但し書が付いたと思われます。この関係から、朱鳥四年頃には山上憶良は川嶋皇子の近辺で歌の代作を作る関係にあったと推定されます。
 また、同時に山上憶良は、彼が紀伊国への御幸に随行する立場と、柿本人麻呂の歌から推定して人麻呂は山上憶良が随行した同じ紀伊国への御幸の随行者と推定が可能ですから、憶良と人麻呂とは共に顔見知りの関係にあったとも類推が可能です。


幸于紀伊國時川嶋皇子御作謌 或云、山上臣憶良作
標訓 紀伊國に幸(いでま)しし時に、川嶋皇子の御(かた)りて作らせる謌 或は云はく「山上臣憶良の作」といへり。

集歌34 白浪乃 濱松之枝乃 手向草 幾代左右二賀 年乃經去良武 (一云 年者經尓計武)

訓読 白波の浜松が枝(え)の手向(たむ)け草幾代さへにか年の経(へ)ぬらむ (一は云はく、年は経にけむ)

私訳 白浪のうち寄せる浜辺にある松の枝に懸かる手向の幣(ぬさ)よ。あれからどれほどの世代の年月が経ったのでしょう。(一は云はく、年月を経たのだろう)

日本紀曰、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸紀伊國也
注訓 日本紀に曰はく「朱鳥四年庚寅の秋九月、天皇紀伊國に幸(いでま)す」といへり。


参考歌  山上謌一首
集歌1716 白那弥之 濱松之木乃 手酬草 幾世左右二箇 年薄經濫
訓読 白波の浜松の木の手向(たむ)け草(くさ)幾世(いくよ)さへにか年は経ぬらむ

私訳 白波の寄せる浜の浜松の木に結ばれた手向けの幣よ。あれからどれほどの世代の年月が経ったのでしょうか。

右一首、或云、川嶋皇子御作謌。
注訓 右の一首は、或は云はく「川嶋皇子の御(かた)りて作らせる謌なり」といへり。

 集歌34の歌は、紀伊国の土地柄を考えると、木綿の幣を奉呈する花之窟神社のような神武天皇の東征に遡る神話が背景にあるのかもしれません。ちょうど、この年、柿本人麻呂も御幸に随伴して同じ花之窟神社の歌を歌っていますので、山上憶良と柿本人麻呂は顔見知りの関係にあったでしょう。ただし、教養や風流として和歌をたしなむ面では一致しますが、山上憶良は文系行政官ですし、一方の柿本人麻呂は鉱山系技官ですので、職務の畑は大きく違います。
 さて、参考に、左注の「日本紀」の国書の名も「朱鳥四年(690)」の年号も、現在の国学の専門家には正式には認められていないものですが、「日本紀」は続日本紀に記すように養老四年に舎人親王を筆頭に編纂されて捧呈された国書ですし、「朱鳥」の年号は天武天皇の崩御により制定されたもので、万葉集では朱鳥八年(694)十二月庚戌朔乙卯の藤原京遷都まで追うことが出来ます。現在は、桓武天皇の勅命による日本紀と続日本紀との改定作業により「朱鳥」の年号の代わりに「持統」の年号を使うことになったことを、専門家は尊重しています。ただし、奈良時代の当時は「朱鳥」の年号は朱鳥十年七月まで使われていた可能性があります。
 また、理解しないといけないのは、原万葉集を古本として二十巻本万葉集の体裁が整えられたと思われる紀貫之の時代においても、その二十巻本万葉集を編纂した人々にとって、「日本紀」の国書の名と「朱鳥」の年号に対しては、特に校注を入れるようなものではなかったと云う、見逃してはいけない事実です。さらに、紀貫之からおよそ五十年が下りますが、紫式部日記の左衛門の内侍の下りでも「日本紀」であって、日本書紀ではありません。 なお、専門家の人々は続日本紀以降からすべての「日本紀」なる書物は「日本書紀」の略称として、「日本紀」と「日本書紀」とが別な書物であることを否定しています。その理由は、「日本紀」が伝わっていないことです。ただし、同じ理屈ですが「伝わらない」山上憶良の類聚歌林の存在は認めています。

参考歌 柿本朝臣人麿謌四首より二首
集歌496 三熊野之 浦乃濱木綿 百重成 心者雖念 直不相鴨

訓読 御熊野(みくまの)の浦の浜(はま)木綿(ゆふ)百重(ももへ)なす心は思(も)へど直(ただ)に逢はぬかも

私訳 御熊野の有馬の浦の浜に有る花之窟の伊邪那美命をお祭りする幣の木綿の糸が折り重なるように私の気持ちは幾重にも貴女を想っています。直接には会えませんが。


集歌499 百重二物 来及毳常 念鴨 公之使乃 雖見不飽有哉

訓読 百重(ももへ)にも来(き)及(し)かぬかもと思へかも君が使(つかひ)の見れど飽かずあらむ

私訳 貴方からの便りが何度でも来て欲しいと思うからなのでしょうか。今日、花窟の伊邪那美命への幣奉呈を行った天皇の使人を見たように貴方の使いを何度見ても飽きることはありません。

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山上憶良を鑑賞する  はじめに

2010年08月26日 | 万葉集 雑記
はじめに

 最初に、題として山上憶良を鑑賞するとなっていますが、ここでは「山上憶良大夫類聚歌林」との引用で万葉集に登場するものの他に、山上憶良又は山上臣とされる歌を万葉集の中から抜き出し、紹介しています。そのため、学問上の山上憶良の歌と分類されるものとは一致しません。
 ご紹介のように、奈良時代を通じて最高の教養人の一人である山上憶良の詠う漢文・漢詩文や大和歌は、非常に重いものですし、難解です。その難解な山上憶良に対する独学の過程を、都度にブログに垂れ流していますから、先に一度、紹介したものと解釈が変わっていることもありますが、そこは微苦笑の下にお許しください。他方、作業員が行う独学と云う背景ですので、行う独善・曲学を指弾していただければ幸いです。
 また、例によって、紹介する歌は西本願寺本の表記に従っています。そのため、原文表記や訓読みに普段の「訓読み万葉集」と相違するものもありますが、それは採用する原文表記の違いと素人の無知に由来します。そこから勉学に勤しむ学生の御方にお願いですが、ここでは原文、訓読み、それに現代語訳や解説があり、それなりの体裁はしていますが、正統な学問からすると紹介するものは全くの与太話であることをご了解ください。つまり、引用やコピペには全く向きません。あくまでも、本物が判る大人が楽しみとして読む与太話で、学問ではありません。
 追記として、ブログでは紹介する漢文とその訓読みが、その機能の約束上、きれいな形では表現できません。それを、最初にお詫び申し上げます。PDFファイルをライブドアの方に載せますので、お手数ですが、そちらも参照いただければと思っています。


山上憶良の人物像を想う

 山上憶良は、柿本人麻呂と同じように「山上」と云う弱小氏族に所属し、官位も従五位下に留まったと思われるために、その生涯の全体像は未だに不明のままです。ここでは、続日本紀や万葉集から得られる資料から、山上憶良の人物像を想像してみました。
 さて、山上憶良は、大宝元年(701)の遣唐使の随員として正八位上の少録に叙任されるまでは、天武天皇の時代からの国事編纂の責任者である川島皇子に随員して、朱鳥四年(690)に紀伊国で川島皇子の代作の和歌を詠う姿(推定三十歳)から推測して、無位ではありますが雑任(ぞうにん)の内の書生(しょしょう)のような官吏の立場と推定されます。そして、慶雲二年八月十一日の遣唐使一行への褒賞の記事と慶雲四年の遣唐使の随員であった鴨朝臣吉備麻呂の昇位の事例から推測して、慶雲元年(704)の唐からの帰国後に、山上憶良は慶雲二年八月に正六位上ぐらいまで、遣唐使の随員としての褒賞として正八位上から一気に昇位したのではないかと推測されます。ここで、正六位上ですと、高級官僚(大夫:従五位下以上の官位を持つ官人)へ仲間入りする一歩手前まで来ています。その後は、和銅七年(714)に官位が一つ上がって従五位下(推定五十四歳)に昇位し、高級官僚である「大夫」の仲間入りをします。そして、役職としては、伯耆国守から東宮侍講を経て、最後に筑前国守まで昇ります。この筑前国守まで昇るような昇進は、山上憶良の名字から推定される「山上」と云う弱小氏族の家柄からすると、律令体制の下では非常な栄達です。
 山上憶良の生涯を推定すると、各種の歌から推定して天平五年(733)三月頃には数えで七十四歳ですので、山上憶良は斉明六年(660)の誕生と思われ、天平六年(734)春から夏頃に七十五歳ほどで亡くなったようです。なお、普段に見られる解説のように、歴代の「文化評論家」は特権階級でなくてはならないから「社会批評家の山上憶良は不遇であった」と云う、文化人が主張する特殊な立場はとっていませんので、従五位下の官位であっても山上一族と云う弱小氏族で前例がない大夫格の官位は十分な立身出世と考えています。
 ところで、万葉集に載る山上憶良の姓(かばね)には、山上巨と山上臣とがあります。従来は「巨」の表記は「臣」の誤記としていますが、この「巨」には「おう」の読みがあり、意味として「巨頭」の漢語があるように組織の代表のような「かしら・おやだま」があり、その漢字の読みと意味から「巨」は渡来人の部族長の尊称である「王」に通じます。この推測が成り立つならば、朝廷から「臣」の姓(かばね)を正式に頂くまでは、山上憶良は渡来人の一族の長として私的に「山上王」と名乗っていた可能性があります。当然、大宝律令以降は皇族の「皇子」もまた「王」と称することとなるために、それと区分するために「臣」の姓を正式に頂くまでは「おう」と発音する「巨」の漢字を用いていたのではないでしょうか。これは、中西進先生が説かれる「山上憶良=渡来人」説を別な角度から補強するものと思っています。
 こうしたとき、中西進先生が説かれる「山上憶良=渡来人」説が成り立つとすると、渡来人一世又は二世となる山上憶良には、通常の手段ではその氏・素性から天武天皇の制定により高級官僚の道は開かれてはいませんが、「遣唐使の随員」と云う特別措置で高級官僚への道が開かれたのではないでしょうか。穿って、朝廷は有能な山上憶良に対して抜擢人事を行うために、敢えて、遣唐使の随員として唐に派遣をしたのかもしれません。
 また、万葉集に載る漢文・漢詩文から推測するに、山上憶良は非常に仏法に造詣が深いのですが、彼の仏法は聖徳太子以来の在家の活動を尊重する法華経、維摩教や勝鬘教に代表され、仏教を職業とする職業人としての僧侶を中心とする仏教活動に批判的な立場のようです。もし、彼が維摩教や法華経に代表されるような大乗仏教の本質たる在家仏法を尊重しているのですと、聖武天皇に代表される戒壇で得度した官吏である職業僧侶により仏教が指導されるような新仏教とは、対立軸にあることなります。
 この山上憶良の大乗仏教が基本とする在家仏法を尊重するような姿は、大伴旅人の「太宰帥大伴卿讃酒謌十三首」に見られる姿と一致します。そこで、万葉集を代表する人々が、維摩教に代表される出家・隠遁に特別な価値を認めない大乗仏教の本質である在家仏法を尊重しているのですと、時代や万葉集を解釈する上で非常に興味があることになりそうですが、その帰結は念仏仏教についても幽かにしか知らない私には、非常に高度で難解です。このためでしょうか、万葉集の歌の背景には維摩教や法華経の世界が見え隠れしますが、普段の解説では「万葉集の歌には仏法の影響が薄い」と解説されています。
 また、山上憶良や大伴旅人の精神には、道教・儒教・墨教・仏教に従来の神道を加えて出来た、日本独自の国家神道があります。世界で唯一と云えるほど特別な精神構造を持つ国家神道は、その基本理念を表す祈年祭の祝詞にあるように、最高権威者である天皇であっても、民・万民のために泥田に入り農事を行い、また殖産し、神と共にその豊穣を祝うことにあります。これは大和民族と他の民族と決定的な違いで、日本の歴史において藤原貴族や仏教貴族のもっとも忌んだところです。
 御存じのように、平安中期以降の普段の人々の最大の弱点は漢字・漢語と仏教経典です。例えば、飛鳥・奈良時代初期の仏教精神の手がかりとなる聖徳太子の法華経、維摩教や勝鬘教に対する三経義疏は歴史の教科書に載るほどに有名ですが、普段の私たちではその有名な法華経、維摩教や勝鬘教ですら、その原文を見るために高額な対価を支払わなければ、その教本を入手することは不可能に近い状態です。ただ、比較的入手可能な解説本から、幽かに山上憶良の法華経、維摩教や勝鬘教に対する立場を妄想するだけです。ひたすら、万葉集の専門家が自在にそのような文献を座右に出来るのを羨むばかりです。そして、高岡の美味しそうな山柿を、ただ、ただ遠くから眺めるばかりです。
 このような冒険的な人物像を設定して、山上憶良の歌をここでは鑑賞していきます。説明しましたように、貧乏人の遠吠えもありますが、そこは、ご寛容願います。

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人事は、人言か、

2010年08月23日 | 万葉集 雑記
人事は、人言か、

 普段の万葉集の鑑賞では「人事」は「ひとこと」と訓み、「人言」と表記を変えた上で「人のうわさ」や「世の指弾」のような意味合いで解釈すことが約束です。
 ここでは、万葉集の短歌の中から「人事」の言葉の表記を持つものを十一首ほど抜きだして、「言」、「辞」と「事」はそれぞれに意味が違うと云う「大和言葉での言霊」の決まりを大切にして、「人事」の言葉は「人の為す事」の意味合いとして解釈を試みてみました。 なお、今回は標や左注を一切無視して、純粋に歌の意訳を試みています。
 当然、素人がする独善です。笑ってやって下さい。もし、それでも貴方がここでのことで真剣に悩んでいただけたら、大変に光栄な事件です。

集歌116 人事乎 繁美許知痛美 己世尓 未渡 朝川渡
訓読 人(ひと)事(こと)を繁み事痛(こちた)み己(おの)が世にいまだ渡らぬ朝(あさ)川(かは)渡る
私訳 この世の中は人がするべき雑用が沢山あり非常に煩わしく思い、私の生涯で未だした事がない仏教への帰依をしよう。
注意 歌での「人事」を「人の為す事」と解釈した上で「未渡朝川渡」を仏教の視点から見ると、地蔵菩薩発心因縁十王経に由来する「彼岸を渡る=得度」の景色が見えてきます。そうするとき、そこには女性が「己世尓」と歌うよりも、よりふさわしい男性の姿が見えてきます。

集歌539 吾背子師 遂常云者 人事者 繁有登毛 出而相麻志呼
訓読 吾が背子し遂げむと云はば人事(ひとこと)は繁くありとも出でて逢はましを
私訳 私の愛しい貴方が恋の思いを遂げると云うのでしたら、人がするべき雑用が沢山あっても出かけて来て私に逢うでしょうに。

集歌541 現世尓波 人事繁 来生尓毛 将相吾背子 今不有十方
訓読 この世には人事(ひとこと)繁し来む生(よ)にも逢はむ吾が背子今ならずとも
私訳 この世の中は人がするべき雑用が沢山ある。この世だけでなく来世でも逢いましょう。私の愛しい貴方。今でなくても。

集歌630 初花之 可散物乎 人事乃 繁尓因而 止息比者鴨
訓読 初花の散るべきものを人(ひと)事(こと)の繁きによりてよどむころかも
私訳 初々しい花はその時期には散るべきものですが、人の世の出来事が多くて、それで散るべき時期が滞っているのでしょう。

集歌659 豫 人事繁 如是有者 四恵也吾背子 奥裳何如荒海藻
訓読 あらかじめ人(ひと)事(こと)繁(しげ)しかくしあらばしゑや吾が背子(せこ)奥(おく)もいかにあらめ
私訳 最初からこれほど忙しくしているのでしたら、私の愛しい貴方。将来は、どうなるのでしょう。

集歌685 人事 繁哉君乎 二鞘之 家乎隔而 戀乍将座
訓読 人(ひと)事(こと)を繁みか君を二鞘(ふたさや)の家(いへ)を隔(へな)りて恋ひつつをらむ
私訳 世事が多いのでしょうか。御出でにならない愛しい貴方を、中を隔てる二鞘のように家を隔てて恋い慕っています。

集歌2438 人事 暫吾妹 縄手引 従海益 深念
訓読 人事(ひとこと)は暫(しま)しぞ吾妹(わぎも)綱手(つなて)引く海ゆまさりて深くぞ念(おも)ふ
私訳 仕事をするのはほんのわずかな間です。私の愛しい貴女。綱手で舟を引く、そんな海よりも深く深く貴女を恋い慕います。

集歌2561 人事之 繁間守而 相十方八 反吾上尓 事之将繁
訓読 人事(ひとこと)の繁き間(ま)守(も)りて逢ふともやなほ吾(わ)が上(へ)に事(こと)の繁けむ
私訳 世の中でする事が多く忙しくしていて貴女に逢ったとしても、それでも私に降りかかる仕事は多いでしょう。

集歌2586 人事 茂君 玉梓之 使不遣 忘跡思名
訓読 人事(ひとこと)を繁みと君に玉梓の使(つか)ひも遣(や)らず忘ると思(おも)ふな
私訳 世の中でする事が多いと貴女に立派な梓の杖を持つような使いを遣らない。だからと、貴女を私が忘れてしまったと思わないで下さい。

集歌2591 人事 茂間守跡 不相在 終八子等 面忘南
訓読 人事(ひとこと)の繁き間(ま)守(も)ると逢はずあらばつひにや子らが面(おも)忘(わす)れなむ
私訳 世の中でする事が多く忙しくしていて逢わずにいると、その内にその愛しい人の面影を忘れるでしょう。

集歌2799 人事乎 繁跡君乎 鶉鳴 人之古家尓 相誥而遣都
訓読 人事(ひとこと)を繁みと君を鶉(うづら)鳴く人の古家(ふるへ)に相(あひ)誥(つ)げ遣(や)りつ
私訳 世の中でする事が多く忙しいと思える、そんな貴方を鶉が鳴くような今はすっかり世から取り残されてしまったような人の古き家に、その人と語らうようにと命じ遣ります。
注意 普段の解説では「相誥而遣都」では「人事」を「人言」としたときの「人言乎繁跡」に相応しくないので「相語而遣都」として、字余りですが「語らひて遣りつ」と訓みます。こうした時、当然、歌意は全く異なります。もし、集歌2799の歌が集歌1558の歌に連動する可能性があるならば、素人の解釈の方が素直となります。

集歌2799の歌に対する参考歌
集歌1558 鶉鳴 古郷之 秋芽子乎 思人共 相見都流可聞
訓読 鶉(うずら)鳴く古(ふ)りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも
私訳 野の鶉が鳴くような古寂びた里の秋萩の花を、貴方が尊敬する人の気持ちとなって、一緒に萩の花を見たでしょうか。

 内訳話ですが、実は集歌116の歌の解釈が標と相応しくないと感じていまして、「己世尓 未渡 朝川渡」の理解が出来ない状態でした。そこで、万葉集の短歌から「人事」の表記を持つものを全て抜き出したのが先の歌々です。その「人事」の表記に対して「人の為す事」の意味合いでの解釈が全ての歌で成り立つかを試みた次第です。結果、実験的には成り立つとの思いです。
 この実験を踏まえて集歌116の歌を素人流に解釈したものが、ここで紹介するものです。
 なお、集歌116の歌は、本来は標とは違い但馬皇女が詠う歌ではなく、歌物語として他の人の詠う歌を流用して編まれた歌と思っています。解釈において、歌物語としてのものと、短歌そのものとしてのものは違うのではないかと思っています。歌物語では「未渡 朝川渡」は、彼岸を渡り得度して仏に帰依する姿より、恋慕の煩悩地獄に陥るような意味合いと取るのが良いのかもしれません。
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