竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉雑記 色眼鏡 三三四 今週のみそひと歌を振り返る その一五四

2019年08月31日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三三四 今週のみそひと歌を振り返る その一五四

 巻十八を、鑑賞しています。今週は非常にとぼけた歌の鑑賞をしています。標準的解釈では集歌4059の歌の末句「於保伎美」は「おほきみ=大君」として太上皇である元正太上天皇を指すとします。ところが、弊ブログのとぼけたところで、「於保伎美」は「王=おほきみ」として、葛城王であった左大臣橘諸兄と考えます。

河内女王謌一首
標訓 河内(かふちの)女王(おほきみ)の謌一首
集歌4059 多知婆奈能 之多泥流尓波尓 等能多弖天 佐可弥豆伎伊麻須 和我於保伎美可母
訓読 橘の下(した)照(て)る庭に殿(との)建てて酒みづきいます我が王(おほきみ)かも
私訳 橘の根元も輝くように美しい庭に御殿を建てて、酒を杯に盛っていらっしゃる吾等の王よ。

 このような解釈のため、集歌4059の歌は元正太上天皇をお迎えした御殿の持ち主である左大臣橘諸兄に対して、御殿が立派であることとその主である左大臣も立派であると誉めた歌と考えています。その時、歌の解釈において、前半の御殿の様子と後半の様子とがスムースです。末句「於保伎美」を元正太上天皇を指すとしますと、『万葉集釋注』の解説ように、「御殿の持ち主ではないが持ち主のように」とする解釈が必要になり、窮屈です。
 当然、日本書紀、古事記、万葉集では、大王や王は「おほきみ」と訓じることは標準ですが、鎌倉時代以降の標準解釈では、天皇、皇や大王は「大君」の解釈に統一しますから、ある時代のどこかで「大君」と「王(おほきみ)」がぐちゃぐちゃな区分になったようです。歌を丁寧に鑑賞しますと、天皇や皇は「すめらぎ」、大王や王は「おほきみ」と違うことは明白ですが、和歌道ではそれが難しいのかもしれません。
 当然、鎌倉時代以降の和歌道からの「大君」解釈では、歌の人物解釈が違う可能性がありますから、本来の歌意とは相違するでしょう。

 今回は鑑賞したものを再掲します。敬称に注目して鑑賞をしてみて下さい。標準解釈との相違が判ると思います。その時、河内女王の集歌4059の歌と大伴家持が後から詠った「後追和橘謌二首」の集歌4064の歌が呼応します。

太上皇御在於難波宮之時謌七首 清足姫天皇也
標 太上皇(おほきすめらみこと)の難波の宮に御在(いま)しし時の謌七首 清足姫の天皇なり
左大臣橘宿祢謌一首
標訓 左大臣橘宿祢の謌一首
集歌4056 保里江尓波 多麻之可麻之乎 大皇乎 美敷祢許我牟登 可年弖之里勢婆
訓読 堀江には玉敷かましを大皇(すめらぎ)を御船(みふね)榜(こ)がむとかねて知りせば
私訳 堀江には美しい玉を敷いたのですが、大皇よ。御船を操り遡ると、前々から知っていましたら。

御製謌一首 和
標訓 御(かた)りて製(つく)らしし謌一首 和(こた)へたまへり
集歌4057 多萬之賀受 伎美我久伊弖伊布 保里江尓波 多麻之伎美弖々 都藝弖可欲波牟
訓読 玉敷かず君が悔(く)いて云ふ堀江には玉敷き満(み)てて継ぎて通(かよ)はむ
私訳 美しい玉を敷かなかったと貴方が後悔して云う、その堀江には美しい玉を敷き満たして、何度も通って来ましょう。
左注 或云 多麻古伎之伎弖
注訓 或(ある)は云はく、玉(たま)扱(こ)き敷(し)きて
私訳 或いは云うには「美しい玉をしごきちりばめて」

御製謌一首
標訓 御(かた)りて製(つく)らしし謌一首
集歌4058 多知婆奈能 登乎能多知波奈 夜都代尓母 安礼波和須礼自 許乃多知婆奈乎
訓読 橘のとをの橘八つ代にも吾(あ)れは忘れじこの橘を
私訳 橘の、枝もたわわな橘よ、幾代にも私は忘れない。この橘を。

河内女王謌一首
標訓 河内(かふちの)女王(おほきみ)の謌一首
集歌4059 多知婆奈能 之多泥流尓波尓 等能多弖天 佐可弥豆伎伊麻須 和我於保伎美可母
訓読 橘の下(した)照(て)る庭に殿(との)建てて酒みづきいます我が王(おほきみ)かも
私訳 橘の根元も輝くように美しい庭に御殿を建てて、酒を杯に盛っていらっしゃる吾等の王よ。

粟田女王謌一首
標訓 粟田(あはたの)女王(おほきみ)の謌一首
集歌4060 都奇麻知弖 伊敝尓波由可牟 和我佐世流 安加良多知婆奈 可氣尓見要都追
訓読 月待ちて宅(いへ)には行かむ我が插(さ)せる明(あか)ら橘影に見えつつ
私訳 月の出を待って貴方の屋敷に行きましょう。私が髪に挿した清らかな橘、月の光に貴方が見て判るように。

集歌4061 保里江欲里 水乎妣吉之都追 美布祢左須 之津乎能登母波 加波能瀬麻宇勢
訓読 堀江より水脈(みを)引きしつつ御船(みふね)さす賎男(しづを)の伴は川の瀬申(もう)せ
私訳 堀江から水の流れを辿りながら御船を操る作業員の男達は、川の浅瀬を知らせなさい。

集歌4062 奈都乃欲波 美知多豆多都之 布祢尓能里 可波乃瀬其等尓 佐乎左指能保礼
訓読 夏の夜は道たづたづし舟に乗り川の瀬ごとに棹(さを)さし上(のほ)れ
私訳 夏の夜は水路がはっきりしない。小舟に乗って川の浅瀬毎に棹を指して道順を示しなさい。

後追和橘謌二首
標訓 後(のち)に橘の謌に追ひて和(こた)へたる二首
集歌4063 等許余物能 己能多知婆奈能 伊夜弖里尓 和期大皇波 伊麻毛見流其登
訓読 常世(とこよ)物(もの)この橘のいや照りにわご大皇(すべらぎ)は今も見る如(ごと)
私訳 常世の物と云はれるこの橘のように、常に一層光輝き渡る。吾等の大皇は、今、このように見るように。

集歌4064 大皇波 等吉波尓麻佐牟 多知婆奈能 等能乃多知婆奈 比多底里尓之弖
訓読 大皇(すめらぎ)は常磐(ときは)にまさむ橘の殿の橘直(ひた)照(て)りにして
私訳 大皇は常盤にいらっしゃるはずです。橘卿の御殿の橘の樹々が優れて輝くように。

 今回は「大君」と「王(おほきみ)」の呼称問題を紹介しましたが、当然、これは従来の万葉集読解での重大な欠点です。原文から正しく訓じればこのような間違いは生じませんが、「定訓」というものを採用しますと、まず、判らない世界ですし、間違いの世界です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万葉雑記 色眼鏡 三三三 今週のみそひと歌を振り返る その一五三

2019年08月24日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三三三 今週のみそひと歌を振り返る その一五三

 巻十七を、鑑賞しています。最後では巻十八に一部、入っています。その巻十七の最後の歌が次の歌です。

造酒謌一首
標訓 酒を造れる謌一首
集歌4031 奈加等美乃 敷刀能里等其等 伊比波良倍 安加布伊能知毛 多我多米尓奈礼
訓読 中臣(なかとみ)の太祝詞言(ふとのりこと)と云ひ祓(はら)へ贖(あが)ふ命(いのち)も誰がために汝(なれ)
私訳 中臣の太祝詞の言葉を唱えて、お祓いをし、神饌を供え、神に頼るのも、誰のために、それは貴方のために。
注意 原文の「安加布伊能知毛」は「贖う命も」と訓じますが、ここではその「命」は名詞ではなく「頼りにするもの、よりどころ」の意味を尊重して動詞的に鑑賞しています。
左注 右、大伴宿祢家持作之
注訓 右は、大伴宿祢家持の之を作る

 この歌は前後の関係もなく、唐突に置かれた歌で、巻十七の最後の歌とする理由もありません。また、巻十八に接続するために置かれた歌でもありません。

巻十八の最初の歌
天平廿年春三月廾三日、左大臣橘家之使者造酒司令史田邊史福麻呂饗于守大伴宿祢家持舘。爰作新謌、并便誦古詠、各述心緒
標訓 天平二十年の春三月二十三日に、左大臣橘家の使者造酒司(さけのつかさの)令史(さかん)田邊(たなべの)史(ふひと)福麻呂(さきまろ)を守大伴宿祢家持の舘(やかた)に饗(あへ)す。爰(ここ)に新しき謌を作り、并せて便(すなは)ち古き詠(うた)を誦(よ)みて、各(おのおの)の心緒(おもひ)を述べたり。
集歌4032 奈呉乃宇美尓 布祢之麻志可勢 於伎尓伊泥弖 奈美多知久夜等 見底可敝利許牟
訓読 奈呉(なこ)の海に船しまし貸せ沖に出でて波立ち来(く)やと見て帰り来(こ)む
私訳 奈呉の海に船をしばらく貸してくれ。沖に漕ぎ出て行って波が起こり立って打ち寄せてくるのを眺めて帰って来よう。

 なぜ、この歌が採歌され、ここに唐突に置かれたのか、伊藤博氏の『万葉集釋注』も全く万葉集編纂の意図が判らないとします。中西進氏の『万葉集全訳注原文付』の簡潔な脚注解説でも、歌の意図が不明とします。
 集歌4031の歌は醸造の時に詠われたもので、醸造作業時の労働歌は巻十六の集歌3879の歌にあります。

集歌3879 梯楯 熊来酒屋尓 真奴良留奴 和之 佐須比立 率而来奈麻之乎 真奴良留奴 和之
訓読 はしたての 熊来(くまき)酒屋(さかや)に まぬらる奴(やつこ) わし さすひ立て 率(い)て来なましを まぬらる奴(やつこ) わし
私訳 梯立の熊来の酒を作る屋敷で怒鳴られる奴よ、あんた、誘い立てて連れて来てしまいたいが、怒鳴られている奴よ、あんた。
注意 形式的は旋頭歌に分類されると思いますが、旋頭歌と催馬楽との中間に位置するようなものです。
左注 右一首
注訓 右は一首

 さて、中臣の太祝詞とは、中臣祓の一節「天津祝詞(あまつのりと)の太祝詞事(ふとのりとごと)を宣(の)れ」からの詞と思われます。越中国守大伴家持が詠う歌でのものですし、家持は国守であって神主ではありませんから、ここでの中臣の太祝詞は公式行事でのものでしょう。
 一般に、公式行事で中臣祓を奏上するのは「夏越しの大祓」や「年越しの大祓」での「大祓詞」とされるとします。万葉集でこの歌の前後で日付が判る歌を探しますと、巻十七の集歌4020の歌の「天平廿年春正月廿九日」、巻十八の集歌4032の歌の「天平廿年春三月廾三日」です。もし、歌が巻十七から巻十八と渡る間も順序良く載せられているとしますと、集歌4031の歌は天平20年1月29日から同年3月23日の間の事になります。
 この間での神道での大きな祀りは2月4日に行われる祈年祭です。そして、祈年祭祝詞は「神祗官における祈年祭班幣式に際し、全国から参集した諸社の神主や祝部等を前にして中臣氏が天社・国社の神々の前に奏するもの」と解説されるものです。

 つまり、巻十七を閉める歌は天平20年2月4日に執り行われた祈年祭で詠われた歌となります。非常におめでたい歌で閉められていることになります。
 色々な大学教授などの研究を知らない素人が、原文から歌を鑑賞しますと、このような実に平凡でつまらないトンデモ論の鑑賞になります。弊ブログ一流のこのようなとぼけた解釈もあるとご笑納ください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万葉雑記 色眼鏡 三三二 今週のみそひと歌を振り返る その一五二

2019年08月17日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三三二 今週のみそひと歌を振り返る その一五二

 巻十七に入り、鑑賞しています。紹介しますように巻十七から巻二十では和歌として鑑賞するような歌はありません。春の草原で雲雀の鳴き声を聞けば、本来なら「うるさい、黙れ」と怒鳴りつけて追い払い、同じ時期の似た場所で鳴くウグイス、シジュウカラやメジロなどの小鳥の方の囀りを聞きたいと思います。ただ、昭和時代の歌人は雲雀の神経質な鳴き声に風流を感じ、同じ時期に囀るウグイスを季語ではないとして排除します。
 さて、馬鹿話は棚に祀りまして、今週は次の歌に遊びます。

高市連黒人謌一首  年月不審
標訓 高市連黒人の謌一首  年月は審(つばひ)らかならず
集歌4016 賣比能野能 須々吉於之奈倍 布流由伎尓 夜度加流家敷之 可奈之久於毛倍遊
訓読 婦負(めひ)の野の薄(すすき)押し靡(な)べ降る雪に宿借る今日し悲しく思ほゆ
私訳 婦負の野の薄を押し倒して靡かせ降る雪に、宿を借りる今日は、悲しく感じられます。
左注 右、傳誦此謌三國真人五百國是也
注訓 右は、此の謌を傳(つた)へ誦(よ)めるは三國(みくにの)真人(まひと)五百國(いはくに)、是なる。

 紹介しました歌は、「思放逸鷹夢見、感悦作謌一首并短謌」の標題を持つ長歌一首と反歌四首の組歌と「右四首、天平廿年春正月廿九日、大伴宿祢家持」の左注を持つ短歌四首の組歌に挟まれた歌で、一首単独、唐突に置かれた歌です。
 さて、集歌4016の歌について、標準解釈ではこの歌を「賣比能野」から「ひめのの」と読み下し「婦負の野」と考え、「越中國婦負郡」の地名を見つけます。ただし、越中國の婦負郡は「賣比能」や「賣比河」と記述するように「めひのこほり」と読み下しますから、越中国守大伴家持の立場からするとこの歌には越中国のゆかりはありません。この歌の前に置かれた「思放逸鷹夢見」はその左注から9月26日の作品ですから、集歌4016の歌が示す雪景色には関係ありません。つまり、「思放逸鷹夢見」の長短五首の組歌と集歌4016の歌とには関連性は認められません。
 一方、「右四首」の左注で括られる歌四首のテーマは「奈呉の海」ですし、そこには雪景色はありません。つまり、「右四首」の歌群と集歌4016の歌とに関連性は全くにありません。
 そのため、伊藤博氏の『万葉集釋注』でも、誰が、何の目的で、この歌をここに挟んだのかを考察するのに苦戦します。結論は、たぶん、どっかの宴会で大伴家持がこの歌を三國真人五百國から聞いて、手帳に書き残したのだろう。その三國五百國は高市連黒人の歌と誰かに聞いたのであろうとします。伊藤博氏は清水克彦氏の『万葉論集』を引用する形で、歌は高市黒人のものではないとします。
 結局は、畿内の「ひめの」と云う場所を詠った歌で、言葉の頓智として「ひめの」は「婦負」と漢字で書け、漢字遊ぶをするなら「婦負」はここ「越中國婦負郡」としたのでしょう。大伴家持と大伴池主とは次のような頓智歌で遊んでいますから、この言葉の頓智遊びを面白いとして手帳に書き留めたのではないでしょうか。当然、頓智問答ですから集歌4016の歌に富山県の景色を探すのは野暮です。そのようなものは斎藤茂吉氏あたりに任せた方が良いと思います。

集歌4128 久佐麻久良 多比能於伎奈等 於母保之天 波里曽多麻敝流 奴波牟物能毛賀
表歌
訓読 草枕旅の翁(おきな)と思ほして針ぞ賜へる縫はむものもが
私訳 草を枕とする苦しい旅を行く老人と思われて、針を下さった。何か、縫うものがあればよいのだが。
裏歌
試訓 草枕旅の置き女(な)と思ほして榛(はり)ぞ賜へる寝(ぬ)はむ者もが
試訳 草を枕とする苦しい旅の途中の貴方に宿に置く遊女と思われて、榛染めした新しい衣を頂いた。私と共寝をしたい人なのでしょう。

 大伴家持と大伴池主たちとの言葉遊びの頓智問答は巻十八に入り見られるようになりますから、この天平二十年頃は、まだ、そのような言葉遊びで和歌を詠うまでには行っていなかったのかもしれません。集歌4016の歌を唐突に挟んだのは、その大伴家持や大伴池主たちの歌遊びの歴史を見せるためだったかもしれません。
 弊ブログはトンデモ論が拠り所です。そのため、標準的な解説では集歌4128の歌に頓智を見ません。すると、必然、集歌4016の歌に言葉遊びを見ることは、まぼろしであり、妄想です。まぁ、与太話の中でこのような見方もあるとして、ご笑納ください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万葉雑記 色眼鏡 番外編 作歌者推定に遊ぶ

2019年08月11日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 番外編 作歌者推定に遊ぶ

 作歌者不詳の歌があり、今回はその作歌者不詳について、可能性としての作歌者推定に遊びます。扱う歌は万葉集巻一に載る集歌50の藤原宮之役民作謌です。本ブログではこの「役民」を藤原宮の建設に参画する民と解釈し、天皇以外のすべての大和の人々と考えています。そして、天皇は「神随尓有之」ですから思想において現御神ですから「人」ではありません。この解釈が弊ブログの作歌者推定の出発点です。
 当然、この詞への議論はあります。「役民」を現場労働者と限定的に考えれば歌は現場労働者の代表が作歌したことになりますから、ある種、建物完成祝賀会に出席した建設会社の代表者の祝辞です。この場合、まず、歴史の中から人物を探し出すのは困難です。後期平城京や東大寺に参画した市井の行基のような人物がいますが、行基は実践の人で文章を探し、特徴を見出すことはまず不可能です。

藤原宮之役民作謌
標訓 藤原宮の役民(えのみたから)の作れる歌
注意 「藤原宮」は「藤井ヶ原宮」の略称で、香具山、耳成山、畝傍山、甘樫丘で囲まれた一帯に作られた王都
集歌50 
原文 八隅知之 吾大王 高照 日乃皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國乎 賣之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曽 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 真木佐苦 檜乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國 依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須郎牟 伊蘇波久見者 神随尓有之
訓読 八隅(やすみ)知(し)し 吾(あ)が大王(おほきみ) 高照らす 日の皇子 荒栲(あらたへ)の 藤原が上に 食(を)す国を 見し給はむと 都宮(みあから)は 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 寄りにあれこそ 磐走(いははし)る 淡海(あふみ)の国し 衣手の 田上し山し 真木しさく 檜の嬬手(つまて)を 物(もの)の布(ふ)の 八十(やそ)宇治川に 玉藻なす 浮かべ流すれ 其を取ると 騒く御民(みたから)も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居(ゐ)に 吾(あ)が作る 日し御門に 知らぬ国 寄す巨勢道よ 我が国は 常世にならむ 図負(あやお)へる 神(くす)しき亀も 新代(あらたよ)と 泉の川に 持ち越せる 真木の嬬手を 百(もも)足らず 筏に作り 泝(のぼ)すらむ 勤(いそ)はく見れば 神ながらに有(な)らし
私訳 天下をあまねく統治される我が大王の天まで威光を照らす日の皇子が、新しい藤原の地で統治する国を治めようとして新たな王宮を御建てになろうと、現御神としてお思いになられると、天神も地祇も賛同しているので、岩が河を流れるような淡海の国の衣手の田上山の立派な檜を切り出した太い根元の木材を川に布を晒すように川一面に沢山、宇治川に玉藻のように浮かべて流すと、それを取り上げようと立ち騒ぐ民の人々は家のことを忘れ、自分のことも顧みずに、水に浮かぶ鴨のように水に浮かんでいる。その自分たちが造る、その天皇の王宮に、人も知らない遥か彼方の異国から寄せ来す、その「こす」と云う言葉の響きではないが、その巨勢の道から我が国は永遠に繁栄すると甲羅に示した神意の亀もやってくる。新しい時代と木津川に宇治川から持ち越してきた立派な木材を、百(もも)には足りない五十(いか)の、その「いか」と云う言葉の響きではないが、その筏に組んで川を遡らせる。そのような民の人々が勤勉に働く姿を見ると、これも現御神である大王の統治だからなのでしょう。
左注 右、日本紀曰、朱鳥七年癸巳秋八月、幸藤原宮地。八年甲午春正月、幸藤原宮。冬十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮
注訓 右は、日本紀に曰はく「朱鳥七年癸巳の秋八月に、藤原宮の地に幸(いでま)す。八年甲午春正月に、藤原宮に幸(いでま)す。冬十二月庚戌の朔乙卯に、居を藤原宮に遷(うつ)せり」と云へり。


 最初にこの歌の作歌者推定に対する代表的な意見を紹介します。

この歌の作者を柿本人麻呂と見る説が古くからある。たしかに、序詞の部分を除けば、その語彙の大部分は人麻呂の駆使したものと通ずる。しかし、1首の調べは人麻呂のものではない。とくに序詞の九句は、巧みに過ぎ、煩雑を極め、そして全体の声調を乱し、人麻呂の声に似ても似つかぬ。その序詞9句の部分に限って、人麻呂の語彙が一つも顔を覗かせない。新しい瑞兆思想にかぶれる某知識人が、まず序詞9句の部分を思いつき、それを人麻呂作に真似ながらふくまらせたのがこの長歌ではなかったか。全体として、人麻呂の歌には及びもつかないものの、力作とはいえる。
『万葉集釋注』伊藤博

 一方、高岡市万葉歴史館では、「藤原宮へ変遷。藤原宮役民歌(えきみんのうた)(巻一・五〇)、藤原宮御井歌(みいのうた)(巻一・五二~三)はこの年の作か。」として人麻呂の歴史年表に載せます。
 作歌者が未詳ですから、歌をどのように解釈するかが作歌者推定の議論となります。ここで、この集歌50の歌には皇族の身分を限定する「高照」の詞が使われていて、この「高照」の詞が使われる歌は次の長歌六首で、時代的には持統天皇朝後半に集約されます。この内、柿本人麻呂の作歌と確定するものは集歌45の歌と集歌167の歌の二首です。なお、集歌3234の歌は大宝二年十一月の持統太上天皇の伊勢皇大神宮への行幸の時の歌で、他の歌とは時期をずらしますが持統天皇に関わるものとすると同じ括りになります。

 軽皇子宿于安騎野時、柿本朝臣人麻呂作謌 集歌45
 藤原宮之役民作謌 集歌50
 藤原宮御井謌 集歌52
 天皇崩之後八年九月九日、奉為御齊會之夜夢裏習賜御謌一首 集歌162
 日並皇子尊殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作謌一首并短謌 集歌167
 五十師乃御井歌 集歌3234

 古くからこの紹介した集歌50の長歌が柿本人麻呂に関係すると思われた背景には、この「高照」に代表される皇族の身分を「御威光」の光の強さで表現するなど、独特の表現方法があり、時代的にこのような長歌を詠い揚げるだけの人物が万葉集に見つからないことがあります。
 紹介した「高照」と云う特徴的な詞の他に、さらに柿本人麻呂歌の特徴として草壁皇子の挽歌で明確に示すように大王(又は天皇)を現御神と捉えています。その捉え方も天界の女神と地界の大王は同じ集団の一員であり対等な立場で、地界の大王は天界の神々の委託を受けて地上を統治する現御神です。その現御神のシンボルの一つとして天界に繋がる御井が有ります。これは延喜式に記録される祝詞にも載るもので、藤原京時代の特徴でもあります。
万葉集の歌を確認しますとこの現御神や御井の思想は元明天皇以降では明確には見えなくなります。畏れ多い大王や天皇と云う捉え方であり、地上の統治を神々から委託を受けた現御神の姿は見えません。
 この集歌50の歌には「高照」、「神長柄」、「神随尓有之」と非常に特徴だった皇族の身分表現と現御神の思想があります。もし、朝廷の歌舞所のような令外の役所で落成式典に合わせてこのような歌を創ったとすると、重要行事の前例として採用された作歌形式や表現スタイルは役所の重要参考文章となり継続性を持つはずですが、万葉集の歌からは後年への継続性は認められません。例として元明天皇期以降となる笠朝臣金村、車持朝臣千年、山部宿祢赤人たちが詠う行幸従駕の歌にこれらの特徴を見ることは出来ません。ここらから、現御神や御井の思想は持統天皇期に限定されたものであり、宮中和歌として形式が確立したものではないと推定されます。
 伊藤博氏が想定する「朝廷の某知識人」は、柿本人麻呂がこの種の歌を詠った全く同時期に現れ、全く同様な思想と詞で歌を詠い、そして、人麻呂と同時に短期の内に痕跡も残さずに消えます。それでいて詠う場面は朝廷の重要行事であり、その行事の主催者の天皇を現御神と称え、同時に朝廷が行う重要な神事で唱える祝詞と内容はリンクしますから、歌の原稿草案は政府中枢の承認事項です。それでいて、万葉集を見るとこの種の詞や思想は朝廷内で継承されていません。可能性として、個人に帰する特徴だった文章と考えられます。独創ですし、詞の定義や敬称の対象者からすると非常に詠うのに難しく困難性があります。
 従って、この種の文章が独創であり作歌技術的に個人の資質に帰するものですと、柿本人麻呂によると理解するのが良いことになります。それで、弊ブログは高い確率で集歌50の藤原宮之役民作謌は柿本人麻呂の作品と推定します。

 次いで、集歌50の藤原宮之役民作謌に連続する集歌52の藤原京御井歌の作歌者を確認します。この集歌50の歌は藤原京建設に従事した臣民が落成を祝う歌であり、集歌52の歌はその臣民の努力で成った藤原京の大宮を讃える歌です。つまり、長歌ですが二首で一組となる落成祝賀の公式行事で祝辞として詠われた歌です。この歌も作歌者は未詳の歌です。

藤原京御井歌
標訓 藤原京の御井の歌
集歌52
原文 八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 麁妙乃 藤井我原尓 大御門 始賜而 埴安乃 堤上尓 在立之 見之賜者 日本乃 青香具山者 日経乃 大御門尓 春山跡 之美佐備立有 畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 耳高之 青菅山者 背友乃 大御門尓 宜名倍 神佐備立有 名細 吉野乃山者 影友乃 大御門従 雲居尓曽 遠久有家留 高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃 水許曽婆 常尓有米 御井之清水
訓読 やすみしし 吾(あ)が大王(おほきみ) 高照らす 日し皇子 荒栲の 藤井が原に 大御門(おほみかど) 始め給ひに 埴安(はにやす)の 堤し上に 在(あ)り立(た)たし 見し給へば 日の本の 青(あを)香具山(かぐやま)は 日し経(たて)の 大御門に 春し山路 繁(しみ)さび立てり 畝火の この瑞山(みずやま)は 日し緯(よこ)の 大御門に 瑞山と 山さびいます 耳成(みみなし)し 青(あを)菅山(すがやま)は 背友(そとも)の 大御門に 宜(よろ)しなへ 神さび立てり 名くはしし 吉野の山は 影友(かげとも)の 大御門と 雲居にそ 遠くありける 高知るや 天し御蔭(みかげ) 天知るや 日し御影(みかげ)の 水こそば 常にあらめ 御井(みゐ)し清水(ましみず)
私訳 天下をあまねく統治されるわが大王の天の神の国まで高く照らす日の御子の、人の踏み入れていない神聖な藤井ガ原に新しい宮城を始めなさって、埴安の堤の上に御出でになりお立ちになって周囲を御覧になると、大和の青々とした香具山は日の縦の線上の宮城の春の山路のように木々が繁り立っている、畝傍のこの瑞々しい山は日の横の線上の宮城の瑞山として相応しい山容をしている、耳成の青々とした菅の山は背面の宮城に相応しく神の山らしくそそり立っている、名も相応しい吉野の山は日の指す方向の宮城から雲が立ち上るような遠くにある。天の神の国まで高く知られている天の宮殿、天の神も知っている日の御子の宮殿の水こそは常にあるだろう。御井の清水よ。

 この歌は持統八年(六九四)十二月に完成した藤井ガ原の藤原京の落成を歌ったものです。その落成式典で詠われた歌で「御井」と詠いますから、この歌の背景には草壁皇子の挽歌以来の現御神や天水の思想があります。このため、古くから、歌は公式の式典での寿詞であり、現御神や天水の思想を詠う姿から柿本人麻呂の手によると推定します。
 歌の原文の「高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃 水許曽婆 常尓有米 御井之清水」は、忌部の祈年祭と中臣寿詞との祝詞とを引用しての言葉です。「高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃」までは忌部の祈年祭の祝詞での「座摩御巫辭竟奉」の段で、「水許曽婆 常尓有米 御井之清水」は中臣寿詞の祝詞での「中臣遠祖天兒屋根命」の段の「天都水」が元ですから、藤原京の落慶と遷都の儀式で忌部と中臣により祝詞の奏上が式次第に載っていたと推定されます。そして、歌の「天之御蔭」と「日之御影」の詞は祈年祭の祝詞からで、天皇のお住まいになる宮殿奥深くの神器を祭る場所を指します。

 弊ブログに慣れているお方は承知にと思いますが、一般に日本書紀や古事記などの神話から日本神話では天孫降臨が重要としますが、万葉集では天孫降臨の神話はありません。この豊秋津洲は、天界での神々の相談で天界を治める女神と地界を治める男神(日之皇子)とを決め、その神々の裁定に従って神降って来た男神が大王として治める国と規定します。そして、この大王は天界の男神ですから現御神なのです。
 集歌167の歌では現御神である大王は豊秋津洲を治めるために天降りし、統治が順調に進むと天昇りして天界に帰って行きます。それを歌の前半で詠います。

日並皇子尊殯宮之時、柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
標訓 日並皇子尊の殯宮の時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首并せて短歌
集歌167
原文 天地之 初時 久堅之 天河原尓 八百萬 千萬神之 神集 ゞ座而 神分 ゞ之時尓 天照 日女之命(一云、指上 日女之命) 天乎婆 所知食登 葦原乃 水穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而(一云、天雲之 八重雲別而) 神下 座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 浄之宮尓 神髄 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 ゞ座奴(一云、神登 座尓之可婆) 吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 満波之計武跡 天下(一云、食國) 四方之人乃 大船之 思憑而 天水 仰而待尓 何方尓 御念食可 由縁母無 真弓乃岡尓 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言尓 御言不御問 日月之 數多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛(一云、刺竹之 皇子宮人 帰邊不知尓為)
訓読 天地し 初めし時 ひさかたし 天つ河原に 八百万 千万神し 神集ひ 集ひ座して 神分ち 分ちし時に 天照らす 日女し尊(一は云はく、さしのぼる 日女し命) 天つをば 知らしますと 葦原の 瑞穂し国を 天地し 寄り合ひし極 知らします 神し命と 天雲し 八重かき別けて(一は云はく、天雲し 八重雲別けて) 神下し 座せまつりし 高照らす 日し皇子は 飛鳥し 浄し宮に 神ながら 太敷きまして 天皇(すめろぎ)し 敷きます国と 天つ原 石門を開き 神あがり あがり座しぬ(一は云はく、神登り いましにしかば) わご王 皇子し命の 天つ下 知らしめしせば 春花し 貴からむと 望月の 満はしけむと 天つ下(一は云はく、食す国し) 四方し人の 大船し 思ひ憑みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしませか 由縁もなき 真弓の岡に 宮柱 太敷き座し 御殿を 高知りまして 朝ごとに 御言問はさぬ 日月し 数多くなりぬる そこゆゑに 皇子し宮人 行方知らずも(一は云はく、さす竹し 皇子し宮人 ゆくへ知らにす)
私訳 天地が初めて現れたとき、遠く彼方の天の川原に八百万・一千万の神々が神の集会にお集まりになり、それぞれの神の領分を分かたれたとき、日が差し昇るような太陽の女神は天を統治なされると、葦原の豊かに稲穂を実らせる国を天と地が接する地上の果てまで統治なされる神の皇子として、天雲の豊かに重なる雲を掻き分けて、この地上に神として下りなされていました天まで高くその輝きで照らされる日の皇子は、飛ぶ鳥の浄御原の宮に、神でありながら宮殿を御建てになられ、天の皇子が統治なされる国と天の原への磐門を開き、天の原に神登られなされるので、私の王である皇子様は天下を治めなされると春に花が咲くように貴くあられるだろう、満月のように人々を満たされるだろうと、皇子が御統治なされる国のすべての人は、大船のように思い信頼して、大嘗祭を行う天の水を天を仰いで待っていると、どのように思われたのか、理由もないのに、真弓の丘に御建てになられた宮殿を天まで高くお知らせになられて、毎朝に皇子のお言葉を賜ることのない日月が沢山になって、そのために、竹のように繁栄する皇子に仕える宮人は、どうしたらいいのか判らない。

 先に紹介したように、この「日並皇子尊の殯宮の時の歌」は基本的には草壁皇子への挽歌ですが、歌の前半の「神あがり あがり座しぬ」までは草壁皇子の父親である天武天皇の事跡を詠っています。歌の後半部分が草壁皇子に対する挽歌に相当する部分です。
 人麻呂は挽歌を詠い上げるとすると目立った事績の乏しい草壁皇子を偉大な大王だった天武天皇の正統な後継者と云う位置から挽歌を展開します。天皇の後継者の地位は武力での奪取ではなく、吉野での盟約に従い生まれながらの正統な血に依ると云う視点からこの挽歌は進行します。ここに万世一系の思想が背景にあります。
 次に、この挽歌で最も重要なことは、歌の前半で示す偉大な大王であった天武天皇の立場を明らかにする場面です。そこでは「天照らす日女の尊」と「葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極 知らします 神の命」とは、天界の天河原での神々の集いでは対等の立場としています。つまり、「天照らす日女の尊=天照大神」は天界の世界を統治し、「神の命」である「高照らす日の皇子=天武天皇」は地界の世界で天と地がその境を接するまでの範囲の「葦原の瑞穂の国」を統治すると詠います。およそ、この歌には「天照らす日女の尊」は天界の国を分配された天界の神であり、「高照らす日の皇子」は地上の国を分配された天界の神である、との対等に対比する姿しかありません。つまり、人麻呂が詠う「日並皇子尊の殯宮の時の歌」には、従来紹介されてきた天孫降臨の話はどこにもありません。「高照日之皇子」の天武天皇は天界の神として神々から統治をするべく分配を受けた、この地界の国に自らの意思で降り立ち、その統治が順調に行くと、本来の故郷である天界へと帰っていくのです。それは神降りであり、神昇りの姿です。この精神は『祝詞 祈年祭』にも明確に示されています。
 この思想は、『古事記』の天孫降臨の神話から一歩進んだ現御神の神降りであり、神昇りなのです。そして、この持統三年(六八九)の「日並皇子尊の殯宮の時」以降は、大和の正統な天皇は大王ではなく現御神なのです。また、この天皇とは「天の皇子」を意味します。そのため、卑母を親に持つ聖武天皇や桓武天皇が『続日本紀』に神である「天皇」の称号が与えられず、人民の王を示す「皇帝」の称号が付けられた由来もここにあります。中国の皇帝は天命により人民から選ばれてその位に就きますが、大和の天皇はその天命と同じ意味合いの現御神です。そのため、中国には人が人を滅ぼす革命がありますが、人が神を滅ぼすことが出来ないように日本では革命はありえないのです。そして、この「天皇は現御神であられる」との新しい思想を理解しないと、歌の後半部分の「四方の人の 大船の 思ひ憑みて 天つ水 仰ぎて待つに」の意味が判らないと思います。天武天皇は現御神であられますが、その子の草壁皇子はまだ人間です。人麻呂の歌は、人々は、今はまだ人の子である草壁皇子が天命を司る現御神である天皇に成られることを信じて、「天つ水」を仰ぎ待っているとします。
 日嗣で最重要となるこの「天つ水」について考えてみます。標準的な解釈からすると天皇の皇位継承の日嗣の儀式でもっとも重要なのは大嘗祭を執り行うことです。その大嘗祭の神事で奏上される祝詞の一つに中臣寿詞があり、その一節に「皇御孫の尊の御膳つ水は、現し國の水に天つ水を加へて奉らむと申せ」とあります。この意味するところは「大嘗祭での天皇になられる皇子が御使用になる御膳に使う水は、地上の水と天上の水を混ぜて使いなさい」と云うことです。つまり、人麻呂が集歌167の歌で詠う「天つ水」とは、大嘗祭で使う水のことを意味します。それで地上のすべての人々は「きっと大嘗祭が行われ、日並皇子は天皇の位に就かれる」と信じていたわけです。
 なお、神事におけるこの「天つ水」は「天からの水」と単純に解釈しての「雨つ水」を意味しません。人々が仰ぎて待つからと「雨水」と解釈してはいけません。神道精神思想の一端を示す中臣寿詞では「天つ水」とはどのようなものかを次のように明確に規定します。

中臣寿詞より抜粋
原文 天玉櫛事依奉 此玉櫛刺立 自夕日至朝日照 天都詔刀太諸刀言以告 如此告。麻知弱蒜由都五百篁生出 自其下天八井出 此持 天都水所聞食事依奉。
訓読 天の玉櫛(たまくし)を事依(ことよ)し奉(まつ)りて、此の玉櫛を刺立て、夕日より朝日照るに至るまで、天つ詔(のり)との太詔(ふとのり)と言(ごと)を以て告(の)れ。此に告らば、麻知(まち)は弱蒜(わかひる)に斎(ゆ)つ五百(いほ)篁(たかむら)生(お)ひ出でむ。其の下より天の八井(やゐ)出でむ。此を持ちて、天つ水と聞こし食せと、事依し奉りき。
私訳 神聖な玉串の神意をお授けになって、「この玉串を刺し立てて、夕日の沈むときから朝日の刺し照るときまで、中臣連の遠祖の天児屋命の祝詞と忌部首の遠祖の太玉命の祝詞を、声を挙げて申し上げなさい。そのように祝詞を申し上げれば、トで顕れる場所には若い野蒜と神聖な沢山の真竹の子が生えて出ている。その下から神聖な天の八井が湧き出るでしょう。これを持って、天つ水と思いなさい」と神意をお授けになった。

 この神事を行なうことで、地上に「天の八井」と云う御井の水が湧き出るのです。もう少し中臣寿詞から大嘗祭の神事について触れると、「天つ水と国つ水」で造る重要なものは「日時を撰び定めて献る悠紀・主基の黒木・白木の大御酒」です。中国の四神思想では「黒」は玄武の色で天上を意味し、「白」は白虎の色で地上を意味しますから、「天つ水と国つ水」で造る「黒木・白木の大御酒」とは「天上の酒と地上の酒」です。大嘗祭の神事ではこの「黒木・白木の大御酒」を以って相嘗(共に飲食)するから、大嘗祭とは神々と日嗣皇子がその皇子の用意した日本酒で宴会を開いて神の仲間入り(現御神)をすることを意味します。これは、古代の郷の娘との同衾の翌朝に床現しと共食の儀式でよそ者の男が、その郷の一員として認められる風景と同じです。大和の古代からの風習を中国の神仙道教の手を借りて高度に儀式化したものが大嘗祭にあります。
 人麻呂が詠う「日並皇子尊の殯宮の時の歌」は現御神の思想と大嘗祭の神事を最初に明確に詠った歌です。外見は草壁皇子の挽歌のようですが、実態は現御神である万世一系の天皇制の宣言であり、その皇位継承の方法論です。
 戻りますが、集歌50の藤原宮之役民作謌と連続する集歌52の藤原京御井歌はこのような思想を背景にした歌です。昭和時代の解説では照会もされないでしょうが、このような歌に載せる当時の国家神道や天皇制の思想を確認し、そのような歌を日本最初の大陸に匹敵する藤原京の落成式で詠える人物は誰かを考える必要があります。単に表面上から和歌を鑑賞しての読書感想で処理するような歌ではありません。国家感や大和の統治論も含めて作歌者を推定し、歌を確認する必要があります。

 また、最初に取り上げました皇族の身分を規定する「高照」の詞を確認します。万葉集に天皇に使われる敬称の表記を確認すると、原則、「八隅知之 吾大王」や「高照 日之皇子」の敬称を使います。持統天皇の敬称で大嘗祭の前のものに「高輝 日之皇子」の敬称表記がありますが、大嘗祭の後では「高照 日之皇子」の敬称と変わります。つまり、「八隅知之 吾大王」や「高照 日之皇子」の敬称があれば天皇の位にあったと推定できます。
 次に皇太子に使われる敬称の表記を見てみます。確実に皇太子だったと確証できるのが草壁皇子尊ですから彼の敬称を確認します。その敬称は「吾王 皇子之命」と「高光 吾日皇子」ですから、他の人物にこの敬称が使われていた場合、その人物は皇太子級に相当する人物の可能性があります。可能性で弓削皇子や長皇子が相当します。
 ここで、高市皇子と長皇子には「八隅知之吾大王」の敬称があり天皇に準ずる敬称で共に官職では太政大臣(知太政官事)を務めた人物ですから、古代の「大王」に相当する統治の最高責任者の尊称であった可能性があります。ただし、このような表現は柿本人麻呂の時代に特徴的に現れ、和同年間以降では見られない特徴です。

万葉集での各天皇の尊称
人物   時期 表記               歌番号
舒明天皇 生前 八隅知之我大王乃朝庭       集歌3
舒明天皇 生前 遠神吾大王乃行幸能        集歌5
中大兄  生前 中大兄 (標での表記)       集歌13
天智天皇 死没 大王乃御寿者長久         集歌147
天智天皇 死没 八隅知之吾期大王大御船      集歌152
天智天皇 死没 八隅知之和期大王恐也       集歌155
天武天皇 死没 八隅知之吾大王暮去者       集歌159
天武天皇 死没 八隅知之吾大王高照日之皇子    集歌162
天武天皇 死没 高照日之御子           集歌162
天武天皇 死没 神下座奉之高照日之皇子波     集歌167
天武天皇 死没 神随太布座而天皇之敷座國等    集歌167
持統天皇 生前 八隅知之吾大王之所聞食      集歌36
持統天皇 生前 安見知之吾大王神長柄神佐備世須登 集歌38
持統天皇 生前 吾大王高照日之皇子        集歌45
持統天皇 生前 八隅知之吾大王高照日乃皇子    集歌50
持統天皇 生前 八隅知之和期大王高照日之皇子   集歌52
持統天皇 生前 皇者神二四座者          集歌235
持統天皇 生前 八隅知之吾大王高輝日之皇子    集歌261
持統天皇 生前 八隅知之和期大皇高照日之皇子之  集歌3234
元明天皇 生前 天皇乃御命畏美          集歌79
元明天皇 生前 吾大王物莫御念          集歌77

重要な皇子の尊称
草壁日並皇子尊  死没 吾王皇子之命          集歌167
草壁日並皇子尊  死没 高光我日皇子          集歌171
草壁日並皇子尊  死没 高光吾日皇子乃         集歌173
高市後日並皇子尊 死没 八隅知之吾大王乃所聞見為    集歌199
高市後日並皇子尊 死没 吾大王皇子之御門乎       集歌199
高市後日並皇子尊 死没 吾大王乃萬代跡         集歌199
高市後日並皇子尊 死没 我王者高日所知奴        集歌202
忍壁皇子     生前 王神座者            集歌235別
弓削皇子     死没 安見知之吾王高光日之皇子    集歌204
弓削皇子     生前 王者神西座者          集歌205
長皇子      生前 八隅知之吾大王高光吾日乃皇子乃 集歌239
長皇子      生前 吾於富吉美可聞         集歌239
長皇子      生前 我大王者            集歌240
長皇子      生前 皇者神尓之坐者         集歌241
石田王      死没 吾大王者隠久乃         集歌420
石田王      死没 君之御門乎           集歌3324
石田王      死没 吾思皇子命者          集歌3324
石田王      死没 皇可聞             集歌3325
長屋王      生前 安見知之吾王乃敷座在      集歌329
長屋王      死没 大皇之命恐大荒城乃       集歌441
安積皇子     死没 吾王御子乃命          集歌475
安積皇子     死没 吾王天所知牟登         集歌476
安積皇子     死没 挂巻毛文尓恐之吾王皇子之命   集歌478
安積皇子     死没 皇子乃御門乃          集歌478
安積皇子     死没 皇子之命乃           集歌479
志貴親王     死没 天皇之神之御子之        集歌230


 色々と与太話を展開しましたが、もし、歌の口調が拙いとか、調子が違うとの評論があるとすると、特別重要な点を確認する必要があります。万葉集の歌は中国語の言葉となる漢語と大和言葉の発音を指示する仮音漢字である万葉仮名の組み合わせだけでの漢字だけで表記されたものですから、歌の口調や調子について語るとき、その評論が漢字だけで表記された原文に対してのものか、鎌倉時代以降の伝統の漢字交じり平仮名へ翻訳された仮名万葉に対してのものかを確認する必要があります。
 漢字交じり平仮名へ翻訳された仮名万葉を擬似原文に使用していますと、時に歌の口調が拙いとか、調子が違うとの評論は翻訳技術への評論かもしれません。その時、万葉集の話ではなくなります。
 この方面の有名なところでは、斎藤茂吉氏は漢字交じり平仮名へ翻訳された仮名万葉に対して万葉集秀歌論を展開し、本人は気が付いていませんがそれは校本万葉集の翻訳技術について評論で、肝心の万葉集の本来の原文表記は全く知らなかった人です。大伴旅人は歌に漢語を多用する特徴があり、そこからすると漢文調に硬く翻訳したくなりますが、実際の原文を見ると「筑紫也何處 白雲乃 棚引山之 方西有良思」の「方西有良思」や「蘆鶴乃 痛多豆多頭思 友無二指天」の「痛多豆多頭思」には軽い使う漢字での言葉遊びがありますから、本来ですと、この言葉遊びを取り入れて面白く翻訳する必要があります。ただ、万葉集時代のこのような漢字を使う遊びが理解できなかったのが昭和時代の人たちです。先の歌に現御神の思想を見るのもまた難しいかもしれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万葉雑記 色眼鏡 三三一 今週のみそひと歌を振り返る その一五一

2019年08月10日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三三一 今週のみそひと歌を振り返る その一五一

 巻十七に入り、鑑賞しています。先週は歌枕で与太話を展開しました。今週も似た話で遊びます。

相歡謌二首
標訓 相歡(よろこ)びたる謌二首
集歌3960 庭尓敷流 雪波知敝之久 思加乃未尓 於母比氏伎美乎 安我麻多奈久尓
訓読 庭に降る雪は千重(ちへ)敷く然(しか)のみに思ひて君を吾(あ)が待たなくに
私訳 庭に降る雪は千重に大地を覆い積もる、しかしその程度に思って貴方を私が待っていたのではありません。

集歌3961 白浪乃 余須流伊蘇末乎 榜船乃 可治登流間奈久 於母保要之伎美
訓読 白波の寄する礒廻(いそま)を榜(こ)ぐ船の楫取る間(ま)なく思ほえし君
私訳 白波が打ち寄せる磯の廻りを操って行く船の楫を艫の穴に差し込む後の隙間もないほどに慕っていた貴方よ。
左注 右、以天平十八年八月、掾大伴宿祢池主、附大帳使、赴向京師、而同年十一月、還到本任。仍設詩酒之宴、弾縿飲樂。是也、白雪忽降、積地尺餘。此時也、復、漁夫之船、入海浮瀾。爰守大伴宿祢家持、寄情二眺、聊裁所心
注訓 右は、天平十八年八月を以ちて、掾(じやう)大伴宿祢池主、大帳(だいちやうの)使(つかひ)に附きて、京師(みやこ)に赴向(おもむ)きて、同年十一月に、本任(もとつまけ)に還り到れり。仍(よ)りて詩酒(ししゅ)の宴(うたげ)を設けて、弾縿(だんし)飲樂(いんらく)す。是に、白雪の忽(たちま)ちに降りて、地(つち)に積むこと尺餘なり。この時に、復(また)、漁夫の船、海に入りれ瀾(なみ)に浮かぶ。ここに守大伴宿祢家持、情(こころ)を二つ眺めて寄せて、聊(いささ)かに所心(おもひ)を裁(つく)れり。

 何の気なしに歌を鑑賞しますと、付けられた左注の説明文に目が行きます。ただ、意地悪な気持ちで歌を鑑賞しますと、ちょっと、びっくりします。
 なぜか、
 集歌3960の歌の場合、四句目までが修飾の言葉であって、本題は「君を吾が待たなくに」を飾るだけです。同じように集歌3961の歌も四句までが「思ほえし君」を飾るだけです。この時代までに、季節の折々に持たれる公式の宴会で主人と客とが和歌を披露するようになっていたようです。それが、万葉集最後の歌となる次の歌にも見られます。

三年春正月一日、於因幡國廳、賜饗國郡司等之宴謌一首
標訓 三年春正月一日に、因幡國(いなばのくに)の廳(ちやう)にして、饗(あへ)を國郡(くにのこほり)の司等(つかさたち)に賜(たま)はりて宴(うたげ)せし謌一首
集歌四五一六 
原文 新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰
訓読 新しき年の始(はじめ)の初春の今日降る雪のいやしけ吉事(よこと)
私訳 新しい年の始めの初春の今日、その今日に降るこの雪のように、たくさん積もりあがれ、吉き事よ。

 この集歌四五一六の歌は新年祝賀の定型的なもので、万葉集には新年祝賀での類型歌を見ることが出来ます。
 先週にも紹介しましたが、大伴家持たちの時代となる奈良時代中期までには和歌作歌技法として、「雪と日晒しの布」や「雪と白梅」などの見立て技法、柿本人麻呂歌集などの歌からの本歌取りの技法、「草枕」や「天離る」などの枕詞の技法、歌に言葉を折り込んだ折句の技法、日本語の同音異義語からの言葉遊びを踏まえた掛詞の技法、また、地名や状況を踏まえた歌枕の技法と、ほぼ、和歌を詠う技法は出そろっています。
 柿本人麻呂・額田王の時代から大伴旅人・大伴坂上郎女の時代までは、真似て歌を詠う時代ではありません。そもそも、真似るべき歌が自体が確立していなくて、人々が思う秀歌が作られつつあった時代です。大伴旅人・大伴坂上郎女の時代を通過して、やっと、人々が思う秀歌の概念が出来、そこから真似るべき歌が形成されます。この真似るべき歌が形成されて初めて、真似るための作歌技法が固まり、技術となります。
 当然、和歌を詠うことは、ある種の芸術・芸能活動です。そのため、コンスタントに秀歌を詠うのことは才能であって、暗記では対応が出来ません。一方、時代の要請で、役人たちは季節折々の公式の宴会で歌を詠う必要がありますと、必然、和歌を詠うための教科書が必要となりますし、例題集が必要となります。一番、楽なのは本歌取り技法や歌枕技法で、末句だけを工夫すればよいとする作歌技法です。
 巻十七から巻二十までに、宴会などが予想される場合、事前に歌を用意したが、結局、披露する機会がなかったという記述が散見されます。

「十一月八日、在於左大臣橘朝臣宅、肆宴謌四首」より
集歌四二七二 
原文 天地尓 足之照而 吾大皇 之伎座婆可母 樂伎小里
訓読 天地に足(た)らはし照りに吾(わ)が大皇(きみ)し敷きませばかも楽しき小里(をさと)
私訳 天地をあますなく照らして、吾等の上皇がお出でになられると、風流な里となります。
左注 右一首、少納言大伴宿祢家持 未奏
注訓 右の一首は、少納言大伴宿祢家持 未だ奏(まを)せず

「八月十三日、在内南安殿肆宴謌二首」より
集歌四四五三 
原文 安吉加是能 布伎古吉之家流 波奈能尓波 伎欲伎都久欲仁 美礼杼安賀奴香母
訓読 秋風の吹き扱き敷ける花の庭清き月夜(つくよ)に見れど飽かぬかも
私訳 秋風が吹き、花びらをこき敷ける花の庭は、清らかな月夜に眺めるが見飽きることがありません。
左注 右一首、兵部少輔従五位上大伴宿祢 (未奏)
注訓 右の一首は、兵部少輔従五位上大伴宿祢 (未だ奏(まを)さず)

 歌が詠われた背景からしますと、七夕の宴では柿本人麻呂はその時の天候に合わせて即興で詠い、大伴旅人は梅花宴では場の雰囲気で歌を詠います。彼らならその場、その場で秀歌を詠うことは可能でしょうが、凡人では困難です。それで、紹介したような作歌技法が発達したと思います。
 ただ、奈良時代中期までに作歌技法が発達しすぎて、暗記科目のような状態に陥ったのかもしれません。それでは、単に儀式での式次第と同じとなります。
 さらに大伴旅人の提唱した一字一音万葉仮名で歌を詠うようになりますと、歌を表記した時の漢字の選択という遊ぶもなくなります。唯一の同音異義語の遊びも定型の歌枕を使いますと、ある種、百人一首と同じです。作歌する人物と最初の歌の発声で、「ハイ、判りました」となってしまします。

 万葉集の歌が天平宝字三年正月で終わりますが、背景として、このような状態だったのかもしれません。それで、平安時代人が思う大伴家持の秀歌のほとんどが大伴旅人・大伴坂上郎女時代、または、他人の歌なのでしょう。

 今回もトンデモの与太話でした。なかなく、巻十七で遊ぶのは難しいところがあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする