竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 七七 噛酒と神酒の歌を楽しむ

2014年07月26日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 七七 噛酒と神酒の歌を楽しむ

 再び、酒の文字を含む万葉歌を楽しみたいと思います。ただし、今回は酒造方法とその周辺に主眼を置きますので、非常に大人のバレ話となります。従いまして、バレ話には疎いお方や真面目な青少年の方には推薦出来ない話ですので、ここで撤退を推奨致します。

 さて、和歌の世界での酒とは、基本的に日本酒に分類される米を主原料にアルコール発酵・醸造されたアルコール飲料を示します。当然、猿酒と称される果樹酒も存在しますから古事記神話に載る八岐大蛇退治に登場する八潮酒は、研究者によっては得られる高アルコール度数の酒を想定すると米をベースとした口噛み酒ではなくブドウ酒ではなかったのかとします。ただし、『万葉集』ですから、ここで扱うものは日本酒の酒とします。
 日本酒製造について調べますと、奈良時代、それも大伴旅人・山上憶良たちの時代となる奈良時代初期以降とそれ以前では酒造方法が違うとの指摘があります。奈良時代初期以降では現代の酒造に繋がる朝鮮半島を経由して伝来した米麹菌を使用した発酵・醸造手法が使われており、それ以前は口噛み酒と云う製法による醸造方法であったと推定されています。これらを『万葉集』の歌に求めますと米麹菌による発酵・醸造手法による酒としては濁酒・糟湯酒・黒酒・白酒などが想定されますし、一方、口噛み酒と呼ばれるものでは主に神事に関わるような醸之待酒・神酒・御酒などが想定されます。本ブログの項では伝統神事にも直結する口噛み酒に焦点を当てて、バレ話を展開して行きます。

例歌1;米麹菌による発酵・醸造系の酒の歌
「大伴坂上郎女謌一首」より
集歌1656 酒杯尓 梅花浮 念共 飲而後者 落去登母与之
訓読 酒杯(さかづき)に梅の花浮け思ふどち飲みての後(のち)は落(ち)りぬともよし
私訳 酒盃に梅の花びらを浮かべ、風流を共にするものが酒を飲んだ後は、花が散ってしまっても良い。
和謌一首

「廿五日、新甞會肆宴、應詔謌六首」より
集歌4275 天地与 久万弖尓 万代尓 都可倍麻都良牟 黒酒白酒乎
訓読 天地と久しきまでに万代(よろづよ)に仕へまつらむ黒酒(くろき)白酒(しろき)を
私訳 天地と共に永遠に、万代までお仕えしよう。新嘗の黒酒と白酒を捧げて。
右一首、従三位文屋知奴麿真人
注訓 右の一首は、従三位文屋知奴麿真人

例歌2;口噛み酒系の酒の歌
「太宰帥大伴卿贈大貳丹比縣守卿遷任民部卿謌一首」より
集歌555 為君 醸之待酒 安野尓 獨哉将飲 友無二思手
訓読 君しため醸(か)みし待酒(まちさけ)安し野にひとりや飲まむ友無しにして
私訳 貴方のために醸(かも)して造ったもてなしの酒を、太宰の夜須の野で私は一人で飲むのでしょう。貴方と云う友を失くして。

「見攀折保寶葉謌二首」より
集歌4205 皇神祖之 遠御代三世波 射布折 酒飲等伊布曽 此保寶我之波
訓読 皇神祖(すめろぎ)し遠(とほ)御代(みよ)御代(みよ)はい重(し)き折(お)り酒(さけ)飲むといふぞこの保寶(ほおがし)葉(は)
私訳 天皇の遠い昔の御代御代には、この大きな葉を折り重ねて杯として酒を飲んだと云います。この保寶(=ホウノキ)の葉を。
守大伴宿祢家持
注訓 守大伴宿祢家持

 延喜式などの記録によると、奈良時代には米麹菌とアルコール酵母を使った発酵・醸造法が存在しており、さらに酒母となる「もろみ」を水で薄めたもの(濁り酒、どぶろくの類)、布でろ過したもの、さらにろ過したものに灰を加え澄まし酒(清酒)としたもの、さらに「もろみ」を布でろ過した後に得られる酒粕をもう一度、湯で割った糟湯酒などが存在したようです。
 ここで、日本語で酒を醸造することを意味するものに「醸(かも)す」と云う言葉があり、その語源には二つの説があります。それは、口噛み酒の「噛む」が語源とする説と、他方、米麹菌の姿から「カビ」は「カブ」と云う言葉の語尾変化であり、その「カブ」と云う言葉からは「カム」への語尾変化もあったとする説があります。個人の考えですが、やはり、伝承と伝統からすると「噛む」が語源とするのが素直ではないでしょうか。およそ、日本語の源流には酒は口噛み酒製法により発酵・醸造されるものと認識があったと考えます。
 その口噛み酒について、インターネットで検索しますと、次のような記事に出会うことが出来ます。

酒が米を主体として造られるようになったのは、縄文時代以降、弥生時代にかけて水稲農耕が渡来定着後で、西日本の九州、近畿での酒造りがその起源と考えられている。この頃は、加熱した穀物を口でよく噛み、唾液の酵素(ジアスターゼ)で糖化、野生酵母によって発酵させる「口噛み」という、最も原始的な方法を用いていた。酒を造ることを「醸す」と言い、この語源は「噛む」によるといわれている。この「口噛み」の酒は『大隅国風土記』等に明記され、「口噛み」の作業を行うのは巫女に限られており、酒造りの仕事の原点は女性にあるという。大和時代には、徐々に国内に広まっていった酒造りは、『古事記』『日本書紀』『万葉集』『風土記』などの文献に見られるようになる。「サケ」という呼称はなく、「キ」「ミキ」「ミワ」「クシ」などとさまざまな呼ばれ方をされていた。島根県の出雲地方に「八塩折の酒」(やしおりのさけ)の逸話が残っている。ヤマタノイロチを退治する際にスサノオノミコトが、オロチを酔わせて退治したという酒で「何度も何度もくりかえし醸造した良い(濃)酒」という。神々の酒「天皇の酒」の時代であり、また古代の酒は食物的な要素が強く、固体に近い液体を箸で食べていたという。

 紹介しましたものの補足説明として、口噛みされた米に水を加えずに発酵したものはお粥のような形状の「もろみ」です。これを固体発酵と称し、この「もろみ」を液体と固体に布等を使い絞り分離すると「酒」と「酒粕」と云うものになります。分離しない状態ですと「固体に近い液体を箸で食べていた」と云う解説となります。万葉歌に例を取りますと、先に紹介した集歌4205の歌で示す「保寶葉(ホウの葉)に包んで酒を飲む」と云う表現が示す物です。歌で詠われる酒は液体と云うよりも流動食のような形状であったと推定されます。
 当然、酒の話をしているのですから、飲み助はその口噛み酒のアルコール度数に興味が湧きます。そこで、この口噛み酒のアルコール度数について調べて見ますと、同じ大学に所属するお二人の教授の実験報告を別々に得ることが出来ました。それが次のものです。

報告1;東京農業大学の中里教授の報告
 アルコール度数は最高で5%強(もろみ日数36日)、多くは2%程度で(15日~30日程度)、酒というよりは甘酒に近い。
 実験サンプルの 1/4 はアルコールの生成が非常に少ない(1%未満)。その場合は乳酸菌のほうが酵母よりも優勢で、糖がアルコールではなく、乳酸になっている。
 “口噛み酒は3~4日目に飲用したと伝えられているが、そうだとすればアルコールをほとんど含まない甘酒である。

報告2;東京農業大学の小泉教授の報告
 10日間醗酵させたら、アルコール度数9パーセントの酒ができた。酸度は9.8とかなり酸味の強い酒であった。これは、乳酸菌醗酵による乳酸のためである。
 実験でできた口噛み酒のアルコール度は9パーセント、酸度は9.8ミリリットル、糖度5パーセントの、甘口の酒にヨーグルトを混ぜたような味の酒であった。
 口噛みは主に女子大生・院生が行った。

 雑学をしますと、穀物の発酵において一般には乳酸菌発酵は二十五度以上の発酵温度が好ましく、アルコール酵母菌発酵では二十五度以下の発酵温度が好ましいとされます。そのため、アルコール酵母菌発酵を採用する清酒醸造には自然の冷気が得られる冬場の方が良いと云うことになります。そうした時、両教授の実験報告では、小泉教授の方は乳酸菌発酵が強く勝った発酵で比較的に高いアルコール度数が得られ、中里教授の方は乳酸菌発酵が弱く、その分、アルコール度数の低い結果となっています。また、生成物により周辺環境を酸性にする乳酸菌発酵はその酸性環境により腐敗菌の繁殖・増殖を抑えます。この作用により乳酸菌が高濃度に存在する環境下では腐敗菌による腐敗の進行を防ぎ、アルコール発酵を選択的に促進するようです。およそ、口噛み酒で飲み助の期待を満たすには、酸味が勝ちますが、乳酸菌発酵が勝ることにカギがあるようです。

 ここから、本格的なバレ話に入ります。従いまして、常のお方は退場を推薦いたします。

 アルコール度数の高い口噛み酒を得るのには乳酸菌発酵がカギであろうと云うことが判りました。そして、伝統では「口噛みの作業を行うのは巫女に限られており、酒造りの仕事の原点は女性にある」とします。
 なぜか、
 インターネットには次のような文章があります。

母乳だけ与えている赤ん坊の便は乳酸菌発酵の匂いしかせず、あまり臭くない。 下手に早い時期から離乳食を与えると、腸内細菌叢が乱れて、臭くなっていく。 ある有力社家では、離乳食を与える時期を遅らせて、 最終的な離乳の時期(母乳を飲まなくなる)を四歳ぐらいとする慣習がある。 そのようにして育てられた巫女達は、 赤ん坊と同じような、良い腸内細菌叢を維持したまま育つため、 甘酸っぱい香しい匂いが漂って、まったく臭さを感じさせない。

 つまり、人間は体内に常在乳酸菌を持ちます。そして、さらに、現代の医学によって女性の膣(生殖器)にもこの常在乳酸菌が存在することが確認されています。口噛みによる酒造を行う時、その発酵過程のカギとなる雑菌の少ない優良な乳酸菌を得るには若い女性、それも清浄な女性が好ましいと云うことになります。ここに古代の口噛み酒の醸造で伝統的に要求される条件があったのです。これを古くから人々は経験で知っており、その清浄な若い女性が優良な乳酸菌を保有すると云う状況を次のような文章で説明します。

腸の中まで綺麗な、若い妙齢の女性の腰のあたりからは、くらくらするような本当に良い香りがすることがある。

 女子中高生の体が放つ甘酸っぱい香りの由来はそこにあったのです。犬に甘いヨーグルトの味を覚えさせると、自然と若い女性の腰のあたりに纏わり付くのは、ここにあります。そして、そのような女性に愛撫をしたとき、いくら、手を洗っても微かな匂いが残ることがあります。女性は男性より匂いに敏感ですから、女性は男性が浮気をしたとき、その微かな残り香に真相を見るようです。
 話題として、近々、昭和初期まで、日本の女性はパンツタイプの下着は使用していませんでした。普段はお腰です。そのような状況下、ある一定の人数の清浄な若き女性が集い、蒸した米を手で掴み口噛み酒を醸造すると云う作業を「用を足すと云う機会がある」ような長時間に渡り行うとき、大変高い確率で乳酸菌が混入することはあり得ることと想像します。ここに良質な乳酸菌による乳酸発酵が期待できることになります。また、そのような清浄な女性でも一度、性交し精子を体内に受け入れると膣内の環境が乱され、乳酸菌だけでなく、他の雑菌の繁殖を引き起こすとも云われています。
 酒造は微生物の発酵と云う事象を利用するため、古代、口噛みの酒は保存がききませんし、その酒は日々発酵過程を継続させ品質は変化をします。近代とは違い、冷蔵や低温加熱殺菌により発酵を止める手段を持ちません。そのため、人々は予定の神事の日に合わせて酒を醸造しますが、古代の酒造りは、自然環境に全面的に依存しますから、ある種、一発勝負の側面があります。そうした時、醸造時の雑菌の混入と云うものに対して、よりリスクを減少させ、さらに経験から来る良質な乳酸菌を得るため、タブーという忌諱を導入して清浄な状態の女性を確保する必要があったのでしょう。このような医学的な根拠、醸造上の要請などから、神事での口噛みの酒には未通女である清浄な若い女性が必要だったのです。
 同様な事例としてワイン醸造でも乳酸菌は重要な役割を持っています。古風を保つワイナリーのワイン製造過程で、最初の作業としてブドウを女性が足踏みで搾汁します。現代こそ、女性は下着を付けていますが、二十世紀初頭まで庶民は下着と云うものを着けていませんでした。つまり、スカートの下は素肌と云うことです。およそ、日本の巫女たちが清浄な状態を保ち、口噛み酒の醸造に関わると同じように、経験則から良質な乳酸菌を求めてワイン醸造でも下着を着けない若い娘たちの足踏み搾汁は重要な作業であったと考えます。日本、フランスに共通して、良質な酒を醸造するには若い清浄な女性は必要だったようです。参考に、ある時期まで、パリオペラ座で踊るバレリーナたちやムーランルージュの踊り子たちは下着(パンツ)を身に着けずに踊っていたと云うことは有名な裏話です。
 以上の考察から、もし、口噛み酒の実験を行うのですと、甘酸っぱい体臭を持つ女子中学生(もし、可能なら未通女性であることが好ましい)たちに、古風にお腰の下着(パンツの下着は不可)と着物を着て貰い、筵に座って手掴みで蒸かした米を扱って、用を足すと云う機会を持つように半日以上の口噛みをする必要があります。発酵貯蔵用の土甕は、数回、準備実験を行い、甕の土壁内に酵母菌が付着しているようなものが好ましいと考えます。このような状況で二十五度以上の温度に保つと、十分にアルコール濃度の高い甘酸っぱい古代の口噛み酒が得られるのではないでしょうか。中学生の理科・社会の実験テーマに相応しいと思いますが、さて、興味がある人はいるでしょうか。

 終わりに、『万葉集』巻十四は東国の歌を集めた巻です。それも民衆歌を集めたものが中心ですし、民衆の生活でも「ハレ」の日や男女の恋愛を詠うものが過半を占めますから、さぞかし酒の歌があるかと調べますと、ありません。本当に酒を詠う歌を見つけることは出来ませんでした。実に不思議です。万葉集中で「酒」と云う言葉を織り込んだ短歌が二十九首しかないと云うことに起因するのかもしれませんが、不思議です。
 付け加えて、奈良時代から宮内省造酒司が主導する米麹菌を利用した酒の醸造が始まります。これからの後は、正確に原料を選別・計測し醸造する男たちの世界となります。その風情は面白くも可笑しくもなんともありません。
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万葉雑記 色眼鏡 七六 高市黒人を鑑賞する

2014年07月19日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 七六 高市黒人を鑑賞する

 今回は高市黒人の歌を鑑賞したいと思います。
 最初に、この高市黒人の人物像を探りますと、有名な和歌を扱うHP「千人万首」では、次のような解説で紹介される人物です。

持統・文武朝頃の歌人。伝不詳。高市氏は県主(あがたぬし)氏族の一つで、古来大和国高市県(今の奈良県高市郡・橿原市の一部)を管掌した。大宝元年(701)の太上天皇吉野宮行幸、同二年の参河国行幸に従駕して歌を詠む。すべての歌が旅先での作と思われる。下級の地方官人であったとみる説が有力。万葉集に十八首収められた作は、すべて短歌である。

 非常にあっさりとした解説です。『万葉集』での時代区分を実作ベースとした時、この高市黒人は柿本人麻呂と同時代に位置し、『万葉集』に載る作品群では最初期に区分される人物です。その分、歴史に於いて人物が不明となり、人物紹介があっさりしたものとならざるを得ないのでしょう。
 追加参考として、高市黒人は「連(むらじ)」と云う氏族の階級を示す「姓(かばね)」を保持します。この「連」と云う姓を持つ高市連は『新撰姓氏録』に従うと天津日子根命の子孫を称する天孫系氏族の一つで、その出身は大和国高市県(今の奈良県高市郡から橿原市の一部)を管掌した高市県主です。その「県主」の姓は、天武天皇の定めた「八色の姓」の制度により、その嫡流だけに天武天皇十二年(683)になって「連」と云う階級を示す「姓」が賜与されています。つまり、これらの史実から高市黒人は高市県主の直系の子孫となります。
 さらに、天武天皇朝の左大臣、持統天皇朝の太政大臣を務めた高市皇子の養育を担当する「壬生」をその「高市皇子」なる呼称から高市県主が務めたと推定されます。およそ、高市黒人は天武・持統天皇朝では高市皇子との深い関係があったと想像することは許されるでしょう。これは、柿本人麻呂が高市皇子へ壮大な挽歌を捧げた姿から人麻呂と高市皇子との深い関係が想像されるとき、高市皇子を通じて高市黒人と人麻呂とは何らかの交流があったと推定することが許されるのと同等です。

 さて、「万葉集の歌をどのように解釈するか」と云う問題を提起するとき、現代では高市黒人の歌とされる集歌32の歌が例題としてよく取り上げられます。高市黒人の歌の鑑賞では最初にその歌を最初に紹介します。

高市古人感傷近江舊堵作謌 或書云、高市連黒人
標訓 高市古人の近江の旧堵(きゅうと)を感傷(いたみ)て作れる謌 或る書(ふみ)に云はく「高市連黒人」といへり
集歌32 古 人尓和礼有哉 樂浪乃 故京乎 見者悲寸
訓読 古(いにしへ)し人に吾(わ)れあれや楽浪(ささなみ)の故(ふるき)京(みやこ)を見れば悲しき
私訳 当時の古い時代の人間だからか、私の今は。この楽浪の故き京を見ると悲しくなる。

集歌33 樂浪乃 國都美神乃 浦佐備而 荒有京 見者悲毛
訓読 楽浪(ささなみ)の国つ御神(みかみ)の心(うら)さびて荒れたる京(みやこ)見れば悲しも
私訳 楽浪の国を守る国つ御神の神威も衰えて、この荒廃した京を見ると悲しくなる。

 この歌は柿本人麻呂が詠う集歌29から31までの「過近江荒都時、柿本朝臣人麿作歌」と標題を持つ歌群の次に載せられ、テーマは近江国大津にあった天智天皇朝の大津宮の荒廃を詠うものです。そこから、高市黒人と柿本人麻呂とは同時期に旧都大津宮を訪れたのではないかとも推測されています。
 こうした時、集歌32の歌の初句「古人尓和礼有哉」について、平安時代初期のように「古人尓 和礼有哉」と区切ると「ふるひとに われはあらむや」と訓むことになり、現代風に「古 人尓和礼有哉」と区切ると「いにしへし ひとにわれあれや」と訓むことになります。今日の万葉集伝本の研究では、原初万葉集ではまだ標題は整っておらず、現代に伝わる『万葉集』が編纂された時代に多くの標題が付け加えられ整備されたと推定します。この背景から集歌32の歌は「古人尓 和礼有哉(ふるひとに われはあらむや)」と訓み、「私は古人と云う名前を持っているから、このように古びた都を見ると・・・」と解釈したと考えられます。この解釈が標題の「高市古人感傷近江舊堵作謌」と云うことになります。
 およそ、この集歌32の原歌「古人尓和礼有哉樂浪乃故京乎見者悲寸」をどのように区切り・読み解くかにより、万葉集編纂の歴史への解釈や態度が変わると云う興味深い歌です。現代の解釈は平安初期に編纂された『万葉集』に載る標題に対して、さらに後に万葉集研究者が付けられた「或書云、高市連黒人」と云う注釈を尊重して、「古 人尓和礼有哉(いにしへし ひとにわれあれ)」とします。これにより、「高市古人」なる人物は誤解釈からの名前であるから、存在しない人物と扱われることになりました。
 参考として、「古 人尓和礼有哉(いにしへし ひとにわれあれ)」との解釈では高市黒人は天智天皇朝の大津宮の繁栄を体感した同時代人となりますし、同様に柿本人麻呂もまた同時代人であったと解釈することになります。およそ、歌から年齢推定のヒントが得られると云う例題になる歌でもあります。
 『万葉集』には高市黒人の名を持つ同時期に詠われたのではないかと思われる歌があります。この歌の作者は、およそ、大津宮の繁栄と荒廃の当事者である意識があります。

高市連黒人近江舊都謌一首
標訓 高市連黒人の近江(あふみ)の舊都(ふるきみやこ)の謌一首
集歌305 如是故尓 不見跡云物乎 樂浪乃 舊都乎 令見乍本名
訓読 かく故(ゆゑ)に見じと云ふものを楽浪(ささなみ)の旧(ふる)き都を見せつつもとな
私訳 このような思いになるから見たくないと云うのに、近江楽浪の古き都を無理に見せて。
右謌、或本曰少辨作也。未審此少弁者也
注訓 右の謌は、或る本に曰はく「少辨の作なり」といへり。未だ此の少弁なる者は審(つばび)らかならず。


 次の歌は、紹介だけです。

二年壬寅、太上天皇幸于参河國時謌
標訓 (大宝)二年(702)壬寅、太上天皇の参河の國に幸(いでま)しし時の謌
集歌58 何所尓可 船泊為良武 安礼乃埼 榜多味行之 棚無小舟
訓読 何処(いづく)にか船(ふね)泊(は)てすらむ安礼(あれ)の崎榜(こ)ぎ廻(た)み行きし棚無し小舟(をふね)
私訳 どこの湊に船を泊めているのだろうか。安礼のを、帆を操り廻って行った側舷もない小さな舟は。
右一首高市連黒人
注訓 右の一首は、高市連黒人

 次に紹介する集歌70の歌は、歌よりもその歌に使われた漢字の訓みとその文字が示す地名について遊んでみました。思い入れがありますので、くどいです。

太上天皇幸于吉野宮時、高市連黒人作謌
標訓 太上天皇の吉野宮に幸(いでま)しし時に、高市連黒人の作れる謌
集歌70 倭尓者 鳴而歟来良武 呼兒鳥 象乃中山 呼曽越奈流
訓読 大和には鳴きにか来らむ呼子(よぶこ)鳥(とり)象(ころ)の中山呼びぞ越ゆなる
私訳 大和には鳴きながらここから飛んで行くのでしょう。呼子鳥とも呼ばれるカッコウよ。秋津野の小路にある丘から「カツコヒ、カツコヒ」と想い人を呼びながら越えて行きました。
注意 当時、流行した博打の一種である樗蒲(ちょぼ、かりうち)で、その出目である一伏三起を「ころ」と云い「象」と記すます。なお、集歌70の歌の標の「太上天皇幸于吉野宮時」とは、持統太上天皇の吉野宮への御幸を示しますから、推定で大宝元年(701)六月の吉野宮への御幸の時を示すのではないかと考えています。

 ここで、標準的な解説をしますと、集歌70の歌での「象」は「きさ」と訓みます。
 これは地名で「象潟」を「きさかた」と訓むところと同じです。この地名である象潟が歴史に現れるのは『延喜式』(927年)が古い例です。ただ、この時の表記は「蚶方(きさかた)」または「蚶形(きさかた)」であって、「象潟」ではありません。あくまで、「蚶」は赤貝の古名である「キサガイ」からの「キサ」です。ではどうして、象を「きさ」と読むようになったのかと云いますと、古語で年輪として現れる木目を橒(きさ)と云います。そして、平安時代に象牙の横断面の成長痕が木目に似ていることから象牙のことを「きさのき」と呼んでいたことから、言語研究者は物品としての「象牙」が先に日本に輸入され、言葉としての「ぞうげ」は後から入って来たとします。そして、漢語発音を嫌った平安時代に「象牙」を「きさのき」と呼称していたことから奈良時代以前もそのように呼んでいたのであろうとします。同じような無理やりの当て字の例として『日本書紀』に載る水の精霊を「水神罔象」と記し、これを「此云美都波(みつは)」と訓まします。この和語に対する無理やりの当て字の由来は中国書『准南子』の載る説話で水の精霊を「罔象」と記しているところに拠ります。集歌32の歌と同じように平安時代人は「象」を「きさ」と訓んだとするのが良いようで、万葉人がそのように訓んだか、どうかは、また、別な話です。このような背景があるためか、平安時代に編纂された『和名抄』には「象 和名 伎左」と記述されています。ただ、同時に奈良時代に大流行した博打に使われる用語では「象」と記して「ころ」とも訓みますから、この『万葉集』に載る文字「象」を木目調での意味合いでの「きさ」と訓むのか、博打からの洒落で「ころ」と訓むのかの判定は難しいところです。
 おまけとして『日本書紀』天智天皇紀を引用して「象牙」を「きさのき」と呼称していたと解説するものがありますが、それは為にする想像の解説です。『日本書紀』には「是月、天皇遣使奉袈裟・金鉢・象牙・沈水香・栴檀香及諸珍財於法興寺仏」と記述するだけで、先に紹介した「罔象此云美都波」のような補足表記はありません。他文献から「象牙」の訓みが確定するまで、『日本書紀』の記事は漢語発音すべき扱いのものです。「一般人は漢文で表記された原文を読めない、読まない」として現代訳文と称して創訳する悪習は、もう、止めるべきです。

 次の覊旅謌八首は歌で詠われる地名と黒人の生きた時代を想像しますと、大宝二年の持統太上天皇の三河国への御幸の時に詠われたものであろうと考えられます。この時の御幸の工程は行宮を伊賀・伊勢・美濃・尾張・三河の五国に造営し、往きは船で三河に直接に至り、帰りは尾張・美濃・伊勢・伊賀と陸路を辿っています。美濃の行宮から伊勢の行宮までには五日を要していますから、この時、不破関を越え北近江の地を訪れた可能性があります。さらに伊勢からの帰京において、伊賀行宮からは御幸の一行とは別行動を取り、何らかの理由で旧大津宮を訪れてから帰京した可能性も否定できません。
 このように旅程や旅の動機を想像しますと、古くからその地名について多くの提案がなされてきた覊旅謌八首に載る集歌272の歌で詠われる「四極山」は、御幸の一行が大船で三河へ直航したとしますと、当時の大船の港である大伴御津に関係するであろうと想像することが可能となります。およそ、賀茂真淵は四極山について摂津説(大阪市住吉区)を唱え、歌で詠われる笠縫島は摂津国笠縫邑(現在の大阪市東成区深江)としますから、御幸の旅程からするとこの説が本来と思われます。
 こうした時、『万葉集』巻九に高市謌一首との標題を持つ集歌1718の歌があります。詠う地名が近江国高島であり、高市の名を持ちますから、時にこの歌は高市黒人のもので、それも大宝二年の持統太上天皇の三河国への御幸の時に詠われたものであるかもしれません。

高市連黒人覊旅謌八首
標訓 高市連黒人の覊旅(たび)の謌八首
集歌270 客為而 物戀敷尓 山下 赤乃曽呆舡 奥榜所見  (呆はネ+呆の当字)
訓読 旅にせに物恋しきに山下(やました)し赤(あけ)のそほ船沖榜ぐそ見ゆ
私訳 旅路にあって物恋しいときに、ふと気が付くと、山の裾野に赤丹に塗った官の船が、いつの間にか沖合を帆走していくのを見た。
注意 原文の「赤乃曽呆舡」は、一般には「赤乃曽保船」と表記します。

集歌271 櫻田部 鶴鳴渡 年魚市方 塩干二家良之 鶴鳴渡
訓読 桜田部(さくらたへ)鶴(たづ)鳴き渡る年魚市(あゆち)潟(かた)潮干(しほひ)にけらし鶴(たづ)鳴き渡る
私訳 桜田辺り、鶴が鳴き飛び渡る年魚市の干潟は潮が引いたらしい。鶴が鳴き飛び渡る。

集歌272 四極山 打越見者 笠縫之 嶋榜隠 棚無小舟
訓読 四極山(しはつやま)うち越え見れば笠縫(かさぬひ)し島榜(こ)ぎ隠(かく)る棚なし小舟
私訳 四極山のその山を苦労して越えて眺めると、笠縫にある嶋を帆走して嶋にその姿を隠す、側舷もない小さな舟よ。

集歌273 礒前 榜手廻行者 近江海 八十之湊尓 鵠佐波二鳴 (未詳)
訓読 磯し前(さき)榜(こ)ぎ廻(た)み行けば近江(あふみ)海(うみ)八十(やそ)し湊(みなと)に鶴(たづ)さはに鳴く (未だ詳(つばび)らかならず)
私訳 磯の岬を帆走して回り行くと、近江の海にある数多くの湊に鶴がしきりに鳴く。

集歌274 吾船者 枚乃湖尓 榜将泊 奥部莫避 左夜深去来
訓読 吾が船は比良(ひら)の湖(みなと)に榜(こ)ぎ泊(は)てむ沖へな避(さか)りさ夜更けにけり
私訳 私が乗る船は比良の湊に榜ぎ行き泊まろう。沖には決して離れて行くな。夜も更けたことです。

集歌275 何處 吾将宿 高嶋乃 勝野原尓 此日暮去者
訓読 いづくにか吾し宿(やど)らむ高島の勝野(かちの)し原にこの日暮(く)れなば
私訳 どこに今夜は私は宿を取りましょう。高嶋の勝野の野原で、この日が暮れてしまったら。

集歌276 妹母我母 一有加母 三河有 二見自道 別不勝鶴
訓読 妹もかもひとりなるかも三河なる二見(ふたみ)し道ゆ別れかねつる
私訳 一夜妻も私と同じように一人なのだろうか、そう思うと、この三河の昨夜の宿の辺りを振り返って見る道から別れ去りかねている。
一本云 水河乃 二見之自道 別者 吾勢毛吾文 獨可文将去
一本(あるほん)に曰はく、
訓読 三河(みかは)の二見(ふたみ)し道ゆ別れなば吾背も吾も一人かも行かむ
私訳 三河にある再び会うと云うその二見の道で別れたならば、私の愛しい貴女も私も独りだけでこれらかを生きて行くのでしょう。

集歌277 速来而母 見手益物乎 山背 高槻村 散去奚留鴨
訓読 速(はや)来ても見てましものを山背(やましろ)し高(たか)し槻群(つきむら)散りにけるかも
私訳 何が無くても早くやって来ても眺めましたものを、山城の背の高い槻の群落の黄葉は散ってしまったようです。

参考歌
高市謌一首
標訓 高市(たけち)の歌一首
集歌1718 足利思伐 榜行舟薄 高嶋之 足速之水門尓 極尓濫鴨
訓読 率(あとも)ひて榜(こ)ぎ行く舟は高島(たかしま)し阿渡(あと)し水門(みなと)に泊(は)てるらむかも
私訳 船人を率いて帆を操り行く舟は、高島の阿渡の湊に停泊するのでしょうか。

 次に紹介する歌もまた覊旅謌です。集歌279の歌で詠われる「猪名野」は兵庫県伊丹市の猪名川と武庫川の間の台地の古名ですし、「名次山」は兵庫県西宮市名次町付近の丘をしまします。また集歌280の歌で登場する「真野」は兵庫県神戸市長田区真野町付近とします。
 高市黒人は天皇や大王の御幸に扈従する人物ですので、この覊旅謌も御幸に関係する可能性があります。そうした時、高市黒人は都に残した妻と歌の交換をしていますから、御幸先での滞在は便りを運搬した使者の旅程を考慮しますと旬(十日)単位の滞在と思われます。そうしますと、文武天皇三年の難波宮への御幸がその候補になるかもしれません。御幸は正月二十七日から二月二十日の間に渡って行われています
 参考として、集歌280と281との歌で詠われる白菅を葉裏の白い菅とする考えと冬枯れの菅と見る考えがありますが、ここでは「スゲ」の冬枯れの風情と見ています。このように想像しますと、この歌群の後に配置される集歌283の歌も文武天皇三年の難波宮への御幸の時に詠われたのではないかと想定することも可能となります。

高市連黒人謌二首
標訓 高市連黒人の謌二首
集歌279 吾妹兒二 猪名野者令見都 名次山 角松原 何時可将示
訓読 吾妹子(わぎもこ)に猪名野(ゐなの)は見せつ名次山(なすぎやま)角(つの)松原しいつか示さむ
私訳 私の愛しい貴女に猪名野は見せました。次は名次山にある角の松原をいつか見せましょう。

集歌280 去来兒等 倭部早 白菅乃 真野乃榛原 手折而将歸
訓読 いざ児ども大和へ早く白(しら)菅(すげ)の真野の榛原(はりはら)手折(たお)りて行かむ
私訳 さあ皆の者、大和へ早く帰ろう。白菅の生える真野の榛原で枝を手折って帰り行こう。

黒人妻答謌一首
標訓 黒人の妻の答へたる謌一首
集歌281 白菅乃 真野之榛原 徃左来左 君社見良目 真野乃榛原
訓読 白(しら)菅(すげ)の真野の榛原(はりはら)往(ゆ)くさ来(く)さ君こそ見らめ真野の榛原(はりはら)
私訳 白菅の生える真野の榛原を行きも帰りも貴方は眺めたのですね。その真野の榛原を。

参考歌
高市連黒人謌一首
標訓 高市連黒人の謌一首
集歌283 墨吉乃 得名津尓立而 見渡者 六兒乃泊従 出流船人
訓読 墨吉(すみのえ)の得名津(えなつ)に立ちて見わたせば武庫(むこ)の泊(とまり)ゆ出(い)づる船人(ふなひと)
私訳 住吉の得名の津に立って見渡すと、武庫の湊からやって来た船人が見える。


 さて、先に集歌1718の歌は高市黒人の歌で大宝二年の持統太上天皇の三河国への御幸の時に詠われたものと想像しました。この歌は巻九に載り、集歌1711の歌の左注と集歌1725の歌の左中の解釈によっては、柿本人麻呂歌集に収録された歌であり、人麻呂の活躍時代と同時代または先行する時代の歌と考えることが出来ます。およそ、この想定から集歌1718の歌の標題で示す高市は高市黒人であり、その高市黒人は柿本人麻呂と同時代の人物で、人麻呂と同様に御幸に扈従し、歌を残すような身分の人であったと考えるようです。

高市謌一首
標訓 高市(たけち)の歌一首
集歌1718 足利思伐 榜行舟薄 高嶋之 足速之水門尓 極尓濫鴨
訓読 率(あとも)ひて榜(こ)ぎ行く舟は高島(たかしま)し阿渡(あと)し水門(みなと)に泊(は)てるらむかも
私訳 船人を率いて帆を操り行く舟は、高島の阿渡の湊に停泊するのでしょうか。

参考
集歌1711 百傳之 八十之嶋廻乎 榜雖来 粟小嶋者 雖見不足可聞
訓読 百づたし八十(やそ)し島廻(しまみ)を漕ぎ来れど粟(あは)し小島は見れど飽かぬかも
私訳 百へと続く八十、その沢山の島の周りを漕ぎ来るが、粟の小島は何度見ても見飽きることはありません。
右二首、或云、柿本朝臣人麻呂作。
注訓 右の二首は、或は「柿本朝臣人麻呂の作なり」といへり。

麻呂謌一首
標訓 麻呂(まろ)の歌一首
集歌1725 古之 賢人之 遊兼 吉野川原 雖見不飽鴨
訓読 古(いにしへ)し賢(か)しこき人し遊びけむ吉野し川原見れど飽かぬかも
私訳 昔の高貴な御方がおいでになった吉野の川原は、美しく眺めていても見飽きることがありません。
右、柿本朝臣人麻呂之謌集出。
注訓 右は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。


 最後となりますが、巻十七に集歌4016の歌が載せられています。詠われる地名を「婦負の野」とすると、越中国婦負郡ですから、現在の富山市付近となります。これが現代の通説となっています。ただし、昔、このような歌があったと越中国での宴会で披露されたとしますと「賣比能野能」は「比賣能野能」をもじった歌であったかもしれません。そうした時、高市黒人は文武天皇三年正月、難波宮への御幸の折に、「猪名野」を訪れていたと考えられますから、その先、姫路にも足を伸ばした可能性は捨てきれません。なお、文武天皇三年二月一日は西暦699年3月10日ですから、文武天皇三年正月二七日から二月二二日までの難波宮への御幸の間に雪が降った可能性は否定できません。

高市連黒人謌一首  年月不審
標訓 高市連黒人の謌一首  年月は審(つばひ)らかならず
集歌4016 賣比能野能 須々吉於之奈倍 布流由伎尓 夜度加流家敷之 可奈之久於毛倍遊
訓読 婦負(めひ)の野の薄(すすき)押し靡(な)べ降る雪に宿借る今日し悲しく思ほゆ
私訳 婦負の野の薄を押し倒して靡かせ降る雪に、宿を借りる今日は、悲しく感じられます。
右、傳誦此謌三國真人五百國是也
左注 右は、此の謌を傳(つた)へ誦(よ)めるは三國真人五百國、是なる。
「もじり」想定の時、
原文 比賣能野能 須々吉於之奈倍 布流由伎尓 夜度加流家敷之 可奈之久於毛倍遊
試訓 比賣(ひめ)の野の薄(すすき)押し靡(な)べ降る雪に宿借る今日し悲しく思ほゆ
試訳 姫路の野の薄を押し倒して靡かせ降る雪に、宿を借りる今日は、悲しく感じられます。


 以上、高市黒人の歌を鑑賞してきました。歌は基本的に天皇御幸での歌ですから、彼は朝廷に努める中央官庁の役人です。だだ、身分は低かったのではないでしょうか。
 そうした時、万葉歌と云う漢字と万葉仮名とを使って歌を創作出来る能力等を勘案しますと、彼は高市県主系の家系ですので宮中神事に関係する神祇官でも大史(正八位上)小史(従八位上)相当の階級であったのではないでしょうか。まず、従来に想定されている地方官ではありません。詠われる歌の状況や背景を正しく鑑賞しますと、高市黒人が富山や大分を訪れた可能性は無くなるのではないでしょうか。
 このように彼が詠う歌を鑑賞すると、高市黒人の人物像が明確になるようです。高い可能性で藤原京に勤める大史(正八位上)または小史(従八位上)相当の神祇官で、折々の天皇御幸に扈従し、宴や友人に和歌を披露するような風流人であったと考えられます。

 ご来場のお方に、ここでのものは大人の与太話でありますので、読み捨てでお願い致します。
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万葉雑記 色眼鏡 七五 無くて七癖

2014年07月12日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 七五 無くて七癖

 天武天皇の御製とされる歌を紹介します。それが巻一に載る集歌27の歌と巻二に載る集歌103の歌です。伊藤博氏の万葉集釋注によると集歌103の歌は天武天皇六年正月の作品ではないかと推測し、集歌27の歌はその左注から天武天皇八年五月の作品となります。ほぼ、同時期の天武天皇の御製と考えて良いようです。

天皇、幸于吉野宮時御製謌
標訓 天皇の、吉野宮に幸(いでま)しし時の御(かた)りて製(つく)らせしし謌
集歌27 淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見多 良人四来三
訓読 淑(よ)き人の良(よ)しとよく見て好(よ)しと言ひし 吉野よく見た良き人よく見つ
私訳 徳行が良い人が立派だと吉野を良い所としっかり眺めて云うので、その吉野をめでたくも沢山眺めた。善良な人よ よく見なさい。
紀曰、八年己卯五月庚辰朔甲申、幸于吉野宮。
注訓 紀に曰はく「八年己卯五月庚辰の朔の甲申に、吉野宮に幸(いでま)す」といへり。

注意 万葉集の歌が、万葉仮名で記された和歌であるとか、訓読み万葉集で鑑賞するとかが出来ないことを端的に示す歌です。同じ「よし」でも表記が違うと意味が違うようです。
淑;徳行が良い、良;善良な、好;すぐれている、芳;美徳、吉;めでたい


天皇賜藤原夫人御謌一首
標訓 天皇(すめらみこと)の藤原(ふじわらの)夫人(ぶにん)に賜(たま)へる御謌(おほみうた)一首
集歌103 吾里尓 大雪落有 大原乃 古尓之郷尓 落巻者後
訓読 吾(わ)が里に大雪降(ふ)れり大原の古(ふ)りにし里に降らまくは後(のち)
私訳 わが明日香の里に大雪が降っている、遠く離れたお前の里の(明日香の)大原の古びた里に雪が降るのはもっと後だね。


 この二つの歌を鑑賞しますと、集歌27の歌は「よし」と云う発音を持つ同音異義語を組み込んでのものです。一方、集歌103の歌は「おほゆき」と「おほはら」、「ふれり」と「ふりに」とこれもまた似通った発音を持つ言葉を集めてのものです。
 このような作風を天武天皇が好まれたのか、それともその時代の作歌での約束であったのかは不明ですが、この言葉の発音に楽しむと云うところに天武天皇御製の特徴があります。
 天武天皇が歌を詠う時、この言葉での発音で遊ぶ癖があるとしますと、「あぁ、なるほど」と思える歌があります。それが巻一雑歌の部立に載る集歌21の歌です。額田王が近江国蒲生郡の武良村にある野原で薬狩を行った時、宴会で「武良し前野(むらしさきの)」と詠ったとき、皇太子であった大海人皇子(後の天武天皇)は「むらさきの」と言葉遊びし、さらにそれを紫色の御衣を身に纏う倭皇后の姿として歌を展開しています。当然、集歌21の歌での「にくく」は古語の「こころにくし」と同じ意味合いと解釈するのが本来でしょう。それは「奥ゆかしいさま」と解釈するものですし、「恋」は漢語の言葉として解釈し「尊敬する、慕う」とするべきものです。ここでの「恋」は和語ではありません。およそ、そこには色恋と云う風景はありません。歌は『万葉集』であって、『古今和歌集』ではありません。


天皇、遊狩蒲生野時、額田王作謌
標訓 天皇の、蒲生野に遊狩(みかり)したまひし時に、額田王の作れる歌
集歌20 茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
訓読 茜(あかね)さす武良(むら)し前野(さきの)逝(ゆ)き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君し袖振る
私訳 茜染めの真緋(あけ)の衣を纏った武者達が駆け回った茜色に染まった蒲生邑の前野はもう暮れようとしています。今日、その御狩地である標野で御狩りがありましたが、野守は見たでしょうか。多くの女性が薬草採りをする中で、私だけに貴方がそっと印しの袖を振ったのを。

皇太子答御謌 明日香宮御宇天皇、謚曰天武天皇
標訓 皇太子の答へ御(かた)りしし謌
追訓 明日香宮の御宇天皇、謚(おくりな)して曰はく天武天皇
集歌21 紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方
訓読 紫草(むらさき)の色付(にほへ)る妹を憎くあらば人嬬(ひとつま)故に吾(あ)が恋ひめやも
私訳 紫の衣を着る高貴な貴女を帝と同じように慕わない人はいません。貴女は帝の皇后ですから私を始め皆がその慕う気持ちを表さないのです。
紀曰、天皇七年丁卯夏五月五日、縦狩於蒲生野。于時天皇弟諸王内臣及群臣、皆悉従焉。
注訓 紀に曰はく「天皇、七年丁卯の夏五月五日に、蒲生野に縦狩(みかり)したまふ。時に大皇弟・諸王・内臣と群臣、悉皆(ことごと)に従ふ」といへり。


 言葉の発声で遊び歌を詠うのが時代の風潮だったのでしょうか。天武天皇の時代より、少し、下りますが、持統天皇の時代のものとしては次のような歌二首があります。これらの歌は歌そのものの内容を楽しむと云うものではなく、口唱するときの口調と音遊びを楽しむ歌です。

天皇志斐嫗御謌一首
標訓 天皇(すめらみこと)の志斐(しひ)の嫗(おみな)に賜(たま)へる御歌一首
集歌236 不聴跡雖云 強流志斐能我 強語 比者不聞而 朕戀尓家里
訓読 聴かずと云へど強(し)ふる志斐(しひ)のが強(し)ひ語(かた)りこのころ聞かずて朕(われ)恋ひにけり
私訳 「聴きません」というのに強いて志斐が熱心に私に語るのを、この頃、それを聞かないと私は志斐が話をするのを恋しくなるようです。

志斐嫗奉和謌一首 嫗名未詳
標訓 志斐(しひ)の嫗(おみな)の和(こた)へ奉(まつ)れる歌一首 嫗(おみな)の名はいまだ詳(つばび)ならず
集歌237 不聴雖謂 話礼々々常 詔許曽 志斐伊波奏 強話登言
訓読 聴かずと謂へど話(かた)れ話(かた)れと詔(の)らせこそ志斐(しひ)云は奉(まを)すを強(し)ひ話(かたり)と言ふ
私訳 「聴きません」とおっしゃるが、貴方が物語を語れ語れと私に命じられるから、この志斐は物語を申し上げているのに、貴方はそれを「強いて物語を聞かす」とおっしゃる。
注意 集歌236の歌と集歌237の歌では、身分の上下関係から「語」と「話」の用字が使い分けられています。ただし、集歌237の歌での「話」は「語」の誤記とします。


 同種のものとしては、これからずっと時代が下りますが、大伴郎女が詠う歌が類似の分類にはいります。勉強不足なのか、集歌2640の歌を除きますと、これ以降にはなかなかこのような内容より口唱するときの口調と音遊びを楽しむ歌は無いのではないでしょうか。

大伴郎女和謌四首より一首
集歌527 将来云毛 不来時有乎 不来云乎 将来常者不待 不来云物乎
訓読 来(こ)む云ふも来(こ)ぬ時あるを来(こ)じ云ふを来(こ)むとは待たじ来(こ)じ云ふものを
私訳 私の許に来ると云っても来ないときがあるのに、私の許に来ないと云うのを来るだろうと貴方を待ちません、私の許に来ないと云われるのに

参考歌
集歌2640 梓弓 引見絶見 不来者〃〃 来者其〃乎奈何 不来者来者其乎
訓読 梓弓(あづさゆみ)引きみ絶(たへ)ずみ来(こ)ずは来(こ)ず来(こ)ばそそを何(な)ど来(こ)ずは来(こ)ばそを
私訳 梓の弓を引いたり弛めたりするように、やって来ないなら来ない。やって来るならば来れば良い。それをどうして、やって来ないとか、やって来るとかと云うのでしょう。

注意事項として、紹介した集歌2640の歌は一般には次のように近代解釈に合わせて変更し、次のように表記されます。微妙に変化します。

改訂 梓弓 引見弛見 不来者不来 来者来其乎奈何 不来者来者其乎
訓読 梓弓引(ひ)きみ弛(ゆる)へみ来(こ)ずは来(こ)ず来(こ)ば来(こ)其(そ)をなぞ来(こ)ずば来(こ)ば其(そ)を


 他方、先に集歌21の歌を紹介しました。この歌の背景には「紫は名が高い」、後の「紫のなだか」と云う言葉へと省略・変化しますが、紫の衣を着る人は名=身分が高いという前提の共通認識があります。

集歌21 紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方
訓読 紫草(むらさき)の色付(にほへ)る妹を憎くあらば人嬬(ひとつま)故に吾(あ)が恋ひめやも


 そして、「紫のなだか」に注目して頂くと巻七に載る集歌1392の歌も集歌1396の歌も共にその句を「紫と云う身分は名が高い。その言葉の響きのような名高の浦」と鑑賞します。つまり、ここにはまだ言葉の発声での遊びが残っているのです。それでいて、口調は滑らかに進行し、かつ、歌にはちゃんと意味を持たせています。これが和歌の進化の過程なのでしょう。
 これらの歌の表記形式からすると藤原京時代でしょう、また、大宮人が紀伊の浜辺の景色を詠います。これを前提として、時代としての作歌技術や口調、その特徴から歌には柿本人麻呂の匂いがすると云う人もいます。巻七は詠み人知れずの歌を集めた巻ですが、人麻呂の姿を想像するのが相応しいと考えます。

集歌1392 紫之 名高浦之 愛子地 袖耳觸而 不寐香将成
訓読 紫(むらさき)し名高(なたか)し浦し真砂子(まなこ)土(つち)袖のみ触れに寝(ね)ずかなりなむ
私訳 紫の高貴な色として名が高い、その言葉のひびきのような名高の入り江の真砂子の土、その愛しい貴女の袖だけを触れ合わすだけで共寝をしないで終わるのだろうか。

集歌1396 紫之 名高浦乃 名告藻之 於礒将靡 時待吾乎
訓読 紫(むらさき)し名高(なたか)し浦の名告藻(なのりそ)し礒に靡かむ時待つ吾を
私訳 紫の高貴な色の名が高い。その言葉のひびきのような名高の入り江の名告藻が磯で打ち靡く、その言葉のように私の名を告げた貴女が私に打ち靡く時を待つ私です。


 他方、先の集歌21の歌で大海人皇子(後の天武天皇)が、額田王が「武良し前野(むらしさきの)」と詠ったとき、言葉の響きに注目してそれを「むらさきの」と転換して歌を詠ったとしました。ここにその時代の言葉遊びの景色がありますし、他の歌などからも天武天皇はそのような作風を好んだことが想像出来ます。
 そのような和歌の作歌態度において、先に歌を詠った人の作品での言葉の響きを下に、返歌、または添歌となるような歌を詠い、和歌を詠いあう宴を楽しんだ作品群が万葉集にはあります。それを次に紹介します。作品は巻三に載る筑紫歌壇作品群に属する大伴旅人、沙弥満誓、山上憶良たちが詠うものです。山上憶良が詠う集歌337の歌の標題に「罷宴謌」とありますように集歌328の歌の標題から判るように大宰少貳として赴任した小野老を歓迎する宴の中で詠われたものです。従いまして、紹介する集歌335から集歌337までの歌は相互に連携を持つ歌群として鑑賞する必要があります。
 さて、歌群として鑑賞しますから、沙弥満誓が詠う歌は大宰の師の立場であった大伴旅人の歌を受けてのものだと理解する必要があります。その時、言葉遊びにおいて「夢乃和太(いめのわた)」を「筑紫乃綿(つくしのわた)」と遊んでいることに気付く必要があります。「いめ」は吉野御幸に同行したものにとっては「射目」と解釈すると、それは現在では下市町新住と推定される地名となります。「射目の綿」と「筑紫の綿」との言葉遊びです。
 さらに歌を鑑賞するときに重要なことは大伴旅人が詠う歌には、ある種、「人生が終わった」という感覚があることを知る必要があります。その「吾が行きは久にはあらじ」の言葉に対して、沙弥満誓は「しらぬひ=知らぬ」と「人生が終わった」と云うものを否定していることに気が付く必要があります。言葉遊びですが、ちょっと、考えさせられます。実に風流人同士の歌による会話です。
 野暮な話ですが、解説をしますと、
大伴旅人:人生を回顧し、終わった感で歌を詠う。
沙弥満誓:その旅人の歌を筑紫の古語である「しらぬひ」と云う言葉で否定し、さらに「わた」と云う言葉の響きから「綿」を導き、その綿の衣が暖かい様から若き女性の肌を想像させている。ただし、その若い女性を抱きたいが、まだ、体験してはいない。
山上憶良:その満誓の歌を引き取り、若い女性を抱いた結果、家には乳飲み子とその女性が私の帰りを待っている。とします。
 およそ、大伴旅人に対して沙弥満誓と山上憶良との二人掛かりで、老いの迷いを吹き払い、若き女性を抱くような男根隆々とした男ではなくては駄目だとたしなめています。それも最年長で、病に苦しむ山上憶良が男根隆々とした男を想像させる歌を詠うのです。
 これらのたしなめの業を、歌での発声から類似発声の言葉へと展開し、さらに、たしなめる言葉も古語の類似発声単語を使います。天武天皇の御製に示される発声で遊ぶというものを展開し、それが当時の流行であり、風流人のたしなみであったとすると、このような鑑賞となります。


帥大伴卿謌五首より一首
集歌335 吾行者 久者不有 夢乃和太 湍者不成而 淵有毛
訓読 吾が行きは久にはあらじ射目(いめ)のわた湍(せ)にはならずて淵にあらぬかも
私訳 私のこの世の寿命は長くはないであろう。御狩りで射目を立てた思い出の吉野下市の川の曲りは、急流の瀬に変わることなく穏やか淵であってほしい。
注意 集歌332の歌で「象小河」を秋津の小路川としている関係で、「夢乃和太」を「射目のわた」と訓み、下市町新住としています。

沙弥満誓詠綿謌一首  造筑紫觀音寺別當俗姓笠朝臣麿也
標訓 沙弥満誓の綿を詠ふ謌一首  造筑紫觀音寺の別当、俗姓は笠朝臣麿(かさのあそみまろ)なり。
集歌336 白縫 筑紫乃綿者 身箸而 未者妓袮杼 暖所見
訓読 しらぬひし筑紫の綿(わた)は身に付けていまだは着ねど暖(あたた)かに見ゆ
私訳 不知火の地名を持つ筑紫の名産の白く縫った「夢のわた」のような言葉の筑紫の綿(わた)の衣は、僧侶になったばかりで仏法の修行の段階は端の、箸のように痩せた私は未だに身に着けていませんが、女性のように暖かく見えます。
注意 原文の「未者妓袮杼」の「妓」は、一般に「伎」の誤字とします。ここでは歌意から原文のままとしています。この「妓」の用字は集歌337の歌に影響を与えています。

山上憶良臣罷宴謌一首
標訓 山上憶良臣の宴(うたげ)を罷(まか)るの謌一首
集歌337 憶良等者 今者将罷 子将哭 其彼母毛 吾乎将待曽
訓読 憶良らは今は罷(まか)らむ子哭(な)くらむそのかの母も吾を待つらむぞ
私訳 私たち憶良一行は、今はもう御暇しましょう。子が私を待って恨めしげに泣いているでしょう。その子の母も私を待っているでしょうから。


 今回は『万葉集』でも特に有名な歌を紹介し、その歌の鑑賞を紹介しました。「紫之 名高浦」と云うような言葉遊びの技法は、次のような人麻呂歌集によく見られますので、時に、柿本人麻呂により開発された作歌技法かもしれません。

集歌1795 妹等許 今木乃嶺 茂立 嬬待木者 古人見祁牟
訓読 妹らがり今木の嶺に茂り立つ嬬松し木は古人見けむ
私訳 恋人の許に今やって来る。その言葉のひびきのような、今木の嶺に茂り立つ、私の愛しい人が待つと云うような、嶺の端(つま)にある松の木よ。お前は昔、宇治若郎子が君と妻を思い梓と檀の木を切るのを逡巡したのを見たでしょうか。

集歌2178 妻隠 矢野神山 露霜尓 ゞ寶比始 散巻惜
訓読 妻隠る矢野し神山露霜に色付(にほひ)そめたり散らまく惜しも
私訳 妻を隠すと云う、その隠=名張の里の矢野の神山が、露霜によって色付いたよ。散ってしまうのが惜しいことです。

集歌2487 平山 子松末 有廉叙波 我思妹 不相止看
訓読 奈良山し小松し末(うれ)しうれむそは我が思(も)ふ妹に逢はず看(み)む止(や)む
私訳 奈良山の小松の末(うれ=若芽)、その言葉のひびきではないが、うれむそは(どうしてまあ)、成長した貴女、そのような私が恋い慕う貴女に逢えないし、姿をながめることも出来なくなってしまった。
注意 原文の「不相止看」の「看」は、一般に「者」の誤字として「不相止者」と表記し「逢はず止みなむ」と訓みます。ここでは原文のままに訓んでいます。


 おまけ、古くからの人はよくご存じでしょうが、ここで紹介するものは「眉に唾を付けて」鑑賞するものです。つまり、学問でも、なんでもありません。与太話です。真面目に受け止めないようにお願いします。読み流し、読み捨てと云う態度でお願いいたします。
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