竹取翁と万葉集のお勉強

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山上憶良を鑑賞する  易去難留の詩

2010年09月30日 | 万葉集 雑記
易去難留の詩

 この詩は、長文の漢文が序として述べられ、それに付属するような七言絶句の漢詩です。そのため、先の「沈痾自哀文」と同じように、歌番号は付けられていません。
 また、長文の漢文の一部に山上憶良の作品である「日本挽歌」と共通の表現を使っていることから、読み人知れずの歌ですが、山上憶良の作品として扱われています。そうしますと、「日本挽歌」や「易去難留詩」に共通の維摩居士から、山上憶良の仏教感の中には在家仏法の維摩教が色濃いと窺われます。
 この「易去難留詩」が山上憶良の作品ですと、ここに載る七言の漢詩が知られる山上憶良唯一の漢詩となり、非常に稀有なことです。

悲歎俗道、假合即離、易去難留詩一首并序
標訓 俗(よ)の道の、仮(かり)に合ひ即ち離れ、去り易く留まり難(かた)きを悲しび歎ける詩一首并せて序

竊以、釋慈之示教、(謂釋氏慈氏) 先開三歸、(謂歸依佛法僧) 五戒而化法界、(謂一不殺生、二不愉盗、三不邪婬、四不妄語、五不飲酒也) 周孔之垂訓、前張三綱、(謂君臣父子夫婦) 五教、以濟邦國。(謂父義、母慈、兄友、弟順、子孝) 故知、引導雖二、得悟惟一也。但、以世無恒質、所以、陵谷更變、人無定期。所以、壽夭不同。撃目之間、百齡已盡、申臂之頃、千代亦空。旦作席上之主、夕為泉下之客。白馬走來、黄泉何及、隴上青松、空懸信劍、野中白楊、但吹悲風。是知。世俗本無隱遁之室、原野唯有長夜之臺。先聖已去、後賢不留。如有贖而可免者、古人誰無價金乎。未聞獨存、遂見世終者。所以、維摩大士疾玉體乎方丈、釋迦能仁掩金容于雙樹。内教曰、不欲闇之後來、莫入天之先至。(天者生也、闇者死也) 故知、生必有死。々若不欲不如不生。況乎縱覺始終之恒數、何慮存亡之大期者也。

訓読 竊(ひそか)に以(おもはか)るに、釋・慈の示教(しきょう)は(釋氏と慈氏を謂ふ)、 先に三歸(佛法僧に歸依するを謂ふ) 、五戒を開きて、法界を化(やは)し(一に殺生せず、二に愉盗(とうとう)せず、三に邪婬せず、四に妄語せず、五に飲酒せぬことを謂ふ)、 周・孔の垂訓(すいくん)は、前(さき)に三綱(君臣・父子・夫婦を謂ふ) 五教を張りて、以ちて邦國(くに)を濟(すく)ふ(父は義にあり、母は慈にあり、兄は友にあり、弟は順にあり、子は孝なるを謂ふ)。 故知る、引導は雖二つなれども、悟(さとり)を得るは惟(これ)一つなるを。但、以(おもはか)るに世に恒(つね)の質無し。所以(かれ)、陵(みね)と谷と更に變り、人に定まれる期(ご)無し。所以(かれ)、壽(じゆ)と夭(よう)と同(とも)にせず。目を撃つの間に、百齡(ももよ)已に盡き、臂を申(の)ぶる頃に、千代も亦空し。旦(あした)には席上の主と作れども、夕(ゆふべ)には泉下の客と為る。白馬走り來り、黄泉には何にか及(し)かむ、隴上(ろうじょう)の青き松は、空しく信劍を懸け、野中の白き楊は、但、悲風に吹かる。是に知る。世俗に本より隱遁の室(いへ)無く、原野には唯長夜の臺(うてな)有るのみなるを。先聖已に去り、後賢も留らず。如(も)し贖ひて免るべき有らば、古人誰か價(あたい)の金(くがね)無けむ。未だ獨り存へて、遂に世の終(をはり)を見る者あるを聞かず。所以、維摩大士も玉體を方丈に疾(や)ましめ、釋迦能仁も金容(こんよう)を雙樹に掩(おほ)ひたまへり。内教に曰はく、闇の後に來るを欲(ねが)はずは、天の先に至るに入ること莫(な)かれ。といへり(天とは生なり、闇とは死なり)。故(かれ)知りぬ、生るれば必す死あるを。死をもし欲(ねが)はずは生れぬに如かず。況むや縱(よ)し始終の恒數(こうすう)を覺るとも、何そ存亡の大期(たいご)を慮(おもひはか)らむ。

私訳 ひとり考えて見ると、釈迦・慈悲の弥勒の下された教え(釈迦と慈悲の弥勒をさす)は、最初に三帰(三帰とは、仏・法・僧に帰依することをさす)と五戒を示して仏法の世界の顕わし(五戒とは、最初に殺生をせず、二に盗みを行わず、三に淫乱を行わず、四に妄言を語らず、五に飲酒をしないことをしめす)、周公と孔子の垂れた教えは、最初に三綱(三綱とは、君臣の付き合い、父子の付き合い、夫婦の付き合いの決まりをしめす)と五教の主張を展開し、その教えを用いて国家を救済している(五教とは、父は義理を持ち、母は慈悲を持ち、兄は友愛を持ち、弟は従順を持ち、子は孝行を持つことをしめす)。そこで、知るわけである。人を導く方法は仏教と儒教との二つあるのであるが、物の真実を知る真理は一つであることを。ただ、考察するに世の中に恒久の存在は無い。それで、丘陵と渓谷とは互いに変化し、人間に定まった生涯は無い。それで、天寿と夭折は共にはならない。まばたきをする間に百年の命も忽ちに尽き、ひじを伸ばす間に、千年の時間も空しい。朝には集会の主催者となっていても、夕べには死出の先である黄泉の客となっている。白馬のように歳月は我身を追いかけ来て、死出の先である黄泉に人の力はどうして及ぶでしょう。墓の上の青い松はその枝に空しく信義厚い李礼の剣を懸け、野中の白き楊はただ人の死を知らせる悲しみに葉を風に吹かれるだけである。ここに知る。この俗な世の中に本来は死から逃れ隠れる場所はなく、原野にはただ永遠に明けることのない夜の墓場があるだけである。先の世の聖人は既に死に去り、後の世の賢者もこの世に留まっていない。もし、財貨で贖って死を免れるならば、昔の人で誰が死を贖う金を出さなかっただろうか、未だに、一人死から逃れ生きて、遂に世の終わりを見るまで生きながらえる人がいることを聞いたことがない。だから、維摩居士も御身体を方丈の部屋で病に倒れ、釈迦能仁も御身体を沙羅双樹に蔽われて亡くなられた。仏典に云うには「死を誘う黒闇天女が背後に忍び寄るのを求めないのなら、生を司る功徳大夫の御前に至ることを行うのではない」という(徳天とは生を意味し、黒闇とは死を意味する)。そこで、知る。生まれれば必ず死があることを。死をもし求めないのなら、生まれてこないことに限る。ましてや、例え、生の始まりと死の終りの命の定められた年数を知ったとしても、どうして、死期の最後の時を思い遣ることが出来るでしょうか。

(漢詩文)
俗道變化猶撃目 俗道の變化は猶ほ目を撃ち
人事經紀如申臂 人事の經紀は臂を申ぶるが如し
空與浮雲行大虚 空しく浮雲と大虚を行き
心力共盡無所寄 心力共に盡きて寄る所無し

私訳 俗な世の中の移り変わりは、まばたきの瞬間のようで、人の世の出来事はひじを伸ばす束の間のようだ。人の人生は空しく浮き雲と共に大空を行き、精神も肉体も時とともに尽きてこの世に残ることはない。

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山上憶良を鑑賞する  沈痾自哀の文

2010年09月30日 | 万葉集 雑記
沈痾自哀の文

 漢文だけの作品です。複雑系の万葉集でも一際異彩を放つ作品です。そのためか、この沈痾自哀の文には、万葉集では歌番号が与えられていません。
 御存じのように山上憶良は、当時の最高の学者であり知識人です。その山上憶良が創った漢文です。この漢文には注釈が本文と同じ扱いで載せられていますが、さて、どのような人物が注釈を付けたのでしょうか。少なくとも、その内容から注釈を行った人物にとって、漢書・魏書・晋書・仏教・儒教・神仙道教・文選・詩経などは自在であったと思われます。実に非常な人ですし、その原文を創った人である山上憶良もまた非常な人です。
 世に非常な人が稀であることを考えると、推定に憶測を交えて、注釈を行った人物とは、天平五年三月一日頃に山上憶良の自宅を訪ねて行った遣唐使大使丹比広成の息子の丹比国人なのかもしれません。父親に宛てた「好去好来の謌」は、丹比広成本人が山上憶良の自宅を訪ねたその三日後に丹比広成側に贈呈されています。つまり、丹比広成の関係者の誰かが、少なくとも数日間に渡って山上憶良の自宅を訪れているとも解釈が可能ですから、その間に「沈痾自哀の文」の解説が行われた可能性があります。このように推測と憶測から、場合により、本文と注釈とが共に山上憶良本人によるものである可能性がありますし、その時、筆記者は丹比国人です。
 そして、この推測と憶測からの妄想を窺わせるのが結句の「以鼠為喩、豈不愧乎」です。この結句には、誰かに披露した後に、この作品に対する作者の後日の感想が載ったような感覚があります。


沈痾自哀文 山上憶良作
標訓 沈痾自哀の文 山上憶良の作れり

竊以、朝夕佃食山野者、猶無災害而得度世、(謂、常執弓箭、不避六齋、所値禽獸、不論大小、孕及不孕、並皆殺食、以此為業者也。) 晝夜釣漁河海者、尚有慶福而全經俗。(謂、漁夫、潛女、各有所勤、男者手把竹竿能釣波浪之上、女者腰帶鑿籠潛採深潭之底者也) 況乎、我從胎生迄于今日、自有修善之志、曾無作惡之心。(謂聞諸惡莫作、諸善奉行之教也) 所以、禮拜三寶、無日不勤、(每日誦經、發露懺悔也) 敬重百神、鮮夜有闕。(謂敬拜天地諸神等也) 嗟乎媿哉、我犯何罪、遭此重疾。(謂未知過去所造之罪、若是現前所犯之過。無犯罪過、何獲此病乎)
初沈痾已來、年月稍多。(謂經十餘年也) 是時七十有四、鬢髮斑白、筋力尩羸。不但年老、復加斯病。諺曰、痛瘡灌鹽,短材截端、此之。四支不動、百節皆疼、身體太重、猶負鈞石。(廿四銖為一兩、十六兩為一斤、卅斤為一鈞、四鈞為石、合一百廿斤也) 懸布欲立、如折翼之鳥、倚杖且歩、比跛足之驢。吾以身已穿俗、心亦累塵、欲知禍之所伏、崇之所隱、龜卜之門、巫祝之室、無不徃問。若實、若妄、隨其所教、奉幣帛、無不祈祷。然而彌有苦、曾無減差。吾聞、前代多有良醫、救療蒼生病患。至若楡樹、扁鵲、華他、秦和、緩、葛稚川、陶隱居、張仲景等、皆是在世良醫、無不除愈也。(扁鵲、姓秦、字越人、勃海郡人也。割胸採心、易而置之、投以神藥、即寤如平也。華他、字元他、沛國譙人也。沈重者在内者、刳腸取病、縫復摩膏四五日差定) 追望件醫、非敢所及。若逢聖醫神藥者、仰願、割刳五藏、抄採百病、尋逹膏肓之隩處、(盲鬲也、心下為膏。攻之不可、逹之不及、藥不至焉) 欲顯二豎之逃匿。(謂、晉景公疾、秦醫、緩視而還者、可謂為鬼所殺也) 命根盡、終其天下、尚為哀。(聖人賢者、一切含靈、誰免此道乎) 何況、生録未半、為鬼狂殺、顏色壯年、為病横困者乎。在世大患、孰甚于此。(志恠記云、廣平前大守、北海徐玄方之女、年十八歲而死。其靈謂馮馬子曰、案我生録、當壽八十餘歲。今為妖鬼所狂殺、已經四年。此遇馮馬子、乃得更活、是也。内教云、瞻浮州人壽百二十歲。謹案、此數非必不得過此。故、壽延經云、有比丘、名曰難逹。臨命終時、詣佛請壽、則延十八年。但善為者天地相畢。其壽夭者業報所招、隨其脩短而為半也。未盈斯笇而、遄死去。故曰未半也。任徴君曰、病從口入。故、君子節其飲食。由斯言之、人遇疾病、不必妖鬼。夫、医方諸家之廣說、飲食禁忌之厚訓、知易行難之鈍情、三者、盈目滿耳由來久矣。抱朴子曰、人但、不知其當死之日故不憂耳。若誠知刖劓可得延期者、必將為之。以此而觀、乃知、我病盖斯飲食所招而、不能自治者乎也) 
帛公略説曰、伏思自勵、以斯長生。々可貪也。死可畏也。天地之大曰生。故死人不及生鼠。雖為王侯一日絶氣、積金如山、誰為富哉。威勢如海、誰為貴哉。遊仙窟曰、九泉下人、一錢不直。孔子曰、受之於天、不可變易者形也。受之於命、不可請益者也。(見鬼谷先生相人書) 故、知、生之極貴、命之至重。欲言々窮。何以言之。欲慮々絶。何由慮之。惟以、人無賢愚、世無古今、咸悉嗟歎。歲月競流、晝夜不息。(曾子曰、徃而不反者年也。宣尼臨川之歎亦是矣也) 老疾相催、朝夕侵動。一代權樂未盡席前、(魏文惜時賢詩曰、未盡西苑夜、劇作北望塵也) 千年愁苦更繼坐後。(古詩云、人生不滿百、何懷千年憂美) 若夫群生品類、莫不皆以有盡之身、並求無窮之命。所以、道人方士自負丹經、入於名山而合藥之者、養性怡神、以求長生。抱朴子曰、神農云、百病不愈、安得長生。帛公又曰、生好物也、死惡物也。若不幸而不得長生者、猶以生涯無病患者、為福大哉。今吾為病見惱、不得臥坐。向東向西莫知所為。無福至甚、惣集于我。人願天從。如有實者、仰願、頓除此病、得如平。
以鼠為喩、豈不愧乎。(已見上也)

訓読 竊(ひそか)に以(おもひみ)るに、朝夕に山野に佃食(でんしょく)する者すら、猶(なほ)災害無く世を度るを得(え)、(常に弓箭(ゆみや)を執り六齋を避けず、値(あ)ふ所の禽獸、大きなると小しきと、孕(はら)めると孕まぬとを論(い)はず、並に皆殺し食ひ、此を以ちて業とする者を謂ふ。) 晝夜に河海に釣漁する者すら、尚ほ慶福ありて俗を經るを全(まった)くす。(漁夫、潛女、各(おのおの)勤むる所あり、男は手に竹竿を把りて能く波浪の上に釣り、女は腰に鑿(のみ)籠(こ)を帶びて深潭(ふち)の底に潛き採る者を謂ふ) 況(いは)むや、我胎生(たいせい)より今日に至るまでに、みづかた修善の志あり、曾て作惡(さくあ)の心無し。(諸惡莫作(まくさ)、諸善奉行(ぶぎょう)の教(をしへ)を聞くを謂ふ) 所以、三寶を禮拜(れいはい)して、日として勤めざる無く、(日毎に誦經(ずきょう)し、發露(はつろ)懺悔(ざんげ)するなり) 百神を敬重(けいちょう)して、夜として闕(か)きたるは鮮(な)し。(天地の諸神等を敬拜することを謂ふ) 嗟乎(ああ)、媿(はづか)しきかも、我何の罪を犯して、此の重き疾(やまひ)に遭へる。(いまだ、過去に造る所の罪か、若しは現前に犯す所の過(あやまち)なるかを知らず。罪過(ざいか)を犯すこと無くは何そ此の病を獲(え)むを謂ふ)
初め痾(やまい)に沈みしより已來(このかた)、年月稍(やや)に多し。(十餘年を經るを謂ふ) 是の時に七十有四にして、鬢髮(びんぱつ)斑白(しらか)け、筋力尩羸(つか)れ。ただに年の老いたるのみにあらず、復(また)、かの病を加ふ。諺に曰はく「痛き瘡(きず)に鹽(しお)を灌(そそ)き,短き材(き)の端を截(き)る」といふは、此を謂(いふ)なり。四支動かず、百節皆疼(いた)み、身體(しんたい)太(はなは)だ重く、猶ほ鈞石(きんせき)を負(お)へるが如し。(廿四銖(しゅ)を一兩とし、十六兩を一斤とし、卅斤を一鈞(きん)とし、四鈞を石(しゃく)とし、合せて一百廿斤なり) 布に懸(かか)りて立たむと欲(す)れば、翼折れたる鳥の如く、杖に倚(よ)りて歩まむとすれば、足跛(ひ)ける驢(うさぎうま)の比し。吾、身已(すで)に俗(よ)を穿(うが)ち、心も亦塵に累(わづら)ふを以ちて、禍の伏す所、祟(たた)りの隱るる所を知らむと欲(ほ)りして、龜卜(きぼく)の門と巫祝(ぶしゅく)の室とを徃きて問はざる無し。若しは實(まこと)、若しは妄(いつはり)、其の教ふる所に隨ひ、幣帛(ぬさ)を獻じ奉り、祈祷(いの)らざる無し。然れども彌(いよ)よ苦(くるしみ)をす有り、曾て減差(い)ゆる無し。
吾聞かく、「前の代に多く良き醫(くすし)有りて、蒼(あお)生(ひとくさ)の病患(やまひ)を救療(いや)しき。楡樹(ゆじゅ)、扁鵲(へんじゃく)、華他(かわた)、秦の和(わ)、緩(くわん)、葛稚川(かつちせん)、陶隱居(たうおんこ)、張仲景(ちやうちけい)等の若(ごと)きに至りては、皆(みな)是(これ)世に在りし良き醫(くすし)にして、除愈(いや)さざる無し」といへり。(扁鵲、姓は秦、字は越人、勃海郡の人なり。胸を割(さ)き、心を採りて、易(あらた)めて置き、投(い)るるに神藥を以ちてすれば、即ち寤(さ)めて平(つね)なる如し。華他、字は元、沛國(はいこく)の譙(せう)の人なり。若し重みは内に在るあるならば、腸(はら)を刳(き)り病を取り、縫ひて復(また)膏(かう)を摩(す)る。四五日にして差(い)ゆ) 件(くだり)の醫(くすし)を追ひ望むとも、敢へて及(し)く所に非らじ。若し聖医神藥に逢はば、仰ぎ願はくは、五藏を割刳(かつこ)し、百病を抄採(せうさい)し、膏肓(かうくわう)の隩處(おくか)に尋ね逹り、(盲は鬲(かく)なり、心の下を膏とす。攻むれども可(よ)からず、逹(はり)も及はず、藥も至らず) 二豎(にしゅ)の逃れ匿(かく)るるを顯(あらは)さまく欲(ほり)す。(晉の景公疾(や)めり、秦の医、緩(くわん)視(み)て還りしは、鬼のために殺さゆと謂ふべきを謂ふ) 命根(いのち)盡き、其の天下を終るは、尚ほ哀(かな)しと為す。(聖人賢者、一切の含靈(がんりやう)、誰か此の道を免れむ) 何(なに)そ況むや、生録(せいろく)いまだ半ならずして、鬼の為に狂(きまま)に殺さえ、顏色壯年にして、病の為に横(よこしま)に困(たしな)めゆる者をや。世に在る大患の、いづれか此より甚(はなはだ)しからむ。(志恠(しくわい)記(き)に云はく「廣平の前(さき)の大守、北海の徐(じょ)玄方(げんほう)が女(むすめ)、年十八歲にして死る。其の靈の馮(ひょう)馬子(まし)に謂ひて曰はく『我が生録を案(かむが)ふるに、當に壽(とし)八十餘歲ならむ。今妖鬼の為に枉(よこしま)に殺さえて、已に四年を經たり』といへり。この馮馬子に遇ひて、乃(すなは)ち更に活(い)くる得たり」といへるは是なり。内教に云はく「瞻浮(せんふ)州(しゅう)の人は壽(とし)百二十歲なり」といへる。謹みて案ふるに、此の數(かず)必(うつたへ)に此を過ぐるを得ぬにはあらず。故(かれ)、壽(じゅ)延經(えんきゃう)に云はく「比丘(びく)あり、名を難逹(なんたつ)と曰ふ。命終る時に臨みて、佛に詣でて壽(とし)を請(こ)ひ、則ち十八年を延べたり」といへる。但、善く為(をさ)むる者(ひと)は天地と相畢(そ)ふ。其の壽夭(じゅえう)は業報(ごうほう)の招く所にあいて、其の脩(なが)き短きに隨ひて半(なかば)と為るなり。いまだこの算に盈(み)たずして、遄(すみ)やかに死去る。故(かれ)、半ならずと曰ふなり。
任(じん)徴君(ちょうくん)曰はく「病は口より入る。故、君子は其の飲食を節(ただ)す」といへり。斯(これ)に由りて言はば、人の疾病(やまひ)に遇へるは、必(うつたへ)に妖鬼ならず。夫(それ)、医方諸家の廣き說と、飲食禁忌の厚き訓(をしへ)と、知り易く行ひ難き鈍(おそ)き情(こころ)との、三つの者は、目に盈(み)ち耳に滿つこと由來(もとより)久し。抱(ほう)朴子(ぼくし)に曰はく「人はただ、其の當に死なむ日を知らぬ故に憂へぬのみ。若(も)し誠に刖鼿(けつぎ)して期(ご)を延ぶるを得べきを知らば、必ず將(まさ)に之を為さむ」といへり。此を以ちて觀れば、乃(すなは)ち知りぬ、我が病は盖しこれ飲食の招く所にして、みづらか治むる能はぬものか、と)
帛公(はくこう)略説(りゃくせつ)に曰はく「伏して思ひみづから励むに、かの長生を以(も)ちてす。生を貪(むさぼ)る可(べ)し。死は畏(お)づべし」といへり。天地の大を生と曰ふ。故(かれ)、死にたる人は生ける鼠に及(し)かず。王侯なりと雖も一日氣(いき)を絶たば、金を積むの山の如くなりとも、誰か富めりと為さむか。威勢(いきほひ)の海の如くなりとも、誰か貴しと為さむ哉。遊仙窟に曰はく「九泉の下の人は、一錢にだに直(あたひ)せじ」といへり。孔子の曰はく「天に受けて、變(へん)易(やく)すべからぬ者は形なり。命(めい)に受けて、請益(しょうやく)すべからぬものなり」とのたまへり。(鬼谷(きこく)先生の相人(そうにん)書(しょ)に見えたり) 故(かれ)、知る、生の極めて貴く、命の至りて重きを。言はむと欲(ほ)りて言(こと)窮(きわ)まる。何を以ちてかこれを言はむ。慮(おもひはか)らむた欲(ほ)りして慮(おもひはか)り絶(た)ゆ。何に由りてか之を慮らむ。
惟以(おもひみ)れば、人の賢愚と無く、世の古今と無く、咸悉(ことごと)に嗟歎(なげ)く。歲月競ひ流れて、晝夜に息(や)まず。(曾子曰はく「徃きて反らぬは年なり」といへり。宣尼(せんぢ)の川に臨む歎きもまた是なり) 老疾相催(うなが)して、朝夕に侵(をか)し動(きは)ふ。一代の權樂は未だ席の前に盡きぬに、(魏文の時賢(じけん)を惜しめる詩に曰はく「未だ西苑の夜を盡さぬに、劇(にはか)に北邙(ほくぼう)の塵(ちり)と作(な)る」といへり。) 千年の愁(しゅう)苦(く)は更(また)座の後に繼ぐ。(古詩に云はく「人生は百に滿たす、何そ千年の憂美を懷(むだ)かむ」といへり。) 若し夫れ群生(ぐんせい)品類(ひんるゐ)は、皆盡(かぎり)有る身を以ちて、並(とも)に窮(きはまり)無き命を求めざる莫(な)し。所以(かれ)、道人(どうじん)方士(ほうし)の自(みづか)ら丹經(たんきょう)を負ひ、名山に入りてこの藥を合するは、性を養ひ神(こころ)を怡(やはら)げて、以ちて長生を求むるなり。抱朴子に曰はく「神農(しんのう)云はく『百病愈(い)えず、安(いか)にそ長生を得む』といふ」といへり。帛公又曰はく「生は好(よ)き物なり、死は惡(あし)しき物なり」といへり。若し幸(さきはひ)なく長生を得ぬは、猶(な)ほ生涯病患(やまひ)無きを以ちて、福(さきはひ)大きなりと為(せ)むか。今吾病の為に惱まされ、臥坐(ぐわざ)するを得ず。向東向西(かにかくに)に為す所を知らず。福(さきはひ)無きことの至りて甚しき、すべて我に集まる。「人願へば天從ふ」といへり。如(も)し實(まこと)あらば、仰ぎ願はくは、頓(にはか)に此の病を除き、(さきはひ)に平(つね)の如くなるを得む。
鼠を以ちて喩(たとへ)と為すは、豈(あに)愧(は)ぢざらめや。(已に上に見えたり)

私訳 ひとり考えてみると、朝夕に山野で狩猟をして生活の糧を得る者ですら、殺生の罪をうけることなく生活することが出来(常々に弓矢を手にして六斎日もつとめず、見かけた鳥獣は大小を問わず、腹に子をやどしていようがなかろうと悉く殺して食べ、これを生業としている者を意味する)、昼夜に河や海に魚を釣る者すら、なお幸せに世を暮らしている(漁師も海女もそれぞれ仕事にはげんでいる。男は手に竹竿を持ち浪の上で魚を採り、女は腰に鑿や籠を着けて深海に潜っては貝や海藻を採る存在を意味する)。まして、私は生れてから今日にいたるまで、進んで善を修める志を持ち、未だ一度も罪を犯すような心を持っていない(諸悪を為さず、諸善を尊ぶ教えに従うことを意味する)。そこで、仏の三宝である仏・法・僧を尊び、一日も欠かさず勤行を行ひ(日々に誦経し、犯した罪を表し悔いあらためることを意味する)、多くの神を尊重して、一夜として礼拝を欠いたことはない(天地の諸神等を敬拝することを意味する)。なんと、恥ずかしいことでしょう。私が何の罪を犯して、このような重い疾病になったのでしょうか(未だ、過去に犯した罪のためか、もしくは、今、罪を犯しつつあるものによるものかは判らない。しかし、罪を犯さないのに、どうしてこんな疾病になるのかを意味する)。
初めて重病にかかってから、もう年月も久しい(十余年もたっていること)。今年七十四歳で、頭髪はすでに白きをまじえ、体力は衰えている。この老齢に加えて、この病がある。諺に「痛い傷の上にさらに塩をつける。短い木の端をまた切る」というが、このことである。手足は動かず関節はすべて痛み、身体は大変重くて鈞石の重さを背負っているようである(二十四銖が一両、十六両が一斤、三十斤が一鈞、四鈞を石とする。合わせて百二十斤となる)。布を頼って起き立とうとすると翼の折れた鳥のように倒れ、杖にすがって歩こうとすると足なえの驢馬のようである。私は、身は十分に世俗に染み、心もまた俗塵に汚れているので、過ちの原因、祟りの潜んでいる所を知ろうと思って、亀卜の占い師や神意を聞くものの門を叩いてまわった。彼らのいうところは、時として本当であり、時として虚妄だったけれども、その教えのままに神に幣帛をささげ、祈りをささげつくした。しかし、いよいよ苦しみを増すことはあっても、一向に癒えることはなかった。
私が聞くことに、「先の代には多くの名医がいて、人々の病気を癒した。楡樹・扁鵲・華他、秦時代の和・緩・葛稚川・陶隱居。張仲景らに到っては、これ皆、良医として世にあったもので、病気はすべて癒した」という(扁鵲、姓を秦、字を越人といい勃海郡の人である。胸を開切して心臓を取り出し、再び置き直し、投薬をするときに神藥を用いると、患者は眠りから覚めると、平常の状態になった。華他は、字を元といい沛國の譙の地の人である。もし、病の主因が体内にあるなら、腹部を開切してその病気を取り出して、また縫い合わせて膏薬をぬった。四五日すると治ったという)。これらの名医を今から望んだとしても、到底、不可能であろう。しかし、もし名医や霊薬にめぐり逢うことができるなら、どうか内臓をきり開いてもろもろの病気を採り出し、膏や肓の奥深いところまでたずね当て(肓とは横隔膜で、心臓の下を膏という。これは治そうにも治し得ない。針治療も出来ず、薬も効かない)、病を引き起こすと云う二児の逃げ隠れているところを発見したい(晋の景公が病気になったことがあった。秦の医師の緩が診察しての帰り、公は鬼のために殺されるだろうと云った。このことを云う)。寿命は尽きて、天寿を終えることは、なお哀しいことだ(聖人も賢者も、一切の有魂の生き物も、誰ひとり死の道を免れることはない)。まして、生きるべき齢の半ばにも到らず鬼のために不当にも殺された者や、まだ容姿も盛んな壮年にして病気に時ならず苦しめられる者の、何と悲しいことよ。世間にあることの患いの内で、これより大きな苦しみに何があろう。(「志恠記」に云うには「広平県の前の大守、北海の徐玄方の娘が十八歲で死んだ。その娘の霊が馮馬子という男の夢に現れて『私の生きるべき年数を見ると八十余歲のはずである。ところが今怪しい鬼のために気ままに殺されて、もう四年も経っている』といった。結局、この馮馬子に遭ったことによって、娘は生き帰ることができた」と云うのはこのことである。仏典で釈迦の云われるには「瞻浮州の人の寿命は百二十歲である」と云う。謹んで考えてみると、この百二十歳の数は、必ずしもこれ以上生きられないというわけではない。そこで、仏典の「壽延經」には「一人の比丘がいて、その名を難逹といった。臨終の時になって仏を拝んで寿命を乞うたところ、十八年生き延びた」と云っている。ただ、善く身を修める者は天地とともに寿命を終えるもので、その長寿か否かは業の報いのもたらす所であって、業報による生の長短によって半分にもなってしまうのである。定められた年数にみたずして早々と死んでしまうものである。だから、半ばにもならぬという。
任徴君のいうことには「病気は口より入って来る。そこで、君子はその飲食を節制する」という。これによって云うと、人の疾病に罹るのは、必ずしも妖鬼によるものではない。そもそも、医師諸氏のすぐれた説と、飲食を節制するという立派な教えと、それを知っていて行い難い人間の俗情とを、三つとも見聞きすることはいうまでもなくひさしい。「抱朴子」の書に云うには「人はただ、その本当に死ぬべき日を知らないために悲しまないだけである。もし、本当に足を斬り、鼻をそぐ刑罰を受けることで死期を延ばすことができると知ったら、必ずきっとこの刑罰を受けるであろう」という。これをもって考えると、判る。私の病気は必ずや飲食の招いたのもで、自分からはどうしようもないものだ、と)
帛公略説に云うには「つつしんで考え、自らつとめると、あの長寿をうることができる。生は貪欲に求めるがよい。死は恐れるべきである」という。この天地の間の大きな徳を生というのだ。だから死者は生きている鼠にも及ばない。王侯といえども一日息の根をたったら、金を積むこと山のごとくあろうとも、もはや富裕とはいえない。海のごとく広く威勢を振るおうとも、もはや誰も貴いとは考えない。「遊仙窟」にいうことには「黄泉の下にある人は一銭の値打ちもない」と云う。孔子のいわれることには「天から授かって変えることの出来ないものは形であり、天命によって定められ、乞い求めることの出来ないものである」という(鬼谷先生の相人書に、このことは見えている)。そこで、わかる。生が極めて貴く、命の至って重いことが。ああ、云おうにも言葉がない。何をもってこの気持ちを云おう。思いを巡らそうにも、思いもつづかない。何によってこの理を考えよう。
考えてみれば、人間は賢者愚者を問わず、また、昔から今に至るまで、すべて嘆きを繰り返して来た。年月は生と争うかのように流れ、昼夜はとどまるところがない。(曾子のいうには「往きて戻らぬものは年である」という。孔子が川上にあって嘆いたのも、またこのことである)。老と病とが、誘いあうかのように、朝夕にわが身を侵して競いあっている。一生の楽しみは私の宴会の席前に尽くしきれないのに、(魏の文帝の「時賢を惜しめる詩」にいうことには、「まだ西苑の夜の歓楽も尽くさぬに、はや北邙に葬られて塵となる」と云う)、年長い愁い苦しみは、もうわが背後にせまっている(古詩にいうには「人生は百歳に満たないのに、どうして永久の憂いや美麗の物事を思い患おう」と云う)。一体、生きとし生ける者はすべて有限の身をもって、みな無限の命を求める。そこで神仙の道人方士で、自ら仙薬の書物をたずさえて名山に入り、この仙薬を調合する者は、体をととのえ精神を安らかにして、よって長寿を求めるのである。「抱朴子」にいうには「神農がいうには『多くの病気が癒えずして、どうして長生きが出来よう』という」という。帛公がまた云うには「生はりっぱなもので、死は悪いものだ」という。もし、不幸にして、長寿を得られないなら、やはり一生病気に患わされることのないことをもって、大きな幸とすべきであろうか。今、私は病のために悩まされ、寝起きも思うようでない。どのようにも、なす術を知らない。不幸の最たるものが、すべて私に集まっている。世に「人が願うと天が応ずる」という。これがもし真実なら、どうか伏して願うことには、すみやかにこの病気を除き、平生のように幸せであってほしい。
鼠をもって喩えなどしたことは、恥ずかしいことであった。(上に述べたとおりである)。


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山上憶良を鑑賞する  好去好来の謌

2010年09月27日 | 万葉集 雑記
好去好来の謌

 山上憶良の最晩年の歌です。予備役の従五位下の山上憶良の家に大唐大使に任命された従四位上の丹比広成が訪問しています。身分の差からは山上憶良が丹比広成の許に膝行すべきですが、そうでないところに山上憶良の病があります。その病を打ち消すための「好去好来」の寿歌でしょうが、訪問から三日後にようやく詠い挙げたところに憶良の衰えと病があります。
 このように背景や左注の語句から推定しても、奥が深い情景があります。

好去好来謌
標訓 好去(こうきょ)好来(こうらい)の謌
集歌894 神代欲理 云傳久良久 虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継 伊比都賀比計理 今世能 人母許等期等 目前尓 見在知在 人佐播尓 満弖播阿礼等母 高光 日御朝庭 神奈我良 愛能盛尓 天下 奏多麻比志 家子等 撰多麻比天 勅旨 載持弖 唐能 遠境尓 都加播佐礼 麻加利伊麻勢 宇奈原能 邊尓母奥尓母 神豆麻利 宇志播吉伊麻須 諸能 大御神等 船舳尓 道引麻志遠 天地能 大御神等 倭 大國霊 久堅能 阿麻能見虚喩 阿麻賀氣利 見渡多麻比 事畢 還日者 又更 大御神等 船舳尓 御手行掛弖 墨縄遠 播倍多留期等久 阿遅可遠志 智可能岫欲利 大伴 御津濱備尓 多太泊尓 美船播将泊 都々美無久 佐伎久伊麻志弖 速歸坐勢
訓読 神代より 云ひ伝て来(く)らく そらみつ 大和の国は 皇神(すめかみ)の 厳(いつく)しき国 言霊(ことたま)の 幸(さき)はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人も悉(ことごと) 目の前に 見たり知りたり 人多(さは)に 満ちてはあれども 高光る 日の朝廷(みかど) 神ながら 愛(めで)の盛りに 天の下 奏(もう)した賜ひし 家の子と 選(えら)ひ賜ひて 勅旨(おほみこと) 戴(いただ)き持ちて 唐国(もろこし)の 遠き境に 遣(つか)はされ 罷(まか)り坐(いま)せ 海原(うなはら)の 辺(へ)にも沖にも 神づまり 領(うしは)き坐(いま)す 諸(もろもろ)の 大御神(おほみかみ)たち 船舳(ふなへ)に 導き申(まを)し 天地の 大御神(おほみかみ)たち 大和の 大国御魂(おほくにみたま) ひさかたの 天の御空(みそら)ゆ 天翔(あまかけ)り 見渡し賜ひ 事畢(をわ)り 還(かへ)らむ日には またさらに 大御神たち 船舳に 御手(みて)うち懸けて 墨縄(すみなは)を 延(は)へたる如く あぢかをし 値嘉(ちか)の岬(さき)より 大伴の 御津の浜辺(はまび)に 直(ただ)泊(は)てに 御船は泊(は)てむ 恙無(つつみな)く 幸(さき)く坐(いま)して 早帰りませ
私訳 神代から云い伝えられて来たことには、大和の国は皇神の厳しい国、言霊が幸いする国であると、語り継ぎ、言い継がれてきた。今の世の人も皆がまのあたりに見て知っている。大和の国には人がたくさん満ちているけれども、天まで光る天皇の神の御心のままに、天皇から寵愛されているときに、天下の政治をお執りになった名門の子としてお選びになったので、貴方は天皇の御命令を奉じて、唐国の遠い境に派遣され、船出なさる。海原の岸にも沖にも鎮座して海を支配しているもろもろの大御神たちを船の舳先に導き申し上げ、天地の大御神たちと大和の大国魂は大空を飛び翔って見渡しなされて、貴方が使命を終えて帰る日には、再び大御神たちが船の舳先に神の御手を懸けて、墨縄を引いたかのように、値嘉の崎から大伴の御津の浜辺に途中で泊まることなく御船は至り着くでしょう。つつがなく、無事で早くお帰りなさい。

反謌
集歌895 大伴 御津松原 可吉掃弖 和礼立待 速歸坐勢
訓読 大伴の御津の松原かき掃(は)きて吾(わ)れ立ち待たむ早帰りませ
私訳 大伴の御津の松原の落ち葉をきれいに掃き清めて、私はずっと立って待っていましょう。早く帰ってきてください。

集歌896 難波津尓 美船泊農等 吉許延許婆 紐解佐氣弖 多知婆志利勢武
訓読 難波津に御船(みふね)泊(は)てぬと聞こえ来ば紐解き放(さ)けて立ち走りせむ
私訳 難波の湊に御船が帰り泊ったと聞こえて来たなら、肩衣の紐を結ばず広げて走って行ってお迎えしよう。

左注 天平五年三月一日良宅對面獻三日 山上憶良謹上 大唐大使卿記室
注訓 天平五年三月一日、良(ら)の宅(いへ)に対面して、献(たてまつ)ることは三日なり。山上憶良謹みて上る。
大唐大使卿記室


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山上憶良を鑑賞する  貪窮問答の謌

2010年09月25日 | 万葉集 雑記
貪窮問答の謌

 この歌の題をどのように読むかで、歌の解釈とその世界は異なります。
 最初に当たり前ですが、「貧窮」と「貪窮」では「貧」と「貪」の用字が違います。仏法では「貪」の「貪窮」ですし、社会学派的な立場では「貧」の「貧窮」です。現在は、多数決で「貪」は「貧」の誤字として「貧窮問答」の「ヒンキュウモンドウ」や「ビングモンドウ」と読むようです。仏法では「貪」の貪窮ですと「貪窮問答」は「ドングウモンドウ」と読むようになります。
 同然、漢字の表記や読みが違うように、それぞれに持つ意味は違います。「貧窮問答」の「ビングモンドウ」の世界観は「貧乏」や「困窮」の世界が中心になります。一方、「貪窮問答」の「ドングウモンドウ」の世界観は四苦八苦の一つである物欲である「貪り窮める」姿の「求不得苦(ぐふとくく)」の苦悩を示すことになります。
 少し、ややこしいのですが、中国仏教では困窮の状態の貧窮を「ビングウ」と読みますから、もし、山上憶良が両方の意味で「貪窮」の漢字を使ったのですと、仏教に対する非常な皮肉になります。「貧窮(ビングウ)」に喘ぐ人が、その困窮からの脱出を切に願うことは仏法の八大辛苦の一つである「貪窮(ドングウ)」と云う煩悩に落ちている状態を示すことになります。つまり、仏教には「人のさとり」の道はあっても「民への救い」がないことになります。この姿の基として、日本では聖徳太子の時代から仏教の解釈の選択で在家救済の維摩教や勝鬘教を大切にしてきたところと一致するのでしょうか。このような背景があるためでしょうか、歌の世界の解釈は非常に難解です。
 参考に、この貪窮問答謌は漢詩のような表記方法を取ると、華麗な対句形式が採られていることで有名な長歌です。その華麗な対句形式の表記方法を含めて、歌の持つ意味を鑑賞していただければ面白いと思います。なお、ブログではその機能から対句形式の表現が十分に出来ませんので、省略させていただきます。

貪窮問答謌一首并短謌
標訓 貪窮問答の謌一首、并せて短謌

集歌892 風雜 雨布流欲乃 雨雜 雪布流欲波 為部母奈久 寒之安礼婆 堅塩乎 取都豆之呂比 糟湯酒 宇知須々呂比 弖之匝夫可比 鼻批之批之尓 志可登阿良農 比宜可伎撫而 安礼乎於伎弖 人者安良自等 富己呂倍騰 寒之安礼婆 麻被 引可賀布利 布可多衣 安里能許等其等 伎曽倍騰毛 寒夜須良乎 和礼欲利母 貧人乃 父母波 飢寒良牟 妻子等波 乞々泣良牟 此時者 伊可尓之都々可 汝代者和多流 天地者 比呂之等伊倍杼 安我多米波 狭也奈里奴流 日月波 安可之等伊倍騰 安我多米波 照哉多麻波奴 人皆可 吾耳也之可流 和久良婆尓 比等々波安流乎 比等奈美尓 安礼母作乎 綿毛奈伎 布可多衣乃 美留乃其等 和々氣佐我礼流 可々布能尾 肩尓打懸 布勢伊保能 麻宜伊保乃内尓 直土尓 藁解敷而 父母波 枕乃可多尓 妻子等母波 足乃方尓 圍居而 憂吟 可麻度柔播 火氣布伎多弖受 許之伎尓波 久毛能須可伎弖 飯炊 事毛和須礼提 奴延鳥乃 能杼与比居尓 伊等乃伎提 短物乎 端伎流等 云之如 楚取 五十戸良我許恵波 寝屋度麻弖 来立呼比奴 可久婆可里 須部奈伎物能可 世間乃道

訓読 風交(まじ)り 雨降る夜の 雨交(まじ)り 雪降る夜は 術(すべ)もなく 寒くしあれば 堅塩(かたしほ)を 取(と)りつつろひ 糟湯酒(かすゆさけ) 打ちすすろひ 手(て)咳(しはふ)かひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 鬚(ひげ)掻き撫でて 吾(あ)れを措(お)きて 人は在(あ)らじと 誇(ほこ)ろへど 寒くしあれば 麻衾(あさふすま) 引き被(かがふ)り 布(ぬの)肩衣(かたきぬ) 有(あ)りのことごと 服襲(きそ)へども 寒き夜すらを 吾(わ)れよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ 妻子(めこ)どもは 乞(こ)ふ乞ふ泣くらむ この時は 如何(いか)にしつつか 汝(な)が世は渡る 天地は 広しといへど 吾(あ)が為(ため)は 狭(さ)くやなりぬる 日月(ひつき)は 明しといへど 吾(あ)が為(ため)は 照りや給はぬ 人皆(ひとみな)か 吾(あ)のみや然(しか)る わくらばに 人とはあるを 人並に 吾(あ)れも作るを 綿(わた)もなき 布(ぬの)肩衣(かたきぬ)の 海松(みる)の如(ごと) わわけさがれる 襤褸(かかふ)のみ 肩にうち掛け 伏廬(ふせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に 藁(わら)解(と)き敷きて 父母は 枕の方(かた)に 妻子(めこ)どもは 足の方に 囲み居(ゐ)て 憂(う)へ吟(さまよ)ひ 竃(かまど)には 火気(ほけ)吹き立てず 甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巣かきて 飯(いひ)炊(かし)く ことも忘れて 鵺鳥(ぬえとり)の 呻吟(のどよ)ひ居(を)るに いとのきて 短き物を 端(はし)截(き)ると 云(い)へるが如く 楚(しもと)取(と)る 里長(さとをさ)が声は 寝屋処(ねやと)まで 来立ち呼ばひぬ 如(かく)ばかり 術(すべ)無きものか 世間(よのなか)の道

私訳 風に交じって雨が降り、雨に交じって雪の降るみぞれの夜は、どうしようなく寒いので固めた塩の塊をしゃぶり、酒かすを解かした酒をすすって、手で咳をし、鼻をびしゃびしゃさせながら、貧相な鬚を掻きなでて、自分を除いて立派な人はいないと誇ってみても、寒いので麻の衾をかぶるようにし、布で作った袖なしのちゃんちゃんこをある限り重ね着てもそれでも寒い。そのような夜を自分より貧しい人の父母は餓えて寒いことだろう。その妻子達は力の無い声を出して泣くことであろう。こんな時、人はどのように過ごしているのであろうか。
あなたが生きて行くこの世の世間(社会)は広いといっても、私にとっては狭く感じてしまう。太陽や月は明るいというが、私の都合に合わせて太陽や月は照ってくださらない。人はみな、こう思うのか。それとも、私だけがこのように思うのか。
たまたま、私は人として生まれてきて、人並みに私も育ってきたが、綿も入っていない布のちゃんちゃんこで、海藻の海松のように分かれ裂けたボロのようなものを肩に掛け、茅葺の屋根だけの丸い小屋の中の土間に藁を敷き、父と母は枕の方に、妻子は足の方に丸く囲んで居て、この世の辛さを憂へ呟いて、竃には火の気の立てずに、飯を蒸かす甑にはくもの巣が張って、飯を炊くことも忘れ、鵺鳥が夜に鳴いている時間に、短いものをさらに切り詰めるという例えのように、鞭を持った里長の声が寝床まで聞こえて呼び立てる。
世の中は、このようなことばかり。これは、どうしょうもないのであろうか、この世の決まりとして。

集歌893 世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆
訓読 世間(よのなか)を憂(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
私訳 この世の中を辛いことや気恥ずかしいことばかりと思っていても、この世から飛び去ることが出来ない。私はまだ死者の魂と云う千鳥のような鳥ではないので。

山上憶良頓首謹上

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山上憶良を鑑賞する  熊凝の為に其の志を述べたる謌

2010年09月23日 | 万葉集 雑記
熊凝の為に其の志を述べたる謌

 この歌は、歌の標にあるように天平三年六月十七日以降のある日に山上憶良が筑前國守として歌を詠っています。一方、「好去好来の謌」は天平五年三月一日に奈良の京の自宅で詠われていますから、山上憶良は天平三年の晩秋から天平四年の晩秋までの間に奈良の京に帰任したことが推定される歌になります。こうした時、天平四年九月五日と十月十七日に大規模な人事異動がありましたから、山上憶良はこの頃に奈良の京に帰任したのではないでしょうか。
 さて、肝心な熊凝は、七月七日の相撲節会(すまいひのせちえ)に出場する選手として選抜された肥後国を代表する有名な相撲取と思われます。相撲節会の優勝者は選抜され近衛府や兵衛府の武人に採用されたり、郷里の官吏として登用される慣習があったようです。このため、学問や家柄の良くない者にとっては、相撲節会に選抜され、奈良の京に上ることは立身出世の上からは稀有な機会だったようです。その上京の途中で、病没したことは本人だけでなく、家族や周囲の者にとって大きな悲しみですし、落胆だったでしょう。熊凝が相撲節会で優勝するものと思って部下に引率させた肥後国の相撲使の責任者である肥後国守も大いなる落胆だったと思います。そんな背景で、この歌が残されたのではないかと想像します。
 なお、当時の肥後国守は不明ですが、養老二年に任地で死亡した道首名(みちのおびとな)と同じように筑前国守が肥後国守を兼務していますと、「相撲使某國司官位姓名」とは兼肥後国守である筑前国守山上憶良となり、追悼の儀礼の主催者本人になります。


筑前國守山上憶良敬和為熊凝述其志謌六首并序
標訓 筑前國守山上憶良の敬(つつし)しみて熊凝(くまこり)の為に其の志を述べたる謌に和(こた)へたる六首并せて序

大伴君熊凝者 肥後國益城郡人也 年十八歳 以天平三年六月十七日 為相撲使某國司官位姓名従人 参向京都 為天不幸在路獲疾 即於安藝國佐伯郡高庭驛家身故也 臨終之時 長歎息曰 傳聞 假合之身易滅 泡沫之命難駐 所以千聖已去 百賢不留 况乎凡愚微者何能逃避 但我老親並在菴室 侍我過日 自有傷心之恨 望我違時 必致喪明之泣 哀哉我父痛哉我母 不患一身向死之途 唯悲二親在生之苦 今日長別 何世得覲 乃作歌六首而死 其謌曰

訓読 大伴君(おおとものきみ)熊凝(くまこり)は、肥後國益城郡(ましきのこほり)の人なり。年十八歳にして、天平三年六月十七日に、相撲使(すまひのつかひ)某國司(そのくにのつかさ)官位姓名の従人と為り、京都(みやこ)に参(まゐ)向(むか)ふ。天なるかも、幸(さき)くあらず、路に在りて疾(やまひ)を獲(え)、即ち安藝國佐伯郡の高庭(たかば)の驛家(うまや)にして身故(みまか)りき。臨終(みまか)らむとする時、長歎息(なげ)きて曰はく「傳へ聞く『假合(けがふ)の身は滅び易く、泡沫(ほうまつ)の命は駐(とど)め難し』と。所以(かれ)、千聖も已(すで)に去り、百賢も留らず。况むや凡愚の微(いや)しき者の、何そ能く逃れ避(さ)らむ。但(ただ)、我が老いたる親並(とも)に菴室(いほり)に在(いま)す。我を侍(ま)ちて日を過はば、おのづからに心を傷(いた)むる恨(うらみ)あらむ。我を望みて時を違はば、必ず明を喪(うしな)ふ泣(なげき)を致さむ。哀しきかも我が父、痛しきかも我が母、一(ひとり)の身の死に向ふ途(みち)を患(うれ)へず、唯し二(ふたり)の親の生(よ)に在(いま)す苦しみを悲しぶ。今日長(とこしへ)に別れなば、いづれの世に覲(まみ)ゆるを得む」といへり。乃ち歌六首を作りて死(みまか)りぬ。 其の謌に曰はく

私訳 大伴君熊凝は、肥後國の益城郡の住人であった。年十八歳にして、天平三年六月十七日に、相撲使の某國の司である官位姓名の従人となって、京都に参り向った。天なるかも、幸くあらず、上京の途上で疾病に罹り、ちょうど安藝國の佐伯郡の高庭の驛家で亡くなった。臨終する時に、深く嘆いて云うには「傳へ聞く『假合の身は滅び易く、人の泡沫のような命はこの世に留め難い』と。そこで、千聖もすでにこの世を去り、百賢も現世に留っていない。そうしたとき、凡愚のつまらない者が、どうして上手に死から逃れ避けることができるでしょうか。ただ、私の老いたる親が二人に菴室に生活している。私を待って日を過ごしていたら、自然に心を傷めるような悔いがあるでしょう。私の帰りを望んでその時がないとすると、必ず明るい希望を失い泣き崩れるでしょう。哀しいでしょう、私の父、痛しいでしょう、私の母、自分の身が死に向うことを憂い患わず、ただ、二人の親がこの世に生きている苦しみを悲しぶ。今日、永遠に死に別れたら、どの世界で両親に逢うことが出来るでしょうか」と云った。そこで、歌六首を作って亡くなった。 其の歌に云うには、

集歌886 宇知比佐受 宮弊能保留等 多羅知斯夜 波々何手波奈例 常斯良奴 國乃意久迦袁 百重山 越弖須凝由伎 伊都斯可母 京師乎美武等 意母比都々 迦多良比遠礼騰 意乃何身志 伊多波斯計礼婆 玉桙乃 道乃久麻尾尓 久佐太袁利 志波刀利志伎提 等許自母能 宇知計伊布志提 意母比都々 奈宜伎布勢良久 國尓阿良婆 父刀利美麻之 家尓阿良婆 母刀利美麻志 世間波 迦久乃尾奈良志 伊奴時母能 道尓布斯弖夜 伊能知周凝南 (一云 和何余須疑奈牟)

訓読 うち日さす 宮へ上(のぼ)ると たらちしや 母が手(た)離(はな)れ 常知らぬ 国の奥処(おくか)を 百重山(ももへやま) 越えて過ぎ行き 何時(いつ)しかも 京師(みやこ)を見むと 思ひつつ 語らひ居(を)れど 己(おの)が身し 労(いた)はしければ 玉桙の 道の隈廻(くまみ)に 草手折(たを)り 柴取り敷きて 床じもの うち臥(こ)い伏(ふ)して 思ひつつ 嘆き伏せらく 国に在(あ)らば 父とり見まし 家にあらば 母とり見まし 世間(よのなか)は 如(かく)のみならし 犬じもの 道に臥(ふ)してや 命(いのち)過ぎなむ (一云(あるひはいは)く、 我が世過ぎなむ)

私訳 輝く日の射す奈良の京に上るとして、十分に乳をくれた実母の手を離れ、日頃は知らない他国の奥深い多くの山々を越えて街道を過ぎ行くと、何時にかは奈良の京を見たいと願って友と語らっていたけれど、そんな自分の体がひどく疲労しているので、立派な鉾を立てる官の道の曲がり角に、草を手折り、柴枝を折り取って敷いて、寝床として身を横たえ伏して、色々と物思いに嘆き横たわっていると、故郷でしたら父が看取ってくれるでしょう、家でしたら母が看取ってくれるでしょう。人の世の中はこのようなものでしょうか、犬のように道に倒れ伏して死んで逝くのでしょうか。(あるいは云く、私のこの世は過ぎていく)


集歌887 多良知子能 波々何目美受提 意保々斯久 伊豆知武伎提可 阿我和可留良武

訓読 たらちしの母が目見ずて鬱(おほほ)しく何方(いづち)向きてか吾(あ)が別るらむ

私訳 十分に乳を与えてくれた実の母に直接に逢うことなく、心覚束なくどこへか、私はこの世から別れるのでしょうか。


集歌888 都祢斯良農 道乃長手袁 久礼々々等 伊可尓可由迦牟 可利弖波奈斯尓 (一云 可例比波奈之尓)

訓読 常知らぬ道の長手(ながて)をくれくれと如何(いか)にか行かむ糧(かりて)は無しに (一云(あるいはいは)く、 乾飯(かれひ)は無しに)

私訳 普段には知らないあの世への道の長い道のりをどうぞ見せて下さいと、さて、どのように旅立ちましょう。道中の食糧も無くて。(あるいは云はく、乾飯も無いのに)


集歌889 家尓阿利弖 波々何刀利美婆 奈具佐牟流 許々呂波阿良麻志 斯奈婆斯農等母 (一云 能知波志奴等母)

訓読 家にありて母がとり見ば慰(なぐさ)むる心はあらまし死なば死ぬとも (一云(あるいはいは)く、 後は死ぬとも)

私訳 家に居たならば母が看取ってくれるのでしたら、慰められる気持ちが湧くでしょう、死ぬ運命として死んで行くとしても。(あるいは云はく、後に死ぬとしても)


集歌890 出弖由伎斯 日乎可俗閇都々 家布々々等 阿袁麻多周良武 知々波々良波母 (一云 波々我迦奈斯佐)

訓読 出(い)でて行(ゆ)きし日を数へつつ今日(けふ)今日と吾(あ)を待たすらむ父母らはも (一云(あるひはいは)く、 母が悲しさ)

私訳 家から旅立って行った日々を数えながら、今日か今日かと私を待っているでしょう、父や母達は。(あるいは云はく、その母の悲しさ)


集歌891 一世尓波 二遍美延農 知々波々袁 意伎弖夜奈何久 阿我和加礼南 (一云 相別南)

訓読 一世(ひとよ)には二遍(ふたたび)見えぬ父母を置きてや長く吾(あ)が別れなむ (一云(あるひはいは)く、 相別れなむ)

私訳 一度の人の世では再び逢うことの出来ない二親の父と母をこの世に残して、永遠に私はこの世から別れるのです。(あるいは云はく、互いに別れるのです)

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