竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉雑記 色眼鏡 二二五 今週のみそひと歌を振り返る その四五

2017年07月29日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二二五 今週のみそひと歌を振り返る その四五

 今週は万葉集巻七から集歌1208の歌から集歌1205の歌までを鑑賞しています。変な順番になっていますが、西本願寺本万葉集では校本万葉集とは歌の配置が違っています。このため、西本願寺本では集歌1194の歌から集歌1207の歌までは、集歌1222の歌の後に配置されます。このような背景があるために歌番号と配置順が標準的な校本万葉集のものと一致していませんし、集歌1208の歌は集歌1210の後に位置します。順不同はこのような背景があります。

 さて、歌題において万葉集と他の和歌集とには大きな相違があります。それが船旅や海辺、それも磯浜の様子を詠うところです。平安時代の海辺の風景を詠うものとして奥州塩釜の風景画ありますが、実際は京都市内の貴族の庭園を詠ったものですし、派生歌はその苑池庭園の風景を詠った歌からの想像歌です。平安中期以降の貴族たちは都から地方に出向かないのがステータスですし、そのような人々が殿上人として人間扱いをされています。
 他方、飛鳥から奈良時代の貴族は実際に自己が所有する田舎の庄田を経営しますし、地方官として赴任しその行政評価で昇格人事を受けます。そのような背景から、万葉集には地方風景や海の様子がふんだんに詠われることになりますし、大伴郎女たちが歌に詠うように収穫次期に庄田に戻り、収穫に従事するのです。実際上の土地所有から切り離された平安貴族との違いがあります。また、例として周防などに残された古文書と大伴家持の歌・左注などからしますと、坂東からの防人の人たちは駿河湾から大船に乗り、遠州灘、伊勢湾、紀伊半島を経由して難波津に到着し、ここで点呼を受けた後、瀬戸内海を西に航行し、周防から北部九州に上陸します。関東から陸路をテクテクと徒歩旅行したのではありませんし、奈良時代中期まではそのような官名による旅行者・移動者には糧食が支給されていて、その記録が残されています。調税品を都へと運搬する運脚もまた糧食は延喜式に規定が示されるように支給されており、自己負担であったというのは「思想を背景としたデマ」です。

 与太話はここまでで、次の歌は和歌山市の海辺の様子を詠った歌です。奈良時代始めの行幸での歌ですと、行幸は平城京(または藤原京)から吉野に入り、ここで神事を行った後、吉野川(県境を越えてからは紀伊川)を下り、和歌浦に出ます。この後、紀伊半島各地の神社や伊勢の神社で神事を行うことになります。奈良の都への帰路は和歌浦から紀伊水道を抜け、難波津へ、そして大和川を遡って都に戻るのが順路だったようです。
 このような行幸順路の為か、帰路で最後の畿外の宿泊地となる和歌浦や玉津島の風景には、もう、旅の終わりと云う安堵や早く、家に帰って家族に会いたいという雰囲気があります。

集歌1219 若浦尓 白浪立而 奥風 寒暮者 山跡之所念
訓読 若浦(わかうら)に白浪立ちに沖つ風寒(さむ)き暮(ゆふへ)は大和しそ念(も)ゆ
私訳 和歌の浦に白波が立つので、沖からの風が寒い夕暮れは、大和が偲ばれます。

集歌1220 為妹 玉乎拾跡 木國之 湯等乃三埼二 此日鞍四通
訓読 妹しため玉を拾(ひり)ふと紀(き)し国し由良(ゆら)の御崎(みさき)にこの日暮らしつ
私訳 愛しい貴女のために玉を拾おうと紀の国の由良の御崎に、この一日を過ごしました。

集歌1222 玉津嶋 雖見不飽 何為而 裹持将去 不見人之為
訓読 玉津(たまつ)島(しま)見れども飽かずいかにせに包(つと)持(も)ち行かむ見ぬ人しため
私訳 玉津嶋よ、眺めていても飽きることはない。どのようにしてこの景色を包み込んで持って行こうか。この景色を見たことのない人のために。

 最初にも説明しましたが、巻七の歌は、なかなか、心躍るような歌はありません。記念撮影のような風景歌が多いため、数字稼ぎの与太話が中心になります。今回は歌番号の順不同を案内することが中心のようなものでした。
 反省です。
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万葉雑記 色眼鏡 二二四 今週のみそひと歌を振り返る その四四

2017年07月22日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二二四 今週のみそひと歌を振り返る その四四

 万葉集巻七でのこのあたりの歌は柿本人麻呂歌集に載る歌を中心に人麻呂時代の歌を再編集したような感覚があります。ただ、歌に隠された秘密とか、歴史があるのかと云うと、なかなか、そのような歌は見つけられません。私の能力の問題だと思いますが、その点が巻三や巻四とは違ったものがあるのでしょう。
 今週は集歌1186と集歌1187の歌に遊びます。ただし、ある種、歌へのいちゃもんのような話で、まともな歌の鑑賞ではありません。

集歌1186 朝入為流 海未通女等之 袖通 沾西衣 雖干跡不乾
訓読 漁(あさり)する海(あま)未通女(をとめ)らし袖通り濡れにし衣(ころも)干(ほ)せど乾(かわ)かず
私訳 朝早くから漁をする漁師の娘女たちの袖まで飛沫が通り濡れてしまった衣は、日に曝しても乾きません。

集歌1187 網引為 海子哉見 飽浦 清荒磯 見来吾
訓読 網引(あびき)する海子(あま)とか見らむ飽浦(あくうら)し清き荒磯(ありそ)を見に来し吾を
私訳 地引網を引く漁師たちと間違えて見るでしょうか、飽の浦の清らかな荒磯を見に来て浜を通りかかった(薄汚れた衣を纏った)私を。

 この二首の歌は身に纏った衣の様子が隠れたテーマです。その身に纏う衣をどのように解釈するかが歌の鑑賞での勝負となります。
 そうしたとき、集歌1186の歌では「袖通 沾西衣 雖干跡不乾」とあります。つまり、「袖の布を通して肌まで濡れた、その濡れた衣を干しても乾かない」とします。では、この「干」とは、どのような状況でしょうか。ままに歌を鑑賞しますと、磯浜で海草や貝を採っているうら若い漁師の娘たちが、漁で濡れた衣を磯浜の岩の上か、木の枝に懸け、乾かしている風情でしょうか。当然、貧しい漁村の娘たちは着替えを持っていないでしょうから、この歌を詠った歌人の目の前には濡れた腰巻一つの裸体の娘たちが集っていることになります。胸乳はむき出しでしょうし、濡れた腰巻は素肌にまとわり付いているでしょう。ほぼ、全裸に等しい姿です。それも歌では「海未通女等」と年齢層を特定しています。万葉集の約束での「未通女」は初潮を迎えていない、現在の十二歳から十四歳ぐらいの乙女をイメージします。つまり、そのような乙女が全裸に近い状態でいるのを見たと云うことになります。
 歌は直接には乙女たちの状態を詠いませんが、状況を確認しますと、非常なる艶なる世界です。これが万葉集の世界での約束事項です。似たような状況は天の羽衣にもありますから、このような姿が日常であったのでしょう。

 次に集歌1187の歌で遊びますと、「海子哉見」とあります。この歌を詠う歌人は田舎の漁師からしますと、立派な衣装を身に着ける都会人であり、官人です。それが、薄汚れた粗末な衣を纏っているから、田舎の漁師たちと同類と思われるとします。
 状況は長旅で着ている衣を洗濯する機会もなく、着の身着のままで体臭が臭いたち、薄汚れたままの衣を纏っていると云うものでしょうか。それとも、随行している高貴な身分の御方からみれば、田舎の漁師が着ていてもおかしくはないような粗末な衣を纏っていると云う謙遜でしょうか。
 歌は柿本人麻呂歌集に載る歌で、作歌者は人麻呂と思われます。さて、長旅での薄汚れた風情と取りましょうか。それとも、高貴な御方から見れば、粗末な衣と云う謙遜でしょうか。前後の状況が不明のため、どちらとも決め難い歌です。古代、衣類は貴重品です。多くの衣装を旅に持参することも無かったでしょうし、旅の随行者では洗濯をする機会もわずかであったと思います。現代では洗濯された身奇麗な衣装を身に纏うのが日常生活での前提のようなものがありますが、歌は万葉集時代の旅先のものです。そこでの歌となると、違った捉え方があると思います。

 何気ない歌ですが、取り様によっては、かようにいちゃもんを付けることが可能です。ただ、世をすねた者のいちゃもんですし、内容は為にする議論です。このような文字数稼ぎのためだけの鑑賞と云うものがあることをご了解ください。このようなものですが、類型歌や同様な歌意を持つ歌を並び立て、さらに先達の鑑賞文を引用しますと、1万字程度のものになります。

集歌3899 海未通女 伊射里多久火能 於煩保之久 都努乃松原 於母保由流可問
訓読 海人(あま)未通女(をとめ)漁(いざり)り焚く火のおぼほしく都努(つの)の松原思ほゆるかも

集歌947 為間乃海人之 塩焼衣乃 奈礼名者香 一日母君乎 忘而将念
訓読 須磨(すま)の海女(あま)し塩焼き衣(ころも)の馴(なれ)なばか一日(ひとひ)も君を忘れに念(おも)はむ


 実にどうでも良いことに遊びました。反省です。
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万葉雑記 色眼鏡 二二二 今週のみそひと歌を振り返る その四二

2017年07月15日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二二二 今週のみそひと歌を振り返る その四二

 今週は集歌1166の歌を中心に遊びます。

集歌1166 古尓 有監人之 覓乍 衣丹揩牟 真野之榛原
訓読 古(いにしへ)にありけむ人し求めつつ衣(ころも)に摺(す)りけむ真野(まの)し榛原(はりはら)
私訳 昔に生きていた人がその木を捜し求めながら衣に摺り染めたでしょう、その真野の榛原よ。

 歌に「真野之榛原」とあります。この「真野」は地名としますと、歌枕などでは「大和の真野」、「摂津の真野」、「近江の真野」、「陸奥の真野」が代表例として扱われます。この度の集歌1166の歌の「真野」は「覊旅作」の部立に含まれますから大和ではないでしょう。そこで前後の歌から邪推した上で「摂津の真野」として鑑賞したいと思います。
 そうしたとき、解説書では現在の神戸市長田区真野町から尻池町を万葉時代の「真野」と考えるようです。ただ、摂津の真野といいましたが、現代で考える摂津と古代の摂津は地理的に完全には一致しませんので注意をお願いします。
 さて、歌に「衣丹揩牟」とありますし、染料は榛です。つまり、榛の摺衣を詠いますから、歌の背景には古代の神事があることになります。なお、平安時代の書物になりますが延喜式に示すように古代において日常に着る榛の樹皮から得る染料で染めた褐色の染衣と榛の葉を白妙の衣に型摺染めした摺衣とはまったくに違うものです。標準的な万葉集の解説書では榛染衣と榛摺衣を混同していますが、注意をお願いします。
 雑談に走りましたが、集歌1166の歌は摂津地方の古代の神話や神事の様子を題材に風景を詠ったものと云うことになります。少し、場所は離れますが神戸市灘区の敏馬は神功皇后伝説地であり、「神功皇后が新羅へのご出兵のお還りの時、この地(神戸市灘区岩屋)で船が動かなくなったので、占い問うと神の御心なりと。故に美奴売の神様をこの地に祀り、船も献上した。」と解説します。古代の神事では御衣(みそ)を着用しますから、敏馬神社の由来や伝承を受けて、集歌1166の歌が詠われたのかもしれません。
 古代において、敏馬は海に突き出た岬状の地形をしており、その後背地で西側の樹帯一帯を大きな木が茂る「真野」と称した可能性があります。真野は地名でもありますが、一方で立派な野原のような意味合いも合わせて持ちます。湿地帯ではない丘陵のような乾いた土地です。

 今回も妄想と邪推での歌の鑑賞です。標準的なものではありませんので、よろしくお願いします。
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万葉雑記 色眼鏡 二二二 船を考える

2017年07月08日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二二二 船を考える

 万葉集には船(舟)と云う文字を持つ歌が百首を越えます。およそ、飛鳥浄御原宮、藤原京、平城京時代の人々にとって海洋を渡って行く船の姿は日常的であったと思われます。

集歌1143 作夜深而 穿江水手鳴 松浦船 梶音高之 水尾早見鴨
訓読 さ夜(よ)更(ふ)けに堀江水手(かこ)なる松浦(まつら)船(ふね)梶音(かぢおと)高し水脈(みを)早みかも
私訳 芳しい夜が更けるにつれ堀江の船乗りたちの松浦船の梶の音が高い。潮の流れが速いのだろう。

集歌1169 近江之海 湖者八十 何尓加 君之舟泊 草結兼
訓読 近江し海(み)湖(みなと)は八十(やそ)しいづくにか君し舟泊(は)て草結びけむ
私訳 近江の海よ。その近江の海には湊はたくさんある。さて、どこの湊に貴方の舟を留めて草を結び、航海の無事を祈ったのでしょうか。

 飛鳥時代から奈良時代、日中韓の歴史書が示すように、朝鮮海峡を千・万単位の軍勢が渡海することは国を動かす政治家や当時の商業などに携わる人々には日常的な常識です。文明は一方向に進むとは限りません。古代日本では工業・商業は奈良時代の天平年間にピークを迎えたようで、その後、藤原氏の興隆と共に農業と閉鎖的な地域経済へとその形態を変化させたようです。平安時代から奈良時代を眺めると、大きな誤解釈を行う可能性があります。
 さてそうした時、今日、東アジアから太平洋における太古代の船の研究が急速に進んでいて、従来の日本の考古学者の「思い」とは違う姿が国際的に示されているようです。例えば、南太平洋の島々の人々の遠い祖先は中国大陸南部に源を持ち、その人々が長距離帆走が可能なアウトリガー・ダブルカヌー(双胴カヌー)と云う発明を通じて、台湾、フィリピンなどを経由して南太平洋へと移住していったと考えられています。日本では縄文時代から弥生時代の早い時期に相当します。
 日本における平安時代の文明停滞期がそうであるように文明は進化の方向に進んで行くかと云うと、一概にそうでもないようです。南太平洋の島々にはラピタ土器(赤色スリップ土器)と称される古代土器が発掘されますが、その生産技術などは島々に移住してきた人々が定住するようになった時を同じくするように無くなっていったと推定されています。土器の製作にはそれに適した粘性土が必要ですが、南太平洋の多くの島々では土器製作に適した土を得ることが出来ず、そのため、ラピタ土器の土器製造の技術も失われたようです。その土地で得られる材料を下に土器や代替として竹製品(時に大型の植物の葉など)が作られるようになったとします。同様に島々に定着するようになりますと、その島の水域環境に合わせて外洋を行くような大型の帆走のアウトリガー・ダブルカヌーは小さな手漕ぎのシングルカヌーや戦闘時の走行性を重視するような細身・軽量な手漕ぎを中心とするアウトリガー・ダブルカヌーへと変化を遂げたようです。また、それぞれの島々で得られるも木材の材質と太さにより船の大きさや構造は制限されたものと考えられます。
言語及び遺伝子工学からしますと、オーストロネシア祖語と云う学説があり、これは紀元前四千年以前に中国大陸南部に居住していた人々を祖として、その早い段階での分派を台湾先住民とします。他方、マレー・ポリネシア語に属する人々がもう一方の分派とします。年代的にはラピタ土器に代表されるラピタ文化は紀元前九百年頃にはトンガ・サモアまで伝播していたことが確認されています。逆方向に見ますと、黒潮の流れに乗れば台湾の先には奄美諸島があり、九州・四国南部・紀伊半島があります。
 云わんとすることは、日本の実験考古学者は、なぜか、このラピタ文化の成立とその背景と云うものを日本考古学の検証に取り入れません。遣唐使船の実験航海でも櫓走を主張し、台湾・先島諸島間の太古代船の実験航海でも手漕ぎを主張します。南太平洋のラピタ文化の経由地が台湾であるならば手漕ぎの太古代船では台湾からフィリピンへの渡海はまったくもって不可能です。
 同じように日本書紀には四世紀には半島 新羅や高麗との交流を下に、朝貢の折に生じた船火事の過失の謝罪として船大工が新羅から大和に献上された記録もあります。この時代の朝鮮海峡を渡る船は「新羅船」と称される三十-四十人乗りの大型船で帆走が基本です。なお、日本の古代船研究者がなぜか世界の常識とは違う独特な人力による櫓走を提案し、実験航海を行い大失敗をしたことは有名です。科学を基準に動力源と出力、船体重量、波・風抵抗を計算すると人力櫓走による渡海は不可能なことは明白ですが、そこが日本の学界の独自性なのでしょう。学会序列と根性論です。

 今回の話題は万葉集歌の鑑賞とは直接には関係ありません。しかし、万葉集の歌は時代や人々の生活を背景に詠われています。そこが古今和歌集以降の和歌集とは性格を異にします。そうしたとき、飛鳥・奈良時代の生活の捉え方が違えば、歌の解釈も変わって来ます。一般には和歌の世界の舟は川舟や苑池庭園に浮かぶ観月の舟が相当します。ところが、飛鳥・奈良時代の大船は30mぐらいの船長を持つサイズです。まったくもって、平安貴族が想像する舟の大きさとは違います。
 さらに、庶民の食事についても、暮らしているその地域で採れる食べ物を食べていたとしますと、教科書に載るようなものではありません。今でも自給自足の田舎暮らしをすれば判ると思いますが、相当に豊富な食べ物が得られます。それを雑炊のような「かて飯」として煮炊きして食べていたと推定されます。蒸し器で蒸す「強飯」は特別な日に食べる「ハレ」の食事であって、日常の「ケ」の食事ではありません。残念ながら今でも歴史を研究する人はエリート階級に所属する人ですから、野良で採れる川魚、川貝、小動物、山菜・野菜・根菜などを使った雑炊などは想像が付かないでしょう。飛鳥から奈良時代中期までは、基本的に穀物余剰の時代です。それを背景に国衙や郡衙に穀物貯蔵の倉庫が建てられ、天災に備える準備が整えられて行きます。古代 律令時代の税制は手工業製品や労働供給が主体で、米穀などによる穀税は主体ではありません。そこが江戸時代の穀税主体との違いがあります。船への研究も色眼鏡を掛けてのものですが、古代農村の生活研究も同じような色眼鏡を掛けたような姿があります。
 奈良時代中期以降は仏教の色が濃いとします。食事において、仏教を下にしますと貧窮と貪窮とでは大変な思想上の違いがあります。ただし、平安貴族や鎌倉僧侶にとって貪窮問答は禁句です。そして、貪窮問答の先に鎌倉時代に起きた日本仏教革命があります。ですから、貴族階級にとって貧窮問答でなくてはいけないのです。それは昭和・平成に及びます。

 アカデミーに所属しない社会人は、妙なしがらみはありません。ですから、社会人は色眼鏡を掛けて、結論先の研究や鑑賞ではなく、常識と科学に従って万葉集の歌を楽しんでいただきたいと思います。
 今回は舟から脱線しました。まったく持って、反省です。
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万葉雑記 色眼鏡 二二一 訂正「万葉集と韓国語」への与太話

2017年07月01日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二二一 訂正「万葉集と韓国語」への与太話

 以前、万葉雑記 五四「万葉集と韓国語」への与太話という雑記の訂正版です。内容的には新奇なものはありません。単に与太話です。
なお、ここでのブログは万葉集の鑑賞を目的とするものであって、特定の思想・心情には組みしたものではありません。そこを御理解のほど、お願いいたします。

 さて、朝鮮半島での古代文章表記法に吏読(りとう)と云う失われた表記方法がありました。この吏読は漢字の音と訓を利用して朝鮮語を表記し、さらに朝鮮語の語順に合わせて漢字を配列するものです。これを「朝鮮」を「大和」に、「吏読」を「万葉仮名」に置きかえると、現在の万葉仮名の説明と同等なものになります。また、HP「日本語千夜一夜~古代編~」(小林昭美)に載る「第50話 日本語のなかの朝鮮語」では、多くの古代朝鮮語と大和言葉とで共通する単語が紹介されています。その理由として、小林氏は、次のような文章を示されています。

「弥生時代以来、朝鮮半島も日本列島も強力な漢字文化圏のなかに飲み込まれて、中国語から数多くの語彙を借用した。日本語と朝鮮語は、語順が同じであり、助辞(てにをは)を使い、動詞や形容詞に活用があり、敬語を使うなど共通点が多い。日本語と朝鮮語はともにアルタイ系の言語だと考える学者も多い。しかし、日本語と朝鮮語に共通な語彙をくわしく調べてみると、もとは両方とも中国語からの借用語である場合もある」

 この解説からすると、多くの古代朝鮮語と大和言葉とで共通する単語について、それは共に漢字文化の導入に伴う外来由来の単語の増加が根源であって古代朝鮮語と大和言葉とが同じ言語集団に集約される訳ではないようです。
 他方、古代日本では中国大陸や朝鮮半島から大量な移民が日本列島に到来したことも事実です。畿内では、大和国の大和川を中心とする低湿地帯、河内国の低湿地帯、近江国の南部琵琶湖の両岸での湿地帯の住民は、渡来系の人々で過半を占めていたとも伝えられています。また、九州国東半島や関東武蔵野丘陵も有名な一帯です。
 こうした時、過去に「万葉集は韓国語で記述されたもの」なる話題がありました。確かに古代朝鮮には吏読と云う書記システムがあり、文法は日本語と類似しており、また、漢字文化を背景として単語に多くの共通点がありました。さらに、古代日本では大量な移民が日本各地に生活しており、天智天皇の近江朝時代には朝廷の中級官僚に多くの百済系貴族・学者が就いています。さらに、日本語の進化を見るに、古事記・万葉集時代には一音節名詞の比率が高く、平安時代以降の二音節以上の多音節名詞が中心となす状況とは違っていました。
 説明文章をより判り易くするために、以下にウキペディアから引用した吏読と漢字ハングル交じり文の関係を例文から紹介します。

養蚕経験撮要(1415年)に見られる吏読の例である。1.は漢文、2.は吏読文(下線部が吏読、カッコ内は吏読の日本語翻訳)、3.は吏読部分をハングル表記(現代語式のつづり)したものである。
1. 蠶陽物大惡水故食而不飲(蚕は陽物にして大いに水を悪(にく)む、故に食して飲まず)
2. 蠶段陽物是乎等用良水氣乙厭却桑葉叱分喫破爲遣飲水不冬(蚕ハ陽物ナルヲモッテ水気ヲ厭却、桑葉ノミ喫破シ飲水セズ)
3. 蠶딴 陽物이온들쓰아 水氣을 厭却 桑葉뿐 喫破하고 飲水안들

 例文において、2.は日本の宣命大書体と等しく、3.は漢字ひらがな交じり文体と同等であることに気付かれると思います。この背景からすると吏読文を研究された人からすると「万葉集は韓国語で記述されたもの」と唱える誘惑に取り憑かれるのも無理は無いことではないでしょうか。
 なお、ここでの「万葉集は韓国語で記述されたもの」との主張には、その主張態度から「日本に帰化し日本文化に溶け込んだ渡来人が万葉集に載る歌を大和言葉で詠った」というものは含まないと規定します。つまり、確認しますが「小泉八雲の日本語による作品は日本語で記述されたもの」と同等の意味と解釈し、同様に吉田宜の万葉集に載る集歌864の歌のような作品もまた日本語で記述されたものと規定します。

集歌864 於久礼為天 那我古飛世殊波 弥曽能不乃 于梅能波奈尓母 奈良麻之母能乎
訓読 後れ居(い)て長恋せずは御園生(みそのふ)の梅の花にもならましものを
私訳 後に残され居ていつまでもお慕いしていないで、御庭の梅の花にもなりたいものです。


 ここで話題を変えて、次の五種類の万葉集歌を楽しんで下さい。この楽しみ方は、ここのブログで提案する「万葉集は漢語と万葉仮名と云う漢字で書かれている」と云う視点からのものですし、本歌取りや掛詞の技法は、既に奈良時代には使われていたと云う判断からのものです。つまり、歌は単線的な読解ではなく、複線的な読解が必要になると云う提案からの解釈です。確かに万葉学者によっては、本歌取りや掛詞の技法は古今和歌集以降のものであるし、日本語書記システムは「漢字と仮名による漢字ひらがな交じり」でしかないと云う主張もあります。だだ、それについては「表記論争」のテーマで意見を述べていますので、ここでは割愛します。

<浄御原宮時代初期:漢詩体歌>
集歌2334 
原歌 沫雪 千里零敷 戀為来 食永我 見偲
訓読 沫雪(あはゆき)し千里(ちり)し降り敷(し)け恋ひしくし日(け)長き我し見つつ偲(しの)はむ
私訳 沫雪はすべての里に降り積もれ。貴女を恋い慕って暮らしてきた、所在無い私は降り積もる雪をみて昔に白い栲の衣を着た貴女を偲びましょう。
<別解釈>
試訓 沫雪し散りし降りしけ 戀し来(き)し 故(け)無(な)かき我し 見つつ偲(しの)はむ
試訳 沫雪よ、天から散り降っている。その言葉の響きではないが、何度も貴女を恋い慕ってやって来たが、貴女に逢うすべが無くて、私は遠くから貴女の姿を見つめ偲びましょう。

<浄御原宮時代初期:非漢詩体歌>
集歌1783 
原歌 松反 四臂而有八羽 三栗 中上不来 麻呂等言八子
訓読 松(まつ)反(かへ)り萎(し)ひにあれやは三栗(みつくり)し中(なか)上(のぼ)り来(こ)ぬ麻呂といふ奴(やつこ)
私訳 松の緑葉は生え変わりますが、貴方は脚が萎えてしまったのでしょうか。任期の途中の三年目の中上がりに都に上京して来ない麻呂という奴は。
<別解釈>
試訓 待つ返り強ひにあれやは三栗し中上り来ぬ麻呂といふ奴
試訳 貴方が便りを待っていた返事です。貴方が返事を強いたのですが、任期の途中の三年目の中の上京で、貴方はまだ私のところに来ません。麻呂が言う八歳の子より。

<天平年間初期:常体歌>
娘子復報贈謌一首
標訓 娘子の復た報へ贈れる謌一首
集歌639 
原歌 吾背子我 如是戀礼許曽 夜干玉能 夢所見管 寐不所宿家礼
訓読 吾が背子がかく恋ふれこそぬばたまの夢そ見えつつ寝(い)し寝(ね)らずけれ
私訳 愛しい貴方がそんなに恋い慕ってくださるので、闇夜の夢に貴方が見えるので夢うつつで眠ることが出来ませんでした。
<別解釈>
試訓 吾が背子がかく請ふれこそぬばたまの夢そ見えつつ寝し寝るずけれ
試訳 愛しい貴方がそれほどまでに妻問いの許しを求めるから闇夜の夢に貴方の姿は見えるのですが、でも、まだ、貴方と夜を共にすることをしていません。

湯原王亦贈謌一首
標訓 湯原王のまた贈れる謌一首
集歌640 
原歌 波之家也思 不遠里乎 雲井尓也 戀管将居 月毛不經國
訓読 愛(はしけ)やし間(ま)近き里を雲井(くもゐ)にや恋ひつつ居(を)らむ月も経(へ)なくに
私訳 (便りが無くて) いとしい貴女が住む遠くもない里を、私は雲居の彼方にある里のように恋い続けています。まだ、一月と逢うことが絶えてもいないのに。
<別解釈>
試訓 はしけやし間近き里を雲井にや恋ひつつ居らむ月も経なくに
試訳 ああ、どうしようもない。出掛ければすぐにも逢える間近い貴女の家が逢うことが出来なくて、まるでそこは雲井(=宮中、禁裏のこと)かのように思えます。私は貴女を恋焦がれています。まだ、貴女の身の月の障りが終わらないので。


<天平年間中期:常体歌>
集歌3854 
原歌 痩々母 生有者将在乎 波多也波多 武奈伎乎漁取跡 河尓流勿
訓読 痩(や)す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻(むなぎ)を漁(と)ると川に流るな
私訳 痩せに痩せても生きているからこそ、はたまた、鰻を捕ろうとして川に流されるなよ。
<別解釈>
試訓 易す易すも生けらば有らむを波多や波多鰻を漁ると川に流るな
試訳 すごく簡単に鰻が潜んでいたら捕まえられるだろう、だが、川面は波だっているぞ。その鰻を捕ろうとして、川に流されるなよ。


<天平年間後期:一字一音万葉仮名歌>
集歌4128 
原歌 久佐麻久良 多比能於伎奈等 於母保之天 波里曽多麻敝流 奴波牟物能毛賀
訓読 草枕旅の翁(おきな)と思ほして針ぞ賜へる縫はむものもが
私訳 草を枕とする苦しい旅を行く老人と思われて、針を下さった。何か、縫うものがあればよいのだが。
<別解釈>
試訓 草枕旅の置き女(な)と思ほして榛(はり)ぞ賜へる寝(ぬ)はむ者もが
試訳 草を枕とする苦しい旅の途中の貴方に宿に置く遊女と思われて、榛染めした新しい衣を頂いた。私と共寝をしたい人なのでしょう。

集歌4129 
原歌 芳理夫久路 等利安宜麻敝尓 於吉可邊佐倍波 於能等母於能夜 宇良毛都藝多利
訓読 針袋(はりふくろ)取り上げ前に置き反さへばおのともおのや裏も継ぎたり
私訳 針の入った袋を取り出し前に置いて裏反してみると、なんとまあ、中まで縫ってある。
<別解釈>
試訓 針袋取り上げ前に置き返さへば己友(おのとも)己(おの)や心(うら)も継ぎたり
試訳 針の入った袋を取り出し前に置いて、お礼をすれば、友と自分との気持ちも継ぎます。


古今和歌集 二条のきさきのはるのはじめの御うた
歌番四
原歌 ゆきのうちにはるはきにけりうくひすのこほれるなみたいまやとくらむ
標準 雪の内に春はきにけりうぐひすのこほれる涙今やとくらむ
釈A 雪のうちに春は来にけり鴬の凍れる涙今や解くらむ(=氷を解かす)
釈B (時が流れ)往きのうちに春は来にけり鶯の零れる涙今や解くらむ(=消えてなくなる)
釈C (時が流れ)往きのうちに春は来にけり鶯の零れる涙今や疾くらむ(=つぎからつぎと流れ出すさま)

 紹介しました歌の特徴は、全て同音異義語からの言葉遊びの世界です。場合によっては掛詞の技法を使った歌と呼ぶべきかもしれません。『万葉集』にはこのようにその歌が実作されたと推定される浄御原宮時代から後期平城京時代までの通期に渡り、同音異義語からの言葉遊びの歌を見つけることが出来ます。
 なお、ここでのものは『万葉集』原文からの解釈です。確かに奈良時代人がこのように詠んだという確証はありません。訓読み万葉集も然りです。最大、『古今和歌集』や『伊勢物語』での重複歌に遡るのが限度です。従いまして、別解釈で紹介したものも、標準的な解釈も、「万葉集は韓国語で記述されたもの」と云う立場からは、紹介したものが確認・確定した事実ではないと云う観点から成立しないとの指摘があるかと考えます。ただ、その場合は、主張は互いに平行線で、論議はここで終わります。

 ところで、この同音異義語からの言葉遊びは日本語が持つ特性からのもので、古代・中世での朝鮮語や中国語では楽しむことの出来ない文学世界です。文末に参考資料を紹介していますが、日本語は開音節言語に分類される言語です。一方、朝鮮語や中国語は閉音節言語に分類される言語です。この発音方法の違いから、日本語が開音節言語であることにより音節の型は数百程度であるのに対して朝鮮語や中国語が閉音節言語であることから音節の型は数千から万を超える程多く持つことになります。つまり、この保有する音節の型数の絶対的相違から、同音異義語の数が違って来ます。そのため、日本語が特徴的に同音異義語からの言葉遊びを持つことが出来るのです。他方、中国語では発声の言葉遊びとして漢詩などでの押韻が発達しています。
 古代において書記システムからすると漢字だけの表記スタイルからこれらの国々は同じ漢字文化圏に含まれるかも知れませんが、発音や文法ではそれぞれの民族言語に基づき独特なものが認められます。さらに、日本語は開音節言語であることから外来語の名詞を容易に五十一音の音節に分解し、複合名詞の多音節化の作業をしてしまいます。この特性が同音異義語からの言葉遊びを産む源なのでしょう。また、『万葉集』では漢字表記の視覚情報とその文字の発声での聴覚情報とのギャップを楽しむこともしています。例で云うと紹介した集歌1783の歌の「松反=まつかえし」や集歌639の歌の「戀礼許曽=こふれこそ」がそれに相当します。単純な同音異義語からの言葉遊びだけではないことが『万葉集』の特殊性です。
 さらに、先ほど「古代朝鮮語と大和言葉とで共通する単語」の説明で、古語において多くの単語が共通するとの文章を紹介しましたが、文末に紹介する姜美愛氏の研究では「単独語ではほぼ同じアクセント構造を持つ言語であっても、複合語のアクセント規則では共通点がほとんどない」と結論付けるように、外来語を多音節に開くと云う日本語独特の言語特性からは、古代朝鮮語と大和言葉とが、どれほど言語を共有できるのかと云うと疑問ではないでしょうか。
 先に同音異義語からの言葉遊びの和歌を紹介しましたが、これらは漢詩体歌、非漢詩体歌、常体歌、一字一音万葉仮名歌と、それぞれの書記システムは違いますが、万葉集中においてはその書記システム変化の連続性は確認出来ます。従いまして、漢詩体歌や非漢詩体歌だけを切り取り、それだけを評論することやサンプルとすることは出来ないのです。連続性を担保する必要があります。もし、「万葉集は韓国語で記述されたもの」なる話題を追求するのであれば、『万葉集』の全書記システムでの歌に対して共通性を持った解説や論が必要になります。当然、その課程で漢詩体歌から一字一音万葉仮名歌までにおける短歌での三十一音での口調とリズムに対する説明が必要です。木簡などの発掘から、一時期、流行った略体歌からの和歌進化説は否定され、漢詩体歌と一字一音万葉仮名歌とには同時代性が認められますから漢詩体歌が特殊な口調を持った歌との説明から三十一音での口調とリズムから大きく離れる解釈をすることは出来ません。そして、『万葉集』から『古今和歌集』へと繋がる重要な和歌作歌技法の一つである掛詞技法を古代朝鮮語法や文芸面(ハングル成立以前の朝鮮での同音異義語遊び文学の証明)から解説する必要があります。
 参考に一字一音万葉仮名歌と云う表記区分では『万葉集』での一字一音万葉仮名歌と『古今和歌集』の和歌ではその相違はありません。一般的に違うものとされる由来は鎌倉時代初期に藤原定家たちがその時代の人びとが『古今和歌集』の和歌が読めるようにと漢字交じり平仮名歌に翻訳したためです。本来的には楷書、草書、草かなとの書体の差があっても同じ表記です。ただし、このような基本的な解説をしませんから、若い時分に韓国に戻られたお方たちには消化が難しいことかもしれません。

 万葉集巻五 歌番号八二二 大伴旅人 (西暦七三〇年)
原歌 和何則能尓宇米能波奈知流比佐可多能阿米欲里由吉能那何列久流加母
読下 わかそのにうめのはなちるひさかたのあめよりゆきのなかれくるかも
解釈 わが苑に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも (新訓万葉集 佐佐木信綱)

 万葉集巻二十 歌番号四二九七 大伴家持 (西暦七五三年)
原歌 乎美奈弊之安伎波疑之努藝左乎之可能都由和氣奈加牟多加麻刀能野曽
読下 をみなへしあきはきしぬきさをしかのつゆわけなかむたかまとののそ
解釈 をみなへし秋萩凌ぎさを鹿の露別け鳴かむ高円の野ぞ (新訓万葉集 佐佐木信綱)
 
 秋萩帖第一紙第一首 古今和歌集 歌番二二〇(伝小野野道風 天徳年間か、西暦九六〇年代末頃)
原歌 安幾破起乃之多者以都久以末餘理処悲東理安留悲東乃以祢可転仁數流
読下 あきはきのしたはいつくいまよりそひとりあるひとのいねかてにする
解釈 秋萩の下葉慈く今よりそ独りある人の寝ねかてにする (本編独自)

 高野切第一種 古今和歌集 歌番二 紀貫之 (伝藤原行経 永承年間か、西暦一〇四五年頃)
原歌 曽天悲知弖武春比之美川乃己保礼留遠波留可太遣不乃可世也止久良武
読下 そてひちてむすひしみつのこほれるをはるかたけふのかせやとくらむ
解釈 袖ひちてむすびし水のこほれるを春かた今日の風やとくらむ (本編独自)

 伊達家旧蔵無年号本 古今和歌集 歌番二 紀貫之 (藤原定家 嘉禄三年、西暦一二二八年頃)
和歌 袖比知天武寸比之水乃己保礼留遠春立計不乃風也止久覧
読下 袖ひちてむすひし水のこほれるを春立けふの風やとく覧
解釈 袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ (久曾神氏)

 当然、表記システムにおいても、『万葉集』の大伴旅人や家持に代表される「一字一音万葉仮名歌」は『古今和歌集』、『後撰和歌集』、『千載和歌集』、『新古今和歌集』へと、三十一文字仮名表記とその仮名文字の母字となる漢字文字については連続性がありますから、『万葉集』単独で古代朝鮮語との関係を述べる訳にもいきません。その後の和歌の進化過程も視野に入れて語る必要があります。『古今和歌集』以降の和歌を単純に「ひらがな」表記の和歌と思いこむ訳にはいかないのです。歌での視覚情報と聴覚情報との関係から変体仮名連綿による「ひらがな」表記の和歌であってもその母字となる漢字文字は場面ごとに選択されているのです。この姿もまた古代朝鮮語法や文芸面から解説が必要です。
 当然、主張のために都合の良い単語を切り出せば、語彙充足の為に古代に漢語・漢字輸入と云う共通の過去歴史を持ちますから、類似は必ず現れます。しかし、言語分類や発音特性に基づけば、違う言語体系を持つのですから、本格的に『万葉集』を理解すればおのずから結論は導かれるものと考えます。

 ただ、現在までの文化人類学上の研究では、漢文以外の文字記録への資料不足に由来し、言語学上での百済国の住民やその後の朝鮮半島の南西部の住民と現在の韓国民との言語の連続性については未確定のようです。従いまして、逆説になりますが、次のような主張は可能です。
 古語朝鮮語には吏読の文章表記システムがあり、これは万葉仮名によるものと同等である、
 文章構文において吏読と万葉集歌とに共通点がある、
 古語朝鮮語と大和言葉とに共通の単語が多数、存在する、
 古語朝鮮語が開音節言語か、閉音節言語かは確定できないから、大和言葉と同じ開音節言語の可能性がある、
 万葉集の歌が詠われた時期、大和には多数の古語朝鮮語を使う人々が生活していた、
 
 つまり、古代の朝鮮半島南部の人々は『万葉集』から『古今和歌集』への連続性を持つ大和言葉と同等の言語・発音を持つ人々であり、そして、文章構文や単語も共通していたと主張することは可能です。ただ、このような場合、『万葉集』を通じて古代に少なくとも朝鮮半島南西部の人々は言語・文化において大和と一体であったと示唆するものですから、論者は任那日本府による朝鮮半島南西部支配とその住民は日本人またはその亜人種であったと云う学説の支持者になることと等しいものになります。
 再度、確認しますが、本来の「万葉集は韓国語で記述されたもの」との主張には、その主張態度から「日本に帰化し日本文化に溶け込んだ渡来人が万葉集に載る歌を大和言葉で詠った」というものは含まないと規定します。従いまして、日本文化に溶け込み、大和言葉で日本文化を背景とした歌を詠う人が戸籍上では大和人種ではない帰化人であったとしても、文学的にはその人物は日本人と考えます。こうした時、以上の考察からしますと、「万葉集は韓国語で記述されたもの」なる主張での「韓国語」の言葉は、実質上、大和言葉の一方言であり、その言葉を使う人々は文化・文芸面では大和人種との区別が出来ない人種ということになります。ある種、現代における方言からの青森県人や鹿児島県人と同等な朝鮮半島全羅道県人と云うような区分になるでしょうか。
 現在、韓国と日本の学説では「任那日本府による朝鮮半島南西部支配とその住民は日本人またはその亜人種」と云うものについては否定するものが大勢と考えます。文化人類学的には、古代においても海峡両岸地帯での文化や社会交流があったが生活習慣や文化態度は違うものであり、人種的にも同一性は認められていないようです。また、「任那日本府」と云う「国家」の存在もまた否定するのが大勢と考えます。さらに、もし、「万葉集が朝鮮半島で作られた」と云う説が存在するならば、その説を唱える人は「その地域は言語と文化上では日本であった」と考えていることになるのではないでしょうか。その時、韓国の人の心情からすると、なかなか、難しい問題になると考えます。
 個人の考えとしては、百済や新羅と云う国家は朝鮮半島南部に存在した独自の文化や言語を持った半島の韓人の国家と思います。従いまして、「万葉集は韓国語で記述されたもの」なる主張で、古代韓国語は大和言葉の一方言であり、文化的人々は大和人と同等の発音・文法を持つ人種であったと、その独立性について卑下する必要はないと考えます。やはり、百済や新羅は誇り高い高度な漢詩・漢文文化を持つ国家であったと考えます。

 当然、一部の漢詩体歌や非漢詩体歌を、吏読の文章表記システムで三十一文字の和歌の縛りに縛られず、ハングル翻訳することについては、実験としてその行為を否定するものでは有りません。しかし、出来ましたら、日本語が持つ同音異義語からの言葉遊びや『万葉集』特有の漢字表記の視覚情報と発声からの聴覚情報とのギャップを楽しむことを、『万葉集』の歌、全体を通じて鑑賞していただけたらと考えます。
 最後に柿本人麻呂の歌を紹介して終わります。これが、万葉人を代表する大和貴族の感覚だったようです。この感覚を現代韓国語で訳すのは精神的に辛いのではないでしょうか。ですから、この人麻呂歌を鑑賞すると「万葉集は韓国語で記述されたもの」なる主張は、韓国の方では、一部の日本に媚び自国を卑下する人を除けば、そのプライドから決して主張しないことと考えます。
 ここで、韓国の方にお願いですが、以上の説明をなるほどと思われた時、過去にそのような主張をした御方を御国の売国奴とは考えないで下さい(イスラエル問題から見ると、重大な問題ですが)。でも、それは日本人でも難しい古語大和言葉に果敢にチャレンジしたことからの勇み足だけと推察します。
 今回はそのような事情があり、紹介は原文だけです。この同音異義語の遊びがふんだんに入る訓読みと意訳文を紹介しなかった事情をお察し下さい。

柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時謌二首并短謌より抜粋
原文(集歌135)
角鄣経 石見之海乃 言佐敞久 辛乃埼有 伊久里尓曾 深海松生流 荒磯尓曾 玉藻者生流 玉藻成 靡寐之兒乎 深海松乃 深目手思騰 左宿夜者 幾毛不有 延都多乃 別之来者 肝向 心乎痛 念乍 顧為騰 大舟之 渡乃山之 黄葉乃 散之乱尓 妹袖 清尓毛不見 嬬隠有 屋上乃(一云、室上山) 山乃 白雲間 渡相月乃 雖惜 隠比来者 天傳 入日刺奴礼 大夫跡 念有吾毛 敷妙乃 衣袖者 通而沽奴

 今回もまた、与太話で埋めてしまいました。反省です。



<資料一>
吏読 (ウキペディア)より抜粋引用
 吏読は漢字の音と訓を利用して朝鮮語を表記しているが、漢字の読み方は古くからの読みが慣習的に伝わっている。
 吏読では名詞・動詞語幹などの実質的部分は主に漢語が用いられ、文法的部分に吏読が主に用いられる(名詞・動詞部分に吏読が用いられる例もある)。朝鮮半島では漢字を受容してしばらくは正統な漢文が用いられたと見られるが、その後朝鮮語の語順に合わせて漢字を配列した「誓記体」などの擬似漢文が現れる。吏読はこのような朝鮮語の語順で書かれた擬似漢文に、文法的要素がさらに補完されて成立したものと考えられる。

<資料二>
音節 (「文字と文章」 内海淳)より引用
 「バナナ」/banana/の中の、/b/、/a/、/n/のように、これ以上は分割できない個々の音のことを分節音(segment)または音素(phoneme)と呼びます。これに対し、「バナナ」/banana/の中の、/ba/と/na/のように、母音を中心とした発音しやすい音の集まりを音節(syllable)と呼びます。英語のstrike /straik/という単語は、これで1音節ですが、日本語の「ストライク」/sutoraiku/という単語は5音節です。このように、音節の形は言語毎に異なります。/ba/や/na/のように、母音で終わる音節を開音節(Open Syllable)と呼びます。開音節は形が単純になる傾向があります。これに対して、/straik/のように、子音で終わる音節を閉音節(Closed Syllable)と呼びます。閉音節は形が複雑になる傾向があります。
 日本語は、閉音節もありますが、閉音節は特殊な環境に限られていて、開音節が中心の言語です。このような言語は開音節言語と呼ばれます。これに対して、英語は、閉音節が特殊な環境に限られていません。このような言語のことを閉音節言語と呼びます。
 日本語やイタリア語、スペイン語などは、開音節言語で、音節の型は数百程度と比較的少なくなります。これに対して、英語、中国語、朝鮮語等は、閉音節言語で、音節の型は数千から万を超える程多くなります。

<資料三>
複合名詞アクセントの韓ㆍ日対照研究 -大邱方言複合名詞アクセント規則を中心として
(姜美愛、日語日文學 第42輯)より引用
 日本語の複合名詞のアクセント規則は、複合語を構成する後部の単語が3拍以上のものと2拍のものに大別でき、後部が2拍の和語の場合をのぞいて漢語ㆍ和語ㆍ外来語の間での違いはほとんどあらわれない。これに対して大邱方言の複合名詞では複合語の音節数によってそれぞれ違ったアクセント規則があらわれ、また漢字語ㆍ固有語ㆍ外来語の間でも幾らかの違いが見られる。
 日本語の複合名詞において漢語ㆍ和語ㆍ外来語の間で際立った違いがあらわれないのは、日本語では外来語の歴史が長く、新しく入ってきたものでも本来閉音節で発音されるものが日本語の特徴である開音節で発音されるため容易に日本語化されるためではないかと思わる。一方、韓国語では韓国語が閉音節を持つ言語であるため、本来閉音節で発音される外来語についてもそのまま発音されることが多く、容易に韓国語化されない。例えば、英語の5音節語の「In-ter-net bank-ing」は日本語では12拍の「インターネットバンキング」になるが、韓国語では英語と同じ5音節語の「인터넷 뱅킹」であり、アクセントもほぼそのまま維持される。このようなことが韓国語の複合名詞において漢字語ㆍ固有語ㆍ外来語に共通するアクセント規則があらわれない理由の一つになると思われる。
 複合語のアクセントを決定する要因としては、日本語の複合名詞では主に後部要素のアクセントであり、大邱方言では先ず前部要素と後部要素の音節数であり、次に前部要素のアクセントであり、そして後部要素のアクセントが係わってくる。大邱方言の6音節以上の漢字語複合名詞において前部要素のアクセントと後部要素のアクセントが連続しないものが多い。日本語の漢語名詞においても「悠々自適 ユーユー/ジテキ」のように発音されるものがある。これは複合語の音節数や前部と後部の単語が持つ意味の上から発話者にとって複合語とは認識されにくく、そのために前後の結合が弱くなるためであると思われる。
 以上が本研究において得られた結果であるが、本研究の目的とした日本語と大邱方言の複合語のアクセント規則における類似性の調査については、類似の部分よりも相違の部分が多くあらわれた。漢字語ㆍ固有語ㆍ外来語といった共通の語種を持ち、派生法と合成法という共通の複合語の造語法を持ち、共に高低アクセントを持ち、更に単独語ではほぼ同じアクセント構造を持つ言語であっても、複合語のアクセント規則では共通点がほとんどないことが明らかになった。

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