万葉雑記 色眼鏡 二二五 今週のみそひと歌を振り返る その四五
今週は万葉集巻七から集歌1208の歌から集歌1205の歌までを鑑賞しています。変な順番になっていますが、西本願寺本万葉集では校本万葉集とは歌の配置が違っています。このため、西本願寺本では集歌1194の歌から集歌1207の歌までは、集歌1222の歌の後に配置されます。このような背景があるために歌番号と配置順が標準的な校本万葉集のものと一致していませんし、集歌1208の歌は集歌1210の後に位置します。順不同はこのような背景があります。
さて、歌題において万葉集と他の和歌集とには大きな相違があります。それが船旅や海辺、それも磯浜の様子を詠うところです。平安時代の海辺の風景を詠うものとして奥州塩釜の風景画ありますが、実際は京都市内の貴族の庭園を詠ったものですし、派生歌はその苑池庭園の風景を詠った歌からの想像歌です。平安中期以降の貴族たちは都から地方に出向かないのがステータスですし、そのような人々が殿上人として人間扱いをされています。
他方、飛鳥から奈良時代の貴族は実際に自己が所有する田舎の庄田を経営しますし、地方官として赴任しその行政評価で昇格人事を受けます。そのような背景から、万葉集には地方風景や海の様子がふんだんに詠われることになりますし、大伴郎女たちが歌に詠うように収穫次期に庄田に戻り、収穫に従事するのです。実際上の土地所有から切り離された平安貴族との違いがあります。また、例として周防などに残された古文書と大伴家持の歌・左注などからしますと、坂東からの防人の人たちは駿河湾から大船に乗り、遠州灘、伊勢湾、紀伊半島を経由して難波津に到着し、ここで点呼を受けた後、瀬戸内海を西に航行し、周防から北部九州に上陸します。関東から陸路をテクテクと徒歩旅行したのではありませんし、奈良時代中期まではそのような官名による旅行者・移動者には糧食が支給されていて、その記録が残されています。調税品を都へと運搬する運脚もまた糧食は延喜式に規定が示されるように支給されており、自己負担であったというのは「思想を背景としたデマ」です。
与太話はここまでで、次の歌は和歌山市の海辺の様子を詠った歌です。奈良時代始めの行幸での歌ですと、行幸は平城京(または藤原京)から吉野に入り、ここで神事を行った後、吉野川(県境を越えてからは紀伊川)を下り、和歌浦に出ます。この後、紀伊半島各地の神社や伊勢の神社で神事を行うことになります。奈良の都への帰路は和歌浦から紀伊水道を抜け、難波津へ、そして大和川を遡って都に戻るのが順路だったようです。
このような行幸順路の為か、帰路で最後の畿外の宿泊地となる和歌浦や玉津島の風景には、もう、旅の終わりと云う安堵や早く、家に帰って家族に会いたいという雰囲気があります。
集歌1219 若浦尓 白浪立而 奥風 寒暮者 山跡之所念
訓読 若浦(わかうら)に白浪立ちに沖つ風寒(さむ)き暮(ゆふへ)は大和しそ念(も)ゆ
私訳 和歌の浦に白波が立つので、沖からの風が寒い夕暮れは、大和が偲ばれます。
集歌1220 為妹 玉乎拾跡 木國之 湯等乃三埼二 此日鞍四通
訓読 妹しため玉を拾(ひり)ふと紀(き)し国し由良(ゆら)の御崎(みさき)にこの日暮らしつ
私訳 愛しい貴女のために玉を拾おうと紀の国の由良の御崎に、この一日を過ごしました。
集歌1222 玉津嶋 雖見不飽 何為而 裹持将去 不見人之為
訓読 玉津(たまつ)島(しま)見れども飽かずいかにせに包(つと)持(も)ち行かむ見ぬ人しため
私訳 玉津嶋よ、眺めていても飽きることはない。どのようにしてこの景色を包み込んで持って行こうか。この景色を見たことのない人のために。
最初にも説明しましたが、巻七の歌は、なかなか、心躍るような歌はありません。記念撮影のような風景歌が多いため、数字稼ぎの与太話が中心になります。今回は歌番号の順不同を案内することが中心のようなものでした。
反省です。
今週は万葉集巻七から集歌1208の歌から集歌1205の歌までを鑑賞しています。変な順番になっていますが、西本願寺本万葉集では校本万葉集とは歌の配置が違っています。このため、西本願寺本では集歌1194の歌から集歌1207の歌までは、集歌1222の歌の後に配置されます。このような背景があるために歌番号と配置順が標準的な校本万葉集のものと一致していませんし、集歌1208の歌は集歌1210の後に位置します。順不同はこのような背景があります。
さて、歌題において万葉集と他の和歌集とには大きな相違があります。それが船旅や海辺、それも磯浜の様子を詠うところです。平安時代の海辺の風景を詠うものとして奥州塩釜の風景画ありますが、実際は京都市内の貴族の庭園を詠ったものですし、派生歌はその苑池庭園の風景を詠った歌からの想像歌です。平安中期以降の貴族たちは都から地方に出向かないのがステータスですし、そのような人々が殿上人として人間扱いをされています。
他方、飛鳥から奈良時代の貴族は実際に自己が所有する田舎の庄田を経営しますし、地方官として赴任しその行政評価で昇格人事を受けます。そのような背景から、万葉集には地方風景や海の様子がふんだんに詠われることになりますし、大伴郎女たちが歌に詠うように収穫次期に庄田に戻り、収穫に従事するのです。実際上の土地所有から切り離された平安貴族との違いがあります。また、例として周防などに残された古文書と大伴家持の歌・左注などからしますと、坂東からの防人の人たちは駿河湾から大船に乗り、遠州灘、伊勢湾、紀伊半島を経由して難波津に到着し、ここで点呼を受けた後、瀬戸内海を西に航行し、周防から北部九州に上陸します。関東から陸路をテクテクと徒歩旅行したのではありませんし、奈良時代中期まではそのような官名による旅行者・移動者には糧食が支給されていて、その記録が残されています。調税品を都へと運搬する運脚もまた糧食は延喜式に規定が示されるように支給されており、自己負担であったというのは「思想を背景としたデマ」です。
与太話はここまでで、次の歌は和歌山市の海辺の様子を詠った歌です。奈良時代始めの行幸での歌ですと、行幸は平城京(または藤原京)から吉野に入り、ここで神事を行った後、吉野川(県境を越えてからは紀伊川)を下り、和歌浦に出ます。この後、紀伊半島各地の神社や伊勢の神社で神事を行うことになります。奈良の都への帰路は和歌浦から紀伊水道を抜け、難波津へ、そして大和川を遡って都に戻るのが順路だったようです。
このような行幸順路の為か、帰路で最後の畿外の宿泊地となる和歌浦や玉津島の風景には、もう、旅の終わりと云う安堵や早く、家に帰って家族に会いたいという雰囲気があります。
集歌1219 若浦尓 白浪立而 奥風 寒暮者 山跡之所念
訓読 若浦(わかうら)に白浪立ちに沖つ風寒(さむ)き暮(ゆふへ)は大和しそ念(も)ゆ
私訳 和歌の浦に白波が立つので、沖からの風が寒い夕暮れは、大和が偲ばれます。
集歌1220 為妹 玉乎拾跡 木國之 湯等乃三埼二 此日鞍四通
訓読 妹しため玉を拾(ひり)ふと紀(き)し国し由良(ゆら)の御崎(みさき)にこの日暮らしつ
私訳 愛しい貴女のために玉を拾おうと紀の国の由良の御崎に、この一日を過ごしました。
集歌1222 玉津嶋 雖見不飽 何為而 裹持将去 不見人之為
訓読 玉津(たまつ)島(しま)見れども飽かずいかにせに包(つと)持(も)ち行かむ見ぬ人しため
私訳 玉津嶋よ、眺めていても飽きることはない。どのようにしてこの景色を包み込んで持って行こうか。この景色を見たことのない人のために。
最初にも説明しましたが、巻七の歌は、なかなか、心躍るような歌はありません。記念撮影のような風景歌が多いため、数字稼ぎの与太話が中心になります。今回は歌番号の順不同を案内することが中心のようなものでした。
反省です。