竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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遣新羅使歌を鑑賞する 風速の浦

2010年01月31日 | 万葉集 雑記
風速の浦に舶泊し夜に作れる歌二首
 可能性として神亀元年九月中旬 大使は従五位上土師宿禰豊麻呂

 集歌3615や集歌3616の歌で詠うように風速の浦に海霧が流れています。備後國の水調郡の長井の浦や風速浦は今でも海霧で有名だそうで、長井の浦では、現在の地名では広島県三原市ですが、晩秋に発生する海霧の写真コンテストが毎年開催されています。風速の浦を晩秋に通過する可能性のある遣新羅使の一行は神亀元年の土師宿禰豊麻呂を遣新羅大使とする一行です。
 なお、同じ海霧を詠いますが集歌3580の歌の海霧は比喩で、ここでのは写実と考えています。女が詠う集歌3580の歌の海霧に対し、集歌3581の歌で海霧が立つ前に帰って来るとしていますので、集歌3615の歌との関連を見ることは必要ないと思います。

風速浦舶泊之夜作歌二首
標訓 風速の浦に舶(ふな)泊(はて)し夜に作れる歌二首

集歌3615 和我由恵仁 妹奈氣久良之 風早能 宇良能於伎敝尓 奇里多奈妣家利

訓読 吾(あ)がゆゑに妹嘆くらし風早(かざはや)の浦の沖(おき)辺(へ)に霧たなびけり

私訳 私のために貴女は逢えない悲しみに嘆くらしい、風早の浦の沖合に霧が立ち込め流れて逝く。


集歌3616 於伎都加是 伊多久布伎勢波 和伎毛故我 奈氣伎能奇里尓 安可麻之母能乎

訓読 沖つ風いたく吹きせば吾妹子が嘆きの霧に飽かましものを

私訳 沖に吹く風がもし強く吹くと、私の愛しい貴女の嘆きの霧に飽きるほどしっとり包まれてしまいたい。



安藝國の長門の嶋に舶泊して礒邊に作れる歌五首
 可能性として天平四年七月上旬 大使は従五位下角朝臣家主

 ヒグラシの蝉の鳴き声を集歌3617と集歌3620の歌は詠います。また、集歌3619の歌では「またも相見む秋かたまけて」と詠います。新羅使を送って行く天平四年の遣新羅使は九月頃に帰京することになっていますから、これら全ての歌の世界にピッタリです。

安藝國長門嶋舶泊礒邊作歌五首
標訓 安藝國の長門の嶋に舶(ふな)泊(はて)して礒邊(いそへ)に作れる歌五首

集歌3617 伊波婆之流 多伎毛登杼呂尓 鳴蝉乃 許恵乎之伎氣婆 京師之於毛保由

訓読 石(いは)走る瀧(たき)もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば京し思ほゆ

私訳 巌を流れ落ちる瀧の音がとどくのに、それを越えるように鳴く蝉の声を聞くと奈良の京が思い出されます。
右一首、大石蓑麿
左注 右の一首は、大石蓑麿


集歌3618 夜麻河伯能 伎欲吉可波世尓 安蘇倍杼母 奈良能美夜故波 和須礼可祢都母

訓読 山川の清き川瀬に遊べども奈良の都は忘れかねつも

私訳 山からの川の清い川瀬に風流を楽しんでも奈良の京が忘れられません。


集歌3619 伊蘇乃麻由 多藝都山河 多延受安良婆 麻多母安比見牟 秋加多麻氣弖

訓読 石(いそ)の間(ま)ゆたぎつ山川絶えずあらばまたも相見む秋片巻けて

私訳 石の間に激しく流れる山からの川の水が絶えないのなら、また再び見ましょう。秋が中盤になるころ。


集歌3620 故悲思氣美 奈具左米可祢弖 比具良之能 奈久之麻可氣尓 伊保利須流可母

訓読 恋繁み慰めかねてひぐらしの鳴く島(しま)蔭(かげ)に廬(いほ)りするかも

私訳 貴女を想う恋心が激しいのを慰めることが出来ず、ひぐらしの鳴く島蔭に宿りするでしょう。


集歌3621 和我伊能知乎 奈我刀能之麻能 小松原 伊久与乎倍弖加 可武佐備和多流

訓読 吾(あ)が命を長門の島の小松原(こまつはら)幾代(いくよ)を経てか神さびわたる

私訳 わが命を長くと思う。長門の島の小松原は、どれほどの年月でこれほど神々しくなったのか。



長門の浦より舶出し夜に月の光を仰ぎ觀て作れる歌三首
 可能性として天平四年七月上旬 大使は従五位下角朝臣家主

 集歌3623の歌の月は夕方から夜半前に西の空から沈みます。月齢は五日ぐらいでしょうか。奈良の京からここまでで十日の行程としますと、遣新羅使一行は前月の二十五日頃に出発したことが推定出来ます。すると、一番可能性があるのが、天平四年六月二十六日に奈良の京を出発した角朝臣家主を遣新羅大使とする一行です。ただ、七夕の日ではなかったようです。

従長門浦舶出之夜仰觀月光作歌三首
標訓 長門の浦より舶出し夜に月の光を仰ぎ觀て作れる歌三首

集歌3622 月余美乃 比可里乎伎欲美 由布奈藝尓 加古能己恵欲妣 宇良末許具可聞

訓読 月読(つくよ)みの光りを清み夕なぎに水手(かこ)の声呼び浦廻(うらま)漕ぐかも

私訳 月の光が清らかなので、夕方の凪の中を水手の声を合わせて湊の付近を漕ぐらしい。


集歌3623 山乃波尓 月可多夫氣婆 伊射里須流 安麻能等毛之備 於伎尓奈都佐布

訓読 山の端(は)に月傾けば漁りする海人(あま)の燈火(ともしび)沖になづさふ

私訳 山の端に月が傾くと漁をする海人の灯火が沖の波間に見え隠れする。


集歌3624 和礼乃未夜 欲布祢波許具登 於毛敝礼婆 於伎敝能可多尓 可治能於等須奈里

訓読 吾(あ)れのみや夜船は漕ぐと思へれば沖(おき)辺(へ)の方に楫の音すなり

私訳 我々だけが夜に船を漕ぐと思っていると、沖合に船を漕ぐ楫の音がした。

コメント

遣新羅使歌を鑑賞する 戀の歌三首

2010年01月28日 | 万葉集 雑記
戀の歌三首
 可能性として天平八年二月 大使は従五位下阿倍朝臣継麻呂

 集歌3603の歌の「青楊の枝伐り下ろし斎種蒔き」の詞は、確実に季節を表しています。伊勢皇大神宮での斎種蒔きに相当する祭礼は神田下種祭(しんでんげしゅさい)でしょうか。現在、神田下種祭は新暦四月二日頃に行われていますから、旧暦では二月下旬から三月上旬に相当するでしょうか。ちなみに、天平八年二月二十八日に阿倍朝臣継麻呂に遣新羅大使の任命がありましたが、この日は新暦で四月一日に当たります。この年の豊作を祈願する巫女の姿に、遣新羅大使の職務を無事に果たすことを阿倍継麻呂は祈ったのでしょうか。
 出発前の準備期間での奈良の京の人との相聞でしょうから、京の人も知る登場する地名は姫路の有名な飾磨川のみです。

集歌3603 安乎揚疑能 延太伎里於呂之 湯種蒔 忌忌伎美尓 故非和多流香母

訓読 青楊の枝伐(き)り下ろし斎種(ゆたね)蒔(ま)きゆゆしき君に恋ひわたるかも

私訳 青楊の枝を伐り下ろし木鍬を作り斎種を播く神田下種祭の神事を行う神に仕える貴女に心が引かれます。


集歌3604 妹我素弖 和可礼弖比左尓 奈里奴礼杼 比登比母伊毛乎 和須礼弖於毛倍也

訓読 妹が袖別れて久になりぬれど一日(ひとひ)も妹を忘れて思へや

私訳 貴女との袖を交えることようなことから別れて久しくなりますが、一日も貴女を私が忘れたと思いますか。


集歌3605 和多都美乃 宇美尓伊弖多流 思可麻河伯 多延無日尓許曽 安我故非夜麻米

訓読 わたつみの海に出でたる飾磨(しかま)川(かわ)絶えむ日にこそ吾(あ)が恋やまめ

私訳 渡す海の海神の海に流れ出る飾磨川の水が絶える日が、私が貴女との恋をやめるときです。

右三首、戀歌
左注 右の三首は、戀歌



柿本朝臣人麿の歌六首

 外航航路や難波御津と博多那津とを結ぶ大船は、明石で潮待ちをしても寄港はしなかったようです。ただ沖合を過ぎるのですが、ここでは、石見の海で帰京の途中の海難事故で亡くなられた柿本人麻呂が残した航海に因む歌を思い出して、その霊を慰め、これから航海をする人々の無事を祈ったようです。

集歌3606 多麻藻可流 乎等女乎須疑弖 奈都久佐能 野嶋我左吉尓 伊保里須和礼波

訓読 玉藻刈る乎等女(をとめ)を過ぎて夏草の野島が崎に廬りす吾(わ)れは

私訳 美しい藻を刈る乙女を行き過ぎて夏草の茂る野島の崎に船宿りする我々は。

柿本朝臣人麿歌曰、敏馬乎須疑弖
左注 柿本朝臣人麿の歌に曰はく、敏馬を過ぎて
又曰、布祢知可豆伎奴
左注 また曰はく、舟近づきぬ


集歌3607 之路多倍能 藤江能宇良尓 伊時里須流 安麻等也見良武 多妣由久和礼乎

訓読 白栲の藤江の浦に漁りする海人(あま)とや見らむ旅行く吾(あ)れを

私訳 白栲を造る葛(ふぢ)のその藤江の浦で漁をする海人だろうかと思うだろう。旅を行く私を。

柿本朝臣人麿歌曰、安良多倍乃
左注 柿本朝臣人麿の歌に曰はく、荒栲の
又曰、須受吉都流 安麻登香見良武
左注 また曰はく、鱸釣る海人とか見らむ


集歌3608 安麻射可流 比奈乃奈我道乎 孤悲久礼婆 安可思能門欲里 伊敝乃安多里見由

訓読 天離る鄙の長道を恋ひ来れば明石の門(と)より家のあたり見ゆ

私訳 大和の空から離れた田舎からの長い道を大和の国を恋しく思って帰って来ると明石の海峡から大和の家方向が見えました。

柿本朝臣人麿歌曰、夜麻等思麻見由
左注 柿本朝臣人麿の歌に曰はく、大和島見ゆ


集歌3609 武庫能宇美能 尓波余久安良之 伊射里須流 安麻能都里船 奈美能宇倍由見由

訓読 武庫の海の庭よくあらし漁(いざり)する海人(あま)の釣舟波の上ゆ見ゆ

私訳 武庫の海の海上は穏やからしい。出漁している海人の釣船が波の上を見え隠れして行くのが見える。

柿本朝臣人麿歌曰、氣比乃宇美能
左注 柿本朝臣人麿の歌に曰はく、飼飯の海の
又曰 可里許毛能 美多礼弖出見由 安麻能都里船
左注 また曰はく、刈薦の乱れて出づ見ゆ海人の釣船


集歌3610 安胡乃宇良尓 布奈能里須良牟 乎等女良我 安可毛能須素尓 之保美都良武賀

訓読 安胡の浦に舟乗りすらむ娘子(をとめ)らが赤裳の裾に潮満つらむか

私訳 安胡の浦で遊覧の船乗りをしているだろう官女の人たちの赤い裳の裾に潮の飛沫がかかってすっかり濡れているでしょうか。

柿本朝臣人麿歌曰、安美能宇良
左注 柿本朝臣人麿の歌に曰はく、安美の浦
又曰 多麻母能須蘇尓
左注 また曰はく 珠裳の裾に


七夕歌一首
標訓 七夕の歌一首

集歌3611 於保夫祢尓 麻可治之自奴伎 宇奈波良乎 許藝弖天和多流 月人乎登古

訓読 大船に真舵(まかじき)繁貫(しじぬ)き海原(うなはら)を漕ぎ出て渡る月人(つきひと)壮士(をとこ)

私訳 大船の艫に立派な舵を刺し貫いて海原を漕ぎ出して、天の河を渡る月の船に乗る勇者よ。

右、柿本朝臣人麿歌
左注 右は、柿本朝臣人麿の歌



備後國の水調郡の長井の浦に舶泊し夜に作れる歌三首
 該当不明

 この三首は遣新羅使達の歌かは、疑問があります。集歌3612の歌には大伴旅人の望郷の歌ゆかりの匂いがありますし、集歌3613と集歌3614との歌には柿本人麻呂の羇旅の歌ゆかりの匂いがあります。私は、万葉集の編者である丹比国人のいたずらではないかと疑っています。
 波の荒い外航航路をこれから往く人々に、海の底に潜る意味合いの「沖つ白玉拾ひて行かな」と詠う気持ちがあったでしょうか。あって、地上に足を付けている浜辺の貝ではないでしょうか。

備後國水調郡長井浦舶泊之夜作歌三首

標訓 備後國の水調郡(みつきのこほり)の長井(ながゐ)の浦に舶(ふな)泊(はて)し夜に作れる歌三首

集歌3612 安乎尓与之 奈良能美也故尓 由久比等毛我母 久左麻久良 多妣由久布祢能 登麻利都牙武仁

訓読 あをによし奈良の京に行く人もがも草枕旅行く船の泊(とま)り告げむに

私訳 青丹が宜しい奈良の京に行く人がいてほしい。草を枕にするような旅を行く船の次に泊まる場所を告げるために。

右一首、大判官
左注 右の一首は、大判官


集歌3613 海原乎 夜蘇之麻我久里 伎奴礼杼母 奈良能美也故波 和須礼可祢都母

訓読 海原(うなはら)を八十島(やそしま)隠(かく)り来ぬれども奈良の京は忘れかねつも

私訳 海原を幾つもの島々を過ぎ去った島で重ね隠すようにやって来たが、奈良の京は忘れられないものです。


集歌3614 可敝流散尓 伊母尓見勢武尓 和多都美乃 於伎都白玉 比利比弖由賀奈

訓読 帰るさに妹に見せむにわたつみの沖つ白玉拾ひて行かな

私訳 帰る時には貴女に見せたいと、海神の治める沖にある白玉を海に潜り拾って行こう。
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遣新羅使歌を鑑賞する 秦間満の歌と私の家に還りて思を陳ぶ歌

2010年01月26日 | 万葉集 雑記
秦間満の歌と私の家に還りて思を陳ぶ歌
 可能性として天平四年六月下旬 大使は従五位下角朝臣家主

 ここでの推定の天平四年六月下旬は、集歌3681の歌との関連からです。根拠は集歌3681の歌で紹介します。なお、集歌3589と3590の歌は、連続した情景を詠う秦間満の歌でしょうか。ただ、歌での「伊毛」は「妹」と読むべき人でしょうが、「暫還私家陳思」の左注から想像して、母親、身内の女性達、同居する妻などのどれを示すのかは不明です。

集歌3589 由布佐礼婆 比具良之伎奈久 伊故麻山 古延弖曽安我久流 伊毛我目乎保里

訓読 夕さればひぐらし来鳴く生駒山越えてぞ吾(あ)が来る妹が目を欲り

私訳 役所の仕事も終わり夕暮れになると、ひぐらしがやって来て鳴く生駒山を越えて私が貴女の許へやって来る。貴女に逢いたい一心で。

右一首、秦間満
左注 右の一首は、秦間満


私の家に還りて思を陳ぶ歌一首

集歌3590 伊毛尓安波受 安良婆須敝奈美 伊波祢布牟 伊故麻乃山乎 故延弖曽安我久流

訓読 妹に逢はずあらばすべなみ岩根(いはね)踏む生駒の山を越えてぞ吾(あ)が来る

私訳 貴女に逢えないのならどうしようもない。険しい岩道を踏み越える生駒山を越えて私が貴女の許へやって来る。

右一首、暫還私家陳思
左注 右の一首は、暫(しまし)く私の家に還りて思(おもひ)を陳(の)ぶ



発たむに臨みぬ時に作れる歌三首
 可能性として神亀元年九月上旬 大使は従五位上土師宿禰豊麻呂

 集歌3591と3592の歌の語感から、秋の出立と想像しています。集歌3591の歌の「衣手寒き」の表現が六月、七月でも使う一般的な「心が寒い」比喩ですと、何時の時代の遣新羅使のものかは不明になります。

集歌3591 妹等安里之 時者安礼杼毛 和可礼弖波 許呂母弖佐牟伎 母能尓曽安里家流

訓読 妹とありし時はあれども別れては衣手寒きものにぞありける

私訳 貴女と一緒にいたときは良かったけれど、貴女と離れては衣の袖が寒いことが感じられます。


集歌3592 海原尓 宇伎祢世武夜者 於伎都風 伊多久奈布吉曽 妹毛安良奈久尓

訓読 海原(うなはら)に浮寝せむ夜は沖つ風いたくな吹きそ妹もあらなくに

私訳 海原に浮寝する夜は沖の風をそんなに強く吹くな。寒さを忘れさせる愛しい貴女がいないのだから。


集歌3593 大伴能 美津尓布奈能里 許藝出而者 伊都礼乃思麻尓 伊保里世武和礼

訓読 大伴の御津(みつ)に船乗り漕ぎ出てはいづれの島に廬(いほ)りせむ吾(わ)れ

私訳 大伴の御津から船に乗り漕ぎ出して、次はどこにの島に停泊するのだろうか。我々は。

右三首、臨發之時作歌
左注 右の三首は、發(た)たむに臨(のぞ)みぬ時に作れる歌


船に乗りて海に入り路の上にして作れる謌八首
 可能性として神亀元年九月上旬 大使は従五位上土師宿禰豊麻呂

 集歌3595の歌は詠います。遣新羅使の乗る船が往く武庫の浦の潮干の潟に鶴が鳴いていると。また、集歌3598の歌では玉の浦で鶴が餌を探ると詠っています。一方、集歌3598の歌では「ぬばたまの夜は明けぬ」であり、集歌3599の歌では「月読の光りを清み」と詠いますから、月齢七,八日でしょうか。ここらから、「船に乗りて海に入り路の上にして作れる謌八首」が詠う季節は秋深まる月初めと推定します。そうとすると、天平八年四月に奈良の京を出発した遣新羅使ではありません。可能性は神亀元年八月二十一日に遣新羅大使を拝命した従五位上土師宿禰豊麻呂の一行です。

集歌3594 之保麻都等 安里家流布祢乎 思良受之弖 久夜之久妹乎 和可礼伎尓家利

訓読 潮待つとありける船を知らずして悔(くや)しく妹を別れ来にけり

私訳 船出に都合の良い潮時を待って停船していると知らないで、残念なことに貴女と別れて来たことだ。


集歌3595 安佐妣良伎 許藝弖天久礼婆 牟故能宇良能 之保非能可多尓 多豆我許恵須毛

訓読 朝開き漕ぎ出て来れば武庫の浦の潮干(しほひ)の潟に鶴(たづ)が声すも

私訳 朝が明けるのを待って船を漕ぎ出てくると、武庫の浦の潮の干いた潟に鶴の声がする。


集歌3596 和伎母故我 可多美尓見牟乎 印南都麻 之良奈美多加弥 与曽尓可母美牟

訓読 吾妹子が形見に見むを印南(いなみ)都麻(つま)白波高み外(よそ)にかも見む

私訳 私の愛しい貴女の形見にしようと、近くで見たいのに妻の名の付く印南都麻は白波が高いので遠く沖合から見ましょう。


集歌3597 和多都美能 於伎津之良奈美 多知久良思 安麻乎等女等母 思麻我久礼見由

訓読 わたつみの沖つ白波立ち来らし海人(あま)娘子(をとめ)ども島(しま)隠(かく)る見ゆ

私訳 渡す海の海神の治める沖に白波が立って来るらしい。海人少女たちが乗る船が島影に隠れて行くのが見える。


集歌3598 奴波多麻能 欲波安氣奴良之 多麻能宇良尓 安佐里須流多豆 奈伎和多流奈里

訓読 ぬばたまの夜は明けぬらし玉の浦にあさりする鶴(たづ)鳴き渡るなり

私訳 漆黒の夜は明けるらしい。玉の浦で餌を探す鶴の啼き声が響き渡る。


集歌3599 月余美能 比可里乎伎欲美 神嶋乃 伊素末乃宇良由 船出須和礼波

訓読 月読(つくよみ)の光りを清み神島の礒廻(いそま)の浦ゆ船出す吾(わ)れは

私訳 月の光が清らかなので、(広島県福山市の)神島の磯廻の湊から船出をする。私たちは。


集歌3600 波奈礼蘇尓 多弖流牟漏能木 宇多我多毛 比左之伎時乎 須疑尓家流香母

訓読 離れ礒(いそ)に立てるむろの木うたがたも久しき時を過ぎにけるかも

私訳 離れ磯に立っている神が依ると云うムロの木は、まこと、長い年月を過ぎて来たのだな。


集歌3601 之麻思久母 比等利安里宇流 毛能尓安礼也 之麻能牟漏能木 波奈礼弖安流良武

訓読 しましくもひとりありうるものにあれや島のむろの木離れてあるらむ

私訳 暫くの間も、独りでいることが出来るのだろうか。島のムロの木がひとり離れてあるのだろう。

右八首、乗船入海路上作謌
左注 右の八首は、船に乗りて海に入り路の上にして作れる謌


雲を詠う歌一首

集歌3602 安乎尓余志 奈良能美夜古尓 多奈妣家流 安麻能之良久毛 見礼杼安可奴加毛

訓読 あをによし奈良の宮にたなびける天の白雲見れど飽かぬかも

私訳 青葉が照り輝く奈良の京にまで棚引く天の白雲は、いつ見ても飽きないものです。

右一首、詠雲
左注 右の一首は、雲を詠う

コメント

遣新羅使歌を鑑賞する 遣新羅使歌を楽しむ

2010年01月24日 | 万葉集 雑記
遣新羅使歌を楽しむ

 遣新羅使歌とは、万葉集の目録に記すように天平八年単独の遣新羅使の歌を集めたものなのでしょうか、それとも、複数回の遣新羅使たちが詠った歌を集めて編集したものなのでしょうか。例えば、博多の筑紫舘のある那津で七夕を詠うのですと天平四年の遣新羅使の日程が相応しくなりますし、壱岐の島で往路での黄葉を詠うのですと神亀元年の遣新羅使の日程が相応しくなります。
 万葉集の本文での標は、次に示すように「遣新羅使人等」の歌です。万葉集には「天平八年丙子夏六月、遣新羅国之時」と云う言葉はどこにもないことを了解されて、普段の解説では「天平八年丙子夏六月、遣新羅国之時」の枠に縛られて決して取り上げることが出来ない、万葉集の歌々を和歌として純粋に季節や風景を想像して、遣新羅使歌を楽しんでいただけたらと思います。そして、多くの遣新羅使の中で、天平四年の遣新羅使は、聖武天皇の即位の大礼に出席した新羅大使を送る役務ですから、道中に新羅大使一行と風流を行うのも遣新羅大使の大切な仕事です。
 また、次に示す標の言葉が示すように「古き歌」は、万葉集の編纂者が編纂で取り込んだ遣新羅使が詠った歌とは違う旅情です。明石であれば人麻呂の羇旅歌八首が必要ですし、備後國水調郡長井浦付近を航行するならば大伴旅人の「鞆浦を過ぎし日」の歌は外せません。

遣新羅使人等悲別贈答及海路慟情陳思。并當所誦之古歌

標訓 新羅に遣(つか)はされし使ひ人等(たち)の、別れを悲(かな)しびて贈答し、また海路(うなぢ)にして情(こころ)を慟(いた)ましめる思(おも)ひを陳(の)べたる。并せて所に當りて誦(うた)へる古き歌

 参考までに、続日本紀には次のような一節があります。新羅外交は長屋王の得意とするところですが、長屋王の変以降は大和と新羅の交流は急速に衰えます。天平八年の遣新羅使は新羅の無礼を報告しますし、天平十二年の遣新羅使は藤原冬嗣の乱の最中の派遣です。そして、それ以降はお互いが使節団の謁見を拒否するような状況となってしまいます。

神亀三年(726)七月戊子(13)の記事
秋七月戊子、金奏勲等帰国。賜璽書曰、勅伊食金順貞。汝、卿安撫彼境、忠事我朝。貢調使薩食金奏勲等奏称、順貞以去年六月卅日卒。哀哉。賢臣守国、為朕股肱。今也則亡、殲我吉士。故贈賻物黄紡一百疋・綿百屯、不遺爾績、式獎遊魂。

訓読 秋七月戊子に、金奏勲等帰国す。璽書(じしょ)を賜(たま)はらして曰(いは)く「伊食(いっきん)金順貞に勅(みことのり)す。汝、卿は彼(か)の境を安撫し、我(わが)朝(みかど)に忠事なり。貢調使(みつぐつかひ)薩食(さっきん)金奏勲等の奏(そう)して称(いは)く『順貞は去年六月卅日に卒(みまか)れし』と云う。哀しいかな。賢臣の国を守り、朕の股肱と為(な)れり。今は則ち亡(なく)せ、我(わが)吉(よ)き士(をのこ)を殲(う)せり。故に賻物(はぶりもの)の黄紡(あしきぬ)一百疋・綿百屯を贈りて、爾(ここ)に績(いさを)を遺(わす)れず、遊魂の式(のり)を獎(たす)けむ」と。

 万葉集は天平から天平勝宝年間の朝廷での文化の主流が大和歌から漢文・漢詩の時代への転換期に編纂されましたが、同様にこの遣新羅使歌は、大和と新羅との交流が途絶えつつある時代を反映しての過去の交流を振り返るものなのかもしれません。
 遣新羅使歌が過去を振り返るものですと、過去での遣新羅使達の経験したことやその場で詠った歌の集大成になるでしょう。それならば、百四十五首でも語り足りないと思います。そんな可能性を踏まえて、遣新羅使歌を楽しんでみてください。私の感覚では、複数回の遣新羅使達の歌々であり、対新羅外交への挽歌です。
 雑談として、万葉集の遣新羅使歌から古代瀬戸内海の航路や旅程を研究されている御方は多いと思いますが、ここで指摘したことも、その可能性があるとして検討課題に取り入れていただければ幸いです。遣新羅使歌が複数回の遣新羅使の歌の集合である場合は、現在、専門家の肩書を付けて公表されている多くの古代瀬戸内海の航路の研究成果は、その前提条件自体が存在しなくなりますので残念なことになります。やはり、一度の航海とすると、和歌として季節感に矛盾のある遣新羅使歌から推定した当時の旅程より、学問的には話題性は無くなりますが日本書紀、続日本紀や延喜式から導き出される公式の旅程に戻るべきではないでしょうか。



贈答の歌十一首
可能性として天平四年六月下旬 大使は従五位下角朝臣家主

 遣新羅使は公式の外交団です。その奈良の京を出発する時点で、おおよその帰国の時期が決まっています。それを前提として歌を鑑賞してください。
 そうすると、集歌3581の歌の「秋さらば相見むものを」や集歌3586の歌の「秋風の吹かむその月逢はむ」の意味が十分に理解出来るのではないでしょうか。こうしたとき、天平四年の遣新羅使は八月頃に帰国を予定しての旅立ちであったことが、不思議に万葉集の歌々と符号します。
 なお、この贈答は若い男女の相聞歌の関係にあり、最初は身分ある片思いの男からのプロポーズです。それを女が受け入れ、互いの衣を交換する仲になって行きます。恋愛の相聞歌としては、妹から吾妹子への変化を楽しんでください。
 ここで、この推定が成り立つと万葉集の研究では事件です。そして、これがおっちゃんの万葉集です。


集歌3578 武庫能浦乃 伊里江能渚鳥 羽具久毛流 伎美乎波奈礼弖 古非尓之奴倍之

訓読 武庫の浦の入江の渚鳥(すどり)羽ぐくもる君を離れて恋に死ぬべし

私訳 武庫の浦の入江の渚に巣を作る渚鳥が雛を羽で隠すように、家に籠っている貴女から離れてしますと、恋しくて死んでしまうでしょう。


集歌3579 大船尓 伊母能流母能尓 安良麻勢波 羽具久美母知弖 由可麻之母能乎

訓読 大船に妹乗るものにあらませば羽(は)ぐくみ持ちて行かましものを

私訳 大船に貴女が乗れるものでしたら親鳥が雛を羽で隠すように、連れて行きたいものです。


集歌3580 君之由久 海邊乃夜杼尓 奇里多々婆 安我多知奈氣久 伊伎等之理麻勢

訓読 君が行く海辺(うみへ)の宿に霧立たば吾(あ)が立ち嘆く息(いき)と知りませ

私訳 貴方が行く海辺の宿に霧が立ったならば、それは私が嘆くため息と思って下さい。


集歌3581 秋佐良婆 安比見牟毛能乎 奈尓之可母 奇里尓多都倍久 奈氣伎之麻佐牟

訓読 秋さらば相見むものを何しかも霧に立つべく嘆きしまさむ

私訳 秋になったらまた互いに逢うことが出来るのに、どうして霧が立ち込めるようなため息となる深い嘆きをなさるのですか。


集歌3582 大船乎 安流美尓伊太之 伊麻須君 都追牟許等奈久 波也可敝里麻勢

訓読 大船を荒海(あるみ)に出だしいます君障(つつ)むことなく早帰りませ

私訳 大船で荒海を漕ぎ出される貴方。無事で早く帰って来て下さい。


集歌3583 真幸而 伊毛我伊波伴伐 於伎都奈美 知敝尓多都等母 佐波里安良米也母

訓読 ま幸くて妹が斎(いは)はば沖つ波千重に立つとも障(さは)りあらめやも

私訳 ご無事でと、貴女が私を祈ってくれるのですと、沖に波が千重も立ったとしても航海の障害となるでしょうか。


集歌3584 和可礼奈波 宇良我奈之家武 安我許呂母 之多尓乎伎麻勢 多太尓安布麻弖尓

訓読 別れなばうら悲しけむ吾(あ)が衣下にを着ませ直に逢ふまでに

私訳 別れたら、どれほど悲しいでしょう。私の衣を服の下に来て下さい。直接、また逢う日まで。


集歌3585 和伎母故我 之多尓毛伎余等 於久理多流 許呂母能比毛乎 安礼等可米也母

訓読 吾妹子が下にも着よと贈りたる衣の紐を吾(あ)れ解かめやも

私訳 私の愛しい貴女が、服の下に着てくださいと贈ってくれた衣の紐を私が解くことはありません。


集歌3586 和我由恵尓 於毛比奈夜勢曽 秋風能 布可武曽能都奇 安波牟母能由恵

訓読 吾(あ)がゆゑに思ひな痩せそ秋風の吹かむその月逢はむものゆゑ

私訳 私のために想い悩んで痩せないでください。秋風の吹くころの、その月にはまた逢えるもですから。


集歌3587 多久夫須麻 新羅邊伊麻須 伎美我目乎 家布可安須可登 伊波比弖麻多牟

訓読 栲(たく)衾(ふすま)新羅(しらぎ)へいます君が目を今日か明日かと斎(いは)ひて待たむ

私訳 白い栲衾の言葉のような新羅へ行かれる貴方に私の姿を直接に見ていただけるのは、今日か明日かと祈って待っています。


集歌3588 波呂波呂尓 於母保由流可母 之可礼杼毛 異情乎 安我毛波奈久尓

訓読 はろはろに思ほゆるかもしかれども異(け)しき心を吾(あ)が思はなくに

私訳 離れていると波が寄せ来るように何度も何度も貴女は物思いをするかも知れませんが、旅先の新羅美人に心を寄せるような気持を私は持っていません。

右十一首、贈答
左注 右の十一首は、贈答
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遣新羅使歌を鑑賞する

2010年01月22日 | 万葉集 雑記
遣新羅使歌を鑑賞する 

 最初にお願いとして、
 ブログに掲載するものは、ルビや表記が崩れて、大変に読みにくくなっています。Livedoor Wikiに「おっちゃんの万葉集」として同文のPDFファイルをUpしていますので、興味がある方は参照ください。http://wiki.livedoor.jp/dokatakayo/
 また、毎度のことですが、これは、原文・訓読み・私訳のセットで記述してあり、「いかにも」の形をしていますが、あくまでも、偽物や社会の規則が判る大人の読み物としてのものです。「いかにも」の形をしていても勉学には一切使えないものですので、学生・生徒の方は参照やコピペをしないように、お願いします。なお、使う原文は西本願寺本に従っていて、相違はそれぞれの所で説明していますが、現在の訓読み万葉集の基となる標準的な古典体系での万葉集原文表記とは違っていますし、それにより解釈が違います。ここも、学生・生徒の方が参照するに向かない理由です。
 この「遣新羅使歌を鑑賞する」では、季節感が重要な要素となっています。そのために、確認しますが、ここで紹介する日付は旧暦です。それも、旧暦1、2、3月を春、4、5、6月を夏、7、8、9月を秋、10、11、12月を冬とする季節感です。新暦での月による季節感とは違いますので、ご理解ください。



万葉集の目録を疑う

 この万葉集に載る遣新羅使歌は、全百四十五首からなる膨大な歌群です。その膨大な歌群ですが、現在に至るまで、この全百四十五首からなる膨大な歌群を万葉集の載せた意味合いすら解明されていませんし、何時の時代の遣新羅使歌なのかも、解明されていません。それに、古歌が一字一音の万葉仮名表記に書き換えられていることから、編纂には何らかの意図があったはずです。それらの意図は何なのでしょうか。一応、万葉集に載る遣新羅使歌は、紀貫之等による推定からの万葉集の目録において天平八年六月の遣新羅使の歌であろうとされていますが、さて、そうでしょうか。そこで、最初に遣新羅使歌についての前提条件を確認します。
 遣新羅使歌について、万葉集巻十五の目録は、次のような表記になっています。

「天平八年丙子夏六月、遣新羅国之時、使人等各悲別贈答、及海路之上慟旅陳思作歌。并当所誦詠古歌」

 ここから、私たちは万葉集巻十五の本文の最初に記述している次の文章を、

「遣新羅使人等悲別贈答、及海路慟情陳思、并當所誦之古歌」

目録の表記に従って、普段の解説では「天平八年六月の遣新羅使の歌」と推定して解釈することになっています。
 ところで、万葉集は非常に特殊な書物で、本来は一体であるべき本文と目次に相当する目録は、目録に「万葉集」と記すように、その成立時代は別々です。そのため、万葉集の研究において「万葉集の目録」の成立時期とその作成者を推定すること自体が学問の一分野になっていて、万葉集の目次であるはずの「万葉集の目録」が正しく万葉集を表わしているのか、どうかを研究します。つまり、「万葉集」と「万葉集の目録」は、別々の書物なのです。
 現況では、おおむね、万葉集の目録は平安期以降に万葉集を研究した人物が便宜上に造ったものではないかとされています。従って、万葉集の本文ではなく「目録」を引用する場合は、引用者がその目録の表記が正しいか、どうかを検証することになっていて、普段の私たちは無条件には万葉集の目録の記載を引用しないのがルールです。
 この万葉集を鑑賞するルールからすると、この遣新羅使歌では本文と目録との差である「天平八年丙子夏六月、遣新羅国之時」の追記が正しいか、どうかを検証しないといけないことになります。およそ、この目録の「天平八年丙子夏六月、遣新羅国之時」は、古今和歌集の序から推定して万葉集の目録を作ったと思われる紀貫之等の研究の成果であって、確定した事実かどうかは不明です。

 この万葉集の目録の記述から憶測するに、紀貫之等の理解では「遣新羅使歌」とは続日本紀に載る天平八年四月十七日に奈良の京を出発した阿倍継麻呂を大使とする遣新羅使の歌と思われますが、ここで、すでに万葉集の目録と続日本紀とに載る日程では二か月の違いがあります。そうした場合、続日本紀によると、その一行は翌年の天平九年正月二十七日に新羅から帰国、入京をしています。そして、同時に、その遣新羅使の使いの間に大使阿倍継麻呂は津島(対馬)で病没し、副使の大伴三仲は病気に感染してすぐに入京が出来なかったと記録にあります。
 さらに、万葉集に載る遣新羅使歌を読むとき、続日本紀を前提にするととても不思議になります。正史では阿倍継麻呂の遣新羅大使への任命は二月二十八日で、出発の報告の拝謁が四月十七日ですから、どんなに遅くても難波の大伴の御津を四月中には出発しています。ところが二か月以上経った七月七日はまだ筑紫の志賀島か荒津の津です。一体、彼らは瀬戸内海のどこで何をしていたのでしょうか、奈良時代からの優れた海上交通網が衰退した平安時代の延喜式の規定でも、旅程十五日で難波の大伴の御津から筑紫の内陸に当たる大宰府に到着することになっています。では遣新羅使の彼らは旅の道中で公務を放棄して風流に遊んでいたのでしょうか、日本国内で船の調達と修繕は遣新羅使の職務ではありませんから、船に故障があった場合は太政官布で中止か延期の決定がなされます。正史にはそんな記録はなく、大使の病死があったためか例年の日程よりやや遅い翌年の天平九年正月二十七日の帰京です。通常、遣新羅使は任官から役務を果たし帰京まで、およそ六か月です。つまり、滞在先の日程を考えると奈良の京から新羅の京の金城(慶州)まで片道二か月ほどです。天平八年の例を採ると、七月中に金城(慶州)に到着し、十月中にその金城(慶州)を出発する日程が推定出来ます。一体、万葉集に載る遣新羅使歌の内容は、事実なのでしょうか、それとも事実を元にした意図のある歌物語なのでしょうか。推定するに、紀貫之等はこの日程の矛盾が判っていて、奈良の京の出発を四月十七日としますが、日程の矛盾を解消するために「万葉集の目録」で、難波の大伴の御津からの船出を六月まで遅らせたのでしょう。その苦肉の策を施しても、まだ、日程の矛盾は残ります。
 歴史を見るとき、本来ですと天平八年の遣新羅使の日程では、壱岐・対馬は往路には盛夏に、帰路には晩秋・初冬に通過するはずなのですが、この遣新羅使歌では往路の壱岐・対馬を通過したのは、黄葉の美しい旧暦十月です。さて、遣新羅使一行は、筑紫国志摩の津あたりで旧暦の七夕を楽しんだあと三か月を筑紫で何をしていたのでしょうか。それに、この日程で本当に新羅の京の金城(慶州)まで行ったのでしょうか。続日本紀の記事によると、この度の遣新羅使は新羅の無礼により新羅の外交を司る相手に会っていないと報告しています。これを受け、朝廷は新羅征伐の是非を臣下団に問いますが、このとき、天然痘が大流行して藤原宇合や藤原武智麿が死に、藤原氏に代表される百済王家に肩入れする新羅強行派は勢力を失い、対新羅外交は従来の友好関係に戻ります。しかし、大和・新羅においては、旧来の友好関係に問題が生じるような大和からの新たな要求があったと推定される、それほどに重大な遣新羅使だったのです。
 さらに万葉集の目録に記載する天平八年の年代を真に受けると、正史では遣新羅使大使の阿倍継麻呂は津島(対馬)で病没したことになっているにかかわらず、万葉集の左注から推定して大使の二男が同行しているのですが、遣新羅使歌では壱岐で正体不明の雪宅満の病没を悼みますが、肝心の大使である阿倍継麻呂の死亡は一切無視されています。同様に、万葉集には病気で苦しむ副使の大伴三仲の姿もまたありませんし、その大伴三仲もまた、副使と云う名での歌への登場以外はありません。つまり、遣新羅使歌では直接に遣新羅副使の大伴三仲は登場しません。そして、肝心の大使の阿倍継麻呂自身、遣新羅使歌では大使の称号以外には登場しません。つまり、遣新羅使歌に名が載る人々で、その名は世間にありそうですが、史実に名が残る人物は一切登場しない不思議な遣新羅使歌なのです。こんな不思議な万葉集での遣新羅使歌の存在理由は何なのでしょうか。

 また、当時の瀬戸内海航路は、遣唐使・遣新羅使の使う大船や筑紫からの大船は筑紫から難波に至るには長門の穴門を抜けると、現在の山口県防府市に当たる周防国中関で補給したあと周防灘・燧灘・播磨灘を抜け播磨国明石まで一気に東進します。また、記録が存在する天平十年の防人の東国への帰国では、筑紫国那津を出港した後で周防国中関に立ち寄り備前国児島までの食糧十日分を支給されています。ここから、筑紫・難波間の行程は、筑紫那津・周防国中関・備前国児島・播磨国明石・難波津の航路であったことが判りますし、食糧支給規定から兵員輸送船でも約二十日程度の日程であったことが推定できます。それ故、延喜式に見るように奈良の京から筑紫大宰府までの公定の旅程が十五日(下り)であり、二十八日(上り)なのです。
 少し古い記事ですが、天武天皇の時代に天武十年(681)十二月十日に飛鳥浄御原宮から小錦下河辺臣子首を筑紫に新羅使者への饗応役として派遣して、その饗応の宴が開かれたのは天武十一年正月十一日です。つまり、その日程は、饗応の宴の打ち合わせ期日を考えますと、およそ二十五日以下です。約五十年後の天平八年(736)の段階で飛鳥時代より交通網が日程において二倍以上に伸びるほど衰退しているとは思えません。史実では、古代の瀬戸内海航路の最盛期は、その十年後の天平勝宝年間の東大寺大仏殿の建立時期となっています。
参考に、天平八年前後の遣新羅使の日程は次のようになっています。

遣新羅大使任命      大和出発      大和帰国      遣新羅大使
養老三年 七月二十一日 八月八日      不明      白猪史広成
養老六年 五月十日     五月二十九日 十二月二十三日 津史主治麻呂
神亀元年 八月二十一日 不明     翌年五月二十三日 土師宿禰豊麻呂
天平四年 正月二十日 六月二十六日 八月十一日 角朝臣家主
天平八年 二月二十八日 四月十七日 翌年正月二十七日 阿倍朝臣継麻呂
天平十二年 三月十五日 四月二日     十月十五日      紀朝臣必登

 この天平四年の遣新羅使は、同年の聖武天皇即位の儀礼に招待された新羅使を本国まで送り届けるのが職務の特別な遣新羅使であったために、異例の二か月足らずの旅程です。逆に新羅国での国事の儀礼がない場合は、奈良の京から新羅の京(または、朝鮮半島の沿岸)までの往復は二か月もあれば足りることが判ります。万葉集の本文での「遣新羅使歌」が、歌の内容から天平八年の遣新羅使であったかどうかは不明ですし、ただ、確実なことは「万葉集の目録」に記した天平八年六月の日付は、正史には見られないものです。
 ちなみに、遣新羅使歌から読み取れる日本を離れるまでに船泊まりする場所は、次の所です。

大伴御津        大阪府大阪市東区西心斎橋
備後國水調郡長井浦    広島県三原市糸崎
安藝國風速浦    広島県東広島市安芸津三津
安藝國長門嶋    広島県呉市倉橋島内
周防国熊毛浦    山口県光市室積付近
豊前國下毛郡分間浦(暴風による避難) 大分県中津市今津(暴風避難の為、非順路)
筑紫舘          福岡県福岡市中央区福岡城跡
筑前國志麻郡之韓亭(風待ち) 福岡県福岡市西区宮浦唐泊崎(風待ち)
筑前國引津亭(荒天避難) 福岡県糸島郡志摩町船越(荒天避難)
肥前國松浦郡狛嶋亭      佐賀県唐津市神集島
壹岐嶋          長崎県壱岐市芦辺
對馬嶋淺茅浦(風待ち) 長崎県対馬市美津島町浅茅湾口(風待ち)
竹敷浦          長崎県対馬市美津島町竹敷

 普段の文学的な思いを基準とする解説は除いて、史実や律令の規定から導き出される学問としての遣新羅使の本来の旅行日程は、次に示す集歌3718の歌の標の、

廻来筑紫海路入京到播磨國家嶋之時作歌五首
標訓 筑紫より廻(まは)り来りて海路(うなぢ)より京(みやこ)に入らむとし、播磨國の家嶋に到りし時に作れる歌五首

が本来なのでしょう。筑紫から播磨灘の播磨國の家嶋諸島まで瀬戸内海を直接に定期船が往航するために、旅の旅情にもならず歌の題材にもならない、実にそっけない実務の世界です。あって、明石海峡での潮待ちで見る茅渟の海に浮かぶ大和島の姿です。
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