竹取翁と万葉集のお勉強

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新選万葉集 その和歌表記の特殊性

2023年12月31日 | 万葉集 雑記
新選万葉集 その和歌表記の特殊性

 知っている人は知っているの、和歌のあるあるの話で、古典和歌の表記スタイルの問題があります。古典和歌の表記スタイルは、奈良時代中期 大伴家持が中年期となる万葉集晩期以降から平安時代中期の紫式部たちが活躍した拾遺和歌集の時代、漢字に借音した一字一音の万葉仮名で表記します。

1)万葉集後期
原文 之奇志麻乃 夜末等能久尓々 安伎良氣伎 名尓於布等毛能乎 己許呂都刀米与
和歌 しきしまの やまとのくにに あきらけき なにおふとものを こころつとめよ
2)古今和歌集
原文 止之乃宇知尓 者留者幾尓个利 比止々世遠 己曽止也以者武 己止之止也以者武
和歌 としのうちに はるはきにけり ひとゝせを こそとやいはむ ことしとやいはむ
3)後撰和歌集
原文 布累由幾乃 美能之呂己呂毛 宇知幾川々 者留幾尓个利止 於止呂可礼奴留
和歌 ふるゆきの みのしろころも うちきつつ はるきにけりと おとろかれぬる
4)拾遺和歌集
原文 者累堂川止 以不者可利尓也 三与之乃々 也万毛加寸美天 計左者美由良无
和歌 はるたつと いふはかりにや みよしのの やまもかすみて けさはみゆらむ

 このように紹介しましたが、実際に目にする和歌は次のような区切りを持たずに二行書きで、それも、かな連綿表記で表しますから、一定の学習をしないと読めませんし、意味も分からないものです。それで鎌倉時代初頭には古典和歌を翻訳して漢字交じり平仮名で表記するようになります。この翻訳の第一人者が藤原定家で、それ以降では古典和歌本来のものを棄てて、藤原定家の翻訳した漢字交じり平仮名で表記されたものを聖典とするようになります。古今和歌集ですと古今伝授と言う相伝和歌道へと発展します。

古今和歌集 歌番1
<一字一音万葉仮名>
止之乃宇知尓者留者幾尓个利比止々世遠
己曽止也以者武己止之止也以者武
<漢字交じり平仮名>
年の内に春は来にけり一年を
去年とや言はむ今年とや言はむ

 ここで、和歌表記スタイルを万葉集の時代に戻しますと、万葉集では次のようなおおむね四つのスタイルがあります。詩体歌には日本語の「てにをは」となる借音漢字を持たず、常体歌は語を示す漢字に日本語の「てにをは」となる借音漢字を持ちます。非詩体歌は一部に「てにをは」となる借音漢字を持ちます。

1)詩体歌
出見 向岡 本繁 開在花 不成不在
出でて見る向かひの丘に本(もと)繁く咲きたる花の成らすは止まし
2)非詩体歌
今造 斑衣服 面就 吾尓所念 未服友
今造る斑(まらた)の衣(ころも)面影(おもかけ)に吾にそ念(おも)ふいまた服(き)ねとも
3)常体歌
黄葉之 落去奈倍尓 玉梓之 使乎見者 相日所念
黄葉(もみちは)の、散りゆくなへに玉梓(たまつさ)の、使(つかひ)を見れは逢ひし日思ほゆ
4)一字一音万葉仮名歌
伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陀飛那久尓
妹か見し楝の花は散りぬへし我か泣く涙いまた干なくに

 この平安初期の段階での和歌表記の状況を想像しながら、新選万葉集の和歌表記を眺めてします。なお、序に「先生、非啻賞倭歌之佳麗、兼亦綴一絶之詩、插數首之左。(先生、啻(ただ)、倭歌の佳麗を賞(めで)るのみにあらず、兼ねて亦(また)一絶の詩を綴り、數首を左に插(はさ)む。)」の一文がありますから、新選万葉集の和歌は新選万葉集のために新たに創られた和歌ではなく、既に詠われ知られていた和歌を基に、漢詩だけを創作したことになっています。その既に詠われ知られていた和歌の多くは寛平御時皇后宮歌合から取られています。

寛平御時皇后宮歌合 歌番1
和歌 はなのかを かせのたよりに たくへてそ うくひすさそふ しるへにはやる
推定 者奈乃可遠 可世乃多与利尓 多久部天曾 宇久比寸左曾布 之留部尓者也留
新選万葉集 歌番6 紀友則
漢詩 頻遣花香遠近賒 家家處處匣中加 黄鶯出谷無媒介 唯可梅風為指斗
読下 頻るに花の香を遣はして遠近賒(はる)かにして、家家處處匣中(こうちゅう)に加ふ、黄鶯谷より出るに媒介無く、唯だ梅風を指斗(しるべ)と為すべし。
和歌 花之香緒 風之便丹 交倍手曾 鶯倡 指南庭遣
読下 はなのかを かせのたよりに たくへてそ うくひすさそふ しるへにはやる
解釈 咲き匂う梅の香りを風の便りに添えて、鶯を誘い出す案内役として遣わせる。

寛平御時皇后宮歌合 歌番2
和歌 たにかせに とくるこほりの ひまことに うちいつるなみや はるのはつはな
推定 多尓可世尓 止久留己保利乃 飛満己止尓 宇知以川留奈美也 者留乃者川者奈
新選万葉集 歌番120 源當純
漢詩 溪風催春解凍半 白波洗岸為明鏡 初日含丹色欲開 咲殺蘇少家梅柳
読下 溪の風は春を催し凍(こほり)を解すこと半、白波は岸を洗ひて明鏡と為す、初日、丹を含みて色(はな)は開(さ)くを欲し、咲くは殺(はなはだ)し、蘇少が家の梅柳。
和歌 谷風丹 解凍之 毎隙丹 打出留浪哉 春之初花
読下 たにかせに とくるこほりの ひまことに うちいつるなみや はるのはつはな
解釈 谷間を吹く風により融ける氷の間ごとに、流れ出る水の波しぶきが春の最初の花であろうか。

寛平御時皇后宮歌合 歌番3
和歌 ちるとみて あるへきものを うめのはな うたてにほひの そてにとまれる
推定 知留止美天 安留部幾毛乃遠 宇女乃者奈 宇多天尓保比乃 曾天尓止満礼留
新選万葉集 歌番2 素性法師
漢詩 春風觸處物皆楽 上苑梅花開也落 淑女偷攀堪作簪 残香勾袖拂難卻
読下 春風は處の物に觸れ皆楽しく、上苑の梅花は開(さ)きて落(ち)り、淑女は偷(ひそやか)に攀りて簪を作すに堪(もち)ひ、残香は袖に勾ひて拂へども卻(のぞ)き難たし。
和歌 散砥見手 可有物緒 梅之花 別樣匂之 袖丹駐禮留
読下 ちるとみて あるへきものを うめのはな うたてにほひの そてにとまれる
解釈 花が散ってしまうと眺めて、散り終わってしまうべきなのに、梅の花は、余計なことに思いを残すその匂いが袖に残り香となって残っている。

寛平御時皇后宮歌合 歌番4
和歌 こゑたえす なけやうくひす ひととせに ふたたひとたに くへきはるかは
推定 己恵多衣寸 奈計也宇久比寸 飛止々世尓 不多々比止多尓 久部幾者留可者
歌番121 藤原興風
漢詩 黄鶯一年一般啼 歳月積逢數般春 可憐萬秋鶯音希 應認年客更来往
読下 黄鶯は一年に一(ひとたび)般(めぐら)して啼き、歳月を積み數(あまた)の般(めぐ)る春に逢ふ、憐れむべし萬秋の鶯の音(ね)の希れなるを、應(まさ)に認(ゆる)すべし、年客の更に来往するを。
和歌 音不斷 鳴哉鶯 一年丹 再砥谷 可来春革
読下 こゑたえす なけやうくひす ひととせに ふたたひとたに くへきはるかは
解釈 声が絶えないように鳴き続けよ、鶯よ、一年に二度とは来ない春なのだから。

 ここで推定の借音一字一音和歌と新選万葉集の和歌を並べてみますと次の通りです。

寛平御時皇后宮歌合と新選万葉集との比較
寛平御時皇后宮歌合 歌番1
歌合 者奈乃可遠 可世乃多与利尓 多久部天曾 宇久比寸左曾布 之留部尓者也留
新選 花之香緒 風之便丹 交倍手曾 鶯倡 指南庭遣
漢詩 頻遣花香遠近賒 家家處處匣中加 黄鶯出谷無媒介 唯可梅風為指斗
読下 はなのかを かせのたよりに たくへてそ うくひすさそふ しるへにはやる

寛平御時皇后宮歌合 歌番2
歌合 多尓可世尓 止久留己保利乃 飛満己止尓 宇知以川留奈美也 者留乃者川者奈
新選 谷風丹 解凍之 毎隙丹 打出留浪哉 春之初花
漢詩 溪風催春解凍半 白波洗岸為明鏡 初日含丹色欲開 咲殺蘇少家梅柳
読下 たにかせに とくるこほりの ひまことに うちいつるなみや はるのはつはな

寛平御時皇后宮歌合 歌番3
歌合 知留止美天 安留部幾毛乃遠 宇女乃者奈 宇多天尓保比乃 曾天尓止満礼留
新選 散砥見手 可有物緒 梅之花 別樣匂之 袖丹駐禮留
漢詩 春風觸處物皆楽 上苑梅花開也落 淑女偷攀堪作簪 残香勾袖拂難卻
読下 ちるとみて あるへきものを うめのはな うたてにほひの そてにとまれる

寛平御時皇后宮歌合 歌番4
歌合 己恵多衣寸 奈計也宇久比寸 飛止々世尓 不多々比止多尓 久部幾者留可者
新選 音不斷 鳴哉鶯 一年丹 再砥谷 可来春革
漢詩 黄鶯一年一般啼 歳月積逢數般春 可憐萬秋鶯音希 應認年客更来往
読下 こゑたえす なけやうくひす ひととせに ふたたひとたに くへきはるかは

 私は正統な教育を受けていませんので精密な論が出来ません。それを踏まえて、紹介しました寛平御時皇后宮歌合の歌番号1から4までの和歌に対する新選万葉集の和歌と漢詩の対を比較しますと、どうも、次のような疑いが生じます。確かに寛平御時皇后宮歌合の和歌を基に漢詩を創作したのでしょう。ただ、同時に古万葉調の和歌表現も創作したのではないでしょうか。
 例えば、歌番1の「交倍」を「たくへ」、「倡」を「さそふ」、「指南」を「しるべ」と読ませるものは平安時代初頭の和歌表記として存在したかです。この「たくへ」は皇后宮歌合の和歌での言葉の解説では「類へ」であり「添わせる、伴わせる」の意味を持つとされ、これは「交」の漢字の本義「俱也。共也、合也。」と同じです。和語からすれば安易な漢字選択は「類」ですが、それを「交」の選字です。ここに非常に漢詩を詠う時の選字の匂いがするのです。
 また、藤原定家本からの字母研究からすると和歌集ではありませんが、散文の土佐日記に載る和歌でも次のような表記スタイルを取りますから、平安時代の寛平御時皇后宮歌合の和歌の表記に漢字交じり借音の一字一音の万葉仮名とし、積極的に漢詩要素を取り入れて表記を行ったか、この疑問が生じます。

土佐日記 和歌 (藤原定家本の字母)
原文 美也己以天ゝ幾美爾安者武止己之物遠己之可比毛奈久和可礼奴留可那
読下 みやこいてゝきみにあはむとこし物をこしかひもなくわかれぬるかな
解釈 都出でて君に逢はむと来し物を来しかひもなく別れぬるかな

 つまり、皇后宮歌合の時代に標準的な和歌の表記スタイルが万葉集の常体歌などと同等な表記スタイルをしているのですと、新選万葉集の序の「漸尋筆墨之跡、文句錯乱、非詩非賦、字對雜揉、雖入難悟。(漸(やくや)く筆墨の跡を尋ねるに、文句錯乱、詩に非ず賦に非ず、字對は雜揉し、雖(ただ)、入るに悟り難き。)」の文章と矛盾が生じます。皇后宮歌合の時代と同時代の新選万葉集の序を創った人物は万葉集の常体歌や詩体歌のスタイルは和歌として平凡な人には読解が出来ないと指摘しているのに、一方では皇后宮歌合の和歌が万葉集の常体歌や詩体歌のスタイルで表記されていて、それをそのままに新選万葉集の和歌として取り込んだのかです。
 もう一つ、例を挙げると平安時代初頭の歌人である伊勢の和歌は古今和歌集や後撰和歌集などにも取られていて、その和歌の表記は表語漢字を使わない借音漢字による一字一音表記で和歌を表記するスタイルで万葉集の常体歌や詩体歌のスタイルではありません。もし、伊勢の和歌が万葉集の常体歌や詩体歌のスタイルと同等な漢字交じり借音一字一音仮名文字の表記スタイルなら、そのような表記スタイルの伊勢集を、表語漢字を使わない借音漢字だけによる一字一音表記に翻訳した人がいることになりますし二種類の表記スタイルの伝本が存在しても良いことになります。

皇后宮歌合 歌番19 伊勢
和歌 美川乃宇部尓 安也緒利三多留 者留乃安女也 々満乃美止利遠 奈部天曾武良武
新選万葉集 歌番1 伊勢
和歌 水之上 丹文織紊 春之雨哉 山之緑緒 那倍手染濫
読下 みつのうへに あやおりみたる はるのあめや やまのみとりを なへてそむらむ

 しかしながら、古典文学史ではそのような指摘はありません。古今和歌集の成立の延喜五年(905)までには、和歌を表語漢字を使わない借音漢字だけによる一字一音表記のスタイルは確立していたと、筑波大学の古今和歌集高野切の復元研究などの成果により現代では指摘します。時代を確認すると、伊勢は貞観14年(872)頃から天慶元年(938)頃の人で、皇后宮歌合は寛平5年(893)9月以前、新選万葉集は寛平5年(893)9月の成立です。つまり、歌人伊勢は和歌を表語漢字を使わない借音漢字だけによる一字一音表記のスタイルで詠う時代の人なのです。
 すると、皇后宮歌合の和歌は表語漢字を使わない借音漢字だけによる一字一音表記のスタイルで詠われていたとしますと、新選万葉集に載せる和歌は一字一音表記のものから、万葉調に新たに表記を創作したと推定されることになります。

寛平御時皇后宮歌合 歌番1
歌合 者奈乃可遠 可世乃多与利尓 多久部天曾 宇久比寸左曾布 之留部尓者也留
新選 花之香緒 風之便丹 交倍手曾 鶯倡 指南庭遣
漢詩 頻遣花香遠近賒 家家處處匣中加 黄鶯出谷無媒介 唯可梅風為指斗
読下 はなのかを かせのたよりに たくへてそ うくひすさそふ しるへにはやる

 行きつ戻りつ、新選万葉集の和歌表記は菅家一門や当時の人々が理解・解釈していた万葉集の詩体歌や常体歌の表記スタイルに擬えて創作したものとなります。それも漢詩に応じる和歌としての創作ですから、「媒介」に対し「倡」の選字と「さそふ」の読みでしょうし、「指斗」に対して「指南」の選字と「しるへ」の読みなのでしょう。

寛平御時皇后宮歌合 歌番174
歌合 和利奈久曾 祢天毛佐女天毛 己比良留々 宇良三緒以川知 也利天和須礼武
新選 無破曾 寢手裳覺手裳 恋良留留 怨緒五十人槌 遣手忘牟
漢詩 霜月軽往驚単人 曉樓鐘響覺眠人 恋破心留五十人 相思相語歳數處
読下 わりなくそ ねてもさめても こひらるる うらみをいつち やりてわすれむ

 この組み合わせで、まず、漢詩の「五十人」は白居易の漢詩「燕子楼」に関わる五十歳で死んだ徐州長官「張仲素」を示唆するものです。それで相思相語歳の「歳」の人物像がはっきりと見えて来ます。この漢詩の「五十人」の言葉に対して和歌では無理に「五十人槌」と表し「いつち」と読ませます。
 また、「無破曾」の表記について、万葉集では「見人無尓(見る人も無しに)」、「絶事無(絶える事無し)」などと和臭漢文のような表記をしますから、「破無曾」でも十分なのですが、漢詩が白居易の漢詩「燕子楼」を題材にしているために二夫に交えずの操を守った張氏の愛妓眄眄を示唆するために「無破曾」でなくてはいけないのです。実にアハハ!なのです。本来は皇后宮歌合の和歌を示すはずなのですが、白居易の漢詩「燕子楼」で遊んだために和歌が実に漢詩的な要素を持つのです。このような遊びがあるからか、序で「文句錯乱、非詩非賦、字對雜揉、雖入難悟。」と示唆するのでしょう。
 面白いと思うか、実にとぼけた酔論と思うかは任せします。ただ、和歌の表記の変遷の歴史からすると、新選万葉集の和歌表記には特別な意図があるのです。それも単純に万葉集の詩体歌や常体歌の表記スタイルに擬えて創作したのではないのです。和歌なのですが漢詩的な遊び心の要素があるのです。
 もし、大学生で面白いと思ったら、このような視線で新選万葉集を眺めてみたらどうでしょうか。よろしくお願いいたします。
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新選万葉集 「殺」、この言葉の用法

2023年12月30日 | 万葉集 雑記
新選万葉集 「殺」、この言葉の用法

 新選万葉集は平安時代初頭の和歌と漢詩とを対にして編まれた詩歌集です。この作品が作られた時代性から、漢詩での使われる漢字が現在と同じような意味合いを持つかは保証されていません。
 ご存じのように中国語自体、漢時代、隋唐時代、元宋時代以降では発音も大きく変わっていますし、漢字の意味合いも変化しています。それを受けて日本でも飛鳥時代までは漢時代の発音や呉音と称される南中国の発音で漢字を扱いますし、遣唐使の時代となる奈良時代から平安時代初期までは唐音と称される発音や漢字を正音として公式なものとして扱います。これが平安時代後期~鎌倉時代以降には大陸の元宋時代以降の近世中国語の影響と平安時代の文学鎖国時代の影響などにより日本語漢字と言う日本独特な漢字が誕生して来ます。これにより同じ漢字でも中国側と日本側で意味が違うようなことも起きています。
 このような背景を踏まえて、新選万葉集で、ちょっと、有名な漢字の解釈問題を紹介します。それが「殺」という漢字の解釈です。
この漢字「殺」の特殊な用法があります。それが次に示す、「又疾也。猛也。甚之意。」です。多分、これはまったくの想像外の用法ではないでしょう。
<康熙辞典>
又疾也。猛也。【白居易·半開花詩】「西日憑輕照、東風莫殺吹。」
<漢語大詞典>
甚之意。【唐白居易 玩半開花贈皇甫郞中】「西日憑輕照、東風莫殺吹。」、【宋朱敦儒 鼓笛令】「殘夢不須深念、這些箇、光陰殺短。」
<國語辭典>
甚、極。「愁殺人」、【元·張養浩 詠江南·一江煙水照晴嵐】「畫船兒天邊至、酒旗兒風外颭、愛殺江南。」

 ただ、中国古典文学を研究されている方々では有名で、一例として静岡大学情報社会学科の教授 許山秀樹氏の早稲田大学時代の論文で、「『V殺』の成立と展開-漢から唐末を中心にして-」と言うものがあります。この論文では、唐代の漢詩にあって、「〇+殺」の表記のことを「V殺」と表現して、この「V殺」の言う特徴的な用法を紹介します。それも「V殺」と言う用法は白氏文集に13詩を見ることが出来、およそ、白居易が好んだものだったと指摘しています。
 許山秀樹氏はその論文では漢詩に現れる「V殺」の言葉の「殺」の漢字を「甚」の漢字に置き換えて、詩が成立するかを確認する必要があると指摘します。置き換えが可能なら「V殺」は「V+甚だし(Vなるものは甚だし)」と言う特別な用法と判定が出来るとの指摘です。それもこの用法は白居易が好んだ表現方法と思われると指摘します。
 ここで、白居易の作品集である白氏文集の日本への伝来は平安時代・承和年間(834-848)頃と考えられていて、伝本の研究から留学僧・恵萼が蘇州・南禅院を訪れ、白居易直筆の「白氏文集」を寺僧の協力を得て書写し、承和14年(847)に帰国して日本にもたらしたと推定されています。それも鎌倉時代の伝本の奥書から当時の文章博士であった菅原家(菅家)の菅原是善が写本をしたと推定されています。菅家の門弟が総力を挙げて編んだ新選万葉集の編纂が寛平五年(893)ですので、学問の一門である菅家の中に白氏文集の伝来から50年ほどの時間が存在します。また、今日の新選万葉集の漢詩の研究では白氏文集の影響を認め、それぞれの漢詩の研究では使われる言葉に白氏文集の影響を確認することが基本的な要求となっています。
 新選万葉集の漢詩で「殺」の漢字を探りますと次の12詩を見いだせます。これらは嗤殺/咲殺、怨殺、惜殺、奢殺、身殺の言葉として使われていて、「V殺」を「V甚」に置き換えて「V+甚だし(Vなるものは甚だし)」の解釈が成立するかと言うと、「惜殺」以外では成立すると考えています。「惜殺」の「殺」は「殺、又掃滅之也。」で示される用法と考えています。

歌番22 紀友則
漢詩 嘒嘒蝉聲入耳悲 不知齊后化何時 絺衣初製幾千襲 嗤殺伶倫竹與絲
読下 嘒嘒(けいけい)たる蝉の聲は耳に入りて悲しく、知らず齊后の何(いづれ)の時ぞ化するを、絺衣(ちい)、初て製(つく)る幾千の襲(かさね)、嗤(ほほえみ)は殺(はなはだ)し伶倫の竹(ちく)と絲(げん)。
注意 伶倫は古代の楽器の演奏者ですので、ここでの竹は管楽器、絲は弦楽器を意味します。

歌番71 壬生忠岑
漢詩 試入秋山遊覽時 自然錦繡換単衣 戔戔新服風前艶 咲殺女牀鳳羽儀
読下 試に秋山に入りて遊覽せし時、自ら錦繡を単衣に換ふを然(しか)す、戔戔たる新たな服、風前に艶にして、咲(え)むは殺(はなはだ)し女牀(にょしょう)鳳羽(ほうう)の儀

歌番74 佚名
漢詩 七夕佳期易別時 一年再會此猶悲 千般怨殺鵲橋畔 誰識二星涙未晞
読下 七夕の佳期は別れ易き時、一年再び會ふとも此は猶も悲し、千に般(および)て怨みは殺(はなはだ)し鵲橋の畔、誰か識らむ二星の涙、未だ晞(かわ)かず。

歌番81 佚名
漢詩 三冬柯雪忽驚眸 咲殺非時見御藤 柳絮梅花兼記取 恰如春日入林頭
読下 三冬の柯(えだ)の雪は忽に眸を驚かせ、咲くは殺(はなはだ)しくも時非ずして御溝(ぎょこう)を見、柳絮(りゅうじょ)梅花を兼(とも)に取りて記し、恰(あたか)も春日の林頭に入るが如し。

歌番82 佚名
漢詩 試望三冬見玉塵 花林假翫數花新 終朝惜殺須臾艶 日午寒條蕊尚貧
読下 試に三冬を望み玉塵(ぎょくじん)を見、花林、假(かり)に數(あまた)の花の新なるを翫(めず)る、終朝(しゅうちょう)、殺(くだ)けむを惜み、須臾(しゅゆ)、艶にして、日午(じつご)、寒條(かんじょう)の蕊(ずい)は尚も貧(とぼ)し。

歌番87 佚名
漢詩 冬日舉眸望嶺邊 青松残雪似花鮮 深春山野猶看誤 咲殺寒梅萬朵連
読下 冬日、眸を舉げ嶺邊を望み、青松に残れる雪、花の鮮なるに似たり、深春の山野は猶も看て誤まり、咲くは殺(はなはだ)しく寒梅の萬朵の連(つら)なるを。

歌番103 佚名
漢詩 千般怨殺厭吾人 何日相逢萬緒申 歎息高低閨裏乱 含情泣血袖紅新
読下 千に般(および)て怨(うらみ)は殺(はなはだ)しく吾を厭ふ人、何れの日か相(たが)ひに逢ひて萬緒を申さむ、歎息は高く低くして閨裏は乱れ、情を含みて泣血し袖の紅は新たなり。

歌番120 源當純
漢詩 溪風催春解凍半 白波洗岸為明鏡 初日含丹色欲開 咲殺蘇少家梅柳
読下 溪の風は春を催し凍(こほり)を解すこと半、白波は岸を洗ひて明鏡と為す、初日、丹を含みて色(はな)は開(さ)くを欲し、咲くは殺(はなはだ)し、蘇少が家の梅柳。

歌番134 藤原朝忠
漢詩 春往散花舊柯新 毎處梅櫻別家変 楽濱海與泰山思 奢殺黄鳥出幽溪
読下 春は往きて花を散らし舊き柯(えだ)は新たなり、處毎に梅櫻は別けて家を変へ、濱海と泰山とを楽しく思ひ、奢(おごる)は殺(はなはだ)し黄鳥(こうちょう)の幽溪に出るを。

歌番181 佚名
漢詩 月影西流秋斷腸 桂影河清愁緒解 夜袂紅紅館栖月 咲殺人閒有相看
読下 月影は西に流れ秋は斷腸なり、桂影(けいけい)に河清くして愁緒を解く、夜の袂は紅紅にして館栖(かんす)の月、咲(え)むは殺(はなはだ)し人を閒(うかが)ひて相ひ看る有るを。

歌番203 佚名
漢詩 神女係雪紛花看 許由来雪鋪玉愛 咲殺卞和作斗筲 不屑造化風流情
読下 神女は雪に係りて花を紛(ふら)して看(なが)め、許由(きょゆ)は雪を来(ふ)らせ玉を鋪(し)きて愛る、咲(え)むこと殺(はなはだ)しも卞和(べんか)は斗筲(とそう)を作(な)して、造化風流の情を屑(よ)しとせず。

歌番238 佚名
漢詩 無限思緒忍猶發 身殺慟留且不憚 妾羅衣何人共著 燈下抱手語聳耳
読下 限り無く思ひ緒(おり)を忍へども猶も發(あらわ)れ、身は殺(はなはだ)しく慟(なげ)き留むも且(さら)に憚(はばか)らず、妾(それがし)が羅衣は何(いつ)か人と共に著(き)む、燈下に手を抱きて語(ことば)に耳を聳(そばだ)たす。

 おまけで、新選万葉集の伝本で「間」と「閒」との表記の違いがあるものがあります。「新選万葉集 諸本と研究」に載る林羅山筆は「間」ですが元禄九年版は「閒」です。中国でも中世以降では「閒」を「間」に換字しますが、宋・隋・唐初ですと「閒、覗也。猶容也。」とも紹介される言葉ですので、時代に合わせて「閒」を「間」に換字しますと、詩の意味合いが大きく変わります。「人閒」と「人間」とではまったく別な意味合いになります。

漢詩 散花後幾閒風秋 樹根搖動吹不安 崿谷躁起瞪不靜 自是仙人衣裳乏
読下 花散じて後に幾つか風に秋を閒(うかが)ひ、樹根は搖れ動き吹きて安らかず、崿谷(がくきょう)に躁(そう)は起(た)ち瞪は靜かならず、自から是に仙人の衣裳は乏し。

漢詩 幾閒秋穗露孕就 茶籃稍皆成黄色 庭前芝草悉將落 大都尋路千里行
読下 幾(きざし)を閒(うかが)ひ秋穗は露を孕みて就(な)り、茶籃(ちゃかご)は稍(ようや)く皆は黄色に成る、庭前の芝草(くさぐさ)は悉く將に落(かれ)むとし、都(うつくしみ)は大いにして路を尋ねて千里を行く。

漢詩 月光連行不惜暉 流水澄江無遊絲 岩杳摧楫起浪前 人閒眼痛歎且多
読下 月光は連なり行きて暉(かがやき)を惜しまず、流水の澄江に遊絲(ゆうし)は無し、岩は杳(くら)きに楫を摧(くだ)き浪前に起(た)ち、人を閒(うかが)ふ眼(まなざし)は且た多く歎き痛む。

漢詩 月影西流秋斷腸 桂影河清愁緒解 夜袂紅紅館栖月 咲殺人閒有相看
読下 月影は西に流れ秋は斷腸なり、桂影(けいけい)に河清くして愁緒を解く、夜の袂は紅紅にして館栖(かんす)の月、咲(え)むは殺(はなはだ)し人を閒(うかが)ひて相ひ看る有るを。

漢詩 花貌嬾秋風嫉音 人閒寰中寒気速 晴河洞中浪起早 露白烟丹妬涙聲
読下 花の貌は嬾(ものう)く秋風に嫉音あり、人は寰中(かんちゅう)に閒(うたが)ふも寒気は速く、晴河洞中に浪の起(た)つは早し、露白烟丹、妬涙の聲。

 今回、先の「新選万葉集 言葉遊びの世界」に続けて紹介しましたが、新選万葉集の漢詩で使う漢字は古い時代の意味合いを持つものがありますし、意図して誤解されやすい漢字を採用して遊んでいる面もあります。序文で奈良時代の万葉集について「漸尋筆墨之跡、文句錯乱、非詩非賦、字對雜揉、雖入難悟。所謂仰彌高、鑽彌堅者乎。然而、有意者進、無智者退而已。」と解説します。この新選万葉集は奈良時代の万葉集に習い、同様な表記スタイルを採用しますから、表記スタイルに対する態度は同じです。
 つまり、序の解説と同じで、読者は新選万葉集に対しても「有意者進、無智者退而已。」ということになるのです。作詩の方々は菅家一門の秀才ですから遊び心で言葉を表記します。それで、「大都」は「大いに都(うるわし)」ですし、「水面穀」は「水面は穀(よろ)し」です。また、「両岸斜」は「両岸に斜(かまえ)る」ですし、「夏漏」は「夏を漏(わすれ)る」です。さらに「一種」を「一つの種(たねくさ)」と読ませる工夫もします。実にアハハ!の漢字選択です。
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後撰和歌集 巻11 歌番号760から764まで

2023年12月29日 | 後撰和歌集 現代語訳
歌番号七六〇
原文 可部之
読下 返し

原文 以世
読下 伊勢

原文 幾志毛奈久志本之三知奈者万川也末遠志多尓天奈美者己左武止曽於毛布
和歌 きしもなく しほしみちなは まつやまを したにてなみは こさむとそおもふ
読下 岸もなく潮し満ちなば松山を下にて浪は越さむとぞ思ふ
解釈 岸も無くなるほどに潮が満ちたなら、松山は潮の下に沈んで、浪は簡単に松山の上を越すと思います。(あり得ないではなく、常の事です。この、浮気男。)

歌番号七六一
原文 満毛利遠幾天者部利个留於止己乃己々呂加者利尓个礼者
曽乃満毛利遠可部之也留止天
読下 守り置きて侍りける男の心変りにければ、
その守りを返しやるとて

原文 己礼比良乃安曾无乃武寸女以万幾
読下 これひらの朝臣のむすめいまき(藤原伊衡朝臣女以万幾)

原文 与止々毛尓奈計幾己利川武三尓之安礼者奈曽也万毛利乃安留可比毛奈幾
和歌 よとともに なけきこりつむ みにしあれは なそやまもりの あるかひもなき
読下 世とともに嘆きこりつむ身にしあればなぞや守りのあるかひもなき
解釈 日々の生業として投げ木を樵して積む、その言葉の響きではありませんが、日々に貴方の仕打ちに嘆き懲りてしまう我が身なので、どうして、樵の生業を監視する山守、その言葉の響きではありませんが、貴方のお守りを大切にしてもが役にも立たないようです。

歌番号七六二
原文 飛止乃己々呂徒良久奈利尓个礼者曽天止以不飛止遠川可日尓天
読下 人の心つらくなりにければ、袖といふ人を使ひにて

原文 与美比止之良寸
読下 詠み人知らず

原文 飛止之礼奴和可毛乃於毛日乃奈美多遠者曽天尓川个天曽三寸部可利个留
和歌 ひとしれぬ わかものおもひの なみたをは そてにつけてそ みすへかりける
読下 人知れぬ我が物思ひの涙をば袖につけてぞ見すべかりける
解釈 貴方に判って貰えない私の悲しみに沈んで流す涙を袖に付け、それを袖と言う人に託して、見ていただきたいと思います。

歌番号七六三
原文 布美奈止遠己寸留於止己保可左万尓奈利奴部之止幾々天
読下 文などおこする男、ほかざまになりぬべしと聞きて

原文 藤原真忠可以毛宇止
読下 藤原真忠かいもうと(藤原真忠妹)

原文 也満乃者尓加々留於毛比乃堂衣左良八久毛為奈可良毛安者礼止於毛者无
和歌 やまのはに かかるおもひの たえさらは くもゐなからも あはれとおもはむ
読下 山の端にかかる思ひの絶えざらば雲ゐながらもあはれと思はん
解釈 山の端に雲が懸かる、その言葉の響きではありませんが、かかる様でのあれこれ思う気持ちが絶えないのなら、遥か彼方の雲居、そのような貴方の気持ちが私から遠くにいたとしても、それでも、貴方を慕っています。

歌番号七六四
原文 満知之里乃幾美尓布美川可者之多利个留可部利己止尓
美徒止乃美安利个礼者徒可者之个留
読下 町尻の君に文つかはしたりける返事に、
見つとのみありければ、つかはしける

原文 毛呂宇知乃朝臣
読下 もろうちの朝臣(師氏朝臣)

原文 奈幾奈可寸奈美多乃以止々曽比奴礼者波可奈幾美川毛曽天奴良之个利
和歌 なきなかす なみたのいとと そひぬれは はかなきみつも そてぬらしけり
読下 泣き流す涙のいとど添ひぬればはかなき水も袖濡らしけり
解釈 恋焦がれて泣いて流す涙がますます加わるので、ちょっとした水、そこ言葉のように、ちらりと「見つ」、」その言葉にも、気に懸けて貰った嬉しさに流す涙は私の袖を濡らしました。

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後撰和歌集 巻11 歌番号755から759まで

2023年12月28日 | 後撰和歌集 現代語訳
歌番号七五五
原文 世宇曽己徒可者之个留於无奈乃万多己止飛止尓布美
徒可者寸止幾々天以末者於毛比多衣祢止以比遠久
利天者部利个留可部之己止尓
読下 消息つかはしける女の、又異人に文
つかはすと聞きて、今は思ひ絶えねと言ひ送
りて侍りける返事に

原文 於久留於保萬豆利古止乃於保萬豆岐美
読下 贈太政大臣

原文 万川也末尓徒良幾奈可良毛奈美己左武己止者佐寸可尓加奈志幾毛乃遠
和歌 まつやまに つらきなからも なみこさむ ことはさすかに かなしきものを
読下 松山につらきながらも浪越さむ事はさすがに悲しき物を
解釈 あり得ないとされる、あの末の松山に、辛いことですが、浪が越すとは、それと同じように、まさか貴女が、私の恋の告白に断りをされるなんて事は、さすがに悲しいことです。

歌番号七五六
原文 美也徒可部之者部利个留於无奈本止飛左之久安利天毛乃
以者武止以飛者部利个留尓遠曽久満可利个礼八
読下 宮仕へし侍りける女、ほど久しくありて、物
言はむと言ひ侍りけるに、遅くまかりければ

原文 美者乃飛堂利乃於保伊萬宇智岐美
読下 枇杷左大臣

原文 与為乃満尓者也奈久左女与以曽乃加美布利尓之止己毛宇知者良不部久
和歌 よひのまに はやなくさめよ いそのかみ ふりにしとこも うちはらふへく
読下 宵の間にはや慰めよ石上の神ふりにし床もうち払ふべく
解釈 宵の間に早く退出して、私を慰めてください。布留の石上の神、その言葉の響きではありませんが、古い間の仲の、幣で振り払い清めるように、その二人の夜床をうち払うために。

歌番号七五七
原文 可部之
読下 返し

原文 以世
読下 伊勢

原文 和多川美止安礼尓之止己遠以末左良尓者良八々曽天也安者止宇幾奈无
和歌 わたつみと あれにしとこを いまさらに はらははそてや あわとうきなむ
読下 わたつみとあ荒れにし床を今更に払はば袖や泡と浮きなん
解釈 大船を渡す、渡す海があり、その海が荒れる、そのような荒れた床を、今更に幣で振り払い清めるようにうち払ったら、貴方のつれない仕打ちの悲しみに涙で濡れそぼった袖、そこから泡が湧き上がるのではないでしょうか。

歌番号七五八
原文 己々呂左之安利天以飛加者之遣留於无奈乃毛止与利
飛止加寸奈良奴也宇尓以比天者部利个礼者
読下 心ざしありて言ひ交しける女のもとより、
人かずならぬやうに言ひて侍りければ

原文 者世於乃安曾无
読下 はせをの朝臣(紀長谷雄)

原文 志保乃満尓安佐利寸留安万毛遠乃可世々加比安利止己曽於毛不部良奈礼
和歌 しほのまに あさりするあまも おのかよよ かひありとこそ おもふへらなれ
読下 潮の間に漁りする海人も己が世々かひ有りとこそ思ふべらなれ
解釈 潮の間に浜で漁をする海人も、きっと、自分たちの人生は生き甲斐があると思っているに違いありません。(私も貴女との関係を結べば、生きがいを感じると思いますよ。)

歌番号七五九
原文 堂以之良寸
読下 題知らす

原文 於久留於保萬豆利古止乃於保萬豆岐美
読下 贈太政大臣

原文 安知幾奈久奈止可万川也末奈美己左武己止遠者佐良尓於毛比者奈留々
和歌 あちきなく なとかまつやま なみこさむ ことをはさらに おもひはなるる
読下 あぢきなくなどか松山浪越さむ事をばさらに思ひ離るる
解釈 にがにがしいことに、どうして、あり得ないとされる、あの末の松山を浪が越す、そのようなあり得ないことなのに、いまさらに貴女は私からの仲を去るのですか。

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後撰和歌集 巻11 歌番号750から754まで

2023年12月27日 | 後撰和歌集 現代語訳
歌番号七五〇
原文 於无奈尓己々呂左之安留与之遠以比川可者之多利个礼八
与乃奈可乃飛止乃己々呂佐多女奈个礼者堂乃美可多幾
与之遠以比天者部利个礼八
読下 女に、心ざしあるよしを言ひつかはしたりければ、
世の中の人の心定めなければ頼みがたき
よしを、言ひて侍りければ

原文 安利八良乃毛止可多
読下 在原元方

原文 布知者世尓奈利加者留天不安寸可々者和多利三天己曽志留部可利个礼
和歌 ふちはせに なりかはるてふ あすかかは わたりみてこそ しるへかりけれ
読下 淵は瀬になり変るてふ飛鳥河渡り見てこそ知るべかりけれ
解釈 深い淵も浅い瀬に移り変わると言う飛鳥河、その飛鳥河なら深いか浅いか渡って見れば知ることが出来るのですが。(さて、貴女との仲は深いでしょうか。)

歌番号七五一
原文 堂以之良寸
読下 題知らす

原文 以世
読下 伊勢

原文 伊止者留々三遠宇礼者之美以徒之可止安寸可々者遠毛多乃武部良奈良利
和歌 いとはるる みをうれはしみ いつしかと あすかかはをも たのむへらなり
読下 厭はるる身をうれはしみいつしかと飛鳥河をも頼むべらなり
解釈 心を寄せると言うと貴方に嫌われる我が身が嘆かわしいので、いつの間に、淵と瀬とが全くに定まらずに変わりやすい、あの飛鳥河をも、変わらぬものと思うようになりました。

歌番号七五二
原文 可部之
読下 返し

原文 於久留於保萬豆利古止乃於保萬豆岐美
読下 贈太政大臣

原文 安寸可々者世幾天止々武留毛乃奈良者布知世尓奈留止奈尓可以者世无
和歌 あすかかは せきてととむる ものならは ふちせになると なにかいはせむ
読下 飛鳥河塞きてとどむる物ならば淵瀬になると何か言はせん
解釈 変わり易い飛鳥河の流れを堰留めることが出来るのなら、どうして、淵が瀬になるなんて言わせるでしょうか。(でも、流れを堰留することが出来ないので淵が瀬になるように、私の気持ちは移り気なのです。)

歌番号七五三
原文 於武奈志乃美己尓遠久利个留
読下 女四内親王に贈りける

原文 美幾乃於保伊萬宇智岐美
読下 右大臣

原文 安志堂川乃左者沢部尓止之者部奴礼止毛己々呂者久毛乃宇部尓乃美己曽
和歌 あしたつの さはへにとしは へぬれとも こころはくもの うへにのみこそ
読下 葦田鶴の沢辺に年は経ぬれども心は雲の上にのみこそ
解釈 葦原に田鶴がずっといる沢辺、私の身分はその沢辺のような地位で幾年も過ごしていますが、高貴な貴女からすれば沢で這うような私ですが、それでも貴女を恋焦がれる気持ちは雲の上の立場にある貴女だけにあります。

歌番号七五四
原文 可部之
読下 返し

原文 於武奈与川乃美己
読下 女四のみこ(女四内親王)

原文 安之多川乃久毛為尓加々留己々呂安良者与遠部天佐者尓寸万寸曽安良末之
和歌 あしたつの くもゐにかかる こころあらは よをへてさはに すますそあらまし
読下 葦田鶴の雲居にかかる心あらば世を経て沢に住まずぞあらまし
解釈 葦原の田鶴が雲居に懸かる、その言葉ではありませんが、かかる、恋心があるのなら、それほどに時を過ごして沢に住まないようになるのではありませんか。(もうすぐ、沢を出て、雲居に住むのではありませんか。)

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