竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

今日の古今 みそひと歌 火

2016年05月31日 | 古今 みそひと歌
今日の古今 みそひと歌 火

鴬の鳴くをよめる 素性
歌番一〇九 
原歌 こつたへはおのかはかせにちるはなをたれにおほせてここらなくらむ
標準 こづたへばおのがはかぜにちる花をたれにおほせてここらなくらむ
解釈 木伝へば己が羽風に散る花を誰れに負ほせてここら鳴くらむ
注意 歌としては羽風で花が散ると詠うのが面白いとしますが、時に万葉集の山辺赤人の歌からの情景引用かもしれません。歌は赤人の芳野賛歌に付けられた反歌からのものです。人麻呂・赤人を並び立つよ評価する時代ですと、射程範囲の歌創でしょうか。

<参考歌 万葉集巻六>
集歌924 三吉野乃 象山際乃 木末尓波 幾許毛散和口 鳥之聲可聞
訓読 み吉野の象(さき)し山際(やまま)の木末(こぬれ)には幾許(ここだ)も騒く鳥し声かも
私訳 み吉野の象山の山際の梢には、多くの啼き騒ぐ鳥の声が聞こえます

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今日の古今 みそひと歌 月

2016年05月30日 | 古今 みそひと歌
今日の古今 みそひと歌 月

仁和の中将の御息所の家に歌合せむとてしける時によみける 藤原後蔭
歌番一〇八 
原歌 はなのちることやわひしきはるかすみたつたのやまのうくひすのこゑ
標準 花のちることやわびしき春霞たつたの山のうぐひすのこゑ
解釈 花の散ることや侘びしき春霞龍田の山の鴬の声
注意 この歌に何かあるかと聞かれると、これまた、何もありません。解釈のままです。この歌は、およそ、歌自体よりも詞書に示す「仁和の中将の御息所の家に歌合」での歌であることが重要なようです。なお、この「中将の御息所の家に歌合」は不詳となっていていますが、可能性として右近衛中将平好風の御子で光孝天皇の女御である平等子の邸宅で行われた歌会かもしれません。この平等子は臣籍降下が無ければ女王格の人物ですから、同じ女御でも藤原家出身と比べると格式は非常に高いものになります。そのような格式高い歌会での歌と云う意味かもしれません。

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万葉集 長歌を鑑賞する

2016年05月29日 | 万葉集 長歌を楽しむ
万葉集 長歌を鑑賞する

櫻花謌一首并短謌
標訓 櫻花の謌一首并せて短謌
集歌1429 感嬬等之 頭挿乃多米尓 遊士之 蘰之多米等 敷座流 國乃波多弖尓 開尓鶏類 櫻花能 丹穂日波母安奈何 (感は、女+感の当字)

<標準的な解釈(「萬葉集 釋注」伊藤博、集英社文庫)>
訓読 娘子(をとめ)らが かざしのために 風流士(みやびを)が かづさのためと 敷きませる 国のはたてに 咲きにける 桜の花の にほひはもあなか
意訳 娘子たちの挿頭のためにと、また風流士の蘰のためにと、大君のお治めになる国の隅々まで咲き満ちている桜の花の、何とまあ輝くばかりの美しさよ。

<西本願寺本万葉集の原文を忠実に訓むときの解釈>
訓読 官嬬(をとめ)らし挿頭(かざし)のために 遊士(みやびを)し蘰(かづさ)しためと 敷き坐(ま)せる 国のはたてに 咲きにける 桜し花の 色付(にほひ)はもあなか
私訳 宮女達が髪に刺すために、また、風流な男が髪飾りにするようにと、大王が統治なされる国の果てまでに咲いた桜の花の、美しさは格別です。

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万葉雑記 色眼鏡 百七二 再び、律令官位官服を考える

2016年05月28日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百七二 再び、律令官位官服を考える

 万葉集の歌の鑑賞において、歌の標題や左注に記された人物の官位と職を、すべて、棚上げして鑑賞することは難しいと考えます。ある程度はその人物に付けられた人物の官位や職から地位や立場、また、そこから推定される歌の場面における人々の身分の上下や友好関係、宴などでの着座での位置関係を考慮すべきものではないでしょうか。例えば、天平二年大宰府の大伴旅人の役宅で催された宴で詠まれた「梅花謌卅二首并序」と云う作品では、参加する人々の官位と職から着座での位置関係を推定して、歌の詠い順や内容を研究することもありますし、その研究から鑑賞態度も変わるようです。
 一方、意外でしょうが日本での律令官位の研究は道半ばで、大宝律令の官位体制と養老律令以降の官位体制は違うであろうことは認識されてはいますが、その違いと運用についての解釈は、非常なる混乱と未研究の姿を示しています。例として諸王官位において、それに対応する職階や宮中での序列など問題があります。

 弊ブログはスマートフォンからも入場・閲覧ができますが、可能でしたらCPから閲覧を推薦しています。これをベースとして、まず、次のHPを参照して頂きたいと思います。

綺陽装飾研究所HP>装飾の知識と着方>色彩と色目
http://www.kariginu.jp/kikata/5-1.htm

 このHPの記事では推古天皇から天智天皇の時代の「聖徳太子の冠位十二階(冠の色彩):推古天皇十一年」の官位官服表、天武天皇の時代の「天武天皇の六十階服色」、持統天皇から文武天皇の時代の「持統天皇の六十階服色」、そして元明天皇以降の時代の「律令の官位と服色(当色)、その変遷」を紹介していますが、大宝律令の官位体制と養老律令以降の官位体制については明確に区分がなされていません。これは先に説明した大宝律令の官位体制と養老律令以降の官位体制は違うであろうことは認識されてはいるが、研究が道半ばであることに由来するのでしょう。
 では何が問題かと云いますと、大宝律令の官位体制までは五世の皇族孫までの諸王の扱いについての評価です。天武十一年制定の飛鳥浄御原宮令(「天武天皇の六十階服色」)での官位官服には皇太子・皇子・五世までの諸王は「浄官」と云う官位区分が臣民(平民)とは別に設けられています。同じように持統四年に改訂された飛鳥浄御原宮令(「持統天皇の六十階服色」)でも皇太子・皇子・五世までの諸王は「浄官」と云う官位区分が臣民とは別に設けられています。ただし、「天武天皇の六十階服色」では「浄官」の人々はすべて「朱華」の官服色を身に付けますが、「持統天皇の六十階服色」では「浄官」の人々は、浄大壱から浄広弐までは「黒紫」の官服色を、浄大参から浄広肆では「赤紫」の官服色を身に付けます。先の「天武天皇の六十階服色」では皇族・五世の皇族孫までの諸王と臣民は明確に区分されていましたが、改訂された「持統天皇の六十階服色」では臣民官位での正大壱から正広肆までは「赤紫」の官服色を身に付けますから、外見からしますと浄大参から浄広肆での皇親・諸王と正大壱から正広肆までの臣民は同等となります。この正大壱から正広肆は養老令では「卿」に相当する階級に相当します。
 さらに元明天皇以降、大宝元年の大宝令では親王と諸王とが明確に区別され、諸王と臣民との区分が接近して来ます。品位を持つ親王は全員が「黒紫」を、諸王は「太政大臣」格となる浄正壱と浄従壱だけが「黒紫」を身に着け、それ以外の浄正弐から浄従五下(諸王は蔭位制度から最低官位が浄従五下です)の人は「赤紫」の官服を身に付けます。ほぼ、親王と諸王とは官位官服色で明確に区分されたことになります。一方、臣民は「太政大臣」格の正正壱と正従壱とが「黒紫」、正正弐から正従参までが「赤紫」の官服を身に付けます。この正従参とは養老律令からしましたら従三位ですから「卿」と称される身分です。つまり、外見上は「卿」格の臣民は諸王と同格となります。それ以下の臣民では直正肆上から直従五下までの人は「深緋」を身に着け「大夫」と云う階級に属することになります。ここまでが平安時代の殿上人と云うことになります。
 一方、養老二年制定(?)・天平宝字元年に施行されたとされる養老令では大宝令と同じ区分を採用しますが、官位名称が「直正肆上」が「正四位上」へと、また、官服色が三位以上の「赤紫」が「浅紫」へと変わるなど多少の調整はありますが、ほぼ、踏襲されていたようです。ただし、養老令の施行において奈良時代と平安時代での諸王官位と臣民官位とがどのように扱われていたかは、十分に解明されていません。通常の解釈では諸王官位と臣民官位とを区分しないようです。参考にインターネット百科事典のウキペディアの位階の説明でも解説の前半と後半、また、付けられた官位の表とが相互に矛盾する状況を示しています。つまり、ウキペディアに説明を載せた人もまたよく判っていないという状況です。

 説明しました律令体制で施行された官位官服色の規定から万葉集の歌を眺めてみたいと思います。
 例として巻六に載る集歌1009の歌を取り上げてみますと、左注に従三位葛城王・従四位上佐為王等とあります。この歌が詠われたのが天平八年ですから行政施行令は大宝律令に拠るとされる時代です。歴史では二人の王は敏達天皇の五世孫と思われ、三野王と県犬養橘三千代の御子です。葛城王(橘諸兄)は蔭位の制度に従って和銅三年(710)の無位から浄従五位下に、また、佐為王は和銅七年(714)に無位から浄従五位下に叙せられています。左注とは違いますが大宝律令の規定に従いますと、それが臣籍降下により葛城王は正従参、佐為王は直従肆上になったことになります。つまり、歌の左注は養老令を下に注意書を記述したことになります。
 ただ、問題として葛城王(橘諸兄)は諸王浄官位の身分から臣民の正従参ですから朝服色は赤紫から赤紫で変わりませんが、佐為王は諸王浄官位の身分から臣民の直従肆上ですので朝服色は赤紫から深緋へと格下げの変更となります。同時に佐為王の正妻の服色もまたそれに準じたものとなり、宮中儀式では並ぶ列や着る服色が大幅に変わります。現代ですと、さて、奥方衆が納得するでしょうか? すこし、恐ろしい出来事です。

<巻六>
冬十一月、左大辨葛城王等賜姓橘氏之時御製謌一首
標訓 (天平八年)冬十一月、左大辨葛城王等に姓(かばね)橘氏(たちばなのうぢ)を賜ひし時の御製謌(おほみうた)一首
集歌1009 橘者 實左倍花左倍 其葉左倍 枝尓霜雖降 益常葉之樹
訓読 橘は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)し樹
私訳 橘の木は実までも、花までも、その葉までも、枝に霜が降りることがあっても、決して色変わることがない常に緑の葉を保つ樹です。
右、冬十一月九日、従三位葛城王・従四位上佐為王等、辞皇族之高名賜外家之橘姓已訖。於時太上天皇、々后、共在于皇后宮、以為肆宴、而即御製賀橘之歌、并賜御酒宿祢等也。或云、此謌一首太上天皇御謌。但天皇々后御謌各有一首者。其謌遺落未得採求焉。
今檢案内、八年十一月九日葛城王等、願橘宿祢之姓上表。以十七日、依表乞、賜橘宿祢。
注訓 右は、冬十一月九日に、従三位葛城王と従四位上佐為王等と、皇族の高名を辞して外家の橘姓を賜はること已(すで)に訖(をは)りぬ。時に太上天皇、皇后、共に皇后宮に在りて、肆宴(とよのあかり)を為し、即り橘を賀(は)く歌を御(おん)製(つく)りたまひ、、并(あわ)せて御酒を宿祢等に賜はりぬ。或は云はく「此の謌一首は太上天皇の御謌なり。但し、天皇と皇后の御謌は各一首あり」といへり。その謌、遺落(いらく)して未だ採り求むるを得ず。
今、案内を檢(かむがふ)るに、八年十一月九日に葛城王等、橘宿祢の姓(かばね)を願ひて表(へう)を上(たてまつ)る。十七日を以ちて、表の乞(ねがひ)に依りて、橘宿祢を賜へり。


 次に例として紹介するのは巻十九に載る集歌4264の歌です。この歌は標題にありますように遣唐使大使藤原清河一行を壮行する宴でのものですから、天平勝宝四年(752)閏三月でのものです。まだまだ、養老令が施行されたという天平宝字元年(757)ではありませんから大宝令の時代です。つまり、標題の従四位上高麗朝臣福信は正式には直従肆上高麗朝臣福信と云う記述になります。この時、高麗福信は深緋の朝服を着て使者に立っています。
 このように官位などが示してありますと、どのような色目の服を着ていたのかなど、歌の情景を想像できることにもなります。

<巻十九>
勅、従四位上高麗朝臣福信遣於難波、賜酒肴入唐使藤原朝臣清河等御謌一首并短謌
標訓 勅(みことのり)して、従四位上高麗朝臣福信を難波に遣(つかは)し、酒肴(しゅかう)を入唐使藤原朝臣清河等に賜(たま)へる御(かた)らしし謌一首并せて短謌
集歌4264 虚見都 山跡乃國波 水上波 地徃如久 船上波 床座如 大神乃 鎮在國曽 四舶 々能倍奈良倍 平安 早渡来而 還事 奏日尓 相飲酒曽 期豊御酒者
訓読 そらみつ 大和の国は 水(みづ)し上(へ)は 地(つち)行くごとく 船し上(へ)は 床(とこ)に居(を)るごと 大神の 鎮(いほ)へる国ぞ 四(よつ)し船 船の舳(へ)並べ 平安(たいら)けく 早渡り来て 還り事 奏(まを)さむ日に 相飲まむ酒ぞ 期(き)し豊御酒(とよみき)は
私訳 仏教の真理を究める大和の国は、水の上を大地の上を歩くように、船の上にあっては家の床間に居るように、大神が鎮める国です、四隻の船、その船の舳先を並べ、平安に早く海を渡って行って、還りましたと朝廷に奏上される日には、互いに集って飲む酒です。それを期した豊御酒です。


 最後に巻二十の集歌4452の歌を紹介します。天平勝宝七年八月のもので、これもまた、大宝令の行政令が施行されていた時代です。まだ、養老令の時代ではありません。
 従いまして、集歌4452の歌の内匠頭兼播磨守正四位下安宿王の正式の官位は内匠頭兼播磨守浄正肆下安宿王となり、着る朝服色は赤紫です。臣民の官人ですと正正参(養老令では正三位)に相当する公卿となります。対して、集歌4453の歌の兵部少輔従五位上大伴宿祢は正式には兵部少輔直従五上大伴宿祢で、着る朝服色は浅緋です。
 もし、大宝令と養老令とを混同したり、諸王官位と臣民官位とを混同したりしますと、表面上、正四位下と従五位上とは六官位の差の同じ「大夫」格の官僚のように見えますが、大宝令での諸王官位を臣民官位に換算しますと正三位から従五位上での九官位の差があり、さらに臣民ではまず到達できないような三位という壁がそそり立ちます。このような絶対的な相違を確認して、歌を解釈する必要があります。集歌4453の歌の左注に「未奏」とありますが、左大臣橘諸兄、治部卿船王、内匠頭安宿王、兵部卿橘奈良麿たちが集う宴では兵部少輔従五位上と云う身分と立場では格の違いがありすぎて、座る場所も与えられなかったのではないでしょうか。古今和歌集以降では諸王官位と臣民官位とを区別することなく養老令の官位表を参照しますから、まず、大いに勘違いするのではないでしょうか。

<巻二十>
八月十三日、在内南安殿肆宴謌二首
標訓 八月十三日に、内の南の安殿(やすみとの)に在(いま)して肆宴(とよのあかり)せる謌二首
集歌4452 乎等賣良我 多麻毛須蘇婢久 許能尓波尓 安伎可是不吉弖 波奈波知里都々
訓読 感嬬(をとめ)らが玉裳裾引くこの庭に秋風吹きて花は散りつつ  (感は女+感の当字)
私訳 官女たちが美しい裳裾を引く、この庭に秋風が吹いて花は散り過ぎていく。
右一首、内匠頭兼播磨守正四位下安宿王奏之
注訓 右の一首は、内匠頭兼せて播磨守正四位下安宿王のこれを奏(もを)せり。

集歌4453 安吉加是能 布伎古吉之家流 波奈能尓波 伎欲伎都久欲仁 美礼杼安賀奴香母
訓読 秋風の吹き扱き敷ける花の庭清き月夜(つくよ)に見れど飽かぬかも
私訳 秋風が吹き、花びらをこき敷ける花の庭は、清らかな月夜に眺めるが見飽きることがありません。
右一首、兵部少輔従五位上大伴宿祢 (未奏)
注訓 右の一首は、兵部少輔従五位上大伴宿祢 (未だ奏(まを)さず)


 今回は官位官服色に注目して、万葉集の歌を鑑賞してみました。一般の社会人は専門の歴史学者や万葉集研究者とは違います。所属する子弟などの人間関係を気にすることなく、気楽に、ただ、正確・厳密に原歌や原文から楽しんでいたただければと思います。
 最後に参考に『続日本紀』のある記事を紹介します。ただし、原文です。研究者向けの都合の良く意図を持って翻訳された訓読みではありません。

大宝元年(701)三月廿一日の記事から抜粋:-
始依新令。改制官名・位号、親王明冠四品、諸王浄冠十四階、合十八階。諸臣正冠六階、直冠八階、勤冠四階、務冠四階、追冠四階、進冠四階、合卅階。外位始直冠正五位上階、終進冠少初位下階、合廿階。勲位始正冠正三位、終追冠従八位下階、合十二等。始停賜冠、易以位記、語在年代暦。又服制、親王四品已上、諸王・諸臣一位者皆黒紫。諸王二位以下、諸臣三位以上者皆赤紫。直冠上四階深緋。下四階浅緋。勤冠四階深緑。務冠四階浅緑。追冠四階深縹。進冠四階浅縹。
・・・・中略・・・・
授左大臣正広弐多治比真人嶋正正二位。大納言正広参阿倍朝臣御主人正従二位。中納言直大壱石上朝臣麻呂、直広壱藤原朝臣不比等正正三位。直大壱大伴宿禰安麻呂、直広弐紀朝臣麻呂正従三位。又諸王十四人、諸臣百五人、改位号進爵。各有差。

 これが本来の万葉集での官位を示すものです。万葉集もまた皇族と臣民とでの絶対的な身分格差を隠すような操作がなされていることを知っていて頂ければと考えます。
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今日の古今 みそひと歌 金

2016年05月27日 | 古今 みそひと歌
今日の古今 みそひと歌 金

題しらず 典侍洽子朝臣
歌番一〇七 
原歌 ちるはなのなくにしとまるものならはわれうくひすにおとらましやは
標準 ちる花のなくにしとまる物ならば我鴬におとらましやは
解釈 散る花のなくにし止まるものならば我鴬に劣らましやは
注意 何かあるかと聞かれると、なにもありません。あって、「泣く」と「鳴く」との言葉遊びです。解釈のままの一本道です。

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