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万葉雑記 番外雑話 万葉時代の国内海上交通、再びフェイクニュースに挑む

2021年05月08日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 番外雑話 万葉時代の国内海上交通、再びフェイクニュースに挑む

 今回もまた備忘録のようなものとなっています。前回に「万葉時代の海上交通、フェイクニュースに挑む」と云うテーマで、非常に恣意的で個人的感想からの与太話、酔論を展開しました。今回は、そこからの発展で飛鳥・奈良時代の国内海上交通、特に東海道 太平洋航路について遊びたいと思いますが、例によって万葉集の歌の鑑賞には直接には関係しません。ただし、万葉時代には東は常陸国、西は肥後国に亘る交通網が整備され、官人が京と地方との往来をしています。その時代の社会基盤を支えた海上交通や船舶を知ることは、多少、意義はあると考えます。
 前回は遣唐使船や対新羅戦争での軍船から海上ルートや船舶について与太話を行いました。今回は、極力、律令時代の制度や規定を下に法螺で与太な話を行います。そのため、大宝律令や延喜式に載る規定、続日本紀に載る記事を参照すると方法論を取りますから、従来の最初から「なになにであるべき」、「なになにであったはず」論から導き出されている帰結・通説とは大きく異なることになります。そこが弊ブログの与太話であり、酔論です。
 なお、近江朝の百済の役の時、大和朝廷は約3万2千人以上の兵員を朝鮮海峡を越えて半島に送り込む能力を保有しています。万葉時代とは、そのような遠洋航海能力と造船能力を保有していた事実を前提としています。加えて忘れてはいけないのは、東大寺の金剛の大仏と余りで作られた吉野金峯山寺の銅の鳥居の材料となる500トン以上の銅が、その時に長門国から運搬されています。

 さて、現代も万葉時代も、税に関わる役人は非常に「スマート」です。庸調物の運搬に対する制度規定では、人の運搬については延喜式の主計寮上に運脚の旅程日数がありますが、別に人以外の運搬方法については主稅寮上に「諸國運漕雜物功賃」として駄馬と船舶による運賃規定があります。

主計寮上:運脚による旅程規定、例として上總國【行程上三十日、下十五日。】
主稅寮上:駄馬による運賃規定、例として上總國【(駄別稻)百束。】

 養老律令や延喜式を調べても運脚が運ぶ標準貨物重量は不明ですが、駄馬についてはその「諸國運漕雜物功賃」の末文に「凡一駄荷率、絹七十疋、絁五十疋、絲三百絇、綿三百屯、調布卅三十端,庸布四十段,商布五十段,銅一百斤,鐵卅三十廷,鍬七十口」と基準重量と換算を規定し、これにより、基準重量は約67~70kg/駄となります。この駄馬による運賃には馬の維持費に加え馬子などの経費も含まれています。ところが、運脚とは違い上京時は良いとしても、帰郷時の規定がありませんから、諸國運漕雜物功賃には帰りの費用もすべて含まれていることになります。ただし、荷を運搬せずに駄馬などによる運搬隊を引率し、納品台帳となる調庸帳を携える役人たちは官人旅費規定から食料の日当支給を受けたと考えます。注意として、諸國運漕雜物功賃では馬と馬子の比率は規定されていませんから、馬子一人で馬二匹以上を扱うこともあったと思います。
駄馬によらない、一般に解説される運脚による運搬費用ついて、その運搬人夫である運脚は、国衙の目(さかん)より上の役人と郡衙の郡司少領より上の役人との二人以上の役人に引率され、それぞれの国のキャラバン隊を組み、最大運脚10人に1人の割合で調理専任担当者(火頭)を伴い、上京時には一人当たり米二升/日と塩二勺/日を支給され、帰京時にはその半分の食料日当を支給されます。ただし、京での滞在期間中の食料日当は支給されません。なお、律令の1升は現代の0.4升ですので、上京時には現在換算8合/日-人の米が支給される規定となっています。加えて、和銅五年(712)の詔では全国の郡衙に対し銭と舂米との交易を行うことと、同時に運脚キャラバン隊は食料支給に見合う銭を携えて国衙を出発することを命令しています。
 当時の人の移動を制限する規定から、関所を通過するときに運搬責任者である役人の「綱領」はキャラバン隊全員の身元を証明する「本國歴名」を提示する必要があります。このため、常に集団行動が求められますし、それに加え、運脚に選抜された地方農民では地方から京までの道が不案内で、慣れた道先案内がいなければ迷うことなく道中することは困難です。
 ここで、当時の役人が「スマート」な理由として以下の政策判断があります。
 一日の移動距離の基準は養老令 公式令 行程条では「凡行程、馬日七十里、步五十里、車三十里」と規定し、駄馬は70里/日、運脚は50里/日を移動する割合で日当を計算し支給します。当時の律令の一里は0.54kmですから、それぞれ38kmと27kmです。これらの規定から最も安い運搬方法として役人は駄馬による運搬方法を選び、この駄馬による庸調物の運搬運賃で費用を支払っています。つまり、運脚は駄馬運搬に比べて高価となるため、限定的な採用です。従来の運脚が調庸物を運搬したとする解説や理解からしますと、奈良時代の役人は昭和時代の文部省や大蔵省の役人より税金の使い方や制度設計では「スマート」だったのです。
 従来、庸調物の運搬を担う運脚は食料や経費は自前とのフェイクニュースがありましたが、大宝律令、養老律令、延喜式、続日本紀などにのる規定や詔勅からすると、公平・適切に規定に従い運賃は支払われています。もし、運脚などの費用は自前が建前なら、役人は運搬やその輸送ルートを決める必要はありませんし、責任回避を考えるなら、単に納入物量と期日を定めるだけで十分です。他方、運賃や日当を払うのなら、標準移動距離、基準運搬重量、規定の移動ルートなどを定め、公平な賃金支払い計算を行う必要があります。現在、中国と台湾ではこれらの原文資料がデジタルデータとして整理、公表していますから、昭和時代のようなフェイクニュースを垂れ流すことは出来なくなっています。

規定①;凡諸國調庸專當者、差目以上并郡司少領已上強幹于事者、每年相換。
規定②:凡調庸及中男作物、送京差正丁充運腳、餘出腳直以資。腳夫預具所須之數、告知應出之人、依限檢領、准程量宜、設置路次。起上道日、迄于納官、給一人日米二升、鹽二勺。還日減半。剰者迴充來年所出物數、別簿申送。
規定③:凡諸使食法、官人日米二升、鹽二勺、酒一升。番上日米二升、鹽二勺、酒八合。傔從日米一升五合、鹽一勺五撮。國司巡行食料准此。
規定④:凡行程、馬日七十里、步五十里、車三十里。

 中央の役人が「スマート」に最も経済的な経費規定を組みますと、地域によっては駄馬で運搬した時に支給される経費だけでは時に人力運搬(運脚)をしますと経費倒れになることもあります。もともと役人は運脚による運搬の方が高いから駄馬による運搬を選択しているのですから、当たり前と云えば当たり前です。それらを反映して神護景雲二年に地方民から泣きつかれた東海道巡察使は、駄馬を所有していないと認められる場合は諸國運漕雜物功賃の規定ではなく、運脚の規定も使うことを認めて欲しいと上進し、それを認めて貰っています。

神護景雲二年(768)の記事:東海道巡察使式部大輔従五位下紀朝臣広名等又同前言。運舂米者、元来差徭、人別給糧。而今徭分輸馬、独給牽丁之糧。窮弊百姓無馬可輸。望請、依旧運人別給糧。

 延喜式の規定だけを眺めますと、庸調物の運搬は諸國運漕雜物功賃の規定から、基本は陸上輸送の駄馬に従い、特例として海上運賃規定を載せる一部の地域は海上輸送を行ったと理解します。ただ、実際は神護景雲二年の記事が示すように、延喜式の規定は運搬費用支払いの基準運賃規定であって、実際の運搬方法までを厳密に指定するものではありません。朝廷は規定の期日と費用以内で、損害無く、運搬されるなら、実際の運搬方法はどれでも良いと考えていたようです。単なる合理的な支払い基準を定めただけの立場だったようです。ただし、運搬中に荷物に損害が出たら処罰と弁済を求めますから、国司たちは運搬方法を選択するときに運搬費用と運搬時の事故率とを十分に吟味する必要があります。つまり、海上輸送は安いけど、事故が発生すると荷物全部が全損になるでしょうし、駄馬だと海上輸送よりも高いけど、事故の発生は駄馬毎なら荷物の損害は限定的です。
 しかしながら、昭和時代に庸調物の運搬は自己負担の運脚による運搬だったと云うフェイクニュースを流したため、その派生により庸調物の運搬は特別な運搬手段を持たない一般の農民たちは徒歩で京まで運搬したとの二次的なフェイクニュースを流します。資料掲示順番は前後しますが、神護景雲二年(768)の記事からすると、下総国の井上・浮嶋・河曲の三つの馬駅の間、武蔵国の乗潴・豊嶋の二つの馬駅の間には陸路と水路の二つの交通手段があったことが判ります。諸國運漕雜物功賃の規定からすれば下総国や武蔵国に水上交通は予定されていませんが、実際は水上交通で物資の運搬が行われています。神護景雲二年の記事から遡って霊亀元年(715)の記事を眺めますと、「海路漕庸、輙委惷民(海路漕庸を惷民に輙委する)」の「海路」の指すものは諸國運漕雜物功賃に規定される諸国からの指定航路だけではありません。広く国内全域での水上運搬を指す可能性があります。これに関連して、天平勝宝八歳(756)の記事に天平八年(729)五月の太政官符を引用し、水上運搬時の事故弁償規定を明確にしています。霊亀元年(715)の記事からすると国司から事故弁償を徴収することになっていますが、天平八年の通達によると、運搬方法を承認した国司が50%、直接の運搬責任者である国衙の差目より上の役人と群衙の郡司少領より上の役人;「綱領」が30%、運搬人夫たち:「運夫」が20%を分担して弁償することになります。ただ、天平八年の通達と霊亀元年の詔からすると「運夫」とは「惷民」を指すと考えると、この「惷民」の正体は海上輸送請負人(含む難波大津から平城京までの運搬)と解釈できます。
 さらに、賦役令集解などの解釈・解説からすると、舂米のような汎用品で重荷は絹布などの軽貨に等価交換して京まで運搬し、京の公設市場などで、再度、絹布などの軽貨から舂米に交換して納品することを認めています。このため、天平勝宝八歳の記事で「山陽・南海諸国舂米」とありますが、実際に舂米を本国から京まで運んだのか、軽貨に交換後に運んだのかは確定しません。平安時代には本来の海上輸送の目的地である京都の與等津(淀津)より下流の山崎付近に私設の倉庫や市場が置かれ交易がおこなわれており、調度して既定の数量と物品を與等津の官設施設に搬入しています。

霊亀元年(715)の記事:詔曰、凡諸国運輸調庸、各有期限。今国司等、怠緩違期。遂妨耕農、運送之民、仍致労擾。非是国郡之善政、撫養之要道也。自今以後、如有此類、以重論之。又海路漕庸、輙委惷民、或已漂失、或多湿損。是由国司不順先制之所致也。自今以後、不悛改者、節級科罪。所損之物、即徴国司。

天平勝宝八歳(756)の記事:太政官処分、山陽・南海諸国舂米、自今以後、取海路遭送。若有漂損、依天平八年(729)五月符、以五分論。三分徴綱、二分徴運夫。但美作・紀伊二国、不在此限。

神護景雲二年(768)の記事:又下総国井上・浮嶋・河曲三駅、武蔵国乗潴・豊嶋二駅、承山海両路、使命繁多、乞准中路、置馬十疋。

賦役令集解 封戸条の条項:運舂米国者米送、遠国者販売軽貨送給耳
賦役令集解 調庸物条の条項:不得雑勾隨便糴輸

 平安時代では新たな制度により庸調物の運搬だけでなく、朝廷が出舉正稅や公廨雜稻から得た収入を原資に地方で購入した交易雜器や交易雜物なども京まで運搬します。相摸國、武藏國、安房國、上總國、下總國、常陸國の関東六国の交易雜物で、延喜式に規定する主要物だけを集計しても、絁:200疋;4駄、商布:55,350段;1,107駄、布:8,590端;286.3駄、庸布:700段;17.5駄、木綿:940斤;9.4駄、紫草:13,300斤;133駄で、合計1,557.2駄=10.39トンの貨物量となります。
 従来の運脚が人力でこれらの貨物を背負い、関東から京まで運搬したとしますと、人間が30kg/人の割合で運搬したとしても、関東六国だけでも最低3,463人の運脚、346人の火頭、692人の役人、都合、4,501人のキャラバン隊を必要とします。毎年、秋にこれほどの人間が関東から京までを往復したのでしょうか。例として箱根越えをしたのでしょうか。また、京では九州を除いた全国からの物資が集まりますから、万単位の運脚が集合した記録はあるのでしょうか。また、どこに宿泊/野営したのでしょう。本来なら律令と運脚を研究する研究者はこれに答え、解説する義務があります。
 さらに、諸國運漕雜物功賃の規定では、運搬は、原則、駄馬ですから、交易雜物に限っても関東六国で延1,600匹が運搬に従事する必要があります。上總國や下總國の運脚の日当支給の公式旅程が往復45日で、これに一日の旅程規定が駄馬は70里、運脚は50里ですから、駄馬の往復旅程は単純計算で公式旅程33日となります。京への搬入時期を9月から11月の3か月と考えますと、駄馬による運搬は最大2回転です。天候不順や京での検収遅延のリスクに延納の罰則規定からすると、国司や運搬責任者となる「綱領」は駄馬による運搬を1回転で計画するでしょう。つまり、やっぱり、駄馬は1,600匹以上が必要となります。さて、これだけの荷馬と馬子を一度に準備できたでしょうか。昭和時代の研究者は、準備が出来たと考えますが、さて、その根拠はどこにあるのでしょうか。交易雜物の制度が正式に始まる前の神護景雲二年にあっても、地域では駄馬が不足しており、それを人力で補っている実態に合わせて運賃適用規定の見直しの要請が出ています。つまり、まったく、駄馬は足りないのです。それで同じく神護景雲二年の記事で示すように、下総国井上・浮嶋・河曲三駅と武蔵国乗潴・豊嶋二駅に、新たに駅馬十疋ずつを公費で購入・配置して欲しいとの要望が出て来るのです。
 現代の研究者は昔の大日本帝国陸軍参謀ではだめなのです。作戦の対象となる目標を把握し、その目標達成するための作戦工程とそれぞれの数字を抽出し、手持ちの人員、装置、用具などを勘案して合理的に方法論を組み立てる必要があります。都合が悪くなると精神力や忠心などの要素を組み込んで、達成可能な作文とすることは許されないのです。関東六国に限っても10トンほどの主に高級絹製品や特殊な木綿製品となる貨物を、水濡れや汚れなどの運搬事故を起こすことなく関東から京まで、それを運搬する方法論を説明する必要があります。食料が運脚の自前と主張するなら往復期間中の食料も同時に必要量とその運搬方法も説明する必要があります。律令政府は、食料は道中の郡衙や駅で支給し、調理用具はキャラバン隊10人に1人の割合で火頭が担うと方法と規定を定めています。さて、昭和・平成の研究者は、どのように答えたのでしょうか。
 延喜式の輸送ルートと運賃規定から、日本海側は出羽国から若狭国までの海上輸送ルートがあり、九州大宰府、瀬戸内海沿岸諸国から京都の與等津(淀津)までの海上輸送ルートがあります。東海道は遠江国から難波大津を経由して京都の與等津(淀津)までの海上輸送ルートがあります。ここまでは延喜式の主税寮に示す諸國運漕雜物功賃などから読み取れます。主税寮に示す運賃規定の範囲であれば、遠江国より以東の諸国は遠江国の国府(大之浦:現在の磐田市福田付近)の湊から海上輸送ルートを使っても正規ルートとして問題はありません。
 ここで一つの疑問として、関東方面諸国は遠江国の湊に行くには箱根を越えた後に、由井の薩埵峠を越え、富士川と大井川を渡る必要があります。一方、万葉集からすると由井の薩埵峠の先、田子の浦の沖合を国司一行が航行する歌がありますし、上古では伊豆国御嶋(静岡県三島市)の狩野川河口付近に大和朝廷配下の古代造船基地がありました。ここで、凡なる感覚からは相摸國小田原付近から伊豆国御嶋へ行くのに伊豆半島を周回する海上ルートと御殿場を抜ける陸上ルートとを比較すると、まず、御殿場を抜ける陸上ルートを選択したと思います。つまり、難波大津から遠江国の国府までの太平洋航路が伊豆国御嶋まで伸びていますと、関東六国に甲斐国と伊豆国にとって便利な話になりますし、非常に経済合理性があります。ただし、現代と違うのは、万葉時代から平安時代初期、富士山は非常に活発な活動を行っており、朝廷が物資集積地に伊豆国御嶋を指定するには大きなリスクはあります。噴火により足柄道が閉鎖される、富士五湖が生まれるなどの事件はこの時代です。朝廷としては伊豆国御嶋を正式な海上輸送基地とはしないが、富士山の活動状況をよく判っている国司以下の自己責任ならOKのような感じでしょうか。
 ここまでの弊ブログの理解が正しいと養老律令の規定から非常に重要な話題が生まれます。軍防令の条項からすると、太宰府の対新羅の防人や東北の対蝦夷の防人は「津」からは食料は朝廷が支給します。規定からすると私糧を持参ですから内陸国の防人は「津」までの行動食料は私糧ですが、一方、沿海国の防人はすべて朝廷の負担です。非常に内陸国には不公平な規定です。ただし、天平時代の駿河国の正税帳に載る帰郷する防人への食糧支給記録からすると、内陸国も沿海国も区別することなく朝廷は公平にそれぞれの国府までの食料は支給しています。

軍防令 齎私糧條:凡防人向防、各齎私糧。自津發日、隨給公糧。

 海上交通の参考情報として、江戸時代の江戸・大阪間の純航海日数は平均で12日だそうです。ただ、面白いことに江戸初期は自己目的の人や荷物を運搬する自前の輸送船による海上輸送で、その分、荷物が少ないので「小早」と称される船足が早い小型船を使用したそうです。その後、請負で貨物輸送する廻船業者が現れ、次第に船が大型化し、その船足が遅いことに加え積載や寄港地の関係で航海日数が延びたそうです。飛鳥・奈良時代ですと対新羅戦争などで使われた船長24m級の軍船に似た快速船が戦争の無い期間の別用途として投入されたのではないでしょうか。ちなみに律令体制での官船などの更新・減価償却期間は20年と定められていますから、戦争や紛争が終結しても破棄されない軍船は多数あったと考えます。

延喜式 主税寮:凡渡船經廿年以上者、聽買替。

 次に示すように万葉集で田口益人が上野國司に任命された時、三保の松原と田子の浦の景色を眺めた歌を詠っていますが、田子の浦の景色は夜に通過した時のものです。國司が任地へ向かう旅では夜間に馬で難所の薩埵峠を強行することは無いでしょう。つまり、月明かりの中をそれなりの大きさを持った長距離航海船で夜間航行しているのです。難波大津から遠江国の国府までの大船による太平洋航路が有るなら、それを延長して伊豆国御嶋へと向かっていると考えるのが自然です。

田口益人大夫任上野國司時至駿河浄見埼作謌二首
標訓 田口益人(ますひと)大夫(まえつきみ)の上野國(かみつけのくに)の司(つかさ)に任(ま)けらえし時に、駿河の浄見埼(きよみのさき)(現在の三保の松原)に至りて作れる謌二首
集歌296
原文 廬原乃 浄見乃埼乃 見穂之浦乃 寛見乍 物念毛奈信
訓読 廬原(あしはら)の清見(きよみ)の崎の三保し浦の寛(ゆた)けき見つつ物念(おも)ひもなし
私訳 廬原の清見の崎にある三保の浦が広々と豊かな様を眺めるいると、旅路の不安はない。

集歌297
原文 晝見騰 不飽田兒浦 大王之 命恐 夜見鶴鴨
訓読 昼見れど飽かぬ田児(たご)浦(うら)大王(おほきみ)し御言(みこと)恐(かしこ)み夜見つるかも
私訳 昼に見ても見飽きることのない田児の浦よ。大王の御命令を畏まって承って、その田児の浦を夜に拝見します。

 おまけとして、遠州灘の浜松市付近の風向は5月中旬から6月上旬と8月下旬から10月末までは高い確率で東風が吹き、伊豆国御嶋から伊勢国・紀伊国への航行では順風となります。一方、6月中旬から7月中旬と11月から5月中旬までは高い確率で西風が吹き、紀伊国・伊勢国から伊豆国御嶋への航行では順風になります。気象データからすると航行と逆風となる季節にあっても10%程度の確立で求める風が吹きますから、最大1週間程度の風待ちをすれば求める風を得ることが出来ます。
 万葉集の歌で上野國へと向かう国司 田口益人が夜間に遠州灘を抜けたのは伊勢国で風待ちをし、順風を得たので途中の避難港となる遠江国の国府の湊に寄ることなく伊豆国御嶋へ直接に向かったためと考えられます。伊勢湾横断や遠州灘航行の風待ち港となる三重県鳥羽港から静岡県沼津港までが210kmで、江戸時代の帆船が順風時に5~6ノット=約10km/時の速度とすると、鳥羽港付近で風待ちをしていて早朝に出航すると、ちょうど、夜間に由井の沖合を抜けることになります。
 もう少し、太平洋航路を考察しますと、熊野灘を越える紀伊国加太湊から伊勢国鳥羽湊までが320kmで、帆船順風時の航海時間が約32時間;1昼夜半となります。加太湊を払暁に出航すると翌日の朝に尾鷲湾を見て午後に鳥羽湊への入港です。次に伊勢国鳥羽湊から伊豆国御嶋湊までが210kmで、帆船順風時の航海時間が約21時間;1昼夜となります。鳥羽湊を朝に出航すると夕刻に遠江国の国府の湊を見て翌日の夜明けに御嶋湊への入港です。天候によっては日中の間に串本や尾鷲湾や遠江国の国府の湊への避難はできますし、逆航路では熊野灘では串本や田辺湾を避難地と出来ます。
 弊ブログの恣意的な酔論からしますと、万葉時代、難波大津から伊豆国御嶋への太平洋航路はあり、百済の役などで使用された兵員40人乗りクラスの一本マストの軍船(船長24m、船幅4.2m)と同様な船が官途目的で頻繁に使われていたと考えます。

 おまけとして、近々の出版で「海から読み解く日本古代史」(近江俊秀、朝日新聞出版)を参考にしますと、書類として古代の海上輸送ルートの記録がないとします。確かに防人の太宰府から関東諸国への帰郷の時に途中で食料を支給した正税帳の記録から周防国を経由して駿河国へは海路を使ったと推定されますが、確定はされていません。逆に陸上ルートと推定されている東国の運脚や防人が実際にどのような人数で、また、そのルートを使い移動したかの記録は有りません。ただし、朝廷が支払う経費の経済性を考えると海上輸送ルートを使用するのがもっとも合理的な帰結となります。
 しかしながら運脚や防人たちは自弁だったというフェイクニュースが学説として存在する限り、水掛け論となります。自弁論者は、一般の困窮しているはずの農民が主体となる運脚や防人が高価な遠洋航海の船を手配することに現実性がないと指摘するはずです。現実的にも運賃を朝廷が負担し、国司たちが関与して初めて高価ですが単位当たりの運賃の安い遠洋航海の船を手配できることになります。
 なお、近江俊秀氏はその著書で延喜式の諸國運漕雜物功賃の規定を運搬方法に対する換算基準ではなく、そのままに運搬方法と料金が固定されたものと解釈している関係上、得られた結論がちぐはぐになっています。氏は規定に「自國漕與等津船賃,石別一束二把,挾杪廿三束,水手廿束。自餘准播磨國。但挾杪、水手各漕米十石」とあれば、船は十石船サイズと考えています。しかし、延喜式は単に支払い換算表と考えれば、公共事業の積算要綱と同じで、五十石船を使った時の五十石の重量の貨物の運搬に対し、船の損料は50石x1束2把=稲60束、人件費として挾杪は50石x23束=1150束、水手は50石x20束=1000束が支払われますが、船の傭員として、最低、挾杪は5人、水手は5人が乗る必要があると理解できます。十石船を五隻準備した場合での総支払い運賃は同じですし、挾杪も水手もそれぞれ5人で同じですし、中途半端なサイズの船でも換算で経費の算出と、最低傭員の算出は可能となります。ただ、現実的には五十石船一隻の挾杪5人は船長1人と高級船員4人に細分され給与は違いますから、輸送業者の実際の総経費は五十石船の方が安くなります。
 また、船賃計算による支払いであっても、実際は道中が運脚、駄馬、船、牛車による複合的な運搬だった可能性があります。平安時代、伏見の與等津まで船を使用しても、そこから先の京の市中の役所倉庫までは牛車による運搬ですし、同じ船でも大宰府からの場合は大船を使い瀬戸内航路で難波大津に向かい、そこで淀川用の小舟に載せ替えて與等津へ運搬しますから複合船運賃です。ちなみに、江戸時代には伏見(與等津)・大阪間を三十石船(船長17m、船幅2.5m、積載量約4.5トン)が連絡しており、旅客専用船では船頭・船員が4人、乗客定員28人が幕府の定める安全規定です。なお、荷物を稲や舂米のような重荷を想定し運賃と荷物の経済価値とを比較する人もいますが、稲は災害や戦争時などの緊急事態以外は域外移動禁止ですし、舂米は商布などの軽荷に交易して運搬し、京で再度、交易して舂米に替える手段は法制度化されています。輸送は地域特産物が中心だったことを忘れてはいけません。
 弊ブログはこのように諸國運漕雜物功賃の規定を標準運賃支払い基準と解釈します。なお、「挾杪」の言葉の意味するものは後年の船頭ではなく、操船技能を持つ特殊作業員、「水手」は操船技術などを要さない一般作業員を意味すると考えますから、同じ延喜式の規定書を読みますが、解釈により理解内容は大きく異なります。
 毎度のことですが、弊ブログはこのような立場ですので、そのため実に与太話ですし、酔論となります。

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万葉雑記 番外雑話 万葉時代の海上交通、フェイクニュースに挑む

2021年05月01日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 番外雑話 万葉時代の海上交通、フェイクニュースに挑む

 今回もまた備忘録のようなものとなっています。前回に「万葉時代の遣唐使の航路」と云うテーマで与太話、酔論を展開しました。今回は、その航路からの発展で海上交通について遊びたいと思いますが、万葉集の歌の鑑賞には直接には関係しません。ただし、万葉時代は唐の文化や制度を取り入れ、社会を大改革する時代です。その時代の社会基盤を支えた海上交通や船舶を知ることは、多少、意義はあると考えます。
 なお、今回は主に遣唐使船を中心とする国際交通に焦点を絞り、次回は地域から京へ調庸物などを運んだ国内交通、それも東海道・太平洋航路を扱いたいと思います。
 さて、万葉集には大船を信頼性の比喩とする歌があります。他方、現代人は昭和時代の専門家のフェイクな刷り込みにより遣唐使船はすぐに難破するから、遣唐使の人々は任命されるのを恐れていたと信じます。このため、同じ「大船」の言葉ですが万葉人と現代人とでは、その言葉への信頼感が大きく違います。

集歌550
原文 大船之 念憑師 君之去者 吾者将戀名 直相左右二
訓読 大船(おほぶね)し思ひ頼みし君し去(い)なば我(あれ)は恋ひなむ直(ただ)に逢(あ)ふさへに
私訳 大海を往く大船のように頼りに思っていた貴方が奈良の京へと去って行かれたら、私は貴方のことを懐かしく思い出すでしょう。再び直接にお逢い出来ますようにと。

 そこで、万葉時代の船の大きさについて調べてみますと、中国大陸の越州会稽と百済又は大和を繋ぐ「呉唐之道」と云う航路を航海する商用船や官船の大きさは乗客90~100人ほどの大きさを持っています。『日本書紀』や『続日本紀』から調べますと、推古天皇十七年(609)の百済船が乗客86人、白雉四年(653)の遣唐使船が総員120人、天平十一年(739)の遣唐使船が総員115人、天平勝宝六年(754)の遣唐使船の総員平均が111人、宝亀九年(778)の遣唐使船が総員97人の数字を見ることが出来ます。
 参考に新羅と大和とを繋ぐ朝鮮海峡航路では天平勝宝四年(752)の新羅使船の乗客平均100人、天平宝字八年(764)の新羅使船の乗客91人の数字を見ることが可能です。日本の朝廷が遣唐使船の運航要員である水手までに褒美を下したと考えますと、おおよそですが、万葉時代では東アジア諸国(大和、百済、新羅)の外洋航路で使用する商用船の定員は約120人程度だったと推定できます。従来は遣唐使一行の帰国時の褒美の対象に運航要員である水手たちは含まれていないと考え、『日本書紀』や『続日本紀』に載る記事から得られた人員に、別途、運航要員約40人を加えて奈良時代後期から平安時代には遣唐使船の定員を最大140~150人(4隻船団総員500~600人)を想定します。そのため、弊ブログとの想定と差がありますが、以下、弊ブログでは遣唐使船の定員を120人と想定します。
 一方、万葉時代の軍用船の大きさを調べますと、『日本書紀』の欽明天皇十五年(554)の大和船では平均で人が25人/隻+馬が2.5匹/隻の数字、天智天皇元年(662)の百済王とその大和からの護衛部隊の渡海作戦では30人/隻(除く水手)の数字、天智天皇十年(671)の郭務悰が率いる中国軍船では総員からの平均で43人/隻の数字を見ることが出来ます。他方、『続日本紀』の天平宝字五年(761)の対新羅戦争での動員計画では一隻当たり兵士103人+水手41人の数字があります。欽明天皇十五年、天智天皇元年、天智天皇十年のものは戦闘艦、天平宝字五年のものは遠洋航海の商用船/遣唐使船を下にした輸送艦と考え、天平宝字五年のものが特殊例とすると、東アジア諸国の戦闘艦は水手も戦闘要員とすると定員約40人程度の大きさと考えられます。
 もう少し調べますと、天平宝字五年(761)に、迎藤原清河使たち11人が安禄山の変により唐から帰国が出来なくなった藤原清河の救援に向かった時、唐が示した藤原清河の帰国許可条件を日本の朝廷に報告する為の緊急帰国の際、唐側が用意した船は越州所属の差押水手官が指揮する船です。沿岸警備所属の船ですからこれを軍船に準じたものと考えると、船長八丈(24m)の船を指揮官・下士官9人、射手を含めた水夫30人の計39人が操船します。これは百済の役の中国軍船や郭務悰の中国軍船と似た大きさです。
 ちなみに天智天皇二年(663)の百済の役での白村江の海戦で、旧唐書と三国史記とを総合すると孫仁師が率いる唐水軍は齊兵七千人、船百七十艘の数字があり、平均42人/隻となります。これは天智天皇十年(671)の郭務悰が率いる中国船の平均43人/隻とほぼ同等です。参考として白村江の海戦で対抗した百済・大和連合軍は秦造田来津を攻撃隊長とする大和兵五千人、舟八百艘の数字があり、これは平均6.3人/隻となります。白村江の海戦では中国海軍と大和軍が戦ったようで、それぞれの同盟軍となる新羅軍や百済軍は互いに陸軍として岸で戦況を見ていたとします。また、旧唐書では「船」と「舟」の書分けがあり、「小曰舟、大曰船」と解説しますから、中国海軍は外洋渡海の軍船を使い、対する自前の軍船を持たない秦造田来津を率いる大和軍は地元の百済の漁民から徴発した漁船を使ったと考えられます。
 ここで脇道に逸れますが、大和の正規の軍船を調べる過程の中で、百済の役の直前となる、斉明天皇六年(660)に阿倍比邏夫は軍船二百艘を率いて粛慎国を攻撃します。その阿倍比邏夫はすぐの天智天皇元年(662)に軍船百七十艘を率いて、百済王豊璋と主将狭井連檳榔、副将秦造田来津が率いる大和軍で構成する護衛隊五千の百済への輸送作戦を行っています。この『日本書紀』の記事からすると、百済への渡航時に百済王の護衛部隊として長期駐留する予定の秦造田来津は自前の軍船を持っていないことが判りますし、朝鮮渡海で使用した大和軍の軍船は操船水手を除いて30人/隻の規模です。先の白村江の海戦時の平均6.3人/隻の舟と規模が全くに違います。
 追加参考で、白村江の海戦時の大和軍兵力五千人の根拠として、護衛部隊輸送の翌年に勃発した百済の役では、天智天皇二年(663)に三軍団・正副六将軍による大和軍中核部隊となる二万七千人の渡海作戦を行っており、それぞれの将軍は自前の軍船百五十艘ほどを率いて、各々の国内支配地域を出発し、博多付近に集結したと推定されます。つまり、総勢八百~九百艘の軍船集団による渡海作戦だったと推定されます。この正副六将軍による中核部隊は新羅本国への攻撃部隊であって、白村江の海戦に参戦するために事前に新羅戦線を離脱し、朝鮮半島南東部から海路転進して朝鮮半島南西部にある白村江に向かったとの記述はどこの国の歴史書に有りません。また、海戦敗退直後に実施した百済敗残の人々と大和軍の撤収・集結地から推測しても新羅攻撃中核部隊の朝鮮半島南西部戦線への転進は確認できません。『日本書紀』では増強して来た中国軍に対応する為に、別途、廬原君が約1万の軍を率いて、百済(白村江)方面に派遣される予定となっていますが、白村江の海戦までに到着したとの記載がありません。ここからも、白村江の海戦勃発が廬原君の着任以前の出来事なら秦造田来津は大きな軍船を保有していません。
 ちなみに新羅攻撃中核部隊の上毛野君稚子は関東地区、間人連大蓋は丹後半島地区、巨勢神前臣訳語は近江・若狭地区、宗像一族と同族の三輪君根麻呂は大和地区と玄海地区、阿倍引田臣比邏夫は越前・越中地区、和邇一族と同族の大宅臣鎌柄は大和・河内地区に支配を持つ一族で、それぞれの将軍の支配地域は全国に分散していますから、その支配地域から博多湾への集結手段=軍船を保有する必要があります。つまり、それぞれが大規模な軍船動員能力を持つ豪族です。加えて、百済の役に先立つ、推古天皇十年(602)には来目皇子を総大将として兵二万五千人による新羅戦争を計画した前例がありますから、斉明天皇四年(658)の唐・新羅の盟約成立の報告を受けて開戦準備をしていますと、天智天皇二年(663)までには十分な軍船は整ったと考えます。

 振り返って、遣唐使船の構造について調べると『続日本紀』に重要な記事があります。それが宝亀九年(778)の記事の「又第一船海中中断、舳艫各分。主神津守宿禰国麻呂、并唐判官等五十六人、乗其艫而着甑嶋郡。判官大伴宿禰継人、并前入唐大使藤原朝臣河清之女喜娘等四十一人、乗其舳而着肥後国天草郡。」です。この記事が示すように船が船尾部と船首部とに二つに折れても56人と41人との大人数を保持できる浮力を保っていることから、遣唐使船は水密隔壁を持つ構造船だったことが確認できます。漂流時、人々はばらばらに船板などにつかまって流されていたのではありません。
 この記事と1973年に中国江蘇省で発掘された唐代初期の民間貨物船とを比較することで、遣唐使船の概要が推測できます。江蘇省の船は唐初となる7世紀頃の長江(揚子江)中流域で使用されていたもので、全長6丈(17.3m)、最大船幅9尺(2.6m)、最大船底幅5尺(1.5m)で、水密隔壁を8か所持ち全9区画に区画されています。その区画では後部に居住区3区画、前部に貨物積載区6区画に区画し、貨物区画と居住区画とは3壁構造の水密隔壁で厳重に区画されています。この場合、海難事故に遭遇した場合、船体構造上、居住区画と貨物積載区画とで二つに折れる可能性が高くなります。ちょうど、宝亀九年の遣唐使船の事故状況と同じです。加えて、江蘇省の船は居住区に上甲板を持っていたと報告しますから、主に遣唐使一行と云う使者=人を輸送する遣唐使船では可積載重量は減りますが全面に上甲板を持ち、船体の強度補強と荒波からの浸水防止を図ったと考えられます。
 この江蘇省での唐代船の発掘情報は1975年の『文物』に載り、また、2016年編纂の「中国古代重要科技発明創造」に中国船の隔壁技術の確認上限としてこの江蘇省の民間貨物船の事例を載せますから、昭和後期から平成前期までには日本の上古代船舶研究者は中国大陸では唐代以前に既に隔壁を持つ構造船が標準的な造船技術だったことを承知しています。時代性と船舶技術の発展の妥当性からすると、本来なら特別重要な遣唐使船は江蘇省の船の構造を基準に、水密隔壁を持つ構造船を想定する必要があります。
 さらに中国では宋代のものとなりますが、福建省から船長30m級の遠洋航海用の民間貨物運搬船が発掘されています。この船は船内に12の水密隔壁を持ち13区画に分けられており、船型は浙江省の船と同じ楕円形に近い姿であり、船底は竜骨構造からの細い形状で平底ではありません。唐代初めの浙江省の船、宋代の福建省の船も復元図が示されていますから、船長30m級と推定される遣唐使船はこれらを参考に復元が可能となります。その時、現在に示される遣唐使船とは相当に異なる姿となります。ただ、中国大陸では元から明代に船舶建造用の良質な木材の枯渇からメコン・チャオプラヤ流域から大量の良質材が得られるシャム国で多数の水密隔壁とそれを繋ぐ梁の構造によって大木を要する竜骨構造を省略し、かつ、喫水の浅く平底の内航船向きの量産型船舶である竜骨無しジャンク船を大量に建造・輸入します。日本も室町以降の朱印船貿易や南蛮貿易ではこの量産型シャム産ジャンク船を輸入し安価な遠洋航海船として使用します。この歴史があり、室町以降では中国船とは主にこの量産型シャム産ジャンク船をイメージすることになります。参考に日本でも安土桃山時代には仙台藩が示したようにポルトガル船と同様な太い竜骨を持つガレオン船タイプの船を建造する能力はあり、このタイプの船はメキシコやフィリピン方面への通商に使用されています。ただ、その後の江戸幕府の大型船禁止令に加えジャンク船タイプを応用した、穏やかな気象状況の瀬戸内海航行に向いた水密隔壁間隔を大きく省略した安価な弁才船との建造コスト競争で負け、江戸初期にはガレオン船タイプの船の建造技術は失われています。
 水密隔壁を大幅に省いた弁才船がそうであるように、建前とは別に政治経済では人の命を大きなコストとは考えません。元から明代に中国の長江内航船と遠洋航海貨物船との船体コストと、「呉唐之道」航路での遭難確率(遣唐使船で22%)とを勘案し、商業採算性があれば、日本向けの遠洋航海であっても長江用の内航船を投入する可能性は有ります。また、浙江省の杭州から江蘇省の海州までは沿岸部は非常な遠浅で長江用の内航船タイプの平底船に有利性があります。杭州から海州の先にある山東州の青島までの航海距離と杭州から薩摩までの航海距離が同じなら、危険ですが冒険商業者なら船体コストが安い平底船で日本への航海を試みる可能性があります。このため、宋代にはすでに二本マストで竜骨を持つ底が細く、複数の水密隔壁をもつ遠洋航海船が運用されていますが、それとは違うタイプの元から明代の長江用の内航船となる竜骨無しジャンク船が東海(東シナ海)では主流となって運行しています。
 このような事情がありますから竜骨無しジャンク船と古墳時代の埴輪船とを折衷し、改めて描いた遣唐使船の想像図が飛鳥・奈良時代の遣唐使船を示しているかは保証されません。弊ブログの考えでは、造船時に採算コストを無視できる遣唐使船は当時の最新鋭の遠洋航海船を参考にする必要があります。日本船舶海洋工学会講演会論文集などを参照すると、推定の定員、宋代の発掘船、加藤清正の船の記録、東京国立博物館所蔵の進貢船の記録などから、遣唐使船は水密隔壁と総上甲板を持つ船長30m、船幅8mほどの船だったと推定します。ちなみに唐時代の軍船は長距離移動には帆を使い、戦闘状態では櫂を使い、長距離移動時の帆柱は戦闘前に倒して収納できるように構造になっています。このため、軍船の海戦想像図や内湾接岸時から想像したものと実際の遣唐使船の構造は大きく違う可能性があります。
 困るのは中国側の古代船発掘資料を無視した上で日本に残る鎌倉時代以降の「吉備大臣入唐絵巻」などの想像の唐船絵から遣唐使船を想像し、加えて造船工学から計算できる船長30m級の船が受ける外洋航行時の造波抵抗を無視して魯や櫂による操船を想像することです。現実、遣唐使船のような遠洋航海大型船は舷側の位置が高い為に櫂の固定位置が高くなり、腕が非常に長くなります。櫂用の窓を開け、固定位置を下げることも可能ですが、荒天波浪時には浸水沈船の可能性が非常に高くなります。つまり、安全性を勘案し、櫂の腕の長さと固定位置に船幅を踏まえると人力では櫂を漕げない可能性もあるのです。精神論だけでは物理、数学、人間の筋力からの結論を乗り越えるのは困難です。それで根性論や精神論をベースにした実験遣唐使船はすべて失敗したのです。
 さらに福建省で発掘された宋代船は二本マストの帆船ですが、遠洋航海の二本マストの帆船がいきなりには誕生はしません。試行錯誤と航海経験から進化すると考えると、二本マストの前に一本マストの遠洋船があったと推定するのが自然です。ちなみに唐代直後の北宋時代に描かれた「清明上河図」に示す大型船も一本マストの船です。
 現在、新しい遣唐使船の模型などを作成する場合、国際的な古代船研究成果から福建省の唐初時代の船などを参考にするようになってきました。そのため、平成中期までに提案された遣唐使船とは相当に違う姿があります。また、技術の伝承が途絶えると、時に古代の方が技術で優れていても、技術の劣る中世の姿で古代を想像する可能性があります。近世以前では染色・紡織技術のピークは奈良時代にあり、その時代の古代染色法が復元されるのは平成になってからです。染色法や染料製造などは正倉院御物などの実物があるため、江戸時代の技術から奈良時代を想像して技術が劣っていたとは云わず、高度な技術の伝統が途切れたとします。同じように大型船の造船技術も平安時代中期までには対新羅戦争のような遠洋航海の軍船需要や調庸物を運ぶ長距離貨物輸送などの需要が失われたことから途絶えたと考えられます。近世の例として安土桃山時代には国産のポルトガル・ガレオン船タイプの建造能力は有りますが、需要が無くなると瞬時に技術は失われます。
 視線を変えますと、戦国時代に瀬戸内海に塩飽船大工集団がおり、豊臣秀吉の朝鮮の役には朝鮮出兵の軍船建造や補修に従事し、同時に城郭建築にも従事したと伝わります。その塩飽船大工集団は江戸期には需要が増えた北前船などの商船の船大工としての職と同時に神社仏閣や豪商などの建築の職も行い、それが明治期まで技術伝統をつないでいます。また、大工さんで奈良時代の大工道具を研究している人のブログなどを眺めますと、大工道具では船大工と宮大工とで共通点が多いそうです。その例として和釘や舟釘を打つための鐔(つば)ノミにそれが見られるようです。このように、現代とは違い、船大工と宮大工との区分は無かったようです。奈良時代、聖武天皇は全国に国分寺と国分尼寺の建立を号令しますが、その時、全国沿岸部には船大工がいたから、即応出来たのでしょう。上古ですから中央と地方では技術水準は大きな格差があったと思いますが、全国各地の豪族が軍船建造などを通じて船大工を保有していたから、その技術が国府や国分寺の大規模建築にも適用できたのだろうと考えます。ただ、そのような大船建造技術も大寺建造技術も需要が無くなると消えてなくなります。しかしながら、桃山期の仙台藩のガレオン船タイプ建造に見られるように、基礎技術を保有していた結果、少数の外国人の指導があれば、太平洋横断の木造船は瞬時に建造できたのです。万葉時代も同様と考えます。対新羅戦争の軍船五百隻建造計画が、ほぼほぼ、達成できたのはこのような背景ですし、それ以前から技術を保有していたのです。
 取り止めがありませんが、現在では遣唐使についてはあらかじめの先入観を持った感覚的な解説から、適切な資料を基にした数値で研究・解説するようになり、例として奈良時代の遣唐使の帰還率は船を使い捨てと考えますと18隻中14隻の数字から78%という値を使います。これに対してご存じのように平成中期頃までは無事の帰還は半分以下だったと感覚的に解説します。この感覚的な数字が、皆さんが思う遣唐使の成功率と考えます。
 また、遣唐使の航海時期について、従来は空想的に唐の朝儀の時期に合わせたために日本側の任命から出発までの手続き・儀礼の期間を踏まえると、実際の海上航行期間と陸上移動期間から来る時間的な制約から北航路でなく南航路を選択したなどと解説しています。ところが、現代では季節風や黒潮・対馬海流などの自然条件を勘案した上で、航海ルートと時期を合理的かつ科学的に研究するようになりました。冊封制度の要請で越州会稽(杭州湾)が入港地であり、必然、海上ルート「呉唐之路」を使うことを前提にしますと、日本から杭州湾へは朝鮮海峡を北上して対馬海流を横断し、その後、北東の風に乗れば海流としては弱いのですが東シナ海(東海)反流と合わせて揚子江(長江)沖合に辿り着きます。この北東の風の最適時が旧暦の六月です。逆に杭州湾から日本に渡るには、いかに黒潮・対馬海流に乗るかがカギとなります。石垣島海域より北で世界最強の黒潮に乗ると自然に屋久島から大隅半島の海域に、上手く黒潮支流の対馬海流に乗ると朝鮮海峡へ辿り着きます。このため、杭州湾から北西の風が吹く旧暦11月から2月が最適時となります。これを反映するように円仁の入唐求法巡礼行記に示すように杭州湾には「呉唐之路」になれた杭州湾と朝鮮半島南部とを交易する新羅船・新羅船員や航海経験を持つ中国人たちが多数います。気象、海流などを勘案し、丁寧に『日本書紀』や『続日本紀』を眺めれば、遣唐使たちが冷静に自然状況を優先して航海をしていることが判ります。
既に多くの資料がネット上で閲覧できますから、旧来のように一般人は資料を見ることは無いとして、仲間内の思い付きや結論を先に置いて論説をするのはやめた方が良いと思います。
 今回、与太話を垂れ流しましたが、最新の推定遣唐使船は2021年に公開を開始した九州国立博物館が示すものが、一番、それと思います。ただ、九州国立博物館のものは二本マストを持ち、従来の想像図に従いつつ宋代の遠洋航海船や吉備大臣入唐絵巻を写しています。弊ブログでは唐代直後の北宋時代の「清明上河図」に描かれた船を参考にすると、飛鳥・奈良時代の遣唐使船はまだ一本マストだったと考えています。
 参考に、九州国立博物館のものは中国や日本の発掘成果を取り入れるなどの方法論であり、奈良県の平城宮跡歴史公園の昭和時代からの引継ぎである絵画を中心に想定したものとでは研究方法論が違うため得られた結論は船体構造などで大きく違います。馬鹿々々しいのですが、九州国立博物館のものは帰還率78%を考慮して東シナ海を船として航海できることを前提とした船体船型ですが、平城宮跡歴史公園のものは難破を前提としたような装飾の船体船型です。どうも、先人研究者の伝統の厚みを反映して遣唐使航海への根本思想が違うようです。まずはともあれ、両船はネットで確認できますので、ネットサーフィンで検索してみてください。
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万葉雑記 番外雑話 万葉時代の遣唐使の航路

2021年04月24日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 番外雑話 万葉時代の遣唐使の航路

 今回もまた備忘録のようなものとなっており、万葉集の歌の鑑賞には直接には関係しません。ただし、万葉時代は唐の文化や制度を取り入れ、社会を大改革する時代です。その時代の基盤を支えた遣唐使やその遣唐使を運んだ船舶を知ることは、多少、意義はあると考えます。
 さて、万葉時代、遣唐使は国家の一大事業です。当時にあって、旧態とした社会を近代国家へと変身させる大事業の遂行中にあって、必要な知識や技術を導入するためには唐への遣唐使派遣は必要不可欠です。一方、大陸の唐は伝統的に管理貿易を実施しており、海上交通路を使い、不定期に朝貢する遠夷国に区分される日本は、朝貢・下賜の形を取る朝貢交易以外、表立った貿易を行うことは唐の商業管理制度からすると出来ません。密貿易や蕃夷国区分で毎年朝貢の中で交易が許された渤海や新羅を経由する形で書籍や物品の調達は可能ですが、日本からの遠隔的な要望書通りに調達し、日本に運ぶことは非常に困難性があります。国家レベルの法制度や学問の整備では一そろいの資料・書籍が必要です。
 この大陸側の管理貿易体制を反映するかのように遣唐使の帰国に合わせて、飛鳥・奈良時代の漢文文化水準は階段状に進化・発展します。万葉集でも山上憶良の帰国頃から『遊仙窟』を引用したもの、李善の『文選注』を引用したものが見られるようになります。特に大伴旅人と藤原房前との相聞となる「謌詞両首」の作品などのように李善の『文選注』を知らないと解釈が困難なものがありますから、遣唐使が持ち帰った漢籍は非常に重大です。それを示すように、養老元年の多治比県守を代表とする遣唐使は長安の市中の書籍、すべてを購入・持ち帰ったと唐側は驚きを持って記録します。
 ここで、その遣唐使に話題を振りますと、現在、遣唐使の航路の解説では「北航路」と「南航路」の二航路を示し、日本と新羅との外交関係が良好な時は、その航路として朝鮮海峡を横断し、さらに朝鮮半島西岸を北上、その後、甕津半島(現在の北朝鮮黄海南道)から渤海海峡を横断して冊封国を受け入れる山東半島 登州港(現在の山東省煙台市)や莱州港(山東省東栄市)に向かう「北航路」を採用したとします。
 他方、一旦、日本と新羅との外交関係が悪化すると、朝鮮海峡を横断した直後に半島への寄港や西岸北上を行わずに真西に転進し、東シナ海(現在の東海)を横断して大陸の揚子江(現在の長河)河口に位置する越州会稽県須岸山(現在の浙江省舟山市 舟山諸島)を目標とする「南航路」を使用したとします。(注意;越州は隋朝大業元年(605)以降の名称で、それまでは呉州)
 ただし、唐が定めた冊封制度では山東半島の登州港や莱州港は毎年に朝貢貿易を行う蕃夷国区分の新羅や渤海に許された港であり、不定期に朝貢する遠夷国に区分された日本にはその山東半島の港への入港が許可されていなかった可能性があります。なお、後漢から梁時代、日本は呉州会稽太守が管理する夷洲(台湾)及び亶洲(日本)に区分されていますから、これを唐が踏襲しますと日本は越州(旧呉州)会稽太守の管轄となり、唐の冊封制度では杭州湾の紹興(現在の浙江省紹興市)が入港地となります。ちなみに新羅は朝貢貿易を維持する為に、唐・新羅戦争中も冊封国の立場を放棄していませんから、密貿易などの抜け道がないほどに唐側の貿易管理は厳しく行われています。
 ここで、遣唐使について言葉を確認したいと思います。私のような凡なる人間は、根がそそっかしいので、遣唐使とは日本の京(飛鳥の宮/平城京/平安京)から唐の京(長安)への勅使による外交団派遣と思い込みます。一方、歴史の専門家は遣唐使を唐国へ派遣された使者と文字通りに理解します。このため、遣唐使の最初の渡航先が取次と伝送の義務を負う冊封国の新羅や朝鮮半島の唐国の出先機関である熊津都督府でも唐国への使者の経路となります。この場合、従来の滅亡前の百済への渡航経路との違いが出て来ません。
 そこで、弊ブログでは「遣唐使」とは冊封国の新羅に取次・伝送を求めない日本の京から唐の京への勅使による外交派遣団と定義します。つまり、斉明天皇三年(657)から四年にあった沙門智通、智達たちの奉勅を下に新羅船に便乗した唐入国や、舒明天皇四年(632)の新羅送使に頼って帰国した舒明天皇二年(630)の遣唐使 犬上君三田耜は弊ブログの定義する「遣唐使」に含めません。『日本書紀』からすると遣唐使 犬上君三田耜は往路でも自前の船団を持っていませんから、唐から招聘/招待を受けた遠夷国である日本が取次と伝送の義務を負う冊封国 新羅の新羅船を使い、唐の窓口 莱州港へと伝送されたと考えます。一般的なイメージの「遣唐使」とは違うのです。彼は、ある種の業務連絡としての唐への使いです。
 ここで、従来の認識と異なる話をもう少し紹介します。
 壬申の乱の時に大海人皇子が吉野を脱出し陸路、桑名郡家に到着した時に、紀伊国を支配する紀臣阿閉麻呂が既に桑名郡家で待機していました。その紀臣は欽明天皇の時代、朝鮮半島の安羅日本府で韓婦を娶って子を生し、その子、紀臣奈率弥麻沙が百済の武人になるなど、古代にあって紀伊国から朝鮮半島との海上交通能力を持つ一族です。その紀臣阿閉麻呂が戦争を前提に紀伊国から伊勢国桑名郡家に陸路以外を使って到着していますから、当然、軍船を率いて紀伊半島を廻っての出兵です。壬申の乱の時、その紀伊水軍の威力により、二万の軍勢を持つ尾張国司守の小子部連鋤鉤は熱田から桑名への伊勢湾渡海作戦と桑名郡家への攻撃が出来ずに無戦闘のままに降伏した訳です。
 次に応神天皇の枯野の伝承が示すように、古代から伊豆国は朝廷の重要な造船拠点であります。加えて奈良時代の軍船建造とその回航の記録、また、国司や防人などの公人の行動記録、延喜式に載る交易雜物の分量などから、難波大津から紀伊半島、伊勢湾と巡り、遠江国国府(大之浦)、伊豆国御嶋への大船の直航路があったと推定されます。この航路の中で難波からの最初の太平洋の風待ち港である紀伊国加太湊から伊豆国御嶋までは海上航路で約470kmです。不思議ですが、飛鳥時代、遣唐使航路で「呉唐之路」と称された、朝鮮半島の沖合、百済南畔之嶋(現在の済州島北岸)から越州(隋朝大業元年に「呉州」から変更)会稽県須岸山(現在の浙江省 舟山市舟山諸島)までの海上航路は約500kmです。外洋航海の距離からすると奈良時代の太平洋航路と遣唐使航路とは大差がありませんから、当時の日本が保有する船舶の性能や造船技術からすると遣唐使渡海への制約は無かったと考えられます。
 また、養老六年(722)に「唐人王元仲始造飛舟進之。天皇嘉歎、授従五位下。」と云う記事があり、機会があれば朝廷は積極的に最新の造船技術を取り入れています。さらに「延喜式 大藏省 諸使給法」に定める入諸蕃使の規定では遣唐使の一行には船匠、鍛生、鑄生、細工生が含まれ、航海では造船技師たちを同行させることになっています。何かがあれば、船匠たちは水夫たちを使って対応するわけです。
 木造船の時代ですから外洋航海に出る場合、その船に乗り込む船大工たちは、当然、十分に点検・メンテナンスをしますし、渡航先では現地の船大工たちの応援を頼むでしょう。外交使節団などの相互交流があれば、それを支える船舶の造船技術やメンテナンス技術は先進側から伝わるのです。このような背景がありますから、遣唐使時代、日本の造船技術が大陸や半島に対して落ちるかというと、制度で制限をしない限り、その可能性は低いと思います。
 もう少し、上古時代の海運に触れますと、律令時代の庸調物(後には交易雜物)の割り当て分量に対し生産地から奈良の都への輸送とその貨物重量を考える時、船舶での運搬を考慮しないと人力運搬では運び切れないのです。駅馬の制度がありますが、庸調物や交易雜物の納入期間は全国一斉です。近国遠国で差がありますが、運搬距離を踏まえると陸路では主要街道に運脚キャラバン隊が集中することになります。貨物重量と運送の実務からすると、海上輸送ルートが確保されていたと考える必要があります。それを反映するように対新羅戦争の号令がかかると、全国の沿岸諸国は朝鮮海峡を越える能力を持つ軍船を建造し、それを難波大津や大宰府那珂湊に廻船します。造船技術や操船技術は即席には生まれませんから、飛鳥から奈良時代、社会は長距離の航海に耐える造船技術や操船技術を保有し、それを日常的に使っていたと考えるのが自然です。これらについては断片資料しか発見されていませんから、文献学上では長距離太平洋航路は無かった、造船技術は未熟だったと結論つけます。
 気を取り直して、先に紹介した遣唐使航路の「呉唐之路」に関して、推古天皇十七年(609)に大陸の呉州(越州会稽)を出航した百済船が肥後国葦北津(現在の熊本県芦北市)に入港した事件があります。船長の申告では、事件の経緯として百済帰国を目指し呉州を出航後に暴風に遭遇し、場所が不明のままに肥後国葦北津に入港したとします。また、雄略天皇五年(461)に「呉国遣使貢献」の記事、雄略天皇十二年(468)に呉国への使いの記事「身狭村主青与檜隈民使博徳出使于呉」があり、その身狭村主青の帰国を記す同十四年の「身狭村主青等共呉国使、将呉所献手末才伎、漢織、呉織及衣縫兄媛、弟媛等。泊於住吉津」の記事があります。どうも、上古代 既に大陸の越州(旧呉州)会稽付近と朝鮮半島南端とを結ぶ航路があり、これを奈良時代には「呉唐之路」と呼び、大和の人々は大陸 揚子江方面との連絡では朝鮮海峡を渡った後に、この「呉唐之路」を使ったと思われます。つまり、南宋の趙汝适の《諸蕃志》に載る「在会稽之正東」、唐の姚思廉の《梁書・諸夷伝》に記す「去帶方萬二千餘里,大抵在会稽之東,相去絕遠。」の通りです。越州の会稽県須岸山(現在の浙江省 舟山市舟山諸島)の真東は鹿児島県薩摩半島付近ですから、概略なら会稽から見て大宰府付近はほぼ東です。大陸南部の人たちは朝鮮半島への航路「呉唐之路」を知っていますから、百済が会稽の東北東で、日本は百済の南だから日本は会稽の東にあると判断したわけです。
 参考として、唐時代中期にあっても大陸側の認識では安禄山の動乱余波の中、長安から大陸を横断して山東半島を経由して渤海から日本に向かうよりも、越州の会稽から船で帰国するルート「南路」の方が安全と考えています。唐に向かうのに渤海を経由した天平宝字五年(761)の迎藤原清河使の高元度たちは帰国時には唐側の推薦に従い陸上では「南路」、海上では「呉唐之路」となるルートを採用し、大宰府に帰朝しています。その帰国のために唐朝廷は長八丈(約24m:新羅船相当の大きさ)の船一隻を造船し下賜しています。
 ただ、「呉唐之路」は季節風の風向に左右されますので、陸路の治安が守られ、また、季節風の時期待ちをしない場合は、山東半島、渤海海峡横断、甕津半島、朝鮮半島西岸を南下し、朝鮮海峡横断するのが一番の確実なルートとなります。大和の歴史ではこれを「新羅道」と称したようです。
 遣唐使の歴史を見ると、白雉四年(653)の高田首根麻呂を大使とする遣唐使船は「呉唐之路」を採用します。この時は二船団構成で、大使 高田首根麻呂の第一船は薩摩半島と竹島の間で難破しています。翌年の白雉五年(654)の高向史玄理を大使とする遣唐使船は「新羅道」を採用し、山東半島の北側の莱州で上陸し、陸路、長安へ向かっています。
 改めて『日本書紀』と『続日本紀』を確認しますと、飛鳥から奈良時代の「遣唐使」の歴史の中で「新羅道」航路を使用したのは高向史玄理の時だけで、それ以外の「遣唐使」はすべて「呉唐之路」の航路を使用しています。ただ、もう一つの例外では玄宗皇帝時代の安禄山の動乱時代に藤原清河の救出を目的に派遣された迎藤原清河使の時で、その時は動乱の中での漂流時の現地民による殺害強奪を恐れて渤海経由を選択しています。これらの記録を参考としますと、「遣唐使」の標準海上航路は歴史的に一つで「呉唐之路」であり、現在の解説で云う「南航路」です。解説の「北航路」と称す「新羅道」は事例一回の特殊ケースのルートですから、これを「遣唐使」の正規ルートとするには無理があります。
 どうも、大陸側と日本側で律令体制の制度整備が進み、唐朝の冊封体制の確立とその朝貢ルート及び担当する地方所轄の整備が終わると、日本の所轄は杭州湾の会稽が、渤海や新羅は山東半島の登州/莱州が執った可能性があります。また、冊封体制では日本が朝貢に新羅経由を望む場合、都度、冊封国新羅の斡旋と了承を受け入れる必要があります。冊封国新羅の斡旋を嫌えば、冊封体制の建前で遠夷国の日本は自力で杭州湾の会稽に行く必要があります。加えて、白雉四年の遣唐使の時、まだ、大和の友好国である百済は勢力を保っていますから、朝鮮半島の動静よりも唐側の冊封体制による都合の方が大きな比重があったと想像します。

 おまけで、『隋書 俀国伝』に「俀国在百済新羅東南、水陸三千里於大海之中、依山島而居。魏時譯通中國三十餘國、皆自稱王、夷人不知里數、但計以日、其國境東西五月行南北三月行各至於海。地勢東高西下、都於邪靡堆。則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東。與儋耳相近」の一文があります。
 この末句の「與」を范曄の『後漢書 倭伝』の「與朱崖・儋耳相近、故其法俗多同」と同じく「又類也」の意味と理解しますと、末句の意味は民族を示すものとなり、ここでは儋耳(海南島)の人と似ているとなります。ちょうど、「梁職貢図」に描かれた倭人の姿と同じ理解です。つまり、『隋書』の「古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東。與儋耳相近」の理解は、「昔、倭国の場所は後漢の樂浪郡を起点に道程を計れば一萬二千里の距離にあり、大陸を基準に考えると方角は越州会稽の東にあり、その民族は海南島の人に似ていると伝えた」となります。この地理報告書はおおむね正しいものです。
 この紹介する『隋書』の文章は、隋使の報告文、魏時代の記述、それよりも古い時代の伝承の三つに構成されています。およそ、最後の文は『後漢書 倭伝』の「倭在韓東南大海中、依山㠀為居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國、國皆稱王世世傳統、其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)。楽浪郡徼去其國萬二千里、去其西北界狗邪韓國七千餘里。其地大較在會稽・東冶之東。與朱崖・儋耳相近、故其法俗多同」からの引用と考えるのが相当です。ただ、隋時代の解釈では地域名の會稽が越州、東冶が福州を指し會稽・東冶では地域としては広域であること、また、朱崖が雷州半島、儋耳が海南島を指しこれまた広域であることに加え、民族に関しては雷州半島には山岳民族ミャオ族もおり、海南島海岸部の海洋民族の閩越族と風俗・風習が大きく違います。このため、『隋書』では新たな知見の下、読み手の理解での正確性を付加する為に地域では越州の會稽、民族では海南島閩越族を意味する儋耳に対象を絞ったと思われます。
 このように紹介しますと、なんとも、つまらない話ですが、『日本書紀』、『続日本紀』、『隋書』、冊封の規定などを丁寧に確認すると、『後漢書 倭伝』や『隋書 俀国伝』の記述に地理学上での理解困難な記述は何もありません。万葉時代、人々はこのような理解と地理知識で遣唐使となり、大陸と交流をしていたと思います。
 終わりに、弊ブログの立場は、柿本人麻呂は人生の最終盤に長門国守を務め、その任期が終わった後に長門国油谷湾から大宰府那珂港経由での帰京の途中に玄界灘で海難事故に遭い、水死したと推定しています。江戸時代にあっても大阪・江戸間の菱垣廻船航路でも年間20隻程度が海難事故に遭っているとの記録が有るそうですから、奈良時代でも遣唐使だけでなく、国内航路でも一定程度の海難事故に遭遇していたと考えます。万葉集を眺めますと沈没はしていませんが、遭難一歩手前の状況を示す柿本人麻呂の詠う讃岐狭峯嶋の歌や遣新羅使の歌群に佐婆海中の歌があり、さらに山上憶良の詠う筑前國志賀白水郎謌十首は白水郎荒雄の九州・対馬航路での海難死を悼む歌です。現代人では想像が難しいと思いますが、万葉人は旅行では一定程度の確率で人は死ぬと覚悟していたようです。
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万葉雑記 番外雑記 万葉時代と化粧美容

2021年04月17日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 番外雑記 万葉時代と化粧美容

 前回、「平安貴族、遊びの教養 その二」で、下記に示す万葉集の集歌2408の歌を扱いました。この歌の言葉「眉根削」を改めて検討する過程で万葉時代の化粧や美容について再確認する必要が生じ、その確認作業で標準的な解説と現時点での考古報告などとに大きなギャップがあるのではないかと疑問が生じました。
 化粧法について、男が見てそれぞれの時代で大きく違うのは眉の位置と描き方です。法隆寺由来の御物「聖徳太子及び二王子像」、正倉院蔵の「鳥毛立女屏風」や各種の落書絵から奈良時代の眉の位置は自然に眉が生える位置と同じです。ただ、資料が少なすぎるために時代としての化粧法の詳細は不明です。
 次に資料が揃うとされる平安時代から化粧を考えますと、一般的に厚塗りの白粉による化粧法を前提として、歌舞伎系のその化粧法から想像し、平安女性の化粧姿は眉を剃り落とし、額の高い位置に置眉した姿、俗に云う「麿顔」を想像します。ところが平安時代の作品と確認出来る「堤大納言絵巻」、「源氏物語絵巻物」、「信貴山縁起」を確認すると平安女性の眉は高い位置での置眉ではなく、自然の眉の位置での横一文字型の太眉毛です。眉の作り方は飛鳥・奈良時代が柳眉と称される細い三日月型が平安時代中期には太い横一文字型に近い姿に変化したようです。しかしながら、平安時代後期までにあっても眉の位置は地毛と同じです。なお、男性のものとなりますが、鎌倉時代の作品の「中殿御会図」では同じ絵画の中で同時に太い横一文字型の眉と高い位置の置眉とが確認できますので、その例を使い、置眉の言葉の定義と眉の描き方の判定基準としてください。
 確かに平安時代末期から鎌倉時代初頭の「病草紙」の庶民の顔に置眉(高眉)に類似した太く、ぼやけた眉を描く姿を確認できます。ただ、鎌倉時代の「北野天神縁起絵巻」、「公家列影図」、「天子摂関御影」、「中殿御会図」などに見る平安時代後期から鎌倉時代前期での天皇や公家の姿からすると男性貴族では標準眉が一般で、置眉は少数派です。これらから置眉の初期を鎌倉時代初頭と考えますと、眉化粧は平安時代末期から鎌倉時代ごろに変化が現れ、高い位置での置眉は室町から江戸初期に公家化粧の主流になったと考えるのが正しい認識です。
 下衆の憶測で、背景として明治26年に青木嵩山堂から出版された単なる娯楽書である『中古諸名家美人競』や江戸時代に描かれた各種の物語絵巻などを時代考証無しで上古絵として引用する姿があり、ポーラ文化研究所のようにそれらは歴史風俗を忠実に反映したものとして考えた可能性があります。江戸期に描かれた公家姿がそのまま上古を反映しているかは保証していません。
 なお、平安期に「虫愛でる姫」のように個性を強烈に主張し、規定から外れた好みの化粧を施した例も記録に残りますから、絵巻に見る横一文字の太眉毛化粧は典型例でしかありません。「虫愛でる姫」は剃毛や抜毛をしていないゲジゲジ眉と批判的に伝わりますが、「源氏物語絵巻」の女性たちもまた柳眉ではなく太眉毛で表現されています。いつの時代も女性の美容の目的は本人の姿をより美しく見せるものですから、確かに伝わる「堤大納言絵巻」、「源氏物語絵巻物」や「信貴山縁起」に示す女性像は、それが描かれた平安時代末期の絵師たちが想う典型様式だけの可能性もあります。それに『源氏物語』では衣装などにそれぞれの女性の個性を表現しますから、衣装と顔の造りとをマッチングさせる感覚があるなら、万葉時代から平安時代にあって個人の資産を保有し、希望すれば女官や商業・農園経営などの職業に就く時代、そのような自由な女性は美容・ファッションでも想像以上に自由だった可能性があります。
 ただ、平安時代の美人判定で女性の目は細目が美人としていますと、顔を絵画で表現する時に細目をデホルムして細い一本線としますと、バランス上、柳眉ではなく眉を太く描く可能性があります。それがちょうど「源氏物語絵巻物」や「信貴山縁起」に示す女性像です。一方、文学側からは平安時代でも柳眉は生きた言葉ですので、柳眉の化粧を行った可能性はあります。しかしながら、平安時代の絵画は宗教上の迷信などから特徴的に人物写実性を持たないために同時代性の絵画などでは確認できていません。場合により、「源氏物語絵巻物」は、現代マンガが女性の目を極端に大きくデホルムして描くのと同じ、顔についてはマンガ絵以外の役割を持たない可能性があります。この場合、平安時代の化粧法の資料は無くなります。
 また、伝統和刃物の生産地などの情報では庶民が化粧をする時に剃刀を使うようになるのはおおむね生産地の起源と重なる鎌倉から室町時代以降とします。一般にはそれぞれの産地の都合があり、和刃物の生産地の起源とその地域での剃刀の普及時期を合わせるようです。ところが、剃刀自体は剃髪を目的に頭や顔の形に馴染むように開発された刃物で、日本には飛鳥時代の仏教僧侶の到来と時期を合わせます。つまり、飛鳥時代後半までには大和中心地までに到来し生産されています。さらに、この剃刀と同様な小さなサイズ感の刃物に刀子があり、これは仏教僧侶の到来以前の弥生時代から使用されています。ちなみに平安時代の『和名類聚抄』の区分では「剃刀」は髪剃り専用の刃物で、「刀子」は髪剃り、爪切り、筆先切り、物切りなどの汎用の小型刃物として区分します。このため、刀子を髪剃り専用に使うと「加美曽利(剃刀)」と呼ぶことになります。なお、今回の化粧の与太話は、上古代の貴族階級の女性が行っていたものが対象で、五節舞などでの神事巫女化粧や庶民の女性は対象としません。
 ここで、万葉時代の化粧に関わる集歌2408の歌を眺めます。

集歌2408 
原文 眉根削 鼻鳴紐解 待哉 何時見 念吾君
訓読 眉根(まよね)削(か)き鼻(は)鳴(な)き紐(ひも)解(と)け待つらむか何時(いつ)しも見むと念(ねが)ふ吾が君
私訳 (あの時と同じように)眉を刮り整へて、甘えた声で下着の紐を解かれる時をいつまで待つのでしょうか。いつ何時でも抱かれたいと思う、私の貴方。

 流れの関係で集歌2408の歌を先に紹介しましたが、次の集歌993の歌や集歌1853の歌に示すように万葉時代の女性の眉は横一文字型に近い三日月型をした細い柳眉です。これは遣隋使や遣唐使による情報、また、高句麗などの大陸文化の影響を持つ帰化人から情報を得て、宮殿の板吹き屋根が瓦葺き屋根に置き換わるような怒涛の近代化の中で大和の女性が衣装や装飾品を含めて大陸の最先端ファッションとして取り入れた結果と考えます。

集歌993
原文 月立而 直三日月之 眉根掻 氣長戀之 君尓相有鴨
訓読 月立ちてただ三日月し眉根(まよね)掻き日(け)長く恋ひし君に逢へるかも
私訳 月が変わり、真っ直ぐな三日月のような細い眉毛を刮り整へる。すると、日一日をずっと慕う貴方に逢えるのでしょうか。

集歌1853
原文 梅花 取持見者 吾屋前之 柳乃眉師 所念可聞
訓読 梅の花取り持ち見れば吾(あ)が屋前(やと)し柳の眉(まよ)し念(おも)ほゆるかも
私訳 梅の花を手に取り持って見つめると、私の家の前庭にある柳の、その柳の葉のような眉をした貴女を思い出してしまいます。

 さらに万葉時代人の美少女の感覚は大陸の漢詩に示すような十六から十八歳ぐらいの健康な少女がピンクの色濃い桃の花の下に立つ風情です。文学世界の美少女は表情を消すヌリカベのような厚塗りの白粉姿ではありません。素肌そのものの顔の状態を示す言葉「素賓」の語源そのものです。

集歌4139 
原文 春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立感嬬 (感は女+感の当字)
訓読 春し苑紅(くれなゐ)にほふ桃し花下照る道に出で立つ感嬬(おとめ)
私訳 春の庭園の紅色に輝く桃の花の下の光輝く道に出で立つ官女の少女。

 万葉時代、近代に類する化粧品が無かった訳ではありません。白粉は既にあり、それは大正時代までのものと同じ鉛を主材とする鉛白白粉ですし、口紅では水銀系の朱、鉛系の丹、紅花系の赤があります。特に万葉時代の白粉の主材となる鉛白は、正倉院御物などの分析から奈良時代に限り大陸よりも高度な生産技術を下に純白からやや青みがかかった白まで色調を変えることが出来ました。
 加えて化粧法の研究者は集歌1911の歌の「左丹頬經」の言葉に、李白の詩『王昭君』の「上馬啼紅頬」に示す大陸での頬にピンクを載せる化粧法と似た化粧法を見、白粉である鉛白に鉛系の丹を加え淡くピンク色としたものを頬に載せたのではないかと推測します。参考として、平安時代に描かれた各種の絵巻物での女性は太い横一文字眉に頬はピンクで表現するのが標準となっています。

集歌1911
原文 左丹頬經 妹乎念登 霞立 春日毛晩尓 戀度可母
訓読 さ丹つらふ妹を念(おも)ふと霞立つ春日(はるひ)も暗(くれ)に恋ひわたるかも
私訳 頬ほんのりと赤みが挿す愛しい貴女を思い浮かべると、霞が立つ春の一日も暗く感じるほどに思いつめて恋い慕います。

 改めて美容法を眺めますと、万葉時代、大陸では隋時代までには絹糸除毛法が生まれており、大陸の高貴な女性は絹糸除毛法で顔の産毛やムダ毛を処理し、その後にスキンケアとして『千金翼方』に示す「面脂」を塗り、肌に潤いを与えると共に、その油分で白粉を受け止めたとします。この「面脂」は木蘭や白芷などを調合しアルコール等で抽出した植物系の生薬エキスを麝香油などの動物性油脂で軟膏としたもので、現代での保湿クリームであり、化粧下地のクリームです。面脂で油性下地を整えた後に白粉を塗り色白にベースを調え、唇のアクセントに個性により濃い赤なら朱、ややオレンジ系の赤なら丹、明るい赤は紅花で口紅を施します。さらに頬に紅白粉を薄く掃き、紅頬顔で明るく見せるのが隋・唐の大陸風です。参考に歌舞伎では水白粉を使う場合、基礎に椿油を薄く均等に施してから塗り白粉をするそうですから、油性の面脂を施してから白粉を施す方法と同じ理屈なのでしょう。
 大陸・台湾側の天然由来の化粧品メーカーはこのような化粧方法を則天武后が好んだと宣伝します。同じように大陸で則天武后への拝謁や宮廷官女から情報を仕入れた遣隋使・遣唐使たちが、推古天皇、斉明天皇、元明天皇たち、歴代の女帝に最新の隋・唐の化粧方法を伝えたと思います。また、面脂は中医の処方薬ですから、女性それぞれの肌質と好みの匂いに合わせたオーダーメイド化粧品です。
 平安時代の美容情報を確認しますと、宮廷の儀式内容を研究し、それを明らかにすることを目的とした『江家次第』が平安時代後期に編まれており、その十七巻に天皇元服で使用する調度品に壷厨子を示し、その厨子に納める鏡台の中に『神農本草経』の「千金翼方」に記す檀香などで調合された口臭予防の「口脂」、肌への潤いを目的とする「面脂」を備えるとします。『江家次第』では皇太子の顔作りの用具を示しますが、女性も同様でしょうから奈良時代までに到来した中医書に載る「口脂」、「面脂」などは貴族階級では標準に使用されていたと考えます。ちなみに『医心方』巻四では、腋臭、体臭などの匂い改善や予防法、痣、ホクロや肌荒れ対策など、現代の美容に関わるものと同様なトラブルへの処方を記載します。
 以前に『医心方』の「房内」を紹介しましたが、房中術では肉体的美人を色白で、骨格は細く、肌に潤いがあり、滑らかでやや脂肪がついており、陰毛は無いか、淡いのが良く、脛毛の濃いのは不可とします。これを受けて、大陸では隋代からの伝統で良家の正妻となる女性は絹糸除毛法による全身脱毛法を施すと伝わります。その伝統を受けて中国、台湾、韓国などの絹糸除毛法のエステサロンでは隋以来の伝統技法としてその技術解説を行います。
 一方、大和では美容法の中で全身脱毛法だけは取り入れなかったようで、伝統的に大陸とは違い、大和の偃息図や春画では男女ともに豊かに陰毛を描くのが伝統です。ただし、技術の由来は不明ですが、江戸期の江戸市中の女性にも蛤、軽石や線香などを使った手足、陰部、眉の脱毛・手入れが広まったと記録します。技法では、二枚の蛤の貝殻で切り揃える、小さな軽石どうしで陰毛を挟んで擦り切り整える、線香で一本一本を焼き揃える方法があり、また、油と軽石の粉を混ぜて作った脱毛剤を使用し手足に塗って擦ることで体毛を脱毛し、眉毛は毛抜きを使用して抜毛して整えたとします。江戸の高級遊郭は上方が由来と伝わりますから、脱毛法などもまた、上方・京文化と推定されます。つまり、上方・京文化にそのような技術伝承の歴史的な素地があったと考えます。それでも、伝統的に大陸とは違い、陰部は手入れをしても無毛ではありません。
 なお、大陸や半島では房中術で示す養生法では陰毛は無いか、淡いのが良き女性とし、そのような女性と交わることが保養とします。この保養法から発展して童女性交の悪習がありますし、無毛からの全身脱毛法です。一方、万葉集の集歌3822の歌に暗に半島人の悪癖を批判するものがあり、大和人は成女となっていない年少の女性との性交をタブーとしています。大和の風習では、まず、初潮を確認し、妊娠が可能なほどに成熟したと認められた少女は「髪上げ」、「腰巻祝」、「裳着」などの成女式の儀礼を行い、周囲に成女を披露してから始めて夜這いや野合などの性行為が可能になります。ところが、集歌3822の歌はそれ以前の童女を寺の空き家に連れ込んでの性交渉を示唆します。大和の女性の肉体上の成熟の確認と周囲への周知の風習の下では、成熟を明確に示すためにも陰部は無毛よりも和毛の状態が好ましいこととなります。大陸のものとは違い、日本の春画では身分を問わずに女性に陰毛を描くのは童女性交ではないとする、暗黙の了解かもしれません。このような風習がありますと、大陸や半島とは違い、美容術に化粧を行うための顔剃りの風習はあっても全身脱毛法の風習は育ちません。

集歌3822 
原文 橘 寺之長屋尓 吾率宿之 童女波奈理波 髪上都良武可
訓読 橘の寺の長屋に我が率(ゐ)寝(ね)し童女(をとめ)放髪(はなり)は髪上げつらむか
私訳 橘の寺の長屋に私が引き込んで抱いたまだ童女でお下げ髪の児は、もう、一人前の娘になり髪上げの儀(成女式)をしただろうか。
左注 右謌、椎野連長年脉曰、夫寺家之屋者不有俗人寝處。亦稱若冠女曰放髪丱矣。然則腹句已云放髪丱者、尾句不可重云著冠之辞哉
注訓 右の歌は、椎野連長年の脉(み)て曰はく「夫れ、寺家(じけ)の屋は俗人の寝る処にあらず。また稱へて冠(かふむり)の女を『放髪丱(うなゐはなり)』といふが若(ごと)し。然らば則ち腹句已(すで)に『放髪丱』といへれば、尾句に重ねて著冠(ちゃくくわん)の辞(こと)を云ふべからざるか」といへり。
注訳 右の歌は、椎野連長年が評論して云うには「そもそも、寺の家屋は俗世間の人が寝る処ではない。また、成人の女を称して『放髪丱(うなゐはなり)』と呼ぶではないか。それであるならば、第四句に既に『放髪丱』というのであれば、末句に重ねて成人となった証の儀式のことを云うべきではないのではないか」といった。

 気を取り直して、先に化粧品を紹介しましたが、具体的には現代の舞妓さんなどが使うような白、朱、丹、赤、緑、青、黄などの着色材・染料はあり、それを化粧品の用途に合わせて配合し、各種の植物油、へちま水などで肌に馴染むように展ばし使用したと伝わります。一方、正倉院御物などから推測して、貴族階層には剃刀(かみそり)、箏刀(たとう)、鉸刀(はさみ)、刀子(とうす)、鑷子(けぬき)、筆、絹綿(わた)などの用具が使われています。箏刀については丸太の皮剥ぎに使う円弧刃のような形状のものと思われますが『和名類聚抄』にも載らないほどに実態は判らなくなっています。ただ、奈良時代には既に江戸期から明治期初頭と同じ程度の化粧品、化粧用具、美容医薬品はありました。逆に体内摂取により体臭や口臭を改善する漢方薬などは万葉時代から平安時代中期までの方が豊富だった可能性があります。
 以前にも紹介しましたように貴族階級では飛鳥時代から既に大規模な夜通しの宴会、豊明節会などを行うように十分な夜間の室内照明(灯明や蝋燭など)はあります。平安時代でも『紫式部日記』の土御門邸行幸の段で示すように、御幸に参列する小少将の君は明け方に実家から戻って来ますが、世話をする女房達はそれ以前に屋敷内で化粧をしています。ここから、人前に出ても恥ずかしくないほどの化粧の施すための明りは十分にあったことが読み取れるのです。従来の説明での、室内が日中でも薄暗く、よく判らないから真っ白に塗りたくった化粧方法だったというのは単なる想像ですし、そのような結論を先に用意して意図的に照明器具の配置や数を減らした上で、歌舞伎顔を想像しての提案です。本来なら夜間の宴会で笏に墨で漢詩を書き、読むための明るさはどれほどかを確認し、灯明や蝋燭の配置を決めてから議論すべき話です。
 従来の説明とは違い、清少納言にしろ、紫式部にしろ、高級な女房の立場の女性でも日の光の下で、業務上、多くの貴族たちと対面します。それで十分な化粧をしていない時に顔を見られたとか、化粧が崩れた時の顔を見られたとか、大騒ぎをした様子を物語するのです。そのようなとき、高級女房たちは単独ではなく、周囲には年齢や経済力などの関係からうら若い素肌に近い化粧の御付きの女たちもいる訳ですから、さて、美意識として表情を表さないヌリカベのような厚塗り化粧法を採用したでしょうか。彼女たちの美意識ならヌリカベにならない程度で、歳相応の化粧を施したと思います。
 参考として、平安中期の女性たちのファッション感覚を示すもので、現在の『枕草子』には存在しませんが、古くから『源氏物語』の「師走の月夜」へのセンス問答について、『原本 枕草子』に載る「すさまじきもの、媼の化粧、師走の月」を引用していると解説し、この「媼の化粧」とは小皺やシミなどの欠点をカバーする厚化粧のこととします。つまり、清少納言や紫式部たちは厚化粧を「すさまじきもの」と批判しますが、従来の化粧法解説は、逆にこの「すさまじきもの」を標準化粧法として紹介します。
 なお、その塗り白粉による化粧法をしたと思われる明治6年頃の写真を「和子内親王(実際は熾仁親王妃董子)」の名称で、また、明治20年頃の写真を「紀州徳川美人三姉妹」の名称で検索が可能です。言葉からのイメージと写真画とでそのギャップを確認して見て下さい。明治初頭の和子内親王と勘違いされた王妃董子は伝統の宮内衣装姿ですから、お顔も伝統で作られたと思いますが、歌舞伎の「麿顔」ではありません。庶民レベルとしても、日本女性の最古の写真はフェリーチェ・ベアトが横浜の高級娼婦や芸者をモデルに採用して撮ったものとされ、時期は文久3年(1863)から明治10年(1877)です。この時代、まだ西洋化粧術は紹介されておらず、女性の顔は伝統の大和化粧法です。明治初期の写真を検索していただき、そこから江戸時代後期の市中や宮中の女性を想像してもらうと、従来の説明に強烈な違和感を持つのではないでしょうか。いつの時代も、自分は美人だと認識する若い女性は素肌に近い透明感を持った化粧法が一番、美しく見せることを承知していると思います。
 調べでは、白粉は水などで溶いて塗るため、江戸期にはこの塗り白粉用の化粧刷毛や極太の化粧筆が花嫁化粧用具に入れられています。一方、室町時代の化粧用具では国の重要文化財に指定された「松梅蒔絵手箱及び内容品」が有名で、その手箱に納めた化粧用具に歯黒箱一合、白粉箱二合、薫物箱一合、櫛三枚、眉作三本、髪掻二本、鬢板一個、油壷一合が目録と現品で確認できます。ところが、江戸期になって現れる塗り白粉用の化粧刷毛や太い化粧筆はありません。刷毛自体は平安時代初期ごろには仏教経典制作などの用具として筆から改良して生まれたとしますから、必要があれば化粧筆と同様に化粧刷毛として転用できたはずです。解説では平安時代には塗り白粉を厚塗りしたとしますが、化粧用具類からしますと厚さを持った厚塗りした方法と用具が不明です。
 現代の白粉の使用方法をネットで確認しますと、歌舞伎や舞妓のようなこってりした白塗り姿を目指さないのなら、椿油などの油性でベースを調えた後、水などで溶いた白粉を指で塗り、乾いてきたらガーゼやパフでムラを消すように調えるとツヤ感のある白い肌になるそうです。時代からするとパフの代わりに絹綿を使ったと考えます。また、この化粧法時に眉毛は邪魔との説明はありません。一般に平安時代の白粉の使用法の解説では暗黙の上で歌舞伎風の厚塗りの塗り白粉を基本とするようですが、解説と実際ではその厚さの定義や化粧方法が全くに違うのかもしれません。
 なお、奈良時代、正倉院蔵の「鳥毛立女屏風」に示す額の花鈿は、女性が人でなく空を飛ぶ天女や仙女であることを示すために入れたアクセントと思われますので、あの化粧法が奈良時代を代表するものではありません。また、正倉院蔵の「鳥毛立女屏風」や薬師寺の「吉祥天像」などは高貴な中高年の女性を描く唐絵の典型様式ですので、あのふくよかな立姿図が万葉美人を示すものでもありません。万葉時代の美少女の感性は大伴家持が詠う集歌4139の歌の美少女であり、集歌1738の歌で「胸別之廣吾妹 腰細之須軽娘子之 其姿之端正尓如花」と理想の美少女姿を詠われた珠名の娘にあります。具体的には興福寺の阿修羅像のお顔や体形にあります。あのお顔と体形に「胸別之廣」と、やや大きく胸に膨らみを持たせて万葉時代の女性の着物を着せ、透明感を持って色白に化粧し、頬ピンクで桃花の下に立たせると、ほぼ、天平の美少女となります。
 女性が化粧を行うのは誰の為でしょうか。やはり、主流としては異性に抱かれて貴女は誰よりも美しいとほめてもらうことにあると思います。すると、女性の化粧法の主流は、男性が見て美しいと思う女性の顔であり、姿と思います。集歌51の歌は最新最先端の王都である藤原京落成の儀式で舞いを披露する全国選りすぐりからさらに選抜された采女の姿を詠うもので、特定の恋人の姿ではありません。大和天平様式として興福寺の阿修羅像を作り出した感性を持つ人たちがヌリカベのような表情を消す白い厚塗り化粧法を女性たちに求めたでしょうか。

集歌51
原文 采女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久
訓読 采女の袖吹きかへす明日香(あすか)風(かぜ)京都(みやこ)を遠み無用(いたづら)に吹く
私訳 采女の袖を吹き返す明日香からの風よ。古い明日香の宮はこの新しい藤原京から遠い。風が采女の袖を振って、心を過去に呼び戻すかのように無用に吹いている。

 万葉時代、奈良の大仏の開眼法要に代表されるように高貴な女性も、太陽の下、御出座しを行い、人々に顔を見せる機会があります。また、『源氏物語』の「蛍」の巻などで示すように御簾内の高貴な女性も色々な折に顔や姿を覗かれることを承知しています。平安時代、貴族女性は折々の儀式などで御簾の内から漏れ流す香りや裾模様から美的センスを男どもに見せつけ、惹かれた男どもは御付き女へ賄賂を使い、関心を持つ女性を庭先から覗き見します。その姿や声などが気に入れば、さらに御付き女の手引きを求め、暗黙の了解の下、寝所に忍び込みます。これが風習ですから、女性もまた光の下に男どもに覗き見されていることを承知しています。
 また、万葉時代から平安時代には自分の美に敏感な女性たちと仏教は非常に近い距離にありますし、時に寺の重要なパトロンになります。弊ブログの与太の感覚では、その時代の仏様のお顔立ちは大陸型や男性型から大和特有の優美で温和なものへとなっています。それが時代の美意識の現れとしますと、さて、そのような時代の女性が自分の顔にどのような化粧を施し、男どもに覗かせ見せ付けたでしょうか。
 現代はネット検索が容易ですので、「口脂」は口紅やリップクリームではなく、口臭を消す清涼剤であること、また、「面脂」は白粉を施す前の産毛処理後の肌の保護と白粉を定着させるための薬用油性軟膏であることが簡単に確認できます。また、幕末から明治初頭の美人写真が存在しますから、幕末期の西洋化粧法紹介以前の化粧の様子を知ることは出来ます。しかしながら、なぜ、解説では特殊な歌舞伎俳優や遊女の化粧法を基準としたり、また、原資料を調べずに「口脂」を口紅と想像したりするのでしょうか。平安時代の貴族女性は江戸期から大正時代と同等な入浴・洗髪頻度の慣習を持ちますが、複数の資料確認をすることなく、なぜか、めったに入浴しないと云う俗説を「専門家」は創作します。これと同様なことなのでしょうか。疑問です。

 おまけとして、平安末期から鎌倉初期に白塗・置眉化粧法が現れた背景に、厳格な身分階級制度の崩壊と宮中での儀礼との折衷による結果なのかもしれません。本来、宮中で床に昇れるのは正規の官職を持つ官人だけですし、儀式や会合で部屋内に列席できるのは五位以上の貴族だけです。この規定からすると、後白河法皇たちが好んだ白拍子は、応接でも、本来、儀礼・規定からすれば床に昇れませんが、有髪の女性でも神道の巫女の立場を取れば神事の方便で可能です。ただ、白拍子は巫女に類似した顔作りと姿が求められます。巫女は神事として神遊(神楽)を舞いますから、その装いの中で表情を消すような厚塗りの白粉化粧をしていた可能性があります。ある種、能で演者が置眉化粧法の女面を付けることで、人から変身して人以外の物の怪などを表現するものに似た感覚です。その白拍子たちは京から全国に遊芸しながら流れ、その時、人々は京で評判の白拍子の化粧法を宮中の女性たちのものと考えた可能性はありますし、加えて、時代として白拍子と遊女との境界線はあいまいです。
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万葉雑記 番外雑記 平安貴族、遊びの教養 その二

2021年04月10日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 番外雑記 平安貴族、遊びの教養 その二

 今回は、前半は前回の続きで、後半は前回の展開から万葉集に遊びます。当然、前回の続きですから、卑猥で与太でバレ話です。紳士淑女や18歳未満の未成年にはお勧めしませんし、眉唾ものです。
 さて、前回の「平安貴族、遊びの教養」では、房中術と偃息図から実に与太で、バレ話を展開しました。最初はそこで紹介しました紫式部の『源氏物語』の「浮舟」の巻を、少し、バレ話の方向から遊んでみます。その偃息図は時代が下るにしたがい本来の中国医学の分類である房中術の解説図書の性格であったものが、大陸も日本もポルノ絵画としての独立性を得て、春画や春宮図などの名称を獲得します。
 江戸期にあって春画の第一人者の月岡雪鼎は肉筆絵巻「春宵秘戯図」を作成したときに中国文献だけでなく日本の古典も参考にしたとし、その古典として『大中よしのふ集』、『源氏うき舟乃巻』、『古今著聞集』、『玄旨衆妙集』の四点を挙げています。『大中よしのふ集』は大中臣能宣の和歌集である能宣集、『玄旨衆妙集』は細川幽斎の和歌集で、月岡雪鼎は和歌の恋歌の世界に男女の性愛の状況を眺め、また、『古今著聞集』に春画での陰部デフォルメの技法の歴史を示し、『源氏うき舟乃巻』の『源氏物語・浮舟』の巻に高貴な身分の匂君と浮舟との禁断の逢瀬と偃息図の歴史を見ています。『源氏物語』と云う高名な物語を題材にし、その春画に『源氏うき舟乃巻』と端書を入れれば、宮中の高貴な男女を春画に描いたとしても不敬にはなりません。同じように春画絵巻である『小柴垣草紙』を模倣・模写であれば高貴な斎宮済子女王(または皇女姿の女性)を主人公にどれほど破廉恥な春画絵巻を描いても伝承ですから不敬にはなりません。
 江戸期にはこのような春画への態度があります。そこで、月岡雪鼎が取り上げた『源氏うき舟乃巻』を調べてみますと、現代で平安時代に房中術と偃息図を調べる人は、次の文章の「添ひ臥したる画」のところを取り上げて話題としますし、資料とします。物語の描き方からしますと、『源氏物語』の書き手の紫式部も、読み手の平安貴族たちも、社会知識として房中術と偃息図を理解しており、物語では匂宮に仮託していますが絵心のある人は自ら偃息図を描いたようです。その絵をどうするかは、その人それぞれです。物語の匂宮は自身と浮舟との二夜での夜の営みの姿を絵に残し、浮舟に「私たちはいつもこのようにしていたいのだけど」として京に戻る朝に渡します。

源氏物語 浮舟の巻 第二章第八段
さるは、かの対の御方には似劣りなり。大殿の君の盛りに匂ひたまへるあたりにては、こよなかるべきほどの人を、たぐひなう思さるるほどなれば、「また知らずをかし」とのみ見たまふ。女はまた、大将殿を、いときよげに、またかかる人あらむやと見しかど、「こまやかに匂ひきよらなることは、こよなくおはしけり」と見る。
硯ひき寄せて、手習などしたまふ。いとをかしげに書きすさび、絵などを見所多く描きたまへれば、若き心地には、思ひも移りぬべし。
「心より外に、え見ざらむほどは、これを見たまへよ」とて、いとをかしげなる男女、もろともに添ひ臥したる画を描きたまひて、「常にかくてあらばや」などのたまふも、涙落ちぬ。

 さて、なぜ、紫式部は、当時の慣習としては異例となる二夜連続で浮舟の寝所に居続けた匂宮に二人の行為を偃息図として描かせ、ある種の形見として残したかです。元々、浮舟は薫君により他の貴公子から隠すようにして宇治に移され囲われた美女の立場ですし、主人となる薫君と強引に犯した匂宮とは友人関係です。つまり、匂宮と浮舟との関係は完全な不倫不義です。当時の独立した女性の自由恋愛とは趣が違います。物語では夜の暗闇を利用して薫君に偽装した匂宮がだます形で浮舟を犯しますが、浮舟は抱かれたあと、なぜか匂宮に心が惹かれます。それで関係が一度だけで終わることなく、二人して二夜一昼を閨に籠り過ごします。その場面の中で匂宮が浮舟の目の前で性交図である偃息図を描く場面へと展開します。
 弊ブログの推定で、紫式部は匂宮に偃息図を描かせることで、浮舟が房中術での性のエリートと云うことを言外に示したのでしょうか。およそ、紫式部は「いとをかしげなる男女、もろともに添ひ臥したる画」と記し、匂宮が描く見所多い絵は偃息図であることを示し、その偃息図から浮舟に房中術の秘儀の使い手を想像させたと考えます。
 加えて、紫式部は匂宮が京に帰って行った後に浮舟がその偃息図をどのように使うのを読者に想像させたのでしょうか。本来の主人となる薫君の、その男の体ではなく、匂宮と浮舟との行為で描いた偃息図だけで、浮舟が一人、夜を過ごすことを期待したと暗示させたのでしょうか。女性の自慰用具の張形が奈良時代の遺跡から発見されています。他方、紫式部は『源氏物語』では、女性を大きく、絶対的な身分の高い女性、教養豊かで光源氏と同等な価値観を有する女性、性的な女性の三つの分類に分けて描き、浮舟は男たちが取り合うような性的美人の代表ですから、そのような女性であることを示唆したのでしょうか。
 弊ブログでは、そのような性的女性の行為を示唆している理解し、同時にそれは紫式部が見知る身近な女性たちが張形などを使い自慰行為をしていたのだろうと推測します。その時の用具の一つとして「見所多く描きたまふ」や「いとをかしげなる男女」の絵と考えます。参考情報として、偃息図の一つで平安時代末期に由来を持つとされる『小柴垣草紙』は長編絵巻物語の形式を持つジャンルの代表的なもので、後白河天皇の女御だった平滋が平清盛の娘の平徳子の嫁入り道具として贈ったと伝承が残ります。伝承からしますと偃息図は女性たちの生活の場には必需品だったようです。

 ここで、建前では女が性のために男を積極的に養わない時代とすると、肉体関係があり相手の性癖などを知る男から女に「偃息図」を贈る目的を考えるとき、女性の自慰行為の用具と考えるのが自然です。まず、「別の男との行為の中で使ってくれ」との意味合いで、女に贈る可能性は薄いと思います。
 この『源氏物語』が示唆する女性の姿から、万葉集の柿本人麻呂歌集の歌を眺めてみます。次の歌は既に男女関係を持った若い男女の相聞歌群の中のものです。万葉時代の約束事で愛の証は濃厚な性愛にありますから、歌に「見る」、「逢う」など言葉があれば、そこに性交渉を示唆します。
 最初に集歌2408の歌を紹介します。この歌は相聞問答歌として改めて集歌2808の歌として載り、問答では集歌2809の歌と対を成します。人麻呂歌集の歌では有名な歌となります。なお、古語で「鼻鳴(はなき)」を「鼻にかかった声を出す。甘えた声を出す。」と解釈し、標準の「鼻鳴」を「嚔る(はなひる)」と訓じて「くしゃみ」と解釈しません。また、「眉根削」の「削」は「刮」と同じ意味合いで、眉毛を刮り除いて細い三日月眉に整える意味合いで解釈します。言葉の解釈が違う分、歌の鑑賞も変わり、女は歌で前回の時と同じように早く抱いてほしいと歌を贈ります。そのような非常にエロスを中での女心を詠う歌として有名です。

集歌2408 
原文 眉根削 鼻鳴紐解 待哉 何時見 念吾君
訓読 眉根(まよね)削(か)き鼻(は)鳴(な)き紐(ひも)解(と)け待つらむか何時(いつ)しも見むと念(ねが)ふ吾が君
私訳 (あの時と同じように)眉を刮り整へて、甘えた声で下着の紐を解かれる時をいつまで待つのでしょうか。いつ何時でも抱かれたいと思う、私の貴方。

 問題は集歌2413の歌です。集歌2408の歌では女性は前と同じような痴話話の中で愛撫と共に徐々に裸にされ、抱かれることを期待しています。言外に前回の貴方はとても上手で気持ちが良かったと示しています。そのような男女関係の中での相聞歌群の歌としますと、集歌2413の歌は非常に意味深長な内容を示します。

集歌2413 
原文 故無 吾裏紐 令解 人莫知 及正逢
訓読 故(ゆゑ)し無し吾(あ)が裏紐し解(と)けしめむ人にな知らせ直(ただ)し逢ふまで
私訳 貴方は私と逢ってもいないのに私の下着の紐を解いてしまっている。そんなことを人には気づかせないで。本当に逢って紐を解くまでに。

 集歌2413の歌の場面は一人寝の女性です。でも、恋している貴方に抱かれたいと思う女性は、貴方に抱かれてもいないのに、今、寝巻の前を寛げた状態で、抱かれたあとの感覚になっているとします。このようなことを、たびたびしていたら、人は気づいてしまうでしょう。だから、早く逢いに来て欲しいとします。なお、三句目は「解為」の表現でも良いと思うのですが、特別に強く「令解」と表現します。前を寛げたのは自然でもなければ、自分からでもありません。貴方のために、という意味合いです。場合により以前に女性は男性から頼まれて、自分から男性の目の前で寝着を脱ぎ、裸になった経験があるのかもしれません。そのような性愛行動を示唆している表現かもしれません。
 万葉集では非常に官能的に性愛を詠う集歌2408の歌に次いで、集歌2409の歌で白妙の寝着に着替えてその紐を結ぶのはただ寝るためではない、貴方に愛撫されながらやさしく私の白妙の寝着を脱がしてもらうために紐を結ぶと詠います。

集歌2409 
原文 君戀 浦経居 悔 我裏紐 結手徒
訓読 君し恋ひうらぶれ居(を)れば悔(くや)しくも我(わ)が下紐(したひも)し結(ゆ)ふ手いたづら
私訳 貴方を慕って逢えないことを寂しく思っていると、悔しいことに夜着に着替える私の下着を留める下紐を結ぶ手が空しい。

 これらの歌が同じ柿本人麻呂に関わる男女の相聞歌群としますと、貴方に抱いてもらうためと思って身に着けた寝着が、なぜか、一人寝なのに自ら紐を解き寝着の前を寛げて抱かれた感覚になっていると、愛する男性に詠います。
 紫式部は『源氏物語』で、浮舟が自分を抱いた男との場面を描いた「偃息図」を一人で使うことを示唆し、柿本人麻呂歌集では女性が恋する男性を思って一人寝の床につくと、なぜか自ら寝着の前を寛げて抱かれた感覚になったことを示します。このように共に女性の性を非常に強く示唆します。弊ブログは非常に卑しい奴が運営しますから、浮舟の巻に浮舟の自慰行為を想像するなら、同じように集歌2413の歌にも自慰行為を想像します。
 参考として、万葉集には集歌2558の歌のように集歌2413の歌と同じように下着の紐が解けたと詠う歌があります。

集歌2558 
原文 愛等 思篇来師 莫忘登 結之紐乃 解樂念者
訓読 愛(うつく)しと思へりけらし莫(な)忘れと結びし紐の解(と)けらく念(も)へば
私訳 私のことを「愛しい」とあの人は想って下さるようです。「きっと、忘れるなよ」と云って結んだその私の下着の紐が解けているのを思うと。

 ただ、集歌2558の歌は自然に下着の紐が緩んで解けた状況から、その自然の結果を貴方の意思と取る発想です。自分の意思で相手の男性を思い浮かべて紐を解いたのではありません。一方、集歌2413の歌は「令解」ですから自分の意思で寝着の紐を解いたのですが、それは貴方のせいだとします。貴方を思っているから無意識に自分から貴方の命令で寝着の紐を解き、はだけているのです。一人寝の女性が貴方を思うと寝着の前をはだけてしまうと詠う歌は、万葉集中で集歌2413の歌しか無いような特殊な状況を詠う歌です。

 春画の研究者が江戸期にあって春画の第一人者である月岡雪鼎が春画を描く時、春画「春宵秘戯図」の「引証書目」に『源氏物語』の「浮舟」の巻の匂君と浮舟とを参考にしたと記すように、春画の世界でも「浮舟」の巻の匂君と浮舟とは有名です。平安中期以降の貴族や文化人は『源氏物語』が書かれたその時代からすでに文中に引用する古典などを見出す引き歌研究を行っています。雪鼎の参考もこの引き歌研究の派生です。
 当然、江戸期の雪鼎が「浮舟」の巻を十分に理解しているなら、平安中期以降の文化人は同程度か、それ以上に理解しているでしょう。そのような平安中期の貴族・文化人が万葉集の人麿歌集を眺めたら、弊ブログのように集歌2413の歌の世界が他の愛を詠う世界とは違うことに気が付いたと思いますし、「浮舟」の巻と似た匂いを嗅いだと想像します。
 源氏物語の引歌研究からすると、紫式部の時代、柿本人麻呂歌集は宮中女房たちの好物だったと思われます。現代の研究から柿本人麻呂歌集に載る相聞歌の多くは、人麻呂と隠れ妻との間で交わされた実際の歌ではないかと考えられていますから、平安中期の貴族たちもそのように理解した可能性があります。『源氏物語』は紫式部が創作した濃厚な恋愛物語ですが、その読者たちは柿本人麻呂歌集を実話の濃厚な恋愛物語として楽しんだ可能性があります。
 時間がありましたら、『源氏物語』と柿本人麻呂歌集とを対比し、その性愛の世界も堪能していただけたらと希望します。

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