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竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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和歌の世界、キリギリスはコオロギか、

2024年01月20日 | 万葉集 雑記
和歌の世界、キリギリスはコオロギか、

 従来、和歌の世界では、キリギリスは朝から夕方まで鳴き、コオロギは夜に鳴くという虫の習性から和歌に詠われる「キリギリス」とは現代で言う「コオロギ」であると解釈します。その根拠に江戸時代前期の歌人北村季吟が編んだ俳文集『山の井』に「つゞりさせとなくこほろぎの音にわび」と書かれており、また、明治時代以降の昆虫学発展から命名されたツヅレサセコオロギというコオロギの種類があることをその証拠として示し主張するようです。ただ、江戸期や明治期以降を根拠に平安時代の和歌の世界を語る、実に奇妙な話ではあります。それで平安時代までに和歌の世界を遡ると、どうも、和歌に詠われる「キリギリス」とは現代で言う「コオロギ」であるとは言い切ることが難しいようなので、現代では昭和時代までの定説を維持する形で、「キリギリス」を「コオロギ」という呼び名への変化は鎌倉時代から室町時代にかけて起きたと推定するようです。
 ちなみに万葉集の世界では歌では「蟋蟀」の表記で記載してあり、これを「こほろき」と読みます。ただ、飛鳥から奈良時代の漢語の「蟋蟀」は当時の漢字辞典でさる『説文解字』で「蟋蟀也、從虫悉聲」と解説するように、虫全体を示す言葉です。現代で言う昆虫の「コオロギ」を特定して示すものではありません。ちなみに平安時代の『和名類聚鈔』では漢語の「蜻蛚」を「文字集略云蜻蛚、和名古保呂木(こほろき)」と読ませています。また、昆虫の「コオロギ」に当たる「蜻蛚」は『説文解字』では「蜻蛚也。従虫靑聲」とし、この「靑」は「音鶄」と説明して「クワァクワァ」と鳴く鳥のゴイサギの鳴き声に似たものと説明します。その『和名類聚鈔』では「兼名苑云蟋蟀、和名木里木里須(きりきりす)」と解説します。ちなみに『兼名苑』は中国の類語辞典と思われますが、現在、中国にも日本にも伝存していなくて不明なものですし、『文字集略』は同じく中国の字書ですが、紹介したように『説文解字』、『中国字書』と『兼名苑』とでは違う内容のものを示しています。さらに矛盾するのですが『和名類聚鈔』では『兼名苑』解説の「螽蟴」と言う虫を紹介していて、漢語かするとこれが現代の昆虫の「キリギリス」です。結局、『和名類聚鈔』を編んだ源順は昆虫そのものを観察しての名前の認定ではなく、あくまでも中国の書物に出て来る単語の解説をしたと思われます。それで、相互に語源や語の解説を確認すると一致しないのでしょう。結果、『和名類聚鈔』からの虫の名前の判定は参考にしかならないようです。
 補足参考として、昭和時代までの通説として、昆虫のキリギリスは朝から夕方まで鳴き、昆虫のコオロギは夜に鳴く。ここで、和歌でキリギリスを歌う世界観は夜であるから、そのキリギリスとは夜に鳴く昆虫のコオロギを示すとします。しかしながら、昆虫学からするとキリギリスは夜行性昆虫で夜に鳴かないと決めて掛かれないと言う弱点があり、昆虫としての解説では朝から夜まで鳴くとします。他方、コオロギは夜行性昆虫でもっぱら夕方から夜に鳴く習性があると説明します。つまり、昆虫学から見た場合、和歌で歌われる情景が夜だからとして、和歌に詠われるキリギリスが現代で言う昆虫のコオロギだとは、直ちには決められないのです。まず、歌人がその鳴き声をどのように聞いたかを確認して、虫の種別を確認しなければいけないのです。
 ここで余り有名な歌集ではありませんが、平安時代初頭の奈良の帝(平城天皇)の和歌を集めた歌集『奈良帝御集』があり、そこではキリギリスを詠う歌があります。

奈良帝御集
和歌 きりぎりす つづりさせとぞ 鳴めれど むらぎぬもたる われはききおはず
解釈 キリギリスが「ほころびを繕い縫え」と鳴くけれど、私は一むら(疋)の衣を持っているので、私に、その鳴き声はふさわしくない。

 この「きりぎりす つづりさせとぞ」の歌の発想の背景は、当時の人々が聞いたキリギリスは鳴き声が「ギース・チョン」で、ここから機織りの動作を感じ、キリギリスのことを「機織り虫」や「機織り女(め)」と別称します。現代でもキリギリスをその鳴き声から東日本の地域では「ギッチョ」や「ギリッチョ」など鳴き声からの名前で呼ぶそうです。つまり、その「機織り虫」からの連想で「布を綴り刺せ」です。古語や和歌の世界では「機織り虫」とはキリギリスであってコオロギではないのです。
 この発想と同じくする歌が、ほんのちょっと時代が下った平安時代初期の和歌集ですが、寛平御時皇后宮歌合と言うものがあり、そこで「キリギリス」が詠われています。そしてこの歌は古今和歌集の歌番号1020としても載せられています。和歌としてはこちらの方が有名な部類となります。同じ寛平御時皇后宮歌合では「機織り女」の名前でキリギリスを詠います。

寛平御時皇后宮歌合 秋九番 左  在原棟梁
歌番94
原歌 あきかせに ほころひぬらむ ふちはかま つつりさせてふ きりきりすなく
和歌 秋風に ほころびぬらむ 藤袴 つづりさせてふ きりぎりす鳴く
解釈 秋風に花が開いてきたようだ、藤袴よ、その藤袴の言葉の響きではありませんが、袴の裾が綻びているから、綴り刺せと、キリギリスが鳴いています。

秋十二番 左
歌番100
原歌 かりかねは かせをさむみや はたおりめ くたまくおとの きりきりとする
和歌 雁がねは 風を寒みや 機織り女 管まく音の きりきりとする
解釈 雁がねの姿は風を寒いと思うのか、機織り女の異名を持つキリギリスが機織りの管巻に糸を巻く音のようにキリキリと鳴いている。

 また、「機織り虫」の名前で和歌を詠ったものに同時代の紀貫之集にあります。

紀貫之集
和歌 秋くれば はたおるむしの あるなへに 唐錦にも みゆる野辺かな
解釈 秋がくれば機織る虫(キリギリス)がいるためか、唐錦を織ったようにも見える美しい野原の景色です。

 このように紹介しましたが、虫の鳴き声から考えますと、奈良時代後半から平安時代初頭のキリギリスは現在と同じ昆虫のキリギリスです。まず、鳴き声からするとキリギリスはコオロギだったとの名前交代説は成り立ちません。結局、当時の和歌を鑑賞すると「蟋蟀也、從虫悉聲」と虫全般を示し、また、「文字集略云蜻蛚、和名古保呂木(こほろき)」の解説が正しいとなります。
 近畿地方で虫の鳴き声からすると、「ギース・チョン」と鳴くキリギリスは他の虫と特徴的に独自の種として切り出しが容易だったようで、それ以外の鳴く虫の区分では大まかに「虫」である蟋蟀(こほろき)だったようです。その後、漢語知識の増加から鳴く虫は蟋蟀から「チン・チロリン」と特徴的に鳴く松虫や「リ…ンリ…ンと」と鳴く鈴虫が切り出され、残ったものの区分が「虫」であり「こほろき」だったようです。なお、昆虫学では松虫も鈴虫もコオロギ類に分類され、キリギリス類に分類されるキリギリスとは別区分です。和歌の歴史からも、最初に鳴く虫の中からキリギリスが分離され、次に松虫、その後に鈴虫が分離されたのは、歌人たちの自然観察力の成果なのでしょう。
 ただ、近畿地方で鳴く虫のコオロギ類は、多数、いますので、特定の虫をコオロギと名を付けるのではなく、区分して切り出した虫以外の鳴く虫すべてを和歌の世界では「虫」と呼んだようです。同じコオロギの名を持ちますが畿内の野原で「コロコロリリリー」と鳴くエンマコオロギ、「チッ・チッ」と短く鳴くクマコオロギ、「リリリリリリ」と短く鳴くツヅレサセコオロギ、「チャッ・チャッ」または「ピッピッ」と断続に鳴くタンボコオロギ、「キ・キ・キ・キ」と鳴くミツカドコオロギ、「リ・リ・リ・リ」と弱く鳴くハラオカメコオロギなどの姿や色が似るものたちを個々にそれぞれのコオロギの種類として区別出来たかです。それが出来なければ「虫」、「秋の虫」の括りです。多分、平安時代初期の歌人たちは、しっかりと秋に鳴く虫たちを観察していたのでしょう。それで、外見と鳴き声で大きくは四種類に分けて認識していたと思いますし、逆に姿や色が似るコオロギ類を分類することは無理と判断したと思います。
 さて、それでは飛鳥・奈良時代に「虫」を意味する漢語の蟋蟀に古保呂木(こほろき)の読みを当てたことを考えると、古代語の「こほろき」は「こ+ほろ+き」の可能性があります。「こ」は「小さい、僅か、ちょっとしたもの」の意味合いで、「ほろ」は「ばらばら、ちりぢり」の状況を示し、「き」は「けはい、そんざい」を示す言葉かもしれません。つまり、野原に小さいものがばらばらに気配を持って確かに存在するもの、それが「虫」なのでしょう。古代、天皇を「すめらき」と呼び、これは「すめら+き」と考えられています。「すめら」は「澄んだもの、清いもの」の意味合いで、「き」は「けはい、そんざい」を示す言葉ですと、天皇とは神道における特別に清浄な存在を意味し、それで常に穢れをを忌諱し、禊が必要な直でしょう。このように推定しますと、古代語の「こほろき」が「野原に小さいものがばらばらに気配を持って確かに存在するもの」の意味合いなら実に納得ではないでしょう。
 おまけですが、万葉集の時代には昆虫を示すもので蟋蟀、虫、夏虫の区別があり、蟋蟀は鳴く虫全般、虫は足を持つ爬虫類を含めての虫全般、夏虫は蛾や蝶を意味していたようです。ただ、平安時代には先に示したように鳴く虫を意味する場合と、前後の文章で様子を示して特定させる木に穴を開けて巣を作る虫、海のフナ虫などを意味する場合などが現れます。これも作歌作業での自然観察のち密さなのでしょう。
 このように見て来ますと、江戸時代初期の歌人北村季吟の詠う俳句「つゞりさせとなくこほろぎの音にわび」は、古語の「つゞり」は綴り縫うであり、歌で扱う場合は「機織り虫」であるべきことを理解出来ていなかったことで、作歌での大きな誤解が生んだ作品なのでしょう。北村季吟が奈良帝や在原棟梁の和歌と機織虫の言葉に気付いていたら、キリギリスの方を採用したと思います。すると、和歌に詠われる「キリギリス」とは現代で言う「コオロギ」であると解釈の根拠に北村季吟の詠う俳句を採用することが困難になりますから、さて、何を根拠にしましょうか。先に紹介しましたように矛盾の解説となっている『和名類聚鈔』を根拠には出来ません。
行きつ戻りつ、結局、奈良時代に鳴く虫の分類自体が無い時代、鳴く虫全般は「こほろき」と呼ばれています。しかしながらだからと言って、それはコオロギ類を特定して意味しません。平安時代初頭までには鳴く虫全般の「こほろき」からキリギリスが最初に区分され、次に松虫、さらに鈴虫が虫の中から特別に区分されて行きます。鳴く虫全般は「こほろき」がコオロギ類を特定して意味しだすのは、自然観察をしっかりして歌を詠う伝統が廃れた平安末期から鎌倉時代なのでしょう。
 古今和歌集の歌の表記は、本来、一字一音の借音漢字で表記しますが、鎌倉時代初頭に藤原定家たちが伝承されてきた歌本の写本を行う時、その定家たちは自分たちの解釈で一字一音の借音漢字で表記されていた歌本を漢字交じりひらがなの表記に変更をしています。この表記が変更になったことに注目して確認していますと次のようなものがあります。

古今和歌集 歌番号 196
資料1.古今和歌集復元推定
詞書 比止乃毛止尓末可礼利个留与幾利/\寸乃奈幾个留遠幾々天与女留
読下 人のもとにまかれりける夜きり/\すのなきけるをきゝてよめる
原文 幾利/\寸 以多久奈々幾曽 安幾乃与乃 奈可幾於毛日八 和礼曽万佐礼留
和歌 きり/\す いたくなゝきそ あきのよの なかきおもひは われそまされる

 これに対して、「古今和歌集 全訳注 久曾神昇 講談社学術文庫」や「古今和歌集 窪田章一郎 校注 角川ソフィア文庫」で示す藤原定家筆伊達本の歌は、次の資料2のものになっています。

資料2.藤原定家筆伊達本
和歌 蟋蟀 いたくななきそ 秋の夜の 長き思ひは 我ぞまされる

 推定で、蟋蟀(こほろき)を蟋蟀(キリギリス)に変え、それを後の人が漢字表記から蟋蟀(コオロギ)と読んだ事件の発端の容疑者は藤原定家と思われます。そして、この藤原定家の写本した古今和歌集がその後の和歌のバイブルとなりますから、彼が事件を作ったのでしょう。
 付帯して、「古今和歌集 新日本古典文学大系 岩波書店」は為定系の「詁訓和歌集」を底本にしていて、そこでのものは次の資料3の通りです。蟋蟀の漢語表記を用いていませんし「キリギリス」です。つまり、定家筆伊達本の歌に特徴的に事件の原因があったと思われるのです。古今和歌集の歌も、詠った時の調べの感覚が悪ければ、手を入れてもいいと思っていた藤原定家の写本が完全に正しいと思っていると、学問的には、ちょっと、ひどい目に遭います。それが平成後期以降の古今和歌集の高野切本復元研究からの指摘です。

資料3.詁訓和歌集
和歌 きり/\す いたくな鳴きそ 秋の夜の ながきおもひは 我ぞまされる

 参考資料として、以下に秋の虫を詠った和歌を紹介します。このように古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集、万葉集のほぼすべての「虫」に関わる歌を眺めますと、従来の解説が都合の良い一部の歌の切り取りを根拠にしているとか、その情報操作の様子が見えて来る場合があります。まぁ、外部の素人が業界の事情を斟酌しないで今回のような酔論を垂れ流すと、迷惑でしょうがご勘弁下さい。

古今和歌集
歌番号 196 キリギリス
和歌 きりぎりすいたくな鳴きそ秋の夜の長き思ひは我ぞまされる
歌番号 198
和歌 秋萩も色づきぬればきりぎりす我が寝ぬごとや夜は悲しき
歌番号 244
和歌 我のみやあはれと思はむきりぎりす鳴く夕影の大和撫子
歌番号 385 宴会
和歌 もろともに鳴きて留めよきりぎりす秋の別れは惜しくやはあらぬ
歌番号 432
和歌 秋は来ぬ今や籬のきりぎりす夜な夜な鳴かむ風の寒さに
歌番号 1020
和歌 秋風にほころびぬらし藤袴つづりさせてふきりぎりす鳴く

歌番号 200 松虫
和歌 君忍ぶ草にやつるる古里は松虫の音ぞ悲しかりける
歌番号201
和歌 秋の野に道もまどひぬ松虫の声する方に宿やからまし
歌番号 202
和歌 秋の野に人松虫の声すなり我かと行きていざ訪はむ
歌番号 203
和歌 みぢ葉の散りて積もれる我が宿に誰れを松虫ここら鳴くらん

歌番号 186 虫
和歌 我がために来る秋にしもあらなくに虫の音聞けばまづぞ悲しき
歌番号 197
和歌 秋の夜の明くるも知らず鳴く虫は我がごと物や悲しかるらむ
歌番号 199
和歌 秋の夜は露こそことに寒からし草むらごとに虫の侘ぶれば
歌番号 451
和歌 命とて露を頼むにかたければ物侘びしらに鳴く野辺の虫
歌番号 581
和歌 虫のごと声に立てては鳴かねども涙のみこそ下に流るれ
歌番号 853
和歌 君が植ゑし一群すすき虫の音のしげき野辺ともなりにけるかな

歌番号 544 夏虫
和歌 夏虫の身をいたづらになすことも一つ思ひによりてなりけり
歌番号 561
和歌 宵の間もはかなく見ゆる夏虫にまどひまされる恋もするかな
歌番号 600
和歌 夏虫を何か言ひけむ心から我も思ひに燃えぬべらなり


後撰和歌集
歌番号257 キリギリス
和歌 秋風の吹きくるよひはきりぎりす草のねことにこゑみたれけり
歌番号258
和歌 わかことく物やかなしききりきりす草のやとりにこゑたえすなく

歌番号251 松虫
和歌 松虫のはつこゑさそふ秋風はおとは山よりふきそめにけり
歌番号255
和歌 ひくらしのこゑきくからに松虫の名にのみ人を思ふころかな
歌番号259
和歌 こむといひしほとやすきぬる秋ののに誰松虫そこゑのかなしき
歌番号260
和歌 秋ののにきやとる人もおもほえすたれを松虫ここらなくらん
歌番号261
和歌 あき風のややふきしけはのをさむみわひしき声に松虫そ鳴く
歌番号339
和歌 をみなへし草むらことにむれたつは誰松虫の声に迷ふそ
歌番号346
和歌 をみなへし色にもあるかな松虫をもとにやとして誰をまつらん

歌番号1287 鈴虫
和歌 鈴虫におとらぬねこそなかれけれ昔の秋を思ひやりつつ

歌番号262 虫
和歌 秋くれは野もせに虫のおりみたるこゑのあやをはたれかきるらん
歌番号263
和歌 風さむみなく秋虫の涙こそくさは色とるつゆとおくらめ

歌番号194 夏虫
和歌 やへむくらしけきやとには夏虫の声より外に問ふ人もなし
歌番号209
和歌 つつめともかくれぬ物は夏虫の身よりあまれる思ひなりけり
歌番号213
和歌 夏虫の身をたきすてて玉しあらは我とまねはむ人めもる身そ
歌番号968
和歌 夏虫のしるしる迷ふおもひをはこりぬかなしとたれかみさらん


拾遺和歌集
歌番号 180 キリギリス
和歌 秋くれははたおる虫のあるなへに唐錦にも見ゆるのへかな

歌番号 181 松虫
和歌 契りけん程や過きぬる秋ののに人松虫の声のたえせぬ
歌番号 205
和歌 とふ人も今はあらしの山かせに人松虫のこゑそかなしき
歌番号 295
和歌 ちとせとそ草むらことにきこゆなるこや松虫のこゑにはあるらん

歌番号 179 鈴虫
和歌 いつこにも草の枕を鈴虫はここをたひとも思はさらなん

歌番号 178 虫
和歌 おほつかないつこなるらん虫の音をたつねは草の露やみたれん
歌番号 366
和歌 秋の野に花てふ花を折りつれはわひしらにこそ虫もなきけれ
歌番号 751
和歌 風さむみ声よわり行く虫よりもいはて物思ふ我そまされる
歌番号 986 
和歌 きみを猶怨みつるかな海人の刈る藻にすむ虫の名を忘れつつ
歌番号 987 
和歌 海人の刈る藻にすむ虫の名は聞けとたた我からのつらきなりけり
歌番号 1109 
和歌 虫ならぬ人もおとせぬわかやとに秋の野辺とて君はきにけり
歌番号 1237 
和歌 むもれ木は中虫はむといふめれは久米路の橋は心してゆけ


万葉集
歌番号1552 蟋蟀
和歌 夕月夜心もしのに白露の置くこの庭に蟋蟀(こほろぎ)鳴くも
歌番号2158
和歌 秋風の寒く吹くなへ吾がやどの浅茅がもとに蟋蟀(こほろぎ)鳴くも
歌番号2159
和歌 かげくさの生ひたるやどの夕影に鳴く蟋蟀(こほろぎ)は聞けど飽かぬかも
歌番号2160
和歌 庭草に村雨降りて蟋蟀(こほろぎ)の鳴く声聞けば秋づきにけり
歌番号2264
和歌 蟋蟀(こほろぎ)の待ち喜ぶる秋の夜を寝るしるしなし枕と吾は
歌番号2271
和歌 草深み蟋蟀(こほろぎ)さはに鳴くやどの萩見に君はいつか来まさむ
歌番号2310
和歌 蟋蟀(こほろぎ)の吾が床のへに鳴きつつもとな置きいつつ君に恋ふるにいねかてなくに

集歌348 虫
和歌 この世にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にも吾はなりなむ

集歌1807 夏虫
詠勝鹿真間娘子謌一首より(夏蟲乃 入火之如)
和歌 夏虫の 火に入るがごと
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紫式部 春画野宮草紙(小柴垣草紙)を考える

2024年01月13日 | 万葉集 雑記
紫式部 春画野宮草紙(小柴垣草紙)を考える

 今回、日本が世界に誇る平安時代後期以前に由来を持つ肉筆春画である野宮草紙(小柴垣草紙)を中心に紫式部を絡めて遊びます。ただ、伝存の多くは江戸時代の模写ですし、それらの大半は個人所蔵で公開はされていませんので、研究者が好事家の世界での伝手を頼って調べるような世界です。
 小柴垣草紙は複数の場面絵にその場面を紹介する絵詞書を付けたものですから、本来は絵を紹介すべきですが著作権の関係で紹介出来ませんので、以下に言葉で内容を紹介します。なお、長文系統の絵詞書は省略します。検索すると一部の絵は見ることが出来ますのでよろしくお願いします。参照:『小柴垣草紙の変遷』(井黒佳穂子)

<短文系統>東京国立博物館収蔵『小柴垣草紙』
絵1  致光を御簾越しに見る斎宮
絵2  浜縁の端で庭に座る致光に陰部を見せて誘惑する斎宮
絵3  浜縁の斎宮の陰部に庭から顔を付ける致光
絵4  浜縁の斎宮の陰部に庭から挿入する
絵5  浜縁で斎宮が致光を抱きしめる
絵6①  致光は斎宮に覆い被さる
絵6②  斎宮が柱を抱いた姿勢で後から致光が交わる
絵6③  口を吸いながら交わる
絵6④  斎宮を膝に乗せて交わる

<絵詞書>:https://henrymito.blog.2nt.com/ 「小柴垣草紙」より引用
夜のふくるほと、こ柴のもとにふしたるところへ、いかなる神のいさめをのかれいて給へるにか、かうらむのはつれより、御あしをさしをろして、にくからす御覧しつる、つらをふませ給たるに、あきれて見あけたれは、うつくしき女房の、御小袖すかたにて、御くしはゆらくとこほれかゝりておはします、御こそてのひきあはせしとけなきに、しろくうつくしき所、又くろくとある所、月のかけに見いたしたる、心まとひいはむかたなし。
御あしにてくりつくままに、押しはだけ奉りて、舌をさしいれてねぶりまはすに、つびはものの心なかりければ、頭もいとはす水はしきのやうなるものをはせかけさせ給ひけり。
紐とくほどの手まよひ、なほとかしなきに、遅しとうなかす。七すむのきりくひはいつしか腹立ち怒りまうけたるに、ねぶりそそのかしたるししむらは御肌よりもわきて出でたるに、差し当てて、かみざまへ荒らかにやりわたすに、御べべの力もまらのかねも、いとど強くなりまさるさまは、言はむかたなし。
太く厳めしき御こしをやすくもて合はせ、跳ね上げさせ給ふに、七すむも八すむにのふる心地して、伸び上がり責め伏せ奉るに、来し方行く末、神代のことも忘れ果て給ふにや、いやしき口に吸ひつきて喚き叫み給ふさまは、理も過ぐるほどなり。
このこと世に漏れ聞こえけるゆゑに、寛和二年六月十九日に伊勢の御くだり留まりて、野宮より帰り給ひにけり。

<長文系統>東京国立博物館蔵『灌頂巻絵詞』
絵2  致光に陰部を見せて誘惑する斎宮
絵5  斎宮が致光を抱きしめる
絵7  再び野宮を訪ねる致光
絵8①  庇を歩いてくる斎宮と再会
絵8②  再び交わる二人
絵9  室内で交わる
絵10①  庭に控える致光
絵10②  二人の情事を覗く女
絵11①  斎宮は致光の手を引いて招き入れる
絵11②  再び室内で交わる二人
絵12①  致光に乗り掛かる斎宮
絵12②  屏風の陰で交わる
絵12③  致光が前傾姿勢で斎宮に被さり交わる
絵13①  斎宮を致光の膝に乗せて交わる
絵13②  斎宮を後ろから交わる
絵14  互いの性器を舐め合う

 このような男女の状況を色彩豊かな肉筆で描いたなかなかの作品で、絵のテーマは伊勢斎宮に卜定された済子女王と滝口武者平致光との潔斎の場である野宮での密通露見事件です。
 時代や事件を説明しますと、令和6年のNHK大河ドラマに関わるあの源氏物語は文献初出が寛弘五年(1008)です。この年を源氏物語の最初に書かれた時期と設定しますと、これより遡ること約20年前となる寛和2年(986年)に源氏物語を書いた紫式部の主人筋となる藤原道長が政権を掌握する一つの背景となった大きな性的スキャンダルがありました。それが花山天皇の御代に伊勢斎宮と卜定された済子女王と滝口武者平致光との密通露見事件です。そして、話題の野宮草紙(小柴垣草紙)はこの事件を絵巻物としたものです。伊勢斎宮に定められた女性は嵯峨野に設けられた仮設された潔斎所である野宮で1年間の潔斎を行い、その後に伊勢に下向する決まりです。ところが、その野宮での潔斎期間中に済子女王がそこを警護する滝口武者の平致光と肉体関係を持っていることを密告され、済子女王は伊勢斎宮を解任されています。伊勢斎宮交代の儀式は天皇御代代わりの重要な儀式ですので、斎宮自らの行いからの性的スキャンダルはその女性の選定のそもそも論に及ぶ重大な政治的な事件です。
 そして同年、花山天皇は妃の死亡を契機に出家し花山法皇となりますが、女性問題を常に持つ人物で花山法皇時代には女性問題から長徳2年(996)に「長徳の変」と言う事件が発生します。この事件の当事者として藤原道長の政敵だった藤原伊周とその子隆家は失脚し、歴史は藤原道長の政権掌握へと進みます。花山天皇(法皇)とその周辺が非常に性に対してオープンと言うか、緩いと言うか、多数の性に関わるスキャンダルなどで藤原道長が押す一条天皇へと皇位は移ります。
 参考情報として、この一条天皇の中宮が道長の娘の彰子です。時系列では、宮中の力関係で最初に花山天皇の後を継いだ一条天皇御代に政権を掌握していたのが藤原伊周の父親である藤原道隆です。この時、道隆は娘の定子を一条天皇の中宮に入れています。あの清少納言はこの中宮定子に仕えた人です。ただ、「長徳の変」により道隆の子の藤原伊周とその伊周の子の隆家は失脚し、中宮定子は道長の娘の彰子入台のために皇后宮定子の敬称を授けられ「前の御代の中宮」のような扱いになりました。
 紫式部の中宮彰子の許への出仕は寛弘2年(1006)頃と推定され、これとは別に永延元年(987)の藤原道長と源倫子との結婚の際に倫子付きの女房として婚姻手伝いに出仕していた可能性も指摘されています。これらの伝承からすると紫式部は藤原道長と藤原伊周とが政争をしていた時代からの藤原道長系の人物です。
 さて、最初に紹介した済子女王の性的スキャンダルは、最初は野宮草紙として、次に名を変えて小柴垣草紙に、さらに内容に仏教色を組み込んで灌頂絵巻として世の中に伝わり、現在に知られています。ただ、この野宮草紙(小柴垣草紙)は肉筆で済子女王と平致光との性行為をリアルに描き、そのそれぞれの異なる体位を示す絵に解説の絵詞書を付けると言う、非常に特殊なものです。この肉筆で性行為をリアルに描いたものと言う性質から、ほぼ、秘蔵されて公開されないものとなっています。
 この小柴垣草紙の研究では6場面9図への絵詞書を持つ短文系統と10場面16図への長文系統の二系統があり、最初に野宮での密通だけを扱う野宮草紙とも称される短文系統があり、それが発展して最終的に仏教要素も取り入れて灌頂絵巻とも称されるものへとなったと考えられています。伝存する10場面の長文系統のものは、絵詞書は後白河院御宸筆、絵は住吉法眼の作品を模写したものとの奥書があります。これに関係する伝承によると承安元年(1171)に高倉天皇に嫁いだ平清盛の娘平徳子に対して、彼女の叔母にあたる後白河天皇の女御だった平滋子が野宮草紙を贈ったとするものがあり、この時に後白河法皇の意向で短文系統のものを踏まえて長文系統の灌頂絵巻のものが制作された可能性が高いと考えられています。現在の小柴垣草紙の研究ではここまでが伝来の歴史の最上流に位置しますが、それでもなお6場面の短文系統の小柴垣草紙が作られた時代については不明です。
 ただし、小柴垣草紙の絵での滝口武者である平致光の扱いが短文系統と長文系統とでは違い、短文系統では高欄(実際は「浜縁」と言う縁側)の下の庭土の上に座り警護しますが、長文系統では浜縁の下の庭に畳莚を敷きそこに座り警護をしている扱いです。ほぼ、短文系統は本来の滝口武者の警備状況を示すものであり、長文系統は鎌倉幕府以降の武士の扱いが上がった時代以降の上級武者を下郎とは出来ない時代の姿からのものです。このような絵からの判断で短文系統が早い時代、長文系統が遅い時代との判断もあります。
 それを含めて、短文系統の絵詞書では浜縁の下の庭土の上に外を向いて座っている平致光の頭を斎王の済子女王が足でつんつんして戯れたとの文章になるのです。滝口武者がどのように警護をするかは北野天神縁起絵巻の巻4の恩賜の御衣を前に泣く菅原道真の場面に浜縁の下に控える武者姿から確認が出来ます。その警護の武者は室内ではなく柴垣側の外を向いて控えて座り警護します。警護の武者が済子女王の足で頭をつんつんされた時、当然、当時の女性は下着を着用しませんから、地上から1.2mほどの高い浜縁に座って足で土間に座る男の頭をつんつんし、それを男が振り向けばそこに女性の陰部が丸見えになっても不思議ではありませんし、すぐに見えなくても怒った男に足を広げられたら丸見えです。それも月影の時間帯の設定ですので庭にかがり火があり、庭側から室内向きに光があります。庭の平致光からは光が済子女王の陰部を照らす方向です。その状況から絵詞書に示すように、その勢いで平致光に股を割られ陰部を舐めまわされる状況になるのです。こうしてみますと、絵詞書は高貴な皇族の斎宮と下級武士との荒唐無稽の有り得ないような性的な事件ではありますが、場面設定などは実際の場面としては矛盾が無い設定になっているのです。創りものの物語ではなく史実として受け取られるような緻密な導入場面の設定です。
 想像してください、夜、スタンドライトで部屋を照らし、その場面設定で下着を履かないスカートの女性がテーブルに座り、その先の床に座って本を読んでいる男の頭を女性が急に足先でつんつんするのです。邪魔をされびっくりして振り返れば、スタンドライトの光で照らされた白い肌の中に黒いものが見えるという話です。
 ここで補足情報として、飛鳥時代から平安時代、女性は初潮を迎えると大人の女性になったとして裳着とか髪上げとかという儀式を行い、その儀式の中で腰結を務める男性が女性に性交渉の方法を実技で教えます。このため、古代から中世にかけて大人の女性に生娘/処女という状態の女性はいません。伊勢斎宮の済子女王もまた成人の女性ですから斎宮の立場でも男女関係の方法は熟知しています。そのような大人の女性と滝口武者として選抜された武芸に秀でた上で美男子である平致光との関係です。小柴垣草紙が創られた時、鑑賞する人たちはこのような事柄を理解して絵を眺めているのです。
 また、伝存する短文系統の小柴垣草紙の人物描写は大和絵であり、それは伴大納言絵詞や信貴山縁起絵巻に近いとし、その信貴山縁起絵巻は平安時代後期の12世紀頃のものと推定されています。そしてこれもまた後白河法皇に関わると考えられていますが、伝存作品は、ほぼ、近世の模写ですので忠実に原作を模写・伝承されているかは不明です。近世好事家の要請で絵は源氏物語絵巻などに寄せて模写した可能性はあります。
 ここで、源氏物語には伊勢斎宮に関わる野宮の場面があります。それが賢木の巻で、六条御息所の娘が伊勢斎宮に任じられ浄い場所である野宮で潔斎をしており、それに史実の斎宮の規子内親王と母親の徽子女王との関係に習って、母親の六条御息所が付き添っている設定です。この場面で光源氏が野宮で伊勢斎宮の娘と共に居る六条御息所を訪れ、娘に同行しての伊勢下向を取りやめることを説得するのですが、なぜか、その浄い場所の潔斎の場である野宮で光源氏と六条御息所とは夜を共にするのです。本来なら天皇御代代わりの重大な儀式である伊勢斎宮交代のための潔斎の仮宮である野宮で性行為を行うことは有り得ないのです。さらに源氏物語ではちょっとひねっていますが、これは伊勢斎宮の済子女王と滝口武者の平致光との関係に似ていて、この時、光源氏の身分は近衛大将で源氏物語では武者をイメージさせています。当時の貴族の人々にとって20年前の性の大スキャンダルはまだまだ生々しい事件です。そのスキャンダルの場所は潔斎の野宮ですし、伊勢斎宮と武者との組み合わせです。当然、紫式部は主人筋の藤原道長が政権掌握する局面での一つの重要な事件を知らないはずはありません。それに主人中宮彰子のライバルである皇后宮定子側が関わる花山天皇関係者の性スキャンダルです。ほぼ、源氏物語はその読み手に済子女王のスキャンダルを思い出せることを狙っていると思います。当然、当事者関係側となる皇后宮定子側に所属する清少納言の枕草子では野宮での事件は触れていません。
 行ったり来たりしていますが、問題は紫式部の時代に野宮草紙(小柴垣草紙)が存在していたとすると、現代なら政敵関係者の娘の奔放な性行為の映像が公開されたような話です。その紫式部は宇治十帖 浮舟の巻で「いと、をかしげな男女、もろともに添ひ臥したるかたを書き給ひて」と、匂宮に匂宮自身と浮舟との性行為の場面を絵として描かせ、それを不倫関係になった浮舟との思い出として浮舟に託します。なぜかこの匂宮と浮舟との関係では互いに和歌を詠って渡すのではないのです。また、当時の社会状況として奈良時代から中医学では滋養強壮の医療として若い相手との性行為を推薦していて、それを受けて貴族階級には中医学が推薦する性交渉の様子や体位を紹介する偃息図と言うものが存在しています。およそ、紫式部の周辺には性行為をビジュアル化して共有する社会があったのです。すると、平安時代末期までには創られていた長文系統の小柴垣草紙の原型となる短文系統の野宮草紙が紫式部の時代に存在する可能性があるのです。
 焦点を絵画に転じますと、藤原道長の時代には和風の大和絵が生まれていて、当時を示す伝存する最古のものが天喜元年(1053)の平等院鳳凰堂壁扉画ですし、延久元年(1069)の聖徳太子絵伝です。また、源氏物語の絵合の巻では竹取物語、うつぼ物語、伊勢物語などを題材とした物語絵に加え光源氏自身による須磨を題材としたものを登場させます。状況証拠ではありますが、紫式部の時代には性行為を大和絵技法でビジュアル化する文化的な下地は存在していたと考えて良いのです。それを背景に浮舟の巻で匂宮が自身の性行為をビジュアル化することに、偃息図の伝統や大和絵の存在から当時の人々も鎌倉時代に源氏物語を整備した藤原定家も違和感を抱かなかったと思います。
 すると、一つの可能性が見えて来ます。藤原道長が野宮草紙を作成し中宮彰子を経由して一条天皇に見せた可能性ですし、中宮彰子が春画としての本来の使い方をした可能性です。花山天皇系の済子女王と平致光との性スキャンダルは対立する一条天皇には都合がいい話でしたし、その性スキャンダルの実情を具体的に知りたいとの好奇心は十分にあったと思います。非常にアハハ!の妄想ですが、藤原道長にとって全くに損はありませんし、源氏物語の絵合の巻が当時の藤原道長の生活の実態を示すものなら絵師も文章作家も持っています。それに当時の大和絵の最高峰にあるとされる平等院鳳凰堂壁扉画は藤原道長の息子の頼道が作らせたものです。
 ここで、『性で読み解く日本美術 妄想古典教室』の著作で津田塾大学学芸学部国際関係学科教授の木村朗子氏は、小柴垣草紙での短文系統側の野宮草紙の女性の描き方で、特徴的に乳房の表現に違いがあると指摘します。場面展開でいきなり直接的な性行為に直結する下半身陰部の露出から始まっている、これは男が野宮草紙の企画・制作をしたのではなく女が主導権を握っていたのではないかと指摘します。男がポルノ作品の企画・制作をしたのなら乳房が先に来て、そこの愛撫の後に下半身の露出に移るのが自然ではないかの指摘です。小柴垣草紙も時代が下ってくると、最初の場面で乳房を見せて来ます。
 野宮草紙と同様なベクトルで紫式部の源氏物語では、空蝉の巻で光源氏は夏の暑い時期に空蝉と軒端荻とが碁を打っている場面を覗き見し、このとき、「くれなゐの腰ひき結へるきはまで、胸あらはに、ばうぞくなるもてなし」と、単襲の上を腰付近まで寛がせていた軒端荻の乳房をはっきりと見るのですが、光源氏は若い娘の乳房に性的な感情を受けず、「ばうぞく=凡俗」と、だらしないとの感情を持ちます。それよりもきちんとした身なりの空蝉の黒髪が美しいとの対比的な感情を示します。研究者は物語でのこの感情の持たせ方は女性作家特有のもので、男性作家なら若い娘の乳房は乳房として性的な感情を持ち、空蝉とは別の機会で軒端荻を抱く場面を描くのではないかとします。ただ、源氏物語では軒端荻と光源氏とは、光源氏の勘違いで忍び込んだ部屋の軒端荻を空蝉と間違えて関係を持ったと示唆はしますが、部屋と相手への勘違いであって軒端荻の若い乳房を見ての夜這いではありません。ちなみにこの時の光源氏の設定年齢は数えの17歳です。
 面白いもので、小柴垣草紙でも時代が下って場面が増補されて10場面の長文系統の灌頂絵巻になると、済子女王をすぐに全裸姿にして乳房がきちんと描くようになります。また、奈良時代の万葉集では「みどり子の ためこそ乳母(おも)は 求むと言へ 乳飲めや 君が乳母 求むらむ」と、ここに貴方の大好きな乳房があるから赤子のように吸いなさいと露骨に詠う歌もあります。このように奈良時代の貴族の男達は男女関係では乳房にしゃぶりつくのが大好きですし、女達も男はみんな乳房が大好きと承知しています。この状況からすれば、およそ、男がポルノ作品の企画・制作をするなら、若い娘の乳房の露出と愛撫される姿を抜いた作品は作らないと思われるのです。それで、小柴垣草紙を研究する井黒佳穂子氏や木村朗子氏は小柴垣草紙の原型と思われる短文系統の野宮草紙に、女の手による企画・制作の可能性を疑うのです。男の企画じゃないとの判断です。
 じゃ誰か、可能性で学識優秀で古くから藤原道長と知古があり、中宮彰子を主人とする紫式部です。『紫式部と絵』を著述する大阪樟蔭女子大学の竹内美千代氏は、紫式部日記には絵に関する記述が7例あり、それらは現実の状況や出会った人物と紫式部が絵で見て来たものとの比較・比喩の表現であると指摘し、背景に藤原道長の正妻倫子やその子彰子に仕えた紫式部の生活圏には写実性の高い絵が数多くあったと考えます。そこから竹内美千代氏は源氏物語に現れる95例に示す絵の情景描写には当時の貴族社会を反映する写実性があると考えます。およそ、平等院鳳凰堂壁扉画の背景に示されるもので源氏物語に現れる絵を想像しても良いようです。逆に見ますと紫式部は文章力で企画する絵を表現する能力がありますし、同時に写実性の高い絵への知識も豊富なのです。そして、藤原道長はそのような言葉や文章で示すものを絵として表現できる絵師を持ちます。すこしに年代は下って鎌倉時代の『古今著聞集』巻十一に春画技法について絵師が論争する場面があります。「ふるき上手どものかきて候ふおそくづの絵などを御覧も候へ。その物の寸法は分に過ぎて大きにかきて候ふ事、いかでは実にはさは候ふべき。ありのままの寸法にかきて候はば、見所なきものに候。」と、性交の様子に対して表現では実物の写実ではなくデフォルメすることを非難されたことへの反論で、性交の実物をデフォルメすることは偃息図(=平安時代の春画の呼称)からの伝統と根拠に取りますので、ここから平安時代に既に春画を創作していた状況が判ります。つまり、平安貴族階級には春画の需要があり、それ専門の絵師もいたのです。
 この背景があるから、あの宇治十帖 浮舟の巻で匂宮の春画を描くシーンが生まれたのでしょう。紫式部の立場、知識、動機、これらを総合しますと、藤原道長と紫式部とが共犯関係なら花山天皇系の政敵を追い落とすために道長の要請で花山天皇系の済子女王の性スキャンダルの暴露本のような春画野宮草紙の企画・制作をし、流布させても不思議ではないのです。そして、そのダメ押しが、当時、宮中貴族で評判になっていた源氏物語の賢木の巻です。
 非常にとぼけた結論に無理矢理に持ち込みました。ただ、2024年はNHKの大河ドラマの影響から卒論で源氏物語や紫式部あたりを取り上げることがブームになるのではないでしょうか。その時に「紫式部と絵」と言う切り口で、野宮草紙(小柴垣草紙)、宇治十帖浮舟の巻、賢木の巻の野宮、これに紫式部日記での絵の写実性を組み合わせると、人とはちょっと違ったものが組み立てとして出来るのではないでしょうか。
 おまけとして、ネット検索では、『小柴垣草紙の変遷』(井黒佳穂子)をどうぞ、書籍では長文系統ですが『浮世絵グラフィック6 艶色説話絵巻(福田和彦)』が中古本ですがアマゾンから¥1円から入手が可能です。
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新選万葉集 和歌表記の謎を考える

2024年01月06日 | 万葉集 雑記
新選万葉集 和歌表記の謎を考える

 今回、和歌の表記のスタイルの話です。その関係で、和歌の歴史に興味が無いと全くにどうでも良い話です。ただ、古典とされる和歌が、本来、どのような姿だったのか、歌が作られた時にどのように解釈されていたか、ここに興味を持つと避けては通れない話ではあります。
 ここのところ新選万葉集に遊んでいます、その新選万葉集について、一般論として、新選万葉集の和歌表記形式が平安時代初頭の和歌を表記する標準的な形態だったと決めつけ、和歌表記の形態としては万葉集時代と古今和歌集時代とを繋ぐものと解説するものがあります。まず、この解説は、ほぼ、間違いです。新選万葉集と古今和歌集とのその編纂成立の時期に注目すると、その間は10年間しかありませんから和歌の表記を進化させ、それを貴族階級に普及させるには短時間です。また、新選万葉集の和歌はおおむね寛平御時皇后宮歌合から取られていますから、寛平御時皇后宮歌合と新選万葉集との和歌表記が同じでないと都合は悪いのですが、和歌研究者たちで両詩集の和歌が同じ表記スタイルだったと考える人はいないと思います。つまり、いい加減な想像で従来は新選万葉集を解説していることになります。
 和歌表記の確認として、和歌を文字で表すときに万葉集では大きく四つの形態があります。万葉集での和歌を文字化した時のこの四つの大きく違う形態の最初の発見は江戸時代中期の賀茂真淵です。ただ、和歌道や古今伝授などの関係から藤原定家が普及させた漢字交じり平仮名で表記するスタイルが和歌表記の本流として、万葉集での四つの形態発見は無視されます。そして時代が下り、この万葉集の四つの形態の再発見は昭和時代中期の阿蘇瑞枝の「柿本人麻呂論考」の発表によります。現代では万葉集の四つの形態を、詩体歌、非詩体歌、常体歌、一字一音万葉仮名歌と表現します。
 ただ、昭和時代にあってもこれがただちに万葉集研究での重要な再発見とは認められていなくて、和歌表記の歴史にあって注目されるのは昭和後期から平成初頭です。昭和にあっても従来の和歌研究の基本であった藤原定家が普及させた漢字交じり平仮名のスタイルから万葉集の四つの形態の存在を認め、それへと和歌表記法を変えることに抵抗しています。理由は先達や大学教授たちの万葉集の研究は漢字交じり平仮名で表記された和歌ですので、その表記とは違う本来の万葉集の四つの形態で表記される和歌を扱うと、研究の継続性や扱う和歌自体が相違して来る可能性があったからです。例えば、詩歌を原文から研究するか、翻訳から研究するかでは、研究の本質が違うと言うことになります。

1)詩体歌
出見 向岡 本繁 開在花 不成不在
出でて見る向かひの丘に本(もと)繁く咲きたる花の成らすは止まし
2)非詩体歌
今造 斑衣服 面就 吾尓所念 未服友
今造る斑(まらた)の衣(ころも)面影(おもかけ)に吾にそ念(おも)ふいまた服(き)ねとも
3)常体歌
黄葉之 落去奈倍尓 玉梓之 使乎見者 相日所念
黄葉(もみちは)の、散りゆくなへに玉梓(たまつさ)の、使(つかひ)を見れは逢ひし日思ほゆ
4)一字一音万葉仮名歌
伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陀飛那久尓
妹か見し楝の花は散りぬへし我か泣く涙いまた干なくに

 なお、昭和後期から平成初頭になって、昭和時代に古典と考えられていた万葉集、古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集などの多くは鎌倉時代初頭に藤原定家たちによって、読み易さを目的に漢字交じり平仮名のスタイルに翻訳されたものとの認識が合意・確認され、それ以降では急速に本来の古典作品の姿への復元が進んでいます。基本として現在では万葉集以外の古典和歌の本来の姿は歌中に表語文字となる漢字を持たない清音で借音一字一音の漢字で表記します。この借音一字一音の漢字表記のものを現在では印字体の平仮名で表記して提示します。

1)万葉集後期
原文 之奇志麻乃 夜末等能久尓々 安伎良氣伎 名尓於布等毛能乎 己許呂都刀米与
和歌 しきしまの やまとのくにに あきらけき なにおふとものを こころつとめよ
2)古今和歌集
原文 止之乃宇知尓 者留者幾尓个利 比止々世遠 己曽止也以者武 己止之止也以者武
和歌 としのうちに はるはきにけり ひとゝせを こそとやいはむ ことしとやいはむ
3)後撰和歌集
原文 布累由幾乃 美能之呂己呂毛 宇知幾川々 者留幾尓个利止 於止呂可礼奴留
和歌 ふるゆきの みのしろころも うちきつつ はるきにけりと おとろかれぬる
4)拾遺和歌集
原文 者累堂川止 以不者可利尓也 三与之乃々 也万毛加寸美天 計左者美由良无
和歌 はるたつと いふはかりにや みよしのの やまもかすみて けさはみゆらむ

 和歌人たちが意識して古典和歌で歌中に表語文字となる漢字を持たない借音一字一音の漢字だけで表記するようになったのは、何時か? この疑問に対して万葉集はその集中で答えを用意しています。それが令和の元号の典拠となった梅花宴の漢文の序にあり、「若非翰苑、何以濾情。詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。」の一文です。

梅花謌卅二首并序
標訓 梅花の歌三十二首、并せて序
前置 天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾盖、夕岫結霧、鳥封穀而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是盖天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以濾情。詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。
序訓 天平二年正月十三日に、帥の老の宅に萃(あつ)まりて、宴會を申く。時、初春の令月(れいげつ)にして、氣は淑(よ)く風は和(な)ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す。加以(しかのみにあらず)、曙の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて盖(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥は穀(うすもの)に封(こ)められて林に迷ふ。庭には新蝶舞ひ、空には故鴈歸る。於是、天を盖(きにがさ)とし地を坐とし、膝を促け觴(さかずき)を飛ばす。言を一室の裏(うち)に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然と自ら放(ほしきさま)にし、快然と自ら足る。若し翰苑(かんゑん)に非ずは、何を以ちて情を壚(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古と今とそれ何そ異ならむ。宜しく園の梅を賦して聊(いささ)かに短詠を成すべし。
序訳 天平二年正月十三日に、大宰の帥の旅人の宅に集まって、宴会を開いた。時期は、初春のよき月夜で、空気は澄んで風は和ぎ、梅は美女が鏡の前で白粉で装うように花を開き、梅の香りは身を飾った衣に香を薫ませたような匂いを漂わせている。それだけでなく、曙に染まる嶺に雲が移り行き、松はその枝に羅を掛け、またその枝葉を笠のように傾け、夕べの谷あいには霧が立ち込め、鳥は薄霧に遮られて林の中で迷い鳴く。庭には新蝶が舞ひ、空には故鴈が北に帰る。ここに、天を立派な覆いとし大地を座敷とし、お互いの膝を近づけ酒を酌み交わす。心を通わせて、他人行儀の声を掛け合う言葉を部屋の片隅に忘れ、正しく整えた衿を大自然に向かってくつろげて広げる。淡々と心の趣くままに振る舞い、快くおのおのが満ち足りている。これを書に表すことが出来ないのなら、どのようにこの感情を表すことが出来るだろう。漢詩に落梅の詩篇がある。感情を表すのに漢詩が作られた昔と和歌の今とで何が違うだろう。よろしく庭の梅を詠んで、いささかの大和歌を作ろうではないか。

この梅花宴での宴を主催した大伴旅人の歌
集歌八二二
原文 和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母
訓読 吾が苑に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも
私訳 私の庭に梅の花が散る。遥か彼方の天より雪が降って来たのだろうか。

 万葉集の編纂を見ますと、大伴旅人と山上憶良たちによる筑紫歌檀時代と称される神亀年間以降では漢語交じり一字一音万葉仮名の常体歌と一字一音万葉仮名だけの万葉仮名歌との二つのスタイルになります。常体歌の一字一音万葉仮名を平仮名表記に変えれば、藤原定家たちの漢字交じり平仮名歌と同じものとなります。ただ、鎌倉時代、西行法師たちが藤原定家たちの漢字交じり平仮名歌スタイルでは、その漢字がその文字自体が単独で言葉の意味を持つ表語文字であることから読み手に一方的に漢字表記により特定の意味を示すことで掛詞などの和歌の面白みである複線的に和歌を鑑賞できなくなると批判しています。和歌技法が進化して同音異義語の言葉遊びである掛詞などの和歌の面白みを求めるのなら、歌中に表語文字となる漢字を持たない借音一字一音の漢字だけで表記する歌、つまり、古今和歌集のように清音のひらがな和歌でなければまずいとの指摘です。
 ここで、万葉集には次の同音異義語の言葉遊びの歌があります。歌は大伴家持と大伴池主との間での相聞和歌による遊びです。歌は言葉遊びですから借音一字一音の漢字だけでの表記です。

<大伴池主>
集歌4128
原文 久佐麻久良 多比能於伎奈等 於母保之天 波里曽多麻敝流 奴波牟物能毛賀
表歌
訓読 草枕旅の翁(おきな)と思ほして針ぞ賜へる縫はむものもが
私訳 草を枕とする苦しい旅を行く老人と思われて、針を下さった。何か、縫うものがあればよいのだが。
裏歌
試訓 草枕旅の置き女(な)と思ほして榛(はり)ぞ賜へる寝(ぬ)はむ者もが
試訳 草を枕とする苦しい旅の途中の貴方に宿に置く遊女と思われて、榛染めした新しい衣を頂いた。私と共寝をしたい人なのでしょう。

<大伴家持>
集歌4133
原文 波里夫久路 己礼波多婆利奴 須理夫久路 伊麻波衣天之可 於吉奈佐備勢牟
表歌
訓読 針袋(はりふくろ)これは賜りぬ摺(す)り袋今は得てしか翁(おきな)さびせむ
私訳 針と針を入れる袋、これはもう頂きました。また、頭を包む摺り染めた袋を今度は頂いた。すっかり、老人らしくなりました。
裏歌
試訓 針袋これは戯(たば)りぬ摺り袋今は得てしか置(お)き為(な)さびせむ
試訳 針袋、この題材では、もう戯れました。頭を包む摺り染めた袋を今度は得ました。この題材で戯れましょう。

 奈良時代中期までには和歌を歌い表記する技術はここまで進化をしていますし、その和歌技術の一旦の集大成が古今和歌集にあるとされます。こうした時、新選万葉集とその作品のベースとした寛平御時皇后宮歌合の成立は寛平5年(893)であり、古今和歌集が延喜五年(905)としますと、おおむね、同時代です。言いたいことは、寛平御時皇后宮歌合の和歌も古今和歌集の和歌も同じ表記スタイルではなかったかの指摘です。
 長い助走でした。今回の本題は、新選万葉集の和歌の表記スタイルは万葉集から発見された4つの表記形態の内、どれに相当するのかです。まず、明確なのは歌中に表語文字となる漢字を持たない借音一字一音の漢字だけで表記する歌ではありません。また、一切の「てにをは」の表記を持たない詩体歌でもありません。以下に上下巻から3首ずつを抜き出しましたが、和歌の表記は万葉集の常体歌のようですが、そうではありません。万葉集の常体歌は表語文字の漢字と借音一字一音の「てにをは」となる万葉仮名との組み合わせですが、新選万葉集の和歌は漢詩で漢字を読む時の訓読み法に似た感覚で「てにをは」を表現するような独特な表現方法なのです。歌番140では「幡(はた)」、「鉇(かな)」、「革(かは)」、「兼(けむ)」と非常に自由な表記ですし、歌番60の「可為岐(しぬへき)」や「不来夜者(こぬよは)」には漢文的な読み返しの要素があります。加えて歌番180の「色殊殊丹」の「殊殊」の表記は表語文字となる漢字の可能性を示す選字でもあります。このようにすこし万葉集の常体歌とは趣を異にするのです。

上巻から20番毎に抜き出し
歌番20
和歌 鶯之 陬之花哉 散沼濫 侘敷音丹 折蠅手鳴
読下 うくひすの すみかのはなや ちりぬらむ わひしきこゑに うちはへてなく

歌番40
和歌 夏草之 繁杵思者 蚊遣火之 下丹而已許曾 燃亘藝禮
読下 なつくさの しけきおもひは かやりひの したにのみこそ もえわたりけれ

歌番60
和歌 秋山丹 恋為麋之 音立手 鳴曾可為岐 君歟不来夜者
読下 あきやまに こひするしかの こゑたてて なきそしぬへき きみかこぬよは

下巻から20番毎に抜き出し
歌番140
和歌 去年鳴芝 音丹佐牟幡 似垂鉇 幾之閒革 花丹狎兼
読下 こそなきし こゑにさもはた にたるかな いつのまにかは はなになれけむ

歌番160
和歌 幾之間丹 花散丹兼 求谷 有勢者夏之 蔭丹世申緒
読下 いつのまに はなちりにけむ もとむたに ありせはなつの かけにせましを

歌番180
和歌 秋之露 色殊殊丹 置許曾 山之黄葉裳 千種成良咩
読下 あきのつゆ いろことことに おけはこそ やまのもみちも ちくさなるらめ

 どうも、新選万葉集の和歌の表記方法は万葉集からの伝統の常体歌や表語文字となる漢字を持たない借音一字一音の漢字だけで表記する万葉仮名歌でも無く、新選万葉集の和歌だけに創られた独特な表記方法の感がします。当然、寛平御時皇后宮歌合や古今和歌集の和歌の表記方法に類似する可能性はありません。
 もうひとつ、同音異義語の言葉遊びを踏まえると掛詞になりそうな言葉は表語文字となる漢字を持たない借音一字一音の漢字だけで表記する必要があります。そうでないと物事を示す表語文字の力で歌に一定の解釈の方向性が与えられることになります。この視点から見ると歌番40の「蚊遣火之 下丹而已許曾」の表記では、燻ぶり煙を立てている蚊遣火の下方に赤く燃える炎が見えて来ます。同じように歌番20の「花哉 散沼濫」の表記では、桜の花びらが沼の水面に散って花筏の風情を見せています。これは柿本人麻呂の和歌表現技法に近いものになりますが、伝統の常体歌や万葉仮名歌とは異なる和歌表現手法です。ただし、これが寛平御時皇后宮歌合などの歌と同じ景色なのかと言うと、伝統の新選万葉集の和歌とし読み下されたひらがな表記のものが示す景色と同じではありません。
 実に不思議なのです。序に「先生、非啻賞倭歌之佳麗、兼亦綴一絶之詩、插數首之左。」と寛平御時皇后宮歌合などの和歌に漢詩を添えたとなっているのですが、元となる和歌、新選万葉集の和歌と漢詩、それぞれの表記に従うとこれらは鑑賞では別の景色を見せる独立した関係があり得るのです。
 ここで上巻の序にこの和歌表記の不思議さの背景を探ってみたいと思います。すると、序では万葉集と新選万葉集の和歌の姿を比較して「倩見歌體、雖誠見古知今、而以今比古。新作花也、舊製實也。以花比實、今人情彩剪錦、多述可憐之句、古人心緒織素、少綴不整之艶。」と述べています。新選万葉集の和歌の表記には「花」があるが、万葉集の和歌の表記は「實」であると論評します。
 この序の意味を万葉集の常体歌の和歌と新選万葉集の和歌とで比較してみます。二句目「吾戀居者」は「吾が恋居れば」の読み下し通りの情景ですが、「文織紊」は「あやおりみたる」と読み下しでは「水面の上にいくつもの丸い輪の文模様が織り出したようで、その輪が互いに干渉して乱れて行く」ような、このような情景を示します。これが万葉集の「實」と新選万葉集の「花」と言うことなのでしょう。歌の表現の歌体は常体歌としては同じですが、新選万葉集では「てにをは」となる言葉表記に、もう一歩、工夫を凝らしたと言うことなのでしょう。同じように末句「那倍手染濫」の表記について「〇〇らむ」と読む場合、万葉集では「将△」と表記する場合が大半です。つまり、「那倍手将染」が万葉調の表記なのです。それを「那倍手染濫」として「濫」の漢字により、山の緑の濃淡や葉枝の風による動きの風景の含みを持たせているのです。これも万葉集の「實」と新選万葉集の「花」との差なのでしょう。

万葉集 集歌488 額田王
和歌 君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹
訓読 きみまつと わがこひをれは わかやとの すたれうこかかし あきのかせふく
解釈 貴方の訪れを待つと私が恋い慕っていると、人の訪れかのように私の家の簾を動かして秋の風が吹く。

新選万葉集 歌番1 伊勢
和歌 水之上丹 文織紊 春之雨哉 山之緑緒 那倍手染濫
読下 みつのうへに あやおりみたる はるのあめや やまのみとりを なへてそむらむ
解釈 雨が降ると水の上に丸い綾織り模様が乱れる、その春雨よ、綾織りの模様を織る春雨が山の緑をすべて染め上げるのでしょうか。

 平安時代初頭、寛平御時皇后宮歌合や新選万葉集の時代には和歌は一字一音の万葉仮名で表記される和歌だったのでしょう。それを前提に、寬平聖主である宇多天皇が余興として皇后宮歌合の和歌を基に漢詩を詠ってみよと命じたのでしょう。その要求に応じての新選万葉集の漢詩ですが、それだけでは芸が無いとして新選万葉集の和歌を万葉集の常体歌の姿にし、歌体を一致せたのです。だから逆に「號曰、新撰萬葉集」となったと思われるのです。
 すると、やはり、新選万葉集の和歌の表記方法は新選万葉集ためだけのものであって、和歌の表現方法の進化の歴史の中では非常に特殊な扱いが必要になるものです。万葉集から古今和歌集の間に置いて、和歌表現方法の道程のものとは出来ません。
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新選万葉集 その和歌表記の特殊性

2023年12月31日 | 万葉集 雑記
新選万葉集 その和歌表記の特殊性

 知っている人は知っているの、和歌のあるあるの話で、古典和歌の表記スタイルの問題があります。古典和歌の表記スタイルは、奈良時代中期 大伴家持が中年期となる万葉集晩期以降から平安時代中期の紫式部たちが活躍した拾遺和歌集の時代、漢字に借音した一字一音の万葉仮名で表記します。

1)万葉集後期
原文 之奇志麻乃 夜末等能久尓々 安伎良氣伎 名尓於布等毛能乎 己許呂都刀米与
和歌 しきしまの やまとのくにに あきらけき なにおふとものを こころつとめよ
2)古今和歌集
原文 止之乃宇知尓 者留者幾尓个利 比止々世遠 己曽止也以者武 己止之止也以者武
和歌 としのうちに はるはきにけり ひとゝせを こそとやいはむ ことしとやいはむ
3)後撰和歌集
原文 布累由幾乃 美能之呂己呂毛 宇知幾川々 者留幾尓个利止 於止呂可礼奴留
和歌 ふるゆきの みのしろころも うちきつつ はるきにけりと おとろかれぬる
4)拾遺和歌集
原文 者累堂川止 以不者可利尓也 三与之乃々 也万毛加寸美天 計左者美由良无
和歌 はるたつと いふはかりにや みよしのの やまもかすみて けさはみゆらむ

 このように紹介しましたが、実際に目にする和歌は次のような区切りを持たずに二行書きで、それも、かな連綿表記で表しますから、一定の学習をしないと読めませんし、意味も分からないものです。それで鎌倉時代初頭には古典和歌を翻訳して漢字交じり平仮名で表記するようになります。この翻訳の第一人者が藤原定家で、それ以降では古典和歌本来のものを棄てて、藤原定家の翻訳した漢字交じり平仮名で表記されたものを聖典とするようになります。古今和歌集ですと古今伝授と言う相伝和歌道へと発展します。

古今和歌集 歌番1
<一字一音万葉仮名>
止之乃宇知尓者留者幾尓个利比止々世遠
己曽止也以者武己止之止也以者武
<漢字交じり平仮名>
年の内に春は来にけり一年を
去年とや言はむ今年とや言はむ

 ここで、和歌表記スタイルを万葉集の時代に戻しますと、万葉集では次のようなおおむね四つのスタイルがあります。詩体歌には日本語の「てにをは」となる借音漢字を持たず、常体歌は語を示す漢字に日本語の「てにをは」となる借音漢字を持ちます。非詩体歌は一部に「てにをは」となる借音漢字を持ちます。

1)詩体歌
出見 向岡 本繁 開在花 不成不在
出でて見る向かひの丘に本(もと)繁く咲きたる花の成らすは止まし
2)非詩体歌
今造 斑衣服 面就 吾尓所念 未服友
今造る斑(まらた)の衣(ころも)面影(おもかけ)に吾にそ念(おも)ふいまた服(き)ねとも
3)常体歌
黄葉之 落去奈倍尓 玉梓之 使乎見者 相日所念
黄葉(もみちは)の、散りゆくなへに玉梓(たまつさ)の、使(つかひ)を見れは逢ひし日思ほゆ
4)一字一音万葉仮名歌
伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陀飛那久尓
妹か見し楝の花は散りぬへし我か泣く涙いまた干なくに

 この平安初期の段階での和歌表記の状況を想像しながら、新選万葉集の和歌表記を眺めてします。なお、序に「先生、非啻賞倭歌之佳麗、兼亦綴一絶之詩、插數首之左。(先生、啻(ただ)、倭歌の佳麗を賞(めで)るのみにあらず、兼ねて亦(また)一絶の詩を綴り、數首を左に插(はさ)む。)」の一文がありますから、新選万葉集の和歌は新選万葉集のために新たに創られた和歌ではなく、既に詠われ知られていた和歌を基に、漢詩だけを創作したことになっています。その既に詠われ知られていた和歌の多くは寛平御時皇后宮歌合から取られています。

寛平御時皇后宮歌合 歌番1
和歌 はなのかを かせのたよりに たくへてそ うくひすさそふ しるへにはやる
推定 者奈乃可遠 可世乃多与利尓 多久部天曾 宇久比寸左曾布 之留部尓者也留
新選万葉集 歌番6 紀友則
漢詩 頻遣花香遠近賒 家家處處匣中加 黄鶯出谷無媒介 唯可梅風為指斗
読下 頻るに花の香を遣はして遠近賒(はる)かにして、家家處處匣中(こうちゅう)に加ふ、黄鶯谷より出るに媒介無く、唯だ梅風を指斗(しるべ)と為すべし。
和歌 花之香緒 風之便丹 交倍手曾 鶯倡 指南庭遣
読下 はなのかを かせのたよりに たくへてそ うくひすさそふ しるへにはやる
解釈 咲き匂う梅の香りを風の便りに添えて、鶯を誘い出す案内役として遣わせる。

寛平御時皇后宮歌合 歌番2
和歌 たにかせに とくるこほりの ひまことに うちいつるなみや はるのはつはな
推定 多尓可世尓 止久留己保利乃 飛満己止尓 宇知以川留奈美也 者留乃者川者奈
新選万葉集 歌番120 源當純
漢詩 溪風催春解凍半 白波洗岸為明鏡 初日含丹色欲開 咲殺蘇少家梅柳
読下 溪の風は春を催し凍(こほり)を解すこと半、白波は岸を洗ひて明鏡と為す、初日、丹を含みて色(はな)は開(さ)くを欲し、咲くは殺(はなはだ)し、蘇少が家の梅柳。
和歌 谷風丹 解凍之 毎隙丹 打出留浪哉 春之初花
読下 たにかせに とくるこほりの ひまことに うちいつるなみや はるのはつはな
解釈 谷間を吹く風により融ける氷の間ごとに、流れ出る水の波しぶきが春の最初の花であろうか。

寛平御時皇后宮歌合 歌番3
和歌 ちるとみて あるへきものを うめのはな うたてにほひの そてにとまれる
推定 知留止美天 安留部幾毛乃遠 宇女乃者奈 宇多天尓保比乃 曾天尓止満礼留
新選万葉集 歌番2 素性法師
漢詩 春風觸處物皆楽 上苑梅花開也落 淑女偷攀堪作簪 残香勾袖拂難卻
読下 春風は處の物に觸れ皆楽しく、上苑の梅花は開(さ)きて落(ち)り、淑女は偷(ひそやか)に攀りて簪を作すに堪(もち)ひ、残香は袖に勾ひて拂へども卻(のぞ)き難たし。
和歌 散砥見手 可有物緒 梅之花 別樣匂之 袖丹駐禮留
読下 ちるとみて あるへきものを うめのはな うたてにほひの そてにとまれる
解釈 花が散ってしまうと眺めて、散り終わってしまうべきなのに、梅の花は、余計なことに思いを残すその匂いが袖に残り香となって残っている。

寛平御時皇后宮歌合 歌番4
和歌 こゑたえす なけやうくひす ひととせに ふたたひとたに くへきはるかは
推定 己恵多衣寸 奈計也宇久比寸 飛止々世尓 不多々比止多尓 久部幾者留可者
歌番121 藤原興風
漢詩 黄鶯一年一般啼 歳月積逢數般春 可憐萬秋鶯音希 應認年客更来往
読下 黄鶯は一年に一(ひとたび)般(めぐら)して啼き、歳月を積み數(あまた)の般(めぐ)る春に逢ふ、憐れむべし萬秋の鶯の音(ね)の希れなるを、應(まさ)に認(ゆる)すべし、年客の更に来往するを。
和歌 音不斷 鳴哉鶯 一年丹 再砥谷 可来春革
読下 こゑたえす なけやうくひす ひととせに ふたたひとたに くへきはるかは
解釈 声が絶えないように鳴き続けよ、鶯よ、一年に二度とは来ない春なのだから。

 ここで推定の借音一字一音和歌と新選万葉集の和歌を並べてみますと次の通りです。

寛平御時皇后宮歌合と新選万葉集との比較
寛平御時皇后宮歌合 歌番1
歌合 者奈乃可遠 可世乃多与利尓 多久部天曾 宇久比寸左曾布 之留部尓者也留
新選 花之香緒 風之便丹 交倍手曾 鶯倡 指南庭遣
漢詩 頻遣花香遠近賒 家家處處匣中加 黄鶯出谷無媒介 唯可梅風為指斗
読下 はなのかを かせのたよりに たくへてそ うくひすさそふ しるへにはやる

寛平御時皇后宮歌合 歌番2
歌合 多尓可世尓 止久留己保利乃 飛満己止尓 宇知以川留奈美也 者留乃者川者奈
新選 谷風丹 解凍之 毎隙丹 打出留浪哉 春之初花
漢詩 溪風催春解凍半 白波洗岸為明鏡 初日含丹色欲開 咲殺蘇少家梅柳
読下 たにかせに とくるこほりの ひまことに うちいつるなみや はるのはつはな

寛平御時皇后宮歌合 歌番3
歌合 知留止美天 安留部幾毛乃遠 宇女乃者奈 宇多天尓保比乃 曾天尓止満礼留
新選 散砥見手 可有物緒 梅之花 別樣匂之 袖丹駐禮留
漢詩 春風觸處物皆楽 上苑梅花開也落 淑女偷攀堪作簪 残香勾袖拂難卻
読下 ちるとみて あるへきものを うめのはな うたてにほひの そてにとまれる

寛平御時皇后宮歌合 歌番4
歌合 己恵多衣寸 奈計也宇久比寸 飛止々世尓 不多々比止多尓 久部幾者留可者
新選 音不斷 鳴哉鶯 一年丹 再砥谷 可来春革
漢詩 黄鶯一年一般啼 歳月積逢數般春 可憐萬秋鶯音希 應認年客更来往
読下 こゑたえす なけやうくひす ひととせに ふたたひとたに くへきはるかは

 私は正統な教育を受けていませんので精密な論が出来ません。それを踏まえて、紹介しました寛平御時皇后宮歌合の歌番号1から4までの和歌に対する新選万葉集の和歌と漢詩の対を比較しますと、どうも、次のような疑いが生じます。確かに寛平御時皇后宮歌合の和歌を基に漢詩を創作したのでしょう。ただ、同時に古万葉調の和歌表現も創作したのではないでしょうか。
 例えば、歌番1の「交倍」を「たくへ」、「倡」を「さそふ」、「指南」を「しるべ」と読ませるものは平安時代初頭の和歌表記として存在したかです。この「たくへ」は皇后宮歌合の和歌での言葉の解説では「類へ」であり「添わせる、伴わせる」の意味を持つとされ、これは「交」の漢字の本義「俱也。共也、合也。」と同じです。和語からすれば安易な漢字選択は「類」ですが、それを「交」の選字です。ここに非常に漢詩を詠う時の選字の匂いがするのです。
 また、藤原定家本からの字母研究からすると和歌集ではありませんが、散文の土佐日記に載る和歌でも次のような表記スタイルを取りますから、平安時代の寛平御時皇后宮歌合の和歌の表記に漢字交じり借音の一字一音の万葉仮名とし、積極的に漢詩要素を取り入れて表記を行ったか、この疑問が生じます。

土佐日記 和歌 (藤原定家本の字母)
原文 美也己以天ゝ幾美爾安者武止己之物遠己之可比毛奈久和可礼奴留可那
読下 みやこいてゝきみにあはむとこし物をこしかひもなくわかれぬるかな
解釈 都出でて君に逢はむと来し物を来しかひもなく別れぬるかな

 つまり、皇后宮歌合の時代に標準的な和歌の表記スタイルが万葉集の常体歌などと同等な表記スタイルをしているのですと、新選万葉集の序の「漸尋筆墨之跡、文句錯乱、非詩非賦、字對雜揉、雖入難悟。(漸(やくや)く筆墨の跡を尋ねるに、文句錯乱、詩に非ず賦に非ず、字對は雜揉し、雖(ただ)、入るに悟り難き。)」の文章と矛盾が生じます。皇后宮歌合の時代と同時代の新選万葉集の序を創った人物は万葉集の常体歌や詩体歌のスタイルは和歌として平凡な人には読解が出来ないと指摘しているのに、一方では皇后宮歌合の和歌が万葉集の常体歌や詩体歌のスタイルで表記されていて、それをそのままに新選万葉集の和歌として取り込んだのかです。
 もう一つ、例を挙げると平安時代初頭の歌人である伊勢の和歌は古今和歌集や後撰和歌集などにも取られていて、その和歌の表記は表語漢字を使わない借音漢字による一字一音表記で和歌を表記するスタイルで万葉集の常体歌や詩体歌のスタイルではありません。もし、伊勢の和歌が万葉集の常体歌や詩体歌のスタイルと同等な漢字交じり借音一字一音仮名文字の表記スタイルなら、そのような表記スタイルの伊勢集を、表語漢字を使わない借音漢字だけによる一字一音表記に翻訳した人がいることになりますし二種類の表記スタイルの伝本が存在しても良いことになります。

皇后宮歌合 歌番19 伊勢
和歌 美川乃宇部尓 安也緒利三多留 者留乃安女也 々満乃美止利遠 奈部天曾武良武
新選万葉集 歌番1 伊勢
和歌 水之上 丹文織紊 春之雨哉 山之緑緒 那倍手染濫
読下 みつのうへに あやおりみたる はるのあめや やまのみとりを なへてそむらむ

 しかしながら、古典文学史ではそのような指摘はありません。古今和歌集の成立の延喜五年(905)までには、和歌を表語漢字を使わない借音漢字だけによる一字一音表記のスタイルは確立していたと、筑波大学の古今和歌集高野切の復元研究などの成果により現代では指摘します。時代を確認すると、伊勢は貞観14年(872)頃から天慶元年(938)頃の人で、皇后宮歌合は寛平5年(893)9月以前、新選万葉集は寛平5年(893)9月の成立です。つまり、歌人伊勢は和歌を表語漢字を使わない借音漢字だけによる一字一音表記のスタイルで詠う時代の人なのです。
 すると、皇后宮歌合の和歌は表語漢字を使わない借音漢字だけによる一字一音表記のスタイルで詠われていたとしますと、新選万葉集に載せる和歌は一字一音表記のものから、万葉調に新たに表記を創作したと推定されることになります。

寛平御時皇后宮歌合 歌番1
歌合 者奈乃可遠 可世乃多与利尓 多久部天曾 宇久比寸左曾布 之留部尓者也留
新選 花之香緒 風之便丹 交倍手曾 鶯倡 指南庭遣
漢詩 頻遣花香遠近賒 家家處處匣中加 黄鶯出谷無媒介 唯可梅風為指斗
読下 はなのかを かせのたよりに たくへてそ うくひすさそふ しるへにはやる

 行きつ戻りつ、新選万葉集の和歌表記は菅家一門や当時の人々が理解・解釈していた万葉集の詩体歌や常体歌の表記スタイルに擬えて創作したものとなります。それも漢詩に応じる和歌としての創作ですから、「媒介」に対し「倡」の選字と「さそふ」の読みでしょうし、「指斗」に対して「指南」の選字と「しるへ」の読みなのでしょう。

寛平御時皇后宮歌合 歌番174
歌合 和利奈久曾 祢天毛佐女天毛 己比良留々 宇良三緒以川知 也利天和須礼武
新選 無破曾 寢手裳覺手裳 恋良留留 怨緒五十人槌 遣手忘牟
漢詩 霜月軽往驚単人 曉樓鐘響覺眠人 恋破心留五十人 相思相語歳數處
読下 わりなくそ ねてもさめても こひらるる うらみをいつち やりてわすれむ

 この組み合わせで、まず、漢詩の「五十人」は白居易の漢詩「燕子楼」に関わる五十歳で死んだ徐州長官「張仲素」を示唆するものです。それで相思相語歳の「歳」の人物像がはっきりと見えて来ます。この漢詩の「五十人」の言葉に対して和歌では無理に「五十人槌」と表し「いつち」と読ませます。
 また、「無破曾」の表記について、万葉集では「見人無尓(見る人も無しに)」、「絶事無(絶える事無し)」などと和臭漢文のような表記をしますから、「破無曾」でも十分なのですが、漢詩が白居易の漢詩「燕子楼」を題材にしているために二夫に交えずの操を守った張氏の愛妓眄眄を示唆するために「無破曾」でなくてはいけないのです。実にアハハ!なのです。本来は皇后宮歌合の和歌を示すはずなのですが、白居易の漢詩「燕子楼」で遊んだために和歌が実に漢詩的な要素を持つのです。このような遊びがあるからか、序で「文句錯乱、非詩非賦、字對雜揉、雖入難悟。」と示唆するのでしょう。
 面白いと思うか、実にとぼけた酔論と思うかは任せします。ただ、和歌の表記の変遷の歴史からすると、新選万葉集の和歌表記には特別な意図があるのです。それも単純に万葉集の詩体歌や常体歌の表記スタイルに擬えて創作したのではないのです。和歌なのですが漢詩的な遊び心の要素があるのです。
 もし、大学生で面白いと思ったら、このような視線で新選万葉集を眺めてみたらどうでしょうか。よろしくお願いいたします。
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新選万葉集 「殺」、この言葉の用法

2023年12月30日 | 万葉集 雑記
新選万葉集 「殺」、この言葉の用法

 新選万葉集は平安時代初頭の和歌と漢詩とを対にして編まれた詩歌集です。この作品が作られた時代性から、漢詩での使われる漢字が現在と同じような意味合いを持つかは保証されていません。
 ご存じのように中国語自体、漢時代、隋唐時代、元宋時代以降では発音も大きく変わっていますし、漢字の意味合いも変化しています。それを受けて日本でも飛鳥時代までは漢時代の発音や呉音と称される南中国の発音で漢字を扱いますし、遣唐使の時代となる奈良時代から平安時代初期までは唐音と称される発音や漢字を正音として公式なものとして扱います。これが平安時代後期~鎌倉時代以降には大陸の元宋時代以降の近世中国語の影響と平安時代の文学鎖国時代の影響などにより日本語漢字と言う日本独特な漢字が誕生して来ます。これにより同じ漢字でも中国側と日本側で意味が違うようなことも起きています。
 このような背景を踏まえて、新選万葉集で、ちょっと、有名な漢字の解釈問題を紹介します。それが「殺」という漢字の解釈です。
この漢字「殺」の特殊な用法があります。それが次に示す、「又疾也。猛也。甚之意。」です。多分、これはまったくの想像外の用法ではないでしょう。
<康熙辞典>
又疾也。猛也。【白居易·半開花詩】「西日憑輕照、東風莫殺吹。」
<漢語大詞典>
甚之意。【唐白居易 玩半開花贈皇甫郞中】「西日憑輕照、東風莫殺吹。」、【宋朱敦儒 鼓笛令】「殘夢不須深念、這些箇、光陰殺短。」
<國語辭典>
甚、極。「愁殺人」、【元·張養浩 詠江南·一江煙水照晴嵐】「畫船兒天邊至、酒旗兒風外颭、愛殺江南。」

 ただ、中国古典文学を研究されている方々では有名で、一例として静岡大学情報社会学科の教授 許山秀樹氏の早稲田大学時代の論文で、「『V殺』の成立と展開-漢から唐末を中心にして-」と言うものがあります。この論文では、唐代の漢詩にあって、「〇+殺」の表記のことを「V殺」と表現して、この「V殺」の言う特徴的な用法を紹介します。それも「V殺」と言う用法は白氏文集に13詩を見ることが出来、およそ、白居易が好んだものだったと指摘しています。
 許山秀樹氏はその論文では漢詩に現れる「V殺」の言葉の「殺」の漢字を「甚」の漢字に置き換えて、詩が成立するかを確認する必要があると指摘します。置き換えが可能なら「V殺」は「V+甚だし(Vなるものは甚だし)」と言う特別な用法と判定が出来るとの指摘です。それもこの用法は白居易が好んだ表現方法と思われると指摘します。
 ここで、白居易の作品集である白氏文集の日本への伝来は平安時代・承和年間(834-848)頃と考えられていて、伝本の研究から留学僧・恵萼が蘇州・南禅院を訪れ、白居易直筆の「白氏文集」を寺僧の協力を得て書写し、承和14年(847)に帰国して日本にもたらしたと推定されています。それも鎌倉時代の伝本の奥書から当時の文章博士であった菅原家(菅家)の菅原是善が写本をしたと推定されています。菅家の門弟が総力を挙げて編んだ新選万葉集の編纂が寛平五年(893)ですので、学問の一門である菅家の中に白氏文集の伝来から50年ほどの時間が存在します。また、今日の新選万葉集の漢詩の研究では白氏文集の影響を認め、それぞれの漢詩の研究では使われる言葉に白氏文集の影響を確認することが基本的な要求となっています。
 新選万葉集の漢詩で「殺」の漢字を探りますと次の12詩を見いだせます。これらは嗤殺/咲殺、怨殺、惜殺、奢殺、身殺の言葉として使われていて、「V殺」を「V甚」に置き換えて「V+甚だし(Vなるものは甚だし)」の解釈が成立するかと言うと、「惜殺」以外では成立すると考えています。「惜殺」の「殺」は「殺、又掃滅之也。」で示される用法と考えています。

歌番22 紀友則
漢詩 嘒嘒蝉聲入耳悲 不知齊后化何時 絺衣初製幾千襲 嗤殺伶倫竹與絲
読下 嘒嘒(けいけい)たる蝉の聲は耳に入りて悲しく、知らず齊后の何(いづれ)の時ぞ化するを、絺衣(ちい)、初て製(つく)る幾千の襲(かさね)、嗤(ほほえみ)は殺(はなはだ)し伶倫の竹(ちく)と絲(げん)。
注意 伶倫は古代の楽器の演奏者ですので、ここでの竹は管楽器、絲は弦楽器を意味します。

歌番71 壬生忠岑
漢詩 試入秋山遊覽時 自然錦繡換単衣 戔戔新服風前艶 咲殺女牀鳳羽儀
読下 試に秋山に入りて遊覽せし時、自ら錦繡を単衣に換ふを然(しか)す、戔戔たる新たな服、風前に艶にして、咲(え)むは殺(はなはだ)し女牀(にょしょう)鳳羽(ほうう)の儀

歌番74 佚名
漢詩 七夕佳期易別時 一年再會此猶悲 千般怨殺鵲橋畔 誰識二星涙未晞
読下 七夕の佳期は別れ易き時、一年再び會ふとも此は猶も悲し、千に般(および)て怨みは殺(はなはだ)し鵲橋の畔、誰か識らむ二星の涙、未だ晞(かわ)かず。

歌番81 佚名
漢詩 三冬柯雪忽驚眸 咲殺非時見御藤 柳絮梅花兼記取 恰如春日入林頭
読下 三冬の柯(えだ)の雪は忽に眸を驚かせ、咲くは殺(はなはだ)しくも時非ずして御溝(ぎょこう)を見、柳絮(りゅうじょ)梅花を兼(とも)に取りて記し、恰(あたか)も春日の林頭に入るが如し。

歌番82 佚名
漢詩 試望三冬見玉塵 花林假翫數花新 終朝惜殺須臾艶 日午寒條蕊尚貧
読下 試に三冬を望み玉塵(ぎょくじん)を見、花林、假(かり)に數(あまた)の花の新なるを翫(めず)る、終朝(しゅうちょう)、殺(くだ)けむを惜み、須臾(しゅゆ)、艶にして、日午(じつご)、寒條(かんじょう)の蕊(ずい)は尚も貧(とぼ)し。

歌番87 佚名
漢詩 冬日舉眸望嶺邊 青松残雪似花鮮 深春山野猶看誤 咲殺寒梅萬朵連
読下 冬日、眸を舉げ嶺邊を望み、青松に残れる雪、花の鮮なるに似たり、深春の山野は猶も看て誤まり、咲くは殺(はなはだ)しく寒梅の萬朵の連(つら)なるを。

歌番103 佚名
漢詩 千般怨殺厭吾人 何日相逢萬緒申 歎息高低閨裏乱 含情泣血袖紅新
読下 千に般(および)て怨(うらみ)は殺(はなはだ)しく吾を厭ふ人、何れの日か相(たが)ひに逢ひて萬緒を申さむ、歎息は高く低くして閨裏は乱れ、情を含みて泣血し袖の紅は新たなり。

歌番120 源當純
漢詩 溪風催春解凍半 白波洗岸為明鏡 初日含丹色欲開 咲殺蘇少家梅柳
読下 溪の風は春を催し凍(こほり)を解すこと半、白波は岸を洗ひて明鏡と為す、初日、丹を含みて色(はな)は開(さ)くを欲し、咲くは殺(はなはだ)し、蘇少が家の梅柳。

歌番134 藤原朝忠
漢詩 春往散花舊柯新 毎處梅櫻別家変 楽濱海與泰山思 奢殺黄鳥出幽溪
読下 春は往きて花を散らし舊き柯(えだ)は新たなり、處毎に梅櫻は別けて家を変へ、濱海と泰山とを楽しく思ひ、奢(おごる)は殺(はなはだ)し黄鳥(こうちょう)の幽溪に出るを。

歌番181 佚名
漢詩 月影西流秋斷腸 桂影河清愁緒解 夜袂紅紅館栖月 咲殺人閒有相看
読下 月影は西に流れ秋は斷腸なり、桂影(けいけい)に河清くして愁緒を解く、夜の袂は紅紅にして館栖(かんす)の月、咲(え)むは殺(はなはだ)し人を閒(うかが)ひて相ひ看る有るを。

歌番203 佚名
漢詩 神女係雪紛花看 許由来雪鋪玉愛 咲殺卞和作斗筲 不屑造化風流情
読下 神女は雪に係りて花を紛(ふら)して看(なが)め、許由(きょゆ)は雪を来(ふ)らせ玉を鋪(し)きて愛る、咲(え)むこと殺(はなはだ)しも卞和(べんか)は斗筲(とそう)を作(な)して、造化風流の情を屑(よ)しとせず。

歌番238 佚名
漢詩 無限思緒忍猶發 身殺慟留且不憚 妾羅衣何人共著 燈下抱手語聳耳
読下 限り無く思ひ緒(おり)を忍へども猶も發(あらわ)れ、身は殺(はなはだ)しく慟(なげ)き留むも且(さら)に憚(はばか)らず、妾(それがし)が羅衣は何(いつ)か人と共に著(き)む、燈下に手を抱きて語(ことば)に耳を聳(そばだ)たす。

 おまけで、新選万葉集の伝本で「間」と「閒」との表記の違いがあるものがあります。「新選万葉集 諸本と研究」に載る林羅山筆は「間」ですが元禄九年版は「閒」です。中国でも中世以降では「閒」を「間」に換字しますが、宋・隋・唐初ですと「閒、覗也。猶容也。」とも紹介される言葉ですので、時代に合わせて「閒」を「間」に換字しますと、詩の意味合いが大きく変わります。「人閒」と「人間」とではまったく別な意味合いになります。

漢詩 散花後幾閒風秋 樹根搖動吹不安 崿谷躁起瞪不靜 自是仙人衣裳乏
読下 花散じて後に幾つか風に秋を閒(うかが)ひ、樹根は搖れ動き吹きて安らかず、崿谷(がくきょう)に躁(そう)は起(た)ち瞪は靜かならず、自から是に仙人の衣裳は乏し。

漢詩 幾閒秋穗露孕就 茶籃稍皆成黄色 庭前芝草悉將落 大都尋路千里行
読下 幾(きざし)を閒(うかが)ひ秋穗は露を孕みて就(な)り、茶籃(ちゃかご)は稍(ようや)く皆は黄色に成る、庭前の芝草(くさぐさ)は悉く將に落(かれ)むとし、都(うつくしみ)は大いにして路を尋ねて千里を行く。

漢詩 月光連行不惜暉 流水澄江無遊絲 岩杳摧楫起浪前 人閒眼痛歎且多
読下 月光は連なり行きて暉(かがやき)を惜しまず、流水の澄江に遊絲(ゆうし)は無し、岩は杳(くら)きに楫を摧(くだ)き浪前に起(た)ち、人を閒(うかが)ふ眼(まなざし)は且た多く歎き痛む。

漢詩 月影西流秋斷腸 桂影河清愁緒解 夜袂紅紅館栖月 咲殺人閒有相看
読下 月影は西に流れ秋は斷腸なり、桂影(けいけい)に河清くして愁緒を解く、夜の袂は紅紅にして館栖(かんす)の月、咲(え)むは殺(はなはだ)し人を閒(うかが)ひて相ひ看る有るを。

漢詩 花貌嬾秋風嫉音 人閒寰中寒気速 晴河洞中浪起早 露白烟丹妬涙聲
読下 花の貌は嬾(ものう)く秋風に嫉音あり、人は寰中(かんちゅう)に閒(うたが)ふも寒気は速く、晴河洞中に浪の起(た)つは早し、露白烟丹、妬涙の聲。

 今回、先の「新選万葉集 言葉遊びの世界」に続けて紹介しましたが、新選万葉集の漢詩で使う漢字は古い時代の意味合いを持つものがありますし、意図して誤解されやすい漢字を採用して遊んでいる面もあります。序文で奈良時代の万葉集について「漸尋筆墨之跡、文句錯乱、非詩非賦、字對雜揉、雖入難悟。所謂仰彌高、鑽彌堅者乎。然而、有意者進、無智者退而已。」と解説します。この新選万葉集は奈良時代の万葉集に習い、同様な表記スタイルを採用しますから、表記スタイルに対する態度は同じです。
 つまり、序の解説と同じで、読者は新選万葉集に対しても「有意者進、無智者退而已。」ということになるのです。作詩の方々は菅家一門の秀才ですから遊び心で言葉を表記します。それで、「大都」は「大いに都(うるわし)」ですし、「水面穀」は「水面は穀(よろ)し」です。また、「両岸斜」は「両岸に斜(かまえ)る」ですし、「夏漏」は「夏を漏(わすれ)る」です。さらに「一種」を「一つの種(たねくさ)」と読ませる工夫もします。実にアハハ!の漢字選択です。
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