万葉雑記 色眼鏡 二〇九 今週のみそひと歌を振り返る その二九
今回は新嘗祭のような宮中祭礼に関係する歌を取り上げてみました。それが集歌779と集歌780の歌です。集歌777の歌に付けられた標題「大伴宿祢家持更贈紀女郎謌五首」から歌は大伴家持と紀女郎との間で交わされた相聞問答歌の中でのものです。
大伴宿祢家持更贈紀女郎謌五首より二首抜粋
集歌779 板盖之 黒木乃屋根者 山近之 明日取而 持将参来
訓読 板葺(いたふき)し黒木(くろき)の屋根(やね)は山近し明日(あした)し取りに持ちて参(ま)ゐ来(こ)む
私訳 板葺きの黒木の屋根の新嘗宮のある恭仁(くに)の都は平山(ならやま)に近いので、明日、黒木に因む尾花を取って、佐保の貴女の許に持参しましょう。
集歌780 黒樹取 草毛苅乍 仕目利 勤知氣登 将譽十方不有
訓読 黒樹(くろき)取り草(かや)も刈りつつ仕(つか)へめり勤め知るきと誉(ほ)めむともあらず
私訳 新しい宮殿の新嘗宮で使う黒樹を取り束草(あつかくさ)の麁草(あらくさ)も刈りながら天皇に仕えていますが、(貴女は奈良の家から遠く離れて、私が)力を尽くして働くことをわきまえていると誉めてもくれません。
注意 原文の「勤知氣登」の「知」は一般に「和」の誤記として「勤和氣登」と表記し「勤(いそ)しき奴(わき)と」と訓みます。ここでは原文のままに訓じています。
確認しますと、この相聞問答歌が交わされた時、家持は久邇京で新たな都の造営工事に従事していますし、一方の紀女郎は奈良の都に住んでいます。久邇京は恭仁京とも表記され、場所は現在の木津川市加茂町例幣です。奈良の都からは直線距離で12kmの位置にあり、無理をすれば3時間弱の徒歩距離です。歌にはこのような距離感がありますし、家持が従事していた職務があります。
さて、続日本紀には神亀元年(724)11月8日の記事として次のような官布があります。
太政官奏言「上古淳朴、冬穴夏巣。後世聖人代以宮室。亦有京師、帝王為居、万国所朝。非是壮麗、何以表徳。其板屋草舍、中古遺制、難営易破、空殫民財。請仰有司、令五位已上及庶人堪営者搆立瓦舍、塗為赤白」 奏可之。
紹介しました神亀元年の記事が示すように、都では帝王の王都としてその姿が相応しいように官関係の建物、五位以上の大夫や有力な民間人の自宅は瓦屋根構造の建物を立てることが求められています。建物は現代に見る寺院と同様なものであることが求められたのです。家持が詠う集歌779の歌はこの官布からおよそ二十年もの後のことであり、町並みは官が求めるように整えられた後の世界です。現在に例えるなら高層ビル群が立ち並ぶ官庁・ビジネス街の風景が前提となります。
ところが、大伴家持が詠う歌で示す建物は瓦葺屋根構造のものではありません。「板屋草舍、中古遺制」と太政官が奏言するように古い習慣を示すものです。すると、家持が示す建物とは官が新造する王都で関与する古い習慣に元づくものと考えられます。目線を変えて状況を例えますと、高層ビル群が立ち並ぶ官庁・ビジネス街の官庁街に純和風の建物を特別に立てる必要はあったのかと云うことです。
こうした時、延喜式の大嘗祭の規定に、大嘗宮について次のような項目があります。
悠紀院所造正殿一宇、長四丈廣一丈六尺、棟當南北、以北三間為室、以南二間為堂。南開一戸、蔀蓆為扉、甍置堅魚木、八枝著高博風、搆以黒木、葺以青草、以檜竿為天井、席為承塵、壁蔀以草、表裏以席、地敷束草(所謂阿都加)。・・・中略・・・。主基院殿與上相對,五日之内造畢。
この記事が示すように大嘗祭を執り行う大嘗宮の中の悠紀院は南北に建てられ、内部を二部屋に仕切り、北を「室」、南を「堂」と呼ぶ構造になっています。入り口は南に一箇所だけですから、天皇が大嘗祭の儀式を行なう場所は「室」です。そして、この悠紀院の建物の構造は樹皮のついた丸太そのままの黒木で組上げ、壁を蓆(むしろ)、屋根を青草で葺き、床に束草(あつかくさ)を敷くことになっています。つまり、「板屋草舍、中古遺制」の建物と云うことになります。
さらに大嘗祭は新嘗祭の行事ですが、天武天皇即位では大王に就任して最初の新嘗祭を大嘗祭と称するようになったようです。およそ、天武天皇の大嘗祭・新嘗祭の祭事整備以前では、新嘗祭と後年に制定された「大嘗祭」とがどれほどの違いがあったかは不明です。
そうした時、新嘗祭での一貫に行われる行事に忌火炊殿祭と云うものがあり、この忌火炊殿祭に関してつぎのような二つの記事があります。
新嘗祭時、先新造炊殿。依件鎮祭、宮主行事。其舊殿者壞卻給宮主。
又大嘗御竈祭、炊殿鎮等之例、與尋常新嘗會同。
記事が示しますように、忌火炊殿祭で使用する炊殿は祭事に先だって新造する必要があり、前年に造築した炊殿は解体し宮主に下し渡します。また、大嘗祭で行われる御竈祭で使用する炊殿やその鎮めの祭事は新嘗祭と同じ仕儀次第で行うとも示します。ここに大嘗祭は新嘗祭の大掛かりな発展形と云う姿を見せます。
逆に見ますと大嘗祭で造築します悠紀院や主基院の構造から新嘗祭などで使用します炊殿などの様子が窺える可能性があります。ここに伊勢神宮の建物だけでなく延喜式に示す祭事規定からも中古遺制が推定できると期待があります。
集歌779と集歌780の歌の鑑賞では新嘗祭の風景と決め打ちしましたが、その根拠は先に示しました理由からのものです。
歴史では恭仁京は天平十四年正月の段階では大極殿が未完成などと宮殿の体裁は整ってはいませんが、前年の天平十三年十一月廿一日に大養徳恭仁大宮と云う称号宣言を為していますから、重要行事である新嘗祭は恭仁京に行われたものと思います。ここらから、およそ想定しています歌の風景は、仮小屋に住みながら恭仁京の建設に従事し、中でも重要な新嘗祭の準備に励んでいた家持自身の姿を詠うものと考えています。それが、「勤知氣登 将譽十方不有」と云う表現に現れていると想像しています。
紹介したものは標準的な解釈とは相当に距離がありますが、このような解釈があるとして御笑納ください。あくまでも白昼夢を見るおっさんが思う酔論であり、与太話です。
参考として、有名な「万葉集」を訓むから
和歌 板盖之 黒木乃屋根者 山近之 明日取而 持将参来
訓読 板盖(いたふき)の黒木(くろき)の屋根は山近し明日(あすのひ)取りて持ちて参(まゐ)来(こ)む
意訳 板葺の黒木の屋根でしたら幸い山が近いし明日にでも取って持って上がりましょう
和歌 黒樹取 草毛苅乍 仕目利 勤和氣登 将譽十方不有
訓読 黒樹(くろき)取り草(かや)も苅りつつ仕(つか)へめど勤(いそ)しきわけと譽(ほ)めむとも有(あ)らず
意訳 黒木を伐り萱まで刈って手伝いたいけれど、まめなやつよと褒めてくださるとも思えません
今回は新嘗祭のような宮中祭礼に関係する歌を取り上げてみました。それが集歌779と集歌780の歌です。集歌777の歌に付けられた標題「大伴宿祢家持更贈紀女郎謌五首」から歌は大伴家持と紀女郎との間で交わされた相聞問答歌の中でのものです。
大伴宿祢家持更贈紀女郎謌五首より二首抜粋
集歌779 板盖之 黒木乃屋根者 山近之 明日取而 持将参来
訓読 板葺(いたふき)し黒木(くろき)の屋根(やね)は山近し明日(あした)し取りに持ちて参(ま)ゐ来(こ)む
私訳 板葺きの黒木の屋根の新嘗宮のある恭仁(くに)の都は平山(ならやま)に近いので、明日、黒木に因む尾花を取って、佐保の貴女の許に持参しましょう。
集歌780 黒樹取 草毛苅乍 仕目利 勤知氣登 将譽十方不有
訓読 黒樹(くろき)取り草(かや)も刈りつつ仕(つか)へめり勤め知るきと誉(ほ)めむともあらず
私訳 新しい宮殿の新嘗宮で使う黒樹を取り束草(あつかくさ)の麁草(あらくさ)も刈りながら天皇に仕えていますが、(貴女は奈良の家から遠く離れて、私が)力を尽くして働くことをわきまえていると誉めてもくれません。
注意 原文の「勤知氣登」の「知」は一般に「和」の誤記として「勤和氣登」と表記し「勤(いそ)しき奴(わき)と」と訓みます。ここでは原文のままに訓じています。
確認しますと、この相聞問答歌が交わされた時、家持は久邇京で新たな都の造営工事に従事していますし、一方の紀女郎は奈良の都に住んでいます。久邇京は恭仁京とも表記され、場所は現在の木津川市加茂町例幣です。奈良の都からは直線距離で12kmの位置にあり、無理をすれば3時間弱の徒歩距離です。歌にはこのような距離感がありますし、家持が従事していた職務があります。
さて、続日本紀には神亀元年(724)11月8日の記事として次のような官布があります。
太政官奏言「上古淳朴、冬穴夏巣。後世聖人代以宮室。亦有京師、帝王為居、万国所朝。非是壮麗、何以表徳。其板屋草舍、中古遺制、難営易破、空殫民財。請仰有司、令五位已上及庶人堪営者搆立瓦舍、塗為赤白」 奏可之。
紹介しました神亀元年の記事が示すように、都では帝王の王都としてその姿が相応しいように官関係の建物、五位以上の大夫や有力な民間人の自宅は瓦屋根構造の建物を立てることが求められています。建物は現代に見る寺院と同様なものであることが求められたのです。家持が詠う集歌779の歌はこの官布からおよそ二十年もの後のことであり、町並みは官が求めるように整えられた後の世界です。現在に例えるなら高層ビル群が立ち並ぶ官庁・ビジネス街の風景が前提となります。
ところが、大伴家持が詠う歌で示す建物は瓦葺屋根構造のものではありません。「板屋草舍、中古遺制」と太政官が奏言するように古い習慣を示すものです。すると、家持が示す建物とは官が新造する王都で関与する古い習慣に元づくものと考えられます。目線を変えて状況を例えますと、高層ビル群が立ち並ぶ官庁・ビジネス街の官庁街に純和風の建物を特別に立てる必要はあったのかと云うことです。
こうした時、延喜式の大嘗祭の規定に、大嘗宮について次のような項目があります。
悠紀院所造正殿一宇、長四丈廣一丈六尺、棟當南北、以北三間為室、以南二間為堂。南開一戸、蔀蓆為扉、甍置堅魚木、八枝著高博風、搆以黒木、葺以青草、以檜竿為天井、席為承塵、壁蔀以草、表裏以席、地敷束草(所謂阿都加)。・・・中略・・・。主基院殿與上相對,五日之内造畢。
この記事が示すように大嘗祭を執り行う大嘗宮の中の悠紀院は南北に建てられ、内部を二部屋に仕切り、北を「室」、南を「堂」と呼ぶ構造になっています。入り口は南に一箇所だけですから、天皇が大嘗祭の儀式を行なう場所は「室」です。そして、この悠紀院の建物の構造は樹皮のついた丸太そのままの黒木で組上げ、壁を蓆(むしろ)、屋根を青草で葺き、床に束草(あつかくさ)を敷くことになっています。つまり、「板屋草舍、中古遺制」の建物と云うことになります。
さらに大嘗祭は新嘗祭の行事ですが、天武天皇即位では大王に就任して最初の新嘗祭を大嘗祭と称するようになったようです。およそ、天武天皇の大嘗祭・新嘗祭の祭事整備以前では、新嘗祭と後年に制定された「大嘗祭」とがどれほどの違いがあったかは不明です。
そうした時、新嘗祭での一貫に行われる行事に忌火炊殿祭と云うものがあり、この忌火炊殿祭に関してつぎのような二つの記事があります。
新嘗祭時、先新造炊殿。依件鎮祭、宮主行事。其舊殿者壞卻給宮主。
又大嘗御竈祭、炊殿鎮等之例、與尋常新嘗會同。
記事が示しますように、忌火炊殿祭で使用する炊殿は祭事に先だって新造する必要があり、前年に造築した炊殿は解体し宮主に下し渡します。また、大嘗祭で行われる御竈祭で使用する炊殿やその鎮めの祭事は新嘗祭と同じ仕儀次第で行うとも示します。ここに大嘗祭は新嘗祭の大掛かりな発展形と云う姿を見せます。
逆に見ますと大嘗祭で造築します悠紀院や主基院の構造から新嘗祭などで使用します炊殿などの様子が窺える可能性があります。ここに伊勢神宮の建物だけでなく延喜式に示す祭事規定からも中古遺制が推定できると期待があります。
集歌779と集歌780の歌の鑑賞では新嘗祭の風景と決め打ちしましたが、その根拠は先に示しました理由からのものです。
歴史では恭仁京は天平十四年正月の段階では大極殿が未完成などと宮殿の体裁は整ってはいませんが、前年の天平十三年十一月廿一日に大養徳恭仁大宮と云う称号宣言を為していますから、重要行事である新嘗祭は恭仁京に行われたものと思います。ここらから、およそ想定しています歌の風景は、仮小屋に住みながら恭仁京の建設に従事し、中でも重要な新嘗祭の準備に励んでいた家持自身の姿を詠うものと考えています。それが、「勤知氣登 将譽十方不有」と云う表現に現れていると想像しています。
紹介したものは標準的な解釈とは相当に距離がありますが、このような解釈があるとして御笑納ください。あくまでも白昼夢を見るおっさんが思う酔論であり、与太話です。
参考として、有名な「万葉集」を訓むから
和歌 板盖之 黒木乃屋根者 山近之 明日取而 持将参来
訓読 板盖(いたふき)の黒木(くろき)の屋根は山近し明日(あすのひ)取りて持ちて参(まゐ)来(こ)む
意訳 板葺の黒木の屋根でしたら幸い山が近いし明日にでも取って持って上がりましょう
和歌 黒樹取 草毛苅乍 仕目利 勤和氣登 将譽十方不有
訓読 黒樹(くろき)取り草(かや)も苅りつつ仕(つか)へめど勤(いそ)しきわけと譽(ほ)めむとも有(あ)らず
意訳 黒木を伐り萱まで刈って手伝いたいけれど、まめなやつよと褒めてくださるとも思えません