竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉集巻二十を鑑賞する  集歌4305から集歌4324まで

2012年08月30日 | 万葉集 旧読解
万葉集巻二十を鑑賞する


詠霍公鳥謌一首
標訓 霍公鳥(ほととぎす)を詠(よ)める謌一首
集歌4305 許乃久礼能 之氣伎乎乃倍乎 保等登藝須 奈伎弖故由奈理 伊麻之久良之母
訓読 木(こ)の暗(くれ)の茂き峯(を)の上(へ)を霍公鳥(ほととぎす)鳴きて越ゆなり今し来らしも

私訳 木の枝下を暗くするように木々が茂る峰の頂をホトトギスが鳴きながら飛び越えていく、今、ホトトギスが鳴く、その季節が来たようだ。

右一首、四月、大伴宿祢家持作
注訓 右の一首は、四月に、大伴宿祢家持の作れり


七夕謌八首
標訓 七夕の謌八首
集歌4306 波都秋風 須受之伎由布弊 等香武等曽 比毛波牟須妣之 伊母尓安波牟多米
訓読 初(はつ)秋風涼しき夕(ゆうへ)解かむとぞ紐は結びし妹に逢はむため

私訳 初めて秋風が吹き涼しい夕べに、解くべき紐を結びました。愛しい貴女に逢うために。


集歌4307 秋等伊閇婆 許己呂曽伊多伎 宇多弖家尓 花仁奈蘇倍弖 見麻久保里香聞
訓読 秋と云へば心ぞ痛きうたて異(け)に花になそへて見まく欲(ほ)りかも

私訳 秋と云うと心が辛い、ことさら特別に、花になぞらえて逢いたいと思うからでしょうか。


集歌4308 波都乎婆奈 波名尓見牟登之 安麻乃可波 弊奈里尓家良之 年緒奈我久
訓読 初(はつ)尾花(をはな)花に見むとし天の川隔(へ)なりにけらし年の緒長く

私訳 今年初めての尾花の花の穂のように僅かに眺めようとすると、天の川が遮りとなっている。長年に渡って。


集歌4309 秋風尓 奈妣久可波備能 尓故具左能 尓古餘可尓之母 於毛保由流香母
訓読 秋風に靡く川辺の和草(にこくさ)の和(にこ)よかにしも念(おも)ほゆるかも

私訳 秋風に靡く川の辺の柔らかな草のように、心穏やかにして、貴女を恋い慕っています。


集歌4310 安吉佐礼婆 奇里多知和多流 安麻能河波 伊之奈弥於可波 都藝弖見牟可母
訓読 秋されば霧立ち渡る天の川石(いし)並(なみ)置かば継ぎて見むかも

私訳 秋がやってくると霧が立ち渡る天の川よ、その川に飛び石を置いたら、いつでも逢えるでしょうか。


集歌4311 秋風尓 伊麻香伊麻可等 比母等伎弖 宇良麻知乎流尓 月可多夫伎奴
訓読 秋風に今か今かと紐解きてうら待ち居(を)るに月傾ふきぬ

私訳 貴方の訪れを告げる秋風に、今か今かと、衣の紐を解いてひたすら貴方の訪れを待っているのに、月が傾いてしまいました。


集歌4312 秋草尓 於久之良都由能 安可受能未 安比見流毛乃乎 月乎之麻多牟
訓読 秋草に置く白露の飽かずのみ相見るものを月をし待たむ

私訳 秋草に置く白露のように、いつまでも見飽きることがないように、いつもいつも逢いたいのに、二人が逢うことを許された、その月を待ちましょう。


集歌4313 安乎奈美尓 蘇弖佐閇奴礼弖 許具布祢乃 可之布流保刀尓 左欲布氣奈武可
訓読 青波に袖さへ濡れて漕ぐ舟の梶(かし)振るほとにさ夜更けなむか

私訳 青波に袖まで濡れて漕ぐ舟の梶棹を振る間に、夜は更けていくのでしょうか。

右、大伴宿祢家持獨仰天海作之
注訓 右は、大伴宿祢家持の獨り天の海を仰ぎて之を作れり


集歌4314 八千種尓 久佐奇乎宇恵弖 等伎其等尓 佐加牟波奈乎之 見都追思怒波奈
訓読 八千種(やちくさ)に草木を植ゑて時ごとに咲かむ花をし見つつ偲はな

私訳 いろいろに草木を植えて、季節ごとに咲くでしょう花を眺めながら風流を楽しみましょう。

右一首、同月廿八日、大伴宿祢家持作之
注訓 右の一首は、同月廿八日に、大伴宿祢家持の之を作れり


集歌4315 宮人乃 蘇泥都氣其呂母 安伎波疑尓 仁保比与呂之伎 多加麻刀能美夜
訓読 宮人の袖付け衣秋萩に色付(にほひ)よろしき高円(たかまど)の宮

私訳 美しい宮人の袖の長い衣が、秋萩の花と競って艶やかな高円の宮殿よ。


集歌4316 多可麻刀能 宮乃須蘇未乃 努都可佐尓 伊麻左家流良武 乎美奈弊之波母
訓読 高円(たかまと)の宮の裾廻(すそみ)の野づかさに今咲けるらむ女郎花(をみなえし)はも

私訳 高円の宮殿のまわりの、野の小高い丘に、今、咲いているでしょう女郎花よ。


集歌4317 秋野尓波 伊麻己曽由可米 母能乃布能 乎等古乎美奈能 波奈尓保比見尓
訓読 秋野には今こそ行かめ物部(もののふ)の男女(をとこをみな)の花色付(にほひ)見に

私訳 秋の野には、今こそ、行きましょう。大宮に仕える男も女もそろって、花が咲き誇る姿を眺めに。


集歌4318 安伎能野尓 都由於弊流波疑乎 多乎良受弖 安多良佐可里乎 須其之弖牟登香
訓読 秋の野に露負へる萩を手折(たお)らずてあたら盛りを裾してむとか

私訳 秋の野に露を帯びた萩を手折ることもしなくて、空しく花の盛りは丘の頂から裾野まで来てしまいました。

注意 原文の「須其之弖牟登香」の「其」は、一般に「具」の誤記として「須具之弖牟登香」と記し「過してむとか」と訓みます。


集歌4319 多可麻刀能 秋野乃宇倍能 安佐疑里尓 都麻欲夫乎之可 伊泥多都良牟可
訓読 高円(たかまと)の秋野の上の朝霧に妻呼ぶ壮(を)鹿(しか)出で立つらむか

私訳 高円の秋の野の上を流れる朝霧に、妻を呼び立てる牡鹿が出で立つのでしょうか。


集歌4320 麻須良男乃 欲妣多天思加婆 左乎之加能 牟奈和氣由加牟 安伎野波疑波良
訓読 大夫(ますらを)の呼び立てしかばさ壮鹿(をしか)の胸別け行かむ秋野萩原

私訳 立派な大夫である私が呼び立てたので、牡鹿が胸で萩の群を分けていくのでしょう、秋の野の萩原を。

右謌六首、兵部少輔大伴宿祢家持、獨憶秋野聊述拙懐作之
注訓 右の謌六首は、兵部少輔大伴宿祢家持の、獨り秋の野を憶(しの)ひて聊(いささ)かに拙き懐(おもひ)を述べて之を作れり


天平勝寳七歳乙未二月、相替遣筑紫諸國防人等謌
標訓 天平勝寳七歳乙未二月に、相替りて筑紫に遣(つか)はさえし諸國(くにくに)の防人等(さきもりたち)の謌

集歌4321 可之古伎夜 美許等加我布理 阿須由利也 加曳我牟多祢牟 伊牟奈之尓志弖
訓読 畏(かしこ)きや御言(みこと)被(かがふ)り明日ゆりや草がむた寝む妹なしにして

私訳 畏れ多い御命令を頂いて、明日からは草と共寝するでしょう。愛しい貴女をなしにして。

右一首、國造丁長下郡物部秋持
注訓 右の一首は、國造(くにのみやつこ)丁(よぼろ)長下郡(ながのしものこほり)の物部秋持


集歌4322 和我都麻波 伊多久古比良之 乃牟美豆尓 加其佐倍美曳弖 余尓和須良礼受
訓読 吾(わ)が妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えて世に忘られず

私訳 私の妻はひどく私を恋しがっているようだ、飲む水に妻の面影が見えて、防人として生きていくのに妻が忘れられない。

右一首、主帳丁麁玉郡若倭部身麿
注訓 右の一首は、主帳(しゆちやう)丁(よぼろ)麁玉郡(あらたまのこほり)の若倭部身麿


集歌4323 等伎騰吉乃 波奈波佐家登母 奈尓須礼曽 波々登布波奈乃 佐吉泥己受祁牟
訓読 時々の花は咲けども何すれぞ母とふ花の咲き出来ずけむ

私訳 時期折々の花は咲くけれど、どうして、母と云う花は咲いて出て来ないのだろうか。

右一首、防人山名郡丈部真麿
注訓 右の一首は、防人山名郡の丈部真麿


集歌4324 等倍多保美 志留波乃伊宗等 尓閇乃宇良等 安比弖之阿良波 己等母加由波牟
訓読 遠江(とほたほみ)白羽(しるは)の礒と贄(にへ)の浦と合ひてしあらば言も通はむ

私訳 遠江の白羽の磯と、この贄の浦とが出会っていたら、便りも通うだろうに。

右一首、同郡丈部川相
注訓 右の一首は、同郡の丈部川相
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万葉集巻二十を鑑賞する  集歌4293から集歌4304まで

2012年08月27日 | 万葉集 旧読解
万葉集巻二十を鑑賞する

はじめに
 万葉集巻二十の歌を鑑賞します。例によって、紹介する歌は、原則として西本願寺本の原文の表記に従っています。そのため、紹介する原文表記や訓読みに普段の「訓読み万葉集」と相違するものもありますが、それは採用する原文表記の違いと素人の無知に由来します。また、勉学に勤しむ学生の御方にお願いです。ここでは原文・訓読み・私訳があり、それなりの体裁はしていますが、正統な学問からすると紹介するものは全くの「与太話」であることを、ご了解ください。つまり、コピペには全く向きません。あくまでも、大人の楽しみでの与太話で、学問ではありません。


幸行於山村之時謌二首
先太上天皇詔陪従王臣曰夫諸王卿等、宣賦和謌而奏、即御口号曰
標訓 山の村に幸行(いでま)しし時の謌二首
先の太上天皇、陪従(へいじゆ)の王臣(わうしん)に詔(みことのり)して曰はく「それ諸(もろもろの)王卿等(おほつまえつきみたち)、宣(よろ)しく和(こた)ふる謌を賦(よ)みて奏すべし」と、即ち御口号(くちずさ)みまして曰はく、

集歌4293 安之比奇能 山行之可婆 山人乃 和礼尓依志米之 夜麻都刀曽許礼
訓読 あしひきの山行きしかば山人(やまひと)の吾に得しめし山づとぞこれ

私訳 葦や桧の生える山に行ったときに、その山の人が私に与えてくれた土産です。これが。


舎人親王應詔奉和謌一首
標訓 舎人親王の、詔(みことのり)に應(おう)じて和(こた)へ奉(たてまつ)れる謌一首

集歌4294 安之比奇能 山尓由伎家牟 夜麻妣等能 情母之良受 山人夜多礼
訓読 あしひきの山に行きけむ山人(やまひと)の心も知らず山人(やまひと)や誰れ

私訳 葦や桧の生える山に移られた、その山の人の気持ちは判りません。さて、その山の人とはどの御方でしょうか。

右、天平勝寶五年五月、在於大納言藤原朝臣之家時、依奏事而請問之間、少主鈴山田史土麿、語少納言大伴宿祢家持曰、昔聞此言。即誦此謌也。
注訓 右は、天平勝寶五年五月に、大納言藤原朝臣の家に在りし時に、事を奏(もう)すに依りて請問(せいもん)せし間に、少主鈴(せうしゆれい)山田史土麿の、少納言大伴宿祢家持に語りて曰はく「昔、此の言(ことば)を聞く」と。即ち此の謌を誦(よ)めるなり。


天平勝寶五年八月十二日、二三大夫等、各提壷登高圓野、聊述所心作謌三首
標訓 天平勝寶五年八月十二日に、二三の大夫等(まえつきみたち)の、各(おのおの)壷を提(さ)げて高圓(たかまと)の野に登り、聊(いささ)かに所心(おもひ)を述べて作れる謌三首

集歌4295 多可麻刀能 乎婆奈布伎故酒 秋風尓 比毛等伎安氣奈 多太奈良受等母
訓読 高円(たかまと)の尾花吹き越す秋風に紐解き開けな直(ただ)ならずとも

私訳 高円の尾花を吹き越して行く秋風に、上着の紐を解き胸襟を開きましょう、恋人の手でよってでなく。

右一首、左京少進大伴宿祢池主
注訓 右の一首は、左京少進大伴宿祢池主


集歌4296 安麻久母尓 可里曽奈久奈流 多加麻刀能 波疑乃之多婆波 毛美知安倍牟可聞
訓読 天雲に雁ぞ鳴くなる高円(たかまと)の萩の下葉は黄葉(もみち)あへむかも

私訳 大空の雲に雁が啼いている高円の萩の下葉は、秋風に黄葉するでしょう。

右一首、左中辨中臣清麿朝臣
注訓 右の一首は、左中辨中臣清麿朝臣


集歌4297 乎美奈敝之 安伎波疑之努藝 左乎之可能 都由和氣奈加牟 多加麻刀能野曽
訓読 をみなへし秋萩しのぎさ牡(を)鹿(しか)の露別け鳴かむ高円(たかまと)の野ぞ

私訳 おみなえしや秋萩を押し倒して雄鹿が露を押し分け啼くでしょう、その高円の野です。

右一首、少納言大伴宿祢家持
注訓 右の一首は、少納言大伴宿祢家持


六年正月四日、氏族人等、賀集于少納言大伴宿祢家持之宅宴飲謌三首
標訓 六年正月四日に、氏族(うらから)の人等(ひとたち)の、于少納言大伴宿祢家持の宅(いへ)に賀集(ほきつどひ)して宴飲(うたげ)せる謌三首

集歌4298 霜上尓 安良礼多波之里 伊夜麻之尓 安礼婆麻為許牟 年緒奈我久 (古今未詳)
訓読 霜の上に霰た走りいやましに吾(あれ)は参ゐ来む年の緒長く (古今は、未だ詳(つばび)らかならず)

私訳 霜の上に霰が降り走り、白さに白さが一層に増すように、一層に私は参上します。来年も末永く。

右一首、左兵衛督大伴宿祢千室
注訓 右の一首は、左兵衛督大伴宿祢千室


集歌4299 年月波 安良多々々々尓 安比美礼騰 安我毛布伎美波 安伎太良奴可母 (古今未詳)
訓読 年月は新た新たに相見れど吾(あ)が念(も)ふ君は飽き足らぬかも (古今は、未だ詳(つばび)からならず)

私訳 年月は毎年新たに新たにと巡り来ますが、毎回毎回、お会いしますが、私が尊敬する貴方は、お会いして、それで満足することはありません。

右一首、民部少丞大伴宿祢村上
注訓 右の一首は、民部少丞大伴宿祢村上


集歌4300 可須美多都 春初乎 家布能其等 見牟登於毛倍波 多努之等曽毛布
訓読 霞立つ春し初めを今日のごと見むと思(おも)へば楽しとぞ思(も)ふ

私訳 霞がたつ春の初めを、今日のように出会えると思うと、それは愉快だと思います。

右一首、左京少進大伴宿祢池主
注訓 右の一首は、左京少進大伴宿祢池主


七日、天皇太上天皇皇大后、於東常宮南大殿肆宴謌一首
標訓 七日に、天皇、太上天皇と皇大后の、東(ひむがし)の常(つね)の宮の南の大殿に肆宴(とよのほあかり)せる謌一首

集歌4301 伊奈美野乃 安可良我之波々 等伎波安礼騰 伎美乎安我毛布 登伎波佐祢奈之
訓読 印南野の赤ら柏は時はあれど君を吾が思ふ時はさねなし

私訳 印南野の赤く光輝く芽吹きの柏の葉、その芽吹きの時期は定まっているが、わが君を私がお慕いするのは時を定めることはありません。

右一首、播磨國守安宿王奏 (古今未詳)
注訓 右の一首は、播磨國守安宿王の奏(まを)せり (古今は、未だ詳(つばび)らかならず) 


三月十九日、家持之庄門槻樹下宴飲謌二首
標訓 三月十九日に、家持の庄(たどころ)の門(かど)の槻(つき)の樹の下にして宴飲(うたげ)せし謌二首

集歌4302 夜麻夫伎波 奈埿都々於保佐牟 安里都々母 伎美伎麻之都々 可射之多里家利
訓読 山吹は撫でつつ生(お)ほさむありつつも君服(き)ましつつかざしたりけり

私訳 山吹は大切に育てましょう、このように貴方が身に付けられて、かざしにされたのですから。

右一首、置始連長谷
注訓 右の一首は、置始連長谷


集歌4303 和我勢故我 夜度乃也麻夫伎 佐吉弖安良婆 也麻受可欲波牟 伊夜登之能波尓
訓読 吾(わ)が背子が屋戸(やと)の山吹咲きてあらばやまず通はむいや毎年(としのは)に

私訳 私の尊敬する貴方の屋敷の山吹が咲いたらならば、途絶えることなく通いましょう。今年だけでなく、毎年ごとに。

右一首、長谷攀花提壷到来、因是、大伴宿祢家持作此謌和之
注訓 右の一首は、長谷の花を攀(よ)ぢ壷を提(さ)げて到来(きた)れり、是に因りて、大伴宿祢家持の此の謌を作りて之に和(こた)ふ。


同月廿五日、左大臣橘卿、宴于山田御母之宅謌一首
標訓 同月廿五日に、左大臣橘卿の、山田の御母(みおも)の宅(いへ)にして宴(うたげ)せし謌一首
集歌4304 夜麻夫伎乃 花能左香利尓 可久乃其等 伎美乎見麻久波 知登世尓母我母
訓読 山吹の花の盛りにかくのごと君を見まくは千年(ちとせ)にもがも

私訳 山吹の花の盛りに、このようにわが君を拝見することは、千年の末までもと思います。

右一首、少納言大伴宿祢家持、矚時花作。但未出之間、大臣罷宴、而不攀誦耳
注訓 右の一首は、少納言大伴宿祢家持の、時の花を矚(なが)めて作れり。但し未だ出(いだ)さざる間に、大臣の宴(うたげ)を罷(まか)りて、攀(よ)じて誦(よ)まざるのみ
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万葉集巻五を鑑賞する  集歌897から集歌906まで

2012年08月25日 | 万葉集 旧読解
万葉集巻五を鑑賞する


悲歎俗道、假合即離、易去難留詩一首并序
標訓 俗(よ)の道の、仮(かり)に合ひ即ち離れ、去り易く留まり難(かた)きを悲しび歎ける詩一首并せて序

竊以、釋慈之示教、(謂釋氏慈氏) 先開三歸、(謂歸依佛法僧) 五戒而化法界、(謂一不殺生、二不愉盗、三不邪婬、四不妄語、五不飲酒也) 周孔之垂訓、前張三綱、(謂君臣父子夫婦) 五教、以濟邦國。(謂父義、母慈、兄友、弟順、子孝) 故知、引導雖二、得悟惟一也。但、以世無恒質、所以、陵谷更變、人無定期。所以、壽夭不同。撃目之間、百齡已盡、申臂之頃、千代亦空。旦作席上之主、夕為泉下之客。白馬走來、黄泉何及、隴上青松、空懸信劍、野中白楊、但吹悲風。是知。世俗本無隱遁之室、原野唯有長夜之臺。先聖已去、後賢不留。如有贖而可免者、古人誰無價金乎。未聞獨存、遂見世終者。所以、維摩大士疾玉體乎方丈、釋迦能仁掩金容于雙樹。内教曰、不欲闇之後來、莫入天之先至。(天者生也、闇者死也) 故知、生必有死。々若不欲不如不生。況乎縱覺始終之恒數、何慮存亡之大期者也。

訓読 竊(ひそか)に以(おもはか)るに、釋・慈の示教(しきょう)は(釋氏と慈氏を謂ふ)、 先に三歸(佛法僧に歸依するを謂ふ) 、五戒を開きて、法界を化(やは)し(一に殺生せず、二に愉盗(とうとう)せず、三に邪婬せず、四に妄語せず、五に飲酒せぬことを謂ふ)、 周・孔の垂訓(すいくん)は、前(さき)に三綱(君臣・父子・夫婦を謂ふ) 五教を張りて、以ちて邦國(くに)を濟(すく)ふ(父は義にあり、母は慈にあり、兄は友にあり、弟は順にあり、子は孝なるを謂ふ)。 故知る、引導は雖二つなれども、悟(さとり)を得るは惟(これ)一つなるを。但、以(おもはか)るに世に恒(つね)の質無し。所以(かれ)、陵(みね)と谷と更に變り、人に定まれる期(ご)無し。所以(かれ)、壽(じゆ)と夭(よう)と同(とも)にせず。目を撃つの間に、百齡(ももよ)已に盡き、臂を申(の)ぶる頃に、千代も亦空し。旦(あした)には席上の主と作れども、夕(ゆふべ)には泉下の客と為る。白馬走り來り、黄泉には何にか及(し)かむ、隴上(ろうじょう)の青き松は、空しく信劍を懸け、野中の白き楊は、但、悲風に吹かる。是に知る。世俗に本より隱遁の室(いへ)無く、原野には唯長夜の臺(うてな)有るのみなるを。先聖已に去り、後賢も留らず。如(も)し贖ひて免るべき有らば、古人誰か價(あたい)の金(くがね)無けむ。未だ獨り存へて、遂に世の終(をはり)を見る者あるを聞かず。所以、維摩大士も玉體を方丈に疾(や)ましめ、釋迦能仁も金容(こんよう)を雙樹に掩(おほ)ひたまへり。内教に曰はく、闇の後に來るを欲(ねが)はずは、天の先に至るに入ること莫(な)かれ。といへり(天とは生なり、闇とは死なり)。故(かれ)知りぬ、生るれば必す死あるを。死をもし欲(ねが)はずは生れぬに如かず。況むや縱(よ)し始終の恒數(こうすう)を覺るとも、何そ存亡の大期(たいご)を慮(おもひはか)らむ。

私訳 ひとり考えて見ると、釈迦・慈悲の弥勒の下された教え(釈迦と慈悲の弥勒をさす)は、最初に三帰(三帰とは、仏・法・僧に帰依することをさす)と五戒を示して仏法の世界の顕わし(五戒とは、最初に殺生をせず、二に盗みを行わず、三に淫乱を行わず、四に妄言を語らず、五に飲酒をしないことをしめす)、周公と孔子の垂れた教えは、最初に三綱(三綱とは、君臣の付き合い、父子の付き合い、夫婦の付き合いの決まりをしめす)と五教の主張を展開し、その教えを用いて国家を救済している(五教とは、父は義理を持ち、母は慈悲を持ち、兄は友愛を持ち、弟は従順を持ち、子は孝行を持つことをしめす)。そこで、知るわけである。人を導く方法は仏教と儒教との二つあるのであるが、物の真実を知る真理は一つであることを。ただ、考察するに世の中に恒久の存在は無い。それで、丘陵と渓谷とは互いに変化し、人間に定まった生涯は無い。それで、天寿と夭折は共にはならない。まばたきをする間に百年の命も忽ちに尽き、ひじを伸ばす間に、千年の時間も空しい。朝には集会の主催者となっていても、夕べには死出の先である黄泉の客となっている。白馬のように歳月は我身を追いかけ来て、死出の先である黄泉に人の力はどうして及ぶでしょう。墓の上の青い松はその枝に空しく信義厚い李礼の剣を懸け、野中の白き楊はただ人の死を知らせる悲しみに葉を風に吹かれるだけである。ここに知る。この俗な世の中に本来は死から逃れ隠れる場所はなく、原野にはただ永遠に明けることのない夜の墓場があるだけである。先の世の聖人は既に死に去り、後の世の賢者もこの世に留まっていない。もし、財貨で贖って死を免れるならば、昔の人で誰が死を贖う金を出さなかっただろうか、未だに、一人死から逃れ生きて、遂に世の終わりを見るまで生きながらえる人がいることを聞いたことがない。だから、維摩居士も御身体を方丈の部屋で病に倒れ、釈迦能仁も御身体を沙羅双樹に蔽われて亡くなられた。仏典に云うには「死を誘う黒闇天女が背後に忍び寄るのを求めないのなら、生を司る功徳大夫の御前に至ることを行うのではない」という(徳天とは生を意味し、黒闇とは死を意味する)。そこで、知る。生まれれば必ず死があることを。死をもし求めないのなら、生まれてこないことに限る。ましてや、例え、生の始まりと死の終りの命の定められた年数を知ったとしても、どうして、死期の最後の時を思い遣ることが出来るでしょうか。

俗道變化猶撃目 俗道の變化は猶ほ目を撃ち
人事經紀如申臂 人事の經紀は臂を申ぶるが如し
空與浮雲行大虚 空しく浮雲と大虚を行き
心力共盡無所寄 心力共に盡きて寄る所無し

私訳 俗な世の中の移り変わりは、まばたきの瞬間のようで、人の世の出来事はひじを伸ばす束の間のようだ。人の人生は空しく浮き雲と共に大空を行き、精神も肉体も時とともに尽きてこの世に残ることはない。


老身重病經年辛苦及思兒等謌七首  長一首短六首
標訓 老いたる身に病(やまい)を重ね、年を經て辛苦(くるし)み、及(また)、兒等を思(しの)へる謌七首

集歌897 霊剋 内限者 (謂瞻浮州人等一百二十年也) 平氣久 安久母阿良牟遠 事母無 裳無母阿良牟遠 世間能 宇計久都良計久 伊等能伎提 痛伎瘡尓波 鹹塩遠 潅知布何其等久 益々母 重馬荷尓 表荷打等 伊布許等能其等 老尓弖阿留 我身上尓 病遠等 加弖阿礼婆 晝波母 歎加比久良志 夜波母 息豆伎阿可志 年長久 夜美志渡礼婆 月累 憂吟比 許等々々波 斯奈々等思騰 五月蝿奈周 佐和久兒等遠 宇都弖々波 死波不知 見乍阿礼婆 心波母延農 可尓久尓 思和豆良比 祢能尾志奈可由

訓読 たまきはる 現(うち)の限(かぎり)は (瞻浮州(せんふしゅう)の人の等(ひとし)く一百二十年なるを謂ふ) 平(たいら)けく 安くもあらむを 事も無く 喪(も)も無くもあらむを 世間(よのなか)の 憂(う)けく辛(つら)けく いとのきて 痛き瘡(きづ)には 辛塩(からしほ)を 灌(そそ)くちふが如(ごと)く ますますも 重き馬(うま)荷(に)に 表(うは)荷(に)打つと いふことの如(ごと) 老いにてある 我が身の上に 病(やまひ)をと 加へてあれば 昼はも 嘆かひ暮らし 夜はも 息(いき)衝(つ)き明かし 年長く 病(や)みし渡れば 月累(かさ)ね 憂(う)へ吟(さまよ)ひ ことことは 死ななと思へど 五月蝿(さはえ)なす 騒(さわ)く児どもを 打棄(うは)てては 死には知らず 見つつあれば 心は萌えぬ かにかくに 思(おも)煩(わづら)ひ 哭(ね)のみし泣かゆ

私訳 魂の期限を刻む、その生きている限りは(瞻浮州の人の寿命が百二十年であることをしめす)、病もなく平安で安寧でありたいものを、特別な事件もなく、葬儀を出すこともないままであってほしい、その世の中が憂欝で辛く思われることは、ことさらに痛い傷に辛い塩をそそぐように、ますます重い馬の荷物にさらに荷を載せると云うような、そのような年老いている私の身の上に、さらに病が重ねてやってくると、日中は日中で嘆いて暮らし、夜は夜で溜息をついて夜を明かし、長い年月に病に罹って、月日を重ね、憂え呻いていると、この状況では死んでしまうと思ってしまうが、皐月の蠅のようにうるさく騒ぐ子供たちを、そのままに打ち捨てて死ぬことも出来ずに、その様子を見ていると、心の中に想いが芽生えてくる。ああもこうもと考えあぐねると、恨みながら泣けてしまう。


反謌
集歌898 奈具佐牟留 心波奈之尓 雲隠 鳴徃鳥乃 祢能尾志奈可由
訓読 慰(なぐ)むる心はなしに雲(くも)隠(かく)り鳴き行く鳥の哭(ね)のみし泣かゆ

私訳 人を慰めるような心もなく雲間に隠れ鳴いて飛んで行く鳥のように、ただ、恨みながら泣けてします。


集歌899 周弊母奈久 苦志久阿礼婆 出波之利 伊奈々等思騰 許良尓作夜利奴
訓読 術(すべ)も無く苦しくあれば出(い)で走り去(い)ななと思へど許良(こりよ)にさ因(よ)りぬ(子らに障(さわ)りぬ)

私訳 どうしていいのか対処の方法もなくて、ただ苦しいだけであれば、この世から飛び出て走り去ってしまいたいと思ってみても、そうする間に七十六歳ほどの年になってしまったが、後継者に障りがある。

注意 原文の「許良」とは、律令の規定では賤しい身分の人が七十六歳で良民になることを許されることから、山上憶良が七十六歳ほどの高齢になったことを示すと隠れた意味も採った。


集歌900 富人能 家能子等能 伎留身奈美 久多志須都良牟 絁綿良波母
訓読 富人(とみひと)の家の子らの着る身無み腐(くた)し棄(す)つらむ絁綿(きぬわた)らはも

私訳 多くの家族を持つ家の、その後継者たちが着るはずの、その肝心の後継者が無くて、その着物を腐らせて捨ててしまうのでしょう。りっぱな絁や綿で出来た着物を。


集歌901 麁妙能 布衣遠陀尓 伎世難尓 可久夜歎敢 世牟周弊遠奈美
訓読 麁栲(あらたえ)の布衣(ぬのきぬ)をだに着せかてに斯(か)くや嘆かむ為(せ)むすべを無み

私訳 氏の長者としての神事で着るはずの栲で作った着物を着せることをためらうので、このように嘆くのでしょうか。どうしていいのか対処の方法もなくて。


集歌902 水沫奈須 微命母 栲縄能 千尋尓母何等 慕久良志都
訓読 水沫(みなわ)なす微(いや)しき命も栲(たく)縄(なは)の千尋(ちひろ)にもがと願ひ暮らしつ

私訳 水面に立つ泡のような儚い命ですが、栲で作る縄のように丈夫で千尋ものように長くあってほしいと願いながら生きています。


集歌903 倭父手纒 數母不在 身尓波在等 千年尓母可等 意母保由留加母
(去神龜二年作之 但以故更載於茲)
訓読 倭文(しつ)手纒(てま)き数にも在(あ)らぬ身には在(あ)れど千歳(ちとせ)にもがと思ほゆるかも

私訳 舶来の韓綾より落ちる倭文で出来た綾布を手に巻くような、立派な人の数に入らない身分ではありますが、千年もかようにあることを願ってしまいます。
(去る神龜二年に之を作れり。但し、以つて故に更(さら)に茲(ここ)に載す)

天平五年六月丙申朔三日戊戌作
注訓 天平五年六月丙申の朔(つきたち)にして三日戊戌の日に作れり


戀男子名古日謌三首
標訓 男子(をのこ)の名は古日に戀ひたる謌三首

集歌904 世人之 貴慕 七種之 寶毛我波 何為 和我中能 産礼出有 白玉之 吾子古日者 明星之 開朝者 敷多倍乃 登許能邊佐良受 立礼杼毛 居礼杼毛 登母尓戯礼 夕星乃 由布弊尓奈礼波 伊射祢余登 手乎多豆佐波里 父母毛 表者奈佐我利 三枝之 中尓乎祢牟登 愛久 志我可多良倍婆 何時可毛 比等々奈理伊弖天 安志家口毛 与家久母見武登 大船乃 於毛比多能無尓 於毛波奴尓 横風乃尓 覆来礼婆 世武須便乃 多杼伎乎之良尓 志路多倍乃 多須吉乎可氣 麻蘇鏡 弖尓登利毛知弖 天神 阿布藝許比乃美 地祇 布之弖額拜 可加良受毛 可賀利毛 神乃末尓麻尓等 立阿射里 我例乞能米登 須臾毛 余家久波奈之尓 漸々 可多知都久保里 朝々 伊布許等夜美 霊剋 伊乃知多延奴礼 立乎杼利 足須里佐家婢 伏仰 武祢宇知奈氣 古手尓持流 安我古登波之都 世間之道

訓読 世間(よのなか)の 貴(たふと)び願ふ 七種(ななくさ)の 宝も吾れは 何為(なにせ)むに 吾(わ)が中の 産(あ)れ出(い)でたる 白玉の 吾が子古日(ふるひ)は 明星(あかほし)の 明(あ)くる朝(あした)は 敷栲の 床の辺(へ)去(さ)らず 立てれども 居(を)れども ともに戯(たふれ)れ 夕星(ゆふつつ)の 夕(ゆふべ)になれば いざ寝(ね)よと 手を携(たづさ)はり 父母も 上は勿放(なさが)り 三枝(さきくさ)の 中にを寝(ね)むと 愛(うつく)しく 幟(し)が語らへば 何時(いつ)しかも 人と成り出でて 悪(あ)しけくも 吉(よ)けくも見むと 大船の 思ひ憑(たの)むに 思はぬに 邪(よこ)しま風のに 覆(おほ)ひ来れば 為(せ)む術(すべ)の 方便(たどき)を知らに 白栲の たすきを掛け 真澄鏡(まそかがみ) 手に取り持ちて 天つ神 仰ぎ祈(こ)ひ祷(の)み 国つ神 伏して額(ぬか)つき かからずも かかりも 神のまにまにと 立ちあざり 吾(わ)れ祈(こ)ひ祷(の)めど 須臾(しましく)も 吉(よ)けくは無しに 漸漸(やくやく)に 容貌(かたち)くつほり 朝(あさ)な朝(さ)な 言ふこと止み たまきはる 命(いのち)絶えぬれ 立ち躍り 足(あし)摩(す)り叫び 伏し仰ぎ 胸打ち泣き 小手(こて)に持てる 我が児飛(と)ばしつ 世間(よのなか)の道

私訳 世の中の人が貴んで手に入れたいと願う仏の七種の宝のような教えも私には何になるでしょう。私の時代に生まれなさった真珠のように尊い皇孫の私たちの古日は、明け星の輝く夜明けとなると、夫婦の敷栲を敷く床から離れず、立っていても座っていても一緒に戯れ、宵の明星を見る夕方になると、さあ寝ようと手を携えて「お父さんもお母さんも傍を離れず、三枝のように真ん中に寝よう」と愛らしく貴方が語っていると、何時の間にかに、立派な指導者たる「人」として成長して来て、世の悪いこと、良いことを引き受けてこの国を治めると、大船を頼もしく思うように信頼していたのに、世の中が邪な風で覆って来ると、どうして良いのか、その方法を知らないので、邪気を払うと云う白栲のたすきを掛け真澄鏡を手に持って、皇祖(すめおや)の天の神を仰ぎ祈り願い、皇神(すめがみ)の国の神に伏して額ずき、どのようにあっても神の思し召しのままにと、立ったり座ったりして、私は祈り願うのですが、暫くも良いことは無くて、次第に御姿への思いは崩れていき、朝毎にお言葉を下されることはなくなり、魂の期限を刻むその命が絶えてしまうと、立ち跳び上がり足摺りして叫び、倒れ伏して空を仰いで胸を打って泣き、手にまとわりつく我が子を投げ飛ばした。この嘆きは、世の中の人の取るべき姿です。


反謌
集歌905 和可家礼婆 道行之良士 末比波世武 之多敝乃使 於比弖登保良世
訓読 稚(わか)ければ道行き知らじ幣(まひ)は為(せ)む黄泉(したへ)の使(つか)ひ負(お)ひて通らせ

私訳 まだ稚いので、死出の道を知らないでしょう。神への祈りの捧げ物をしましょう。あの世への使いよ、責任を持って稚き御方を通らせなさい。


集歌906 布施於吉弖 吾波許比能武 阿射無加受 多太尓率去弖 阿麻治思良之米
訓読 布施(ふせ)置きて吾(わ)れは祈(こ)ひ祷(の)む欺(あざむ)かず直(ただ)に率(ゐ)去(ゆ)きて天道(あまぢ)知らしめ

私訳 仏への祈りの布施を捧げ置いて、私は祈り願いましょう。願いを欺くことなく、稚き御方を尊い仏である貴方が率いて、あの世への天上の道をお授けなさい。


右一首作者未詳 但以裁歌之體似於山上之操載此次焉
注訓 右の一首の作る者は未だ詳(つばび)らかならず。 但し、裁歌(さいか)の體(てい)の山上の操(みさを)に似(に)たるを以ちて、此の次(しだひ)に載せる。

 この万葉集巻五は、ある独特な歴史感を下に鑑賞しています。お時間がありましたら、その独特な歴史感をご理解頂く為に、弊ブログ「山上憶良 日本挽歌を鑑賞する」を参照頂けたら幸いです。


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万葉集巻五を鑑賞する 沈痾自哀文 

2012年08月23日 | 万葉集 旧読解
万葉集巻五を鑑賞する

沈痾自哀文 山上憶良作
標訓 沈痾(ちんあ)自哀(じあい)の文 山上憶良の作れる

竊以、朝夕佃食山野者、猶無災害而得度世、(謂、常執弓箭、不避六齋、所値禽獸、不論大小、孕及不孕、並皆殺食、以此為業者也。) 晝夜釣漁河海者、尚有慶福而全經俗。(謂、漁夫、潛女、各有所勤、男者手把竹竿能釣波浪之上、女者腰帶鑿籠潛採深潭之底者也) 況乎、我從胎生迄于今日、自有修善之志、曾無作惡之心。(謂聞諸惡莫作、諸善奉行之教也) 所以、禮拜三寶、無日不勤、(每日誦經、發露懺悔也) 敬重百神、鮮夜有闕。(謂敬拜天地諸神等也) 嗟乎媿哉、我犯何罪、遭此重疾。(謂未知過去所造之罪、若是現前所犯之過。無犯罪過、何獲此病乎)
初沈痾已來、年月稍多。(謂經十餘年也) 是時七十有四、鬢髮斑白、筋力尩羸。不但年老、復加斯病。諺曰、痛瘡灌鹽,短材截端、此之。四支不動、百節皆疼、身體太重、猶負鈞石。(廿四銖為一兩、十六兩為一斤、卅斤為一鈞、四鈞為石、合一百廿斤也) 懸布欲立、如折翼之鳥、倚杖且歩、比跛足之驢。吾以身已穿俗、心亦累塵、欲知禍之所伏、崇之所隱、龜卜之門、巫祝之室、無不徃問。若實、若妄、隨其所教、奉幣帛、無不祈祷。然而彌有苦、曾無減差。吾聞、前代多有良醫、救療蒼生病患。至若楡樹、扁鵲、華他、秦和、緩、葛稚川、陶隱居、張仲景等、皆是在世良醫、無不除愈也。(扁鵲、姓秦、字越人、勃海郡人也。割胸採心、易而置之、投以神藥、即寤如平也。華他、字元他、沛國譙人也。沈重者在内者、刳腸取病、縫復摩膏四五日差定) 追望件醫、非敢所及。若逢聖醫神藥者、仰願、割刳五藏、抄採百病、尋逹膏肓之隩處、(盲鬲也、心下為膏。攻之不可、逹之不及、藥不至焉) 欲顯二豎之逃匿。(謂、晉景公疾、秦醫、緩視而還者、可謂為鬼所殺也) 命根盡、終其天下、尚為哀。(聖人賢者、一切含靈、誰免此道乎) 何況、生録未半、為鬼狂殺、顏色壯年、為病横困者乎。在世大患、孰甚于此。(志恠記云、廣平前大守、北海徐玄方之女、年十八歲而死。其靈謂馮馬子曰、案我生録、當壽八十餘歲。今為妖鬼所狂殺、已經四年。此遇馮馬子、乃得更活、是也。内教云、瞻浮州人壽百二十歲。謹案、此數非必不得過此。故、壽延經云、有比丘、名曰難逹。臨命終時、詣佛請壽、則延十八年。但善為者天地相畢。其壽夭者業報所招、隨其脩短而為半也。未盈斯笇而、遄死去。故曰未半也。任徴君曰、病從口入。故、君子節其飲食。由斯言之、人遇疾病、不必妖鬼。夫、医方諸家之廣說、飲食禁忌之厚訓、知易行難之鈍情、三者、盈目滿耳由來久矣。抱朴子曰、人但、不知其當死之日故不憂耳。若誠知刖劓可得延期者、必將為之。以此而觀、乃知、我病盖斯飲食所招而、不能自治者乎也) 
帛公略説曰、伏思自勵、以斯長生。々可貪也。死可畏也。天地之大曰生。故死人不及生鼠。雖為王侯一日絶氣、積金如山、誰為富哉。威勢如海、誰為貴哉。遊仙窟曰、九泉下人、一錢不直。孔子曰、受之於天、不可變易者形也。受之於命、不可請益者也。(見鬼谷先生相人書) 故、知、生之極貴、命之至重。欲言々窮。何以言之。欲慮々絶。何由慮之。惟以、人無賢愚、世無古今、咸悉嗟歎。歲月競流、晝夜不息。(曾子曰、徃而不反者年也。宣尼臨川之歎亦是矣也) 老疾相催、朝夕侵動。一代權樂未盡席前、(魏文惜時賢詩曰、未盡西苑夜、劇作北望塵也) 千年愁苦更繼坐後。(古詩云、人生不滿百、何懷千年憂美) 若夫群生品類、莫不皆以有盡之身、並求無窮之命。所以、道人方士自負丹經、入於名山而合藥之者、養性怡神、以求長生。抱朴子曰、神農云、百病不愈、安得長生。帛公又曰、生好物也、死惡物也。若不幸而不得長生者、猶以生涯無病患者、為福大哉。今吾為病見惱、不得臥坐。向東向西莫知所為。無福至甚、惣集于我。人願天從。如有實者、仰願、頓除此病、得如平。
以鼠為喩、豈不愧乎。(已見上也)

訓読 竊(ひそか)に以(おもひみ)るに、朝夕に山野に佃食(でんしょく)する者すら、猶(なほ)災害無く世を度るを得(え)、(常に弓箭(ゆみや)を執り六齋を避けず、値(あ)ふ所の禽獸、大きなると小しきと、孕(はら)めると孕まぬとを論(い)はず、並に皆殺し食ひ、此を以ちて業とする者を謂ふ。) 晝夜に河海に釣漁する者すら、尚ほ慶福ありて俗を經るを全(まった)くす。(漁夫、潛女、各(おのおの)勤むる所あり、男は手に竹竿を把りて能く波浪の上に釣り、女は腰に鑿(のみ)籠(こ)を帶びて深潭(ふち)の底に潛き採る者を謂ふ) 況(いは)むや、我胎生(たいせい)より今日に至るまでに、みづかた修善の志あり、曾て作惡(さくあ)の心無し。(諸惡莫作(まくさ)、諸善奉行(ぶぎょう)の教(をしへ)を聞くを謂ふ) 所以、三寶を禮拜(れいはい)して、日として勤めざる無く、(日毎に誦經(ずきょう)し、發露(はつろ)懺悔(ざんげ)するなり) 百神を敬重(けいちょう)して、夜として闕(か)きたるは鮮(な)し。(天地の諸神等を敬拜することを謂ふ) 嗟乎(ああ)、媿(はづか)しきかも、我何の罪を犯して、此の重き疾(やまひ)に遭へる。(いまだ、過去に造る所の罪か、若しは現前に犯す所の過(あやまち)なるかを知らず。罪過(ざいか)を犯すこと無くは何そ此の病を獲(え)むを謂ふ)
初め痾(やまい)に沈みしより已來(このかた)、年月稍(やや)に多し。(十餘年を經るを謂ふ) 是の時に七十有四にして、鬢髮(びんぱつ)斑白(しらか)け、筋力尩羸(つか)れ。ただに年の老いたるのみにあらず、復(また)、かの病を加ふ。諺に曰はく「痛き瘡(きず)に鹽(しお)を灌(そそ)き,短き材(き)の端を截(き)る」といふは、此を謂(いふ)なり。四支動かず、百節皆疼(いた)み、身體(しんたい)太(はなは)だ重く、猶ほ鈞石(きんせき)を負(お)へるが如し。(廿四銖(しゅ)を一兩とし、十六兩を一斤とし、卅斤を一鈞(きん)とし、四鈞を石(しゃく)とし、合せて一百廿斤なり) 布に懸(かか)りて立たむと欲(す)れば、翼折れたる鳥の如く、杖に倚(よ)りて歩まむとすれば、足跛(ひ)ける驢(うさぎうま)の比し。吾、身已(すで)に俗(よ)を穿(うが)ち、心も亦塵に累(わづら)ふを以ちて、禍の伏す所、祟(たた)りの隱るる所を知らむと欲(ほ)りして、龜卜(きぼく)の門と巫祝(ぶしゅく)の室とを徃きて問はざる無し。若しは實(まこと)、若しは妄(いつはり)、其の教ふる所に隨ひ、幣帛(ぬさ)を獻じ奉り、祈祷(いの)らざる無し。然れども彌(いよ)よ苦(くるしみ)をす有り、曾て減差(い)ゆる無し。
吾聞かく、「前の代に多く良き醫(くすし)有りて、蒼(あお)生(ひとくさ)の病患(やまひ)を救療(いや)しき。楡樹(ゆじゅ)、扁鵲(へんじゃく)、華他(かわた)、秦の和(わ)、緩(くわん)、葛稚川(かつちせん)、陶隱居(たうおんこ)、張仲景(ちやうちけい)等の若(ごと)きに至りては、皆(みな)是(これ)世に在りし良き醫(くすし)にして、除愈(いや)さざる無し」といへり。(扁鵲、姓は秦、字は越人、勃海郡の人なり。胸を割(さ)き、心を採りて、易(あらた)めて置き、投(い)るるに神藥を以ちてすれば、即ち寤(さ)めて平(つね)なる如し。華他、字は元、沛國(はいこく)の譙(せう)の人なり。若し重みは内に在るあるならば、腸(はら)を刳(き)り病を取り、縫ひて復(また)膏(かう)を摩(す)る。四五日にして差(い)ゆ) 件(くだり)の醫(くすし)を追ひ望むとも、敢へて及(し)く所に非らじ。若し聖医神藥に逢はば、仰ぎ願はくは、五藏を割刳(かつこ)し、百病を抄採(せうさい)し、膏肓(かうくわう)の隩處(おくか)に尋ね逹り、(盲は鬲(かく)なり、心の下を膏とす。攻むれども可(よ)からず、逹(はり)も及はず、藥も至らず) 二豎(にしゅ)の逃れ匿(かく)るるを顯(あらは)さまく欲(ほり)す。(晉の景公疾(や)めり、秦の医、緩(くわん)視(み)て還りしは、鬼のために殺さゆと謂ふべきを謂ふ) 命根(いのち)盡き、其の天下を終るは、尚ほ哀(かな)しと為す。(聖人賢者、一切の含靈(がんりやう)、誰か此の道を免れむ) 何(なに)そ況むや、生録(せいろく)いまだ半ならずして、鬼の為に狂(きまま)に殺さえ、顏色壯年にして、病の為に横(よこしま)に困(たしな)めゆる者をや。世に在る大患の、いづれか此より甚(はなはだ)しからむ。(志恠(しくわい)記(き)に云はく「廣平の前(さき)の大守、北海の徐(じょ)玄方(げんほう)が女(むすめ)、年十八歲にして死る。其の靈の馮(ひょう)馬子(まし)に謂ひて曰はく『我が生録を案(かむが)ふるに、當に壽(とし)八十餘歲ならむ。今妖鬼の為に枉(よこしま)に殺さえて、已に四年を經たり』といへり。この馮馬子に遇ひて、乃(すなは)ち更に活(い)くる得たり」といへるは是なり。内教に云はく「瞻浮(せんふ)州(しゅう)の人は壽(とし)百二十歲なり」といへる。謹みて案ふるに、此の數(かず)必(うつたへ)に此を過ぐるを得ぬにはあらず。故(かれ)、壽(じゅ)延經(えんきゃう)に云はく「比丘(びく)あり、名を難逹(なんたつ)と曰ふ。命終る時に臨みて、佛に詣でて壽(とし)を請(こ)ひ、則ち十八年を延べたり」といへる。但、善く為(をさ)むる者(ひと)は天地と相畢(そ)ふ。其の壽夭(じゅえう)は業報(ごうほう)の招く所にあいて、其の脩(なが)き短きに隨ひて半(なかば)と為るなり。いまだこの算に盈(み)たずして、遄(すみ)やかに死去る。故(かれ)、半ならずと曰ふなり。
任(じん)徴君(ちょうくん)曰はく「病は口より入る。故、君子は其の飲食を節(ただ)す」といへり。斯(これ)に由りて言はば、人の疾病(やまひ)に遇へるは、必(うつたへ)に妖鬼ならず。夫(それ)、医方諸家の廣き說と、飲食禁忌の厚き訓(をしへ)と、知り易く行ひ難き鈍(おそ)き情(こころ)との、三つの者は、目に盈(み)ち耳に滿つこと由來(もとより)久し。抱(ほう)朴子(ぼくし)に曰はく「人はただ、其の當に死なむ日を知らぬ故に憂へぬのみ。若(も)し誠に刖鼿(けつぎ)して期(ご)を延ぶるを得べきを知らば、必ず將(まさ)に之を為さむ」といへり。此を以ちて觀れば、乃(すなは)ち知りぬ、我が病は盖しこれ飲食の招く所にして、みづらか治むる能はぬものか、と)
帛公(はくこう)略説(りゃくせつ)に曰はく「伏して思ひみづから励むに、かの長生を以(も)ちてす。生を貪(むさぼ)る可(べ)し。死は畏(お)づべし」といへり。天地の大を生と曰ふ。故(かれ)、死にたる人は生ける鼠に及(し)かず。王侯なりと雖も一日氣(いき)を絶たば、金を積むの山の如くなりとも、誰か富めりと為さむか。威勢(いきほひ)の海の如くなりとも、誰か貴しと為さむ哉。遊仙窟に曰はく「九泉の下の人は、一錢にだに直(あたひ)せじ」といへり。孔子の曰はく「天に受けて、變(へん)易(やく)すべからぬ者は形なり。命(めい)に受けて、請益(しょうやく)すべからぬものなり」とのたまへり。(鬼谷(きこく)先生の相人(そうにん)書(しょ)に見えたり) 故(かれ)、知る、生の極めて貴く、命の至りて重きを。言はむと欲(ほ)りて言(こと)窮(きわ)まる。何を以ちてかこれを言はむ。慮(おもひはか)らむた欲(ほ)りして慮(おもひはか)り絶(た)ゆ。何に由りてか之を慮らむ。
惟以(おもひみ)れば、人の賢愚と無く、世の古今と無く、咸悉(ことごと)に嗟歎(なげ)く。歲月競ひ流れて、晝夜に息(や)まず。(曾子曰はく「徃きて反らぬは年なり」といへり。宣尼(せんぢ)の川に臨む歎きもまた是なり) 老疾相催(うなが)して、朝夕に侵(をか)し動(きは)ふ。一代の權樂は未だ席の前に盡きぬに、(魏文の時賢(じけん)を惜しめる詩に曰はく「未だ西苑の夜を盡さぬに、劇(にはか)に北邙(ほくぼう)の塵(ちり)と作(な)る」といへり。) 千年の愁(しゅう)苦(く)は更(また)座の後に繼ぐ。(古詩に云はく「人生は百に滿たす、何そ千年の憂美を懷(むだ)かむ」といへり。) 若し夫れ群生(ぐんせい)品類(ひんるゐ)は、皆盡(かぎり)有る身を以ちて、並(とも)に窮(きはまり)無き命を求めざる莫(な)し。所以(かれ)、道人(どうじん)方士(ほうし)の自(みづか)ら丹經(たんきょう)を負ひ、名山に入りてこの藥を合するは、性を養ひ神(こころ)を怡(やはら)げて、以ちて長生を求むるなり。抱朴子に曰はく「神農(しんのう)云はく『百病愈(い)えず、安(いか)にそ長生を得む』といふ」といへり。帛公又曰はく「生は好(よ)き物なり、死は惡(あし)しき物なり」といへり。若し幸(さきはひ)なく長生を得ぬは、猶(な)ほ生涯病患(やまひ)無きを以ちて、福(さきはひ)大きなりと為(せ)むか。今吾病の為に惱まされ、臥坐(ぐわざ)するを得ず。向東向西(かにかくに)に為す所を知らず。福(さきはひ)無きことの至りて甚しき、すべて我に集まる。「人願へば天從ふ」といへり。如(も)し實(まこと)あらば、仰ぎ願はくは、頓(にはか)に此の病を除き、(さきはひ)に平(つね)の如くなるを得む。
鼠を以ちて喩(たとへ)と為すは、豈(あに)愧(は)ぢざらめや。(已に上に見えたり)

私訳 ひとり考えてみると、朝夕に山野で狩猟をして生活の糧を得る者ですら、殺生の罪をうけることなく生活することが出来(常々に弓矢を手にして六斎日もつとめず、見かけた鳥獣は大小を問わず、腹に子をやどしていようがなかろうと悉く殺して食べ、これを生業としている者を意味する)、昼夜に河や海に魚を釣る者すら、なお幸せに世を暮らしている(漁師も海女もそれぞれ仕事にはげんでいる。男は手に竹竿を持ち浪の上で魚を採り、女は腰に鑿や籠を着けて深海に潜っては貝や海藻を採る存在を意味する)。まして、私は生れてから今日にいたるまで、進んで善を修める志を持ち、未だ一度も罪を犯すような心を持っていない(諸悪を為さず、諸善を尊ぶ教えに従うことを意味する)。そこで、仏の三宝である仏・法・僧を尊び、一日も欠かさず勤行を行ひ(日々に誦経し、犯した罪を表し悔いあらためることを意味する)、多くの神を尊重して、一夜として礼拝を欠いたことはない(天地の諸神等を敬拝することを意味する)。なんと、恥ずかしいことでしょう。私が何の罪を犯して、このような重い疾病になったのでしょうか(未だ、過去に犯した罪のためか、もしくは、今、罪を犯しつつあるものによるものかは判らない。しかし、罪を犯さないのに、どうしてこんな疾病になるのかを意味する)。
初めて重病にかかってから、もう年月も久しい(十余年もたっていること)。今年七十四歳で、頭髪はすでに白きをまじえ、体力は衰えている。この老齢に加えて、この病がある。諺に「痛い傷の上にさらに塩をつける。短い木の端をまた切る」というが、このことである。手足は動かず関節はすべて痛み、身体は大変重くて鈞石の重さを背負っているようである(二十四銖が一両、十六両が一斤、三十斤が一鈞、四鈞を石とする。合わせて百二十斤となる)。布を頼って起き立とうとすると翼の折れた鳥のように倒れ、杖にすがって歩こうとすると足なえの驢馬のようである。私は、身は十分に世俗に染み、心もまた俗塵に汚れているので、過ちの原因、祟りの潜んでいる所を知ろうと思って、亀卜の占い師や神意を聞くものの門を叩いてまわった。彼らのいうところは、時として本当であり、時として虚妄だったけれども、その教えのままに神に幣帛をささげ、祈りをささげつくした。しかし、いよいよ苦しみを増すことはあっても、一向に癒えることはなかった。
私が聞くことに、「先の代には多くの名医がいて、人々の病気を癒した。楡樹・扁鵲・華他、秦時代の和・緩・葛稚川・陶隱居。張仲景らに到っては、これ皆、良医として世にあったもので、病気はすべて癒した」という(扁鵲、姓を秦、字を越人といい勃海郡の人である。胸を開切して心臓を取り出し、再び置き直し、投薬をするときに神藥を用いると、患者は眠りから覚めると、平常の状態になった。華他は、字を元といい沛國の譙の地の人である。もし、病の主因が体内にあるなら、腹部を開切してその病気を取り出して、また縫い合わせて膏薬をぬった。四五日すると治ったという)。これらの名医を今から望んだとしても、到底、不可能であろう。しかし、もし名医や霊薬にめぐり逢うことができるなら、どうか内臓をきり開いてもろもろの病気を採り出し、膏や肓の奥深いところまでたずね当て(肓とは横隔膜で、心臓の下を膏という。これは治そうにも治し得ない。針治療も出来ず、薬も効かない)、病を引き起こすと云う二児の逃げ隠れているところを発見したい(晋の景公が病気になったことがあった。秦の医師の緩が診察しての帰り、公は鬼のために殺されるだろうと云った。このことを云う)。寿命は尽きて、天寿を終えることは、なお哀しいことだ(聖人も賢者も、一切の有魂の生き物も、誰ひとり死の道を免れることはない)。まして、生きるべき齢の半ばにも到らず鬼のために不当にも殺された者や、まだ容姿も盛んな壮年にして病気に時ならず苦しめられる者の、何と悲しいことよ。世間にあることの患いの内で、これより大きな苦しみに何があろう。(「志恠記」に云うには「広平県の前の大守、北海の徐玄方の娘が十八歲で死んだ。その娘の霊が馮馬子という男の夢に現れて『私の生きるべき年数を見ると八十余歲のはずである。ところが今怪しい鬼のために気ままに殺されて、もう四年も経っている』といった。結局、この馮馬子に遭ったことによって、娘は生き帰ることができた」と云うのはこのことである。仏典で釈迦の云われるには「瞻浮州の人の寿命は百二十歲である」と云う。謹んで考えてみると、この百二十歳の数は、必ずしもこれ以上生きられないというわけではない。そこで、仏典の「壽延經」には「一人の比丘がいて、その名を難逹といった。臨終の時になって仏を拝んで寿命を乞うたところ、十八年生き延びた」と云っている。ただ、善く身を修める者は天地とともに寿命を終えるもので、その長寿か否かは業の報いのもたらす所であって、業報による生の長短によって半分にもなってしまうのである。定められた年数にみたずして早々と死んでしまうものである。だから、半ばにもならぬという。
任徴君のいうことには「病気は口より入って来る。そこで、君子はその飲食を節制する」という。これによって云うと、人の疾病に罹るのは、必ずしも妖鬼によるものではない。そもそも、医師諸氏のすぐれた説と、飲食を節制するという立派な教えと、それを知っていて行い難い人間の俗情とを、三つとも見聞きすることはいうまでもなくひさしい。「抱朴子」の書に云うには「人はただ、その本当に死ぬべき日を知らないために悲しまないだけである。もし、本当に足を斬り、鼻をそぐ刑罰を受けることで死期を延ばすことができると知ったら、必ずきっとこの刑罰を受けるであろう」という。これをもって考えると、判る。私の病気は必ずや飲食の招いたのもで、自分からはどうしようもないものだ、と)
帛公略説に云うには「つつしんで考え、自らつとめると、あの長寿をうることができる。生は貪欲に求めるがよい。死は恐れるべきである」という。この天地の間の大きな徳を生というのだ。だから死者は生きている鼠にも及ばない。王侯といえども一日息の根をたったら、金を積むこと山のごとくあろうとも、もはや富裕とはいえない。海のごとく広く威勢を振るおうとも、もはや誰も貴いとは考えない。「遊仙窟」にいうことには「黄泉の下にある人は一銭の値打ちもない」と云う。孔子のいわれることには「天から授かって変えることの出来ないものは形であり、天命によって定められ、乞い求めることの出来ないものである」という(鬼谷先生の相人書に、このことは見えている)。そこで、わかる。生が極めて貴く、命の至って重いことが。ああ、云おうにも言葉がない。何をもってこの気持ちを云おう。思いを巡らそうにも、思いもつづかない。何によってこの理を考えよう。
考えてみれば、人間は賢者愚者を問わず、また、昔から今に至るまで、すべて嘆きを繰り返して来た。年月は生と争うかのように流れ、昼夜はとどまるところがない。(曾子のいうには「往きて戻らぬものは年である」という。孔子が川上にあって嘆いたのも、またこのことである)。老と病とが、誘いあうかのように、朝夕にわが身を侵して競いあっている。一生の楽しみは私の宴会の席前に尽くしきれないのに、(魏の文帝の「時賢を惜しめる詩」にいうことには、「まだ西苑の夜の歓楽も尽くさぬに、はや北邙に葬られて塵となる」と云う)、年長い愁い苦しみは、もうわが背後にせまっている(古詩にいうには「人生は百歳に満たないのに、どうして永久の憂いや美麗の物事を思い患おう」と云う)。一体、生きとし生ける者はすべて有限の身をもって、みな無限の命を求める。そこで神仙の道人方士で、自ら仙薬の書物をたずさえて名山に入り、この仙薬を調合する者は、体をととのえ精神を安らかにして、よって長寿を求めるのである。「抱朴子」にいうには「神農がいうには『多くの病気が癒えずして、どうして長生きが出来よう』という」という。帛公がまた云うには「生はりっぱなもので、死は悪いものだ」という。もし、不幸にして、長寿を得られないなら、やはり一生病気に患わされることのないことをもって、大きな幸とすべきであろうか。今、私は病のために悩まされ、寝起きも思うようでない。どのようにも、なす術を知らない。不幸の最たるものが、すべて私に集まっている。世に「人が願うと天が応ずる」という。これがもし真実なら、どうか伏して願うことには、すみやかにこの病気を除き、平生のように幸せであってほしい。
鼠をもって喩えなどしたことは、恥ずかしいことであった。(上に述べたとおりである)。
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万葉集巻五を鑑賞する  集歌894から集歌896まで

2012年08月20日 | 万葉集 旧読解
万葉集巻五を鑑賞する

好去好来謌
標訓 好去(こうきょ)好来(こうらい)の謌

集歌894 神代欲理 云傳久良久 虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継 伊比都賀比計理 今世能 人母許等期等 目前尓 見在知在 人佐播尓 満弖播阿礼等母 高光 日御朝庭 神奈我良 愛能盛尓 天下 奏多麻比志 家子等 撰多麻比天 勅旨 載持弖 唐能 遠境尓 都加播佐礼 麻加利伊麻勢 宇奈原能 邊尓母奥尓母 神豆麻利 宇志播吉伊麻須 諸能 大御神等 船舳尓 道引麻志遠 天地能 大御神等 倭 大國霊 久堅能 阿麻能見虚喩 阿麻賀氣利 見渡多麻比 事畢 還日者 又更 大御神等 船舳尓 御手行掛弖 墨縄遠 播倍多留期等久 阿遅可遠志 智可能岫欲利 大伴 御津濱備尓 多太泊尓 美船播将泊 都々美無久 佐伎久伊麻志弖 速歸坐勢

訓読 神代より 云ひ伝て来(く)らく そらみつ 大和の国は 皇神(すめかみ)の 厳(いつく)しき国 言霊(ことたま)の 幸(さき)はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人も悉(ことごと) 目の前に 見たり知りたり 人多(さは)に 満ちてはあれども 高光る 日の朝廷(みかど) 神ながら 愛(めで)の盛りに 天の下 奏(もう)した賜ひし 家の子と 選(えら)ひ賜ひて 勅旨(おほみこと) 戴(いただ)き持ちて 唐国(もろこし)の 遠き境に 遣(つか)はされ 罷(まか)り坐(いま)せ 海原(うなはら)の 辺(へ)にも沖にも 神づまり 領(うしは)き坐(いま)す 諸(もろもろ)の 大御神(おほみかみ)たち 船舳(ふなへ)に 導き申(まを)し 天地の 大御神(おほみかみ)たち 大和の 大国御魂(おほくにみたま) ひさかたの 天の御空(みそら)ゆ 天翔(あまかけ)り 見渡し賜ひ 事畢(をわ)り 還(かへ)らむ日には またさらに 大御神たち 船舳に 御手(みて)うち懸けて 墨縄(すみなは)を 延(は)へたる如く あぢかをし 値嘉(ちか)の岬(さき)より 大伴の 御津の浜辺(はまび)に 直(ただ)泊(は)てに 御船は泊(は)てむ 恙無(つつみな)く 幸(さき)く坐(いま)して 早帰りませ

私訳 神代から云い伝えられて来たことには、大和の国は皇神の厳しい国、言霊が幸いする国であると、語り継ぎ、言い継がれてきた。今の世の人も皆がまのあたりに見て知っている。大和の国には人がたくさん満ちているけれども、天まで光る天皇の神の御心のままに、天皇から寵愛されているときに、天下の政治をお執りになった名門の子としてお選びになったので、貴方は天皇の御命令を奉じて、唐国の遠い境に派遣され、船出なさる。海原の岸にも沖にも鎮座して海を支配しているもろもろの大御神たちを船の舳先に導き申し上げ、天地の大御神たちと大和の大国魂は大空を飛び翔って見渡しなされて、貴方が使命を終えて帰る日には、再び大御神たちが船の舳先に神の御手を懸けて、墨縄を引いたかのように、値嘉の崎から大伴の御津の浜辺に途中で泊まることなく御船は至り着くでしょう。つつがなく、無事で早くお帰りなさい。


反謌
集歌895 大伴 御津松原 可吉掃弖 和礼立待 速歸坐勢
訓読 大伴の御津の松原かき掃(は)きて吾(わ)れ立ち待たむ早帰りませ

私訳 大伴の御津の松原の落ち葉をきれいに掃き清めて、私はずっと立って待っていましょう。早く帰ってきてください。


集歌896 難波津尓 美船泊農等 吉許延許婆 紐解佐氣弖 多知婆志利勢武
訓読 難波津に御船(みふね)泊(は)てぬと聞こえ来ば紐解き放(さ)けて立ち走りせむ

私訳 難波の湊に御船が帰り泊ったと聞こえて来たなら、肩衣の紐を結ばず広げて走って行ってお迎えしよう。


天平五年三月一日良宅對面獻三日 山上憶良謹上 大唐大使卿記室
注訓 天平五年三月一日、良(ら)の宅(いへ)に対面して、献(たてまつ)ることは三日なり。山上憶良謹みて上る。
大唐大使卿記室
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