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竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 丗六 女性の恋文を鑑賞する

2013年09月28日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 丗六 女性の恋文を鑑賞する

 今回はネットから拾った女性が残した恋文を鑑賞して行きたいと思います。このブログの趣旨から女性が残した恋文と云っても近世や現代のものは対象外です。近々のものでも平安時代中期から鎌倉時代までです。
 なぜ、近々でも平安時代中期から鎌倉時代までかと云うと、ここのブログの趣旨に関係することと、実際面において恋文の記録と云うものを調査してみますとネット上では女性が残した恋文についてはそれほど蓄積されていません。そのために検索や資料収集に問題があることに由来します。
 『古今和歌集』や『新古今和歌集』に載る女流歌人の「恋歌」のジャンルの歌を、特定の男性への恋歌、つまり、恋人への恋文と考えているものがありますが、それらの歌は特定の男性を想定して詠った歌ではなく、歌会などで与えられた「恋」と云うテーマに添った歌です。つまり、それは職業歌人や有名歌人が人々の要望や期待に応えた歌であって、現実の恋愛関係や感情を下にした歌とは云えないものです。逆に『万葉集』を鑑賞される御方は良く御存知のように、『古今和歌集』や『新古今和歌集』の作歌事情から、時に、万葉集歌に対する虚構説が説かれます。これは、『古今和歌集』以降の歌々が虚構であることに由来します。およそ、このような背景があるために女性から男性へと贈った恋文を調べることは大変なのです。
 この大変と云う背景には社会の慣習と時代性も一因します。およそ、男女の間に恋文が交わされるには、相互に性別を超えた個々の人間としての自立性を認めている社会の存在が前提です。女性に個々の人間としての自立性がない社会では、一般論として恋文と云うものは存在しません。例えば、婚姻形態が売買婚や媒酌婚の場合、婚姻対象となる女性が相手となる男性に対して恋愛感情を持つか、持たないかを尊重するような価値観は存在しません。イメージとして、現代のイスラム社会の婚姻形態があります。異性との接触は家族内だけに許される社会道徳規律では、若い男女において婚姻や恋愛対象となる異性との接触機会は存在しませんから、恋文を贈ると云う機会自体が存在しません。確かに可能性として、婚約後や婚姻後に愛情表現として恋文を贈る可能性はありますが、それが社会一般的なものかと云うと違うのではないでしょうか。同様な風習は儒教の影響が強い時代の東アジアでも見られるものです。従いまして、女性の婚姻における選択性や自主性を認めない、そのような社会では女性から男性へ恋文を贈ると云う風習は育たないと考えます。なお、西欧については非常に複雑ですから考察の対象から外しています。
 およそ、男女が相互に恋文を贈るには、次のような条件が満たされる必要があると考えます。
 相手を見知っている(噂話や紹介も含む)
 相手の住所を知っていて、届ける手段がある
 相互に感情を表す文章表現方法と読解能力を持っている
 婚姻や性交渉に女性の了承を必要とする
 女性に恋愛に対する拒否権がある

 ここに恋文を贈ることが成立する条件を提示しましたが、その条件に反して儒教の影響が強い時代の東アジアでも例外的に女性が男性へ恋文を贈ることがあります。その例外的な事例が民妓楼(遊郭)に住む女性が男性に贈るものです。
 最初に唐末の時代に魚玄機と云う女性から男性に出された恋文を紹介します。この魚玄機は唐代の高名な妓女で、主人となる李子安との縁が切れることを恐れて、この詩を作り贈ったとされています。参考に日本語では「恋文」と云いますが中国などの漢字圏では「情書」と云い、当然のこと、それは漢詩や漢文です。

情書(書情寄李子安) 情書 (情書を李子安に寄す)
飲冰食檗誌無功 冰(ひょう)を飲み檗(きはた)を食ふも誌(しるし)に功なく
晉水壺關在夢中 晉水(しんすい)の壺關(こかん)は夢中に在り
秦鏡欲分愁墮鵲 秦鏡(しんきょう)分たんと欲するも墮鵲(だじゃく)を愁ひ
舜琴將弄怨飛鴻 舜琴(しゅんきん)弄(ろう)せんと將(す)るも飛鴻(ほうこう)を怨む
井邊桐葉鳴秋雨 井邊(せいへん)の桐葉(とうよう)は秋雨に鳴り
窗下銀燈暗曉風 窗下(そうか)の銀燈(ぎんとう)は暁風(ぎょうふう)に暗し
書信茫茫何處問 書信(しょしん)茫茫何れの處にか問はん
持竿盡日碧江空 竿を持つこと盡日(じんじつ)なるも碧江(へきこう)空し

(現代語訳)
李子安さまへ私の愛しい気持ちを書に寄せます
冷たい氷を口に含んでも、苦いキハダを口に入れても、貴方に恋文を贈る気持ちを消すことが出来ず、貴方と過ごした晋水、壺関での想い出が夜毎の夢に出て来ます。
全ての心の内を映すという秦鏡の故事ではありませんが貴方への想いを断とうとしても、年に一度しか逢えない彦星と織姫との縁を繋ぐ天の川のカササギが作る橋が落ちてしまうことを恐れるように、完全に貴方との縁が切れてしまうのは怖いのです。
古代舜の時代から南風の中に琴を弾き太平を楽しむと云いますが、私の気持ちは貴方の許へと大鳥が行きたい処へ自由に飛んで行くのを恨むばかりです。
井戸のあたりに植えられている夫婦の象徴である青桐の葉は秋雨に打たれて音を立てながら今にも散りそうですし、窓の近くに置いてある燭火も夜明け前の風に消えそうです。
貴方からの便りはあやふやですが、貴方はどちらに御手紙を贈られたのでしょうか。希望を持って魚書の例えに因んで毎日、釣竿を垂れていますが、でも、その故事と違って碧江は何も答えてくれません。

 このように魚玄機は故事などを織り込み格調高く、逢いたい、そして、手紙も欲しいと訴えます。参考に中国の婚姻形態では家と家とを繋ぐ媒酌婚で正妻を定め、その正妻の下に妾や妓女たちを置きます。このとき、日本の妾が別邸に住むのと違い、中国では同邸宅内での同居形態を取ります。この生活形態の下、魚玄機はその正妻との確執により李子安の許を追われ、最後には縁が切れてしまいます。
 次に薛涛(せつとう)が詠う「春望詞」を紹介します。この薛涛もまた唐代の有名な妓女で、その漢詩を作る能力などから、魚玄機を含めて「詩妓」と云う特別な呼称を与えられています。この「春望詞」は縁が切れかけた主人を引き留めるために詠われた歌とも、妓女たちの気持ちを代表した詩とも評価されています。

春望詞 四首 薛涛(唐) 春の眺めの詞(うた) 四首 薛涛
其一
花開不同賞、花落不同悲 花開くも同(とも)に賞せず、花落つるも同(とも)に悲しまず
欲問相思處、花開花落時 問わんと欲す相(あい)思(おも)ふ処、花開き花落つるの時
其二
攬草結同心、將以遺知音 草を攬(と)りて同心を結び、将に以て知音に遺らんとす
春愁正斷絶,春鳥復哀吟 春の愁ひの正に断絶して、春鳥復(また)哀吟す
其三
風花日將老、佳期猶渺渺 風花日に将に老いんとするに、佳期猶ほ渺渺(べうべう)たり
不結同心人、空結同心草 同心の人を結ばずして、空しく同心の草を結ぶ
其四 
那堪花滿枝、翻作兩相思 花枝に満つるを那(なん)ぞ堪えむ、両相の思ひを翻(ふたた)び作(な)さむ
玉箸垂朝鏡、春風知不知 玉箸は朝鏡に垂(た)れ、春風知るや知らざるや

(現代語訳)
其一
花が咲いても一緒に楽しむこともならず、花が散る逝くときも残念に思う心を共に出来ません。
この思いを共に出来る処があったら教えて下さい。このように花が咲き、花が散り逝くときに。
其二
草花を摘み貴方のように風流を楽しむ気持ちをその草花に結び、風流を楽しむ貴方の許に送りましょう。
春の愁いはまさに極まり、春の鳥は今年もまたひそやかに啼いています。
其三
風に花びらが舞い、時は過ぎて行きますが、貴方との楽しい日はまだ遠い先でしょうか。
風流を共にする貴方と気持ちを結ぶことなく、私はただ独り空しくこのように風流を楽しんでいます。
其四
花が枝に満ちるこの時をどうして耐えられましょう、ねえ、二人が共に風流を楽しんだ時を再び過ごしましょう。
頂いた美しいカンザシは、朝、化粧をする鏡の中に揺れ、その時の私の想いを春風は、さて、知っているのでしょうか。

 唐代の女流歌人の作る恋文を紹介しましたが、これらの女性は詩妓と称されるように科挙に合格した役人や士大夫階級が行う宴に侍り、そのような教養ある男性に伍して風流を行う人々です。ただ、このような女性の多くは自身が売買や贈呈の対象とされるような自己の意思を持つことを許されないの身分が大半です。
 儒教の影響が強い東アジアでは、婚姻は家と家との結びつきを基本とした媒酌婚で正妻を娶り、その正妻の配下に性奉仕を基本とする売買婚や奉公人としての妾や妓女等を置く形態を取ります。また、時に贈答品として妓女を養うこともしています。この社会風土のため、相互の恋愛感情を下にする恋文を作る社会風習は育ちません。
 しかしながら、その時代、唯一、儒教の家族制度の外に位置する民妓楼(遊郭)の高級な妓女だけが自由恋愛や自己表現を行うことが許されていました。この薛涛の生家は下級役人階級であったとされていますから、薛涛は自己の持つ文学才能を認識して自ら妓女という立場を選択したと思われます。当時、高級妓女として十分な資産を有する女性は客を選択するという行為で自由恋愛をすることが可能ですし、そこから発展して恋愛で選んだ資産家の男に囲われること(=疑似恋愛婚)を理想としたとされています。
 その妓女として成功し社会的に自立していた薛涛は、ある時、役人であり、詩人であった元と云う男性に出合い、次のような恋文を贈っています。詩の末句「同心蓮葉間」は長命を祝う「蓮葉の宴」の比喩とし、そこでは死ぬまで貴方の傍に居たいと云う感情を表しています。このように情熱的に恋文を贈った薛涛ですが、歴史は薛涛と元とは一時の恋のままに終わったと伝えています。立場上、薛涛が正妻になると云う可能性はありませんし、薛涛が元の正妻の支配下に置かれることを良しとするも難しいと思います。

池上双鳥、 池の上(ほと)りに双(ふた)つの鳥
双栖緑池上、朝暮共飛還 双(とも)に池の上りの緑に栖み、朝暮共に飛び還える
更忙将趨日、同心蓮葉間 更に忙(おちつ)かず日は趨(すす)まんとし、同心は蓮葉の間

 最初に中国唐時代の女性が作る恋文を紹介しました。次に日本の鎌倉時代のものを紹介しようと思います。赤裸々な恋愛物語で有名な『とはずかたり』から、雪の曙と作者である後深草院二条との恋文交換となる和歌を紹介します。この『とはずかたり』の世界とは実話と創作との中間ではないかとされていますが、紹介する相聞歌はほぼ現実に交わされた恋の和歌ではないでしょうか。日本では文章ではなく、恋の和歌を結び文にし、花枝や趣きある品に添えて相手に贈るのが恋文の習いですから、この歌々は当時、実際に交わされた恋文となります。
 歌の背景は少し複雑です。作者であり主人公の二条は幼い時に後深草院の養女として引き取られています。その二条は初潮を見る前の十四歳頃にどうも雪の曙との間に男女の関係を結んだようです。その後、正式に初潮を見て成女となった二条は裳着の儀式を経て、その儀式の夜、長く二条の裳着を待ちわびていた後深草院からすぐさま寵愛を受けます。その直後、雪の曙から二条の許に和歌を添えた豪華な衣装が贈られて来ました。歌はその時のものです。従いまして、これらの歌は複雑な立場での二人の恋仲を確認する恋文となります。
 この雪の曙は西園寺実兼ではないかと推定され、複雑な政治情勢であった南北朝の鎌倉時代、京都の貴族と鎌倉の武士との間で調整役を果たした有力な政治家であり、和歌や琵琶の風流人でもあったと伝えられる人物です。このとき、雪の曙と二条とは年齢的では二十二歳ほど、離れた関係となります。

雪の曙
つばさこそ重ぬることのかなはずと着てだに馴れよ鶴の毛衣
後深草院二条
よそながら馴れてはよしやさ夜衣いとど袂の朽ちもこそすれ
雪の曙
契りおきし心の末の変はらずはひとり片敷け夜半の狭衣

 次に紹介するものは平安時代に作られた『蜻蛉日記』に載る後に摂政を務めた藤原兼家と作者藤原道綱母との妻問い前の相聞歌です。つまり、兼家は一生懸命に藤原道綱母なる女性を口説いている時の恋文とその返事です。この時の状況を説明しますと、本人以外の女家族全員は藤原兼家が妻問うことを許しており、既に返事を出すのを渋る藤原道綱母に為り変わって歌を返すようなことをしています。その妻問う前に兼家がこれから妻問う女性本人からの返歌を求めた時の相聞です。ただし、この時、兼家には清和天皇の孫である源兼忠の娘(四世王格)が正妻として嫁いでいましたから、格式では藤原道綱母は下となります。そのためか、藤原道綱母の返歌は気位の高いものとなっています。

藤原兼家
鹿の音も聞こえぬ里に住みながらあやしくあはぬ目をもみるかな
藤原道綱母
高砂の小野辺(をのへ)わたりに住まうともしか醒(さ)めぬべき目とは聞かぬを

藤原兼家
逢坂の関や何になり近けれど越えわびぬれば嘆きてぞふる
藤原道綱母
越えわぶる逢坂よりも音に聞く勿来(なこそ)をかたき関と知らなむ

 さて、ご存知のように『源氏物語』は物語本ですから、ここから恋文歌として相聞恋歌を取る訳にもいきません。また、『古今和歌集』などの平安時代の和歌集には「恋歌」のジャンルはありますが、恋をテーマにした男女の「相聞歌」となるものはありません。それらの歌集に載る恋歌は、作歌での約束の中での想像の歌であって、現実に相手の顔や姿を心に浮かべて作歌したものではありません。逆にそれが歌会歌のルールです。ですから、その約束の世界から抜け出すために平安時代の女性たちは、恋する相手の顔や姿を心に浮かべて「日記」や「物語」を作らなければならなかったのでしょうし、紫式部たちが理想とする恋愛の歌が載る『万葉集』、それも人麻呂歌集に載る相聞歌を愛した所以かもしれません。感覚として平安女性たちは人麻呂歌集に男女の本当の恋愛を見たと想像します。
 そうした点では、万葉時代の女性が、一番、自由であったかもしれません。一つには妻問い婚の風習から家産は女系相続が基本でしたし、子は母親だけでなく、その女系家族全体で育てるのが基本です。そして、日本の良さは儒教を上辺だけで取り入れ、社会に取り入れなかったことにあります。そのため、女性が教育を受けることに対し社会的な忌諱は無く、女性の漢字・漢文に対する障害は無かったようです。現在もなお平仮名が女手と云うように漢字・漢文に弱い女性向けの文字であるとの迷信がありますが、清少納言や紫式部の時代、『紫式部日記』にも載るように宮中女房に抜擢されるような女性は漢字・漢文の素養は必修でしたし、男性以上に使いこなせる女性はたくさんいました。また、そうでなければ、宮中行事の式次第や変体仮名で書かれた日常での文章は読めませんし、古典文学もまた読めません。それ以前であれば、平仮名と云う文字はまだありませんから、宮中女房生活をするのであれば、漢字・漢文の識字能力を欠くことはできません。つまり、万葉時代、都市生活を送る貴族階級の女たちには恋愛を謳歌する素地は整っていたのです。この背景からか、女性が漢字・漢文の素養を持つ分、日本では後宮秘書や庶務に宦官のような特殊な男性を用意する必要はありませんでした。
 このような時代の恋文を『万葉集』の中から紹介します。歌は相聞歌の中でも特に問答と分類されるような男女の二首相聞の恋歌で、相思相愛の男女が交わす和歌の恋文です。
 最初は人麻呂歌集から紹介します。歌に示すように男女は相思相愛の関係ですが、女性は宮中女官ですし、男性は朝廷に出仕する官人です。日々、逢える状況でもありませんし、同居する仲でもありません。そうした時、歌は雰囲気的に若い男女の会話のような恋文の様相を見せています。まず、宴などで披露する歌ではありません。

集歌2508 皇祖乃 神御門乎 衢見等 侍従時尓 相流公鴨
訓読 皇祖(すめろき)の神し御門を衢(みち)見しと侍従(さもら)ふ時に逢へる君かも
私訳 皇祖の神の御殿で、通路を見張るためにお仕えしている時の、その時だけに、お目に懸かれる貴方ですね。
注意 原文の「衢見等」の「衢」は、一般に「懼」の誤字として「懼(かしこ)みと」と訓みます。ここでは原文のままに訓んでいます。

集歌2509 真祖鏡 雖見言哉 玉限 石垣渕乃 隠而在孋
訓読 真澄鏡(まそかがみ)見とも言はめや玉かぎる石垣淵(いはがきふち)の隠(こも)りし麗(うるわし)
私訳 見たい姿を見せると云う真澄鏡、その鏡に貴女の姿を見て、逢ったと語れるでしょうか。川面輝く流れにある岩淵が深いように、宮中の奥深くに籠っている私の艶やかな貴女。

 次に紹介する歌は先の人麻呂歌集の二首相聞歌より、男女の関係は進んでいる雰囲気があります。仮に宮中での宴で交わされた歌としても、女性は非常に男性に対して好意を抱いていますから、この歌が交わされるまで恋仲でなかったとしても、その夜の男女関係が想像出来そうな女性からの返歌ですし、応諾歌の雰囲気があります。

集歌2812 吾妹兒尓 戀而為便無 白細布之 袖反之者 夢所見也
訓読 吾妹子(わぎもこ)に恋ひてすべなみ白栲し袖返ししは夢(いめ)そ見えきや
私訳 愛しい貴女に恋しても逢えず、どうしようもないので、白い栲の夜着の袖を折り返して寝たのを、貴女は夢にきっと見えたでしょう。

集歌2813 吾背子之 袖反夜之 夢有之 真毛君尓 如相有
訓読 吾(あ)が背子(せこ)し袖返す夜し夢(いめ)ならしまことも君に逢ひたるごとし
私訳 私の愛しい貴方が白い栲の夜着の袖を折り返した夜の夢なのでしょう。だから、まるで、夢の貴方は実際にお逢いしたようでした。

 最後になりますが、次の歌を紹介します。歌は親密で長い男女関係が前提です。昨日今日の関係ではありません。どこかの宴で詠われた歌としても、女性は男性の歌に対して、貴方と私とは昨日今日の関係ではないけれど、艶聞豊富な貴方は私との間が御無沙汰ですよと、詠っていますから、先の歌と同じように女性が相手の男性に対して持つ好意を想像させます。
 一見、しっぺ返しのようですが、男性の歌は襟元から覗く色を見たのか際どいのですが通り一遍のようにも窺え、女性との関係の深度までは詠っていません。ところが、女性が詠う返歌は閨での二人の行為を想像させるようなものですし、今、襟元から覗かせている色と閨で見せる色とは違うことを匂わせています。そこには、その夜の二人がどのようになったかを想像させるものがあります。

集歌2828 紅之 深染乃衣乎 下著者 人之見久尓 仁寳比将出鴨
訓読 紅(くれなゐ)し濃(こ)染(そめ)の衣(きぬ)を下し着(き)ば人し見らくににほひ出でむかも
私訳 貴女の紅色に濃く染めた衣を下に着たら、人が私の姿をじっと見つめる時に、その下着の色が透けて見えるでしょうか。

集歌2829 衣霜 多在南 取易而 著者也君之 面忘而有
訓読 衣(ころも)しも多くあらなむ取り替へに着ればや君し面(おも)忘れたる
私訳 下着と云っても、それをたくさん持っているからでしょうか。後朝の別れに下着を取り換えて着た貴方ですが、相手の女性の面影(=交換した下着の色)を忘れていますよ。

 参考として、一見、男女の恋の相聞歌のようですが、そうではない歌を紹介します。次の歌は宮中か、貴族の邸での宴に詠われた歌と思われます。ただし、現代語訳が示すように、宴会で男性が女性に対して「紐」と云う言葉が持つ男女関係での約束事から「貴女と私は夜を共にする仲」を前提に歌を詠い掛けていますが、対する女性はその「紐」を男女関係の約束事を示す言葉ではなく、物理的な物として歌を詠い返歌としています。歌は男性の歌に対して、女のたしなみとして裁縫道具は持っているが、貴方とは恋仲では無いと頓知で遣り込めた形となっています。宴では、ここで大笑いとなるようなもので、宴の後のその二人の関係を予感させるものではありません。そこが、先に紹介した相聞の恋歌との違いです。ちょっとこれでは恋文にはなりません。

中臣朝臣東人贈阿倍女郎謌一首
標訓 中臣朝臣東人の阿倍女郎に贈れる歌一首
集歌515 獨宿而 絶西紐緒 忌見跡 世武為便不知 哭耳之曽泣
訓読 独(ひと)り宿(ね)て絶えにし紐をゆゆしみと為(せ)むすべ知らに哭(ね)のみしぞ泣く
私訳 今、独りで夜を過ごし、貴女との夜の営みが絶えていると、貴女と操を誓ったのに取れてしまった衣の紐がはばかられると、どうしていいのか判らなくて恨めしく泣いています。

阿倍女郎答謌一首
標訓 阿倍女郎の答たる歌一首
集歌516 吾以在 三相二搓流 絲用而 附手益物 今曽悔寸
訓読 吾が持てる三相(みつあひ)に搓(よ)れる糸もちて附(つ)けてましもの今ぞ悔しき
私訳 衣の紐が取れたことを気にして下さるな。私が持っている丈夫な三つ縒りの糸で縫い付けてあげればよかったのに、今になって悔やまれます。

 今回は中国と日本との古代の恋文を紹介しましたが、鑑賞において好きなのは、やはり、『万葉集』のものです。そこには男女相互での尊敬と自立があり、対等の人間としての雰囲気があります。その分、歌には相思相愛の柔らかく、それでいて、艶色が漂います。日本のものでも平安、鎌倉と時代が遷るにつれ女性の社会的地位が変わり、それが和歌交換にも現れて来ています。こうしますと、日本の万葉時代の女性たちは、世界でも稀な立場を与えられた人たちだったのかもしれません。
 ただし、女性史などを研究される方々に万葉集の本来の世界を理解して頂いていないような気がするのが、残念であります。
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万葉雑記 色眼鏡 丗五 秋芽子と鴨頭草の歌を楽しむ

2013年09月21日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 丗五 秋芽子と鴨頭草の歌を楽しむ

 最初に、秋芽子と書いて萩、鴨頭草と書いて露草と読みます。文字は当て字というより、国字です。このように萩や露草と表記すると、草木からの季節感がイメージ出来ると思います。
 さて、秋になりました。そこで、万葉集を代表する秋の植物である萩を取り上げてみたいと思います。同時に万葉集では夏の植物ですが、現代俳句では秋の草である露草も取り上げます。
 さて、万葉集では萩の花と露草の花は良く取り上げられる花ですが、萩は秋芽子、芽子、波義、波儀と表記し、露草は鴨頭草、鴨跖草、月草、空草と表記します。現代と飛鳥・奈良時代ではその表記はずいぶんと違います。今回、紹介する萩と露草について、この現代とは違う表記で紹介される秋芽子と鴨頭草とを中心に据えて考えて行きたいと思います。

 最初にこの二つの花の形を紹介しようと思います。ネット上での文章では露草の花は次のように紹介されています。

“ツユクサ(露草)”は俳句では秋の季語である。角川版『俳句歳時記(新版)』(1974)のツユクサに関する記述が秀逸である。それは「大きな編笠状をした双苞の間から瑠璃色の蝶形花を開く。秋の精を現じたとでもいう感じの爽やかな花である」とある。この歳時記の例句には虚子の「露草を面影にして恋ふるかな」という句が挙げられていた。俳句では和歌、短歌のように“恋”の句は多くはない。ましてや、虚子にこのような句があったとは知らなかった。

 一方、萩の花の形はマメ科の植物らしく“蝶形花”とのみ紹介されています。つまり、露草も萩も共に花の形は「蝶形花」と云うことになります。この蝶形花の花とは、左右に大きな花弁を広げ、蝶が羽を広げているような姿を持つ花を示します。

 さて、最初に、普段に野原で見ることが出来ますが、実は輸入植物である露草を取り上げます。その露草の古名である鴨跖草、月草や空草などについては、中国での名称、花の形状、花の咲く時刻、花の色などに由来していることが想像できます。滋養強壮の漢方薬草や青色染料を目的として輸入された露草を漢方では鴨跖草(おうせきそう)と呼び、これは花の形を正面から見た姿が鴨の足(跖=硬い足の裏を意味する)に似ていることから中国で付けられた名称です。また、月草は、朝四時頃、まだ月がある時間帯に花が咲き始めることに由来しているようですし、空草は、当然、花の青色が由来です。
 ところが、万葉集に載る古名である鴨頭草については、その由来が不明です。ただし、先に花の形を紹介しましたが、その露草の苞や花の形状から花を横から見て、その対となった苞に包まれた花に真鴨が長くしなやかな首を挿し入れて襟だけが見えているように見たのかも知れません。中国の人は花が咲き切った後の姿を鴨の足と見、日本人は花が咲く寸前の姿をイメージしたと想像させます。なお、大きな声で、万葉人は開花前に双苞の間から瑠璃色の蝶形花の形をした花弁がわずかに顔を覗かせる形状から女性器を想像したと説明してはいけません。そのように眺めますと、雄蕊の形から想像した鴨の頭が男性器の比喩、そのものになってしまいます。
 一方、萩についても、万葉集に載る古名の秋芽子や芽子の由来が専門家もまったく分からないので、「ハギの語源は生芽(ハエギ)のようで、毎年根茎から芽を出すことから付けられた」のような解説をしています。ただ、秋を代表する花を楽しむ草木の名の由来を、春の新芽に由来を持ってくるところが辛いところですし、在来植物に漢語の読みを持ってくるのも大変です。それに、音での「ハギ」は説明出来ますが、漢字表記の「芽子」の由来はまったく説明が出来ません。このような状況のため、日本の秋を代表する草木ですが、専門家でも古名の秋芽子や芽子の由来が不明なのです。
 また、生芽(ハエギ)説の他に、葉の形状から歯牙(はぎ)、秋に葉が黄色くなるので葉黄(はき)、葉が沢山ついた木なので葉木(はき)などの説もあるようです。萩は露草と違い日本在来の草木ですので漢語由来の名ではないでしょうから、個人的には、鹿の食む木(はむき)がその名の語の由来としてはその可能性が高いと考えています。
 ただ、なぜ、万葉人は「ハギ」に「芽子」の当て字を使ったのかについては、未だ、疑問です。なお、芽子の用字には「かわいい芽」とか「たいせつな芽」のような意味が取れますし、「芽」には「わずかにのぞく」との意味があります。ただし、まめ科である萩の花の形状から妄想を広げて、古名の芽子から飛躍して同音異字ですが関西古語の「女子」、また、「御芽子」と「御女子」とを思い浮かべてはいけないようです。なお、奈良時代以降の教養ある人々は「女子」を「じょし」とは発音しません。「女」は「め」と発音します。また、上下を逆にした萩の花の形状からは、古語の芽子は葉木でなくて花の形から女性器を想像しての当て字である可能性が高いと思われます。

 馬鹿話を棚上げにして、一応、鹿の食む木(はむき)説を思わせるような正統の鹿と萩の歌を以下に載せます。

湯原王鳴鹿謌一首
集歌1550 秋芽之 落乃乱尓 呼立而 鳴奈流鹿之 音遥者
訓読 秋萩(あきはぎ)し散りの乱(まが)ひに呼びたてて鳴くなる鹿(しか)し声し遥(はる)けさ
私訳 秋萩の花が散る乱れる、その言葉ではないが恋の季節である秋が終わって行くと心を乱して雌鹿を呼び立てて鳴いている雄鹿の声が遥かに聞こえる。

 さて、もう一度、露草に戻りますと、露草のことを話題の鴨頭草と表記した万葉集の歌があり、それを紹介します。参考情報として、露草を鴨頭草と表記する万葉集歌は四首のみですので、やや、特殊な表現である可能性はあります。

集歌2281 朝露尓 咲酢左乾垂 鴨頭草之 日斜共 可消所念
訓読 朝露に咲きす寂(さび)たる鴨頭草(つきくさ)し日くたつなへに消(け)ぬべくそ思(そ)ゆ
私訳 朝露の中に咲き、そして萎れるツユクサのように、日が傾いていくにつれ、貴方が恋しくて気持ちが萎れるように感じられます。

 集歌2281の歌に比喩を認めるか、認めないかで、歌の鑑賞は大きく変わります。もし、比喩を認めるとしますと、「朝露」と「鴨頭草」との言葉が女性と男性を意味することになり、「咲酢左乾垂」は「割き荒びたる」と云うような意味合いの言葉となります。当然、表歌では紹介するように「咲きす、寂たる」との意味合いになります。

集歌2281 朝露尓 咲酢左乾垂 鴨頭草之 日斜共 可消所念
比喩での裏歌
試訓 朝露に割き荒(すさ)びたる鴨頭草(つきくさ)し日くたつなへに消(け)ぬべくそ思(そ)ゆ
試訳 私の濡れた体を貫き荒々しかった貴方、朝日が昇り、そして暮れて行く、その時間が過ぎゆくにつれ、たくましかった貴方の想い出がこの体から薄れて行くのではないかと感じます。

 同じように鴨頭草の言葉に男性の比喩があるとしますと、次の相聞歌は意味深いものになります。集歌3058の歌の「鴨頭草」の言葉は、その花の形と用字から「男女の交渉」を暗示しています。そして、「移情」です。つまり、歌は恋する男に対して「私は人が噂話をするような尻軽女では無い」と云うものになります。
 そうした時、集歌3058の歌の応歌となる集歌3059の歌では露草を意味する言葉に「鴨頭草」ではなく「月草」の方の表記を選択しています。ここでは、性交渉をイメージさせる「鴨頭草」ではなく、花草の風流である「月草」の言葉を選ぶことが、恋愛関係にある男から女への応歌では大切なことであったと考えます。

集歌3058 内日刺 宮庭有跡 鴨頭草之 移情 吾思名國
訓読 うち日さす宮にはあれど鴨頭草(つきくさ)しうつろふ情(こころ)吾が思はなくに
私訳 きらきらと日の射す大宮に居て多くの殿方と接するけども、ツユクサのように褪せやすい気持ちを私は思ってもいません。

集歌3059 百尓千尓 人者雖言 月草之 移情 吾将持八方
訓読 百(もも)に千(ち)に人は言ふとも月草(つきくさ)しうつろふ情(こころ)吾持ためやも
私訳 あれやこれやと人はうわさ話をするけれど、ツユクサが褪せやすいと云うような、そんな疑いを、私が持っていましょうか。

 次に、萩の花について、鴨頭草と同じような感覚で芽子や秋芽子の言葉を使う歌を見て行きたいと思います。その最初に大伴坂上郎女が詠う「芽子」の歌を紹介します。

大伴坂上郎女晩芽子謌一首
標訓 大伴坂上郎女の晩(おそ)き芽子(はぎ)の謌一首
集歌1548 咲花毛 宇都呂波厭 奥手有 長意尓 尚不如家里
訓読 咲く花も移(うつろ)は厭(うと)し晩(おくて)なる長き心になほ如(し)かずけり
私訳 咲くでしょう花も、花として色付き散るのを嫌う。晩熟(おくて)の気長い心持ちには、まだ咲き出さない萩の花ですが、それでも及びません。
注意 原文の「宇都呂波厭」の「宇都」は、一般に「乎曾」の誤記とし「乎曾呂波厭」と表わし「をそろは厭(いと)し」と訓みます。

 この歌で理解されると思いますが、歌の標に示す「晩芽子」の意味するところは大伴坂上郎女の娘の性的成長が遅いと云うことです。娘が婚約をしていても、正式の婚姻には初潮を迎え裳着の儀式を終えて成女になることが前提ですが、それがまだまだな状況を示します。つまり、この標題の「芽子」なる言葉には「女性の性」の意味合いが隠されています。
 このような感覚で次の歌を鑑賞してください。当時の生活風習では恋する相手であっても名前を口に出したり、表したりすることは忌むべきこととされていましたから、歌に使う「秋芽子」の言葉に恋する女性、その人自身を代表している可能性があります。逆に女性の比喩として解釈する方が判りやすい歌です。

集歌2122 大夫之 心者無而 秋芽子之 戀耳八方 奈積而有南
訓読 大夫(ますらを)し心はなみに秋萩し恋のみにやもなづみにありなむ
私訳 立派な男の気負いを無くしたままで、秋萩(貴女の姿)の見事さに心を奪われ、その情景に浸ったままです。

 集歌2122の歌の秋芽子が女性、その人を比喩する言葉としますと、次の集歌2173の歌は、もう少し、女性でも性の意味合いが強い歌と思われます。そして、歌には草木に置く「白露」と女性の潤いの比喩である「露」との対比があると考えられます。

集歌2173 白露乎 取者可消 去来子等 露尓争而 芽子之遊将為
訓読 白露を取らば消(け)ぬべしいざ子ども露に競(きほ)ひに萩し遊びせむ
表訳
私訳 白露を手に取れば消えてしまうでしょう。さあ、愛しい貴女、その露に競って、萩と共に風流を楽しみましょう。
裏訳
私訳 草木の葉に置く白露を手に取れば消えてしまうでしょう。でも、愛しい貴女、葉に置く露にまさって体を潤わす、そのような貴女と夜の営みを楽しみましょう。

 私の感覚において、集歌2173の歌よりも、もう少し、性の意味合いを強めた歌が次の集歌2284の歌です。最初は、標準的な表歌での解釈を紹介します。

集歌2284 率尓 今毛欲見 秋芽子之 四搓二将有 妹之光儀乎
訓読 ゆくりなに今も見が欲(ほ)し秋萩ししなひにあるらむ妹し姿を
意訳 突然ですが、今も眺めて見たい。秋萩のようなあでやかでしなやかな体をしているでしょう、その貴女の姿を。
注意 この歌を比喩歌と取ると、芽子と四搓の言葉から強い男の欲望の歌になります。

 この歌に比喩があるとすると「芽子」がその対象になりますし、その時、歌の初句「率尓」の言葉が効いてきます。

集歌2284 率尓 今毛欲見 秋芽子之 四搓二将有 妹之光儀乎
比喩の裏歌
訓読 ゆくりなに今も見が欲(ほ)し秋萩ししなひにあるらむ妹し姿を
試訳 あぁ、我慢できない、今、見せて欲しい。貴女のあそこへの念入りにする愛撫で身悶えた、あの時と同じ貴女の姿を。

 御存知のように漢字の「搓」には「さする」や「よじる」と云う意味合いがあります。また、「四」には「四方」や「四海」なる言葉があるように「全部」とか「周囲」とかの意味があるとしますと、「四搓二将有」と云う文字を選択した裏には「遍く愛撫を行い、二の文字に重なる」と云う意味合いが隠れていることになります。そして、倭言葉の「しなひ」には「柔らかく撓ませる」や「柔らかく身をくねらせる」と云う意味合いがあります。それを想像しての裏歌となります。
 次いで、万葉集巻十に載る秋芽子の言葉を使う歌を紹介します。

集歌2273 何為等加 君乎将厭 秋芽子乃 其始花之 歡寸物乎
訓読 何すとか君を厭(い)とはむ秋萩のその初花(はつはな)し歓(うれ)しきものを
意訳 どうして貴方を嫌いだと思うでしょうか。出会うことを待ち焦がれる、秋萩のその初花のように、出会いがあればうれしいものですから。

 一般に、歌に「君」と云う言葉があると、女性から男性に贈る歌と推定します。それで意訳文は女性が歌を詠ったとしてのものです。
 さて、集歌2273の歌は原文表記で鑑賞すると、すこし、特異な歌です。どこが特異なのかと云うと、漢詩のように鑑賞が出来るのです。それを紹介してみましょう。

集歌2273の歌
何為等加   何すとか
君乎将厭   君を厭(い)とはむ
秋芽子乃   秋芽子の
其始花之   その花の始めの
歡寸物乎   歓(かん)の寸(すく)なきものを

 このような表記スタイルにしますと、歌が女性から男性に贈られたと云うことに疑問が生じます。この漢詩的なスタイルでは、歌は宴会で木簡などに墨書されて回覧して楽しんだ可能性が見出せます。つまり、宴会での猥歌です。
 すると、集歌2273の歌は次のように解釈が出来るのではないでしょうか。

集歌2273 何為等加 君乎将厭 秋芽子乃 其始花之 歡寸物乎
裏歌
訓読 何すとか君を厭(い)とはむ秋萩のその始花(はつはな)し歓(うれ)しきものを
私訳 秋萩の花のように咲き始めたばかりの貴女には夜の歡びがまだすくないようです。だからといって貴女が嫌いではないのです。

 つまり、即物的に「貴女は未だ性交渉に慣れてはいないけども、それでも、私は貴女が嫌いではありません」と云っているとも読めるのです。文にも手馴れの熟練した男から、初々しい女への歌の景色です。なお、「其始花之」には、いわゆる、初交や性交初夜の意味はありません。初交には「初花」のような漢字表現を使うと考えます。
 参考に、まだ、男女関係に馴れていない若い娘が好きな男に抱かれる時の気持ちを詠った歌があります。集歌2650の歌と集歌2273の歌とを重ね合わせて鑑賞すると、若い娘の気持ちが良く分かると思います。

集歌2650 十寸板持 盖流板目乃 不令相者 如何為跡可 吾宿始兼
訓読 そき板(た)以(も)ち葺(ふ)ける板目(いため)の合(あ)はざらば如何(いか)にせむとか吾(あ)が寝(ね)始(そ)めけむ
私訳 薄くそいだ板で葺いた屋根の板目がなかなか合わないように、私の体が貴方に気に入って貰えなければどうしましょうかと、そのような思いで、私は貴方と共寝を始めました。

 さて、鴨頭草や芽子の言葉にその花の形などから女性や女性器の比喩があるとしますと、万葉時代の人たちは男女を問わず、それを良く観察していたことにもなります。その良く観察をしていたことを基準に次の歌を紹介します。

集歌2225 吾背子之 挿頭之芽子尓 置露乎 清見世跡 月者照良思
訓読 吾が背子し挿頭(かざし)し萩に置く露を清(さや)かに見よと月は照るらし
私訳 私の愛しい貴方が髪飾りとした萩に置く露を、輝き清らかだから良く見なさいとばかりに月は照っているのでしょう。

 集歌2225の歌の二句目「挿頭之芽子尓」は「露を置いた萩の枝を髪飾りとした」と解釈して訳します。情景は髪に挿した萩の露が月の明かりに輝くと云う明るい光の下での出会いです。
 ただ、芽子や露に比喩があるとすると、古語の「かざす=翳す」には「物の上に手で覆うように差し出す」と云う意味がありますから、時に「かざす」をしたものは恋人の顔かもしれません。そうした場合は、歌は閨での痴話になり、女性が「私の芽子に置く露の様子を月明かりの下、もっと、良く見て」とお願いしていることになります。参考として、万葉時代、ふくよかな白き肌に潤い濡れた体が美人の基準の一つだったようです。
 もう一つ、裏の意味がありそうな芽子の歌を紹介します。それが集歌2228の歌です。風景は枝一杯に花を付けた萩が月の光に明るく照らされています。そのようなすがすがしい歌です。

集歌2228 芽子之花 開乃乎再入緒 見代跡可聞 月夜之清 戀益良國
訓読 萩し花咲きのををりを見よとかも月夜(つくよ)し清(きよ)き恋まさらくに
私訳 萩の花がたわわに咲いているのを眺めなさいと云うのでしょうか、月夜が清らかで、この風情に心が引きつけられる。

 さて、紹介した集歌2228の歌は二句目が難訓で「乎再入緒」は「ををりを」と訓むことになっています。一応、「乎再」は同じ文字の繰り返しを避けるための表記での「乎が再び」と解釈し、「乎再入緒」は「乎乎入緒」と見なしての「ををりを」です。
 ここで古語の「ををり」は「撓り」とも表記し、漢字で「撓り」と表記しますと別訓で「たをり」とも訓むことが出来ます。この「たをり」は「山の稜線のくぼんで低くなっている所」を意味しますし、「ををり」は「花や葉がたくさんついて枝がしなうこと」を意味します。およそ、「ををり」や「たをり」とは「くぼみ」や「周りより低くなる様」を表す言葉のようです。
 そうした時、原文表記の「再入」は意味深長です。「芽子」に女性器の隠語があることを思いますと、歌を発声で詠う場合と木簡などに墨書した場合での歌の雰囲気は大きく違います。その墨書した場合には、ちょうど、鴨頭草の花の形が意味する男女の状況を眺めるのにちょうどよい月明かりと云う意味が現れて来ます。それも、「もう一度」と歌にはあります。

集歌2228 芽子之花 開乃乎再入緒 見代跡可聞 月夜之清 戀益良國
裏歌
訓読 萩し花割(さ)けの撓(をを)りを見よとかも月夜(つくよ)し清(きよ)き恋まさらくに
私訳 貴女の芽子のあたりの窪みを見つ、もう一度、体を交わしなさいとばかりに月夜の明かりは清らかです。だから貴女を抱きたくてたまらない。

 もし、集歌2225の歌と集歌2228の歌とが、仲秋の名月の下、宴を催しての歌会での二首問答歌としますと、非常に楽しい宴ではないでしょうか。発声で詠う場合、共に歌は月明かりに照らされる萩花の風情を詠います。ですが、その歌を木簡などに墨書して女性陣に回覧し目配せしますと、次のような返歌を貰えるかもしれません。

集歌2252 秋芽子之 開散野邊之 暮露尓 沾乍来益 夜者深去鞆
訓読 秋萩し咲き散る野辺(のへ)し暮露に濡れつつ来ませ夜は更けぬとも
私訳 秋萩の花が咲き散る野辺の、その夕露に濡れながらやって来て下さい。夜は更けたとしても。

集歌2271 草深三 蟋多 鳴屋前 芽子見公者 何時来益牟
訓読 草深み蟋蟀(こほろぎ)さはに鳴く屋前(やと)し萩見に君はいつか来まさむ
私訳 草むらが深いのでコオロギが盛大に鳴いている私の家の庭に、萩を眺めに貴方はいつお出でになるのでしょうか。

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万葉雑記 色眼鏡 丗四 難訓歌を鑑賞する

2013年09月14日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 丗四 難訓歌を鑑賞する

 今回もまた、新たなテーマが見つからず、以前に紹介したもののリメーク版になっています。毎回、毎回、申し訳ありません。多少、言い訳をしますと、前回よりは「少しはまし」になっています。
 さて、今回、『万葉集』の中で、その歌の読み方が良く分からないとされる、所謂、難訓歌を紹介します。その難訓歌についてですが、以前に紹介しましたように、使われている漢字の読みが判らなくて本質的に読めない歌と、使われる漢字自体は読めるのですが、その読み方をした場合に歌として落ち着きが悪い歌との、おおまかに二種類に分かれます。
 なお、ここのブログに、度々、お立ち寄りの方はご存じと思いますが、現在の訓読み万葉集の歌の中には、その歌を読むために西本願寺本万葉集の原文の歌を校訂して原文の漢字を変えた歌が、相当数、あります。本質的には、伝わる万葉集原文の歌が読めなかったと云う点では、そのような「誤記説からの換字」や「校訂と云う操作で原文歌を変えたもの」は難訓歌の分類に含まれるはずです。ただ、その場合、そのような歌は百首は下りませんから、それを一々、取り上げるのは大変です。そこで、今回は校本万葉集の中でも(逆に云えば、換字や校訂の作業を行っても、それでも読めないと云う歌)有名な難訓歌を扱うことにします。なお、これらの歌には有名歌人のものや伝わるすべての古書での表記が一致し、誤記説や校訂と云う改変作業が出来ない歌が含まれています。
 最初に歌の解釈において落ち着きが悪い歌の代表を二首ほど、紹介します。参考として、この二首は誤記説や校訂という作業での改変をすることが出来ない歌です。

集歌48 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
訓読 東(ひむがし)し野(の)し炎(かぎろひ)し立つそ見にかへり見すれば月西渡る
私訳 夜通し昔の出来事を思い出していて、ふと、東の野に朝焼けの光が雲間から立つのが見えて、振り返って見ると昨夜を一夜中に照らした月が西に渡って沈み逝く。

集歌2556 玉垂之 小簀之垂簾乎 徃褐 寐者不眠友 君者通速為
訓読 玉垂し小簾(をす)し垂簾(たれす)を行き褐(かち)む寝(い)は寝(な)さずとも君は通はせ
私訳 美しく垂らすかわいい簾の内がだんだん暗くなります。私を抱くために床で安眠することが出来なくても、貴方は私の許に通って来てください。

 紹介した二首は、度々、このブログで紹介していますが、難訓とされるのは集歌48の歌では「野炎」の句であり、集歌2556の歌では「徃褐」の句です。訳文において落ち着きが悪いとされる歌の多くが、平安末期から鎌倉時代に付けられた新点(藤原定家好み)の訓みの扱いに起因します。訓みにおいて藤原定家好みを絶対視しなければ、この手の難訓歌のほとんどが難訓では無くなります。ですが、これらの難訓歌はお手軽で研究論文としては扱い易いテーマですので、現在でもまだ難訓歌として扱ってあげるのが良いようです。
 ただし、対象となる文字や言葉について、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』など原文に対してコンピューターを使って全文検索を行わない方が古典文学の研究者を目指すなら無難です。それを行いますと、難訓では無くなるものが増えますし、伝わるこの種の難訓歌とされる歌に対する難訓の根拠自体が無くなるものも出て来ます。つまり、静かな水面に大きな石を投げ入れるようなことになります。
 参考として、今までに何度も説明しましたが、「野炎」の「炎」の文字に対する「けぶり」の古訓は「単なる誰かの好みだけ」であって、コンピューターを使って古典作品の全文検索を行った時、「ほむら」や「かげろひ」の訓みは他の『万葉集』の歌や『古事記』の記事などにもありますので、真面目に取り組めば論文にはなりません。難訓研究と云うよりも「時代と語感変化の研究」と云うものになります。
 その集歌48の歌を例としますと、藤原定家好みでは「いさな取る」と云う言葉は「恐ろしい響きの言葉」ですから、「東」や「野炎」の訓み問題は難訓歌というよりも「あずま」と「ひむがし」、「けぶり」と「かげろひ」、これらの言葉の響きに対する好みの研究となります。集歌2556の歌では「徃褐」の句に対する「いきかちに」と「いきかちむ」との言葉の響きの好みが問題となります。
 和歌の鑑賞において、万葉集の時代は一つの歌の中に漢字表記歌と詠歌における歌の多重性を、古今和歌集では一字一音表記のときの掛詞の下での同音異義語からの歌の多重性を追求した世界です。そして、新古今では本歌取り技法に代表される先行する歌の歴史を知る暗記力と詠歌での調べの美しさを求めた世界です。それぞれの鑑賞態度が違う時、違う世界から眺めれば、歌の表現やその言葉の発声に違和感が生じるのは仕方がないことと考えます。問題の本質を見定めて定義を行うと、難訓歌と云う言葉自体が、結構、曖昧模糊とした世界であることが予定されます。
 一応、集歌48の歌のようなものでも難訓歌と称すると万葉集歌の部分的な研究となりますし、先人研究の読書感想文のようなものでも収まります。しかし、それを「時代と語感変化の研究」としますと古典通期の問題となり本格的に通期に渡る古典文学と言語学を研究する必要が生じます。ですから、難訓歌です。ただ、不思議ですが、本歌取り技法に代表される『新古今和歌集』の鑑賞で「時代と語感変化の研究」を伴わないで、『古今和歌集』と『新古今和歌集』との比較研究を行うことは可能なのでしょうか。『古今和歌集』において伝紀貫之の奏覧本と藤原定家の流布本とでは歌が違うものがあるのは有名な話です。

 次に紹介する歌は、使われている漢字の読みが判らなくて、本質的に読めない歌に分類される歌です。これらが本質的な難訓歌とされている歌です。
 その最初に額田王が詠う集歌9の歌を紹介します。この歌は「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」が難訓とされています。ただ、前提条件として、歌は斉明天皇の紀伊国牟婁郡(熊野地方)への御幸の時に詠われた歌ですから、御幸とその行き先である紀伊国牟婁郡方面にゆかりがある歌として解釈をしなければいけないと云う制約があります。逆にその制約から歌を想像することが可能となります。私訳では古事記に載る神武天皇に故事を取り、鑑賞をしています。そして、歌は使われる文字数から想像して、その使われる多くの文字は音字であろうとの見当を付けて訓んでいます。

幸于紀温泉之時、額田王作謌
標訓 紀温泉(きのゆ)に幸(いでま)しし時に、額田王の作れる歌
集歌9 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
訓読 染(そ)まりなし御備(おそな)え副(そ)えき吾(あ)が背子し致(いた)ちししけむ厳橿(いつかし)が本(もと)
私訳 一点の穢れなき純白の絹の布を奉幣に副えました。吾らがお慕いする君が、梓弓が立てる音の中、その奉幣をいたしました。大和の橿原宮の元宮であります、この熊野速玉大社を建てられた大王(=神武天皇)よ。

 ここで初句の「莫囂圓隣之」は「莫+(言葉)+之」と考え「囂圓隣」はそのままに音字とし、また二句目の「大相七兄爪謁氣」は七文字ともに音字と解釈しています。三、四、五句目は伝統の訓みをそのままに採用しました。鑑賞としては、斉明天皇が紀伊国への御幸の目的地である神武天皇ゆかりの熊野速玉大社で純白の帛の巻物を奉納し、奉幣を奉げる様子を想像しています。時代性として、純白な帛の布は相当な高価で神聖なものであったと考えています。また、伝存する聖武天皇の御装束は純白の帛の衣だそうです。そして、イメージとしては四方盆に純白の帛三疋を俵積に載せた形です。なお、「御備ふ(おそなふ)」なる言葉が飛鳥時代に使われていたか、どうかは、確認をしていませんが、「御座す(おます)」なる言葉は使われていたようなので、天皇の行為に対する言葉として可能性はあると考えます。

 次にこの集歌67の歌もなぜか難訓の部類に入るようです。古来、難訓とされるのは二句目と三句目となる「物戀尓鳴毛」の表現のところです。理由として「鳴」の字を「さえずる」と読めなかったことに由来するようです。そのため、難訓を解消するために、原文の「物戀尓鳴毛」は、一般には想像した読み方から「物戀之伎尓 鶴之鳴毛」と創作改変し「物恋しきに鶴(たづ)が鳴(ね)も」と訓むようになりました。そのために歌の歌意が大幅に変わりましたが、藤原定家風好みで歌詠は美しくなります。

集歌67 旅尓之而 物戀尓 鳴毛 不所聞有世者 孤悲而死萬思
訓読 旅にしにもの恋しさに鳴(さえづる)も聞こえずありせば恋ひに死なまし
私訳 逢いたくても逢えないこの旅の道中だからこそ貴女への想いが募り、そのために、このように鳥が啼きさえずる声も耳に入らないようでは、きっと、私は貴女への想いで死んでしまうでしょう。
右一首高安大嶋
注訓 右の一首は、高安大嶋。

参考として現在の解釈での歌
訓読 旅にしてもの恋しきにたづが音も聞こえずありせば恋ひて死なまし
訳文 旅先にあって、もの恋しいのに鶴の声さえも、聞こえなかったら、家(=家に残して来た妻)恋しさのあまり死んでしまうだろう。

 この集歌67の歌の「鳴毛」が読めなくて「鶴之鳴毛」と創作改変したように、次に示す車持朝臣千年が詠う集歌915の歌も三句目の「音成」を「川音成(表記では『〃音成』となります)」と創作改変して鑑賞します。「〃音成」の時、「川音(かはおと)なす」と訓みます。もし、集歌67の歌が難訓歌であるならば、同じ理由で集歌915の歌も難訓歌としていいのですが、さすがに恥ずかしいのか、そこまではしないようです。

或本反謌曰
標訓 或る本の反謌に曰はく
集歌915 千鳥鳴 三吉野川之 音成 止時梨二所 思君
訓読 千鳥鳴くみ吉野川し音(おと)成(な)りし止(や)む時無しにそ思ほゆる君
私訳 多くの鳥が鳴く美しい吉野川のその轟きが止む時がきっとないように常に慕っている貴方です。

 さて、集歌156の歌は確かに難訓です。先の歌々については、先人の研究や漢字の訓を調べることで想像がつきますが、この歌の「神之神須疑已具耳矣自得見監乍」は手強いです。
 歌は、十市皇女が急死された時、高市皇子が親族代表として挽歌を奉げています。場所は飛鳥鳥見山の赤穂で、三輪山を望む所です。さて、古代、神を祀る時、三つの甕を据え、口噛みの酒を供えるのが礼儀です。それが三瓶や三諸などの地名や言葉に残っています。そして、三輪山の神は口噛みの美味し御酒の神でもあります。きっと、これが歌を鑑賞する時のヒントになるのでしょう。また、古代、まだ若い女性が亡くなられた時、明日香皇女の挽歌でも詠われるように、子を産む女性=性交渉の対象となる成熟した女性であったと詠うのが相手への褒め言葉としての礼儀であったと考えられます。挽歌ではありますが、このような前提条件で歌を鑑賞するのが良いようです。

十市皇女薨時高市皇子尊御作謌三首
標訓 十市皇女の薨(みまか)りし時に高市皇子尊の御(かた)りて作(つく)らしし謌三首
集歌156 三諸之 神之神須疑 已具耳矣 自得見監乍 共不寝夜叙多
試訓 三(み)つ諸(もろ)し神し神杉(かむすぎ)過(す)ぐのみを蔀(しとみ)し見つつ共(とも)寝(ね)ぬ夜(よ)そ多(まね)
試訳 三つの甕を据えると云う三諸の三輪山、その神への口噛みの酒を据える、神山の神杉、その言葉の響きではないが、貴女が過ぎ去ってしまったのを貴女の部屋の蔀の動きを見守りながら、その貴女が恋人と共寝をしない夜が多いことです。

 解釈を想像する時、「神之神須疑已具耳矣自得見監乍共不寝夜叙多」の表記の中で、比較的に句切れに使われる文字を見つけ出すことにあります。そうすると「矣」や「乍」の文字が句末の文字に使われるものであろうとの見当が付けられます。後は和歌の語調に合わせての訓みだけとなります。つまり、

三諸之 神之神須疑 已具耳矣 自得見監乍 共不寝夜叙多

の句切れに合わせての解釈です。その結果が先に示した試訓と試訳です。なお、「巳」の発音は現在の中国では「si」、「se」、「su」、「chi」などと発音するようです。そこで可能性として飛鳥時代に現在の南中国方面の発音である「su」の発声はあったのではないかと想像しています。そうすると、飛鳥時代の作歌の特徴である、音の尻取りの技法が見えて来ます。また、体言止めの作歌スタイルもまた、漢詩体和歌のようなものとして当時の流行りではないでしょうか。解釈を示すと、「なんだ、それだけか」の世界です。結果、本格的な難訓にはならずに申し訳ありません。
 このような歌の解釈が成り立つとしますと、面白い想像が出来ます。参考に次の人麻呂の詠う「泣血哀慟作歌二首」の内の異伝とされる挽歌を見てください。

集歌216 家来而 吾屋乎見者 玉床之 外向来 妹木枕
訓読 家(いへ)し来に吾が屋(へ)を見れば玉(たま)床(とこ)し外(よそ)に向きけり妹し木(こ)枕(まくら)
私訳 家に戻ってきて私の家の中を見ると貴女と寝た美しい夜の床でいつもは並んでいるはずの枕が、外の方向を向いている貴女の木枕が。

 集歌156の歌では十市皇女の再び帰って来ることの無い不在を部屋の蔀の開閉で表現しています。一方、集歌216の歌では妻の永遠の不在を木枕の様子で表現しています。ここには人の状態を物で代表して婉曲に表現をすると云う手法が使われています。歌は人の死を詠っていません。しかし、葬儀の時の歌であると聞けば、歌の中にその人物が亡くなったと云うことが強く感じられます。非常に高度な作歌技法と思います。作歌順からすると、その技法を人麻呂は集歌156の歌から学んだかもしれません。

 万葉集巻十六の最後に載る「怕物謌三首」と云う標題を持つ歌三首があります。この内、二首が少し有名な難訓歌です。それも読めない方です。

集歌3888 奥國 領君之 染屋形 黄染乃屋形 神之門涙
訓読 奥(おき)つ国(くに)領(うる)はく君し染め屋形(やかた)黄染(にそめ)の屋形(やかた)神し門(と)涙(なか)る
私訳 死者の国を頂戴した者が乗る染め布の屋形、赤黄色に染めた布の屋形、神の国への門が開くのに涙が流れる。

 集歌3888の歌の「染屋形」や「黄染乃屋形」の屋形とは人が乗る箱のことを意味します。普通は牛車の人の乗る部分を示しますが、ここでは棺のことを意味します。つまり、染屋形とは棺に布を掛けた状態です。この集歌3888の歌は「怕物謌三首」と云う標題の下に集められた歌です。そうしたとき、では、何が怖いのかと云うと、この歌では「死」の怖さを詠っています。なお、歌の言葉「黄染」は濃い赤黄諸色の紅花染めの布である可能性が高いと思います。紅花は古墳時代から死者に手向ける花であったようです。

集歌3889 人魂乃 佐青有君之 但獨 相有之雨夜 葉非左思所念
訓読 人魂(ひとたま)のさ青(を)なる君しただ独り逢へりし雨夜(あまよ)枝(え)し左思そ念(も)ふ
私訳 人の心を持つと云う青面金剛童子像を、私がただ独りで寺に拝んだ雨の夜。左思が「鬱鬱」と詠いだす「詠史」の一節を思い浮かべます。

 この集歌3889の歌は相当な難訓歌なのですが、なぜか、難訓歌の中でも有名ではありません。標題で恐い歌とのジャンルを与えられていますから、歌は恐くなければいけません。この条件で「さあ、この歌を訓んでみろ」と云われると、専門家でもこの歌はなかったものにしたいようです。
 さて、歌の初句と二句目となる「人魂乃佐青有君」は、奈良時代中期に到来した四天王寺庚申堂の青面金剛童子の洒落です。「葉非」も枝は葉に非ずの洒落で、この「枝」と「左思」から「鬱鬱潤底松」で始まる漢詩「詠史」を暗示します。また、奈良時代中期以降に流行した青面金剛童子は疫病に苦しむ人々を救済するためにこの世に現れたとされています。
 歌の世界は、雨降る真夜中に一人、わずかに明かりのあるお寺の本堂で仏像とにらめっこしている風景を想像してください。ときおり、どこからするのか判らない物音や鳴き声が聞こえ、時に蝙蝠が飛ぶかもしれません。葬式で棺桶の中の死人とにらめっこをするのと、真夜中のお寺の本堂でのにらめっこと、さて、どちらの方が恐いのでしょうか。二首の歌はそれぞれ物理的な恐さ、精神的な恐さを詠う歌です。種を明かして貰えば、「ふん、なんだ、それだけか」の世界です。難訓歌とは、そのようなものと思うと、難訓歌、難訓歌と騒ぐようなものではないのかもしれません。それに、『万葉集』の成立を研究する人は、時に、『万葉集』は、最初に本体となる歌集、次にそれに附けられた標題と左注、最後に目次となる各巻の目録が、別々に付けられて完成したと考えます。つまり、本体となる歌集の編纂の後に標題を付けた人々は本体となる歌集全てを理解していましたから、奈良時代末期から平安時代中期までは、確実に『万葉集』に難訓歌なるものは存在していないことになります。

 もうちょっと。
 以下に載せる五首の歌々は難訓歌の紹介では良く紹介される歌です。これらは、使われる漢字自体は読めるのですが、その読み方をした場合、歌として落ち着きが悪いと云う歌です。そのため、難訓歌と云う範疇よりも、鑑賞者のその鑑賞深度と解釈の問題なのかもしれません。
 伝統における難訓の部分は集歌160の歌では「面智男雲」、集歌249の歌の「舟公宣」、集歌655の歌の「邑礼左變」、集歌1205の「漸々志夫乎」、集歌2033の歌の「神競者磨待無」の句と云うことになっています。

天皇(すめろぎの)崩(かむあが)りましし時の太上天皇の御(かた)りて製(つく)らしし歌二首より一首
集歌160 燃火物 取而裹而 福路庭 入澄不言八 面智男雲
訓読 燃ゆる火も取りに包みに袋には入(い)ると言はずやも面(をも)智(し)る男雲(をくも)
私訳 あの燃え盛る火とて取って包んで袋に入れると云うではないか。御姿を知っているものを。雲よ。

 集歌160の歌については、『竹取物語』との関係で、度々、紹介させていただきました。歌の世界は観月の宴で、『竹取物語』の「火鼠の皮衣」と「耀姫昇天」との場面を想定して、月の輝きを詠ったものです。

柿本朝臣人麿の羈旅(たび)の歌八首より一首
集歌249 三津埼 浪牟恐 隠江乃 舟公宣 奴嶋尓
訓読 御津し崎波を恐み隠り江の舟公(ふなきみ)し宣(の)る奴(ぬ)し島(しま)へに
私訳 住江の御津の崎よ。沖の波を尊重して隠もる入江で船頭が宣言する。奴の島へと。

 この集歌249の歌は歌の句に対する語感をどのように評価をするのかが重要です。まず、藤原定家好みではなかったのではないでしょうか。それで、語調の良い「舟なる公(きみ)は奴嶋(ぬしま)へと宣(の)る」の訓みを求めたと思われます。ただ、この語調優先のスタイルですと最後の「尓」の文字の落ち着きが悪くなります。それで難訓歌なのでしょう。一度、改変をしますと、次からは色々と提案が出て来ます。

集歌655 不念乎 思常云者 天地之 神祇毛知寒 邑礼左變
訓読 念(おも)はぬを思ふと云はば天地し神祇(かみ)も知るさむ邑(さと)し礼(いや)さへ
私訳 愛してもいないのに慕っていると云うと、天地の神々にもばれるでしょう。愛していると云うのが里の習いとしても。

 集歌655の歌もまた言葉の語感が藤原定家たちには受け入れられなかったと思われます。歌の語句も訓め、解釈が出来ても、詠いでの発声が気に食わなかったのではないでしょうか。そのため、四句目、五句目の「神祇毛知寒邑礼左變」を「かみもしらさん あれもとがめん」などと原文の文字に囚われずに歌を詠んだものと思われます。この原文の漢字に囚われないルール下、今日、多くの提案が行われています。

集歌1205 奥津梶 漸々志夫乎 欲見 吾為里乃 隠久惜毛
訓読 沖つ梶(かぢ)漸々(やくやく)強(し)ふを見まく欲(ほ)り吾がする里の隠(かく)らく惜しも
私訳 沖に向かう船の梶をようやくに流れに逆らい操る様子を見たいと思う。しかし、一方で、私が眺めたいと思う村里が浪間に隠れていくのが残念なことです。

 この集歌1205の歌もまた、集歌655の歌と同じように、歌の語句も訓め、解釈が出来ても、言葉の語感が藤原定家たちには受け入れられなかったと思われます。なお、この「漸々志夫乎」を「やくやくしふを」と訓む時、その意味は何かが難しいところです。別に「ややややしぶを」と云う訓みあるようです。

集歌2033 天漢 安川原 定而 神競者 磨待無
訓読 天つ川八湍(やす)し川原し定まりに神(かみ)し競(きそ)はば磨(まろ)し待たなく
私訳 天の八湍の川原で約束をして天照大御神と建速須佐之男命とが大切な誓約(うけひ)をされていると、それが終わるまで天の川を渡って棚機女(たなはたつめ)に逢いに行くのを待たなくてはいけませんが、年に一度、二人が出会う今宵、その出会いの場面をこの私(=人麿)は待つことが出来ません。

 この集歌2033の歌は天武九年(780)に宮中で開かれた七夕の宴で柿本人麻呂が披露した歌です。歌の世界には「安川原」の言葉がありますから、人麻呂は大空に輝く「天漢=天の川」を『古事記』に載る神話で神々が集う 「安川原=八湍の川原」と見立てています。その時、歌の世界には二組の男女が居ることに気が付き必要があります。大和言葉の「安川原」からは天照大御神と建速須佐之男命を、中国語の「天漢」からは牽牛と織姫とが見えて来ます。およそ、この歌もまた、難訓歌と云うより、鑑賞深度と解釈の問題に集約されるものではないでしょうか。再度、種を明かして貰えば、「ふん、なんだ、それだけか」の世界です。

 最後に、手前味噌ではありますが、このブログでは難訓歌は一首もありません。すべてに訓みをつけ、さらに鑑賞に堪える意訳を添えています。素人の冒険ですが、一方、それが自慢でもあります。
 ご存知のように、現在の訓読み万葉集のその訓みは平安末期から鎌倉時代に付けられた新点の訓みを尊重し、その発展形となっています。そのため、訓みの議論では、時に、新点や古点の訓みを引用して議論をします。ただ、難訓歌ではそのような読書感想文的なスタイルは取れません。やはり、『万葉集』の鑑賞の原点に立ち戻り、歌が詠われた環境、目的、使われる漢字から、歌の世界を想像し、そこから言葉を探し、楽しむ必要があります。その時、ここで紹介したように、難訓歌と云うものは無くなります。
(読書感想文的なスタイルとは、新たな仮説提案とその論理展開下での一定量以下の論文引用ではなく、仮説提案もなく、ただ、引用を主体とするものを示します)
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万葉雑記 色眼鏡 丗三 万葉集なのに漢文ですか

2013年09月07日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 丗三 万葉集なのに漢文ですか

 申し訳ありません。話題の種が尽きました。そこで、開き直りではありませんが、昔に一度、取り上げた話題をリメークして提供しようと思います。
 『万葉集』には和歌に付けられた漢文を読めなければ、その歌をきちんと解釈出来ない歌があります。最初に紹介する大伴池主が大伴家持に贈った歌四首もそうです。この歌については、このブログでは歌に表歌と裏歌とがある有名な歌として何度も取り上げていますので、「ああ、またか」です。この歌を鑑賞する時、付けられた漢文書簡の句「表裏不同、相違何異」の言葉を理解し、詠い主の池主自身を「物所貿易下吏」とし、読み手の家持を「貿易人断官司」と表現していることに注目する必要があります。そうすれば、池主と家持とが和歌で遊んでいることが、最初から判りますし、前置漢文自体が「このような遊びですよ」と告げるために付けられていることが判ります。前置漢文の説明は、この歌が、紀貫之たちが『古今和歌集』で大切にした掛け詞による歌に多重性を持たせた和歌スタイルの最初期に当たる歌であるため、それを鑑賞する人々に知って貰う必要があったためと思われます。
 さて、漢文書簡からすると、最初に遊びの歌を贈ったのは家持です。それを池主は「表裏不同、相違何異」と記し、その面白みを発見したことを宣言しています。そして、同じ趣向の歌を返すとしています。実に説明を聞けば、「ふん、なんだ」の世界です。そして、「前にも聞いたことがある。繰り返しなら、つまらない」です。

越前國掾大伴宿祢池主来贈戯謌四首
標訓 越前國の掾大伴宿祢池主の来贈(おこ)せる戯(たはぶ)れの謌四首

忽辱恩賜、驚欣已深。心中含咲、獨座稍開、表裏不同、相違何異。推量所由、率尓作策歟。明知加言、豈有他意乎。凡貿易本物、其罪不軽。正贓倍贓、宣惣并満。今、勒風雲發遣微使。早速返報、不須延廻
勝寶元年十一月十二日、物所貿易下吏
謹訴、貿易人断官司 廳下
別曰。可怜之意、不能點止。聊述四詠、准擬睡覺

標訓 忽ちに恩賜(おんし)を辱(かたじけな)くし、驚欣(きやうきん)已(すで)に深し。心の中に咲(ゑみ)を含み、獨り座りて稍(ようや)く開けば、表裏同じからず、相違何ぞ異れる。所由(ゆゑよし)を推し量るに、率(いささか)に策を作(な)せるか。明かに知りて言を加ふること、豈、他(あだ)し意(こころ)有らめや。凡そ本物と貿易(まうやく)するは、其の罪軽からず。正贓(しやうさう)倍贓(へいさう)、宣しく惣(そう)と満(みつ)とを并せむ。今、風雲を勒(ろく)して微(わず)かに使ひを發遣(つかは)す。早速(すみやか)に返報(かへりごと)して、延廻(のぶ)るべからず。
勝寶元年十一月十二日、物の貿易(まうやく)せらえし下吏(げり)
謹みて貿易の人を断る官司の廳下に訴(うつた)ふ。
別(べち)に曰す。可怜(かれい)の意(こころ)、點止(もだる)ることを能はず。聊(いささ)かに四詠を述べて、睡覺(すいかく)に准擬(なぞ)ふ。

標訳 早速に御物(=書簡)を頂き身を縮める思いで、深く驚喜しました。心の内に喜びを持ち、独り部屋に座って、早速、御物を開くと、表と裏とは(=表の意味と裏の意味)同じではありません、その相違は、どうして、違っているのでしょうか。その理由を推し量ると、何らかの秘策を為されたのでしょうか。その秘策をはっきりと知って言葉を加えることに、本意に相違することがあるのでしょうか。およそ、本物と紛い物とを替えることは、その罪は軽くはありません。不法に財を成す罪に複数の犯罪を為す罪を付加するように、よろしく、惣(=一般に、表の意味)に満(=内実、隠された意味)を併せます。今、風雲に乗せて賤しくも使いを送ります。早々に御返事なされて、遅滞はしないで下さい。
勝寶元年十一月十二日に、御物を紛い物とに替えた下吏
謹んで、本物を紛い物に替えた人を裁判する官司のもとに申し出ます。
追伸して、申し上げます。面白がる気持ちを、黙っていることが出来なくて、ささやかな四首の詩を詠い、眠気覚ましの品となぞらえます。

注意 この前置漢文の序の解釈が、一般の解釈と違います。戯れに一つの詩に表の意味と隠れた意味を持つものを、最初に家持が作って池主に贈ったと推定しています。その返書がこれと考えています。

集歌4128 久佐麻久良 多比能於伎奈等 於母保之天 波里曽多麻敝流 奴波牟物能毛賀
表歌
訓読 草枕旅の翁(おきな)と思ほして針ぞ賜へる縫はむものもが
私訳 草を枕とする苦しい旅を行く老人と思われて、針を下さった。何か、縫うものがあればよいのだが。
裏歌
試訓 草枕旅の置き女(な)と思ほして榛(はり)ぞ賜へる寝(ぬ)はむ者もが
試訳 草を枕とする苦しい旅の途中の貴方に宿に置く遊女と思われて、榛染めした新しい衣を頂いた。私と共寝をしたい人なのでしょう。

集歌4129 芳理夫久路 等利安宜麻敝尓 於吉可邊佐倍波 於能等母於能夜 宇良毛都藝多利
表歌
訓読 針袋(はりふくろ)取り上げ前に置き反さへばおのともおのや裏も継ぎたり
私訳 針の入った袋を取り出し前に置いて裏反してみると、なんとまあ、中まで縫ってある。
裏歌
試訓 針袋取り上げ前に置き返さへば己友(おのとも)己(おの)や心(うら)も継ぎたり
試訳 針の入った袋を取り出し前に置いて、お礼をすれば、友と自分との気持ちも継ぎます。

集歌4130 波利夫久路 應婢都々氣奈我良 佐刀其等邇 天良佐比安流氣騰 比等毛登賀米授
表歌
訓読 針袋(はりふくろ)帯(お)び続(つつ)けながら里ごとに照(てら)さひ歩けど人も咎(とが)めず
私訳 針の入った袋を身に付けて、里ごとに針を輝かせ自慢して歩き回わるが、誰も気に留めない。
裏歌
試訓 針袋叫(を)び続(つつ)けながら里ごとに衒(てら)さひ歩けど人も問(と)がめず
試訳 針の入った袋、売り声を叫びながら里ごとに売り歩くが、誰も呼び止めてくれない。

集歌4131 等里我奈久 安豆麻乎佐之天 布佐倍之尓 由可牟登於毛倍騰 与之母佐祢奈之
表歌
訓読 鶏(とり)が鳴く東(あづま)を指して塞(ふさ)へしに行かむと思へど由(よし)も実(さね)なし
私訳 鶏が鳴く東を目指して、針で布の穴を塞ぎに行こうと思うが、まったく、機会がありません。
裏歌
試訓 鶏(とり)が鳴く吾妻(あづま)を指して相応(ふさ)へしに行かむと思へど由(よし)も実(さね)なし
試訳 鶏が鳴く東、その言葉のひびきではないが、吾が妻に成ることを目指して、似つかわしい人(=娘女)に成ろうと思うが、手だても、その実りもない。
右謌之返報謌者、脱漏不得探求也
注訓 右の謌の返報の謌は、脱漏して探り求むるを得ず。

 では、次の歌はどうでしょうか。この歌も種を明かされば、「ふん、なんだ、たった、それだけのことか」というものです。
 この歌は「誘兵衛云開其荷葉而作」とありますから、ある人物が歌詠いで有名な右兵衛に対して、即興でお題に従った歌を作ることを求め、右兵衛がその求めに応じて作った歌です。その時の条件が「開其荷葉」です。この「開」と云う言葉が歌を鑑賞する時に重要です。「使」や「応」などの言葉ではありません。およそ、歌を鑑賞する人がこの「開」と云う言葉の意味が判らなければ、万葉時代の和歌の世界の怖さは判らないと思います。

集歌3837 久堅之 雨毛落奴可 蓮荷尓 渟在水乃 玉似将有見
訓読 ひさかたの雨も降らぬか蓮葉(はちすは)に渟(とど)まる水の玉に似る見む
私訳 遥か彼方から雨も降って来ないだろうか。蓮の葉に留まる水の玉に似たものを見たいものです。

右謌一首、傳云有右兵衛。(姓名未詳) 多能謌作之藝也。于時、府家備設酒食、饗宴府官人等。於是饌食、盛之皆用荷葉。諸人酒酣、謌舞駱驛。乃誘兵衛云開其荷葉而作。此謌者、登時應聲作斯謌也
注訓 右の謌一首は、傳へて云はく「右兵衛(うひょうえ)なるものあり(姓名は未だ詳(つばび)らならず)。 多く謌を作る藝(わざ)を能(よ)くす。時に、府家(ふか)に酒食(しゅし)を備へ設け、府(つかさ)の官人等(みやひとら)を饗宴(あへ)す。是に饌食(せんし)は、盛るに皆荷葉(はちすは)を用(もち)ちてす。諸人(もろびと)の酒(さけ)酣(たけなは)に、謌舞(かぶ)駱驛(らくえき)せり。乃ち兵衛なるものを誘ひて云はく『其の荷葉を開きて作れ』といへば、此の謌は、登時(すなはち)聲に應(こた)へて作れる、この謌なり」といへり。

注訳 右の歌一首は、伝えて云うには「右兵衛と云う人物がいた。姓名は未だに詳しくは判らない。多くに歌を作る才能に溢れていた。ある時、衛府の役宅で酒食を用意して、衛府の人達を集め宴会したことがあった。その食べ物は盛り付けるに全て蓮の葉を使用した。集まった人々は酒宴の盛りに、次ぎ次ぎと歌い踊った。その時、「右兵衛を誘って『その荷葉を開いて歌を作れ』と云うので、この歌は、すぐにその声に応えて作ったと云う歌」と云う。

 再度、確認します。歌のお題は「開其荷葉」です。漢文の直読みでは「そのハスを開け」です。宴会での酒の肴がハスの葉の上に盛られていたことから、提示されたお題です。目の前のハスの葉は広げられた葉です。さて、こうした時、お題の「開其荷葉」とは何を意味するのでしょうか。
 このように考えた時、実は、この歌は『万葉集』の中でも屈指のなぞ解きの歌なのです。そして、鑑賞において人麻呂歌集の歌を原文から知っていると云うことを求める歌でもあります。つまり、表記された歌を眺めるのと同時に詠いでの歌をも楽しむ必要がある歌なのです。ただ、詠われた歌だけを「ああだ、こうだ」と論評するような歌ではありません。
 勿体ぶりました。
 さて、この歌は左注に記されるように、当時、評判の和歌の歌い手であった衛府に勤める人物が酒宴を盛り上げるために「荷葉(ハス)」の文字を開く、つまり、文字の形を分解して歌を詠ったとありますから、この歌を鑑賞するときには表面上の口唱した歌の鑑賞だけでなく、その「なぞなぞ」に答える必要があります。
 そこで、「荷葉」の文字を開いて「廾何廾世木」(「廾」は「ソウ・サ」と訓む)として「さかさせき」と訓み、「探させき」と推理する必要があります。その「誰を探すか」と云うと、歌の表記である「久堅之雨毛落奴可」と「渟在水乃玉似将有見」の意味合いから、柿本人麻呂の挽歌の一節と天渟中原瀛真人天皇(天武天皇)を想い、亡くなられ法要される「玉」の漢字に似た「草壁王(皇子)」を探したと思われます。つまり、草壁皇子は仏として蓮葉の上にいらっしゃることになります。
 こうした時、集歌3837の歌は二重のなぞ掛けを持った万葉集でも屈指のなぞなぞ歌となり、万葉時代の風流人の中でも「多能謌作之藝」とされる人に相応しくなります。それで、巻十六に左注を付けて採録されたのでしょう。
 なお、普段の解説では左注の漢文の詞の「開其荷葉而作。此謌者、」を「関其荷葉而作歌者」の誤記とし、「その荷葉に関(か)けて歌を作れといへれば」と解釈します。つまり、歌の中に「荷葉、又は蓮荷」の言葉が有れば、それで十分、求めに応じたと解釈しての誤記説です。
 この誤記説は、結局、「開」の字での「開其荷葉而作」の文章の意味が理解できないと云うところに起因します。それで「校訂」をします。校本の訓読み万葉集だけに馴染んでいる人には、本来の漢文の文章も漢字で表記された原文の和歌も理解出来ないでしょうし、時には、そのようなものを見たことが無いかもしれません。テキストに万葉集原文を載せると云うのは、明治期以降、流行っていませんから。それで、鑑賞する当人の理解水準に合わせて万葉集を変えてしまうのも、それはそれで仕方がないのかもしれません。

 さて、「なんだ、それだけのことか」という話題での与太話はさておき、集歌3837の歌は人麻呂歌集の歌を知っていることが根底にあると説明しました。
 そこで、万葉人にとって人麻呂歌集を知っているのを前提とした歌を紹介しようと思います。最初に、また、登場しますが、池主と家持との和歌遊びでの歌です。

越前國掾大伴宿祢池主来贈謌三首
以今月十四日、到来深見村、望拜彼北方。常念芳徳、何日能休。兼以隣近、忽増戀。加以先書云、暮春可惜、促膝未期。生別悲号、 夫復何言。臨紙悽断。奉状不備
三月一五日、大伴宿祢池主

標訓 越前國の掾大伴宿祢池主の来贈(おこ)せる謌三首
今月十四日を以ちて、深見村に到来(いた)り、彼の北の方を望拜(のぞ)む。常に芳徳を念ひ、何(いづれ)の日に能く休まむ。兼ねて隣近なるを以ちて、忽ちに戀を増す。加へて以ちて先の書に云はく「暮春は惜しむべし。膝を促(うな)がすを未だ期せず」といふ。生別の悲しびを号(な)き、 夫れ復(また)何すとか言はむ。紙に臨みて悽断す。状を奉じること不備。
三月一五日に、大伴宿祢池主

標注 越前國の掾大伴宿祢池主が贈り寄こす謌三首
今月十四日に深見村に行き、その北の方を眺めました。いつも貴方の芳徳を念い、どのような日にどうして貴方へ寄せる尊敬の念を休めることがあるでしょうか。以前より任官の地が隣近であることから、いつも尊敬する気持ちを持っています。それに加えて、先の書に述べられるには「暮春の風情は名残惜しいもので、貴方と共に風景を楽しむことを果たしていない」とあります。貴方にお会えできないことを悲しんで嘆き、 そして、それをどのように表しましょうか。紙に向かって悲しみが極まります。便りを差し上げる、その内容が上手ではありません。
三月一五日に、大伴宿祢池主

一 古人云
標訓 一、古(いにしへ)の人が云ふには
集歌4073 都奇見礼婆 於奈自久尓奈里 夜麻許曽婆 伎美我安多里乎 敝太弖多里家礼
訓読 月見れば同じ国なり山こそば君が辺(あたり)を隔(へだ)てたりけれ
私訳 月を眺めると同じ国です。でも、山が、貴方との間を隔てています。
注意 古の人とは柿本人麻呂のことです。
参考歌
集歌2420 月見 國同 山隔 愛妹 隔有鴨
訓読 月し見ば国し同じぞ山へなり愛(うつく)し妹し隔(へな)りたるかも
私訳 月を見るとお互いに住む国は一緒ですが、山が隔てているので愛しい貴女との間に心の隔たりがあるのでしょうか。

一 属物發思
標訓 一、物に属(つ)きて思(おもひ)を發(おこ)せる
集歌4074 櫻花 今曽盛等 雖人云 我佐不之毛 支美止之不在者
訓読 桜花今ぞ盛りと人は云へど我寂ししも君としあらねば
私訳 桜花は、今が盛りと人は云ひますが、私は寂しく思う。貴方と一緒でないので。

一 所心謌
標訓 一、所心(しょしん)の謌
集歌4075 安必意毛波受 安流良牟伎美乎 安夜思苦毛 奈氣伎和多流香 比登能等布麻泥
訓読 相(あひ)念(おも)はずあるらむ君をあやしくも嘆(なげ)きわたるか人の問ふまで
私訳 私がお慕しするほどには心を留めて頂けない貴方を、私は不思議なほどに嘆き続けるのでしょうか。人がいぶかしむほどに。

越中國守大伴家持報贈謌四首
標訓 越中國の守大伴家持の報(こた)へ贈りたる謌四首
一 答古人云
標訓 一、古の人の云へるに答へる
集歌4076 安之比奇能 夜麻波奈久毛我 都奇見礼婆 於奈自伎佐刀乎 許己呂敝太底都
訓読 あしひきの山はなくもが月見れば同じき里を情(こころ)隔(へだ)てつ
私訳 足を引くような険しい山はないのがよい。月を眺めると同じ里だと思うのに、山が心を隔ててしまっている。
注意 集歌4073の歌は人麻呂の集歌2420の歌の一部を変えたものですが、集歌4076の歌はその人麻呂の集歌2420の歌の歌意に沿って応歌としています。
参考歌(再掲)
集歌2420 月見 國同 山隔 愛妹 隔有鴨
訓読 月し見ば国し同じぞ山へなり愛(うつく)し妹し隔(へな)りたるかも
私訳 月を見るとお互いに住む国は一緒ですが、山が隔てているので愛しい貴女との間に心の隔たりがあるのでしょうか。

一 答属目發思、兼詠云遷住舊宅西北隅櫻樹
標訓 一、目に属(つ)けて思(おもひ)を發(おこ)せるに答へ、兼ねて遷り住みたる舊(ふる)き宅(いへ)の西北の隅の櫻樹を詠みて云へる
集歌4077 和我勢故我 布流伎可吉都能 佐具良婆奈 伊麻太敷布賣利 比等目見尓許祢
訓読 吾が背子が古き垣内(かきつ)の桜花いまだ含めり一目見に来ね
私訳 私の大切な貴方よ、古い垣の内にある桜花は、未だ、つぼみです。一目、見に来て下さい。

一 答所心、即以古人之跡、代今日之意
標訓 一、所心(しょしん)に答へ、即ち古の人の跡を以ちて、今日の意に代へたる
集歌4078 故敷等伊布波 衣毛名豆氣多理 伊布須敝能 多豆伎母奈吉波 安賀未奈里家利
訓読 恋ふと云ふはえも名付けたり云ふすべのたづきもなきは吾(あ)が身なりけり
私訳 「恋ふ」という言葉は、よくぞ、名付けたものです。それ以外に表す言葉もないのは、かえって、私の身の方です。
注意 標に「即以古人之跡」とありますので、集歌4073の歌の例から人麻呂の歌から次の歌を想像してみました。
参考歌
集歌2388 立座 態不知雖唯念 妹不告 間使不来
訓読 立ちし坐(ゐ)したづきも知らず思へども妹し告げねば間使(まつかひ)し来(こ)ず
私訳 立っていても座っていてもこの恋心を表すことの方法を知らず、貴女を慕っていても貴女にそれを告げなくては、貴女から便りの使いも来ません。

一 更矚目
標訓 一、更に目に矚(つ)ける
集歌4079 美之麻野尓 可須美多奈妣伎 之可須我尓 伎乃敷毛家布毛 由伎波敷里都追
訓読 三島野(みしまの)に霞たなびきしかすがに昨日(きのふ)も今日(けふ)も雪は降りつつ
私訳 三島野に霞がたなびくが、それでも、昨日も今日も雪が降っている。

 池主が「この歌の元歌、知っているよね」って歌を詠えば、家持は「こんな歌だろ」って感じで元歌をもじって歌を返しています。このように二人の間では人麻呂歌集は教養です。ただし、引用するのは恋の相聞歌です。奈良時代の貴族階級では人麻呂歌集の恋の相聞を知らないと、女の子とHも出来なかったのかもしれません。もし、そうですと、男は必死で歌を覚え、女の子の許へと歌を贈ります。
 なるほど、家持は万葉集を編纂した人物だから、知っていて当然だと思われるかもしれません。では、次に紹介する歌はどうでしょう。これは、下級の役人が宴会で詠った歌と推定される歌です。ここでは、少し、人麻呂歌集のことをひねっています。

集歌3858 比来之 吾戀力 記集 功尓申者 五位乃冠
訓読 このころし吾(あ)が恋(こひ)力(つとめ)記(しる)し集め功(くう)に申(まを)さば五位の冠(かがふり)
私訳 近頃の私の恋の努力を記録して書に集めて、それを功績として申請したら、柿本人麻呂と同じように五位の大夫の冠の位です。

集歌3859 項者之 吾戀力 不給者 京兆尓 出而将訴
訓読 おほいなる吾(あ)が恋(こひ)力(つとめ)賜(たは)らずは京(みさと)兆(づかさ)に出(い)に訴(うるた)へむ
私訳 人麻呂に匹敵するような大変な私の恋の努力に対して褒美を貴女から頂けないなら、奈良の都の役所にきっと出かけて行って訴えますよ。
右謌二首
注訓 右は謌二首

 これはどこかでの宴会で、余興として和歌のお題を出され、それに答えた歌と思われます。そのお題とは「吾が戀の力」と「司」です。この全く関係がなさそうな二つのお題で歌を詠ったのが歌人の技と思います。
 さて、先に「荷葉を開く歌」でも説明しましたが、奈良時代に和歌集と云えば人麻呂歌集と思うぐらいに有名なものだったと思われます。特に、恋歌を詠う場合は、笠女郎が大伴家持に詠いかけたように歌を詠う男女は、必須に知っていなければいけないような物だったようです。それで、集歌3858の歌で、恋歌を集めて歌集にすれば柿本人麻呂と同じと詠ったと思います。
 集歌3859の歌は、集歌3858の歌に対する洒落です。「項」の字には「冠の後部」を示すとともに「おおいなり、おおきい」の意味がありますから、「五位の冠より後ろ」に位置している意味と「おおいなり」の意味を同時に持たしていると思われます。素人には難しい、日常的に漢語・漢文で仕事をする人々が詠う漢語の大和歌の世界です。

 当時の貴族の男たちが女の子にHをさせてとお願いする時の、必須のものが和歌です。奈良の時代、携帯もありませんし、それに日常の言葉や会話を文章として表記する方法も発明されていませんからラブレターを書くと云う事も出来ません。出来る手段は、家来に命じて家来に口説かせるか、相手に和歌を贈り口説くしか、手段はありませんでした。この風景は源氏物語で光源氏が見せる姿と同じですので、和歌は重要な会話手段です。
 そうした時、恋のお手本となる和歌集が奈良時代にはありました。それが、人麻呂歌集に載る恋の相聞です。この人麻呂歌集には初恋の段階から激しいHをするような関係まで、すべての段階の歌が含まれていますから、恋の参考書にはもってこいです。このためか、当時の貴族での教養になったようです。
 参考に笠女郎の本歌取りの歌とその本歌を紹介します。

笠女郎の歌
集歌593 君尓戀 痛毛為便無見 楢山之 小松之下尓 立嘆鴨
訓読 君に恋ひ甚(いた)も便(すべ)なみ平山(ならやま)の小松が下(した)に立ち嘆くかも
私訳 貴方に恋い慕ってもどうしようもありません。(人麻呂が詠う集歌2487の歌のように)平山に生える小松の下で立ち嘆くでしょう。
参考歌 人麻呂歌集より
集歌2487 平山 子松末 有廉叙波 我思妹 不相止看
訓読 奈良山し小松し末(うれ)しうれむそは我が思(も)ふ妹に逢はず看(み)む止(や)む
私訳 奈良山の小松の末(うれ=若芽)、その言葉のひびきではないが、うれむそは(どうしてまあ)、成長した貴女、そのような私が恋い慕う貴女に逢えないし、姿をながめることも出来なくなってしまった。

笠女郎の歌
集歌603 念西 死為物尓 有麻世波 千遍曽吾者 死變益
訓読 念(おも)ふにし死にするものにあらませば千遍(ちたび)ぞ吾は死に返(かへ)らまし
私訳 (人麻呂に愛された隠れ妻が詠うように)閨で貴方に抱かれて死ぬような思いをすることがあるのならば、千遍でも私は死んで生き返りましょう。
参考歌 人麻呂歌集より
集歌2390 戀為 死為物 有 我身千遍 死反
訓読 恋ひしせし死(し)ぬせしものしあらませば我が身し千遍(ちたび)死にかへらまし
私訳 貴方に抱かれる恋の行いをして、そのために死ぬのでしたら、私の体は千遍も死んで生き還りましょう。

笠女郎の歌
集歌604 劔太刀 身尓取副常 夢見津 何如之恠曽毛 君尓相為
訓読 剣(つるぎ)太刀(たち)身(み)に取り副(そ)ふと夢(いめ)に見つ如何(いか)なる怪(け)そも君に相(あ)はむため
私訳 (人麻呂に抱かれた隠れ妻が詠うように)貴方が身につける剣や太刀を受け取って褥の横に置くことを夢に見ました。この夢はどうしたことでしょうか。貴方に会いたいためでしょうか。
参考歌 人麻呂歌集より
集歌2498 釼刀 諸刃利 足踏 死ゞ 公依
訓読 剣太刀(つるぎたち)諸刃(もろは)し利(と)きに足踏みて死なば死なむよ君し依(よ)りては
私訳 貴方が常に身に帯びる剣や太刀の諸刃の鋭い刃に足が触れる、そのように貴方の“もの”でこの身が貫かれ、恋の営みに死ぬのなら死にましょう。貴方のお側に寄り添ったためなら。


 和歌の進化の歴史や時代背景を想像して、漢文を眺め、和歌を鑑賞しますと、今まで解説されていた歌の鑑賞とは違った世界もありますし、別の漢文の解釈があります。
 それに一番は、過去から現代に伝わった古典の原文を「校訂」と云う名で、原文自体を変更すると云う行為をしなくて済みます。
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