竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉集 枕詞「押し照る」を鑑賞する

2011年03月10日 | 万葉集 雑記
万葉集 枕詞「押し照る」を鑑賞する

 少し風変りですが、難波の枕詞として有名な「押し照る」に焦点を合わせて、万葉集の短歌を鑑賞してみました。
ここで、この難波の枕詞とされる「押し照る」の言葉の意味合いを良く示しているとされるのが次の歌です。

五年癸酉、超草香山時、神社忌寸老麿作哥二首
標訓 (天平)五年癸酉、草香山を超(こ)へし時に、神社忌寸(かむこそのいみき)老麻呂(をゆまろ)の作れる謌二首
集歌976 難波方 潮干乃奈凝 委曲見 在家妹之 待将問多米
訓読 難波(なには)潟(かた)潮干(しほひ)の余波(なごり)よく見む家なる妹し待ち問はむため
私訳 難波の潟の潮干のなごりの姿を良く見ていこう。家に居る妻が私の帰りを待って旅の様子を聞くだろう、そのために。

集歌977 直超乃 此徑尓師弖 押照哉 難波乃跡 名附家良思裳
訓読 直(ただ)超(こ)へのこの道にして押し照るや難波(なには)の跡(たづ)と名付けけらしも
私訳 真っ直ぐに生駒の山並みを越えて来るこの道の景色であるから、太陽が力強く照り輝く場所としての「押し照るや、難波」の詞が伝承として名付けられたのでしょう。

 確認しますと、万葉集の歌で有名な枕詞の一つに「押し照る」があり、この「押し照る」の詞は「難波」の地を美辞する言葉となっています。ただ、歌の専門家の人たちは「押し照る」の詞を枕詞として扱い、特にその詞の意味に注目することは少ないようです。こうした時、素人の好奇心で万葉集の歌を眺めていますと、その「押し照る」の詞が「難波」の地を美辞する言葉となった由来を詠った歌を見つけることが出来ます。それが、先に紹介しました渡来系の人物と思われる神社忌寸老麿が詠う集歌977の歌です。
 この集歌977の歌は、奈良の京から生駒山系を越えたときに、峠を越えた瞬間、開けた視界に飛び込んできた難波の景色を詠ったもので、歌は目撃した風景から「押し照る」の詞の由来を実感して創られたものです。つまり、集歌977の歌を正しく鑑賞することが、万葉人が詠う「押し照る難波」を理解することになるようです。ここで、集歌977の歌の万葉集に載る順を信じると、歌は天平五年に詠われたものでしょうし、常体歌の形式で表記されていますから、集歌977の歌に使われる漢字には万葉仮名とするだけではなく、漢字本来の意味を持たしていると推定する必要があります。
 西本願寺本に載る原文での集歌977の歌を鑑賞する前に、集歌977の歌は普段の訓読み万葉集では「直超乃此徑尓弖師押照哉難波乃海跡名附家良思裳」と表記して、

体系 直超乃 此徑尓弖師 押照哉 難波乃海跡 名附家良思裳
訓読 直(ただ)超(こ)への この道にてし 押し照るや 難波の海と 名付けけらしも

と訓みます。このため原文表記の相違から歌自体の解釈が西本願寺本のものとは少し違ったものになっています。この歌の原文表記の違いを確認して、素人ですが先に紹介した西本願寺本のものを下に歌を鑑賞します。
 さて、飛鳥・奈良時代の難波の海は、生駒山系の峠からは近かったと云います。歌の景色は、大和盆地から峠を越えた途端に眼前に太陽の光を照り返す海が広がり、上空には輝く太陽がある世界でしょうか。漢語の「押」には上下から重みを加えると云う意味がありますから、光を中心に考えると老麿が詠うように「押し照る」の詞が実に相応しくなります。枕詞として処理するには、もったいないくらいに美しい光の情景です。
 つまり、集歌976の歌と集歌977の歌とを総合すると、歌の世界は、難波の潟は、夏の潮が引き切ったが、所々の干潟の砂に水気が残り、鏡のように光を照り返していて、難波の海にはさざ波が立ちキラキラと光を反射している、そんな情景でしょうか。思い込みで、梅雨の明けた季節で太陽は白く輝く午後二時から三時頃の時間帯の歌です。都人にとって奈良盆地から難波に出かけて行くときに日下(くさか)の峠で見る感動です(「日下」の用字も、この風景が背景なのでしょう)。その感動が、漢字表記の「押照」にストレートに表現されています。ここでは「押照」と云う詞は、枕詞ではなく感動を端的に示す形容詞です。体験する、この光の美の世界を味わうのが万葉歌人なのでしょう。
 この光の美を表す「押照」と云う詞は集歌977の歌以外に、長歌や短歌でそれぞれ数首ありますが、ここでは、短歌だけを以下に紹介します。拙い訳ですが、歌の情景を想像して頂ければ幸いです。

集歌2135 押照 難波穿江之 葦邊者 鴈宿有疑 霜乃零尓
訓読 押して照る難波(なには)堀江し葦辺(あしへ)には雁寝(ね)たるかも霜の降らくに
私訳 海がきらめき日が輝く難波の堀江の葦の生える岸辺では雁が寝ているでしょうか。霜が降るのに。

集歌4361 櫻花 伊麻佐可里奈里 難波乃海 於之弖流宮尓 伎許之賣須奈倍
訓読 桜花今盛りなり難波の海押し照る宮に聞こしめすなへ
私訳 桜花は今が盛りです。難波の海、その海がきらめき日が輝く宮で統治なられるにつれて。

集歌4365 於之弖流夜 奈尓波能津与利 布奈与曽比 阿例波許藝奴等 伊母尓都岐許曽
訓読 押し照るや難波の津より船装ひ吾(あれ)は榜(こ)ぎぬと妹に告ぎこそ
私訳 海がきらめき日が輝く、その難波の湊から船を艤装して私は出航したと愛しい貴女に告げてほしい。

 ここで、「押照難波」の詞の示す光の美の世界を思い浮かべたとき、次の「押而照有此月」や「月押照有」の光の美の世界が判りやすいと思います。雨上がりの澄み切った夜に満月が昇り、大地をひかり輝かせる。そのような世界でしょうか。そこは、煌々と白く輝く月が作る夜の光の世界です。

集歌1074 春日山 押而照有 此月者 妹之庭母 清有家里
訓読 春日山押しに照らせるこの月は妹し庭にも清(さや)けかりけり
私訳 春日山を明るく輝かせ照らすこの月は、愛しい貴女の庭にもひかり清らかなことでした。

集歌1480 我屋戸尓 月押照有 霍公鳥 心有今夜 来鳴令響
訓読 我が屋戸(やと)に月おし照れり霍公鳥心あれ今夜来鳴き響(とよ)もせ
私訳 私の家を月が明るく輝かせて煌々と照らす。ホトトギスよ、風流の心を持て。今夜はその声を、来啼き響かせよ。

 さて、枕詞「押し照る」に焦点を合わせて万葉集の短歌を鑑賞するにおいて、例によって、紹介する歌は西本願寺本の表記に従っています。そのため、原文表記や訓読みに普段の「訓読み万葉集」と相違するものもありますが、それは採用する原文表記の違いと素人の無知に由来します。また、勉学に勤しむ学生の御方にお願いですが、ここでは原文、訓読み、それに現代語訳や解説があり、それなりの体裁はしていますが、正統な学問からすると紹介するものは全くの「与太話」であることを、ご了解ください。 つまり、コピペには全く向きません。あくまでも、大人の楽しみでの与太話であって、学問ではないことを承知願います。

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万葉集 鮒と鰒を鑑賞する

2011年03月07日 | 万葉集 雑記
万葉集 鮒と鰒を鑑賞する

 万葉集に載る鮒と鰒の歌を鑑賞しますが、例によって、紹介する歌は、原則として西本願寺本の原文の表記に従っています。そのため、紹介する原文表記や訓読みに普段の「訓読み万葉集」と相違するものもありますが、それは採用する原文表記の違いと素人の無知に由来します。また、勉学に勤しむ学生の御方にお願いですが、ここでは原文、訓読み、それに現代語訳や一部に解説があり、それなりの体裁はしていますが、正統な学問からすると紹介するものは全くの「与太話」であることを、ご了解ください。つまり、コピペには全く向きません。あくまでも、大人の楽しみでの与太話で、学問ではありません。そして、特に今回は「経験豊かな成人」を前提にした与太話であることを了承願います。

 最初に、万葉集に載る鮒と鰒の歌を鑑賞する前に大人の与太話を紹介します。この大人の与太話が、歌の鑑賞の前提であることをご了解ください。その与太話からの「呆訳」です。
 さて、唐突ですが隠語の話をしてみたいと思います。古い言葉ですが「岐神」と記して日本書紀に、その訓みが「此云、布那斗能加微」と記されるように「フナドノカミ」と訓みます。また、古事記ではこの岐神のことを衝立船戸神(ツキタツフナドノカミ)と紹介します。この岐神は、平安時代以降からか道教の庚申・道祖神信仰と結びついて本来は大和神の「塞之大神」や「道反大神」が担っていた役割を肩代わりさせられ、地域の境界を守る御塞神(オサイジン)として解釈されるようになりました。そのためでしょうか、現在の解説では、この「塞之大神」や「道反大神」の役割や道祖神との習合を下にして岐神を説明するのが過半と思います。
 ところが、どうも大和の民にとって本来の岐神とは、日本書紀の一書に紹介される「是謂岐神、此本号曰来名戸之祖神焉」の「来名戸之祖神(クナトノオヤカミ)」であって、勃起した男性器や男性が性交することを顕わす神であったようです。そのためでしょうか、この本来の姿である岐神に対してでしょうか、陰陽物や陽物を奉納する風習が全国各地に残っています。また、子宝授受や夫婦和合を願う時の神とされています。その風習の一例として扶桑略記の天慶二年の項目には、「臍下腰底刻繪陰陽、・・・、号曰岐神。又稱御霊」と紹介されています。
 つまり、古代から中世の知識者には、漢字表記での「岐神」の詞を仲介して「フナトノカミ」と「クナトノカミ」とが、その役割とともに認識されていたと思います。隠語が隠語として成り立つには創り手と読み手との間に共通の認識が必要でしょうから、この岐神について「フナト」と「クナト」の文字遊びは成り立つと思います。
 飛躍ですが、これを前提に「鮒(フナ)」の字音から、引用する文脈において「フナト」の言葉のイメージが起き、さらにその「フナト」の漢字表記である「岐神」から「クナト」へのイメージ(勃起した男根)は浮かぶとの推定を取ります。ここが素人の素人たる特権です。
 次に、万葉集では海上沖合を示す言葉としての「オクヘ」は「奥邊」や「奥部」と記述するのが一般的ですが、万葉集の中で「奥弊」や「奥敝」と特殊な用字をした歌がそれぞれ一首あります。ここで、漢辞海からその解説を恣意的に引用しますと、この「弊」と「敝」の漢字には

弊;破れる、疲労する、疲れる、隠す、前に倒す。また、弊は蔽に通じる
敝;破れる、疲労する、疲れる、隠す。また、敝は弊に通じる

のような意味合いを取ることが出来ます。つまり、成熟した男女の関係を前提にしたときに「奥弊」や「奥敝」の漢字表記からは男女の関係において、その文脈によっては奥まった場所にある蔽われた閨での性交の情景をイメージすることも可能になります。逆に男女を詠う集歌625の歌の「奥弊徃」や集歌72の歌の「玉藻苅奥敝」の詞には隠語的な用法での「弊」と「敝」の用字を敢えて行ったのではないかと推定することも可能とする立場です。飛躍ですが「淫」や「陰」の漢字が持つイメージの感覚です。
 その「鮒」と「弊」との用字が共に使われているのが、つぎの高安王が詠う集歌625の歌です。当然、「訓読み万葉集」と「漢語と万葉仮名」で記された万葉集とでは、鑑賞する世界は違います。


高安王裹鮒贈娘子謌一首  高安王者後賜姓大原真人氏
標訓 高安王の裹(つつ)める鮒を娘子(をとめ)に贈れる謌一首  高安王は、後に姓(かばね)大原真人の氏(うぢ)を賜へり
集歌625 奥弊徃 邊去伊麻夜 為妹 吾漁有 藻臥束鮒
訓読 沖辺(おくへ)往(い)き辺(へ)を去(い)き今や妹がため吾が漁(すなど)れし藻(も)臥(ふ)し束鮒(つかふな)

私訳 池の沖に出たり岸辺を行ったりして、たった今、愛しい貴女のために私が捕まえた藻の間に隠れていた一握り程の大きさの鮒です。
呆訳 奥の閨へとやって来た、今夜は私の女となった愛しい貴女のために私が捜し求めました。それが貴女の美しい柔毛のところで貴女がしっかりと握っているこの男根です。


 この歌は、宴に招かれた女性に今夜は泊って行きませんかと云うような謎かけの歌とも取れますが、感覚で、くだけた宴での、その宴に出席している女性たちへ墨書して示す猥歌でしょう。この謎かけを理解して「応応」と答えれば、それが飛鳥・奈良時代の「清々し」と表現される女性の心意気を示すと思われます。
 これだけの謎かけの歌ですから宴に参加する娘子達からの答歌があっても良いと思います。そうした時、万葉集ではひとつ置いて次のような歌があります。ここで、集歌625の歌が宴での猥歌と推定した上で、それぞれの歌の標を一旦脇に置きますと、集歌625、集歌627と集歌628の歌は連続した宴での歌と解釈が出来ます。すると、普段の解説では集歌627と集歌628の歌とのそれぞれの「戀」の字を「変」の誤字として解釈していますが、そのような誤字説を採る必要性はなくなります。つまり、これらの歌は宴で出された肴の干物の鮒から詠いだされた集歌625の歌に隠された意味である貴女を抱きたいとの意を汲んで、娘女が詠う「鮒と鯉」との言葉遊びと「(鮒)戀水」の意味合いを許にした戯れの相聞として鑑賞することが可能になります。当然、猥歌では「鮒」が生きの良い男根なら「水」は女性の潤いです。


娘子報贈佐伯宿祢赤麿謌一首
標訓 娘子(をとめ)の佐伯宿祢赤麿に報(こた)へ贈れる謌一首
集歌627 吾手本 将巻跡念牟 大夫者 戀水定 白髪生二有
訓読 吾が手本(たもと)纏(ま)かむと念(おも)はむ大夫(ますらを)は恋(こ)ふ水(みづ)定め白髪生(お)ひにけり

私訳 私を抱きたいと強く思う立派な男子は、その干乾びた鮒が求める水辺(潤いの主)を決めて下さい。愚図愚図してるうちに、お二人の立派な男子の髪には白い髪が生えしまいましたよ。


佐伯宿祢赤麿和謌一首
標訓 佐伯宿祢赤麿の和(こた)へたる謌一首
集歌628 白髪生流 事者不念 戀水者 鹿煮藻闕二毛 求而将行
訓読 白髪生(お)ふる事(こと)は念(おも)はず恋(こ)ふ水(みづ)はかにもかくにも求めて行かむ

私訳 白髪が生えたことは思いもしませんでした。干乾びた鮒が求めるその水辺(潤い)を、とにもかくにも乞い求めて貴女の尋ねて行きましょう。


参考に一つ飛ばしました集歌626の歌を、次に紹介します。

八代女王獻天皇謌一首
標訓 八代(やしろの)女王(おほきみ)の天皇(すめらみこと)に獻(たてまつ)れる謌一首
集歌626 君尓因 言之繁乎 古郷之 明日香乃河尓 潔身為尓去
一尾云、龍田超 三津之濱邊尓 潔身四二由久
訓読 君により言(こと)の繁きを古郷(ふるさと)の明日香の川に潔身(みそぎ)しに行く
一尾(あるび)に云はく、龍田越え御津の浜辺にみそぎしに行く

私訳 貴方へのために、数々の恋の誓いをしました。故郷の明日香にある川に心を清めるために禊ぎをしに行きます。
或る尾句に云うには「龍田の山を越え、難波の御津の浜辺に禊ぎをしに行く」と。


 ここで、集歌626の歌が詠われた宴で、その宴に列席する男性の多くが明日香で生まれた人々ですと、歌意には鮒が取れた明日香の川に女性が素肌の下半身を沈め、今も元気に泳ぐ鮒に身を曝す意味合いも現れて来ます。ただ、上品過ぎて集歌625の歌の答歌にはなりません。やはり、集歌627の歌の方が面白いとして鑑賞しました。

 次にもう一つ、特別に「敝」の用字を使った式部卿藤原宇合が詠う「奥敝」の言葉が載る集歌72の歌を紹介します。この歌は、伝承では慶雲三年の文武天皇の難波宮への御幸の折りに、十三歳であった藤原馬養(宇合)に夜伽の女性があてがわれ、その翌朝に年少の馬養がその情景を詠ったものとされています。
 この歌には夜伽の女性に後朝として歌を贈ったものと云うより、からかいで昨夜の首尾を聞く大人たちへの答歌の感覚があります。この歌の背景の伝承と用字からの呆訳です。

集歌72 玉藻苅 奥敝波不榜 敷妙乃 枕之邊 忘可祢津藻
訓読 玉藻刈る沖辺(おきへ)は漕がじ敷妙の枕の辺(あたり)忘れかねつも
意訳 玉藻を刈るからとて沖遠くは舟を出すまい。敷妙の枕を交わした人が忘れられないものを。
呆訳 美人の柔毛を別け奥の閨ですることは疲れ果てもう出来ません。褥を敷いて待っていた美しい枕もとのあの人が忘れられないでしょう。
右一首式部卿藤原宇合
注訓 右の一首は、式部卿藤原宇合


 これから紹介する次の集歌327の歌は年増の宮中女官が女犯禁制の僧侶をからかうことに対して、僧侶からの軽い皮肉を込めた答歌として有名な歌です。ここで鰒は古来より女隠を顕わす言葉であることがミソです。なお、標の「賜」の用字から「或娘子等」は女性ですが通觀僧より身分は上ですから、宮中の女官であることが推測されます。
 なお、干鮑は神餞や饗宴での饌食の食材ですから、僧侶に贈答すること自体は特別に奇異なことでも淫靡な意味合いがあるわけではありません。そこから集歌327の歌が詠われる「特別な前提」が宮中女官と僧侶との間にあったと思われます。それで標での「戯請通觀僧之咒願」の「戯」の言葉の意味が出てきます。


或娘子等賜裹乾鰒戯請通觀僧之咒願時通觀作歌一首
標訓 或(あ)る娘子等(をとめら)の、裹(つつ)める乾鰒(ほしあはび)を賜りて戯(たわむ)れに通觀(つうかん)僧(ほふし)の咒願(しゅがん)を請(こ)ひし時に、通觀の作れる歌一首
集歌327 海若之 奥尓持行而 雖放 宇礼牟曽此之 将死還生
訓読 海神(わたつみ)の沖に持ち行きて放(は)つともうれむぞこれがよみがへりなむ

私訳 生まれ故郷の海神が宿る沖合い遥かに持っていって海に放ち放生回向をしたとしても、どうして乾鰒が生き返るでしょうか。
呆訳 貴女方が昔に還って元のようにと回向をして願ったとしても、乾ききった干鰒のような年老い涸れた女陰を若返らすことは出来ません。


 参考に食べる鰒(鮑)を詠う歌が催馬楽(さいばら)に「我家」と云う曲名であります。歌の隠れた意味合いにおいて、鮑と栄螺は形で示し、ウニは海胆や海栗でなくあえて「石陰子」の漢字表記で示したと理解するのが良いようです。それで、私の三人の娘は抱き心地が良いから、その内の一人の娘の夫になってくれとの歌の意味が出てきます。これも奈良時代、天平十三年の恭仁遷都頃の曲とされています。

わいへは とばり帳(ちょう)も たれたるを 我家は 帷帳も 垂れたるを
おほきみきませ むこにせむ 大君来ませ 聟にせむ
みさかなに なによけむ 御肴に 何よけむ
あはびさだをか かせよけむ 鮑栄螺か 石陰子よけむ
あはびさだをか かせよけむ 鮑栄螺か 石陰子よけむ


集歌3828の歌は「鮒」の言葉からの勢いでの呆訳です。単なる実験としてご笑納ください。

詠香塔厠屎鮒奴謌
標訓 香、塔、厠、屎、鮒、奴(やつこ)を詠める歌
集歌3828 香塗流 塔尓莫依 川隈乃 屎鮒喫有 痛女奴
訓読 香(こり)塗(ぬ)れる塔(たふ)にな寄りそ川隈(かはくま)の屎鮒(くそふな)食(は)めるいたき女(め)奴(やつこ)

私訳 好い匂いのする香を塗った貴い仏塔には近寄るな。川の曲がりにある厠から流れる屎を餌に育った鮒を食べた臭いがきつい女の召使よ。
呆訳 良い女と同衾する、その立派な男の持ち物にその手で触れるな。川の曲りのところで、どうしようもない男の男根を堪能したとんでもない女よ。

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万葉集 古本を鑑賞する

2011年03月05日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集
万葉集 古本を鑑賞する

 西本願寺本の万葉集には、その伝わる万葉集の編集又は校本を行ったときに、舊本(旧本)または古本と呼ばれる底本を参照したと注釈を入れている箇所が四か所あります。表記は違いますが、ここでは舊本(旧本)と古本は同じ書籍を示すものとして考えます。(以下、「古本」と呼びます)
 その古本に関する注釈を紹介しますと、それぞれの歌で次のような漢文表記となっています。

集歌15   今案不似反謌也。但、舊本以此謌載於反謌。故今猶載此次
集歌19   今案不似和謌。但、舊本載于此次。故以猶載焉
集歌227  作者未詳。但、古本以此歌載於此次也
集歌3257  但、依古本亦累載茲

 最初に集歌15の歌に注目しますと、その左注に「今案不似反謌也。但、舊本以此謌載於反謌。故今猶載此次」とあるように、校注者が「歌意が反歌として本題となる長歌の歌意にそぐわないが、底本となる古本では反歌としてこの順に記してあるので、変えることなくそのままに記載した」としています。他の歌も概訳しますと「評論すると歌の位置や歌意に問題があるが、敢えて底本となる古本の順に従った」とあります。
 また、巻十三の集歌3257の歌の左注には「具見下也」ともあり、この「見下」とは同じ巻十三の集歌3318の歌のことを示しますから、底本となる古本には少なくとも集歌3255から集歌3257の歌までの三首と集歌3318から集歌3322の歌までの五首は載っていたと思われます。このように見ていきますと、現在に伝わる「万葉集」の名を持つ万葉集に先行して、「古本」の名をもつ原万葉集の歌集があったと思うのが自然ではないでしょうか。そこで、現在の「万葉集」先行する「原万葉集」には、つぎのような歌々が採歌されていたとして、その歌々を鑑賞して見ました。
 なお、古本に載る歌を鑑賞しますが、例によって、紹介する歌は、原則として西本願寺本の原文の表記に従っています。そのため、紹介する原文表記や訓読みに普段の「訓読み万葉集」と相違するものもありますが、それは採用する原文表記の違いと素人の無知に由来します。また、勉学に勤しむ学生の御方にお願いですが、ここでは原文、訓読み、それに現代語訳や一部に解説があり、それなりの体裁はしていますが、正統な学問からすると紹介するものは全くの「与太話」であることを、ご了解ください。つまり、コピペには全く向きません。あくまでも、大人の楽しみでの与太話で、学問ではありません。


中大兄 三山謌
 集歌13の歌は、不思議な歌です。標にある「中大兄」は建前では天智天皇のこととなっています。古くから議論があるようですが、さて、この「大兄」なる言葉は天皇や皇太子を示す高度な敬称でしょうか。そこで、この「大兄」なる言葉が敬称になるかどうかを日本書紀を調べますと、継体天皇の御子に勾大兄皇子、欽明天皇の御子に箭田珠勝大兄皇子、敏達天皇の御子に押坂彦人大兄皇子、舒明天皇の御子に古人大兄皇子がいらっしゃいますが、基本的に後に天皇となる人物や皇太子に準ずる人物には「大兄皇子」の敬称で呼ばれていることが判ります。つまり、標に示す「大兄」なる言葉は、男子の最初の子を表すような順番を示す言葉で「皇子」のような敬称ではないようです。
 では、呼び捨てにされるこの「中大兄」なる人物は、万葉集の中ではどのような人物なのでしょうか。また、もし「中大兄」なる人物が天智天皇を示すのなら、なぜ、この歌だけで天智天皇を呼び捨てにする必要があったのでしょうか。

中大兄 三山謌
標訓 中大兄 三山の歌
集歌13 高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉

訓読 香具山(百済)は 畝傍(うねび)(大和)を雄々(をほ)しと 耳成(みみなし)(新羅)と 相争ひき 神代より 如(かく)にあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ 現世(うつせみ)も 妻(の座)を 争ふらしき

私訳 香具山(百済)は、畝傍山のように大和の国を男らしい立派な国であると、耳成山(新羅)と相争っている。神代も、このような相手の男性の奪い合いがあったとのことだ。昔もそのようであったので、現在も百済と新羅が、そのように同盟国としての妻の座を争っているのだろう。


反謌
集歌14 高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良
訓読 香具山(百済)と耳成山(新羅)と相(あひ)し時立見に来(き)らし稲見(いなみ)国原(くにはら)

私訳 香具山である百済と耳成山である新羅が対面したときに、その様子を立ちて見に来た。稲穂の美しい大和の平原よ。


集歌15 渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比祢之 今夜乃月夜 清明己曽
訓読 渡津海(わたつみ)の豊旗雲(とよはたくも)に入日(いりひ)みし今夜(こよひ)の月夜(つくよ)清(さや)明(あけ)くこそ

私訳 船を渡すような入江の水面に豊かに棚引く雲に夕陽を見た。今夜の月夜は清らかに明るいだろう。

右一首謌、今案不似反謌也。但、舊本以此謌載於反謌。故今猶載此次。亦紀曰、天豊財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇為皇太子。
注訓 右の一首の歌は、今案(かむが)ふるに反歌に似ず。但し、旧き本にこの歌を以ちて反歌に載す。故に今なほ此の次(しだひ)に載す。また紀に曰はく「天豊財重日足姫天皇の先の四年乙巳に天皇を立(た)てて皇太子となす」といへり。

 参考に万葉集には次のような大宝二年(702)に詠われた歌があり、集歌14の歌の「伊奈美國波良」を普段の解説のように「印南(いなみ)国原(くにはら)」と訓み、無理に播州の印南の地とする必要はありません。三輪山の畔、泊瀬川の土手の上から見る明日香一帯の地もまた「稲見野」です。そのため、歌の鑑賞の風景が違います。それで、この「中大兄 三山謌」は、皇極四年四月の新羅・百済の使節団との歓迎の宴が行われた、その夜の風景となります。
 この場合においてのみ、日本書紀での皇極四年の記述に従うと、万葉集においても天智天皇の若き時代を「中大兄」と敬称無しで称える「中大兄 三山謌」の標記は正しいものとなります。それで、万葉集で敬称を省略しているために、左注において「亦紀曰、天豊財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇為皇太子」の一文を加える必要があったと思われます。

参考その一
大神大夫任長門守時、集三輪河邊宴謌二首
標訓 大神大夫の長門守に任(ま)けらし時に、三輪河の邊(ほとり)に集ひて宴(うたげ)せる謌二首
集歌1770 三諸乃 神能於婆勢流 泊瀬河 水尾之不断者 吾忘礼米也
訓読 三諸(みもろ)の神のお座(ば)せる泊瀬川水脈(みを)し絶えずは吾(われ)忘れめや

私訳 三諸の神々がいらっしゃる泊瀬川の水の流れが絶えないように、思い出を絶って、私が貴方を忘れるでしょうか。


集歌1771 於久礼居而 吾波也将戀 春霞 多奈妣久山乎 君之越去者
訓読 後(おく)れ居(ゐ)て吾(われ)はや恋ひむ春霞たなびく山を君が越え去(ゐ)なば

私訳 大和の国に残されて居て、私は貴方のことを慕うでしょう。春の霞が棚引く山を貴方が越えて去って行ったらならば。
右二首、古集中出
注訓 右の二首は、古き集(しふ)の中(うち)に出(い)づ。


大神大夫任筑紫國時、阿倍大夫作謌一首
標訓 大神大夫の筑紫國に任(ま)けらし時に、阿倍大夫の作れる謌一首
集歌1772 於久礼居而 吾者哉将戀 稲見野乃 秋芽子見都津 去奈武子故尓
訓読 後(おく)れ居(ゐ)て吾(あれ)はや恋ひむ稲見野(いなみの)の秋萩見つつ去(ゐ)なむ子故に

私訳 大和の国に残されて居て、私はあの人のことを慕うでしょう。稲見野の秋萩を眺めながら去って行くあの人のために。

参考その二 日本書紀の記述の例
皇極天皇四年(645) 六月庚戌譲位於軽皇子。立中大兄為皇太子。
天豊財重日足姫天皇四年六月庚戌 天豊財重日足姫天皇思欲傅位於中大兄。



額田王下近江國時作謌
 次の歌は額田王と井戸王とが詠う近江遷都の折りの歌と伝わっています。
 これらの歌の鑑賞において、重要なことがあります。それは、葬儀に列席する夫を亡くした未亡人が自分の着る喪服やアクセサリーについてひどく気にする、その機微を理解出来るか、出来ないかにあります。万葉集と古今和歌集とでの女性の感情の理解の差が、集歌19の歌の左注にあります。特徴として万葉集の相聞歌には男女の閨での交渉は男女の体臭とともにありますが、古今和歌集以降は恋歌にはその男女の閨での濃厚な体臭はありません。左注は、その歌人の住む世界の差の反映です。

額田王下近江國時作謌、井戸王即和謌
標訓 額田王の近江國に下りし時に作れる歌、井戸王の即ち和(こた)へる歌
集歌17 味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隠萬代 道隈 伊積流萬代尓 委曲毛 見管行武雄 數々毛 見放武八萬雄 情無 雲乃 隠障倍之也
訓読 味酒(うまさけ) 三輪の山 青(あを)丹(に)よし 奈良の山の 山の際(は)に い隠(かく)るまで 道の隈(くま) い積もるまでに 委(つば)らにも 見つつ行かむを しばしばも 見(み)放(は)けむ山を 情(こころ)なく 雲の 隠さふべしや

私訳 味酒の三輪の山が、青丹も美しい奈良の山の山の際に隠れるまで、幾重にも道の曲がりを折り重ねるまで、しみじみと見つづけて行こう。幾度も見晴らしたい山を、情けなく雲が隠すべきでしょうか。


反謌
集歌18 三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉
訓読 三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや

私訳 三輪山をこのように隠すのでしょうか。雲としても、もし、情け心があれば隠すでしょうか。

右二首謌、山上憶良大夫類聚歌林曰、遷都近江國時、御覧三輪山御謌焉。日本書紀曰、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、遷都于近江。
注訓 右の二首の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく「都を近江國に遷す時に、三輪山を御覧(みそなは)す御歌なり」といへり。日本書紀に曰はく「六年丙寅の春三月辛酉の朔の己卯に、都を近江に遷す」といへり。


集歌19 綜麻形乃 林始乃 狭野榛能 衣尓著成 目尓都久和我勢
訓読 綜麻形(へそがた)の林のさきの狭野(さの)榛(はり)の衣(ころも)に著(つ)く成(な)す目につく吾(わ)が背

私訳 綜麻形の林のはずれの小さな野にある榛を衣に摺り著け、それを身に着けている。私の目に相応しく見えます。私が従う貴女は。

右一首謌、今案不似和謌。但、舊本載于此次。故以猶載焉。
注訓 右の一首の歌は、今案(かむ)がふるに和(こた)ふる歌に似はず。但し、旧き本には此の次(しだひ)に載す。故に以つてなお載す。


 集歌18の歌での左注の「御覧三輪山御謌焉」の詞に注目すると、歌の作者は倭皇后の可能性がありますが、この「御謌」の意味合いが「御製謌」と同じで「御(かた)りて製(つく)らしし謌」であるならば、倭皇后の思いを額田王が代表して歌に起こした可能性があります。その時、歌の作者は二人いてもおかしくはありません。そうした場合、集歌19の歌の「狭野榛能 衣尓著成」を「榛を衣に摺り著け、それを身に着けている」と解釈しますと、神事等の重要な儀礼で着用する「榛摺り染めの御衣」を着た倭皇后の姿を詠ったものになります。
 そして歌は、女性一流の故郷を離れる悲しみと同時に自分の姿が人にどのように見られているかを心配する心を詠ったものとなり、それはそれで、近江國へ下る女性たち一行に相応しい歌ではないでしょうか。万葉歌人と古今集歌人との女性の機微への感性の差が左注です。そして、その感性の差を鑑賞できるは、現代人の特権でしょうか。


柿本朝臣人麿自傷作歌
 次に紹介する有名な人麻呂の自傷作歌のかかわる一連の歌も、また、古本に載る歌です。ここでは、ひどい思い込みから、従来の「擬柿本朝臣人麿之意報歌」の標を尊重した鑑賞と歌物語の存在を仮定した鑑賞を載せました。もし、歌物語の存在を認めると、集歌227の歌の作歌者は人麻呂の隠れ妻となり、詠われたのは飛鳥浄御原宮時代のおよそ天武八年前後となります。(詳細は、弊ブログ「人麻呂の恋歌」を参照下さい。)

柿本朝臣人麿在石見國時臨死時、自傷作歌一首
標訓 柿本朝臣人麿の石見国に在りし時の臨死(みまか)らむとせし時に、自ら傷(いた)みて作れる歌一首
集歌223 鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有
訓読 鴨山の岩根し枕(ま)けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ
私訳 鴨山の岩を枕として死のうとしている私のことを知らないで妻はまっているであろう。

別訓
訓読 鴨山の巌根し枕(ま)けるわれをかも知らにと妹の待ちつつあるらむ

私訳 丹比道の鴨習太(かもならいた)の神の杜(やしろ)のほとりで旅寝をする私を、そうとも知らないで私の愛しい貴女は私を待っているらしい。


柿本朝臣人麿死時、妻依羅娘子作謌二首
標訓 柿本朝臣人麿の死(みまか)りし時に、妻の依羅娘子の作れる歌二首
集歌224 旦今日ゞゞゞ 吾待君者 石水之 貝尓(一云、谷尓)交而 有登不言八方
訓読 旦今日(けふ)旦今日(けふ)とあが待つ君は石見の貝に (一は云はく、 谷に) 交(まじ)りてありと言はずやも
私訳 今朝は帰られるか、今日は帰られるかよ私の待っていたあなたは石川の貝にまじってすでに亡くなられたと言うではありませんか。

別訓
訓読 旦今日(けふ)旦今日(けふ)とわれ待つ君は 石見の貝(かひ)に交りてありといはずやも

私訳 貴方に再びお目に懸かれるのは今朝か今朝かと恋しく思っているのに、その貴方は、なんと、人の噂では、まだ石見の国にいて、女を抱いていると云うではありませんか。


集歌225 直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍将偲
訓読 ただに逢(あ)ふは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつしのはむ
私訳 直接御目にかかることはもうできないでしょう。石川の上に雲よ立ちわたって下さい。それを見ながらお偲びしましょう。

別訓
訓読 直(ただ)逢ひは逢はずに勝る 石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ

私訳 直接、貴方に逢うことは、会わずに手紙を貰うことより勝ります。逢えない私は、雲が想いを届けると云う、あの石川精舎の大伽藍の上に立ち昇る雲を見ながら貴方を恋しく偲びましょう。


丹比真人(名闕)擬柿本朝臣人麿之意報歌一首
標訓 丹比真人(名(な)闕(か)けたり)の柿本朝臣人麿の意に擬(なぞら)へて報(こた)へたる歌一首
集歌226 荒浪尓 縁来玉乎 枕尓置 吾此間有跡 誰将告
訓読 荒浪により来る玉を枕に置き吾れここにありと誰れか告(つ)げけむ
私訳 荒浪の中をよって来る玉を枕もとに置いて自分がここにあるということを誰が知らせたのであろう。

別訓
訓読 荒波に寄りくる玉を枕に置き われこの間(ま)にありと誰か告げなむ

私訳 石見の荒波の中から手にいれた真珠を枕元に置き、私は貴女のすぐそばまで還ってきましたと、誰が貴女に告げるのでしょうか。


或本歌曰
標訓 或る本の歌に曰く
集歌227 天離 夷之荒野尓 君乎置而 念乍有者 生刀毛無
訓読 天(あま)離(さか)る鄙の荒野に君を置きて念(おも)ひつつあれば生けるともなし
私訳 天路も遠い夷の荒野にあなたをおいて、恋いつづけていると生きた心地もない。

別訓
訓読 天離る夷の荒野に君を置きて 思ひつつあれば生けりともなし

私訳 大和から遠く離れた荒びた田舎に貴方が行ってしまっていると思うと、私は恋しくて、そして、貴方の身が心配で生きている気持ちがしません。

右一首歌作者未詳。但、古本、以此歌載於此次也。
注訓 右の一首の歌の作る者は、いまだ詳(つばび)らかならず。ただ、古き本、この歌をもちてこの次(しだい)に載す。



紀伊國之鰒珠
 巻十三に載る集歌3255の歌で代表される歌群もまた古本に載る歌です。歌では紀国へと行き来するのに平坦な龍田越の奈良街道を使って和泉に出てから南海道(紀伊路)を使う官道と近道として飛鳥時代の幹線であった紀伊川の川道を下る、今では旧道となった巨勢道を比べるような姿があります。このため、集歌3255の歌は和銅三年(710)の平城京遷都以降の歌と思われます。
 ただし、集歌3255の歌は古本に載る歌ですが、万葉集に記述される「古歌集」や「古集」に載る歌ではありません。また、集歌3256の歌の「叵雖有」の解釈が漢字を尊重して特異なため、全体の歌意が普段の解説と違っています。つまり、この「叵」を「ハ」と訓まずに「できない・かたい」と訓んでいるのが特異です。

集歌3255 従古 言續来口 戀為者 不安物登 玉緒之 継而者雖云 處女等之 心乎胡粉 其将知 因之無者 夏麻引 命方貯 借薦之 心父小竹荷 人不知 本名曽戀流 氣之緒丹四天

訓読 古(いにしへ)ゆ 言ひ継ぎけらく 恋すれば 苦しきものと 玉の緒の 継ぎては云へど 娘子(をとめ)らが 心を知らに そを知らむ よしのなければ 夏麻(あつそ)引く 命かたまけ 刈り薦の 心もしのに 人知れず もとなぞ恋ふる 息(いき)の緒にして

私訳 昔から言い伝えてきたことは恋することは苦しいものだと、玉を貫く紐の緒のように次々と伝えてきたが、娘子達の心を知らないし、それを知る手段もなければ、恋する心は夏に麻を畝から引き抜き倒すように命も倒れ絶え絶えになり、刈る薦の乱れのように心は乱れ萎えるのに、人知れず実の成らない恋を私はする。それを生きていくあてとして。


反歌
集歌3256 數々丹 不思人 叵雖有 暫父吾者 忘枝沼鴨
訓読 しくしくに思わぬ人よ難(かた)けれどしましも吾は忘らえぬかも

私訳 たびたびに、私のことを想ってくれない貴女。恋をする相手ではないのでしょうが、暫くも私は忘れられないでしょう。


集歌3257 直不来 自此巨勢道柄 石椅跡 名積序吾来 戀天窮見
訓読 直(ひた)に来ずこゆ巨勢道(こせぢ)から磐椅(いははし)となづみぞ吾が来し恋ひてすべなみ

私訳 幹線の道を来ないで、近道となるこの巨勢道を通って岩の飛び石を越えて苦労して私はやって来ました。貴女に恋しくてたまらないので。

或本、以此歌一首、為之紀伊國之 濱尓縁云 鰒珠 拾尓登謂而 徃之君 何時到来歌之反歌也 。具見下也。依古本亦累載茲。
左注 或る本に、この歌一首を以ちて「紀伊國の 濱に寄るといふ鰒(あわび)珠(たま) 拾りにといひて 徃(い)きし君 いつ来まさむ」の歌の反歌とせり。具(つばらか)には下(のち)に見えたり。ただ、古本によりてまた累(かさ)ねてここに載す。
右三首
(注:「下に見えたり」とは、集歌3318の歌を云う)


参照歌
集歌3318 木國之 濱因云 鰒珠 将拾跡云而 妹乃山 勢能山越而 行之君 何時来座跡 玉桙之 道尓出立 夕卜乎 吾問之可婆 夕卜之 吾尓告良久 吾妹兒哉 汝待君者 奥浪 来因白珠 邊浪之 緑浪白珠 求跡曽 君之不来益 拾登曽 公者不来益 久有 今七日許 早有者 今二日許 将有等曽 君聞之二々 勿戀吾妹

訓読 紀の国の 浜に寄るといふ 鰒(あわび)玉(たま) 拾(ひり)はむと云ひて 妹の山 勢能山(せのやま)越えて 行きし君 いつ来まさむと 玉桙の 道に出で立ち 夕占(ゆふうら)を 吾が問ひしかば 夕占の 吾に告らく 吾妹子や 汝が待つ君は 沖つ波 来寄る白玉 辺(へ)つ波の 寄する白玉 求むとぞ 君が来まさぬ 拾(ひり)ふとぞ 君は来まさぬ 久(ひさ)にあらば いま七日(なぬか)だみ 早くあらば いま二日(ふつか)だみ あらむとぞ 君は聞(きこ)しし な恋ひそ吾妹(わぎも)

私訳 紀の国の海岸に打ち寄せると云う鰒玉、それを拾うと云って、名前から「妹の山」と云う勢能山を奈良の京から越えて行った貴方。いつ帰っていらっしゃるのかと美しい鉾を立てる公の道に出て立って待っていて、夕占いして私が人に聞くと、夕占いが私に告げるには「恋人が愛するお前、お前が待っている人は、沖の波に来寄る白玉、岸の波に打ち寄せる白玉、その白玉を求めるから、その人は帰って来ない。その白玉を拾うと思うから、その人は帰って来ません。長くて今から七日、早ければ今から二日ほどで、帰って来るでしょう。貴女の恋人は知っていますよ。そんなに恋しがらないで、吾妹」と云いました。


反歌
集歌3319 杖衝毛 不衝毛吾者 行目友 公之将来 道之不知苦
訓読 杖(つえ)衝(つ)きも衝(つ)かずも吾は行かめども君が来まさむ道の知らなく

私訳 杖を衝こうが衝くまいと私は出迎えに行きたいと思うが、貴方が帰っていらっしゃる道がどちらなのかを知りません。


集歌3320 直不徃 此従巨勢道柄 石瀬踏 求曽吾来 戀而為便奈見
訓読 直(ただ)に往(ゆ)かず此(こ)ゆ巨勢道から石瀬(いはせ)踏み求めぞ吾が来し恋ひてすべなみ

私訳 官道をきちんと還って往かず、この巨勢道を通って石の瀬を踏み越えて私は帰って来た。貴女が恋しくてしかたがないので。


集歌3321 左夜深而 今者明奴登 開戸手 木部行君乎 何時可将待
訓読 さ夜更(ふ)けて今は明けぬと戸を開けて紀(き)へ行し君を何時(いつ)とか待たむ

私訳 夜は更けて、今はもう夜明けでしょうと戸を開けて紀の国に行った貴方をいつ還っていらっしゃるかと待ちましょう。


集歌3322 門座 郎子内尓 雖至 痛之戀者 今還金
訓読 門(かど)に座(ま)す郎子(いらこ)は内(うち)に至るともいたくし恋ひは今還(かへ)り来(こ)む

私訳 家の門の前に立っていらっしゃる貴方は家の中へと、ただ貴方が私の家にやって来るだけで、心を痛めた私の恋心は、今、私の許に還って来ます。
右五首


 こうして見ますと、現在に伝わる万葉集に云う「古本」とは栄花物語に載る天平勝宝五年に孝謙天皇が左大臣橘諸兄以下、諸卿大夫等に万葉集を選定することを命じたとする、その成果物である奉呈歌集のことを指すのではないでしょうか。それに対して紀貫之たちが古今和歌集の編纂の一環でその「古本」を整備したものが、今日に伝わる二十巻本の「万葉集」ではないかと酔論しています。その事情を示す一端が古今和歌集の真名序に載る次の一文であり、紀貫之が詠う歌番号1002の「古歌奉りし時の目録のその長歌」が示す世界だと思い込んでいます。

原文
爰詔大内記紀友則・御書所預紀貫之・前甲斐少目凡河内躬恒・右衛門府生壬生忠峯等、各献家集并古来旧歌、曰続万葉集。於是重有詔。部類所奉之歌、勒為二十巻、名曰古今和歌集。

訓読
爰に、大内記の紀友則・御書の所預紀貫之・前の甲斐の少目凡河内躬恒・右衛門の府生壬生忠岑等に詔して、各の家の集ならびに古来の旧き歌を献らしめ、曰く続万葉集といふ。ここにおいて、重ねて詔あり。奉るところの歌を部類し、勒して二十巻とし、名を曰はく古今和歌集といふ。


古歌(ふるうた)奉りし時の目録の その長歌  貫之

意訳書下文
千磐破(ちはや)ふる神の御代より 呉竹の世々のも絶えず 天彦(あまひこ)の音葉の山 春霞想い乱れて 小(さ)乱れの空もとどろに さ夜更けて山霍公鳥(ほととぎす)啼くごとに誰(たれ)も寝醒めて 韓錦(からにしき)龍田の山の黄葉(もみぢ)を見てのみ偲ぶ 神無月(かむなづき)時雨(しぐれ)時雨れて 冬の夜の庭も斑(はだ)れに零(ふ)る雪の猶消えかへり 年毎(としごと)に時につけつつあはれてふ事を云ひつつ 公をのみ千代にと斎(いは)ふ世の人の思ひ 駿河の不盡(ふじ)の峯の燃ゆる思ひも飽かずして 別るる涕 藤衣穢(おれ)る心も 八千種の言(こと)の葉ごとに 天皇(すべらぎ)の詔(おほ)せ畏(かしこ)み 巻々の中に尽くすと 伊勢の海の浦の潮貝(しほかい)採(ひ)ろひ集めとれりとすれど 玉の緒の短き心思ひ耐(あ)えず 猶荒魂(あらたま)の年を経て 大宮にのみ久方(ひさかた)の昼夜別かず使かふ 反(か)へり見もせぬ 吾が屋戸(よど)の偲ぶ草生(お)ふる 板間(いたま)有らみ零(ふ)る春雨 野守(のもり)は知るらむ
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