竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉雑記 色眼鏡 二二九 今週のみそひと歌を振り返る その四九

2017年08月26日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二二九 今週のみそひと歌を振り返る その四九

 今週は柿本人麻呂歌集に載る歌で、歌の表記区分では詩体歌(略体歌)、非詩体歌(非略体歌)に分類される歌から遊びます。
 歌の表記区分で詩体歌は「てにをは」を一切持ちませんし、非詩体歌はその一部を持つだけで漢詩のような姿を持つ和歌です。このため、歌の鑑賞では「てにをは」を補いますから、歌意は一義的には定まらない可能性があります。つまり、歌を鑑賞する人の感性により揺らぎますし、その揺らぎには正誤がないことになります。
 例として集歌1296の歌は非詩体歌に分類される歌で、句中の「吾尓所念」の「尓」の文字が「てにをは」ですが、歌中にはこれ以外にはありません。従いまして三十一音の和歌として鑑賞するには多くの音を補う必要があります。一方、集歌1297の歌と集歌1298の歌は詩体歌に分類される歌で「てにをは」となる文字を持ちません。従いまして、和歌とするにはすべての「てにをは」言葉を補う必要があり、その補足のしようにによっては歌意は大きく揺らぎますし、その正誤は確定しません。類型歌から類推したとしても、最終には鑑賞者の感性によることになります。

集歌1296 今造 斑衣 服面就 吾尓所念 未服友
訓読 今造る斑らし衣(ころも)服面(きおも)就(つ)く吾に念(おも)ひは未だ着ぬとも
私訳 今作っている摺り染めの着物、その由緒ある摺り染め着物は立派な貴方に相応しいと思う。私の心に貴方の私への想いを着せるように、貴方は私が造った衣をまだ着ていませんが。

集歌1297 紅 衣染 雖欲着 丹穂哉 人可知
訓読 紅(くれなゐ)し衣(ころも)を染めて着(き)に欲(ほ)しし丹(あけのに)し秀(ほ)や人し知るべし
私訳 紅色に衣を染め揚げて着て欲しい。そうすれば、朱に映える美貌の貴女の美しさを人が気づくでしょう。

集歌1298 千名人 雖云 織次 我廿物 白麻衣
試訓 千名(ちな)し人(ひと)雖(ただ)云ふけれど織りつがむ我廿物(はたもの)し白き麻(あさ)衣(きぬ)
試訳 多くの人は、私と貴方のことを噂するだけですが、私は織り続けましょう。私が織る、たくさんの、貴方が云うようにどのような色にも染まる白い麻の衣を。

 ここで、ネット検索では容易な「古代史の道 万葉集読解」から、これらの歌の鑑賞を紹介します。歌は「てにをは」を持たない詩体歌・非詩体歌ですから、想定する「てにをは」により歌意は揺らぎます。その揺らぎから、時に原歌表記に疑義提案がなされ集歌1298の歌の初句と二句の「千名人 雖云」については二つの案があります。弊ブログでは原歌表記を尊重して「千名人 雖云」として鑑賞しますが、別案では伝統を下に想定した「てにをは」を尊重して原歌表記に誤記説を導入し「干各 人雖云」と変え鑑賞します。説明するように一般には「干各 人雖云」の表記が優勢です。
 また、集歌1296の歌、三句目「面就」には「面影」の誤記説があります。これは平安時代末期から鎌倉時代初期の人々にとって「おもつく」と云う発声が好みではなく、歌言葉として「おもかげ」の方が好ましいと云う辺りからの提案です。歌意よりも歌詠いを優先しますと「おもかげ」が優勢になると考えます。

「万葉集読解」の鑑賞態度
集歌1296
訓読 今作る斑の衣面づきて我れに思ほゆいまだ着ねども
意味 着物を作っているその衣をまだ着てないけれど私によく似合っているだろうな


集歌1297
訓読 紅に衣染めまく欲しけども着てにほはばか人の知るべき
意味 紅(くれなゐ)に着物を染めたいのですが、着たら匂い立つように映えてみなに知られてしまうでしょうね

集歌1298
訓読 かにかくに人は言ふとも織り継がむ我が機物の白麻衣
意味 人はとやかくいうでしょうけど、今織っているこの白麻の着物を織り続けよう

 参考として、集歌1298の「千名人雖云織次我廿物白麻衣」と「干各人雖云織次我廿物白麻衣」の表記論争は、原歌が詩体歌の表記区分に属し、また、柿本人麻呂歌集に載る歌と云うことから、学生さん向けの議論にはうってつけのものです。まず、現在では人麻呂歌集の歌の多くは人麻呂とその恋人が作歌した歌と推定されていますので、万葉集中から人麻呂の作歌態度、つまり、作歌時の癖や好みの言葉を示し、そこから集歌1298の歌意や和歌を推定することが可能です。類型歌が無くても、人麻呂が詠う歌としての研究が可能と云うことです。
 ただし、逆に見ますと集歌1298の歌の読解を提示することは人麻呂歌や人麻呂歌集の歌への鑑賞態度を示すことでもあります。さらに、万葉集中には人麻呂歌集から引用したような歌、模倣した歌など見られ、ある種、人麻呂歌集は作歌時のテキストの位置にありますから、場合によっては万葉集歌への理解度にも及びます。
 さらに歴史において平安時代最末期に成立した元暦校本辺りから、原典を尊重するより、その時代のパトロンとなる貴族・武者階層が鑑賞するときの便を優先した姿を示します。平安時代中期となる藤原道長・紫式部ごろまでは古典文学での原典は建前として奉呈され天子が鑑賞するものですから古典書写では「一字不違」であることが原則です。一方、藤原定家の時代となりますと小倉百人一首の伝承に示すように古典書写などはパトロン向けとなります。まったく、書写態度が違うのです。このような背景がありますから、学問として伝承された万葉集と、パトロン向けに書写・編まれた万葉集本とはその態度が違うはずです。現在は和歌道の影響下、学問とパトロン向けの価値が逆転していますから、何が正しいのかの判断は難しいものがあります。
 しかしながら、そうは言っても学生さんですと万葉集歌読解への修行中ですし、人生の方向が変われば単なる一場面です。また、趣味の社会人によってはそれは与太話です。
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万葉雑記 色眼鏡 二二八 今週のみそひと歌を振り返る その四八

2017年08月19日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二二八 今週のみそひと歌を振り返る その四八

 今回は集歌1273の歌を代表として、大和人が感じた中国語と朝鮮語の話し言葉への感覚について遊びます。

集歌1273 住吉 波豆麻君之 馬乗衣 雑豆藤 漢女乎座而 縫衣叙
訓読 住吉し波豆麻(はずま)し君し馬(うま)乗(のり)衣(ころも) さひづらふ漢女(あやめ)をすゑに縫へる衣ぞ
私訳 住吉の波豆麻の君の馬乗衣はね、囀るように話す漢女をわざわざ雇ってから縫ったりっぱな衣ですよ。

 今週鑑賞しました集歌1273の歌に「雑豆藤(さひづらふ)」とあります。これは中国揚子江付近から渡来または招聘された縫製の専門家の女性たちが話す言葉を聴いた大和人の感想です。
 一方、韓人の話し方はどうかと云うと相当に違います。聴いた感想を示すものが次の二つの長歌に載るそれぞれの一節です。

集歌135 角鄣経 石見之海乃 言佐敞久 辛乃埼有 伊久里尓曾
訓読 つのさはふ 石見(いはみ)し海の 言(こと)さへく 辛(から)の崎なる 海石(いくり)にぞ
私訳 岩角が鋭い石見の海の言葉の騒がしい韓國へ伸びる岬にある海の中の石には

集歌199 言右敞久 百濟之原従 神葬 ゞ伊座而
訓読 言(こと)さへく 百済(くだら)し原ゆ 神葬(かみはふ)り 葬(はふ)りいましに
私約 話す言葉が騒がしい百済の、その百済の原に神として葬り、葬り申し上げて、

 電子辞書では、「さへく」は騒がしく しゃべる意とあり、「言さへく」の意味は外国人の言葉が通じにくく、ただやかましいだけであることとします。一方、「さひづる」は、「小鳥の囀り」の意味合いと、その小鳥の囀りの意味がが人間には判らないことから派生して平安時代には「方言などでわけのわからないことをしゃべる」と云う意味合いを示します。万葉集では集歌1273の歌の他、集歌3886の長歌に「天光夜 日乃異尓干 佐比豆留夜 辛碓尓舂(天照るや 日の異(け)に干(ほ)し さひづるや 唐臼(からうす)に搗き)」とあり、人の話し言葉の形容として、中国語に対しては「さひづる」を、朝鮮語に対しては「言さへぐ」と云う大和言葉で形容しています。
 ただし、これらの歌は柿本人麻呂に関係しますから、人麻呂個人が感じた外国語への感想なのかもしれません。当然、人麻呂は漢語発音と漢字を自在に使い、大和歌を漢語と漢字だけで表現した日本人最高の和歌歌人です。つまり、自分の拠って立つものを貶めることはないでしょうから、外国語への感想での区分感覚には割り引いて鑑賞する必要はあるでしょう。
 一方、人麻呂はその時代を代表する和歌の権威でもあります。従いまして、当時の大和人が感じた外国語の話し言葉への感情の最大公約であるか、そのように人々の感覚をリードした可能性があります。ある種、慣用句として朝鮮語は「言さへぐ」ものとして聴くべきであり、中国語は「さひづる」ものとして聴くべきだと。

 感覚の問題ですが、大和人、日本人は国際的に見て不思議な人種です。先進技術の導入にはさほどの抵抗は示しませんが、その先進技術の背景にある他国の宗教観や文化観については強固に抵抗を示します。例として儒教はまったく日本では受け入れられませんでしたし、日本人が本来の仏教を信仰しているかと云うと疑問です。まず、お盆や墓参りの風習に見られるように仏教の根本である輪廻・解脱・仏縁と云うものを信じません。あくまで神道が根底にあり、先祖霊を基本とする先祖代々であり、住む環境での地霊・天神が基本にあります。もし、仏教が根底にあるのなら成仏した霊が特定の子孫の許だけに戻ってくることはありません。すでに七七の日において解脱・成仏しているのです。日本の仏教は本来の仏教を否定したところで生まれた神仏混合における成果物です。ですから、明治の廃仏毀釈の中で人々はそれまで拝んでいた仏像を薪にしましたし、三輪山を神道の聖地に作り変えることが出来たのです。新政府の通達だけで、そのような文化大革命がなされたのです。
 そのような世界的にも特殊な感覚を持つ大和人、日本人は先端技術をもたらす人々を尊敬しますし、礼遇します。ただし、それだけです。先端技術の習得が終われば、それを大和風に、日本風にアレンジしますが、あくまでそれは日本の風習・慣習がベースです。儒教や仏教をベースとして生まれた法務体制や先新技術に合わせ、日本の社会構造を変えるかと云うと歴史においてそれをしなかったようです。
 そのような感覚的な背景が人麻呂が詠う歌に登場する外国語への感情なのでしょう。韓国の人は歴史において先進技術や仏教をもたらした韓半島人を尊敬しているはずと思うでしょうか、当時の大和人にとって韓半島人は騒々しい人と云う感覚でもって扱われています。表情なるギャップと云うものがここにあります。

 万葉集の歌は飛鳥浄御原宮から前期平城京時代を中心に作られていますから、おおよそ、その時代の人々の朝鮮半島人と中国人への感情が集歌1273の歌などに表れているのでしょう。
 与太話です。
 ただ、万葉集の歌を掘り下げますと、当時の人々の感情・感覚と云うものが表れてきます。
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万葉雑記 色眼鏡 二二七 今週のみそひと歌を振り返る その四七

2017年08月12日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二二七 今週のみそひと歌を振り返る その四七

 今週は柿本人麻呂歌集の歌に遊びます。弊ブログですから、一般に説明されるものとは大きくその鑑賞が違います。そこをよろしくお願い致します。

集歌1247 大穴道 少御神 作 妹勢能山 見吉
訓読 大汝(おほなむち)少御神(すくなみかみ)し作らしし妹背(いもせ)し山を見らくしよしも
私訳 大汝と少御神との神が作られた妹背の山は見るとりっぱなことです。

 標準に大己貴命(おほなむじのみこと)=大穴牟遲神と少彦名命(すくなひこなのみこと)=少名毘古那神の神話からしますと、出雲地方や播州地方の神話・民話とします。ところが、この集歌1247の歌は大穴牟遲神と少名毘古那神の二神を詠いますが、歌の舞台は出雲や播州ではありません。歌の舞台は奈良県吉野郡吉野町上市の旧伊勢街道と旧東熊野街道の分岐点となる妹山にある大名持神社近辺です。およそ、この付近は神功皇后や応神天皇に所縁の吉野離宮の地と比定される場所ですし、人麻呂が詠う持統天皇の吉野離宮や秋津野に当たります。つまり、この歌は人麻呂が吉野離宮への行幸に随行したときの歌と云うことになります。それも、漢詩体のスタイルで歌を詠いますから、時代として相当に早い時期と推定されます。推定で持統天皇三年八月ごろでしょうか。なお、現在、妹山の吉野川対岸の山を背山と呼びますが、いつからかは定かではありません。およそ、奈良時代の歌をたしなむ人々は柿本人麻呂の歌をよく知っていますから、集歌285の歌での「行幸」と云う場面と「勢能山」と云う漢字表記から、すぐに人麻呂が詠う集歌1247の歌を思い浮かべたということになります。それで紀伊との国境の「勢能山」は、似てはいるが吉野の秋津野の「妹勢能山」と違うと詠った訳なのです。

丹比真人笠麿徃紀伊國超勢能山時作謌一首
標訓 丹比真人笠麿の紀伊國に徃きて勢能(せの)山(やま)を超(こ)へし時に作れる謌一首
集歌285 栲領巾乃 懸巻欲寸 妹名乎 此勢能山尓 懸者奈何将有
訓読 栲(たく)領巾(ひれ)の懸(か)けまく欲(ほ)しき妹し名をこの背の山に懸(か)けばいかにあらむ
私訳 神威から振るとその身を引き寄せると云う白い栲の領巾を、肩に掛けるように心に懸けるほどに知りたい貴女の名前を、この愛しい貴女と云うような「背の山」の名に懸けたら、貴女はどのようにしますか。

 研究者によりますと秋津野の「妹勢能山」の対岸の山を今は「背山」と称しますが、古代、そのようには呼ばなかったとようだとしますし、国境の「勢能山」の対岸の山を今は「妹山」と称しますが、これも古代ではそのように呼ばなかったのではないかとします。つまり、万葉集にこの「勢能山」が詠われ、そこから「妹兄(いもせ)」は対であるからと「妹山」と「兄山=背山」が作られ、「妹勢能山」に対して後に「背山」が生まれ、同じように「勢能山」に対して「妹山」が生まれたとします。

 次に、集歌1249の歌と集歌1250の歌を鑑賞します。弊ブログでは歌は石見国美濃郡小野郷戸田の西に位置する長門国阿武郡奈吾郷(山口県阿武郡阿武町奈古)の「宇田(歌で詠われる打歌山)」付近の様子ではないかと考えています。
 鑑賞しますこの集歌1249の歌の「浮沼池」の「浮(うき)」には「泥(うき)」の意味合いも込められているとの解説があります。すると、歌の風景からしますと、菱を摘む女性は衣を大きくたくしあげ泥沼に素脚をつけています。まず、岸辺から手を伸ばして届く範囲で一つ、二つほどの菱を摘む風情ではありません。このような情景は、下着の無かった時代、身分ある女性が見せる姿ではありません。次に集歌1250の歌で「菅賽採」とあります。原文では「實(shi)」ではなく「賽(sai)」の漢字が使われています。この「賽」の字にはサイコロ(賽子)の意味もありますが、神のお告げのような「報」の意味もあります。また、探している「菅」は現在ではヤブランのことを意味し、そのヤブランの根は催乳の効能を持つ薬草です。古くは、初冬にヤブランの実のついた茎を頼りに掘り取り、乾燥させて作ったとされています。ここに「報」の意味がきいてきます。歌は菅の実を採りに来たのではなく、菅の実を頼りに探して根を採りに来ていると告げているのです。なお、この「實(shi)」と「賽(sai)」の話題は、ある種、言い掛かりのようなものです。まともな人は相手にしないような説ですので、眉に唾をつけて鑑賞してください。
 それでもこの二つの歌を合わせますと、新妻は家族のために沼に入り滋養ある菱の実を摘み、夫は山の藪の中で妊娠している妻のために催乳の効能を持つヤブランの根を探している風情となります。この相聞歌は、石見の妻が「愛しい幼子の母親」であると云う推定に相応しいものではないでしょうか。

集歌1249 君為 浮沼池 菱採 我染袖 沾在哉
訓読 君しため浮沼(うきぬま)池し菱つむとわが染めし袖濡れにけるかも
私訳 貴方のために浮沼の池の菱を摘みましょうと、私が染めた袖が濡れてしまったようです。

集歌1250 妹為 菅賽採 行吾 山路惑 此日暮
訓読 妹しため菅実(すがのみ)採りに行きし吾山路しまよひこの日暮しつ
私訳 恋人のために菅の実を採りに来た私は山路に迷ってこの一日が暮れてしまった。

 今回も言い掛かりの鑑賞です。
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万葉雑記 色眼鏡 二二六 今週のみそひと歌を振り返る その四六

2017年08月05日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二二六 今週のみそひと歌を振り返る その四六

 今週は女性の髪形に焦点をあて、歌に遊びました。

集歌1244 未通女等之 放髪乎 木綿山 雲莫蒙 家當将見
訓読 未通女(をとめ)らし放(はなり)し髪を木綿(ゆふ)し山雲な蒙(おほ)ふな家しあたり見む
私訳 少女たちがお下げ髪を結う、その言葉のひびきのような、真白い木綿を垂らすような雪を頂く山に、雲よ覆うな。恋人の家の辺りを見つめたい。


 この集歌自体を見ますと、特別な歌ではありません。ある種の「木綿(ゆふ)」と云う言葉での「結う」と「木綿(ゆふ)」との同音異義語の言葉遊びですし、穿って、楮や大麻などの草木の繊維をほぐして漂白した「木綿」に真白いという景色を見ますと、彼方の山の頂には雪があるとの比喩になります。ただ、可能性の比喩ですが、雪は谷筋に残る残雪の雰囲気です。

 さて、歌に「放髪」とあります。つまり、少女においておカッパ髪とも称される肩付近まで伸びた髪型です。ただ、言葉遊びで「木綿(ゆふ)」から「結う」を表現していますから、そろそろ、伸びた髪を束ねるような時期の少女です。
 そうしたとき、同じような髪型で少女の様子を詠った有名な歌があります。それが巻二に載る三方沙弥の歌です。

三方沙弥娶園臣生羽之女、未經幾時臥病作謌三首
標訓 三方沙弥の園臣生羽の女(むすめ)を娶(ま)きて、いまだ幾(いくばく)の時を経ずして病に臥して作れる歌三首
集歌123 多氣婆奴礼 多香根者長寸 妹之髪 此来不見尓 掻入津良武香  (三方沙弥)
訓読 束(た)けば解(ぬ)れ束(た)かねば長き妹し髪このころ見ぬに掻(か)き入れつらむか
私訳 束ねると解け束ねないと長い、まだとても幼い恋人の髪。このころ見ないのでもう髪も伸び櫛で掻き入れて束ね髪にしただろうか。

集歌124 人皆者 今波長跡 多計登雖言 君之見師髪 乱有等母  (娘子)
訓読 人皆(ひとみな)は今は長しと束(た)けと言へど君し見し髪乱れたりとも
私訳 他の人は、今はもう長いのだからお下げ髪を止めて束ねなさいと云うけれども、貴方が御覧になった髪ですから、乱れたからと云ってまだ束ねはしません。

集歌125 橘之 蔭履路乃 八衢尓 物乎曽念 妹尓不相而  (三方沙弥)
訓読 橘し蔭(かげ)履(ふ)む路の八衢(やちまた)に物をぞ念(おも)ふ妹に逢はずに
私訳 橘の木陰の下の人が踏む分かれ道のように想いが分かれて色々と心配事が心にうかびます。愛しい恋人に逢えなくて。

 この三方沙弥の歌は、実際は三方沙弥が還俗し山田史三方と名乗って官僚時代のものと推定されています。奈良時代は国家統制で僧侶の生活も管理されていましたから、沙弥と云う僧侶の立場で妻を娶ることはありません。その山田三方ですが、歌では髪を束ねるとすぐに解けるし、だからと云って束ねないと長いと詠います。つまり、相当に若い幼な妻を娶ったと云うことです。貴族階級の家長家族におけるある種の許婚のような関係があり、裳着が終わったとたんの婚姻生活の雰囲気があります。
 集歌1244の歌も似た関係なのでしょう。相手の女性は未通女ですから、まだ、裳着や腰巻祝いをしていませんし、髪も束ねるのには短い放髪です。ですが、男からすると目を付けた愛しい乙女と云う雰囲気です。簡単な若者の生活を詠うような歌ですが、当時の風習などを想像すると色々と男女の関係、乙女の年齢と風体など、語ってくれます。

 言いがかりのような鑑賞ですが、このようなものもあることを御笑納ください。


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