竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 六七 集歌二七四〇の歌を楽しむ

2014年03月22日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 六七 集歌二七四〇の歌を楽しむ

 春、桜の季節はもうすぐですが、なかなか、出稼ぎ生活からは抜け出せそうもありません。家を離れ、所在なく、『萬葉集釋注』に漂っています。そうした時、万葉集中、特段に有名でもない歌ですが、なぜか、伊藤博氏が特別に注意を払った歌があります。それが巻十一に載る集歌二七四〇の歌です。

二七四〇 大船の舳にも艫にも寄する波寄すとも我れは君がまにまに
【原文】大船之 舳毛艫毛 依浪 依友吾者 君之随意

 伊藤博氏は『萬葉集釋注』でこの歌への解説で、次のように述べられています。

二七四〇は、
大船の舳先といわず艫ともいわずあちこちから寄せてくる波、その波のように、人が私のことをどこの誰が言い寄せたとしても、私はあなたのお心のままです。
の意。相手の男にあだな心を持っていないことを誓った歌と覚しい。男が他し男との女の噂を詰問してきたのに応じたものか。
第二句の原文、嘉暦伝承本・類聚古集・古葉略類聚抄には「艫毛舳毛」とある。それに拠るとトモニヘニモの訓が成立する。「艫丹裳舳丹裳」(10二〇八九)、「等母尓倍尓」(19四二五四)によれば、それが本来の形であるかもしれない。ただ、「倍由毛登母由毛」(14三五五九)という形もあり、また「邊毛奥毛」(7一三五二、12三一五八。他に5八九四)の形が普通である中にあって、「奥尓邊尓」(7一一五〇)という言い方もある。底本で意の通る場合は尊重するという方針に基づいて、ここでは「艫毛舳毛」を採ることにする。

 ままをそのままなのですが、逆にそのままがため、少し、判りにくい紹介となりました。ここで、参考として『万葉集全訳注原文付』からこの集歌2740の歌を紹介しますと、次のようになっています。

二七四〇 大船の艫(とも)1にも舳(へ)にも寄する波寄すとも2われは君がまにまに
大船之 艫3毛舳4毛 依浪 依5友吾者 君之随意6
意訳 大船の艫にも舳にも寄せる波のように、二人を寄せて騒ぎ立てるうわさがどんなにひどくとも、私はあなたのお心のまま
脚注 1、船の末尾、舳は先。2、寄せ騒ごうとも。寄スで上下を続ける。3、底本「舳」。嘉らによる。4、底本「艫」。嘉らによる。5、底本「依」なし。6、「任意」、底本「随意依」。嘉らによる。

とあります。その『万葉集全訳注原文付』の解説でも紹介しますように、現在の『万葉集』と云うテキストの底本である『西本願寺本準拠 万葉集』では、その集歌二七四〇の歌は次のような姿になります。

集歌2740 大船之 舳毛艫毛 依浪 友吾者 君之随意依
訓読 大船し舳(へ)にも艫(とも)にも寄する波友し吾(われ)は君しまにまに
私訳 大船の舳にも艫にも打ち寄せる波のように、四方から人は心を貴方へと寄せる、そのように心を貴方に寄せる私は、貴方のお気に召すままに我が身を任せます。

 伊藤博氏や中西進氏は伝統に従い、その解釈では歌は男女の恋愛を前提としていますが、『西本願寺本準拠 万葉集』からのこの原文歌ですと、さて、この歌が恋歌となるかは難しくなります。まず、恋歌と解釈することは難しくなります。実は、先に伊藤博氏の解説を紹介しましたが、判りにくい解説となっているのは、ここに背景があります。歌は伝統では男女の恋歌として解釈するべきものとなっていますが、原文歌ではそのような姿を見せません。この点が重大な問題であり、従来、原文歌が間違いとされてきました。この点が伊藤博氏の解説の出発点なのです。
 伊藤博氏が、巻十一と云う無名人達が詠う巻中において、特段に取り上げる必要もない、この集歌二七四〇の歌に、なぜ、興味を惹かれたかを推測しますと、歌は「寄物陳思」と云うジャンルに括られた中でのものです。およそ、この「寄物陳思」での「思」の多くは、恋人を慕情する「思い」の歌ですから、この歌も慕情の歌であろうと推測することが可能と考えます。そして、この歌の前後の歌を紹介しますと、次のようなものです。紹介しますように、前後の歌は確実に慕情をテーマとしてよい、そのような歌です。ここに、伊藤博氏が述べる「底本で意の通る場合は尊重する」と云う意味が現れてきます。集歌二七四〇の歌は慕情を詠った歌であろうから、参考にする資料があるのなら、解釈に沿うように間違いであるはずの原文歌を訂正するべきであると云うことになります。つまり、誤字や誤記が確認されなくても、伝承された解釈に沿わなければ、原文歌は校訂をしてよいと云う伝統を再発見することが出来ます。

集歌2739 水沙兒居 奥麁礒尓 縁浪 徃方毛不知 吾戀久波
訓読 みさご居(ゐ)る沖つ荒礒(ありそ)に寄する波行方(ゆくへ)も知らず吾(あ)が恋ふらくは
私訳 みさごが棲む沖の荒磯に打ち寄せる波の行方が判らないように、この先、どうなるのかは判らない。私が恋い焦がれるこの想いは。

集歌2741 大海二 立良武浪者 間将有 公二戀等九 止時毛梨
訓読 大海(おほうみ)に立つらむ波は間(あひだ)あらむ公(きみ)に恋ふらく止(や)む時もなし
私訳 大海に立つと云う浪は、きっと、絶え間もあるでしょう。でも、私が貴方を恋い慕うことは止む間もありません。

 ただし、伝承や伝統を離れ、『万葉集』に載る漢語と万葉仮名だけで表記された歌を純粋に解釈する立場から漢語での「戀」と云う字に注目しますと、集歌二七四一の歌が男女の間での戀慕を詠う歌かと問われると、その答えは「男女の間での恋慕とは限定が出来ない」です。康熙字典では「戀」は「係慕也」であり、「兄弟相戀」です。では「慕」とは何かと云うと『説文解字』では「習也,愛而習翫模範之也」と説明します。慕情とは相手の振る舞いや精神を見習うとする気持ちと云うことになります。
 「戀」の本意が「係慕也」というものですと、この為でしょうか、伊藤博氏は『萬葉集釋注』の解説で、集歌二七四一の歌について次のように述べられています。

この歌の上三句のとらえ方は特異。波に絶え間のないことを知りながら、あえて絶え間がないはずはないといっているところが、おのずから下二句の主想を、知的に強調する。

 つまり、伊藤博氏がこの集歌二七四一の歌は「理詰めの歌」と感じられているのですと、「大海二立良武浪者」の用字に注目するとき、歌は尊敬する目上の人が務める遣唐使や遣新羅使に対する送別の歌である可能性が見えて来ます。そして、漢字の「九」は『説文解字』では「九,究也」と解説しますから、「公二戀等九」の句は相手を尊敬する気持ちを表現するために択び抜かれた用字であることが判ります。およそ、この集歌二七四一の歌は現代日本人的な理解ではなく、中国語を母語とするような言葉感覚の理解を求める歌となります。
 こうした時、従来の男女の恋歌である集歌二七三九の歌と集歌二七四一の歌に挟まれた集歌二七四〇の歌もまた男女の恋歌であると云う見込みは、間違いであることが判ります。伝承での見込みで、歌は「戀歌」であろうから、原文表記は間違いであり、校訂が出来ると云う前提での解釈は成り立たないことが確実のようです。およそ、そのような解釈での曲解が始まった背景に、奈良時代の知識人は遣唐使として大唐に赴いても直ちに科挙に合格した超エリート集団と対等に渡り合えるだけの学力と教養を持ち合わせていましたが、平安貴族はそうではなかったことがあるのでしょう。そのような、漢字や漢文に長けた万葉人が詠う歌を理解するのには、和歌鑑賞なのですが漢和辞典や『説文解字』のようなものを使って鑑賞をせざるを得ないことへの認識の差なのでしょう。従いまして、集歌二七四一の歌が遣唐使を送別するような歌としますと、集歌二七四〇の歌もまた、同様なものと考えることが出来るのではないでしょうか。

 もう少し、この歌で粘れるかと思いましたが、一首だけで粘るのは無理のようです。今回は、尻切れトンボのような形ですが、これで終わらせて頂きます。
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万葉雑記 色眼鏡 六六 「たぎ」と「滝」とを鑑賞する

2014年03月15日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 六六 「たぎ」と「滝」とを鑑賞する

 まだまだ、里を離れ、独り、出稼ぎをしています。その関係で使える資料は最小限ですので、引用が少なく、法螺話の類となっています。ご容赦のほどを。
 ここで扱う歌は「たぎ」又は「たき」の言葉を歌中に含むものです。この「たぎ」や「たき」と云う言葉については、注意が必要で「たぎ」または「たき」の「ぎ」や「き」には甲音と乙音との区別があり、今回の鑑賞する歌での「たぎ」または「たき」の言葉では甲音の「き」や「ぎ」の音節となります。
 上古、万葉時代には発音に関して万葉特殊仮名遣いと云うものが知られており、八八の音節がありました。ところが、八世紀末から九世紀初頭にかけて、この「き」や「ぎ」にあった甲音と乙音との区別がなくなっています。つまり、『万葉集』に対して訓点付の作業を開始した時代には、既に「多伎(たき)」と「多奇(たき)」との区別がつかなくなったようです。万葉集研究の歴史からしますと万葉特殊仮名遣いと云うものに注目が集まるのは江戸期以降とされていますので、和歌道の色濃い藤原定家の時代から昭和初期頃までは、万葉特殊仮名遣いに特段の注意を払って『万葉集』を鑑賞することはあまり行われなかったと推定されます。
 また、『万葉集』では「瀧」の文字を「たぎ」と訓むことがありますが、漢語での意味は「雨水、濡れる、浸る」のようなものが本意のようで、日本人がイメージする瀑布の意味合いはないようです。「瀧」は水飛沫が飛ぶようなイメージの字であって、落差と水量を持つ「滝」のような意味合いは持っていないと考えられます。万葉時代は本格的に大陸から直接に漢字を導入した時代とされていますから、文化導入期の特徴として渡来の文化に対して自己解釈を行うことまでは進まずに渡来したばかりの漢字本来の語意を尊重したであろうと想像されます。そうしたとき、万葉時代の人々と平安時代以降の人々との間には「たぎ」や「瀧」に対する言葉の感覚の差が存在するのではないでしょうか。つまり、「たぎ」が「滾(たぎ)」や「激(たぎ)」であり、「瀧(たぎ)」であるならば、「瀑布」としての「滝」のイメージはないのではないでしょうか。
 さて、今回、鑑賞する「たぎ」の歌として、次を紹介します。

集歌3617
訓読 石走る滝もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば都し思ほゆ  (『萬葉集釋注』より)
意訳 岩に激する滝の轟くばかりに鳴きしきる蝉、その蝉の声を聞くと、都が思い出されてならぬ。

訓読 石走る滝もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば都し思ほゆ  (『万葉集全訳注原文付』より)
意訳 岩を流れおちる滝もとどろくほどに鳴く蝉の声を聞くと、都がしのばれることよ。

 さて、個人がこの歌を鑑賞すると次のようなものとなります。

原文 伊波婆之流 多伎毛登杼呂尓 鳴蝉乃 許恵乎之伎氣婆 京師之於毛保由
訓読 石(いは)走る(はしる)激(た)ぎもとどろに鳴く蝉の声をし聞けば京し思ほゆ
私訳 巌を流れ下る急流の瀬の音が響き渡る、その瀬音かのように声を響かせて鳴く蝉の声を聞くと奈良の京が思い出されます。

 この歌は巻十五に載る遣新羅使の歌群のもので、歌が詠われたのは推定で天平四年七月上旬(新暦では八月上旬相当)、場所は安芸国長門嶋です。そして、鳴いている蝉は季節と場所からしますとクマゼミでしょうか。そのクマゼミの鳴き声を表記しますと「シャーシャーシャー」や「シィシィシィシィ」となります。
 ここで、少しとぼけた話をします。
 現代の言葉に「湯が煮え滾る」と云うものがあります。この「滾る」は「たぎる」ですが、上代では「激る」とも表記します。本来、この言葉は「水がさかまいて激しく流れる」と云う意味が原意で、ここから「煮えたつ」や「 激する気持ちが盛んにわきおこる」と云う意味合いが派生しています。出稼ぎ先ですので中学生向けのハンディ―な古語辞典である角川必携古語辞典から古語として調べますと、「たぎ・る [滾る・激る] (川の水などが)とうとうと逆巻いて流れる」とあります。当然、「滝」と云う言葉も載せてありますが、これは平安期以降の言葉としており、平安期の「滝」は万葉時代では「垂水」といって区別したらしいとしています。つまり、平安時代以降の人々がイメージする「滝」は万葉集では「垂水」であり、それは次の歌が代表するものです。
 歌の鑑賞において、集歌1142の歌の滝は、岩肌を滑るように流れるものか、細い筋の流れでの滝です。次に集歌1418の歌の滝の流れは、もう少し、水量があります。しかしながら、人が側に寄り着くことが出来そうなものです。最後の集歌3025の滝は、感覚的に大滝でなくては相手の女性に失礼です。手で水が汲めるようでは叱られます。

集歌1142 命 幸久吉 石流 垂水々乎 結飲都
訓読 命(いのち)をし幸(さき)くよけむと石(いは)流(なが)る垂水(たるみ)し水(みづ)を結すびて飲みつ
私訳 命が無事で永くあるようにと、岩肌を流れる落ちる垂水(=滝)の水を、祈るが如く両手合わせて汲んで飲みました。

志貴皇子懽御謌一首
標訓 志貴皇子の懽(よろこび)の御歌一首
集歌1418 石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨
訓読 石(いは)激(たぎ)し垂水(たるみ)し上(へ)のさわらびの萌よ出づる春になりにけるかも
私訳 滝の岩の上をはじけ落ちる垂水(=滝)の水が降り懸かる辺の緑鮮やかな若いワラビが萌え出る春になったようです。
注意 原文の「石激」は、一般に「いははしる」と訓みます。しかし、滝の水の弾け飛ぶ景色が違います。そこが奈良の歌人と平安貴族の感覚の差です。

集歌3025 石走 垂水之水能 早敷八師 君尓戀良久 吾情柄
訓読 石(いは)走(はし)る垂水(たるみ)し水の愛(は)しきやし君に恋ふらく吾(あ)が心から
私訳 岩をも流れ落ちる激しい滝の水が馳(は)しり下る。その言葉のひびきのような、心が沸き立つほどにいとおしい貴女に恋い焦がれる。私の心の底から。

 このように万葉人は、現代人の思う急流や早瀬を「タギ」と呼び、滝を「タルミ」と呼んだようです。
 ここで、最初の集歌3617の歌に戻りますと、伊藤博氏や中西進氏は伝統に従い、平安期以降の解釈で歌を解釈していると推定されますし、個人が示すものは奈良時代の万葉集歌が詠われた時代での解釈に近いものと出来ます。およそ、集歌3617の歌の世界とは、瀬音を立てて流れる水音を「ジャージャー」や「シャーシャー」とイメージし、その瀬音とクマゼミの鳴き声が等しいと感じたことが根底にあるようです。安芸国長門嶋の小川に瀬音を立てて流れる水量を求める必要はありません。蝉の声がそれを代理しますし、小川の景色とクマゼミの鳴き声とが作る音の世界が、奈良の初瀬川や吉野川を思い出せるのです。また、そのように解釈するのが良いのではないでしょうか。
 逆に先後の問題はありますが、歌の鑑賞から蝉の種類とその鳴き声が鑑賞することが出来ると云うものになります。そして、奈良の都では盛夏にクマゼミがしきりに鳴いていたと、推定することも出来そうです。それはそれとして、夏の風景を想像させる面白い歌でもあります。
 もう少し、脱線しますと、歌から奈良盆地での夏を代表する蝉がクマゼミとしますと、このクマゼミは亜熱帯系の蝉で、アブラゼミは温帯系の蝉だそうです。近年の温暖化の影響からか近畿地方でアブラゼミからクマゼミへと勢力変化が起きているとの報告があるようですので、万葉時代の奈良地方は現在よりも暖かった可能性も示唆するかもしれません。

 次に同じく、「たぎ」の歌を鑑賞します。歌は巻三に載る土理宣令と波多朝臣少足が詠う歌で、有名な歌人が詠う歌ではありません。およそ、標準的な「たぎ」の解釈が行われた歌としていいものと考えます。

土理宣令謌一首
標訓 土理(とりの)宣令(せんりょう)の謌一首
集歌313 見吉野之 瀧乃白浪 雖不知 語之告者 古所念
訓読 み吉野し瀧(たき)の白波知らねども語りし告ぐば古(いにしへ)念(おも)ほゆ
私訳 眺める美しい吉野の激流の白波(しらなみ)よ、その言葉のひびきではないが、その出来事は良くは知(しら)ないが、人々が昔話と語らい告ぐのを聞くと昔の出来事が偲ばれます。

波多朝臣少足謌一首
標訓 波多朝臣少足(をたり)の謌一首
集歌314 小浪 礒越道有 能登湍河 音之清左 多藝通瀬毎尓
訓読 さざれ波礒(いそ)越(こへ)道(ぢ)なる能登(のと)湍川(せかは)音(おと)しさやけさ激(たぎ)つ瀬ごとに
私訳 ささ波が磯を越える、その礒越えの道がある能登の早瀬の川音が清らかだ、急流に波立つ瀬毎に。

 面白いでしょう。歌の表現である「瀧乃白浪」からしますと、この情景は滝壺に渦巻く水ではありません。水飛沫を立てて流れ下る川の流れです。およそ、集歌313の歌で使われる「瀧」の字は漢字原意に近く、「湍河」が「たぎつ」状態であることを示す言葉であろうと理解できるのではないでしょうか。これが万葉時代人の言語感覚のようです。
 この感覚で、もう少し、「たぎ」の歌をみてみます。

集歌991
訓読 石(いは)走るたぎち流るる泊瀬川絶えることなくまたも来て見む  (『萬葉集釋注』より)
意訳 岩に激して、ほとばしり流れる泊瀬川、この川の流れが絶えないように、絶えることなくまたやって来てこの川を見よう。

訓読 石(いは)走る激(たぎ)ち流るる泊瀬川絶えることなくまたも来て見む  (『万葉集全訳注原文付』より)
意訳 岩の上を走りほとばしっては流れる泊瀬川よ。絶え間なくまた来ては見よう。

 紹介しましたようにこの集歌991の歌での「タギ」は川の瀬に岩肌が見え隠れするような急流を意味しており、伊藤博氏も中西進氏もそのように解釈されており、後年の「滝」のイメージはありません。参考として個人の解釈を紹介しますが、「タギ」の言葉の解釈は同じものをイメージしており、伊藤博氏や中西進氏のものと同じです。

集歌991 石走 多藝千流留 泊瀬河 絶事無 亦毛来而将見
訓読 石(いは)走(ばし)り激(たぎ)ち流るる泊瀬川絶ゆることなくまたも来て見む
私訳 磐を走りほとばしり流れる泊瀬川よ。その流れる水が絶えることがないように、絶えることなく再び来て眺めよう。

 以上、歌を紹介し、その鑑賞から「たぎ」の言葉が意味するものへの共通認識が出来たところで、次の歌を見てみます。

集歌39
訓読 山川も依りて仕える神ながらたぎつ河内に舟出せすかも  (『萬葉集釋注』より)
意訳 山の神や川の神までも心服してお仕えする尊い神であられるままに、我が大君は吉野川の、この激流渦巻く河内に船を漕ぎ出される。

訓読 山川も依(よ)りて仕(つか)ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも  (『万葉集全訳注原文付』より)
意訳 山も川も一つとなって奉仕する現人神は神そのものとして、激流ほとばしる河内に船をお出しになることよ。

 さて、この歌で詠う「山川も依(よ)りて仕(つか)ふる」と云う状況は、この歌が添える長歌に詠われています。それが次の状況です。

集歌38 安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 吉野川 多藝津河内尓 高殿乎 高知座而 上立 國見乎為波 畳有 青垣山 ゞ神乃 奉御調等 春部者 花挿頭持 秋立者 黄葉頭判理(一云、黄葉加射之) 遊副 川之神母 大御食尓 仕奉等 上瀬尓 鵜川乎立 下瀬尓 小網刺渡 山川母 依弖奉流 神乃御代鴨
訓読 やすみしし わご大王(おほきみ) 神ながら 神さびせすと 吉野川 激つ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば 畳はる 青垣山 山神の 奉(まつ)る御調(みつき)と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉(もみち)をうなり(一は云はく、黄葉かざし) 遊(ゆ)き副(そ)ふ 川し神も 大御食(おほみけ)に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも
私訳 地上の隅々まで統治する我が大王は生まれながらの神ですが神らしくいらっしゃると、吉野川の激しい水の流れの河の内に高殿を御建てになって、そこの登りお立ちになって国見を為されると折り重なる青垣山の山の神が奉る御調として春には桜の花を咲かせ、秋になると黄葉(もみじ)は枝たれて、御遊(みゆき)に副(そ)へる川の神も大王の大御食にご奉仕するとして上流の瀬で鵜飼を行い、下流の瀬に小網を刺し渡すように山や川の神々も大王に依ってご奉仕する。現御神の御世です。

 つまり、山の神は春には山桜の花で持統天皇を祝い、秋には紅葉で祝います。一方、川の神は上流の瀬では鵜飼漁で、下流の瀬では刺し網漁で川魚のご馳走を準備して持統天皇を祝うとしています。これを短歌では「山川毛 因而奉流(山川も依(よ)りて仕(つか)ふる)」と端的に詠います。
 ここで、当時の鵜飼漁を調べてみますと、現在では主流となった舟を使うものではなく、大伴家持が詠う集歌4011の「思放逸鷹夢見、感悦作謌一首」の長歌の一節「鵜養我登母波 由久加波乃 伎欲吉瀬其等尓 可賀里左之 奈豆左比能保流(鵜養が伴は 行く川の 清き瀬ごとに 篝さし なづさひ上る)」を参考にしますと、徒歩によるものであったと推測が可能です。ちょうどこれは、これは戦前に多摩川でも行われていた徒歩鵜飼漁と云うものになります。
 すると、集歌39の歌が詠う世界は、視界が入る川の上流では徒歩鵜飼が行われる人が歩けるほどの瀬があり、下流では刺し網が施せるほどの水深のある瀬があります。そして、その上流の瀬と下流の瀬の間には持統天皇を載せた御座船が遊ぶほどの面積を持った水面が存在することになります。これが集歌39の歌が詠う世界です。そうしますと、「たぎつ河内に舟出せすかも」の句において「山川も依(よ)りて仕(つか)ふる神ながら」の句が誇張であるならば、この「たぎつ」も誇張であると思われます。
 およそ、現実の水面はずいぶん上流の視界の内に、早瀬の白波が見える程度のもので、船出して遊ぶ場所は淀と考えるのが相当でしょう。真面目に古語の言葉や万葉集歌を鑑賞すると、吉野観光では話題となる「宮滝」の景色は見えません。その景色を想像したのは「処女」の文字に興奮した明治から昭和初期の文人だけではないでしょうか。御存知のように漢語の世界では、三十歳を超えた数人の子供を持った「処女」はそれほど不自然な言葉ではありません。

反歌
集歌39 山川毛 因而奉流 神長柄 多藝津河内尓 船出為加母
訓読 山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも
私訳 山や川の神々も大王に依ってご奉仕する現御神として流れの激しい川の中に船出なされるようです。


 今回も、『万葉集』に載る漢字から遊んでしまいました。ただ、真摯に『万葉集』を高校や大学で学ばれている人には、実に申し訳ないことです。ここでのものは正統ではありません。単なる与太話です。馬鹿話です。
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万葉雑記 色眼鏡 六五 酒を詠う歌を楽しむ

2014年03月08日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 六五 酒を詠う歌を楽しむ

 今回は、『万葉集』に載る、酒を歌に織り込んだ短歌を楽しみたいと思います。
 現代でも文学の世界でも酒は題材や場面として重要なものですので、『万葉集』でも酒をテーマとして歌に織り込んだ歌は相当数あるのではないかと調べますと、「酒」と云う言葉を織り込んだ短歌は二十九首しかありませんでした。この歌数の中には枕詞として扱われるような「味酒」の言葉が四首、「神酒」が二首ほど含まれていますから、実質上では二十三首が飲む酒に関係する歌となります。また、集歌五五四の歌での「酒」の文字は、場合によっては「洒」が本来ではないかとも考えられますので、酒をテーマとして歌に織り込んだ歌で確定が出来るものは二十二首ほどになります。
 さて、この二十三首の内、十一首は都合十三首で構成する歌群に含まれる歌ですから、その歌群のものは最後に紹介するとして、問題の集歌五五四の歌を最初に取り上げ、次いで残りの十二首を紹介しようと思います。

集歌554 古 人乃令食有 吉備能洒 痛者為便無 貫簀賜牟
試訓 古(いにしへ)し人の食(き)こせる吉備(きび)の洒(みず)痛(いた)めばすべなし貫簀(ぬきす)賜(たば)らむ
試訳 亡くなられた大王がお召になられた吉備の御方の御体を洗い清めたい。このように亡くなられたのならばしかたがない。葬送の寝台に敷く清らかな簀を吉備の御方に賜りたい。

標準的な解釈として紹介
訓読 古人(ふるひと)のたまへしめたる吉備(きび)の酒(さけ)病(や)まばすべなし貫簀(ぬきす)賜(たは)らむ (『萬葉集釋注』による)
意訳 昔馴染の方が送って下さった吉備の酒、このお酒も飲み過ごして気分が悪くなったら、どうしようもありません。今度は枕許に置く貫簀を頂けたらと存じます。そしたら安心して頂けましょう。

訓読 古(いにしへ)の人の食(き)こせる吉備(きび)の酒病(や)めばすべなし貫簀(ぬきす)賜(たは)らむ (『万葉集全訳注原文付』による)
意訳 昔の人の召し上がったという吉備の酒も病気の私には無用のものです。御当地に名だかい貫簀を下さいまし。
注意 『万葉集全訳注原文付』の脚注では、「貫簀は竹で編み手洗に用いた。筑後の正税帳にこの工人を貢ずる記事がある」と解説します。なお、平安時代中期以降ではこの解説で正しいのですが、奈良時代以前は「寝台(ベッド)に敷いた竹を編んだ筵」を意味します。

 紹介しました集歌五五四の歌の原文「痛者為便無」の「痛」の文字は、一般に「病」の誤記と解釈して「病めばすべなし」と訓みます。また、「吉備能洒」の「洒」の文字は「酒」の誤記として「吉備の酒」と訓みます。なお、原文での「洒」の文字は『說文解字』では「浴、洒身也。洗、洒足也」とその語意を説明します。個人の鑑賞での試訓は奈良時代の文化風習を下に原文を尊重して歌を訓んでいますので、集歌554の歌の解釈は平安時代中期以降の風習を下にした一般のものとは大きく違います。今回は、一般的な「酒」を楽しむ歌として標準的な訓みでの「酒」の歌としました。標準的には、この歌は参考歌として紹介します集歌五五三の歌と合わせて丹生女王との恋愛相聞歌として解釈します。

参考歌
丹生女王贈太宰帥大伴卿謌二首
標訓 丹生女王(にふのおほきみ)の太宰帥大伴卿に贈れる謌二首
集歌553 天雲乃 遠隔乃極 遠鷄跡裳 情志行者 戀流物可聞
訓読 天雲のそくへの極み遠けども心し行けば恋ふるものかも (『萬葉集釋注』による)
意訳 あなたのいらっしゃる筑紫は、天雲の果ての遥かかなたですが、心はどんなに遠くても通って行くので、こうも恋しく思うものなのですね。
試訓 天雲の遠隔(そくへ)の極(きはみ)遠けども心し行けば恋ふるものかも
試訳 亡くなられた御方がいらっしゃる天雲の遥か彼方の極みは遠いのですが、私の心はそこに通って行っているので、それで、あの御方が恋しいのでしょうか。

 以下に紹介します「酒」を歌に織り込んだ歌について、ここで紹介するものと標準的な解釈とはそれほどには乖離はないものと考えています。そのため特別には解説を入れません。歌のままに楽しんで下さい。

「太宰帥大伴卿贈大貳丹比縣守卿遷任民部卿謌一首」より
集歌555 為君 醸之待酒 安野尓 獨哉将飲 友無二思手
訓読 君しため醸(か)みし待酒(まちさけ)安し野にひとりや飲まむ友無しにして
私訳 貴方のために醸(かも)して造ったもてなしの酒を、太宰の夜須の野で私は一人で飲むのでしょう。貴方と云う友を失くして。

「梅花歌三十二首并序」より 壹岐目村氏彼方の歌
集歌840 波流楊那宜 可豆良尓乎利志 烏梅能波奈 多礼可有可倍志 佐加豆岐能倍尓
訓読 春(はる)柳(やなぎ)鬘(かづら)に折りし梅の花誰れか浮かべし酒坏の上に
私訳 春の柳の若芽の枝を鬘に手折り、梅の花を誰れもが浮かべている。酒坏の上に。

「梅花歌三十二首并序」に対する「後追和梅謌四首」より
集歌852 烏梅能波奈 伊米尓加多良久 美也備多流 波奈等阿例母布 左氣尓于可倍許曽
訓読 梅の花夢に語らく風流(みや)びたる花と吾(あ)れ思(も)ふ酒に浮かべこそ
私訳 梅の花が夢に語るには「雅な花だと私は想う」、その雅な梅の花である私を酒に浮かべましょう。

「湯原王打酒謌一首」より
集歌989 焼刀之 加度打放 大夫之 壽豊御酒尓 吾酔尓家里 (壽は、示+壽の当て字)
訓読 焼(やき)太刀(たち)し稜(かど)打ち放(は)ち大夫(ますらを)し寿(は)く豊御酒(とよみさけ)に吾れ酔(よ)ひにけり
私訳 焼いて鍛えた太刀の稜を鞘から打ち放ち舞い、大夫の寿を祝う立派な御酒に私は酔ってしまった。

巻七 旋頭歌より
集歌1295 春日在 三笠乃山二 月船出 遊士之 飲酒坏尓 陰尓所見管
訓読 春日(かすが)なる三笠の山に月船し出づ 遊士(みやびを)し飲む酒杯(さかづき)に影にし見つつ
私訳 春日にある三笠の山に月の船が出る。風流の人の飲む杯の中にその月の姿を影として見せながら。

「大伴坂上郎女謌一首」より
集歌1656 酒杯尓 梅花浮 念共 飲而後者 落去登母与之
訓読 酒杯(さかづき)に梅の花浮け思ふどち飲みての後(のち)は落(ち)りぬともよし
私訳 酒盃に梅の花びらを浮かべ、風流を共にするものが酒を飲んだ後は、花が散ってしまっても良い。
和謌一首
標訓 和(こた)へたる謌一首
集歌1657 官尓毛 縦賜有 今夜耳 将欲酒可毛 散許須奈由米
訓読 官(つかさ)にも許(ゆる)したまへり今夜(こよひ)のみ飲まむ酒(さけ)かも散りこすなゆめ
私訳 天皇は「酒は禁制」とおっしゃっても、太政官はお許しくださっている。今夜だけ特別に飲む酒です。梅の花よ、決して散ってくれるな。
右、酒者宮禁制、称京中閭里不得集宴。但親々一二飲樂聴許者。縁此和人作此發句焉。
注訓 右は、酒は宮の禁制(きんせい)にして、称(い)はく「京(みやこ)の中(うち)の閭里(さと)に集宴(うたげ)することを得ざれ。ただ親々一二(はらからひとりふたり)の飲樂(うたげ)を許すは聴く」といへり。此の縁(えにし)に和(こた)ふる人、此の發句(はつく)を作れり。
注意 左注の「宮禁制称京中閭里不得集宴」の「宮」は、一般に「官」の誤記とします。ただし、誤記論を取ると、歌の内容と左注の内容に矛盾が現れます。

「太上皇御在於難波宮之時謌七首」より
河内女王謌一首
標訓 河内(かふちの)女王(おほきみ)の謌一首
集歌4059 多知婆奈能 之多泥流尓波尓 等能多弖天 佐可弥豆伎伊麻須 和我於保伎美可母
訓読 橘の下(した)照(て)る庭に殿(との)建てて酒みづきいます我が大王(おほきみ)かも
私訳 橘の根元も輝くように美しい庭に御殿を建てて、酒を杯に盛っていらっしゃる吾等の大王よ。
注意 原文の「和我於保伎美可母」の「於保伎美」は、一般の解釈とは違い、大王と訓み、左大臣橘卿を意味します。

「見攀折保寶葉謌二首」より
集歌4205 皇神祖之 遠御代三世波 射布折 酒飲等伊布曽 此保寶我之波
訓読 皇神祖(すめろぎ)し遠(とほ)御代(みよ)御代(みよ)はい重(し)き折(お)り酒(さけ)飲むといふぞこの保寶(ほおがし)葉(は)
私訳 天皇の遠い昔の御代御代には、この大きな葉を折り重ねて杯として酒を飲んだと云います。この保寶(=ホウノキ)の葉を。
守大伴宿祢家持
注訓 守大伴宿祢家持

「閏三月、於衛門督大伴古慈悲宿祢家、餞之入唐副使同胡麻呂宿祢等謌二首」より
集歌4262 韓國尓 由伎多良波之氏 可敝里許牟 麻須良多家乎尓 美伎多弖麻都流
訓読 唐国(からくに)に行き足(た)らはして帰り来む大夫(ますら)健男(たけを)に御酒(みき)奉(たてまつ)る
私訳 唐の国に行き勤めを果たして帰って来るでしょう、その立派な大夫や健男に御酒を奉ります。
右一首、多治比真人鷹主壽副使大伴胡麻呂宿祢也
注訓 右の一首は、多治比真人鷹主の副使大伴胡麻呂宿祢を壽(いは)ひけり

「廿五日、新甞會肆宴、應詔謌六首」より
集歌4275 天地与 久万弖尓 万代尓 都可倍麻都良牟 黒酒白酒乎
訓読 天地と久しきまでに万代(よろづよ)に仕へまつらむ黒酒(くろき)白酒(しろき)を
私訳 天地と共に永遠に、万代までお仕えしよう。新嘗の黒酒と白酒を捧げて。
右一首、従三位文屋知奴麿真人
注訓 右の一首は、従三位文屋知奴麿真人

 ここまでの「酒」を織り込んだ歌は、ほぼ、通り一遍のような感じを抱かせるような歌です。宴会なら、いかにも詠いそうな雰囲気の歌と考えます。
 ところが次に紹介するものは、ここまでに紹介したものと少し様子が違います。最初に歌を紹介して、話題を提供しようと思います。なお、十三首の内、二首には「酒」の言葉はありませんが、同じテーマのものとして紹介します。

大宰帥大伴卿讃酒謌十三首
標訓 大宰帥大伴卿の酒を讃(たた)へる歌十三首
集歌338 験無 物乎不念者 一坏乃 濁酒乎 可飲有良師
訓読 験(しるし)なき物を念(おも)はずは一杯(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし
私訳 考えてもせん無いことを物思いせずに一杯の濁り酒を飲むほうが良いのらしい。

集歌339 酒名乎 聖跡負師 古昔 大聖之 言乃宜左
訓読 酒し名を聖(ひじり)と負(お)ほせし古(いにしへ)し大き聖(ひじり)し言(こと)の宣(よろ)しさ
私訳 酒の名を聖と名付けた昔の大聖の言葉の良さよ。

集歌340 古之 七賢 人等毛 欲為物者 酒西有良師
訓読 古(いにしへ)し七(なな)し賢(さか)しき人たちも欲(ほ)りせしものは酒にしあるらし
私訳 昔の七人の賢人たちも欲しいと思ったのは酒であるらしい。

集歌341 賢跡 物言従者 酒飲而 酔哭為師 益有良之
訓読 賢(さか)しみと物言ふよりは酒飲みて酔ひ泣きするしまさりたるらし
私訳 賢ぶってあれこれと物事を語るよりは、酒を飲んで酔い泣きするほうが良いらしい。

集歌342 将言為便 将為便不知 極 貴物者 酒西有良之
訓読 言(い)はむすべ為(せ)むすべ知らず極(きは)まりて貴(たふと)きものは酒にしあるらし
私訳 語ることや事を行うことの方法を知らず、出所進退が窮まると、そんな私に貴いものは酒らしい。

集歌343 中々尓 人跡不有者 酒壷二 成而師鴨 酒二染甞
訓読 なかなかに人とあらずは酒壷(さかつぼ)になりにてしかも酒に染(し)みなむ
私訳 中途半端に人として生きていくより、酒壷になりたかったものを。酒に身を染めてみよう。

集歌344 痛醜 賢良乎為跡 酒不飲 人乎熟見 猿二鴨似
訓読 あな醜(みにく)賢(さか)しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む
私訳 なんと醜い。賢ぶって酒を飲まない人をよく見るとまるで猿に似ている。

集歌345 價無 寳跡言十方 一坏乃 濁酒尓 豈益目八
訓読 価(あたひ)なき宝といふとも一杯(ひとつき)の濁れる酒にあにまさめや
私訳 価格を付けようもない貴い宝といっても、一杯の濁った酒にどうして勝るでしょう。

集歌346 夜光 玉跡言十方 酒飲而 情乎遣尓 豈若目八方
訓読 夜光る玉といふとも酒飲みて情(ここら)を遣(や)るにあに若(し)かめやも
私訳 夜に光ると云う玉といっても、酒を飲んで心の憂さを払い遣るのにどうして及びましょう。

集歌347 世間之 遊道尓 冷者 酔泣為尓 可有良師
訓読 世間(よのなか)し遊(みや)びし道に冷(つめ)たきは酔ひ泣きするにあるべくあるらし
私訳 世間で流行る漢詩の道に背を向ける行いとは、酒に酔って泣いていることであるらしい。
注意 原文の「冷者」の「冷」は、一般に「怜」に改訂されています。ここでは原文のままとします。

集歌348 今代尓之 樂有者 来生者 蟲尓鳥尓毛 吾羽成奈武
訓読 この世にし楽しくあらば来(こ)む世には虫に鳥にも吾はなりなむ
私訳 この世が楽しく過ごせるのなら、来世では虫でも鳥でも私はなってもよい。

集歌349 生者 遂毛死 物尓有者 今生在間者 樂乎有名
訓読 生(い)ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間(ま)は楽しくをあらな
私訳 生きている者は最後には死ぬものであるならば、この世に居る間は楽しくこそあってほしい。

集歌350 黙然居而 賢良為者 飲酒而 酔泣為尓 尚不如来
訓読 黙然(もだ)居(を)りて賢(さか)しらするは酒飲みて酔ひ泣きするになほ若(し)かずけり
私訳 ただ沈黙して賢ぶっているよりは、酒を飲んで酔い泣きすることにどうして及びましょう。

 紹介しましたものは有名な大伴旅人が詠う「讃酒歌十三首」の標題を持つ歌群です。最初に紹介したものと比べますと、すぐにお判りになると思いますが、この「讃酒歌十三首」は『万葉集』に載る他の酒を歌に取り込むものとは異質なものなのです。そのため、この異質性から万葉集鑑賞が明治時代の斎藤茂吉氏を代表とする好事家や和歌人のものから学問としての研究対象になるにつれ、享楽としての酒を讃える歌として解釈するものから、人生の悲嘆を酒と云うものの名を借りて詠うものへと研究深度と鑑賞態度が変化しました。
 こうしたとき、この大伴旅人が詠う「讃酒歌」は、『万葉集』にこの歌々が詠われた時期は記述されていません。しかしながら、『万葉の歌人と作品』第四巻 大伴旅人・山上憶良(一) (和泉書院) (以下、『万葉の歌人と作品』)において、伊藤益氏は、この「讃酒歌」はおよそ神亀六年三月下旬から四月上旬にかけて詠われたと推定されています。そして、同じ『万葉の歌人と作品』に論文を載せる大久保氏や村山氏を始め、多くの研究者もまた「讃酒歌」は神亀六年(天平元年)三月中旬からその年のものと推定しています。つまり、現代の万葉集研究では、この「讃酒歌」と神亀六年二月に藤原一族が引き起こした、当時の政府首班を取る太政大臣であった長屋親王を襲撃・殺害した「長屋王の変」と云うクーデターとの関係を疑い、同時に大伴旅人は殺された長屋親王に組する側に立つ人物であったと想像します。
 他方、弊著「(仮称)山上憶良 日本挽歌を鑑賞する」で詳しく説明しますように「万葉集暦 神亀五年」は「公暦 神亀六年」と同じ年代です。つまり、この「讃酒歌十三首」が詠われた時、同時に大伴旅人は「報凶問歌」を詠っていたと推定されるのです。

大宰帥大伴卿報凶問歌一首
標訓 大宰帥大伴卿の凶問(きょうもん)に報(こた)へたる歌一首
(書簡文)
禍故重疊 禍故(くわこち)重疊(ようてふ)し
凶問累集 凶問(きょうもん)累集(るいじふ)す
永懐崩心之悲 永(ひたふる)に崩心の悲しびを懐(むだ)き
獨流断腸之泣 獨り断腸の泣(なみだ)を流す
但 ただ
依両君大助 両君の大きなる助(たすけ)に依りて
傾命纔継耳 命を傾け纔(わづか)に継ぐのみ
(筆不盡言 古今所歎) (筆の言を盡さぬは、古今の歎く所なり)

私訳 禍の種が度重なり、京からの死亡通知が机に積み上がります。いつまでも、心が崩れ落ちるような深い悲しみを胸の内に抱き、独り 身を切り裂くような辛い涙を流しています。ひたすら、両君の大きなご助援により、私の命をかけて、これから、我が使命を継いで行くだけです。(手紙で伝えたいことを伝えきれないのは、昔も今も、そのもどかしさを嘆くところです。)

集歌793 余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理
訓読 世間(よのなか)は空(むな)しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
私訳 人の世が空しいものと思い知らされたとき、いよいよ、ますます、悲しいことです。


 「(仮称)山上憶良 日本挽歌を鑑賞する」で説明するように、雰囲気として、皇太子夫人として嫁いだ娘が「長屋王の変」と云うクーデターで殺され、その娘の遺髪と共に元正太上天皇からの葬送に使う恩賜の品物が祭壇に置かれているとして、歌を鑑賞してみてください。そうしたとき、「價無 寳跡言十方 一坏乃 濁酒尓 豈益目八」の意味が沁みると思います。そして、幼少から皇子の帝王教育に関与し、その殺された膳部親王に親しく仕えることが出来るのならと旅人が願ったと想像するとき、「今代尓之 樂有者 来生者 蟲尓鳥尓毛 吾羽成奈武」の心が判ると感じます。
 歴史を背景するとき、歌の感情は変わります。

 その歴史を背景に「讃酒歌十三首」の応歌として次の歌を鑑賞してみてください。今までの鑑賞とは違ってくるのではないでしょうか。

沙弥満誓謌一首
標訓 沙弥満誓の謌一首
集歌351 世間乎 何物尓将譬 且開 榜去師船之 跡無如
訓読 世間(よのなか)を何に譬(たと)へむ且(そ)は開(ひら)き榜(こ)ぎ去(い)にし船し跡なきごとし
私訳 この世を何に譬えましょう。それは、(実際に船は航海をしても)帆を開き帆走して去っていった船の跡が残らないのと同じようなものです。
注意 原文の「且開」の「且」は、一般に「旦」の誤記として「旦開」とし「朝開き」と訓みます。歌意は大幅に変わります。

 今回は個人の鑑賞を強いるようなものとなりました。本来、自由であるべき詩歌の鑑賞に個人の主張を押し付けると云う無作法をしてしまいました。恥ずかしいことです。ただ、このような考えもあるとして、寛容な心で御許しを。
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万葉雑記 色眼鏡 六四 万葉集の漢字を楽しむ

2014年03月01日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 六四 万葉集の漢字を楽しむ

 生活の為、出稼ぎ生活をしています。そのため、資料参照は基本的にインターネット情報だけです。その情報を頼りに、今回は『万葉集』に載る漢字について楽しみたいと思います。ただ、真面目に『説文解字』などから『万葉集』に載る漢字を調べ、隋唐時代の語釈を想定して、『万葉集』の歌を鑑賞しますと、現代に信じられている奈良時代貴族の婚姻や恋愛相関図が、結構、怪しい、「トンデモ学説」ではないかと云う疑惑が現れます。
 『万葉集』に載る漢字と云うだけでは漠然としますので、ここでは男女関係を示す漢字を取り上げてみます。それが、「娉」、「娶」、「嫁」の漢字です。出稼ぎ中の手持ちの資料として『萬葉集釋注』(伊藤博、集英社文庫)を使用してその訓みを紹介しますと、「娉」は「つまどふ」、「娶」は「めとる」、「嫁」は「とつぐ」となっています。
 さて、平安時代後期以降の漢字の字解解釈を、一度、棚置きにしますと、奈良時代前期以前の漢字解釈については当時に輸入されたであろう漢字字典である『説文解字』に従うのがよぃのではないかと考えます。例として、シェークスピア時代の大英帝国での英語と現代アメリカ合衆国での英語とにおいて、シェークスピアの記す文章での単語が意味するものが現代アメリカ合衆国でのものと等しい解釈であるかどうかは不明です。そのため、初心者ですとシェークスピア文学などの古典鑑賞ではオックスフォード英英辞典などを準備して鑑賞します。至極自然なことです。
 同様な手続きで『説文解字』などで『万葉集』に載る漢字を調べるとき、インターネットでは「漢典」と云う有名なサイトがあります。HP「漢典」の字解では『康熙字典』と『説文解字』との両方を紹介しますので、非常に便利で重宝なものです。そのHP「漢典」を利用して「娉」の漢字に対する解説について調べてみますと、『説文解字』では「問也。凡娉女及聘問之禮古皆用此字。娉者、專詞也。聘者、氾詞也。耳部曰。聘者、訪也」とあります。一方、「娶」の漢字に対する解説では「取婦也。取彼之女爲我之婦也」と説明します。また、「嫁」の漢字に対しては『説文解字』では「女適人也。一曰家也、故婦人謂嫁曰歸」とあり、さらにこれを補足するものとして『康熙字典』からは「揚子•方言」では「自家而出、謂之嫁」と説明し、「禮•内則」から「女子二十而嫁」なる文節を引用して説明します。
 漢字の成り立ちからしますと、「娉」は「聘問」が根底にあり、その文字には「娶」や「嫁」の文字が持つ婚姻と云う語感を持たないものであることが判ります。つまり、「娉」の漢字には「妻問う」や「呼ばふ」、または「夜這ふ」などの意味合いは全く無いことが確認出来ます。こうした時、初心者向けの万葉集全訳注本である『万葉集全訳注原文付』(中西進、講談社文庫)では、この「娉」の字を「よばひ」と訓み、集歌101の歌の標題「大伴宿祢娉巨勢郎女時謌一首」と集歌102の歌への脚注「巨勢郎女はこの婚姻によって配流を免れたか」との解説からしますと、「娉」の字に「婚姻」なる行為を想定していると思われます。同じ歌の解説を『萬葉集釋注』にみますと、「この二人も、馴れ親しんで許し合う心情の上に乗っかりあうことで、互いの愛を確かめているのである」としていますから、「娉」の字に男女の交わりを想定していると思われます。ただ、繰り返しますが『説文解字』などの字解からしますと、漢字本来の意味合いからしますと標題漢文にあるのは詩歌の世界での「相聞」の意味合いだけです。
 当然、万葉集の歌を標題や左注の漢文を含めて鑑賞すると云う行為は、伊藤博氏がその『萬葉集釋注』で紹介するように語釈を中心に和歌一首ごとに注解を行うのを研究の本流とする一般的な万葉集研究者からすれば反則技です。そのような一般的な万葉集研究者からすれば、藤原定家が解釈したであろう、「娉」の漢字には「妻問う」や「呼ばふ」、または「夜這ふ」の意味があるとするのが伝統ですし、それがある種の秘伝であり、伝授です。

 さて、本来、漢字が持つ意味への字解は、さておき、その左注に「嫁」と「娉」との漢字が使われている有名な歌を紹介します。ちなみに万葉集中で「嫁」の文字は二首、「娉」の文字は六首、「娶」の文字は七首だけで使われる漢字ですので、紹介するものは希少なものになります。
 歌は『万葉集』巻四 相聞の部に収められる私的な七夕の宴で詠われた藤原麻呂と大伴坂上郎女との相聞問答歌です。歌の標題で示される藤原麻呂の官職肩書である京職大夫から推定しますと、歌は養老五年七月または六年七月のものとなります。風流人交流において大伴家と藤原家との関係から想像しますと、藤原房前が佐保の大伴旅人の屋敷で開く七夕の宴に呼ばれたとき、藤原麻呂もまた同道した可能性があります。

京職藤原大夫贈大伴郎女謌三首  卿諱曰麿也
標訓 京職、藤原大夫の大伴郎女に贈れる歌三首  卿の諱(いみな)を麿というなり
集歌522 感嬬等之 珠篋有 玉櫛乃 神家武毛 妹尓阿波受有者 (感は、女+感)
訓読 宮女(をとめ)らし珠篋(たまくしげ)なる玉櫛(たまくし)の神さびけむも妹に逢はずあれば
私訳 宮女たちが美しい箱に入れて大切にしている櫛が美しい娘女の髪(かみ)に相応しいように、私はまるで恋人に逢えない天上の彦星のような神(かみ)めいてしまったのだろうか、貴女に逢わないでいると。

集歌523 好渡 人者年母 有云乎 何時間曽毛 吾戀尓来
訓読 よく渡る人は年にもあり云ふを何時(いつ)し間(ま)にそも吾が恋ひにける
私訳 上手に川を渡る彦星は年に一度は恋人と逢うことがあると云うらしい、そんな彦星と織姫が逢う、そのようなわずかな間なのに、私は貴女に恋をしている

集歌524 蒸被 奈胡也我下丹 雖臥 与妹不宿者 肌之寒霜
訓読 むし衾(ふすま)和(な)ごやが下に臥(ふ)せれども妹とし寝(ゐ)ねば肌し寒しも
私訳 体を暖かく蒸すような寝具の柔らかいものを被って寝ているけれど、貴女と共寝をしないので肌寒いことです。

大伴郎女和謌四首
標訓 大伴郎女の和(こた)へたる歌四首
集歌525 狭穂河乃 小石踐渡 夜干玉之 黒馬之来夜者 年尓母有粳
訓読 佐保川(さほかわ)の小石(こいし)踏み渡りぬばたまし黒馬(くろま)し来る夜は年にもあらぬか
私訳 佐保川の小石を踏み渡って、七夕馬を祭る七夕の、その七夕の暗闇の中を漆黒の馬が来る夜のように、貴方が私を尋ねる夜は年に一度はあってほしいものです

集歌526 千鳥鳴 佐保乃河瀬之 小浪 止時毛無 吾戀者
訓読 千鳥鳴く佐保(さほ)の川瀬しさざれ波止む時も無み吾が恋ふらくは
私訳 千鳥が鳴く佐保の川の瀬の小波が止むこともない、私の恋のように

集歌527 将来云毛 不来時有乎 不来云乎 将来常者不待 不来云物乎
訓読 来(こ)む云ふも来(こ)ぬ時あるを来(こ)じ云ふを来(こ)むとは待たじ来(こ)じ云ふものを
私訳 私の許に来ると云っても来ないときがあるのに、私の許に来ないと云うのを来るだろうと貴方を待ちません、私の許に来ないと云われるのに

集歌528 千鳥鳴 佐保乃河門乃 瀬乎廣弥 打橋渡須 奈我来跡念者
訓読 千鳥鳴く佐保(さほ)の川門(かわと)の瀬を広み打橋渡す汝(な)が来(く)と念(おも)へば
私訳 千鳥鳴く佐保の川の渡りの瀬は広いので、川に杭を打って橋も架けましょう、貴方が私の許に来ると想うと
右、郎女者、佐保大納言卿之女也。初嫁一品穂積皇子、被寵無儔。而皇子薨之後時、藤原麿大夫娉之郎女焉。郎女、家於坂上里。仍族氏号曰坂上郎女也。
注訓 右の、郎女(いらつめ)は、佐保大納言卿の女(むすめ)なり。初め一品穂積皇子に嫁(とつ)ぎ、寵(うつくし)びを被むること儔(たぐひ)なかりき。皇子の薨(みまか)りしし後に藤原麿大夫、郎女を娉(よば)へし。郎女は、坂上の里に家(す)む。その族氏(うから)号(なづ)けて坂上郎女といへり。

 ここで、不思議の話をします。
 伝統でこの相聞問答歌から、大伴坂上郎女は藤原麻呂の下に嫁いだか、麻呂が坂上郎女の許に妻問ひを行ったと解釈し、大伴坂上郎女には少なくとも、穂積皇子、藤原麻呂、大伴宿奈麻呂と、順次、三人の夫がいたとします。その根拠は「娉」の用字にあります。およそ、宮中や私邸で開かれる宴で有名女流歌人として相聞・問答歌を披露すると、明治時代では宮武外骨たちに淫売と罵られ、現代では多数の夫を持った恋多き女性と紹介されます。これを普通には誹謗・冤罪と云いますし、その罵倒される本源は宮武外骨を始めとする人たちが『万葉集』に載る漢文が理解出来なかったことに起因します。ただ、明治時代人の宮武外骨たちだけが『万葉集』に載る漢文が理解出来なかったかと云うとそうではありません。甲子園短期大学紀要(2010)に載る「藤原麻呂の前半生についてー長屋王の変前夜までー」(大本好信)に紹介されるように、現在でもなお、専門研究家は大真面目で「娉」を「妻問う」や「呼ばふ」と解釈することを暗黙の了解の下、議論をします。

 遊びですが、歌の順を入れ替えますと、次のような雰囲気の問答となります。

集歌522 感嬬等之 珠篋有 玉櫛乃 神家武毛 妹尓阿波受有者 (感は、女+感)
訓読 宮女(をとめ)らし珠篋(たまくしげ)なる玉櫛(たまくし)の神さびけむも妹に逢はずあれば
私訳 宮女たちが美しい箱に入れて大切にしている櫛が美しい娘女の髪(かみ)に相応しいように、私はまるで恋人に逢えない天上の彦星のような神(かみ)めいてしまったのだろうか、貴女に逢わないでいると。

集歌526 千鳥鳴 佐保乃河瀬之 小浪 止時毛無 吾戀者
訓読 千鳥鳴く佐保(さほ)の川瀬しさざれ波止む時も無み吾が恋ふらくは
私訳 千鳥が鳴く佐保の川の瀬の小波、その言葉の響きではありませんが、それが止むときも無み、私の恋のように

集歌528 千鳥鳴 佐保乃河門乃 瀬乎廣弥 打橋渡須 奈我来跡念者
訓読 千鳥鳴く佐保(さほ)の川門(かわと)の瀬を広み打橋渡す汝(な)が来(く)と念(おも)へば
私訳 千鳥鳴く佐保の川の渡りの瀬は広いので、川に杭を打って橋も架けましょう、貴方が私の許に来ると想うと

集歌523 好渡 人者年母 有云乎 何時間曽毛 吾戀尓来
訓読 よく渡る人は年にもあり云ふを何時(いつ)し間(ま)にそも吾が恋ひにける
私訳 上手に川を渡る彦星は年に一度は恋人と逢うことがあると云うらしい、そんな彦星と織姫が逢う、そのようなわずかな間なのに、私は貴女に恋をしている

集歌525 狭穂河乃 小石踐渡 夜干玉之 黒馬之来夜者 年尓母有粳
訓読 佐保川(さほかわ)の小石(こいし)踏み渡りぬばたまし黒馬(くろま)し来る夜は年にもあらぬか
私訳 佐保川の小石を踏み渡って、七夕馬を祭る七夕の、その七夕の暗闇の中を漆黒の馬が来る夜のように、貴方が私を尋ねる夜は年に一度はあってほしいものです

集歌524 蒸被 奈胡也我下丹 雖臥 与妹不宿者 肌之寒霜
訓読 むし衾(ふすま)和(な)ごやが下に臥(ふ)せれども妹とし寝(ゐ)ねば肌し寒しも
私訳 日頃、体を暖かく蒸すような、貴女と云うような「名兒」の言葉(「な児が下=貴女が下」から正常位を意味します)の響きに似た、その寝具の柔らかいものを被って寝ているけれど、貴女と一度も共寝をしたことがないので肌寒いことです。

集歌527 将来云毛 不来時有乎 不来云乎 将来常者不待 不来云物乎
訓読 来(こ)む云ふも来(こ)ぬ時あるを来(こ)じ云ふを来(こ)むとは待たじ来(こ)じ云ふものを
私訳 私の許に来ると云っても来ないときがあるのに、私の許に来ないと云うのを来るだろうと貴方を待ちません、私の許に来ないと云われるのに

 御存知のように『万葉集』では男女に体を交わす関係があれば、もっと、親密で濃密さがあり体臭までもが漂うような歌を交わします。ただ、「奈胡也我下丹」程度の露骨な際どさや、また、麻呂と坂上郎女との遊びでの技巧を凝らした相聞歌で現在の夫婦関係に相当する男女関係までを想像するのは、『万葉集』を趣味とするものからすると残念です。
 参考として「娉」の字を持つ歌は万葉集で六首と紹介しましたが、その他の五首は次の標題を持つ歌です。

集歌93の標題 相聞歌「内大臣藤原卿娉鏡王女時、鏡王女贈内大臣謌一首」
集歌96の標題 相聞歌「久米禅師娉石川郎女時謌五首」
集歌101の標題 相聞歌「大伴宿祢娉巨勢郎女時謌一首」
集歌407の標題 譬揄歌「大伴宿祢駿河麿娉同坂上家之二嬢謌一首」
集歌3778の標題 雑歌「或曰 昔有三男同娉一女也」

 ここで、集歌96から集歌100までの歌五首を紹介します。このとき、標題に使われる「娉」の漢字は「呼ばふ」や「求婚」と云う意味を持たず、「訪問」や「贈り物を言付と共に届けた」の意味を持つものであり、「贈り物を言付と共に届けた」から「歌に物を添えて贈った」との解釈すべきものとして標題を理解し、歌を鑑賞してみて下さい。

久米禅師、娉石川郎女時謌五首
標訓 久米禅師の、石川郎女を娉(よば)ひし時の歌五首
集歌96 水薦苅 信濃乃真弓 吾引者 宇真人作備而 不欲常将言可聞  (禅師)
訓読 御薦(みこも)刈り信濃(しなの)の真弓(まゆみ)吾が引かば貴人(うまひと)さびて否(いな)と言はむかも
私訳 あの木梨の軽太子が御薦(軽大郎女)を刈られたように、信濃の真弓を引くように私が貴女の手を取り、体を引き寄せても、お嬢様に相応しく「だめよ」といわれますか。

集歌97 三薦苅 信濃乃真弓 不引為而 強作留行事乎 知跡言莫君二  (郎女)
訓読 御薦(みこも)刈り信濃(しなの)の真弓(まゆみ)引かずして強(し)ひさる行事(わさ)を知ると言はなくに
私訳 あの木梨の軽太子は御薦(軽大郎女)を刈られたが、貴方は強弓の信濃の真弓を引かないように、無理やりに私を引き寄せて何かを為されてもいませんのに、貴方が無理やりに私になされたいことを、私は貴方がしたいことを知っているとは云へないでしょう。

集歌98 梓弓 引者随意 依目友 後心乎 知勝奴鴨  (郎女)
訓読 梓(あずさ)弓(ゆみ)引かばまにまに依(よ)らめども後(のち)し心を知りかてぬかも
私訳 梓巫女が梓弓を引くによって神依せしたとしても、貴方が私を抱いた後の真実を私は確かめるができないでしょうよ。

集歌99 梓弓 都良絃取波氣 引人者 後心乎 知人曽引  (禅師)
訓読 梓(あずさ)弓(ゆみ)弦(つら)緒(を)取りはけ引く人は後(のち)し心を知る人ぞ引く
私訳 梓弓に弦を付け弾き鳴らして神を引き寄せる梓巫女は、貴女を抱いた後の私の真実を知る巫女だから神の梓弓を引いて神託(私の真実)を告げるのです。

集歌100 東人之 荷向篋乃 荷之緒尓毛 妹情尓 乗尓家留香問  (禅師)
訓読 東人(あずまひと)し荷前(のさき)し篋(はこ)の荷し緒にも妹し心に乗りにけるかも
私訳 貴女の気を引く信濃の真弓だけでなく、さらに、それを納める東人の運んできた荷物の入った箱を縛る荷紐の緒までに、貴女への想いで私の心に乗り被さってしまったようです。

 伊藤博氏はその『萬葉集釋注』で、この歌群について、磐姫皇后の四首(八五~八)と同様、この五首にも“埋もれた作者”があり、「久米禅師」と「石川郎女」とは、藤原朝の頃、その作者によって作り出された物語上の人物であった可能性が高いと述べられています。
 つまり、標題の「娉」の文字が端的に示すように、歌は架空の「久米禅師」と「石川郎女」との問答相聞歌の形式を持った歌物語なのです。話し言葉、そのままに表現する表記方法を持たなかった時代に工夫され表記された物語です。そして、これこそが、万葉研究者が好む虚構論において、それを代表する作品です。
 「娉」の文字からは脱線しますが、虚構の歌物語としては「石川女郎贈大伴宿祢田主謌一首」の標題で始まる集歌126から集歌128までの歌群が有名です。当然、虚構の歌物語ですから、この歌から大伴宿祢田主は旅人の兄弟で二男であるなどと想像しますと困ります。これを伊藤博氏は「田主という名は『田の主』、つまり、一本足の案山子を連想される。下三句には、『あなたはお名前どおりまるで案山子ね』という諷刺がこめられているように思われる。さらに、『足ひき』に男の最も大事な『足』に活力がないことをもにおわせているとすれば、まことに痛快きわまる」と述べられ、この歌物語を楽しまれています。そして、これが本来の『万葉集』の鑑賞なのです。

 最後に、『万葉集』では平安時代中期以降に漢語の言葉の意味を誤解釈して、歌の解釈がまったくに変わった有名な歌があります。それが巻五に載る「日本挽歌」です。この歌の前置漢文で使われる「紅顔」の詞は「青年」を意味する言葉なのですが、平安中期以降、現在まで大勢では「若い娘」を意味するものと解釈しています。『万葉集』での同様な例としては「處女(処女)」の漢語もそうです。他に、このブログでは何度も取り上げていますが「言」、「事」、「辞」は音字では「コト」ですが、だからと云って「言」に集約できる漢字ではありません。それぞれ意味するものは違います。もし、興味があり、これらの漢語を漢字辞典などで調べて頂ければ、従来の専門家が紹介する歌の解釈に赤面ものが含まれていることに気付かれると思います。ちなみに、「娉」や「紅顔」の詞は平安前期後半以降(菅原道真から大江朝綱の時代)、「處女(処女)」の詞は江戸中期以降に、現代の解釈に近いものへと変化したと推測します。当然、『万葉集』は奈良時代以前の作品を集めた詩歌集ですから新解では問題が生じる可能性があります。
 感想ですが、現在の「校本万葉集」はこの漢語解釈の変質した後の解釈をベースにしていると考えます。およそ、現代のものは「新解万葉集」と称するのがいいのかもしれません。対して、ここのブログは「西本願寺本万葉集」に拠りますから、いかにも時代遅れで、時流ではありません。そのため、今回にも示しましたが、解釈は古風で大きく違います。
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