竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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今日のみそひと歌 水曜日

2015年09月30日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと歌 水曜日

集歌2619 朝影尓 吾身者成 辛衣 襴之不相而 久成者
訓読 朝影(あさかげ)に吾(あ)が身(み)はなりぬ韓衣(からころも)裾し合はずに久(ひさ)しくなれば
私訳 朝の光が弱々しいように私の体は痩せ細ってしまった。痩せた身に韓衣の左右の裾前が合わないように、逢わない日々が長く続くと。

集歌2620 解衣之 思乱而 雖戀 何如汝之故跡 問人毛無
訓読 解衣(とききぬ)し思ひ乱れに恋ふれども何(な)そ汝(な)しゆゑと問ふ人もなき
私訳 脱いだ衣のように心を乱して恋い焦がれるが「どうした、お前の今の様子は」と尋ねる人もいません。

集歌2621 摺衣 著有跡夢見津 寐者 孰人之 言可将繁
訓読 摺衣(すりころも)著(つけ)りと夢(いめ)見つ寝たれしは孰(いず)れの人し言(こと)か繁けむ
私訳 願いする神事に着る、その摺り衣を身に着けたと夢の中で見ながら眠ると、夢でどんな娘との噂が立つでしょうか。

集歌2622 志賀乃白水郎之 塩焼衣 雖穢 戀云物者 忘金津毛
訓読 志賀の白水郎(あま)し塩焼き衣(きぬ)の穢(な)れぬれど恋といふものは忘れかねつも
私訳 志賀の海部が着る塩焼く作業着は萎(な)れているが、その言葉のような、馴(な)れはしたが、恋と云うものは。でも、貴女とのその恋の行いを忘れ去ることができません。

集歌2623 呉藍之 八塩乃衣 朝旦 穢者雖為 益希将見裳
訓読 紅(くれなゐ)し八汐(やしほ)の衣(ころも)朝(あさ)な朝(さ)な穢(な)れはすれどもいやめづらしも
私訳 紅花の紅色に何度も染めた衣は、貴女との出逢いの朝毎に穢れていく(=夜の男女の行いでシワになる)。その言葉のひびきではないが、貴女との関係に馴れていきますが、でも、貴女はいつも新鮮です。

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今日のみそひと謌 火曜日

2015年09月29日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと謌 火曜日

集歌1745 三栗乃 中尓向有 曝井之 不絶将通 従所尓妻毛我
訓読 三栗(みつくり)の那賀(なか)に向へる曝井(さらしゐ)し絶えず通(かよ)はむそこに妻もが
私訳 栗のイガの中に実が三つあるような、那賀に向かって流れる川の源の曝しの泉の水が絶えることがないように、私は絶えず通って来ましょう。そこに愛しい貴女がいるから。

集歌1746 遠妻四 高尓有世婆 不知十方 手綱乃濱能 尋来名益
訓読 遠妻(とほつま)し多珂(たか)にありせば知らずとも手綱(たづな)の浜の尋ね来なまし
私訳 遠くに住む愛しい貴女が多珂にいるしたら、場所を知らなくても手綱の浜のように、人の手伝(てずな)を頼って尋ねて来ましょう。

集歌1748 吾去者 七日不過 龍田彦 勤此花乎 風尓莫落
訓読 吾(わ)が行きは七日(なぬか)し過ぎじ龍田彦(たつたひこ)ゆめこの花を風にな散らし
私訳 私の旅往きは七日を超えることはないでしょう。龍田彦よ、どうか、この花を風に散らさないでくれ。

集歌1750 暇有者 魚津柴比渡 向峯之 櫻花毛 折末思物緒
訓読 暇(いとま)あばなづさひ渡り向(むか)つ峯(を)し桜の花も折(を)らましものを
私訳 もし、時間があれば、どうにかして川を渡って、向かいの峯に咲く桜の花を手折りたいものです。

集歌1752 射行相乃 坂之踏本尓 開乎為流 櫻花乎 令見兒毛欲得
訓読 い行(ゆき)会(あ)ひの坂し麓(ふもと)に咲きををる桜の花を見せむ児もがも
私訳 行き会う国境の坂の麓に咲き誇っている桜の花を見せるような女性がほしいな

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今日のみそひと歌 月曜日

2015年09月28日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと歌 月曜日

集歌855 麻都良河波 可波能世比可利 阿由都流等 多々勢流伊毛河 毛能須蘇奴例奴
訓読 松浦川(まつらかは)川の瀬光り鮎釣ると立たせる妹が裳の裾濡れぬ
私訳 松浦川、その川の瀬で光る鮎を釣ろうとして、瀬にお立ちの愛しい貴女の裳の裾が濡れている。

集歌856 麻都良奈流 多麻之麻河波尓 阿由都流等 多々世流古良何 伊弊遅斯良受毛
訓読 松浦(まつら)なる玉島川(たましまかは)に鮎釣ると立たせる子らが家道(いへぢ)知らずも
私訳 松浦にある玉島川で鮎を釣ると川瀬にお立ちになっている貴女の、その家への道を私は知りません。

集歌857 等富都比等 末都良能加波尓 和可由都流 伊毛我多毛等乎 和礼許曽末加米
訓読 遠人(とほつひと)松浦(まつら)の川に若鮎釣る妹が手本(たもと)を吾(わ)れこそ巻(ま)かめ
私訳 遠くからの人を待つ、その言葉のひびきのような松浦の川に若鮎を釣る愛しい貴女の腕を、私は絡み巻いて貴女をどうしても抱き締めたい。

集歌858 和可由都流 麻都良能可波能 可波奈美能 奈美邇之母波婆 和礼故飛米夜母
訓読 若鮎(わかゆ)釣る松浦(まつら)の川の川浪(かはなみ)の並(なみ)にし思(も)はば吾(わ)れ恋ひめやも
私訳 若鮎を釣る松浦川の川浪の、その言葉のひびきのように、並の出来事と思うのでしたら、私はこれほど貴方を恋い慕うでしょうか。

集歌859 波流佐礼婆 和伎覇能佐刀能 加波度尓波 阿由故佐婆斯留 吉美麻知我弖尓
訓読 春されば吾家(わがへ)の里の川門(かはと)には鮎子(あゆこ)さ走る君待ちがてに
私訳 春がやって来れば私の家のある里の川の狭まった場所には子鮎が走り回る。まるで貴方を待ちわびる私の心のように。

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万葉集 長歌を鑑賞する 集歌804

2015年09月27日 | 万葉集 長歌を楽しむ
万葉集 長歌を鑑賞する 集歌804

哀世間難住謌一首并序
標訓 世間(よのなか)の住(とどま)り難(かた)きを哀(かな)しびたる謌一首并せて序
集歌804 世間能 周弊奈伎物能波 年月波 奈何流々其等斯 等利都々伎 意比久留母能波 毛々久佐尓 勢米余利伎多流 遠等良何 遠等佐備周等 可羅多麻乎 多母等尓麻可志 余知古良等 手多豆佐波利提 阿蘇比家武 等伎能佐迦利乎 等々尾迦祢 周具斯野利都礼 美奈乃和多 迦具漏伎可美尓 伊都乃麻可 斯毛乃布利家武 久礼奈為能 意母提乃宇倍尓 伊豆久由可 斯和何伎多利斯 麻周羅遠乃 遠刀古佐備周等 都流伎多智 許志尓刀利波枳 佐都由美乎 多尓伎利物知提 阿迦胡麻尓 志都久良宇知意伎 波比能利提 阿蘇比阿留伎斯 余乃奈迦野 都祢尓阿利家留 遠等良何 佐那周伊多斗乎 意斯比良伎 伊多度利与利提 麻多麻提乃 多麻提佐斯迦閇 佐祢斯欲能 伊久陀母阿羅祢婆 多都可豆恵 許志尓多何祢提 可由既婆 比等尓伊等波延 可久由既婆 比等尓邇久麻延 意余斯遠波 迦久能尾奈良志 多麻枳波流 伊能知遠志家騰 世武周弊母奈新

<標準的な解釈(「萬葉集 釋注」伊藤博、集英社文庫)>
訓読 世の中の すべなきものは 年月(としつき)は 流るるごとし とり続き 追ひ来るものは 百種(ももたね)に 迫(せ)め寄り来る 娘子(をとめ)らが 娘子(をとめ)さびすと 韓玉(からたま)を 手本(たもと)に纏(ま)かし よち子らと 手たづさはりて 遊びけむ 時の盛りを 留(とど)みかね 過ぐしやりつれ 蜷(みな)の腸(わた) か黒(ぐろ)き髪に いつの間(ま)か 霜の降りけむ 紅(くれなゐ)の 面(おも)の上(うへ)に いづくゆか 皺(しは)が来(き)りし ますらをの 男(をとこ)さびすと 剣太刀(つるぎたち) 腰に取り佩き さつ弓を 手(た)握り持ちて 赤駒に 倭文(しつ)鞍うち置き 這(は)ひ乗りて 遊び歩きし 世の中や 常にありける 娘子(をとめ)らが さ寝(ね)す板戸を 押し開き い辿(たど)り寄りて 真玉手(またまて)の 玉手さし交(か)へ さ寝(ね)し夜の いくだもあらねば 手束杖(たつかつゑ) 腰にたがねて か行けば 人に厭(いと)はえ かく行けば 人に憎まえ 老(お)よし男(を)は かくのみならし たまきはる 命惜しけど 為(せ)むすべもなし
意訳 この世の中で何ともしようがないものは、幾月は遠慮なく流れ去ってしまい、くっついて追っかけて来る老醜はあの手この手と身に襲いかかることである。たとえば、娘子たちがいかにも娘子らしく、舶来の玉を手首に巻いて、同輩の仲間たちと手を取り合って遊んだ、その娘盛りを長くは留めきれずにやり過ごしてしまうと、蜷の腸のようなまっ黒い髪にいつの間に霜が降りたのか、紅の面の上にどこからか皺のやつが押し寄せて来たのか、みんなあっという間に老いさらばえてします。一方、勇ましい若者たちがいかに男らしく、剣太刀を腰に帯び狩弓を握りしめて、元気な赤駒に倭文の鞍を置き手綱さばきもあざやかに獣を追い回した、その楽しい人生がいつまで続いたであろうか。娘子たちが休む部屋の板戸を押し開けて探り寄り、玉のような腕をさし交わして寝た夜などいくらもなかったのに、いつの間にやら握り杖を腰にあてがい、よぼよぼとあっちへ行けば人にいやがられ、こっちに行けば人に嫌われて、ほんにまったく老人とはこんなものであるらしい。むろん、命は惜しくて常住不変を願いはするものの、施すすべもない。

<西本願寺本万葉集の原文を忠実に訓むときの解釈>
訓読 世間(よのなか)の 術(すべ)なきものは 年月(としつき)は 流るる如し 取り続き 追ひ来るものは 百種(ももたね)に 迫(せ)め寄り来る 娘子(をとめ)らが 娘子(をとめ)さびすと 唐玉(からたま)を 手本(たもと)に纏(ま)かし 同輩子(よちこ)らと 手携(たづさ)はりて 遊びけむ 時の盛りを 留(とど)みかね 過ぐし遣(や)りつれ 蜷(みな)の腸(わた) か黒(ぐろ)き髪に 何時(いつ)の間(ま)か 霜の降りけむ 紅(くれなゐ)の 面(おも)の上(うへ)に 何処(いづく)ゆか 皺(しは)が来(き)りし 大夫(ますらを)の 男子(をとこ)さびすと 剣太刀(つるぎたち) 腰に取り佩き 猟弓(さつゆみ)を 手握り持ちて 赤駒に 倭文(しつ)鞍うち置き 這(は)ひ乗りて 遊び歩きし 世間(よのなか)や 常にありける 娘子(をとめ)らが さ寝(ね)す板戸を 押し開き い辿(たど)り寄りて 真玉手(またまて)の 玉手さし交(か)へ さ寝(ね)し夜の 幾許(いくだ)もあらねば 手束杖(たつかつゑ) 腰にたがねて か行けば 人に厭(いと)はえ かく行けば 人に憎まえ 老男(およしを)は 如(か)くのみならし たまきはる 命惜しけど 為(せ)む術(すべ)も無し
私訳 人の世でどうしようもないことは、歳月が流れるごとくに、次々に追い来るものは、百のも苦しみの姿で攻め寄せてくる。娘女たちが娘女らしく舶来の唐玉を手に巻いて、同輩の仲間たちと手に手を取って風流を楽しんだ、その娘女時代の盛りを留めかね、時が過ぎて行ってしまうのにつれて、蜷の腸のように真っ黒な髪が、いつの間に霜が降りてしまい、紅の顔の上に、どこからか皺がやって来た。大夫が男子らしく剣や大刀を腰に帯びて、狩弓を手に握り持って、赤駒に倭文の鞍を置き、よじのぼって馬に乗り狩りをして行く、そんな人の世がいつまでもあるだろうか。娘女たちが寝る籠の板戸を押し開き、探り寄って、玉のような美しい腕を差し交わして寝た夜が、そんな夜など幾らもないのに、手束の杖を持って腰にあてがい、あちらに行っても人に嫌がられ、こちらに行っても人に憎まれて、年老いた男というのはこうしたものらしい。魂が宿るこの命は惜しいけれども、嫌がられ憎まれて、どうしようもない。

この歌の鑑賞態度は、一般には「老い」をテーマにするとします。一方、弊ブログでは「留めることの出来ない時の流れ」としています。栄華も一瞬のことで、それを押し留めることは出来ないのだから、過去を振り返り、嘆いてはいけないと解釈しています。そこが一般の解釈と大きく違います。
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万葉雑記 色眼鏡 百三七 右大臣橘家謌を鑑賞する

2015年09月26日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百三七 右大臣橘家謌を鑑賞する

 万葉集に巻六と巻八とに分散されたと思われる歌群があります。それが以下に紹介する巻六に載る右大臣橘家謌四首と巻八に載る右大臣橘家宴謌七首です。部立から見ますと巻六が雑歌で、巻八が秋雑歌となっています。従いまして、テーマや部立の分類からしましても何らかの宴で詠われた一つの歌群が由来でしたら二つの巻に分割して載せる必要性はそれほど強くはないと思うのですが。しかしながら、わざわざ分割されているのですから、何か、理由があるのでしょう。今回はそのような視線を下にこれらの歌群を鑑賞します。

 さて、宴が開かれたのが天平十年八月ですので、この条件で参加者名簿を作成しますと高位から順に正三位右大臣橘朝臣諸兄、正五位上右大辨高橋朝臣安麻呂、従五位下中務少輔阿倍朝臣蟲麻呂、外従五位上主税頭文忌寸馬養、外従五位下長門守巨曽倍朝臣對馬の以上、五人となります。なお、古く、長門守は筑紫大宰を除きますと陸奥守と同格の扱いであり、これは養老律令換算で四位格であったとします。それを示すように少し前の時代ですが大宝二年に従四位上の大神朝臣高市麻呂が長門守に任命されていますから、巨曽倍朝臣對馬が宴での中心人物であった場合は儀礼的に官位ではなく、職務での長門守の立場で、もてなされる可能性があります。この場合は橘諸兄が宴会の主催としますと、客人筆頭は巨曽倍對馬となります。標準的な解説からしますと以外でしょうが、このような席順であっても筋は通ります。
 以上、事前に宴会の参加者と身分を紹介しました。
 最初に歌と素人がする鑑賞を紹介します。その後で、歌に関係する雑談を行いたいと考えています。

<巻六より>
秋八月廿日宴右大臣橘家謌四首
標訓 (天平十年)秋八月廿日に、右大臣橘の家(いへ)にて宴(うたげ)せる謌四首
集歌1024 長門有 奥津借嶋 奥真經而 吾念君者 千歳尓母我毛
訓読 長門(ながと)なる奥津借島(かりしま)奥まへに吾(あ)が念(も)ふ君は千歳(ちとせ)にもがも
私訳 (私が管理する)長門の国にある奥まった入り江にある借島のように、心の奥深くに私が尊敬している貴方は、千歳を迎えて欲しいものです。
右一首、長門守巨曽倍對馬朝臣
注訓 右の一首は、長門守巨曽倍對馬朝臣なり

集歌1025 奥真經而 吾乎念流 吾背子者 千歳五百歳 有巨勢奴香聞
訓読 奥まへに吾(あれ)を念(おも)へる吾(あ)が背子は千歳(ちとせ)五百歳(いほとせ)ありこせぬかも
私訳 心の奥深くに私を尊敬してくれている私の貴方の寿命も、千年と五百年と、迎えてくれないものでしょうか。(ねえ、許曽倍の貴方)
右一首、右大臣和謌
注訓 右の一首は、右大臣の和(こた)へたる謌

集歌1026 百礒城乃 大宮人者 今日毛鴨 暇無跡 里尓不去将有
訓読 ももしきの大宮人は今日もかも暇(いとま)を無(な)みと里に去(ゆ)かずあらむ
私訳 沢山の岩を積み上げて造った大宮に勤める官人は、今日もまた、暇が無いと里に下っていかないのでしょう。
右一首、右大臣傳云、故豊嶋采女謌。
注訓 右の一首は、右大臣の傳へて云はく「故(いにし)への豊嶋(てしま)采女の謌なり」といへり。

集歌1027 橘 本尓道履 八衢尓 物乎曽念 人尓不所知
訓読 橘し本(もと)に道履む八衢(やちまた)に物をぞ念(おも)ふ人に知れずそ
私訳 橘の木の下にある道の人が踏み通る八つの分かれ道のように、あれこれと物思いにふけることよ。だからと云って、そのような姿を相手に気付かせるべきではない。
右一首、右大辨高橋安麻呂卿語云 故豊嶋采女之作也。但或本云三方沙弥、戀妻苑臣作歌也。然則、豊嶋采女、當時當所口吟此謌歟。
注訓 右の一首は、右大弁高橋安麻呂卿が語りて云はく「故(いにし)への豊嶋(てしま)采女の作なり」といへり。但し、或る本に云はく「三方沙弥が、妻の苑臣に恋して作れる歌」といへり。然らば則ち、豊嶋采女、時に当たり所に当たり口吟し此の歌を詠へりか。

<巻八より>
右大臣橘家宴謌七首
標訓 右大臣橘の家に宴(うたげ)せし謌七首
集歌1574 雲上尓 鳴奈流鴈之 雖遠 君将相跡 手廻来津
訓読 雲し上(へ)に鳴くなる雁し遠けども君に逢はむとた廻(もとほ)り来つ
私訳 雲の上で鳴いている雁の姿のように任地は遠いのですが、貴方にお逢いしようとなんとかここ、奈良の都へとやって来ました。

集歌1575 雲上尓 鳴都流鴈乃 寒苗 芽子乃下葉者 黄變可毛
訓読 雲し上(へ)に鳴きつる雁の寒きなへ萩の下葉(したは)は黄変(もみ)ちぬるかも
私訳 雲の上で鳴いている雁の声を寒々しと感じられるので、そろそろ季節からすると萩の下葉は黄葉するようですね。
右二首
注訓 右は二首。

集歌1576 此岳尓 小牡鹿履起 宇加埿良比 可聞可開為良久 君故尓許曽
訓読 この岳(をか)に小雄鹿(さをしか)踏み起(き)窺狙(うがねら)ひかもかきすらく君(きみ)故(ゆゑ)にこそ
私訳 この岳に角の立派な鹿を山に踏み込み追い起こし、その得物を窺い狙うように研ぎ澄まして、あれこれと歌を聴き、また披露するのも貴方のゆえのことです。
右一首、長門守巨曽倍朝臣津嶋。
注訓 右の一首は、長門守巨曽倍朝臣(こそへのあそみ)津嶋(つしま)。
注意 原文の「小牡鹿履起」は「小壮鹿履起」の、「可聞可開為良久」は「可聞可聞為良久」の誤記とします。

集歌1577 秋野之 草花我末乎 押靡而 来之久毛知久 相流君可聞
訓読 秋し野し尾花(をばな)が末(うれ)を押しなべて来(こ)しくもしるく逢へる君かも
私訳 秋の野の尾花の穂先を押し靡かせてやって来た甲斐もあって、お逢いした貴方です。

集歌1578 今朝鳴而 行之鴈鳴 寒可聞 此野乃淺茅 色付尓家類
訓読 今朝(けさ)鳴きて行きし雁し音(ね)寒(さぶ)みかもこの野の浅茅(あさぢ)色(いろ)付(つ)きにける
私訳 今朝鳴いて飛び行った雁の鳴き声は寒々しい。この野の浅茅は色付きました。
右二首、阿倍朝臣蟲麿。
注訓 右の二首は、阿倍朝臣(あへのあそみ)蟲麿(むしまろ)。

集歌1579 朝扉開而 物念時尓 白露乃 置有秋芽子 所見喚鶏本名
訓読 朝戸(あさと)開(あ)け物念(も)ふ時に白露の置ける秋萩見えつつもとな
私訳 朝に戸を開け物思いに沈むときに、白露の置いた秋萩を眺めながらも、心が定まらない。

集歌1580 棹牡鹿之 来立鳴野之 秋芽子者 露霜負而 落去之物乎
訓読 さ雄鹿(をしか)し来(き)立(た)ち鳴く野し秋萩は露(つゆ)霜(しも)負(お)ひて落(ち)り去(い)にしものを
私訳 角の立派な鹿がやって来て立ち鳴く、その野の秋萩は露や霜に受けて散って去ってしまった。
右二首、文忌寸(ふみのいみき)馬養(うまかひ)
天平十年戊寅秋八月廿日
注訓 右の二首は、文忌寸(ふみのいみき)馬養(うまかひ)。
天平十年戊寅秋八月廿日。
注意 原文の「棹牡鹿之」の「牡」は、一般に「壮」の誤記とします。


 長門守である巨曽倍對馬が奈良の都で宴に参加していますから、巨曽倍對馬は長門守としての務めである「中上」で奈良に戻って来ています。その年の納税予定額を記録した国帳を八月三十日までに太政官に報告する必要がありましたから、解説によっては、巨曽倍對馬はその記録を届ける「大帳使」として奈良の都に戻って来たのではないかと推測するようです。「中上」または「大帳使」にしろ、巨曽倍對馬は公務で長門国から奈良へ上京して来ていることになります。
 この公務上京であることを示すのが集歌1574の歌であり、その上京の労をねぎらうものが集歌1575の歌ではないでしょうか。当然、集歌1575の歌には集歌1574の歌の「雁し遠けども」を踏まえて「雁の使い」の故事があります。そこで「萩の下葉は黄変ちぬるかも」なのですし、それにより巨曽倍對馬を蘇武のような朝廷に忠実な官人であるとしているのです。
 巨曽倍對馬を慰労する宴ですから、それ以上は野暮でしょう。それで宴での歌は萩、鹿、雁などの秋の風流を詠うものへと展開するのでしょう。このように巻八は「中上」または「大帳使」として、上京して来た国守たちをねぎらう歌としますと、それらは公的性格も持ちますし、官僚にとっては季節的な行事のような宴でもあります。万葉集で秋の雑歌と部立されても、納得がいく分類であり、編纂です。
 さて、巻六の四首が難解です。歌自身ではありません。その編纂の理由です。最初の二首は巻八に載る七首からしますと宴会のある場面で上下身分差が大きい宴の主催者である橘諸兄に対して巨曽倍對馬が謝辞のような歌を詠うのは自然ですし、嫌味にならないように応歌を返すのも自然です。
 問題は集歌1026の歌です。集歌1027の歌を参考にしますと、この巻六の四首はこの豊嶋采女にちなむ歌を紹介するように置かれたものと思われますし、それがゆえに巻八とは分離して置かれたと推定できます。
 それとも高橋安麻呂が詠う集歌1027の歌は「橘」と云う歌を豊嶋采女が詠った伝承があるとして宴で紹介した橘諸兄への追従だけであり、この歌自身には万葉集編纂の中でわざわざ取り上げたことについての意味はないのでしょうか。
 ここで、話題としています豊嶋采女は摂津国豊嶋(てしま)郡からの采女説と武蔵国豊嶋郡からの采女説があり、有力なのは摂津国出身説です。ただし、それ以外は一切が不明な女性です。この豊嶋采女をインターネット検索していて面白いものに遭遇しました。その遭遇に関係して、歌の左注に記される「故豊嶋采女謌」や「故豊嶋采女之作也」の文章での「故」の字は「山部宿祢赤人詠故太上大臣藤原家之山池謌一首」や「賀茂女王贈大伴宿祢三依謌一首 (故左大臣長屋王之女也)」と同じような用法でのもので「すでに死んでいる人物」と云う意味を取るべきものと考えます。しかしながらだからと云って、采女と死から悲恋での自殺などと、弊ブログは「千三つ」や「千無い」と売りとしていますが、そこまでのアカデミックな無謀な妄想は致しません。
 可能性の調査において、巨曾倍津嶋の姓である「巨曾倍」は時に「許曽倍」や「社部」とも記します。この「許曽」の方に注目しまして調べましても大阪東成区の比売許曽神社に関係するだろうと検討を付けても、摂津国豊嶋郡との関連性は見えて来ません。すると、従来の積極的に豊嶋采女と関連付けて鑑賞しようとする態度が間違いかもしれません。
 ここでもう一度、巨曾倍津嶋の周辺を眺めてみますと、天平三年(730)に同族の巨曾倍朝臣足人が正六位上から外従五位下に昇位しています。対して同じ「朝臣」の姓(かばね)を持つ巨曾倍朝臣津嶋本人は大和国正税帳からしますと天平二年に正六位上の官位を持ち大和国の次官である「介」を務めており、その後、天平四年になって山陰道節度使判官への任命に伴って外従五位下の位が授けられています。「巨曾倍」と云う弱小氏族としては同時に二人の高級官僚である「大夫」を輩出していることになり、画期的なことでます。ただし、弱小氏族であるがためかともに「外従五位下」です。「外」と云うものが付く官位です。
 この状況を眺めますと、巨曾倍津嶋は相当に優秀な実務官吏であったと思われ、それにより大国である大和国の次官の「介」を、その直後には地方行政監察の実務を行う「節度使判官」に任命されたと思われます。さらに、その節度使判官の後には飛鳥浄御原宮令時代には特別国とされ、国家の財政を支える銅・銀鉱山を有する四位格の長門国守に就任したのでしょう。なお、外位には四位格はありませんから、長門国守に就任したとしても五位格が最高官位となります。
 ここで問題としています集歌1026の歌を眺め直してみます。

集歌1026 百礒城乃 大宮人者 今日毛鴨 暇無跡 里尓不去将有
訓読 ももしきの大宮人は今日もかも暇(いとま)を無(な)みと里に去(ゆ)かずあらむ
私訳 沢山の岩を積み上げて造った大宮に勤める官人は、今日もまた、暇が無いと里に下っていかないのでしょう。

 およそ、こう云うことでしょうか。
 右大臣の橘諸兄がおよそ二年ぶりに「中上り」で故郷である奈良の都に戻って来た巨曾倍津嶋に、宴の中で「少しは里でのんびりしたか」と聞いたとき、巻八の集歌1575の歌が示唆するように蘇武のような実直でくそ真面目な性格の巨曾倍津嶋が「いえ、この度は職務規定の中上りですので業務報告や挨拶廻りをしており、休暇は取っていません」と答えたかもしれません。それに対して橘諸兄が洒落めかして、昔、豊嶋采女が仕事ばかりしている人をからかって詠った歌があると、集歌1026の歌を紹介したのかもしれません。言外に巨曾倍津嶋に対して、一度、里に戻って親族一同と親睦するように促したのかもしれません。
 馬鹿真面目な巨曾倍津嶋は即座にその橘諸兄の配慮に気が付かなかったのかもしれません。気が付けばお礼の歌を詠い返すべきですが、それが遅かったのでしょう。その姿や様子を見て、右大弁を務める高橋安麻呂が同じ豊嶋采女が十八番にしていたという古歌となる集歌1027の歌を詠い、巨曾倍津嶋を茶化したと思われます。そこが太政官を構成する一員の有能な姿なのでしょう。

集歌1027 橘 本尓道履 八衢尓 物乎曽念 人尓不所知
訓読 橘し本(もと)に道履む八衢(やちまた)に物をぞ念(おも)ふ人に知れずそ
私訳 橘の木の下にある道の人が踏み通る八つの分かれ道のように、あれこれと物思いにふけることよ。だからと云って、そのような姿を相手に気付かせるべきではない。

 なお、左注「故豊嶋采女之作也。但或本云三方沙弥、戀妻苑臣作歌也」とは違い、本来の三方沙弥の歌は次のようなもので、歌での「妹尓不相而」が重要です。時に集歌1027の歌は高橋安麻呂のとっさのもじりでの創作歌かもしれません。「妹尓不相而」では橘諸兄の歌から比べると生ですし、野暮です。それで「人尓不所知」なのでしょう。追記参考で「履」は「着実に行う」との意味がありますから、高橋安麻呂が詠った「橘本尓道履」には「右大臣橘諸兄の指揮下で着実に行政を行う」と云う意味も隠しているのでしょう。

集歌125 橘之 蔭履路乃 八衢尓 物乎曽念 妹尓不相而  (三方沙弥)
訓読 橘し蔭(かげ)履(ふ)む路の八衢(やちまた)に物をぞ念(おも)ふ妹に逢はずに
私訳 橘の木陰の下の人が踏む分かれ道のように想いが分かれて色々と心配事が心にうかびます。愛しい恋人に逢えなくて。

 おまけとしてこの三方沙弥が山田史三方と同じ人物としますと、山田史三方は長門国の隣、周防国の国守経験者であり、配下の官物窃盗事件での管理不行き届きの罪に問われ職を追われた人物です。それも事件の発覚は養老六年(722)ですから、彼らにとってもごく最近となるような事件です。なお、その山田史三方は文化人であり、学者であることから特別に恩赦され、免責となっています。従いまして、そのような有名な事件であり、人物ですから巨曾倍津嶋も三方沙弥が詠った歌を知っていても不思議ではないのです。

 今回は自問自答で行ったり来たりして歌を鑑賞しました。
 ここのところ、建設作業員の日銭稼ぎに追われ、ちょっと、時間的な制約から舞台裏を見せたようで反省です。また、最終的な酔論の帰結は一般的なものとは大きく違う姿を見せています。まずは馬鹿話としてご笑納ください。
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