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竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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万葉雑記 色眼鏡 二三八 今週のみそひと歌を振り返る その五八

2017年10月28日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二三八 今週のみそひと歌を振り返る その五八

 今回は巻八に載る集歌1535の歌に遊びます。最初に弊ブログの解釈を、次にHP「楽しい万葉集」からのものを紹介します。

藤原宇合卿謌一首
標訓 藤原(ふじわらの)宇合卿(うまかひのまへつきみ)の謌一首
集歌1535 我背兒乎 何時曽且今登 待苗尓 於毛也者将見 秋風吹
訓読 我が背子をいつぞ今かと待つなへに面(おも)やは見えむ秋し風吹く
私訳 (その人は)私の愛しい貴方を、訪れはいつだろう、今でしょうかと待つままに、さて、その御方の姿を見たのでしょうか。秋の風が(簾を揺らして)吹きます。

参考歌 額田王思近江天皇作謌一首
集歌488 君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹
訓読 君待つと吾が恋ひ居れば我が屋戸(やと)し簾動かし秋し風吹く
私訳 貴方の訪れを待つと私が恋い慕っていると、人の訪れかのように私の家の簾を動かして秋の風が吹く。


楽しい万葉集より
原歌 我背兒乎 何時曽且今登 待苗尓 於毛也者将見 秋風吹
訓読 我(わ)が背子(せこ)を、いつぞ今かと、待つなへに、面(おも)やは見えむ、秋の風吹く
鑑賞 あの方が、いついらっしゃるのかと待っていると、秋の風が吹いてきました。お目にかかれるのでしょうか 

 さて、弊ブログに源氏物語に引用された万葉集の歌を「源氏物語引歌万葉集部」と云う資料名称で紹介しています。引歌とは先行する詩歌集などの歌の一部を引用し、その引用した歌の世界を読み手に想像させることで新たな詩歌や文章に奥行きを持たせる技法です。こと、源氏物語での引歌は二句もしくは三句を古歌から用いる本歌取技法による和歌創作とは違い、文章中にキーワードとしてほのかににじませるため、わかりづらい面があります。そのためか、源氏物語引歌研究は鎌倉時代から連綿と続いていますが、鎌倉時代、江戸時代、現代と研究が進むに連れ、引歌と思われる箇所は増えてきています。つまり、それほどに精密に古典文学が研究されているということになるでしょうか。
 参考として、源氏物語に引用された万葉集の歌三首を紹介します。

源氏物語 第二帖 帚木
引歌文 あるまじき我が頼みにて見直したまふ後瀬をも、思ひたまへ慰めましを、
万葉集巻四 集歌737 大伴坂上大嬢
原文 云々 人者雖云 若狭道乃 後瀬山之 後毛将念君
読下 かにかくにひとはいふともわかさぢのあとせのやまのゆりももはむきみ
私訓 かにかくに人は云ふとも若狭(わかさ)道(ぢ)の後瀬(あとせ)し山し後(ゆり)も念(も)はむ君
私訳 あれやこれやと人は噂を云っても、若狭への道にある後瀬の山の名のように、貴方との逢瀬の後もお慕いします。愛しい貴方。

源氏物語 第三帖 空蝉
引歌文 紀伊守国に下りなどして、女どちのどやかなる夕闇の道たどたどしげなる紛れに、
万葉集巻四 集歌709 豊前國娘子大宅女
原文 夕闇者 路多豆頭四 待月而 行吾背子 其間尓母将見
読下 ゆふやみはみちたづとほしつきまちていませわがせこそのまにもみむ
私訓 夕闇(ゆふやみ)は路たづとほし月待ちて行ませ吾が背子その間(ほ)にも見む
私訳 夕闇は道が薄暗くておぼつかなく不安です。月が出るのを待って帰って行きなさい。私の愛しい貴方。その月が出る間も貴方と一緒にいられる。

源氏物語 四帖 夕顔
引歌文 あさけの姿は、げに、人のめできこえんもことわりなる御さまなりけり。
万葉集巻十二 集歌2841 人麻呂歌集
原文 我背子之 朝明形 吉不見 今日間 戀暮鴨
読下 わがせこのあさけのすがたよくみずてけふのあひたをこひくらすかも
私訓 我が背子し朝明(あさけ)し姿よく見ずて今日し間(あひだ)し恋ひ暮らすかも
私訳 私の貴方がまだ薄暗い朝明けの中を帰っていく姿をはっきりと見ないまま、おぼつかなく、今日の一日を恋しく暮らすのでしょうか。

 一方、本歌取技法の歌を古今和歌集に探しますと額田王が詠う歌を紀貫之が引用したものがあります。紹介します例ですと頭二句が同じ表現ですから非常に判り易いと思います。

古今和歌集 巻2-94番歌 紀貫之
三輪山を しかも隠すか 春霞 人に知られぬ 花や咲くらむ

万葉集 巻1-18番歌 額田王
三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも かくさふべしや


 標準的な和歌の本歌取技法からしますと、集歌1535の歌に本歌取技法を見出すのは非常に困難ではないでしょうか。しかし、源氏物語で使われる引歌技法からしますと、集歌1535の歌に額田王が詠う集歌488の歌の世界を見出すことは容易と考えます。
 当然、集歌488の歌の世界を踏まえて集歌1535の歌の世界を鑑賞しますと、歌い手は恋人を待つ女性でもその相手の男性でもありません。その世界を知る第三者です。弊ブログではそのような立場で解釈しています。宮中サロンか何かで、恋話が盛り上がり、その最中に秋風(旧暦7月から9月;現在の8月中旬から10月中旬)が吹きだし、部屋に下げられた御簾が揺れ動いたと想像しています。それも「何時曽且今登待苗尓」との表現がありますから、新暦八月下旬頃の遅い午後、遠雷を聞きながらの冷気の風かも知れません。当然、宮中サロンの人々にとって額田王の歌は教養事項であったでしょうから、当時の若き教養人筆頭の藤原宇合が詠う歌の世界は共通理解の内であったと思います。
 他方、標準的な「楽しい万葉集」の鑑賞する世界は、文字から受けた表面の鑑賞です。そのため、非常に中途半端なものにならざるを得ません。

 今回もまた独善・酔論・暴論からの展開でした。
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万葉雑記 色眼鏡 二三七 今週のみそひと歌を振り返る その五七

2017年10月21日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二三七 今週のみそひと歌を振り返る その五七

 今回は巻八に載る集歌1503の歌に遊びます。この歌は標準的には歌意が取りにくい歌とされていますが、漢字文字に遊ぶ歌としますと、文字遊びの面白みが楽しめ、そこから歌意は容易に掴めます。ただ、これは弊ブログだけの酔論であって、一般的ではありません。いつもの与太話が根拠と思って下さい。

集歌1503 吾妹兒之 家乃垣内乃 佐由理花 由利登云者 不謌云二似
訓読 吾妹児(わぎもこ)し家の垣内(かきつ)のさ百合(ゆり)花(はな)後(ゆり)と云へるは謌(うた)はずに似る
私訳 私の愛しい貴女の家の垣の内にある百合の花、その後(ゆり=のち)と貴女が私に云うのは、まるで、貴女が私に「謌」の字の如く「可(愛して)可(愛して)と言わない」のことと同じです。
注意 原文の「不謌云二似」の「謌」は、一般に「欲」の誤記と解釈して「不欲云二似」と表記し「否と云うに似る」と訓みます。この時、原文の「謌」とは違い言葉遊びの洒落が消えます。

 最初に、一般的な歌の訓じと解釈を「楽しい万葉集」から紹介します。

原歌 吾妹兒之 家乃垣内乃 佐由理花 由利登云者 不欲云二似
訓読 我妹子(わぎもこ)が、家の垣内(かきつ)の、さ百合花、ゆりと言へるは、いなと言ふに似る
意味 あなたの家の庭に咲いている百合のようなあなたが、「ゆり(また後でね)」というのは、「だめよ」と言っているようなものですよ。

 紹介しましたように原歌の末句「不謌云二似」の「謌」と云う漢字の扱いが違います。一般として紹介しましたように伝統の訓じでは「不謌云二似」は難訓歌となりますので、「謌」は「欲」の誤記として扱い、現代では集歌96の歌などの「不欲」などの類似表現と推定して、「不欲云二似」と表現を変えます。

集歌96 水薦苅 信濃乃真弓 吾引者 宇真人作備而 不欲常将言可聞
訓読 御薦(みこも)刈り信濃(しなの)の真弓(まゆみ)吾が引かば貴人(うまひと)さびに否(いな)と言はむかも
私訳 あの木梨の軽太子が御薦(軽大郎女)を刈られたように、信濃の真弓を引くように私が貴女の手を取り、体を引き寄せても、お嬢様に相応しく「だめよ」といわれますか。

 一方、万葉集の時代、漢字と云う文字で遊び、歌を作るということが行われていました。万葉集が漢語と万葉仮名と呼ばれる漢字だけで表現された和歌であるからこそ生まれた、万葉集歌を創作する場での独特のジャンルです。例として集歌1016の歌を紹介します。

春二月、諸大夫等集左少辨巨勢宿奈麻呂朝臣家宴謌一首
標訓 春二月に、諸(もろもろ)の大夫(まへつきみ)等(たち)の左少辨巨勢宿奈麻呂朝臣の家に集(つど)ひて宴(うたげ)せる謌一首
集歌1016 海原之 遠渡乎 遊士之 遊乎将見登 莫津左比曽来之
訓読 海原(うなはら)し遠き渡(わたり)を遊士(みやびを)し遊ぶを見むとなづさひぞ来(こ)し
私訳 海原の遠い航海ですが、風流な人たちがその風流を楽しんでいるのに参加しようと、この湊に苦労してやって来ました。

別訳 海原(うなはら)し遠き渡(わたり)を遊士(みやびを)し遊ぶを見むと三中(みつなか)ぞ来(こ)し
私訳 海原の遠い航海ですが、風流な人たちがその風流を楽しんでいるのに参加しようと、大伴三中が海の彼方、新羅から帰って来ました。

右一首、書白紙懸著屋壁也。題云蓬莱仙媛所嚢蘰、為風流秀才之士矣。斯凡客不所望見哉。
注訓 右の一首は、白き紙に書きて屋(いへ)の壁に懸著(か)けたり。題(しる)して云はく「蓬莱の仙媛(やまひめ)の蘰(かづら)を嚢(おさ)めむは、風流秀才の士(をのこ)の為なり。斯(こ)は凡客(ぼんかく)の望み見るところにあらずかも」といへる。

 この歌の説明は、万葉雑記 百十二に載せました。ここではその後半部分を紹介します。

 集歌1016の歌を鑑賞しますと、歌の末句「莫津左比曽」は上句の表記に対して特徴がありますので、表記において謎かけであろうと想像が出来ます。およそ、この歌は奈良貴族の最高の教養水準を下に頓知歌として楽しまなくてはいけないのでしょう。
 そうした時、左注の「右一首、書白紙懸著屋壁也」の文章が利いてきます。つまり、筆で墨書し壁に貼り出して人に見せることで歌意が判る仕掛けとなっています。歌の「莫津左比曽」は万葉仮名としてそのまま「なつさひそ」と訓めますが、漢字の意味合いからは「津」の文字の中で並立するもの(「比」の文字の原義)の左側を取り去るとも解釈できます。それで「津」の文字から「氵(サンズイ)」を取り払い、筆を意味する「聿」の文字が表れて来ます。
 また、天平九年二月の宴で「海原之遠渡乎」と歌を詠いますから、当然、その時、帰路の途中で遣新羅大使が病死し、また、新羅との宗主問題で世の話題になった遣新羅使の帰国者一行であることが想像できます。その人物が「海を渡って宴に来た」と詠うのですから、想定される歌人は遣新羅使副使であった大伴三中となります。
 従いまして、歌の末句「莫津左比」は表記の遊びから「聿」の文字が導かれ、さらにこの「聿」と云う文字は「三+中」とに分解ができます。和歌の頓知はこのようにして解くことが出来ます。
 ただし、これですと、左注の残りの句「題云蓬莱仙媛所嚢蘰、為風流秀才之士矣。斯凡客不所望見哉」を解いたことにはなりません。この「蓬莱仙媛所嚢蘰」を「蓬莱の仙媛の蘰を嚢(おさ)めむは」と解釈すれば、これは「麻姑献寿」を意味します。従って宴の主催者である巨勢宿奈麻呂は別席に梅の花などの飾り付けや屠蘇酒などの酒肴を用意していたと思われます。新羅懲罰に対する朝廷による意見徴収が行われたのは天平九年二月十五日、これは新暦737年3月23日に相当しますから、宴会がそれ前後のこととしますと麻姑の花籠に因んで遅咲きの梅、早咲きの桜などが楽しめたのではないでしょうか。
 当然、この歌と左注は宴会での待合室か、玄関に墨書し掲げられたものですから、歌の漢字の原義を駆使した頓知を判る必要があり、また、『神仙伝』は知るべき教養です。そうでない人物は左注が示すように「斯凡客不所望見哉」です。この背景がありますので、「蓬莱仙媛所嚢蘰」を「蓬莱の仙媛が化けた嚢蘰は」と訓じることは出来ません。まったくに『万葉集』が鑑賞出来ていません。

 このように歌中に使われる漢字「津」の文字を分解することで集歌1016の歌では「津」の文字から「聿」の文字が導かれ、集歌1503の歌では「謌」の文字から「可」、「可」、「言」の文字が導かれます。それも万葉時代「言」の文字は神との誓約を意味するような約束事を言うような意味合いを持ちます。恋人同士の愛のささやきにおいて「言」と云う言葉は重要な意味合いを持つことになります。
 万葉集では他にも集歌3837の歌にも漢字文字を分解して歌を詠うような姿が見出されます。この集歌3837の歌は左注の漢文が示す「開其荷葉而作」がテーマです。つまり、「荷葉」と云う漢語で使われる漢字文字を分解して詠われています。「荷葉」は「廾」、「何」、「廾」、「世」、「木」と分解して「サカサセキ=探させき」と訓じることが出来ます。ここから、「久堅」、「雨毛落」、「渟在水」と「玉似」の使われる漢字と背景から「草壁皇子」が導かれるのです。

集歌3837 久堅之 雨毛落奴可 蓮荷尓 渟在水乃 玉似将有見
訓読 ひさかたの雨も降らぬか蓮葉(はちすは)に渟(とど)まる水の玉に似る見む
私訳 遥か彼方から雨も降って来ないだろうか。蓮の葉に留まる水の玉に似たものを見たいものです。

右謌一首、傳云有右兵衛。(姓名未詳) 多能謌作之藝也。于時、府家備設酒食、饗宴府官人等。於是饌食、盛之皆用荷葉。諸人酒酣、謌舞駱驛。乃誘兵衛云開其荷葉而作。此謌者、登時應聲作斯謌也
注訓 右の謌一首は、傳へて云はく「右兵衛(うひょうえ)なるものあり(姓名は未だ詳(つばび)らならず)。 多く謌を作る藝(わざ)を能(よ)くす。時に、府家(ふか)に酒食(しゅし)を備へ設け、府(つかさ)の官人等(みやひとら)を饗宴(あへ)す。是に饌食(せんし)は、盛るに皆荷葉(はちすは)を用(もち)ちてす。諸人(もろびと)の酒(さけ)酣(たけなは)に、謌舞(かぶ)駱驛(らくえき)せり。乃ち兵衛なるものを誘ひて云はく『其の荷葉を開きて作れ』といへば、此の謌は、登時(すなはち)聲に應(こた)へて作れるこの謌なり」といへり。
注訳 右の歌一首は、伝えて云うには「右の兵衛府にある人物がいた。姓名は未だに詳しくは判らない。多くに歌を作る才能に溢れていた。ある時、兵衛府の役所で酒食を用意して、兵衛府の役人達を集め宴会したことがあった。その食べ物は盛り付けるに全て蓮の葉を使用した。集まった人々は酒宴の盛りに、次ぎ次ぎと歌い踊った。その時、右の兵衛府のある人物を誘って云うには『その荷葉を開いて歌を作れ』と云うので、この歌は、すぐにその声に応えて作ったと云う歌」と云う。


 色々と万葉集の歌の中を飛び回りましたが、万葉集の歌には使われる漢字を分解して別な意味合いを持たすような「ナゾナゾ歌」が存在します。これは藤原定家以降の正統的な歌人たちにとっては想定外の作歌法ですので、まず、かような解釈はしません。つまり、ここでもまた弊ブログ特有の酔論・暴論からの鑑賞です。
 眉に唾をつけて、鑑賞をお願いします。
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万葉雑記 色眼鏡 二三六 今週のみそひと歌を振り返る その五六

2017年10月14日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二三六 今週のみそひと歌を振り返る その五六

 今回は巻八に載る大伴家持が詠った歌に遊びます。なお、歌は夏雜謌に部立されますので季節では夏(旧暦4月から6月)となります。

大伴家持石竹花謌一首
標訓 大伴家持の石竹花(なでしこ)の謌一首
集歌1496 吾屋前之 瞿麥乃花 盛有 手折而一目 令見兒毛我母
訓読 吾が屋前(やと)し撫子(なでしこ)の花盛りなり手(た)折(を)りに一目見せむ児もがも
私訳 私の家の撫子の花は盛りです。その盛りの花を手折ってそれを一目見せるような娘がいると良いのだが。

 一方、同じ巻八に山上憶良が詠う有名な秋の七草の歌があります。それが次の歌です。秋の七草の歌ですから季節は秋(旧暦7月から9月)と云うことになります。家持と憶良とともに撫子の花に関わる歌を詠いますが、その季節感は違います。

山上巨憶良詠秋野花二首
標訓 山上(やまのうへの)巨(おほ)憶良(おくら)の、秋の野の花を詠める二首
集歌1537 秋野尓 咲有花乎 指折 可伎數者 七種花 (其一)
訓読 秋し野に咲きたる花を指(および)折(を)りかき数(かぞ)ふれば七種(ななくさ)し花 (其一)
私訳 秋の野に咲いている花を指折り、その数を数えると七種類の花です。
注意 標題の「山上巨憶良」の「巨(おほ)」は、一般に「臣(おみ)」の誤記とします。「巨」と云う文字は「王」と云う意味合いがありますから、時に山上憶良は渡来系王族や領袖一族からの出身であった可能性があります。

集歌1538 芽之花 乎花葛花 瞿麦之花 姫部志 又藤袴 朝皃之花 (其二)
訓読 萩(はぎ)し花尾花(をばな)葛花(ふぢはな)撫子(なでしこ)し花姫部志(をみなえし)また藤袴(ふじはかま)朝貌(あさかほ)し花 (其二)
私訳 萩の花、尾花、葛の花、撫子の花、女郎花、また、藤袴、朝貌の花

 さて、石竹、瞿麥、瞿麦、撫子はナデシコの漢字表記で、石竹、瞿麥、瞿麦は中国のセキチクに由来します。同じナデシコと云う草木分類ではありますがヤマトナデシコ(カワラナデシコ)とセキチク(唐ナデシコ)は別品種であり、セキチクと云う品種のナデシコは平安時代に舶来したとします。つまり、言葉や漢字表記は奈良時代以前に到来し使用されていましたが、中国語でナデシコを示す石竹、瞿麥、瞿麦で表記される本来の品種セキチクは奈良時代には無かったとします。
 一方、開花時期についてヤマトナデシコは新暦6月から9月に咲き、セキチクは5月から10月に咲くとします。およそ、ヤマトナデシコは旧暦の秋に咲く花となりますが、セキチクは旧暦晩夏から初冬までに渡って咲く花となります。
 歌を詠った歌人は大伴家持ですし、山上憶良です。また、万葉集編纂においても大伴家持の歌は夏に分類され、その前後には霍公鳥を詠う歌が配置されています。従いまして、こららの態度からしまして当時の人々の認識では旧暦6月に「瞿麥乃花」は盛りを迎えてよいとしています。すると歌に詠われるナデシコが違うのでしょうか。つまり、家持は咲き始めが早いセキチクを詠い、憶良は大和固有の野に咲くヤマトナデシコを詠ったのでしょうか。建前ではセキチクは平安時代に輸入された栽培種のナデシコですが、実際には大伴旅人や山上憶良の時代には中国語表記と共にその種子がもたらされていたと云うことでしょうか。
 例えば、梅は従来の解説では中国から輸入された帰化植物でその到来は飛鳥・奈良時代にもたらされたとします。ところが遺跡考古学からしますと弥生時代から古墳時代には栽培されたと思われる梅の木の断片や種が発掘されており、現在では西暦紀元前に北部九州から畿内・北陸方面までにはもたらされたのではないかと考えられています。文献や言葉からの研究成果とは相違しますが、考古学と文献学とには梅の大和到来時期において六百年以上の相違があります。
 それと同じように栽培種のナデシコの到来もまた、相当に早い時期に大和にもたらされた可能性があるのではないでしょうか。つまり、示しましたように家持は庭でたいせつに育てたセキチクをナデシコとして歌を詠い、憶良は大和の秋の野の風景としてヤマトナデシコを詠ったのではないでしょうか。鑑賞と季節感からしますと、このような推定が一番収まりが良いと考えます。

 少し。
 原歌表記において「令見兒毛我母」とあります。漢字で「兒」は保護するような幼い子供を意味しますから、時に大伴家持は、どこかで幼い子を連れた母親の姿を見て、早く亡くした妾を想ったかもしれません。または、セキチクが栽培品種としますと春に植えた(播いた)そのセキチクが育ち、花になる前に妾は亡くなったのでしょう。
 この推定を裏付けるものとして巻三に次のような歌があります。歌は天平十一年夏六月の歌と集歌462の歌の標題にあります。ただ、六月ですが晦日頃となります。

十一年己卯夏六月、大伴宿祢家持悲傷亡妾作謌一首
標訓 十一年己卯の夏六月に、大伴宿祢家持の亡(みまか)りし妾(をみなめ)を悲傷(かな)しびて作れる謌一首
集歌462 従今者 秋風寒 将吹焉 如何獨 長夜乎将宿
訓読 今よりは秋風寒く吹きなむを如何(いか)にかひとり長き夜を宿(ね)む
私訳 今からは秋風が寒く吹くでしょうに、これからどのようにして独りで長い夜を寝ましょう。

弟大伴宿祢書持即和謌一首
標訓 弟(おと)大伴宿祢書持の即ち和(こた)へる謌一首
集歌463 長夜乎 獨哉将宿跡 君之云者 過去人之 所念久尓
訓読 長き夜をひとりや寝(ね)むと君し云へば過ぎにし人し思ほゆらくに
私訳 長い夜を独りで寝るのかと貴方が云うと、死して過ぎ去ていったあの人の事を思い出されます。

又、家持見砌上瞿麦花作謌一首
標訓 又、家持の砌(みぎり)の上の瞿麦(なでしこ)の花を見て作れる謌一首
集歌464 秋去者 見乍思跡 妹之殖之 屋前乃石竹 開家流香聞
訓読 秋さらば見つつ思(しの)へと妹し植ゑし屋前(やと)の石竹花(なでしこ)咲きにけるかも
私訳 秋がやって来たら眺めて観賞しなさいと愛しい貴女が植えた家の庭のナデシコは、咲き出した。


 最初に集歌1496の歌だけから、後半の部分を想像し、「妾」の文字から、ふと、巻三の歌を思い出しました。弊ブログは酔い加減の与太話ばかりですが、そこそこ、根拠のありそうなことも扱っていると、独り、喜んでいます。まぐれでも、うれしい。

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万葉雑記 色眼鏡 二三五 今週のみそひと歌を振り返る その五五

2017年10月07日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二三五 今週のみそひと歌を振り返る その五五

 今回は巻八に載る藤原廣嗣が詠った歌に遊びます。廣嗣は天平十二年に大宰府で大宰少弐の身分でありますが反乱を起こし、戦いに敗れ刑死しています。この廣嗣の乱の時、聖武天皇の伊勢、尾張、近江方面へのさすらいの逃避行は有名な事件ですし、万葉集にも関連する歌が残されています。
 さて、鑑賞します歌は巻八の掲載順序や廣嗣の経歴などから、天平五年以降で九年までに詠われたものと思われます。年齢的には二十二歳~四歳頃になるでしょうか。

藤原朝臣廣嗣櫻花贈娘子謌一首
標訓 藤原朝臣廣嗣(ひろつぐ)の櫻の花を娘子(をとめ)に贈りたる謌一首
集歌1456 此花乃 一与能内尓 百種乃 言曽隠有 於保呂可尓為莫
訓読 この花の一枝(ひとよ)のうちに百種(ももくさ)の言(こと)ぞ隠(こも)れる疎(おほろ)かにすな
私訳 この桜の花の一枝の中に、沢山の誓いの言葉が託されている。粗末にしないでくれ。

娘子和謌一首
標訓 娘子(をとめ)の和(こた)へたる謌一首
集歌1457 此花乃 一与能裏波 百種乃 言持不勝而 所折家良受也
訓読 この花の一枝(ひとよ)のうちは百種(ももたね)の言(こと)持ちかねに折(を)れそけらずや
私訳 この桜の花の一枝の一つは、沢山の誓いの言葉の重みを受け切れなくて折れてしまったのですか。

 鑑賞では標題から「花」を桜としていますが、万葉集的には桜と限定しないのが良いと思います。一方、集歌1456の歌に付けられた標題に「櫻花贈娘子謌一首」とありますので、歌の花は桜としています。ただ、標題の漢文は「贈」の漢字の配置位置からして漢文ではありませんから、万葉集時代よりも遅れて、漢文が苦手になって来た後年、平安時代に付けられた可能性があります。また、古今以降とは違い藤原廣嗣は標題に合わせて歌を詠ったのではありませんから、どのような季節にどのような花を詠ったのかは、厳密には歌だけからは確定が出来ません。ただ、このように述べていますが個人的な好みで桜としています。
 ご存知のように和歌の伝統では古今和歌集以降、「花」は「桜」と考えるのが一般と教科書的には解説しますが、実際は古今和歌集でも「花」を「桜」とは限定していません。和歌の伝統と云いますが、実際は「江戸期以降に和歌道で採用された解釈では、一般名称的な花を詠う歌ではそれを桜と鑑賞するのが良いし、逆にそのように歌を詠うべき」というだけです。万葉集や古今和歌集などから研究された事柄ではありません。
 万葉集では大伴一族系の人々は梅を題材にした歌を多く残したため他の和歌集からしますと比較的に梅花の歌が目に付きますが、大伴一族系を除きますと、桜が優勢です。一方、古今和歌集や後撰和歌集で桜が絶対的に優勢かと云うと梅の花を詠う歌もまた多数を占めます。もし現代的にデータベースを使いそれぞれの歌集を全歌検索を行いますと、従来の解説は根拠があるのかと問うと心許無い話となります。

 気を取り直して、鑑賞します歌の風情は一つの枝にたくさんの花が咲いている雰囲気です。それも枝が折れんばかりにたわわ(とをを)に咲いている様子があります。まず、その姿は山桜ではありません。桜ならエドヒガン系統から品種改良された枝垂れ桜系統となりますから、奈良時代に「枝もたをを」の桜花が存在したかは不明です。万葉集の時代、「とをを」や「しなふ」で形容される花は萩ですので、可能性として廣嗣は娘子に萩の花枝を贈った可能性があります。

集歌2284 率尓 今毛欲見 秋芽子之 四搓二将有 妹之光儀乎
訓読 ゆくりなに今も見が欲(ほ)し秋萩ししなひにあるらむ妹し姿を
私訳 突然ですが、今も眺めて見たい。秋萩のようなあでやかでしなやかな体をしているでしょう、その貴女の姿を。

 花の内にたくさんの言葉を託している訳ですから、もし、集歌2284の歌があるのですと「貴女に、もう一度、逢いたい」との表の意味がありますし、裏として「今毛欲見 秋芽子之 四搓二将有」の表記には「貴女を閨で性に狂わしたい」との思いがあります。このように鑑賞しますと「百種」の言葉が生きて来ると考えます。
 他方、桜花に恋の思いを託した有名な歌があります。それが集歌3305の長歌ですし、集歌3309の長歌です。ここでは集歌3305の長歌の元歌と思われる集歌3309の長歌の方を紹介します。比喩で使われる「桜花」は早乙女が男女関係を結ぶことが認められた娘子へと美しく女として成熟した姿を暗示します。ただ、桜の花付きの特徴として枝折れするようなたわわな花模様ではありません。

柿本朝臣人麻呂之集歌
標訓 柿本朝臣人麻呂の集(しふ)の歌
集歌3309 物不念 路行去裳 青山乎 振酒見者 都追慈花 尓太遥越賣 作樂花 佐可遥越賣 汝乎叙母 吾尓依云 吾乎叙物 汝尓依云 汝者如何 念也念社 歳八羊乎 斬髪 与知子乎過 橘之 末枝乎須具里 此川之 下母長久 汝心待
訓読 物思(も)はず 路(みち)行き行くも 青山を 振り放(さ)け見れば つつじ花 香(にほゑ)し少女(をとめ) 桜花(さくらはな) 栄(さかえ)し少女(をとめ) 汝(な)れをぞも 吾に寄すいふ 吾をぞも 汝れに寄すいふ 汝(な)はいかに 思(も)ふや思(も)へこそ 歳し八遙(やつよ)を 切り髪し 吾同子(よちこ)を過ぎし 橘し 末枝(はつゑ)を過(す)ぐり この川し 下にも長く 汝(な)が心待つ
私訳 花を是非に見ようと思わずに道を行き来ても、青葉の山を見上げるとツツジの花が芳しく香る未通女のようで、桜の花は盛りを迎えた未通女のようだ。そんな貴女は私を信頼して気持ちを寄り添え、つまらない私も同じように貴女を信じ気持ちを寄せる。貴女はどのように想っているのか。 心を寄せて、ようやくの八歳の幼さない切り髪のおかっぱ頭の髪を伸ばし始めて肩まで伸びてうない放髪の幼さを過ぎて、橘の薫り高い末枝の花芽の時を過ぎて、この川の下流が長く久しいように、ずーと、貴女が私を愛する時を待っています。

 歌の鑑賞の理屈からすると萩の花枝の方がふさわしいのですが、自然鑑賞ではなく貴族が集うサロンや室内での和歌創作と云う観点からしますと、花は遠景でも近景でも、また、枝刺しでも適う桜花の方が良いのかも知れません。

 もう少し。
 集歌1457の歌の訓じで「言持不勝而 所折家良受也」が難しいとの解説があります。弊ブログでは「言(こと)持ちかねに折(を)れそけらずや」としていますが、標準では「言(こと)持ちかねて折らえけらずや」とします。この「折らえけらずや」に対する解釈「このように折れてしまったのですね」が原歌の文字列からすると難しいとします。標準での枝が折れている状態に対する言葉として「折らえけらずや」は正しいのかと云うことです。ただ、古今和歌集や土左日記では漢字「所」は「そ」と訓じますので藤原定家調に無理に万葉集を読解する必要は無いと思います。紀貫之調に訓じれば「難しい」と云う状況にはなりません。弊ブログが示す通りです。

 加えて、
 集歌1456の歌と集歌1457の歌は奈良朝廷の中心貴族である藤原氏の貴公子である廣嗣と名も無き宮中に勤める娘子との宮中サロンでの擬似恋愛を前提とした相聞恋歌です。廣嗣の上から目線の恋歌に対する、身分が低く見下された娘子のウイットに富んだ返しを楽しむべきものであることを鑑賞してもらえたらと希望します。あくまで、歌垣歌のようなサロンでの恋をテーマにした歌問答です。二人には、まず、男女関係は無いと思われます。
 あちらこちらと話が飛び、支離滅裂ですが、このような鑑賞も可能と云うことを了解頂ければ幸いです。ただし、あくまで素人の酔論ですし、暴論です。
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