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資料編 延喜十三年亭子院歌合(原文、和歌、解釈及び亭子院歌合日記付)

2016年04月17日 | 資料書庫
資料編 延喜十三年亭子院歌合(原文、和歌、解釈及び亭子院歌合日記付)

 ここでは延喜十三年亭子院歌合の歌と共に伊勢が書き残した亭子院歌合日記付を併せて紹介します。
 さて、その延喜十三年亭子院歌合と云う歌集は延喜十三年(913)に宇多法皇が自分の御所としていた亭子院において開いた歌合での歌を記録したものです。この歌合は歌人である伊勢が書き残した日記によって世に知られていますが、伊勢が書き残した日記からしますと、歌合は「二月」、「三月」、「四月」を題としてそれぞれ十番、十番、五番の歌を合わせた歌会であったと思われます。つまり、伊勢が残した原典では二十五番五十首の歌を載せたものとなります。
 ところが、現代に伝わる延喜十三年亭子院歌合の写本では、「四月」の五番にさらに五番を追加して十番二十首とし、他に「恋」と云う題で新たに十番二十首が付加されています。つまり、「二月」、「三月」、「四月」、「恋」の四つの部立でそれぞれ十番二十首、都合八十首の歌を載せた歌合歌集として伝わっています。つまり、後年に十五番三十首が追記されたことになります。
 伝わる歌合から推定して、この歌合は宴の当日に新たに作成した歌を詠い披露するのではなく、事前に計画・通知されたテーマに合わせて招待予定の歌人がそれぞれに歌を用意して幹事歌人(講師:推定で宇多法皇側近、六位蔵人藤原忠房)に提出し、幹事歌人が提出された歌を取捨選択した上で番組を作り、宴の当日に左右の歌の優劣について当時の有名歌人であった藤原忠房が講師を務め、彼から判定と講評を聞くようなものだったと思われます。これを示すように、歌合の番組では左右ともに同じ歌人の歌の組み合わせが少なくとも三組が載せられています。実際には講師の予定であった藤原忠房は宴当日に欠席し、宴の主催者である宇多法皇が事前の判定に対しての講評を行っています。それを伊勢は「右は勝ちたれど、内の御歌ふたつを勝にておきたれば(歌合の結果は右方が勝ったのであるが、じつは法皇の二首のお歌を勝ちにしておいたのだから)」と記録しています。
 参考として歌合の歌の前に、伊勢が記したとする亭子院歌合日記を紹介します。亭子院歌合日記の風景からしますと、歌々は事前に用意されたものであり、当日に即興で詠ったものではありませんから、古今和歌集の集載歌と延喜十三年亭子院歌合の集載歌との重複をもって古今和歌集の再編纂が延喜五年以降にもあったとの根拠にすることは出来ません。歌合集からは亭子院歌合に載る歌が延喜十三年春に新作されたと云うことはどこにも示されていないのです。
 本編はその四十番の歌を載せた歌合集となる小学館の「日本古典文学全集 古今和歌集」に収容する「延喜十三年亭子院歌合」に従っています。このため、インターネットで参照が容易な国際日本文化研究センター収容の「亭子院歌合」とは相違しています。
 ここでの歌の紹介において、次のような約束を取らせて頂きます。
 原歌は「国際日本文化研究センター和歌データベース」の清音ひらがな表記に従う。
 歌人名や詞書などは小学館『日本古典文学全集 古今和歌集』に収容する「延喜十三年亭子院歌合」に従う。
 歌番号は私が本編集のために独自に付けた。
 歌人名を漢字表記にしたものもある。
 亭子院歌合日記は『王朝日記文芸抄(金井利浩)』から引用し、漢字は仮名に直した。
 さらに補記をいたしますと、「小学館」のものにおいて歌番号五九の歌は欠落していますし、歌番号七一の歌は歌合とならない歌、つまり、左右二首一組ではなく一首単独の歌として載せられています。従いまして欠落を含めますと、ある時点での伊勢本からの写本では八十一首(歌の存在は八十首)が載る歌合集です。私の編集ではこの歌数「八十一」を採用しています。対して「小学館」は八十であり、「日文研」は七十です。なお、紹介します歌は歌番号、歌人、原歌、和歌、解釈の順とし、二首一組としています。歌人の中で身分の低い蔵人や女蔵人が詠うものに対して伊勢の記録にはその詠い手の名前はありません。
 最後に重要なことですが、この資料は正統な教育を受けていないものが行ったものです。特に読解の便を計って付けた「和歌」と「解釈」は私の自己流であり、「小学館」からの写しではありません。つまり、まともな学問ではありませんから正式な資料調査の予備的なものにしか使えません。この資料を参照や参考とされる場合、その取り扱いには十分に注意をお願い致します。

資料参照:
 延喜十三年亭子院歌合 (日本古典文学全集 古今和歌集収蔵 小学館)
 延喜十三年亭子院歌合 (国際日本文化研究センター)
 亭子院歌合日記 (王朝日記文芸抄 金井利浩 武蔵野書院)
 延喜十三年三月十三日亭子院歌合 (日本古典文学大系 歌合集 岩波書店)
 新編国歌大観 歌合編 (角川書店)

亭子院歌合日記 伊勢

ひたりのとう(左頭)をんな(女)ろくのみや(六宮)、かた(方)のみこ、おほんせうと(御兄人)のなかのまつりこと(中務)のし(四)のみこ(親王)、たんしよう(弾正)のこ(五)のみこ(親王)、なかのものまうすつかさ(中納言)ふちはらのさたかた(藤原定方)朝臣、さゑもんのかみ(左衛門督)なかみつ(有実)朝臣、うたよみ、ふちはらのおきかせ(藤原興風)、おふしかうちのみつね(凡河内躬恒)、かたうと(方人)、むねゆき(致行)、よしかせ(好風)らなむ。
みきのとう(右頭)をんな(女)ななのみや(七宮)、かた(方)のみこ(親王)、おほんせうと(御兄人)のこうつけ(上野)のはちのみや(八宮)、せいはのさたかす(清和貞数)のはちのみや(八宮)、なかのものまうすつかさ(中納言)みなもとののほる(源昇)朝臣、うゑもんのかみ(右衛門督)きよつら(清貫)朝臣、うた(歌)よみ、これのり(是則)、つらゆき(貫之)、かたうと(方人)、かねみ(兼覧)のおほきみ(王)、きよみちの朝臣。
みかと(帝)のおほむしようふそく(御装束)、ひはたいろ(檜皮色)のおほんそ(御衣)にしようわいろ(承和色)のおほんはかま(御袴)。をとこをむな(男女)、ひたり(左)はあかいろにさくらかさね、みき(右)はあをいろにやなきかさね。ひたり(左)はうたよみ、かすさしのわらは(童)、れいのあかいろにうすすはう(薄蘇芳)あや(綾)のうへのはかま、みき(右)にはあをいろにもえき(萌葱)のあや(綾)のうへのはかま。かたかたのみこ(方方親王)、あをいろあかいろみなたてまつれり。
かくて、ひたり(左)のそふ(奏)はみのとき(巳時)にたてまつる。かた(方)のみや(宮)たちみなしようそく(装束)めでたくして、すはま(州浜)たてまつる。まふちきみ(大夫)よたり(四人)かけり(担けり)。かく(楽)はわうしきてう(黄鍾調)にていせのうみ(伊勢海)といふうたをあそふ。みき(右)のすはま(州浜)はうまのとき(午時)にたてまつる。おほきなるわらは(童)よたり(四人)、みつら(美豆良)ゆひ、しかいは(四海波)きて(着て)かけり(担けり)。かく(楽)はそうてう(双調)にてたけかは(竹河)といふうたをいとしつやかにあそひて、かたみや(方宮)たちもてはやしてまゐりたまふ。ひたりのそふ(左奏)はさくらのえたにつけて、なかのものまうすつかさ(中務)のみこ(親王)もたまへり。みき(右)はやなきにつけて、かうつけ(上野)のみこ(親王)もたまへり。うた(歌)は、したん(紫檀)のはこちひさくて、おなしこといれたり。かんたちめ(上達部)、はしのひたりみき(左右)にみなあかれ(上かれ)てさふらひたまふ。によくらふと(女蔵人)よたり(四人)つつひたりみき(左右)にさふらはせたまふ。うた(歌)のかんし(講師)は、をんな(女)なむつかまつりける。みす(御簾)いちしやくこすん(一尺五寸)はかりまきあけて、うた(歌)よまむとするに、うへ(上)のおほせたまふ。このうたをたれかはききはやしてことわらむとする。たたふさ(忠房)やさふらふとおほせたまふ。さふらはすとまうしたまへは、さうさうしからせたまふ。
みき(右)はかちたれとも、うち(内)のおほんうた(御歌)ふたつをかちにておきたれは、みき(右)ひとつ(一)まけたり。されと、ほとときすのはうのはなにつけたり。よ(夜)のうたは、うふね(浮舟)してかかり(篝)にいれてもたせたり。ひたりのかた(左方)のみや(宮)に、みき(右)のかたのたてまつりたまひける、しろかねのつほのおほきなるふたつに、しん(沈)あはせたきもの(薫物)いれたりけり。かた(方)のをんな、ひとひと(人々)にみなそうそく(装束)たま(給)ひけり。
たい(題)はきさらき(二月)やよひ(三月)うつき(四月)なり。

注意:文中の()の中の漢字が王朝日記文芸抄(金井利浩)で示すもので、それを伊勢の時代の言葉に直しています。なお、日本古典文学大系 歌合集では漢字交じりひらかなの文章で紹介した上で亭子院歌合の中に地文扱いで取り込み、本来の姿を留めていません。扱う資料で趣が大きく違いますので、そこは参照目的に応じて対応をお願いします。


延喜十三年三月十三日亭子院歌合


二月 十首
二月一番 持
左  伊勢
歌番号〇一 
原歌 あをやきの えたにかかれる はるさめは いともてぬける たまかとそみる
和歌 青柳の 枝にかかれる 春雨は 糸もてぬける 玉かとぞ見る
解釈 青柳の枝に降り懸かる春雨は、糸で貫いた珠とばかりに見えます。
右  坂上是則
歌番号〇二 
原歌 あさみとり そめてみたるる あをやきの いとをははるの かせやよるらむ
和歌 浅緑 そめて乱れる 青柳の 糸をばはるの 風や縒るらむ
解釈 浅緑に染めて乱れる青柳の枝、その糸のような枝を春風が靡かせ縒っているように見えます。

二月二番 持
左  凡河内躬恒
歌番号〇三 
原歌 さかさらむ ものならなくに さくらはな おもかけにのみ またきみゆらむ
和歌 咲かざれむ ものならなくに 桜花 面影にのみ まだき見ゆらむ
解釈 咲かないと言うものでは無いので、散る過ぎた桜花は、思い出の中で未だに眺めています。
右  紀貫之
歌番号〇四 
原歌 やまさくら さきぬるときは つねよりも みねのしらくも たちまさりけり
和歌 山桜 咲きむるときは つねよりも 峰の白雲 たちまさりけり
解釈 山桜が咲き誇っている時は、日ごろに眺める峰に懸かる白雲が一層に立ち勝っているように見えます。

二月三番
左  凡河内躬恒
歌番号〇五 勝
原歌 きつつのみ なくうくひすの ふるさとは ちりにしうめの はなにさりける
和歌 来つつのみ 鳴く鶯の 故里は 散りにし梅の 花にざりける
解釈 飛び来て留まることもなく鳴く鶯の古き里は、散る過ぎた梅の花の風情のようです。
右  坂上是則
歌番号〇六 
原歌 みちよへて なるてふももは ことしより はなさくはるに あひそしにける
和歌 三千代経て なるてふ桃は 今年より 花咲く春に あひぞしにける
解釈 三千年の時を経て実が成ると言う西王母の長寿の桃の話ではありませんが、今年から植えて待っていた桃の花が咲く春に出会うことが出来ました。

二月四番
左  藤原季方
歌番号〇七 
原歌 いそのかみ ふるのやまへの さくらはな こそみしはなの いろやのこれる
和歌 いそのかみ 布留の山べの 桜花 去年見し花の 色やのこれる
解釈 石上の布留の里の山辺に咲く今年の桜花、それは去年に眺めた花の色どりが残っているかのようです。
右  伊勢
歌番号〇八 勝
原歌 ほともなく ちりなむものを さくらはな ここらひささも またせつるかな
和歌 ほどもなく 散りなむものを 桜花 ここらひささも 待たせつるかな
解釈 すこし時が経てば散り過ぎて行くはずの桜花、でもたいそう長く、その咲き出すのを待たせます。

二月五番
左  紀貫之
歌番号〇九 勝
原歌 はるかすみ たちしかくせは やまさくら ひとしれすこそ ちりぬへらなれ
和歌 春霞 たちし隠せば 山桜 人知れずこそ 散りぬべらなれ
解釈 このように春霞が立ってその姿を隠してしまえば、盛りの山桜は人が気づかぬ間に散り過ぎてしまうでしょうね。
右  藤原興風
歌番号一〇 
原歌 たのまれぬ はなのこころと おもへはや ちらぬさきより うくひすのなく
和歌 頼まれぬ 花の心と 思へばや 散らぬさきより 鶯の鳴く
解釈 いつまでも咲いているだろうとは当てには出来ない花の気持ちと私が思うからだろうか、花が散り過ぎ来て行く前から鶯が鳴いている。

二月六番
左  御製(宇多法皇)
歌番号一一 勝
原歌 はるかせの ふかぬよにたに あらませは こころのとかに はなはみてまし
和歌 春風の 吹かぬ世にだに あらませば 心のどかに 花は見てまし
解釈 花散らしの春風が吹かないこの世であったなら、花が散り逝くことを気に掛けず、心穏やかに盛りの花を見ていられるでしょう。
右  (判者の藤原忠房)
歌番号一二 
原歌 ちりぬとも ありとたのまむ さくらはな はるはすきぬと われにきかすな
和歌 散りぬとも ありとたのまぬ 桜花 春は過ぎぬと われに聞かすな
解釈 散ったとしても、まだ、散ってはいないと思いましょう、その桜花、花が散り春は過ぎて行きましたと、私に季節の移ろいを聞かさないでくれ。
注意 歌合集では右の歌人を判者の藤原忠房と推定します。

二月七番
左  紀貫之
歌番号一三 勝
原歌 さくらちる このしたかせは さむからて そらにしられぬ ゆきそふりける
和歌 桜散る 木の下風は 寒からで 空に知られぬ 雪ぞ降りけり
解釈 桜の花が散る、この木の下に吹く風は、もう、寒くはないが、ここには天空に気付かれない、この花の雪が降っています。
右  凡河内躬恒
歌番号一四 
原歌 わかこころ はるのやまへに あくかれて なかなかしひを けふもくらしつ
和歌 わが心 春の山べに あくがれて ながながし日を 今日も暮らしつ
解釈 私の気持ちは春の野辺の風情に心が躍り抜け出て、長々しく日が延びた日を、今日も過ごしました。

二月八番 持
左  凡河内躬恒
歌番号一五 
原歌 さくらはな いかてかひとの をりてみぬ のちこそまさる いろもいてこめ
和歌 桜花 いかでか人の 折りてみぬ のちこそまさる 色もいでこめ
解釈 あの美しい桜の花をどうして人は手折って眺めないのだろうか、手折って屋敷内に活けたのちにはより一層に美しさも見いだせるでしょうに。
右  凡河内躬恒
歌番号一六 
原歌 うたたねの ゆめにやあるらむ さくらはな はかなくみてそ やみぬへらなる
和歌 うたた寝の 夢にやあるらむ 桜花 はかなく見てぞ やみぬべらなる
解釈 僅かな間のうたた寝で見た夢なのでしょうか、桜の花よ、ほんのわずかな間に眺めて散って花の季節は終わってしまったようです。

二月九番 持
左  藤原興風
歌番号一七 
原歌 ふりはへて はなみにくれは くらふやま いととかすみの たちかくすらむ
和歌 ふりはへて 花見にくれば くらぶ山 いとど霞の 立ち隠すらむ
解釈 わざわざと花を眺めに来ましたが、暗部山は大層に霞が立って山桜の姿を隠すようです。
右  
歌番号一八 (躬恒集の歌)
原歌 いもやすく ねられさりけり はるのよは はなのちるのみ ゆめにみえつつ
和歌 寝もやすく 寝られざりけり 春の夜は 花の散るのみ 夢に見えつつ
解釈 やすやすとは安眠するすることが出来ません、春の夜は桜の花が散る様子だけが夢に現れて。(気が気ではありません)

二月十番 持
左  凡河内躬恒
歌番号一九 
原歌 ふるさとに かすみとひわけ ゆくかりは たひのそらにや はるをすくらむ
和歌 故里に 霞とびわけ ゆく雁は 旅の空にや 春を過ぎらむ
解釈 古き里に霞を飛び分けて行く雁は、旅の空の上からこの春の風景を眺めて過ぎて行くのでしょう。
右  
歌番号二〇 
原歌 ちるはなを ぬきしとめねは あをやきの いとはよるとも かひやなからむ
和歌 散る花を ぬきしとめねば 青柳の 糸は縒るとも かひやなからむ
解釈 散る花をその枝の糸に貫いて留めてなければ、青柳の美しい浅緑の枝の糸は風に靡き縒っても、今一つ甲斐は無いでしょう。

三月 十首
三月一番
左  藤原興風
歌番号二一 勝
原歌 みてかへる こころあかねは さくらはな さけるあたりに やとやからまし
和歌 見て帰る 心飽かねば 桜花 咲けるあたりに 宿やからまし
解釈 眺めて帰るのにまだ心が満足しないので、この桜の花が咲いているあたりに宿を借りましょう。
右  大中臣頼基
歌番号二二 
原歌 しののめに おきてみつれは さくらはな またよをこめて ちりにけるかな
和歌 しののめに 起きて見つれば 桜花 また夜をこめて 散りにけるかな
解釈 夜が白み始める東雲の時に起きて眺めると、桜花よ、なおもまだ夜を通して花を散らしていたのですね。

三月二番 持
左  凡河内躬恒
歌番号二三 
原歌 うつつには さらにもいはし さくらはな ゆめにもちると みえはうからむ
和歌 うつつには さらにも言はじ 桜花 夢にも散ると 見えは憂からむ
解釈 現実にそれを見てからは、さらに重ねて散るなとは言いません、桜花よ、夢の中でさえも散る姿を見ると、心が寂しくなりますから。
右  坂上是則
歌番号二四 
原歌 はなのいろを うつしととめよ かかみやま はるよりのちに かけやみゆると
和歌 花の色を うつしととめよ 鏡山 春よりのちに 影や見ゆると
解釈 この花の姿を写し留めなさい、鏡と言う名を持つ鏡山よ、春が過ぎた後に、その思い出の姿を眺めるようにと。

三月三番
左  凡河内躬恒
歌番号二五 勝
原歌 めにみえて かせはふけとも あをやきの なひくかたにそ はなはちりける
和歌 目に見えて 風は吹けとも 青柳の なひくかたにぞ 花は散りける
解釈 確かに目には見えない、その風は吹いているが、青柳の浅緑の枝糸が靡く方向に花は散り舞っています。
右  藤原興風
歌番号二六 
原歌 あしひきの やまふきのはな さきにけり ゐてのかはつは いまやなくらむ
和歌 あしひきの 山吹の花 咲きにけり 井出の蛙は いまや鳴くらむ
解釈 葦や檜の生える里の山の山吹の花が咲きました、あの井出の里の玉水に棲む蛙も、今はもう鳴いているでしょう。

三月四番
左  
歌番号二七 
原歌 さはみつに かはつなくなり やまふきの うつろふいろや そこにみゆらむ
和歌 沢水に 蛙鳴くなり 山吹の うつろふ色や 底に見ゆらむ
解釈 沢水に蛙が鳴いています、山吹の散り逝く花びらが沢の水面に見えます。
右  
歌番号二八 勝
原歌 ちりてゆく かたをたにみむ はるかすみ はなのあたりは たちもさらなむ
和歌 散りてゆく かたをだに見む 春霞 花のあたりは 立ちも去らなむ
解釈 花が散って逝く方向ばかりを眺めます、でも、春霞は花の周囲に立っても風に流れ去って欲しいものです。

三月五番
左  
歌番号二九 勝
原歌 むさしのに いろやかよへる ふちのはな わかむらさきに そめてみゆらむ
和歌 武蔵野に 色やかよへる 藤の花 若紫に 染て見ゆらむ
解釈 紫草で有名な武蔵野に色を通じあっているのだろうか、野に咲く藤の花は若紫色に染め上げたよういに眺められます。
右  藤原興風
歌番号三〇 
原歌 あかすして すきゆくはるを よふことり よひかへしつと きてもつけなむ
和歌 飽かずして 過ぎゆく春を 呼子鳥 よひかへしつと 来ても告げなむ
解釈 まだ、飽きてもいない内に過ぎていく春を、その名前のように呼子鳥よ、このように春を呼び返しましたと、飛び来て告げて欲しいものです。

三月六番 持
左  凡河内躬恒
歌番号三一 
原歌 はるふかき いろこそなけれ やまふきの はなにこころを まつそそめつる
和歌 春深き 色こそなけれ 山吹の 花に心を まつぞ染めつる
解釈 春の季節が深まる、その山野に彩りは少ないが、咲く山吹の花に、私の心は、まず、染められました。
右  兼覧王
歌番号三二 
原歌 かせふけは おもほゆるかな すみのえの きしのふちなみ いまやさくらむ
和歌 風吹けば おもほゆるかな 住の江の 岸の藤波 いまや咲くらむ
解釈 春風が吹くと思い出される、住之江の岸の藤波、今、咲いているでしょうね。

三月七番 持
左  凡河内躬恒
歌番号三三 
原歌 かけてのみ みつつそしのふ むらさきに いくしほそめし ふちのはなそも
和歌 かけてのみ 見つつぞしのぶ 紫に いくしほ染めし 藤の花そも
解釈 心に懸けて、この景色を眺めながら思い出しましょう、紫草にどれほどに漬けて染めたか、それほどに色濃きこの藤の花ですね。
右  坂上是則
歌番号三四 
原歌 みなそこに しつめるはなの かけみれは はるのふかくも なりにけるかな
和歌 水底に 沈める花の 影見れば 春の深くも なりにけるかな
解釈 水の底に散り沈んでいる花の姿を眺めると、春の季節も花が散る逝く季節とばかりに深くなってしまったのですね。

三月八番 持
左  藤原興風
歌番号三五 
原歌 ふくかせに とまりもあへす ちるときは やへやまふきの はなもかひなし
和歌 吹く風に とまりもあへず 散るときは 八重山吹の 花もかひなし
解釈 吹く風に枝に留まることも出来ずに散り逝く時は、八重咲の山吹の花の姿をしても甲斐がないのですね。
右  紀貫之
歌番号三六 
原歌 をしめとも たちもとまらす ゆくはるを なこそのせきの せきもとめなむ
和歌 惜しめとも 立ちもとまらす ゆく春を 勿来のせきの せきも止めなむ
解釈 この季節を惜しんでみても、立ち留まらないで逝く春を、「な、こそ(=来てくれるな)」と言う名を持つ東北の勿来の関と言う関があるから、北へと帰る春を堰止めて欲しいものです。

三月九番
左  紀貫之
歌番号三七 
原歌 さくらはな ちりぬるかせの なこりには みつなきそらに なみそたちける
和歌 さくら花 散りぬる風の なごりには 水なき空に 波ぞ立ちける
解釈 桜の花が散ってしまった、その風の名残りとして、水が無いはずの空に花びらで浪模様が立ちました。
右  御製(宇多法皇)
歌番号三八 勝
原歌 みなそこに はるやくるらむ みよしのの よしののかはに かはつなくなり
和歌 水底に 春や来るらむ み芳野の 吉野の川に 蛙鳴くなり
解釈 川の水の底に春が来たようです、み芳野を流れる、その吉野川に蛙が鳴いています。

三月十番 持
左  凡河内躬恒
歌番号三九 
原歌 はなみつつ をしむかひなく けふくれて ほかのはるとや あすはなりなむ
和歌 花見つつ 惜しむかひなく 今日暮れて ほかの春とや 明日はなりなむ
解釈 花を眺め散るのを惜しんだ甲斐も無く花は散り、その今日の一日が暮れて、花の無い別の春の景色に明日はなるのでしょう。
右  凡河内躬恒
歌番号四〇 
原歌 けふのみと はるをおもはぬ ときたにも たつことやすき はなのかけかは
和歌 今日のみと 春を思はぬ ときだにも 立つことやすき 花のかげかは
解釈 今日一日だけとは、この春があると思わない時であっても、ここから立ち去ることが難しい、この花の風情であります。


四月 五首
四月一番
左  源雅固
歌番号四一 勝
原歌 みやまいてて まつはつこゑは ほとときす よふかくまたむ わかやとになけ
和歌 深山いでて まづ初声は 郭公 夜深くまたむ わが宿に鳴け
解釈 深山を飛び出してまず聞かせるその初声は、ホトトギスよ、夜深くまでに起きて待っている、この私の屋敷で鳴け。
右  凡河内躬恒
歌番号四二 
原歌 けふよりは なつのころもに なりぬれと きるひとさへは かはらさりけり
和歌 今日よりは 夏の衣に なりぬれと 着る人さへは かはらざりけり
解釈 暦の夏となる今日からは夏の衣を着ることになったので、でも、それを着た人だけは変わることはありませんでした。

四月二番 持
左  藤原興風
歌番号四三 
原歌 やまさとに しるひともかな ほとときす なきぬときかは つけもくるかに
和歌 山里に 知る人もかな 郭公 鳴きぬと聞かば 告げもくるがに
解釈 山里に私の知る人に居て欲しい、ホトトギスが鳴いたと聞いたら、すぐに私に告げに来るような人が欲しいものです。
右  
歌番号四四 
原歌 なつきぬと ひとしもつけぬ わかやとに やまほとときす はやくなくなり
和歌 夏来きぬと 人しも告げぬ わが宿に 山郭公 はやく鳴くなり
解釈 夏が来たと誰一人告げもしない私の屋敷に、夏を告げるホトトギスは、早くも鳴いています。

四月三番
左  凡河内躬恒
歌番号四五 勝
原歌 むらさきに あふみつなれや かきつはた そこのいろさへ かはらさるらむ
和歌 紫に あふ水なれや かきつばた 底の色さへ かはらざるらむ
解釈 紫に染める紫草に出会って水なのでしょうか、それで、かきつばたの咲く、この水の底の色までも、かきつばたの花色と変わらないのでしょう。
右  
歌番号四六 
原歌 ほとときす こゑのみするは ふくかせの おとはのやまに なけはなりけり
和歌 ほととぎす 声のみするは 吹く風の 音羽の山に 鳴けばなりけり
解釈 ホトトギス、姿を見せずにその鳴く声だけがするのは、吹く風が音を立てて吹くと言う音羽の山で鳴いているからです。

四月四番
左  凡河内躬恒
歌番号四七 勝
原歌 われききて ひとにはつけむ ほとときす おもふもしるく まつここになけ
和歌 われ聞きて 人に告げけむ ほととぎす 思ふもしるく まづここに鳴け
解釈 私が最初に初音を聞いてからそれを人に告げましょう、ホトトギスよ、私の思い通りに、まず、この私の屋敷でその初音を鳴け。
右  
歌番号四八 
原歌 かたをかの あしたのはらを とよむまて やまほとときす いまそなくなる
和歌 片岡の 朝の原を とよむまで 山郭公 いまぞ鳴くなる
解釈 片岡の朝の原を鳴き響かせるまで、山ホトトギスが、今、鳴いています。

四月五番
左  
歌番号四九 
原歌 さよふけて なとかなくらむ ほとときす たひねのやとを かすひとやなき
和歌 さ夜ふけて などか鳴くらむ ほととぎす 旅寝の宿を かす人やなき
解釈 やや夜が更けてから、どうして鳴くのでしょうか、ホトトギスよ、この時間では、それをずっと聞きたいとして、急な旅寝の宿を貸してくれる人もいません。
右  藤原興風
歌番号五〇 勝
原歌 なつのいけに よるへさためぬ うきくさの みつよりほかに ゆくかたもなし
和歌 夏の池に よるべ定めぬ 浮草の 水よりほかに ゆくかたもなし
解釈 夏の池で吹き寄せる岸も定めない浮草は、水の流れに従う他に流れ行く先もありません。(私も、有力な寄辺が無いので、世の流れに任せるままです。)

これ以降の歌は原典である伊勢の記録にはありません。後年の写本時に追記されたと思われるものです。従いまして、これ以降では採用する写本により相違があります。ここでは小学館の『日本古典文学全集 古今和歌集』に載せる「延喜十三年亭子院歌合」(十巻本歌合 尊経閣文庫所蔵本)に従っています。そのため国際日本文化研究センター収容の「亭子院歌合」とは相違していますし、国歌大観とも違います。国際日本文化研究センターのものは夏 四月の部立において歌番号五一から歌番号六〇の十首の収載はありません。また、歌合とならない歌番号七一の収載もありません。都合、十一首に相違があります。なお、国歌大観では夏 四月の部立では六番以降の各五首合計十首は載せません。

歌合で披露されていませんので勝負は付けられていません。
四月 六番
左  
歌番号五一 
原歌 いつれをか それともわかむ うのはなの さけるかきねを てらすつきかけ
和歌 いづれをか それとも分かむ 卯の花の 咲ける垣根を 照す月影
解釈 どれが花かと、それがそれだと区別しましょう、真っ白な卯の花が咲いている垣根を照らす白く輝く月の光です。
右  
歌番号五二 
原歌 このなつも かはらさりけり はつこゑは ならしのをかに なくほとときす
和歌 この夏も かはらざりけり 初声は ならしの岡に なく郭公
解釈 この夏もその鳴き声は去年と同じで変わりませんでした、その初声は。その音色で奈良思の岡で鳴くホトトギスです。

四月七番
左  
歌番号五三 
原歌 なつのよの またもねなくに あけぬれは きのふけふとも おもひまとひぬ
和歌 夏の夜の まだも寝なくに 明けぬれは 昨日今日とも 思ひまとひぬ
解釈 短い夏の夜をまだ寝てもいないのに明けてしまうと、今が昨日なのかそれとも今日なのか、思い迷います。
右  
歌番号五四 
原歌 うのはなの さけるかきねは しらくもの おりゐるとこそ あやまたれけれ
和歌 卯の花の 咲ける垣根は 白雲の 下りゐるとこそ あやまたれけれ
解釈 真っ白な卯の花が咲く垣根は、白雲が下り居るところとばかりに見間違いました。

四月八番
左  
歌番号五五 
原歌 さくはなの ちりつつうかふ みすのおもに いかてうきくさ ねさしそめけむ
和歌 咲く花の 散りつつ浮かぶ 水の面に いかで浮草 根ざしそめけむ
解釈 咲く花が散りつつ浮かぶ水の面に、どのようにして浮草は根を張ってそこに留まるでしょう。いや、留まることはありません。
右  
歌番号五六 
原歌 まつひとは つねならなくに ほとときす おもひのほかに なかはうからむ
和歌 待つ人は つねならなくに 郭公 おもひのほかに 鳴かは憂からむ
解釈 待つ人は必ずいると言う訳でもないが、皆が初声を聞きたがる、そのホトトギスよ、思いのほかに、お前が鳴くと心が沈むものがあります。

四月九番
左  
歌番号五七 
原歌 たまくしけ ふたかみやまの ほとときす いまそあけくれ なきわたるなる
和歌 たまくしげ 二上山の ほとときす 今ぞ明け暮れ 鳴きわたるなる
解釈 美しい櫛笥、その櫛笥の蓋の響きではないが、二上山のホトトギスは、今とばかりに明け暮れと、鳴き渡っています。
右  
歌番号五八 
原歌 ほとときす のちのさつきも ありとてや なかくうつきを すくしはてつる
和歌 郭公 のちの五月も ありとてや なかく卯月を 過ぐしはてつる
解釈 ホトトギス、来月の五月もここにいるでしょうか、長くこの卯月をここで過ごして暮らしていました。

四月十番
左  
歌番号五九 
原歌 (この歌欠ける)
和歌 
解釈 
右  
歌番号六〇 
原歌 なつなれは ふかくさやまの ほとときす なくこゑしげく なりまさるなり
和歌 夏なれば 深草山の ほととぎす 鳴く声しげく なりまさるなり
解釈 夏の季節だからこそ、深草山のホトトギスよ、その鳴く声は頻繁になって以前よりも高絵が大きくなりました。

恋 各五首
注意 部立では各五首ですが、実際は各十首に独立した院(宇多法皇)の歌が載ります。なお、五番までは歌合での勝負は示されています。
恋一番
左  凡河内躬恒
歌番号六一 勝
原歌 なみたかは いかなるみつか なかるらむ なとわかこひを けすひとになき
和歌 涙川 いかなる水か 流かるらむ なとわか恋を 消す人になき
解釈 涙川にはどのような水が流れているのだろうか、どうして私の恋焦がれる恋の思いを消してくれる人が居ないのだろうか。
右  藤原興風
歌番号六二 
原歌 みをもかへ おもふものから こひといへは もゆるなかにも いるこころかな
和歌 身をもかへ 思ふものから 恋といへは 燃ゆるなかにも 入る心かな
解釈 人を恋焦がれる身をもそれが実なら何物かに換えても良いと思うものと言うのであるが、恋すると言えば、燃えるものの中にも飛び込むほどの気持ちです。

恋二番 持
左  凡河内躬恒
歌番号六三 
原歌 たれにより おもひくたくる こころそは しらぬそひとの つらさなりける
和歌 誰により 思ひくだくる 心ぞは 知らぬぞ人の つらさなりける
解釈 いったい誰により恋焦がれる思いが砕ける、その私の気持ちを気が付いてくれない、貴女の態度が無情なのです。
右  凡河内躬恒
歌番号六四 
原歌 はつかしの もりのはつかに みしものを なとしたくさの しけきこひなる
和歌 羽束師の 森のはつかに 見しものを なと下草の 繁き恋なる
解釈 森は羽束師が良いと言う、その羽束師の森を「はつかに(わずかに)」に眺めただけではありませんが、わずかに見ただけに、どうして、下草が茂るではないが、激しく繁る貴女への恋なのでしょうか。

恋三番 持
左  凡河内躬恒
歌番号六五 
原歌 ひとのうへと おもひしものを わかこひに なしてやきみか たたにやみぬる
和歌 人のうへと 思ひしものを わが恋に なしてや君か ただにやみぬる
解釈 恋焦がれることは他人の身の上のことと思っていましたが、そのようになった私の恋心を、どうして貴女は何も無かったように簡単に恋を終わらせるのか。
右  
歌番号六六 
原歌 あしまよふ なにはのうらに ひくふねの つなてなかくも こひわたるかな
和歌 芦迷ふ 難波の浦に ひく舟の 綱手ながくも 恋わたるかな
解釈 芦が風に乱れ迷う、その難波の浦に曳く船の綱手が長い、その言葉のように、このように私は長い間も貴女に恋焦がれているものですね。

恋四番
左  凡河内躬恒
歌番号六七 
原歌 うつつにも ゆめにもひとに よるしあへは くれゆくはかり うれしきはなし
和歌 うつつにも 夢にも人に 夜しあへば 暮れゆくばかり うれしきはなし
解釈 現実でも夢の中でも貴女に夜に逢えるものならば、暮れ行くことばかりは、これほどにうれしいものはありません。
右  
歌番号六八 勝
原歌 たまもかる ものとはなしに きみこふる わかころもての かわくときなき
和歌 玉藻刈る ものとはなしに 君恋ふる わか衣手の かわくときなき
解釈 美しい玉藻を刈る、そのようなことでは無くて、貴方に恋焦がれる、その私の衣手は恋の苦しみに流す涙で乾く時はありません。

恋五番 持
左  伊勢
歌番号六九 
原歌 あふことの きみにたえにし わかみより いくらのなみた なかれいてぬらむ
和歌 逢ふことの 君に絶えにし わが身より いくらの涙 流れいてぬらむ
解釈 逢うこと、その行為が貴方とに絶えて無くなった私の身より、いったい、どれほどの涙が出て流れ去るのでしょうか。
右  紀貫之
歌番号七〇 
原歌 きみこひの あまりにしかは しのふれと ひとのしるらむ ことのわひしさ
和歌 君恋の あまりにしかは 忍ぶれと 人の知るらむ ことのわびしさ
解釈 貴女を恋焦がれる思いが余りに余ってしまへば、思いを隠そうと耐え忍んでも、貴女は気付いてしますでしょう、そのことが困ったことです。

以下は本来なら歌合で扱われていないものです。また歌合で披露されていませんので勝負は付けられていません。
番外
歌番号七一    院(宇多法皇) 左も右もこれは合わせずなりぬ
原歌 ゆきかへり ちとりなくなる はまうゆふの こころへたてて おもふものかは
和歌 ゆきかへり 千鳥鳴くなる 浜木綿の 心へだてて 思ふものかは
解釈 左だ、右だと、砂浜を行きつ戻りつする千鳥が鳴いている、その浜辺の浜木綿の茂る葉が砂浜と区切るように心を隔ててものを思うでしょうか。いや、このようなことはありません。(歌の判定は公平な判断です。)
注意 国歌大観ではこの歌に歌番号は付けていていません。

恋六番
左  
歌番号七二 
原歌 あはすして いけらむことの かたけれは いまはわかみを ありとやはおもふ
和歌 逢はずして 生けらむことの かたければ いまはわが身を ありとやは思ふ
解釈 貴女に逢わないで生きて行くことが難しいならば、今はこの我が身がこの世に有るとは思いません。(ただの抜け殻だけです。)
右  
歌番号七三 
原歌 あふことの かたのかたみは なみたかは こひしとおもへは まつさきにたつ
和歌 逢ふことの かたの形見は なみだ川 恋しと思もへば まづさきにたつ
解釈 貴女に逢うことが難しい、その「かた(方)」との形見(思い出)は何もなく、その「なみ」の言葉の響きのような涙川、涙は恋しいと思うと、まず、先に立ちて流れ出ます。

恋七番
左  
歌番号七四 
原歌 ひとこふと はかなきしにを われやせむ みのあらはこそ のちもあひみめ
和歌 人恋ふと はかなき死を われやせむ 身のあらばこそ のちも逢ひ見め
解釈 人を恋して、ただ、その恋に死ぬようなつまらない死に方を私がするでしょうか、生きているこの身があるからこそ、これから先にも機会があり逢い恋が出来るでしょう。
右  
歌番号七五 
原歌 ゆふされは やまのはにいつる つきくさの うつしこころは きみにそめてき
和歌 夕されば 山の端にいづる 月草の うつし心は 君に染めてき
解釈 夕べがやって来ると、山の端から出て来る月、その言葉では無いが、月草(露草)のような移り気な私の気持ちは、はっきりと貴方に染めました。
注意 月草は露草の異名で消えやすい淡い青色の染料です。それで和歌では移ろい易い例えに使います。「うつしこころ」は「現し心」ではな「移し心」の解釈です。

恋八番
左  
歌番号七六 
原歌 つゆはかり たのみおかなむ ことのはに しはしもとまる いのちありやと
和歌 露ばかり 頼みおかなむ 言の葉に しばしもとまる 命ありやと
解釈 儚く消える露ほどに貴方の私への愛情への信頼を寄せましょう、貴方の言葉によって、少しばかりはこの世に繋ぎ止める命があると知って欲しいものです。
右  
歌番号七七 
原歌 はるさめの よにふるそらも おもほえす くもゐなからに ひとこふるみは
和歌 春雨の 世にふるそらも おもほえず 雲居ながらに 人恋ふる身は
解釈 春雨がこの世の中に降っている、その空模様にも気づきません。だって、雲居のような手も届かない身分の貴女、その貴女を恋焦がれるこの我が身ですから。

恋九番
左  
歌番号七八 
原歌 みにこひの あまりにしかは しのふれと ひとのしるらむ ことのわひしき
和歌 身に恋の あまりにしかば 忍ぶれど人 の知るらむ ことのわびしき
解釈 我が身にこの恋心が余りに余ってしまったので、愛があふれ出して恋心を隠し忍んでいても、貴女に気付かれてしまう、このことは困ったことです。
右  
歌番号七九 
原歌 きみこふる わかみひさしく なりぬれは そてになみたも みえぬへらなり
和歌 君恋ふる わが身ひさしく なりぬれば 袖に涙も 見えぬべらなり
解釈 貴女に恋焦がれる、そのような私の身の上は長くなったので、忍ぶ恋の辛さに流す涙も枯れて、もう、袖に涙で濡らす印も見えなくなりそうです。

恋十番
左  
歌番号八〇 
原歌 あひみても つつむおもひの くるしきは ひとまにのみそ ねはなかれける
和歌 あひ見ても つつむ思ひの くるしきは 人間にのみぞ 音は泣かれける
解釈 貴方と逢ったとしても人には隠さないと思う気持ちの苦しさに、見咎められない人のいないところで声を上げて泣けてきます。
右  
歌番号八一 
原歌 なつくさに あらぬものから ひとこふる おもひしけくも なりまさるかな
和歌 夏草に あらぬものから 人恋ふる 思ひ繁くも なりまさるかな
解釈 限りを知らず繁る夏草ではありませんが、貴女を恋焦がれる思いはますます生い茂って行くばかりです。

 つたない鑑賞として、亭子院女郎花合、是貞親王家歌合、寛平御時后宮歌合、亭子院歌合などを参照しますと、当時の歌合は事前に歌会を仕切る講師が歌を収集し、その中から秀歌を選別した上で左右の対となる歌番組を編成し、宴の当日に講師が歌番組を披露し、歌への講評と優劣を紹介したと思われます。推定でこの『亭子院歌合』の講師は宇多法皇側近であった六位蔵人藤原忠房です。従いまして、『亭子院歌合』に載る歌は延喜十三年春以前に詠われた歌ですが、いつに詠われた歌かは確定できません。およそ、『亭子院歌合』に載る歌で歌番号五一以降の歌は予定された番組であって、当日に創作・披露された歌ではありません。そのため、この延喜十三年亭子院歌合に載る歌と延喜五年に奉呈された『古今和歌集』との先後を決めることは出来ないことになります。

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2 コメント

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歌合日記の追加 (作業員)
2020-06-06 11:10:42
伊勢が記したとする亭子院歌合日記を追記致しました。
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訂正のお詫びについて (作業員)
2023-11-29 16:25:04
現代語訳を付けた関係で、一部の和歌で表現が変わっています。申し訳ありませんでした。
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