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竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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万葉雑記 色眼鏡 五十 娘子の歌を鑑賞する その2

2013年10月26日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 五十 娘子の歌を鑑賞する その2

 前回に引き続き、万葉集に載る娘子の歌を鑑賞します。
 最初に河内百枝娘子の歌を鑑賞しますが、大伴家持に歌を贈った、この河内百枝娘子は歴史では不明な人物です。ただ、名の河内百枝に注目しますと物部守屋の妻の一人に、中国の梁国を本国とし百済を経由して渡来した河内氏一族の百枝姫がいます。従いまして、場合によっては、河内百枝娘子は物部守屋と百枝姫との間の御子に由来する一族の娘子であったかもしれません。なお、姓(かばね)を持っていませんから、部民ではないでしょうが、非常に格の低い一族の出であることが想像されます。
 歌を鑑賞しますと、集歌701の歌の句「又外二将見」が示すように、河内百枝娘子と家持との関係は娘子の屋敷を妻問う関係ではありませんし、家持の屋敷に飼われる女性でもありません。もし、この歌が宮中の宴会で詠ったものではないとしますと、唯一の可能性は宮中に住む河内百枝娘子の許に家持が忍んで行った時のものとなります。ただ、下級女官は複数人で一つの部屋を使っていたと思われますから、数人の女性が寝泊まりしている部屋で二人は夜の交渉をしたことになります。その状況を想像する時、実際の歌かと云うと、そうではなく、やはり、宮中での宴での歌垣のような相聞歌交換ではないでしょうか。

河内百枝娘子贈大伴宿祢家持謌二首
標訓 河内百枝(かはちのももえの)娘子(をとめ)の大伴宿祢家持に贈りたる謌二首
集歌701 波都波都尓 人乎相見而 何将有 何日二箇 又外二将見
訓読 はつはつに人を相見にいかにあらむいづれし日にかまた外(よそ)に見む
私訳 ほんのわずかに貴方に御会いして、さて、どうなのでしょうか。いつか別の日にでも、また別な場所で御会いしたいものです。

集歌702 夜干玉之 其夜乃月夜 至于今日 吾者不忘 無間苦思念者
訓読 ぬばたましその夜の月夜(つくよ)今日(けふ)までに吾は忘れず間(ま)無くし念(おも)へば
私訳 漆黒の闇のあの夜の月夜のこと。今日まで私は忘れません。常に間を空けることなく貴方をお慕いしていると。


 次に巫部麻蘇娘子の歌を鑑賞します。巫部麻蘇娘子もまた、歴史では不明な女性です。なお、この巫部は「かむなぎべ」と訓み、神道祭祀を行う一族である巫(かむなぎ)一族の部民となります。また、「麻蘇」を「まそ」と訓む場合、その言葉は「真澄」や「真寸」とも表記され、「整っている、りっぱ、すばらしい、美しい」などの意味を持ちますから、巫部麻蘇とは「巫部の美人の娘」の意味合いがあるのかもしれません。
 この巫部麻蘇娘子の歌は万葉集には四首が載せられています。その内、集歌1562の歌が家持の詠う集歌1563の歌と相聞関係にあります。この相聞歌は推定で天平十一年頃のもので、家持が二十一歳、内舎人時代のものと思われます。巫部麻蘇娘子もまた宮中女官でしょうが、独立した部屋(=房)を頂けるような女性ではなかったと思われますし、家持を招くような屋敷を都に持っていたとは思えません。従いまして、詠われる歌は宮中や貴族の屋敷で開かれた宴で余興として詠われた歌垣歌のような相聞歌と思われます。ただ、集歌1562の歌に示すように才女です。なお、集歌1621の歌の初句「吾屋前乃」の言葉は、言葉のあやと思われ、屋敷と云うより私の住んでいる所の意味合いと私の部屋の意味合いで理解するのが良いと思います。

巫部麻蘇娘子謌二首
標訓 巫部麻蘇(かんなぎべのまその)娘子(をとめ)の謌二首
集歌703 吾背子乎 相見之其日 至于今日 吾衣手者 乾時毛奈志
訓読 吾が背子を相見しその日今日(けふ)までに吾が衣手(ころもて)は乾(ふ)る時も無し
私訳 私の愛しい貴方に御逢いしたその日から今日まで私の衣の袖は貴方が恋しい涙に乾く暇もありません。
注意 集歌3163の歌の感覚からすると、集歌703の歌は「貴方に抱かれたその日からそのことを思い出すと我が身は濡れたまま」との解釈も可能です。
参考歌
集歌3163 吾妹兒尓 觸者無二 荒礒廻尓 吾衣手者 所沾可母
訓読 吾妹子(わぎもこ)に触(ふ)るるは無(な)みに荒礒廻(ありそみ)に吾(あ)が衣手(ころもて)は濡れにけるかも
私訳 私の愛しい貴女と身を交わしたこともないのに、波打つ荒磯を廻り行くに、私の衣の袖は濡れたようです。

集歌704 栲縄之 永命乎 欲苦波 不絶而人乎 欲見社
訓読 栲縄(たくなは)し永(なが)き命(いのち)を欲(ほ)りしくは絶えずて人を見まく欲(ほ)りこそ
私訳 栲の縄が丈夫で長いように、末永い命を求めたのは、いつまでも貴方のお姿を拝見したいと思ったからです。


巫部麻蘇娘子鴈謌一首
標訓 巫部(かむなぎべの)麻蘇娘子(まそをとめ)の鴈の謌一首
集歌1562 誰聞都 従此間鳴渡 鴈鳴乃 嬬呼音乃 之知左守
訓読 誰聞きつこゆ鳴き渡る雁し啼(ね)の妻呼ぶ声の之(お)いて知らさる
私訳 誰か聞きましたか、ここから飛び鳴き渡っていく雁の「枯(か)り、枯(か)り(=縁遠い)」と、その妻を呼ぶ声に対して私は気付きましたが。
注意 原文の「之知左守」は、一般に江戸期からは「之」を「おいて」とは訓まずに「乏知在乎」と新たに校訂し「羨(とも)しくもあるか」と訓みます。当然、歌意は変わります。

大伴家持和謌一首
標訓 大伴家持の和(こた)へたる謌一首
集歌1563 聞津哉登 妹之問勢流 鴈鳴者 真毛遠 雲隠奈利
訓読 聞きつやと妹し問はせる雁し音(ね)はまことも遠く雲隠(くもかく)るなり
私訳 誰か聞きましたかと、愛しい貴女が尋ねる雁の「離(か)り、離(か)り(=疎くなる)」と啼く、その鳴き声は、ほんとうに遠くの雲の中に隠れていて聞いていません。


巫部麻蘇娘子謌一首
標訓 巫部(かむなぎべの)麻蘇娘子(まそをとめ)の謌一首
集歌1621 吾屋前乃 芽子花咲有 見来益 今二日許 有者将落
訓読 吾が屋前(やと)の萩花咲けり見に来ませいま二日(ふたひ)だみあらば散りなむ
私訳 私の家の萩の花は咲きました。眺めにいらっしゃい。二日ほど経ったなら花は散るでしょう。


 紹介した二人の娘子の歌への鑑賞と同じような視線で万葉集の巻四を見てみますと、粟田娘子、安都扉娘子、丹波大女娘子などの歌を見ることが出来ます。彼女たちもまた姓(かばね)を持ちませんから、自ら宮中女官を希望して出仕したか、地方からの采女のような形で都に送られたが、祭祀を専門とする神事采女には選抜されず、皇族などの身の周りの世話をもっぱらとして行うような立場の女性であったと思われます。場合によっては、宴席に侍る、ある種の詩妓的な宴会要員の女性と思われます。従いまして、恋の相聞歌を詠っても、それは宴会での余興として行われた歌垣歌での相聞歌と思われます。
 先の歌もそうですが、これらの歌の標題には娘子の名前が記述されていますから、想像として大伴家持が内舎人時代に宴の余興で披露した歌垣歌のような歌会で詠われた歌が家持の手元に残されたものと考えます。その時、これらの歌は家持内舎人時代の参考資料として扱われ、家持の恋人関係を示すものとはなりません。
 なお、天平十一~十二年頃の歌と想像しますと、丹波大女娘子が詠う歌の背景には集歌390の紀皇女の歌、集歌517の大伴麻呂の歌、集歌2405の人麻呂歌集の歌があるのかもしれません。推定で現在の万葉集巻一と巻二を中心とする原初万葉集や人麻呂歌集は既に宮中で和歌をたしなむ人々には知られていたと想像されます。また、集歌710の安都扉娘子の歌は数字遊びの歌なのでしょう。

粟田娘子贈大伴宿祢家持謌二首
標訓 粟田娘子(あはたのをとめ)の大伴宿祢家持に贈れる謌二首
集歌707 思遣 為便乃不知者 片垸之 底曽吾者 戀成尓家類
訓読 思ひ遣(や)るすべの知らねば片垸(かたもひ)し底にぞ吾は恋ひ成りにける
私訳 貴方に恋い慕う気持ちを送り遣る方法を知らないので、土椀(かたもひ)の底、その言葉のひびきではありませんが、片思いのままに、心底、私は貴方に恋い焦がれてしまいました。

集歌708 復毛将相 因毛有奴可 白細之 我衣手二 齊留目六
訓読 またも逢はむ因(よし)もあらぬか白栲し我が衣手(ころもて)に齊(いは)ひ留(とど)めむ
私訳 もう一度逢う機会はないのでしょうか。貴方と寝たときの白い栲の我の衣の袖に、神に願って貴方の思い出を留めましょう。

安都扉娘子謌一首
標訓 安都扉(あとのとびらの)娘子(をとめ)の謌一首
集歌710 三空去 月之光二 直一目 相三師人 夢西所見
訓読 み空行く月し光にただ一目(ひとめ)相見し人を夢にしそ見ゆ
私訳 大空を行く月の光の下に、私を妻問ってきた姿をただ一度だけ見た貴方の、その姿を夢の中に見ます。

丹波大女娘子謌三首
標訓 丹波大女(たにはのおほめの)娘子(をとめ)の謌三首
集歌711 鴨鳥之 遊此池尓 木葉落而 浮心 吾不念國
訓読 鴨鳥(かもとり)し遊ぶこの池(ち)に木(こ)し葉落(ふ)に浮きたる心吾が念(おも)はなくに
私訳 鴨鳥が泳ぎ遊ぶこの池に木の葉が落ちて浮かぶ、そんな浮いた気持ちを私は思わないのに。

集歌712 味酒呼 三輪之祝我 忌杉 手觸之罪歟 君二遇難寸
訓読 味酒(うまさけ)を三輪し祝(ほふり)が忌(いは)ふ杉手(て)触(ふ)れし罪か君に逢ひ難(かた)き
私訳 口噛みの味酒を造る三輪の神官が祭り奉る杉を私の手が触れた罪なのでしょうか、貴方に逢うことが難しい。

集歌713 垣穂成 人辞聞而 吾背子之 情多由多比 不合頃者
訓読 垣穂(かきほ)なす人(ひと)辞(こと)聞きに吾が背子し情(こころ)たゆたひ逢はぬこのころ
私訳 周囲を取り囲む生垣のような包み込む人の噂話を聞いて私の愛しい貴方の私への気持ちはためらって、貴方に逢わないこの頃です。


 次に佐伯宿祢赤麿が娘子と交わした相聞和歌を紹介します。ただ、この歌を交わした娘子は万葉集に「娘子」とだけ示され、その人物像は不明です。一方、相聞歌交換のパートナーとなる佐伯赤麿もまた、大伴一族同祖となる佐伯宿祢一族の人物ですが、歴史では不明な人物です。万葉集の巻四に佐伯赤麿の歌が集歌405の歌と集歌628の歌とに分かれて二首載せられています。ともに歌は娘子と交わした相聞和歌ですが、この相聞歌の二つ後に万葉集では湯原王と娘子との掛詞を多用した相聞和歌群が載せられています。従いまして、この娘子が同じ人物としますと、娘子は豊前娘子となります。そして、その豊前娘子や安倍虫麿、大伴坂上郎女、湯原王、藤原八束たちが参加した秋の観月の宴に佐伯赤麿や大伴四綱もまた参加していたと思われます。結構、大人数の観月の宴となります。
 参考として、その観月の宴は佐保あたりにあった屋敷から高円山から三笠山方向を眺めるものであったと推定されます。そこからか、集歌404の歌では和迩一族によって春日野で祀られていた武甕槌命、經津主命 天兒屋根命 巨勢比賣神の四神を比喩して「神之社四」と詠ったものと思われます。

娘子報佐伯宿祢赤麿贈謌一首
標訓 娘子(をとめ)の佐伯宿祢赤麿の贈れるに報(こた)へたる謌一首
集歌404 千磐破 神之社四 無有世伐 春日之野邊 粟種益乎
訓読 ちはやぶる神し社(やしろ)し無きありせば春日(かすが)し野辺(のへ)に粟(あは)種(ま)きましを
私訳 神の磐戸を押分けて現れた神(天照大神=女神)の四神を祀る禁制の社が、もし、無かったら、その春日の野辺に粟の種を播いたのですが。
<裏歌の鑑賞>
試訓 ちはやぶる神し社(やしろ)し泣きありせば春日(かすが)し野辺(のへ)に逢はまき座(ま)しを
試訳 神の磐戸を押分けて現れた神(天照大神=女神)の四神を祀る禁制の社、その社で貴方を恋しくて泣いていたなら、その春日の野辺で逢って頂いたのでしょうね。

佐伯宿祢赤麿更贈謌一首
標訓 佐伯宿祢赤麿の更に贈れる謌一首
集歌405 春日野尓 粟種有世伐 待鹿尓 継而行益乎 社師留焉
訓読 春日野に粟(あは)種(ま)きありせば鹿(しし)待ちに継ぎに行かましを社(やしろ)し留(とど)めし
私訳 春日野に粟を蒔いたならば、粟を食べに来る鹿を待ち伏せしに、たびたび、出て行くのですが。しかし、神聖な神の社では、そのような振る舞いは思い止めましょう。
<裏歌の鑑賞>
試訓 春日野に逢はまきありせば待ちしかに次に行かましをこそしとどめむ
試訳 春日野で貴女に逢う機会があるのなら、きっと待っていましたよ。だから、次の機会には、絶対、逢いに行きましょう。ですから、貴女への想いはこのようにずっと持ち続けています。

注意 一般に「社師留焉」の「留」は「怨」の誤記とします。その時、歌意は変わります。ここは原文のままです。

娘子復報謌一首
標訓 娘子(をとめ)のまた報(こた)へたる謌一首
集歌406 吾祭 神者不有 大夫尓 認有神曽 好應祀
訓読 吾(あ)が祭(まつ)る神にはあらず大夫(ますらを)に憑(つ)きたる神ぞよく祀(まつ)るべし
私訳 それは私が祭る神ではありません。春日四神である経津主命は佐伯一族である立派な貴方の祖神となる神様です。大切に祭るべきです。
<裏歌の鑑賞>
試訓 吾(あ)が奉(ま)つる上(かみ)にはあらず大夫(ますらを)に就きたる上ぞよく奉(ま)つるべし
試訳 私が奉仕を申しあげる御方(=大夫の妻のこと)ではありません。大夫である貴方に寄り添った御方ですよ。その御方をもっと大切にしてあげて下さい。


 次の歌もまた、宴で佐伯赤麿と娘子とが交換した相聞歌です。この歌二首の前に佐伯赤麿が詠う歌があったことになりますが、その詠われた歌の状況は不明です。
 ただ、この二首だけを鑑賞する時、万葉集に載る歌を引用している可能性があります。その引用されたのではないかと云う歌が集歌2709の歌です。この歌には異伝があり、その異伝が伝わるほどですから、当時には有名な歌だったと思われます。そこで想像ですが、娘子はこの集歌2709の歌を背景に集歌627の歌を詠ったのではないかと考えています。
 なお、集歌627や集歌628の歌には裏歌が隠されて折、歌で詠う「戀水」の言葉には媚薬や精力剤の意味合いがあるようです。それを窺わせるものとして集歌628の歌の四句目は「鹿煮藻闕二毛」と表記していますから、およそ、この「鹿煮」の言葉には「鹿茸」や「鹿角」を煮込んで作る媚薬・精力剤の意味が隠されていると思われます。発声での歌の鑑賞と、墨書して示す歌の世界は大きく違います。

娘子報贈佐伯宿祢赤麿謌一首
標訓 娘子(をとめ)の佐伯宿祢赤麿に報(こた)へ贈れる謌一首
集歌627 吾手本 将巻跡念牟 大夫者 戀水定 白髪生二有
訓読 吾が手本(たもと)纏(ま)かむと念(おも)はむ大夫(ますらを)は恋(こひ)水(みづ)定(さだ)めし白髪生(お)ひにけり
私訳 私を抱きたいと強く思う立派な男子は、集歌2709の「戀水」の歌ではありませんが、どんな困難を乗り越えても恋しく思うのではありませんか、だって、「しがらみ」ではありませんが、貴方には白髪が生えていますから。
<裏歌の解釈>
試訓 吾が手本(たもと)纏(ま)かむと念(おも)はむ大夫(ますらを)は恋(こひ)水(みづ)定(もと)めむ白髪生(お)ひにけり
試訳 このように若い私を抱きたいと思う大夫さんは、きっと、精力剤を必要とするでしょうね。だって、白髪が生えているのですから。
注意 原文の「戀水定」の「戀」は「變」の誤字、「定」は「者」の誤字として「變水者(をちみづは)」と訓みます。この時、歌は全く別物になります。

佐伯宿祢赤麿和謌一首
標訓 佐伯宿祢赤麿の和(こた)へたる謌一首
集歌628 白髪生流 事者不念 戀水者 鹿煮藻闕二毛 求而将行
訓読 しがら負(お)ふる事(こと)は念(おも)はず恋(こい)水(みづ)はかにもかくにも求めに行かむ
私訳 世間のしがらみを背負っていることを気にすることなく、集歌2709の「戀水」の歌が詠うように、このようにして貴女の愛を求めて行きましょう。
<裏歌の解釈>
試訓 白髪生(お)ふる事(こと)は念(おも)はず恋(こい)水(みづ)はかにもかくにも求めに行かむ
試訳 年老いて白髪が生え、精力が落ちたことを考えないで、貴女との夜の営みのため、必要な媚薬をなにはともあれ求めに行きましょう。
注意 集歌627の歌と同様に、一般には「戀水者」の「戀」は「變」の誤字とします。

<参考歌>
集歌2709 吾妹子 吾戀樂者 水有者 之賀良三越而 應逝衣思
訓読 吾妹子(わぎもこ)し吾(あ)が恋ふらくは水ならばしがらみ越しに行くべくそ思(も)ふ
私訳 私の愛しい貴女を私が恋い焦がれる姿とは、もし、川の水であったなら、しがらみを乗り越え流れ行くような、そのようなものと思います。

 ここで、大伴四綱もまた同じ宴に出席していたとしますと、四綱は赤麿の詠う集歌268の歌を引き取って詠ったような雰囲気があります。それが赤麿の「鹿煮藻闕二毛」に対して四綱は「左右裳」です。また、四綱の詠う歌の初句「奈何鹿」の音字となる「鹿」も意味を込めた漢字使いと思われます。

大伴四綱宴席謌一首
標訓 大伴四綱(よつな)の宴席(うたげ)の謌一首
集歌629 奈何鹿 使之来流 君乎社 左右裳 待難為礼
訓読 何すとか使(つかひ)し来つる君をこそかにもかくにも待ちかてにすれ
試訳 赤麿さん、どうにかして歌を返したようですね。貴方の返歌を、なにはともあれ、期待して待っていましたから。

 その四綱の歌に対して赤麿は次の集歌630の歌を返したようです。四綱の歌の「奈何鹿」に対して集歌2273の歌の「何為等加」であり、その「待難為礼」に対しては「君乎将厭」です。これを踏まえての集歌630の歌の「初花之 可散物乎」なのでしょう。当然、これらの歌の流れからは、娘子がまだ若い娘であるならば、集歌2273の歌を踏まえて集歌630の歌には娘子は、もう、男に抱かれる年頃なのに、あれこれと云い訳をして、なかなか体を許してくれないとの意味も隠れています。

佐伯宿祢赤麿謌一首
標訓 佐伯宿祢赤麿の謌一首
集歌630 初花之 可散物乎 人事乃 繁尓因而 止息比者鴨
訓読 初花し散るべきものを人(ひと)事(こと)の繁きによりによどむころかも
試訳 初々しい花はその時期には散るべきものです。ただ、人の世の差し障りが多くて、それで遅れたのでしょう。

<参考歌>
集歌2273 何為等加 君乎将厭 秋芽子乃 其始花之 歡寸物乎
訓読 何すとか君を厭(い)とはむ秋萩のその初花(はつはな)し歓(うれ)しきものを
意訳 どうして貴方を嫌いだと思うでしょうか。出会うことを待ち焦がれる、秋萩のその初花のように、出会いがあればうれしいものですから。


 穿った歌の鑑賞を紹介しました。
 ただ、今回、示しました穿った鑑賞方法を受け入れられる可能性があるとしますと、万葉時代の歌人が求められる水準は非常に高度です。古今和歌集の時代に発達したとされる掛詞や縁語の技法は奈良時代の和歌人の知るべき基本的事項ですし、さらに本歌取りの技法もまた必須事項です。さらに奈良時代の貴族たちが好む人麻呂調の和歌の特性として、歌には発声と墨書した時とに風景や解釈の多重性が求められます。
 この要求は古今和歌集を超える高度な作歌基準です。現在の大勢は万葉集の歌は素朴であるが力強気と云うことになっていて、それを根底に歌を鑑賞します。原文から、今回、紹介したような鑑賞態度で鑑賞を要求されますと、大変、手強いのではないでしょうか。当然、訓読みされた万葉集歌をテキストに使用したのでは、ここで示した鑑賞方法は適用できません。あくまで、原文からの鑑賞方法です。
 さて、今まで、人は万葉集を本当に鑑賞して来たのでしょうか。
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万葉雑記 色眼鏡 丗九 娘子の歌を鑑賞する

2013年10月19日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 丗九 娘子の歌を鑑賞する

 今回は『万葉集』に載る「娘子」の歌を鑑賞しようと思います。
 最初にこの娘子は『万葉集』では慣例として「をとめ」と訓むようです。ただ、場面によっては娘子を「いらつめ」と訓みます。ここでは「をとめ」と訓む方の娘子を鑑賞したいと思います。
 その娘子の身分や社会的な地位に関係する歌が『万葉集』にあります。それが集歌546の歌ですし、集歌536の歌です。引用としては長くなりますが、話題を進める上において重要ですので集歌546の歌から紹介します。

<引用 その一>
二年乙丑春三月、幸三香原離宮之時、得娘子笠朝臣金村作謌一首并短謌
標訓 (神亀)二年乙丑春三月に、三香原の離宮に幸(いで)しし時に、娘子を得て笠朝臣金村の作れる謌一首并せて短謌

集歌546 三香之原 客之屋取尓 珠桙乃 道能去相尓 天雲之 外耳見管 言将問 縁乃無者 情耳 咽乍有尓 天地 神祇辞因而 敷細乃 衣手易而 自妻跡 憑有今夜 秋夜之 百夜乃長 有与宿鴨

訓読 三香(みか)し原 旅し宿りに 玉桙の 道の行き逢ひに 天雲し 外(よそ)のみ見つつ 言問(ことと)はむ 縁(よし)の無ければ 情(こころ)のみ 咽(む)せつつあるに 天地し 神辞(こと)寄せに 敷栲の 衣手(ころもて)易(か)へに 自妻(おのつま)と 頼める今夜 秋し夜し 百夜(ももよ)の長さ ありこせぬかも

私訳 三香の原での旅の宿りの折に、美しい桙を立てる公の道で行き逢った貴女を、天の雲を遠くから眺めるように、誓いの言葉をかける縁もないので、心の内で悲しんで泣いていたのだが、天と地の神の思し召しに従って、床に敷く栲の上で互いの衣を互いの体に掛け合って、貴女は「貴方の妻」だと、私のことを頼るこの夜。秋のこの夜が百日程の夜の長さにならないでしょうか。

反謌
集歌547 天雲之 外従見 吾妹兒尓 心毛身副 縁西鬼尾
訓読 天雲し外(よそ)に見しより吾妹子に心も身さへ寄りにしものを
私訳 天の雲のように遠くから眺めた時から、愛しい貴女に心も体も貴女に吸い寄せられたようです。

集歌548 今夜之 早開者 為便乎無三 秋百夜乎 願鶴鴨
訓読 今(いま)し夜(よ)し早(と)く明(あ)けくればすべを無み秋し百夜(ももよ)を願ひつるかも
私訳 貴女と共にする今、この夜が早くも明けていくので、どうしようもない。この秋の夜が百日の夜のような長さであることを願いたい。

<引用 その二>
門部王戀謌一首
標訓 門部(かとへの)王(おほきみ)の戀の謌一首
集歌536 飫宇能海之 塩干乃滷之 片念尓 思哉将去 道之永手呼
訓読 意宇(おう)の海(み)し潮干(しほひ)の潟し片思に思ひや去(い)かむ道し長手を
私訳 意宇の海の潮が干くと現れる潟の、その言葉の響きではないが、現れた片思いとして貴女を慕う気持ちを表しましょう。恋の長い道のりを。
右、門部王、任出雲守時、娶部内娘子也。未有幾時、既絶徃来。累月之後、更起愛心。仍作此謌贈致娘子
注訓 右は、門部王の、出雲守に任らえし時に、部内(ぶない)の娘子(をとめ)を娶(ま)く。未だ幾時(いくばく)ならずして、既に徃来(かよひ)絶えたり。月を累(かさ)ねし後に、更(また)愛(いつくしみ)の心を起(おこ)す。仍りて此の謌を作り娘子に贈致(おく)れり。

 紹介しましたようにこの二つの歌群で詠われる娘子は、権力者の命令や職務として時に官人や客人に夜を奉仕する立場の女性です。それも御幸の随伴者や国守等の高級官人に対して応接する女性ですから、特別に選抜された女性です。江戸期遊郭の太夫のような、技量・資格を持って選抜され、誰でもが成れるようなものではありません。
 一方、その夜を奉仕された男たちは翌朝には丁寧に歌を娘子の許に贈りますし、集歌546の歌には「自妻」と云う言葉を使いますから、娘子は、所謂、旅先での一夜妻となる立場(=身分ある人物の身の回りの事一切を取り行う)の女性だったと考えられます。そのため、疑似的に正式な妻問いの妻と同様な愛の作法をし、後朝の歌を贈ったと推定されます。
 なお、平安時代、平城天皇の時代まで諸国の国守はその地を代表する美人を采女として都に送っていました。ただ、天皇と神婚神事を行う神事采女は大嘗祭でも采女代と六人の采女、都合七人だけが御簾内に入るだけですから、多くの采女として都へと送られた美女たちは采女司の下、宮中での食事や日常的な世話を行う女官・女嬬でしかなかったと思われます。このような女性は、時に、宮中肆宴で食事の世話と共に自身が振る舞いの御馳走となったのではないでしょうか。
 さて、紹介した一夜妻に付いて、『万葉集』巻十六に次のような歌があります。

集歌3872 吾門之 榎實毛利喫 百千鳥 々々者雖来 君曽不来座
訓読 吾が門(かと)の榎(え)の実もり食(は)む百千鳥(ももちどり)千鳥(ちどり)は来れど君ぞ来まさぬ
私訳 私の家の門にある榎の実をついばんで食べるたくさんの千鳥。その千鳥は来ますが貴方はきません。

集歌3873 吾門尓 千鳥數鳴 起余々々 我一夜妻 人尓所知名
訓読 吾が門(かと)に千鳥しば鳴く起よ起よよ我(われ)一夜妻(ひとよつま)人に知らゆな
私訳 私の家の門に千鳥がしきりに鳴く、「きよきよよ(起きろ起きろ)」と。私は貴方の一夜妻、人に気づかれないで。
右謌二首
注訓 右は謌二首

 集歌3872の歌と集歌3873の歌との二首組み歌は、およそ、娘子が宴で披露したような歌でしょうか。もし、文芸のサロンのようなところで歌物語として楽しむのであれば、時系列的には二首の間に妻問いを約束する男歌とその遣って来た男を出迎える場面の女歌が揃えば、ストーリーが整い、楽しくなります。
 さて、この二首が宴での娘子が詠う歌と想像しますと、集歌3872の歌に「君曽不来座」と敬語を使い詠うように、そこには絶対的な身分の差が存在するようです。ただ、絶対的な身分差はありますが、宴に同席し歌を詠う姿からは、婢や下女ではありません。そのような下働きの女性たちからは上の階級であり、宮中の宴に同席する関係からそれ相当の衣装を身に纏っていたと想像されます。そのような立場の女性を娘子と総称したのではないかと考えます。
 例えば、地方において旅先の女性を海娘子と称しても、その女性は里長や郡司級の階級に所属し、その地の方言だけではなく倭言葉も理解し、場合によっては和歌も詠えるような教養ある女性であったと考えます。

 さて、このような娘子の前提条件で万葉集歌を鑑賞してみたいと思います。最初に個人的に興味がある舎人娘子について鑑賞します。
 紹介する集歌61の歌は大宝二年(702)に行われた持統太上天皇の参河への御幸に従った時の歌です。つまり、この時、舎人娘子は宮中の女官で土地誉めの歌を詠い、残すほどの身分や立場であったことが判ります。

舎人娘子従駕作謌
標訓 舎人娘子の駕(いでまし)に従ひ作れる謌
集歌61 丈夫之 得物矢手挿 立向 射流圓方波 見尓清潔之
訓読 丈夫(ますらを)し得物(さつ)矢手挟み立ち向ひ射る円方(まとかた)は見るに清潔(さや)けし
私訳 頑強な男たちが武器の得物の矢を手挟み、的に立ち向かって射る、その的。そのような名を持つこの円方(まとかた)の地は、眺めていて清々しいものがあります。
注意 原文の「丈夫之」は、一般に「大夫之」と変えます。この時、「丈夫」は頑強な男たちの意味合いですが、「大夫」は五位以上の官人ですので、歌の情景は変わります。

 集歌61の歌から宮中女官であったとの推定の下、次に舎人娘子と舎人皇子との相聞歌を紹介します。

舎人皇子御謌一首
標訓 舎人皇子の御歌一首
集歌117 大夫哉 片戀将為跡 嘆友 鬼乃益卜雄 尚戀二家里
訓読 大夫(ますらを)や片恋せむと嘆けども鬼(しこ)の大夫(ますらを)なほ恋ひにけり
私訳 人の上に立つ立派な男が心を半ば奪われる恋をするとはと嘆いていると、その人の振る舞いを嘆いたこの頑強で立派な男である私が貴女に恋をしてしまった。

舎人娘子奉和謌一首
標訓 舎人娘子の和(こた)へ奉(たてまつ)れる歌一首
集歌118 歎管 大夫之 戀礼許曽 吾髪結乃 漬而奴礼計礼
訓読 歎(なげ)きつつ大夫(ますらを)し恋ふれこそ吾が髪結(かみゆひ)の漬(ひ)ぢにぬれけれ
私訳 恋を煩う人を何たる軟弱と嘆く一方、立派な男子である貴方が私を恋して下さるので、その貴方の嘆くため息で私の髪を束ねた結い紐も濡れて解けたのです。

 舎人娘子は御幸従駕で土地誉めの歌を詠うような女性ですから、宮中に部屋を持つような立場ではないでしょうか。ただし、神婚に関わる神事采女ではありませんから、恋愛をしても咎められる様な女性ではありません。相聞相手の舎人皇子は多氏の枝族に当たる信州金刺舎人氏に養育されたのではないかと推定される人物で、一方、舎人娘子もその名が示すように金刺舎人氏出身の女性と想像されます。誤解がないように、信州金刺舎人氏は確かに信州を本拠とする軍馬飼育を本業とする氏族ですが、皇子の養育を命じられた場合、奈良の都に屋敷を構え、人材・資金の責任を負いますが、本拠である信州で皇子を養育すると云うことではありません。
 歌は宮中の宴で舎人皇子が女性陣に対して詠い掛けたものに対して、舎人娘子がその才覚で答えたものと考えられます。そのため、男歌が女に片恋をしたとの詠い掛けに対して、女歌が男女関係の手順ではその先の先となる閨で抱かれている風景を、いきなり、詠ったと想像させられます。ただ、一足飛びに閨の風景を舎人娘子が詠いますから、この歌を詠った時に男女関係では舎人娘子は舎人皇子に好意を寄せていたか、既に男女の関係があったのかも知れません。このような歌の鑑賞から舎人皇子と舎人娘子とには宮中に部屋を持つ舎人娘子の許を妻問う、一夜妻的な関係が想像させられます。
 次に紹介する集歌1636の歌は、集歌117の歌と集歌118の歌とを前提にすると、判りやすいものとなります。

舎人娘子雪謌一首
標訓 舎人(とねりの)娘子(おとめ)の雪の謌一首
集歌1636 大口能 真神之原尓 零雪者 甚莫零 家母不有國
訓読 大口(おほくち)の真神(まかみ)し原に降る雪はいたくな降りそ家もあらなくに
私訳 大口の真神の野原に降る雪は、そんなにひどく降らないで。貴方が途中で宿るような家がないので。

 舎人娘子が藤原宮の宮中に部屋を持っており、その部屋から早朝に恋人が帰って行く情景です。真神の原は現在の飛鳥寺や法興寺跡付近とされていますから、恋人は藤原宮から東の方向へと帰って行きます。そうした時、舎人皇子の母親は安部倉梯麻呂の娘ですから飛鳥の安部や倉梯の地域に関係します。つまり、舎人皇子は藤原宮から東の方向、飛鳥の安部や倉梯へと帰って行く可能性があります。

 次に宮中の宴で湯原王と歌垣のような歌を戦わせた娘子のものを紹介します。歌は、非常に高度な相聞歌です。
 なお、紹介する二首目の集歌632の歌には嫦娥伝説がありますから、湯原王が歌を詠った、その瞬間に娘子がお酒を飲んでいたとすると、嫦娥伝説では嫦娥独りが仙人となる薬を飲み月に登って行ったことになっていますので、歌の末句「妹乎奈何責」の表記が効いて来ます。この背景が判っていると、うふふな歌の戦いの開始です。

湯原王贈娘子謌二首  志貴皇子之子也
標訓 湯原王の娘子(をとめ)に贈れる謌二首  志貴皇子の子なり
集歌631 宇波弊無 物可聞人者 然許 遠家路乎 令還念者
訓読 表辺(うはへ)無きものかも人は然(しか)ばかり遠き家路(いへぢ)を還(かへ)す念(おも)へば
私訳 愛想もないのだろうか。あの人は。このように遠い家路を帰してしまうとは。
<別解釈>
原文 宇波弊無物 可聞人者 然許 遠家路乎 令還念者
試訓 表辺(うはへ)なも聞くべき人は然(しか)ばかり遠き家路(いへぢ)を還(かへ)す念(おも)へば
試訳 噂話だけを聞くような人はこうなのだろうか。遠い家路を帰してしまうとは。

集歌632 目二破見而 手二破不所取 月内之 楓如 妹乎奈何責
訓読 目には見に手には取らえぬ月内(つきなか)し楓(かつら)しごとき妹をいかにせむ
私訳 目には見ることが出来ても取ることが出来ない月の中にある桂(=金木犀)の故事(=嫦娥)のような美しい貴女をどのようにしましょう。
<別解釈>
試訓 目には見に手には取らえぬ月内(つきなか)し楓(かつら)しごとき妹を啼(な)か責(せ)む
私訳 目には見ることが出来ても取ることが出来ない月の中にある桂の故事、その嫦娥のような美しい貴女を閨で抱き臥し、玉のような夜声を何度も上げさせましょう。

娘子報贈謌二首
標訓 娘子の報(こた)へ贈れる謌二首
集歌633 幾許 思異目鴨 敷細之 枕片去 夢所見来之
訓読 幾許(ここだく)も思ひけめかも敷栲し枕(まくら)片(かた)去る夢そ見えける
私訳 しきりに恋いこがれていたからでしょうか。栲を敷いた床の枕が一つではなく、貴方との二つになる、そのような情景が夢に見えました。
<別解釈>
試訓 幾許(ここだく)も思ひ異めかも敷栲し枕(まくら)片(かた)去る夢そ見えける
試訳 まぁ、どうしたことでしょう。貴方と想いが違っていたようです。私には貴方が私の閨からお帰りになる姿を夢の中に見ましたが。

集歌634 家二四手 雖見不飽乎 草枕 客毛妻与 有之乏左
訓読 家にして見れど飽かぬを草枕旅しも妻(つま)とあるし乏(とも)しさ
私訳 我が家でお逢ひしても、私はいつも飽き足りませんのに、旅にまでも奥様と一緒とは、そのような関係がうらやましい。
<別解釈>
試訓 家にして見れど飽かぬを草枕度(たび)しも端(つま)とあるし乏(とも)しさ
試訳 屋敷の中に居て眺めていても飽きることのないその満月を、遠くからやって来て何度も軒先から眺めるとはうらやましいことです。

湯原王亦贈謌二首
標訓 湯原王のまた贈れる謌二首
集歌635 草枕 客者嬬者 雖率有 匣内之 珠社所念
訓読 草枕旅には妻は率(ゐ)たれども匣(くしげ)し内し珠こそ念(おも)ふ
私訳 草を枕の旅に妻を連れてはいるが、宝物を納める箱の中の珠をこそ大切と思います。
<別解釈>
試訓 草枕度(たび)には端(つま)は居(ゐ)たれども奇(く)しけしうちし偶(たま)こそ念(おも)ふ
試訳 確かに草を枕にするように苦労して、何度も、遠い道程の先の貴女の屋敷の軒先にたたずんでいましたが、それは特別なことで、たまたまなことだと願っています。

集歌636 余衣 形見尓奉 布細之 枕不離 巻而左宿座
訓読 余(あ)が衣(ころも)形見に奉(まつ)る敷栲し枕し放(さ)けず纏(ま)きにさ寝(ね)ませ
私訳 私の衣を、私を偲ぶものとして差し上げましょう。貴女の床の枕もとに離さず、私と思って身に着けておやすみなさい。
<別解釈>
試訓 余(あ)が衣(ころも)片身に奉(まつ)る敷栲し枕離(はな)たず纏(ま)きにさ寝(ね)ます
試訳 私の衣を貴女の体に掛け、貴女の夜床で二人の枕を離れさすことなく寄り添えて、さあ、芳しい夜を過ごしましょう。

娘子復報贈謌一首
標訓 娘子の復(ま)た報(こた)へ贈れる謌一首
集歌637 吾背子之 形見之衣 嬬問尓 身者不離 事不問友
訓読 吾が背子し形見し衣(ころも)妻問(つまと)ひに身は離(はな)たず事(こと)問(と)はずとも
私訳 私の愛しい貴方がくれた思い出の衣。貴方の私への愛の証として、私はその想い出の衣をこの身から離しません。貴方から「貴女はどうしていますか」と聞かれなくても。
<別解釈>
試訓 吾が背子し片見し衣(ころも)妻問(つまと)ひに身は離(はな)たず言(こと)問(と)はずとも
試訳 私の愛しい貴方のわずかに見たお姿。貴方がする妻問いの時に。でも、私は貴方に身を委ねません。(本当に私を愛しているのと)愛を誓う言葉をお尋ねしなくても。

湯原王亦贈謌一首
標訓 湯原王のまた贈れる謌一首
集歌638 直一夜 隔之可良尓 荒玉乃 月歟經去跡 心遮
訓読 ただ一夜(ひとよ)隔(へだ)てしからに荒霊(あらたま)の月か経(へ)ぬると心(こころ)遮(いぶ)せし
私訳 たった一夜だけでも逢えなかったのに、月替わりして一月がたったのだろうかと、不思議な気持ちがします。
<別解釈>
試訓 ただ一夜(ひとよ)隔(へだ)てしからに改(あらた)まの月か経(へ)ぬると心(こころ)遮(いぶ)せし
試訳 (貴女は、昨夜は身を許しても、今日は許してくれない) たった一夜が違うだけでこのような為さり様ですと、貴女の身に月の障り(=月経)が遣って来たのかと、思ってしまいます。

娘子復報贈謌一首
標訓 娘子の復た報へ贈れる謌一首
集歌639 吾背子我 如是戀礼許曽 夜干玉能 夢所見管 寐不所宿家礼
訓読 吾が背子がかく恋ふれこそぬばたまの夢そ見えつつ寝(い)し寝(ね)らずけれ
私訳 愛しい貴方がそんなに恋い慕ってくださるので、闇夜の夢に貴方が見えるので夢うつつで眠ることが出来ませんでした。
<別解釈>
試訓 吾が背子がかく請(こ)ふれこそぬばたまの夢そ見えつつ寝(い)し寝(ね)るずけれ
試訳 愛しい貴方がそれほどまでに妻問いの許しを求めるから闇夜の夢に貴方の姿は見えるのですが、でも、まだ、貴方と夜を共にすることをしていません。

湯原王亦贈謌一首
標訓 湯原王のまた贈れる謌一首
集歌640 波之家也思 不遠里乎 雲井尓也 戀管将居 月毛不經國
訓読 愛(はしけ)やし間(ま)近き里を雲井(くもゐ)にや恋ひつつ居(を)らむ月も経(へ)なくに
私訳 (便りが無くて) いとしい貴女が住む遠くもない里を、私は雲居の彼方にある里のように恋い続けています。まだ、一月と逢うことが絶えてもいないのに。
<別解釈>
試訓 はしけやし間(ま)近き里を雲井(くもゐ)にや恋ひつつ居(を)らむ月も経(へ)なくに
試訳 ああ、どうしようもない。出掛ければすぐにも逢える間近い貴女の家が逢うことが出来なくて、まるでそこは雲井(=宮中、禁裏のこと)かのように思えます。私は貴女を恋焦がれています。まだ、貴女の身の月の障りが終わらないので。

娘子復報贈和謌一首
標訓 娘子の復た報(こた)へ贈れる和(こた)ふたる謌一首
集歌641 絶常云者 和備染責跡 焼太刀乃 隔付經事者 幸也吾君
訓読 絶ゆと云(い)ふは侘(わび)しみせむと焼太刀(やきたち)のへつかふことは幸(さ)くや吾が君
私訳 二人の間も終りだといったら、私が辛い思いをするだろうと思われて、焼いて刃を鋭くした太刀の、端だけを使うような役にも立たない言葉でおっしゃるのならば、それで本当に私が幸せでしょうか。ねぇ、私の貴方。
<別解釈>
試訓 絶ゆと云(い)ふは詫(わび)そせむと焼太刀の経(へ)つ古(ふ)ることは避(さ)くや吾が君
試訳 「二人の仲が終わった」と云うことが、貴方の詫びる気持ちを見せることとしても、焼太刀の端(へ)、その言葉の響きではありませんが、二人の仲での使い古しの言葉を使うことは避けるのではありませんか。ねぇ、私の貴方。

湯原王謌一首
標訓 湯原王の謌一首
集歌642 吾妹兒尓 戀而乱在 久流部寸二 懸而縁与 余戀始
訓読 吾妹子に恋に乱(みだ)らば反転(くるべき)に懸(か)けに縁(よ)せむと余(あ)が恋ひそめし
私訳 貴女に恋して心も乱して、糸巻きの糸にかけて引き寄せるように、貴女の気持ちを引き寄せようと思って、私は恋を始めてしまった。
<別解釈>
試訓 吾妹子に恋に未(み)足(た)らば狂(く)るべきにかけに寄せむと余(あ)が恋ひそめし
試訳 愛しい私の貴女との恋の行い(=夜を共にすること)に満ち足りないのなら、きっと、心は動転してしまうでしょう。ですが、心にかけて貴女の気持ちを引き寄せようと、それほどまでに私は貴女に恋をしてしまった。

 どうでしょう、面白いと思いませんか。試訓と試訳は特別な解釈として紹介しましたが、歌にこのような遊びがあるとすると、集歌634の歌や集歌635の歌の唐突性が理解出来ます。もし、歌に遊びが無いものとしますと、娘子が詠う集歌634の歌や湯原王の詠う集歌635の歌は問答相聞歌としては相当に頓珍漢なものになります。
 さて、湯原王の詠う集歌640の歌の初句と二句目「波之家也思 不遠里乎」に注目すると、湯原王は同じような歌をある宴で詠っています。それが巻六に載る集歌986の歌です。その宴は大伴一族が開いたような観月の宴で、当日は日中の小雨模様から夕刻になってようやく雲が取れるような天候だったようです。その宴には豊前娘子と呼ばれる女性が参加していましたので、湯原王の歌と共に紹介しようと思います。

豊前娘子月謌一首  娘子字曰大宅。姓氏未詳也
標訓 豊前(とよさき)の娘子(をとめ)の月の謌一首  娘子(をとめ)は字(あざな)を大宅(おほやけ)と曰ふ。姓氏は未だ詳(つはび)かならず。
集歌984 雲隠 去方乎無跡 吾戀 月哉君之 欲見為流
訓読 雲(くも)隠(かく)り行方(ゆくへ)を無みと吾が恋ふる月をや君し見まく欲(ほ)りする
私訳 雲に隠れ行方が判らないと私が心配する、その満月を、貴方は見たいとお望みになる。

湯原王月謌二首
標訓 湯原王の月の謌二首
集歌985 天尓座 月讀牡子 幣者将為 今夜乃長者 五百夜継許増
訓読 天に坐(ま)す月読(つくよみ)牡士(をとこ)幣(まひ)は為(せ)む今夜(よひ)の長きは五百夜(いほよ)継ぎこそ
私訳 天にいらっしゃる月読男子よ、進物を以って祈願をしよう。満月の今夜の長さが、五百日もの夜を足したほどであるようにと。

集歌986 愛也思 不遠里乃 君来跡 大能備尓鴨 月之照有
訓読 愛(は)しきやし間(ま)近き里の君来むと大(おほ)のびにかも月し照りたる
私訳 愛おしいと思う、間近い里に住む恋人が来るかのように、甚だ間延びしたように月が照って来た。

 以下、想像です。
 安倍虫麿、大伴坂上郎女、豊前娘子、湯原王や藤原八束たちが参加した秋の観月の宴で、月の出を待つ間に集歌984の歌や集歌985の歌が詠われたようです。その後、宴の中で歌が上手な豊前娘子と湯原王とが歌垣歌のように恋歌相聞を戦わしました。それが集歌631の歌から集歌641の歌までのものです。その後半、湯原王がその日の最初に詠った歌と同じ言葉を持つ集歌640の歌を詠ったことを豊前娘子が歌で咎めました。ただし、その咎めは歌の中に同音異義語の言葉遊びとして隠されています。『万葉集』では集歌641の歌をもって歌の戦いは終わっていますから、湯原王は即座に負けを認めたと思われます。
 この想像では湯原王と相聞歌を交わした「娘子報贈謌二首」の標題で代表される娘子とは豊前娘子のこととなります。そうした時、巻四に豊前国娘子が詠う歌があり、そこでは「大宅女(大宅の娘)」と紹介されています。この「大宅」は「公」と同じ意味を示す場合がありますので、場合により国府の「娘子」が産んだ子供であったかもしれません。そうした場合は、周囲に教養ある人が十分にいますから、聡明で美人であれば十分に教育を受けた後に国造の養女のような身分で女官や采女として奈良の都に送られた可能性はあるのではないでしょうか。そのため、大宅女なのですが姓氏が不明とされた一因と思います。なお、藤原京から奈良時代において豊前国には大宅の姓を持つ有力な氏族はいません。

豊前國娘子大宅女謌一首  未審姓氏
標訓 豊前國(とよのみちのくちのくに)の娘子(をとめ)大宅女(おほやけめ)の謌一首  未だに姓氏は審(つばび)らかならず
集歌709 夕闇者 路多豆頭四 待月而 行吾背子 其間尓母将見
訓読 夕闇(ゆふやみ)は路たづとほし待ち月に行ませ吾が背子その間(ほ)にも見む
私訳 夕闇は道が薄暗くておぼつかなく不安です。月が出るのを待って帰って行きなさい。私の愛しい貴方。その月が出る間も貴方と一緒にいられる。

 最後に湯原王と豊前娘子との関係は集歌632の歌の句「楓如 妹乎奈何責(桂しごとし妹を啼か責む)」が暗示する、閨でたっぷり女に声を上げさせるような濃厚な男女の仲であったと想像します。同じように舎人皇子と舎人娘子もそのような関係でしょうか。およそ、そこには、皇族男子の特権で采女の中から選び出し、宮中行事での自分専用の女官を確保していたと想わせるものがあります。
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万葉雑記 色眼鏡 丗八 万葉集から猥歌を楽しむ 漢方医学書と万葉集歌の関係について

2013年10月12日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 丗八 万葉集から猥歌を楽しむ
漢方医学書と万葉集歌の関係について

 今回は、私の好みから『万葉集』で詠われる猥歌を取り上げます。ただし、副題に「漢方医学書と万葉集歌の関係について」と付けたように、万葉集歌の中で漢方医学書と関係を持つ歌を選び出して鑑賞します。
 なぜ、このような副題をつけたかと云うと、『万葉集』の時代に現在に伝わる漢方医学書の古典の多くが請来されています。特に保養・滋養に関係する医学書の充実は素晴らしく、それらは『医方心』に集成し要約・編纂されています。中国に現存する保養・滋養に関係する医学書の状況と日本に残るものとを比較した時、研究者は残存・伝承態度に奈良・平安貴族の好みが現れているとします。つまり、そのような漢方医学書と関係を持つ万葉集歌に、中国の貴族たちとは違った奈良・平安貴族の好みが存在する可能性があると推定することが可能です。この推論の下、ブログの守備範囲である『万葉集』からそのような歌を選別し、鑑賞します。なお、漢方医学での保養・滋養に関係する医学書は、実質、性愛の実技指導書ですから、関係する万葉集歌は必然的に猥歌の姿を持たざるを得ません。

 『万葉集』の歌を鑑賞する前に、その漢方医学書に寄り道をします。
 さて、古代において、日本もそうですが、中国においてもその時代の先進の医療は権力者の為にあり、民衆のものではありません。律令体制時代の日本では先進医療は官営の形を取り、その医療全般に対し朝廷機関である典薬寮が国家の大本を司っていました。従いまして、輸入される先進の医学書もまた典薬寮の役人が管理をしていました。ちょうど、空海が大唐から帰国した時、筑紫大宰府から帯同したすべての漢書や品々の目録を朝廷に提出し、必要に応じて書写本や複製品を提出した姿からの延長線となります。
 そうした時、平安時代中期、円融天皇の時代に、当時、朝廷等に存在した医学書を集成して編まれた医学書に『医方心』があります。この『医方心』は医療行為を三十部門に分類し編纂が行われ、有名なところとして巻廿八に「房内」がまとめられています。この「房内」は、少なくとも『玉房秘決』、『玉房指要』、『素女経』、『玄女経』、『枹朴子』、『洞玄子』、『千金方』などの中国の医学書を集成・要約したもので、引用先のこれらの書籍は遣隋使や遣唐使が日本へと請来したものです。従いまして、おおむね、奈良時代から平安時代初期にはこれらの書籍は日本に請来し、朝廷に収められていたと推定されています。この「房内」には紹介した古典医学書がダイジェストとして引用され、逆に「房内」からその引用した古典医学書の復元が可能です。一方、近代中国では巻廿八「房内」で引用された古典医学書は伝在していません。つまり、特徴的に日本で「房内」が伝承されたと云うことが特異ですし、医学史研究者は他国以上に日本の貴族たちはそれを尊重・必要としたのであろうと推定します。
 その『医方心』巻廿八の「房内」とはどのようなものかを紹介しますと、本質では男女の和合・交接から滋養・保養を説くものです。具体的な例としてその処方箋を紹介しますと、そこには中年男性の体力・気力の減退に対する滋養・保養を保つ処方が書かれています。

医方心 巻廿八房内 養陽より抜粋
原文 又五臓之液要在於舌、赤松子所謂玉漿可以断穀。交接時多含舌液及唾、使人胃中豁然如服湯薬、消渇立癒、逆気便下、皮膚悦澤、姿如處女。道不遠求、但俗人不能識耳。
訓読 また、五臓の液の要(かなら)ず舌に在(あ)らば、赤松子の、所謂(いわゆる)、「玉漿の以って穀を断つは可なり」なり。交接の時、舌に液及び唾を多く含まば、人を使(し)して胃中は豁然(かつぜん)とし、湯薬(くすり)を服(ふく)むが如(ごと)し。消渇(しょうかつ)は立(たちところ)に癒(い)え、逆気(ぎゃくき)は便(たちま)ち下(さが)り、皮膚(はだ)は悦澤(つやつや)として、姿(かたち)は處女(をとめ)が如し。道は遠きを求めず、但だ俗(よ)の人は識(し)るを能(あたは)ざるのみ。
注意 赤松子;中国最古の仙人のこと、玉漿;ここでは愛液のこと、消渇;現在の糖尿病、逆気;冷えのぼせ症のこと、

 『医方心』は漢方医療書として、身体部位の解説、問題となる症状の列記とその診断法、診断後の処方を記述します。巻廿八「房内」では、主に男性や女性で体力・気力の減退した者に対して為すべき治療行為を紹介し、治療において薬餌を摂取・実践するためにその処方箋の内容を、図解を付けて詳説しています。また、交接法の詳細、交接での傷害の治癒法や妊娠法についても解説します。
 さて、内容が内容ですので先に紹介した「養陽」の現代語訳は省略しますが、万葉時代、皇族・貴族は大唐渡来の医書を尊重して、このような処方箋に従って滋養・保養のために服用・実践をしていたと推定されます。処方箋に従って服用・実践する時、『医方心』には医学用語で示された身体部位について解説が載せられています。その解説では女性器全体を丹穴、玉戸や玉門と記し、陰唇の始まりの地点を金溝、その陰核部付近を琴弦と称します。また、そこを覆う体毛を莎苗と呼びます。そして、「房内」では患者の状態に合わせて、図解入りでその服用方法を解説します。
 ここで、当時の皇族がその「房内」が処方する薬餌を服用する時に深くかかる一族として皇室の書記官である内臣を忘れることはできません。天皇家の私的書記官は『日本書紀』に載るように推古天皇時代から中臣御食子の家系が行っており、推古天皇の中臣御食子、斉明天皇・天智天皇の中臣鎌足、天武天皇・持統天皇の中臣意美麻呂、文武天皇・元明天皇の中臣不比等が天皇家の私的秘書官となる令外の官である内臣を務めています。つまり、内臣は皇室の内向きを管理する立場・役職ですから、皇族の子弟が袴着や裳着を行う時のパートナーの選定や中年以降に皇族が体力・気力の減退した時の薬餌の調達・準備、時にその始末に深く関わることになります。
 この宮廷組織や職務において、『医方心』の巻廿八「房内」を読むとき、直接の医療行為だけでなく、誰がその特殊な治療薬餌の用意をしたのかを想像する必要がありますし、その派生事項(=妊娠)を想像する必要があります。皇族への処方箋に基づき、その薬餌を準備すべき責任者は天皇の私的秘書官である中臣氏です。
 なお、不比等の時代に天皇祭祀の精神的事項は中臣(又は葛原)氏が、日常的事項は藤原氏が分担して聖俗を分けることになりました。参考として、漢字では「藤」には妓女や仙女の意味合いが隠されていますので、中国では格式を求める場合は同じ意味合いにおいて「藤」ではなく「葛」の方の文字を使います。そのため、奈良時代前期以前では由緒ある場所や地名では「葛井寺」のような表記をします。その故、植女・遊女の場所としての門前の「藤井寺」と神社仏閣の主体である「葛井寺」とに分かれます。また、雑談ですが、この種の話として、光仁天皇のブレーンをしていた藤原百川が井上皇后の薬餌として山部王を準備したのは有名な話題です。

 アリバイ創りは終わりました。ここからの説明は万葉時代の先進の医療書からの推定となります。
 さて、『万葉集』巻十四には「金門」を詠う歌が二首ほどあります。それは共に東歌と分類されるもので、主に現在の東海から関東地方の人々が詠ったものです。この「金門」と云う言葉を使って歌を詠うと云う作歌態度は明治時代人が交接をコイタスと云う言葉で表したのと似て、先進の外来専門用語を使って歌を詠うと云うものです。作歌者本人としては非常に気取った歌だったと思われます。
 なお、鑑賞では集歌3530の歌と集歌3569の歌の「金門」の言葉を女性器と云い換えて頂ければ、歌の解釈が判りやすいと思います。そうした時、集歌3530の歌は『万葉集』の歌の中で一番、露骨な猥歌と扱われることになります。

<金門の歌>
集歌3530 左乎思鹿能 布須也久草無良 見要受等母 兒呂我可奈門欲 由可久之要思母
訓読 さを鹿の伏すや草群(くさむら)見えずとも子ろが金門(かなと)よ行かくし良(え)しも
私訳 立派な角を持つ牡鹿が伏すだろう、その草むらが見えないように、姿は見えなくても、あの娘の「立派な門」を通るのは、それだけでも気持ちが良い。

集歌3569 佐伎母理尓 多知之安佐氣乃 可奈刀弖尓 手婆奈礼乎思美 奈吉思兒良婆母
訓読 防人に立ちし朝開(あさけ)の金門(かなと)出(で)に手(た)放(はな)れ惜しみ泣きし児らばも
私訳 防人として旅立つ朝明け方に「立派な門」から出立するに、それから手を離すことを惜しんで泣いた愛しいあの娘よ。

 また、巻九には高橋連虫麻呂の歌集に載る上総国の珠名娘子の伝承について詠う歌があり、そこでも「金門」の言葉が使われています。初句の「尓之(にし)」は「~のために」と解釈が可能ですから「金門のために」と訳するのが良いようです。歌で詠われるこのようなタイプの女性を『古事記』などでは「潔よし」と称して女性の理想とします。それは、明治以降のキリスト教価値観による偏向教育を受けた後の現代感覚とは、少し、違います。

詠上総末珠名娘子一首并短謌
標訓 上総(かみつふさ)の末(すゑ)の珠名娘子を詠める一首并せて短歌より短歌を紹介
集歌1739 金門尓之 人乃来立者 夜中母 身者田菜不知 出曽相来
訓読 金門(かなと)にし人の来(き)立(た)てば夜中(やなか)にも身はたな知らず出(い)でぞ逢ひける
私訳 家の立派な門に人がやって来て立つと、夜中でも自分の都合を考えないで出て行って尋ねて来た人に逢ったことだ。
裏歌の解釈
試訳 「立派な門」の評判のために、男が遣って来て尋ねると、夜中でも自分の都合を考えないで出て行って尋ねて来た人に逢ったことだ。

 さらに「金門」の言葉ではありませんが、ほぼ、同じ意味合いを持つ言葉である「金丹」の表記を使った歌があります。それが集歌2664の歌です。
 この歌を訓読み万葉集のように発声で楽しむ時、そこには「金丹」の表記はありません。私訳で示すように男性から女性への「恋する女性に逢引きを求める歌」となります。ところが、原文の漢字表記は、ある種、猥歌です。歌が男性から女性へのものですと、男性の女性への気持ちは集歌3530の歌と同じです。夜通しのHをして身が痩せるほどだけど、貴女とのセックスは気持ち良く、貴女の「金丹」が忘れられないと云うことになります。雰囲気としては女性が詠う集歌2650の歌の答歌として集歌2664の歌が詠われたとすると相応しいものになるのではないでしょうか。
 原文表記の文字から歌を裏読みしますと万葉集中で一番の猥歌と称される集歌3530の歌と集歌2664の歌が詠う世界は、ほぼ、同じです。しかしながら集歌2664の歌は洗練されているがため、現代人には猥歌の姿は消え失せています。この姿が万葉貴族の風流なのでしょう。

集歌2664 暮月夜 暁闇夜乃 朝影尓 吾身者成奴 汝乎念金丹
訓読 夕(ゆふ)月夜(つくよ)暁(あかとき)闇(やみ)の朝影(あさかげ)に吾(あ)が身はなりぬ汝(な)を念(おも)ひかねに
私訳 煌々と輝く夕刻に登る月夜の月が暁に闇に沈むような朝の月の光のように私は痩せ細ってしまった。貴女への想いに耐えかねて。
裏歌の解釈
試訳 夕暮れの月夜から明け時の闇夜まで(愛を交わして)、その明け時の光が作る影のように弱々しくなるほどに私の身は疲れてしまった。でも、また、貴女の“あそこ”を求めてしまう。

参考歌
集歌2650 十寸板持 盖流板目乃 不令相者 如何為跡可 吾宿始兼
訓読 そき板(た)以(も)ち葺(ふ)ける板目(いため)の合(あ)はざらば如何(いか)にせむとか吾(あ)が寝(ね)始(そ)めけむ
私訳 薄くそいだ板で葺いた屋根の板目がなかなか合わないように、私の体が貴方に気に入って貰えなければどうしましょうかと、そのような思いで、私は貴方と共寝を始めました。

 同様な歌としては巻四に集歌628の歌があります。表面上の歌は次に示すもので、猥歌的な要素はありません。ところが、歌の「戀水」には隠語として媚薬や強壮剤の意味があり、そして、漢方医薬ではその媚薬や強壮剤は鹿角や鹿茸を煮て創ります。つまり、歌で使われる「戀水」と「鹿煮」との表記には関連があり、その用字は意図したものです。紹介する裏歌はその意図を反映したもので、十分な猥歌となります。

集歌628 白髪生流 事者不念 戀水者 鹿煮藻闕二毛 求而将行
訓読 しがら負(お)ふる事(こと)は念(おも)はず恋(こい)水(みづ)はかにもかくにも求めに行かむ
私訳 世間のしがらみ、そのような言葉の響きに似た白髪を負っていることを気にすることなく、このようにして貴女の愛を求めて行きましょう。
裏歌としての解釈
試訓 白髪生(お)ふる事(こと)は念(おも)はず恋(こい)水(みづ)はかにもかくにも求めに行かむ
試訳 年老いて白髪が生え、精力が落ちたことを思い悩まないで、貴女との夜の営みのため、必要な媚薬をなにはともあれ求めに行きましょう。
注意 歌番号六二七の歌と同様に、校本万葉集では「戀水者」の「戀」は「變」の誤字とします。当然、歌意は変わります。

 次に「苗」の漢字表記を使った歌を紹介します。この「苗」なる漢字に漢方医学用語の「莎苗」の意味合いが隠されているとすると、集歌1535の歌の原文の漢字表記における用字が秀逸です。参考として、漢方医学では「莎苗」は恥丘を覆う体毛を意味します。
 『万葉集』では季節に関係する歌で、時に「金」の文字を中国五行思想から「秋」と読み替えます。そうした時、猥歌として集歌1535の歌の五句目「秋風吹」を「金風吹」と読み替えることが出来るとしますと、また、体毛も生え揃わない若い女性との夜の風景となり、折々に男性は閨で女性の体を開き見詰め、女性の性的成長を確かめるような情景を詠うものになります。この歌は女性への贈答歌ではありませんから、雰囲気としては宴で詠われた歌と考えられます。想像で藤原宇合がこの歌を詠った時、脇には相伴する若き美人が居たのではないでしょうか。参考に集歌72の歌を紹介しますが、宇合は慶雲三年の文武天皇の難波御幸に従駕し、難波に宿泊し、夜伽の女性との夜を過ごした翌朝に、この歌を残しています。

<苗の歌>
藤原宇合卿謌一首
集歌1535 我背兒乎 何時曽且今登 待苗尓 於毛也者将見 秋風吹
訓読 我が背兒をいつぞそ今と待つなへに面(おも)やは見えむ秋し風吹く
私訳 (その人が)「私の愛しい貴女を訪れる、その訪れはいつだろう、今でしょうか」と待つままに、さて、その御方の姿を見たのでしょうか。秋の風が(簾を揺らして)吹きます。
裏歌の解釈
試訓 我背兒をいつぞそ今と待つ苗(なえ)に御毛(をも)やは見えむ金(かね)に風吹く
試訳 私の愛しい貴女を、「いつだろうか、もう、今だろう」と待っている、その恥丘に和毛を見たいものだ。そのような貴女の丘に秋のそよ風(=私の優しい息)が吹く。

参考歌
集歌72 玉藻苅 奥敝波不搒 敷妙乃 枕之邊 忘可祢津藻
訓読 玉藻刈る沖辺(おきへ)は漕がじ敷妙の枕し辺(あたり)忘れかねつも
試訳 柔毛を別け奥の部屋ですることは疲れ果てもう出来ません。褥を敷いて待っていた美しい枕もとのあの人が忘れられないでしょう。

 さて、次の三首の歌、集歌407の歌、集歌2836の歌、集歌3141の歌を見て下さい。この時、「苗」の言葉を陰毛の比喩とし、その時の女性の性的な成長程度を想像してください。原文の漢字表記からは集歌407の歌の女性は陰毛もやっと生え揃ったばかりです。集歌2836の歌の女性は陰毛も含めて性的成長はまだまだの状況です。一方、集歌3141の歌の女性は陰毛黒々とした雰囲気の成熟した大人の女性ですし、その分、男女の交接にも馴れているとの隠れた意味合いが想像されます。
 万葉集の歌は漢字で表記される歌ですので、使われる漢字一字一字に意味合いを持ちます。そのために、漢字の意味合いを探ると色々な世界が見えて来ます。裏歌の現代語訳文は紹介しませんが、言葉や使われる漢字を想像して解釈して見て下さい。

大伴宿祢駿河麿娉同坂上家之二嬢謌一首
標訓 大伴宿祢駿河麿の同じ坂上家の二嬢(おとをとめ)を娉(よば)へる歌一首
集歌407 春霞 春日里之 殖子水葱 苗有跡云師 柄者指尓家牟
訓読 春霞(はるがすみ)春日(かすが)し里し植(うゑ)子(こ)水葱(なぎ)苗(なへ)なりと云ひし枝(え)はさしにけむ
私訳 今年、春霞が立つ季節に春日に住む私と貴女の幼い次女と婚約しましたが、水葱の苗のようで、供して夫婦事をするにはまだ早いと心配されていましたが、その早苗が枝を伸ばすように貴女の娘は、もう十分に女になりました。

集歌2836 三嶋菅 未苗在 時待者 不著也将成 三嶋菅笠
訓読 三島(みしま)菅(すげ)いまだ苗なり時待たば着(き)ずやなりなむ三島(みしま)菅(すが)笠(かさ)
私訳 三島の菅草(=未成年の女)は未だに苗です。だからといって、時が経つと、菅笠(=成人の女)として身に着つける訳でもない。三島の菅笠。

集歌3141 草枕 客之悲 有苗尓 妹乎相見而 後将戀可聞
訓読 草枕旅し悲しみあるなへに妹を相見に後(のち)恋ひむかも
私訳 草を枕にするような苦しい旅への切なさに、このように愛しい貴女と抱き合った後で、恋苦しむでしょう。


 次に「琴」と云う言葉に注目してみたいと思います。
 紹介する集歌1328の歌では一般に二句目の「玉之小琴」を女性の比喩と解釈します。私訳もまたそのように解釈しています。当然、漢方医学書の解説から「琴」に女性器(=陰核小帶)の比喩を想像しますと、歌で使われる「小琴」の言葉には女性本人の比喩か、女性の特定の愛撫を施す場所の比喩かの二通りの解釈の余地が生まれます。
 もし、女性の特定の場所の比喩として歌を解釈しますと、その時、歌の初句「伏膝」の言葉が意味深長となります。膝を伏すのですと、体型上、手と膝を付く形か、膝立ちの形ですし、膝に伏すのですと、胡坐に組んだ膝の上と云う形になります。「小琴」と云う言葉を使う関係上、歌には奏でる音色があるはずです。それに万葉人は最初に解説しました『医方心』に載る処方箋「交接時多含舌液及唾」を知っています。さて、この歌を詠った男性は「膝を伏す」して琴を奏でたのでしょうか、それとも「膝に伏す」して琴を奏でたのでしょうか。そこに聞き手の趣味と好みが現れて来ます。なお、和歌の本来の表記では「膝に伏し」ですと「膝伏」の表記になるはずです。もし、この歌が女性に贈られた歌ですと、作歌の時、女性の好む姿を思い浮かべたのかもしれません。

<琴の歌>
集歌1328 伏膝 玉之小琴之 事無者 甚幾許 吾将戀也毛
訓読 膝(ひざ)に伏す玉し小琴(をこと)し事無くはいたく幾許(ここだく)し吾恋ひめやも
私訳 膝に置く美しい小さな琴の、(貴女の)音を聞くことが無かったならならば、これほどひどくは私は恋い焦がれるでしょうか。
裏歌の解釈
試訓 伏す膝(ひざ)し玉し小琴(をこと)し事無くはいたく幾許(ここだく)し吾恋ひめやも
試訳 伏した膝、そうして、美しい貴女のかわいい琴に、なにもしなければ、これほども、何度でも、貴女との愛の営みをしたいと思うでしょうか。

 集歌1328の歌には「琴」と云う言葉に、確実に女性と云う比喩がありました。
 さて、次に紹介する集歌1129の歌は巻七に載る歌で、雑歌に分類され「詠和琴」との標題を持ちます。『万葉集』の編纂では挽歌の分類ではありません。従いまして、部立からしますと和琴の奏でる声(音)の風景を鑑賞すべき歌なのです。しかしながら、伝統では亡くなった妻を悼むような感覚で歌を解釈します。紹介する私訳もまた挽歌的感覚で歌を解釈したものです。
 一方、集歌1129の歌が宴で詠われた和琴の歌ですと非常な猥歌となります。詠われる「琴」の漢字には漢方医学での「琴弦」の意味合いが取れ、その「琴弦」は陰核周辺部を意味します。また五句目の「嬬」の言葉を膣の比喩としますと、四句目と五句目の意味は陰核から樋(溝)を下って行くとそこには膣が隠れていると云うことになります。
 なお、二句目の「嘆」には「悲嘆」の意味合いもありますが、一方では「感嘆」の意味合いもあります。従って、歌は解釈によっては陰核周辺部を愛撫した時に発する女性が響す音色を誉めていることになります。また、「盖」の漢字には「けだし」と訓読みするだけでなく「覆う」とか、「すばらしい」と云う意味を取ることが出来ます。
 漢字の意味を原点に戻り一つ一つ調べますと、集歌1129の歌を挽歌ではなく、宴でのバレ歌として解釈しますと、歌は女性器の成り立の説明とそこへの愛撫の反応を詠う、『万葉集』を代表する有数な猥歌となります。

集歌1129 琴取者 嘆先立 盖毛 琴之下樋尓 嬬哉匿有
訓読 琴取れば嘆き先立ちけだしくも琴し下樋(したひ)に妻や匿(こも)れる
私訳 琴を手に取ると嘆きが先に出る。もしかして、その音からすると、琴の胴の中に妻が隠れているのでしょうか。
裏歌
試訳 琴を奏でるとその響す音色に賞讃の想いがまず現れ、覆う和毛、さらにその先の、素晴らしい音色を響す琴から樋を下へと辿って行くと、そこには「妻」が隠れています。

 ここまで女性に対して鑑賞して来ました。では、男性に対してはどうなのかと云うと、残念・無残です。隠語や俗語を除き、漢方医学書では男性器は玉茎ぐらいでしか解説されず、その「玉茎」について万葉集歌を調べましても地名としての「水茎」以外、物をしめす「茎」の言葉を使う歌は東歌に二首が載る程度です。なお、万葉集歌には女性が好む比喩として「剣太刀」の言葉がありますが、今回は「剣太刀」などについては漢方医学書に関係がないものとして、割愛させて頂きます。
 その「茎」の言葉を使う万葉集歌を紹介しますと、次の二首がそうです。一応、紹介の私訳は標準的な解釈のものです。参考として「茎」を漢方医事用語として解釈したものを裏歌としてその試訓と試訳を紹介します。従来のものよりは解釈での可能性はありますが、それでも女性のものを比喩として詠うものと比べると面白くありません。やはり、そこには詠い手の歌への熱意の差があるのでしょう。「茎」の言葉では荒々しさや力強さでは「剣太刀」の言葉には敵いませんから、それでは女性たちが納得しなかったのでしょう。女性に鼻先で笑われるような比喩では歌として生き残らなかったと想像させます。

<茎の歌>
集歌3406 可美都氣野 左野乃九久多知 乎里波夜志 安礼波麻多牟恵 許登之許受登母
訓読 上野(かみつけ)の佐野の茎(くく)立ち折りはやし吾(あれ)は待たむゑ今年来(こ)ずとも
私訳 上野の佐野の青菜の茎、その茎立の芽先を手折って、はやす(=もっと茂ってくれと願う)、その言葉のひびきではないが、はやしくして(=心を強く持って)私は貴方を待ちましょう。今年来なくても。
裏歌の解釈
試訓 上野(かみつけ)の佐野の茎立ち居り速(ばや)し吾は待たむゑ琴し来ずとも
試訳 上野国の佐野の男の男根は隆々としている。そのような私は乙女を待っていましょう。今、すぐでは無くても。

集歌3444 伎波都久乃 乎加能久君美良 和礼都賣杼 故尓毛乃多奈布 西奈等都麻佐祢
訓読 伎波都久(きはつく)の岡の茎韮(くくみら)吾(あれ)摘めど籠(こ)にものたなふ背なと摘まさね
私訳 伎波都久の丘の茎韮を私が摘むが、籠いっぱいにならない。好きな人と摘みなさい。
裏歌の解釈
試訓 伎波都久の丘の茎見ら吾(われ)妻(つめ)と兒にも告(つ)たなふ背なと妻さね
試訳 伎波都久の丘に住む男の男根隆々としたものを見た。お前は私の妻と私の娘に語りかける。娘よ、そのような逞しい男と夫婦事をしなさい。


 最後に、『医方心』は江戸中期までは公家社会の中で秘匿された漢方医学書です。そして、巻廿八「房内」は平安貴族たちの需要や要請で部立が行われたものです。この「房内」は交接の実務を解説する書物ですし、由来は当時に存在する書籍を集大成したものですから、恋愛をテーマとするような古典文学を鑑賞するには当時の人々の知識・慣習や事情を理解する上でも知るべき知識の書物となります。逆にこのようなものを知らずに万葉集や源氏物語を鑑賞することは文学では冒険ではないでしょうか。
 今回は「房内」で使われる用語と万葉集歌の言葉との関係を調査し鑑賞しましたが、もし、興味が湧くようなことがありましたら、『医方心』巻廿八「房内」を調べられることをお勧めします。そうすれば、集歌2949の歌が詠う「事計」の意味が十二分に理解が進むと思います。なお、『医方心』巻廿八「房内」について流通する新刊本は無いと思いますが、古本は相当数が流通していますし、巻廿八だけに限定するとそれほど高価なものではありません。ただし、内容が内容のため、昭和時代までは発禁図書でしたので、古本でもなるべく新しい発行年度のものを推薦します。

集歌2949 得田價異 心欝悒 事計 吉為吾兄子 相有時谷
訓読 うたて異(け)し心いぶせし事(こと)計(はか)りよくせ吾が背子逢へる時だに
私訳 どうしたのでしょう、今日は、なぜか一向に気持ちが高ぶりません。何か、いつもとは違うやり方を工夫してください。ねえ、貴方。こうして二人が抱き合っているのだから。
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万葉雑記 色眼鏡 丗七 中上りの歌を鑑賞する

2013年10月05日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 丗七 中上りの歌を鑑賞する

 今回は、ブログの副題として付けてある「色眼鏡」に、少し、関係する話です。
 以前に難訓歌をテーマに取り上げました。そこでは「藤原定家好み」を抜きにすれば、難訓歌なるものは無くなると極論を提示しました。その背景を思うに、鎌倉時代の有名な歌論争である判者藤原俊成の『六百番歌合』と顕昭によるその反論書である『六百番歌合陳状』を眺めると、『古今和歌集』において伝紀貫之の奏覧本系と藤原定家の流布本系とに異同が生じている原因の一端が想像されます。鎌倉時代の歌論争の背景を眺め、藤原俊成や定家の和歌に対する態度を確認した上では、彼らや彼らの時代に関わる『万葉集』の新点を伝統の訓みとして良いのかと云う疑問と危惧を持たざるを得ません。つまり、『古今和歌集』に見られるように伝統の訓みや表記よりも調べの美しさを優先する人々と時代に新たに付けられた『万葉集』の訓みを、伝承されたものとして受け止めて良いのでしょうか。また、そのような彼らへの疑惑の目を現在の研究者は持っているのでしょうか。難訓歌でも紹介しましたが原文よりも歌を詠う時の調べの美しさを優先する姿では、本来の『万葉集』を鑑賞しているとは思えませんし、さらに彼らの好みにより姿を変えた訓読み万葉集歌をそのままに受け止めているのでは、何を鑑賞しているのかが不明になるのではないでしょうか。

 さて、従来の柿本人麻呂論では注目をされてはいませんが、重要な歌があります。それが柿本人麻呂歌集に載る次の歌です。何が重要かと云うと、『万葉集』の中でただ一首だけなのですが、紹介する集歌1782の歌の中に「中上」と云う言葉が使われていることです。

与妻謌一首
標訓 妻に与へたる歌一首
集歌1782 雪己曽波 春日消良米 心佐閇 消失多列夜 言母不往来
訓読 雪こそば春日(はるひ)消(け)ゆらめ心さへ消(き)え失せたれや言(こと)も通はぬ
私訳 積もった雪は春の陽光に当たって解けて消えるように、貴女は私への想いも消え失せたのでしょうか。私を愛していると云う誓いの歌もこの春になっても遣って来ません。

妻和謌一首
標訓 妻の和(こた)へたる歌一首
集歌1783 松反 四臂而有八羽 三栗 中上不来 麻呂等言八子
訓読 松(まつ)返(かへ)りしひにあれやは三栗(みつくり)し中(なか)上(のぼ)り来(こ)ぬ麻呂といふ奴(やつこ)
私訳 松の緑葉は生え変わりますが、貴方は体が不自由になったのでしょうか。任期の途中の三年目の中上がりに都に上京しても私のところへは来ない麻呂という奴は。
貴方が便りを待っていた返事です。貴方が返事を強いたのですが、任期の途中の三年目の中の上京で、貴方はまだ私のところに来ません。麻呂が言う八歳の子より。

 『万葉集』においても特別な「中上」と云う言葉は、『今昔物語集』に「彼、陸奥の守の中上りと云ふ事にして、北の方、娘など上せけるが」と云う文章にもあるように国守(地方官)が任期途中において上京し、業務報告を行うことを意味します。従いまして、この歌二首は柿本人麻呂研究では非常に重要な意味を持つ歌となります。
 そうした時、中西進氏や伊藤博氏は共に集歌1783の歌で詠われるこの「麻呂」と呼ばれる人物について、歌が柿本人麻呂歌集に載せられていること、また、歌の詠い様などから柿本人麻呂とその恋人の間での歌ではないかと推定しています。つまり、中西進氏や伊藤博氏は、意識する、しないは別にして、歌を純粋に鑑賞すると、その帰結において柿本人麻呂は国守の立場で地方に赴任していたと考えていることになります。ここに人麻呂の身分に対する有力な仮定、国守級の官人と云うものが現れて来ます。それも集歌1782の歌から、その土地は奈良の都人にとっては冬の間は雪が積もるのが約束の地域ですから、人麻呂が赴任している場所は、九州、四国、山陽などの地域ではありません。
 追加して、集歌1782の歌は晩春から初夏の季節に詠われたのであろうと想像されますが、何時とは特定できません。一方、集歌1783の歌は「貴方は中上で上京しているのに一向に私の許にやって来ない」と詠いますから、集歌1782の歌が詠われてから上京までの時間差がありますので初夏と決めつけることが出来ず、集歌1783の歌が詠われたのが何時の時期とは特定出来ません。
 そこで、『万葉集』の中で国守の中上りに関係すると思われる歌を探してみました。それが次の歌二首抜粋です。

秋八月廿日宴右大臣橘家謌四首
標訓 (天平十年)秋八月廿日に、右大臣橘の家(いへ)にて宴(うたげ)せる謌四首
集歌1024 長門有 奥津借嶋 奥真經而 吾念君者 千歳尓母我毛
訓読 長門(ながと)なる奥津借島(かりしま)奥まへて吾(あ)が念(も)ふ君は千歳(ちとせ)にもがも
私訳 (私が管理する)長門の国にある奥まった入り江にある借島のように、心の奥深くに私が尊敬している貴方は、千歳を迎えて欲しいものです。
右一首、長門守巨曽倍對馬朝臣
注訓 右の一首は、長門守巨曽倍對馬朝臣なり

集歌1025 奥真經而 吾乎念流 吾背子者 千歳五百歳 有巨勢奴香聞
訓読 奥まへて吾(あれ)を念(おも)へる吾(あ)が背子は千歳(ちとせ)五百歳(いほとせ)ありこせぬかも
私訳 心の奥深くに私を尊敬してくれている私の貴方が、千年と五百年を迎えてくれないものでしょうか。(ねえ、巨勢部の貴方)
右一首、右大臣和謌
注訓 右の一首は、右大臣の和(こた)へたる謌

 天平十年八月二十日(西暦738年10月11日)に長門守である巨曽倍對馬が右大臣橘諸兄の屋敷での宴会に参加しています。この時、巨曽倍對馬の肩書は「長門守」ですから現役の地方官と考えて良いと思います。現役の地方官である長門守巨曽倍對馬が奈良の都にいると云うことは、これは「中上」での上京ではないでしょうか。
 これを前提としますと、「中上」は現在の九月下旬頃に奈良の都に上って来て、重要な農業の収穫祭である新嘗祭(旧暦十一月の卯の日)以前には任官地に帰って行ったのではないかと云う推定が現れて来ます。
 状況証拠ですが、
– 集歌1782の歌の標に示す「麻呂」は柿本人麻呂であろう
– 麻呂なる人物は冬に雪が積もる地方に赴任し、中上りをした
– 中上りは現在の九月下旬頃に行われた
の三点から、柿本人麻呂は冬、雪の積もる地方から現在の九月下旬頃に飛鳥の都に上京して来たと推定が可能ではないでしょうか。
 この推定条件の下、『万葉集』の中で有名な柿本人麻呂の歌を次に紹介します。

柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時謌二首并短謌
標訓 柿本朝臣人麻呂の石見國より妻に別れ上り来し時の歌二首并せて短歌
集歌131 石見乃海 角乃浦廻乎 浦無等 人社見良目 滷無等 (一云 礒無登) 人社見良目 能咲八師 浦者無友 縦畫屋師 滷者 (一云 礒者) 無鞆 鯨魚取 海邊乎指而 和多豆乃 荒礒乃上尓 香青生 玉藻息津藻 朝羽振 風社依米 夕羽振流 浪社来縁 浪之共 彼縁此依 玉藻成 依宿之妹乎 (一云 波之伎余思 妹之手本乎) 露霜乃 置而之来者 此道乃 八十隈毎 萬段 顧為騰 弥遠尓 里者放奴 益高尓 山毛越来奴 夏草之 念思奈要而 志怒布良武 妹之門将見 靡此山

訓読 石見(いはみ)の海(み) 角(つの)の浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟(かた)なしと (一は云はく、礒なしと) 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟は (一は云はく、礒は) なくとも 鯨魚(いさな)取り 海辺(うみへ)を指して 和多津(にぎたつ)の 荒礒(ありそ)の上に か青むす 玉藻沖つ藻 朝羽(あさは)振る 風こそ寄せめ 夕羽(ゆふは)振る 浪こそ来寄れ 浪し共(むた) か寄りかく寄り 玉藻なす 寄り寝(ね)し妹を (一は云はく、愛(は)しきよし 妹し手本(たもと)を) 露霜の 置きにし来れば この道の 八十(やそ)隈(くま)ごとに 万(よろづ)たび かへり見すれど いや遠(とほ)に 里は放(さか)りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草し 思ひ萎(しな)へに 偲(しの)ふらむ 妹し門(かど)見む 靡(ま)けこの山

私訳 石見の海の津野の浦を船が着く浦ではないと人は見るだろう。潟ではないと人は見るだろう。かまわない、浦はなくても。かまわない、潟はなくても。大きな魚を取る人が海岸を目指し、穏やかな波が打ち寄せる荒磯の上の青々とした玉藻や沖からの流れ藻の、朝は風が吹き寄せ、夕には波が打ち寄せる。その浪とともにそのように寄りこのように寄せる美しい藻のように寄り添って寝た恋人を、露や霜のようにこの地に置いてくると、京への道の沢山の曲がり角ごとに、何度も何度も振り返って見返すけれど、はるか遠くに恋人の里は離れてしまった。とても高い山も越えて来た。夏草が萎えるように、私を思うと気持ちが萎なえているでしょう、その恋人の家の辺りを眺めよう。恋人への私の気持ちのように靡け、この山の木々の葉よ。

反謌二首
集歌132 石見乃也 高角山之 木際従 我振袖乎 妹見都良武香
訓読 石見(いはみ)のや高角山(たかつのやま)し木(こ)し際(ま)より我が振る袖を妹見つらむか
私訳 石見にある高い津野の山の木々の葉の間から、私が振る袖を恋人は見ただろうか。

集歌133 小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別来礼婆
訓読 小竹(ささ)し葉はみ山も清(さ)やに乱(さや)げども吾は妹思ふ別れ来(き)ぬれば
私訳 笹の葉は神の宿る山とともに清らかに風に揺られているが、揺れることなく私は恋人を思っています。別れて来たから。

 紹介しました集歌131の長歌に「夏草之 念思奈要而(夏草が萎れるように、私を想うと気持ちが萎れて)」と詠いますから、歌が詠われた季節は夏の終わりでしょう。また、歌の句に「露霜乃 置而之来者(露や霜のようにこの地に置いてくると)」とありますから、季節としては二十四節季の内の白露以降のことと思われます。つまり、現在での九月上旬頃となります。紹介を省略しますが集歌135の長歌では「大夫跡 念有吾毛(今は大夫に等しい)」と詠いますから、二回目となる任期を終えての帰京では「大夫=殿上人(=従五位下以上)」に昇叙される見込みであったことが判ります。つまり、人麻呂がこれらの歌を詠った時、「大夫」より少し下の官位の地方官であったことが推測されます。一方、飛鳥浄御原令の時代ですと『日本書紀』の記事からすると国守の位は「大山=六位級」です。どうです、面白いと思いませんか。
 これらの状況証拠を積み上げていきますと、柿本人麻呂はある時期に石見国守に任官し、石見国から中上りをしたと推定されます。では、いつ頃に石見国守に赴任して来たかと云うと「人丸秘密抄」に天武三年八月三日と云う伝承があります。一方、人麻呂は天武八年七月七日の宮中での七夕の宴で七夕の歌を残しています。天武三年春に石見国守に任命され、後任が天武八年春に任命されと通知が石見国にあったとしますと任期は七年~七年半となり、当時の任官期間に相当します。そうすると、行政の規定と『万葉集』の歌からの推定との辻褄は合います。
 ここまでの推定をまとめますと、柿本人麻呂は天武三年春、石見国守に任命され、同年八月に石見国美濃郡小野郷に赴任しています。そして、天武五年または六年の秋に任期半ばの業務報告で上京し、雪で交通が遮断される前の天武七年初冬に石見国守の任期を終えて奈良へと帰って行ったものと思われます。その帰京に際しては大夫格の身分の内示がありましたから、何か重要ポストが用意されていたと考えられます。
 『万葉集』の歌に載る言葉、律令上の規定、伝承を組み合わせると、このように天武から持統年間での柿本人麻呂の官位・官職や任官地の推定を行うことが無理なく出来ます。ところが、今なお、一般の解説では柿本人麻呂は、身分、職業、その他、一切が不明な人物となっています。そこには、ずいぶん、ギャップがあります。なぜ、このようなギャップが生じるのでしょうか。
 推定しますのに一つには、一番の前提条件である集歌1782の歌の標に示す「麻呂」とは柿本人麻呂のことであろうと推定することが、従来は認められていませんでした。旧来、「古文書などの文書で確認できないものは、推論であるとしても認められない」と云うのが国学の態度でした。そのため、柿本人麻呂歌集の歌には作歌者の名前が記載されていないことから柿本人麻呂が作歌した歌ではなく、「柿本人麻呂歌集」と表記されるように「人麻呂が集めた歌の歌集」と解釈していました。今日では欧米からの文学や芸術研究方法の導入からの署名が無い作品の鑑定方法論が確立し、「古文書などの文書で確認できないものは、推論としても認められない」と云う研究態度は科学的な学問の分野からは排除されつつあります。その結果、署名が無い作品の鑑定方法論などを用いて柿本人麻呂歌集の歌の多くは人麻呂本人の歌であり、一部は彼の恋人の歌であろうと推定されるようになりました。およそ、柿本人麻呂は、身分、職業、その他、一切が不明な人物であると云うものの背景には、古典研究の根底を為すはずのものであり、欧米では十九世紀には既に提案されていた署名が無い作品の鑑定方法論が、日本ではなぜか、学問的に未発達・未熟であったと云うことに起因するのでしょう。
 さらにギャップの一因には使用する資料の質が影響すると考えられます。以前、テクスト・テキスト論で提議しましたが、『万葉集』とは何かと云う時、ある人はテクストを使用し、ある人はテキストを使用します。当然、使う資料や基準が違えば、仮定からの帰結は違って来ます。
 そこで本来なら人麻呂の身分検討のベースとなるべき集歌135の長歌の「大夫跡 念有吾毛(今は大夫に等しい)」の句を、色々な書籍から比べてみました。なお、ここでの比較紹介は、書籍に載せる文字の大きさ、その記事の掲載する位置などから、その扱いや編纂時の態度を個人的に判断したものです。

日本古典文学全集 小学館
ますらをと 思える我も ますらを;人並すぐれて強い男子の意。しばしば自虐的表現

新日本古典文学大系 岩波書店
ますらをと 思える我も ますらを;立派な男子
大夫跡 念有吾毛

新潮日本古典集成 新潮社
ますらをと 思える我れも ますらを;ひとかどの男子

伊藤博 萬葉集釋注 集英社文庫
ますらをと 思える我れも ますらを;ひとかどの男子

中西進 万葉集 全訳注原文付 講談社文庫
大夫と 思へるわれも 大夫;勇敢な男子のこと、後に一般的にすぐれた男子
大夫跡 念有吾毛

 『万葉集』の評釈では権威のあるもの、有名なものを紹介しましたが、これらの共通する点として「大夫」の原文表記の言葉に対してそれが身分を表す言葉であるとは扱っていません。時にそれは、ある種、枕詞的な扱いなのかもしれません。
 こうした時、『万葉集』には「ますらを」と発音する言葉が「大夫」の表記以外にもあります。それが「武士(集歌443など)」や「健男(集歌2354など)」と表記されるものです。言葉の意味では「勇敢な男子のこと」ですと「大夫」よりも「健男」の方が、また、「人並すぐれて強い男子の意」では「武士」の方が相応しいのではないでしょうか。しかしながら、貴族階級と指導者とを同時に意味する「大夫」の表記に対する意味合いとしては、どうでしょうか。
 先の人麻呂の身分の推定の根拠に戻りますが、結局、使われるテクスト・テキストに問題があるのではないでしょうか。万葉歌の紹介で「大夫」を「大夫」と表記するものが一つ、「大夫」と「ますらを」の両表記が一つだけですから、それ以外では解釈に於いては「大夫」、「武士」、「健男」との間には区別は無いのではないでしょうか。その時、『万葉集』の歌を解釈した人には「ますらを」と発音する言葉の漢字表記には各種、別表記があると云う事実に興味が無かったと想像されますし、平安末期以降での伝統で付けられた訓み方だけに興味があったと思われます。ここにテクストとテキストの差が表れて来るのでしょう。
 もし、貴方が律令体制の研究をされている人に、ある男の情報として「朝臣」、「中上り」、「石見」、「大夫」のキーワードを与えて身分と官職を想定して下さいと依頼すれば、およそ、「男は五位格の石見国守であり、倭の古豪氏族に属する」と答えると思います。そうした時、柿本人麻呂は、身分、職業、その他、一切が不明な人物とは云えなくなってきます。そして、困ったことにこのキーワードは全てテキストとしての『万葉集』に柿本人麻呂に関わるものとして載るものですので、『万葉集』をテキストとして使う場合、柿本人麻呂の職業と身分は確定することになります。一方、テクストとして訓読み万葉集を万葉集の研究に使う場合は、現況が示す状態となります。

 『万葉集』の時代、歌を詠う人々はその身分や立場に合わせて「大夫」、「武士」、「健男」の言葉を選定したとしますと、逆にそこに生活や社会があります。当然、『古今和歌集』や『新古今和歌集』の時代、和歌を詠う者は殿上人か、特別に許された者だけが「歌会」と云う場に登り、歌を詠うことを許されます。地下(じげ)では個人的に歌を詠ってとしても、社会的には存在しません。それが、『万葉集』以外の社会です。そこには暗黙の身分の制限があり、歌の対象となる人物の身分を歌に表す必要はありません。ところが、『万葉集』の時代は違います。上は天皇から、下は庶民までに渡っており、時にその身分を歌に表す必要がありますし、「大夫」は官職での身分であって生来与えられた身分ではありません。良民に所属する人ならば能力さえあれば獲得できる官職階級です。平安時代とは違います。この違いを鑑賞の前提にする必要があります。当然、「大夫」、「武士」、「健男」の言葉に込められた職分や階級、所属する氏族、身分や年齢などは違います。これらの言葉は、発音は同じですが表記が違うように意味合いは同じではありません。それが『万葉集』の歌の特徴です。
 『万葉集』、『古今和歌集』や『新古今和歌集』では、それぞれテキスト原文での歌の表記方法は違います。一方、今日のアカデミーで使うテクストにおいては、それぞれは統一された「漢字ひらかな交じり」の文体で歌を紹介し、それを研究・鑑賞のベースとします。
 以前に紹介しましたが「吾妹子」と「吾妹兒」とにおいて意味するものが違うのですと、柿本人麻呂の家族構成を推定することが可能です。しかし、もしテクストとしてすべて統一して「わぎもこ」と解釈するのですと、『万葉集』はなにも語りません。御存知のように、「言」や「事」は「こと」に統一し、「吾妹子」や「吾妹兒」は「わぎもこ」に統一して解釈します。それが近代文学での「訓読み万葉集」の成果です。そして、柿本人麻呂は永遠の謎の人物となります。
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