竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉集 類型歌を楽しむ、簾を揺らす風

2011年02月28日 | 万葉集 雑記
万葉集 類型歌を楽しむ、簾を揺らす風

 少し気になる類型歌を伴う旋頭歌があります。それが、次の集歌2364の旋頭歌です。この旋頭歌は万葉集に先行する最古の歌集との称される古歌集に載る旋頭歌ですので、万葉時代でも藤原京時代頃の初期に創作されたか、採歌されたものです。

集歌2364 玉垂 小簾之寸鶏吉仁 入通来根 足乳根之 母我問者 風跡将申
訓読 玉垂(たまたれ)の小簾(をす)の隙(すけき)に入り通(かよ)ひ来(こ)ね たらちねの母が問(と)はさば風と申(まを)さむ
私訳 美しく垂らすかわいい簾の隙間から入って私の許に通って来てください。乳を与えて育てくれた実母が簾の揺れ動きを問うたら、風と答えましょう。

 この恋人の訪れを部屋に垂れ下げた簾の揺れ動きと風で表現する姿は、万葉集でも特異な表現です。そのため、四千五百余首の万葉集の歌々の中でも、類型歌は次に示す数首の歌しかありません。
 その次に紹介する歌は、歌番号の順ではなく、恣意的に女性の心の動きを想像して順を入れ替えています。集歌2364の歌の情景を踏まえますと、このような鑑賞も可能と思います。

集歌2556 玉垂之 小簀之垂簾乎 徃褐 寐者不眠友 君者通速為
訓読 玉垂の小簾(をす)の垂簾(たれす)を行き褐(かち)む寝(い)は寝(な)さずとも君は通はせ
私訳 美しく垂らすかわいい簾をだんだん暗くしましょう。私を抱くために床で安眠することが出来なくても、貴方は私の許に通って来てください。

集歌1073 玉垂之 小簾之間通 獨居而 見驗無 暮月夜鴨
訓読 玉垂(たまたれ)の小簾(をす)の間(ま)通(とひ)しひとり居(ゐ)て見る験(しるし)なき暮(ゆふ)月夜(つくよ)かも
私訳 美しく垂らす、かわいい簾の隙間を通して独りで部屋から見る、待つ身に甲斐がない煌々と道辺を照らす満月の夕月夜です。

集歌2678 級子八師 不吹風故 玉匣 開而左宿之 吾其悔寸
訓読 愛(は)しきやし吹かぬ風ゆゑ玉(たま)櫛笥(くしげ)開けてさ寝(ね)にし吾(われ)ぞ悔(くや)しき
私訳 ああ、いとしいことに、簾を動かすはずなのに吹かない風のせいで、美しい櫛笥を開けるように、貴方を待ち続けて夜明けになって寝た私の今の身が悔しい。

 これら三首の歌は女性が詠った歌の内容ですが、集歌2364の歌の情景を踏まえて鑑賞しますと、旋頭歌で示す歌の世界を男性が女性の立場に仮託して三首の歌で歌物語を語ったような感覚がします。
 ここで、集歌2678の歌の「玉匣 開而左宿之」は、集歌93の歌の情景を踏まえた歌として鑑賞しています。そのため、普段の万葉集とは「開ける」対象が違います。

内大臣藤原卿娉鏡王女時、鏡王女贈内大臣謌一首
標訓 内大臣藤原卿の鏡王女を娉(よば)ひし時に、鏡王女の内大臣に贈れる歌一首
集歌93 玉匣 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜裳
訓読 玉(たま)匣(くしげ)覆ふを安(やす)み開けて行(い)なば君が名はあれど吾(わ)が名し惜しも
私訳 美しい玉のような櫛を寝るときに納める函を覆うように私の心を硬くしていましたが、覆いを取るように貴方に気を許してこの身を開き、その朝が明け開いてから貴方が帰って行くと、貴方の評判は良いかもしれませんが、私は貴方との二人の仲の評判が立つのが嫌です。

 さて、「簾」と「風」の言葉の組み合わせから、万葉集に詳しい御方は当然に次の歌が紹介されていないと指摘されるでしょう。

額田王思近江天皇作謌一首
標訓 額田王の近江天皇を思(しの)ひて作れる謌一首
集歌1606 君待跡 吾戀居者 我屋戸乃 簾令動 秋之風吹
訓読 君待つと吾が恋ひをれば我が屋戸(やと)の簾(すだれ)動かし秋の風吹く
私訳 あの人の訪れを私が恋しく想って待っていると、あの人の訪れのように私の屋敷の簾を揺らして秋の風が吹きました。

鏡王女作謌一首
標訓 鏡(かがみの)王女(おほきみ)の作れる謌一首
集歌1607 風乎谷 戀者乏 風乎谷 将来常思待者 何如将嘆
訓読 風をだに恋ふるは乏(とぼ)し風をだに来(こ)むとし待たば何か嘆(なげ)かむ
私訳 風が簾を動かすだけでも想い人の訪れと、その想い人を恋しく想うことは、もう、私にはありません。あの人の香りだけでも思い出すような風が吹いてこないかなと思えると、どうして、今の自分を嘆きましょうか。

 ここで、額田王と鏡王女とは天智天皇の近江朝時代の人のように思われていますが、実は天武天皇・持統天皇の時代の人でもあります。従いまして、最初に紹介した集歌2364の旋頭歌と額田王が詠う集歌1606の歌のどちらが先に詠われたかを決めるのは非常に難しいところがあります。ただ、旋頭歌が集団で詠う歌であるとするならば、額田王が詠う集歌1606の歌からの派生歌とするのはどうでしょうか。
 個人的な思い込みで、先の集歌2364の旋頭歌は柿本人麻呂の匂いがするのですが、その旋頭歌を下に集歌1606の歌が詠われたとしますと、標の「額田王思近江天皇作謌一首」の内容が非常に怪しくなります。ちょうど、信長・秀吉・家康の郭公鳥の歌の例です。また、男を誘う女心としては集歌2364の旋頭歌は秀逸ですので、藤原京時代に非常に評判になった歌ではないでしょうか。妄想ですが、最初に集歌2364の旋頭歌が詠われ、つぎにその評判から額田王が詠う集歌1606の歌が詠われたような気がします。そして、その集歌2364の旋頭歌、集歌1606の歌と集歌1607の歌との情景や集歌93の歌の世界を踏まえて集歌2678の歌が生まれたのではないでしょうか。
 個人的興味で、専門家によってこの先後や旋頭歌と人麻呂の関係の可能性を明らかにしていただければ幸いです。
なお、例によって、紹介した歌は西本願寺本の表記に従っています。そのため、集歌2556の歌の「徃褐」の訓みに表れるように原文表記や訓読みに普段の「訓読み万葉集」と相違するものもありますが、それは採用する原文表記の違いと素人の無知に由来します。
 また、勉学に勤しむ学生の御方にお願いですが、ここでは原文、訓読み、それに現代語訳や解説があり、それなりの体裁はしていますが、正統な学問からすると紹介するものは全くの「与太話」であることを、ご了解ください。つまり、コピペには全く向きません。あくまでも、大人の楽しみでの与太話であって、学問ではないことを承知願います。

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本歌取か、独創か 筑波嶺の雪

2011年02月26日 | 万葉集 雑記
本歌取か、独創か 筑波嶺の雪

 最初に紹介する歌は、万葉集ファンと新古今和歌集以降の歌論ファンとの間で、その解釈が大きく分かれる歌です。教科書的には新古今和歌集の歌を鑑賞するような立場で紹介する歌を鑑賞しますから、初夏の香具山の風情を見ます。一方、近年の万葉集ファンは、歌に新春の宴での打ち解けた諧謔の風流を見ます。

天皇御製謌
標訓 天皇の御(かた)りて製(つく)らせしし謌
集歌28 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
訓読 春過ぎて夏来(き)るらし白栲の衣(ころも)乾(ほ)したり天の香来山(かくやま)

 万葉集ファンの立場でこの有名な持統天皇の詠う集歌28の歌を鑑賞するとき、この歌を踏まえて詠われた東歌があることを思い浮かべます。それが次の集歌3351の歌です。

集歌3351 筑波祢尓 由伎可母布良留 伊奈乎可母 加奈思吉兒呂我 尓努保佐流可母
訓読 筑波嶺(つくばね)に雪かも降らる否(いな)をかも愛(かな)しき児ろが布(にの)乾(ほ)さるかも
私訳 筑波の嶺に雪が降ったのでしょうか。違うのでしょうか。愛しい貴女が布を乾かしているのでしょうか。

 さて、この集歌3351の常陸国の東歌は、万葉集の専門家の中では集歌28の御製歌を踏まえると共に、催馬楽(さいばら)や風俗歌の感があるとして有名です。例えば、新日本古典文学大系では『「雪景色を歌ったものではなく、筑波山麓の聚落の生業として、白布を雪とまがふまで干し並べる、殷賑のさまを歌ったものであることは、言ふまでもない」(「私注」)。「甲斐が嶺に、白きは雪かや、いなをさの、甲斐の褻(け)衣や、晒す手作りや、晒す手作り」(風俗歌「甲斐が嶺」)』と解説されています。また、万葉集全訳注では『「筑波山の白さに興じた民衆歌で、やがて官人にもてはやされた、「催馬楽」(さいばら)のごとき歌。巻頭五首中これだけに訛りがある。「甲斐が嶺に、白きは雪かや、いなをさの、甲斐の褻(け)衣や、晒す手作りや、晒す手作り」(風俗歌)』と解説されています。つまり、集歌3351の歌は、山麓に干す日曝しの布をあたかも雪のように見立てた歌として解釈することになっています。奈良時代初期の段階で「歌を詠う時に、見立ての技法が東国にもあった」と、歌の専門家は認めています。
 ここで、万葉集全訳注の指摘に従い巻十四の巻頭五首を見てみますと、

東歌
集歌3348 奈都素妣久 宇奈加美我多能 於伎都渚尓 布袮波等抒米牟 佐欲布氣尓家里
訓読 夏麻(なつそ)引く海上潟(うなかみかた)の沖つ渚(す)に船は留めむさ夜更けにけり
私訳 夏の麻を引き抜き績(う)む、その海上潟の沖の洲に船は留めよう。もう夜も更けました。
右一首、上総國歌

集歌3349 可豆思加乃 麻萬能宇良末乎 許具布祢能 布奈妣等佐和久 奈美多都良思母
訓読 葛飾(かづしか)の真間(まま)の浦廻(うらま)を漕ぐ船の船人(ふなひと)騒(さわ)く波立つらしも
私訳 葛飾の真間の入り江を操り行く船の船人が騒いでいる。浪が立って来たらしい。
右一首、下総國歌

集歌3350 筑波祢乃 尓比具波麻欲能 伎奴波安礼杼 伎美我美家思志 安夜尓伎保思母
訓読 筑波嶺(つくばね)の新(にひ)桑繭(くはまよ)の衣(きぬ)はあれど君が御衣(みけし)あやに着(き)欲(ほ)しも
私訳 筑波山の新しい桑の葉で飼った繭で作った絹の衣はありますが、愛しい人と夜床で交換する、その貴方の御衣を無性にこの身に着けたいと願います。
或本歌曰、多良知祢能 又云 安麻多伎保思母
注訓 或る本の歌に曰はく、たらちねの、又は云はく、あまた着(き)欲(ほ)しも

集歌3351 筑波祢尓 由伎可母布良留 伊奈乎可母 加奈思吉兒呂我 尓努保佐流可母
訓読 筑波嶺(つくばね)に雪かも降らるいなをかも愛(かな)しき子ろが布(にの)乾(ほ)さるかも
私訳 筑波の嶺に雪が降ったのでしょうか。違うのでしょうか。愛しい貴女が布を乾かしているのでしょうか。
右二首、常陸國歌

集歌3352 信濃奈流 須我能安良能尓 保登等藝須 奈久許恵伎氣波 登伎須疑尓家里
訓読 信濃(しなの)なる須我(すが)の荒野(あらの)に霍公鳥(ほととぎす)鳴く声聞けは時過ぎにけり
私訳 信濃の国にある須賀の荒野で過去を乞うホトトギスの鳴く声を聞くと、天武天皇が王都の地を求めたと云う過去の栄華は過ぎてしまったことです。
右一首、信濃國歌

 ここで、万葉集全訳注の指摘を尊重して集歌3351の歌を除く集歌3348の歌から集歌3352の歌までの四首で、万葉集を遊んでみます。その遊びの様子を次に紹介します。

遊びの鑑賞 その一
 集歌3348の歌は、東国を旅する官人が経験した情景を詠ったものと思いますが、その歌は集歌1176の歌と集歌1229の歌を重ね合わせて作った、記憶力の歌の感があります。この作歌は、後年に本歌取りなどと紹介される技巧ですが、歌自身は歌人でない秀才の歌です。

集歌1176 夏麻引 海上滷乃 奥津洲尓 鳥簀竹跡 君者音文不為
訓読 夏(なつ)麻(そ)引く海上(うなかみ)潟(かた)の沖つ洲(す)に鳥はすだけど君は音(おと)もせず
私訳 夏の麻を引き抜き績(う)む、その海上潟の沖の洲に鳥は集まり騒ぐけども、貴方は音沙汰もない。

集歌1229 吾舟者 明且石之潮尓 榜泊牟 奥方莫放 狭夜深去来
訓読 吾が舟は明且石(あかし)の潮(しほ)に榜(こ)ぎ泊(は)てむ沖へな放(さか)りさ夜(よ)深(ふ)けにけり
私訳 私が乗る舟は、明石の急な潮流に舟を操り行き泊まろう。沖へは出ていくな。夜は更けている。

集歌3348 奈都素妣久 宇奈加美我多能 於伎都渚尓 布袮波等抒米牟 佐欲布氣尓家里
訓読 夏麻(なつそ)引く海上潟(うなかみかた)の沖つ渚(す)に船は留めむさ夜更けにけり

遊びの鑑賞 その二
 集歌3349の歌は、ちょうど、集歌1228の歌が示す地名を集歌433の歌で示す地名に入れ替えただけのような歌です。そこには、歌の感情や技巧よりも、歌い手がどれほどよく古い歌を知っているかを自慢するような感がありますし、聴き手もまた、その知識を要求されるような歌です。

集歌433 勝壮鹿乃 真々乃入江尓 打靡 玉藻苅兼 手兒名志所念
訓読 勝雄鹿(かつしか)の真間(まま)の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手児名(てこな)し念(おも)ほゆ
私訳 勝鹿の真間の入り江で波になびいている美しい藻を刈っただろう、その手兒名のことが偲ばれます。

集歌1228 風早之 三穂乃浦廻乎 榜舟之 船人動 浪立良下
訓読 風早(かざはや)の三穂(みほ)の浦廻(うらみ)を榜(こ)ぐ舟の船人(ふなひと)騒(さわ)く浪立つらしも
私訳 風が速い三穂の入り江を操り行く舟の船人が騒いでいる。波が立って来るようだ。

集歌3349 可豆思加乃 麻萬能宇良末乎 許具布祢能 布奈妣等佐和久 奈美多都良思母
訓読 葛飾(かづしか)の真間(まま)の浦廻(うらま)を漕ぐ船の船人(ふなひと)騒(さわ)く波立つらしも

遊びの鑑賞 その三
 集歌1260の歌は、古歌集に載る歌ですし、集歌1314の歌は藤原京時代の古い歌と思われます。これらは、詠み人知れずですが巻七に載る歌ですので、万葉時代には多くの人に知られた歌だったようです。
 こうした時、集歌3350の歌は集歌1260の歌や集歌1314の歌を踏まえた上で、東国を旅した官人が、筑波の地名と名物を織り込んだように感じてしまいます。

集歌1260 不時 斑衣 服欲香 衣服針原 時二不有鞆
訓読 時ならぬ斑(まだら)の服(ころも)着(き)欲(ほ)しきか衣(きぬ)の榛原(はりはら)時にあらねども
私訳 その季節ではないが神を祝う斑に摺り染めた衣を着たいものです。榛の葉で縫った衣を摺り染める、その榛原は神を祝う時ではありませんが。

集歌1314 橡 解濯衣之 恠 殊欲服 此暮可聞
訓読 橡(つるばみ)の解(と)き濯(あら)ひ衣(きぬ)のあやしくも殊(こと)に着(き)欲(ほ)しきこの暮(ゆふへ)かも
私訳 橡染めの服を解いて洗って、そして縫った貴方の衣が、不思議なことに無性にこの身に着てみたいと思う、この夕暮れです。

集歌3350 筑波祢乃 尓比具波麻欲能 伎奴波安礼杼 伎美我美家思志 安夜尓伎保思母
訓読 筑波嶺(つくばね)の新(にひ)桑繭(くはまよ)の衣(きぬ)はあれど君が御衣(みけし)あやに着(き)欲(ほ)しも


遊びの鑑賞 その四
 集歌3352の歌は、ちょうど、集歌227の人麻呂歌集の歌と集歌1475の大伴坂上郎女の詠う歌を重ね合わせたような歌です。天平年間に集歌3352の歌が、東国に旅した官僚により詠われたのですと、時代での和歌のテキストを忠実になぞったような感がします。

集歌227 天離 夷之荒野尓 君乎置而 念乍有者 生刀毛無
訓読 天離る夷の荒野に君を置きて思ひつつあれば生けりともなし
私訳 大和から遠く離れた荒びた田舎に貴方が行ってしまっていると思うと、私は恋しくて、そして、貴方の身が心配で生きている気持ちがしません。

集歌1475 何奇毛 幾許戀流 霍公鳥 鳴音聞者 戀許曽益礼
訓読 何(なに)奇(く)しもここだく恋ふる霍公鳥鳴く声聞けば恋こそまされ
私訳 どのような理由でこのようにひたすら恋慕うのでしょう。「カタコヒ」と鳴くホトトギスの啼く声を聞けば、慕う思いがさらに募ってくる。

集歌3352 信濃奈流 須我能安良能尓 保登等藝須 奈久許恵伎氣波 登伎須疑尓家里
訓読 信濃(しなの)なる須我(すが)の荒野(あらの)に霍公鳥(ほととぎす)鳴く声聞けは時過ぎにけり

 このように万葉集で巻十四において東歌と分類される巻頭五首に対して、集歌3351の歌を除いて集歌3348の歌から集歌3352の歌までの四首で遊んでみますと、集歌3351の歌と集歌28の御製との関連を認めない専門家の鑑賞や解説に逆らって、巻十四の巻頭歌の比較と編纂から集歌3351の歌もまた、同じではないかと邪推してしまいます。この邪推を下に集歌3351の歌の鑑賞から集歌28の御製を訓み返してみますと、つぎのような鑑賞になります。こうした時、従来の鑑賞のように神聖で立ち入りが制限される天の香具山で、下女が洗濯物を干さなくても良いことになります。

集歌28 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
訓読 春過ぎて夏来(き)るらし白栲の衣(ころも)乾(ほ)したり天の香来山(かくやま)
私訳 まるで寒さ厳しい初春が終わって夏がやってきたようです。白栲の衣を干しているような白一面の天の香具山よ。

 素人の酔論におつきあい頂き有難うございます。いかにももっともらしく見せていますが、内容は素人の素人たる由縁のお粗末です。
 参照事項ですが、補訂版万葉集本文編(塙書房)では「目録は、奈良時代末期を下らる頃に成ったと考えられるが、諸本によって出入り甚しい箇所があり、これに校合を加えて本書に収めても、そのままではほとんど利用価値がない」とされているように、万葉集においては歌を載せる歌巻本とその巻本の目録とは、その成立年代が違うために示す内容が一致しません。歌巻本と目録との関係を研究するのも、一つの有名な万葉学の分野です。
 普段の解説では巻十四は東歌の巻として有名ですが、その歌巻本で東歌とされるのは中央官僚が東国を旅して詠ったと思われる巻頭五首のみです。巻十四に載るそれ以外の歌は、国別の相聞、譬喩歌、雑歌と国未詳の相聞、防人歌、譬喩歌、挽歌の区分になっています。つまりに万葉集における東歌とは、中央の人が東国をテーマに歌を詠ったとの意味合いで、東国の人が鄙言葉で詠った歌の意味合いではありません。従いまして「東歌」の本来の意味合いにおいて、奈良の京の大宮人にとっては、集歌28の歌も集歌3351の歌も知るべき歌となります。
 また、和歌での本歌取りの技法は新古今和歌集時代に盛んに行われた技法とされますが、実際は平城京時代中期には極一般的な技法であったことは、ここで示した通りです。この本歌取りの技法を葛井連広成たちは「古曲(ふるきおもしろみ)」と称したと思います。
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万葉集 古曲を鑑賞する 後編

2011年02月25日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集
万葉集 古曲を鑑賞する 後編



員外思故郷謌兩首
標訓 員外(いんがい)、故郷を思(しの)へる歌両首
集歌847 和我佐可理 伊多久々多知奴 久毛尓得夫 久須利波武等母 麻多遠知米也母
訓読 吾(わ)が盛(さか)りいたく降(くた)ちぬ雲に飛ぶ薬食(は)むともまた変若(をち)めやも

私訳 私の人生の盛りは相当降り過ぎたようだ、雲の中を飛ぶ仙人の薬を飲んだとしても若返ることがあるのだろうか。


集歌848 久毛尓得夫 久須利波牟用波 美也古弥婆 伊夜之吉阿何微 麻多越知奴倍之
訓読 雲に飛ぶ薬食(は)むよは都見ば卑(いや)しき吾(あ)が身また変若(をち)ぬべし

私訳 雲の中を飛ぶような仙人になる薬を飲むよりは、奈良の都を見れば卑しい普段の人である私はまた若返るでしょう。


後追和梅謌四首
標訓 後に追ひて梅の歌に和(こた)へたる四首
集歌849 能許利多留 由棄仁末自例留 宇梅能半奈 半也久奈知利曽 由吉波氣奴等勿
訓読 残りたる雪に交(まじ)れる梅の花早くな散りそ雪は消(け)ぬとも

私訳 枝先に消え残る雪に交じって咲く梅の花よ、早く散らないでくれ、雪は解け消えても


集歌850 由吉能伊呂遠 有婆比弖佐家流 有米能波奈 伊麻左加利奈利 弥牟必登母我聞
訓読 雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛(さか)りなり見む人もがも

私訳 雪の白い色を奪ったように咲いている梅の花は、今が盛りです。愛でる人がいてほしい。


集歌851 和我夜度尓 左加里尓散家留 宇梅能波奈 知流倍久奈里奴 美牟必登聞我母
訓読 吾(わ)が屋戸(やと)に盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも

私訳 私の家に盛りと咲いている梅の花は、その花が散る時期になったようだ。今、その花を見る人がいてほしい。


集歌852 烏梅能波奈 伊米尓加多良久 美也備多流 波奈等阿例母布 左氣尓于可倍許曽
訓読 梅の花夢に語らく風流(みや)びたる花と吾(あ)れ思(も)ふ酒に浮かべこそ

私訳 梅の花が夢に語るには「雅な花だと私は想う」、その雅な梅の花である私を酒に浮かべましょう。


 雑談として、普段の解説で集歌1011の歌が「ちりぬともよし」の語感から大伴坂上郎女の詠う集歌1656の歌と関係するとするならば、その集歌1656の歌は、大伴旅人が詠う集歌851と集歌852の歌に深く関係すると考えることも可能です。
 ただし、集歌1656の歌が詠われたのは天平九年(737)五月十九日の聖武天皇の飲酒の禁令以降の天平十年春のことになりますので、大伴坂上郎女は大伴旅人の歌の情景を引用しても、葛井広成の詠う集歌1011の歌とは関係がなくなります。


大伴坂上郎女謌一首
標訓 大伴坂上郎女の謌一首
集歌1656 酒杯尓 梅花浮 念共 飲而後者 落去登母与之
訓読 酒杯(さかづき)に梅の花浮かべ思ふどち飲みての後(のち)は落(ち)りぬともよし

私訳 酒盃に梅の花びらを浮かべ、風流を共にするものが酒を飲んだ後は、花が散ってしまっても良い。



和謌一首
標訓 和(こた)へたる謌一首
集歌1657 官尓毛 縦賜有 今夜耳 将欲酒可毛 散許須奈由米
訓読 官(つかさ)にも許(ゆる)したまへり今夜(こよひ)のみ飲まむ酒(さけ)かも散りこすなゆめ

私訳 天皇は酒は禁制とおっしゃっても、太政官はお許しくださっている。今夜だけ特別に飲む酒なのでしょうか。梅の花よ、決して散ってくれるな。

右、酒者、宮禁制称京中閭里不得集宴。但親々一二飲樂聴許者。縁此和人作此發句焉。
注訓 右は、酒は、宮(みかど)の禁制(きんせい)して称(い)はく「京(みやこ)の中(うち)の閭里(さと)に集宴(うたげ)することを得ざれ。ただ親々一二(はらからひとりふたり)の飲樂(うたげ)を許すは聴く」といへり。此の縁(えにし)に和(こた)ふる人、此の發句(はつく)を作れり。


 今回もとぼけた酔論となりました。最後まで、おつきあい有難うございます。
 ただし、万葉集の過半を占める詠み人知れずの歌の採歌の状況を推測する時、朝廷が関与したと思われる歌舞所の存在と活動は大きいのではないでしょうか。そして、天平年間全般に渡って、その歌舞所の運営に深く関与した葛井連広成の存在は、注目すべき事項と思います。
 また、原万葉集が孝謙天皇に奉呈された和歌集であろうと思うとき、天平勝宝元年に葛井広成が中務少輔に就任したのは偶然でしょうか。単に、詔勅等の文書作成や綬位・綬官の書類整備が主目的だったのでしょうか。場合により、彼が万葉集成立のミッシングリングの一つかもしれません。

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万葉集 古曲を鑑賞する 前編

2011年02月25日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集
万葉集 古曲を鑑賞する

 初めに、この「古曲を鑑賞する」は、葛井連広成に深く関係します。そこで、この葛井連広成を最初に紹介します。
 まず、葛井連一族は、仁徳天皇の時代に渡来した辰孫王の子孫で、葛井・船・津連は同祖の同族関係にあり、この葛井連は養老四年(720)に白猪史を改めて葛井連の姓を賜っています。葛井広成自身としては、養老三年(719)の遣新羅使への任官で大外記従六位下白猪史広成として正史に登場するのが最初です。その後、葛井連への改姓を経て天平三年(730)に外従五位下に昇位します。天平十五年(748)には、新羅使の饗応の任を行った後に備後守に任官し、従五位下に改まっています。この備後守を終えた天平二十年二月(748)に従五位上へ昇位し、直後に葛井広成の自宅(又は行基伝承から、葛井寺落慶の時の控所?)に聖武天皇の御出ましがあり、この功績で室の従五位下の位を持つ県犬養宿禰八重と共に正五位上の位を頂いています。その後の孝謙天皇即位の年の天平勝宝元年(749)の中務少輔への任官が正史に載る最後の記録です。なお、この高齢で正五位上の位での中務少輔は、実際の実務を行うことより公式の相談役のような任官です。また、文化人としての葛井広成は、万葉集に短歌三首、懐風藻に漢詩二首が伝わっています。一部では、これらの任官と職歴や懐風藻に載る順列から葛井広成を天平勝宝三年成立の懐風藻の編者と推定する人もいます。
 一方、神護慶雲四年(770)三月の称徳天皇(孝謙天皇重祚)の由義宮への御幸の時に創られたと思われる歌を、葛井・船・津・文・武生・蔵六氏の男女合わせて二百三十人が次に示す「古詩」の歌として共に歌垣を演じ奉じたとの記録があります。ここから、葛井連一族は天武天皇以来の伝統である歌舞を伝承する地位にあったと推定されます。参考にその時の古詩の歌を紹介します。歌は旋頭歌ではなく、短歌です。

歌垣の歌二曲
乎止売良爾 乎止古多智蘇比 布美奈良須 爾詩乃美夜古波 与呂豆与乃美夜
をとめらに をとこたちそひ ふみならす にしのみやこは よろづよのみや 
娘女に 壮士立ち添ひ 踏み鳴らす 西の京は 万代の宮

布知毛世毛 伎与久佐夜気志 波可多我波 知止世乎麻知弖 須売流可波可母
ふちもせも きよくさやけし はかたがは ちとせをまちて すめるかはかも
淵も瀬も 清くさやけし 博多川 千歳を待ちて 澄める川かも

注意 西の都は神護慶雲四年の由義宮遷都を示す。また、博多川は現在の八尾市の長瀬川のこと。


 前段が長くなりました。さて、万葉集には「古曲」と称する歌があります。それが、長い漢文の序を持つ集歌1011と集歌1012の歌です。ここでは、この古曲を鑑賞します。なお、集歌1011の歌の序文の「理宜共盡古情」の詞の解釈によっては、序の意図は大きく違います。ここでは普段の解説文ではなく、私訳の解釈で鑑賞します。そこでは「古曲」を「ふるきおもしろみ」と訓んでいます。
 さて、この古曲の鑑賞では、例によって紹介する歌は西本願寺本の表記に従っています。そのため、原文表記や訓読みに普段の「訓読み万葉集」と相違するものもありますが、それは採用する原文表記の違いと素人の無知に由来します。また、勉学に勤しむ学生の御方にお願いですが、ここでは原文、訓読み、それに現代語訳や解説があり、それなりの体裁はしていますが、正統な学問からすると紹介するものは全くの「与太話」であることを、ご了解ください。つまり、コピペには全く向きません。あくまでも、大人の楽しみでの与太話であって、学問ではないことを承知願います。


冬十二月十二日、歌舞所之諸王臣子等、集葛井連廣成家宴歌二首
比来古舞盛興、古歳漸晩。理宜共盡古情、同唱此謌。故、擬此趣獻古曲二節。風流意氣之士、儻有此集之中、争發念、心々和古體。

標訓 冬十二月十二日に、歌舞所(うたまひところ)の諸(もろもろ)の王(おほきみ)、臣子(おみこの)等(たち)の、葛井連廣成の家に集(つど)ひて宴(うたげ)せる歌二首
比来(このごろ)、古舞(こぶ)盛(さかり)に興(おこ)りて、古歳(こさい)漸(やくやく)に晩(く)れぬ。理(ことはり)と宜(ぎ)を共に古情(こじょう)に盡(つく)して、同(とも)に此の謌を唱(うた)ふべし。故(かれ)、此の趣(おもむき)に擬(なそら)ひて古曲(こきょく)二節を獻(たてまつ)る。風流意氣の士の、儻(も)し、此の集(つどひ)の中にあらば、争ひて念(おもひ)を發(おこ)し、心々(こころこころ)に古體(こたい)に和(こた)へよ。

私訳 天平八年冬十二月十二日に、歌舞所に関係する多くの王族や臣下の者たちが、葛井連廣成の家に集まって宴をしたときの歌二首
近頃、古い歌舞が盛んになって、今年もようやく終ろうとしている。和歌の理想と道理を共にいにしえの歌に趣の頂点をもとめて、一同でこの歌を唱おう。そこで、この趣旨にそって古曲(本歌取りの意味か?)を二節、献上する。雅びにして意気のある者が、もし、この集いの中にいるならば、争って詩歌風流の想いを起こし、それぞれの感情で古体の歌に答えてほしい。


集歌1011 我屋戸之 梅咲有跡 告遣者 来云似有 散去十方吉
訓読 我が屋戸(やど)の梅咲きたりと告げ遣(や)らば来(こ)と云ふ似たり散りぬともよし

私訳 私の家に梅の花が咲いたと告げて使いを遣ったならば、私の家に御出で下さいと云うことと同じです。花が散ってしまっていても良い。


集歌1012 春去者 乎呼理尓乎呼里 鴬 吾嶋曽 不息通為
訓読 春さればををりにををり鴬よ吾(われ)の山斎(しま)ぞ息(やま)ず通はせ

私訳 春がやって来ると、枝が撓みに撓むほどに梅に花が咲く。鶯よ、それは、私の家の庭です。欠かさずにやって来てください。

 標の漢文の示すところは、平安時代の大歌所に相当する奈良時代に宮中歌舞の興隆を目的にした歌舞所の関係者が著す歌論です。著者は、古体に和歌の理(理想)と宜(道理)を求め、その心境で古曲二節をもって古体に答えたとしています。この漢文の序が示す「和歌論」によって、古くから集歌1011と集歌1012の歌をいかように鑑賞するかが話題になっています。
 普段の解説では序の「同唱此謌」を「同唱古謌」と換字をおこない、「同(とも)に古謌を唱(うた)ふべし」と訓みます。この訓に対して、古今和歌集の「月夜よし夜よしと人に告げ遣らば来てふに似たり待たずしもあらず」の歌を紹介して、直接の歌意が類似しているので、これが人々の心を示す「古歌」の一端であろうかと推測します。また、歌体から類推して、集歌1011の歌の結句の「散りぬともよし」の詞から笠沙弥の詠う集歌821の歌の「青柳(あほやぎ)梅との花を折りかざし飲みての後(のち)は散りぬともよし」や大伴坂上郎女の詠う集歌1656の歌の「酒杯(さかづき)に梅の花浮かべ思ふどち飲みての後(のち)は落(ち)りぬともよし」を、「古歌」の姿を示している歌なのだろうかと推測します。
 本来、序の漢文は「同唱此謌」であって「同唱古謌」でありませんが、ここは素人考えで、序の私訳に示したように「古曲」とは本歌取りの技法を使った歌ではないかと考えています。その本歌取りの技法を行うには、当然ですが、古き歌を知り、その歌の心を理解する必要があります。その姿が「理(ことはり)と宜(ぎ)を共に古情(こじょう)に盡(つく)して、同(とも)に此の謌を唱(うた)ふべし」ではないでしょうか。当時の和歌の風潮を示すものとして万葉集の巻十六には長忌寸意吉麻呂が詠う即興歌や忌部首や境部王の詠う数種類の品物の名を競って織り込む歌などが載っています。世の中のこのような浮ついた風潮に対して、先代の歌の歴史に立ち戻り花鳥風月と心情を顕わす和歌を詠おうとの提議ではないでしょうか。その手段として、本歌取りの技法を示す「古曲」の詞と思っています。
 この似た風景としては、天平二十年の春三月二十三日に田邊史福麻呂が越中国の大伴家持の許を訪ねた時の歓迎の宴での歌の序に「爰(ここ)に新しき謌を作り、并せて便(すなは)ち古き詠(うた)を誦(よ)みて、各(おのおの)の心緒(おもひ)を述べたり(集歌4032の歌の序)」とあります。この葛井広成と田辺福麻呂との間には十二年の歳月がありますが、その意図するところは同じではないでしょうか。およそ、天平八年に葛井広成が唱えた「古曲」の技法が、天平二十年には一つの和歌作歌の基本となっていたと思われます。
 ここで、先の歌垣の歌に戻りますと、神護慶雲四年(770)三月に創られたと思われる歌を、続日本紀のその歌垣奉呈の記事では「古詩」と紹介しています。場合により、和語で記された記録では「古曲」の表記で在ったものを漢文で表す時に楽音を伴わないために「古詩」と曲訳したのかもしれません。
さて、肝心のこの漢文の序を著したと思われる葛井広成の歌を万葉集に求めると、先の二首以外には次の歌だけが求められます。歌論に先立つ六年前のことです。


天平二年庚午勅遣推駿馬使大伴道足宿祢時謌一首
標訓 天平二年庚午、勅(みことのり)して推駿馬使大伴道足宿祢を遣(つかは)しし時の謌一首
集歌962 奥山之 磐尓蘿生 恐毛 問賜鴨 念不堪國
訓読 奥山(おくやま)の磐(いは)に苔(こけ)生(む)し恐(かしこ)くも問ひ賜ふかも念(おも)ひ堪(あ)へなくに

私訳 奥山の岩に苔むすように神々しく、恐れ多くもお尋ね下さいますね。どのように歌を詠うか思いも付きません。

右、勅使大伴道足宿祢饗于帥家。此日、會集衆諸、相誘驛使葛井連廣成言須作歌詞。登時廣成應聲、即吟此歌。
注訓 右は、勅使(みことのりのつかひ)大伴道足宿祢を帥(そち)の家に饗(あへ)す。此の日に、會集(つど)ひし衆諸(もろもろ)の、相(あい)誘(さそ)ひて驛使(はゆまつかひ)葛井連廣成に「歌詞(うた)を作るべし」と須(もと)めて言へり。登時(すなはち)、廣成の聲に應(こた)へて、即(ただち)に此の歌を吟(うた)へり。

 集歌962の歌の感覚からしますと、葛井広成は漢詩歌人や歌学者ですが、和歌の歌人ではなかったようです。良くて、集歌962の歌は大伴旅人の父親である大伴安麿の詠う集歌299の歌を想像させますが、それまでです。およそ、詠み人知れずの集歌1334の歌は集歌962の歌の異伝に位置するのでしょうが、素人感覚で鑑賞していて、これまた、面白みはありません。


大納言大伴卿謌一首  未詳
標訓 大納言大伴卿の謌一首  未だ詳(つばび)らかならず
集歌299 奥山之 菅葉凌 零雪乃 消者将惜 雨莫零行年
訓読 奥山の菅の葉しのぎ降る雪の消(け)なば惜(を)しけむ雨な降りそね

私訳 奥山の菅の葉を押さえつけるように振る雪が融け消えたら残念です。雨よ、きっと降らないで。


巻七 詠み人知れず
集歌1334 奥山之 於石蘿生 恐常 思情乎 何如裳勢武
訓読 奥山(おくやま)の石(いは)に蘿(こけ)生(む)し恐(かしこ)けど思ふ情(こころ)をいかにかもせむ

私訳 奥山の岩に苔むして神々しくて恐れ多いのだけど、お慕いする気持ちをどの様に顕わしたらよいでしょうか。


 従いまして、万葉集の歌からは葛井広成の作風を探ることは、困難です。「古曲」とは何かを考えるとき、ただ、集歌1011と集歌1012の歌だけを手掛かりに推測するしか出来ないことになります。こうした時、葛井広成が「日本の短歌とはなんぞや」と語るとき、自慢に出来ることがあります。それは、天平二年正月の「梅花の歌三十二首」が詠われた、その直後に筑紫大宰に彼自身が訪れ、大伴旅人・山上憶良や一族の葛井大成と交流し、彼らの大和歌の興隆運動を当事者として肌で知っていることです。大和歌の興隆運動では、大伴旅人たちは中国の落梅の詩篇に対して、大和歌でもって梅の歌を詠おうと呼びかけ、敢えて「一字一音の万葉仮名だけ」で短歌を詠います。葛井広成が先の序を記した天平八年の時点では、その中心人物である大伴旅人や山上憶良は既に他界し、歌論を継ぐ者としては葛井広成が残るばかりだったのではないでしょうか。
 このように妄想するとき、集歌1011と集歌1012の歌は、この「梅花の歌三十二首」のダイジェストのような感がするのは、私だけの気のせいでしょうか。和歌の源流に位置しますので、飽きが来たとお思いでしょうが、再度、紹介します。

梅花謌卅二首并序
標訓 梅花の歌三十二首、并せて序
天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾盖、夕岫結霧、鳥封穀而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是盖天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以濾情。詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。

訓読 天平二年正月十三日に、帥の老の宅に萃(あつ)まりて、宴會を申く。時、初春の令月(れいげつ)にして、氣淑(よ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す。加以(しかのみにあらず)、曙の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて盖(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥は穀(うすもの)に封(こ)められて林に迷ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故鴈歸る。於是、天を盖(きにがさ)とし地を坐とし、膝を促け觴(さかずき)を飛ばす。言を一室の裏(うち)に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然と自ら放(ほしきさま)にし、快然と自ら足る。若し翰苑(かんゑん)に非ずは、何を以ちて情を濾(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古(いにしへ)と今とそれ何そ異ならむ。宜しく園の梅を賦(ふ)して聊(いささ)かに短詠を成すべし。

私訳 天平二年正月十三日に、大宰の帥の旅人の宅に集まって、宴会を開いた。時期は、初春のよき月夜で、空気は澄んで風は和ぎ、梅は美女が鏡の前で白粉で装うように花を開き、梅の香りは身を飾った衣に香を薫ませたような匂いを漂わせている。それだけでなく、曙に染まる嶺に雲が移り行き、松はその枝に羅を掛け、またその枝葉を笠のように傾け、夕べの谷あいには霧が立ち込め、鳥は薄霧に遮られて林の中で迷い鳴く。庭には新蝶が舞ひ、空には故鴈が北に帰る。ここに、天を立派な覆いとし大地を座敷とし、お互いの膝を近づけ酒を酌み交わす。心を通わせて、他人行儀の声を掛け合う言葉を部屋の片隅に忘れ、正しく整えた衿を大自然に向かってくつろげて広げる。淡々と心の趣くままに振る舞い、快くおのおのが満ち足りている。これを書に表すことが出来ないのなら、どのようにこの感情を表すことが出来るだろう。漢詩に落梅の詩篇がある。感情を表すのに漢詩が作られた昔と和歌の今とで何が違うだろう。よろしく庭の梅を詠んで、いささかの大和歌を作ろうではないか。



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万葉集 大伴三中を鑑賞する

2011年02月21日 | 万葉集 雑記
万葉集 大伴三中を鑑賞する

 大伴三中を鑑賞しますが、例によって、紹介する歌は、原則として西本願寺本の原文の表記に従っています。そのため、紹介する原文表記や訓読みに普段の「訓読み万葉集」と相違するものもありますが、それは採用する原文表記の違いと素人の無知に由来します。
 また、勉学に勤しむ学生の御方にお願いですが、ここでは原文、訓読み、それに現代語訳や一部に解説があり、それなりの体裁はしていますが、正統な学問からすると紹介するものは全くの「与太話」であることを、ご了解ください。つまり、コピペには全く向きません。あくまでも、大人の楽しみでの与太話で、学問ではありません。

 今回は、このいつもの決まり文句が重要です。最初に紹介する集歌1016の歌は宴での歌ですが、歌の標に示すように直接には詠み人知れずの歌とするのが相当です。ただ、普段の解説では、呼び名称のような扱いでの記号の感覚で巨勢宿奈麻呂朝臣の歌とするようです。

春二月、諸大夫等集左少辨巨勢宿奈麻呂朝臣家宴謌一首
標訓 (天平九年)春二月に、諸(もろもろ)の大夫(まへつきみ)等(たち)の左少辨巨勢宿奈麻呂朝臣の家に集(つど)ひて宴(うたげ)せる謌一首

集歌1016 海原之 遠渡乎 遊士之 遊乎将見登 莫津左比曽来之
訓読 海原(うなはら)の遠き渡(わたり)を遊士(みやびを)の遊ぶを見むとなづさひぞ来(こ)し

私訳 海原の遠い航海ですが、風流な人がその風流を楽しんでいるのに参加しようと、苦労して風流の宴での歌を記す筆を持って還って来ました。

右一首、書白紙懸著屋壁也。題云蓬莱仙媛所嚢蘰、為風流秀才之士矣。斯凡客不所望見哉。
注訓 右の一首は、白き紙に書きて屋(いへ)の壁に懸著(か)けたり。題(しる)して云はく「蓬莱の仙媛(やまひめ)に蘰(かづら)を嚢(おさ)めむは、風流秀才の士(をのこ)の為なり。斯(こ)は凡客(ぼんかく)の望み見るところにあらずかも」といへる。
注意 左注での「嚢」の漢字には、動詞では「おさめる、受け入れる」と云う意味もあります。


 立教大学の沖森卓也教授の素晴らしい著書に「日本語の誕生 古代の文字と表記」(吉川弘文館)があります。この本は、私のような素人が万葉集を鑑賞する時に、その鑑賞の道しるべとして頼るような重要なものです。こうした時、集歌1016の歌を鑑賞しますと、歌の「莫津左比曽」は謎かけであろうと想像が出来ます。それで左注の「右一首、書白紙懸著屋壁也」の文章が利いてきます。つまり、筆で墨書し壁に貼り出して人に見せることで歌意が判る仕掛けとなっています。歌の「莫津左比曽」は万葉仮名としてそのまま「なつさひそ」と訓めますが、漢字の意味合いからは「津」の文字の中で並立するもの(「比」の漢字の意味)の左側を取り去るとも解釈できます。それで「津」の文字から筆を意味する「聿」の文字が表れて来ます。(なぜ、このような酔論が出来るのかは、先の「日本語の誕生 古代の文字と表記」を参照して頂ければ幸いです)
 また、天平九年二月の宴で「海原之遠渡乎」と歌を詠いますから、当然、その時、新羅との宗主問題で世の話題になった遣新羅使の帰国者一行であることが想像できます。その人物が「海を渡って宴に来た」と詠うのですから、想定される歌人は遣新羅使副使であった大伴三中となります。そして、この宴は大伴三中の遣新羅使の労をねぎらい、無事の帰国を祝うような宴であったと思われます。

参考資料 続日本紀より抜粋
天平九年正月辛丑(27) 遣新羅使大判官従六位上壬生使主宇太麻呂・少判官正七位上大蔵忌寸麻呂等入京。大使従五位下阿倍朝臣継麻呂泊津嶋卒、副使従六位下大伴宿禰三中染病、不得入京。
天平九年二月己未(15) 遣新羅使奏「新羅国、失常礼。不受使旨」


 この歌の内容は、宴に招かれた主賓の大伴三中がとりあえず、あいさつの歌を披露した風景でしょうか。左注の「蓬莱仙媛所嚢蘰」に示すように漢文には葛洪の神仙伝の麻姑の説話があり、その意に「今日は季節柄、あいにくこの宴には花などの風流は無いが、唐国の風流士が神仙伝から麻姑の姿を思い描くように、我々もまた、梅花や桜花を想像して楽しもう」との提案があります。
 今回もまた長々しく、このような酔論を紹介しましたのは、この酔論を下にしないと集歌1016の歌を十分に鑑賞出来ないのではないかと危惧するためです。
 参考に普段の万葉集の解説で集歌1016の歌人とされる巨勢朝臣宿奈麻呂の、その本人が詠った本当の歌を紹介します。集歌1645の歌の内容が集歌1016の歌の左注に示す意図に従ったものですので、場合により、同じ宴での歌かもしれません。なお、景色を想像して歌を詠うと云う巨勢宿奈麻呂の歌の世界には、先行する大伴旅人の集歌1640の梅謌や同時代として安倍朝臣奥道の雪謌があります。当時の風流士は、これらの中国の故事や大和歌の歴史を知った上で宴に臨む必要があったようで、非常に高度な教養と風景を想像する感性が必要だったと思われます。


巨勢朝臣宿奈麻呂雪謌一首
標訓 巨勢朝臣(こせのあそみ)宿奈麻呂(すくなまろ)の雪の謌一首
集歌1645 吾屋前之 冬木乃上尓 零雪乎 梅花香常 打見都流香裳
訓読 吾が屋前(やど)の冬木(ふゆき)の上に降る雪を梅の花かとうち見つるかも

私訳 私の家の冬枯れした樹の上に降る雪を、梅の花かとつい見間違えた。


参照歌
太宰帥大伴卿梅謌一首
標訓 太宰帥大伴卿の梅の謌一首
集歌1640 吾岳尓 盛開有 梅花 遺有雪乎 乱鶴鴨
訓読 吾が岳(おか)に盛(さか)りに咲ける梅の花残れる雪を乱(まが)へつるかも

私訳 私が眺める岳に花盛りと咲ける梅の花よ。枝に融け残った雪を梅の花と間違えたのだろうか。


安倍朝臣奥道雪謌一首
標訓 安倍朝臣(あべのあそみ)奥道(おきみち)の雪の謌一首
集歌1642 棚霧合 雪毛零奴可 梅花 不開之代尓 曽倍而谷将見
訓読 たな霧(き)らひ雪も降らぬか梅の花咲かぬが代(しろ)に擬(そ)へてだに見む

私訳 地には霧が一面に広がり、そこに雪も降って来ないだろうか。梅の花が咲かない代わりに、雪を梅の花に擬えてだけでも、この景色を眺めたい。



 再び、大伴三中の歌に戻ります。普段の解説では巻十五にのる遣新羅使の歌で「副使」とされるものもこの大伴三中の歌としますが、別のところで紹介しましたように非常に疑問のあるものです。従いまして、素人のする酔論では大伴三中と思われる歌は先の集歌1016の歌とここで紹介する集歌443の長歌・短歌の都合四首だけとなります。
 さて、この歌群は不思議な表記をしています。それは判官大伴宿祢三中から班田史生丈部龍麿に対する挽歌ですが、これら三首の歌すべてに「公」の漢字が使用されていることです。大伴三中はこの時に従六位下での少判事と思われますから、少初位下または無官と思われる丈部龍麿に対して使用するような表記でありません。すると、丈部龍麿は、大伴三中が非常に尊敬するような理由で天平元年(又は神亀六年)に自殺をしたのでしょうか。非常に意味深な「公」の漢字の採用です。

天平元年己巳、攝津國班田史生丈部龍麿自經死之時、判官大伴宿祢三中作謌一首并短謌
標訓 天平元年己巳、攝津國の班田(はんでん)の史生(ししやう)丈部(はせつかべの)龍麿(たつまろ)の自(みずか)ら經(わな)き死(みまか)りし時に、判官大伴宿祢三中の作れる謌一首并せて短謌

集歌443 天雲之 向伏國 武士登 所云人者 皇祖 神之御門尓 外重尓 立候 内重尓 仕奉 玉葛 弥遠長 祖名文 継徃物与 母父尓 妻尓子等尓 語而 立西日従 帶乳根乃 母命者 齊忌戸乎 前坐置而 一手者 木綿取持 一手者 和細布奉乎 間幸座与 天地乃 神祇乞祷 何在 歳月日香 茵花 香君之 牛留鳥 名津匝来与 立居而 待監人者 王之 命恐 押光 難波國尓 荒玉之 年經左右二 白栲 衣不干 朝夕 在鶴公者 何方尓 念座可 欝蝉乃 惜此世乎 露霜 置而徃監 時尓不在之天

訓読 天雲の 向伏(むかふ)す国の 武士(ますらを)と 云はれし人は 皇祖(すめおや)の 神(かみ)の御門(みかど)に 外(と)の重(へ)に 立ち候(さもら)ひ 内(うち)の重(へ)に 仕(つか)へ奉(まつ)り 玉葛(たまかづら) いや遠長く 祖(おや)の名も 継ぎ行くものと 母父(ははちち)に 妻に子どもに 語らひて 立ちにし日より たらちねの 母の命(みこと)は 斎瓮(いはひへ)を 前に据ゑ置きて 片手には 木綿(ゆふ)取り持ち 片手には 和細布(にぎたへ)奉(まつ)るを ま幸(さき)くませと 天地の 神を祈(こ)ひ祷(の)み いかならむ 年の月日(つきひ)か つつじ花 香(にほ)へる君が 牛留鳥(にほとり)の なづさひ来むと 立ちて居て 待ちけむ人は 王(おほきみ)の 命(みこと)恐(かしこ)み 押し照る 難波の国に あらたまの 年経るさへに 白栲の 衣(ころも)も干(ほ)さず 朝夕(あさゆふ)に ありつる公(きみ)は いかさまに 思ひいませか 現世(うつせみ)の 惜しきこの世を 露霜の 置きて往(ゆ)きけむ 時にあらずして

私訳 空の雲が遠く地平に連なる国の勇者と云われた人は、皇祖である神が祀られる御門の外の重なる塀に立ち警護して、内の重なる御簾の間に仕え申し上げて、美しい蘰の蔓のようにいよいよ長く、父祖の誉れの名を後世に継ぎ行くものと、母や父に妻に子供にと語らって国を旅立った日から、乳を飲ませ育てた実の母上は、祈りを捧げる斎甕を前に据えて置いて、片手には木綿の幣を取り持って、もう一方の片手には和栲を捧げて、無事に居なさいと天と地の神に祈り願う、いつの年の月日にか、ツツジの花が香るような貴方が、にほ鳥のように道中を難渋して帰って来るかと、家族が立ったままで待っていた人は、大王の御命令を承って、天と地から光が押し輝くような難波の国に、新しき年に気が改まる、そんな年を経るにくわえて、白い栲の衣も着替えて干さず、朝に夕に勤務をしていた貴方は、どのように思われたのか、人が生を営む、死ぬには惜しいこの世を露や霜を置くように、その足跡をこの世に置いてあの世に逝った。まだ、あの世に旅立つ時ではないのに。


反謌
集歌444 昨日社 公者在然 不思尓 濱松之上於 雲棚引
訓読 昨日(きのふ)こそ君はありしか思はぬに浜松の上(うへ)を雲のたなびく

私訳 昨日までこそは、貴方は生きてこの世に在った。思いがけずに、浜松の上を人の霊だと云う雲が棚引く。


集歌445 何時然跡 待牟妹尓 玉梓乃 事太尓不告 徃公鴨
訓読 いつしかと待つらむ妹に玉梓(たまづさ)の事(こと)だに告(つ)げず往(ゆ)きし公(きみ)かも

私訳 いつ帰ってくるのかと待っているでしょう貴方の妻に、美しい梓の杖を持つ朝廷からの使者から頂いた叙任も告げることなく、死に逝った貴方です。



 検索の労を省くために、参考に普段の解説で天平八年の遣新羅使副使大伴三中の歌とされるものを紹介します。なお、この遣新羅使副使は「見れば」や「居れば」と詠いますが、大伴三中の歌風とは少し違うのではないでしょうか。
 素人の酔論で、集歌 3701の歌や集歌 3707の歌は、その万葉集での前後の歌から神亀元年秋の対馬から新羅へと渡って行く風景と思っています。ところが、大伴三中は天平八年秋に逆に新羅から対馬へと戻って来ます。それも天然痘と思われる病人である遣新羅使大使の阿倍朝臣継麻呂を抱えて。

集歌 3701 多可之伎能 母美知乎見礼婆 和藝毛故我 麻多牟等伊比之 等伎曽伎尓家流
訓読 竹敷(たかしき)の黄葉(もみち)を見れば吾妹子が待たむと云ひし時ぞ来にける

私訳 竹敷の黄葉を見ると私の愛しい貴女が、私の還りを待っていると云ったその時が来てしまった。
右一首、副使
左注 右の一首は、副使


集歌 3707 安伎也麻能 毛美知乎可射之 和我乎礼婆 宇良之保美知久 伊麻太安可奈久尓
訓読 秋山の黄葉(もみち)をかざし吾(あ)が居れば浦(うら)潮(しほ)満ち来いまだ飽(あ)かなくに

私訳 秋山の黄葉を髪に挿して、私がここに居ると浦に潮が満ちて来た。まだ、この風景に飽きてはいないのに。
右一首、副使
左注 右の一首は、副使

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