竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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万葉集 類型歌を楽しむ、簾を揺らす風

2011年02月28日 | 万葉集 雑記
万葉集 類型歌を楽しむ、簾を揺らす風

 少し気になる類型歌を伴う旋頭歌があります。それが、次の集歌2364の旋頭歌です。この旋頭歌は万葉集に先行する最古の歌集との称される古歌集に載る旋頭歌ですので、万葉時代でも藤原京時代頃の初期に創作されたか、採歌されたものです。

集歌2364 玉垂 小簾之寸鶏吉仁 入通来根 足乳根之 母我問者 風跡将申
訓読 玉垂(たまたれ)の小簾(をす)の隙(すけき)に入り通(かよ)ひ来(こ)ね たらちねの母が問(と)はさば風と申(まを)さむ
私訳 美しく垂らすかわいい簾の隙間から入って私の許に通って来てください。乳を与えて育てくれた実母が簾の揺れ動きを問うたら、風と答えましょう。

 この恋人の訪れを部屋に垂れ下げた簾の揺れ動きと風で表現する姿は、万葉集でも特異な表現です。そのため、四千五百余首の万葉集の歌々の中でも、類型歌は次に示す数首の歌しかありません。
 その次に紹介する歌は、歌番号の順ではなく、恣意的に女性の心の動きを想像して順を入れ替えています。集歌2364の歌の情景を踏まえますと、このような鑑賞も可能と思います。

集歌2556 玉垂之 小簀之垂簾乎 徃褐 寐者不眠友 君者通速為
訓読 玉垂の小簾(をす)の垂簾(たれす)を行き褐(かち)む寝(い)は寝(な)さずとも君は通はせ
私訳 美しく垂らすかわいい簾をだんだん暗くしましょう。私を抱くために床で安眠することが出来なくても、貴方は私の許に通って来てください。

集歌1073 玉垂之 小簾之間通 獨居而 見驗無 暮月夜鴨
訓読 玉垂(たまたれ)の小簾(をす)の間(ま)通(とひ)しひとり居(ゐ)て見る験(しるし)なき暮(ゆふ)月夜(つくよ)かも
私訳 美しく垂らす、かわいい簾の隙間を通して独りで部屋から見る、待つ身に甲斐がない煌々と道辺を照らす満月の夕月夜です。

集歌2678 級子八師 不吹風故 玉匣 開而左宿之 吾其悔寸
訓読 愛(は)しきやし吹かぬ風ゆゑ玉(たま)櫛笥(くしげ)開けてさ寝(ね)にし吾(われ)ぞ悔(くや)しき
私訳 ああ、いとしいことに、簾を動かすはずなのに吹かない風のせいで、美しい櫛笥を開けるように、貴方を待ち続けて夜明けになって寝た私の今の身が悔しい。

 これら三首の歌は女性が詠った歌の内容ですが、集歌2364の歌の情景を踏まえて鑑賞しますと、旋頭歌で示す歌の世界を男性が女性の立場に仮託して三首の歌で歌物語を語ったような感覚がします。
 ここで、集歌2678の歌の「玉匣 開而左宿之」は、集歌93の歌の情景を踏まえた歌として鑑賞しています。そのため、普段の万葉集とは「開ける」対象が違います。

内大臣藤原卿娉鏡王女時、鏡王女贈内大臣謌一首
標訓 内大臣藤原卿の鏡王女を娉(よば)ひし時に、鏡王女の内大臣に贈れる歌一首
集歌93 玉匣 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜裳
訓読 玉(たま)匣(くしげ)覆ふを安(やす)み開けて行(い)なば君が名はあれど吾(わ)が名し惜しも
私訳 美しい玉のような櫛を寝るときに納める函を覆うように私の心を硬くしていましたが、覆いを取るように貴方に気を許してこの身を開き、その朝が明け開いてから貴方が帰って行くと、貴方の評判は良いかもしれませんが、私は貴方との二人の仲の評判が立つのが嫌です。

 さて、「簾」と「風」の言葉の組み合わせから、万葉集に詳しい御方は当然に次の歌が紹介されていないと指摘されるでしょう。

額田王思近江天皇作謌一首
標訓 額田王の近江天皇を思(しの)ひて作れる謌一首
集歌1606 君待跡 吾戀居者 我屋戸乃 簾令動 秋之風吹
訓読 君待つと吾が恋ひをれば我が屋戸(やと)の簾(すだれ)動かし秋の風吹く
私訳 あの人の訪れを私が恋しく想って待っていると、あの人の訪れのように私の屋敷の簾を揺らして秋の風が吹きました。

鏡王女作謌一首
標訓 鏡(かがみの)王女(おほきみ)の作れる謌一首
集歌1607 風乎谷 戀者乏 風乎谷 将来常思待者 何如将嘆
訓読 風をだに恋ふるは乏(とぼ)し風をだに来(こ)むとし待たば何か嘆(なげ)かむ
私訳 風が簾を動かすだけでも想い人の訪れと、その想い人を恋しく想うことは、もう、私にはありません。あの人の香りだけでも思い出すような風が吹いてこないかなと思えると、どうして、今の自分を嘆きましょうか。

 ここで、額田王と鏡王女とは天智天皇の近江朝時代の人のように思われていますが、実は天武天皇・持統天皇の時代の人でもあります。従いまして、最初に紹介した集歌2364の旋頭歌と額田王が詠う集歌1606の歌のどちらが先に詠われたかを決めるのは非常に難しいところがあります。ただ、旋頭歌が集団で詠う歌であるとするならば、額田王が詠う集歌1606の歌からの派生歌とするのはどうでしょうか。
 個人的な思い込みで、先の集歌2364の旋頭歌は柿本人麻呂の匂いがするのですが、その旋頭歌を下に集歌1606の歌が詠われたとしますと、標の「額田王思近江天皇作謌一首」の内容が非常に怪しくなります。ちょうど、信長・秀吉・家康の郭公鳥の歌の例です。また、男を誘う女心としては集歌2364の旋頭歌は秀逸ですので、藤原京時代に非常に評判になった歌ではないでしょうか。妄想ですが、最初に集歌2364の旋頭歌が詠われ、つぎにその評判から額田王が詠う集歌1606の歌が詠われたような気がします。そして、その集歌2364の旋頭歌、集歌1606の歌と集歌1607の歌との情景や集歌93の歌の世界を踏まえて集歌2678の歌が生まれたのではないでしょうか。
 個人的興味で、専門家によってこの先後や旋頭歌と人麻呂の関係の可能性を明らかにしていただければ幸いです。
なお、例によって、紹介した歌は西本願寺本の表記に従っています。そのため、集歌2556の歌の「徃褐」の訓みに表れるように原文表記や訓読みに普段の「訓読み万葉集」と相違するものもありますが、それは採用する原文表記の違いと素人の無知に由来します。
 また、勉学に勤しむ学生の御方にお願いですが、ここでは原文、訓読み、それに現代語訳や解説があり、それなりの体裁はしていますが、正統な学問からすると紹介するものは全くの「与太話」であることを、ご了解ください。つまり、コピペには全く向きません。あくまでも、大人の楽しみでの与太話であって、学問ではないことを承知願います。

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本歌取か、独創か 筑波嶺の雪

2011年02月26日 | 万葉集 雑記
本歌取か、独創か 筑波嶺の雪

 最初に紹介する歌は、万葉集ファンと新古今和歌集以降の歌論ファンとの間で、その解釈が大きく分かれる歌です。教科書的には新古今和歌集の歌を鑑賞するような立場で紹介する歌を鑑賞しますから、初夏の香具山の風情を見ます。一方、近年の万葉集ファンは、歌に新春の宴での打ち解けた諧謔の風流を見ます。

天皇御製謌
標訓 天皇の御(かた)りて製(つく)らせしし謌
集歌28 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
訓読 春過ぎて夏来(き)るらし白栲の衣(ころも)乾(ほ)したり天の香来山(かくやま)

 万葉集ファンの立場でこの有名な持統天皇の詠う集歌28の歌を鑑賞するとき、この歌を踏まえて詠われた東歌があることを思い浮かべます。それが次の集歌3351の歌です。

集歌3351 筑波祢尓 由伎可母布良留 伊奈乎可母 加奈思吉兒呂我 尓努保佐流可母
訓読 筑波嶺(つくばね)に雪かも降らる否(いな)をかも愛(かな)しき児ろが布(にの)乾(ほ)さるかも
私訳 筑波の嶺に雪が降ったのでしょうか。違うのでしょうか。愛しい貴女が布を乾かしているのでしょうか。

 さて、この集歌3351の常陸国の東歌は、万葉集の専門家の中では集歌28の御製歌を踏まえると共に、催馬楽(さいばら)や風俗歌の感があるとして有名です。例えば、新日本古典文学大系では『「雪景色を歌ったものではなく、筑波山麓の聚落の生業として、白布を雪とまがふまで干し並べる、殷賑のさまを歌ったものであることは、言ふまでもない」(「私注」)。「甲斐が嶺に、白きは雪かや、いなをさの、甲斐の褻(け)衣や、晒す手作りや、晒す手作り」(風俗歌「甲斐が嶺」)』と解説されています。また、万葉集全訳注では『「筑波山の白さに興じた民衆歌で、やがて官人にもてはやされた、「催馬楽」(さいばら)のごとき歌。巻頭五首中これだけに訛りがある。「甲斐が嶺に、白きは雪かや、いなをさの、甲斐の褻(け)衣や、晒す手作りや、晒す手作り」(風俗歌)』と解説されています。つまり、集歌3351の歌は、山麓に干す日曝しの布をあたかも雪のように見立てた歌として解釈することになっています。奈良時代初期の段階で「歌を詠う時に、見立ての技法が東国にもあった」と、歌の専門家は認めています。
 ここで、万葉集全訳注の指摘に従い巻十四の巻頭五首を見てみますと、

東歌
集歌3348 奈都素妣久 宇奈加美我多能 於伎都渚尓 布袮波等抒米牟 佐欲布氣尓家里
訓読 夏麻(なつそ)引く海上潟(うなかみかた)の沖つ渚(す)に船は留めむさ夜更けにけり
私訳 夏の麻を引き抜き績(う)む、その海上潟の沖の洲に船は留めよう。もう夜も更けました。
右一首、上総國歌

集歌3349 可豆思加乃 麻萬能宇良末乎 許具布祢能 布奈妣等佐和久 奈美多都良思母
訓読 葛飾(かづしか)の真間(まま)の浦廻(うらま)を漕ぐ船の船人(ふなひと)騒(さわ)く波立つらしも
私訳 葛飾の真間の入り江を操り行く船の船人が騒いでいる。浪が立って来たらしい。
右一首、下総國歌

集歌3350 筑波祢乃 尓比具波麻欲能 伎奴波安礼杼 伎美我美家思志 安夜尓伎保思母
訓読 筑波嶺(つくばね)の新(にひ)桑繭(くはまよ)の衣(きぬ)はあれど君が御衣(みけし)あやに着(き)欲(ほ)しも
私訳 筑波山の新しい桑の葉で飼った繭で作った絹の衣はありますが、愛しい人と夜床で交換する、その貴方の御衣を無性にこの身に着けたいと願います。
或本歌曰、多良知祢能 又云 安麻多伎保思母
注訓 或る本の歌に曰はく、たらちねの、又は云はく、あまた着(き)欲(ほ)しも

集歌3351 筑波祢尓 由伎可母布良留 伊奈乎可母 加奈思吉兒呂我 尓努保佐流可母
訓読 筑波嶺(つくばね)に雪かも降らるいなをかも愛(かな)しき子ろが布(にの)乾(ほ)さるかも
私訳 筑波の嶺に雪が降ったのでしょうか。違うのでしょうか。愛しい貴女が布を乾かしているのでしょうか。
右二首、常陸國歌

集歌3352 信濃奈流 須我能安良能尓 保登等藝須 奈久許恵伎氣波 登伎須疑尓家里
訓読 信濃(しなの)なる須我(すが)の荒野(あらの)に霍公鳥(ほととぎす)鳴く声聞けは時過ぎにけり
私訳 信濃の国にある須賀の荒野で過去を乞うホトトギスの鳴く声を聞くと、天武天皇が王都の地を求めたと云う過去の栄華は過ぎてしまったことです。
右一首、信濃國歌

 ここで、万葉集全訳注の指摘を尊重して集歌3351の歌を除く集歌3348の歌から集歌3352の歌までの四首で、万葉集を遊んでみます。その遊びの様子を次に紹介します。

遊びの鑑賞 その一
 集歌3348の歌は、東国を旅する官人が経験した情景を詠ったものと思いますが、その歌は集歌1176の歌と集歌1229の歌を重ね合わせて作った、記憶力の歌の感があります。この作歌は、後年に本歌取りなどと紹介される技巧ですが、歌自身は歌人でない秀才の歌です。

集歌1176 夏麻引 海上滷乃 奥津洲尓 鳥簀竹跡 君者音文不為
訓読 夏(なつ)麻(そ)引く海上(うなかみ)潟(かた)の沖つ洲(す)に鳥はすだけど君は音(おと)もせず
私訳 夏の麻を引き抜き績(う)む、その海上潟の沖の洲に鳥は集まり騒ぐけども、貴方は音沙汰もない。

集歌1229 吾舟者 明且石之潮尓 榜泊牟 奥方莫放 狭夜深去来
訓読 吾が舟は明且石(あかし)の潮(しほ)に榜(こ)ぎ泊(は)てむ沖へな放(さか)りさ夜(よ)深(ふ)けにけり
私訳 私が乗る舟は、明石の急な潮流に舟を操り行き泊まろう。沖へは出ていくな。夜は更けている。

集歌3348 奈都素妣久 宇奈加美我多能 於伎都渚尓 布袮波等抒米牟 佐欲布氣尓家里
訓読 夏麻(なつそ)引く海上潟(うなかみかた)の沖つ渚(す)に船は留めむさ夜更けにけり

遊びの鑑賞 その二
 集歌3349の歌は、ちょうど、集歌1228の歌が示す地名を集歌433の歌で示す地名に入れ替えただけのような歌です。そこには、歌の感情や技巧よりも、歌い手がどれほどよく古い歌を知っているかを自慢するような感がありますし、聴き手もまた、その知識を要求されるような歌です。

集歌433 勝壮鹿乃 真々乃入江尓 打靡 玉藻苅兼 手兒名志所念
訓読 勝雄鹿(かつしか)の真間(まま)の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手児名(てこな)し念(おも)ほゆ
私訳 勝鹿の真間の入り江で波になびいている美しい藻を刈っただろう、その手兒名のことが偲ばれます。

集歌1228 風早之 三穂乃浦廻乎 榜舟之 船人動 浪立良下
訓読 風早(かざはや)の三穂(みほ)の浦廻(うらみ)を榜(こ)ぐ舟の船人(ふなひと)騒(さわ)く浪立つらしも
私訳 風が速い三穂の入り江を操り行く舟の船人が騒いでいる。波が立って来るようだ。

集歌3349 可豆思加乃 麻萬能宇良末乎 許具布祢能 布奈妣等佐和久 奈美多都良思母
訓読 葛飾(かづしか)の真間(まま)の浦廻(うらま)を漕ぐ船の船人(ふなひと)騒(さわ)く波立つらしも

遊びの鑑賞 その三
 集歌1260の歌は、古歌集に載る歌ですし、集歌1314の歌は藤原京時代の古い歌と思われます。これらは、詠み人知れずですが巻七に載る歌ですので、万葉時代には多くの人に知られた歌だったようです。
 こうした時、集歌3350の歌は集歌1260の歌や集歌1314の歌を踏まえた上で、東国を旅した官人が、筑波の地名と名物を織り込んだように感じてしまいます。

集歌1260 不時 斑衣 服欲香 衣服針原 時二不有鞆
訓読 時ならぬ斑(まだら)の服(ころも)着(き)欲(ほ)しきか衣(きぬ)の榛原(はりはら)時にあらねども
私訳 その季節ではないが神を祝う斑に摺り染めた衣を着たいものです。榛の葉で縫った衣を摺り染める、その榛原は神を祝う時ではありませんが。

集歌1314 橡 解濯衣之 恠 殊欲服 此暮可聞
訓読 橡(つるばみ)の解(と)き濯(あら)ひ衣(きぬ)のあやしくも殊(こと)に着(き)欲(ほ)しきこの暮(ゆふへ)かも
私訳 橡染めの服を解いて洗って、そして縫った貴方の衣が、不思議なことに無性にこの身に着てみたいと思う、この夕暮れです。

集歌3350 筑波祢乃 尓比具波麻欲能 伎奴波安礼杼 伎美我美家思志 安夜尓伎保思母
訓読 筑波嶺(つくばね)の新(にひ)桑繭(くはまよ)の衣(きぬ)はあれど君が御衣(みけし)あやに着(き)欲(ほ)しも


遊びの鑑賞 その四
 集歌3352の歌は、ちょうど、集歌227の人麻呂歌集の歌と集歌1475の大伴坂上郎女の詠う歌を重ね合わせたような歌です。天平年間に集歌3352の歌が、東国に旅した官僚により詠われたのですと、時代での和歌のテキストを忠実になぞったような感がします。

集歌227 天離 夷之荒野尓 君乎置而 念乍有者 生刀毛無
訓読 天離る夷の荒野に君を置きて思ひつつあれば生けりともなし
私訳 大和から遠く離れた荒びた田舎に貴方が行ってしまっていると思うと、私は恋しくて、そして、貴方の身が心配で生きている気持ちがしません。

集歌1475 何奇毛 幾許戀流 霍公鳥 鳴音聞者 戀許曽益礼
訓読 何(なに)奇(く)しもここだく恋ふる霍公鳥鳴く声聞けば恋こそまされ
私訳 どのような理由でこのようにひたすら恋慕うのでしょう。「カタコヒ」と鳴くホトトギスの啼く声を聞けば、慕う思いがさらに募ってくる。

集歌3352 信濃奈流 須我能安良能尓 保登等藝須 奈久許恵伎氣波 登伎須疑尓家里
訓読 信濃(しなの)なる須我(すが)の荒野(あらの)に霍公鳥(ほととぎす)鳴く声聞けは時過ぎにけり

 このように万葉集で巻十四において東歌と分類される巻頭五首に対して、集歌3351の歌を除いて集歌3348の歌から集歌3352の歌までの四首で遊んでみますと、集歌3351の歌と集歌28の御製との関連を認めない専門家の鑑賞や解説に逆らって、巻十四の巻頭歌の比較と編纂から集歌3351の歌もまた、同じではないかと邪推してしまいます。この邪推を下に集歌3351の歌の鑑賞から集歌28の御製を訓み返してみますと、つぎのような鑑賞になります。こうした時、従来の鑑賞のように神聖で立ち入りが制限される天の香具山で、下女が洗濯物を干さなくても良いことになります。

集歌28 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
訓読 春過ぎて夏来(き)るらし白栲の衣(ころも)乾(ほ)したり天の香来山(かくやま)
私訳 まるで寒さ厳しい初春が終わって夏がやってきたようです。白栲の衣を干しているような白一面の天の香具山よ。

 素人の酔論におつきあい頂き有難うございます。いかにももっともらしく見せていますが、内容は素人の素人たる由縁のお粗末です。
 参照事項ですが、補訂版万葉集本文編(塙書房)では「目録は、奈良時代末期を下らる頃に成ったと考えられるが、諸本によって出入り甚しい箇所があり、これに校合を加えて本書に収めても、そのままではほとんど利用価値がない」とされているように、万葉集においては歌を載せる歌巻本とその巻本の目録とは、その成立年代が違うために示す内容が一致しません。歌巻本と目録との関係を研究するのも、一つの有名な万葉学の分野です。
 普段の解説では巻十四は東歌の巻として有名ですが、その歌巻本で東歌とされるのは中央官僚が東国を旅して詠ったと思われる巻頭五首のみです。巻十四に載るそれ以外の歌は、国別の相聞、譬喩歌、雑歌と国未詳の相聞、防人歌、譬喩歌、挽歌の区分になっています。つまりに万葉集における東歌とは、中央の人が東国をテーマに歌を詠ったとの意味合いで、東国の人が鄙言葉で詠った歌の意味合いではありません。従いまして「東歌」の本来の意味合いにおいて、奈良の京の大宮人にとっては、集歌28の歌も集歌3351の歌も知るべき歌となります。
 また、和歌での本歌取りの技法は新古今和歌集時代に盛んに行われた技法とされますが、実際は平城京時代中期には極一般的な技法であったことは、ここで示した通りです。この本歌取りの技法を葛井連広成たちは「古曲(ふるきおもしろみ)」と称したと思います。
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万葉集 大伴三中を鑑賞する

2011年02月21日 | 万葉集 雑記
万葉集 大伴三中を鑑賞する

 大伴三中を鑑賞しますが、例によって、紹介する歌は、原則として西本願寺本の原文の表記に従っています。そのため、紹介する原文表記や訓読みに普段の「訓読み万葉集」と相違するものもありますが、それは採用する原文表記の違いと素人の無知に由来します。
 また、勉学に勤しむ学生の御方にお願いですが、ここでは原文、訓読み、それに現代語訳や一部に解説があり、それなりの体裁はしていますが、正統な学問からすると紹介するものは全くの「与太話」であることを、ご了解ください。つまり、コピペには全く向きません。あくまでも、大人の楽しみでの与太話で、学問ではありません。

 今回は、このいつもの決まり文句が重要です。最初に紹介する集歌1016の歌は宴での歌ですが、歌の標に示すように直接には詠み人知れずの歌とするのが相当です。ただ、普段の解説では、呼び名称のような扱いでの記号の感覚で巨勢宿奈麻呂朝臣の歌とするようです。

春二月、諸大夫等集左少辨巨勢宿奈麻呂朝臣家宴謌一首
標訓 (天平九年)春二月に、諸(もろもろ)の大夫(まへつきみ)等(たち)の左少辨巨勢宿奈麻呂朝臣の家に集(つど)ひて宴(うたげ)せる謌一首

集歌1016 海原之 遠渡乎 遊士之 遊乎将見登 莫津左比曽来之
訓読 海原(うなはら)の遠き渡(わたり)を遊士(みやびを)の遊ぶを見むとなづさひぞ来(こ)し

私訳 海原の遠い航海ですが、風流な人がその風流を楽しんでいるのに参加しようと、苦労して風流の宴での歌を記す筆を持って還って来ました。

右一首、書白紙懸著屋壁也。題云蓬莱仙媛所嚢蘰、為風流秀才之士矣。斯凡客不所望見哉。
注訓 右の一首は、白き紙に書きて屋(いへ)の壁に懸著(か)けたり。題(しる)して云はく「蓬莱の仙媛(やまひめ)に蘰(かづら)を嚢(おさ)めむは、風流秀才の士(をのこ)の為なり。斯(こ)は凡客(ぼんかく)の望み見るところにあらずかも」といへる。
注意 左注での「嚢」の漢字には、動詞では「おさめる、受け入れる」と云う意味もあります。


 立教大学の沖森卓也教授の素晴らしい著書に「日本語の誕生 古代の文字と表記」(吉川弘文館)があります。この本は、私のような素人が万葉集を鑑賞する時に、その鑑賞の道しるべとして頼るような重要なものです。こうした時、集歌1016の歌を鑑賞しますと、歌の「莫津左比曽」は謎かけであろうと想像が出来ます。それで左注の「右一首、書白紙懸著屋壁也」の文章が利いてきます。つまり、筆で墨書し壁に貼り出して人に見せることで歌意が判る仕掛けとなっています。歌の「莫津左比曽」は万葉仮名としてそのまま「なつさひそ」と訓めますが、漢字の意味合いからは「津」の文字の中で並立するもの(「比」の漢字の意味)の左側を取り去るとも解釈できます。それで「津」の文字から筆を意味する「聿」の文字が表れて来ます。(なぜ、このような酔論が出来るのかは、先の「日本語の誕生 古代の文字と表記」を参照して頂ければ幸いです)
 また、天平九年二月の宴で「海原之遠渡乎」と歌を詠いますから、当然、その時、新羅との宗主問題で世の話題になった遣新羅使の帰国者一行であることが想像できます。その人物が「海を渡って宴に来た」と詠うのですから、想定される歌人は遣新羅使副使であった大伴三中となります。そして、この宴は大伴三中の遣新羅使の労をねぎらい、無事の帰国を祝うような宴であったと思われます。

参考資料 続日本紀より抜粋
天平九年正月辛丑(27) 遣新羅使大判官従六位上壬生使主宇太麻呂・少判官正七位上大蔵忌寸麻呂等入京。大使従五位下阿倍朝臣継麻呂泊津嶋卒、副使従六位下大伴宿禰三中染病、不得入京。
天平九年二月己未(15) 遣新羅使奏「新羅国、失常礼。不受使旨」


 この歌の内容は、宴に招かれた主賓の大伴三中がとりあえず、あいさつの歌を披露した風景でしょうか。左注の「蓬莱仙媛所嚢蘰」に示すように漢文には葛洪の神仙伝の麻姑の説話があり、その意に「今日は季節柄、あいにくこの宴には花などの風流は無いが、唐国の風流士が神仙伝から麻姑の姿を思い描くように、我々もまた、梅花や桜花を想像して楽しもう」との提案があります。
 今回もまた長々しく、このような酔論を紹介しましたのは、この酔論を下にしないと集歌1016の歌を十分に鑑賞出来ないのではないかと危惧するためです。
 参考に普段の万葉集の解説で集歌1016の歌人とされる巨勢朝臣宿奈麻呂の、その本人が詠った本当の歌を紹介します。集歌1645の歌の内容が集歌1016の歌の左注に示す意図に従ったものですので、場合により、同じ宴での歌かもしれません。なお、景色を想像して歌を詠うと云う巨勢宿奈麻呂の歌の世界には、先行する大伴旅人の集歌1640の梅謌や同時代として安倍朝臣奥道の雪謌があります。当時の風流士は、これらの中国の故事や大和歌の歴史を知った上で宴に臨む必要があったようで、非常に高度な教養と風景を想像する感性が必要だったと思われます。


巨勢朝臣宿奈麻呂雪謌一首
標訓 巨勢朝臣(こせのあそみ)宿奈麻呂(すくなまろ)の雪の謌一首
集歌1645 吾屋前之 冬木乃上尓 零雪乎 梅花香常 打見都流香裳
訓読 吾が屋前(やど)の冬木(ふゆき)の上に降る雪を梅の花かとうち見つるかも

私訳 私の家の冬枯れした樹の上に降る雪を、梅の花かとつい見間違えた。


参照歌
太宰帥大伴卿梅謌一首
標訓 太宰帥大伴卿の梅の謌一首
集歌1640 吾岳尓 盛開有 梅花 遺有雪乎 乱鶴鴨
訓読 吾が岳(おか)に盛(さか)りに咲ける梅の花残れる雪を乱(まが)へつるかも

私訳 私が眺める岳に花盛りと咲ける梅の花よ。枝に融け残った雪を梅の花と間違えたのだろうか。


安倍朝臣奥道雪謌一首
標訓 安倍朝臣(あべのあそみ)奥道(おきみち)の雪の謌一首
集歌1642 棚霧合 雪毛零奴可 梅花 不開之代尓 曽倍而谷将見
訓読 たな霧(き)らひ雪も降らぬか梅の花咲かぬが代(しろ)に擬(そ)へてだに見む

私訳 地には霧が一面に広がり、そこに雪も降って来ないだろうか。梅の花が咲かない代わりに、雪を梅の花に擬えてだけでも、この景色を眺めたい。



 再び、大伴三中の歌に戻ります。普段の解説では巻十五にのる遣新羅使の歌で「副使」とされるものもこの大伴三中の歌としますが、別のところで紹介しましたように非常に疑問のあるものです。従いまして、素人のする酔論では大伴三中と思われる歌は先の集歌1016の歌とここで紹介する集歌443の長歌・短歌の都合四首だけとなります。
 さて、この歌群は不思議な表記をしています。それは判官大伴宿祢三中から班田史生丈部龍麿に対する挽歌ですが、これら三首の歌すべてに「公」の漢字が使用されていることです。大伴三中はこの時に従六位下での少判事と思われますから、少初位下または無官と思われる丈部龍麿に対して使用するような表記でありません。すると、丈部龍麿は、大伴三中が非常に尊敬するような理由で天平元年(又は神亀六年)に自殺をしたのでしょうか。非常に意味深な「公」の漢字の採用です。

天平元年己巳、攝津國班田史生丈部龍麿自經死之時、判官大伴宿祢三中作謌一首并短謌
標訓 天平元年己巳、攝津國の班田(はんでん)の史生(ししやう)丈部(はせつかべの)龍麿(たつまろ)の自(みずか)ら經(わな)き死(みまか)りし時に、判官大伴宿祢三中の作れる謌一首并せて短謌

集歌443 天雲之 向伏國 武士登 所云人者 皇祖 神之御門尓 外重尓 立候 内重尓 仕奉 玉葛 弥遠長 祖名文 継徃物与 母父尓 妻尓子等尓 語而 立西日従 帶乳根乃 母命者 齊忌戸乎 前坐置而 一手者 木綿取持 一手者 和細布奉乎 間幸座与 天地乃 神祇乞祷 何在 歳月日香 茵花 香君之 牛留鳥 名津匝来与 立居而 待監人者 王之 命恐 押光 難波國尓 荒玉之 年經左右二 白栲 衣不干 朝夕 在鶴公者 何方尓 念座可 欝蝉乃 惜此世乎 露霜 置而徃監 時尓不在之天

訓読 天雲の 向伏(むかふ)す国の 武士(ますらを)と 云はれし人は 皇祖(すめおや)の 神(かみ)の御門(みかど)に 外(と)の重(へ)に 立ち候(さもら)ひ 内(うち)の重(へ)に 仕(つか)へ奉(まつ)り 玉葛(たまかづら) いや遠長く 祖(おや)の名も 継ぎ行くものと 母父(ははちち)に 妻に子どもに 語らひて 立ちにし日より たらちねの 母の命(みこと)は 斎瓮(いはひへ)を 前に据ゑ置きて 片手には 木綿(ゆふ)取り持ち 片手には 和細布(にぎたへ)奉(まつ)るを ま幸(さき)くませと 天地の 神を祈(こ)ひ祷(の)み いかならむ 年の月日(つきひ)か つつじ花 香(にほ)へる君が 牛留鳥(にほとり)の なづさひ来むと 立ちて居て 待ちけむ人は 王(おほきみ)の 命(みこと)恐(かしこ)み 押し照る 難波の国に あらたまの 年経るさへに 白栲の 衣(ころも)も干(ほ)さず 朝夕(あさゆふ)に ありつる公(きみ)は いかさまに 思ひいませか 現世(うつせみ)の 惜しきこの世を 露霜の 置きて往(ゆ)きけむ 時にあらずして

私訳 空の雲が遠く地平に連なる国の勇者と云われた人は、皇祖である神が祀られる御門の外の重なる塀に立ち警護して、内の重なる御簾の間に仕え申し上げて、美しい蘰の蔓のようにいよいよ長く、父祖の誉れの名を後世に継ぎ行くものと、母や父に妻に子供にと語らって国を旅立った日から、乳を飲ませ育てた実の母上は、祈りを捧げる斎甕を前に据えて置いて、片手には木綿の幣を取り持って、もう一方の片手には和栲を捧げて、無事に居なさいと天と地の神に祈り願う、いつの年の月日にか、ツツジの花が香るような貴方が、にほ鳥のように道中を難渋して帰って来るかと、家族が立ったままで待っていた人は、大王の御命令を承って、天と地から光が押し輝くような難波の国に、新しき年に気が改まる、そんな年を経るにくわえて、白い栲の衣も着替えて干さず、朝に夕に勤務をしていた貴方は、どのように思われたのか、人が生を営む、死ぬには惜しいこの世を露や霜を置くように、その足跡をこの世に置いてあの世に逝った。まだ、あの世に旅立つ時ではないのに。


反謌
集歌444 昨日社 公者在然 不思尓 濱松之上於 雲棚引
訓読 昨日(きのふ)こそ君はありしか思はぬに浜松の上(うへ)を雲のたなびく

私訳 昨日までこそは、貴方は生きてこの世に在った。思いがけずに、浜松の上を人の霊だと云う雲が棚引く。


集歌445 何時然跡 待牟妹尓 玉梓乃 事太尓不告 徃公鴨
訓読 いつしかと待つらむ妹に玉梓(たまづさ)の事(こと)だに告(つ)げず往(ゆ)きし公(きみ)かも

私訳 いつ帰ってくるのかと待っているでしょう貴方の妻に、美しい梓の杖を持つ朝廷からの使者から頂いた叙任も告げることなく、死に逝った貴方です。



 検索の労を省くために、参考に普段の解説で天平八年の遣新羅使副使大伴三中の歌とされるものを紹介します。なお、この遣新羅使副使は「見れば」や「居れば」と詠いますが、大伴三中の歌風とは少し違うのではないでしょうか。
 素人の酔論で、集歌 3701の歌や集歌 3707の歌は、その万葉集での前後の歌から神亀元年秋の対馬から新羅へと渡って行く風景と思っています。ところが、大伴三中は天平八年秋に逆に新羅から対馬へと戻って来ます。それも天然痘と思われる病人である遣新羅使大使の阿倍朝臣継麻呂を抱えて。

集歌 3701 多可之伎能 母美知乎見礼婆 和藝毛故我 麻多牟等伊比之 等伎曽伎尓家流
訓読 竹敷(たかしき)の黄葉(もみち)を見れば吾妹子が待たむと云ひし時ぞ来にける

私訳 竹敷の黄葉を見ると私の愛しい貴女が、私の還りを待っていると云ったその時が来てしまった。
右一首、副使
左注 右の一首は、副使


集歌 3707 安伎也麻能 毛美知乎可射之 和我乎礼婆 宇良之保美知久 伊麻太安可奈久尓
訓読 秋山の黄葉(もみち)をかざし吾(あ)が居れば浦(うら)潮(しほ)満ち来いまだ飽(あ)かなくに

私訳 秋山の黄葉を髪に挿して、私がここに居ると浦に潮が満ちて来た。まだ、この風景に飽きてはいないのに。
右一首、副使
左注 右の一首は、副使

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参考資料 万葉集/日本紀と日本書紀との年号の相違問題

2011年02月19日 | 資料書庫
参考資料 万葉集/日本紀と日本書紀との年号の相違問題

ここでは『万葉集』に引用する日本紀と現在に伝わる『日本書紀』との年号記事の比較資料を提供しています。
御承知のように『日本書紀』は『旧唐書』など大陸の正史と事件の年号を照合する時、時に1年の相違の存在が指摘されており、『日本書紀』の編纂における年号の不正確さが疑われています。また、『万葉集』には多く「日本紀」から引用した記事が載せられており、『続日本紀』に記載される「日本紀」、万葉集に引用する「日本紀」、それと現在に伝わる「日本書紀」との照合が重要な問題となっています。
紹介する年号比較資料は以下に示すルールに従っています。
 歌番号は『万葉集全訳注原文付(中西進、講談社文庫)』に従う
 日本紀年号は『万葉集全訳注原文付(中西進、講談社文庫)』に従い、引用文を表の後に載せる
 日本書紀年号は『増補六国史(佐伯有義、朝日新聞社)』に従う
 十干の西暦換算はウキペディアに従う

歌番号 日本紀 年号 西暦換算 日本書紀 年号 年表
8 飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑 己丑は629年 舒明天皇元年 629年
8 九年丁酋 丁酋は637年 舒明天皇九年 637年
5 天皇十一年己亥 己亥は639年 舒明天皇十一年 639年
13 天豊財重日足姫天皇先四年乙巳 乙巳は645年 皇極天皇四年 645年
7 一書戊申年幸比良宮大御謌 戊申は648年 孝徳天皇大化四年 648年
7 五年正月己卯朔 斉明天皇五年春正月己卯朔 659年
7 五年三月戊寅朔 三月戊寅朔、天皇幸吉野而肆宴焉 659年
8 後岡本宮馭宇天皇七年辛酉 辛酉は661年 七年春正月丁酉朔壬寅、御船西征。 661年
秋七月甲午朔丁巳。天皇崩于朝倉宮 661年
壬戌は662年 天智天皇元年、太歳壬戌 662年
天智天皇二年八月、白村江の戦い 663年
17 日本書紀曰、六年丙寅 丙寅は666年 六年春二月壬辰朔戊午。合葬天豊 667年
17 六年丙寅三月辛酉朔、遷都于近江 六年三月辛酉朔己卯。遷都于近江 667年
21 天皇七年丁卯 丁卯は667年 天智天皇六年 667年
十年十二月癸亥朔乙丑。天皇崩 671年
壬申は672年 天武天皇元年春三月壬辰朔己酉 672年
癸酉は673年 天武天皇二年、太歳癸酉 673年
22 天皇四年乙亥 乙亥は675年 天武天皇四年 675年
156 七年戊寅 戊寅は678年 天武天皇七年 678年
27 八年己卯 己卯は679年 天武天皇八年 679年
朱鳥元年春正月壬寅朔 686年
朱鳥元年九月九日、天皇崩 686年
持統天皇元年春正月丙寅朔 687年
丁亥は687年 持統天皇元年、大歳丁亥 687年
38、171 三年己丑 己丑は689年 持統天皇三年 689年
34、38 朱鳥四年庚寅 庚寅は690年 持統天皇四年 690年
38、194 五年辛卯 辛卯は691年 持統天皇五年 691年
44 朱鳥六年壬辰 壬辰は692年 持統天皇六年 692年
50、156 朱鳥七年癸巳 癸巳は693年 持統天皇七年 693年
50 八年甲午 甲午は694年 持統天皇八年 694年
202 十年丙申 丙申は696年 持統天皇十年 696年


 以上、資料を紹介しましたが、次の二点の年号について一年の相違があります。
 天智天皇元年;万葉集引用の日本紀では661年に相当し、日本書紀では662年である
 朱鳥元年;万葉集引用の日本紀では687年に相当し、日本書紀では686年である
 参考として百済の役での白村江の戦いは日本書紀では天智天皇二年、西暦663年の出来事ですが、旧唐書や新唐書などの大陸の正史に載る百済伝:劉仁軌列伝では竜朔二年、西暦662年の出来事となっています。また、日本書紀の持統天皇紀において天武天皇の崩御の新羅国への通知の記事を以下に示すように確認しますと、新羅の王子金霜林が行った哀悼儀礼と持統天皇三年五月の詰問について、少し、論理的に矛盾するものがありますし、遣新羅使田中法麻呂の日程が日本書紀の記事間においても矛盾し疑惑です。従いまして、対外的な起きた年号を変更できない事件の記事を眺めますと、やはり、『日本書紀』には疑いが残ります。
 朱鳥元年九月九日、天武天皇崩御
 持統元年正月十九日、田中法麻呂を新羅国に天武天皇崩御を通知のため派遣
 持統元年九月二三日、筑紫大宰が献調賦の為に来日した新羅の王子金霜林に天武天皇崩御を通告。王子金霜林は直ちに哀悼の礼を行う。
 持統二年正月二十三日、新羅の王子金霜林が朝廷に天武天皇崩御に対する宣を奉じて、哀悼の礼を行う。
 持統二年二月二九日、新羅の王子金霜林が新羅へ帰国。
 持統三年正月八日、新羅国に天武天皇崩御の通知のため派遣した田中法麻呂が日本に帰国。
 持統三年四月二十日、新羅国の金道那が天武天皇崩御の弔問のために来日。
 持統三年五月二二日、新羅国の弔問使の格について詰問する。この中で「二年、遣田中朝臣法麻呂等。相告大行天皇喪」とある。


<万葉集引用資料>
その1
幸讃岐國安益郡之時、軍王見山作謌 集歌5の左注
右、檢日本書紀 無幸於讃岐國。亦軍王未詳也。但、山上憶良大夫類聚歌林曰、記曰、天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午、幸于伊豫温湯宮云々。一書云、 是時宮前在二樹木。此之二樹斑鳩比米二鳥大集。時勅多挂稲穂而養之。乃作歌云々。若疑従此便幸之歟。

その2
明日香川原宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇
額田王謌 未詳 集歌7の左注
右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、一書戊申年幸比良宮大御謌。但、紀曰、五年春、正月己卯朔辛巳、天皇、至自紀温湯。三月戊寅朔、天皇幸吉野宮而肆宴焉。庚辰日、天皇幸近江之平浦。

その3
後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇、後即位後岡本宮
額田王謌 集歌8の左注
右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酋十二月己巳朔壬午、天皇大后、幸于伊豫湯宮。後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔丙寅、御船西征始就于海路。庚戌、御船、泊于伊豫熟田津石湯行宮。天皇、御覧昔日猶存之物、當時忽起感愛之情。所以因製謌詠為之哀傷也。即此謌者天皇御製焉。但、額田王謌者別有四首。

その4
中大兄 近江宮御宇天皇 三山謌一首 集歌13の左注
右一首謌、今案不似反謌也。但、舊本以此謌載於反謌。故今猶載此次。亦紀曰、天豊財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇為皇太子。

その5
額田王下近江國時謌、井戸王即和謌 集歌17の左注
右二首謌、山上憶良大夫類聚歌林曰、遷都近江國時、御覧三輪山御謌焉。
日本書紀曰、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、遷都于近江。

その6
皇太子答御謌 明日香宮御宇天皇、謚曰天武天皇 集歌21の左注
紀曰、天皇七年丁卯夏五月五日、縦狩於蒲生野。于時天皇弟諸王内臣及群臣、皆悉従焉。

その7
十市皇女、参赴於伊勢神宮時、見波多横山巌吹黄刀自作謌 集歌22の左注
吹黄刀自未詳也。但、紀曰、天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥、十市皇女、阿閇皇女、参赴於伊勢神宮。

その8
麻續王聞之感傷和謌 集歌24の左注
右、案日本紀曰、天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯、三位麻續王有罪、流于因幡。一子流伊豆嶋、一子流血鹿嶋也。是云配于伊勢國伊良虞嶋者、若疑後人縁歌辞而誤記乎。

その9
天皇、幸于吉野宮時御製謌 集歌27の左注
紀曰、八年己卯五月庚辰朔甲申、幸于吉野宮。

その10
幸于紀伊國時川嶋皇子御作謌 或云、山上臣憶良作 集歌34の左注
日本紀曰、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸紀伊國也

その11
幸干吉野宮之時、柿本朝臣人麿作歌 集歌38の左注
右、日本紀曰、三年己丑正月、天皇幸吉野宮。八月幸吉野宮。四年庚寅二月、幸吉野宮。五月幸吉野宮。五年辛卯正月、幸吉野宮。四月幸吉野宮者、未詳知何月従駕作歌。

その12
石上大臣従駕作謌 集歌44の左注
右、日本紀曰、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、浄肆廣瀬王等為留守官。於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位撃上於朝、重諌曰、農作之前車駕未可以動。辛未天皇不従諌、遂幸伊勢。五月乙丑朔庚午、御阿胡行宮。

その13
藤原宮之役民作謌 集歌50の左注
右、日本紀曰、朱鳥七年癸巳秋八月、幸藤原宮地。八年甲午春正月、幸藤原宮。冬十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮

その14
十市皇女薨時高市皇子尊御作謌三首 集歌156の左注
紀曰、七年戊寅夏四月丁亥朔癸巳、十市皇女卒然病發薨於宮中

その15
皇子尊宮舎人等慟傷作謌廿三首 集歌171の左注
右日本紀曰、三年己丑夏四月癸未朔乙未薨

その16
柿本朝臣人麿獻泊瀬部皇女忍坂部皇子歌一首并短歌 集歌194の左注
右或本曰、葬河嶋皇子越智野之時、献泊瀬部皇女歌也。日本紀曰、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑、浄大参皇子河嶋薨。

その17
或書反歌一首 集歌202の左注
右一首類聚歌林曰、檜隅女王、怨泣澤神社之歌也。案日本紀曰、十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後尊薨。


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