竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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今日の古今 みそひと歌 木

2016年06月30日 | 古今 みそひと歌
今日の古今 みそひと歌 木

寛平御時后宮の歌合の歌 興風
歌番一三一 
原歌 こゑたえすなけやうくひすひととせにふたたひとたにくへきはるかは
標準 こゑたえずなけやうぐひすひととせにふたたびとだにくべき春かは
解釈 声絶えず鳴けや鴬一年に再びとだに来べき春かは
注意 この歌は、寛平御時后宮の歌合での歌番号〇〇四であり、その合わせた歌からは初春の季節での鶯の声と云うことで、春の訪れからの初鳴を詠うものとなります。ただし、古今和歌集の編纂の位置からすると、晩春の時期、桜が散り逝く名残を詠うものとしているのでしょうか。不思議な歌です。さて、どちらに取りましょうか。伝統では詞書に従わず散り逝く名残とします。

<参考歌 寛平御時后宮の歌合で合わせた歌>
春二番
左  素性法師
歌番〇〇三
原歌 ちるとみて あるへきものを うめのはな うたてにほひの そてにとまれる
解釈 散ると見て あるべきものを 梅の花 うたて匂ひの 袖にとまれる
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今日の古今 みそひと歌 水

2016年06月29日 | 古今 みそひと歌
今日の古今 みそひと歌 水

春を惜しみてよめる 元方
歌番一三〇 
原歌 をしめともととまらなくにはるかすみかへるみちにしたちぬとおもへは
標準 をしめどもとどまらなくに春霞かへる道にしたちぬとおもへば
解釈 惜しめども留まらなくに春霞帰る道にし立ちぬと思へば
注意 「たちぬ」の解釈をどうしましょうか。「春霞が立つ」としましょうか、「帰る道に私が立つ(発つ)」としましょうか、それとも、時間の経過から「春霞の風情が経つ」としましょうか、はたまた、留まりたいと云う「気持ちを断つ」としましょうか。これらの解釈によっては「ととまらなくに」の対象物が変わってきます。どこまで複線的に鑑賞できるかは、それぞれの感性です。解説では解釈を示すより、解釈の可能性を示すのが良いと思います。

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今日の古今 みそひと歌 火

2016年06月28日 | 古今 みそひと歌
今日の古今 みそひと歌 火

弥生のつごもり方に山を越えけるに、山河より花の流れけるをよめる 深養父
歌番一二九 
原歌 はなちれるみつのまにまにとめくれはやまにははるもなくなりにけり
標準 花ちれる水のまにまにとめくれば山には春もなくなりにけり
解釈 花散れる水のまにまに尋めくれば山には春もなくなりにけり
注意 「とめくれは」は「留めくれば」と「尋めくれば」との解釈が成り立ちます。川の岩肌のあちらこちらに散った花びらが漂う風情か、それとも川を遡って山桜の花を求めたのかは感性です。詞書からは「留めくれば」の方が近い感性です。なお、一方的に「尋めくれば」と解釈するのは伝統です。ご存知のように芸術ではなく文学として歌道化や入試科目化することは、鑑賞の答えを一つに集約する必要があります。本来の古今和歌集が目指した多様性に反しますが、芸術作品としてそれぞれの感性で鑑賞して歌が複線化しますと、古今和歌集の伝授に困ると云う事態になりますし、試験での採点が出来なくなります。

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今日の古今 みそひと歌 月

2016年06月27日 | 古今 みそひと歌
今日の古今 みそひと歌 月

弥生に鴬の声の久しう聞こえざりけるをよめる 貫之
歌番一二八 
原歌 なきとむるはなしなけれはうくひすもはてはものうくなりぬへらなり
標準 なきとむる花しなければうぐひすもはては物うくなりぬべらなり
解釈 鳴き止むる花しなければ鴬も果てはもの憂くなりぬべらなり
注意 弥生と云う季節ですから、花は桜と思われます。ただ、鶯は新暦八月頃までは里で鳴いていますから、歌の世界と実際の里山の世界は違います。現在は梅と鶯をセットで歌を詠うのがお約束ですが、平安時代は桜と鶯がセットだったのでしょうか。なお、宴会で美人を「花」、歌を所望された風流人を「鶯」と比喩して、庭先に聞こえない鶯の声に当て付けて即興で歌を詠えない人を揶揄したかもしれません。

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万葉集 長歌を鑑賞する 集歌1629

2016年06月26日 | 万葉集 長歌を楽しむ
万葉集 長歌を鑑賞する 集歌1629

大伴宿祢家持贈坂上大嬢謌一首并短謌
標訓 大伴宿祢家持の坂上大嬢(おほをとめ)に贈りたる謌一首并せて短謌
集歌1629 叩々 物乎念者 将言為便 将為々便毛奈之 妹与吾 手携而 旦者 庭尓出立 夕者 床打拂 白細乃 袖指代而 佐寐之夜也 常尓有家類 足日木能 山鳥許曽婆 峯向尓 嬬問為云 打蝉乃 人有我哉 如何為跡可 一日一夜毛 離居而 嘆戀良武 許己念者 胸許曽痛 其故尓 情奈具夜登 高圓乃 山尓毛野尓母 打行而 遊徃杼 花耳 丹穂日手有者 毎見 益而所思 奈何為而 忘物曽 戀云物呼

<標準的な解釈(「萬葉集 釋注」伊藤博、集英社文庫)>
訓読 ねもころに 物を思(おも)へば 言はむすべ 為(せ)むすべもなし 妹(いも)と我れと 手(て)たづさはりて 朝(あした)は 庭に出で立ち 夕(ゆうへ)は 床うち掃(はら)ひ 白栲(しろたへ)の 袖さし交(か)へて さ寝(ね)し夜や 常にありける あしひきの 山鳥こそば 峯(を)向(むか)ひに 妻(つま)どひすといへ うつせみの 人なる我や 何すとか 一日(ひとひ)一夜(ひとよ)も 離(さか)り居(ゐ)て 嘆き恋ふらむ ここ思(おも)へば 胸こそ痛き そこゆゑに 心(こころ)なぐやと 高円(たかまど)の 山にも野にも 打ち行きて 遊(あそ)び歩(ある)けど 花のみ にほひてあれば 見るごとに まして偲(しの)はゆ いかにして 忘れむものぞ 恋といふものを
意訳 つくづくと物を思うと、何と言ってよいか、どうしてよいか、処置がない。あなたと私と手と手を交わして、朝方には庭に下り立ち、夕方には寝床を払い清めては、袖を交わし合って共寝した夜が、いったいいつもあったであろうか。あの山鳥なら、谷を隔てて向かいの峰に妻どいをするというのに、この世の人である私は、何だってまあ一日一夜を離れているだけで、こんなにも嘆き慕うのであろうか。このことを思うと胸が痛んでならない。それで心のなごむこともあるかと、高円の山にも野にも、馬に鞭打って出かけて行き遊び歩いてみるけれど、花ばかりがいたずらに咲いているので、それを見るたびにいっそう思いがつのる。いったいどのようにしたら忘れることができるであろうか。この苦しい恋というものを。

<西本願寺本万葉集の原文を忠実に訓むときの解釈>
訓読 ねもころし 物を念(おも)へば 言(こと)為(し)便(すべ) 為(せ)む便(すべ)も無し 妹(いも)と吾(あれ) 手携(てたずさ)はりて 朝(あした)には 庭に出で立ち 夕(ゆうへ)には 床うち払ひ 白細(しろたへ)の 袖さし代(か)へて さ寝(ね)し夜や 常にありける あしひきの 山鳥こそば 峯(を)向(むか)ひに 妻問(つまとひ)云ひし 現世(うつせみ)の 人なる我や 何すとか 一日(ひとひ)一夜(ひとよ)も 離(さか)り居(ゐ)て 嘆き恋ふらむ ここ念(も)へば 胸こそ痛き そこ故に 情(こころ)和(な)ぐやと 高円(たかまど)の 山にも野にも うち行きて 遊び往(い)けど 花のみし 色付(にほひ)てあれば 見るごとし ましにそ思(おも)ふ 如何(いか)にせに 忘れむものぞ 恋いふものを
私訳 心を込めて物思いをすると、神に誓ったり、策を練ったりすることも出来ない。貴女と私とが手を携えて、朝には庭に出て立ち並び、夕べには寝床を清めて白妙の袖を交えて共寝した夜が、日常のようにあったでしょうか。葦や桧の茂る山に棲む山鳥こそは、峯の向こうに妻問いをすると云うのに、この世に生きる人である私は、どうしたことか、一日一夜も貴女と離れ離れになっていて、嘆き貴女を恋慕う。それを思うと胸は痛い。そのために、気持ちは和らぐだろうと、高円の山にも野にも出かけて行って風流を楽しむのだが、花ばかりが美しく咲いているので、それを眺めるたびに、反って貴女を慕ってしまう。どのようにして、忘れるのものなのでしょうか。人に恋すると云うものを。

注意 原歌「叩々」の訓じは難訓訓です。伝統では「ねもころ」と訓じます。訓じでは「萬葉集 釋注」とでは微妙に違いがあります。
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