竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 百七六 「生き返る」を鑑賞する

2016年06月25日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百七六 「生き返る」を鑑賞する

 今回は、「生き返る」をテーマに平安時代の古語から時代を遡り、万葉集の歌を鑑賞したいと思います。ただ、いつもの調子で、言いがかりに近い酔論ですし、また、お約束のバレ話でもあります。

 さて、平安古語に「あくがる」と云う言葉があります。この「あくがる」と云う古語の由来について、言葉は「あく+離る」と分解され、「あく」は「事・所」の意味合いを持っていたとの語源提案があります。他方、「あく」は「空く」であり、「あくがる」は「空く+離る」であるから、宙に心が離れて行く様を表す言葉であると解説するものもあります。この解釈を一歩進めますと「空く+反る」というものも現れ、「一時的に心が体から離れ、再び戻ってくる」となります。
 その古語としての標準的な意味合いは次のようなものです。
- 心が体から離れてさまよう。うわの空になる。
- どこともなく出歩く。さまよう。
- 心が離れる。疎遠になる。
 なお、現代日本語の「憧れる」とは意味合いが全くに違います。現代日本語の「憧れる」に相当する古語単語はありません。
 歴史にこの言葉を探しますと、万葉集の歌には見つけられませんでしたが、平安時代になると次のような作品に「あくがる」と云う言葉が現れて来ます。古いものでは古今和歌集巻二や貫之集に載る和歌に現れて来ますから、平安時代初期以前には「あくがる」と云う言葉は人々の間で使われるようになったと思われます。つまり、言葉が存在するのですから「心が体から離れさまよう。うわの空になる」と云う現象は、人々の間では認識されていたと推定されます。

<「あくがる」の言葉を含むもの>
 いつまでか野辺に心のあくがれむ花しちらずは千世もへぬべし (古今和歌集)
 思ひ余りわびぬる時は宿離れてあくがぬべきここちこそすれ (紀貫之集、古今六帖)
 もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る (和泉式部日記)
 沢の蛍も我が身よりあくがれいづるたまかとぞ見る (後拾遺集)
 物思ふ人のたましひは,げにあくがるる物になむありける (源氏物語)
 世の中をいとはかなきものに思して,ともすればあくがれ給ふを (栄花物語)

 そうした時、「あくがる」と云う言葉は使われていませんが、男女の禁断の恋の密会で、女性が私の心は宙に舞ったと詠う歌が古今和歌集にあります。それが次の歌です。

業平朝臣の伊勢国にまかりたりける時、斎宮なりける人にいと密かに逢ひて、又の朝に人やるすべなくて思ひをりける間に、女のもとよりおこせたりける よみ人しらず
君や来し我や行きけん思ほえず夢かうつつか寝てか覚めてか

 詞書に示すように女性は伊勢神宮の斎宮の立場の人ですから、建前として斎宮に籠り、精進潔斎して神を斎祀るのが務めです。その身分と立場からして女性から男性の許に闇にまぎれて出かけて行く状況はあり得ませんし、さらに平安時代の恋愛ルールでも男が女の許を尋ねます。このような禁断の恋の歌ですから、女性は「よみ人しらず」として扱われています。ただ、ほぼ、清和天皇の皇女であり伊勢斎宮を務めた恬子内親王であろうと推定されています。身分と立場からしますと、かように際どく危険な内容を詠った歌なのです。
 このような条件の下、この歌は夜間の密会の翌朝のものですから、まず、性愛の後感がテーマです。そうした時、歌の「君や来し我や行きけん」とは、どういう状況を詠っているかと云うことが重要になります。在原業平は恬子内親王と思われる女性と確かにその女性の寝所で密会しています。有名な奈良飛鳥神社の御田植神事では豊作を予祝するものとして天下りした神の代理の神主が采女(植女)と神婚神事と云う疑似性交を行います。現在は観光客なども見学する解放された空間での祭事ですから行為はユーモラスな疑似性交でしょうが、古式では里人だけの閉鎖された社会での祀りですから神主と采女が本当に神婚儀礼を行ったと思われます。およそ、そのような神事を司るのが務めである伊勢斎宮が歌を詠ったときに、そのような神婚儀礼と云うものが歌の背景にあったのではないでしょうか。また、返歌で「闇にまどひにき」と詠いますから、男は初めての寝所や斎宮の屋敷全体にも不慣れな状況はあったと思われますから、伊勢斎宮の寝所で夜をともに過ごしたことは確実です。業平ですから女性との密会でのその行為に戸惑いがあったというものではありません。つまり、歌は夜通しの性愛の中で「私はあくがれ」という状況になりましたと詠うものなのでしょう。
 参考として、鎌倉時代の私小説「とはすかたり」で登場する前斎宮愷子内親王は伊勢から都に戻った直後に後深草院から参内のお召が掛かります。そして、周囲は前斎宮と云う立場を心配して念のため主人公の二条に夜の替え添えを命じますが、心配をよそに二条がしらけるほどに前斎宮は夜が上手であったとします。そして、その「とはすかたり」では、共寝の翌朝、後深草院は前斎宮を「桜はにほひは美しけれども枝もろく折りやすき花」と擬え、前斎宮はその夜の出来事を「夢の面影」と称します。また、この時代までに、女性たちは夜の営みを「夢」と称していますから、「夢の面影」という言葉はそのような比喩を用いたものとして解釈する必要があります。本来は、精進潔斎を務めとする伊勢斎宮ではありますが、かように神婚儀礼の実務に精通していたと思われます。足して、「とはすかたり」で示される後深草院の性癖は蕾や初花を好みに合わせて育てるのが好きだったようで、既に咲き誇る花は好みではなかったようです。後深草院の「折りやすき花」はそのような意味合いです。この愷子内親王から逆に眺めますと恬子内親王もまた咲き誇る花であったと推定されます。
 ここで、古今和歌集での「夢」と云う言葉を持つ歌を紹介します。この「夢」を夜の営みの比喩であるとすると、まめかしい歌となるのではないでしょうか。

山寺に詣でたりけるによめる 紀貫之
歌番号0117 
解釈 宿りして春の山辺に寝たる夜は夢のうちにも花ぞ散りける
私訳 春の山辺の宿に泊まって一夜を過ごしたとき、野辺に花びらが風に舞うように夜床でも貴女が舞い散りました。

題しらず 小野小町
歌番号0553 
解釈 うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふ物は頼みそめてき
私訳 うたた寝をした時に恋しい人を夢の中に見てからは、貴方に抱かれ、女になりたいという気持ちが募って来ました。

 このような解釈を総合して歌を解釈しますと、次のようなものになります。なお、授業での伊勢物語や古今和歌集の解釈・解説ではありませんから、内容は大人のバレ話となっています。

業平朝臣の伊勢国にまかりたりける時、斎宮なりける人にいと密かに逢ひて、又の朝に人やるすべなくて思ひをりける間に、女のもとよりおこせたりける よみ人しらず
歌番号0645 
解釈 君や来し我や行きけん思ほえず夢かうつつか寝てか覚めてか
私訳 昨夜、貴方が私の体で果てたのでしょうか、それとも私が貴方によって気がいったのでしょうか。そのことは夢だったのでしょうか、それとも本当のことだったのでしょうか。

返し 業平朝臣
歌番号0646 
解釈 かき暮らす心の闇にまどひにき夢うつつとは世人定めよ
私訳 貴女を欠いて日を暮らす、その言葉の響きではありませんが、火を欠き暗くするような真っ暗な心のような、その闇の中で惑うばかりで確かなことは言えません。夢だったのか、本当のことだったのか、それは世の人の噂話に任せましょう。


 平安時代初期の段階でこのような男女の仲で際どい歌が詠われています。では、万葉集ではどうかと云うと次のような歌を見出すことが出来ます。
 当然、袴着や裳着の儀礼を経た成熟した男女ですから、「恋」や「相手を想う(=念)」と云う行為には暗黙的な約束として共寝を伴う性愛と云うものがあります。集歌2390の歌が詠うように、共寝を伴う性愛により体が何度も死んで生き返るとします。当時の死とは体から霊魂が抜けだした状態やモノを云いますから、共寝を伴う性愛により女性の体から霊魂が抜けだした状態を暗示します。ちょうどそれは、柿本人麻呂時代の表現では「死反」であり、紀貫之時代では「あくがる」と云う表現となるのでしょうか。そうしますと、先に「あくがる」は「空く+離る」と云う説を紹介しましたが、和歌では心と体との関係において「空く+反る」であるのかもしれません。

集歌2390 戀為 死為物 有 我身千遍 死反
訓読 恋するに死するものしあらませば我が身千遍(ちたび)し死し反(かへ)らまし
私訳 貴方に抱かれる恋の行いをして、そのために死ぬのでしたら、私の体は千遍も死んで生き還りましょう。

集歌603 念西 死為物尓 有麻世波 千遍曽吾者 死變益
訓読 念(おも)ふにし死しするものにあらませば千遍(ちたび)ぞ吾は死(し)し反(かへ)らまし
私訳 (人麻呂に愛された隠れ妻が詠うように)閨で貴方に抱かれて死ぬような思いをすることがあるのならば、千遍でも私は死んで生き返りましょう。

 万葉集は性愛を詠うと評論するように、男性器を太刀と比喩して性愛を詠うものがあります。ここでは太刀と云う言葉に対して縁語である死と云う言葉が使われていますが、先の「死反」と云う意味合いからしますと、女性が男性の性愛で気を宙に飛ばす状態になるでしょうと告げているのかもしれません。露骨に性愛を詠う集歌2949の歌では「得田價異 心欝悒 事計 吉為」と久しぶりの性愛で女性が男性に色々な性戯を求めていますから、肌のなじんだ関係が推測されます。それと同様に集歌2498の歌もまた肌のなじんだ関係の男女なのでしょう。さらに柿本人麻呂の歌として、歌に「手舞足踏」の詞の暗示があるのですと、剣太刀による性愛で気が宙に舞う非常なる歓喜を暗示することになります。なお、集歌2636の歌になりますと、表の刃物としての太刀と裏の隠語比喩としての太刀との言葉遊びが含まれ、性愛の激情感は弱まります。

集歌2498 剱刀 諸刃利 足踏 死々 公依
訓読 剣(つるぎ)太刀(たち)諸刃(もろは)し利(と)きし足踏みし死なば死なむよ公(きみ)し依(よ)りては
私訳 二人で寝る褥の側に置いた貴方が常に身に帯びる剣や太刀の諸刃の鋭い刃に、私が手舞足踏の詞ではありませんが、愛撫に喜びを感じて死ぬのなら死にましょう。貴方のお側に寄り添ったためなら。

集歌2636 剱刀 諸刃之於荷 去觸而所 殺鴨将死 戀管不有者
訓読 剣(つるぎ)太刀(たち)諸刃(もろは)し上(うへ)に触(ふ)れ去(い)にそ殺(し)ぬかも死なむ恋ひつつあらずは
私訳 立派な貴方の剣や太刀のような鋭い刃のような「もの」に触れてしまったら、それで殺されるなら死にましょう。これが恋の行いでないのなら。

 万葉集にも性愛を詠う歌は数ありますが、この柿本人麻呂歌集に載る集歌2390と集歌2498との歌二首を超えるものはありません。そのため、早く奈良時代前期にはこの歌を引用する歌が詠われ、また、源氏物語ではこのような歌は「生」ですからままに引用はされていませんが、それでも別の歌を引用することで人麻呂の詠う濃密な恋の世界を展開しています。

 さて、「あくがる」と云う平安時代初期には存在した言葉から出発しましたが、身体からの精神の幽体離脱を「死反」や「あくがる」と云う言葉で表現しているとことに対して精神と身体とが一体化し心身充実している状態を万葉集では「霊剋、霊寸春」(たまきはる)と表現したようです。

集歌4 玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野
訓読 霊(たま)きはる宇智(うち)の大野に馬(むま)並(な)めて朝踏ますらむその草(くさ)深野(ふかの)
私訳 霊きはる(気が満ち充実する)、その言葉の響きではありませんが、春の宇智にある大野に馬を並べて、朝に大地を踏ますのでしょう。その草深い野で。

集歌1912 霊寸春 吾山之於尓 立霞 雖立雖座 君之随意
訓読 たまきはる吾(あ)が山し上(へ)に立つ霞立つとも坐(ゐ)とも君しまにまに
私訳 春の様に気が満ちている私、その闊達な私の住む里の山の上に立ち上る霞、その言葉の響きではありませんが、立っていても座っていても貴女を慕い思い込める、そのような私を貴女の思し召しの通りにしてください。

 当然、精神と身体とが一体化し心身充実している状態ですから、男女の夜床には似合わない言葉です。あくまで、お日様の下での言葉です。ただ、性愛の世界では女性も好みがあったようで、次の集歌3486の歌の女性のように思いっきり強く抱きしめてもらいたい人もいたようです。このような好みでは「霊寸春吾」のような心身充実し、頑強な男が好ましいのかもしれません。

集歌3486 可奈思伊毛乎 由豆加奈倍麻伎 母許呂乎乃 許登等思伊波婆 伊夜可多麻斯尓
訓読 愛(かな)し妹を弓束(ゆづか)並(な)へ巻き如己男(もころを)の事(こと)とし云はばいや扁(かた)益(ま)しに
私訳 かわいいお前を、弓束に藤蔓をしっかり巻くように抱きしめるが、それが隣の男と同じようだと云うなら、もっと強く抱いてやる。

 今回、「生き返る」と云うテーマで遊びましたが、歌を調べる中で今まで弊ブログで垂れ流して来た解釈が、相当、とぼけた解釈であったことが身に染みました。いや、実に恥ずかしいことです。学校を出ていないためからか、平安時代、「夢」と云う言葉に性交渉と云う意味があったこと、「足踏」と云う言葉を「手舞足踏」の略語とするなら狂喜乱舞と云う可能性を知りませんでした。歌で「足踏」と云う言葉を夜事の状況説明に使えば女性が失神するほどの快感と解釈するのは奈良貴族の教養でしょうね。
 いや、勉強不足でした。恥ずかしい次第です。
 ただ、これに準じて古今和歌集の歌を見直すと、相当に影響が出て来るのではないでしょうか。改めて、歌を紹介します。

山寺に詣でたりけるによめる 紀貫之
歌番号0117 
解釈 宿りして春の山辺に寝たる夜は夢のうちにも花ぞ散りける
標準 宿を取って、春の山辺に寝た夜は、夢の中にも花が散っていたことよ。
私訳 春の山辺の宿に泊まって一夜を過ごしたとき、野辺に花びらが風に舞うように夜床でも貴女が舞い散りました。


題しらず 小野小町
歌番号0553 
解釈 うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふ物は頼みそめてき
標準 うたた寝をしていて恋しい人を見て以来、夢というものを頼みにするようになってしまった。
私訳 うたた寝をした時に恋しい貴方を夢の中に見てからは、貴方に抱かれ、女になりたいという気持ちが募って来ました。

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万葉雑記 色眼鏡 百七五 相聞と問答

2016年06月18日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百七五 相聞と問答

 今回は万葉集の相聞歌と問答歌で遊びます。
 万葉集の相聞歌は相手の状況や消息を尋ねるもので、問答歌は文字通りに歌で問答をするものです。従いまして、相聞歌は一首単独でも成立しますが、問答歌は最低二首以上の組歌となる必要がありますし、複数の人物間での問答ですから何がしらの共通するテーマが存在することになります。問答歌は歌垣で詠われた歌の発展したものと考えるのが良いようです。
 ただ、標準的な万葉集中の「相聞」と云う部立への解釈では「愛」をテーマに詠う歌と捉えることがあります。「相聞」と云う部立でくくられる歌は男女の性愛だけに限らず、男性や女性の同性間や公式行事でのものもありますから、「愛」と云うものを「性愛」に限定せず、人間愛、人類愛、自然愛などと拡大して解釈し、「愛」をテーマにしたものと説明するようです。この相聞歌が「愛」をテーマにした歌とする時、問答歌は相聞歌の中での二首組歌となる特殊なものと解釈するようです。これに対して、最初に説明しましたように、文字通りに「相聞」、「問答」を漢字表記に合わせて漢文読みしますと、全くに面白味のない回答になりますし、新たな解釈を提案した先達の研究が台無しになります。
 一方、万葉集での言葉の定義を棚置きにしますと、古今和歌集以降の競技和歌となる歌会で合わせられる左右二首は与えられたテーマに対し詠い、かつ二首一組で構成しますから万葉集の問答歌の様にも思えるかもしれません。しかしながら競技ルールからしますと左右の歌が相手の歌と関係性を持つ必要は必ずしもありません。テーマに沿った歌を歌の優劣を決める競技として持ち寄れば良いのです。そこに問答関係は成立しません。歌合の組歌二首は、ただ、テーマに沿って漢詩を詠う宴の和歌版です。
 なお、古今和歌集以降では贈歌と返歌と云う組み合わせの歌形式があり、これは万葉集の問答歌と同じものとなります。万葉集の問答歌が複数の人物間での問答をテーマにしたものであり、必ずしも男女の性愛を取り上げる必要が無いように、古今和歌集での贈歌と返歌の組み合わせも性愛だけを取り上げたものだけではありません。歌を使った質問への回答のような組み合わせもあります。さらには、ある種、花鳥の使いのような、歌問答や歌による暗号通信と云うようなものもあります。

<相聞歌 三首紹介;歌番号は連続ですが、相互に関係はありません>
万葉集巻十
春相聞
標訓 春の相聞
集歌1890 春日野 犬鶯 鳴別 春眷益間 思御吾
試訓 春日(はるひ)野し犬鶯(おほよしきり)し鳴き別れ春眷(み)ます間(ま)も思ほせわれを
試訳 春の日の輝く野で犬鶯が鳴いて飛び去るように、過ぎゆく春をしみじみ懐かしく思う、その折々にも思いだして下さい、私を。

集歌1891 冬隠 春開花 手折以 千遍限 戀渡鴨
訓読 冬ごもり春咲く花を手折り持ち千遍し限り恋ひ渡るかも
私訳 冬が春の日に隠れ、その春の咲く花を手で折って持って無限の思いで貴女に恋い焦がれるでしょう。

集歌1892 春山 霧惑在 鶯 我益 物念哉
訓読 春山し霧し惑へる鶯しわれにまさりて物思はめや
私訳 春山の霧に相手を求めてあちこちと飛び迷っている鶯も、私以上に相手のことを想っているでしょうか。

<問答歌 三組紹介;巻十では「右二首」のような紹介ではない>
万葉集巻十
問答
標訓 問答(もんどう)
<テーマ:言葉尻を捕えた恋歌、馬酔と不悪。神杉と神備>
集歌1926 春山之 馬酔花之 不悪 公尓波思恵也 所因友好
訓読 春山し馬酔木(あしび)し花し悪(あ)しからぬ公(きみ)にはしゑやそ因(よ)るともよし
私訳 春山の馬酔木の花の言葉の響きのような、悪しからぬ貴方には、ままよ、このように男女の仲が出来ても良い。

集歌1927 石上 振乃神杉 神備而 吾八更々 戀尓相尓家留
訓読 石上(いそのかみ)布留(ふる)の神(かむ)杉(すぎ)神(かむ)さびて吾(われ)やさらさら恋にあひにける
私訳 石上の布留にある神杉のように時代が経ち年老いた私です。そんな私に、今さらに恋愛に出会ったようです。
右一首、不有春謌、而猶以和、故載於茲次。
注訓 右の一首は、春の歌にあらねども、猶(なほ)、和(こた)へるを以(もち)て、故にこの次(しだひ)に載す。

<テーマ:狭野方と実の言葉>
集歌1928 狭野方波 實尓雖不成 花耳 開而所見社 戀之名草尓
訓読 狭野(さの)方(かた)は実に成らずも花のみし咲きて見えこそ恋しなぐさに
意訳 狭野方は実にならなくてもせめて花だけでも咲いて見せてくれ。恋の慰めに。
(万葉集の成り立ち推定から次のような試訓を行っています)
試訓 背の方は実に成らずも花のみに咲きて見えこそ恋のなぐさに
試訳 尊敬する貴方の万葉集後編「宇梅之波奈」が完成しなくても、その和歌の歌々を見せてほしい、和歌への渇望の慰めに。

集歌1929 狭野方波 實尓成西乎 今更 春雨零而 花将咲八方
訓読 狭野(さの)方(かた)は実に成りにしを今さらし春雨降りて花咲かめやも
意訳 狭野方はもう実になったのに、今更に春雨が降って花が咲いたりするでしょうか。
(万葉集の成り立ち推定から次のような試訓を行っています)
試訓 背の方は実に成りにしを今さらに春雨降りて花咲かめやも
試訳 尊敬する貴方の万葉集後編「宇梅之波奈」が完成しましたが、今後に春雨が降って花が開くように和歌の花が開くことはあるのでしょうか。

<テーマ:藻>
集歌1930 梓弓 引津邊有 莫告藻之 花咲及二 不會君毳
訓読 梓(あずさ)弓(ゆみ)引津(ひきつ)し辺(へ)なる名告藻(なのりそ)し花咲くまでに逢はぬ君かも
私訳 梓弓を引く、その引津のあたりにある、花が咲くことのない、その名告藻の花が咲くまでには、逢ってはくださらない貴女なのですね。

集歌1931 川上之 伊都藻之花乃 何時々々 来座吾背子 時自異目八方
訓読 川し上(へ)しいつ藻し花のいついつも来(き)ませ吾(あ)が背子時じけめやも
私訳 川の水面の清らかな厳藻の花の名のように、いつもいつもやって来てください。私の愛しい貴方。貴方が訪ねて来るのに都合の悪い時があるでしょうか。

<問答歌 二組紹介;ここでは「右二首」と組歌として紹介>
万葉集巻十二
問答
標訓 問答(もんどう)
<テーマ:八十梶懸>
集歌3211 玉緒乃 徒心哉 八十梶懸 水手出牟船尓 後而将居
訓読 玉し緒の徒(いた)し心や八十(やそ)梶(か)懸(か)け水手(かこ)出(で)む船に後れて居(を)らむ
私訳 玉を貫く緒が垂れるように、むなしい気持ちです。たくさんの梶を艫に下げ水夫が立ち働く船に、私は後に残されて、ここに居るのでしょう。

集歌3212 八十梶懸 嶋隠去者 吾妹兒之 留登将振 袖不所見可聞
訓読 八十(やそ)梶(か)懸(か)け島(しま)隠(かく)りなば吾妹子し留(と)まれと振らむ袖見えじかも
私訳 たくさんの梶を艫に下げて船が出て行き島に隠れてしまうと、私の愛しい貴女がここに居て下さいと魂を呼び戻す振る袖が見えなくなるでしょう。
右二首

<テーマ:十月の雨>
集歌3213 十月 鍾礼乃雨丹 沾乍哉 君之行疑 宿可借疑
訓読 十月(かむなつき)時雨(しぐれ)の雨に濡れつつか君し行くらむ宿(やど)か借(か)るらむ
私訳 神無月の時雨の雨に濡れながら愛しい貴方は、ここから帰って行くのでしょうか。途中で雨宿りの宿を借りることがあるのでしょうか。

集歌3214 十月雨 〃間毛不置 零尓西者 誰里之間 宿可借益
訓読 十月(そつき)雨(あめ)雨(あま)間(ま)も置かず降りにせば誰(た)が里し間(ま)し宿(やど)か借らまし
私訳 突然の神無月の時雨の雨があちらこちらで間も置かずに降ったならば、だれの郷の所(他の女性の家の意味)で雨宿りの宿を借りましょうか。
右二首

 以上、紹介しました。これが万葉集での相聞歌と問答歌との相違です。繰り返しになりますが、部立標題の「相聞」や「問答」は漢語であり、和語ではありません。つまり、「相聞」は相手に消息や状況を尋ねるものですし、「問答」は複数の人が歌で対話を行うことです。伊藤博氏が唱えるような、もっぱら「愛」をテーマにした歌ではありません。ただ、男同士や女同士よりも男女間での相聞歌の比率が高いために、必然、恋愛関係下での相手の消息や状況を尋ねるものの比率が高くなっただけです。
 つぎに対比参考として古今和歌集に載る贈歌と返しとで構成する二首組歌を紹介します。なお、紹介するものは恣意的に在原業平に関係する恋愛をテーマにしたものだけを選抜しています。地名や物名のようなモノに対した問答歌は取り上げていません。個人の歌に対する好みとして了解を願います。

<古今和歌集 贈歌と返しの二首組歌>
桜の花の盛りに久しくと訪はざりける人の来たりける時によみける よみ人しらず
歌番号0062 
解釈 あだなりと名にこそ立てれ桜花年に稀なる人も待ちけり
意訳 「貴方に恨みがある」と、私の貴方への評価はきっと下るでしょう。桜の花が年に一度の希なように、まれにしかやって来ない貴方を私は待っています。
返し 業平朝臣
歌番号0063 
解釈 今日来ずは明日はゆきとぞふりなまし消えずはありとも花と見ましや
意訳 今日逢いに行かなくても明日は逢いに行くでしょう。私が貴女を素気無くしたのではありません。私が貴女に信頼を寄せることはあっても。だから咲く桜を私が逢いに行く兆しと思いましたか。


右近の馬場の日折の日、向ひに立てたりける車の下簾より女の顔のほのかに見えければ、よむでつかはしける 在原業平朝臣
歌番号0476 
解釈 見ずもあらず見もせぬ人の恋しくはあやなく今日やながめ暮らさむ
意訳 見たとも言えず、見ないとも言えない人が恋しくて、今日はただ、訳もわからないまま物思いをして過ごそうかと思います
返し よみ人しらず
歌番号0477 
解釈 知る知らぬ何かあやなく分きて言はむ思ひのみこそしるべなりけれ
意訳 知っているとか知らないとか、無駄なのはそうして考えていることであって、もし恋しい気持ちがあるならそれが案内となるでしょうに


業平朝臣の家にはべりける女のもとによみてつかはしける 敏行朝臣
歌番号0617 
解釈 つれづれのながめにまさる涙河袖のみ濡れて逢ふよしもなし
意訳 どうにもやるせなく眺める、この長雨の、その雨にもまさる憂いの涙河のため、ただ袖だけが濡れて、貴女からの承諾の返事もないので逢いに行く手だてがありません。
かの女に代はりて返しによめる 業平朝臣
歌番号0618 
解釈 浅みこそ袖はひつらめ涙河身さへ流ると聞かば頼まむ
意訳 流す涙が為す涙河の瀬は浅いから袖だけが濡れるのでしょう、その涙が作る涙川の激流で体が流れるほどだと言うなら、貴方を私の背の君として頼みにしようと思いましょう。


業平朝臣の伊勢国にまかりたりける時、斎宮なりける人にいと密かに逢ひて、又の朝に人やるすべなくて思ひをりける間に、女のもとよりおこせたりける よみ人しらず
歌番号0645 
解釈 君や来し我や行きけん思ほえず夢かうつつか寝てか覚めてか
意訳 昨夜、貴方が私の体で果てたのでしょうか、それとも私が貴方によって気がいったのでしょうか。そのことは夢だったのでしょうか、それとも本当のことだったのでしょうか。
返し 業平朝臣
歌番号0646 
解釈 かき暮らす心の闇にまどひにき夢うつつとは世人定めよ
意訳 貴女を欠いて日を暮らす、その言葉の響きではありませんが、火を欠き暗くするような真っ暗な心のような、その闇の中で惑うばかりで確かなことは言えません。夢だったのか、本当のことだったのか、それは世の人の噂話に任せましょう。


ある女の、「業平朝臣を所定めず歩きす」と思ひてよみてつかはしける よみ人しらず
歌番号0706 
解釈 大幣の引くてあまたになりぬれば思へどえこそ頼まざりけれ
意訳 大幣のように引く手あまたの貴方ですから、愛しいとは思うけれど、だからこそ貴方を背の君として頼みすることをしないのです。
返し
業平朝臣
歌番号0707 
解釈 大幣と名にこそ立てれ流れてもつひに寄る瀬はありてふものを
意訳 貴女はこの私を道饗の大幣のようだと評判しているが、その引手あまたの大幣が祭り終わりに川へと流れても、六月晦日の道饗の大幣がそうであるように、やがて最後にたどりつく瀬(背)はあるではありませんか。


 ここで紹介しました古今和歌集の贈歌と返しの二首組歌はその歌に付けられた詞書との組み合わせにより、やがて、歌物語への進化する初期の段階のものです。万葉集の問答歌では歌から問答がされている場面や人間関係など、全てを理解する必要があります。
 例えば、十月の雨をテーマにした二首組歌では「君之行疑 宿可借疑」の表記から「好いた男があちらこちらの女の許に遊びに行くのか」と云う女の疑惑が想像されます。一方、応歌では「誰里之間 宿可借益」から「貴女が心配するような、どこかの途中の屋敷で、長雨を言い訳に逗留をしましょうか」とからかうようなものとなります。十月の時雨季節、雨を理由にやって来ない男、それを待ち、到来を催促する女、それに対して、途中で降られるだろう時雨を理由に「途中で他に泊まっても良いの」と言い訳する男。このような関係を二首の内に見る必要があります。
 それが伊勢物語や古今和歌集の時代になりますと、詞書を充実させることで歌の受け手の解釈への負担が軽減されます。さらに発展形として、最後に紹介しました「大幣」の二首の詞書に、六月の夏越の祓の後に行われる災いを追い返すと云う道饗祭での大幣神事を解説し、さらにその準備や当日の女性たちの衣装を創作・紹介しますと、それはもう源氏物語の世界となります。

 相聞は個人の作業ですが、そこに複数の人間を参加させ、歌を問答へと成長させ、さらに、問答に詞書で状況を加えることで歌物語へと進化します。ただ、その問答は歌垣の歌からの発展もあったのでしょう。万葉集巻十の問答歌は、内容よりも同じ言葉や言葉尻の発声から歌を継いだような様相を見せます。それが奈良時代初期には巻十二に載る二首組歌のように内容と表現とが組み合った高度なものへと進化しています。そうした時、万葉集では歌は漢語と万葉仮名と云う表語文字である漢字から、その選字された文字を駆使することで前置漢文や標題に頼らずに歌だけで場面や人物の解説が可能でした。ところが、古今和歌集の時代の和歌は表語文字と云う漢字の力を否定したものですから、歌を表記する漢字文字に場面や人物を説明させることは出来ません。そのため歌で詠われる場を紹介する詞書と云うものが重要になります。そして、詞書に場面や人物を語らせ、歌と一体化することで歌物語が誕生しました。さらに、その歌物語は詞書を詳細・長文化することで物語へと発展を遂げて行きます。
 個人として歌の進化をこのように解釈していますが、さてはて、無知からの酔論でしょうか、暴論でしょうか。
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万葉雑記 色眼鏡 百七四 再び、廣韻で遊ぶ

2016年06月11日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百七四 再び、廣韻で遊ぶ

 日本(ニッポン)では「大和」と漢字表記して「ヤマト」と訓じます。これは慣用的な訓じで漢字文字本来の音韻とは関係ありません。同じように倭と漢字表記して「ヤマト」と訓じるのも同じです。また、古語の世界では「日本」と漢字表記して「ヤマト」と訓じるのも同じ慣用的な訓じです。これについて、『日本書紀』では「日本、此云耶麻騰」としますし、平安時代初期に書かれた『日本紀私記』の序文に「古者謂之倭國。倭意未詳。或曰取稱我之音、漢人所名之字也。通云山跡。山謂之耶麻、跡謂之止、音登、戸、及下同。夫天地剖判、埿濕未燥、是以栖山徃來固自多蹤跡、故曰邪麻止。又、古語謂居住為止、言止。住於山也、音同上」と云う解説文を補注しますが、平安時代初期の段階で、すでに「倭」と漢字表記して「ヤマト」と訓じるその理由は失われていたようです。
 さて、日本人による「ヤマト」の表記は『古事記』からが最初で、それ以前は中国人による表記になります。そうした時、『魏志倭人伝』での「邪馬臺」の音韻は中国中古音では「jĭa ma dʱɑ̆i」であり、『隋書倭国伝』での「邪靡堆」は「jĭa mie̯ tuɑ̆i」です。この二つの「邪馬臺」と「邪靡堆」との間には四百年の時の流れと、中国中原における人種の交代・混入があります。このような状況を踏まえますと、時代においてそれぞれの日本人が話す「ヤマト」と云う言葉をそれぞれの中国人によって中国語に写したとき「邪馬臺」と「邪靡堆」とは同じものを示していると思われます。
 ここで、『魏志倭人伝』での「邪馬臺」の音韻は中国中古音では「jĭa ma dʱɑ̆i」ですが、『日本書紀』の「耶麻騰」の中国中古音は「jĭa ma dʱəŋ」です。他方、この「耶麻騰」の近代日本語研究での発声は「ye ma teng」ですから、大きな相違があることになります。ポータブルな漢字辞典である『漢辞海』は漢字の音韻を『宋本廣韻』によるとしていますが、同時に日本での慣用的な発声も参考としているようです。そのため、発声研究の根拠は同じ『宋本廣韻』からのはずですが中国の漢字解説HP「漢典」で紹介する「高本漢」や「王力」が導き出した発声とは相違します。
 このため、漢字発声から大和言葉の発声を借音する一字一音の万葉仮名と云う漢字文字に対して、厳密に中国中古音を借音していたと思われる藤原京や平城京時代と遣唐使を取りやめた平安時代中期以降では漢字文字の発声が違う可能性があります。さらに『古語拾遺』などに見られるように平安時代初期から見た古語と当時の言葉において、古語の「腋子」が「稚子」と表記を変え「わくご」と訓じるのは「なまり」であり、言葉の変化の結果とします。例として「蟹守」と「借守」も同様とします。漢字文字の訓じにおいては、このような時代の流れの中での音韻の変化や発声での「なまり」と云う問題を考慮する必要があります。
 参考として以下に「大和」の、時代における表記と発声の変化を紹介します。

<夜麻登>:古事記  (中国中古音 jĭa ma təŋ 日本音韻 ye ma deng)

廣韻 jĭa
漢字源 ye
漢辞海 ye


廣韻 ma
漢字源 ma
漢辞海 ma


廣韻 təŋ
漢字源 deng 注意:平安時代では、止、登、戸は同音で、「to」です
漢辞海 deng 注意:平安時代では、止、登、戸は同音で、「to」です

<耶麻騰>:日本書紀  (中国中古音 jĭa ma dʱəŋ 日本音韻 ye ma teng)

廣韻 jĭa
漢字源 ye
漢辞海 ye


廣韻 ma
漢字源 ma
漢辞海 ma


廣韻 dʱəŋ又はdəŋ
漢字源 teng
漢辞海 teng

<邪靡堆>:隋書倭国伝  (中国中古音 jĭa mie̯ tuɑ̆i 日本音韻 ye mi dui)

廣韻 jĭa又はzĭa
漢字源 xie又はye
漢辞海 xie又はye


廣韻 mie̯又はmǐe
漢字源 mi
漢辞海 mi又はmo


廣韻 tuɑ̆i 又はtuɒi
漢字源 dui又はzui
漢辞海 dui

<邪馬臺>:魏志倭人伝  (中国中古音 jĭa ma dʱɑ̆i 日本音韻 ye ma tai)

廣韻 jĭa又はzĭa
漢字源 xie又はye
漢辞海 xie又はye


廣韻 ma
漢字源 ma
漢辞海 ma


廣韻 dʱɑ̆i 又はdɒi
漢字源 tai又はyi
漢辞海 tai又はyi


 以上、紹介しましたように音韻において、中国側からの中国中古音での発声と日本側の研究からの発声は違います。そのため、同じ漢字表記の「大和」について、その発音は平安時代初期では万葉仮名表記では「耶麻跡」であり「ヤマト」と訓じると解説しますが、日本の音韻の研究者は漢字一字一字に分解した時、これを採用しません。さらに平安時代人は平安時代初期においては「山」を「耶麻(ヤマ)」と訓じるが、本来の意味からは古い表記の「邪麻」が正しいとします。ここに「なまり」と云うものからの言葉の変化があったと解説します。このように平安時代初期のものはずいぶんと鎌倉時代以降の解釈とは違うようです。
 漢字文字が持つ音韻からしますと、同じ漢字表記の言葉でも平安時代初期以前と鎌倉時代以降とでは同じ京都と云う地域内に生活の拠点を有する朝廷貴族階級であってもその発声が違う可能性があります。今回取り上げました、夜麻登、耶麻騰(耶麻跡)、邪靡堆、邪馬臺は中国中古音からは現代語で「ヤマト」と訓じるべきものですが、鎌倉時代以降にもたらされた『韻鏡』による日本側の研究や宋留学僧などからしますと鎌倉時代以降の日本語からは違う発声や言葉となるようです。
 少しややこしいのですが、鎌倉時代の宋への留学僧は彼らが学んだ末期唐代から宋代の中国語を「唐音」と称し、そこからその発声言語とは違う隋から唐中期までの中国語を「漢音」と称しました。このため、インターネット検索で大陸中国や台湾の資料を参照するときは、ご注意を願います。参考として、中国唐時代人は「漢」と云う漢字を「痴漢」で代表されるように「やから」のような品の無い言葉として扱っていますので、自身の言葉を「漢音」と称する可能性はありません。あくまで宋時代以降から見て「唐音」か、中国唐時代人からの「正音」かです。『日本紀略』に「漢音」なる言葉がありますが、それが「正音」を意味するかは不明です。詔の本質は僧侶たちが仏教経典の声明を行う時は「漢音」による発音を使用することとの指示です。ご存知のように仏教声明には多く経典に伴って入って来た呉音が残っていて、この呉音は秦・漢時代の古い中国古音に分類されるものです。八世紀以降の木簡が特徴だって正しい漢文を記すようになったように、この頃に日本は大陸と直接に交流をしましたが、中国語(正音)においてそれは桓武天皇時代でも残る百済系帰化人が使う朝鮮半島経由の中国語発音とは違うものです。日本では漢字古音に、呉音や正音に属さない別の中国古音が存在することは有名です。例として「止」の古音「ト」、呉音「シ」、正音「シ」。「移」の古音「ヤ」、呉音「イ」、正音「イ」。

 ここで、同じ漢字文字に対して『廣韻』をともに使用していてもその解釈される音韻が時代によって違うという視点から万葉集の難訓歌についておさらいをしてみます。取り上げるものは「莫囂圓隣之」の難訓を持つ集歌九の額田王が詠う歌です。

幸于紀温泉之時、額田王作謌
標訓 紀温泉(きのいでゆ)に幸(いでま)しし時に、額田王の作れる歌
集歌九
原歌 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
訓読 染(そ)まりなし御備(おそな)え副(そ)えき吾(あ)が背子し巌立ち為(せ)しけむ厳橿(いつかし)が本(もと)
私訳 一点の穢れなき白栲の布を奉幣に副えました。吾らがお慕いする君が、梓弓が立てる音の中、その奉幣をいたしました。大和の橿原宮の元宮であります、この熊野速玉大社(神倉神社)を厳かに建てられた大王(=神武天皇)よ

 既に弊ブログでは紹介していますが、伝統では初句と二句目が難訓とされていて、三句目以降についてはそれほどの議論はありません。そうしますと、文字数からしますと二句目までが十二文字ですから、初句が五文字、二句目が七文字による表記と推定され、訓じは一字一音の万葉仮名となる漢字からの借音字となります。ここまでは伝統の難訓研究でも異論はないところです。つまり、一字一音の漢字文字を大和言葉への音化が出来ないというのがこの歌の難訓問題の本質です。その帰結は純然たる漢字文字の音韻研究と云うことになります。他方、日本語標準において「囂」は慣用的に「呉音 : キョウ(ケウ)、ゴウ(ガウ)、漢音 : キョウ(ケウ)、ゴウ(ガウ)」と発声するとします。これが難訓と云う事態を引き起こしているのです。一字一音であるはずの漢字文字が伝統の漢字音韻研究では二音字になってしまいすし、そのような発声を採用しますと初句全体の文字群で六音以上になり、また、大和言葉が成立しないということになるのです。
 ところが、『宋本廣韻』からしますと奈良時代から平安時代初期においてはそのような発声をした保証はありません。あくまで、鎌倉時代以降の人が発声すると「キョウ」や「ゴウ」となるだけです。囂は銷、瀟や肖と同音字関係の文字で「hieu/xyeu」と発声すべき漢字文字です。このため、ポータブルな漢字辞典である『漢字源』や『漢辞海』でも発声は「xiao/ao」とし、「キョウ」や「ゴウ」はあくまでも漢字音韻学に由来を持たない慣用的な発声とします。「喧々囂々」と云う四文字熟語は現代では「ケンケンゴウゴウ」と発声しますが、これを中国中古音の音韻規則に従って「xi̯wɐn xi̯wɐn hieu hieu」と発声する人はいません。さらに現代中国語では「喧囂(xuān xiāo)」と云う熟語はありますが、「喧々囂々」と云う四文字熟語は日本で生まれたものですので、中国には無い言葉です。そのため、この「ケンケンゴウゴウ」という四文字熟語の読みから、熟語を構成する漢字文字の中国中古音を逆に遡って類推することは出来ません。さらに困ったことに「囂」は中国中古音「hieu」が宋代以降の音韻「xiāo」へと大きく変化しています。難訓読解での音を探すとき、中国隋・唐音を下にするのか、中国宋音を下にするものか、日本慣用音を下にするのかで大きく、その音は違うということになります。


廣韻 hieu/xyeu
漢字源 xiao/ao
漢辞海 xiao/ao

 このようにある種の難訓歌では、奈良時代と鎌倉時代とで同じ一字一音の万葉仮名文字であってもその発声が全くに違うことを背景として、その言葉を訓じることが出来なくなったものもあるようです。その典型がこの「莫囂圓隣之」なのでしょう。その「莫囂圓隣之」は「高本漢」が『宋本廣韻』から推定した音韻では「mɑk hieu ɣĭwɛn li̯ĕn tɕi」と云うものになります。「莫」を漢文否定語としますと、「hieu ɣĭwɛn li̯ĕn mɑk tɕi」と云う訓じになり、「mɑk tɕi」は慣用的に「ナシ」と「なまって」訓じることになっています。
 いやはや、いったいどこから「莫囂圓隣」と云う四音字表記となるべきものを「バクゴウエンリン」と仮ですが八音字として訓じる発想が出てきたのでしょうか。弊ブログは酔論・暴論のオンパレードですが、「バクゴウエンリン」はそのようなものを遥かに飛び越えた夢想・夢中のものではないでしょうか。そして、その発想・提案は原歌の表記に対して根拠を持たない「言った者勝ち」のようなものでしょうか。いや、実にうらやましい。その時、古典的な難訓歌の研究において万葉集の歌は漢語と万葉仮名と称される漢字だけで表記され、それらは中国中古音に依存していたのではないかと云う視線は薄いのかもしれません。邪馬臺国論争が、その基礎資料となる中国資料を現代日本語発音で読み解き、「ヤマタイコク」と訓じた上で行われているように、万葉集もそれが流行なのかもしれません。場合によっては、参加者は単に論議を楽しみたいのであって、科学的な論拠を述べることや結論を得ることには興味がないのかもしれません。お金儲けが必要な実業からしますと、不思議な世界です。
 雑談の最後に、可能でしたら、卒論などのテーマとして、奇特な学生さんにこのような中国中古音からの音韻を下に万葉集を真面目に訓じて頂ければ、面白いのではないかと思っています。


 いつものように、酔論・暴論となりました。反省する次第です。
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万葉雑記 色眼鏡 百七三 女性の祭日の歌を楽しむ

2016年06月04日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百七三 女性の祭日の歌を楽しむ

 今回は題に「女性の祭日の歌を楽しむ」と云うものを与えています。ただ、ここでの女性は若い未婚の女性を想定してください。性別を根拠とするような幼女から老女までと云う広い範囲ではありません。

 ここで、古い言葉に五節句と云うものがあり、人日(正月七日)、上巳(三月三日)、端午(五月五日)、七夕(七月七日)、重陽(九月九日)がそれに当たります。人日は七草粥を食べる風習で今日でも祝っていますし、この上巳の節句は別名、雛の節句や桃の節句とも呼ばれ、今日の雛祭りで祝われています。なお、同じ発音「ななくさかゆ」となりますが、正月十五日の小正月で食べる米穀に春の七草を炊き合わせる七草粥と人日の七つの雑穀を炊き合わせる七種粥とは違うものです。七種粥は大陸の風習そのままであり、七草粥は日本の初春の若菜摘みと七種粥とが融合してできた日本の風習です。端午はそのままズバリ、端午の節句で男の子の成長祝いとなっています。七夕の節句は説明するまでもなく、重陽は菊の節句とも呼ばれ、長寿を願い・祝うものです。
 なお、これらの節句行事において江戸期に風習化した影響が大きく、上巳の節句での雛祭りは江戸期からですし、重陽の節句は江戸期までは重要なものではなく、秋の節会は観月が重要なものとなっています。また、端午の節句が男の子の祭りとなったのは鎌倉時代以降に、祀りで使う菖蒲草の発声「しょうぶ」から勝負や尚武と云う言葉を導き出した駄洒落が元であって、特に江戸期になって流行って来た祭りです。それまでは特別、男の子とは関係のないものでした。それに、奈良時代では、春は上巳の節句よりも春菜摘みの野遊びが、秋は重陽の節句よりも中秋の満月を愛でる観月が重要なものだったようです。そのため、江戸時代からの風習を下に奈良時代を眺めますと、上巳の節句や重陽の節句の歌が無い、実に不思議だというような感想になります。他方、春菜摘みの野遊びを詠う歌を見ますと、万葉集が全盛期となります。色眼鏡で時代を眺めますと、赤でも青でもいくらでも色を染めることが出来ることになります。当然、その色眼鏡を外せば、見える世界は全くに違います。
 そうした時、意外でしょうが、五節句の中で女性を中心とする節句は端午と七夕で、端午は糸と薬草に関係し女児節と称され、七夕もまた棚機女の祭りと別称するように女性の機織に関係します。節句ではありませんが、春の春菜摘みでは女性が中心になりますし、秋の中秋の観月祭でもそうです。
 さて、先に正月七日の人日の節句で、本来は七つの雑穀を炊いて粥として食べる大陸の七種粥が、日本では春菜摘みと合わさり七草粥の風習になったと説明しました。その季節の行事として平安時代では正月子の日の御遊と呼ぶ春菜摘みがあります。季節は現在の二月上旬ごろとなりますので、摘む野草は「うはぎ(=嫁菜)」が中心だったようで、現在でも春の「よめな御飯」は季節料理として有名です。この正月子の日の春菜摘みに関係しそうな万葉集歌を次に紹介します。日本は中国や朝鮮半島とは違い、遊びの中心は女性です。そのため、日本の風習には女性の姿があります。

集歌1427 従明日者 春菜将採跡 標之野尓 昨日毛今日毛 雪波布利管
訓読 明日(あす)よりは春菜摘まむと標(し)めし野に昨日(きのふ)も今日(けふ)も雪は降りつつ
私訳 明日からは春の若菜を摘もうと。その人の立ち入りが禁じられた野に、昨日も今日も雪が降り続く。

集歌1879 春日野尓 煙立所見 感嬬等四 春野之菟芽子 採而煮良思文 (感は女+感の当字)
訓読 春日野(かすがの)に煙(けぶり)立つ見し娘子(をとめ)らし春野しうはぎ採みて煮らしも
私訳 春日野に煙が立つのを見ました。宮の官女たちが春の野の野遊びで嫁菜を摘んで煮ているようです。

集歌1888 白雪之 常敷冬者 過去家良霜 春霞 田菜引野邊之 鴬鳴焉
訓読 白雪し常(つね)敷く冬は過ぎにけらしも春霞たなびく野辺(のへ)し鴬鳴くも
私訳 白雪がいつも降り積もる冬はきっとその季節を過ぎたようです、春霞の棚引く野辺に鶯が鳴いています。


 つぎに上巳の節句の宴を詠った歌が万葉集中にありますが、これは大伴家持が大唐の風流をなぞったものであって、この時代では民衆レベルに根付いた風習ではありません。そのため、遊びには女性の姿が見えません。

三日守大伴宿祢家持之舘宴謌三首
標訓 三月三日、守大伴宿祢家持の舘にして宴(うたげ)せす謌三首
集歌4151 今日之為等 思標之 足引乃 峯上之櫻 如此開尓家里
訓読 今日しためと思ひて標(しめ)しあしひきの峯し上し桜かく咲きにけり
私訳 今日のためにと願って出入り禁制の結界を設けた、足を引くような険しい峰の上に桜が、このように咲きました。

集歌4152 奥山之 八峯乃海石榴 都婆良可尓 今日者久良佐祢 大夫之徒
訓読 奥山し八峯(やつを)の椿つばらかに今日は暮らさね大夫(ますらを)し徒(とも)
私訳 奥山のたくさんの峰の椿の、その言葉のひびきではないが、つばらかに(=思い残すことなく)今日は一日、宴をして過ごしましょう。立派な大夫の人々よ。

集歌4153 漢人毛 筏浮而 遊云 今日曽和我勢故 花縵世奈
訓読 漢人(からひと)も筏浮かべに遊ぶと云ふ今日ぞ吾が背子花縵(はなかづら)せな
私訳 漢の人も筏を浮かべて風流を楽しむと云います。今日は、私の大切な貴方たち、花で髪飾りをしましょう。

 一方、仲春の春菜摘みは大和人には楽しい風習だったようで、男どもは野で楽しそうに春菜摘みして遊ぶ乙女を眺め、時にはその乙女を野良で抱くのが好みだったようです。集歌1421の歌は上着を着ていたら見ることはできるはずのないのですが、下着を留める紐を見ると云っていますから、婉曲的に野良で乙女を抱いたとしています。歌の季節は山に花がありますから、旧暦三月頃の、現在の四月上旬と云うものとなります。正月子の日の春菜摘みでは多年草の地上からやっと芽を出したような若菜ですが、この時期では気温も上がりアブラナやダイコンなどの菜の花や若芽が中心だったと思われます。およそ、この時期では春菜の背の高さが違い、正月子の日の春菜摘みのようにしゃがみ込む必要は、それほどは無かったのではないでしょうか。ここでもまた野遊びの中心は女性です。

集歌1421 春山之 開乃乎為黒尓 春菜採 妹之白紐 見九四与四門
訓読 春山し咲きの愛(を)しくに春菜摘む妹し白紐(しらひも)見らくし良しも
私訳 春山の桜の花の咲くのを愛でながら、春菜を摘む恋人の衣の白い(下)紐を眺めるのも快いことです。

集歌1442 難波邊尓 人之行礼波 後居而 春菜採兒乎 見之悲也
訓読 難波辺(なにはへ)に人し行ければ後(おく)れ居(ゐ)て春菜摘む児を見るし悲しさ
私訳 難波の方にその子の恋人が行ってしまったので、後に残されて独りで春菜を摘む娘子の姿を見るのが切ない。


 そして、五月です。この時期は女児節とも称された古式の五月忌みの神事の季節であり、また渡来の厄除け行事である端午の節句でもあります。この神祀りでは橘や菖蒲を糸で貫き、たすきとして肩にかけ、禊ぎの証しとしますし、邪気除けのまじないとします。菖蒲を使っての厄除けは中国・朝鮮・日本に共通しますから、これは日本古来の風習ではなく、朝鮮を経由した大陸由来の風習と捉えるのが良いようで、万葉集歌の時代では新しい風習となります。ただし、厄除けや禊ぎを目的とするたすきは日本古来の風習です。

集歌1967 香細寸 花橘乎 玉貫 将送妹者 三礼而毛有香
訓読 かぐはしき花橘を玉貫(ぬ)きし送(おく)らむ妹はみつれてもあるか
私訳 芳しい花橘の花びらを玉たすきとして貫いて贈ってくれるはずの愛しい貴女は、病気なのでしょうか。(今年は贈ってきません)

集歌1975 不時 玉乎曽連有 宇能花乃 五月乎待者 可久有
訓読 時ならず玉をぞ貫(ぬ)ける卯の花の五月(さつき)を待たば久(ひさ)しくあるべみ
私訳 まだその時節ではないのだが、玉たすきとして紐に貫いているように咲いている卯の花の、その花を玉たすきとして貫いて肩に掛ける端午の節句の五月を待っていると、実に待ち遠しいでしょう。

 直接の歌ではありませんが、五節舞は御田植祭で奉納される田舞が由来と思われる舞いで、伝承では天武天皇が鄙の田舞から形式美を持った宮中舞へと整備し、重要な宮中神事では舞うものとされています。次の集歌51の歌は藤原京遷都の行事での采女の舞姿を詠ったものですから、ほぼ、五節舞であったと推定されます。逆に五節舞や御田植祭の田舞を遡れば端午の節句での女児節の遊びを想像できることになります。

集歌51 采女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久
訓読 采女の袖吹きかへす明日香(あすか)風(かぜ)京都(みやこ)を遠み無用(いたづら)に吹く
私訳 采女の袖を吹き返す明日香からの風よ。古い明日香の宮はこの新しい藤原京から遠い。風が采女の袖を振って過去に呼び戻すかのように無用に吹いている。


 さて、七夕ですが、牽牛織女の伝説は中国に源を持ちます。そのため、本場中国では織女が着飾ってカササギの羽で出来た橋(烏鵲橋)を渡って牽牛の許に通い、他方、日本では天の川を月人壮士、孫星、男星などと表記される男が舟で越えて女の許を訪れます。さらに日本の七夕の女は男に新しい衣を着てもらうために機を織って待っているとします。このように男と女のどちらが通うのかと云う点からして中国や朝鮮半島の七夕とは風情が違いますし、着飾り衆人注目の下、男の許に女が通わさせると云う風習は日本にはありません。
 また、織女の伝説から機織り、染色、裁縫などの技巧の上達を願う乞巧奠の祭りでもあります。なお、万葉集に乞巧奠を探しましたが見つかりませんでしたので、代わりに古今和歌集からそれを紹介します。

<カササギ(鵲)の翼で橋を架け、通う歌>
『全唐詩』より「七夕」(劉威)
烏鵲橋成上界通 烏鵲は橋を成して上界を通わし
千秋霊會此宵同 千秋の霊會は此の宵と同じくす
雲收喜氣星樓曉 雲は喜氣を收め星樓は曉たり
香拂輕塵玉殿空 香は輕塵を拂ひ玉殿は空し
翠輦不行青草路 翠輦は青草路を行かず
金鑾徒候白楡風 金鑾は徒らに白楡の風に候ふ
采盤花閣無窮意 盤花は閣を采どり意は窮きること無し
只在遊絲一縷中 只、遊絲は一縷中に在り

<牽牛ではなく月人壮士や孫星の歌>
集歌2010 夕星毛 往来天道 及何時鹿 仰而将待 月人壮
訓読 夕星(ゆふつつ)も通ふ天道(あまぢ)をいつまでか仰ぎて待たむ月人(つきひと)壮士(をとこ)
私訳 夕星が移り行く天の道を、年に一度の逢う日をいつまでかと仰いで待っている月人壮士。

集歌2029 天漢 梶音聞 孫星 与織女 今夕相霜
訓読 天つ川楫し音聞こゆ彦星(ひこほし)し織女(たなばたつめ)と今夕(こよひ)逢ふらしも
私訳 天の川に楫の音が聞こえます。彦星が織女と今夕に逢うようです。

<織女が機を織り、月人壮士を迎える歌>
集歌2027 為我登 織女之 其屋戸尓 織白布 織弖兼鴨
訓読 我がためと織女(たなばたつめ)しその屋(や)戸(と)に織(お)る白栲し織りてけむかも
私訳 今度逢う時にと、私のためと織女がその家で織る白栲はもう織り終わったでしょうか。

集歌2034 棚機之 五百機立而 織布之 秋去衣 孰取見
訓読 棚機(たなはた)し五百機(いほはた)立てて織(お)る布(ぬの)し秋さり衣(ころも)誰か取り見む
私訳 織姫がたくさんの機を立てて織る布よ、七夕の秋がやって来たとき、誰がその布を手に取って眺めるのでしょうか。

<乞巧奠を詠う歌>
古今和歌集 歌番180
原歌 たなはたにかしつるいとのうちはへてとしのをなかくこひやわたらむ
解釈 七夕にかしつる糸のうちはへて年のを長く恋ひや渡らむ
私訳 織女を祝う七夕の乞巧奠の祭壇から大切に吊るす五色の糸が長い、その言葉ではないが長い年月に渡って私は貴方を慕っています。

 さらに日本では七夕馬と云う風習があり、菰や萱で馬の模型を作り先祖の精霊を祀るということをします。この七夕馬の祭りを前提にしたものが次の集歌525や集歌3313の歌です。歌は先祖の精霊が菰や萱で作った馬に乗り、川の向こう側から里へと帰って来ることを模して、大夫格の男が騎上で女の許を尋ねるという風情を示します。正月子の日の春菜摘みや仲春の春菜摘みでの乙女は特定の男の妻問いを待つ女性ではありませんが、この七夕馬の女性は特定の男の妻問いを待つという成熟した女と云う雰囲気があります。

集歌525 狭穂河乃 小石踐渡 夜干玉之 黒馬之来夜者 年尓母有粳
訓読 佐保川(さほかわ)の小石(こいし)踏み渡りぬばたまし黒馬(くろま)し来る夜は年にもあらぬか
私訳 佐保川の小石を踏み渡って、七夕馬を祭る七夕の、その七夕の暗闇の中を漆黒の馬が来る夜のように、貴方が私を尋ねる夜は年に一度はあってほしいものです

集歌3313 川瀬之 石迹渡 野干玉之 黒馬之来夜者 常二有沼鴨
訓読 川し瀬し石(いは)踏み渡りぬばたまし黒馬し来る夜(よ)は常(つね)にあらぬかも
私訳 川の瀬の石を踏み渡り、人々が待ち焦がれる漆黒の黒馬に乗って恋人がやって来る棚機津女の夜が、私に常にあってほしい。


 中国の風習からしますと九月九日の重陽の節句は長寿を祝う重要な行事ですが、日本ではそれより少し早い八月十五日、中秋の観月祭の方が重要だったようです。なお、藤原京から前期平城京時代、九月九日は天武天皇の御斎会に当たるため、重陽の節句を祝うことを遠慮した可能性があります。それで、重陽を詠う歌がない理由かもしれません。参考で、万葉集の御斎会と聖武天皇以降の御斎会では示すものが違います。万葉集の「御斎会」は漢字が意味する通りの「身を慎み、斎き祀る」の意味です。
 つぎに紹介する歌は中秋の観月宴で湯原王が詠う歌ですが、歌垣歌のような掛け合い歌の中のものです。その掛け合い歌の相手は万葉集では「娘子」とだけ紹介され、氏姓は不明な女性です。

<観月からの歌>
集歌632 目二破見而 手二破不所取 月内之 楓如 妹乎奈何責
訓読 目には見に手には取らえぬ月内(つきなか)し楓(かつら)しごとき妹をいかにせむ
私訳 目には見ることが出来ても取ることが出来ない月の中にある桂(=金木犀)の故事(=嫦娥)のような美しい貴女をどのようにしましょう。

<その観月の宴での掛け合い歌から抜粋>
娘子復報贈謌一首
標訓 娘子の復(ま)た報(こた)へ贈れる謌一首
集歌637 吾背子之 形見之衣 嬬問尓 身者不離 事不問友
訓読 吾が背子し形見し衣(ころも)妻問(つまと)ひに身は離(はな)たず事(こと)問(と)はずとも
私訳 私の愛しい貴方がくれた思い出の衣。貴方の私への愛の証として、私はその形見の衣をこの身から離しません。貴方から「貴女はどうしていますか」と聞かれなくても。
<別解釈>
試訓 吾が背子し片見し衣(ころも)妻問(つまと)ひに身は離(はな)たず言(こと)問(と)はずとも
試訳 私の愛しい貴方のわずかに見たお姿。貴方がする妻問いの時に。でも、私は貴方に身を委ねません。(本当に私を愛しているのと)愛を誓う言葉をお尋ねしなくても。

湯原王亦贈謌一首
標訓 湯原王のまた贈れる謌一首
集歌638 直一夜 隔之可良尓 荒玉乃 月歟經去跡 心遮
訓読 ただ一夜(ひとよ)隔(へだ)てしからにあらたまの月か経(へ)ぬると心(こころ)遮(いぶ)せし
私訳 たった一夜だけでも逢えなかったのに、月替わりして一月がたったのだろうかと、不思議な気持ちがします。
<別解釈>
試訓 ただ一夜(ひとよ)隔(へだ)てしからにあらたまの月か経(へ)ぬると心(こころ)遮(いぶ)せし
試訳 (貴女は昨夜、私に身を許したのに今日は許してくれない) たった一夜が違うだけでこのような為さり様ですと、貴女の身に月の障り(月経)が遣って来たのかと、思ってしまいます。

 中秋の満月は「照月得子」と云う故事成語があるように、子を望む成人女性には重要な祭りです。また、中国では中秋の満月に絡めて嫦娥や西王母の伝説が伝わるように季節において重要なお祭りでもあります。ただ、「照月得子」と云う言葉からして日本の中秋の観月祭もまた未通女児である早乙女の祭りと云うより、妻問いをされる成女の祭りと云う雰囲気が強いのではないでしょうか。
 参考に山上憶良が秋の七草の歌を詠っています。歌では萩や女郎花の花を詠いますからこれは旧暦九月九日の重陽の節句ではなく、八月十五日の中秋祭の方で詠われたものと思われます。花や里芋で代表される農作物を供えて、風流を楽しんだのではないでしょうか。

山上巨憶良詠秋野花二首
標訓 山上(やまのうへの)巨(おほ)憶良(おくら)の、秋の野の花を詠める二首
集歌1537 秋野尓 咲有花乎 指折 可伎數者 七種花 (其一)
訓読 秋し野に咲きたる花を指(および)折(を)りかき数(かぞ)ふれば七種(ななくさ)し花 (其一)
私訳 秋の野に咲いている花を指折り、その数を数えると七種類の花です。
注意 標の「山上巨憶良」の「巨(おほ)」は、一般に「臣(おみ)」の誤記とします。

集歌1538 芽之花 乎花葛花 瞿麦之花 姫部志 又藤袴 朝皃之花 (其二)
訓読 萩(はぎ)し花尾花(をばな)葛花(ふぢはな)撫子(なでしこ)し花姫部志(をみなえし)また藤袴(ふじはかま)朝貌(あさかほ)し花 (其二)
私訳 萩の花、尾花、葛の花、撫子の花、女郎花、また、藤袴、朝貌の花

 女性の歌だけで年中行事となる祭り歌を探しましたが、すこし難しいものがありました。なお、平成二十八年の端午の節句は六月九日(木)に当たります。本来ですと、未通女である女児が着飾って早乙女祭を祝う日です。
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