竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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万葉雑記 色眼鏡 百八三 今週のみそひと歌を振り返る その三

2016年09月24日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百八三 今週のみそひと歌を振り返る その三

 今週のみそひと歌を振り返りますと、集歌67の難訓歌、二句・三句目の「物戀尓 鳴毛」と云うものや集歌70の歌の四句目「象乃中山」の訓じ問題、集歌84の歌の四句目「鹿将鳴山曽」に中国古典「詩経」小雅に載る「鹿鳴」を見るか、どうかなど話題があります。
 今回は個人の好みを基準に「象乃中山」の訓じ問題の集歌70の歌を取り上げます。

集歌70 倭尓者 鳴而歟来良武 呼兒鳥 象乃中山 呼曽越奈流
訓読 大和には鳴きにか来らむ呼子(よぶこ)鳥(とり)象(ころ)の中山呼びぞ越ゆなる
私訳 大和にはここから鳴くために飛んで来るのでしょうか。呼子鳥とも呼ばれるカッコウよ。秋津野の小路にある丘から「カツコヒ(片恋)、カツコヒ」と想い人を呼びながら越えて行きました。

 この歌の四句目「象乃中山」の「象」は、一般的には平安時代以降の訓じ「きさ」を採用します。そして、「きさ」と訓じたところから吉野に「きさ」と云う地名を探し、奈良県吉野郡吉野町、象山 (きさやま) の麓を流れる喜佐谷川一帯の古称と紹介します。
 参考として、万葉集には「象」と云う文字を持つ歌が集歌70の歌の他に次の三首ありますが、それらすべて吉野に関わる地名として登場します。ほぼ「象」と云う場所は吉野離宮や随員の宿舎があった場所と思われますから、天皇とその一行を収容可能なある程度の規模を持つ場所です。

集歌316 昔見之 象乃小河乎 今見者 弥清 成尓来鴨
集歌332 吾命毛 常有奴可 昔見之 象小河乎 行見為
集歌924 三吉野乃 象山際乃 木末尓波 幾許毛散和口 鳥之聲可聞

 従いまして、この「象」と云う文字が「きさ」と云う地名を示すものでないとしますと、少なくとも万葉集中で四首、影響を受けることになります。
 一方、「象」と云う文字が最初から「きさ」と訓じたのかと云うと、非常に問題があります。訓じとされる「きさ」と云う言葉の語源を探りますと、「きさ」は古語で「雲のようにもやもやな縞や筋の文様」から「木目」や「木理」、または「もやもや縞の貝」から「蚶貝(きさかい)」を意味する言葉です。古語日本語では動物としての「象」を指す言葉ではありません。
 こうした時、近年の解説では『日本書紀』、天智十年(720)十月に「是月。天皇遣使、奉袈裟・金鉢・象牙・沈水香・栴檀香及諸珍財於法興寺仏」と云う記事があり、これ以前に日本に象牙が輸入されていたとします。そして、「さき」の訓じは、象牙の断面を見た人々が「木目を持つ牙」と云うことで「きさのき」と呼び、時代が下るにつれて言葉が縮まり「きさ」になったとします。
 では「象」を「きさ」と訓じたのが明確に判定できるのはいつかと云うと、現代まで訓点付の書物が残る平安時代初期(850年ごろ)、文徳天皇の時代、石山寺蔵『大智度論』に載る「善勝白象(キサ)を下り、怨家に施与して」と云う文章が最古だそうです。また、ある解説では『拾遺和歌集』(1006年ごろ)にも「きさのき」を詠んだ歌があると報告します。ただし、『拾遺和歌集』に載る歌番号390の歌は「物名、木」に分類されるものであって、樹木に分類される橒の木(きさのき)を詠ったものです。つまり、『拾遺和歌集』の歌番号390の歌で詠う対象は象牙ではありませんから、「象」を「きさ」と訓じる例には使えません。

拾遺集 巻七 歌番号390
詞書 きさの木
原歌 いかりゐのいしをくくみてかみこしはきさのきにこそおとらさりけれ
解釈 怒り猪(ゐ)の 石を銜(くく)みて 噛み来しは 橒(きさ)の木にこそ 劣らざりけり
意訳 怒り狂った猪が石を咥え、噛み砕かしてやって来ても、人が植えた立派な木であればなぎ倒されることはない。
注意 橒(きさ)は中国古語では种樹と解説され、種を播き育てた人の手が入った樹木のような意味合いがあります。

 また、言葉の辞典から探りますと、『類聚名義抄』(1081年以降に成立か)に「キサ キザ サウ」、『色葉字類抄』(1144年以降に成立か)に「象 セウ 平声 俗キサ」とあり、平安期には「キサ」「キザ」の他に、「サウ」や「セウ」と訓じていたと思われます。追記して秋田県に象潟(きさかた)と云う地名がありますが、奈良時代から平安時代初期は『古事記』にも載る日本海側の女神である蚶貝比売に由来をもち、また、『出羽国風土略記』に載る「蚶潟(きさかた)」の方の表記を使います。現在の表記「象潟」は江戸時代初期頃の行政区変更による新旧行政区を区分する必要からの改名によるとされています。
 なお、『日本書紀』に載る「象牙」と云う言葉に平安時代初期に本文中に付けられた「誓約之中。此云宇気譬能美難箇」のような「きさのき」と云う補注もありませんから、近代に訓じた「象牙(きさ)」を以って、天智天皇の時代には「象」を「きさ」と訓じていたと云う「為にする」解説は採用しません。

 ここで「象」を奈良時代にどのように訓じていたか、考えてみたいと思います。そうした時、当時、何度も禁制の通達が出るほどに流行した博打、樗蒲(かりうち)と云うものがあります。ゲームは四本の平らな木片を場に投げ、その裏表の出目で勝負を競いました。そして、流行を反映するようにその出目の呼び名が次のように万葉集に取り入れられ、詠われています。ここからから「象」を戯訓として「ころ」と訓じる可能性はあります。

出目象徴読み(戯訓)参照万葉集歌
三伏一向豚つく集歌1874に「暮三伏一向夜」
二伏二向犬(不明)
一伏三向象ころ集歌3284に「根毛一伏三向凝呂尓」
四向牛(不明)諸向なら「もろ」と云う訓が集歌3377にある
四伏(諸伏)馬まにまに(?)集歌743に「神之諸伏」
*注意 中国大陸や朝鮮半島のものとは、ゲームでの出目の名称が異なっていたようです。そのため、「つく」、「ころ」や「まにまに」と云う読みは日本独特だったと思われます。

 一方、「象」の隋唐音は宋本廣韻では「zi̯aŋ/ zĭaŋ」で、同音字に「像」があります。つまり、中国から「象牙」を輸入しますと、発声は当時の国際語である中国語で「zi̯aŋ ŋa」と云うものになります。一般的に舶来物品の名称を無理に大和言葉に直し「きさのき」と発声する必然性はありませんし、それでは高価な珍品舶来品と云う価値が減じます。

 ここで、つまらない話をします。
 現代の古典文学研究では吉野離宮は奈良県吉野郡吉野町宮滝付近にあったと比定し、万葉集に載る吉野方面の地名はこの宮滝を中心に古地名からそれを探します。そのため、宮滝南方の喜佐谷川一帯を「象(きさ)」と比定し、喜佐谷の里山を象山と表記します。さらに、現在、喜佐谷川と云う名称は奈良時代、象川(きさのかわ)と呼ばれたと解説します。
 一方、弊ブログでは万葉集で歌う吉野とは吉野郡下市町の阿知賀を中心とした場所を想定していますので、最初から場所が違います。この阿知賀は神功皇后、応神天皇、雄略天皇ゆかりの地であって、神功皇后の小竹宮、応神天皇や雄略天皇の吉野離宮は吉野郡下市町阿知賀の白髭神社付近にあったと想定しています。そうした時、現在の下市町の阿知賀の様子は万葉集で柿本人麻呂が詠う吉野讃歌に叶うものです。対して宮滝付近の吉野川の風情は人麻呂が詠う風景とは一致しませんし、日本書紀や古事記に載る吉野の風景ではありません。場所は吉野川で徒歩での鵜飼漁が可能であり、また、複数の舟を浮かべた川遊びも必要です。そして、広い野原もまた必要です。さて、そのような吉野とはどこでしょうか。
 およそ、吉野離宮を吉野町宮滝付近に比定する場合、象は「きさ」であり、現在の地名は喜佐谷とします。一方、吉野離宮を下市町阿知賀付近に比定する場合、象は「ころ」であり、現在の地名は小路とします。なお、この小路は遅くとも鎌倉時代以降、「しょうじ」と読みます。
今回、言い掛かりのような説ではありますが、大陸から文物が大量流入する時代に貴重な舶来品である「象牙」を敢えて大和言葉の「さきのき」と翻訳したのかと云う疑問が出発点であり、その代案が「ころ」です。そのような背景を元にした歌の鑑賞とご了解下さい。
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万葉雑記 色眼鏡 百八二 今週のみそひと歌を振り返る その二

2016年09月17日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百八二 今週のみそひと歌を振り返る その二

 今週、取り上げましたみそひと歌に、次のような組歌三首があります。標題に示すように持統六年(692)三月の伊勢御幸の折、藤原京造営のため飛鳥に留まった柿本人麻呂がその伊勢御幸での情景を想像して詠ったものです。
 最初に取り上げた歌群を紹介します。

幸干伊勢國時、留京柿本朝臣人麿作歌
標訓 伊勢国に幸(いでま)しし時に、京(みやこ)に留まれる柿本朝臣人麿の作れる歌
集歌40 鳴呼之浦尓 船乗為良武 感嬬等之 珠裳乃須十二 四寶三都良武香 (感は女+感の当字)
試訓 鳴呼見(あみ)し浦に船乗りすらむ官女(おとめ)らし珠裳の裾に潮(しほ)満つらむか
試訳 あみの浦で遊覧の船乗りをしているでしょう、その官女の人たちの美しい裳の裾に、潮の飛沫がかかってすっかり濡れているでしょうか。
裏訓 鳴呼(ああ)し心(うら)に船乗りすらむ官女(おとめ)らし珠裳の裾に潮(しほ)満つらむか
裏訳 「ああ」と声を上げるような心根を持って、男が乙女を抱こうとしている。その十二・三歳くらいの乙女は潮満ちて成女に成っているのでしょうか。

集歌41 釵著 手節乃埼二 今今毛可母 大宮人之 玉藻苅良哉
試訓 くしろ著(つ)く手節(たふせ)の崎に今今(いま)もかも大宮人し玉藻刈るらむ
試訳 美しいくしろを手首に着ける、その言葉のひびきのような手節の岬で、ただ今も、あの大宮人の麻續王が足を滑らせて玉藻を刈ったように、慣れない磯の岩に足を滑らせて玉藻を刈っているのでしょうか。
裏訳 美しいくしろを手首に着ける、その言葉のひびきのような手節の先に、ちょうどいま、大宮人は乙女の柔らかになびく和毛を押し分けているでしょうか。

集歌42 潮左為二 五十等兒乃嶋邊 榜船荷 妹乗良六鹿 荒嶋廻乎
試訓 潮騒(しほさゐ)に伊良虞(いらご)の島(しま)辺(へ)漕ぐ船に妹し乗らむか荒き島廻(しまみ)を
試訳 潮騒の中で伊良湖水道の島の海岸を漕ぐ船に私の恋人は乗っているのでしょうか。あの波の荒い島のまわりを。
裏訓 潮際に 五十等兒の志摩辺 榜ぐ船か 妹し乗らむか 新(あら)き志摩身を
裏訳 成熟の証しの潮が満ちた、そのような年頃のたくさんの娘たちがいる志摩の国、その志摩の国で姿をさらす船のように、その船に乗るように乙女を抱いているのでしょうか。まだ若々しいその志摩の乙女たちに。

 さて、この歌群はどのような目的と場所で詠われたのでしょうか。この伊勢御幸が行われた時、都には広瀬王を筆頭に当麻真人智徳や紀朝臣弓張たちが留守官に任命され、その留守を預かっていました。標題からすると人麻呂もまた留守官の一人です。すると、人麻呂が詠うこの組歌三首は都で持たれた留守官たちが開く宴会の場で詠われたものかもしれません。標題からすれば伊勢の風景を想像したものであって、実際の場面を詠ったものではありません。
 この酔論、宴会での歌であり、想像の歌であるとしますと、集歌40の歌が気にかかります。歌は二句目で切れるのでしょうか、それとも三句目で切れるのでしょうか。下卑た酔論から二句目で切れるとしますと、船に乗るのは官女たちだけではないことになります。そして、伝承から漕ぎ手を男としますと、その漕ぎ手を乗せる船は女性の比喩となります。その時、歌の表記は「船乗為良武」ですから、その船(=女性)に乗る人は勇ましい武(つわもの)なのでしょう。
 こうした時、歌に比喩がありますと、夜伽の女を抱くのは「良武」と表記するように都からの良き武(つわもの)たちと云うことになります。そして、その夜伽の女はどのような女性かと云うと、都からの高貴な男たちのために国を挙げて準備された年若い乙女です。それが「珠裳乃須十二」と云う表現です。易経に「帰妹以須。反帰以弟(女偏+弟)」と云うものがあり、この「須」は「まつ=待つ」と訓じますが「体を許す女」と云う意味もあります。また、「帰妹」は「女から積極的に男の許に行く、結婚する」と云う意味合いの言葉です。およそ、「珠裳乃須十二」の意味合いは漢語からしますと年頃十二歳ぐらいの、嫌がらず男に体を許す乙女と云うことになります。一方、大和の風習では男女の仲が許されるのは成女だけで、童女は許されません。そこで乙女は潮が満ちた成女か、どうかと云うことが大切です。それが五句目「四寶三都良武香」です。さらにこの五句目を穿ちますと「文房四宝」と云う言葉があるように「四寶三都良武香」とは漢文や漢字に秀でた飛鳥浄御原宮、藤原宮、難波宮に勤める立派な官僚と云うことになるでしょうか。
 同じように集歌41の歌に遊びますと五句目「玉藻苅良哉」の「玉藻」が女性の和毛としますと二句目「手節乃埼二」の「埼」は「先」の意味ですし、「手節」は「指」と云う意味になります。つまり、今、指で愛撫をしていますかと意味合いになります。さらに、集歌42の歌で四句目「妹乗良六鹿」を「妹し乗るらむか」と訓じますと、「妹に乗っているのでしょうか」とも訳せます。また、三句目「榜船荷」の「榜」には船を進めると云う操船の意味と棒に書面を掲げ公布を天下に示すと云う意味があります。船が女性の比喩ですと「榜船」に美しい女性の姿を世にさらし見せると云う比喩を取ることが出来ます。そうしますと、あとは、下卑た酔論です。
 総合しますと、この歌三首は宴会更けて夜伽の女との出合い、夜床での様、そして、体を何度も重ねたのかと云う、バレ歌ですが物語の進行があります。推定で柿本人麻呂は天武天皇五年から六年頃に石見物語のような和歌群を詠っており、その評判を知る飛鳥の人々が御幸の留守番の中での宴会で、伊勢御幸を題材に物語歌を求めたのかもしれません。ただし、「四寶三都良武香」たる大夫でなければ、歌の裏に隠された楽しみは判らなかったと思います。
 補足事項として、日本書紀の雄略天皇紀の記事に因りますと雄略天皇は童女君と呼ばれる春日和珥臣深目女を初めて召した夜にその童女君と「七廻喚之」を為したと自己申告をしています。対して大宮人の「妹乗良六鹿」ですと、雄略天皇に対して一回不足することになります。ただしそれでも柿本人麻呂の感覚からしますと「荒嶋廻乎」と呼ぶように男にとって相当に体力を使う厳しい状況です。なお、人麻呂は春日和珥一族ですから雄略天皇と童女君との回数は知るべき伝承ですし、日本書紀に記事が載るように広瀬王を筆頭に当麻真人智徳や紀朝臣弓張たち留守官もまた知るべき民話です。

 今回もまた酔論からのバレ話を展開しました。みそひと歌には紹介しませんが、他の歌でも標準的な解釈とは違うものには、酔論ですがなんらかの背景を持ちます。

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万葉雑記 色眼鏡 百八一 今週のみそひと歌を振り返る その一

2016年09月10日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百八一 今週のみそひと歌を振り返る その一

 今週、紹介した集歌10から12までの組歌三首には標題と左注が付けられています。歌の鑑賞では万葉集編集者が付けた標題を無視することも出来ませんし、山上憶良が編んだ類聚歌林が伝存していたと思われる平安時代初期までに付けられた左注もまた併せて鑑賞する必要があります。当然、標題は編集者のもので、左注は校註者のものですから、優先順序は標題にあります。
 一般にこの歌三首は斉明天皇四年(658)十月から斉明天皇五年正月まで滞在した紀温湯への御幸で詠われたものと推定します。そうした時、標題の「中皇命」とは誰かと云う問題があり、A案では斉明天皇、B案では孝徳天皇の皇后間人皇女です。
 ここで、重要な補足情報として、斉明天皇は即位前において宝皇女と呼ばれ舒明天皇の皇后で、舒明天皇の崩御の後天皇位を継いでいますから、建前では未亡人です。また、間人皇女は宝皇女の御子で孝徳天皇の皇后でしたが、その孝徳天皇は白雉五年(654)に崩御されています。つまり、斉明天皇四年時点では、前皇后間人皇女もまた未亡人なのです。
 おさらいのため、集歌10から12までの歌を紹介します。

中皇命、徃于紀温泉之時御謌
標訓 中(なかつ)皇命(すめらみこと)の、紀温泉(きのゆ)より徃へりましし時の御(かた)りし歌
集歌10 君之齒母 吾代毛所知哉 磐代乃 岡之草根乎 去来結手名
訓読 君し代も吾が代もそ知るや磐代(いはしろ)の岡し草根(くさね)をいざ結びてな
私訳 貴方の生きた時代も、私が生きる時代をも、きっと、全てを知っているのか、その神が宿る磐代よ。その磐代の岡に生える草を、さあ、旅の無事を祈って結びましょう。
裏訳 貴方の口は私の和毛の生えるところを知っていますか。さあ、岩代の岡で、和毛の生えるところを重ね合わせ、抱きあいましょう。

集歌11 吾勢子波 借廬作良須 草無者 小松下乃 草乎苅核
訓読 吾が背子は仮廬(かりほ)作らす草(くさ)無くは小松が下の草を刈らさね
私訳 私の愛しい貴方が仮の宿をお作りになる。もし、その庵の床に敷く草が無いならば、小松の下の草をお刈りなさい。
裏訳 私の愛しい貴方が仮の宿寝をなさるらしい。もし、その仮の宿の床で抱く女性が無いならば、小松の若芽のような年若い女性、この私を抱きなさい。

集歌12 吾欲之 野嶋波見世追 底深伎 阿胡根能浦乃 珠曽不拾
訓読 吾(あ)が欲(ほ)りし野島は見せつ底(そこ)深き阿胡根(あこね)の浦の珠ぞ拾(ひり)はぬ
私訳 私が見たいと思っていた野島を見せてくれました。でも、貴方は海の底の深い阿胡根の浦にある美しい真珠を採ってはいません。
裏訳 私が見たいと思っていた貴方の野島(同音で蛇島=男根)を見せてくれました。でもまだ、貴方は海の底の深い阿胡根の浦にある美しい真珠(=女性陰核)を愛でてくれません。
注意 隋唐時代の発音を示す宋本廣韻によると中国中古音では「野(jĭa/ ʑi̯wo)」と「蛇(jǐe/ dʑʰi̯a)」とは近似の音韻で、「野島」を「ノシマ」とする近代発音とは遠い関係があります。他方、三輪山神話に示すように古代、蛇は男性のシンボルです。

右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、天皇御製謌云々。
注訓 右は、山上憶良大夫の類聚歌林を檢(かむが)がふるに曰はく「天皇(すめらみこと)の御(かた)りて製(つく)らしし謌、云々」といへり。

 さて、紀温湯の御幸の時、皇位継承に関わる重大事件がありました。それが有馬皇子の反逆の疑惑事件です。歴史では蘇我赤兄の屋敷で斉明天皇の統治を痛烈に非難し、それが謀反とされ、斉明天皇四年十一月十一日に紀伊の藤白坂で絞殺されています。斉明天皇は女帝でしたので、男帝の皇位継承は重要な政治項目であり、この時点の有力候補としては葛城皇子(俗称、中大兄、即位して天智天皇)とこの殺された有馬皇子でした。およそ、紹介した組歌三首が詠われた、直前、そのような重大な政変が発生していたのです。
 標題と時系列からしますと、そのような重大な政変が起きた直後、紀温湯から飛鳥への帰還の道中での歌です。歌に詠われる野島は現在の和歌山県御坊市名田町野島と推定され、阿胡根の浦は可能性として御坊市の日高川河口付近と思われます。一方、有馬皇子が殺された藤白坂は現在の海南市藤白と比定され、飛鳥への帰京では御坊市名田町野島からすると翌日通過するような場所となります。歌は、そのような日程での夜の宴会歌なのです。

 歌で使われる漢字は、「小松下乃 草乎苅核」の表記が示すように夜の宴会歌に相応しく男女の夜の営みを暗示させます。すると、多くの不思議を感じませんか。その不思議の一つ目として、標題に「中皇命、徃于紀温泉之時御謌」とありますから、歌の内容からして未亡人である天皇または前皇后が、意向を告げて歌を詠わせるようなものでしょうか。立場からしますと、女帝自ら臣下を楽しませるために私を抱きなさいと云うような卑猥な歌を詠うでしょうか。二つ目として、これらの歌が詠われたのが斉明天皇四年暮です。そのような時代に、これほどに短歌形式の整った歌が詠われたのでしょうか。歌の表記形式は常体歌に分類され、およそ、晩期藤原京から前期平城京時代以降に主流となるような表記形式を持っています。時代と歌形式の整合が取れるでしょうか。三つ目には、この三首組歌は物語性を持っており、集歌10の歌では旅行く貴人に里の女が夜の誘いを掛け、次に集歌11の歌ではこの私を抱きなさいとけしかけ、最後、三首目では夜床での愛撫の様子を比喩します。確かにバレ歌ですが、そこには高度な物語性が窺えます。このような物語性を持つ歌が孝徳天皇から斉明天皇の時代に存在したのでしょう。少なくとも天武天皇の時代、柿本人麻呂時代まで待つ必要があるのではないでしょうか。
 このようにこの組歌三首を鑑賞しますと、不思議、不思議が次々と湧いて来るのです。

 弊ブログではこの組歌三首は、孝徳天皇の皇后間人皇女に因む歌、つまり、中皇命とは前皇后間人皇女を示すと解釈しています。一般に、万葉集中に直接、間人皇女に関係するとする歌はありません。しかしながら、皇位継承の建前からすると斉明天皇と天智天皇とを繋ぐ立場にあり、そこから中皇命との敬称が与えられたと考えます。また、祭事の天皇と政事の大王との並立を想定しますと、斉明天皇と天智天皇皇后倭姫とを繋ぐ立場でもあります。そのような重要人物に歌が無いことから、間人皇女を尊んで紀伊地方の民謡を採取し、形式を整えて和歌としたと推定しています。
 そうした時、日本書紀に載る次の記事と歌謡から、時に斉明天皇を生母とする葛城皇子(天智天皇)と間人皇女との禁断の肉体交渉を伴う兄妹恋愛があったのではないかと推定する人もいます。なお、紹介する歌謡での「こま=駒」は間人皇女を、「ひと=人」は葛城皇子を比喩すると推定し、古語で「男が女を見る」とは「素肌を含めた女の全てを知る=抱く」と云う意味合いに取ります。

由是天皇恨欲捨於国位。令造宮於山碕。乃送歌於間人皇后曰。
原歌 舸娜紀都該 阿我柯賦古麻播 比枳涅世儒 阿我柯賦古麻乎 比騰瀰都羅武箇
読下 かなきつけ あがかふこまは ひきでせず あがかふこまを ひとみつらむか
訳注 金木付け  吾が飼う駒は  引きでせず 吾が飼う駒を  人見るらむか

 もし、万葉集に秘められた暗号があるとしますと、場合によって、この歌群は葛城皇子と間人皇女との禁断の兄妹恋愛を示しているのかもしれません。その想像では、歌が詠われた時、皇位継承の唯一のライバルであった有馬皇子が排除され、倭豪族の大半は葛城皇子の下となりました。ここに孝徳天皇以来、揉めて来た皇位継承の体制は決まりました。また、それに付随して葛城皇子と間人皇女との兄妹恋愛は公式でなければ批難する対立勢力はいません。そのような政変下での歌と云うことになります。有馬皇子殺害を血なまぐさいと取るか、はたまた害悪退治の勝利と取るかは立場になります。葛城皇子や間人皇女から見ればそれは祝うべき政変であったのではないでしょうか。
 この推定からしますと、禁断の恋の恋愛譚を暗示する艶歌、歌の形式が示唆する後年の民謡採歌からの和歌、さらに歌物語形式を持つ、これらの不思議を説明するのかもしれません。つまり、歌群は後年の読者に向けての暗号なのかもしれません。大和の国は同母兄妹の性的恋愛は忌諱されるべき行為と称しますが、それでも記紀に木梨軽皇子と軽大娘皇女との同母兄妹の性的恋愛譚などを見ることが出来ますから、実社会では相当数の例はあったと思われます。参考として天津罪・国津罪の規定では同母兄妹の性的恋愛は忌諱の規定にはありませんから、大きな忌諱的行為かと云うとそうではなかったようです。性的忌諱としては妻の連れ娘子や妻の母親との恋愛の方が取り上げられ、これらは国津罪として重罪と規定されています。

 解説は載せていませんが、みそひと歌の訓じにはこのような酔論を展開しています。また、集歌9のいわゆる「莫囂圓隣歌」もまた、難訓歌の酔論を経て訓じを載せています。

集歌9 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
訓読 染(そ)まりなし御備(おそな)え副(そ)えき吾(あ)が背子し致(いた)ちししけむ厳橿(いつかし)が本(もと)
私訳 一点の穢れなき白栲の布を奉幣に副えました。吾らがお慕いする君が、梓弓が立てる音の中、その奉幣をいたしました。大和の橿原宮の元宮であります、この熊野速玉大社を建てられた大王(=神武天皇)よ。

 日給月給の日銭を稼ぎ、生きていく年寄りには、万葉集の歌の訓じとその鑑賞は非常なる面白みがあります。独特な鑑賞ではアホの様な酔論を背景としていますが、そこをご了解ください。
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