万葉雑記 色眼鏡 百八三 今週のみそひと歌を振り返る その三
今週のみそひと歌を振り返りますと、集歌67の難訓歌、二句・三句目の「物戀尓 鳴毛」と云うものや集歌70の歌の四句目「象乃中山」の訓じ問題、集歌84の歌の四句目「鹿将鳴山曽」に中国古典「詩経」小雅に載る「鹿鳴」を見るか、どうかなど話題があります。
今回は個人の好みを基準に「象乃中山」の訓じ問題の集歌70の歌を取り上げます。
集歌70 倭尓者 鳴而歟来良武 呼兒鳥 象乃中山 呼曽越奈流
訓読 大和には鳴きにか来らむ呼子(よぶこ)鳥(とり)象(ころ)の中山呼びぞ越ゆなる
私訳 大和にはここから鳴くために飛んで来るのでしょうか。呼子鳥とも呼ばれるカッコウよ。秋津野の小路にある丘から「カツコヒ(片恋)、カツコヒ」と想い人を呼びながら越えて行きました。
この歌の四句目「象乃中山」の「象」は、一般的には平安時代以降の訓じ「きさ」を採用します。そして、「きさ」と訓じたところから吉野に「きさ」と云う地名を探し、奈良県吉野郡吉野町、象山 (きさやま) の麓を流れる喜佐谷川一帯の古称と紹介します。
参考として、万葉集には「象」と云う文字を持つ歌が集歌70の歌の他に次の三首ありますが、それらすべて吉野に関わる地名として登場します。ほぼ「象」と云う場所は吉野離宮や随員の宿舎があった場所と思われますから、天皇とその一行を収容可能なある程度の規模を持つ場所です。
集歌316 昔見之 象乃小河乎 今見者 弥清 成尓来鴨
集歌332 吾命毛 常有奴可 昔見之 象小河乎 行見為
集歌924 三吉野乃 象山際乃 木末尓波 幾許毛散和口 鳥之聲可聞
従いまして、この「象」と云う文字が「きさ」と云う地名を示すものでないとしますと、少なくとも万葉集中で四首、影響を受けることになります。
一方、「象」と云う文字が最初から「きさ」と訓じたのかと云うと、非常に問題があります。訓じとされる「きさ」と云う言葉の語源を探りますと、「きさ」は古語で「雲のようにもやもやな縞や筋の文様」から「木目」や「木理」、または「もやもや縞の貝」から「蚶貝(きさかい)」を意味する言葉です。古語日本語では動物としての「象」を指す言葉ではありません。
こうした時、近年の解説では『日本書紀』、天智十年(720)十月に「是月。天皇遣使、奉袈裟・金鉢・象牙・沈水香・栴檀香及諸珍財於法興寺仏」と云う記事があり、これ以前に日本に象牙が輸入されていたとします。そして、「さき」の訓じは、象牙の断面を見た人々が「木目を持つ牙」と云うことで「きさのき」と呼び、時代が下るにつれて言葉が縮まり「きさ」になったとします。
では「象」を「きさ」と訓じたのが明確に判定できるのはいつかと云うと、現代まで訓点付の書物が残る平安時代初期(850年ごろ)、文徳天皇の時代、石山寺蔵『大智度論』に載る「善勝白象(キサ)を下り、怨家に施与して」と云う文章が最古だそうです。また、ある解説では『拾遺和歌集』(1006年ごろ)にも「きさのき」を詠んだ歌があると報告します。ただし、『拾遺和歌集』に載る歌番号390の歌は「物名、木」に分類されるものであって、樹木に分類される橒の木(きさのき)を詠ったものです。つまり、『拾遺和歌集』の歌番号390の歌で詠う対象は象牙ではありませんから、「象」を「きさ」と訓じる例には使えません。
拾遺集 巻七 歌番号390
詞書 きさの木
原歌 いかりゐのいしをくくみてかみこしはきさのきにこそおとらさりけれ
解釈 怒り猪(ゐ)の 石を銜(くく)みて 噛み来しは 橒(きさ)の木にこそ 劣らざりけり
意訳 怒り狂った猪が石を咥え、噛み砕かしてやって来ても、人が植えた立派な木であればなぎ倒されることはない。
注意 橒(きさ)は中国古語では种樹と解説され、種を播き育てた人の手が入った樹木のような意味合いがあります。
また、言葉の辞典から探りますと、『類聚名義抄』(1081年以降に成立か)に「キサ キザ サウ」、『色葉字類抄』(1144年以降に成立か)に「象 セウ 平声 俗キサ」とあり、平安期には「キサ」「キザ」の他に、「サウ」や「セウ」と訓じていたと思われます。追記して秋田県に象潟(きさかた)と云う地名がありますが、奈良時代から平安時代初期は『古事記』にも載る日本海側の女神である蚶貝比売に由来をもち、また、『出羽国風土略記』に載る「蚶潟(きさかた)」の方の表記を使います。現在の表記「象潟」は江戸時代初期頃の行政区変更による新旧行政区を区分する必要からの改名によるとされています。
なお、『日本書紀』に載る「象牙」と云う言葉に平安時代初期に本文中に付けられた「誓約之中。此云宇気譬能美難箇」のような「きさのき」と云う補注もありませんから、近代に訓じた「象牙(きさ)」を以って、天智天皇の時代には「象」を「きさ」と訓じていたと云う「為にする」解説は採用しません。
ここで「象」を奈良時代にどのように訓じていたか、考えてみたいと思います。そうした時、当時、何度も禁制の通達が出るほどに流行した博打、樗蒲(かりうち)と云うものがあります。ゲームは四本の平らな木片を場に投げ、その裏表の出目で勝負を競いました。そして、流行を反映するようにその出目の呼び名が次のように万葉集に取り入れられ、詠われています。ここからから「象」を戯訓として「ころ」と訓じる可能性はあります。
出目象徴読み(戯訓)参照万葉集歌
三伏一向豚つく集歌1874に「暮三伏一向夜」
二伏二向犬(不明)
一伏三向象ころ集歌3284に「根毛一伏三向凝呂尓」
四向牛(不明)諸向なら「もろ」と云う訓が集歌3377にある
四伏(諸伏)馬まにまに(?)集歌743に「神之諸伏」
*注意 中国大陸や朝鮮半島のものとは、ゲームでの出目の名称が異なっていたようです。そのため、「つく」、「ころ」や「まにまに」と云う読みは日本独特だったと思われます。
一方、「象」の隋唐音は宋本廣韻では「zi̯aŋ/ zĭaŋ」で、同音字に「像」があります。つまり、中国から「象牙」を輸入しますと、発声は当時の国際語である中国語で「zi̯aŋ ŋa」と云うものになります。一般的に舶来物品の名称を無理に大和言葉に直し「きさのき」と発声する必然性はありませんし、それでは高価な珍品舶来品と云う価値が減じます。
ここで、つまらない話をします。
現代の古典文学研究では吉野離宮は奈良県吉野郡吉野町宮滝付近にあったと比定し、万葉集に載る吉野方面の地名はこの宮滝を中心に古地名からそれを探します。そのため、宮滝南方の喜佐谷川一帯を「象(きさ)」と比定し、喜佐谷の里山を象山と表記します。さらに、現在、喜佐谷川と云う名称は奈良時代、象川(きさのかわ)と呼ばれたと解説します。
一方、弊ブログでは万葉集で歌う吉野とは吉野郡下市町の阿知賀を中心とした場所を想定していますので、最初から場所が違います。この阿知賀は神功皇后、応神天皇、雄略天皇ゆかりの地であって、神功皇后の小竹宮、応神天皇や雄略天皇の吉野離宮は吉野郡下市町阿知賀の白髭神社付近にあったと想定しています。そうした時、現在の下市町の阿知賀の様子は万葉集で柿本人麻呂が詠う吉野讃歌に叶うものです。対して宮滝付近の吉野川の風情は人麻呂が詠う風景とは一致しませんし、日本書紀や古事記に載る吉野の風景ではありません。場所は吉野川で徒歩での鵜飼漁が可能であり、また、複数の舟を浮かべた川遊びも必要です。そして、広い野原もまた必要です。さて、そのような吉野とはどこでしょうか。
およそ、吉野離宮を吉野町宮滝付近に比定する場合、象は「きさ」であり、現在の地名は喜佐谷とします。一方、吉野離宮を下市町阿知賀付近に比定する場合、象は「ころ」であり、現在の地名は小路とします。なお、この小路は遅くとも鎌倉時代以降、「しょうじ」と読みます。
今回、言い掛かりのような説ではありますが、大陸から文物が大量流入する時代に貴重な舶来品である「象牙」を敢えて大和言葉の「さきのき」と翻訳したのかと云う疑問が出発点であり、その代案が「ころ」です。そのような背景を元にした歌の鑑賞とご了解下さい。
今週のみそひと歌を振り返りますと、集歌67の難訓歌、二句・三句目の「物戀尓 鳴毛」と云うものや集歌70の歌の四句目「象乃中山」の訓じ問題、集歌84の歌の四句目「鹿将鳴山曽」に中国古典「詩経」小雅に載る「鹿鳴」を見るか、どうかなど話題があります。
今回は個人の好みを基準に「象乃中山」の訓じ問題の集歌70の歌を取り上げます。
集歌70 倭尓者 鳴而歟来良武 呼兒鳥 象乃中山 呼曽越奈流
訓読 大和には鳴きにか来らむ呼子(よぶこ)鳥(とり)象(ころ)の中山呼びぞ越ゆなる
私訳 大和にはここから鳴くために飛んで来るのでしょうか。呼子鳥とも呼ばれるカッコウよ。秋津野の小路にある丘から「カツコヒ(片恋)、カツコヒ」と想い人を呼びながら越えて行きました。
この歌の四句目「象乃中山」の「象」は、一般的には平安時代以降の訓じ「きさ」を採用します。そして、「きさ」と訓じたところから吉野に「きさ」と云う地名を探し、奈良県吉野郡吉野町、象山 (きさやま) の麓を流れる喜佐谷川一帯の古称と紹介します。
参考として、万葉集には「象」と云う文字を持つ歌が集歌70の歌の他に次の三首ありますが、それらすべて吉野に関わる地名として登場します。ほぼ「象」と云う場所は吉野離宮や随員の宿舎があった場所と思われますから、天皇とその一行を収容可能なある程度の規模を持つ場所です。
集歌316 昔見之 象乃小河乎 今見者 弥清 成尓来鴨
集歌332 吾命毛 常有奴可 昔見之 象小河乎 行見為
集歌924 三吉野乃 象山際乃 木末尓波 幾許毛散和口 鳥之聲可聞
従いまして、この「象」と云う文字が「きさ」と云う地名を示すものでないとしますと、少なくとも万葉集中で四首、影響を受けることになります。
一方、「象」と云う文字が最初から「きさ」と訓じたのかと云うと、非常に問題があります。訓じとされる「きさ」と云う言葉の語源を探りますと、「きさ」は古語で「雲のようにもやもやな縞や筋の文様」から「木目」や「木理」、または「もやもや縞の貝」から「蚶貝(きさかい)」を意味する言葉です。古語日本語では動物としての「象」を指す言葉ではありません。
こうした時、近年の解説では『日本書紀』、天智十年(720)十月に「是月。天皇遣使、奉袈裟・金鉢・象牙・沈水香・栴檀香及諸珍財於法興寺仏」と云う記事があり、これ以前に日本に象牙が輸入されていたとします。そして、「さき」の訓じは、象牙の断面を見た人々が「木目を持つ牙」と云うことで「きさのき」と呼び、時代が下るにつれて言葉が縮まり「きさ」になったとします。
では「象」を「きさ」と訓じたのが明確に判定できるのはいつかと云うと、現代まで訓点付の書物が残る平安時代初期(850年ごろ)、文徳天皇の時代、石山寺蔵『大智度論』に載る「善勝白象(キサ)を下り、怨家に施与して」と云う文章が最古だそうです。また、ある解説では『拾遺和歌集』(1006年ごろ)にも「きさのき」を詠んだ歌があると報告します。ただし、『拾遺和歌集』に載る歌番号390の歌は「物名、木」に分類されるものであって、樹木に分類される橒の木(きさのき)を詠ったものです。つまり、『拾遺和歌集』の歌番号390の歌で詠う対象は象牙ではありませんから、「象」を「きさ」と訓じる例には使えません。
拾遺集 巻七 歌番号390
詞書 きさの木
原歌 いかりゐのいしをくくみてかみこしはきさのきにこそおとらさりけれ
解釈 怒り猪(ゐ)の 石を銜(くく)みて 噛み来しは 橒(きさ)の木にこそ 劣らざりけり
意訳 怒り狂った猪が石を咥え、噛み砕かしてやって来ても、人が植えた立派な木であればなぎ倒されることはない。
注意 橒(きさ)は中国古語では种樹と解説され、種を播き育てた人の手が入った樹木のような意味合いがあります。
また、言葉の辞典から探りますと、『類聚名義抄』(1081年以降に成立か)に「キサ キザ サウ」、『色葉字類抄』(1144年以降に成立か)に「象 セウ 平声 俗キサ」とあり、平安期には「キサ」「キザ」の他に、「サウ」や「セウ」と訓じていたと思われます。追記して秋田県に象潟(きさかた)と云う地名がありますが、奈良時代から平安時代初期は『古事記』にも載る日本海側の女神である蚶貝比売に由来をもち、また、『出羽国風土略記』に載る「蚶潟(きさかた)」の方の表記を使います。現在の表記「象潟」は江戸時代初期頃の行政区変更による新旧行政区を区分する必要からの改名によるとされています。
なお、『日本書紀』に載る「象牙」と云う言葉に平安時代初期に本文中に付けられた「誓約之中。此云宇気譬能美難箇」のような「きさのき」と云う補注もありませんから、近代に訓じた「象牙(きさ)」を以って、天智天皇の時代には「象」を「きさ」と訓じていたと云う「為にする」解説は採用しません。
ここで「象」を奈良時代にどのように訓じていたか、考えてみたいと思います。そうした時、当時、何度も禁制の通達が出るほどに流行した博打、樗蒲(かりうち)と云うものがあります。ゲームは四本の平らな木片を場に投げ、その裏表の出目で勝負を競いました。そして、流行を反映するようにその出目の呼び名が次のように万葉集に取り入れられ、詠われています。ここからから「象」を戯訓として「ころ」と訓じる可能性はあります。
出目象徴読み(戯訓)参照万葉集歌
三伏一向豚つく集歌1874に「暮三伏一向夜」
二伏二向犬(不明)
一伏三向象ころ集歌3284に「根毛一伏三向凝呂尓」
四向牛(不明)諸向なら「もろ」と云う訓が集歌3377にある
四伏(諸伏)馬まにまに(?)集歌743に「神之諸伏」
*注意 中国大陸や朝鮮半島のものとは、ゲームでの出目の名称が異なっていたようです。そのため、「つく」、「ころ」や「まにまに」と云う読みは日本独特だったと思われます。
一方、「象」の隋唐音は宋本廣韻では「zi̯aŋ/ zĭaŋ」で、同音字に「像」があります。つまり、中国から「象牙」を輸入しますと、発声は当時の国際語である中国語で「zi̯aŋ ŋa」と云うものになります。一般的に舶来物品の名称を無理に大和言葉に直し「きさのき」と発声する必然性はありませんし、それでは高価な珍品舶来品と云う価値が減じます。
ここで、つまらない話をします。
現代の古典文学研究では吉野離宮は奈良県吉野郡吉野町宮滝付近にあったと比定し、万葉集に載る吉野方面の地名はこの宮滝を中心に古地名からそれを探します。そのため、宮滝南方の喜佐谷川一帯を「象(きさ)」と比定し、喜佐谷の里山を象山と表記します。さらに、現在、喜佐谷川と云う名称は奈良時代、象川(きさのかわ)と呼ばれたと解説します。
一方、弊ブログでは万葉集で歌う吉野とは吉野郡下市町の阿知賀を中心とした場所を想定していますので、最初から場所が違います。この阿知賀は神功皇后、応神天皇、雄略天皇ゆかりの地であって、神功皇后の小竹宮、応神天皇や雄略天皇の吉野離宮は吉野郡下市町阿知賀の白髭神社付近にあったと想定しています。そうした時、現在の下市町の阿知賀の様子は万葉集で柿本人麻呂が詠う吉野讃歌に叶うものです。対して宮滝付近の吉野川の風情は人麻呂が詠う風景とは一致しませんし、日本書紀や古事記に載る吉野の風景ではありません。場所は吉野川で徒歩での鵜飼漁が可能であり、また、複数の舟を浮かべた川遊びも必要です。そして、広い野原もまた必要です。さて、そのような吉野とはどこでしょうか。
およそ、吉野離宮を吉野町宮滝付近に比定する場合、象は「きさ」であり、現在の地名は喜佐谷とします。一方、吉野離宮を下市町阿知賀付近に比定する場合、象は「ころ」であり、現在の地名は小路とします。なお、この小路は遅くとも鎌倉時代以降、「しょうじ」と読みます。
今回、言い掛かりのような説ではありますが、大陸から文物が大量流入する時代に貴重な舶来品である「象牙」を敢えて大和言葉の「さきのき」と翻訳したのかと云う疑問が出発点であり、その代案が「ころ」です。そのような背景を元にした歌の鑑賞とご了解下さい。