竹取翁と万葉集のお勉強

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高橋連虫麻呂歌集を鑑賞する  上総末珠名娘子

2010年11月29日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集
詠上総末珠名娘子一首并短謌
標訓 上総(かみつふさ)の末(すゑ)の珠名娘子を詠める一首并せて短歌
集歌1738 水長鳥 安房尓継有 梓弓 末乃珠名者 胸別之 廣吾妹 腰細之 須軽娘子之 其姿之 端正尓 如花 咲而立者 玉桙乃 道徃人者 己行 道者不去而 不召尓 門至奴 指並 隣之君者 預 己妻離而 不乞尓 鎰左倍奉 人皆乃 如是迷有者 容艶 縁而曽妹者 多波礼弖有家留
訓読 御長鳥(みながとり) 安房(あほ)に継ぎたる 梓弓(あずさゆみ) 周淮(すゑ)の珠名(たまな)は 胸別(むねわ)けの 広き吾妹(わぎも) 腰細(こしほそ)の すがる娘子(をとめ)の その姿(かほ)の 端正(きらきら)しきに 花のごと 咲(ゑ)みて立てれば 玉桙(たまほこ)の 道往(ゆ)く人は 己(おの)が行く 道は去(い)かずて 召(よ)ばなくに 門(かど)に至りぬ さし並ぶ 隣の君は あらかじめ 己妻(おのつま)離(か)れて 乞(こ)はなくに 鍵(かぎ)さへ奉(まつ)る 人皆(みな)の かく迷(まと)へれば 容(かほ)艶(よ)き 縁(より)てぞ妹は 戯(た)はれてありける
私訳 天の岩戸の大切な長鳴き鳥の忌部の阿波の安房に云い伝わり、弓の弦を継ぐ梓弓の末弭(すえはず)の周淮の郡に住む珠名は、乳房が豊かに左右に分かれ大きな胸の愛しい娘、腰が細くすがる蜂のような娘の、その顔の美しく花のような笑顔で立っていると、美しい鉾を立てる官道を行く人は、その行くべき道を行かないで、呼びもしないのに家の門まで来てしまう。家が立ち並ぶ隣の家のお方は、あらかじめ自分の妻と離縁して頼みもしないのに鍵まで渡す。多くの人がこのように心を惑えるので、美貌の理由から娘は、愛嬌を振りまいて楽しくしていたことよ。

反謌
集歌1739 金門尓之 人乃来立者 夜中母 身者田菜不知 出曽相来
訓読 金門(かなと)にし人の来(き)立(た)てば夜中(よなか)にも身はたな知らず出(い)でてぞ逢ひける
私訳 家の立派な門に人がやって来て立つと、夜中でも自分の都合を考えないで出て行って尋ねてきた人に逢ったことだ。

 この歌は阿波の忌部一族が上総の国に移住した後に誕生した安房忌部一族の物語を題材にした歌です。このように歌を理解していますので、集歌1738の歌の「水長鳥」を天岩戸を開けた時に鳴いた長鳴き鳥の「御長鳥」と解釈しています。そのためカイツブリを示す「しなが鳥」とは、解釈していません。専門家が指摘するように「しなが鳥」では、原文の「安房尓継有」の意味が取れなくなります。
 また、長歌の結句の「多波礼弖有家留」を「戯はれてありける」と訓むとして、その「戯はれ」の言葉に対して、江戸・明治期の学者の思う「戯」の意味合いと万葉時代の「戯」の意味合いは違うとしています。つまり、江戸・明治期の学者が思う娼婦の意味合いに近い「戯れ女」ではなく、戯詠や戯宴の漢語で示される「みんなで興を楽しむ」ような世界です。どうも、江戸・明治期の学者には、万葉時代の美貌の女性は誰とでも体を許す関係を結ぶとの学者一流の理想があったようです。ここでは、素人らしく素直に漢語の語感を大切にしたいと思います。
 このような解釈の前提条件の違いから、この歌全体の理解が大幅に違って、上総の安房忌部一族の娘自慢の歌として鑑賞しています。

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高橋連虫麻呂歌集を鑑賞する  惜不登筑波山謌

2010年11月27日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集
惜不登筑波山謌一首
標訓 筑波の山に登らざりしことを惜しめる謌一首

集歌1497 筑波根尓 吾行利世波 霍公鳥 山妣兒令響 鳴麻志也其
訓読 筑波嶺(つくばね)に吾が行けりせば霍公鳥山彦(やまびこ)響(とよ)め鳴かましやそれ

私訳 筑波の嶺に私が出向いていたなら、霍公鳥が山彦を響かせて鳴いたでしょうか、きっと。

右一首、高橋連蟲麿之謌中出。
注訓 右の一首は、高橋連蟲麿の謌の中に出づ。

 歌の標に「惜不登筑波山」とあります。さて、筑波山に登らなかったのは誰でしょうか。参考に集歌1753の検税使大伴卿登筑波山時謌では、標にあるように高橋蟲麿は大伴旅人に伴をして筑波山に登っていると推定が出来ます。すると、この歌は、高橋蟲麿ではなく高橋蟲麿が関係する人が評判の筑波山に登りたくて登れなかったときの歌となるのでしょう。
 ここで、筑波山に登らなかった人物を藤原宇合と推定しています。そのため「鳴麻志也其」の「其」の用字に注目して漢文的な感覚での高橋蟲麿特有の表現方法とする解説もあります。一方では、漢詩漢文の第一人者である藤原宇合の漢詩的表現ではないかと推定することも可能と考えています。専門家が「其」の漢文的な用字から高橋蟲麿特有の表現方法とした点を展開して、筑波山のような標高のある山の山頂には何度も何度も登るようなものではないと考えますと、漢文的な用字から歌は藤原宇合としても良いのではないでしょうか。
 このように推定しますと、高橋蟲麿と藤原宇合とが関係すると推定できるのは、集歌971の藤原宇合卿遣西海道節度使之時謌と集歌1497の惜不登筑波山謌だけような形となり、他の東国での歌の多くは高橋蟲麿と大伴旅人との関係の歌になります。ただ、先に説明した通り、集歌971の藤原宇合卿遣西海道節度使之時謌からは主従関係を見出すことは出来ません。
 こうした時、それぞれの歌を単独に取り上げ鑑賞する場合と、高橋蟲麿に関係する歌を連続的に鑑賞する場合では、解釈される歴史や歌の背景、さらには歌を詠った歌人までが違って来ます。ここに、素人の物を知らないかなしさがあります。

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高橋連虫麻呂歌集を鑑賞する  藤原宇合卿遣西海道節度使之時謌

2010年11月26日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集
四年壬申、藤原宇合卿遣西海道節度使之時、高橋連蟲麻呂作謌一首并短謌
標訓 四年壬申、藤原宇合卿の西海道節度使に遣(つかは)さえし時に、高橋連蟲麻呂の作れる謌一首并せて短謌

集歌971 白雲乃 龍田山乃 露霜尓 色附時丹 打超而 客行君者 五百隔山 伊去割見 賊守 筑紫尓至 山乃曽伎 野之衣寸見世常 伴部乎 班遣之 山彦乃 将應極 谷潜乃 狭渡極 國方乎 見之賜而 冬成 春去行者 飛鳥乃 早御来 龍田道之 岳邊乃路尓 丹管土乃 将薫時能 櫻花 将開時尓 山多頭能 迎参出六 君之来益者

訓読 白雲の 龍田の山の 露霜(つゆしも)に 色づく時に うち越えて 旅行く君は 五百重(いほへ)山 い去(い)きさくみ 敵(あた)守(まも)る 筑紫に至り 山の極(そき) 野の極(そき)見よと 伴の部(へ)を 班(あか)ち遣(つかは)し 山彦(やまびこ)の 答へむ極(きは)み 谷蟇(たにくぐ)の さ渡る極(きは)み 国形(くにかた)を 見し給ひて 冬成りて 春さり行かば 飛ぶ鳥の 早く来まさね 龍田道の 丘辺(をかへ)の道に 丹(に)つつじの 薫(にほは)む時の 桜花 咲きなむ時に 山たづの 迎(むか)へ参(ま)ゐ出(で)む 君が来まさば

私訳 白雲の立つ龍田の山の木々が露霜により黄葉に色づく時に、山路を越えて旅行く貴方は多くの山を踏み越えて敵が守る筑紫に至り、山の極み、野の極みまで敵を見つけて成敗せよと、部下の部民を編成し派遣し、山彦が声を返す極み、ヒキガエルが這い潜り込む地の底の極みまで、その国の様子を掌握されて、冬が峠を越え、春がやって来ると、飛ぶ鳥のように、早く帰ってきてください。龍田道の丘の道に真っ赤なツツジが薫る時の、桜の花が咲く頃に、ニワトコの葉が向かい合うように迎えに参り出向きましょう。貴方が帰って御出でなら。

反謌一首
集歌972 千萬乃 軍奈利友 言擧不為 取而可来 男常曽念
訓読 千万(ちよろづ)の軍(いくさ)なりとも言(こと)挙(あ)げせず取りて来ぬべき男(をのこ)とぞ念(おも)ふ

私訳 千万の敵軍であるとして、改めて神に誓約しなくとも敵を平定してくるはずの男子であると、貴方のことを思います。

右、檢補任文、八月十七日任東山々陰西海節度使。
注訓 右は、補任の文を檢(かむが)ふるに、八月十七日に東山・山陰・西海の節度使を任す。

 ここで、これらの歌は万葉集巻六で次の御歌とともに鑑賞する歌ですので、その御歌を参考に載せさせていただきます。

天皇賜酒節度使卿等御謌一首并短謌
標訓 天皇(すめらみこと)の酒(みき)を節度使の卿等(まへつきみたち)に賜へる御謌(おほみうた)一首并せて短謌

集歌973 食國 遠乃御朝庭尓 汝等之 如是退去者 平久 吾者将遊 手抱而 我者将御在 天皇朕 宇頭乃御手以 掻撫曽 祢宜賜 打撫曽 祢宜賜 将還来日 相飲酒曽 此豊御酒者

訓読 食国(をすくに)の 遠(とほ)の朝廷(みかど)に 汝等(いましら)が かく罷(まか)りなば 平(たひら)けく 吾は遊ばむ 手抱(たむだ)きて 吾は在(いま)さむ 天皇(すめ)と朕(われ) うづの御手(みて)もち かき撫でぞ 労(ね)ぎ賜ふ うち撫でぞ 労(ね)ぎ賜ふ 還(かへ)り来(こ)む日 相飲まむ酒(き)ぞ この豊御酒(とよみき)は

私訳 天皇が治める国の遠くの朝廷たる各地の府に、お前たちが節度使として赴いたら、平安に私は身を任そう、自ら手を下すことなく私は居よう。天皇と私は。高貴な御手をもって、卿達の髪を撫で労をねぎらおう、頭を撫でて苦をねぎらおう。そなたたちが帰って来た日に、酌み交わす酒であるぞ、この神からの大切な酒は。


反謌一首
集歌974 大夫之 去跡云道曽 凡可尓 念而行勿 大夫之伴
訓読 大夫(ますらを)の去(い)くといふ道ぞ凡(おほ)ろかに念(おも)ひて行くな大夫(ますらを)の伴

私訳 立派な男子が旅立っていくと云う道だ。普通の人々が旅立つと思って旅立つな。立派な男子たる男達よ。

右御謌者、或云、太上天皇御製也。
注訓 右の御謌(おほみうた)は、或は云はく「太上天皇の御製なり」といへる。

 さて、集歌973の歌の「天皇朕」の詞は集歌974の歌の左注を採用すると、「朕」とは元正太上天皇を示すことになります。この場合、集歌973の歌の標には反しますが、この「天皇朕」の詞は「天皇と朕」と訓むことも可能です。それで、ここでは「天皇(すめ)と朕(われ)」と訓んでいます。歴史的行事としては、天皇の御出座での宴であったと思われますので、元正太上天皇が歌を詠われたとしても、宴の主催者としての「天皇賜酒節度使卿等」の表記なのでしょう。なお、標の「御謌」の表現だけでは、聖武天皇の御製か、元正太上天皇の御製かを区別することは出来ません。
 ここで、集歌971の歌から集歌974の歌までを一連の歌群としますと、集歌972の歌に「言擧不為」とありますから、本来なら節度使の出立の前に行われるような天皇による朝敵平定の神事が行われなかったと推測されます。その代替として、元正太上天皇により節度使への送別の宴が行われたようで、その宴に招かれたのが藤原朝臣房前、丹比真人県守と藤原朝臣宇合の三人だったと思われます。そして、この三人の中で藤原宇合は、万葉時代を代表する歌人ですし、元正太上天皇もまた和歌をよくする御方です。推測ですが、場合により宴での歌の交換は元正太上天皇、藤原宇合、高橋蟲麻呂を中心に行われたのかもしれません。なお、宮中での宴で、高橋蟲麻呂が集歌971の歌を詠ったのですと、宮中行事への参加身分の関係から定説である「高橋蟲麻呂は藤原宇合の従者説」は、万葉集の歌からは成り立たなくなります。
 参考として、集歌972の左注に天平四年八月十七日の日付が出ていますが、続日本紀に従えば、叙任の布告は八月十七日ですが、赴任のための身分証明になる駅鈴などの交付は十月十一日です。つまり、これらの歌々は新暦十月下旬から十一月頃の歌となります。それで、集歌971の歌が詠う季節が、生駒山系が黄葉となる季節です。このとき、集歌972の歌の左注を付記した人物の季節感に辛さを見ますし、公卿補任の書類だけを参照して続日本紀の記事を知らなかったようです。

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高橋連虫麻呂歌集を鑑賞する  富士の嶺の歌

2010年11月22日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集
はじめに
 高橋連虫麻呂の歌および高橋連虫麻呂歌集を鑑賞しますが、例によって、紹介する歌は、原則として西本願寺本の原文の表記に従っています。そのため、紹介する原文表記や訓読みに普段の「訓読み万葉集」と相違するものもありますが、それは採用する原文表記の違いと素人の無知に由来します。
 また、勉学に勤しむ学生の御方にお願いですが、ここでは原文、訓読み、それに現代語訳や解説があり、それなりの体裁はしていますが、正統な学問からすると紹介するものは全くの「与太話」であることを、ご了解ください。つまり、コピペには全く向きません。あくまでも、大人の楽しみでの与太話で、学問ではありません。


高橋連虫麻呂を考える
 この本人また本人が詠ったと思われる三十四首の歌について見てみますと、歌は長歌十四首、旋頭歌一首、短歌十九首に分類されます。また、歌が詠われた地域は、駿河・房州・常陸の東国と畿内です。この地域性と集歌971の歌が藤原宇合の西海道節度使に就任する状況を詠ったものであるため、高橋虫麻呂は藤原宇合の随員ではないかとの推測があります。ただし、「高橋連虫麻呂」は、正史には現れないことや万葉集の標や左注でもその人物像が探れないために、公式には、未だ、その人物像や生涯については不明の人物です。歌を鑑賞した感覚として、高橋虫麻呂は大伴旅人の筑波山への登山に同行し、関東各地を同行して旅をしたようですが、対する藤原宇合は筑波山に登らなかったのではないかと思える節があります。そこから、素人ではありますが、従来の解説は本当に正しいのか疑問を抱いています。
 なお、高橋虫麻呂に関係する歌で詠われた年が確定出来るのは、天平四年(732)の集歌971の「藤原宇合卿遣西海道節度使」の時の歌と神亀元年(724)の集歌1747の「諸卿大夫等下難波」の時の歌だけです。その他の歌は、万葉集でのその歌の配置関係や藤原宇合の年賦から推測するものが過半です。ここで、高橋虫麻呂が詠う歌が藤原宇合の常陸国守就任と関係するとしますと、およそ、養老・神亀年間から天平初期に活躍した人物となります。
 ところで、公表されている情報によると、東大寺正倉院文書の天平十四年(742)の年号を記す書類に「優婆塞秦調曰佐酒人」を貢進した人物として「少初位上高橋虫麿」の名が登場するそうです(原文未確認)。そこから高橋連虫麻呂は、最終の官位が少初位上であったのではないか、また、天平十四年の段階でも生存していたとする説があります。ただし、東大寺正倉院文書に載る記事が公式文書に相当するのですと、文書での「姓(かばね)」の有無から「高橋連虫麻呂」と「少初位上高橋虫麿」なる人物とは区分するのが相当ではないでしょうか。つまり、提案されている人物像の根拠に対して、律令体制での規則や身分制度などから疑問を提示すると、高橋連虫麻呂については、その生涯や人物像は、現在も未解決の人物となってしまいます。
 参考に、高橋朝臣は膳部(かしはで)氏の支流に当たり、宮中で天皇の御食を掌る内膳に代々就任していて、名目上の志摩国の国守を勤める立場です。一方、高橋連は物部氏の支流に当たり、朝廷直属の一族と河内国に土着の一族とに分かれます。高橋虫麻呂はその姓から物部氏の支流に相当しますが、本貫を右京とするのか、河内国とするのかを含めて不明です。一部に、高橋朝臣と高橋連とに混乱が見られますが、ここでは高橋連虫麻呂は物部氏の支流の高橋連の一族と考えますので、宮内省や内膳との直接の関係を見ていません。



富士の嶺の歌
 物議を醸す歌です。集歌319の歌と集歌320の歌を高橋連蟲麿の歌とみなすか、それとも山部赤人の詠う集歌317の歌と集歌318の富士山の歌と、誰か他の人 (目録に笠朝臣金村歌中之出の書入れがある) の詠う集歌319と集歌320の歌の富士山のものと同じジャンルでの参考歌とするかについて、議論があります。
 ここでは、「布士」と「不盡」との表記の差から高橋連蟲麿の歌とはせずに参考歌とさせていただきます。なお、「田菜引物緒」の表記を見ると、富士の嶺に宿る神々に稲や青菜を供えて祭ったような感覚になります。

集歌321 布士能嶺乎 高見恐見 天雲毛 伊去羽斤 田菜引物緒
訓読 布士(ふぢ)の嶺(ね)を高み恐(かしこ)み天雲もい行きはばかりたなびくものを
私訳 富士の嶺の高さに恐縮して、天空の雲も流れ去ることをはばかって棚引くようです。
左注 右一首、高橋連蟲麿之謌中出焉。以類載此
注訓 右の一首は、高橋連蟲麿の謌の中に出づ。類ひを以つて此に載す。

参考歌
詠不盡山謌一首并短謌
標訓 不尽の山を詠める歌一首并せて短歌
集歌319 奈麻余美乃 甲斐乃國 打縁流 駿河能國与 己知其智乃 國之三中従 出之有 不盡能高嶺者 天雲毛 伊去波伐加利 飛鳥母 翔毛不上 燎火乎 雪以滅 落雪乎 火用消通都 言不得 名不知 霊母 座神香 石花海跡 名付而有毛 彼山之 堤有海曽 不盡河跡 人乃渡毛 其山之 水乃當焉 日本之 山跡國乃 鎮十方 座祇可間 寳十方 成有山可聞 駿河有 不盡能高峯者 雖見不飽香聞
訓読 なまよみの 甲斐(かひ)の国 うち寄する 駿河(するが)の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出(い)で有る 不尽(ふじ)の高嶺(たかね)は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上(のぼ)らず 燃ゆる火を 雪もち消(け)ち 降る雪を 火もち消(け)ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず 霊(くす)しくも 座(いま)す神か 石花(せ)の海と 名付けてあるも その山の つつめる海ぞ 不尽河(ふぢかわ)と 人の渡るも その山の 水の激(たぎ)ちぞ 日の本の 大和の国の 鎮(しづめ)とも 座(いま)す神かも 宝とも 生(な)れる山かも 駿河なる 不尽の高嶺は 見れど飽かぬかも
私訳 吾妻と名付けた甲斐の国と、浪打ち寄せる駿河の国と、あちこちの国の真ん中にそびえたつ富士の高峰は、天雲も流れ行くのをはばかり、空飛ぶ鳥も山を飛び越えることもせず、山頂に燃える火を雪で消し、また、降る雪を燃える火で溶かし消し、どう表現したらよいのか、その名付けの理由も知らず、貴くいらっしゃる神なのでしょう。石花の海と名付けているのも、その山を取り囲む海です。尽きることの無い富士の川として人が渡るとしても、その山の水の激しい流れです。日の本の大和の国の鎮めといらっしゃる神とも、国の宝ともなる山でしょう。駿河にある富士の高嶺は見ても見飽きることはないでしょう。

反謌
集歌320 不盡嶺尓 零置雪者 六月 十五日消者 其夜布里家利
訓読 不尽(ふぢ)の嶺(ね)に降り置く雪は六月(みなつき)の十五日(もち)に消(き)ぬればその夜(よ)降りけり
私訳 富士の嶺に降り積もる雪は、夏の終わりの六月の十五日に消えるのだが、その夜には新しい年の雪が降ってくる。

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山部赤人を鑑賞する  春の野の歌 そして

2010年11月20日 | 万葉集 雑記
春の野の歌
 万葉集巻八 春雑謌に配置される山部赤人の春の歌四首ですが、現在の季節感からすると新暦新春一月から四月に亘るほど、季節には幅があります。また、集歌1424の歌の「すみれ」は鄙の女性のような感覚があり、花を女性の比喩とした詠った歌でしょう。つまり、ここでの連続する四首の歌には、集歌1426と集歌1427との関連性の可能性を除いて、それぞれの歌には連絡性はないと思っています。
 参考に万葉集では「あしひきの山桜」で始まる歌は三首ありますが、歌それぞれに、その背景は違います。

山部宿祢赤人謌四首
標訓 山部宿祢赤人の謌四首
集歌1424 春野尓 須美礼採尓等 来師吾曽 野乎奈都可之美 一夜宿二来
訓読 春の野にすみれ摘みにと来(こ)し吾そ野をなつかしみ一夜(ひとよ)寝(ね)にける
私訳 春の野にすみれを摘みにと、来た私です。この野を心が引かれ、ここで夜を過しました。

集歌1425 足比奇乃 山櫻花 日並而 如是開有者 甚戀目夜裳
訓読 あしひきの山桜花日(け)並(なら)べてかく咲きたらばいたく恋ひめやも
私訳 足を引くような険しい山の山桜の花、何日もこのように咲いているのならば、どうして桜の花に心を引かれるでしょうか。

集歌1426 吾勢子尓 令見常念之 梅花 其十方不所見 雪乃零有者
訓読 吾が背子に見せむと念(おも)ひし梅の花それとも見えず雪の降れれば
私訳 私の愛しい貴方に見せましょうと想った梅の花、その花がどこにあるのか判らない。雪が降ったので。

集歌1427 従明日者 春菜将採跡 標之野尓 昨日毛今日毛 雪波布利管
訓読 明日(あす)よりは春菜摘まむと標(し)めし野に昨日(きのふ)も今日(けふ)も雪は降りつつ
私訳 明日からは春の若菜を摘もうと。その人の立ち入りが禁じられた野に、昨日も今日も雪が降り続く。

参考歌
集歌2617 足日木能 山櫻戸乎 開置而 吾待君乎 誰留流
訓読 あしひきの山桜戸(と)を開け置きて吾(あ)が待つ君を誰れか留(とど)むる
私訳 葦や桧の生える山の山桜の木で作った戸を開けたままにして、私が待つ貴方を誰が留めているのでしょうか。

集歌3970 安之比奇能 夜麻佐久良婆奈 比等目太尓 伎美等之見氏婆 安礼古悲米夜母
訓読 あしひきの山桜花(はな)一目だに君とし見しば吾(あ)れ恋(こい)ひめやも
私訳 葦や桧の生える山の山桜、その咲く花を少しだけでも貴女として思えるのなら、私はこの恋をこれほどに苦しむでしょうか。


百済野の歌
 この歌は、万葉集巻八 春雑歌に分類される歌です。この歌一首が前後の歌と連絡なく単独に置かれていますので、歌の背景も詠われた時期も不明の歌です。
 さて、この歌を分類すると「詞の洒落」を楽しむ歌になるのでしょう。そうしたとき、この歌の表面上の洒落は、「鶯」、「鶏」、「鵡(オウム)」と「鴨」の四種類の鳥の名前を織り込んでいるところです。ここで、ちょっとしたことですが、その洒落のついでで、啼く鶯を「啼鶯」と書くと「ていおう」と詠みます。その漢詩の世界での約束では鶯が鳴くと花は散ることになるようです。時代は下りますが、雰囲気が似た漢詩がありますので次に紹介しておきます。
 参考に、万葉集の歌の中で百済野の地名が詠われているのは、この歌を含めて全部で二首だけです。残りのもう一首の歌は柿本人麻呂が詠った高市皇子尊城上殯宮の歌です。神亀六年二月にクーデタで殺された長屋王(現在では、親王以上の位であった可能性がある)はその高市皇子の長男ですので、もし、この歌が「啼鶯」と云う意味で天平年間の初期に詠われたのですと、非常に意味深長な歌となり、「春の雑歌」の分類にも納得がいきます。
 遊びですが、「鳴尓鶏鵡鴨」は「鵡鴨」を「武をとり、申しとり」と分解すると「鷄之鳴 吾妻乃國之 御軍士乎 喚賜而(鶏が鳴く吾妻の国の御軍士を喚し賜ひて)」のもじりのような遊びも想像できます。


山部宿祢赤人謌一首
標訓 山部宿祢赤人の謌一首

集歌1431 百濟野乃 芽古枝尓 待春跡 居之鴬 鳴尓鶏鵡鴨
訓読 百済(くだら)野(の)の萩の古枝(ふるえ)に春待つと居(を)りし鴬鳴きにけむかも
私訳 百済野の萩の古い枝に春を待つように留まっている鶯は、もう、啼き出したかなあ。

参考歌 
喜遷鶯 鶯の遷るを喜ぶ
曉月墜 宿雲微 曉に月は墜(お)ち、雲は微(かすか)に宿る
無語 枕頻欹 語(ことば)無く枕を頻(しきり)に欹(そばだ)つ
夢回芳草 思依依 夢は芳草を回りて、思ひ依依(いい)たり
天遠雁聲稀 天遠く、雁聲(かりのこえ)稀なり
啼鶯散 餘花亂 啼鶯(ていおう)は散じ、餘花(よか)は亂(ち)る
寂寞畫堂深院 寂寞たる畫堂(ちゅうどう)、深院たり
片紅休掃 儘從伊 片紅の掃くを休(や)め、儘(ただ)、伊(そ)に從ふ
留待舞人歸 留めて、舞人の歸るを待つ


集歌1471の謌 霍公鳥

 この歌は、万葉集巻八 夏雑歌に分類され、霍公鳥に因んだ歌を集めた中に載せられています。このため、山部赤人が詠う集歌1471の歌には霍公鳥の姿はありませんが、隠された歌の言葉の中に霍公鳥の姿を見るのが決まりとなっています。
 そうしたとき、キーワードとして「藤浪」に注目すると、霍公鳥と藤浪とを詠う歌が参考歌のようにあります。人は集歌1944の歌を集歌1471の歌の背景としますが、私は集歌1991の歌の方を背景と見ました。なお、季節を秋に変えただけで、ほぼ、集歌1471の歌と同じ歌が万葉集に見ることができますので、詠い手は男女が入れ替わっていますが、どちらが先行するかは興味があります。

山部宿祢赤人謌一首
標訓 山部宿祢赤人の謌一首

集歌1471 戀之家婆 形見尓将為跡 吾屋戸尓 殖之藤浪 今開尓家里
訓読 恋しけば形見にせむと吾が屋戸(やと)に植ゑし藤波(ふぢなみ)今咲きにけり
私訳 貴女が恋しくて思い出にしようと私の家に植えた藤浪は、今ごろ、咲きました。

参考歌その一 霍公鳥と藤浪の歌
集歌1944 藤浪之 散巻惜 霍公鳥 今城岳叨 鳴而越奈利
訓読 藤波(ふぢなみ)の散らまく惜(を)しみ霍公鳥今城(いまき)の岳(をか)と鳴きて越ゆなり
私訳 藤浪の散るのを惜しんで、霍公鳥が今城の岳でしきりに鳴きながら越えて行く。

集歌1991 霍公鳥 来鳴動 岡部有 藤浪見者 君者不来登夜
訓読 霍公鳥来鳴き響(とよ)もす岡部なる藤波(ふぢなみ)見には君は来じとや
私訳 霍公鳥が遣ってきて鳴き声を響かせる丘にある藤浪を観に貴女はやってこないと云われるのですか。

参考歌その二
集歌2119 戀之久者 形見尓為与登 吾背子我 殖之秋芽子 花咲尓家里
訓読 恋しくは形見にせよと吾(あ)が背子が植ゑし秋萩花咲きにけり
私訳 「私が愛しく恋しいのなら、その面影にしなさい」と私の愛しい貴方が植えた秋萩の花が咲きました。


春の鴬を詠める謌

 集歌1431の歌と連作のような春の鶯の情景です。ただし、伝聞の歌として書き記したものですので、解説者により「山部宿祢明人」を「山部宿祢赤人」と同一人物と認めない場合もあります。

山部宿祢明人、詠春鴬謌一首
標訓 山部宿祢明人(あかひと)の、春の鴬を詠める謌一首

集歌3915 安之比奇能 山谷古延氏 野豆加佐尓 今者鳴良武 宇具比須乃許恵
訓読 あしひきの山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ鴬の声
私訳 足を引く険しい山や谷を越えて、野の高みに今は鳴いているでしょう鶯の声よ。

左注 右、年月所處、未得詳審。但、随聞之時記載於茲
注訓 右は、年月と所處(ところ)を未だ詳審(つばびらか)にすることを得ず。但、聞きし時のままにここに記(しる)し載(の)す。

 この集歌3915の歌は、巻十七に載る歌です。その巻十七での記載の順から推定すると天平十三年四月頃に何かの宴で詠われた歌を聞いたままに忘備録に書き残したと思われます。記録者としては家持の可能性は高いのですが、巻十七は大伴池主が記録したのではないかとの比定がありますので、宴において誰が古歌を詠い、それを記録したかは不明です。
 また、万葉集の巻で先行して配置される歌が霍公鳥を詠う歌ですから、季節感と配置からするとこの歌には何らかの隠れたメッセージがあるのかもしれません。

参考歌
別訓 あしひきの山谷越えて野(の)官(つかさ)に今は鳴くらむ鴬の声
別訳 葦や桧の生い茂る山や谷を越えて、荒野の朝廷(御陵)には、今は啼くでしょう「ていおう」と呼ばれる鶯の声よ。

おわりに
 山部赤人の歌を全歌紹介しましたが、このように一括に紹介しますと、なぜ、山部赤人が宮廷歌人と称されるのかは疑問に感じるのではないでしょうか。山部赤人を評価する上での前提条件である仮名序の評価を除けば、歌の風流人である山部赤人が折々の歌を詠んだのが本来であることが判るのではないでしょうか。
 ここで、集歌372の歌や集歌1431の歌に示す洒落から、素人考えで巻十六に載る集歌3837の歌の作者ではないかと邪推してしまいます。なお、集歌3837の歌の作者はその左注に記載するように正史には名を残しませんが、その時代では有名な歌人ですし、歌の内容はちょっとまねの出来ない高度な頓智の歌です。(ここは、ブログ「万葉集巻十六を鑑賞する」を参照下さい) その時、山部赤人は、その「山部」の姓が示すように武人であり右の兵衛の士であることは、至極当然になります。
 さて、最後まで与太話となりました。この素人の長々しい与太話にお付き合いしていただきありがとうございます。


参考歌
集歌3837 久堅之 雨毛落奴可 蓮荷尓 渟在水乃 玉似将有見
訓読 ひさかたの雨も降らぬか蓮葉(はちすは)に渟(とど)まる水の玉に似る見む

私訳 遥か彼方から雨も降って来ないだろうか。蓮の葉に留まる水の玉に似たものを見たいものです。

右謌一首、傳云有右兵衛。(姓名未詳) 多能謌作之藝也。于時、府家備設酒食、饗宴府官人等。於是饌食、盛之皆用荷葉。諸人酒酣、謌舞駱驛。乃誘兵衛云開其荷葉而作。此謌者、登時應聲作斯謌也

注訓 右の謌一首は、傳へて云はく「右兵衛(うひょうえ)なるものあり(姓名は未だ詳(つばび)らならず)。 多く謌を作る藝(わざ)を能(よ)くす。時に、府家(ふか)に酒食(しゅし)を備へ設け、府(つかさ)の官人等(みやひとら)を饗宴(あへ)す。是に饌食(せんし)は、盛るに皆荷葉(はちすは)を用(もち)ちてす。諸人(もろびと)の酒(さけ)酣(たけなは)に、謌舞(かぶ)駱驛(らくえき)せり。乃ち兵衛なるものを誘ひて云はく『其の荷葉を開きて作れ』といへば、此の謌は、登時(すなはち)、聲に應(こた)へて作れるこの謌なり」といへり。

注訳 右の歌一首は、伝えて云うには「右の兵衛府にある人物がいた。姓名は未だに詳しくは判らない。多くに歌を作る才能に溢れていた。ある時、兵衛府の役所で酒食を用意して、兵衛府の役人達を集め宴会したことがあった。その食べ物は盛り付けるに全て蓮の葉を使用した。集まった人々は酒宴の盛りに、次ぎ次ぎと歌い踊った。その時、右の兵衛府のある人物を誘って云うには『その荷葉を開いて歌を作れ』と云うので、この歌は、すぐにその声に応えて作ったと云う歌」と云う。

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