竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉雑記 色眼鏡 二四二 今週のみそひと歌を振り返る その六二

2017年11月25日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二四二 今週のみそひと歌を振り返る その六二

 今回は巻八の中から次の歌で遊びます。

或者贈尼謌二首
標訓 或る者の尼に贈りたる謌二首
集歌1633 手母須麻尓 殖之芽子尓也 還者 雖見不飽 情将盡
訓読 手もすまに植ゑし萩にや還(か)へりては見れども飽かず情(こころ)尽さむ
私訳 手を休めずに植えた萩だから、何度もやって来て眺めますが、眺め飽きることがない。その萩の花に情が移ってしまうでしょう。

集歌1634 衣手尓 水澁付左右 殖之田乎 引板吾波倍 真守有栗子
訓読 衣手(ころもて)に水(み)渋(しぶ)付くさへ植ゑし田を引板(ひきた)吾(あ)が延(は)へ守(まも)れる苦(くる)し
私訳 衣の袖が水渋に染まるほどに水に漬かって植えた田を、紐に付けた鳴子の板を私が張り巡らして、そして獣から見守る作業は辛い。

尼作頭句、并大伴宿祢家持、所誂尼續末句等和謌一首
標訓 尼の頭(かしら)の句を作り、并せて大伴宿祢家持、尼の續く末(もと)の句を所誂(あとら)ひて和(こた)へたる謌一首
集歌1635
佐保河之 水乎塞上而 殖之田乎  (尼作)
苅流早飯者 獨奈流倍思  (家持續)
訓読 佐保川(さほかは)し水を堰(せ)上げて殖(う)ゑし田を  (尼の作る)
訓読 刈れる早飯(わさいひ)は独(ひと)りなるべし  (家持の續ぐ)
私訳 佐保川の流れを堰き止めて育てた田を・・・・
(その返歌を創る途中を)刈り取って早々と飯(いい:云い=和歌)にするのは一人が良い。

 歌は三首一組の組歌です。この前後の様子が示されていませんので全体状況は不明ですが、少なくとも最初の二首を詠った人、歌を贈られた尼、尼の作歌を途中で横取りした大伴家持の三人が参加する、なにがしらの秋の宴で詠われたものです。場合により、歌垣歌のように和歌を使い男女が交互に歌で会話・競いをしている可能性があります。
 さて、集歌1634の歌は、秋の収穫前の田を獣たちから鳴子を張り巡らして、夜通し見守る役割が辛いと嘆く娘子(未成年の女の子)が前提となっています。また、集歌1633の歌に寓意があるとしますと、貴族階級の男が美人になるであろう幼い女の子を手の内に養い、その女への成長を待つ時間帯のものとなります。これら二首は尼と云う立場の女性への贈呈歌としますと、相応しいかと云うと疑問です。そこに歌垣歌のような問答歌の交換があったと考える背景となります。
 歌垣歌での妙味は相手が詠う歌の言葉や風景を用いながら、さらにそこから物語を展開することにあります。このような歌垣歌のルールを前提にした時、集歌1634の歌は収穫直前の稲田の様子を詠い、集歌1635の歌では尼は稲田の様子から何かを展開して歌を詠おうとします。つまり、ほぼ、問答歌とみなして良いでしょう。

 ここで、尼が一生懸命に作歌している途中で歌を横取りした大伴家持の態度を、どのように評価しましょうか。前提として、貴族の邸宅での宴で歌垣歌のようの和歌で遊ぶ場面とします。集歌1633の歌の標題に「或者贈尼謌二首」とありますから、これらの歌が詠われた場を歌垣歌の場面としますと「或者」が「尼」を歌の受け手に指名したと解釈することになります。
このような前提です。貴女は大伴家持の態度をどのように感じ取りますか。
 例えば、ある程度、年を取った年長の尼が一生懸命に歌を作ろうとしているのを、頭の句を横取りし、勝手に和歌を完成させた才が立った嫌な若造としますか。それとも、いけ好かない若さが先立った振る舞いとしましょうか。
 ところがところが、一般的な解釈は集歌1633の歌の標題「或者贈尼謌二首」の解釈自体から違います。標準ではこの標題の漢文を「ある屋敷に住む或者」から「別の場所に住む尼」に使者を使って和歌二首を贈ったと解釈します。貴族の邸宅での宴での場面とはしません。集歌1635の歌は贈られた文と和歌に対して返事に添えるものとして和歌を作るのに当たって、大伴家持に和歌の添削を相談・依頼したとします。つまり、集歌1635の歌は大伴家持が行った和歌添削の様子を示すとします。このような解釈ですと、「贈尼謌二首」の状況を説明するために尼には若い娘がおり、同居しているとしますから、必然、尼は在家僧尼と云うことになります。集歌1633の歌で「萩」は若い娘の比喩となりますが、「手母須麻尓 殖之芽子尓也」の解釈がややこしくなります。若い娘が有力者によって養われているとしますと、成女した後に改めて母親たる尼に婚姻の許可を求める必要はないでしょう。元から妾とする予定で引き取った娘ですから。また、集歌1634の歌に若い娘と有力者の男の関係を示唆するものは見えません。およそ、従来の想定する関係ではこれら三首組歌の解釈は支離滅裂になります。つまり、伝統の組歌であっても一首単独に切り出し鑑賞するときにだけ成り立つ鑑賞方法です。現在では受け入れられない古法です。

 気を取り直して。
 この三首組歌が宴での歌垣歌のような性格のものとし。また、「或者」、「尼」、「家持」たちは互いによく知る関係とします。つまり、互いに和歌作歌技量は承知の内と云うことです。こうした時、集歌1633の歌と集歌1634の歌二首一組は、ある種、くせ球です。言葉や動作からは「見守る」と云うものがありませが、相互が連携するものではありません。無理に理屈を付けるなら、秋の季節の「見守る」と云うテーマで詠われたものと云うことでしょうか。
 このくせ球に対して、尼は「殖之田」と云う言葉を引き取って、歌垣歌らしく詠おうとしますが、下句に難渋したと思います。尼の作歌技量からは作歌に難渋することは「或者」がはなから想定したものだったと思います。歌垣歌や歌競いとしますと「或者」の勝ちとなります。
 その難渋する尼から歌の上句を拾って下句を繋いだ家持の態度は、ある種、尼の立場を救い、かつ、内容に掛詞の頓知がありますから、そちらの方向に誘導して場を盛り上げたのではないでしょうか。横取りだけでも、おやおやと思うような振る舞いですが、その歌に掛詞の頓知がありますと、尼や或者とのからみよりも家持の歌の方に興味が移ったと考えます。
 野暮ですが、「苅流早飯者」には新米で炊くご飯と歌を横取りして先に言い出すとの二つの風景があります。

 今回も、弊ブログのものは特異な解釈となってしまいました。可能性です。それ以外ありません。そこを御笑納下さい。
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万葉雑記 色眼鏡 二四一 今週のみそひと歌を振り返る その六一

2017年11月18日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二四一 今週のみそひと歌を振り返る その六一

 今回は巻八の中から次の有名な歌二首で遊びます。

額田王思近江天皇作謌一首
標訓 額田王の近江天皇を思(しの)ひて作れる謌一首
集歌1606 君待跡 吾戀居者 我屋戸乃 簾令動 秋之風吹
訓読 君待つと吾が恋ひをれば我が屋戸(やと)の簾(すだれ)動かし秋し風吹く
私訳 あの人の訪れを私が恋しく想って待っていると、あの人の訪れのように私の屋敷の簾を揺らして秋の風が吹きました。

鏡王女作謌一首
標訓 鏡(かがみの)王女(おほきみ)の作れる謌一首
集歌1607 風乎谷 戀者乏 風乎谷 将来常思待者 何如将嘆
訓読 風をだに恋ふるは乏(とぼ)し風をだに来(こ)むとし待たば何か嘆(なげ)かむ
私訳 風が簾を動かすだけでも想い人の訪れと、その想い人を恋しく想うことは、もう、私にはありません。あの人の香りだけでも思い出すような風が吹いてこないかなと思えると、どうして、今の自分を嘆きましょうか。

 この集歌1606の歌は巻四に載る集歌488の歌と重複して載るという万葉集では特異的な扱いをされる歌でもあります。ただし、原歌表記を比べますと集歌1606の歌と集歌488の歌とが一致するものではありません。つまり、万葉集編纂の折、採歌した先が違うと思われます。

額田王思近江天皇作謌一首
標訓 額田王の近江(あふみの)天皇(すめらみこと)を思(しの)ひて作れる謌一首
集歌488 君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹
訓読 君待つと吾が恋ひ居れば我が屋戸(やと)し簾動かし秋し風吹く
私訳 貴方の訪れを待つと私が恋い慕っていると、人の訪れかのように私の家の簾を動かして秋の風が吹く。

 さて、弊ブログでは「偶然の一致? 和歌と漢詩」のタイトルで、この額田王が歌う集歌1606の歌を扱っています。そこで紹介しましたものの抜粋を以下に示します。

<抜粋>
 ただ、理解しないといけないのは、漢詩が最初に詠われたときから韻を踏む五言や七言の絶句や律詩が存在したわけではありません。韻を踏む漢詩の歴史は、インド仏教の音韻学を取り入れた南北朝斉の武帝の永明年間(483-492)以降の「永明体と称される漢詩」の流行が最初とされています。そして、その永明体の漢詩が広く詠われるようになったのは唐代と云われています。つまり、時代と歴史から韻を踏む五言や七言の絶句や律詩の形式論を持って、日本の近江・飛鳥時代の歌を評価することは出来ないのです。それは、ちょうど、和歌において一字一音で表す万葉仮名表記の成立に百年の歴史があるような姿に似て、一字一音の万葉仮名表記の草仮名表記である古今和歌集以降の歌論で、漢語や漢字の持つ字の力を重視した本来の万葉集の歌を評価できないことに通じます。
 この中国や日本の歌の形式の歴史から見たとき、人麻呂時代の中国(隋・初唐)では、やっと韻を踏む五言や七言の絶句や律詩などの漢詩のルールが整い、笛や銅鑼に合わせて歌う「賦」から近世の漢詩スタイルで「詩」を吟じるようになって来ました。その五言絶句の源流にあるのが六国の宋代に現れ大流行した子夜歌で、呉声歌曲と呼ばれる南朝歌謡の一つです。
 時代や当時に日本で使われていた「呉音の中国語」の地域性から推測すると、額田王や人麻呂たちは和歌を創作するのに、この呉声歌曲に代表される南朝歌謡を参考にした可能性があります。南朝歌謡以前の漢詩は、おおむね、笛や銅鑼に合わせる儀礼的な「賦」や「楽府」、儒教的価値観を持つ説文的な「辞」の形式ですから、口吻で詠うものではありませんでした。つまり、漢字(漢語)で詩を表し、主に女性が娯楽的に口吻で詠う呉声歌曲は、額田王や人麻呂たちの和歌に通じるものがあるのではないでしょうか。
 このような前提条件で、額田王の集歌1606の歌と呉声歌曲「華山畿」を見比べて見てください。制作年代は約150年の時間差がありますが、歌の題材及び場面と発想はまったく同じものです。ただし、その呉声歌曲の伝来の時期を考えると斉明天皇の頃かもしれません。また、飛鳥・平城京時代の日本人は漢語を呉音発音で行っていますし、額田王は渡来系氏族の出身ともされていますから、集歌1606の歌の背景には非常に興味あるところです。また、古事記の歌謡や万葉集の雄略天皇の御製に見られる歌謡と万葉集の和歌(短歌)では、その表現方法に大きな相違があります。
 和歌での、その歌の表現方法の時代における相違を思う時、人麻呂の古体歌の表現の由来は、いったい何処なのでしょうか。

額田王思近江天皇作謌一首
集歌1606
君待跡 吾戀居者 我屋戸乃 簾令動 秋之風吹
訓読 君待つと吾が恋ひをれば我が屋戸(やと)の簾(すだれ)動かし秋の風吹く
私訳 あの人の訪れを私が恋しく想って待っていると、あの人の訪れのように私の屋敷の簾を揺らして秋の風が吹きました。

六国時代の宋・斉の呉声歌曲「華山畿」より
夜相思 風吹窗廉動 言是所歓來
訓読 夜に相思ひ 風は吹きて窓の廉を動かし 言う 是れ所歓の来たれるかと
所歓:女性の寝所で歓びを与える人、転じて恋人のこと

 集歌1606の歌も華山畿も、ともに女性歌人の歌です。先にも紹介しましたが、発想的には非常に似たもので、その相違は日中の言語表現の差だけのようです。
<抜粋終わり>

 歴史において、個人の好みか政治的背景かは判りませんが、近江朝の天智天皇は大陸風文化を好みこの時代に漢詩と云う文化が興ったとし、飛鳥浄御原朝の天武天皇は伝統の大和文化を好みこの時代に和歌や五節舞に代表される国風舞踊などがその形式を整えたとします。
 ここで、藤原朝時代に人々が宮中にて近江朝時代を偲んだ物語をしていたとしますと、漢詩文化と云うものに触れる可能性があるのではないでしょう。万葉集中では詩体歌と称される漢詩表記に似た和歌も存在しますから、当時の人々の中から漢詩文化・文学を排除するのは難しいと考えます。
 例として柿本人麻呂歌集から一首紹介します。

集歌2240 誰彼我莫問 九月露沾乍 君待吾
訓読 誰(たれ)彼(かれ)を吾に莫(な)問ひそ 九月の露に濡れつつ 君待つ吾そ
私訳 誰だろうあの人は、といって私を尋ねないで。九月の夜露に濡れながら、あの人を待っている私を

 この歌で少し遊びますと、次のようなものが得られます。

<和歌の遊び>
君待吾 誰彼我莫問 九月露沾乍
君待つ吾 誰れ彼れと我に問ふなかれ 九月の露に濡れいるを

<呉声歌曲「華山畿」>
夜相思 風吹窗廉動 言是所歓來
夜に相思ひ 風は吹きて窓の廉を動かし 言う 是れ所歓の来たれるかと

 ここに面白みがあります。
 再度、額田王が近江朝時代に漢詩を詠う宴で漢詩の優劣判定を依頼され、それを和歌長歌で評価を下した歌が万葉集に載るように、彼女には人に認められた漢詩鑑賞能力があったと推定されます。そうしたとき、呉声歌曲などにも十分な素養があったとしますと、集歌1606の歌などはその呉声歌曲などの漢詩を背景を持つものであるかも知れません。つまり、近江朝時代の漢詩文化を偲んで漢詩に背景を持つ和歌を詠った可能性があるのではないでしょうか。
 このような酔論を展開しますと、標題「額田王思近江天皇作謌」において「近江天皇」や「思」の意味合いが、従来の解釈と変わる可能性が出て来ます。「近江天皇」は男性としての葛城皇子ではなく、近江朝時代と云う時代を示すかも知れません。その時、「思」は男性に思いを寄せるという意味合いよりも、過去の時代を偲ぶと云う意味合いが存在するかも知れません。

 今回もまた暴論ですし、酔論です。ただ、万葉集歌は漢語と万葉仮名と云う音を示す漢字だけで表現された和歌です。それも表語文字である漢字の力を最大限に生かした作歌表現方法を採用します。そのような背景からしますと、今回紹介しましたこのような可能性が存在することも排除できないと考えます。
 もし、この「近江天皇」と云う表記に「近江天皇の時代」と云う意味合いを認めますと、次の歌の標題での「高市皇子宮」と云うものに「太政大臣後皇子尊高市皇子の時代」と云う意味合いを探る可能性が出て来ます。ただし、奈良時代の建前で高市大王と云う時代区分を認める訳にはいきませんが。当然、そのような解釈では高市皇子と但馬皇女との間での恋愛と云うものは、現代の遺跡発掘成果が示すように現れません。遺跡が示すように但馬皇女は独立した邸宅に独居する皇女であり、高市皇子の宮に住む人ではありません。

但馬皇女在高市皇子宮時、思穂積皇子御作謌一首
標訓 但馬皇女の高市皇子(たけちのみこの)宮(みかど)の在(おは)しし時に、穂積皇子を思(しの)ひて御(かた)りて作(つく)らしし謌一首
集歌114 秋田之 穂向乃所縁 異所縁 君尓因奈名 事痛有登母
訓読 秋し田し穂(ほ)向(むき)の寄れる片寄りに君に寄りなな事痛(こちた)くありとも
私訳 秋の田の実った穂が風に靡き寄るように、此方から貴方に慕う気持ちを寄せたい。貴方にとって面倒なことであっても。
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万葉雑記 色眼鏡 二四〇 今週のみそひと歌を振り返る その六〇

2017年11月11日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二四〇 今週のみそひと歌を振り返る その六〇

 今回は巻八の中から次の集歌1595の歌で遊びます。

大伴宿祢像見謌一首
標訓 大伴宿祢像見(かたみ)の謌一首
集歌1595 秋芽子乃 枝毛十尾二 降露乃 消者雖消 色出目八方
訓読 秋萩の枝も撓(とをを)に降る露の消(け)なば消ぬとも色に出(い)でめやも
私訳 秋萩の枝も撓むほどに降る露の、その露のように、はかなく消えるなら消えたとしても、けっして、目立つように心を顕すことはありません。

 和歌がお好きなお方や日本語に敏感なお方ですと、集歌1595の歌の表現方法や選択された言葉に違和感を持たれると思います。一般に日本語の約束では「露は置く」と表現されます。それに対して「降露」の表現なのです。
 この集歌1595の歌のすぐ後に配置された大伴家持が詠う歌では「露は置くもの」として歌は表現されています。

大伴宿祢家持秋謌三首
標訓 大伴宿祢家持の秋の謌三首
集歌1597 秋野尓 開流秋芽子 秋風尓 靡流上尓 秋露置有
訓読 秋し野に咲ける秋萩秋風に靡ける上に秋し露置く
私訳 秋の野に咲く秋萩、秋の風に靡いている花枝の上に秋の露が置いている。

集歌1598 棹牡鹿之 朝立野邊乃 秋芽子尓 玉跡見左右 置有白露
訓読 さ雄鹿(をしか)し朝立(あさた)つ野辺の秋萩に玉と見るまで置ける白露
私訳 角の立派な鹿が朝に立っている野辺に咲く秋萩に、真珠かと思えるほどに降りた白露よ。
注意 原文の「棹牡鹿之」の「牡」は、一般に「壮」の誤記とします

 当然、一流の歌人が集歌1595の歌を鑑賞しますと、原歌表記よりも和歌道の約束事が先になり、その解釈は次のようなものとなります。つまり、「降露」と云う表現を「置く露」と擬訓ような感覚で訓じているのでしょう。または伝統訓のため、原歌表記までは注意が届いていないのかも知れません。

HP「たのしい万葉集」より
原歌 秋芽子乃 枝毛十尾二 降露乃 消者雖消 色出目八方
訓読 秋萩(あきはぎ)の、枝もとををに、置く露(つゆ)の、消(け)なば消(け)ぬとも、色に出(い)でめやも
解釈 秋萩(あきはぎ)の枝をたわませるほどの露(つゆ)のように、消えてしまっても、(この想いを)人に知られたりしないですよ。

 この集歌1595の歌を詠う大伴宿祢像見は、この歌の他に巻四に四首和歌が載せられており、たまたま、この歌一首が載せられたという訳でもないようです。
 そうしますと、「降露」と云う表現は歌の工夫と考えるのが自然です。和歌鑑賞は、学校教育が求める理想ではありませんから、作歌された和歌言葉が数学のように規則正しく語尾変化をするわけでもありませんし、また、言葉として必ずしも露は置くものとなる訳でもありません。学校教育は「あるべきと云う虚構」を前提に精密構文分析をしますが、文学世界ではそれは無理筋な要求です。経済や法務文章ではないことを理解しなければいけません。

 さて、与太話はさておき、「降る露」と「置く露」に戻りますと、そこにはしっかりとした自然観賞があるのでしょう。地上付近の湿度が高く、気温が下がった時、葉などに凝結した水滴が付着し、蒸発よりも付着が勝ったとき、それが水滴に成長し、目に見える大きさの水滴となったものが露なのでしょう。この場合、降雨現象に拠らない限定された箇所だけでの水滴の出現のため、自然がそこに置いたと感じるのでしょう。一方、霜の場合は、特定の限定された箇所ではなく物の材質に従った一様な出現のため、感覚的に「霜が(天から)降りる」と捉えたと考えます。
 では「降る露」は、どのように捉えたら良いでしょうか。冷え込んだ朝に淡い朝霧が流れ、その流れ行く先々で木々の枝葉に水滴が付いた状態が出現しますと、さて、これをどのように表現しましょうか。確かに淡い朝霧では肌にはしっとりした感覚を受けるでしょうが、霧雨のような細かな雨粒を感じることは無いでしょう。ただ、衣も枝葉も濡れるでしょうし、特に葉は水滴を集めやすいのではないでしょうか。結果、目で見える水滴を葉先に見ることになります。
 およそ、「枝毛十尾二 降露乃」とは、萩のたくさんの小さな葉先、それぞれに水滴が付いていると云う状況と思います。あちらに一つ、こちらに一つと云う常の露ではなく、たくさんの葉先にそれぞれ水滴が付いています。ただし、常の露とは違い、地上湿度も高いでしょうから消えにくい状況は長く続くのではないでしょうか。
 歌は「消者雖消 色出目八方」と詠いますが、実際の心情は「常とは違う状況に、貴女への恋心が人に知られるのでしょうね」と云うものでしょうか。

 遊びの鑑賞です。
 原歌表記を定型の和歌道での鑑賞ではなく、そのままに受け取るとこのような酔論を展開する事が出来ます。ただ、教育の場からしますと、異端です。

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万葉雑記 色眼鏡 二三九 今週のみそひと歌を振り返る その五九

2017年11月04日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二三九 今週のみそひと歌を振り返る その五九

 今回は巻八に載る集歌1562と集歌1563の歌に遊びます。なお、集歌1562の歌は西本願寺本万葉集の歌と現代の校本万葉集の歌とは同じではありません。このため、集歌1562の歌と集歌1563の歌とは二首相聞関係のものですが、歌意が相当に変化しています。

巫部麻蘇娘子鴈謌一首
標訓 巫部(かむなぎべの)麻蘇娘子(まそをとめ)の鴈の謌一首
集歌1562 誰聞都 従此間鳴渡 鴈鳴乃 嬬呼音乃 之知左守
訓読 誰聞きつこゆ鳴き渡る雁し啼(ね)の妻呼ぶ声の之(お)いて知らさる
私訳 誰か聞きましたか、ここから飛び鳴き渡っていく雁の「枯(か)り、枯(か)り(=縁遠い)」と、その妻を呼ぶ声に対して、私は気付きましたが。
注意 原文の「之知左守」は、一般に江戸期からは「乏知在乎」と新たに校訂し「羨(とも)しくもあるか」と訓みます。歌意は変わります。

大伴家持和謌一首
標訓 大伴家持の和(こた)へたる謌一首
集歌1563 聞津哉登 妹之問勢流 鴈鳴者 真毛遠 雲隠奈利
訓読 聞きつやと妹し問はせる雁し音(ね)はまことも遠く雲隠(くもかく)るなり
私訳 誰か聞きましたかと、愛しい貴女が尋ねる雁の「離(か)り、離(か)り(=疎くなる)」と啼く、その鳴き声は、ほんとうに遠くの雲の中に隠れていて聞いていません。

 初めに紹介しましたように弊ブログで扱う原歌表記と一般的な校本万葉集での原歌表記は違います。そこで対比のために一般的なものとして、HP「ニキタマの万葉集」から原歌表記、訓読と現代誤解釈を以下に紹介します。

原歌 誰聞都 従此間鳴渡 鴈鳴乃 嬬呼音乃 乏知在乎
訓読 誰れ聞きつ こゆ鳴き渡る 雁がねの 妻呼ぶ声の 羨しくもあるか
解釈 誰が聞いたでしょうか、我が家の上を通って鳴いてゆく雁の連れ合いを呼ぶ声が羨ましく思えるのです

原歌 聞津哉登 妹之問勢流 鴈鳴者 真毛遠 雲隠奈利
訓読 聞きつやと 妹が問はせる 雁が音は まことも遠く 雲隠るなり
解釈 聞いたかとあなたがお尋ねになった雁の声はほんとに遠く雲隠れてかすかに聞こえますよ

 なぜ、弊ブログと一般的な解釈が違うのか。弊ブログでは万葉集時代の鳥の鳴き声を人々がどのように聞いていたかを推理・仮説し、万葉集中の歌で検証します。例えば、ホトトギスの鳴き声では「カッコウ」と聴き、それを「カツコイ=片恋」と転化すると歌の解釈が容易になるものが見られます。成らぬ恋仲を夜通し苦しんでいる状況でホトトギスの鳴き声と云う表現があれば、その鳴き声が「カツコイ=片恋」と聴こえるとします。ただし、万葉集時代、ホトトギスとカッコウを共にホトトギスとしていたようで、本来のホトトギスの鳴き声を大陸人風に「ブ二ョキョ=(不如帰去;帰り去くに如かず)」と聴く場合もあります。この場合は蜀王の故事から「昔のあの日に戻りたい」という意味合いを持たせます。参考として巻八から「カツコイ=片恋」の方を紹介します。

参考例として二首
集歌1475 何奇毛 幾許戀流 霍公鳥 鳴音聞者 戀許曽益礼
訓読 何(なに)奇(く)しもここだく恋ふる霍公鳥(ほととぎす)鳴く声聞けば恋こそまされ
私訳 どのような理由でこのようにひたすら恋慕うのでしょう。ホトトギスの「カツコヒ(片恋)」と啼く声を聞けば、慕う思いがさらに募ってくる。

集歌1476 獨居而 物念夕尓 霍公鳥 従此間鳴渡 心四有良思
訓読 ひとり居に物思ふ夕(よひ)に霍公鳥(ほととぎす)こゆ鳴き渡る心しあるらし
私訳 独り部屋に座って居て物思いをする夕べに、ホトトギスがここを通って「カツコヒ(片恋)」と啼き飛び渡る。私の気持ちをわかってくれる心があるようだ。

 では、今回の集歌1562と集歌1563の歌ではどうでしょうか。二首相聞歌で話題として「鴈鳴」です。雁は「カリ、カリ」と啼くから「雁」の名を持つと解説される場面があるように、伝統では雁は「カリ、カリ」と啼きます。ただし、万葉集時代の雁はカリガネと云う種類の鳥で、現在のガンではありません。ガンやカモは「ガン・ガン」や「コアーン・コアーン」のような鳴き声に聴こえます。鳥の鳴き声や種類を調べませんと雁が「カリ、カリ」と啼くと云う認識にはならないかもしれません。
 歌の雁は「カリ、カリ」と啼きます。この鳴き声をどのように聴き、それを「カツコイ=片恋」のように漢字で表現するとどうなるかを想像してます。巫部麻蘇娘子も大伴家持も、ホトトギスは和歌では「カツコイ=片恋」と鳴くとの認識を持つような人たちです。
 このような背景で鳴き声を想像したのが「枯(か)り、枯(か)り(=縁遠い)」であり、「離(か)り、離(か)り(=疎くなる)」です。男女の仲が間遠くなることを「枯れる」といいますから、巫部麻蘇娘子は貴方が私の許に寄り付かないと詠えば、家持は耳元から遠く離れているから聴こえませんと返歌します。

 非常なる歌の遊びです。
 この言葉遊びが理解できれば末句「之知左守」を「乏知在乎」と校訂するような野暮なことはしません。それに家持が雁の鳴き声を聴いたとしますと、それは男女の仲でのむき付けの離別です。優美な貴族男子はそんな不風流な振る舞いをしてはいけません。女が訴える「枯(か)り、枯(か)り(=縁遠い)」と云う恨み声は聴いてはいけないのです。かようなウイットのある歌を即座に返し、お前の気持ちは判っているとするのが良いようです。

 弊ブログでは、このような酔論・暴論で鑑賞します。そこを御笑納下さい。
 (現在、日々の暮らしのために自宅を離れ日給月給での出稼ぎ中です。そのため、図書館などでの書籍資料の確認が出来ません。そこでネット環境で資料を収集しています。参照先がほぼネットですのでご注意願います)
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