竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉雑記 色眼鏡 二三四 今週のみそひと歌を振り返る その五四

2017年09月30日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二三四 今週のみそひと歌を振り返る その五四

 今回は巻八に載る大伴坂上郎女が詠った歌に遊びます。ただ、個人の感想ですが正面からこの歌に向き合うと解釈が難しい作品ではないでしょうか。

集歌1447 尋常 聞者苦寸 喚子鳥 音奈都炊 時庭成奴
訓読 世し常に聞けば苦しき呼子鳥(よぶことり)声なつかしき時にはなりぬ
私訳 普通に言い伝えとして聞けば不如帰去(帰り去くに如かず)の故事から心切ない呼子鳥(ホトトギス)よ。その「カタコヒ(片恋)」と鳴く、その声に心引かれる季節になったようだ。


 最初に示しました弊ブログの解釈は標準的なものとは違います。そこを手順としてご笑納願います。なぜか。まず、本ブログでは歌に示す「喚子鳥」はカッコウ(郭公)であろうとして解釈しています。つまり、喚子鳥=郭公から、蜀の望帝伝説を思い、「不如帰去」と云う鳴き声を聞いています。さらに、時には弓削皇子と額田王をも思い出す必要があります。なお、万葉集ではカッコウとホトトギスとは同じ名を持つ鳥として分類されています。

集歌112 古尓 戀良武鳥者 霍公鳥 盖哉鳴之 吾戀流其騰
試訓 古(いにしへ)に恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)けだしや鳴きし吾(わ)が恋(こ)ふるそと
試訳 昔を恋しがる鳥は霍公鳥です。さぞかし鳴いたでしょう。私がそれを恋しく思っているように。

 確かに飛躍ですし、弊ブログ特有の酔論です。ですが、なぜ、鳥の鳴き声を日常的な、又は通念から聴くと「苦寸」のでしょうか。一方で「音奈都炊(音はなつかしき)」としますから、鳴き声自体が聞くに堪えがたい訳でもありません。この理屈の解釈が標準的なものとは立場が違うのです。
 さらに、中国の人は郭公の鳴き声を「不如帰去」と聴きますが、大和人は「片恋」と聴きます。同じ鳥の鳴き声ですが、聴き方には人種や国語などの背景により違うようです。従いまして、句の始めには中国故事からの理屈があり、句の後半では大和の片恋と云う感情があるのでしょう。
 ただし、もう少し、穿って歌を鑑賞しますと、常一般の人には季節を告げる時鳥の表記を持つ鳥ですが、歌を詠う本人にとっては、その鳴き声をそのままに聞くと「片恋」と聴こえ、恋煩いに悩まされるとも出来ます。弊ブログでは「不如帰去」と「片恋」との鳴き声比較を優先しましたが、可能性として「片恋」と鳴く郭公と晩春を告げる時鳥との対比があるかもしれません。

 もう少し。
 歌で奈良の都の春の野で若菜を煮る(炊く)と、目に入る歌の表記「音奈都炊」からは次のような歌が思い浮かびます。


集歌1879 春日野尓 煙立所見 感嬬等四 春野之菟芽子 採而煮良思文 (感は、女+感の当字)
訓読 春日野(かすがの)に煙(けぶり)立つ見し娘子(をとめ)らし春野しうはぎ採みに煮らしも
私訳 春日野に煙が立つのを見ました。宮の官女たちが春の野の野遊びで嫁菜を摘んで煮ているようです。

 さて、集歌1447の歌を詠う人は、春の野に着飾った乙女たちを見て恋をした男か、蜀の望帝伝説からの過去の片思いの恋を思い出す季節となったと思った男か、どちらでしょうか。
 この歌、どうしましょうか。万葉集の歌は直線的と思い込むとなかなか想像も出来ない世界ですが、時に、古今和歌集の歌よりも複雑な構造を持つ歌もあります。この歌もそのような歌ではないでしょうか。
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万葉雑記 色眼鏡 二三三 今週のみそひと歌を振り返る その五三

2017年09月23日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二三三 今週のみそひと歌を振り返る その五三

 万葉集巻七において、集歌1404の歌から挽歌の部立となります。それまでは各種の歌を歌のテーマ毎に集めた雑歌、それも比喩を含む歌です。従いまして、弊ブログでも歌の鑑賞態度が、多少、変化しています。このように案内はしておりますが、今回は妄想と酔論が根拠の鑑賞ですので、今まで以上に眉に唾を付けてご笑納下さい。

 さて、今週の鑑賞に次のような歌二首があります。表記は「蜻野」と「秋津野」と違いますますが、共に吉野秋津野での野辺送りの情景を歌います。二首が同じ葬送の場面を詠うものですと、「前裳今裳」での選字から想像して死亡した人は若い女性です。また、「嗟齒不病」の表現に選字があるのですと、死亡の原因は不慮の事故です。病ではありません。

集歌1405 蜻野叨 人之懸者 朝蒔 君之所思而 嗟齒不病
訓読 蜻蛉野(あきつの)と人し懸(か)くれば朝(あさ)蒔(ま)きし君しそ思(も)ふに嘆(なげ)きはやまず
私訳 「あの秋津野」と人が口に出すと、朝、野に遺骨を撒いた貴女のことが思い出されて、悲しみは尽きない。

集歌1406 秋津野尓 朝居雲之 失去者 前裳今裳 無人所念
訓読 秋津野(あきつの)に朝居(あさゐ)し雲し失(う)せゆけば昨日(きのふ)も今日(けふ)も亡(な)き人念(おも)ほゆ
私訳 秋津野に朝棚引く雲が消え失せていくと、昨日も今日も亡くなった人が思い出します。

 表面的にはこのような鑑賞態度から集歌1405の歌の「君」を若い女性と決めてかかっています。一般には「君」と云う表現から男性、それもある程度の身分ある人を想像するようです。それにより、不慮の事故で死亡した若い女性への歌か、吉野秋津野で火葬された身分ある男性への思い出の歌かにより、その鑑賞態度は変わります。秋津野で火葬された男性と云う解釈から、秋津野に常設の火葬を行う場(又は窯)があったのではないかとします。
 一方、奈良の都に住む和歌人が吉野で不慮の死を遂げ、そこで当時としては最先端の葬儀方法である火葬と云う方法で野辺送りされた若い女性を詠うものですと、その女性は吉野地方の下級階層の住民ではありません。宮中や朝廷に勤めるような貴族階級の娘であろうと推定されます。つまり、吉野御幸に随伴するような官女と云うことになります。
 すると、万葉集がお好きなお方には、ピンと来るような挽歌が巻三にあります。それが柿本人麻呂が歌う出雲娘子への挽歌です。

溺死出雲娘子葬吉野時、柿本朝臣人麿作歌二首
標訓 溺れ死(みまか)りし出雲娘子を吉野に火葬(ほうむ)りし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌二首
集歌429 山際従 出雲兒等者 霧有哉 吉野山 嶺霏微
訓読 山し際(ま)ゆ出雲し子らは霧なれや吉野し山し嶺(みね)にたなびく
私訳 山際から、出雲の貴女は霧なのでしょうか、吉野の山の峰に棚引いている。

集歌430 八雲刺 出雲子等 黒髪者 吉野川 奥名豆風
訓読 八雲(やくも)さす出雲(いづも)し子らよ黒髪は吉野し川し沖になづさふ
私訳 多くの雲が立ち上る出雲の貴女、貴女の自慢の黒髪は吉野の川に中ほどに揺らめいている。

 この出雲娘子は壬申の乱で活躍した出雲狗一族関係者ですと、山背国を本拠とした大春日に関係する出雲一族の娘であり、官女です。その出雲娘子は水死と云う不慮の事故で亡くなり、吉野で火葬されています。推定するように出雲娘子が大春日に関係する出雲一族の娘でしたら、柿本人麻呂とは同族関係となります。
 また、集歌1405の歌や集歌1406の歌には人麻呂の臭いがすると評論する人もいます。可能性として、集歌429の歌と集歌430の歌は、吉野御幸の中で水死と云う不慮の事故で死亡した直後の葬儀の場面の歌で、集歌1405の歌や集歌1406の歌は、この事件以降の別の吉野御幸での回顧の歌となるでしょうか。
 参考として、弊ブログでは出雲娘子の事件が起きたのを文武天皇の大宝二年(702)七月の吉野御幸の時としています。ただ、弊ブログで推定する人麻呂の生涯では大宝二年(702)暮以降に大神朝臣高市麻呂の病気交代として長門国守に就任・赴任した可能性を考えていますので、それ以降の吉野御幸に随行した可能性はありません。歌がすべて人麻呂に関係するとしますと、出雲娘子の事件が起きたのが持統太上天皇の最後の吉野御幸である大宝元年(701)六月であり、回想の歌は翌年の文武天皇の吉野御幸と云う可能性が見出せます。

 挽歌は人の死と云う事件を詠います。そのため、その人の死と云うものを考えますと、ここで紹介しましたような色々な妄想と酔論が出来ます。ただし、あくまで妄想であり、酔論です。まともな鑑賞ではありません。
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万葉雑記 色眼鏡 二三二 今週のみそひと歌を振り返る その五二

2017年09月16日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二三二 今週のみそひと歌を振り返る その五二

 今週鑑賞しました歌を代表して次の歌を標題や左注を付けて、再度、鑑賞します。建前として歌は比喩歌を集めて物で、その中でも「月」に関係するものをそれぞれに集めたと推定します。つまり、基本的にはそれぞれの歌は独立した一首単独の歌として鑑賞することになります。そのため、集歌1375の歌の左注に示すように、集歌1375の歌を直接に鑑賞すると「月」をテーマとした比喩歌としては鑑賞出来ないとします。それが平安時代以降の標準的な解釈です。
 一方、弊ブログでは組歌の可能性を認めています。それも集歌1372の歌から集歌1375の歌まで、四首組歌と考えています。

寄月
標訓 月に寄せる
集歌1372 三空徃 月讀牡士 夕不去 目庭雖見 因縁毛無
訓読 み空行く月読(つくよみ)牡士(をとこ)夕(ゆふ)さらず目には見れども寄る縁(よし)も無み
私訳 美しい空を渡り行く月読壮士は宵ごとに目には見ることが出来るが、近寄る縁がありません。

集歌1373 春日山 々高有良之 石上 菅根将見尓 月待難
訓読 春日(かすか)山(やま)山高(やまた)からし石(いは)し上(へ)し菅し根見むに月待ち難(かた)し
私訳 春日山よ、その山が高いらしい。月明りで岩の上の菅の根を見ようとするに、月の出を待ちきれない。

集歌1374 闇夜者 辛苦物乎 何時跡 吾待月毛 早毛照奴賀
訓読 闇(やみ)し夜は苦しきものを何時(いつ)しかと吾が待つ月も早も照らぬか
試訳 貴方の面影を偲ぶ月、その月が見えない暗闇の夜はつらいものです。いつ出て来るのかと私が待っている。月も早く出て照らないものでしょうか。
注意 集歌1375の歌の左注により、試訳を行っています。

集歌1375 朝霜之 消安命 為誰 千歳毛欲得跡 吾念莫國
訓読 朝霜(あさしも)し消(け)やすき命(いのち)誰がために千歳(ちとせ)もがもと吾が念(おも)はなくに
私訳 朝霜のように消えやすい命、貴方との恋が得られないのなら他の誰のためにも千年も生きてありたいと私は願うことはありません。
右一首者、不有譬喩歌類也。但、闇夜歌人、所心之故並作此謌。因、以此歌載於此次。
注訓 右の一首は、譬喩歌の類(たぐひ)に有らず。但し、「闇の夜」を歌ふ人の、所心(おもひ)の故に並(とも)に此の謌を作れり。因りて、この歌を以つて此の次(しだひ)に載せたり。

 この四首を恋人を慕う女の歌と鑑賞しますと、集歌1375の歌は分離することが出来ません。きちんと配置することで、ある種、物語性が現れてきます。ご存知のように古今和歌集研究者方向の立場からしますと、万葉集の歌が歌が詠われた時代に「物語歌」が詠われたと云うことは時代性に於いて認められません。素朴でなければいけない時代に、高度な作歌能力が要求される組歌によって歌群に物語性が与えられることはあってはならないのです。竹取物語はその文中の言葉の洒落から、原文は漢文か、漢語と万葉仮名で記述された作品であることは明らかですが、万葉集時代に「物語」と云う高度な文学作品は作れないとして、平安時代初期が最大限の上限とします。もし、奈良時代初期の段階で組歌により歌に物語性が与えられていますと、大伴旅人たちの九州文壇の活動からして「歌物語」や「物語」が奈良時代中期に現れても不思議ではないことになります。これは困ります。伊勢物語や古今和歌集を重要視する日本文学史研究を冒涜するものです。

 さて、与太話はさておきとして、月讀牡士はかぐや姫の従者ともされる月の住人で月の輝きの源ともされます。月讀牡士が地上にやってくると夜の闇の中でも人の皺やあばたがくっきり見えるほど顔を照らすとします。そのような天界の姫に従事するほどの高貴な身分であり、直接に顔を見るのもまぶしい相手となります。
 そうしたとき、恋人を「月」と比喩しますと、以下の歌の展開は判り易いものになります。妻問いの先触れは無いけれども、ひょっとしたら、突然の訪れがあるかと夜通し起きてきて期待していた女は、結果、一人で夜明けを迎えたようです。期待した男の訪れはありませんでしたが、それでも女は「貴方が私の命」と詠います。実に恋愛歌のお手本のような展開です。
 なお、鎌倉時代以降の伝統で、歌は一首単独で鑑賞するのが良いとされていますから、伊藤博氏が「萬葉集釈注」で注記するように万葉集の歌が歌群を構成することを認める必要があります。逆に伊藤博氏の主張からしますと、日本文学の中では組歌・歌群と云う概念は難しいのかもしれません。

 今回は組歌・歌群と云う概念を導入して鑑賞しました。しかしながら、左注に記すようにこのような鑑賞態度は異端ですし、外道です。
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万葉雑記 色眼鏡 二三一 今週のみそひと歌を振り返る その五一

2017年09月09日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二三一 今週のみそひと歌を振り返る その五一

 今週鑑賞しました歌を代表して次の歌を再度、鑑賞します。
 現在進行中の「再読、三十一歌」の鑑賞は、原則として表面上のものを紹介して、比喩などによる隠された意図までは紹介していません。そこまでしますと、伊藤博氏の「萬葉集釈注」のような大部なものになります。「再読、三十一歌」は私の趣味の鑑賞であって、本格的な学問ではありません。そこをご了解下さい。しかしながら、週末にはその週を振り返り、多少の詳説や鑑賞の背景を紹介します。
 歌は巻七の譬喩謌と云う大きな部立の中で「寄花」と云う小部立に載るものです。つまり、これらの歌では比喩の対象や事象を想像しながら鑑賞する必要があります。

集歌1362 秋去者 影毛将為跡 吾蒔之 韓藍之花乎 誰採家牟
訓読 秋さらば移(うつ)しもせむと吾が蒔きし韓(から)藍(あゐ)し花を誰れか採(つ)みけむ
私訳 秋がやって来ると色を移して染めようと私が蒔いた紅花の花を誰が摘んだのでしょうか。

集歌1363 春日野尓 咲有芽子者 片枝者 未含有 言勿絶行年
訓読 春日野に咲きたる萩は片枝(かたえだ)はいまだ含(ふふ)めり言(こと)な絶えそね
私訳 春日野に咲いた萩は、一部の枝がいまだにつぼみです。伝言は絶やさないでください。

集歌1364 欲見 戀管待之 秋芽子者 花耳開而 不成可毛将有
訓読 見まく欲(ほ)り恋ひつつ待ちし秋萩は花のみ咲きにならずかもあらむ
私訳 眺めてみたいと焦がれて待っていた秋萩は、花だけが咲いて実はならないのでしょうか。

 これらの歌は和歌がお好きなお方ですと、紹介する必要が無いくらいの直接的な比喩歌です。ただし、まじめに歌を鑑賞しますと非常に隠卑な雰囲気があります。集歌1362の歌の「韓藍之花」は早乙女の比喩ですし、「誰採家牟」は早乙女の花散らしを示します。ただ、この早乙女は「吾蒔之」と詠うように家主たる男が早乙女が幼いころから恋人とするべく育てた雰囲気があります。源氏物語では光源氏が若紫を育て、花散らしをしました。鎌倉時代の問はず語りでは二条はこの集歌1362の歌のように家主とは違う恋人によって花散らしを為しています。そのような雰囲気の歌で、このような背景を持つ比喩歌は万葉集に他にも見られますから、正妻とは別として、十歳前後の幼女を貰い受け、男好みに育てるような社会が存在したのかもしれません。非常にこの方面では興味が湧く歌です。
 次の集歌1363の歌は、ままです。雰囲気からしますと早乙女はおよそ近々に初潮を見たのでしょう。ただ、裳着の儀式を経ていないようで、正式な成女ではないのでしょう。ですから、正式の慣習と社会的忌諱からしますと恋人との夜の密会は出来ません。その時間帯での歌です。裳着の儀式が終わり成女になった段階で、夜に逢いましょうと云うことでしょうか。
 最後、集歌1364の歌は集歌1363の歌と同じような場面ですが、男と女の間では裳着の儀式の後での密会の確約が取れていないのでしょう。それで女から男への確認の歌なのでしょう。逆に見ますと、女は男に対して身を許していませんが、それにより男の気持ちが他の女へと移ることを気にしているのかもしれません。時代、男女の好きは、即、肉体関係を持つことに通じる風習であり、認識です。
 歌の続きとして次のようなものが連続として載せられていますから、男から女の許に裳着の儀式を経たら通うとの確約があったのでしょう。

集歌1365 吾妹子之 屋前之秋芽子 自花者 實成而許曽 戀益家礼
訓読 吾妹子し屋前(やと)し秋萩花よりは実になりにこそ恋ひ益(まさ)りけれ
私訳 私の愛しい貴女の家の前庭の秋萩よ、その花が咲くよりは実がなって初めて恋しさが増すでしょう

 ただ、集歌1363の歌から集歌1365の歌までの三首を組歌としますと、男女恋愛歌でのお手本のような歌となります。裳着の儀式は女が十三歳から十四歳ぐらいで行うようですから、そのような若い女が、かように巧みに和歌を漢語と漢字だけで詠えたでしょうか。それも問答形式です。やや、疑問があります。
 さらに万葉集編纂において採歌された経緯などを推定しますと、宮中などでの歌会で披露された歌垣形式の場面を想像した男女問答歌であったのかもしれません。

 比喩歌ですが、歌が比喩する世界を想像しますと、なかなか一筋縄では行かないようです。
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万葉雑記 色眼鏡 二三〇 今週のみそひと歌を振り返る その五〇

2017年09月02日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二三〇 今週のみそひと歌を振り返る その五〇

 今回、鑑賞します歌は歴史では有名な行事を引用したものです。

集歌1330 南淵之 細川山 立檀 弓束級 人二不所知
訓読 南淵(なみふち)し細川(ほそかわ)山(やま)し立つ檀(まゆみ)弓束(ゆづか)撓(しな)ふまで人に知らそし
私訳 南淵にある細川山に立つ檀(まゆみ)の、その真弓(まゆみ)の握り手の束が撓(しな)う、その貴女が私に従(しな)い添うまで他の人に気付かさせない。

 さて、日本書紀 皇極元年(642)八月の記事につぎのようなものがあります。

八月甲申朔、天皇幸南淵河上、跪拜四方、仰天而祈。卽雷大雨。遂雨五日、溥潤天下。或本云、五日連雨、九穀登熟。於是、天下百姓倶稱萬歳、曰至德天皇。

 皇極天皇は道教儀式をこの良くした人だったようで、この雨乞い行事は神仙道教の儀式に則り、基壇を設け四方拝を為したと思われます。集歌1330の歌は、その時の行事を思い出し、言葉遊び(「まゆみ」)と漢字遊ぶ(「壇」と「真弓」)の両面からの歌です。原歌表記に従い鑑賞しますと万葉集中でも少し特殊なものになります。
 ただ、一般には次のような解説をしますから、皇極天皇の南淵で為された雨乞い行事とは切り離されていますし、原歌での「立壇」と云う漢字表記の面白さには考えが及ばない無いようです。

1330 南淵の細川山に立つ檀弓束巻くまで人に知らえじ

南淵(みなぶち)は奈良県明日香村の稲淵のことだという。細川山はその東北にある山で、そこに生えている檀(マユミ)の木が弓の材料として著名だったようだ。「弓束(ゆづか)巻くまで」とは、「矢をつがえるときに左手に巻くまで」の意。

 雑談として、皇極天皇や天武天皇は仏教よりも道教の方を好まれたようで、現在の多武峰にある談山神社は皇極天皇(斉明天皇)が建てた道観が由来ですし、先の南淵に基壇を設置したのも道教由来の神事です。
 一方、天武天皇は神仙道教由来の呪法や方術に詳しく、今日の遺跡調査などから伊勢神宮の神事の基層に神仙道教の痕跡があるとされています。さらに、藤原京の建物群の配置や京にはこれまた道教の影響が大きいとします。
 なお、日本は平安以降においても大陸や朝鮮で好まれた儒教は支配者階級での知識としてだけ取り入れ、延喜式に載る祈年祭の祝詞に明確に示されるように文化・社会基層では墨子や道教を好んだと推定されています。祝詞が示すように天皇が自ら泥田に入り、稲作を行い、その収穫を得ると云う姿は儒教ではありません。完全に墨子の姿です。このような精神基層がありますから、まったくに神仙道教の影響か、大和人の精神構造を儀式化するときに、似た精神スタイルの道教から儀礼様式を拝借しただけなのかは判りません。
 万葉集の歌は古今和歌集以降の和歌とは違い社会生活に密着しています。そのため、雑学的に飛鳥から奈良時代の生活や政治を俯瞰する必要がありますし、現在の残る建造物や遺跡などから科学・工業技術水準を推定することが求められます。昭和期に流行した非科学的な観念社会学から単純に農民は貧困で搾取されたいたとするような似非学問からは本来の万葉集の社会は見えて来ません。色眼鏡を外し、社会人の常識を下に従来の学説を検討すると、非常の困惑することが、多々、あります。権威が提案する当時の農民層の食事の復元案では人が生存に必要な基礎代謝を満たすカロリーは得られません。つまり、科学ではありません。それは「日本文学」です。古代の交通網もそうです。各地に残る文献からすれば律令体制時代には大船による航路が官により設置されていますが、そのような情報を下には万葉集の歌を鑑賞しません。律令体制が崩壊した藤原摂関政治体制以降を基準とします。これもまた、科学ではありません。特有な「日本文学」の世界です。
 権威が思う世界で歌を鑑賞し、それが標準的なものとされます。実に「日本文学」なのです。

 今回は、調べ物の成果が乏しく、字数稼ぎにひどい脱線をしました。非常に反省する次第です。ただ、南淵と立壇と云う漢字文字に対する感覚は、現代人と奈良時代人とは大きく違うと思います。皇極天皇(斉明天皇)・天武天皇・高市太政大臣は直系の一族です。その皇極天皇が為し「至德天皇」と尊称され、それが奈良時代の日本書紀に載ったと云う事実を忘れることは出来ません。
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