万葉雑記 色眼鏡 二三四 今週のみそひと歌を振り返る その五四
今回は巻八に載る大伴坂上郎女が詠った歌に遊びます。ただ、個人の感想ですが正面からこの歌に向き合うと解釈が難しい作品ではないでしょうか。
集歌1447 尋常 聞者苦寸 喚子鳥 音奈都炊 時庭成奴
訓読 世し常に聞けば苦しき呼子鳥(よぶことり)声なつかしき時にはなりぬ
私訳 普通に言い伝えとして聞けば不如帰去(帰り去くに如かず)の故事から心切ない呼子鳥(ホトトギス)よ。その「カタコヒ(片恋)」と鳴く、その声に心引かれる季節になったようだ。
最初に示しました弊ブログの解釈は標準的なものとは違います。そこを手順としてご笑納願います。なぜか。まず、本ブログでは歌に示す「喚子鳥」はカッコウ(郭公)であろうとして解釈しています。つまり、喚子鳥=郭公から、蜀の望帝伝説を思い、「不如帰去」と云う鳴き声を聞いています。さらに、時には弓削皇子と額田王をも思い出す必要があります。なお、万葉集ではカッコウとホトトギスとは同じ名を持つ鳥として分類されています。
集歌112 古尓 戀良武鳥者 霍公鳥 盖哉鳴之 吾戀流其騰
試訓 古(いにしへ)に恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)けだしや鳴きし吾(わ)が恋(こ)ふるそと
試訳 昔を恋しがる鳥は霍公鳥です。さぞかし鳴いたでしょう。私がそれを恋しく思っているように。
確かに飛躍ですし、弊ブログ特有の酔論です。ですが、なぜ、鳥の鳴き声を日常的な、又は通念から聴くと「苦寸」のでしょうか。一方で「音奈都炊(音はなつかしき)」としますから、鳴き声自体が聞くに堪えがたい訳でもありません。この理屈の解釈が標準的なものとは立場が違うのです。
さらに、中国の人は郭公の鳴き声を「不如帰去」と聴きますが、大和人は「片恋」と聴きます。同じ鳥の鳴き声ですが、聴き方には人種や国語などの背景により違うようです。従いまして、句の始めには中国故事からの理屈があり、句の後半では大和の片恋と云う感情があるのでしょう。
ただし、もう少し、穿って歌を鑑賞しますと、常一般の人には季節を告げる時鳥の表記を持つ鳥ですが、歌を詠う本人にとっては、その鳴き声をそのままに聞くと「片恋」と聴こえ、恋煩いに悩まされるとも出来ます。弊ブログでは「不如帰去」と「片恋」との鳴き声比較を優先しましたが、可能性として「片恋」と鳴く郭公と晩春を告げる時鳥との対比があるかもしれません。
もう少し。
歌で奈良の都の春の野で若菜を煮る(炊く)と、目に入る歌の表記「音奈都炊」からは次のような歌が思い浮かびます。
集歌1879 春日野尓 煙立所見 感嬬等四 春野之菟芽子 採而煮良思文 (感は、女+感の当字)
訓読 春日野(かすがの)に煙(けぶり)立つ見し娘子(をとめ)らし春野しうはぎ採みに煮らしも
私訳 春日野に煙が立つのを見ました。宮の官女たちが春の野の野遊びで嫁菜を摘んで煮ているようです。
さて、集歌1447の歌を詠う人は、春の野に着飾った乙女たちを見て恋をした男か、蜀の望帝伝説からの過去の片思いの恋を思い出す季節となったと思った男か、どちらでしょうか。
この歌、どうしましょうか。万葉集の歌は直線的と思い込むとなかなか想像も出来ない世界ですが、時に、古今和歌集の歌よりも複雑な構造を持つ歌もあります。この歌もそのような歌ではないでしょうか。
今回は巻八に載る大伴坂上郎女が詠った歌に遊びます。ただ、個人の感想ですが正面からこの歌に向き合うと解釈が難しい作品ではないでしょうか。
集歌1447 尋常 聞者苦寸 喚子鳥 音奈都炊 時庭成奴
訓読 世し常に聞けば苦しき呼子鳥(よぶことり)声なつかしき時にはなりぬ
私訳 普通に言い伝えとして聞けば不如帰去(帰り去くに如かず)の故事から心切ない呼子鳥(ホトトギス)よ。その「カタコヒ(片恋)」と鳴く、その声に心引かれる季節になったようだ。
最初に示しました弊ブログの解釈は標準的なものとは違います。そこを手順としてご笑納願います。なぜか。まず、本ブログでは歌に示す「喚子鳥」はカッコウ(郭公)であろうとして解釈しています。つまり、喚子鳥=郭公から、蜀の望帝伝説を思い、「不如帰去」と云う鳴き声を聞いています。さらに、時には弓削皇子と額田王をも思い出す必要があります。なお、万葉集ではカッコウとホトトギスとは同じ名を持つ鳥として分類されています。
集歌112 古尓 戀良武鳥者 霍公鳥 盖哉鳴之 吾戀流其騰
試訓 古(いにしへ)に恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)けだしや鳴きし吾(わ)が恋(こ)ふるそと
試訳 昔を恋しがる鳥は霍公鳥です。さぞかし鳴いたでしょう。私がそれを恋しく思っているように。
確かに飛躍ですし、弊ブログ特有の酔論です。ですが、なぜ、鳥の鳴き声を日常的な、又は通念から聴くと「苦寸」のでしょうか。一方で「音奈都炊(音はなつかしき)」としますから、鳴き声自体が聞くに堪えがたい訳でもありません。この理屈の解釈が標準的なものとは立場が違うのです。
さらに、中国の人は郭公の鳴き声を「不如帰去」と聴きますが、大和人は「片恋」と聴きます。同じ鳥の鳴き声ですが、聴き方には人種や国語などの背景により違うようです。従いまして、句の始めには中国故事からの理屈があり、句の後半では大和の片恋と云う感情があるのでしょう。
ただし、もう少し、穿って歌を鑑賞しますと、常一般の人には季節を告げる時鳥の表記を持つ鳥ですが、歌を詠う本人にとっては、その鳴き声をそのままに聞くと「片恋」と聴こえ、恋煩いに悩まされるとも出来ます。弊ブログでは「不如帰去」と「片恋」との鳴き声比較を優先しましたが、可能性として「片恋」と鳴く郭公と晩春を告げる時鳥との対比があるかもしれません。
もう少し。
歌で奈良の都の春の野で若菜を煮る(炊く)と、目に入る歌の表記「音奈都炊」からは次のような歌が思い浮かびます。
集歌1879 春日野尓 煙立所見 感嬬等四 春野之菟芽子 採而煮良思文 (感は、女+感の当字)
訓読 春日野(かすがの)に煙(けぶり)立つ見し娘子(をとめ)らし春野しうはぎ採みに煮らしも
私訳 春日野に煙が立つのを見ました。宮の官女たちが春の野の野遊びで嫁菜を摘んで煮ているようです。
さて、集歌1447の歌を詠う人は、春の野に着飾った乙女たちを見て恋をした男か、蜀の望帝伝説からの過去の片思いの恋を思い出す季節となったと思った男か、どちらでしょうか。
この歌、どうしましょうか。万葉集の歌は直線的と思い込むとなかなか想像も出来ない世界ですが、時に、古今和歌集の歌よりも複雑な構造を持つ歌もあります。この歌もそのような歌ではないでしょうか。