万葉雑記 色眼鏡 百八八 今週のみそひと歌を振り返る その八
今週は、主に柿本人麻呂が歌う挽歌や人麻呂関係のものが大部を占めました。ご存知のように弊ブログでは物語歌は柿本人麻呂時代には存在していたであろうと推定しますし、挽歌については著名な人物に挽歌が捧げられていない場合、万葉集編者たちにより成り代わりで挽歌が捧げられたり、辞世の歌を創作させたりしたと考えています。そのため、「柿本朝臣人麿在石見國時臨死時、自傷作歌一首」や「柿本朝臣人麿死時、妻依羅娘子作謌二首」、また、「丹比真人(名闕)擬柿本朝臣人麿之意報歌一首」などの標題で紹介される歌については従来の解釈とは違い、人麻呂が創作したであろう物語歌を推定し、そこから歌の解釈を展開しています。つまり、標準的な解釈とは大きく違うという背景があります。これは万葉集を歴史から鑑賞しようとする幣ブログ独特の視点からのものでもあります。従いまして、集歌223から集歌227までのものの鑑賞には十分に注意をお願いします。
また、集歌212の歌には漢字解釈の注意書きを付けましたが、歌中の漢字解釈によっては誤記説から歌意が大きく変わる状況を説明しました。一般には、幣ブログで取り上げる漢字文字問題では誤記説を採用して、新たな文字を提案・採用して近代解釈を行います。その点からも幣ブログの解釈とは大きく違う状況があります。このような原歌表記の相違により歌意が違うものがあることをご了解ください。これらの一般解釈とは相違することについては、弊ブログの雑記などにより考え方を述べさせて頂いています。
さて、少し目先を変えまして、次の歌を今週では取り上げたいと思います。
集歌229 難波方 塩干勿有曽祢 沈之 妹之光儀乎 見巻苦流思母
訓読 難波潟(なにはかた)潮干(しほひ)なありそね沈みにし妹し光儀(すがた)を見まく苦しも
私訳 難波潟よ、潮よ引かないでくれ。水に沈んだ貴女の姿を見るのが辛いから。
この歌で使われる「妹之光儀」の「光儀」には「すがた」という訓が与えられています。ある種の意読からの戯訓です。戯訓解釈されるこの「光儀」という言葉は全万葉集中につぎのように見ることが出来、おおむね、「光儀」は恋した相手の姿の意味合いで解釈されます。漢字原義からの高貴な人物の姿の尊称と云う意味合いではありません。ある種、万葉集独特の漢字文字解釈です。
集歌229 妹之光儀乎
集歌853の前置漢文より 花容無雙 光儀無匹
集歌1622 妹之光儀乎
集歌2259 君之光儀乎
集歌2284 妹之光儀乎
集歌2883 君之光儀乎
集歌2933 君之光儀
集歌2950 吾妹子之 夜戸出乃光儀
集歌3007 君之光儀乎
集歌3051 君之光儀乎
集歌3137 遠有者 光儀者不所見
他方、言葉については『遊仙窟』という中国書籍に「若得見其光儀」という一文があり、これは「若し其の光儀(すがた)を見ることを得るは」と訓じます。『遊仙窟』は遊郭遊びの指南書との評価を下にしますと、この「光儀」は遊郭の太夫の別称であり、遊郭における疑似恋愛での恋人の姿と云う意味合いを持ちます。つまり、万葉集で使われる「光儀」という言葉は『遊仙窟』で使われる用法と同じということになります。
このような背景から、山上憶良が随行した遣唐使の帰還にともない将来したであろう『遊仙窟』という書物は奈良貴族の間で広く知られ読まれていたものと推定されるのです。ここに中国文学の日本文学への影響と云う側面を見ることが出来ます。このあたりについては幣ブログ 雑記に載せる「百二 遊仙窟伝承と日本貴族 (光儀から楽しむ)」を参照願います。
奈良貴族の和歌は漢語と万葉仮名という漢字だけで表現されたものですから、使う漢語や漢字からの言葉遊びや漢詩での先行する作品の引用を想像する教養を読者に求めます。そのような視点での鑑賞が要求されるような歌です。その点からしますと、「光儀」という言葉の感覚には『遊仙窟』で示す男女関係を想像してのものがあるのではないでしょうか。
もし、時間がありましたら、『遊仙窟』もまた、鑑賞していただけたらと考えます。その『遊仙窟』は遊郭での風流を楽しむ指南書と評されるように、文中、言葉遊びや先行する作品引用などを隠し持ちますから、少し歯ごたえがあります。それでも素人考えながら万葉集と同じ程度のものと思っていますので、漢字での言葉遊びのその時代での参考書としては押さえて置くものと思います。そして、そこらあたりから、歌を作歌した奈良貴族の教養水準とその歌を載せた万葉集の読解に苦心した平安末期から鎌倉時代の貴族の教養水準にも思いを馳せて頂けたらと思います。奈良貴族時代、大伴家持の歌に示すように女性への贈答歌にもこの『遊仙窟』に載る一節が引用されるのに対し、鎌倉時代では神に祷って初めて読解出来るものとの認識に変わって来ています。それほどまでの教養水準での変容があります。そして、鎌倉時代、万葉集は読解困難な詩歌集との評判が立ちます。
今回も素人の馬鹿話で終わりました。反省です。
今週は、主に柿本人麻呂が歌う挽歌や人麻呂関係のものが大部を占めました。ご存知のように弊ブログでは物語歌は柿本人麻呂時代には存在していたであろうと推定しますし、挽歌については著名な人物に挽歌が捧げられていない場合、万葉集編者たちにより成り代わりで挽歌が捧げられたり、辞世の歌を創作させたりしたと考えています。そのため、「柿本朝臣人麿在石見國時臨死時、自傷作歌一首」や「柿本朝臣人麿死時、妻依羅娘子作謌二首」、また、「丹比真人(名闕)擬柿本朝臣人麿之意報歌一首」などの標題で紹介される歌については従来の解釈とは違い、人麻呂が創作したであろう物語歌を推定し、そこから歌の解釈を展開しています。つまり、標準的な解釈とは大きく違うという背景があります。これは万葉集を歴史から鑑賞しようとする幣ブログ独特の視点からのものでもあります。従いまして、集歌223から集歌227までのものの鑑賞には十分に注意をお願いします。
また、集歌212の歌には漢字解釈の注意書きを付けましたが、歌中の漢字解釈によっては誤記説から歌意が大きく変わる状況を説明しました。一般には、幣ブログで取り上げる漢字文字問題では誤記説を採用して、新たな文字を提案・採用して近代解釈を行います。その点からも幣ブログの解釈とは大きく違う状況があります。このような原歌表記の相違により歌意が違うものがあることをご了解ください。これらの一般解釈とは相違することについては、弊ブログの雑記などにより考え方を述べさせて頂いています。
さて、少し目先を変えまして、次の歌を今週では取り上げたいと思います。
集歌229 難波方 塩干勿有曽祢 沈之 妹之光儀乎 見巻苦流思母
訓読 難波潟(なにはかた)潮干(しほひ)なありそね沈みにし妹し光儀(すがた)を見まく苦しも
私訳 難波潟よ、潮よ引かないでくれ。水に沈んだ貴女の姿を見るのが辛いから。
この歌で使われる「妹之光儀」の「光儀」には「すがた」という訓が与えられています。ある種の意読からの戯訓です。戯訓解釈されるこの「光儀」という言葉は全万葉集中につぎのように見ることが出来、おおむね、「光儀」は恋した相手の姿の意味合いで解釈されます。漢字原義からの高貴な人物の姿の尊称と云う意味合いではありません。ある種、万葉集独特の漢字文字解釈です。
集歌229 妹之光儀乎
集歌853の前置漢文より 花容無雙 光儀無匹
集歌1622 妹之光儀乎
集歌2259 君之光儀乎
集歌2284 妹之光儀乎
集歌2883 君之光儀乎
集歌2933 君之光儀
集歌2950 吾妹子之 夜戸出乃光儀
集歌3007 君之光儀乎
集歌3051 君之光儀乎
集歌3137 遠有者 光儀者不所見
他方、言葉については『遊仙窟』という中国書籍に「若得見其光儀」という一文があり、これは「若し其の光儀(すがた)を見ることを得るは」と訓じます。『遊仙窟』は遊郭遊びの指南書との評価を下にしますと、この「光儀」は遊郭の太夫の別称であり、遊郭における疑似恋愛での恋人の姿と云う意味合いを持ちます。つまり、万葉集で使われる「光儀」という言葉は『遊仙窟』で使われる用法と同じということになります。
このような背景から、山上憶良が随行した遣唐使の帰還にともない将来したであろう『遊仙窟』という書物は奈良貴族の間で広く知られ読まれていたものと推定されるのです。ここに中国文学の日本文学への影響と云う側面を見ることが出来ます。このあたりについては幣ブログ 雑記に載せる「百二 遊仙窟伝承と日本貴族 (光儀から楽しむ)」を参照願います。
奈良貴族の和歌は漢語と万葉仮名という漢字だけで表現されたものですから、使う漢語や漢字からの言葉遊びや漢詩での先行する作品の引用を想像する教養を読者に求めます。そのような視点での鑑賞が要求されるような歌です。その点からしますと、「光儀」という言葉の感覚には『遊仙窟』で示す男女関係を想像してのものがあるのではないでしょうか。
もし、時間がありましたら、『遊仙窟』もまた、鑑賞していただけたらと考えます。その『遊仙窟』は遊郭での風流を楽しむ指南書と評されるように、文中、言葉遊びや先行する作品引用などを隠し持ちますから、少し歯ごたえがあります。それでも素人考えながら万葉集と同じ程度のものと思っていますので、漢字での言葉遊びのその時代での参考書としては押さえて置くものと思います。そして、そこらあたりから、歌を作歌した奈良貴族の教養水準とその歌を載せた万葉集の読解に苦心した平安末期から鎌倉時代の貴族の教養水準にも思いを馳せて頂けたらと思います。奈良貴族時代、大伴家持の歌に示すように女性への贈答歌にもこの『遊仙窟』に載る一節が引用されるのに対し、鎌倉時代では神に祷って初めて読解出来るものとの認識に変わって来ています。それほどまでの教養水準での変容があります。そして、鎌倉時代、万葉集は読解困難な詩歌集との評判が立ちます。
今回も素人の馬鹿話で終わりました。反省です。