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竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉雑記 色眼鏡 百八八 今週のみそひと歌を振り返る その八

2016年10月29日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百八八 今週のみそひと歌を振り返る その八

 今週は、主に柿本人麻呂が歌う挽歌や人麻呂関係のものが大部を占めました。ご存知のように弊ブログでは物語歌は柿本人麻呂時代には存在していたであろうと推定しますし、挽歌については著名な人物に挽歌が捧げられていない場合、万葉集編者たちにより成り代わりで挽歌が捧げられたり、辞世の歌を創作させたりしたと考えています。そのため、「柿本朝臣人麿在石見國時臨死時、自傷作歌一首」や「柿本朝臣人麿死時、妻依羅娘子作謌二首」、また、「丹比真人(名闕)擬柿本朝臣人麿之意報歌一首」などの標題で紹介される歌については従来の解釈とは違い、人麻呂が創作したであろう物語歌を推定し、そこから歌の解釈を展開しています。つまり、標準的な解釈とは大きく違うという背景があります。これは万葉集を歴史から鑑賞しようとする幣ブログ独特の視点からのものでもあります。従いまして、集歌223から集歌227までのものの鑑賞には十分に注意をお願いします。
 また、集歌212の歌には漢字解釈の注意書きを付けましたが、歌中の漢字解釈によっては誤記説から歌意が大きく変わる状況を説明しました。一般には、幣ブログで取り上げる漢字文字問題では誤記説を採用して、新たな文字を提案・採用して近代解釈を行います。その点からも幣ブログの解釈とは大きく違う状況があります。このような原歌表記の相違により歌意が違うものがあることをご了解ください。これらの一般解釈とは相違することについては、弊ブログの雑記などにより考え方を述べさせて頂いています。


 さて、少し目先を変えまして、次の歌を今週では取り上げたいと思います。

集歌229 難波方 塩干勿有曽祢 沈之 妹之光儀乎 見巻苦流思母
訓読 難波潟(なにはかた)潮干(しほひ)なありそね沈みにし妹し光儀(すがた)を見まく苦しも
私訳 難波潟よ、潮よ引かないでくれ。水に沈んだ貴女の姿を見るのが辛いから。

 この歌で使われる「妹之光儀」の「光儀」には「すがた」という訓が与えられています。ある種の意読からの戯訓です。戯訓解釈されるこの「光儀」という言葉は全万葉集中につぎのように見ることが出来、おおむね、「光儀」は恋した相手の姿の意味合いで解釈されます。漢字原義からの高貴な人物の姿の尊称と云う意味合いではありません。ある種、万葉集独特の漢字文字解釈です。

集歌229 妹之光儀乎
集歌853の前置漢文より 花容無雙 光儀無匹
集歌1622 妹之光儀乎
集歌2259 君之光儀乎
集歌2284 妹之光儀乎
集歌2883 君之光儀乎
集歌2933 君之光儀
集歌2950 吾妹子之 夜戸出乃光儀
集歌3007 君之光儀乎
集歌3051 君之光儀乎
集歌3137 遠有者 光儀者不所見

 他方、言葉については『遊仙窟』という中国書籍に「若得見其光儀」という一文があり、これは「若し其の光儀(すがた)を見ることを得るは」と訓じます。『遊仙窟』は遊郭遊びの指南書との評価を下にしますと、この「光儀」は遊郭の太夫の別称であり、遊郭における疑似恋愛での恋人の姿と云う意味合いを持ちます。つまり、万葉集で使われる「光儀」という言葉は『遊仙窟』で使われる用法と同じということになります。
 このような背景から、山上憶良が随行した遣唐使の帰還にともない将来したであろう『遊仙窟』という書物は奈良貴族の間で広く知られ読まれていたものと推定されるのです。ここに中国文学の日本文学への影響と云う側面を見ることが出来ます。このあたりについては幣ブログ 雑記に載せる「百二 遊仙窟伝承と日本貴族 (光儀から楽しむ)」を参照願います。
 奈良貴族の和歌は漢語と万葉仮名という漢字だけで表現されたものですから、使う漢語や漢字からの言葉遊びや漢詩での先行する作品の引用を想像する教養を読者に求めます。そのような視点での鑑賞が要求されるような歌です。その点からしますと、「光儀」という言葉の感覚には『遊仙窟』で示す男女関係を想像してのものがあるのではないでしょうか。
 もし、時間がありましたら、『遊仙窟』もまた、鑑賞していただけたらと考えます。その『遊仙窟』は遊郭での風流を楽しむ指南書と評されるように、文中、言葉遊びや先行する作品引用などを隠し持ちますから、少し歯ごたえがあります。それでも素人考えながら万葉集と同じ程度のものと思っていますので、漢字での言葉遊びのその時代での参考書としては押さえて置くものと思います。そして、そこらあたりから、歌を作歌した奈良貴族の教養水準とその歌を載せた万葉集の読解に苦心した平安末期から鎌倉時代の貴族の教養水準にも思いを馳せて頂けたらと思います。奈良貴族時代、大伴家持の歌に示すように女性への贈答歌にもこの『遊仙窟』に載る一節が引用されるのに対し、鎌倉時代では神に祷って初めて読解出来るものとの認識に変わって来ています。それほどまでの教養水準での変容があります。そして、鎌倉時代、万葉集は読解困難な詩歌集との評判が立ちます。
 
 今回も素人の馬鹿話で終わりました。反省です。


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万葉雑記 色眼鏡 百八七 今週のみそひと歌を振り返る その七

2016年10月22日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百八七 今週のみそひと歌を振り返る その七

 今週、鑑賞致しました歌は主に草壁皇子の舎人たちが詠った皇子に奉げた挽歌です。皇子は持統天皇三年(689)四月に亡くなられていますから、舎人たちの挽歌に「飼之鴈乃兒 栖立者」や「橘之 嶋宮尓者」と云う言葉に初夏の季節感が窺えます。

 さて、草壁皇子の舎人たちが詠う挽歌が後年に創作され献歌されたものではなく、同時代性を持つとしますと、原歌表記には当時の作歌態度があることになります。ご存知のように万葉集歌の表現スタイルには漢詩体歌(略体歌)、非漢詩体歌(非略体歌)、常体歌、一字一音万葉仮名歌の四区分があります。この内、意識して一字一音万葉仮名歌スタイルで作歌活動が始まるのが天平元年ごろの筑紫歌壇活動であり、和歌三十一音が読み解ける常体歌スタイルは藤原京後半から前期平城京前期ごろとしますと、舎人たちが詠う挽歌は漢詩体歌スタイルや非漢詩体歌スタイルで歌を詠う時期に相当します。
 例としますと、つぎのような歌です。

<漢詩体歌スタイル>
集歌172 嶋宮 上池有 放鳥 荒備勿行 君不座十方
訓読 嶋し宮上(うへ)し池なる放ち鳥荒びな行きそ君座(い)まずとも
私訳 嶋の宮よ、その辺の池にいる放ち鳥よ。もとの野生に帰って行くな。あの御方がいらっしゃらなくても。
注意 「十方」は「てにをは」となる文字です。

<非漢詩体歌スタイル>
集歌184 東乃 多藝能御門尓 雖伺侍 昨日毛今日毛 召言毛無
訓読 東(ひむがし)の多藝(たぎ)の御門(みかど)に伺侍(さもら)へど昨日(きのふ)も今日(けふ)も召す言(こと)も無し
私訳 東の多芸の御門に伺候しているが、昨日も今日もお召しの言葉が無い。
注意 多藝を地名としますと、「てにをは」となる文字は「乃、能、尓、毛」となります。

 ただ、舎人たちが詠う挽歌が古風な漢詩体歌スタイルや非漢詩体歌スタイルだけかと云うとそうでもありません。次に示す歌を見て下さい。一字一音で歌を表すものでは成りませんが、漢語と一字一音の万葉仮名とを組み合わすことで、和歌の音である三十一音を示しています。

集歌190 真木柱 太心者 有之香杼 此吾心 鎮目金津毛
訓読 真木(まき)柱(はしら)太き心はありしかどこの吾が心(こころ)鎮(しづ)めかねつも
私訳 立派な木の柱のようなしっかりとした気持ちはあったのですが、この私の気持ちを鎮めることが出来ない。

集歌191 毛許呂裳遠 春冬片設而 幸之 宇陀乃大野者 所念武鴨
訓読 褻(け)ころもを春冬(とき)片(かた)設(ま)けに幸(い)でましし宇陀の大野はそ念(おも)ほえむかも
私訳 普段着の紐を解き、その狩りの時を定めなされた、その季節に御出座しになった宇陀の大野は、いつまでも思い出されるでしょう。

 つまり、舎人たちが詠う挽歌から万葉集歌の表記スタイルを眺めますと、漢詩体歌スタイル、非漢詩体歌スタイル、常体歌スタイルが混在していたと思われます。するとそれは、和歌の表記スタイルが確立していない初期段階で、相違を持つ歌の表現スタイルとは作歌者が選択した好みのスタイルであった可能性があります。表現スタイルの進化の過程と云うよりも初期段階に混在した多様性と云うものだったようです。
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万葉雑記 色眼鏡 百八六 今週のみそひと歌を振り返る その六

2016年10月15日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百八六 今週のみそひと歌を振り返る その六

 今週、鑑賞しました歌々には万葉集中でも難訓とされているものが多く含まれています。当日の鑑賞では原歌表記、その訓じと私訳を、さらりと載せただけですので、お気づきかどうかは判りません。ただ、何かの機会に鑑賞の背景を知って頂ければ、幸いです。

 参考の為に、一般に難訓とされるものを弊ブログでの提案を再掲します。

集歌145 鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武
訓読 鳥(とり)翔(か)けり通(かよ)ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
私訳 霊魂かのような鳥が飛び翔けて行く。しっかり見たいと目を凝らして見ても、今に生きる人は、昔、ここで何があったかは知らない。ただ、松の木が見届けただけだ。

集歌156 三諸之 神之神須疑 已具耳矣自得見監乍共 不寝夜叙多
試訓 三(み)つ諸(もろ)し神し神杉(かむすぎ)過(す)ぐのみを蔀(しとみ)し見つつ共(とも)寝(ね)ぬ夜(よ)そ多(まね)
試訳 三つの甕を据えると云う三諸の三輪山、その神への口噛みの酒を据える、その言葉の響きのような神山の神杉、その言葉の響きではないが、貴女が過ぎ去ってしまったのを貴女の部屋の蔀の動きを見守りながら、その貴女が恋人と共寝をしない夜が多いことです。

集歌160 燃火物 取而裹而 福路庭 入澄不言八 面智男雲
訓読 燃ゆる火も取りに包みに袋には入(い)ると言はずやも面(をも)智(し)る男雲(をくも)
私訳 あの燃え盛る火であっても、(火鼠の皮衣の説話では)取って包んで袋に入れると云うではありませんか。ねぇ、顔の毛穴までもが見ることが出来るほど輝いている貴方。


 さて、少し、視線を変えて、歌は明確に訓じられているのですが、歌自体が不審とされるものがあります。それが、次の組歌です。標題と左注を含めて紹介致します。

移葬大津皇子屍於葛城二上山之時、大来皇女哀傷御作謌二首
標訓 大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し葬(はふ)りし時に、大来皇女の哀(かな)しび傷(いた)みて御(かた)りて作(つく)らしし歌二首

集歌165 宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 汝背登吾将見
試訓 現世(うつそみ)の人にある吾(あ)や明日よりは二上山を汝(な)背(せ)と吾が見む
試訳 もう二度と会えないならば、今を生きている私は明日からは毎日見ることが出来るあの二上山を愛しい大和に住む貴方と思って私は見ましょう。

集歌166 礒之於尓 生流馬酔木 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓
試訓 磯し上(へ)に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君し在りと言はなくに
試訳 貴方が住む大和から流れてくる大和川の岸の上に生える馬酔木の白い花を手折って見せたいと思う。それを見せるはずの貴方が「ここに居るぞ」と言わないのだけど。

右一首今案、不似移葬之歌。盖疑、従伊勢神宮還京之時、路上見花感傷哀咽作此歌乎。
注訓 右の一首は今(いま)案(かむが)ふるに、移し葬(はふ)れる歌に似ず。けだし疑はくは、伊勢の神宮(かむみや)より京(みやこ)に還りし時に、路の上(ほとり)に花を見て感傷(かんしょう)哀咽(あいえつ)してこの歌を作れるか。


 まず、歌の標題からしますと組歌二首は大来皇女が大津皇子の死を悼んで詠った歌となっています。
 一方、大来皇女と大津皇子とは同母姉弟ですから、古代の忌諱からして建前では二人の間に恋愛感情はあってはいけないことになっています。建前における可能性として兄妹愛だけです。ところが、集歌165の歌の「汝背登吾将見」や集歌166の歌の「令視倍吉君之 在常不言尓」の表現に、古くから男女関係の臭いを嗅ぐとします。
 組歌二首は葬送儀礼に出席して奉げた挽歌ではありません。ある一定の時間の経過や距離的隔離を持っての哀傷歌です。つまり、歌には私的感情だけで詠われており、挽歌のような葬儀参列者の感情を代表するような歌ではありません。そのような私的感情だけの哀傷歌に「汝背」と云う表現を使うことは非常にキワドイと云うのが伝統の鑑賞です。そのためか、集歌166の歌の左注に「右一首今案、不似移葬之歌」と云う不審の言葉を載せるのです。それに大来皇女が飛鳥浄御原宮や藤原京近辺に居住していたのでは、二上山を眺めることは出来ません。
 これについて一案として、次のような考え方があります。
 王族の子は生まれて、すぐに母親の手から離れ、乳母や壬生により養育されるため、兒は知識として父親や母親を知っているだけとします。兄弟でも同様でそれぞれが同居する関係ではありません。それぞれが別々の屋敷で養育され、行事があれば会うと云う関係です。つまり、知識と書類上での家族関係と云うことになっています。さらに慣習では同じ父親の兒であっても、母親が違えば別一族の兒と云うことで兄妹関係であっても婚姻は忌諱ではありません。それならば知識上での兄妹関係なら同母兄妹関係であっても恋愛の可能性はないのかと云うと、その可能性は否定出来ません。代表的なところでは古事記や日本書紀には木梨軽皇子と軽大娘皇女との兄妹恋愛の伝承があります。慣習では忌諱ですが、同母兄妹関係での恋愛は有り得る事例でもあったのでしょう。そのような関係からの大来皇女による大津皇子への哀傷歌と云う考えです。
 他方、大津皇子に注目しますと、大津皇子は草壁皇子と皇位を争って負け、殺された皇子です。それも同じ父親の兒で母親同士は同母姉妹ですから身分の格は同じです。生まれ年が草壁皇子の方が一年早いとされているだけです。万葉集にはその大津皇子に、葬送の挽歌がありません。大津皇子は父親大海人皇子の葬儀のおり、朝廷に刃向った大逆による処刑です。そのため、正式の葬儀は無く、結果、亡き人を悼む挽歌も大逆の罪人にはあってはいけないことになります。
 では、万葉人たちにとって大津皇子は大逆の罪人として捨て去る人物であったのかと云うとそうでもなかったようです。そのためか、万葉集と同時代性を持つ懐風藻には大津皇子の作とされる漢詩が載ります。懐風藻に載る大津皇子の作とされる漢詩は後年に百済系と思われる人物により創られた、皇子の感情を推測しての成り代わりの代作です。

金烏臨西舎  金烏 西舎に臨み
鼓聲催短命  鼓聲 短命を催す
泉路無賓主  泉路 賓主無く
此夕離家向  此の夕、家を離れて向ふ

注意:日本では皇族の処刑に際し、市中引き回しをし、銅鑼や銅鼓を使った演出はしません。また、四句目「此夕離家向」は「此夕向離家」と記述するのが一般的とされます。このため、近々に渡来した百済系の人物による漢詩ではないかと推測されています。

 どうも、聖武天皇時代の懐風藻の編者は大津皇子の歌が必要と考えたようです。そこで後年になって、大津皇子に辞世の漢詩を詠わせています。すると、万葉集の編者はどのように考えたのでしょうか。建前では大津皇子に挽歌はありませんから、大津皇子自身に辞世の和歌を詠わすか、誰かが大津皇子への哀傷歌を奉げると云う形を取らざるを得ません。ただ、大来皇女が歌を奉げたかと云うと疑問があります。それも大津皇子は渡来系の僧侶や小者たちと反逆を企てたとしますから、可能性として朝廷に刃向った大逆による処刑とは淫行であった可能性があります。それが懐風藻で「性頗放蕩、不拘法度(性頗ぶる放蕩にして、法度に拘らず)」であり、「近此奸豎、卒以戮辱自終(此の奸豎に近づきて、卒に戮辱を以つて自から終る)」と記す皇子の性格と評論です。従いまして、性頗ぶる放蕩と評判される人物に対して、その死後、直後に大来皇女がかような歌を奉げますと、当然、大来皇女との淫行と云う評判が立ちます。
 弊ブログでは、歌は二上山に因んだ歌謡から取られたものであり、そこから大津皇子を追悼する創作和歌と考えています。しかしながら、天平の世にあっても建前として大津皇子は朝廷に刃向った大逆の罪人です。世の人は追悼歌を詠うわけにはいきません。そこで、大津皇子が処刑された時、唯一の生存する肉親であった大来皇女の名を借りたと考えます。大津皇子の正妻である山辺皇女は大津皇子によって離縁されなかったために、大逆への連座となり大津皇子と共に処刑されています。離縁されていますと、可能性として集歌165と集歌166との組歌二首は山辺皇女が大津皇子に奉げたとなったのではないでしょうか。

 今回もまた、穿ちました。
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万葉雑記 色眼鏡 百八五 今週のみそひと歌を振り返る その五

2016年10月08日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百八五 今週のみそひと歌を振り返る その五

 柿本人麻呂歌に見る難訓歌を中心に振りかえってみますと、一般には次の歌が難訓歌として扱われています。
 以下に紹介します集歌133の歌では三句目の「乱友」が、集歌137の歌では五句目の「妹之雷将見」が難訓です。

集歌133 小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別来礼婆
訓読 小竹(ささ)し葉はみ山も清(さ)やに乱(さや)げども吾は妹思(も)ふ別れ来(き)ぬれば
私訳 笹の葉は神の宿る山とともに清らかに風に揺られているが、揺れることなく私は恋人を思っています。都への出張に際し愛しい恋人と別れて来たから。
注意 三句目「乱友」には大きく「さやげども」と「みだれとも」との訓じ論争があります。ここでは柿本人麻呂の人生とこの歌の長歌との歌意の関係から「さやげども」説を採用しています。

集歌137 秋山尓 落黄葉 須奭者 勿散乱曽 妹之雷将見
訓読 秋山に落(ふ)る黄葉(もみちは)し須臾(しましく)はな散り乱(まが)ひそ妹(いも)し雷(れひ)見む
私訳 秋山に散る黄葉の葉よ、しばらく間、散り乱れないでくれ、恋人が別れの礼として領巾(ひれ)を振るような、そのような稲光を見たよ。
注意 五句目「妹之雷将見」は難訓です。一般には「妹のあたり見ゆ」と訓じます。

 御承知のように集歌133の歌の三句目「乱友」には、主に「さやげども」と「みだれとも」との訓じ論争があります。当然、集歌133の歌は集歌131の長歌に付けられた反歌ですから、歌の感情は集歌131の長歌と集歌132の反歌との関連性を持つ必要があります。反歌を短歌として一首単独に抜き出し、歌の鑑賞をしてはいけません。集歌133の歌は「柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時謌二首并短謌」と云う標題と「反謌二首」と云う標題に拘束されます。すると、集歌133の歌で詠う「小竹之葉者三山毛清尓乱友」は集歌131の長歌での「益高尓 山毛越来奴 夏草之 念思奈要而」の情景と集歌132の反歌で詠う「高角山之 木際従」の情景と整合性を持たせる必要があります。
 ここで「三山毛清尓」については、集歌131の長歌から集歌139の反歌までの歌々から「御山」の意味合いと「三山=高角山、屋上山(室上山)、打歌山」の意味合いとが暗示されているとします。そして、街道筋からしますと高角山は島根県益田市高津町の高角山、屋上山は山口県萩市弥富の白須山、打歌山は山口県阿武郡阿武町宇田の神宮山ではないかと思われますし、その山口県阿武郡阿武町宇田には平安時代までに縁起を持つ御山神社があります。およそ、人麻呂が取った旅の順路は江戸時代と同様な益田市から萩市への北浦街道筋を進んだと思われます。
そうした時、歌は奈良の都への柿本人麻呂の出立のものですから、旅立ちにあたって「みだる」と云う発声をしたかと云う問題があります。歌には言霊が宿ると信仰されていた時代、それは旅の出立で使う言葉でしょうか。
 また、この時、柿本人麻呂の旅の目的は何であったのでしょうか。公務による奈良の都への出張でしょうか、それとも職務満了による奈良の都への帰京でしょうか。出張ですと数カ月の後に戻って来ますから、残して来た「妹=妻」との再会は予定されたものです。一方、帰京ですと残して来た「妹=妻」とは今生の別れと云うことになります。集歌133の歌は確かに短歌ですが、長歌と反歌の組歌の中の一首ですから、このような情景や背景を反映したものでなければいけません。
 以上の考察から、本ブログでは都への出張の場面を詠う歌と解釈し深刻な心乱れるような別れの場面とはしませんし、また、言霊からも「乱友」は「さやげとも」と解釈します。

 次に、集歌137の歌の五句目「妹之雷将見」の訓を考えますと、一般には集歌137の歌の五句目「妹之雷将見」は難訓なため、「妹のあたり見ゆ」と云う訓じを予定して「雷」は「當」の誤記とし「妹之當将見」と校訂します。ただし、根拠は希望した誤記からの校訂となっていますから、本来ですと難訓歌として扱い、訓じ未詳とするのが良い歌です。万葉集の歌の大半は訓じられ、難訓歌とされる歌は限定されているとしますが、厳密に訓じるために任意の原歌表記の改変行為を許さないと云う縛りを与えますと、まだまだ、多くの難訓歌は存在します。
 他方、歌を原歌表記から正しく訓じなければいけないと云う立場からしますと、歌は柿本人麻呂の作品であること、作品が飛鳥浄御原宮時代の早い時期のものであることなどから、字音まで立ち返って、訓じを検討する必要があります。そうした時、「雷」の音韻は『宋本廣韻』では「luɑ̆i」ですし、「禮」の音韻は「liei」ですので、これらは近似の音韻を持ちます。古語での言葉の訛りや標準化と云うものを考慮しますと、人麻呂は字音からの言葉遊び的に歌を作歌したかも知れません。
 例えば、集歌134の歌には「木間従文」と云う表現があり、歌が木簡に表記された時代性からしますと、「木の簡に書かれた文」を「妹=妻」は見たでしょうかとも解釈が出来ます。

集歌134 石見尓有 高角山乃 木間従文 吾袂振乎 妹見監鴨
訓読 石見なる高角山の木し間ゆもわが袖振るを妹見けむかも
私訳 石見国にある高角山の木々の間から、私が別れの袖を振るのを恋人の貴女は見ただろうか。

 ただ、この集歌134の歌は創作された歌の原歌と思われ、その推敲後の歌が次の集歌132と思われます。推敲では三句目の「木間従文」から「木際従」と変え、状況がシンプルで明確になっています。一方、五句目は「妹見監鴨」から「妹見都良武香」へと変更となっています。こちらでは「妹見都良武香」に「妹=妻は奈良の都の良き武者の姿を見たか」と云う隠れた言葉遊びがあります。

集歌132 石見乃也 高角山之 木際従 我振袖乎 妹見都良武香
訓読 石見(いはみ)のや高角山(たかつのやま)し木(こ)し際(ま)より我が振る袖を妹見つらむか
私訳 石見にある高い津野の山の木々の葉の間から、私が振る袖を恋人は見ただろうか。

 歌はかように言葉遊びの姿を見せます。この姿からして、可能性で「妹之雷将見」に稲妻の雷光、また、雷は禮の言葉の響きがあるとして「妹之禮将見」からの「妹=妻による旅立ちの領巾(ひれ)振り神事があると考えます。

 今回も、非常な妄想の下、歌を解釈していますが、毎度、このようなもので申し訳ありません。
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万葉雑記 色眼鏡 百八四 今週のみそひと歌を振り返る その四

2016年10月01日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百八四 今週のみそひと歌を振り返る その四

 今週、鑑賞しました歌は、話題性を持つものが相当数ありました。
 集歌93と集歌94との二首相聞歌では標題の「娉鏡王女時」と云う漢文章をどのように解釈するかで、歌の世界が実際の恋愛か、宴会での架空のものかと問題があります。また、集歌96から集歌100までの相聞歌では、古く、信州ゆかりの人々は信州の土地にからむ歌群としますし、そうでない人々は大和の宮廷での宴会で詠われた余興の相聞歌とします。その時、歌にはまったくに信州の風景は無いと云う立場です。さらに集歌101と集歌102との二首相聞歌もまた、歌が詠われた場の設定に話題があります。一般には標題の「娉巨勢郎女時」と云う漢文章から二人の実恋愛を想定しますが、漢字の本義からは歌は宮中などの宴会で詠われた余興の相聞歌であろうと判断されます。そして、集歌105と集歌106との二首組歌に大津皇子と大伯皇女との関係をどのように判断するか、集歌107と集歌108との二首相聞歌での「沾」と「沽」とでの原歌表記の正誤問題などがあります。実に話題性のある歌が集まった週となりました。
 弊ブログでは何度も何度も取り上げましたが、漢字「娉」は「聘」と云う文字の正式文字であって、「聘」は格の落ちる汎字です。聘問(へいもん)が「進物をたずさえて訪問すること・礼をつくすこと」と云う意味をしめすとしますと、娉問(へいもん)は「公式に贈り物を携えて表敬訪問をする・公の礼を尽くす」と云う一段上の礼儀と云うことになります。漢字本義からしますと、「娉」と云う文字に秘めやかな妻問ひと云う意味はまったくにありません。漢文章からすると、内大臣藤原卿と鏡王女との間で交わされた集歌93と集歌94との二首相聞歌、大伴宿祢安麻呂と巨勢郎女との間で交わされた集歌101と集歌102の二首相聞歌や、久米禅師と石川郎女との間で交わされた集歌96から集歌100までの問答歌にそれぞれ二人の恋愛を想定するより、宮中での身分と宴会での余興を見るべきなのです。まして、これら万葉集の相聞歌を根拠に婚姻や二人の間での御子などを想像するのはナンセンスです。このような背景がありますから、これらの歌の説明はこの程度に納めます。
 大津皇子と石川郎女との間で交わされた集歌107と集歌108との二首相聞歌で使われる漢字文字「沽」と、それでは意味が通じないとして校訂された「沾」について、弊ブログでは古本表記の「沽」であっても十分に歌意は得られるとしました。その時、歌中の「四付」や「四附」を「しふく」と訓じるか、「しずく」と訓じるかで歌意は大きく変わります。「しふく」と訓じれば、宮中の宴会歌であっても大津皇子は石川郎女に振られたことになりますし、「しずく」であれば石川郎女は大津皇子の誘いを受けたとなります。弊ブログでは、宴会で大津皇子は才女の石川郎女に軽くいなされたとする立場です。

 ここでは、弊ブログでもあまり取り上げていない、大津皇子と大伯皇女との間で交わされた集歌107と集歌108との二首組歌を眺めて見ます。

大津皇子竊下於伊勢神宮上来時、大伯皇女御作謌二首
標訓 大津皇子の竊(ひそ)かに伊勢の神宮に下りて上り来ましし時に、大伯皇女の御(かた)りて作(つく)らしし歌二首
集歌105 吾勢枯乎 倭邊遺登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之
訓読 吾が背子を大和へ遣るとさ夜更けに鷄(かけ)鳴(な)く露に吾(われ)立ちそ濡れし
私訳 私の愛しい貴方を大和へと見送ろうと思うと、二人の夜はいつしか深けてしまった、その鶏が鳴く早朝に去って往く貴方を見送る私は夜露にも立ち濡れてしまいました。

集歌106 二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武
訓読 二人行けど去き過ぎ難き秋山を如何にか君し独り越ゆらむ
私訳 二人で行っても思いが募って往き過ぎるのが難しい秋の二上山を、どのように貴方は私を置いて一人で越えて往くのでしょうか。

 この歌二首は、古く、物議があります。
 最初に確認しますが、大津皇子と大伯皇女とは実の姉弟の関係にあり、父親が天武天皇、母親が大田皇女です。そうした時、集歌105の歌での「吾勢枯」や「吾立所霑之」と云う表現から、時に人は大津皇子と大伯皇女と間に男女関係を疑います。集歌107と集歌108との二首組歌を眺める時、二人の間に男女関係があり、女が闇にまぎれて帰って行く恋人を見送る場面を詠うものとした方が相応しいと感想します。しかしながら、大和の風習では同母兄妹間での男女関係は公では忌諱事項であり、さらにまた大伯皇女は伊勢神宮の斎王と云う立場にあります。つまり、二重の忌諱から大津皇子と大伯皇女との間に恋愛があってはいけないのです。
 一方、万葉集時代の歌の約束からしますと男女の歌で「女性が朝露に濡れる」と宣言することは、女性には夜を共にする恋人がおり、その恋人と昨夜は床を共にしたと云うことを認めたことになります。つまり、肉体関係までに発展した男女関係があると云うことです。片思いや交際申し込みと云う段階ではありません。
 こうした時、先の鑑賞になりますが、大伯皇女が詠う歌があと四首あり、それが次のものです。大津皇子は天武天皇葬儀での服喪の最中、淫行と云う不謹慎行為から死刑になり、その重罪の連座と云う形で大伯皇女(大来皇女)は伊勢神宮斎王の職を解かれ、飛鳥へと戻されています。先の二首は斎王解任から帰京の場面で、後の二首は大津皇子の埋葬の場面を詠うものです。
 集歌166の歌の左注に示すように大津皇子は飛鳥磐余の皇子の屋敷で処刑され、後、葛城の二上山に埋葬されたとします。すると、当時としては大和川を使った水運でしょうから、歌の雰囲気が水運で遺体を搬送すると云う雰囲気に合わないのです。つまり、万葉集中に大伯皇女が詠う歌は都合、六首あり、それらすべてが大津皇子と死別を詠います。つまり、見様によっては歌六首すべてが挽歌なのです。しかし、歌の世界は姉弟愛と云うよりは、男女恋愛からの挽歌の様相を示します。

大津皇子薨之後、大来皇女従伊勢齊宮上京之時御作謌二首
標訓 大津皇子の薨(みまか)りしし後に、大来皇女の伊勢の齊宮より京(みやこ)に上(のぼ)りましし時に御(かた)りて作(つく)らしし謌二首
集歌163 神風之 伊勢能國尓毛 有益乎 奈何可来計武 君毛不有尓
訓読 神風(かむかぜ)し伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに
意訳 神風の吹く伊勢の国にもいればよかたものを、どうして都に帰って来たのだろう。貴方もいないことなのに。

集歌164 欲見 吾為君毛 不有尓 奈何可来計武 馬疲尓
訓読 見まく欲(ほ)り吾がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲(か)るるに
意訳 会いたいと思う貴方も、もういないことだのに、どうして帰って来たのだろう。徒らに馬が疲れるだけだのに。

移葬大津皇子屍於葛城二上山之時、大来皇女哀傷御作謌二首
標訓 大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し葬(はふ)りし時に、大来皇女の哀(かな)しび傷(いた)みて御(かた)りて作(つく)らしし歌二首
集歌165 宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 汝背登吾将見
訓読 現世(うつせみ)の人にある吾(われ)や明日よりは二上山を汝背(なせ)と吾(あ)が見む
意訳 この世の人である私は、明日からは、二上山を弟として眺めることでしょうか。
試訳 もう二度と会えないならば、今を生きている私は明日からは毎日見ることが出来るあの二上山を愛しい大和に住む貴方と思って私は見ましょう。

集歌166 礒之於尓 生流馬酔木 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓
訓読 磯し上(へ)に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君し在りと言はなくに
意訳 岸の辺に生える馬酔木を手折りたいと思うが、見せてあげたい貴方がいるというのではないのだが。
試訳 貴方が住む大和から流れてくる大和川の岸の上に生える馬酔木の白い花を手折って見せたいと思う。以前のように見せる貴方はもうここにはいないのだけど。

右一首今案、不似移葬之歌。盖疑、従伊勢神宮還京之時、路上見花感傷哀咽作此歌乎。
注訓 右の一首は今(いま)案(かむが)ふるに、移し葬(はふ)れる歌に似ず。けだし疑はくは、伊勢の神宮(かむみや)より京(みやこ)に還りし時に、路の上(ほとり)に花を見て感傷(かんしょう)哀咽(あいえつ)してこの歌を作れるか。


 確かに歌は大津皇子への挽歌なのでしょう。ただし、歌の作歌者は大伯皇女ではないと思われます。弊ブログでは大伯皇女は実際には和歌を詠わない女性であって、万葉集中六首は万葉集編纂の過程で成った民間に在った歌謡を題材に他の人が「大伯皇女」に仮託した大津皇子への挽歌と想像します。それも大和に住む男と石川に住む女との恋愛を元にした民謡を元にしたため、途中途中で男女の肉体交渉を前提とした出合いが顔をのぞかせるのだと考えます。
 大津皇子は、本人自身の刑死に際し、時間的、また、政治的な制約から歌を残さなかったと考えられます。その大津皇子に挽歌が無いことを悼んで、後の人々が辞世の歌や挽歌を奉げたと推定します。そのため、ここでの大伯皇女の歌六首も正面から眺めると奇妙な状況にありますし、懐風藻に載る歌も時代性や大和と云う社会性からしますと奇妙なことになっています。懐風藻の歌や日本書紀の記事からしますと大津皇子は市中で処刑され、妃山辺皇女は裸足でその市中を走り、処刑されます。大和は朝鮮半島の風習とは違い、皇族など高貴な人の刑罰は自宅で行い、処刑も血を流さない絞殺が中心です。万葉集編纂者は懐風藻の歌や日本書紀の記事に呆れて、このような歌を万葉集に埋め込んだのかもしれません。
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