竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

大伴旅人と藤原房前 「長屋王の変」の後 前編

2009年11月30日 | 万葉集 雑記
大伴旅人と藤原房前 「長屋王の変」の後

スコップ持ちのおっちゃんの歴史観は、普段の歴史観ではありません。万葉集や懐風藻の歌と古事記を中心に据えています。個々の事件は日本書紀や続日本紀を参照しますが、歴史は参考にするだけです。
藤原房前は長屋王の変の時の藤原四兄弟の一人ですので、普段の歴史では反皇族・反長屋王派の人物と見做されています。ところが、万葉集や懐風藻の歌から歴史を眺めますと本当にそうなのかと、疑問が湧いてきます。「花鳥の使ひ」の和歌を使って秘密の通信をしたと想像して、次の歌を鑑賞してみてください。この先入観を入れられると、和歌を使って秘密の通信があったかもしれないとの雰囲気になるはずです。そして、先入観の補足として、この藤原房前の誕生の前後を紹介すると、房前の母親の名は、斉明・天智天皇時代の大臣であった蘇我連子(そがのむらじこ)の娘で蘇我媼子(そがのおほなこ)と云い、房前は草壁皇子が愛人の石川(蘇我)大名児(おほなこ)と別れた頃合いに誕生しています。草壁皇子が愛人である石川(蘇我)大名児と別れた頃に、持統天皇の母方の姪にあたる阿閉皇女と持統天皇の御子の草壁皇子との婚姻が成立し、後に元正天皇になられる氷高皇女がすぐに誕生しています。そして、藤原房前は、後に元明太上天皇(阿閉皇女)から太上天皇の亡くなられた後の葬儀全般の扱いと草壁皇子との御子である元正天皇(氷高皇女)の補佐を固く命じられた人です。こうしたとき、同じ「おほなこ」と呼ばれた同時代の蘇我媼子と蘇我大名児が、同一人物かどうかの検証はまだありません。同一人物のとき、房前は家督を継げない長男になります。
さて、最初に紹介する歌は、神亀六年二月の長屋王の変の直後に藤原房前が三形沙弥(山田史三方)に詠わせた歌と、私は思い込んでいます。長屋王の変の時に藤原房前は京を警護する中衛府の大将ですが、兵を動かし長屋王の屋敷を囲んだのは知造難波宮事の藤原宇合です。長兄の藤原武智麻呂が仕組んだ「長屋王の変」に藤原房前が参加しなかったため、急遽、難波で難波宮の造営の長官をしていた藤原宇合を呼び寄せ、クーデターを起こしたような雰囲気です。
この歌は、元正天皇と左大臣の長屋王へのクーデターに対して、元正天皇の内臣である藤原房前がその怒りの感情を三形沙弥に代弁させた歌だと思っています。そして、元正天皇の寵臣たちを踏みにじるなと詠っていると感じています。

集歌4227 大殿之 此廻之 雪莫踏祢 數毛 不零雪曽 山耳尓 零之雪曽 由米縁勿 人哉莫履祢 雪者
訓読 大殿の この廻(もとは)りの 雪な踏みそね しばしばも 降らぬ雪ぞ 山のみに 降りし雪ぞ ゆめ寄るな 人やな踏みそね 雪は
私訳 大殿のこのまわりの雪を踏むな。しばしばは降らない貴重な雪だ。仰ぎ見る山にしか降らない雪だ。けっして近寄るな。人よ、踏むな。雪を。

反謌一首
集歌4228 有都々毛 御見多麻波牟曽 大殿乃 此母等保里能 雪奈布美曽祢
訓読 ありつつも見(め)したまはむぞ大殿のこの廻(もとは)りの雪な踏みそね
私訳 (元正天皇は)いつまでも御覧になるであろう。この大殿のまわりの雪を踏むな。
右二首謌者、三形沙弥、承贈左大臣藤原北卿之語、作誦之也。聞之傳者、笠朝臣子君。復後傳讀者、越中國掾久米朝臣廣縄是也
注訓 右の二首の歌は、三形沙弥の、贈左大臣藤原北卿の語(ことば)を承(う)け、依りて誦(よ)めり。聞きて伝ふるは笠朝臣子君。また後に伝へ読むは、越中國の掾久米朝臣廣縄、これなり。

次の歌は、藤原房前が宮中の七夕の宴ではなく自宅で詠った歌と思われ、私の想いは神亀六年五月下旬から六月上旬に詠った歌です。そして、これらの集歌4227の歌と集歌1764の歌を奈良の都の藤原房前は大宰府の大伴旅人へ贈ったのではないかと思い込んでいます。
なお、大和歌の七夕の織姫は自分からは出かけていきません。それで、集歌1764の歌は彦星に万端の準備をするから嫌がらずにいらっしゃいと詠っています。そして、反歌では待ちわびる彦星は船出をするのですねと誘っています。この時点では、相手の態度が不明だから霧なのでしょう。

七夕謌一首并短哥
集歌1764 久堅乃 天漢尓 上瀬尓 珠橋渡之 下湍尓 船浮居 雨零而 風不吹登毛 風吹而 雨不落等物 裳不令濕 不息来益常 玉橋渡須
訓読 久方の 天の川原に 上つ瀬に 玉橋渡し 下つ瀬に 船浮け据ゑ 雨降りて 風吹かずとも 風吹きて 雨降らずとも 裳濡らさず やまず来ませと 玉橋渡す
私訳 遥か彼方の天の川原の上流の瀬に美しい橋を渡し、下流の瀬に船橋を浮かべ据えて、雨が降って風が吹かずとも、風が吹いて雨が降らなくても裳の裾を濡らすでしょうが、その裳を濡らさないように嫌がらずにいらっしゃいと美しい橋を私が渡します。

反謌
集歌1765 天漢 霧立渡 且今日々々々 吾待君之 船出為等霜
訓読 天の川霧立ちわたる今日今日と吾が待つ君し船出すらしも
私訳 天の川に霧が立ち渡っている。霧ではっきりは見えないが、今日か今日かと私が待つ貴方が船出をするらしい。
右件謌、或云、中衛大将藤原北卿宅作也
注訓 右の件(くだり)の歌は、或は云はく「中衛大将藤原北卿の宅(いへ)の作なり」といへり。

ここで、私がどうしても誤読したい年号の神亀五年が出てきます。集歌0793の歌の年号を神亀五年から神亀六年に誤読すると、私の中で物語が完成します。
春二月、都で「長屋王の変」と云うクーデターが勃発します。元明太上天皇から内臣として元正天皇の補佐を行なうようにとの遺言を受けた藤原房前が、そのクーデターの後始末を画策したのではないでしょうか。それが、集歌1764の七夕の歌です。どんな障害があっても、その障害を取り除くから大宰府から船に乗って上京して来いとの誘いの歌と思っています。
その藤原房前の誘いに対する回答が、次の集歌0793の「報凶問歌」と集歌0806の「謌詞兩首」の歌です。集歌0793の「報凶問歌」の歌は、集歌4227の「大殿之雪」の歌に対する答歌です。そして、集歌0806の歌は、集歌1764の七夕の歌で暗示された上京への確認の歌です。この集歌0806の歌は、神亀六年秋七月から八月の歌でしょう。
集歌0806の歌の内容とその標から、集歌0806と集歌0807の歌は都の誰かに贈られています。その都の誰かからの、その確認の歌に対する答えが集歌0808の「答謌二首」の歌です。私は、ここで藤原房前と大伴旅人の盟約は成立したと確信しています。
この思いがあるために、私は神亀五年を神亀六年に誤読するのです。

大宰帥大伴卿報凶問歌一首
標訓 大宰帥大伴卿の凶問に報(こた)へたる歌一首
禍故重疊 凶問累集 永懐崩心之悲 獨流断腸之泣 但依兩君大助傾命纔継耳 (筆不盡言 古今所歎)
訓読 禍故重疊し、凶問累集す。永に崩心の悲しびを懐き、獨り断腸の泣を流す。ただ兩君の大きなる助に依りて、傾命を纔(わづか)に継ぐのみ。 (筆の言を盡さぬは、 古今の歎く所なり)

集歌0793 余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理
訓読 世間(よのなか)は空(むな)しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
私訳 人の世が空しいものと思い知らされた時、いよいよ、ますます、悲しいことです。
神亀五年六月二十三日

謌詞兩首 大宰帥大伴卿
標訓 歌詞(かし)両首(にしゅ) 大宰帥大伴卿
集歌0806 多都能馬母 伊麻勿愛弖之可 阿遠尓与志 奈良乃美夜古尓 由吉帝己牟丹米
訓読 龍(たつ)の馬(ま)も今も得てしか青丹(あをに)よし奈良の都に行きて来むため
私訳 天空を駆ける龍の馬も今はほしいものです。青葉美しい奈良の都に戻って行って帰るために。

集歌0807 宇豆都仁波 安布余志勿奈子 奴婆多麻能 用流能伊昧仁越 都伎提美延許曽
訓読 現(うつつ)には逢ふよしも無しぬばたまの夜の夢にを継ぎて見えこそ
私訳 現実には逢う手段がありません。闇夜の夜の夢にでも絶えず希望を見せてほしいものです。

答謌二首
標訓 答えたる歌二首
集歌0808 多都乃麻乎 阿礼波毛等米牟 阿遠尓与志 奈良乃美夜古邇 許牟比等乃多仁
訓読 龍(たつ)の馬(ま)を吾(あ)れは求めむ青丹(あをに)よし奈良の都に来む人の為(たに)
私訳 天空を駆ける龍の馬を私は貴方のために探しましょう。青葉の美しい奈良の都に戻って来る人のために。

集歌0809 多陀尓阿波須 阿良久毛於保久 志岐多閇乃 麻久良佐良受提 伊米尓之美延牟
訓読 直(ただ)に逢はず在(あ)らくも多く敷栲の枕(まくら)離(さ)らずて夢にし見えむ
私訳 直接に逢うことが出来ずにいる日数は多いのですが、貴方が床に就く敷栲の枕元には絶えることなく逢う日が夢に見えるでしょう。

集歌0808の歌で、藤原房前と大伴旅人の盟約は成立したと確信しています。その盟約の確約の書類が、次の大伴旅人が詠う「梧桐日本琴一面」の歌です。歌は、藤原房前を通じて元正上皇と舎人親王へ提出する忠誠の誓約書です。そして、都の藤原房前から大伴旅人へ、上京と都での立場について確約が届きます。

大伴淡等謹状
梧桐日本琴一面 對馬結石山孫枝
標訓 梧桐(ごとう)の日本(やまと)琴(こと)一面 対馬の結石山の孫枝
此琴夢化娘子曰 余託根遥嶋之崇巒 晞韓九陽之休光 長帶烟霞逍遥山川之阿 遠望風波出入鴈木之間 唯恐 百年之後空朽溝壑 偶遭良匠散為小琴不顧質麁音少 恒希君子左琴 即歌曰
訓読 此の琴、夢に娘子に化りて曰はく、「余根を遥嶋の崇き巒に託け、韓を九陽の休き光に晞す。長く烟霞を帶びて山川の阿に逍遥し、遠く風波を望みて鴈木の間に出入す。唯百年の後に、空しく溝壑に朽ちむことを恐るるのみ。偶良匠に遭ひて、散られて小琴と為る。質の麁く音の少しきを顧みず、恒に君子の左琴を希ふ」といへり。即ち歌ひて曰はく、
私訳 この琴が娘子になって言うには、「自分は遥かな島の高き嶺に根をおろし、幹を美しい日の光にさらしていました。長く霞に包まれ、山川の間に遊び、遠く風波を望み、お役に立てる用材になるかならないかと案じていました。唯、心配な事は、百年の後に寿命を向かえいたづらに谷底に朽ち果てることですが、図らずも良き工匠の手にかかり、削られて小さい琴となりました。音色も粗く、音量も小さいのですが、どうか君子の側近くに愛琴となりたいといつも願っています。」と言って、次のように歌いました。

集歌0810 伊可尓安良武 日能等伎尓可母 許恵之良武 比等能比射乃倍 和我麻久良可武
訓読 如何(いか)にあらむ日の時にかも声知らむ人の膝(ひざ)の上(へ)吾(わ)が枕(まくら)かむ
私訳 どんな日のどんな時になれば、私の音を聞き分けて下さる人の膝で琴である私は音を立てることが出来るのでしょうか。

僕報詩詠曰
集歌0811 許等々波奴 樹尓波安里等母 宇流波之吉 伎美我手奈礼能 許等尓之安流倍志
訓読 言(こと)問(と)はぬ樹にはありとも愛(うるは)しき君が手馴(たな)れの琴にしあるべし
意訳 (琴の娘よ)物言わぬ木であったとしても、立派な御方の愛用の琴にならなければいけません。
呆読 子(こ)等(と)問はぬ貴にはありとも愛(うるは)しき王(きみ)が手馴れの子(こ)等(と)にしあるべし
呆訳 家来である家の子たちを区別しない高貴なお方といっても、家来は麗しいあのお方の良く知る家の子らでなくてはいけません。

琴娘子答曰
敬奉徳音 幸甚々々
訓読 「敬みて徳音を奉はりぬ 幸甚々々」といへり。
片時覺 即感於夢言慨然不得止黙 故附公使聊以進御耳 (謹状不具)
訓読 片時にして覺(おどろ)き、即ち夢の言に感じ、慨然として止黙(もだ)をるを得ず。故(かれ)公使に附けて、聊(いささ)か進御(たてまつ)る。(謹みて状す。不具)

天平元年十月七日附使進上
謹通 中衛高明閤下 謹空
跪承芳音 嘉懽交深 乃知 龍門之恩復厚蓬身之上 戀望殊念常心百倍 謹和白雲之什以奏野鄙之歌 房前謹状
訓読 跪(ひざまづ)きて芳音を承り、嘉懽(かこん)交(こもごも)深し。乃ち、龍門の恩の、復(また)蓬身(ほうしん)の上に厚きを知りぬ。戀ひ望む殊念(しゅねん)、常の心の百倍せり。謹みて白雲の什(うた)に和(こた)へて、野鄙の歌を奏る。房前謹みて状す。

集歌0812 許等騰波奴 紀尓茂安理等毛 和何世古我 多那礼之美巨騰 都地尓意加米移母
訓読 言問(ことと)はぬ木にもありとも吾(わ)が背子が手馴(たな)れの御琴(みこと)土(つち)に置かめやも
意訳 言葉を語らない木であっても、私の尊敬する貴方の弾きなれた御琴を土の上に置くことはありません。
呆読 子(こ)等(と)問はぬ貴にありとも吾が背子が手馴れの命(みこと)土に置かめやも
呆訳 家来の家の子たちを区別しない高貴なお方であっても、私が尊敬するあのお方が良く知るりっぱな貴方を地方に置いておく事はありません。
謹通 尊門 (記室)
十一月八日附還使大監

大伴旅人は、この翌年の天平二年十月頃に大納言就任し、奈良の都に戻っています。十月の大納言就任の内示とすると、それ以前に都で誰かが根回しを行い、クーデターを行った藤原武智麻呂・宇合兄弟の承認を取り付ける必要があります。さて、誰が根回しを行なったのでしょうか。舎人親王でしょうか、それとも藤原房前でしょうか。
大伴旅人の帰京後、都では微妙な平静が保たれます。まず、舎人親王が人臣の筆頭の位置に帰り咲きます。また、朝廷の参議の格に藤原氏、皇族、丹比氏、大伴氏の代表が入り、さらに、軍事・警察権は惣官・鎮撫使の役職を新たに設け、藤原氏、皇族、丹比氏、大伴氏が分け合って任命されています。ここには、藤原氏による権力中枢の独占の姿はありません。神亀六年(天平元年)夏から天平二年春に掛けて、「長屋王の変」以降の都で何かが変わったのです。
人は、大伴旅人から藤原房前に贈り物と歌を贈って猟官したと評価します。私は、藤原房前から皇族派としてのクーデターの巻き返しの相談が大伴旅人へあったと思っています。その都と大宰府との秘密の通信が、紀貫之が云う「花鳥の使ひ」です。
どうでしょうか、その気になって万葉集を眺めると、天平の政治の裏側を覗いたような気がしませんか。私が思う大伴旅人と藤原房前との和歌の相互の贈答は紀貫之が云う「花鳥の使ひ」に相当しますが、本来の「花鳥の使ひ」は中臣宅守が詠ったものです。この天平元年の「花鳥の使ひ」から、もう一つの中臣宅守が詠う「花鳥の使ひ」を見てみたいと思います。


スコップ持ちのおっちゃんの歴史観は、普段の歴史観ではありません。万葉集や懐風藻の歌と古事記を中心に据えています。個々の事件は日本書紀や続日本紀を参照しますが、歴史は参考にするだけです。
藤原房前は長屋王の変の時の藤原四兄弟の一人ですので、普段の歴史では反皇族・反長屋王派の人物と見做されています。ところが、万葉集や懐風藻の歌から歴史を眺めますと本当にそうなのかと、疑問が湧いてきます。「花鳥の使ひ」の和歌を使って秘密の通信をしたと想像して、次の歌を鑑賞してみてください。この先入観を入れられると、和歌を使って秘密の通信があったかもしれないとの雰囲気になるはずです。そして、先入観の補足として、この藤原房前の誕生の前後を紹介すると、房前の母親の名は、斉明・天智天皇時代の大臣であった蘇我連子(そがのむらじこ)の娘で蘇我媼子(そがのおほなこ)と云い、房前は草壁皇子が愛人の石川(蘇我)大名児(おほなこ)と別れた頃合いに誕生しています。草壁皇子が愛人である石川(蘇我)大名児と別れた頃に、持統天皇の母方の姪にあたる阿閉皇女と持統天皇の御子の草壁皇子との婚姻が成立し、後に元正天皇になられる氷高皇女がすぐに誕生しています。そして、藤原房前は、後に元明太上天皇(阿閉皇女)から太上天皇の亡くなられた後の葬儀全般の扱いと草壁皇子との御子である元正天皇(氷高皇女)の補佐を固く命じられた人です。こうしたとき、同じ「おほなこ」と呼ばれた同時代の蘇我媼子と蘇我大名児が、同一人物かどうかの検証はまだありません。同一人物のとき、房前は家督を継げない長男になります。
さて、最初に紹介する歌は、神亀六年二月の長屋王の変の直後に藤原房前が三形沙弥(山田史三方)に詠わせた歌と、私は思い込んでいます。長屋王の変の時に藤原房前は京を警護する中衛府の大将ですが、兵を動かし長屋王の屋敷を囲んだのは知造難波宮事の藤原宇合です。長兄の藤原武智麻呂が仕組んだ「長屋王の変」に藤原房前が参加しなかったため、急遽、難波で難波宮の造営の長官をしていた藤原宇合を呼び寄せ、クーデターを起こしたような雰囲気です。
この歌は、元正天皇と左大臣の長屋王へのクーデターに対して、元正天皇の内臣である藤原房前がその怒りの感情を三形沙弥に代弁させた歌だと思っています。そして、元正天皇の寵臣たちを踏みにじるなと詠っていると感じています。

集歌4227 大殿之 此廻之 雪莫踏祢 數毛 不零雪曽 山耳尓 零之雪曽 由米縁勿 人哉莫履祢 雪者
訓読 大殿の この廻(もとは)りの 雪な踏みそね しばしばも 降らぬ雪ぞ 山のみに 降りし雪ぞ ゆめ寄るな 人やな踏みそね 雪は
私訳 大殿のこのまわりの雪を踏むな。しばしばは降らない貴重な雪だ。仰ぎ見る山にしか降らない雪だ。けっして近寄るな。人よ、踏むな。雪を。

反謌一首
集歌4228 有都々毛 御見多麻波牟曽 大殿乃 此母等保里能 雪奈布美曽祢
訓読 ありつつも見(め)したまはむぞ大殿のこの廻(もとは)りの雪な踏みそね
私訳 (元正天皇は)いつまでも御覧になるであろう。この大殿のまわりの雪を踏むな。
右二首謌者、三形沙弥、承贈左大臣藤原北卿之語、作誦之也。聞之傳者、笠朝臣子君。復後傳讀者、越中國掾久米朝臣廣縄是也
注訓 右の二首の歌は、三形沙弥の、贈左大臣藤原北卿の語(ことば)を承(う)け、依りて誦(よ)めり。聞きて伝ふるは笠朝臣子君。また後に伝へ読むは、越中國の掾久米朝臣廣縄、これなり。

次の歌は、藤原房前が宮中の七夕の宴ではなく自宅で詠った歌と思われ、私の想いは神亀六年五月下旬から六月上旬に詠った歌です。そして、これらの集歌4227の歌と集歌1764の歌を奈良の都の藤原房前は大宰府の大伴旅人へ贈ったのではないかと思い込んでいます。
なお、大和歌の七夕の織姫は自分からは出かけていきません。それで、集歌1764の歌は彦星に万端の準備をするから嫌がらずにいらっしゃいと詠っています。そして、反歌では待ちわびる彦星は船出をするのですねと誘っています。この時点では、相手の態度が不明だから霧なのでしょう。

七夕謌一首并短哥
集歌1764 久堅乃 天漢尓 上瀬尓 珠橋渡之 下湍尓 船浮居 雨零而 風不吹登毛 風吹而 雨不落等物 裳不令濕 不息来益常 玉橋渡須
訓読 久方の 天の川原に 上つ瀬に 玉橋渡し 下つ瀬に 船浮け据ゑ 雨降りて 風吹かずとも 風吹きて 雨降らずとも 裳濡らさず やまず来ませと 玉橋渡す
私訳 遥か彼方の天の川原の上流の瀬に美しい橋を渡し、下流の瀬に船橋を浮かべ据えて、雨が降って風が吹かずとも、風が吹いて雨が降らなくても裳の裾を濡らすでしょうが、その裳を濡らさないように嫌がらずにいらっしゃいと美しい橋を私が渡します。

反謌
集歌1765 天漢 霧立渡 且今日々々々 吾待君之 船出為等霜
訓読 天の川霧立ちわたる今日今日と吾が待つ君し船出すらしも
私訳 天の川に霧が立ち渡っている。霧ではっきりは見えないが、今日か今日かと私が待つ貴方が船出をするらしい。
右件謌、或云、中衛大将藤原北卿宅作也
注訓 右の件(くだり)の歌は、或は云はく「中衛大将藤原北卿の宅(いへ)の作なり」といへり。

コメント

色好み家と花鳥の使い

2009年11月28日 | 万葉集 雑記
色好み家と花鳥の使い

少し寄り道をさせて下さい。ご存知のように紀貫之は古今和歌集の歌人であり編纂者ですが、紀貫之は、またその古今和歌集の仮名序と真名序で古今和歌集の歌と万葉集の歌は重複していないと宣言し、万葉集の四千五百首の歌を調べ上げ「万葉集の目録」を作ったほどの古今の歴史を通じて万葉集研究の第一人者です。
その紀貫之が書いた古今和歌集の仮名序に次のような一節があります。

古今和歌集 仮名序抜粋
今の世中いろにつき人のこころ花になりにけるよりあだなるうたはかなきことのみいでくればいろごのみのいへにむもれきの人しれぬこととなりてまめなるところには花すすきほにいだすべきことにもあらずなりにたり

仮名序抜粋の試みの読み下し文
今の世の中 色につき 人の心花になりにけるより あだなる詩 はかなき事のみ出でくれば 色好みの家に埋れ 貴の人知れぬこととなりて、まめなるところには花すすき穂にいだすべきことにもあらずなりにたり

現代語私訳
今の世の中は欲望に染まり、人の心は花を愛でる風流人になるより、仇なる漢詩やつまらない曲水の宴のようなことばかりが流行るので、大和歌の心は中臣朝臣宅守が歌う「花鳥に寄せ思いを陳べて作れる歌」の時に時代の中に埋もれてしまい、高貴の人が大和歌を知らないようになってしまって、改まった儀式には元正太上天皇の時のように「すすきの尾花」のような御製を少しでもお作りになることもなくなってしまった。

古今和歌集に詳しい人は、この私の紹介文に異議を唱えるでしょう。古今和歌集と和歌の歴史がわかっていないと。正統な普段の仮名序の一節の読み下し文と現代語訳は次のようなものでなければいけません。そうでなければ、後の藤原貴族は古今集和歌集の理解が中途半端であったことになりますし、現代の古今和歌集以降の歌論に影響が出てしまいます。

仮名序抜粋の正統な読み下し文
今の世の中、色につき、人の心花になりにけるより、あだなる歌、はかなき言のみいでくれば、色好みの家に、埋れ木の人知れぬこととなりて、まめなる所には花すすきほにいだすべきことにもあらずなりにたり。

現代語訳 古今和歌集 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫より
しかし、今の世の中は、昔の真実を重んじた時代とは異なって派手になり、、人の心は華美になったため、歌もそれにしたがって、浮いた実のない歌、軽い、かりそめの歌のみが現れてくるので、好色な人の家に、埋れ木のように人には知られず、ひそかにもてあそばれるものとなって、改まった公の場所には、おもて立って出せるものでもなくなってしまった。

古今和歌集の序には仮名序と真名序と称される二種類の序があります。その先後は判りませんが両序の示す世界は同じとされていますから、仮名序に対比するものを真名序に見ることが出来ます。そこで、仮名序の抜粋に対比する部分の真名序の一節を見てみると、次の一文となります。

仮名序抜粋に呼応する真名序の抜粋
及彼時、変澆漓、人貴奢淫、浮詞雲興、艶流泉涌。其実皆落、其華孤栄。至有好色之家、以此為花鳥之使。

真名序抜粋の訓読
かの時に及び、澆漓(きょうり)に変じ、人は奢淫(しゃいん)を貴び、浮詞(ふし)は雲のごとく興り、艶の流れは泉のごとく涌く。その実(じつ)は皆落(お)ち、その華ひとり栄えむ。至りて色を好む家有り、これをもって花鳥の使ひとなす。

現代語私訳
平城の天子であられる聖武天皇の時代から、徳と信は衰え、人は豪奢と淫行を好み、浮ついた漢詩は雲が湧き上がるように興り、色恋への風潮は泉のように湧き上がった。その漢詩は堕落しきり、仏の華のみが独り栄えた。中臣朝臣宅守の時代に至って、橘奈良麻呂の変の故を以って花鳥の歌を秘密の通信とした。

説明
ご在所の「平城の天子」は諱では聖武天皇のことを示し、諱で平城天皇は「奈良の御門」のことを示します。諱で平城天皇のことを天皇の名を直接に示すことになる「平城の天子」とする表現は不敬のため、知って使う思想家を除き普段は使わない表現です。孝謙天皇をその御陵にちなんで高野天皇と称するのと同じです。

ここで、真名序の「かの時に及び」を天平から天平勝宝年間の東大寺の大仏建立の時代と解釈しますと、「至有好色之家、以此為花鳥之使。」の訓読み「至りて色を好む家有り、これをもって花鳥の使ひとなす。」は、万葉集の巻十五の「中臣朝臣宅守の贈答歌六十三首」であろうと目が行くはずです。つまり、両序の示す「好色之家」は中臣宅守のこととなります。
では、その「好色之家」の中臣宅守の時代の「まめなるところには花すすきほにいだすべきこと」と紀貫之が思う「まめなるところ」に出せる公式の歌はどのようなものでしょうか。和歌における一番の公式な歌は公式行事での御製でしょうか。すると、「平城の天子」の時代の一番の「まめなるところ」の歌は次の歌になります。

太上天皇御製謌一首
標訓 (元正)太上天皇の御製歌(おほみうた)一首
集歌1637 波太須珠寸 尾花逆葺 黒木用 造有室者 迄萬代
訓読 はた薄(すすき)尾花(おばな)逆葺(さかふ)き黒木(くろき)もち造れる室(むろ)は万代(よろづよ)までに
私訳 風に靡くすすきの尾花の穂を表に下から上に逆さに葺き黒木で造った大嘗宮の室は、永遠であれ。

専門家の解説に従う普段の人にとっては不思議ですが、仮名序の「花すすきほにいだすべきこと」とまったく同じ景色の御製です。
ここで、同時に「好色之家」が中臣宅守のこととすると、真名序の云う「花鳥の使ひ」は中臣宅守が詠う「中臣朝臣宅守寄花鳥陳思作歌」の七首を意味します。この「花鳥に寄せ思いを陳べる」の意味は「花鳥を例えに使って思いを陳べる」ですが、その思いを陳べる相手は七首の歌から判るように狭野茅上娘女ではありません。当然、紀貫之はその相手を知っています。正確には、相手を推定して特定しています。それで、仮名序に「いろごのみのいへにむもれ」と記しているのです。
もし、貴方が私の解説を良しとして「色好みの家」を中臣宅守と理解したら、貴方の心は平安時代の藤原貴族全盛の時代の源氏、清原氏、紀氏系のはぶれ貴族の心と一緒です。はぶれ貴族の和歌への思い入れは、古くからの神聖な儀式における天皇の御製や奉呈歌があるべき姿で、その捧呈歌を儀礼において択ばれて誉れ高く詠い挙げたいのがはぶれ貴族の切望です。壬生忠岑が詠う「人麿こそはうれしけれ、身は下ながら言の葉を、天つ空まで聞こえ上げ」の姿です。藤原氏ではない柿本氏の、そのはぶれ貴族の人麻呂が捧呈歌を誉れ高く詠い挙げたのが、うらやましいのです。これが、古今和歌集の時代の紀貫之たちはぶれ貴族が味合っているかなしい現実の世界です。
本来ですと、「中臣朝臣宅守寄花鳥陳思作歌」の説明を続けてするのが良いのですが、その前に三十年ほど時代を遡って、もう一つのある事件の歌を見てみます。

コメント

宇梅乃波奈の誕生前夜

2009年11月26日 | 万葉集 雑記
宇梅乃波奈の誕生前夜

万葉集は大和歌の歌集ですが、それと同時に万世一系の天皇制を基盤とする歌の世界です。また、大伴氏は古くから皇室の醜(しこ)の御盾(みたて)であり、玉鉾を立てる家の子なのです。その家の子に神亀六年二月から苦悩が押し寄せ、そして、その苦しみを歌に託します。その苦しみが、彼が嫌った仏教から何かを感じて人麻呂を捨て去り、和歌に革命を起こします。

大伴旅人と神亀五年

唐突ですが、次に紹介する歌々は一見には神亀五年に詠われたように見えますが、そうではありません。少なくとも集歌0439と集歌0440との二首は、大伴旅人の経歴が正しいとしますと天平二年秋の歌です。つまり、集歌0438の歌の標にある「神龜五年戊辰」の年号は、意図して万葉集の編纂の時に書き加えられたか、変えている可能性があります。本来は年号を除いた「大宰帥大伴卿思戀故人謌三首」だけの標が正しいのかもしれません。
その意図的と思える年号に注目して大伴旅人の大宰府時代の歌を見ていきます。

神龜五年戊辰、大宰帥大伴卿思戀故人謌三首
標訓 神亀五年戊辰、大宰帥大伴卿の故人(なきひと)を思戀(しの)へる歌三首
集歌0438 愛 人之纒而師 敷細之 吾手枕乎 纒人将有哉
訓読 愛(うつく)しき人の纏(ま)きてし敷栲(しきたへ)の吾が手枕(たまくら)を纒(ま)く人あらめや
私訳 愛しい人を私の手枕に纏って共寝した、敷栲の床に伏す私が手枕に纏い寄せるあのう人はもういない。
右一首別去而經數旬作謌
注訓 右の一首は、別れ去(い)にて數旬(すうしゅん)を経て作れる歌なり。

集歌0439 應還 時者成来 京師尓而 誰手本乎可 吾将枕
訓読 還(かへ)るべく時はなりけり京師(みやこ)にて誰が手本(たもと)をか吾が枕(まくら)かむ
私訳 都に還る時にはなった。その独りで帰る都で誰の腕を私の枕にしようか。

集歌0440 在京 荒有家尓 一宿者 益旅而 可辛苦
訓読 京(みやこ)なる荒れたる家にひとり寝(ね)ば旅に益(まさ)りて苦しかるべし
私訳 都にあるしばらく留守をして荒れた家に独りで寝ると思うと、草枕するような旅より心苦しいでしょう。
右二首、臨近向京之時作謌
注訓 右の二首は、近く京に向ふ時に臨(な)りて作れる歌なり。

これらの歌の左注にあるように、集歌0438の歌は妻の大伴郎女が神亀五年のある日に亡くなって、その葬儀のあわただしさが終わって数十日後の旅人の心です。集歌0439と集歌0440の歌は、左注の記載から奈良の都への帰還直前の大宰府の屋敷を整理しているときの歌と思われますので、天平二年秋の歌です。すると、集歌0438の歌と集歌0439の歌との間には、二年の月日があります。集歌0438の歌の標の「神龜五年戊辰」の言葉は、本来なら左注の「右一首別去而經數旬作謌」の中に置かれるべきものを、何らかの意図があって編集で標に置いたとも推測が可能です。
次に、大伴旅人の妻の大伴郎女が亡くなったときに、その喪を弔う勅使が奈良の都から大宰府の大伴旅人の下に遣わされています。その喪を弔う勅使が都に帰る前に詠われたのが次の歌です。時期は卯の花や橘の花が咲く旧暦の四月です。

式部大輔石上堅魚朝臣歌一首
標訓 式部大輔石上堅魚朝臣の歌一首
集歌1472 霍公鳥 来鳴令響 宇乃花能 共也来之登 問麻思物乎
訓読 霍公鳥来鳴き響(とよ)もす卯の花の伴にや来(こ)しと問はましものを
私訳 霍公鳥がやって来てその鳴き声を響かせる。卯の花の咲くのと伴にやって来たのかと聞きたいことです。
右、神龜五年戊辰大宰帥大伴卿之妻大伴郎女、遇病長逝焉。于時勅使式部大輔石上朝臣堅魚遣大宰府、弔喪并賜物也。其事既畢驛使及府諸卿大夫等、共登記夷城而望遊之日、乃作此歌。
注訓 右は、神亀五年戊辰に大宰帥大伴卿(まえつきみ)の妻大伴郎女、病に遇(あ)ひて長逝す。時に勅使式部大輔石上朝臣堅魚を大宰府に遣(つかは)して、喪(も)を弔(とぶら)ひ并せて物を賜へり。その事既に畢(をは)りて駅使(はゆまつかひ)と府(つかさ)の諸(もろもろ)の卿大夫等(まえつきみたち)と、共に記夷(き)の城(き)に登りて望遊せし日に、乃ち此の歌を作れり。

大宰帥大伴卿和謌一首
標訓 大宰帥大伴卿の和(こた)へたる歌一首
集歌1473 橘之 花散里乃 霍公鳥 片戀為乍 鳴日四曽多寸
訓読 橘の花散る里の霍公鳥片恋しつつ鳴く日しぞ多(おほ)き
私訳 橘の花が散ってしまった里で霍公鳥が、散ってしまった花を懐かしんで鳴く日が多いことです。

この集歌1472の左注から旅人の妻の大伴郎女は神亀五年に亡くなっていますが、これらの歌が詠われたのが神亀五年であるかどうかは不明です。一応、普段の解釈では神亀五年の正月頃に亡くなったのであろうとしての解釈です。勅使派遣での喪の弔いですから、最初に大宰府から病死の報告があり、それに対して朝廷での勅使派遣の決定とその人選、その後に奈良の都から大宰府への派遣です。つまり、手続きの時間の経過があります。石上堅魚が喪の弔いの勅使の役割を終えたのが集歌1472の卯の花から旧暦四月頃ですので、正月頃前には大伴郎女が亡くなってなければなりません。二月の死亡では日程的に窮屈でしょう。ただし、神亀五年の暮れに亡くなった場合は、集歌1472と集歌1473との歌が詠われたのを翌年の神亀六年四月頃の時間設定にすることも矛盾なく可能です。それで、大伴郎女が神亀五年のいつに亡くなったかは不明です。
ここで、普段の解説の時間設定では困ったことが起きます。次に紹介する大伴旅人の有名な「凶問歌」が詠われたのが、神亀五年六月二十三日となっています。普段の解釈は、歌には妻の大伴郎女を亡くした悲しみがあり、それに何らかの凶事が重なったのだろうとしています。歌の標と漢文からすると「凶問歌」は都からの連絡に対しての返事のようですから、大伴郎女の死亡と関係あるかどうかが不安になります。朝廷からの喪の弔いの勅使である石上堅魚は、集歌1472の歌から卯の花の咲く時期に大宰府を発って都に帰っているはずです。当然、都の人達が大伴郎女の死亡に関して文を託すなら石上堅魚か、その随行に託すはずです。それならば、大伴旅人もその時期に序に云う京の両君に返事を書き、石上堅魚一行に託すのが礼儀です。
そして、さらに不思議なのは「報凶問歌」の歌で序では両君に謝辞しているのですが、大伴旅人が心の悲しさを詠った歌の送り先は一人のようです。

大宰帥大伴卿報凶問歌一首
標訓 大宰帥大伴卿の凶問(きょうもん)に報(こた)へたる歌一首
禍故重疊 凶問累集 永懐崩心之悲 獨流断腸之泣 但依兩君大助傾命纔継耳 (筆不盡言 古今所歎)
標訓 禍故(くわこち)重疊(ようてふ)し、凶問(きょうもん)累集(るいじふ)す。永(ひたふる)に崩心の悲しびを懐(むだ)き、獨り断腸の泣(なみだ)を流す。ただ兩君の大きなる助に依りて、傾命を纔(わづか)に継ぐのみ。(筆の言を盡さぬは、古今の歎く所なり)

集歌0793 余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理
訓読 世間(よのなか)は空(むな)しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
私訳 人の世が空しいものと思い知らされた時、いよいよ、ますます、悲しいことです。
神亀五年六月二十三日

ここで、集歌0793の歌が詠われた時期から約二月遡りますと、次のような集歌0331の歌を旅人は詠っています。小野老の集歌0328や旅人の集歌0331の歌は、集歌0957の歌の標にあるように十一月に香椎廟への参詣に小野老が参加していることから、小野老の大宰府の少貳への着任はそれ以前であることになります。それで、集歌0328の歌は小野老の大宰府の少貳への着任祝いの時の歌とされていて、神亀五年三月から四月頃の歌と推定されています。

冬十一月、大宰官人等奉拜香椎廟訖退歸之時、馬駐于香椎浦各述作懐歌
標訓 (神亀五年)冬十一月、大宰の官人等の香椎の廟(みや)を拜(をがみ)み奉(まつ)り訖(を)へて退(まか)り歸りし時に、馬を香椎の浦に駐(た)てて各(おのおの)懐(おもひ)を述べて作れる歌
帥大伴卿謌一首
集歌0957 去来兒等 香椎乃滷尓 白妙之 袖左倍所沾而 朝菜採手六
訓読 いざ子ども香椎(かしひ)の潟(かた)に白栲の袖さへ濡れて朝菜(あさな)採(つ)みてむ
私訳 さあ、そこの娘女たちが香椎の潟に白栲の袖までも濡らしてあすの朝の菜を摘んでいるよ。

小野老は「長屋王の変」の直後の神亀六年三月四日に従五位下から従五位上に昇階してますから、藤原氏系の官僚と推測され一種の大伴旅人へのお目付役のような立場であったかもしれません。それで、大伴旅人の大宰の帥への就任を追うようにした大宰府の少貳への就任ではないでしょうか。
さて、ここでは、次の集歌0328の歌と大伴旅人の歌五首を神亀五年三月から四月頃の歌の日付を気にして鑑賞してください。

大宰少貳小野老朝臣謌一首
集歌0328 青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有
訓読 青(あを)丹(に)よし寧樂(なら)の京師(みやこ)は咲く花の薫(にほふ)がごとく今盛りなり
私訳 青葉が輝くように美しい奈良の都は咲く花が輝くばかりに今が盛時です。

帥大伴卿謌五首
集歌0331 吾盛 復将變八方 殆 寧樂京乎 不見歟将成
訓読 吾が盛りまた変若(をち)めやもほとほとに寧樂(なら)の京(みやこ)を見ずかなりなむ
私訳 私の人生の盛りが再び帰り咲くことがあるでしょうか。ほとんどもう奈良の都を見ることはないでしょう。

集歌0332 吾命毛 常有奴可 昔見之 象小河乎 行見為
訓読 吾が命も常にあらぬか昔見し象(きさ)の小河を行きて見むため
私訳 私の寿命も長くあるだろうか。昔、御幸に同行して見た吉野の象の小川をまた行って見たいために。

集歌0333 淺茅原 曲曲二 物念者 故郷之 所念可聞
訓読 浅茅(あさぢ)原(はら)つばらつばらにもの思(も)へば古(ふ)りにし里し念(おも)ほゆるかも
私訳 浅茅の原をつくづく見て物思いをすると、故郷の明日香の里が想い出すだろう

集歌0334 萱草 吾紐二付 香具山乃 故去之里乎 不忘之為
訓読 萱草(わすれくさ)吾が紐に付く香具山の古(ふ)りにし里を忘れむがため
私訳 美しさに物思いを忘れると云うその忘れ草を私は紐に付けよう。懐かしい香具山の古りにし里を忘れるために。

集歌0335 吾行者 久者不有 夢乃和太 湍者不成而 淵有毛
訓読 吾が行きは久にはあらじ夢のわだ瀬にはならずて淵にあらぬかも
私訳 私のこの世の寿命は長くはないであろう。夢に出てくる吉野のわだは瀬に変わることなく淵であってほしい。

ところで、皆さんは違和感を覚えられたでしょうか。普段の解説ですと神亀五年三月から四月頃の大伴旅人の集歌0331の歌以下五首が詠われたときは、ちょうど、妻の大伴郎女の喪を弔う石上堅魚が大宰府に到着したころあいです。そして、集歌0793の「凶問歌」を詠う心境にあったとされています。
さて、不思議と思いませんか。集歌0331の歌以下五首は、奈良の都と明日香の故郷は歌っていても、妻の姿はありません。集歌0334の歌では、大宰府にいて忘れようにも忘れられない故郷を忘れるために、中国の故事に従って萱草を身に付けようとまで詠っています。さて、この時に妻は亡くなっていたのでしょうか。どうも、違うのではないでしょうか。
ここで、万葉集の歌の配列から神亀五年師走から神亀六年春頃に詠われたとされる歌があります。それが、集歌0961の歌です。この歌では妻が恋しいと詠ってはいますが、集歌0438の歌が共寝する貴女がいないとする景色ではありません。夫婦鶴と云うように葦原の鶴の二匹が共に相手をしきりに呼び合うような姿があります。後知恵ですが、不治の病の床にある妻の容態を、公務の旅にある旅人がしきりに付き人に聞いているような歌ではないでしょうか。

帥大伴卿宿次田温泉聞鶴喧作謌一首
標訓 帥大伴卿の次田の温泉に宿(やど)りて、鶴が喧(ね)を聞きて作れる歌一首
集歌0961 湯原尓 鳴蘆多頭者 如吾 妹尓戀哉 時不定鳴
訓読 湯の原に鳴く葦鶴(あしたづ)は吾がごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く
私訳 次田の温泉の葦の原で鳴く鶴は、私のようにしきりに妻のことを恋しく問うのか、間を置かずに鳴く。

このような強引な解釈から、私は万葉集の巻五の歌にある神亀五年の年号を神亀六年に誤読したくてたまりません。
年号からすると、西暦729年は八月四日までが神亀六年で八月五日以降が天平元年です。通常、これではややこしいので神亀六年の年号を使うことは、まず、ありません。万葉集では長屋王と膳部王の挽歌ぐらいです。西暦749年の天平二十一年と天平感宝元年との年号を使わず、天平勝宝元年は本来は七月二日からですが天平勝宝元年は正月一日からと看做すのと同じです。したがって、集歌1472の歌の左注を知る人は、もし、集歌0793の歌の左注に神亀六年六月二十三日と記述してあれば、神亀五年六月二十三日と書き直すはずです。
このような強引な屁理屈と判っていても、巻五の神亀五年の年号を神亀六年に誤読したくてたまりません。

集歌0793 余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理
訓読 世間は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
神亀六年六月二十三日(神亀六年に誤読)

藤原氏は神亀六年二月に藤原武智麻呂が「長屋王の変」を起こし、天平宝字元年七月に藤原仲麻呂が「橘奈良麻呂の変」を起こしています。ともに藤原氏による元正天皇の寵臣の長屋王の殺害と孝謙天皇の寵臣の橘奈良麻呂を殺害した政治クーデターです。万葉集後編となる「宇梅之波奈」は、政治クーデターを起こした藤原仲麻呂が支配する天平宝字二年に編纂・上梓されていますから、神亀六年二月に藤原武智麻呂が何をしたか、また天平宝字元年七月に藤原仲麻呂が何をしたかが明白になるような年号である神亀六年を、あからさまに大伴旅人の世を嘆く歌の年号に採用したでしょうか。ここで、神亀五年の年号を神亀六年に強引に誤読すると、大伴旅人が悲しみに沈んで詠った歌の対象は長屋王と膳部王になります。もし、高市皇子が持統天皇の時代に摂政格の皇子の場合、膳部王は皇子と吉備内親王の間での皇子になりますので、平城京時代で唯一の正統な血筋の皇位継承者になります。
確かに神亀五年暮れに大伴旅人の妻の大伴郎女は亡くなられたのでしょう。そして、神亀六年春に旅人は亡き妻を偲んで歌を詠ったと思います。それと当時に、神亀六年二月にクーデターで殺された長屋王も偲んで歌を詠ったと思います。ただし、それを隠すように年号は神亀五年です。山上憶良が大伴旅人の意を汲んで日本挽歌を詠うように神亀六年二月に大和の正統は死んだのです。
再度、集歌1473の歌を載せます。橘には垂仁天皇の時代に田道間守が常世の国から持ち帰った「時じくの香の木の実」の故事がありますが、その田道間守には垂仁天皇の死を追って死んだ忠臣の故事もあります。霍公鳥は過去の繁栄を乞い、橘は忠臣と常盤を示します。神亀六年四月に、誰を偲んだのでしょうか。妻の大伴郎女だけでしょうか。
勅使の石上堅魚は咲いている卯の花を詠いますが、大伴旅人の目には同じ時期に咲くはずの橘の花は散っているのです。私は確信犯で神亀五年を神亀六年と誤読します。

集歌1473 橘之 花散里乃 霍公鳥 片戀為乍 鳴日四曽多寸
訓読 橘の花散る里の霍公鳥片恋しつつ鳴く日しぞ多(おほ)き
私訳 橘の花が散ってしまった里で霍公鳥が、散ってしまった花を懐かしんで鳴く日が多いことです。

ここまで、私が神亀五年の年号にこだわるのは万葉集後編 「宇梅乃波奈」に重要な影響があるためです。
コメント

万葉集後編 宇梅乃波奈の誕生日

2009年11月24日 | 万葉集 雑記
万葉集後編 宇梅乃波奈の誕生日

万葉集前編 奈弖之故(なでしこ)は、舒明天皇の国見の歌から元明天皇の平城京への遷都までの八代の御世の歌々を集めた歌集で、その中心は柿本人麻呂です。その万葉集前編「奈弖之故」は、孝謙天皇の橘諸兄への御下問により事業が始まり丹比国人を中心に編纂が行われれ、天平勝宝七年(755)五月十一日に完成のお披露目が橘諸兄の屋敷で行われています。
元明天皇の平城京への遷都までの万葉集前編「奈弖之故」の上梓以降も、丹比国人の手による和歌の編纂作業は続いていたようですが、その最中の天平勝宝九年(757)七月に橘奈良麻呂の変が起きます。これに関連して丹比国人は遠江国守から召還され罪有りとされて、そのまま伊豆国への流刑に処されています。ほぼ、この段階で万葉集後編となる「宇梅乃波奈」の編纂作業は中断したでしょう。
しかし、ここで見たように「宇梅乃波奈」は天平宝字二年(758)二月にお披露目が中臣清麿の屋敷でなされていますから、誰かが丹比国人の手による原「宇梅乃波奈」の編纂作業を引き継ぎ、その形を整えたのではないでしょうか。その誰かの筆頭は、私の感覚では中臣宅守が筆頭になりますが。ただ、この風景からは万葉集の基本的な編纂作業は丹比国人の手によるものでしょうから、丹比国人の伊豆国への流刑以降は新規の編纂作業は行われなくなったでしょうし、万葉集後編の「宇梅乃波奈」は中途半端な形を取らざるを得ないと思われます。それが、万葉集前編「奈弖之故」の対比として、万葉集後編の「宇梅乃波奈」が元明天皇の奈良遷都から聖武天皇の難波遷都までの形で終わっているのに、巻十七以降に大伴家持の日記が加わり歌集としての収拾が付かなくなった理由ではないでしょうか。
結果、万葉集を編纂した丹比国人は柿本人麻呂と大伴旅人を二つの和歌の高峰と称しましたが、現在に至るまで万葉集を凌駕する和歌集が無いとすると、万葉集の編集長である丹比国人もまた和歌の高峰ではないでしょうか。丹比国人の後、百五十年待って紀貫之が古今和歌集を編纂するまで見るべきものはありません。そして、その紀貫之は古今和歌集歌番号1002の「ふるうたたてまつりし時のもくろくの、そのながうた」で示すように、丹比国人の巨大な姿を常に意識して古今和歌集を編纂しています。
ここで、この章の題にあるように少し万葉集の誕生日の日付にこだわると、万葉集前編の「奈弖之故」が上梓されたのが、天平勝宝七年五月十一日です。本来の和暦表示の日付は、天平勝宝七歳五月己未朔己已と記します。この日は養蚕掃立の吉日で十二直の建(たつ)、二十八宿の弖(てい)に中ります。養蚕掃立の吉日・十二直の建・二十八宿の弖と、すべて根本に関わる物事の開始に相応しい吉日です。これは、暦での吉凶占いを行い十分に計画されたお披露目の日程です。
すると、万葉集後編の「宇梅乃波奈」が同じ視線で暦での吉凶占いを行い十分に計画された上梓のお披露目があったとすると、暦の吉凶からの上梓が行われた一番の可能性は、天平宝字二年二月癸卯朔丁已がもっとも相応しい日に中ります。この日は、養蚕掃立の吉日で十二直の満(みつ)、二十八宿の角(かく)に中り、その暦の吉凶からの日付の由来そのものが万葉集の完成を示します。逆に、万葉集が「満」とすると、この日で万葉集の編纂作業は終わりです。
ここから、私は万葉集後編の「宇梅乃波奈」の誕生日を天平宝字二年(758)二月癸卯朔丁已(十五日)とします。
コメント

万葉集後編 宇梅乃波奈

2009年11月22日 | 万葉集 雑記
万葉集後編 宇梅乃波奈

さきに、歌の標で「興に依りて各高円の離宮処を思ひて作れる歌五首」と紹介される歌を見てみました。ここでは、その「興に依りて」の元となった宴会を紹介します。
さて、天平宝字二年(758)二月上旬に中臣清麿の屋敷で宴会が持たれています。そのときの歌が次の十首です。万葉集巻二十に載る歌の順番に狂いがないとすると、祈年祭の後の二月五日以降で九日以前に宴会が開かれています。この季節と梅の花と実に注目して次の歌を見て下さい。歌の世界は、現在の奈良市の郊外で新暦三月下旬(推定三月二十八日)の景色です。
参考に普段の意訳として「万葉集 全訳注原文付 中西進 講談社文庫」をままに載せています。比較していただければ明らかですが、私訳はある意図の下に極端です。

天平宝字二年
二月、於式部大輔中臣清麿朝臣之宅宴謌十首
標訓 二月に、式部大輔の中臣清麿朝臣の宅(いへ)にして宴(うたげ)せる歌十首
集歌4496 宇良賣之久 伎美波母安流加 夜度乃烏梅能 知利須具流麻弖 美之米受安利家流
訓読 恨めしく君はもあるか宿の梅の散り過ぐるまで見しめずありける
意訳 あなたは何とうらめしいことよ。お宅の梅が散ってしまうまで見せてくださらなかったのですね。
私訳 あなたは、何と、うらめしい人でしょう。梅の花が咲き散って実を結ぶように、お宅で保管してあった大伴旅人の「烏梅の花の宴」の歌集が、このように宇梅乃波奈(うめのはな)として実を結ぶまで見せてくださらなかったのですね。
右一首、治部少輔大原今城真人

集歌4497 美牟等伊波婆 伊奈等伊波米也 宇梅乃波奈 知利須具流麻弖 伎美我伎麻左奴
訓読 見むと言はば否と言はめや梅の花散り過ぐるまで君が来まさぬ
意訳 見たいとおっしゃれば、どうしていやだといいましょう。あなたはおいでにならなかったことよ。
私訳 そうではありません。貴方が宇梅乃波奈を見たいとおっしゃれば、どうしていやだといいましょう。梅の花が咲き散り実になるように宇梅乃波奈の完成まで、あなたがおいでにならなかっただけですよ。
右一首、主人中臣清麿朝臣

集歌4498 波之伎余之 家布能安路自波 伊蘇麻都能 都祢尓伊麻佐祢 伊麻母美流其等
訓読 はしきよし今日の主人は礒松の常にいまさね今も見るごと
意訳 慕わしいこの日の主人は、磯辺の松が常緑であるように、変わりなくおいでください。今お見受けするように。
私訳 麗しいこの日の主人の宇梅乃波奈よ、この屋敷の主人である中臣清麿様の磯の松が常緑であるように、これからも、末長く、変わらなく在ってください。今、見ている姿のように。
説明 磯は、屋敷の主である中臣清麿が先の太政大臣丹比真人嶋の孫であることから、「嶋」から「磯」を引き出し、清麿の屋敷の意味を持たしている。
右一首、右中辨大伴宿祢家持

集歌4499 和我勢故之 可久志伎許散婆 安米都知乃 可未乎許比能美 奈我久等曽於毛布
訓読 我が背子しかくし聞こさば天地の神を乞(こ)ひ祈(の)み長くとぞ思ふ
意訳 あなたがそのようにおっしゃるのなら、私は神々に乞い願い、長く生きようと思います。
私訳 私の大切な宇梅乃波奈のあなたが、このようにいらっしゃるのならば、私は天地の神に乞い願い、末世までもあなたが長くあって欲しいと願います。
右一首、主人中臣清麿朝臣

集歌4500 宇梅能波奈 香乎加具波之美 等保家杼母 己許呂母之努尓 伎美乎之曽於毛布
訓読 梅の花香をかぐはしみ遠けども心もしのに君をしぞ思ふ
意訳 梅の花はかおり高いので、遠いにもかかわらず心もしなえるように、あなたをお慕いします。
私訳 宇梅乃波奈が格調高く麗しいので、和歌の世界からは縁遠い私ですが、心から宇梅乃波奈を大切に思います。
右一首、治部大輔市原王

集歌4501 夜知久佐能 波奈波宇都呂布 等伎波奈流 麻都能左要太乎 和礼波牟須婆奈
訓読 八千種(やちくさ)の花は移ろふ常盤(ときは)なる松のさ枝を我れは結ばな
意訳 さまざまに美しい花は衰えてゆきます。常緑の松の枝に永遠の願いをこめて、私はそれを結びましょう。
私訳 世の移り変わりにつれて、さまざまに美しい歌の花は移り変わっていきます。この屋敷の中臣清麿様の磯の常緑の松の枝に宇梅乃波奈が永遠でありますようにと願いを込めて、私はそのを誓いを結びましょう。
右一首、右中辨大伴宿祢家持

集歌4502 烏梅能波奈 左伎知流波流能 奈我伎比乎 美礼杼母安加奴 伊蘇尓母安流香母
訓読 梅の花咲き散る春の長き日を見れども飽かぬ礒にもあるかも
意訳 梅の花が咲いては散る春の永日に、一日中見ていても見飽きないほどすばらしい。磯であることよ。
私訳 大伴旅人の大宰での「烏梅の宴」を想い起こす、この屋敷の庭の梅の花が咲いて散る春の長い一日に、宇梅乃波奈は、一日中、見ていても見飽きことがないほどにすばらしい。その宇梅乃波奈が中臣清麿様の屋敷にありますね。
説明 「烏梅能波奈」の烏梅は、大伴旅人の大宰での「烏梅の宴」をも想い起こす。また、「磯」は、屋敷の主である中臣清麿が先の太政大臣丹比真人「嶋」の孫であることから、清麿の屋敷を意味する。
右一首、大蔵大輔甘南備伊香真人

集歌4503 伎美我伊敝能 伊氣乃之良奈美 伊蘇尓与世 之婆之婆美等母 安加無伎弥加毛
訓読 君が家の池の白波礒に寄せしばしば見とも飽かむ君かも
意訳 あなたのお宅の池の白波が磯に寄せ返すように、しばしば見たいとしても見飽きるようなあなただろうか。
私訳 中臣清麿様のお宅の池の白波が池の島の岩に寄せ返すように、何度も何度も繰り返し見たとしても見飽きることのない宇梅乃波奈の貴方(歌集の本)ですね。
右一首、右中辨大伴宿祢家持

集歌4504 宇流波之等 阿我毛布伎美波 伊也比家尓 伎末勢和我世古 多由流日奈之尓
訓読 うるはしと我が思ふ君はいや日(ひ)異(け)に来ませ我が背子絶ゆる日なしに
意訳 慕わしく思うわが君は、日々ますますおいでいただきたい。――あなたよ、一日とて絶えずに。
私訳 立派な方と私が思う貴方は、毎日でもおいでいただきたい。私の大切な宇梅乃波奈の世界が、一日でも絶える日がないように。
右一首、主人中臣清麿朝臣

集歌4505 伊蘇能宇良尓 都祢欲比伎須牟 乎之杼里能 乎之伎安我未波 伎美我末仁麻尓
訓読 礒の浦に常夜日も来住む鴛鴦の惜しき我が身は君がまにまに
意訳 磯の浦にいつも喚びかわしつつ来て棲む鴛鴦のように、惜しいわが身とてもあなたの御心のままに。
私訳 中臣清麿様のお宅の池の岸に毎日のように来て住む鴛鴦を口惜しく思う私の心は、貴方の御心のままにしてください。お許しあれば、毎日のように通って来て、私が見たい宇梅乃波奈です。
右一首、治部少輔大原今城真人

最初に、この宴席での中心テーマの一つである梅の花について、その開花時期と散る時期について万葉集の歌の中から確認したいと思います。万葉集の歌の中で、梅の花の咲く時期で詠われた月日が明確または推定できる歌は、この宴会の歌を除くと、およそ十一歌群があります。ここで、大宰府での天平二年の梅花歌は三十二首と四首で三十六首ですし、また大伴書持の「追和大宰之時梅花新歌六首」等があり、それで一首ずつ数えるのではなく「歌群」と称しています。
これらの歌で、集歌4238の歌の左注に記載があるように越中国の特殊な気候での歌を除くと、万葉集の歌での梅の開花は旧暦十二月上旬ごろで、花を詠うのは正月下旬ごろまでの季節の感覚だったようです。この季節感からすると、万葉時代の梅は現在の区分では野梅性(やばいしょう)の早咲きの梅だったと思われます。現在の野梅性の白梅の初雁や紅梅の八重寒紅が和歌山県南部では新暦十二月下旬から一月中旬に香り高く咲くとされていますから、その季節感は合ってきます。なお、大伴家持が赴任した越中の国で旧暦二月二日に詠われた集歌4238の歌は季節外れの歌になりますが、その左注に示すように地域性で梅の開花は遅いと説明しています。
参考に、現在の梅は杏との交配による改良種が多く、古来の野梅性とは違い、開花時期は杏の性格に寄って新暦三月以降となり、花の大きさもより大きく、杏の花に近くなったようです。このために、現在の梅の花のイメージが、そのままに万葉時代の梅の花とはならないようです。

二月二日、會集于守舘、宴作謌一首
標訓 (天平勝宝三年)二月三日、守(かみ)の舘(やかた)に会集(つど)ひ、宴(うたげ)して作れる歌一首
集歌4238 君之徃 若久尓有婆 梅柳 誰与共可 吾縵可牟
訓読 君が行きもし久にあらば梅柳誰れとともにか我がかづらかむ
右、判官久米朝臣廣縄、以正税帳應入京師。仍守大伴宿祢家持作此謌也。但越中風土、梅花柳絮三月初咲耳
注訓 右は、判官久米朝臣広繩、正税帳を以ちて京師(みやこ)に入らむとす。よりて守大伴宿祢家持この歌を作れり。ただ越中の風土に、梅花・柳絮は三月に初めて咲くのみ。

さて、この梅の花の開花時期の感覚を踏まえて、先の歌を見てみたいと思います。
順に集歌4496や集歌4497の歌は、「宿の梅の散り過ぐるまで」や「梅の花散り過ぐるまで」の句のように宴会の期日の旧暦二月上旬(新暦三月二十八日頃)にふさわしく、梅の花はすでに散って実がふくらみ始めている景色です。ところが、集歌4500の歌の「梅の花香をかぐはしみ」や集歌4502の歌の「梅の花咲き散る春の長き日を」の句は、少し変です。屋敷の主の中臣清麿は、集歌4497の歌の句「梅の花散り過ぐるまで」と、すでに梅の花は散って実に育つ時期と詠っています。それを引き取っての「梅の花香をかぐはしみ」や「梅の花咲き散る春の長き日を」です。身分が低い来客の立場としても、散った梅の花を咲いているとして「植物の梅の花」を詠ったとしたら異常です。庭には鴛鴦が泳ぐさざなみ立つ池があり、常緑の松も視野にあります。また、梅とは違うようですが、集歌4501の歌の「八千種の花は移ろふ」の感覚から庭には梅以外のなんらかの花は咲いているようです。
次に集歌4498の歌で、大伴家持が「今日の主人」に対して「常にいまさね」とその常盤を願っています。それに対して、屋敷の主人である中臣清麿が集歌4499の歌で、「我が背子しかくし聞こさば」と家持が「今日の主人」に対してその常盤を願うのでしたら、私も「天地の神を乞ひ祈み」と「今日の主人」の常盤を神々に願い、その常盤が「長くとぞ思ふ」と答えています。まず、大伴家持が云う「今日の主人」は、屋敷の主人である中臣清麿ではありません。「今日の主人」とは、集歌4496と集歌4497の歌で大原今城と中臣清麿が詠うように「人が見るもの」ですし、「磯松と比べてその常盤を願うもの」のようです。
そして、屋敷の主人である中臣清麿が集歌4499の歌で「今日の主人」に対してその常盤を願った後は、集歌4500以下、集歌4505までの五首は「今日の主人」に対する誉め言葉の歌となっています。普段の解釈は集歌4498の歌で示す「今日の主人」を屋敷の主人である中臣清麿と解釈するものもありますが、私は「今日の主人」を人が見るもので磯松と比べてその常盤を願うものと解釈しています。つまり、集歌4497の歌で屋敷の主人である中臣清麿が詠う「宇梅乃波奈(うめのはな)」です。
天平勝宝七年(755)五月十一日に万葉集前編「奈弖之故」のお披露目の宴で橘諸兄と丹比国人が、その常盤を願ったのと同じ風景です。その万葉集前編「奈弖之故」のお披露目の宴には大伴家持は参加していませんが、後日にそのときの様子を聞いて歌を詠っています。ちょうど、この度のお披露目の宴会で集歌4498の歌で示す万葉集後編「宇梅乃波奈」の常盤を祈願するのと同じ宴会の景色です。それやこれやで、私はこの「宇梅乃波奈」を元明天皇の平城京遷都から聖武天皇の難波京遷都までの歌々を編纂した万葉集の後編と思っています。
万葉集後編となる「宇梅乃波奈」は、「人麻呂のくびき」を脱した新しい和歌の世界です。必然に天平二年正月十三日の大宰府での「烏梅の宴」での梅花歌二十三首に触れざるを得ないでしょう。私は、万葉集後編となる「宇梅乃波奈」の完成を祝う宴では、最初に巻五の旅人の「調べ和歌」の世界に話題が集まったと思います。その「調べ和歌」の世界ではありませんが、和歌での佳麗な美の世界ですと志貴皇子の歌の世界です。歌人たちの宴で興が乗ってくると万葉集 巻八の巻頭を飾る集歌1418の「早蕨」の歌は当然の話題ではないでしょうか。

志貴皇子懽御謌一首
標訓 志貴皇子の懽(よろこび)の御歌一首
集歌1418 石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨
訓読 石(いは)激(たぎ)る垂水(たるみ)の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも
私訳 滝の岩の上をはじけ降る垂水の上に緑鮮やかな若いワラビが萌え出る春になったようです。

このような宴会での万葉集後編の歌集の鑑賞であり評論ですと、集歌4506の歌の標の「興に依りて各高円の離宮処を思ひて作れる歌五首」で、高円の野に葬られている志貴皇子を偲ぶのは非常に判りやすい風景です。それで、高円の離宮は志貴皇子の別荘であって聖武天皇のものではないはずです。再掲になりますが、万葉集後編となる「宇梅乃波奈」の巻頭を飾る志貴皇子を偲んでみてください。

依興各思高圓離宮處作謌五首
標訓 興に依りて各(おのがじし)高円の離宮(とつみや)処(ところ)を思(しの)ひて作れる歌五首
集歌4506 多加麻刀能 努乃宇倍能美也波 安礼尓家里 多々志々伎美能 美与等保曽氣婆
訓読 高円(たかまと)の野の上の宮は荒れにけり立たしし君の御代(みよ)遠そけば
私訳 高円の野の高台にある宮の屋敷は荒れてしまったようだ。屋敷を建てられた皇子の生前の時代は遠くなったので。
右一首、右中辨大伴宿祢家持

集歌4507 多加麻刀能 乎能宇倍乃美也波 安礼奴等母 多々志々伎美能 美奈和須礼米也
訓読 高円(たかまと)の峰の上の宮は荒れぬとも立たしし君の御名忘れめや
私訳 高円の高台にある宮の屋敷は荒れ果てたとしても皇子のお名前は忘れるでしょうか。
右一首、治部少輔大原今城真人

集歌4508 多可麻刀能 努敝波布久受乃 須恵都比尓 知与尓和須礼牟 和我於保伎美加母
訓読 高円(たかまと)の野辺延ふ葛(くず)の末つひに千代に忘れむ我が王(おほきみ)かも
私訳 高円の野辺に生える葛の蔓が長く延びるように千代の後に忘れるような我が王の御名でしょうか。
右一首、主人中臣清麿朝臣

集歌4509 波布久受能 多要受之努波牟 於保吉美乃 賣之思野邊尓波 之米由布倍之母
訓読 延ふ葛(くず)の絶えず偲はむ王(おほきみ)の見しし野辺には標(しめ)結ふべしも
私訳 野辺に延びる葛の蔓が絶えないように御偲びする王が眺められた高円の野辺に農民に荒らされないように禁制の標を結ぶべきでしょう。
右一首、右中辨大伴宿祢家持

集歌4510 於保吉美乃 都藝弖賣須良之 多加麻刀能 努敝美流其等尓 祢能未之奈加由
訓読 王(おほきみ)の継ぎて見すらし高円(たかまと)の野辺見るごとに哭(ね)のみし泣かゆ
私訳 葬られた場所から王が今も見ていられるでしょう。高円の野辺を見るたびに亡くなられたことを怨みながら泣けてしまう。
右一首、大蔵大輔甘南備伊香真人
コメント