竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

今日のみそひと謌 火曜日

2014年09月30日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと謌 火曜日

集歌1479 隠耳 居者欝悒 奈具左武登 出立聞者 来鳴日晩
訓読 隠(こも)りのみ居(を)ればいぶせみ慰(なぐさ)むと出で立ち聞けば来鳴く晩蝉(ひぐらし)
私訳 部屋に籠ってばかりいると鬱陶しいので、気晴らしをしようと部屋を出て立って聞いていると飛び来て啼くヒグラシよ。

集歌1480 我屋戸尓 月押照有 霍公鳥 心有今夜 来鳴令響
訓読 我が屋戸(やと)に月おし照れり霍公鳥(ほととぎす)心(うち)ある今夜(こよひ)来鳴き響(とよ)もせ
私訳 私の家を月が押し被さるように煌々と照らす。ホトトギスよ。風流の気配を感じる今夜は、飛び来て、その声を啼き響かせよ。

集歌1481 我屋前乃 花橘尓 霍公鳥 今社鳴米 友尓相流時
訓読 我が屋前(やと)の花橘に霍公鳥今こそ鳴かめ友に逢へると
私訳 私の家の花橘の枝で、ホトトギスよ、今だからこそ啼け。友に会っているのだから。

集歌1482 皆人之 待師宇能花 雖落 奈久霍公鳥 吾将忘哉
訓読 皆(みな)人(ひと)し待ちし卯の花落(ち)りぬとも鳴く霍公鳥(ほととぎす)吾忘れめや
私訳 みんなが待っていた卯の花が散ったとしても、飛び来て啼くホトトギスを私が忘れるでしょうか。

集歌1483 吾背子之 屋戸乃橘 花乎吉美 鳴霍公鳥 見曽吾来之
訓読 吾が背子し屋戸(やと)の橘花を吉み鳴く霍公鳥(ほととぎす)見にぞ吾(あ)が来(こ)し
私訳 私の大切な貴方の家の橘の花を美しく思い飛び来て啼くホトトギスを眺めようと、私はやって来ました。

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今日のみそひと歌 月曜日

2014年09月29日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと歌 月曜日

集歌589 衣手乎 打廻乃里尓 有吾乎 不知曽人者 待跡不来家留
訓読 衣手(ころもて)を打廻(うちみ)の里にある吾を知らにぞ人は待てど来(こ)ずける
私訳 衣の袖を打つ、打廻の里にいる私の心を知らないで、貴方は、待っていても遣って来ません。

集歌590 荒玉 年之經去者 今師波登 勤与吾背子 名告為莫
訓読 あらたまし年し経(へ)ぬれば今しはと勤(いめ)よ吾が背子名し告(の)らせすな
私訳 気持ちが改まる新しい年が来たので、今はもう良いだろうと、決して、私の愛しい貴方。私から貴方に告白させないで。

集歌591 吾念乎 人尓令知哉 玉匣 開阿氣津跡 夢西所見
訓読 吾が思(も)ひを人に知るれか玉匣(たまくしげ)開き明(あ)けつと夢(いめ)にしそ見ゆ
私訳 私の思いを貴方に知られたからか、櫛を入れる美しい匣の蓋を開いてあけた(藤原卿と鏡王女の相聞のように、貴方に抱かれる)と夢に見えました。

集歌592 闇夜尓 鳴奈流鶴之 外耳 聞乍可将有 相跡羽奈之尓
訓読 闇(やみ)し夜に鳴くなる鶴(たづ)し外(よそ)のみし聞きつつかあらむ逢ふとはなしに
私訳 闇夜に鳴いている鶴の声を遠くから聞いているように、うわさに聞いても姿の見えない貴方と逢うこともありません。

集歌593 君尓戀 痛毛為便無見 楢山之 小松之下尓 立嘆鴨
訓読 君に恋ひ甚(いた)も便(すべ)なみ平山(ならやま)し小松し下(した)に立ち嘆くかも
私訳 貴方に恋い慕ってもどうしようもありません。(人麻呂が詠う集歌2487の歌のように)奈良山に生える小松の下で立ち嘆くでしょう。

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万葉集 長歌を鑑賞する 集歌36と38

2014年09月28日 | 万葉集 長歌を楽しむ
万葉集 長歌を鑑賞する 集歌36と38

幸干吉野宮之時、柿本朝臣人麿作歌
標訓 吉野の宮に幸(いでま)しし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌
集歌36 八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 國者思毛 澤二雖有 山川之 清河内跡 御心乎吉野乃國之 花散相 秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百磯城乃 大宮人者 船並弖 旦川渡 舟竟 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃 弥高良思珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可聞

西本願寺本万葉集の原文を忠実に訓むときの解釈
訓読 やすみしし わご大王(おほきみ)し 聞し食(め)す 天つ下に 国はしも 多にあれども 山川し 清き河内と 御心(みこころ)を 吉野の国し 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば 百磯城の 大宮人は 船(ふな)並(な)めて 朝川渡り 舟竟(わた)る 夕河渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高らしらす 水激(たぎ)つ 瀧し都は 見れど飽かぬかも

私訳 地上の隅々までを承知なされる我が大王が統治為されている天の下には国々は沢山あるが、山川の清らかな河の内と御心を良しとされる吉野の国の桜の花が散る秋津の野辺に宮殿を御建てになり、多くの岩を積み上げて作る大宮の大宮人が船を並べて朝に川を渡り、舟で渡り、夕べに河を渡るようなこの川の流れが絶えることないように、この山の峰の高みのように天界の神々までにもお知らせになり、この水の流れの激しい滝の京は、何度見ても見飽きることはありません。

集歌38 安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 吉野川 多藝津河内尓 高殿乎 高知座而 上立 國見乎為波 畳有 青垣山 ゞ神乃 奉御調等 春部者 花挿頭持 秋立者 黄葉頭判理(一云、黄葉加射之) 遊副 川之神母 大御食尓 仕奉等 上瀬尓 鵜川乎立 下瀬尓 小網刺渡 山川母 依弖奉流 神乃御代鴨

西本願寺本万葉集の原文を忠実に訓むときの解釈
訓読 やすみしし わご大王(おほきみ) 神ながら 神さびせすと 吉野川 激つ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば 畳はる 青垣山 山神の 奉(まつ)る御調(みつき)と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉(もみち)をうなり(一は云はく、黄葉かざし) 遊(ゆ)き副(そ)ふ 川し神も 大御食(おほみけ)に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも

私訳 地上の隅々まで統治する我が大王は生まれながらの神ですが神らしくいらっしゃると、吉野川の激しい水の流れの河の内に高殿を御建てになって、そこの登りお立ちになって国見を為されると折り重なる青垣山の山の神が奉る御調として春には桜の花を咲かせ、秋になると黄葉(もみじ)は枝たれて、御遊(みゆき)に副(そ)へる川の神も大王の大御食にご奉仕するとして上流の瀬で鵜飼を行い、下流の瀬に小網を刺し渡すように山や川の神々も大王に依ってご奉仕する。現御神の御世です。

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万葉雑記 色眼鏡 八三 公廨稲(くがいとう)から万葉社会を考える

2014年09月27日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 八三 公廨稲(くがいとう)から万葉社会を考える

 今回は、特殊で聞き慣れない言葉、「公廨稲」と云うものから『万葉集』を鑑賞してみたいと思います。この「公廨稲」とは官が保有する稲種を農民に貸出、その貸し出した稲種に利子を取り、税収の一部としたことを意味します。天変地異などにより耕作の稲種を失った農民救済での稲種貸し出しは「公出挙」と云いますが、救済よりも営利目的が主体のものを「公廨稲」として特別に区分します。制度としては聖武天皇の天平十七年から正式に施行されています。

 視線を変えまして、一般に奈良時代の人々の暮らしぶりを『万葉集』巻五に載る山上憶良が詠う「貪窮問答」から、日々の食事もままならなかったほどの困窮した生活と紹介します。ただし、この説明は「貪窮」の言葉を一字換字して「貧窮問答」として「ビングウ」と訓む特別な解釈であり、もし、原文通りに「貪窮問答」の言葉を仏教用語の中国語訳である「ドングウ」と訓む場合は、まったく、違った解釈になります。
 ご存知のように、仙覚系万葉集写本(紀州本など)では「貪」の文字を使い、現代の校本万葉集では「貧」の文字をつかいます。その冠の部分が「今」と「分」の違いがあります。仏教の教えに従い「足ることを知らない底知れぬ欲望」との戒めを守るか、「貧乏に窮まった」と解釈するかの根本的な立場の違いがあります。当然、奈良時代の聖武天皇以降の特権を与えられ贅を尽くした僧侶や貴族が「仏教の教えに従い、欲を貪り、窮めるな」との戒めを守り、仏教説話である山上憶良が詠う「貪窮問答」をそのように解釈するかは、疑問です。その反映か、現在の解釈は平安時代以降の解釈である「ビングウ」と訓む立場から行われています。実に色眼鏡です。
 仏教ではその人のために特別に調理された食事を施しとして受け取ってはいけないとします。「貪窮問答」が詠う世界は、筑前国司である山上憶良のために夜が明ける前から人々が起き出して、甑で蒸した「ハレの日」のものである強飯の特別食を準備する様です。憶良は建前上の仏教徒(奈良時代の官僚は建前として仏教徒)としてはそれが「恥ずかしい」と感じ、一方、地方視察をする国司としてはその食事準備を当然としなければいけないとも思う、この感情の板挟みにあります。「貪窮問答」の歌には農民の貧困などは詠われてはいません。本来の根本仏教を詠うものです。

 さて、以前に奈良時代の庶民はどのようなものを食べ、いかに生活して来たかは、弊ブログ「庶民は何を食べていたのか」で考えを述べさせて頂きました。今回は、律令政治の税制からこの方面を眺めてみたいと思います。ただ、ブログの趣旨は『万葉集』の鑑賞ですから、守備範囲は持統天皇朝から元正天皇朝に絞らせて頂きます。古代史では、ちょうど、人口急増と社会資本の蓄積が急激に進んだ時代に相当します。なお、人口動態研究者によりますと、この後、聖武天皇の治世頃から統治悪化を起因として全国的な耕地管理の乱れが出始め、平安時代へ向けて農業生産量減少と人口減少の時代へと入るようです。現代でもそうですが文化と経済とに関係が見られるように、古代でも『万葉集』の全盛期と社会情勢の全盛期とが重なると云う現象があったようです。面白いものです。
 その律令制度での税制である租庸調に注目しますと、班田収授法に基づく地税に相当する収穫物に対する直接税は「租」です。一般にこの租税の税率は日本古来の風習である神道の出穂料に相当する税率約3%前後であったと説明されます。ちなみに、庸税は農作業で要求される水路・圃場整備での共同作業に相当し、調税は古代での支配者への貢に相当するものです。このように眺めますと、租庸調は大陸からの律令体系に基づく新しい税体系のように思われますが、その内実は日本古来の農村の慣習に従う税体制の一面もあります。そのためでしょうか、藤原京時代に新規に導入・施行された班田収授法と租庸調の税制が反乱や動乱と云う社会現象を伴うこともなく、また、朝廷軍による全国武力制覇と云うこともなく、全国規模で導入が成されています。これは日本独特の特徴で、諸外国では見られないものです。
 その租税率について見てみますと、平安時代初期に整備された『令集解』では奈良時代の租税税率を次のように紹介しています。

慶雲三年九月十日格云。(令集解)
准令、田租一段租稲二束二把、歩以之方内五得尺米為一歩升、町租稲廿二束。
令前租法、熟田百代租稲三束、歩以之方内六得尺米為一歩升、町租稲十五束。
右件二種租法。束數雖多少輸實猶不異、而令前方六尺升漸差地實。
遂其差升亦差束實。是以取令前束擬令内把、令條段租其實猶益。
今斗升既平。望請、輸租之式折衷聴勅者。
朕念、百姓有食萬條即成、民之豊饒猶同充倉。
宜収段租一束五把、町租十五束。主者施行。

 紹介しました「格」によると、大宝律令体系で規定される租税は国税相当の田租税が一段当たり稲二束二把と地方税相当の町租税が稲廿二束です。ところが、慶雲三年九月十日の勅令によりますと従来の租税は熟田百代当たり田租税が稲三束と町租税が稲十五束となっていました。これが古くからの慣例だったようです。ところが、大宝律令では大陸から新しい尺貫法が導入され面積と升容量の定義が変わったため新旧の税率を直ちに比べることは困難ですが、この文章からすると新税率の方が農民にとって重かったようです。このため、租税を納める農民の不満を解決するため、国税相当の田租税が新しい尺貫法による田一段当たり稲一束五把、地方税相当の町租税が稲十五束へと低減・調整されています。当時の水田の穀物生産量は田の地勢の優劣で上田は五百束、中田は四百束、下田では三百束と規定されていましたから、総合想定税率を単純計算しますと上田では3.3%、中田では4.1%、下田では5.5%の税率となります。ただ、実際は班田収授での不公平をなくすために収穫量により租税調整が為されていましたから、おおむね、持統天皇朝から元正天皇朝までの統治期間での平均的な租税率は3.5%程度であったと思われます。こうしてみますと、当時の耕作収穫物の大半は農民の手に残されていたことになります。江戸期の農民のように為政者によって収穫物の四割から五割ものが簒奪をされていた訳ではありません。農民は必ず貧困であって欲しいと云うイメージと実際の相違がここにあります。参考として町租税として収納された穀物は地域内に保管され凶作時には救荒米として一部が供出されましたから、農民にとっては不満の募るような税制ではなかったと思われます。
 さらに驚くべきことはこの3.5%程度の軽い租税であっても、元正天皇朝までの統治期間を通じて政府・行政側には余剰が生じていたようです。その状況を説明するものが公廨稲と云う言葉を説明するものの中にあります。それが次の文章です。

<解説>
天平17年(745年)、大国40万束・上国30万束・中国20万束・下国10万束(ただし、飛騨国・隠岐国・淡路国は3万束、志摩国・壱岐国は1万束とされた)を正税から分離して出挙し、その利稲(収益)で官物の欠失未納を補填し、残りを国司の収入とした。それ以前については公田の地子稲を充てたり、国司に無利子で官稲を貸し与えたりして、これを出挙に準じて運用(「借貸」)させていたと考えられている。なお、公廨稲導入の主な目的については、国司の給与を確保する目的とする見方と、官物の不足分を補うことが目的であったとする見方が対立している。

 この説明から判るように天平十七年段階では、正税(租税としての穎稲)として保管されてあったものから一部を分離して、農民への貸出用の稲種を確保するだけの十分なる余裕がありました。およそ、それは最低限、年度を通じて行政を運営する費用となる租税備蓄以外に大国40万束・上国30万束・中国20万束・下国10万束を「出挙」の原資に拠出することが可能な蓄えです。当時、租税に対して帳簿上の収支での欠損は確かにありましたが、それでもまだ、貸し出しに用する余裕は十分にあったと云うことです。
 ここで、天平十七年から正式に始まった「公廨稲制度」での出挙と利稲の言葉について、解説を紹介しますと、次のようになっています。

<解説>
稲粟の出挙は、主に農村部において盛んに行われた。元々、稲粟の出挙には、天武天皇四年四月の詔に示すように百姓の救済や勧農といった意味合いがあった。律令の雑令の規定では私的貸借の私出挙で満年利100%、公的貸借の公出挙でも満年利50%の利率とし、未返済利息への複利計算は禁止されていた。
天候不順や無知な農民への複利適用などに起因する公出挙や私出挙に対する返済で百姓が疲弊し始めたことを知った朝廷は、720年(養老4)3月、公出挙の利子率の低減(年利50%→30%)、私出挙の利子率(年率100%)や複利禁止の厳守、そして養老2年以前に生じた全ての公出挙や私出挙の債務の免除を決定し諸国へ通知し、これを按察使の監察項目とした。しかし、この通達は徹底することなく多くの地域で公出挙の利子率は50%のままであった。制度上では737年(天平9)9月に私出挙の禁止の通知が出されたがこれも不徹底に終わった。
律令上、租税の中でも正税は、地方機関(国府や郡家)の主要財源とされていたが、正税徴収には戸籍の作成、百姓への班田など非常に煩雑な事務を必要としていた。しかし、公出挙であれば、繁雑な事務を行わなくとも多額の収入を確保することができたので、行政監察が乱れ出すと地方機関の多くは百姓に対する強制的な公出挙を行い財源としたのである。このように、公出挙は租税の一部として位置づけられるようになった。つまり、国府や郡家などの地方機関は春になると正税(田租)の種籾を百姓へ強制的に貸与し、秋になると50%の利息をつけて返済させるようになった。この利息分の稲を利稲(りとう)という。
更に745年(天平17年)の国司の給与の財源として「公廨稲」が正税から分離されて、出挙の運用原資として用いられるようになった事で出挙と国司の収入が直接関係するようになると、むしろ公出挙は益々盛んになった。さらに一部の国司や郡司にこの公出挙を私出挙と偽り、さらなる高利で不当な利益を得る者も現れた。

 この解説にありますように「出挙」は農業活動において、気象環境からの凶作を乗り切るには必要な制度です。適切な水田農地と労働力が確保されている場合、水稲栽培は非常に生産性の高い農作物です。そのため、災害で稲種を失った農民が耕作農地面積に見合う分量の稲種を利率50-100%で借り受け、水稲栽培を行うことは非合理な高利ではありません。ここで、理解の補助として稲種と収穫量との関係を研究したものを紹介しますと、

イネの研究者、池橋宏は、中世ヨーロッパではムギの播種量に対する収穫量の割合は4倍であり、これに対して日本の奈良時代の稲作では25倍であったと、史料を分析しています。;「〈かごしまフォト農美展〉に見る水土の知」(門松 経久)より引用

となっています。発芽率(50%程度)を考慮しても借り入れ稲種に対して10倍以上の収穫は期待できるのではないでしょうか。「出挙」と云う制度は農民たちが厳しい自然環境の中に生きて行く上で生まれた生活の知恵です。説明しますと、中田とランク付けられた田の所有者は耕地面積から一段当たり30束程度の稲籾を借り受ければ十分に耕作が出来ますし、秋には400束ほどの稲穂の収穫が期待できます。返済は公出挙の場合は利子を含め45束です。手元には355束の稲穂が残ることになります。ここから租税を引いても約340束の稲穂が残ります。このように適切に運用がなされていれば農民救済策となります。ただし、このことは耕作農地面積に見合う分量の稲種を借り受けときだけの話です。強制的に100束もの稲籾を貸し出されたら大変なことになります。
 ところが、藤原氏が政権運営を本格的に始めた聖武天皇の時代から農民の暮らしは変わります。天平十七年に定められた「公廨稲制度」では、これを悪用する国守や郡司がいた場合、彼らは手持ちの稲種を強制的に公廨稲として「出挙」し、規定税収以上の利子収入があった場合は役人の収入にして良いことが制度として可能となりました。対する農民はその稲種の必要の有無に関わらず、つまり、それで農作業をして収穫があるかどうかに関わらず、最低限50%の利子を付けて返納する必要が生じたのです。ここに農村の疲弊が始まり、都市貴族の豪奢な生活の歴史が始まったのです。この天平十七年は聖武天皇の唯一の男子である安積皇子が急死(暗殺とも疑惑されている)した翌年で、政権運営は橘諸兄から光明皇后・藤原仲麻呂一派へと移って行った時代です。
 この天平より少し前、和銅年間から養老年間にかけて筑後国司と肥後国司とを兼務した道君首名と云う人物がいます。彼は善政を敷いたとして『続日本紀』に載せられた他、肥後国では神として祀られた人です。そして、彼と同時代人が「貧窮問答」を詠った山上憶良です。この元正天皇朝までの官僚たちと農村・漁村の人々の距離感は後の世代の人々とは違い、非常に近いものがあります。まだまだ、貴族や官僚の家族は旧来の生活基盤であった地域・農村から分離されてなくて、時に、在野で生活をしていた時代です。貴族・官僚の家族が在野で生活をしていたのでは、その地域の国司や郡司は、あまりでたらめな行政は出来なかったのではないでしょうか。それに元正天皇朝までは官僚は能力選抜が基本のようで、聖武天皇朝以降のように「蔭位」制度からの特定の氏族が役職を独占すると云う事態は起きていません。
 元正天皇朝ごろまでは貴族もまた地域・農村に基盤を持っていたと窺わせる歌が万葉集にはあります。それが次の大伴坂上郎女が詠う歌です。これらの歌からしますと坂上郎女は定期的に保有する荘園(庄や里)に出向き、直接に農作業などを指揮していたと推定されます。律令制度では五月と八月に十五日ずつの田假(でんげ)と云う農繁期の休暇制度があり、これが奈良時代では実際に運用されていましたから、まだまだ、農村と都市との分離は進んでいなかったと思われます。

<跡見庄>
大伴坂上郎女、従跡見庄、贈賜留宅女子大嬢謌一首并短謌
標訓 大伴坂上郎女の、跡見(とみの)庄(たどころ)より、宅(いへ)に留まれる女子(むすめ)の大嬢(おほをとめ)に贈賜(おく)れる謌一首并せて短謌
集歌723 常呼二跡 吾行莫國 小金門尓 物悲良尓 念有之 吾兒乃刀自緒 野干玉之 夜晝跡不言 念二思 吾身者痩奴 嘆丹師 袖左倍沽奴 如是許 本名四戀者 古郷尓 此月期呂毛 有勝益土
訓読 常世(とこよ)にと 吾が行かなくに 小金門(をかなと)に もの悲(かな)しらに 念(おも)へりし 吾が児の刀自(とじ)を ぬばたまし 夜昼(よるひる)といはず 念(おも)ふにし 吾が身は痩(や)せぬ 嘆(なげ)くにし 袖さへ沽(か)へぬ 如(かく)ばかり もとなし恋ひば 古郷(ふるさと)に この月ごろも ありかつましじ
私訳 あの世の常世にと私がいくのでもないのに、家の門口で悲しそうに見えた私の子供の貴女のことを漆黒の夜と昼とは問わずに恋焦がれると、私の体は痩せてしまった。逢えぬ嘆きのために袖までも涙で傷んでしまう。このように虚しく貴女を恋しく思っていると、故郷にこの一月も過すことはありえません。

反謌
集歌724 朝髪之 念乱而 如是許 名姉之戀曽 夢尓所見家留
訓読 朝髪し念(おも)ひ乱れて如(かく)ばかり汝(な)姉(ね)し恋ふれぞ夢に見えける
私訳 朝に髪が乱れるように思いは乱れて、このようにお姉さんの貴女が恋しがっているから、私の夢の中に見えたのでしょう。
右歌、報賜大嬢進謌也。
注訓 右の歌は、大嬢(おほをとめ)の進(たてまつ)る謌に報賜(こた)へり

<春日里>
獻天皇謌二首  大伴坂上郎女、在春日里作也
標訓 天皇(すめらみこと)に獻(たてまつ)れる謌二首  大伴坂上郎女、春日の里に在りて作れる
集歌725 二寶鳥乃 潜池水 情有者 君尓吾戀 情示左祢
訓読 にほ鳥(とり)の潜(かづ)く池水(いけみず)情(こころ)あらば君に吾が恋ふ情(こころ)示さね
私訳 にお鳥が水に潜る池の水よ、もし、人情があるなら貴方に私が人知れずお慕いする気持ちを示しなさい。

集歌726 外居而 戀乍不有者 君之家乃 池尓住云 鴨二有益雄
訓読 外(よそ)し居(ゐ)て恋ひつつあらずは君し家(へ)の池に住むいふ鴨にあらましを
私訳 遠くにいてただお慕い続けるくらいなら、貴方の家の池に住むと云う鴨になりたいものです。

<竹田庄>
大伴坂上郎女従竹田庄贈賜女子大嬢謌二首
標訓 大伴坂上郎女の竹田(たけたの)庄(たところ)より女子(むすめ)の大嬢(おほをとめ)に贈賜(おく)れる謌二首
集歌760 打渡 竹田之原尓 鳴鶴之 間無時無 吾戀良久波
訓読 うち渡す竹田(たけだ)し原に鳴く鶴(たづ)し間(ま)無く時(とき)無し吾が恋ふらくは
私訳 広々と広がる竹田の野原に啼く鶴の声が間無く時を択ばず聞こえるように、間無く時を択ばず私は貴女を心に留めています。

集歌761 早河之 湍尓居鳥之 縁乎奈弥 念而有師 吾兒羽裳可怜
訓読 早河(はやかは)し瀬に居(ゐ)る鳥し縁(よし)を無み念(おも)ひてありし吾が児はもあはれ
私訳 流れの早い川の瀬に居る鳥のように、こちらから逢う機会は無いものと思っていました私の貴女(わが子)よ、実に心残りです。


 班田収授の制度解釈としては難しいのですが、貴族・官僚たちはまだまだ旧来からの相続された荘園を持ち、自らが赴き、その荘園を経営していたと思われます。農業は地域が一体となり水利管理や病害虫・野獣対策を行う必要がある産業です。地域の農地が荒廃し農民が逃げ出すようでは、貴族・官僚たちの持つ農地にも影響が及びます。そうした時、自己の小作人だけは面倒を見るが、地域の農民の面倒は見ないと云うことが出来たでしょうか。これは疑問です。功利的に自己の農地と収益を守るために、地域と人々に庇護を与えたのではないでしょうか。
 その時、餓死者や逃亡多発と云うような事態は起きたのでしょうか。

 参考に奈良の都からそれほど離れていないと思われる大伴稲公の持つ跡見庄で開かれた宴会での歌と同じく大伴家持が持つ荘園で開かれた宴会での歌を紹介します。農村ですが貴族が同僚を呼び、風流の宴会をする様がありますから、周辺の地域・農村が荒廃していたとは想像が出来ません。

<大伴稲公の例>
典鑄正紀朝臣鹿人至衛門大尉大伴宿祢稲公跡見庄作謌一首より
標訓 典鑄正(てんちうのかみ)紀朝臣(きのあそみ)鹿人(しかひと)の衛門大尉(ゑもんのだいじょう)大伴宿祢稲公(いなきみ)の跡見庄(とみのたどころ)に至りて作りたる謌一首
集歌1549 射目立而 跡見乃岳邊之 瞿麦花 總手折 吾者将去 寧樂人之為
訓読 射目(いめ)立てて跡見(とみ)の岳辺(おかへ)し撫子(なでしこ)し花ふさ手折(たを)り吾(あ)は持ちて行く寧樂人(ならひと)しため
私訳 獣の跡を見つける射目を設ける跡見(とみ)の岳のほとりに咲く撫子の花、たくさん手折って私は持って行く。奈良の都で待っている人のために。
注意 旋頭歌です

<大伴家持の例>
三月十九日、家持之庄門槻樹下宴飲謌二首より
標訓 三月十九日に、家持の庄(たどころ)の門(かど)の槻(つき)の樹の下にして宴飲(うたげ)せし謌二首
集歌4302 夜麻夫伎波 奈埿都々於保佐牟 安里都々母 伎美伎麻之都々 可射之多里家利
訓読 山吹は撫でつつ生(お)ほさむありつつも君服(き)ましつつかざしたりけり
私訳 山吹は大切に育てましょう、このように貴方が身に付けられて、かざしにされたのですから。
右一首、置始連長谷
注訓 右の一首は、置始連長谷


 最後に天平年間から農民が苦しみ出したのは仏教が原因です。その源は聖武天皇・光明皇后による東大寺や全国での国分寺と国分尼寺の建立事業です。それ以前は鉱山開発、道路・港湾整備や河川・水利整備などの殖産興業への社会資本投資が中心でした。ところが、庶民の救済を忘れた仏教や宗教は消費の嵩を競うことだけが目的となります。それへの資本財の投資では生産基盤の整備にはつながりませんから、農村は疲弊し、人口減少へと陥って行きます。そして、同時に東大寺の大仏と云う世界最大の金銅仏を鋳造出来るほどの工業基盤は、やがて、自国で銅貨と云う通貨も鋳造出来ないほどに疲弊してしまします。それが晩期万葉集以降の世界です。
 現代の偉大なる観光資源に悪口を云う人はいません。ただ、一般の説明と『万葉集』が詠う世界とは少し相違があるようです。大伴旅人や山上憶良の時代までの『万葉集』の世界には豊富な食料の下、男女が愛を語らい、結果、子を産み増やすと云う明るさがあります。そのような庶民を含めた時代の明るさを楽しむ必要があります。
 偉大な聖武皇帝陛下は光明皇后・藤原仲麻呂が政治の実権を握った時、「公廨稲制度」と云う貴族・官僚が庶民を消費すると云う手段を日本で初めて発明し、実行しました。そして、この発明は姿を変え、進化しながら明治維新まで続きます。為政者からみると実に偉大な政治家です。
経済からみると、このような見方があります。
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今日のみそひと歌 金曜日

2014年09月26日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと歌 金曜日

集歌4162 宇都世美能 常無見者 世間尓 情都氣受弖 念日曽於保伎
訓読 現世(うつせみ)の常なき見れば世の中に心つけずて念(おも)ふ日ぞ多き
私訳 この世の定まるものがないことを考えると、世の中のものごとに気持ちを集中することなく、物思いをする日々が多い。

集歌4163 妹之袖 我礼枕可牟 河湍尓 霧多知和多礼 左欲布氣奴刀尓
訓読 妹し袖我枕(まくら)かむ川し瀬に霧立ち渡れさ夜更けぬとに
私訳 愛しい貴女の袖を、私は抱きたい。川の瀬に霧立ち渡れ、夜が更けきらないうちに。

集歌4165 大夫者 名乎之立倍之 後代尓 聞継人毛 可多里都具我祢
訓読 大夫(ますらを)は名をし立つべし後(のち)し代(よ)に聞き継(つ)ぐ人も語り継ぐがね
私訳 立派な人の上に立つ男である大夫は、立派な男としての名を立てるべきでしょう。後の世に、その話を聞き継いだ人々がさらに後の世に語り継ぐように。

集歌4167 毎時 弥米頭良之久 咲花乎 折毛不折毛 見良久之余志毛
訓読 時ごとにいやめづらしく咲く花を折りも折らずも見らくしよしも
私訳 四季毎に、一層、愛でたくなる咲く花を、折ろうと折るまいと、眺めるのは気持ち良いことです。

集歌4168 毎年尓 来喧毛能由恵 霍公鳥 聞婆之努波久 不相日乎於保美
訓読 毎年(としのは)に来鳴くものゆゑ霍公鳥(ほととぎす)聞けば偲(しの)はく逢はぬ日を多み
私訳 毎年に、飛び来て鳴くものだから、ホトトギスを聞くと懐かしく思う。逢えない日々が多いので。

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