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竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉雑記 色眼鏡 三四七 今週のみそひと歌を振り返る その一六七

2019年11月30日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三四七 今週のみそひと歌を振り返る その一六七

 今週も防人の歌ですが、防人の歌は集歌4436の歌までですので、今週紹介したものでほぼ終わりです。
 特に今週の特徴的な防人歌は任期を終えて帰国する時の歌が取られていることです。最短で3年間の任期を終えての帰国です。

集歌4425 佐伎毛利尓 由久波多我世登 刀布比登乎 美流我登毛之佐 毛乃母比毛世受
訓読 防人(さきもり)に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨(とも)しさ物思ひもせず
私訳 防人に行くのは誰の夫ですかと問う人を見るのが羨ましい。何の物思いもしなくて。

集歌4426 阿米都之乃 可未尓奴佐於伎 伊波比都々 伊麻世和我世奈 阿礼乎之毛波婆
訓読 天地の神に幣(ぬさ)置き斎(いは)ひつついませ吾が背な吾をし思(しの)はば
私訳 天と地との神に幣を奉げ置き祈ります。無事にいて下さい。私の大切な貴方。私を思い出してください。

集歌4427 伊波乃伊毛呂 和乎之乃布良之 麻由須比尓 由須比之比毛乃 登久良久毛倍婆
訓読 家の妹ろ吾(わ)を偲ふらし真結ひに結ひし紐の解くらく思(も)へば
私訳 家に残るいとしいお前が私を懐かしんでいるようだ、しっかり結びに結んだ紐が解けるのを見ると。

集歌4428 和我世奈乎 都久志波夜利弖 宇都久之美 叡比波登加奈々 阿夜尓可毛祢牟
訓読 吾が背なを筑紫は遣りて愛(うつく)しみ帯(えひ)は解かななあやにかも寝む
私訳 私の大切な貴方を筑紫に旅立たせて、貴方が愛した帯は解きもしないで落ち着かない気持ちで寝るでしょう。

集歌4429 宇麻夜奈流 奈波多都古麻乃 於久流我弁 伊毛我伊比之乎 於岐弖可奈之毛
訓読 馬屋なる縄立つ駒の後(おく)るがへ妹が云ひしを置きて悲しも
私訳 「厩に居る手綱を切った馬が、どうして、そのままにいるでしょうか」と、いとしいお前が云ったのを、そのまま後に残してきたのが悲しい。

集歌4430 阿良之乎乃 伊乎佐太波佐美 牟可比多知 可奈流麻之都美 伊埿弖登阿我久流
試訓 荒し男(を)のい小矢(をさ)手挟み向ひ立ちかなる汝(まし)罪(つみ)出でてと吾が来る
試訳 荒々しい男の持つ矢を小脇に挟み防人の旅に向かい立ち、そのようなお前の責務と、私が出立して来た。
注意 原文の「可奈流麻之都美」は、標準解釈では「かなる間しづみ」と訓じますが、ここでは特別に訓じます。

集歌4431 佐左賀波乃 佐也久志毛用尓 奈々弁加流 去呂毛尓麻世流 古侶賀波太波毛
訓読 笹が葉のさやぐ霜夜に七重(ななへ)着る衣に増せる子ろが肌はも
私訳 笹の葉が風に騒ぐ霜置く夜に、たくさん着る衣にまして、いとしいお前のあたたかい肌だったようなあ。

集歌4432 佐弁奈弁奴 美許登尓阿礼婆 可奈之伊毛我 多麻久良波奈礼 阿夜尓可奈之毛
訓読 障(さ)へなへぬ命にあれば愛(かな)し妹が手枕(たまくら)離(はな)れあやに悲しも
私訳 拒否できない命令なので、いとしいお前の手枕を離れて、なんとも悲しいことです。
左注 右八首、昔年防人謌矣。主典刑部少録正七位上磐余伊美吉諸君、抄寫贈兵部少輔大伴宿祢家持
注訓 右の八首は、昔年(せきねん)の防人の謌なり。主典(さくわん)刑部(ぎやうぶの)少録(せうろく)正七位上磐余(いはれの)伊美吉(いみき)諸君(もろきみ)、抄寫(ぬきうつ)して兵部少輔大伴宿祢家持に贈れり。

 ここで理解しないといけないのは、この歌八首は防人としての赴任先で女を作り、家庭を持ったことが前提で、その九州で作った女との別れ歌なのです。
 つまり、男とはこういうものです。あっちで「お前が一番」と云い、こっちで「もう、忘れられない」などと云って、土地土地の女性と仲良くなります。
 逆に、防人が故郷を出立する時に詠った別れの歌を100%真に受けたらいけない可能性があります。それは、その場その場の定型の口説き文句なのかもしれません。当然、この別れ歌八首は屯田村で開かれた送別の宴会での儀礼的な歌でなければ、帰って行く防人と残される里の娘との夜の床での会話です。その防人の男は同じことを出発する里でもしていたのです。そのようなものとして、私たちは歌を鑑賞する必要があります。
 当然、防人の男はその場、その場で相手の女がとっても好きだったでしょう。それで誠意をもって付き合い、抱いたでしょうが、ただ、それはその時であって、今ではありません。今は九州の女に後ろ髪を引かれるのです。このような男の態度を関東の女が許すかは判りません。しかしもしこれが現代小説なら最初の別れの場面は偽りかと議論を呼ぶでしょう。

 一首単独で独立して歌を鑑賞するか、複数の歌を一つの塊りとして鑑賞するかでは、歌を詠う男の女への誠実と云うものの捉え方は大きく変わる可能性があります。同じ歌であっても、場合により180度正反対の捉え方が生まれる可能性があります。
 伊藤博氏が唱えた歌群の概念はここで示すように非常に重要です。本ブログは与太話と法螺話だけですが、可能性として、このような方向から鑑賞して見て下さい。
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万葉雑記 色眼鏡 三四六 今週のみそひと歌を振り返る その一六六

2019年11月23日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三四六 今週のみそひと歌を振り返る その一六六

 今週も防人の歌です。歌は信州方面の防人の歌を中心に載せます。先週に続き、地域ごとに歌を紹介しますので、方言について考えてみてください。

集歌4385 由古作枳尓 奈美奈等恵良比 志流敝尓波 古乎等都麻乎等 於枳弖等母枳奴
訓読 行(ゆ)こ先に波なとゑらひ後方(しりへ)には児をと妻をと置きてとも来ぬ
私訳 旅行く先に、波よ、決して立つな、後には児と妻とを置いて、そのままやって来た。
左注 右一首、葛餝郡私部石嶋
注訓 右の一首は、葛餝(かつしかの)郡(こほり)の私部(きさきべの)石嶋(いそしま)
注意 「葛餝郡」は東京、千葉、埼玉の接続する一帯です。

集歌4389 志保不尼乃 敞古祖志良奈美 尓波志久母 於不世他麻保加 於母波弊奈久尓
訓読 潮船(しほふね)の舳(へ)越そ白波にはしくも負ふせたまほか思はへなくに
私訳 潮路を行く船の舳先を越す白波のように、にわかに御命令なされたことよ、思っても見なかったのに。
左注 右一首、印波郡丈部直大麿
注訓 右の一首は、印波(いにはの)郡(こほり)の丈部(はせつかべの)直(あたひ)大麿(おほまろ)
注意 「印波郡」は千葉県印西市から成田市付近です。

集歌4390 牟浪他麻乃 久留尓久枳作之 加多米等之 以母加去々里波 阿用久奈米加母
訓読 群玉(むらたま)の樞(くる)に釘さし堅めとし妹が心は揺(あよ)くなめかも
私訳 たくさんの玉のように、樞戸(くるるど)に釘を打ち挿して固めたような愛しい貴女の固まった気持ちは、揺れ動いているだろう。
左注 右一首、猨島郡刑部志可麿
注訓 右の一首は、猨島(さしまの)郡(こほり)の刑部(おさかべの)志可麿(しかまろ)
注意 「猨島郡」は茨城県古河市です。

集歌4392 阿米都之乃 以都例乃可美乎 以乃良波加 有都久之波々尓 麻多己等刀波牟
訓読 天地のいづれの神を祈らばか愛(うつく)し母にまた言(こと)問(と)はむ
私訳 天と地と、どの神に祈ったら、愛しい母に、また、話が出来るでしょうか。
左注 右一首、埴生郡大伴部麻与佐
注訓 右の一首は、埴生(はにふの)郡(こほり)の大伴部(おおともべの)麻与佐(まよさ)
注意 「埴生郡」は千葉県佐倉市から成田市付近です。

集歌4394 於保伎美能 美己等加之古美 由美乃美仁 佐尼加和多良牟 奈賀氣己乃用乎
訓読 大王(おほきみ)の御言(みこと)畏(かしこ)み弓の身にさ寝か渡らむ長(なが)きこの夜を
私訳 大王のご命令を畏み、弓の身と共に寝つづけるのだろうか、長いこの夜を。
左注 右一首、相馬郡大伴子羊
注訓 右の一首は、相馬(そうまの)郡(こほり)の大伴(おおともの)子羊(こひつじ)
注意 「相馬郡」は茨城県相馬郡飯館村付近です。

集歌4401 可良己呂茂 須曾尓等里都伎 奈苦古良乎 意伎弖曽伎奴也 意母奈之尓志弖
訓読 韓衣裾に取り付き泣く児らを置きてぞ来のや母なしにして
私訳 韓衣の裾に取り付いて泣く子供たちを残してやって来たことだ、母親もいないのに。
左注 右一首、國造小縣郡他田舎人大嶋
注訓 右の一首は、國造(くにのみやつこ)小縣(ちひさがたの)郡(こほり)の他田(をさだの)舎人(とねり)大嶋(おおしま)
注意 「小縣郡」は長野県上田市付近です。

集歌4402 知波夜布留 賀美乃美佐賀尓 奴佐麻都里 伊波負伊能知波 意毛知々我多米
訓読 ちはやぶる神の御坂に幣(ぬさ)奉(まつ)り斎(いは)ふ命(いのち)は母父がため
私訳 神の岩戸を開ける神の宿る御坂に幣を奉献し無事を祈る私の命は、母父のためです。
左注 右一首、主帳埴科郡神人部子忍男
注訓 右の一首は、主帳(しゆちやう)埴科(はにしなの)郡(こほり)の神人部(かむとべの)子忍男(こおしを)
注意 「埴科郡」は長野県埴科市付近です。

集歌4413 麻久良多之 己志尓等里波伎 麻可奈之伎 西呂我馬伎己無 都久乃之良奈久
訓読 真黒(まく)ら太刀(たち)腰に取り佩き真(ま)愛(かな)しき背ろが罷(ま)き来む月の知らなく
私訳 真っ黒な立派な太刀を腰に取り佩き、いとしい私の夫が役務から免除されて帰って来る月は、何時とは知らない。
左注 右一首、上丁那珂郡桧前舎人石前之妻大伴真足女
注訓 右の一首は、上丁(かみつよぼろ)那珂(なかの)郡(こほり)の桧前(ひのくまの)舎人(とねり)石前(いはまえ)の妻大伴(おおともの)真足女(またりめ)
注意 「那珂郡」は埼玉県本庄市付近です。

 非常に馬鹿々々しい話ですが、奈良時代の大和朝廷に属する人たちで、関東平野では多くの百済・伽耶・高句麗系の移民が移り住んでいますが、この人たちは半島での貴族階級や技能階級ではなく農民階級です。貴族階級や技能階級は畿内に留め置かれ中級官僚や官営工房の技官・職人に任命されています。従いまして、場合により百済・伽耶・高句麗系の移民なのですが、東国に居住する渡来人は本来の半島原住の下級階層の人たちかもしれません。その場合、万葉集の東国の方言とは失われたとされる半島の原始朝鮮語と大和言葉とが混ざり合ったものかもしれません。
 一方、防人歌に方言がほとんど見られないのは、和歌による標準語学習成果だけでなく、もともと、大和言葉を使う人たちが渡来人の管理の為に移住させられ、その地の指導者とされたせいかも知れません。

 今週も防人歌にほとんど方言が見られないことからくる全くの与太です。
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万葉雑記 色眼鏡 三四五 今週のみそひと歌を振り返る その一六五

2019年11月16日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三四五 今週のみそひと歌を振り返る その一六五

 今週も防人の歌です。先週が主に駿河国から武蔵国の西側地域でしたが、今週は上総国・下総国から常陸国の地域の人の歌が中心です。
 古代の方言を研究する人は万葉集巻十四の東歌を参考にしますが、不思議にこの巻二十に載る防人の歌は参考にしません。巻二十の防人の歌は出身地域、その人の身分、氏名が明確ですから方言のサンプリングには打って付けのはずです。ただし、困ったことに、巻二十の防人の歌に方言を見つけることが非常に困難です。

集歌4321 可之古伎夜 美許等加我布理 阿須由利也 加曳我牟多祢牟 伊牟奈之尓志弖
訓読 畏(かしこ)きや御言(みこと)被(かがふ)り明日ゆりや草がむた寝む妹なしにして
私訳 畏れ多い御命令を頂いて、明日からは草と共寝するでしょう。愛しい貴女をなしにして。
左注 右一首、國造丁長下郡物部秋持
注訓 右の一首は、國造(くにのみやつこ)丁(よぼろ)長下郡(ながのしものこほり)の物部(もののべの)秋持(あきもち)
注意 「長下郡」は静岡県の天竜川流域です。

集歌4322 和我都麻波 伊多久古比良之 乃牟美豆尓 加其佐倍美曳弖 余尓和須良礼受
訓読 吾(わ)が妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えて世に忘られず
私訳 私の妻はひどく私を恋しがっているようだ、飲む水に妻の面影が見えて、防人として生きていくのに妻が忘れられない。
左注 右一首、主帳丁麁玉郡若倭部身麿
注訓 右の一首は、主帳(しゆちやう)丁(よぼろ)麁玉郡(あらたまのこほり)の若倭部(わかやまとべの)身麿(むまろ)
注意 「麁玉郡」は静岡県浜北市付近です。

集歌4323 等伎騰吉乃 波奈波佐家登母 奈尓須礼曽 波々登布波奈乃 佐吉泥己受祁牟
訓読 時々の花は咲けども何すれぞ母とふ花の咲き出来ずけむ
私訳 時期折々の花は咲くけれど、どうして、母と云う花は咲いて出て来ないのだろうか。
左注 右一首、防人山名郡丈部真麿
注訓 右の一首は、防人(さきもり)山名(やまなの)郡(こほり)の丈部(はせつかべの)真麿(ままろ)
注意 「山名郡」は静岡県袋井市付近です。

集歌4329 夜蘇久尓波 那尓波尓都度比 布奈可射里 安我世武比呂乎 美毛比等母我母
訓読 八十(やそ)国(くに)は難波に集ひ船かざり吾(あ)がせむ日ろを見も人もがも
私訳 多くの国の人々が難波に集合し、その船の整備を私がする、そのような私の日々を見る人がいて欲しい。
左注 右一首、足下郡上丁丹比部國足
注訓 右の一首は、足下郡の上丁(かみつよぼろ)丹比部(たぢひべの)國足(こくたり)
注意 「足下郡」は神奈川県足柄下郡です。

集歌4330 奈尓波都尓 余曽比余曽比弖 氣布能日夜 伊田弖麻可良武 美流波々奈之尓
訓読 難波津(なにはつ)に装(にそ)ひ装(にそ)ひて今日の日や出でて罷らむ見る母なしに
私訳 難波の湊に船を装い装いて、今日の日こそ、出航して去っていく。見送る母を無しにして。
左注 右一首、鎌倉郡上丁丸子連多麿
注訓 右の一首は、鎌倉(かまくらの)郡(こほり)の上丁(かみつよぼろ)丸子(まろこの)連(むらじ)多麿(たまろ)
注意 「鎌倉郡」は神奈川県横浜市から鎌倉市までの一帯です。

集歌4351 多比己呂母 夜倍伎可佐祢弖 伊努礼等母 奈保波太佐牟志 伊母尓阿良祢婆
訓読 旅衣八重(やへ)着(き)重(かさ)ねて寝(い)のれどもなほ肌寒し妹にあらねば
私訳 旅の衣を八重に着重ねて寝ていても、それでも肌寒い、愛しい貴女がそばにいないと。
左注 右一首、望陀郡上下玉作部國忍
注訓 右の一首は、望陀郡(まぐたのこほり)の上下(かみしもの)玉作部(たまつくりべ)國忍(くにおし)
注意 「望陀郡」は千葉県君津市の北部です。

集歌4354 多知許毛乃 多知乃佐和伎尓 阿比美弖之 伊母加己々呂波 和須礼世奴可母
訓読 立薦(たちこも)の立ちの騒きに相見てし妹が心は忘れせぬかも
私訳 立てた薦、その言葉のひびきのような、立ち騒ぎの中に互いに出会った愛しい貴女の気持ちは忘れることが出来ないでしょう。
左注 右一首、長狭郡上丁丈部与呂麿
注訓 右の一首は、長狭郡(ながさのこほり)の上(かみつ)丁(よぼろ)丈部(はせつかべの)与呂麿(よろまろ)
注意 「長狭郡」は千葉県鴨川市付近です。

集歌4364 佐伎牟理尓 多々牟佐和伎尓 伊敝能伊牟何 奈流敞伎己等乎 伊波須伎奴可母
訓読 防人(さきもり)に立たむ騒きに家の妹がなるべきことを云はず来ぬかも
私訳 防人として出立する騒ぎに、家の妻がするべきことを語らないで出発して来たことです。
左注 右二首、茨城郡若舎人部廣足
注訓 右の二首は、茨城郡(うばらきのこほり)の若舎人部(わかとねりべの)廣足(ひろたり)
注意 「茨城郡」は茨城県水戸市付近です。

集歌4368 久自我波々 佐氣久阿利麻弖 志富夫祢尓 麻可知之自奴伎 和波可敝里許牟
訓読 久慈川は幸くあり待て潮船に真楫(まかぢ)繁(しじ)貫(ぬ)き吾(わ)は帰り来む
私訳 久慈川よ、平安なままで待っていなさい。潮に乗ってのぼる船に立派な楫を貫き、私は帰り来る。
左注 右一首、久慈郡丸子部佐壮
注訓 右の一首は、久慈郡(くじのこほり)の丸子部(まるこべの)佐壮(すけを)
注意 「久慈郡」は茨城県常陸太田市付近です。

集歌4376 多妣由伎尓 由久等之良受弖 阿母志々尓 己等麻乎佐受弖 伊麻叙久夜之氣
訓読 旅行きに行くと知らずて母父に言申さずて今ぞ悔しけ
私訳 これほど遠くへの旅行きに行くとは知らないで、母父に出立の挨拶もしなくて、今、悔やまれます。
左注 右一首、寒川郡上丁川上巨老
注訓 右の一首は、寒川(さむかはの)郡(こほり)の上丁(かみつよぼろ)川上巨(かはかみのおほ)老(おゆ)
注意 「寒川郡」は栃木県小山市付近です。

集歌4379 之良奈美乃 与曽流波麻倍尓 和可例奈波 伊刀毛須倍奈美 夜多妣蘇弖布流
訓読 白波の寄そる浜辺に別れなばいともすべなみ八度(やたび)袖振る
私訳 白波の打ち寄せる浜辺に愛しい人と別れたならば、どうしようもないことです。しきりに袖を振る。
左注 右一首、足利郡上丁大舎人部祢麿
注訓 右の一首は、足利(あしかがの)郡(こほり)の上丁(かみつよぼろ)大舎人部(おほとねりべの)祢麿(ねまろ)
注意 「足利郡」は栃木県足利市付近です。

 巻二十の防人歌と巻十四の東歌とで東国地方の方言を語る人はあまりいませんが、防人歌は歌にその身分を示すように、それぞれの里では里長を取るような人たちです。ある種の識字階級ですし奈良の都への上京経験もあるでしょうし、郡司などの任官試験に向けて勉学に励むような階級です。昭和の都市伝説とは違い、奈良時代の郡司は世襲ではなく任官試験に合格した人です。ただ、地域での勉学の機会などを考えれば、当然、地域に勢力を張り資金と権力を持つ旧国造一族が圧倒的に有利です。ただし、幼少時から家庭教師を持ち勉学して任官試験に合格することを世襲とは言いません。
 つまり、官人登用試験に向けて勉学に励んでいる階級は、一字一音で文字化された和歌を通じて都での標準語に慣れていた可能性があります。逆に見ますと、一字一音で文字化された中央で詠われた和歌を勉強すると、必然、標準語の言葉を覚えることになります。そのような人が和歌を詠えば、結果、ほとんど方言を持たない和歌を詠うことになります。

巻十四 東歌での例:
集歌3481 安利伎奴乃 佐恵々々之豆美 伊敝能伊母尓 毛乃伊波受伎尓弖 於毛比具流之母
訓読 あり衣(きぬ)のさゑさゑしづみ家の妹に物言はず来(き)にて思ひ苦しも
私訳 美しい衣を藍染めで藍瓶に沈めるように心が沈み、私の妻である貴女を後に置いたまま声も掛けずに出立して来て、後悔しています。
左注 柿本朝臣人麿歌集中出 見上已説也
注訓 柿本朝臣人麿の歌の集の中に出ず。見ること上にすでに説きぬ

 今回も与太の与太での話です。ただし、地方の中間階級に相当する人たちが和歌を詠うときに、方言の表現がほとんど見られないという状況は、非常に面白いと思います。誰か、御奇特な御方が研究していただくと知的興味に対して大変にうれしいことです。
 与太話ですが、東国の人が詠う歌に対してこのような見方もあります。
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万葉雑記 色眼鏡 三四四 今週のみそひと歌を振り返る その一六四

2019年11月09日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三四四 今週のみそひと歌を振り返る その一六四

 先週の後半から防人の歌に突入しています。万葉集では防人を詠う歌はジャンルとしては有名ですが、その大部分はこの巻二十にあり、一部が巻十四の東歌の中で紹介されています。
 最初に防人についての雑談ですが、おおむね防人の人たちは東国から選抜され、静岡県三島市より東の地域の人は、この三島市の三島神社付近に集結し、朝廷は準備した大船で難波の御津へ渡海します。移動期間中の食料等は支給されます。静岡県三島市より西の地域の人は大船の寄港地となる港に集結し、その大船で難波に向かいます。その畿内の難波の御津で各地からの防人の終結を待って、難波の御津から九州北部、山口県西部、壱岐・対馬などの屯田地に向かい、そこで開拓と防衛の任務に就きます。防人は開拓を主とする屯田兵ですから、任期が終わっても本国に帰国することなく開墾した土地に定着する人も現れます。
 もう一つ、古代では近い血縁関係の人たちが戸籍上では「一家=戸」と集団付けられていて同じ家屋で生活する家庭となる集団と、その単位の概念が違います。庶民の家屋は掘っ立て小屋で、その大きさから4~5人程度の居住空間と推定されていますが、戸籍の一戸は平均で25人ぐらいの集団です。つまり、血縁関係の4~5家族で戸籍上の一戸を形成していたようです。社会制度や戸籍での「一戸」と一家庭とは違う概念・規定ですから、ここを確認しないと防人や運脚の割り当てに対する影響評価が大きく変わります。
 その防人は任期3年で、定員は2000人程度とされ、10戸で1人ぐらいの比率で割り当てられたようです。里の若者の中から20人に1人ぐらいの選抜の雰囲気ですから、防人に選抜されたからと云って悲壮感を持つような話ではありません。里の顔見知りの人たち数人はいますから全くの孤独でもなく、食料・医療・衣服・耕作地は支給です。自費ではありませんから、給与支給の国営訓練所に入所したようなものです。ただし、この防人には郡毎に先々の役所とのやり取りを行うために世話役となる人物が同行しそれぞれの郡の防人たちの世話を焼きます。この世話役は漢字で書かれた指示書などが読め、若い防人たちを管理しますから、中年の里長クラスの人が任命されます。この人たちが万葉集の歌に現れる「國造丁(部隊長級)」、「助丁(副官級)」、「火長(隊長級)」、「帳丁(事務官)」、「上丁(曹長級)」などの肩書を持つ人たちです。この人たちは確実に里に子を産んだ妻・妾や親を残して来ますし、それぞれの里での役務や利権関係を持つ人です。
 立場・立場で人の感情は違いますから、防人とは何かを無視して、最初に「虐げられていた」、「悲惨であった」と結論を付けて鑑賞すると、妙なものになります。それと、地方の農民階級の人が自在に和歌を詠う能力があったかは疑問です。定型の歌や言葉を紡いで歌を詠ったかもしれません。

例一:船の整備を詠う似たような発想の歌:
集歌4329 夜蘇久尓波 那尓波尓都度比 布奈可射里 安我世武比呂乎 美毛比等母我母
訓読 八十(やそ)国(くに)は難波に集ひ船かざり吾(あ)がせむ日ろを見も人もがも
私訳 多くの国の人々が難波に集合し、その船の整備を私がする、そのような私の日々を見る人がいて欲しい。
左注 右一首、足下郡上丁丹比部國足
注訓 右の一首は、足下郡の上丁(かみつよぼろ)丹比部(たぢひべの)國足(こくたり)
注意 「足下郡」は神奈川県足柄下郡です

集歌4330 奈尓波都尓 余曽比余曽比弖 氣布能日夜 伊田弖麻可良武 美流波々奈之尓
訓読 難波津(なにはつ)に装(にそ)ひ装(にそ)ひて今日の日や出でて罷らむ見る母なしに
私訳 難波の湊に船を装い装いて、今日の日こそ、出航して去っていく。見送る母を無しにして。
左注 右一首、鎌倉郡上丁丸子連多麿
注訓 右の一首は、鎌倉(かまくらの)郡(こほり)の上丁(かみつよぼろ)丸子(まろこの)連(むらじ)多麿(たまろ)
注意 「鎌倉郡」は神奈川県横浜市から鎌倉市までの一帯です。


例二:防人の歌と人麻呂歌集との類型+同じ口調の歌
集歌4337 美豆等里乃 多知能已蘇岐尓 父母尓 毛能波須價尓弖 已麻叙久夜志伎
訓読 水鳥の立ちの急ぎに父母に物言はず来にて今ぞ悔しき
私訳 水鳥が旅立つようにあわただしく父母に物も語らずやって来て、今、悔しいことです。
左注 右一首、上丁有度部牛麿
注訓 右の一首は、上丁(かみつよぼろ)有度部(うとべの)牛麿(うしまろ)

集歌503 珠衣乃 狭藍左謂沉 家妹尓 物不語来而 思金津裳
訓読 玉衣(たまきぬ)のさゐさゐしづみ家し妹に物言はず来に思ひかねつも
私訳 美しい衣を藍染めるように藍瓶に沈める、そのように心が沈み、私の妻である貴女を後に置いて声を掛けずに出かけて来てしまって、後悔しています。

集歌3769 奴婆多麻乃 欲流見之君乎 安久流安之多 安波受麻尓之弖 伊麻曽久夜思吉
訓読 ぬばたまの夜(よる)見し君を明くる朝(あした)逢はずまにして今ぞ悔しき
私訳 暗闇の夜の夢に見る貴方を、夜が明ける日中は遠く離れて住んでいるためにお目にかかれないままにして、今はそれが残念です。

 東歌から考えますと、東国の防人を引率するような里長クラスの人々に柿本人麻呂歌集が知られていたことは確実です。それに近々の時代の中央で詠われた歌が加わり、どのように和歌を詠うかは一定の識字階級には知識として広がっていたようです。
 奈良時代、里の識字階級は運脚などの御用で毎年に都と往復しますし、祈年祭などの神事にも大きな郡では祝として出席します。また、3年に1回は防人の御用もあります。現代人が想うより、奈良時代の人たちは中央との交流頻度は高かったと考えます。

 今週も単なる与太話に終始しました。与太話ですから防人の解説も、話半分くらいで受け止めてください。
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万葉雑記 色眼鏡 三四三 今週のみそひと歌を振り返る その一六三

2019年11月02日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三四三 今週のみそひと歌を振り返る その一六三

 今週の鑑賞で集歌4320の左注に「獨憶秋野聊述拙懐作之」という説明文を持つ歌があり、これは集歌4315の歌から集歌4320の歌までの六首を括って紹介するものです。

集歌4320 麻須良男乃 欲妣多天思加婆 左乎之加能 牟奈和氣由加牟 安伎野波疑波良
訓読 大夫(ますらを)の呼び立てしかばさ壮鹿(をしか)の胸別け行かむ秋野萩原
私訳 立派な大夫である私が呼び立てたので、牡鹿が胸で萩の群を分けていくのでしょう、秋の野の萩原を。
左注 右謌六首、兵部少輔大伴宿祢家持、獨憶秋野聊述拙懐作之
注訓 右の謌六首は、兵部(ひょうぶの)少輔(せうふ)大伴宿祢家持の、獨り秋の野を憶(しの)ひて聊(いささ)かに拙き懐(おもひ)を述べて之を作れり

 ここで改めて集歌4315の歌から集歌4319の歌までを紹介します。

集歌4315 宮人乃 蘇泥都氣其呂母 安伎波疑尓 仁保比与呂之伎 多加麻刀能美夜
訓読 宮人の袖付け衣秋萩に色付(にほひ)よろしき高円(たかまど)の宮
私訳 美しい宮人の袖の長い衣が、秋萩の花と競って艶やかな高円の宮殿よ。

集歌4316 多可麻刀能 宮乃須蘇未乃 努都可佐尓 伊麻左家流良武 乎美奈弊之波母
訓読 高円(たかまと)の宮の裾廻(すそみ)の野づかさに今咲けるらむ女郎花(をみなえし)はも
私訳 高円の宮殿のまわりの、野の小高い丘に、今、咲いているでしょう女郎花よ。

集歌4317 秋野尓波 伊麻己曽由可米 母能乃布能 乎等古乎美奈能 波奈尓保比見尓
訓読 秋野には今こそ行かめ物部(もののふ)の男女(をとこをみな)の花色付(にほひ)見に
私訳 秋の野には、今こそ、行きましょう。大宮に仕える男も女もそろって、花が咲き誇る姿を眺めに。

集歌4318 安伎能野尓 都由於弊流波疑乎 多乎良受弖 安多良佐可里乎 須其之弖牟登香
訓読 秋の野に露負へる萩を手折(たお)らずてあたら盛りを裾してむとか
私訳 秋の野に露を帯びた萩を手折ることもしなくて、空しく花の盛りは丘の頂から裾野まで来てしまいました。
注意 原文の「須其之弖牟登香」の「其」は、一般に「具」の誤記として「須具之弖牟登香」と記し「過してむとか」と訓みます。

集歌4319 多可麻刀能 秋野乃宇倍能 安佐疑里尓 都麻欲夫乎之可 伊泥多都良牟可
訓読 高円(たかまと)の秋野の上の朝霧に妻呼ぶ壮(を)鹿(しか)出で立つらむか
私訳 高円の秋の野の上を流れる朝霧に、妻を呼び立てる牡鹿が出で立つのでしょうか。

 歌を鑑賞しますと、この六首の歌群は現在の様子を見ての過去の思い出にふけっているような雰囲気があります。昔の高円の宮での華やかな時代を思い起こして「あの秋の情景」と詠う雰囲気なのです。
 では、大伴家持が詠う高円の宮の時代とは、誰を指すのでしょうか。標準的な古代史では奈良時代中期ですから聖武天皇を考えますが、万葉集では志貴皇子を考えます。そして、高円の宮は現在の白毫寺である志貴皇子の高円の別荘を指すと推定します。
 この歌群が詠われたのが天平勝寳六年です。ここで、本ブログが推定する原万葉集の前半となる「奈弖之故」は天平勝宝七年五月に孝謙天皇へ奉呈されていますから、原万葉集の編纂事業に参画しているなら志貴皇子は外せない人物です。その志貴皇子は霊亀元年九月に亡くなっていますから、時期的にはちょうど家持が歌を詠った季節と皇子の命日とが重なって来ます。
 本ブログとしては、この組歌六首は志貴皇子の命日にちなんだものと考えます。

 簡単な説明となりましたが、このような考え方もあるとして御笑納ください。
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