竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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石川郎女(佐保大伴大家)

2009年10月27日 | 万葉集 雑記
石川郎女(佐保大伴大家)

 佐保大伴大家と云われる石川郎女は、集歌461、517、518、667及び4439の歌に登場します。集歌461の歌は天平七年(735)の歌で、標では大家石川命婦と称しています。

集歌461 留不得 壽尓之在者 敷細乃 家従者出而 雲隠去寸
訓読 留(とど)めえぬ命(いのち)にしあれば敷栲の家ゆは出でて雲(くも)隠(かく)りにき
私訳 留めることのできない命であるので、床を取る家を出て雲の彼方に隠れてしまった。

右、新羅國尼、名曰理願也、遠感王徳歸化聖朝。於時寄住大納言大将軍大伴卿家、既逕數紀焉。惟以天平七年乙亥、忽沈運病、既趣泉界。於是大家石川命婦、依餌藥事徃有間温泉而、不會此喪。但、郎女獨留葬送屍柩既訖。仍作此謌贈入温泉。
注訓 右は、新羅國の尼、名を理願といへるが、遠く王徳に感けて聖朝に歸化せり。時に大納言大将軍大伴卿の家に寄住して、既に數紀を逕りぬ。ここに天平七年乙亥を以つて、忽ちに運病に沈み、既に泉界に趣く。ここに大家石川命婦、餌藥の事に依りて有間の温泉に徃きて、此の喪に會はず。ただ、郎女、獨り留りて屍柩を葬り送ること既に訖りぬ。よりて此の歌を作りて温泉に贈り入れたり。


大納言兼大将軍大伴卿謌一首
標訓 大納言兼大将軍大伴卿謌一首
集歌517 神樹尓毛 手者觸云乎 打細丹 人妻跡云者 不觸物可聞
訓読 神樹(かむき)にも手は触(ふ)るといふを未必(うつたへ)に人妻といへば触れぬものかも
私訳 神罰が下る神樹にも手は触れることが出来るのに、かならずしも、人妻と云うだけで抱かないわけではない。

石川郎女謌一首  即佐保大伴大家也
標訓 石川郎女の歌一首  即ち佐保大伴大家なり。
集歌518 春日野之 山邊道乎 与曽理無 通之君我 不所見許呂香聞
訓読 春日野(かすがの)の山辺(やまへ)の道を恐(おそり)なく通ひし君が見えぬころかも
私訳 春日の野辺の山沿いの道を夜に恐れることなく通ってこられた貴方だったのに、お見えにならないこの頃です。


大伴坂上郎女謌二首
集歌666 不相見者 幾久毛 不有國 幾許吾者 戀乍裳荒鹿
訓読 相見ぬは幾(いく)久(ひ)さにもあらなくに幾許(ここだ)く吾は恋ひつつもあるか
私訳 貴女に逢えない日々がそれほどたったわけでもないが、これほどひどく私は貴女を懐かしんでいるのでしょうか。

集歌667 戀々而 相有物乎 月四有者 夜波隠良武 須臾羽蟻待
訓読 恋ひ恋ひて逢ひたるものを月しあれば夜は隠(かく)らむ須臾(しまし)はあり待て
私訳 ひどく懐かしんで逢ったのですから、遅い月があるので夜の闇は隠れるように月明かりであかるくなるでしょうから、暫しこうして話しながら待ちましょう。

右、大伴坂上郎女之母石川内命婦、与安陪朝臣蟲満之母安曇外命婦、同居姉妹、同氣之親焉。縁此郎女蟲満、相見不踈、相談既密。聊作戯謌以為問答也。
注訓 右の、大伴坂上郎女の母石川内命婦と、安陪朝臣蟲満の母安曇外命婦とは、同居の姉妹にして、同氣の親あり。これによりて郎女と蟲満と、相見ること踈からず、相談ふこと既に密なり。聊か戯れの歌を作りて問答をなせり。


冬日幸于靱負御井之時、内命婦石川朝臣應詔賦雪謌一首  諱曰邑婆
標訓 冬の日に靱負の御井に幸しし時に、内命婦石川朝臣の詔(みことのり)に應へて雪を賦(ふ)せる歌一首  諱を邑婆といふ。
集歌4439 麻都我延乃 都知尓都久麻埿 布流由伎乎 美受弖也伊毛我 許母里乎流良牟
訓読 松が枝の土に着くまで降る雪を見ずてや妹が隠り居るらむ
私訳 松の枝が雪の重みで土に着くほどに降る雪を見たからでしょうか、愛しいお方が部屋に籠っていらっしゃる。

于時水主内親王、寝膳不安、累日不参。因以此日、太上天皇、勅侍嬬等曰、為遣水主内親王賦雪作謌奉獻者。於是諸命婦等不堪作謌。而此石川命婦、獨此謌奏之
右件四首、上総國大掾正六位上大原真人今城、傳誦云尓  (年月未詳)
注訓 時に水主内親王、寝膳安からず、日を累ねて参りたまはず。因りて此の日を以ちて、太上天皇、侍嬬等に勅したまひしく「水主内親王に遣らむために雪を賦みて謌を作りて奉獻れ」とのたまわれり。ここに諸命婦等謌を作り堪へず。しかるに此の石川命婦、獨り此の謌を奏しき。
右の件の四首は、上総國の大掾正六位上大原真人今城、傳へて誦みてしか云ふ。  (年月は未だ詳らかならず)

 最初に最後に紹介した集歌4439の歌は、その序と左注から天平九年(737)頃の冬の歌と推定されます。このとき、内命婦石川朝臣は邑婆と称されているので、四十歳以上の年齢でしょう。日本書紀の天武天皇十三年閏四月の条によると、四十歳以上の女性は髪型や騎乗等について特例扱いされていました。これから類推するに官女において四十歳以上は、「邑婆」と称されたと考えて良いと思われます。
 また、集歌517と518の歌は、大伴安麿との相聞ですが、歌で詠われている地名の「春日野」の名前から奈良の京の時代と思われます。相手の大伴安麿は和銅七年(714)に亡くなっていますので、和銅三年(710)の平城遷都前後の歌でしょうか。その安麿の位は和銅元年(708)に大納言となっていて、集歌517の歌の肩書きに符合します。すると、平城遷都前後の歌で妻問いの対象となる年齢から推定して石川郎女が二十歳前後であったとしますと、天平九年では五十歳位になりますので、立派な「邑婆」です。
 ここらから、石川郎女は、持統四年(690)頃の生まれと思われます。当事、石川一族で大官になった人物には石川石足(六六七年誕生、七二六年死亡)がいて、従三位権参議になっています。石川郎女は、これらから石川石足の娘と思われます。なお、石川一族の娘が、独力で官吏になり出世して五位以上の命婦の尊称である「内命婦」の位から「郎女」と尊称したか、又は、佐保大伴の大家の立場から大伴家持らの一族が、石川女郎を石川郎女と尊称した可能性はあります。

 江戸期から昭和中期までに活躍した歌人では、ここで紹介した石川女郎を一人の女性と解釈するのが本流のようです。そして、江戸の儒教、明治のキリスト教の影響で、男女が親しく歌を詠うことは肉体関係があったと見なします。その結果、一人の女性である複数の石川女郎が多くの男性と相聞歌を交換している姿から、世紀の淫乱と評価します。極め付けとしては、明治時代の売春婦異名集では、この石川女郎は売春婦の代表として紹介されています。つまり、ここで紹介した解釈で石川女郎が複数人存在し、尚且つ、多くの歌が宮中での歌会での歌としますと「江戸期と明治期の文人は、さて、万葉集を読めたのでしょうか」との問題が浮かび上がります。
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石川女郎(大伴皇子宮侍)

2009年10月24日 | 万葉集 雑記
石川女郎(大伴皇子宮侍)

 西本願寺本で「大伴皇子の宮の侍」、普段の目にする万葉集の解説では「大津皇子の宮の侍」とされる石川女郎について、見てみたいと思います。ただし、ここでは西本願寺本を中心に「大伴皇子の宮の侍」の石川女郎を取り上げます。

大伴皇子宮侍石川女郎贈大伴宿祢宿奈麻呂謌一首 女郎字曰山田郎女也。宿奈麻呂宿祢者、大納言兼大将軍卿之第三子也
標訓 大伴皇子の宮の侍(まかたち)石川女郎(いらつめ)の大伴宿祢宿奈麻呂に贈れる歌一首 女郎は字(あざな)を山田の郎女(いらつめ)といへり。宿奈麻呂宿祢は大納言兼大将軍卿の第三子なり。
集歌129 古之 嫗尓為而也 如此許 戀尓将沈 如手童兒
一云、戀乎太尓 忍金手武 多和良波乃如
訓読 古(ふ)りにし嫗(おふな)にしてや如(か)くばかり恋に沈まむ手(た)童(わらは)の如(ごと)
一は云はく、恋をだに忍びかねてむ手(た)童(わらは)の如
私訳 私はもう年老いた婆ですが、このように恋の思い出に心を沈みこませています。まるで、一途な子供みたいに。
或いは、恋の思い出に耐えるのが辛い。まるで、感情をコントロール出来ない子供のように。

 最初に西本願寺本では集歌129の歌の標の「大伴皇子」となっていますが、天治本、元暦校本、類聚古本、紀州本では「大津皇子」となっています。このため、現在の万葉集の解釈では「大津皇子」とするのが一般です。ただし、西本願寺本の「大伴皇子」が正伝としますと、大伴黒主は大友黒主と表記することもありますから、「大伴皇子」が「大友皇子」の当て字として同一人物である可能性は否定できません。すると、集歌129の歌を詠った歌人の身分の解釈に「大友皇子の宮の侍」と「大津皇子の宮の侍」との二つの解釈が有り得ることになります。
 大友皇子の宮の侍の身分と解釈しますと、天智十年(671)頃に十三歳から三十歳の間の年齢の女性になりますし、大津皇子の宮の侍の身分と解釈しますと、朱鳥元年(686)に十三歳から三十歳の間の年齢の女性と推定が出来ます。また、集歌129の歌の標から石川女郎または山田郎女と呼ばれていますから、石川に関係して父親は大夫格で祖父は卿格の蘇我一族と思われます。
 さて、宮中行事で正式に昇殿できる大友皇子の宮の侍の身分(女郎格)で山田郎女ですと、蘇我倉山田石川麿の娘の可能性が大変高くなります。そして、集歌129の歌が大友皇子に対する恋の回想としますと、山田郎女は大友皇子より数歳年下とするのが自然ではないでしょうか。天智十年(671)に大友皇子が二十五歳ですと、山田郎女は大化五年(649)頃の誕生と想定されます。すると、集歌107と集歌108との相聞歌で登場する大津皇子贈石川郎女を倉山田石川麿の娘と推定しましたから、同一人物となります。そして、大津皇子贈石川郎女は、天武十四年頃に大津皇子と宮中での歌会で相聞歌を詠ったと推定しましたから、その同一人物である大友皇子の宮の侍の石川女郎は宮中の女性と推定されます。そこから、石川女郎が歌を贈った宿奈麻呂もまた宮中に出仕していると想定できてきます。大舎人から出仕したとしますと、宿奈麻呂は天武四年(675)前後の誕生と推定されますので、二十一歳となる持統十年(696)年以降の出来事でしょうか。石川女郎がおよそ四十五歳以上となります。天武天皇の天武十三年閏四月の詔では、宮中に勤める女性が四十歳を超えると老嫗と区分され髪型や乗馬方法も特例を許されていますので、石川女郎の推定した年齢や宮中法度との状況を考えると集歌129の歌の「古之嫗」に似合ってきます。
 持統十年七月に壬申の乱を戦った太政大臣にして後皇子尊高市皇子が亡くなられていますから、壬申の乱の当時に大友皇子に仕えた石川女郎に対して、宿奈麻呂が亡くなられた高市皇子を偲ぶ折に当時の事情を生存者たちに聴いたとしたら、大友皇子の宮の侍であった石川女郎が、当時を思い出して集歌129の歌を詠った可能性はあるのではないでしょうか。およそ、二十五年前、少女が女になり大友皇子に恋をして、戦乱に巻き込まれた激動の日々です。その「大友皇子の宮の侍」としての思い出が「恋に沈まむ手童の如」です。
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石川女郎(石川女郎贈大伴宿祢田主)

2009年10月22日 | 万葉集 雑記
石川女郎(石川女郎贈大伴宿祢田主)

 石川女郎(石川女郎贈大伴宿祢田主)について、見てみたいと思います。

石川女郎贈大伴宿祢田主謌一首 即佐保大納言大伴卿第二子 母曰巨勢朝臣也
標訓 石川女郎の大伴宿祢田主に贈れる歌一首 即ち佐保大納言大伴卿の第二子、母を巨勢朝臣といふ
集歌126 遊士跡 吾者聞流乎 屋戸不借 吾乎還利 於曽能風流士
訓読 遊士(みやびを)と吾は聞けるを屋戸(やと)貸さず吾を還せりおその風流士(みやびを)
私訳 風流なお方と私は聞いていましたが、夜遅く忍んで訪ねていった私に、一夜、貴方と泊まる寝屋をも貸すこともしないで、そのまま何もしないで私をお返しになるとは。女の気持ちも知らない鈍感な風流人ですね。

大伴田主字曰仲郎、容姿佳艶風流秀絶。見人聞者靡不歎息也。時有石川女郎、自成雙栖之感、恒悲獨守之難、意欲寄書未逢良信。爰作方便而似賎嫗己提堝子而到寝側、哽音蹄足叩戸諮曰、東隣貧女、将取火来矣。於是仲郎暗裏非識冒隠之形。慮外不堪拘接之計。任念取火、就跡歸去也。明後、女郎既恥自媒之可愧、復恨心契之弗果。因作斯謌以贈諺戯焉。
注訓 大伴田主は字を仲郎といへり。容姿佳艶しく風流秀絶れたり。見る人聞く者の歎息せざるはなし。時に石川女郎といへるもの有り。自ら雙栖の感を成して、恒に獨守の難きを悲しび、意に書を寄せむと欲ひて未だ良信に逢はざりき。ここに方便を作して賎しき嫗に似せて己れ堝子を提げて寝の側に到りて、哽音蹄足して戸を叩き諮りて曰はく、「東の隣の貧しく女、将に火を取らむと来れり」といへり。ここに仲郎暗き裏に冒隠の形を識らず。慮の外に拘接の計りごとに堪へず。念ひのまにまに火を取り、路に就きて歸り去なしめき。明けて後、女郎すでに自媒の愧づべきを恥ぢ、また心の契の果さざるを恨みき。因りてこの謌を作りて謔戯を贈りぬ。

大伴宿祢田主報贈一首
標訓 大伴宿祢田主の報(こた)へ贈れる一首
集歌127 遊士尓 吾者有家里 屋戸不借 令還吾曽 風流士者有
訓読 遊士(みやびを)に吾はありけり屋戸(やと)貸さず還しし吾(わ)れぞ風流士(みやびを)にはある
私訳 風流人ですよ、私は。神話の伊邪那岐命と伊邪那美命との話にあるように、女から男の許を娉うのは悪(あし)ことですよ。だから、女の身で訪ねてきた貴女に一夜の寝屋をも貸さず、貴女に何もしないでそのまま還した私は風流人なのですよ。だから、今、貴女とこうしているではないですか。

同石川女郎更贈大伴田主中郎謌一首
標訓 同じ石川女郎の更に大伴田主中郎に贈れる歌一首
集歌128 吾聞之 耳尓好似 葦若末乃 足痛吾勢 勤多扶倍思
訓読 吾(わ)が聞きし耳に好(よ)く似る葦(あし)末(うれ)の足(あし)痛(う)む吾が背(せ)勤(つと)め給(た)ふべし
私訳 私が聞くと発音がよく似た葦(あし)の末(うれ)と足(あし)を痛(う)れう私の愛しい人よ。神話の伊邪那岐命と伊邪那美命との話にあるように、女から男の許を娉うのは悪(あし)ことであるならば、今こうしているように、風流人の貴方は私の許へもっと頻繁に訪ねて来て、貴方のあの逞しい葦の芽によく似たもので私を何度も何度も愛してください。
右、依中郎足疾、贈此謌問訊也
注訓 右は、中郎の足の疾(やまひ)に依りて、此の歌を贈りて問訊(とぶら)へり。

 最初に、集歌126の左注は漢文で記されていますから、「大伴田主字曰仲郎」の漢語としての綽名である「仲郎」の意味の取り方には二つの解釈があります。一つは、中国の漢魏九品制での官僚制度における「仲郎」は八品官で貴人に仕え雑事を行う人を意味しますから、官に仕えていた場合は大和朝廷での大舎人に相当します。官に仕えていない場合は、中国の字(あざ)の付け方での「長男・次男・三男・四男」を示す「伯・仲・叔・季」の漢字を、綽名に取り入れたとして二男を意味すると考えることも出来ます。なお、集歌128の歌の標では「大伴田主中郎」の表記ですから、諱と字とを同時に表記したのではなく、死没したときの諱と官位を表記したと解釈することができるのではないでしょうか。
 こうしますと、これらの歌が詠われたのは大伴田主が大舎人に相当する二十一から二十五歳の間と考えることが出来ます。そして、集歌126の歌の標では大伴田主は大伴安麻呂の二男と明記していますから、大伴安麻呂の長男旅人(664生まれ)と三男宿奈麿(675生まれ)との間の誕生となります。つまり、歌が詠われたのは天武十四年(685)から文武四年(700)の間のある年になります。もし、田主が宿奈麿の年齢に接近していた場合に、二人を区分するために田主を大舎人の中国官位名称に相当する中郎で呼び、かつ、次男の意味を持たした可能性があるのではないでしょうか。
 ただし、注意しないといけないのは、集歌126の歌の標の「即佐保大納言大伴卿第二子 母曰巨勢朝臣也」の文章は、後年の書き入れですので真実かどうかは不明ですし、大伴田主は万葉集のこの歌以外には、すべての歴史に現れない人物です。さらに、言葉のなぞなぞ遊びで、足の具合が悪い田の主を山田の案山子と云いますが、古代では「山田の曾富騰(そほと)」と云います。そして、同音ですが夜這いに関わる言葉に蕃登(ほと)と云う言葉がありますから、歌と序の文の関係から見て洒落と風流士で「大伴田主」と名前を付けている可能性は否定できません。つまり、これら全文が宮中で楽しまれた虚構の歌物語かもしれません。また、大伴田主は、万葉集のこの歌から系図や容姿等の記事が造られています。万葉集の編者の丹比国人は、非常に洒落気がある人ですので、注意が必要ではないでしょうか。
 さて、肝心の石川女郎ですが、持統天皇の時代に宮中に出仕する「女郎」の称号を有する人物と推定されますし、漢文の序に「方便を作して賎しき嫗に似せて」とありますから、持統天皇の時代に四十歳を超えた女性でしょうか。すると、天智天皇時代に少納言小花下蘇我安麻呂の娘と推定されます。その兄妹になる石川石足は天智六年(667)の生まれですから、石川女郎が姉ですと持統年間後半には四十歳を超えた女性に該当します。父親の蘇我安麻呂は、壬申の乱の年には既に少納言小花下であったと思われますので四十歳は越えているでしょうから、石川石足が生まれた天智六年に既に安麻呂に子がいても不思議ではありません。
 なお、洞院公定等により鎌倉時代頃に出来た系図研究書の尊卑分脈は、当時の文献を丹念に調べ上げた古今最高の系図研究書ですが、それは正伝の系図の正本ではなく、研究書であることが認識の上で重要です。つまり、もし、尊卑分脈で大伴田主について万葉集の記事と一致していても、それはそのままでは採用が出来ません。なぜなら、尊卑分脈で示すその人物像が、万葉集が参照先の可能性があるからです。このような理由から、尊卑分脈の系図を使用する場合、他に二つ以上の対照資料がないと危険な面があります。
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石川女郎(大名児)

2009年10月21日 | 万葉集 雑記
石川女郎(大名児)

 次に、集歌110の歌の標で、「大名児」と紹介される石川女郎について、考えてみたいと思います。こので、集歌109の歌の石川女郎と集歌110の歌の「大名児」と紹介される石川女郎は、仮に同一人物として考えてみます。

大津皇子竊婚石川女郎時、津守連通占露其事、皇子御作謌一首 未詳
標訓 大津皇子の竊(ひそ)かに石川女郎と婚(まぐは)ひし時に、津守連通の其の事を占へ露(あら)はすに、皇子の御作りませる歌一首 未だ詳らかならず。
集歌109 大船之 津守之占尓 将告登波 益為尓知而 我二人宿之
訓読 大船の津守(つもり)が占(うら)に告(の)らむとはまさしに知りて我が二人宿(ね)し
私訳 大船が泊まるという難波の湊の住吉神社の津守の神のお告げに出て人が知るように、貴女の周囲の人が「私が貴女の夫だ」と噂することを確信して、私は愛しい貴女と同衾したのです。

日並皇子尊贈賜石川女郎御謌一首 女郎字曰大名兒也
標訓 日並皇子尊の石川女郎に贈り賜はる御歌一首 女郎の字は大名兒といへり。
集歌110 大名兒 彼方野邊尓 苅草乃 束之間毛 吾忘目八
訓読 大名児(おほなご)を彼方(をちかた)野辺(のへ)に刈る草(かや)の束(つか)の間(あひだ)も吾(われ)忘れめや
私訳 大名児よ。新嘗祭の準備で忙しく遠くの野辺で束草を刈るように、ここのところ逢えないが束の間も私は貴女を忘れることがあるでしょうか。

 この大名児と呼ばれる石川女郎は、集歌109及び集歌110の歌の標に示す「女郎」の表記から五位以上の大夫の格の官僚の娘と想定されます。すると、当時の蘇我(石川)一族の中から、小納言小花下(従五位格)蘇我臣安麻呂の娘との推定ができます。この蘇我安麻呂の一族は、子の石足から石川姓に変わっていて、石川女郎(大名児)は石足の兄妹ではないでしょうか。
 さて、集歌110の標で石川女郎の紹介において、本来は両親と夫しか知らない「字(あざ)の大名兒」の名を記述していることから、万葉集の編者は石川女郎が草壁皇子の妃であったことを連想させています。さらに、編者は、歌の配置から集歌109の歌の石川女郎と集歌110の歌の石川女郎は、同じ人物であることを匂わせています。ただし、あくまでも、万葉集は、集歌109の歌と集歌110の歌の二人の石川女郎は同じ人物とは語っていませんし、石川女郎が草壁皇子の妃であるとも云っていません。だだし、そう読めるように万葉集を編纂してあります。
 また、集歌109の歌の標の「大津皇子竊婚贈石川女郎時、津守連通占露其事・・」に注目すると、石川女郎は集歌129の歌の「大津皇子の宮の侍」の石川女郎ではありません。当たり前ですが、自分の宮殿に仕える女に手を出しても、「竊婚(ひそかに婚ひし)」とはなりません。つまり、自分の宮に仕える「大津皇子の宮の侍」の石川女郎とは別人です。さらに、いくら自分の宮に仕えると云っても、高官の娘は、当然のこと、その身分から皇子の単なる雑用を行うような召使ではありません。性交渉を行い、子を生すことを目的とした関係です。そこから、皇子が夫人や妃として差し出された娘を抱くことは、当たり前のことです。逆にその娘を抱かなければ、その出身氏族との関係は悪化します。つまり、「竊婚(ひそかに婚ひし)」から、大津皇子は恋愛関係(ここでは、明らかに性交渉)を隠さなければいけない女に手を出したことになります。当時、隠す相手としては天武天皇、草壁皇子、又は高市皇子が挙げられますが、年齢や隠すと云いながら皆が知るように振る舞うと云う競争相手の感覚からは、その隠す相手とは草壁皇子と考えられます。万葉集は「草壁皇子の妃を大津皇子が秘かに抱いたと読め」といっていると思います。
 さて、草壁皇子は持統三年(689)に二十七歳(推定662年生れ)で、大津皇子は朱鳥元年(686)に二十四歳(推定662年生れ)で亡くなっています。お互いの愛人であった石川女郎は、皇子との年齢差や両皇子の生まれ年を考慮して数歳年下の娘とすると、天智七年(668)年前後の生まれと推定されます。
 ところで、集歌110の歌の「苅草乃束之間毛」は「刈る草(かや)の束の間も」と訓読みしますが、この景色を「束草(あつかくさ)を刈る」と解釈しますと、天武八年十二月の嘉き稲を、国を挙げて祝った新嘗祭のような祭りの準備の風景になります。そして、集歌109の歌と集歌110の歌が同じ頃に詠われたとしますと、集歌110の歌の「いしかわのおほなご」と同じ名前の歴史で有名なもう一人の「いしかわのおほなご」が現れてきます。もう一人の「いしかわのおほなご」は、漢字表記で「石川媼子」または「蘇我媼子」と記し、藤原不比等の正妻です。そして、天武九年頃、藤原北家の始祖となる藤原総前(房前)を媼子は産んでいます。伝承では、蘇我媼子は蘇我臣連子(むらじこ)の御子で、石川石足の叔母になり、蘇我安麻呂とは兄妹となっています。
 少し妄想ですが、年の同じの義理兄弟で一人の女性を取り合うことはあったかも知れません。が、しかし、その女性が妊娠して、どちらが父親なのか判らないときに、片方が皇太子に任命されたらどうするのでしょうか。数代に渡る私設秘書官の家の適齢の長男に、腹の子を付けてその女性の面倒を見させたのかも知れません。伝説では鎌足が天智天皇の御子を妊娠した鏡王女を貰って生まれたのが不比等です。なお、とぼけた藤原氏の解説書では「媼子」は「娼子」の誤記であるとして、「ふじわらのまさこ」と読むようです。漢語での意味合いでは、媼子は年上の女性ですが、娼子は客を引く歌う女です。藤原不比等の正妻が「娼子」とする鎌倉時代以降の歴史の専門家の解釈は非常にユニークだと思いますし、それに疑問を持たずに日本史を語る勇気に感心します。
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石川郎女(大津皇子贈石川郎女)

2009年10月20日 | 万葉集 雑記
石川郎女(大津皇子贈石川郎女)

集歌107の歌の石川郎女を紹介しますが、万葉集の訓読は普段に目にする解釈とは違います。

大津皇子贈石川郎女御謌一首
標訓 大津皇子の石川郎女に贈れる御歌一首
集歌107 足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沽 山之四附二
訓読 あしひきの山の雌伏(しふく)に妹待つと吾れ立ち沽(こ)ひし山の雌伏に
私訳 葦や檜の生える山の裾野で愛しい貴女を待っている。私が立ち、貴女を手に入れようとしている山の裾野に。

石川郎女奉和謌一首
標訓 石川郎女の和(こた)へ奉れる歌一首
集歌108 吾乎待跡 君之沽計武 足日木能 山之四附二 成益物乎
訓読 吾(わ)を待つと君の沽(こ)ひけむあしひきの山の雌伏(しふく)になりましものを
私訳 私を待っていると貴方が私を手に入れようとする。葦や檜の生える山の裾野に行けましたら良いのですが。

万葉集の女性の表記の研究で、大伴一族の例外を除くと、郎女は三位や卿以上の父親を持つ娘、女郎は五位以上の大夫の父親を持つ娘の階級を意味するとの報告があります。この研究成果を準用しますと、集歌107の歌の標に「郎女」の表記がありますから、石川郎女はその「郎女」の表記から三位以上の大官の娘と推定されます。また、石川の姓と三位以上の大官から推定して、当時としては蘇我倉山田石川麿、その石川麿の弟で太宰率を務めた蘇我臣日向と近江朝廷の左大臣蘇我臣赤兄が対象者になってきます。
さて、歌の内容で集歌107の歌の「吾立所沽」をどのように読むべきでしょうか。普段の万葉集の解説では原文の漢字表記は「沽」ではなく「沾」としますが、ここでは西本願寺本の「沽」の用字で考えます。この「沽」には「代金を払って手に入れる。手に入れるように図る。広める。」の意味合いがありますから、求愛での「沽」の用字では貢の女性と云うより、贈り物を贈って求婚するような雰囲気があります。つまり、階級的には大津皇子と釣り合いが取れる女性の意味合いが見出せますので、大官の娘や天皇家ゆかりの人物と想像出来ます。そして、贈り物を贈って求婚するのでしたら、身分の目線から皇女より大官の娘の感覚でしょうか。
次に、集歌107と集歌108との歌は、男女の恋愛関係での歌でしょうか。集歌108の歌の「山之四附二 成益物乎」の表現で「成」をどのように評価するかが重要ですので、ここでは「御成り」と同じ意味合いに取っています。男歌が「山の裾野で待っていますから来て下さい」と詠うに対して、女歌が「行きたいのですが、事情があって行けません」と答えたと解釈しています。つまり、大津皇子と石川郎女との間には、恋愛感情や恋の行為はありません。二首は恋歌の技巧と思われ、宮中での歌会での歌垣のような相聞歌ではないでしょうか。
この前提で、相聞の歌を詠った相手の大津皇子は、持統称制前紀(686)に二十四歳で処刑されていますから、これらの歌々は天武天皇の時代の歌になります。すると、日本書紀に大津皇子が二十三歳になる天武十四年(685)九月に興味深い宮中行事の記事があります。

原文 辛酉、天皇御大安殿、喚王卿等於殿前、以令博戯。
訓読 辛酉(18日)に、天皇の大安殿に御(おはしま)して、王卿等を殿の前に喚して、以つて博戯せしむ。

この「博戯」の漢語の本来の「勝ち負けを争う遊び」の意味から発展させて「博打」に限定して解釈する向きもありますが、ここは、博打禁止令の下での「博戯」ですから、日本書紀の記事は風流の博戯を意味すると思われます。つまり、文武の技比べがあったと解釈すべきでしょうし、それならば、文人風流人の歌合わせが行われても良いのではないでしょうか。
ここで、大津皇子の正妻は山辺皇女で、この山辺皇女は蘇我赤兄の娘の常陸娘と天智天皇との間の御子ですので、相聞の相手である石川郎女は蘇我倉山田石川麿の娘の可能性が非常に高いのではないでしょうか。その場合、倉山田石川麿の娘での石川郎女は斉明元年(655)年以前の誕生となりますので、天武十四年の時点では石川郎女が三十歳以上、大津皇子が二十三歳となります。
万葉集の歌は、漢語、漢文、漢字を良く知る万葉人によって、漢字を使って表記してあるとすると、普段に目にする万葉仮名表記を前提とする訓読み万葉集とは、違った解釈や世界があります。この集歌107と集歌108との歌はその典型になるようで、普段の訓読み万葉集とは別世界です。
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