竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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万葉雑記 色眼鏡 二〇一 今週のみそひと歌を振り返る その二一

2017年01月28日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二〇一 今週のみそひと歌を振り返る その二一

 今回は組歌のため、一部、次週にも掛かっていますが、歌に付けられた標題を読み込むことで解釈が変わる歌を鑑賞します。

大伴坂上家之大娘報賜大伴宿祢家持謌四首
標訓 大伴坂上家の大娘(おほをとめ)の大伴宿祢家持に報賜(こた)へる謌四首
集歌581 生而有者 見巻毛不知 何如毛 将死与妹常 夢所見鶴
訓読 生きにあらば見まくも知らず何しかも死なむよ妹と夢に見えつる
私訳 貴方が何事もなく元気でいたらそれを知ることもないでしょう。だのにどうして「死ぬほど恋に苦しむ。愛しい貴女よ」と訴える貴方を夢に見たのでしょう。
注意 標の「報賜」の「賜」は、一般に「贈」の誤字とします。

集歌582 大夫毛 如此戀家流乎 幼婦之 戀情尓 比有目八方
訓読 大夫(ますらを)もかく恋ひけるを手弱女(たわやめ)し恋ふる情(こころ)に比(たぐ)ひあらめやも
私訳 立派な男子でもこのように恋い慕うのを、手弱女である私が貴方を恋する気持ちと比べることが出来るでしょうか。

集歌583 月草之 徙安久 念可母 我念人之 事毛告不来
訓読 月草(つきくさ)し移(うつ)ろひやすく念(おも)へかも吾が念(おも)ふ人し事(こと)も告(つ)げ来(こ)ぬ
私訳 露草の色が褪せやすいように、恋する気持ちが褪せたのでしょうか。私が恋い慕う人は、何も便りを寄越しません。

集歌584 春日山 朝立雲之 不居日無 見巻之欲寸 君毛有鴨
訓読 春日山朝立つ雲し居(ゐ)ぬ日なく見まくし欲(ほ)しき君にもあるかも
私訳 春日山に朝立つ雲が居ない日が無いように、毎日、御会いしたいと願う貴方なのでしょう。

 紹介しました歌四首は集歌581の歌に付けられた標題「大伴坂上家之大娘報賜大伴宿祢家持謌四首」から四首組歌として解釈する必要があります。また、歌は天平五年前後のものと思われ、この時、家持十五歳、大娘十歳前後と考えられています。おおむね、家持は袴着の儀式を経た成人(分類では中男相当)で、大娘はまだまだ未成年の早乙女です。
 ここで、歌の注意として説明しましたが、標題の「報賜」は「報贈」の間違いと云う考え方があります。その背景は大娘から家持への相聞歌のやり取りで大娘の身分・立場からすると家持からは下であるはずだから、相応しくないと云うことにあります。単純に標題を読みましたら、そのような結論になるかと思います。
 一方、標題の「報賜」が多くの伝本通りで正しいとしますと、歌の全体の解釈は大きく変わります。まず、「報賜」と云う表記が意味することは、この歌四首が大娘の母親であり、大伴家を束ねる刀自である大伴坂上郎女による代作と云うものです。つまり、大娘に代わり坂上郎女から家持へであれば「報賜」が正しいと云うことになります。まず、万葉集の編集者はこのように解釈しろと云うことで、「報賜」と表記したのでしょう。
 また、「報賜」と云う表現からしますと、最初に家持から大娘への相聞歌の贈呈があり、ここでの四首はその返事と云うことになります。一般に「坂上家之大娘」は「坂上大嬢」と紹介される女性で、この相聞歌を交換したと思われる天平四年から五年ごろはまだ十歳前後ではなかったのではないかと推定されています。つまり、幼い許嫁の大娘への相聞歌の交換であり、最初から家持も坂上郎女も、家持と大娘とで和歌での会話が成り立つとは思ってもいないと思われます。そのためか、集歌582の歌の「幼婦之」と云う表現は的確ではありますが、少し堅く幼い女性が使う言葉としてはどうでしょうか。
 そうしますと、許嫁の大娘が成長し振分髪から結髪へと髪型を始めて変えた時期でのものかも知れませんが、まだまだ幼く夫婦事の出来る裳着までは時間があるような状況でしょうか。その幼子から娘へと変わる時間帯で家持から儀礼として恋歌を贈ったのかもしれません。
 なお、一般的な解釈ではこの四首組歌は「報贈」と云う解釈を前提に家持と大娘とは主体的な男女として相聞歌を交換する関係であり、一度は夫婦関係も成立していたと解釈します。そこから十歳前後婚姻関係の成立、疎遠・離別、十代後半での再度の婚姻関係の成立と二人の関係を解説します。ただこれは大和氏族では裳着以前での性交渉の忌諱と云うものから考えますと、難しい解釈です。

 さて、天平五年前後での家持と大娘との年齢推定からしますと、歌が詠われた時、十五歳ぐらいと十歳ぐらいです。一方、坂上郎女は大伴旅人の死亡(天平三年)以降、大伴家刀自として家持の後見人の立場であり、大娘の実母ですから、坂上郎女は二人の教育を行う立場です。その坂上郎女は女流歌人の第一人者でもありますから、場合により相聞歌四首は歌の教育を兼ねた定型の代作なのかもしれません。
 この見方が成立しますと、歌の内容は 実際の状況や感情には左右されないことになります。すると歌は女性が男性に向け、恋しくて夢に見る、貴方より恋心は優っているほど恋しい、恋の便りをもっと欲しい、毎日でも逢いたいと云う、それぞれの恋のステップに合わせたお手本歌なのかも知れません。歌四首が同時期に詠われ贈られたとしますと、恋の時系列としますと非常に高速な時の流れがありますが、恋の相聞歌のお手本ならば、ちょうどよいものとなります。

 伝統では誤記説を取り入れ「報贈」としますが、原歌通りに「報賜」ですと、このような解釈が成立しますし、坂上大嬢の人物紹介も変わります。当然、ここでのものは権威者が師弟相伝により守って来た学問を侮辱する酔論でありトンデモ論です。ただ、歴史と歌を素直に楽しむと酔論になりますが、世の期待に反し、このようなものを世に曝し、反省する次第です。
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万葉雑記 色眼鏡 二百 今週のみそひと歌を振り返る その二十

2017年01月21日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二百 今週のみそひと歌を振り返る その二十

 今回は日本の歴史がおかしいと云う「イチャモン」がベースとする歌の鑑賞です。つまり、常に益して暴論からの鑑賞と云うものになります。対象は集歌530と集歌531の歌です。

天皇賜海上女王御謌一首  寧樂宮即位天皇也
標訓 天皇(すめらみこと)の海上(うなかみの)女王(おほきみ)に賜へる御謌一首  寧樂宮に即位(あまのしたしらしめ)しし天皇なり
集歌530 赤駒之 越馬柵乃 緘結師 妹情者 疑毛奈思
訓読 赤駒し越ゆる馬柵(うませ)の結(むす)びてし妹し情(こころ)は疑ひも無し
私訳 赤駒が飛び越えてしまう馬柵のようにしっかり契りを結んだ愛しい貴女の気持ちを疑うこのはありません。

海上王奉和謌一首  志貴皇子之女也
標訓 海上王(うなかみのおほきみ)の和(こた)へ奉(たてまつ)れる謌一首  志貴皇子の女(むすめ)なり
集歌531 梓弓 爪引夜音之 遠音尓毛 君之御幸乎 聞之好毛
訓読 梓弓(あずさゆみ)爪引(つまひ)く夜音(よと)し遠音(とほね)にも君し御幸(みゆき)を聞かくし好(よ)しも
私訳 梓弓を爪弾く夜中の弦音が遠くに響いて来るように、その言葉の響ではありませんが、夜に妻引くと大君の御出座しの噂を聞くのは嬉しいことです。

 一般的な解説では集歌530の歌に付けられた標題の「天皇賜海上女王御謌」の天皇は聖武天皇を示すとされます。今回はここに「イチャモン」を付けます。誰がそのようなことを云いだしたのでしょうか、また、どのような根拠で聖武天皇説が信じられたのでしょうか。まず、正史の記事からしますと聖武天皇説を導き出すことが難しいことは明らかですが、実に不思議です。なお、標題で本文と補筆註釈が同時期に同一人物によって付けられていないことは「難波天皇妹奉上在山跡皇兄御謌一首」などの漢文章との比較からも明らかです。つまり、「天皇賜海上女王御謌一首  寧樂宮即位天皇也」と云う標題において「天皇賜海上女王御謌一首」が元々の標題で、「寧樂宮即位天皇也」は後年の写本時の補筆と考えるべき事柄になります。
 また、集歌530の歌と集歌531の歌とが相聞関係にありますと、「夜音之遠音尓毛 君之御幸乎」と云う表現から、海上王は天皇の宮に住む女性=妃・夫人であったと推定されます。歌が記録されていることから天皇臨席の何らかの複数の人々が集う私的な宴席でのものですが、同時に歌からは同じ敷地内で宮を独立的に持つような女性であったと推定することが可能です。そのような関係を前提にする必要があります。

 さて、続日本紀の神亀元年(七二四)二月丙申(六)の記事に「授三品田形内親王・吉備内親王並二品、従四位下海上女王・智奴女王・藤原朝臣長娥子並従三位、正四位下山形女王正四位上」と云うものがあります。一方、この二日前には神亀元年(七二四)二月甲午(四)の記事に「二月甲午。受禅即位於大極殿」と云うものもあります。つまり、二月丙申(二月六日)の記事は新しい天皇即位に伴う女人叙位の記事です。
 こうした時、この六日に叙位された人物を確認しますと、筆頭の田形内親王は大蕤娘を母とする天武天皇の皇女です。次の吉備内親王は草壁皇子の御子で長屋王の正妻ですし、五人目の藤原朝臣長娥子は藤原不比等の御子で長屋王の夫人ですし、最後の山形女王は長屋王の実の妹です。そして、この長娥子には山背王、安宿王、黄文王、教勝たち 御子がいます。また、智奴女王は長屋王の妻女で円方女王の母とし、御子円方女王は続日本紀の宝亀五年(七七四)十二月丁亥の記事には「正三位円方女王薨。平城朝左大臣従一位長屋王之女也」とあり、明確に長屋王の娘とされています。つまり、正史から当時生存していた唯一の人と思われる天武天皇の御子田形内親王を除けば、ほぼ、長屋王の妻たちですから、およそ、六日の記事は長屋王の妃や夫人に対する叙位と思われます。従いまして、その間に挟まれて紹介される海上女王は長屋王の夫人格の妻女であったと推定するのが理屈ではないでしょうか。ここに突然に聖武天皇の妻としてただ一人叙勲される可能性はあるでしょうか。
 これは待ったくに従来の万葉集での解釈とは違います。標準的には海上女王は聖武天皇の夫人と解釈されています。ただし、その根拠は万葉集の集歌530の歌に付けられた標題「天皇賜海上女王御謌一首」に、後年 付記された「寧樂宮即位天皇也」を聖武天皇と推定した時だけに得られるものです。万葉集では「天璽国押開豊桜彦天皇」と云う諱でも、「藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇」のような紹介でもありません。後年に付記を行った人は「寧樂宮御宇天皇」は元明天皇であり、「寧樂宮御宇大行天皇」は元正天皇となると考えたのかもしれません。しかしながら、複数の「寧樂宮即位天皇也」で男帝は聖武天皇だけだから、歌から男歌は明白であるのでそれで十分と考えたかもしれません。ただそれは万葉集本来の天皇敬称表記ではありません。
 いつものことですが、平安時代最末期から鎌倉時代初期に解釈された万葉集読解をそのままに受け継いだのでは科学を前提とした近代文学とはなりません。批判や疑問を提唱し、歴史を分析し組み立てる必要があります。「天皇賜海上女王御謌一首」の標題で天皇を聖武天皇と解釈する場合、志貴皇子の御子海上女王は長屋王の夫人格の妻女と推定するのが論理的だとしますと、次の二案について検討する必要があります。

一案:長屋王の変の後、聖武天皇は長屋王の夫人海上女王を自分の宮に入れ、妻とした。
二案:志貴皇子の御子海上女王とは別の海上女王が同時期に存在し、集歌531の歌の補筆は同一人物名から混同が生じた。

 ただし、聖武天皇の妻子は藤原氏系か、身分の低い地方豪族出身が中心です。志貴皇子の御子海上女王を室に入れますと、出身身分の上下関係から光明子(安宿媛)は皇后位には就けません。つまり、実務上、あり得ないことになります。肝心の藤原氏の方針からも聖武天皇に藤原一族の身分を越える皇族との姻戚があってはいけないのです。
 次に二案の同名別人説もまた現実離れの話です。志貴皇子の御子海上女王よりも身分が高くなければ、まず、尊称である「海上女王」と云う名称は使えません。つまり、この案の可能性もまずありません。かように集歌530の歌に付けられた標題「天皇賜海上女王御謌一首」での天皇を聖武天皇と解釈することは困難なのです。ではこの天皇は誰かと云いますと続日本紀では「藤原宮天下所知美麻斯父坐天皇美麻斯」と云う人物です。つまり、弊ブログでは「太政大臣長屋親王=長屋大王」と考えています。

 弊ブログで何度も指摘していますが、奈良時代の歴史を常識と論理で解釈することは日本史や日本古典では忌諱です。師弟関係の流れで決まった事項を一般の人々に向けて提示されたら、それを無謬性の下、拝受するのが決まりです。
 従いまして、今回、示したことは「適切」ではありません。酔論であり、トンデモ論です。今回も反省する次第です。なお、当然、奈良時代の歴史を常識と論理で解釈すると歴史観は変わるはずです。

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万葉雑記 色眼鏡 百九九 今週のみそひと歌を振り返る その十九

2017年01月14日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百九九 今週のみそひと歌を振り返る その十九

 今回、鑑賞しました歌の中に七夕の宴で詠われた歌があります。それが集歌522の歌から集歌529の歌までです。なお、集歌529の歌は旋頭歌で他の歌と趣が違います。その関係で歌は「和謌四首」に含まれますが、別途、「又大伴坂上郎女謌一首」と云う標題で独立した扱いになっています。

京職藤原大夫贈大伴郎女謌三首  卿諱曰麿也
標訓 京職、藤原大夫の大伴郎女に贈れる歌三首  
補訓 卿の諱(いみな)を麿というなり
集歌522 感嬬等之 珠篋有 玉櫛乃 神家武毛 妹尓阿波受有者 (感は、女+感)
訓読 宮女(をとめ)らし珠篋(たまくしげ)なる玉櫛(たまくし)の神さびけむも妹に逢はずあれば
私訳 宮女たちが美しい箱に入れて大切にしている櫛が美しい娘女の髪(かみ)に相応しいように、私はまるで恋人に逢えない天上の彦星のような神(かみ)めいてしまったのだろうか、貴女に逢わないでいると。

集歌523 好渡 人者年母 有云乎 何時間曽毛 吾戀尓来
訓読 よく渡る人は年にもあり云ふを何時(いつ)し間(ま)そも吾が恋ひにける
私訳 上手に川を渡る彦星は年に一度は恋人と逢うことがあると云うらしい、そんな彦星と織姫が逢う、そのようなわずかな間だけだったなのに、私は貴女に恋をしている

集歌524 蒸被 奈胡也我下丹 雖臥 与妹不宿者 肌之寒霜
訓読 むし衾(ふすま)和(な)ごやが下に臥(ふ)せれども妹とし寝(ゐ)ねば肌し寒しも
私訳 日頃、体を暖かく蒸すような、貴女と云うような「名兒」の言葉(「な児が下=貴女が下」から正常位を意味します)、その名のような柔らかな寝具を被って寝ているけれど、貴女と共寝が出来ないので肌寒いことです。

大伴郎女和謌四首
標訓 大伴郎女の和(こた)へたる歌四首
集歌525 狭穂河乃 小石踐渡 夜干玉之 黒馬之来夜者 年尓母有粳
訓読 佐保川(さほかわ)の小石(こいし)踏み渡りぬばたまし黒馬(くろま)し来る夜は年にもあらぬか
私訳 佐保川の小石を踏み渡って、七夕馬を祭る七夕の、その七夕の暗闇の中を漆黒の馬が来る夜のように、貴方が私を尋ねる夜は年に一度はあってほしいものです

集歌526 千鳥鳴 佐保乃河瀬之 小浪 止時毛無 吾戀者
訓読 千鳥鳴く佐保(さほ)の川瀬しさざれ波止む時も無み吾が恋ふらくは
私訳 千鳥が鳴く佐保の川の瀬の小波が止むこともない、私の恋のように

集歌527 将来云毛 不来時有乎 不来云乎 将来常者不待 不来云物乎
訓読 来(こ)む云ふも来(こ)ぬ時あるを来(こ)じ云ふを来(こ)むとは待たじ来(こ)じ云ふものを
私訳 私の許に来ると云っても来ないときがあるのに、私の許に来ないと云うのを来るだろうと貴方を待ちません、私の許に来ないと云われるのに
左注 右、郎女者、佐保大納言卿之女也。初嫁一品穂積皇子、被寵無儔。而皇子薨之後時、藤原麿大夫娉之郎女焉。郎女、家於坂上里。仍族氏号曰坂上郎女也。
注訓 右の、郎女(いらつめ)は、佐保大納言卿の女(むすめ)なり。初め一品穂積皇子に嫁(とつ)ぎ、寵(うつくし)びを被むること儔(たぐひ)なかりき。皇子の薨(みまか)りしし後に藤原麿大夫、郎女を娉(よば)へし。郎女は、坂上の里に家(す)む。その族氏(うから)号(なづ)けて坂上郎女といへり。

又大伴坂上郎女謌一首
標訓 又、大伴坂上郎女の謌一首
集歌529 佐保河乃 涯之官能 小歴木莫苅焉 在乍毛 張之来者 立隠金
訓読 佐保川(さほかわ)の岸しつかさの柴な刈りそね 在(あ)りつつも春し来(き)たらば立ち隠(かく)るがね
私訳 佐保川の岸の高みの柴を刈らないで、そのままにして春がやって来たら、その柴に二人で隠れるように。

 これらの歌は、一見、七夕の歌とは思えませんが七夕の歌です。それも天武天皇の時代頃に紹介された中国の乞巧奠(きっこうでん)からの七夕の宴と云う色合いよりも、一つ前の時代に呉方面から紹介されたと思われる棚機女(たなばたつめ)を祝う祭の色合い濃い宴です。その棚機女の祭では天降りした神が乗る七夕馬を薦や藁で作り飾ると云う風習があります。その風習を踏まえたものが集歌525の歌で詠う「夜干玉之 黒馬之来夜者 年尓母有粳」です。この歌から藤原麻呂と大伴郎女とが棚機女を祝う宴で歌を交わしていると云うことが判るのです。およそ、表面的には男女が詠う相聞歌のようですが、実際は室内の宴会で行われた歌垣歌のような問答歌です。
 これを踏まえますと、集歌529の歌が集団歌とも称される旋頭歌であることが重要なのでしょう。歌が宴会での歌垣歌ですと独詠の問答の後に集団での踏歌として集歌529の旋頭歌が詠われたと思われます。
 ここを間違えると鎌倉時代以降の「トンデモ解釈」に繋がります。例えば、集歌527の歌に付けられた左注に「藤原麿大夫娉之郎女焉」と云う文章がありますが、これは平安時代になって棚機女の祭の風習から乞巧奠からの七夕の宴と云うものへ変化したあと、歌の内容が理解できなくなった人たちにより付けられたものです。それに万葉集の標題での「娉」と云う漢字の用法とこの左注での漢字の用法は違います。一般に標題での「娉」は「聘」の丁寧語の用法ですが、この左注での用法は「呼び逢う」です。まったくに奈良時代の漢字の用法が判っていません。万葉集は漢語と万葉仮名と称される漢字だけで表記されていますが、その漢語や漢字の解釈は隋唐時代のものに従います。現代日本語での漢字解釈でもありませんし、平安中期以降の大陸から切り離されて生まれた日本語を基準とする和製漢語でもありません。従いまして、集歌527の歌の左注は「右、郎女者、佐保大納言卿之女也。初嫁一品穂積皇子」までは信用出来る記事かも知れませんが、それ以降の記事は創作・想像の記事です。従って、これを使うことは出来ません。
 ここまでは、平成の時代では一直線です。もう、師弟間口伝・板書を重視する昭和時代ではありません。

 少し。
 これらの歌が宴会での歌垣歌であり、相聞問答歌としますと、歌の内容が当時に知られていた棚機女や七夕馬の物語を示しますし、当時に七夕の宴の様子を示すことになります。
 では、歌は男歌三首、女歌三首に女側の旋頭歌一首の順に詠われたのでしょうか。それとも男歌、女歌とそれぞれ一首ずつ交互に詠い、最後に女側の旋頭歌一首で閉めたのでしょうか。宴会での歌垣歌風な感覚で解釈しますと、次のようなものとなり、その時の歌の接続は<>の中で示したテーマでしょうか。歌垣歌が相手の歌の内容や詞から歌を紡いで詠い継ぐものとしますと、それなりのものが歌中に見つかります。

<男歌:テーマ「神」>
集歌522 感嬬等之 珠篋有 玉櫛乃 神家武毛 妹尓阿波受有者
訓読 宮女(をとめ)らし珠篋(たまくしげ)なる玉櫛(たまくし)の神さびけむも妹に逢はずあれば
私訳 宮女たちが美しい箱に入れて大切にしている櫛が美しい娘女の髪(かみ)に相応しいように、私はまるで恋人に逢えない天上の彦星のような神(かみ)めいてしまったのだろうか、貴女に逢わないでいると。

<女歌:テーマ「神家武毛」から神の乗り物である「夜干玉之 黒馬」>
集歌525 狭穂河乃 小石踐渡 夜干玉之 黒馬之来夜者 年尓母有粳
訓読 佐保川(さほかわ)の小石(こいし)踏み渡りぬばたまし黒馬(くろま)し来る夜は年にもあらぬか
私訳 佐保川の小石を踏み渡って、七夕馬を祭る七夕の、その七夕の暗闇の中を漆黒の馬が来る夜のように、貴方が私を尋ねる夜は年に一度はあってほしいものです

<男歌:テーマ「狭穂河乃 小石踐渡」から「好渡」>
集歌523 好渡 人者年母 有云乎 何時間曽毛 吾戀尓来
訓読 よく渡る人は年にもあり云ふを何時(いつ)し間(ま)そも吾が恋ひにける
私訳 上手に川を渡る彦星は年に一度は恋人と逢うことがあると云うらしい、そんな彦星と織姫が逢う、そのようなわずかな間だけだったなのに、私は貴女に恋をしている

<女歌:テーマ「何時間」に対し「止時毛無」>
集歌526 千鳥鳴 佐保乃河瀬之 小浪 止時毛無 吾戀者
訓読 千鳥鳴く佐保(さほ)の川瀬しさざれ波止む時も無み吾が恋ふらくは
私訳 千鳥が鳴く佐保の川の瀬の小波が止むこともない、私の恋のように

<男歌:テーマ「吾戀」から「与妹不宿」>
集歌524 蒸被 奈胡也我下丹 雖臥 与妹不宿者 肌之寒霜
訓読 むし衾(ふすま)和(な)ごやが下に臥(ふ)せれども妹とし寝(ゐ)ねば肌し寒しも
私訳 日頃、体を暖かく蒸すような、貴女と云うような「名兒」の言葉(「な児が下=貴女が下」から正常位を意味します)、その名のような柔らかな寝具を被って寝ているけれど、貴女と共寝が出来ないので肌寒いことです。

<女歌:テーマ「与妹不宿」から「不来」>
集歌527 将来云毛 不来時有乎 不来云乎 将来常者不待 不来云物乎
訓読 来(こ)む云ふも来(こ)ぬ時あるを来(こ)じ云ふを来(こ)むとは待たじ来(こ)じ云ふものを
私訳 私の許に来ると云っても来ないときがあるのに、私の許に来ないと云うのを来るだろうと貴方を待ちません、私の許に来ないと云われるのに

<女側集団歌:旋頭歌>
集歌529 佐保河乃 涯之官能 小歴木莫苅焉 在乍毛 張之来者 立隠金
訓読 佐保川(さほかわ)の岸しつかさの柴な刈りそね 在(あ)りつつも春し来(き)たらば立ち隠(かく)るがね
私訳 佐保川の岸の高みの柴を刈らないで、そのままにして春がやって来たら、その柴に二人で隠れるように。


 終わりに、歌は養老六年(722)から神亀四年(727)の間での出来事で、ある年の旧暦七月七日の七夕の宴でのものです。現代の八月上旬での屋敷内での宴会ですから、相当に蒸し暑かったと思います。それが集歌524の歌の「蒸被」でしょうし、蚊除けのかがり火(蚊遣り火・蚊火屋)の言葉の響きに近い「奈胡也我下(なごやがした)」と云う表現も使ったのでしょう。蒸し暑い夕暮れ、蚊火屋を焚く状況に対し、「肌之寒霜」の遊びです。その遊びに対して、集歌527の「来」と云う漢字を使った遊び歌です。

 取り止めも無い話になりましたが、歌の楽しみ方を了解下さい。その時、「藤原麿大夫娉之郎女焉」と云う推測は大笑いです。

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万葉雑記 「万葉集難訓歌 一三〇〇年の謎を解く(上野正彦)」を読む

2017年01月08日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 「万葉集難訓歌 一三〇〇年の謎を解く(上野正彦)」を読む

 弊ブログに上野正彦氏より表記の出版についてご紹介がありました。その後、アマゾンから『万葉集難訓歌 一三〇〇年の謎を解く』(以下、「一三〇〇年の謎を解く」)を、やっと、購読することが出来ましたので、この有意義な著書を紹介させて頂きます。
 著書「一三〇〇年の謎を解く」は、一般な万葉集解説書で扱われる難訓歌や未定訓歌だけでなく、万葉集全歌の中で既に定訓が得られているとされるものについても、上野正彦氏は原歌から再検討され、疑義を持ったものに対して上野氏の見解とその訓じを示されています。つまり、万葉集全歌を網羅した訓じの再点検の位置にあります。そのため、専門研究書ではない啓蒙書の位置にある図書ですが五百頁を越える大部な書籍となっています。
 内容としまして、目次を紹介しますと次のようなものになっています。(なお、巻末付属資料については省略しています)

はじめに
凡例
第一部 難訓歌
誤った先入観がもたらした難訓歌 六首
訓解に語学以外の知識を必要とする難訓歌 八首
唱詠歌と表記歌の乖離による難訓歌 三首
これぞ超難訓歌 三首
異なる原文があることによる難訓歌 三首
歌の情況把握ができないことによる難訓歌 六首
語彙の理解不足に起因する難訓歌 九首
第二部 定訓歌に見られる誤訓(準難訓歌)
詠まれている事象を誤解した誤訓 七首
意図的な誤訓 六首
誤字説がもたらした誤訓 九首
原文の誤記から生まれた誤訓 四首
一字一音表記の歌における誤訓 四首
第三部 真相に迫る新解釈(補追)
万葉歌の再発見 四首
弓削皇子に関する歌の謎 三首

 紹介します「一三〇〇年の謎を解く」では、校本万葉集などで現在も訓じが得られていない難訓歌(ここでは超難訓歌)や有力な訓じが複数存在し決着が得られていない未定訓歌だけでなく、校本万葉集で定訓が得られているものについても再検討をなされています。見方によっては現在の万葉集読解への批判書的なポジションを持つものです。つまり、標準的な校本万葉集での「漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された歌を漢字交じり平仮名表記の歌へと翻訳し、それをこのように鑑賞しろ」と与えられているものへの批判があります。与えられたその漢字交じり平仮名表記の歌への翻訳は正しいのですかと云うことです。従いまして、上野氏の提示する新しい訓じが正しいか、否かと云う問題とは別に、著書は万葉集読解での現在の標準的な立ち位置を認識させられる面では特別 有意義なものがあります。
 かように紹介しましたが、上野正彦氏は角川文芸などから多数の著書を出版され、また、この「一三〇〇年の謎を解く」は大著であり、本著書は出版社「学芸みらい社」の多いなる支援を得て出版されたものと推定され、万葉集難訓歌の試案提示としては王道なものです。著書は3800円+税金と比較的高価なものではありますが、お手にされる価値はあると考えます。追記して、インターネット検索では法医学者上野正彦氏の出版物と区分するため、「上野正彦 万葉集難訓歌」で検索されることを推薦致します。
 なお、素人的な感想として、著書は読み易い文体と構成となっていますが、上野氏の豊富な学識から為され、また扱う未定訓歌の分量と紙面からの制限からか、旧来の訓読との論点整理や問題点確認は、一種、既知のような場面もあります。さらに、内実は事前に万葉集訓読方法への基礎知識や訓読経験を求める内容の濃いものです。少なくとも、阿蘇瑞枝氏が再発見した万葉集歌の表記分類や万葉仮名の文字と発音問題、時代における古音(秦漢音)・呉音・漢音(隋唐音)・唐音(宋音)・現代音などの発音相違問題、さらに奈良貴族が用いた隋唐以前のものと平安時代中期以降での漢字や漢語の意味解釈とその相違問題などを理解している必要があります。そのため、本著書とは別な難訓歌の啓蒙書、例えば『万葉難訓歌の研究』(間宮厚司 法政大学出版局、2001)などと併読されることを推薦致します。また、インターネットではこの種の未定訓歌を含む解説としてHP河童老「万葉集を訓む」などがあります。

 最後に上野氏の提示する新しい訓じについて触れますと、弊ブログは近々の難訓歌読解の啓蒙書である『万葉難訓歌の研究』よりも、同種の『万葉難訓歌の解読-「新用字法」の提唱を中心に』(永井津記夫 和泉選書、1993)を好みとする立場です。そのため、未定訓歌に対する訓読手法やその読解について王道を行く上野氏とは別な考えを持っています。例えば、巻十六 巻末の「怕物謌三首」と云う標題を持つ歌番号三八八七から歌番号三八八九までの三首を、弊ブログでは全てを上野氏基準での「詠まれている事象を誤解した誤訓」または「これぞ超難訓歌」に分類をしております。結果、歌番号三八八九の一首を特に注目する上野氏のものとは、訓じも解釈もまったくに違うものになっています。まず、標題の「怕物」と云う言葉の対象物と解釈からしてまったくに違います。
 さらに弊ブログは西本願寺本万葉集の原歌を鑑賞するのが目的で、他の伝本での歌表記や予定された解釈から生まれた誤記論などは預かり知らない世界です。益して、以下に示しますように標準的な万葉集歌の鑑賞からしますと、弊ブログの鑑賞態度は相当に違うものがあります。他方、上野氏の万葉集歌の鑑賞態度は王道の鑑賞です。このまったくに違う鑑賞態度からしますと未定訓歌の読解手法や目的にも多大な影響があると考えます。従いまして、弊ブログで未定訓歌に対する読解の啓蒙書である「一三〇〇年の謎を解く」へコメントすることは不適切と考えております。
 ここで紹介するものは歌に言葉遊びを認め、「漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された歌」ですが、歌に掛詞技法を見出した鑑賞となっています。かような可能性を認めて、歌を、その推定する万葉集編集態度に沿って鑑賞するために、鑑賞の過程として未定訓歌に訓じを与えています。弊ブログでの訓じは万葉集と云う歌物語を歴史の中で楽しむためのものです。

湯原王贈娘子謌二首  志貴皇子之子也
標訓 湯原王の娘子(をとめ)に贈れる謌二首  志貴皇子の子なり
集歌631 宇波弊無 物可聞人者 然許 遠家路乎 令還念者
訓読 表辺(うはへ)無きものかも人は然(しか)ばかり遠き家路(いへぢ)を還(かへ)す念(おも)へば
私訳 愛想もないのだろうか。あの人は。このように遠い家路を帰してしまうとは。
<別解釈>
試訓 上辺(うはへ)無き物聞きし人は然(しか)しこそ遠き家路(いへぢ)を還(かへ)しむ念(も)へば
私訳 話の初めも終わりも聞かないような野暮な人は、だからこそ、遠い道をはるばるやって来たのに逢いもせずに帰そうとするのを思うと。(=歌の表と裏とが判らない野暮な人は気付かずに歌を放置する)

集歌632 目二破見而 手二破不所取 月内之 楓如 妹乎奈何責
訓読 目には見に手には取らえぬ月内(つきなか)し楓(かつら)しごとき妹をいかにせむ
私訳 目には見ることが出来ても取ることが出来ない月の中にある桂(=金木犀)の故事(=嫦娥)のような美しい貴女をどのようにしましょう。
<別解釈>
試訓 目には見に手には取らえぬ月内(つきなか)し楓(かつら)しごとき妹を啼かせむ
私訳 目には見ることが出来ても取ることが出来ない月の中にある桂の故事、その嫦娥のような美しい貴女を閨で抱き臥し、玉のような夜声を上げさせましょう。

娘子報贈謌二首
標訓 娘子の報(こた)へ贈れる謌二首
集歌633 幾許 思異目鴨 敷細之 枕片去 夢所見来之
訓読 幾許(ここだく)も思ひけめかも敷栲し枕(まくら)片(かた)去る夢そ見えける
私訳 しきりに恋いこがれていたからでしょうか。栲を敷いた床の枕が一つではなく、貴方との二つになる、そのような情景が夢に見えました。
<別解釈>
試訓 幾許(ここだく)も思ひ異めかも敷栲し枕(まくら)片(かた)去る夢そ見えける
試訳 まぁ、どうしたことでしょう。貴方と想いが違っていたようです。私には貴方が私の閨からお帰りになる姿を夢の中に見ましたが。

集歌634 家二四手 雖見不飽乎 草枕 客毛妻与 有之乏左
訓読 家にして見れど飽かぬを草枕旅しも妻(つま)とあるし乏(とも)しさ
私訳 我が家でお逢ひしても、私はいつも飽き足りませんのに、旅にまでも奥様と一緒とは、そのような関係がうらやましい。
<別解釈>
試訓 家にして見れど飽かぬを草枕度(たび)しも端(つま)とあるし乏(とも)しさ
試訳 屋敷の中に居て眺めていても飽きることのないその満月を、遠くからやって来て何度も軒先から眺めるとはうらやましいことです。

湯原王亦贈謌二首
標訓 湯原王のまた贈れる謌二首
集歌635 草枕 客者嬬者 雖率有 匣内之 珠社所念
訓読 草枕旅には妻は率(ゐ)たれども匣(くしげ)し内し珠こそ念(おも)ふ
私訳 草を枕の旅に妻を連れてはいるが、宝物を納める箱の中の珠をこそ大切と思います。
<別解釈>
試訓 草枕旅には妻は率(ゐ)たれども奇(く)しけしうちし偶(たま)こそ念(おも)ふ
試訳 確かに草を枕にするような苦しい旅に妻を連れていきましたが、それは特別なことで、偶然なことですよ。

集歌636 余衣 形見尓奉 布細之 枕不離 巻而左宿座
訓読 余(あ)が衣(ころも)形見に奉(まつ)る敷栲し枕し放(さ)けず纏(ま)きにさ寝(ね)ませ
私訳 私を偲ぶ衣をさし上げましょう。貴女の床の枕もとに離さず身に着けておやすみなさい。
<別解釈>
試訓 余(あ)が衣(ころも)形見に奉(まつ)る布細(くは)し枕し放(さ)けず巻(ま)きにさねませ
私訳 私の衣を想い出として差し上げましょう。その衣の布は美しいので木枕の飾りに使って下さい。

娘子復報贈謌一首
標訓 娘子の復(ま)た報(こた)へ贈れる謌一首
集歌637 吾背子之 形見之衣 嬬問尓 身者不離 事不問友
訓読 吾が背子し形見し衣(ころも)妻問(つまと)ひに身は離(はな)たず事(こと)問(と)はずとも
私訳 私の愛しい貴方がくれた思い出の衣。貴方の私への愛の証として、私はその形見の衣をこの身から離しません。貴方から「貴女はどうしていますか」と聞かれなくても。
<別解釈>
試訓 吾が背子し片見し衣(ころも)妻問(つまと)ひに身は離(はな)たず言(こと)問(と)はずとも
試訳 私の愛しい貴方のわずかに見たお姿。貴方がする妻問いの時に。でも、私は貴方に身を委ねません。(本当に私を愛しているのと)愛を誓う言葉をお尋ねしなくても。

湯原王亦贈謌一首
標訓 湯原王のまた贈れる謌一首
集歌638 直一夜 隔之可良尓 荒玉乃 月歟經去跡 心遮
訓読 ただ一夜(ひとよ)隔(へだ)てしからにあらたまの月か経(へ)ぬると心(こころ)遮(いぶ)せし
私訳 たった一夜だけでも逢えなかったのに、月替わりして一月がたったのだろうかと、不思議な気持ちがします。
<別解釈>
試訓 ただ一夜(ひとよ)隔(へだ)てしからにあらたまの月か経(へ)ぬると心(こころ)遮(いぶ)せし
試訳 (貴女は昨夜は身を許しても、今日は許してくれない) たった一夜が違うだけでこのような為さり様ですと、貴女の身に月の障り(月経)が遣って来たのかと、思ってしまいます。

娘子復報贈謌一首
標訓 娘子の復た報へ贈れる謌一首
集歌639 吾背子我 如是戀礼許曽 夜干玉能 夢所見管 寐不所宿家礼
訓読 吾が背子がかく恋ふれこそぬばたまの夢そ見えつつ寝(い)し寝(ね)らずけれ
私訳 愛しい貴方がそんなに恋い慕ってくださるので、闇夜の夢に貴方が見えるので夢うつつで眠ることが出来ませんでした。
<別解釈>
試訓 吾が背子がかく請(こ)ふれこそぬばたまの夢そ見えつつ寝(い)し寝(ね)るずけれ
試訳 愛しい貴方がそれほどまでに妻問いの許しを求めるから闇夜の夢に貴方の姿は見えるのですが、でも、まだ、貴方と夜を共にすることをしてません。

湯原王亦贈謌一首
標訓 湯原王のまた贈れる謌一首
集歌640 波之家也思 不遠里乎 雲井尓也 戀管将居 月毛不經國
訓読 愛(はしけ)やし間(ま)近き里を雲井(くもゐ)にや恋ひつつ居(を)らむ月も経(へ)なくに
私訳 (便りが無くて) いとしい貴女が住む遠くもない里を、私は雲居の彼方にある里のように恋い続けています。まだ、一月と逢うことが絶えてもいないのに。
<別解釈>
試訓 はしけやし間(ま)近き里を雲井(くもゐ)にや恋ひつつ居(を)らむ月も経(へ)なくに
試訳 ああ、どうしようもない。出掛ければすぐにも逢える間近い貴女の家が逢うことが出来なくてまるで雲井(=宮中、禁裏のこと)かのように思えます。私は貴女を恋焦がれています。まだ、貴女の身の月の障りが終わらないので。

娘子復報贈和謌一首
標訓 娘子の復た報(こた)へ贈れる和(こた)ふたる謌一首
集歌641 絶常云者 和備染責跡 焼太刀乃 隔付經事者 幸也吾君
訓読 絶ゆと云(い)ふは侘(わび)しみせむと焼太刀(やきたち)のへつかふことは幸(さ)くや吾が君
私訳 二人の間も終りだといったら、私が辛い思いをするだろうと思われて、焼いて刃を鋭くした太刀の、端だけを使うような役にも立たない言葉でおっしゃるのならば、それで本当に私が幸せでしょうか。ねぇ、私の貴方。
<別解釈>
試訓 絶ゆと云(い)ふは詫(わび)そせむと焼太刀の経(へ)つ古(ふ)ることは避(さ)くや吾が君
試訳 二人の仲が終わったと云うことが詫びる気持ちを見せるとしても、焼太刀の端(へ)、その言葉の響きではありませんが、二人の仲での使い古しの言葉を使うことは避けるのではありませんか。ねぇ、私の貴方。

湯原王謌一首
標訓 湯原王の謌一首
集歌642 吾妹兒尓 戀而乱在 久流部寸二 懸而縁与 余戀始
訓読 吾妹子に恋ひて乱(みだ)らば反転(くるべき)に懸(か)けて縁(よ)せむと余(あ)し恋ひそめし
私訳 貴女に恋して心も乱して、糸巻きの糸にかけて引き寄せるようと思って、私は恋を始めたのだろうか。
<別解釈>
試訓 吾妹子に恋に未(み)足(た)らば狂(く)るべきにかけに寄せむと余(あ)が恋ひそめし
試訳 愛しい私の貴女との恋の行い(=夜を共にすること)に満ち足りないのなら、きっと、心は動転してしまうでしょう。ですが、心にかけて貴女の気持ちを引き寄せようと、それほどまでに私は貴女に恋をしてしまった。


 得意げに紹介しましたが、弊ブログは建設作業員が趣味で万葉集を好みのままに鑑賞するものであり、万葉集読解と云う研究分野には本人の基本教養と訓練からして寄り着くことが出来もしないものであります。ただただ、指弾されますように「トンデモ論」を世に垂れ流す次第です。しかしながら「トンデモ論」であっても論を残す目的から、藤原定家までの万葉集読解史については弊著「原万葉集、奈弖之故と宇梅乃波奈に遊ぶ」に、未定訓歌については弊著「万葉難訓歌を読み解く」に、弊ブログでの考え方を集約して載せさせて頂いております。万葉集読解の王道を行く上野氏の著書「一三〇〇年の謎を解く」とは行く道が違います。

 今回、上野氏の著書「一三〇〇年の謎を解く」を紹介しているようで、自著の紹介をすると云う恥知らずな行いをしてしまいました。反省する次第です。なお重ねて、高価ではありますが、上野氏の著書「一三〇〇年の謎を解く」の購読を推薦致します。
 追記して、弊書は出版社が限定部数の自費出版であっても勝手に増刷しているようで、今でも一冊を除き入手は容易ですが、上野氏の著書「一三〇〇年の謎を解く」は非常に入手が困難なようです。ただ、それでも古書で8000円は高いと思います。
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万葉雑記 色眼鏡 百九八 今週のみそひと歌を振り返る その十八

2017年01月07日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百九八 今週のみそひと歌を振り返る その十八

 今週、取り上げました歌に田部忌寸櫟子と舎人吉年との相聞歌四首がありました。歌番号では集歌492の歌から集歌495の歌までの四首と云うことになります。この田部櫟子は歌の標題に載り、舎人吉年は集歌492の歌の補注に載ります。

田部忌寸櫟子任太宰時謌四首
標訓 田部忌寸(たべのいみき)櫟子(いちひこ)の太宰に任(ま)けらし時の謌四首
集歌492 衣手尓 取等騰己保里 哭兒尓毛 益有吾乎 置而如何将為 (舎人吉年)
訓読 衣手(ころもて)に取りとどこほり哭(な)く児にもまされる吾れを置きに如何(いか)にせむ
私訳 衣の袖にとりすがって泣く子供にも勝って、別れを悲しむ私をこの家に残してしまって、さぁ、貴方はどうなされるの。

集歌493 置而行者 妹将戀可聞 敷細乃 黒髪布而 長此夜乎
訓読 置きに行かば妹恋ひむかも敷栲の黒髪(くろかみ)しきて長きこの夜を
私訳 寝乱れ姿のお前をこの家に残して私が筑紫大宰府に旅立って行くと、お前は私を恋しく思うでしょう。お前は夜床に敷く栲の上に黒い髪を靡かせて共寝したこの長い夜があったから。

集歌494 吾妹兒乎 相令知 人乎許曽 戀之益者 恨三念
訓読 吾妹子を相知らしめし人をこそ恋しまされば恨めしみ念(おも)へ
私訳 愛しいお前を私に会わせた人をこそ、恋い慕う気持ちが募ると、恨めしく思えます。

集歌495 朝日影 尓保敝流山尓 照月乃 不厭君乎 山越尓置手
訓読 朝日(あさひ)影(かげ)色付(にほへ)る山に照る月の飽(あ)かざる君を山越(やまごし)に置きて
私訳 朝日の光に染まる山の、夜通し照る月のように見飽きることのない貴方を、月の隠れるその山の彼方に置いて(私は貴方を慕っています)。

 さて、標準的な歌の解説では「舎人吉年」とは「舎人氏」出身の宮中女嬬「吉年」と云う女性と判断し、歌は九州大宰府に赴任する田部櫟子と吉年との別れに際し、最後に夜を共にした時のものとします。根拠は集歌493の歌の「敷細乃 黒髪布而」ですし、それぞれの歌に詠われる「妹」と云う表記です。なお、巻二に天智天皇の葬儀の場面で額田王の歌に次いで次の歌を詠っていますが、この歌だけですと「吉年」の性別を判定することは出来ません。天皇近習小者である「舎人」であっても良いことになります。

集歌152 八隅知之 吾期大王乃 大御船 待可将戀 四賀乃辛埼  (舎人吉年)
訓読 やすみしし吾(わ)ご大王(おほきみ)の大御船(おほみふね)待ちか恋ふらむ志賀の辛崎(からさき)
私訳 四方八方を承知なされる吾等の大王の乗る大御船を、待ち焦がれているのか志賀の辛崎よ。

 なぜ、「吉年」の性別にこだわるのか、不思議に思われるでしょう。
 その理由は奈良時代 官職を得た成人男子の髪型は冠を被り、支える関係上「髻(もとどり)」を結いますが、未成年の男性は「美豆良(みずら)」と云うお下げ髪スタイルであった為です。有名なところでは倭建命の熊襲征伐で「如童女之髮梳垂、其結御髮」とありますように、男は野良遊びや作業時には髪を耳の高さで左右に束ねていたようですが、時に少女のように束ねた髪を下ろすこともあったようです。その時、衣装によっては美男子が美少女に変身したようです。倭建命の例では倭比賣命の衣と裳を身に付け美少女の姿で宴会に侍り、熊曾建たちを成敗しています。つまり、「吉年」が若い人でしたら、髪の長さだけでは性別が決まらないと云うことになります。
 一方、日本書紀の神功皇后摂政元年に小竹祝の死に際し天野祝が後追い自殺し、生前の仲を考え二人を同じ墓に埋葬した事件を「阿豆那比(あずなひ)之罪」だったとする記事があり、これを同性愛に関する日本最初の記事とします。さらに続日本紀には皇太子道祖王に関して「陵草未乾。私通侍童(陵草未だ乾かず。私に侍童と通ず)」と云う記事があり、これは明確に稚児男色の性嗜好を示す日本最初の記事とします。さらにさらに仏教では平安時代初期までには弘法大師の名を借りて稚児灌頂と云う制度と詳細所作次第を設け、僧侶の稚児男色性嗜好を儀式と云う名目で追認しています。特に平安仏教の中心を為した天台宗では稚児が僧侶と性交することで仏の道に入ることができるとされていたようです。およそ、日本における同性愛や稚児男色の歴史はかように古代から脈々と現代へと流れていたことが判ります。従いまして、万葉集に同性愛を詠う歌があっても不思議ではないと云うことになります。

 このような歴史を踏まえますと、「舎人吉年」を女性と決めつけて良いのでしょうか。もう一つ、「舎人吉年」の相手となる田部櫟子は天智天皇の時代から天武天皇の早い時代の人と思われていますから、集歌152の歌が詠われた時代と集歌492の歌から集歌495の歌までの四首が詠われた時代とは、それほど離れた時代関係ではないとの認識があります。ここから、集歌493の歌を詠った時点でも「舎人吉年」はまだ若い人だったと仮定出来ることになります。
 従いまして、中丁(16歳以上20歳未満の成人)の若者が「侍童」として出仕し、読み書き能力から貴人のそばで仕えますと、律令制度下での内舎人・外舎人と云うものとは違い、伝統から「侍童」ではなく「舎人」と云う呼び名扱いはあったのではないでしょうか。この可能性から、美豆良(みずら)髪スタイルの美男子と云うものも否定が出来ないことになります。
 つまり、云いたいことは「舎人吉年」とは「舎人部」出身の「吉年」と云う女性ではなく、「舎人」と云う職務を執る「吉年」と云う侍童ではないかとことです。そうした時、田部櫟子から見て年下の愛しい若者、それも肉体関係でも愛し合う相手に歌で「妹」と云う性的美称を与える可能性はあると考えます。

 今回、「舎人吉年」と云う言葉の解釈で、男の「舎人」と云う可能性を考えますと、必然、同性愛と云うものを調査する必要がありました。また同時に歌の句に叶うために長い髪の美少年は当時の生活風習で成り立つのかと云う方面も調査する必要もありました。調査からの答えは示した通り、「然り」です。驚かれると思いますが、これが古代史の一面です。なお、日本書紀や続日本紀に同性愛関係の記事を載せますが、内容ではこの性的嗜好には否定的な態度があります。性的嗜好としてそのようなものがあるが、神道的にそれを「阿豆那比之罪」と称するように受け入れがたい行為と云う態度で扱われています。
 ただ、万葉集の歌の鑑賞において、男女で歌を交わす関係ですと屋敷を異にし、妻問ひを行う別家庭が前提となります。一方、同性愛関係の男性同士で一方が未成人ですと、主人の屋敷に養われる侍童や主人に仕える舎人の立場と云う可能性が高いと思います。つまり、住居に関する距離感が違うと考えます。それが本四首組歌での「吾乎置而」や「置而行者」の句に示す言葉感覚と思います。

 今回は標準的な鑑賞とは待ったくに違いますが、このような視点で田部櫟子の歌四首を解釈しています。つまり、暴論であり、酔っ払いの与太話です。
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