万葉雑記 色眼鏡 二〇一 今週のみそひと歌を振り返る その二一
今回は組歌のため、一部、次週にも掛かっていますが、歌に付けられた標題を読み込むことで解釈が変わる歌を鑑賞します。
大伴坂上家之大娘報賜大伴宿祢家持謌四首
標訓 大伴坂上家の大娘(おほをとめ)の大伴宿祢家持に報賜(こた)へる謌四首
集歌581 生而有者 見巻毛不知 何如毛 将死与妹常 夢所見鶴
訓読 生きにあらば見まくも知らず何しかも死なむよ妹と夢に見えつる
私訳 貴方が何事もなく元気でいたらそれを知ることもないでしょう。だのにどうして「死ぬほど恋に苦しむ。愛しい貴女よ」と訴える貴方を夢に見たのでしょう。
注意 標の「報賜」の「賜」は、一般に「贈」の誤字とします。
集歌582 大夫毛 如此戀家流乎 幼婦之 戀情尓 比有目八方
訓読 大夫(ますらを)もかく恋ひけるを手弱女(たわやめ)し恋ふる情(こころ)に比(たぐ)ひあらめやも
私訳 立派な男子でもこのように恋い慕うのを、手弱女である私が貴方を恋する気持ちと比べることが出来るでしょうか。
集歌583 月草之 徙安久 念可母 我念人之 事毛告不来
訓読 月草(つきくさ)し移(うつ)ろひやすく念(おも)へかも吾が念(おも)ふ人し事(こと)も告(つ)げ来(こ)ぬ
私訳 露草の色が褪せやすいように、恋する気持ちが褪せたのでしょうか。私が恋い慕う人は、何も便りを寄越しません。
集歌584 春日山 朝立雲之 不居日無 見巻之欲寸 君毛有鴨
訓読 春日山朝立つ雲し居(ゐ)ぬ日なく見まくし欲(ほ)しき君にもあるかも
私訳 春日山に朝立つ雲が居ない日が無いように、毎日、御会いしたいと願う貴方なのでしょう。
紹介しました歌四首は集歌581の歌に付けられた標題「大伴坂上家之大娘報賜大伴宿祢家持謌四首」から四首組歌として解釈する必要があります。また、歌は天平五年前後のものと思われ、この時、家持十五歳、大娘十歳前後と考えられています。おおむね、家持は袴着の儀式を経た成人(分類では中男相当)で、大娘はまだまだ未成年の早乙女です。
ここで、歌の注意として説明しましたが、標題の「報賜」は「報贈」の間違いと云う考え方があります。その背景は大娘から家持への相聞歌のやり取りで大娘の身分・立場からすると家持からは下であるはずだから、相応しくないと云うことにあります。単純に標題を読みましたら、そのような結論になるかと思います。
一方、標題の「報賜」が多くの伝本通りで正しいとしますと、歌の全体の解釈は大きく変わります。まず、「報賜」と云う表記が意味することは、この歌四首が大娘の母親であり、大伴家を束ねる刀自である大伴坂上郎女による代作と云うものです。つまり、大娘に代わり坂上郎女から家持へであれば「報賜」が正しいと云うことになります。まず、万葉集の編集者はこのように解釈しろと云うことで、「報賜」と表記したのでしょう。
また、「報賜」と云う表現からしますと、最初に家持から大娘への相聞歌の贈呈があり、ここでの四首はその返事と云うことになります。一般に「坂上家之大娘」は「坂上大嬢」と紹介される女性で、この相聞歌を交換したと思われる天平四年から五年ごろはまだ十歳前後ではなかったのではないかと推定されています。つまり、幼い許嫁の大娘への相聞歌の交換であり、最初から家持も坂上郎女も、家持と大娘とで和歌での会話が成り立つとは思ってもいないと思われます。そのためか、集歌582の歌の「幼婦之」と云う表現は的確ではありますが、少し堅く幼い女性が使う言葉としてはどうでしょうか。
そうしますと、許嫁の大娘が成長し振分髪から結髪へと髪型を始めて変えた時期でのものかも知れませんが、まだまだ幼く夫婦事の出来る裳着までは時間があるような状況でしょうか。その幼子から娘へと変わる時間帯で家持から儀礼として恋歌を贈ったのかもしれません。
なお、一般的な解釈ではこの四首組歌は「報贈」と云う解釈を前提に家持と大娘とは主体的な男女として相聞歌を交換する関係であり、一度は夫婦関係も成立していたと解釈します。そこから十歳前後婚姻関係の成立、疎遠・離別、十代後半での再度の婚姻関係の成立と二人の関係を解説します。ただこれは大和氏族では裳着以前での性交渉の忌諱と云うものから考えますと、難しい解釈です。
さて、天平五年前後での家持と大娘との年齢推定からしますと、歌が詠われた時、十五歳ぐらいと十歳ぐらいです。一方、坂上郎女は大伴旅人の死亡(天平三年)以降、大伴家刀自として家持の後見人の立場であり、大娘の実母ですから、坂上郎女は二人の教育を行う立場です。その坂上郎女は女流歌人の第一人者でもありますから、場合により相聞歌四首は歌の教育を兼ねた定型の代作なのかもしれません。
この見方が成立しますと、歌の内容は 実際の状況や感情には左右されないことになります。すると歌は女性が男性に向け、恋しくて夢に見る、貴方より恋心は優っているほど恋しい、恋の便りをもっと欲しい、毎日でも逢いたいと云う、それぞれの恋のステップに合わせたお手本歌なのかも知れません。歌四首が同時期に詠われ贈られたとしますと、恋の時系列としますと非常に高速な時の流れがありますが、恋の相聞歌のお手本ならば、ちょうどよいものとなります。
伝統では誤記説を取り入れ「報贈」としますが、原歌通りに「報賜」ですと、このような解釈が成立しますし、坂上大嬢の人物紹介も変わります。当然、ここでのものは権威者が師弟相伝により守って来た学問を侮辱する酔論でありトンデモ論です。ただ、歴史と歌を素直に楽しむと酔論になりますが、世の期待に反し、このようなものを世に曝し、反省する次第です。
今回は組歌のため、一部、次週にも掛かっていますが、歌に付けられた標題を読み込むことで解釈が変わる歌を鑑賞します。
大伴坂上家之大娘報賜大伴宿祢家持謌四首
標訓 大伴坂上家の大娘(おほをとめ)の大伴宿祢家持に報賜(こた)へる謌四首
集歌581 生而有者 見巻毛不知 何如毛 将死与妹常 夢所見鶴
訓読 生きにあらば見まくも知らず何しかも死なむよ妹と夢に見えつる
私訳 貴方が何事もなく元気でいたらそれを知ることもないでしょう。だのにどうして「死ぬほど恋に苦しむ。愛しい貴女よ」と訴える貴方を夢に見たのでしょう。
注意 標の「報賜」の「賜」は、一般に「贈」の誤字とします。
集歌582 大夫毛 如此戀家流乎 幼婦之 戀情尓 比有目八方
訓読 大夫(ますらを)もかく恋ひけるを手弱女(たわやめ)し恋ふる情(こころ)に比(たぐ)ひあらめやも
私訳 立派な男子でもこのように恋い慕うのを、手弱女である私が貴方を恋する気持ちと比べることが出来るでしょうか。
集歌583 月草之 徙安久 念可母 我念人之 事毛告不来
訓読 月草(つきくさ)し移(うつ)ろひやすく念(おも)へかも吾が念(おも)ふ人し事(こと)も告(つ)げ来(こ)ぬ
私訳 露草の色が褪せやすいように、恋する気持ちが褪せたのでしょうか。私が恋い慕う人は、何も便りを寄越しません。
集歌584 春日山 朝立雲之 不居日無 見巻之欲寸 君毛有鴨
訓読 春日山朝立つ雲し居(ゐ)ぬ日なく見まくし欲(ほ)しき君にもあるかも
私訳 春日山に朝立つ雲が居ない日が無いように、毎日、御会いしたいと願う貴方なのでしょう。
紹介しました歌四首は集歌581の歌に付けられた標題「大伴坂上家之大娘報賜大伴宿祢家持謌四首」から四首組歌として解釈する必要があります。また、歌は天平五年前後のものと思われ、この時、家持十五歳、大娘十歳前後と考えられています。おおむね、家持は袴着の儀式を経た成人(分類では中男相当)で、大娘はまだまだ未成年の早乙女です。
ここで、歌の注意として説明しましたが、標題の「報賜」は「報贈」の間違いと云う考え方があります。その背景は大娘から家持への相聞歌のやり取りで大娘の身分・立場からすると家持からは下であるはずだから、相応しくないと云うことにあります。単純に標題を読みましたら、そのような結論になるかと思います。
一方、標題の「報賜」が多くの伝本通りで正しいとしますと、歌の全体の解釈は大きく変わります。まず、「報賜」と云う表記が意味することは、この歌四首が大娘の母親であり、大伴家を束ねる刀自である大伴坂上郎女による代作と云うものです。つまり、大娘に代わり坂上郎女から家持へであれば「報賜」が正しいと云うことになります。まず、万葉集の編集者はこのように解釈しろと云うことで、「報賜」と表記したのでしょう。
また、「報賜」と云う表現からしますと、最初に家持から大娘への相聞歌の贈呈があり、ここでの四首はその返事と云うことになります。一般に「坂上家之大娘」は「坂上大嬢」と紹介される女性で、この相聞歌を交換したと思われる天平四年から五年ごろはまだ十歳前後ではなかったのではないかと推定されています。つまり、幼い許嫁の大娘への相聞歌の交換であり、最初から家持も坂上郎女も、家持と大娘とで和歌での会話が成り立つとは思ってもいないと思われます。そのためか、集歌582の歌の「幼婦之」と云う表現は的確ではありますが、少し堅く幼い女性が使う言葉としてはどうでしょうか。
そうしますと、許嫁の大娘が成長し振分髪から結髪へと髪型を始めて変えた時期でのものかも知れませんが、まだまだ幼く夫婦事の出来る裳着までは時間があるような状況でしょうか。その幼子から娘へと変わる時間帯で家持から儀礼として恋歌を贈ったのかもしれません。
なお、一般的な解釈ではこの四首組歌は「報贈」と云う解釈を前提に家持と大娘とは主体的な男女として相聞歌を交換する関係であり、一度は夫婦関係も成立していたと解釈します。そこから十歳前後婚姻関係の成立、疎遠・離別、十代後半での再度の婚姻関係の成立と二人の関係を解説します。ただこれは大和氏族では裳着以前での性交渉の忌諱と云うものから考えますと、難しい解釈です。
さて、天平五年前後での家持と大娘との年齢推定からしますと、歌が詠われた時、十五歳ぐらいと十歳ぐらいです。一方、坂上郎女は大伴旅人の死亡(天平三年)以降、大伴家刀自として家持の後見人の立場であり、大娘の実母ですから、坂上郎女は二人の教育を行う立場です。その坂上郎女は女流歌人の第一人者でもありますから、場合により相聞歌四首は歌の教育を兼ねた定型の代作なのかもしれません。
この見方が成立しますと、歌の内容は 実際の状況や感情には左右されないことになります。すると歌は女性が男性に向け、恋しくて夢に見る、貴方より恋心は優っているほど恋しい、恋の便りをもっと欲しい、毎日でも逢いたいと云う、それぞれの恋のステップに合わせたお手本歌なのかも知れません。歌四首が同時期に詠われ贈られたとしますと、恋の時系列としますと非常に高速な時の流れがありますが、恋の相聞歌のお手本ならば、ちょうどよいものとなります。
伝統では誤記説を取り入れ「報贈」としますが、原歌通りに「報賜」ですと、このような解釈が成立しますし、坂上大嬢の人物紹介も変わります。当然、ここでのものは権威者が師弟相伝により守って来た学問を侮辱する酔論でありトンデモ論です。ただ、歴史と歌を素直に楽しむと酔論になりますが、世の期待に反し、このようなものを世に曝し、反省する次第です。