竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉雑記 色眼鏡 三二九 今週のみそひと歌を振り返る その一四九

2019年07月27日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三二九 今週のみそひと歌を振り返る その一四九

 先週後半から巻十七に入り、鑑賞しています。この巻十七から巻二十までの四巻は大伴家持の歌日記と思われるようなもので、歌集としての体裁はありません。平安時代初期の紀貫之たちがこの四巻に載るものを鑑賞すべき和歌と考えたかは不明です。
 さて、次に紹介する歌は山部宿祢明人の表記ですが、ほぼ、山部赤人と同じ人です。万葉集巻十七に載せる順番と歌の題材からしますと天平十四年から天平十五年の春に大伴家持は何かの機会に手帳に記録したと思われます。

山部宿祢明人、詠春鴬謌一首
標訓 山部宿祢明人の、春の鴬を詠う謌一首
集歌3915 安之比奇能 山谷古延氏 野豆加佐尓 今者鳴良武 宇具比須乃許恵
訓読 あしひきの山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ鴬の声
私訳 葦や檜の生える山や谷を越えて野の高みに今は鳴くでしょう。鶯の声は。
左注 右、年月所處、未得詳審。但随聞之時記載於茲
注訓 右は、年月と所處(ところ)は、未だ詳審(つまびらか)を得ず。ただし聞きし時の随(まにま)に茲(ここ)に記し載す。

 参考に同じ鶯を詠う歌が巻八にありますが、巻八のものと比べますとこちらの巻十七の方が良いでしょうか。

山部宿祢赤人謌一首
標訓 山部宿祢赤人の謌一首
集歌1431 百濟野乃 芽古枝尓 待春跡 居之鴬 鳴尓鶏鵡鴨
訓読 百済(くだら)野(の)の萩し古枝(ふるえ)に春待つと居(を)りし鴬鳴きにけむかも
私訳 百済野の萩の古い枝に春を待つように留まっている鶯は、もう、啼き出したかなあ。


 ここで、大伴旅人は万葉集では「旅人」と表記するのが基本ですが、正史では「多比等」と表記することもあります。一方、山部赤人について、この巻十七ではなぜ、「山部宿祢明人」の表記にしたのでしょうか。つまり、表記をなぜ統一しなかったのでしょうか。
 すると、左注に「但随聞之時記載於茲(ただし聞きし時の随に茲に記し載す)」とあるように、大伴家持はまったく山部赤人を知らなかったかもしれません。それで「聞いたままの名前」から「山部宿祢明人」と手帳に記録したのでしょう。なお、左注の前半は、山部赤人が集歌3915の歌を、いつ、どこで、どのような背景で詠ったかは判らないとしますから、家持は何かの仲春を祝う宴会で、こんな歌があると聞いたのでしょう。似たような例として、巻二十に集歌4294の歌の左注に紹介しています。

舎人親王應詔奉和謌一首
標訓 舎人親王の、詔(みことのり)に應(おう)じて和(こた)へ奉(たてまつ)れる謌一首
集歌4294 安之比奇能 山尓由伎家牟 夜麻妣等能 情母之良受 山人夜多礼
訓読 あしひきの山に行きけむ山人(やまひと)の心も知らず山人(やまひと)や誰れ
私訳 葦や桧の生える山に移られた、その山の人とその移られた思いも判りません。さて、その山の人とはどの御方でしょうか。
左注 右、天平勝寶五年五月、在於大納言藤原朝臣之家時、依奏事而請問之間、少主鈴山田史土麿、語少納言大伴宿祢家持曰、昔聞此言。即誦此謌也。
注訓 右は、天平勝寶五年五月に、大納言藤原朝臣の家に在りし時に、事を奏(もう)すに依りて請問(せいもん)せし間に、少主鈴(せうしゆれい)山田史土麿の、少納言大伴宿祢家持に語りて曰はく「昔、此の言(ことば)を聞く」と。即ち此の謌を誦(よ)めるなり。

 妄想は広がります。
 大伴家持はまったく山部赤人を知らなかったのなら、誰が万葉集に載せる「山部赤人」を紹介したかです。本来ですと、大伴家持も山部赤人も武官系の家系ですし、山部赤人が早死にしなければ両者の接点があっても良いのです。ところが、大伴家持は武官系の人ですが皇太子に付けられた内舎人のような経歴などからして宮内系の雅の人です。そのため、勤務での接点がなかった可能性があります。
 ただ、万葉集では有名な山部赤人の名前を知らないとは、実にとぼけた話ですし、万葉集大伴家持編纂説に傷が付きます。弊ブログは二十巻本万葉集は平安時代初期の古今和歌集が編まれる寸前に編纂されたとする説を採用しますから、その考えからしますと、平安時代の人が資料は資料として尊重し、山部宿祢明人の表記を変えなかったとしますと、実に都合の良い話です。

 万葉集巻十七から巻二十は、原万葉集編纂前後の事情を説明するような巻と思っていますので、そのような視線で、法螺と与太を紹介していきます。
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万葉雑記 色眼鏡 三二八 今週のみそひと歌を振り返る その一四八

2019年07月20日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三二八 今週のみそひと歌を振り返る その一四八

 巻十六 有由縁并雜謌に入り、鑑賞しています。本来ですとこの巻十六に載る短歌は基となる長歌や前置漢文、左注の漢文などとともに鑑賞すべきですが、弊ブログの遊び方のルールにより分離して鑑賞しています。この巻十六は「有由縁并雜謌(由縁あるものに併せてくさぐさの歌)」と紹介するように、いろいろな種類の歌が集められています。
 今回は、少し地名からすると不思議な歌四首で遊びます。なぜ不思議と云いますと、集歌3881の歌の標題に「越中國」と紹介しますが、集歌3881の歌の大野路は富山県高岡市福岡町、集歌3882の歌の澁谿乃二上山は富山県高岡市と氷見市との境に位置する二上山ですので「越中國」として納得がいきます。
 ところが、集歌3883の歌と集歌3884の歌の伊夜彦は弥彦山を意味し、地名では新潟県西蒲原郡弥彦村の彌彦神社に関係した歌ですので、「越中國」よりも「越後國」です。

越中國謌四首
標訓 越中國(こしのみちのなかのくに)の謌四首
集歌3881 大野路者 繁道森徑 之氣久登毛 君志通者 徑者廣計武
訓読 大野路(おほのぢ)は繁道(しげみち)森路(もりみち)茂くとも君し通はば道は広けむ
私訳 大野の路は、草木の茂った道、森の道。草木が茂ったであっても、貴方が私の許に通うなら道は通り易く広いでしょう。

集歌3882 澁谿乃 二上山尓 鷲曽子産跡云 指羽尓毛 君之御為尓 鷲曽子生跡云
訓読 渋谿(しぶたに)の二上山に鷲ぞ子産むといふ翳(さしは)にも君し御為(みため)に鷲ぞ子産むといふ
私訳 渋谷の二上山で鷲が子を産むと云う。鳥の羽で作る天蓋にも使ってくださいと、貴方のために、鷲が子を産むと云う。

集歌3883 伊夜彦 於能礼神佐備 青雲乃 田名引日良 霈曽保零 (一云 安奈尓可武佐備)
訓読 弥彦(いやひこ)おのれ神さび青雲(あをくも)のたなびく日ら小雨そほ降る (一云 あなに神さび)
私訳 弥彦山は山自身が神々しく、青雲が棚引き日でも小雨がそほ降る。(一は云う、まことに神々しく)

集歌3884 伊夜彦 神乃布本 今日良毛加 鹿乃伏武 皮服著而 角附奈我良
訓読 弥彦(いやひこ)神の麓(ふもと)に今日らもか鹿の伏さむ皮衣着に角つきながら
私訳 弥彦山の神の山の麓に、今日もそうなのだろうか。鹿が伏している。皮の衣を纏って角を生やして。

 ここで、越中国の歴史を見て見ますと、大宝二年(702)に、越中国の4郡(頸城郡・古志郡・魚沼郡・蒲原郡)を分ち越後国に属するという記録があります。今回は紹介していませんが集歌3878の歌の標題に「能登國歌三首」とあり、この能登國は養老二年(718)に越前国から分立して成立しますが天平十三年(741)に越中国へと吸収・併合、さらにその後の天平宝字元年(757)に越中国から再び分立したと紹介されます。
 つまり、歴史的な辻褄が合いません。越中國謌四首からすると、万葉集の編集は大宝二年以前の話になりますが、集歌3878の歌に付けられた標題「能登國歌三首」からしますと、養老二年から天平十三年の間、または天平宝字元年以降となりますから、両者を満たす期間は存在しないことになります。
 ただし、この当時の越後國は越後城司のような軍事的な扱いで行政的なものを越中國に任せていたのかもしれません。歴史で国司が記録されるのは越後城司の名の猪名真人大村が最初で、次が平安時代の坂上田村麻呂となり、その間が不明となっています。

 万葉集の鑑賞で、万葉集の歌に古代史を眺めますと表面的な国と云う行政区分と軍事的な大和の境界と云うものの関係、蝦夷と大和との境界地帯での行政を施行体制など、色々、想像させられます。
 もう一つ、面白いことに、瀬戸内海沿岸の諸国での歌は、特別に〇〇国の歌のような紹介をしませんが、東国など特定の国では、わざわざ特別に〇〇国の歌のような紹介をします。ある種、都人にとっては未知の国と云うような、特別な響きで聞こえるのかもしれません。
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万葉雑記 色眼鏡 三二七 今週のみそひと歌を振り返る その一四七

2019年07月13日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三二七 今週のみそひと歌を振り返る その一四七

 巻十六 有由縁并雜謌に入り、鑑賞しています。本来ですとこの巻十六に載る短歌は基となる長歌や前置漢文、左注の漢文などとともに鑑賞すべきですが、弊ブログの遊び方のルールにより分離して鑑賞しています。この巻十六は「有由縁并雜謌(由縁あるものに併せてくさぐさの歌)」と紹介するように、いろいろな種類の歌が集められています。
 今回は、少し不思議な歌二首で遊びます。

集歌3851 心乎之 無何有乃郷尓 置而有者 狼孤射能山乎 見末久知香谿務
訓読 心をし無何有(むかふ)の郷(さと)に置きにあらば藐孤射(はこや)の山を見まく近けむ
私訳 心を無為自然の無何有の境地に置きたらば、仙人の住む藐姑射の山を見て暮らすような境地は近いであろう。

集歌3852 鯨魚取 海哉死為流 山哉死為流 死許曽 海者潮干而 山者枯為礼
訓読 鯨魚(いさな)取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干(しほひ)に山は枯(か)れすれ
私訳 鯨魚を獲る広い海も死して滅する、山も死して滅する。死して滅するからこそ海は潮が引くし、山は木が枯れる。

 紹介しました二首は中国の荘子を背景として詠われたものと思われ、最初の集歌3851の歌の「狼孤射能山」とは荘子の逍遥遊に示す藐姑射の山と理解するものとなっています。

荘子 逍遥遊の一節より
原文 藐姑射之山、有神人居焉、肌膚若氷雪、綽約若処子、不食五穀吸風飲露、乗雲気而遊乎四海之外、其神凝、使物不疵癘而年穀熟。
訳文 藐姑射の山に神なる人は居りれて有り、肌膚は氷雪の若く、綽約として処子の若くにして、五穀を食わず風を吸い露を飲み、雲気に乗りて四海の外に遊び、其の神の凝くにて、物をして疵癘せざらしめ、年穀をして熟せしめむといへり。

 また、二句目の「無何有乃郷尓」には無心:無念無想の精神が示されていると解説します。つまり、作者も読者も荘子を知っていることが前提となっている非常に知識レベルが高くて、困惑するような歌です。
 同じように集歌3852の歌は旋頭歌に分類される歌ですが、その背景に荘子の斉物論があるとされます。この斉物論は、「現実世界の根源にあってそれを支えている〈道〉の絶対性のもとでは,現実世界における万物の多様性や価値観の相違などのあらゆる差別相が止揚されて意味をもたなくなること、したがって道の在り方に目覚め道と一体となることによって、個が個としての価値を完全に回復し、何ものにもとらわれない境地に到達できるという論」と紹介されるものですが、判るようで判らない非常に難解な哲学思想です。
 集歌3852の歌は、一見、不変と思える広大な海も大地にそそり立つ山も、いつかは無くなってしまうものであって不変ではない。その不変ではない表れとして海に満ち引きがあり、山では季節ごとに木が枯れるとします。世の中は人が観念しているほど固定されていないということを中国的な修辞法での極端な譬喩で示しているのでしょう。説によっては集歌3852の歌は仏教の輪廻を詠うとするものがありますが、集歌3849の歌に付けられた部立「厭世間無常歌二首」に添えられた二首と理解し、仏教からの二首に対して荘子からの哲学とするのが良いと思います。
 なお、今回のものは集歌3849の歌から集歌3852の歌までの四首を組歌として哲学ものとして鑑賞すべきですが、最初の二首は仏教から鑑賞するものとされていますから、焦点を明確にするために割愛しています。参考に仏教的な二首はこの世とあの世の対立軸で歌を詠い、荘子の方の二首はこの世とあの世の対立軸をも超越する観念に対する哲学で歌を詠います。その立場の違いがあります。

 今回は、判ったような判らない、モヤモヤとしたものになりましたが、話題のテーマを提供し、万葉集には哲学を詠ったものがあり、その哲学解釈は読者にゆだねられていることを紹介することに終始します。
 いや、実にこの二首は難しい。お任せいたします。

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万葉雑記 色眼鏡 三二六 今週のみそひと歌を振り返る その一四六

2019年07月06日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三二六 今週のみそひと歌を振り返る その一四六

 巻十六 有由縁并雜謌に入り、鑑賞しています。本来ですとこの巻十六に載る短歌は基となる長歌や前置漢文、左注の漢文などとともに鑑賞すべきですが、弊ブログの遊び方のルールにより分離して鑑賞しています。この巻十六は「有由縁并雜謌(由縁あるものに併せてくさぐさの歌)」と紹介するように、いろいろな種類の歌が集められています。

 今回は日本語の難しさから歌の面白みが失われたもので遊びます。
 さて、日本語で「婦人」は「箒(ほうき)を持つ女、家事に服する女の意。女性蔑視につながるとして、現在では「女性」を用いることが多い」と語源・語彙の解説をします。一方、万葉集の歌が詠われ記録された時代となる飛鳥時代から奈良時代は中国語の輸入時代ですから。その言葉である漢語の意味・理解では「『爾雅·釋親』:子之妻爲婦。又女子已嫁曰婦。婦之言服也,服事於夫也。」などの解説に従ったと思われます。
 すると、言葉の理解で対象を歌に従って貴族階級としますと、近代日本語での「家事に服する女の意」からすると職業婦人などの言葉のイメージを受け、そこから古典鑑賞の場で妻と云う意味合いを探すのは難しいのではないでしょうか。ところが、その時代の漢語の意味合いからしますと「女子已嫁曰婦」ですし、「服事於夫也」です。もし、「服事於夫也」を律令規定の朝参行立次第条から解釈しますと参内で新田部親王と官位色の服装を身に着けて同行する正妻を意味します。朝参行立次第条が大陸の律令規定をそのままに創られていたとしますと、大陸でも「服事於夫也」は夫の正妻を意味することになります。
 この「婦人」という言葉を近代日本語として解釈するか、万葉集時代の漢語として解釈するかで、紹介しましたように相当に意味合いが変わります。ちなみに新田部親王の正妻となる女性は正史を含めてまったくに不明です。

獻新田部親王謌一首 (未詳)
標訓 新田部親王に獻(たてまつ)れる謌一首 (未だ詳(つばび)らかならず)
集歌3835 勝間田之 池者我知 蓮無 然言君之 鬚無如之
訓読 勝間田の池は我れ知る蓮(はちす)無し然(しか)言ふ君が鬚(ひげ)無きごとし
私訳 勝間田の池のことを私は良く知っています。蓮は生えていません。蓮の花が美しかったと云う鬚の立派な貴方に「鬚が無い」と云うのと同じように
左注 右、或有人聞之。曰新田部親王、出遊于堵裏、御見勝間田之池、感緒御心之中。還自彼池不任怜愛。於時語婦人曰今日遊行、見勝田池、水影涛々、蓮花灼々。可怜断腸、不可得言。尓乃婦人、作此戯謌、專輙吟詠也
注訓 右は、或は人ありてこれを聞けり。曰はく「新田部親王、堵(みやこ)の裏(うち)に出で遊び、勝間田の池を御(お)見(み)そなして、御心の中に感(め)でませり。彼(そ)の池より還りて怜愛(かなしび)に任(あ)へず。時に婦(つま)の人に語りて曰はく『今日遊行(い)でて、勝田の池を見るに、水影(すいえん)涛々(とうとう)に、蓮花(れんか)灼々(しゃくしゃく)んり。可怜(おもしろ)きこと腸(はらわた)を断ち、言(こと)を得ふべからず』といへり。ここに乃ち婦(つま)の人、この戯(たはぶれ)の謌を作りて、專輙(もつはら)吟詠(うた)ひき」といへり。
注訳 右は、或る人がいて次のように聞いた。その云うには「新田部親王が、都の中にお出ましになり、勝間田の池を御覧になって、御心に感じるところがあった。その池から帰った後も感動に耐えなかった。そこで、妻となる人に語って云うには『今日出かけていって、勝田の池を見ると、水面は輝き揺れ動き、蓮の花は赤々と輝いていた。美しいことは腹を捩り、言葉に出来ないほどであった』と云われた。そこでそれに対して妻となる人が、この戯れの歌を作って、もっぱら、口ずさんだ」と。

 歌の鑑賞で、最終官位が一品となる高貴な新田部親王ですから、警護や色々な問題から気に入った女性は宮に呼び寄せる立場であって、夜な夜な妻問う立場ではありません。その新田部親王が夜な夜な女性の許に通ったという風景があります。
 また、高貴な階級ですから夫婦であっても同じ屋敷内ですが居住する宮は別々ですが、歌の左注からしますと新田部親王の妻となる女性とはたびたび会話を交わすような夫婦仲の良い関係だったと推測されます。
 これを前提としますと、警護を連れてにぎやかに朝帰りをした新田部親王が、そのにぎやかさを気に留めた妻に早朝に咲く蓮の花を眺めに行ったと言い訳をします。歌はその浮気帰りの夫に対する、妻のからかいの歌となります。身の回りを世話をする女性がつぶやいたというのと、正妻となる女性が、折々に、浮気を咎める歌をつぶやいたのでは、伝承を聞く人たちの感情は違うのではないでしょうか。
 ですから歌で「然言君之 鬚無如之」と詠っても不敬にはならないのです。

 今回は同じ日本語ですが古語日本語と近代日本語での意味合い変化に焦点を当てて遊びました。このようなものは万葉集の中に多々あるのでは思うところです。
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