竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

再読、今日のみそひと謌 水

2019年07月31日 | 再読、今日のみそひと...
再読、今日のみそひと謌 水

集歌3942 麻都能波奈 花可受尓之毛 和我勢故我 於母敝良奈久尓 母登奈佐吉都追
訓読 松の花花(はな)数(かず)にしも我が背子が思へらなくにもとな咲きつつ
私訳 貴方を待つ、その言葉のひびきのような松の花、その数えきれないほどの花の数のように私が待っていても、私の愛しい貴方は私の事を思って下さらないのに、それでも松の花(=待つ気持ち)は咲いている。
左注 右件謌者、時々寄便使来贈。非在一度所送也
注訓 右の件(くだり)の謌は、時々(ときどき)に便りの使に寄せて来贈(おこ)せたり。一度に送えあえしにあらず。

八月七日夜、集于守大伴宿祢家持舘宴謌
標訓 八月七日の夜に、守(かみ)大伴宿祢家持の舘に集(つど)ひて宴(うたげ)せし謌
集歌3943 秋田乃 穂牟伎見我氏里 和我勢古我 布左多乎里家流 乎美奈敝之香物
訓読 秋し田の穂向き見がてり吾(わ)が背子がふさ手折(たお)り来る女郎花(をみなへし)かも
私訳 秋の田の穂の実りを見回りながら、私の大切な貴方がたくさん手折って来られた女郎花ですね。

集歌3944 乎美奈敝之 左伎多流野邊乎 由伎米具利 吉美乎念出 多母登保里伎奴
訓読 女郎花(をみなへし)咲きたる野辺を行き廻(めぐ)り君を思ひ出たもとほり来ぬ
私訳 女郎花が咲いた野辺を行き見回りながら、貴方のことを思い出して寄り道して手折って来ました。

集歌3945 安吉能欲波 阿加登吉左牟之 思路多倍乃 妹之衣袖 伎牟餘之母我毛
訓読 秋の夜は暁(あかとき)寒し白栲の妹が衣手着む縁(よし)もがも
私訳 秋の夜は暁時が寒い、共寝で着る白栲の貴女の衣の袖をこの身に掛ける、その機会がありません。

集歌3946 保登等藝須 奈伎氏須疑尓之 乎加備可良 秋風吹奴 余之母安良奈久尓
訓読 霍公鳥(ほととぎす)鳴きて過ぎにし岡傍(おかび)から秋風吹きぬよしもあらなくに
私訳 ホトトギスが鳴いて飛び過ぎていった丘のほとりから秋風が吹く。貴女に逢う機会もないのに。
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再読、今日のみそひと謌 火

2019年07月30日 | 再読、今日のみそひと...
再読、今日のみそひと謌 火

集歌3937 草枕 多妣伊尓之伎美我 可敝里許牟 月日乎之良牟 須邊能思良難久
訓読 草枕旅去(い)にし君が帰り来む月日を知らむすべの知らなく
私訳 草を枕にするような苦しい旅に貴方が旅立って去って行った、その貴方のご帰還なされる月日を知る、その方法を知りません。

集歌3938 可久能未也 安我故非乎浪牟 奴婆多麻能 欲流乃比毛太尓 登吉佐氣受之氏
訓読 かくのみや吾(あ)が恋ひ居(を)らむぬばたまの夜の紐だに解き放(さ)けずして
私訳 このようにほど、私が戀焦がれて居ます。漆黒の夜の恋人と寝る夜着の紐さへも解き、衣を脱ぐこともしないで。

集歌3939 佐刀知加久 伎美我奈里那婆 古非米也等 母登奈於毛比此 安連曽久夜思伎
訓読 里近く君がなりなば恋ひめやともとな思ひし吾(あれ)ぞ悔しき
私訳 私の住む里近くに貴方がお出でになれば恋心を隠そうと理由もなく思ったことが、私は悔しいことです。

集歌3940 餘呂豆代尓 許己呂波刀氣氏 和我世古我 都美之乎見都追 志乃備加祢都母
訓読 万代(よろづよ)に心は解けて我が背子が摘(つ)みしを見つつ忍びかねつも
私訳 万代までもと二人の心は打ち解けて、私の愛しい貴方が花を摘んだのを見ながら戀心を忍ぶことができません。

集歌3941 鴬能 奈久々良多尓々 宇知波米氏 夜氣波之奴等母 伎美乎之麻多武
訓読 鴬の鳴く崖(くら)谷にうちはめて焼けは死ぬとも君をし待たむ
私訳 鶯の鳴く崖谷にわが身を投げ捨てて、恋心に身が焦がれて焼け死ぬほどであったとしても、貴方のご帰還を待っています。
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再読、今日のみそひと謌 月

2019年07月29日 | 再読、今日のみそひと...
再読、今日のみそひと謌 月

集歌3932 須麻比等乃 海邊都祢佐良受 夜久之保能 可良吉戀乎母 安礼波須流香物
訓読 須磨(すま)人(ひと)の海辺常去らず焼く塩の辛(から)き恋をも吾(あれ)はするかも
私訳 須磨の海人が海辺でいつもそこで焼く塩のように、辛い恋をも私はするのでしょう。

集歌3933 阿里佐利底 能知毛相牟等 於母倍許曽 都由能伊乃知母 都藝都追和多礼
訓読 有り去りて後も逢はむと思へこそ露の命も継ぎつつ渡れ
私訳 恋が終わった後でも、また、お逢いしたいと思っているから、露のようなはかない私の命も、継なぎながら日々を暮らしています。

集歌3934 奈加奈可尓 之奈婆夜須家牟 伎美我目乎 美受比佐奈良婆 須敝奈可流倍思
訓読 なかなかに死なば安けむ君が目を見ず久(ひさ)ならばすべなかるべし
私訳 反って死んでしまったら気も休まるでしょう。貴方にお逢い出来ずにその時が長くなるのなら、戀焦がれる私の思いは、どうしようもないことです。

集歌3935 許母利奴能 之多由孤悲安麻里 志良奈美能 伊知之路久伊泥奴 比登乃師流倍久
訓読 隠沼(こもりぬ)の下ゆ恋ひあまり白波のいちしろく出でぬ人の知るべく
私訳 隠った沼の水底、そのような深い所から戀心が溢れて、白波のようにはっきりと表に顕われた。人が気づくほどに。

集歌3936 久佐麻久良 多妣尓之婆々々 可久能未也 伎美乎夜利都追 安我孤悲乎良牟
訓読 草枕旅にしばしばかくのみや君を遣(や)りつつ吾(あ)が恋ひ居(を)らむ
私訳 草を枕とするような苦しい旅に、しばしば、このように貴方を送り出して、私は貴方に戀焦がれています。
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万葉集 長歌を鑑賞する 集歌4245

2019年07月28日 | 万葉集 長歌を楽しむ
万葉集 長歌を鑑賞する 集歌4245

天平五年贈入唐使謌一首并短謌 作主未詳
標訓 天平五年に、入唐使に贈れる謌一首并せて短謌 作る主は未だ詳(つばび)らかならず
集歌4245 虚見都 山跡乃國 青舟与之 平城京師由 忍照 難波尓久太里 住吉乃 三津尓舶能利 直渡 日入國尓 所遣 和我勢能君乎 懸麻久乃 由々志恐伎 墨吉乃 吾大御神 舶乃倍尓 宇之波伎座 船騰毛尓 御立座而 佐之与良牟 礒乃埼々 許藝波底牟 泊々尓 荒風 浪尓安波世受 平久 率而可敝理麻世 毛等能國家尓

<標準的な解釈(「萬葉集 釋注」伊藤博、集英社文庫)>
訓読 そらみつ 大和の国 あをによし 奈良(なら)の都(みやこ)ゆ おしてる 難波に下り 住吉(すみのえ)の 御津に船乗り 直(ただ)渡(わた)り 日の入る国に 任(まけ)けらゆる 我が背の君を かけまくの ゆゆし畏(かしこ)き 住吉の 我が大御神(おほみかみ) 船の舳(へ)に 領(うしは)きいまし 船艫(ふねとも)に み立たしまして さし寄らむ 礒の崎々(さきさき) 漕(こ)ぎ泊(は)てむ 泊(とま)り泊りに 荒き風 波にあはせず 平(たひら)けく 率(い)て帰りませ もとの朝廷(みかど)に
意訳 そらみつ大和の国、この奈良の都から、おしてる難波に下って、その住吉の御津で船に乗り、まっすぐに海を渡って、日の入る唐の国に遣わされる我が背の君よ、その君を、口にかけて申すもはばかり多い住吉のわれらが大御神よ、行く船の舳先に鎮座ましまし、船の艫にお立ちになって、立ち寄るどの磯の崎々でも、船を泊めるどの港でも、荒い風や波に遭わせず、どうか無事に導いて帰してやって下さい。もとのこの大和の国に。

<西本願寺本万葉集の原文を忠実に訓むときの解釈>
訓読 そらみつ 大和の国 青舟よし 平城(なら)し京師(みやこ)ゆ 忍(を)しし照る 難波に下り 住吉の 御津に船乗り 直渡り 日し入る国に 遣(つか)はさし 吾が背の君を かけまくの ゆゆし畏(かしこ)き 住吉の 吾が大御神(おほみかみ) 船の舳(へ)に 領(うし)き坐(い)まし 船艫(ふねとも)に み立たしまして さし寄らむ 礒の埼埼(さきさき) 榜(こ)ぎ泊(は)てむ 泊(とま)り泊りに 荒き風 波にあはせず 平(たひら)けく 率(い)て帰りませ 本(もと)の国家(みかど)に
私訳 仏教の真理を知る大和の国の新造船は立派で、奈良の都から光が天空と大地から照らす難波に下り、住吉の御津で船に乗り、まっすぐ航海して日が没する国に遣わされる私の尊敬する貴方を、口にするのもひどく憚れる住吉の我らの大御神が、船の舳先に鎮座為され、また、船の艫にお立ちになって、船が近寄るでしょう多くの磯の岬や、操船して船泊まりするでしょう停泊地に、荒々しい風や波に会わせることなく、平穏に神が率いて帰りなさい。本の国に。

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万葉雑記 色眼鏡 三二九 今週のみそひと歌を振り返る その一四九

2019年07月27日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三二九 今週のみそひと歌を振り返る その一四九

 先週後半から巻十七に入り、鑑賞しています。この巻十七から巻二十までの四巻は大伴家持の歌日記と思われるようなもので、歌集としての体裁はありません。平安時代初期の紀貫之たちがこの四巻に載るものを鑑賞すべき和歌と考えたかは不明です。
 さて、次に紹介する歌は山部宿祢明人の表記ですが、ほぼ、山部赤人と同じ人です。万葉集巻十七に載せる順番と歌の題材からしますと天平十四年から天平十五年の春に大伴家持は何かの機会に手帳に記録したと思われます。

山部宿祢明人、詠春鴬謌一首
標訓 山部宿祢明人の、春の鴬を詠う謌一首
集歌3915 安之比奇能 山谷古延氏 野豆加佐尓 今者鳴良武 宇具比須乃許恵
訓読 あしひきの山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ鴬の声
私訳 葦や檜の生える山や谷を越えて野の高みに今は鳴くでしょう。鶯の声は。
左注 右、年月所處、未得詳審。但随聞之時記載於茲
注訓 右は、年月と所處(ところ)は、未だ詳審(つまびらか)を得ず。ただし聞きし時の随(まにま)に茲(ここ)に記し載す。

 参考に同じ鶯を詠う歌が巻八にありますが、巻八のものと比べますとこちらの巻十七の方が良いでしょうか。

山部宿祢赤人謌一首
標訓 山部宿祢赤人の謌一首
集歌1431 百濟野乃 芽古枝尓 待春跡 居之鴬 鳴尓鶏鵡鴨
訓読 百済(くだら)野(の)の萩し古枝(ふるえ)に春待つと居(を)りし鴬鳴きにけむかも
私訳 百済野の萩の古い枝に春を待つように留まっている鶯は、もう、啼き出したかなあ。


 ここで、大伴旅人は万葉集では「旅人」と表記するのが基本ですが、正史では「多比等」と表記することもあります。一方、山部赤人について、この巻十七ではなぜ、「山部宿祢明人」の表記にしたのでしょうか。つまり、表記をなぜ統一しなかったのでしょうか。
 すると、左注に「但随聞之時記載於茲(ただし聞きし時の随に茲に記し載す)」とあるように、大伴家持はまったく山部赤人を知らなかったかもしれません。それで「聞いたままの名前」から「山部宿祢明人」と手帳に記録したのでしょう。なお、左注の前半は、山部赤人が集歌3915の歌を、いつ、どこで、どのような背景で詠ったかは判らないとしますから、家持は何かの仲春を祝う宴会で、こんな歌があると聞いたのでしょう。似たような例として、巻二十に集歌4294の歌の左注に紹介しています。

舎人親王應詔奉和謌一首
標訓 舎人親王の、詔(みことのり)に應(おう)じて和(こた)へ奉(たてまつ)れる謌一首
集歌4294 安之比奇能 山尓由伎家牟 夜麻妣等能 情母之良受 山人夜多礼
訓読 あしひきの山に行きけむ山人(やまひと)の心も知らず山人(やまひと)や誰れ
私訳 葦や桧の生える山に移られた、その山の人とその移られた思いも判りません。さて、その山の人とはどの御方でしょうか。
左注 右、天平勝寶五年五月、在於大納言藤原朝臣之家時、依奏事而請問之間、少主鈴山田史土麿、語少納言大伴宿祢家持曰、昔聞此言。即誦此謌也。
注訓 右は、天平勝寶五年五月に、大納言藤原朝臣の家に在りし時に、事を奏(もう)すに依りて請問(せいもん)せし間に、少主鈴(せうしゆれい)山田史土麿の、少納言大伴宿祢家持に語りて曰はく「昔、此の言(ことば)を聞く」と。即ち此の謌を誦(よ)めるなり。

 妄想は広がります。
 大伴家持はまったく山部赤人を知らなかったのなら、誰が万葉集に載せる「山部赤人」を紹介したかです。本来ですと、大伴家持も山部赤人も武官系の家系ですし、山部赤人が早死にしなければ両者の接点があっても良いのです。ところが、大伴家持は武官系の人ですが皇太子に付けられた内舎人のような経歴などからして宮内系の雅の人です。そのため、勤務での接点がなかった可能性があります。
 ただ、万葉集では有名な山部赤人の名前を知らないとは、実にとぼけた話ですし、万葉集大伴家持編纂説に傷が付きます。弊ブログは二十巻本万葉集は平安時代初期の古今和歌集が編まれる寸前に編纂されたとする説を採用しますから、その考えからしますと、平安時代の人が資料は資料として尊重し、山部宿祢明人の表記を変えなかったとしますと、実に都合の良い話です。

 万葉集巻十七から巻二十は、原万葉集編纂前後の事情を説明するような巻と思っていますので、そのような視線で、法螺と与太を紹介していきます。
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