万葉雑記 色眼鏡 三二九 今週のみそひと歌を振り返る その一四九
先週後半から巻十七に入り、鑑賞しています。この巻十七から巻二十までの四巻は大伴家持の歌日記と思われるようなもので、歌集としての体裁はありません。平安時代初期の紀貫之たちがこの四巻に載るものを鑑賞すべき和歌と考えたかは不明です。
さて、次に紹介する歌は山部宿祢明人の表記ですが、ほぼ、山部赤人と同じ人です。万葉集巻十七に載せる順番と歌の題材からしますと天平十四年から天平十五年の春に大伴家持は何かの機会に手帳に記録したと思われます。
山部宿祢明人、詠春鴬謌一首
標訓 山部宿祢明人の、春の鴬を詠う謌一首
集歌3915 安之比奇能 山谷古延氏 野豆加佐尓 今者鳴良武 宇具比須乃許恵
訓読 あしひきの山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ鴬の声
私訳 葦や檜の生える山や谷を越えて野の高みに今は鳴くでしょう。鶯の声は。
左注 右、年月所處、未得詳審。但随聞之時記載於茲
注訓 右は、年月と所處(ところ)は、未だ詳審(つまびらか)を得ず。ただし聞きし時の随(まにま)に茲(ここ)に記し載す。
参考に同じ鶯を詠う歌が巻八にありますが、巻八のものと比べますとこちらの巻十七の方が良いでしょうか。
山部宿祢赤人謌一首
標訓 山部宿祢赤人の謌一首
集歌1431 百濟野乃 芽古枝尓 待春跡 居之鴬 鳴尓鶏鵡鴨
訓読 百済(くだら)野(の)の萩し古枝(ふるえ)に春待つと居(を)りし鴬鳴きにけむかも
私訳 百済野の萩の古い枝に春を待つように留まっている鶯は、もう、啼き出したかなあ。
ここで、大伴旅人は万葉集では「旅人」と表記するのが基本ですが、正史では「多比等」と表記することもあります。一方、山部赤人について、この巻十七ではなぜ、「山部宿祢明人」の表記にしたのでしょうか。つまり、表記をなぜ統一しなかったのでしょうか。
すると、左注に「但随聞之時記載於茲(ただし聞きし時の随に茲に記し載す)」とあるように、大伴家持はまったく山部赤人を知らなかったかもしれません。それで「聞いたままの名前」から「山部宿祢明人」と手帳に記録したのでしょう。なお、左注の前半は、山部赤人が集歌3915の歌を、いつ、どこで、どのような背景で詠ったかは判らないとしますから、家持は何かの仲春を祝う宴会で、こんな歌があると聞いたのでしょう。似たような例として、巻二十に集歌4294の歌の左注に紹介しています。
舎人親王應詔奉和謌一首
標訓 舎人親王の、詔(みことのり)に應(おう)じて和(こた)へ奉(たてまつ)れる謌一首
集歌4294 安之比奇能 山尓由伎家牟 夜麻妣等能 情母之良受 山人夜多礼
訓読 あしひきの山に行きけむ山人(やまひと)の心も知らず山人(やまひと)や誰れ
私訳 葦や桧の生える山に移られた、その山の人とその移られた思いも判りません。さて、その山の人とはどの御方でしょうか。
左注 右、天平勝寶五年五月、在於大納言藤原朝臣之家時、依奏事而請問之間、少主鈴山田史土麿、語少納言大伴宿祢家持曰、昔聞此言。即誦此謌也。
注訓 右は、天平勝寶五年五月に、大納言藤原朝臣の家に在りし時に、事を奏(もう)すに依りて請問(せいもん)せし間に、少主鈴(せうしゆれい)山田史土麿の、少納言大伴宿祢家持に語りて曰はく「昔、此の言(ことば)を聞く」と。即ち此の謌を誦(よ)めるなり。
妄想は広がります。
大伴家持はまったく山部赤人を知らなかったのなら、誰が万葉集に載せる「山部赤人」を紹介したかです。本来ですと、大伴家持も山部赤人も武官系の家系ですし、山部赤人が早死にしなければ両者の接点があっても良いのです。ところが、大伴家持は武官系の人ですが皇太子に付けられた内舎人のような経歴などからして宮内系の雅の人です。そのため、勤務での接点がなかった可能性があります。
ただ、万葉集では有名な山部赤人の名前を知らないとは、実にとぼけた話ですし、万葉集大伴家持編纂説に傷が付きます。弊ブログは二十巻本万葉集は平安時代初期の古今和歌集が編まれる寸前に編纂されたとする説を採用しますから、その考えからしますと、平安時代の人が資料は資料として尊重し、山部宿祢明人の表記を変えなかったとしますと、実に都合の良い話です。
万葉集巻十七から巻二十は、原万葉集編纂前後の事情を説明するような巻と思っていますので、そのような視線で、法螺と与太を紹介していきます。
先週後半から巻十七に入り、鑑賞しています。この巻十七から巻二十までの四巻は大伴家持の歌日記と思われるようなもので、歌集としての体裁はありません。平安時代初期の紀貫之たちがこの四巻に載るものを鑑賞すべき和歌と考えたかは不明です。
さて、次に紹介する歌は山部宿祢明人の表記ですが、ほぼ、山部赤人と同じ人です。万葉集巻十七に載せる順番と歌の題材からしますと天平十四年から天平十五年の春に大伴家持は何かの機会に手帳に記録したと思われます。
山部宿祢明人、詠春鴬謌一首
標訓 山部宿祢明人の、春の鴬を詠う謌一首
集歌3915 安之比奇能 山谷古延氏 野豆加佐尓 今者鳴良武 宇具比須乃許恵
訓読 あしひきの山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ鴬の声
私訳 葦や檜の生える山や谷を越えて野の高みに今は鳴くでしょう。鶯の声は。
左注 右、年月所處、未得詳審。但随聞之時記載於茲
注訓 右は、年月と所處(ところ)は、未だ詳審(つまびらか)を得ず。ただし聞きし時の随(まにま)に茲(ここ)に記し載す。
参考に同じ鶯を詠う歌が巻八にありますが、巻八のものと比べますとこちらの巻十七の方が良いでしょうか。
山部宿祢赤人謌一首
標訓 山部宿祢赤人の謌一首
集歌1431 百濟野乃 芽古枝尓 待春跡 居之鴬 鳴尓鶏鵡鴨
訓読 百済(くだら)野(の)の萩し古枝(ふるえ)に春待つと居(を)りし鴬鳴きにけむかも
私訳 百済野の萩の古い枝に春を待つように留まっている鶯は、もう、啼き出したかなあ。
ここで、大伴旅人は万葉集では「旅人」と表記するのが基本ですが、正史では「多比等」と表記することもあります。一方、山部赤人について、この巻十七ではなぜ、「山部宿祢明人」の表記にしたのでしょうか。つまり、表記をなぜ統一しなかったのでしょうか。
すると、左注に「但随聞之時記載於茲(ただし聞きし時の随に茲に記し載す)」とあるように、大伴家持はまったく山部赤人を知らなかったかもしれません。それで「聞いたままの名前」から「山部宿祢明人」と手帳に記録したのでしょう。なお、左注の前半は、山部赤人が集歌3915の歌を、いつ、どこで、どのような背景で詠ったかは判らないとしますから、家持は何かの仲春を祝う宴会で、こんな歌があると聞いたのでしょう。似たような例として、巻二十に集歌4294の歌の左注に紹介しています。
舎人親王應詔奉和謌一首
標訓 舎人親王の、詔(みことのり)に應(おう)じて和(こた)へ奉(たてまつ)れる謌一首
集歌4294 安之比奇能 山尓由伎家牟 夜麻妣等能 情母之良受 山人夜多礼
訓読 あしひきの山に行きけむ山人(やまひと)の心も知らず山人(やまひと)や誰れ
私訳 葦や桧の生える山に移られた、その山の人とその移られた思いも判りません。さて、その山の人とはどの御方でしょうか。
左注 右、天平勝寶五年五月、在於大納言藤原朝臣之家時、依奏事而請問之間、少主鈴山田史土麿、語少納言大伴宿祢家持曰、昔聞此言。即誦此謌也。
注訓 右は、天平勝寶五年五月に、大納言藤原朝臣の家に在りし時に、事を奏(もう)すに依りて請問(せいもん)せし間に、少主鈴(せうしゆれい)山田史土麿の、少納言大伴宿祢家持に語りて曰はく「昔、此の言(ことば)を聞く」と。即ち此の謌を誦(よ)めるなり。
妄想は広がります。
大伴家持はまったく山部赤人を知らなかったのなら、誰が万葉集に載せる「山部赤人」を紹介したかです。本来ですと、大伴家持も山部赤人も武官系の家系ですし、山部赤人が早死にしなければ両者の接点があっても良いのです。ところが、大伴家持は武官系の人ですが皇太子に付けられた内舎人のような経歴などからして宮内系の雅の人です。そのため、勤務での接点がなかった可能性があります。
ただ、万葉集では有名な山部赤人の名前を知らないとは、実にとぼけた話ですし、万葉集大伴家持編纂説に傷が付きます。弊ブログは二十巻本万葉集は平安時代初期の古今和歌集が編まれる寸前に編纂されたとする説を採用しますから、その考えからしますと、平安時代の人が資料は資料として尊重し、山部宿祢明人の表記を変えなかったとしますと、実に都合の良い話です。
万葉集巻十七から巻二十は、原万葉集編纂前後の事情を説明するような巻と思っていますので、そのような視線で、法螺と与太を紹介していきます。