竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 百九七 今週のみそひと歌を振り返る その十七

2016年12月31日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百九七 今週のみそひと歌を振り返る その十七

 今回は少し目先を変えて、奈良時代から平安時代初期の奈良と大宰府とを結ぶ交通路を考えてみたいと思います。
 この視線からしますと、今週に鑑賞しました集歌447の歌や集歌449の歌がそれに関係するものです。歌は大伴旅人が大宰府から奈良の都に帰京する時に詠った歌で、地名として鞆浦(広島県福山市)や敏馬(兵庫県神戸市)が詠われています。ここでは紹介しませんが、他に大伴旅人に関して吉備児嶋も他の歌に見えます。

集歌447 鞆浦之 礒之室木 将見毎 相見之妹者 将所忘八方
訓読 鞆浦(ともうら)し礒し室木(むろのき)見むごとに相見し妹は忘らえそやも
私訳 鞆の浦の磯にある室木を眺めるたびに、二人して眺めたその妻を忘れることはないでしょう。

集歌449 与妹来之 敏馬能埼乎 還左尓 獨而見者 涕具末之毛
訓読 妹と来し敏馬(みぬめ)の崎を還(かへ)るさに独(ひと)りに見れば涙ぐましも
私訳 愛しい貴女と奈良の京から来た敏馬の埼を、筑紫からの帰還の折にただ独りだけで眺めると涙ぐむ。

 これらの歌などから古代の交通路を考えますと、大伴旅人は大宰府への下向と奈良の都への帰京時に瀬戸内海山陽道側の海上航路を使用していたと推定されています。

 さて、弊ブログは御存じのようにへそ曲がりの者が運用をしていますから、古代の交通路が一つとは決め打ちにしていません。そうした時、古代の交通路に関する重要な資料に『延喜式』に載る公務に関わる旅費と運賃規定があります。その平安時代初期に運営されていた行政をまとめた『延喜式』には、以下に示す調・庸・調副物を京師に納入するときの労働代価となる運賃規定「諸國運漕雜物功賃」の他に運搬を担当する運脚への往復での食糧の支給規定があります。運脚費用は農民の自弁ではありません。選抜制ですが官給有償の賃労働だったのです。

1. 右運漕、功賃並依前件。其路粮者各准程給、上人日米二升、塩二勺、下人減半。
2. 凡調庸及中男作物、送京差正丁充運脚、餘出脚直以資。脚夫預具所須之數、告知應出之人、依限検領、准程量宜、設置路次。起上道日、迄于納官、給一人日米二升、塩二勺。還日減半。

 こうした時、「諸國運漕雜物功賃」に一般常識を覆す規定があります。それは何かと云うと瀬戸内海航路が二種類は存在したと云う規定です。どう云うことかと云うと、まず、律令七街道時代、南海道と云う平安京から四国への連絡する街道があり、この南海道の運漕雜物功賃のリストの最後に太宰府への海路のものが次のように載せられています。

太宰府海路: 自博多津漕難波津船賃、石別五束、挾杪六十束、水手四十束。自餘准播磨國
<参考:「准播磨國」の意味>
播磨國海路: 自國漕與等津船賃、石別稻一束、挾杪十八束、水手十二束。自與等津運京車賃、石別米五升。但挾杪一人、水手二人漕米五十石。
注意:「與等津」 は淀津であり、現在の京都市伏見区淀町付近の淀川・巨椋池水運の港

 不思議でしょう。太宰府海路は瀬戸内海北沿岸ルートである山陽道海路に含まれていないのです。そして、太宰府海路は二段階の輸送となっており、筑前国博多津から河内国難波津までの海洋航路と難波津から京師與等津(よどつ=伏見区淀付近)までの内河川航路を使用します。さらに、この與等津から京師市内へは車を使用することになっています。
 大宰府から畿内への交通路で、もし、古くから推定されている山陽道の海路を使うとしますと、次のような規定がありますから、太宰府と長門国との船賃が非常な割高になります。また同時に、太宰府海路を含む南海道においても太宰府と伊予国との船賃が異常な数値となります。

長門國: 自國漕與等津船賃、石別一束五把、挾杪四十束、水手三十束。自餘准播磨國
伊豫國: 自國漕與等津船賃、石別一束二把、挾杪三十束、水手廿五束。自餘准播磨國
太宰府: 自博多津漕難波津船賃、石別五束、挾杪六十束、水手四十束。自餘准播磨國

 この規定を合理的に解決しようとしますと、長門國から京師與等津まで、また、伊豫國から京師與等津までは積荷を積み替えることなく航行する規定からは船は淀川や巨椋池を航行できる喫水の浅い船であったことになります。一方、筑前国博多津から河内国難波津へと航行する船は難波津で積荷を載せ換える必要があったことから、淀川や巨椋池を航行出来ない大船であったことになります。つまり、船サイズがまったくに違うと云うことです。
 さらに、奈良時代も平安時代も博多と壱岐対馬を結ぶ航路、因幡と隠岐を結ぶ航路は維持されていましたから、それらが航行可能な大船と船員は保有されていたと云うことになります。つまり、現実的には瀬戸内海航路で島伝いに行く地乗り航路も沖合を直行する沖乗り航路も共に運用が可能であったと考えられます。ただし、筑前国博多津から河内国難波津へと航行する沖乗り航路の用船費用は非常に高価です。それは、太宰府から関門海峡を渡り、長門國を経由して京師與等津を結ぶ地乗り航路の用船費用の約三倍です。高額運賃に見合う荷物が大量に集荷されなければ大船での沖乗り直行航路は採算にあいません。小型船舶ですが島伝いに行く地乗り航路で十分と云うことになります。
 逆に見ますと、地乗り航路は小型船舶での運用ですから、少量多頻度と云うことで供用頻度は高かったと思われます。大伴旅人の下向や帰京のようにある程度の荷物を伴い日程と随員数が相当前から確定している場合には非常に使いやすい交通手段であったと思われます。
 おおよそ、律令時代の旅費運賃規定からしますと、瀬戸内海には三つの海上交通路が存在したであろうと推定することが可能です。その一つが山陽道側地乗り航路、二つ目が南海道側地乗り航路、三つ目が大船での沖乗り直行航路です。すると、万葉集の歌を鑑賞する時、このような瀬戸内海での三つの航路の存在を承知していなければいけないことになります。ただ単純に瀬戸内海山陽道地乗り航路だけを想像しておけばよいと云う訳にもいきません。そのため、歌で詠う地名や航行して来たであろう方角から、どの航路を使ったのかを酔論して、歌を鑑賞する必要があります。ちなみに柿本人麻呂は播磨国には山陽道地乗り航路、筑紫国には沖乗り直行航路を使用し、大伴旅人は大宰府との往復には山陽道地乗り航路を使用しています。

 終わりに、
 参考として瀬戸内海山陽道地乗り航路で使う船の標準サイズは「但挾杪一人,水手二人漕米五十石」の規定からして四十~五十石船で、操船は船頭一人に水手二人による帆走であったと思われます。まず、魯走ではありません。この四十~五十石船は「ひらた船」などから推定して船長15m、船幅3m程度のもので船室を持っていたと思われます。一方、沖乗り直行航路を行く大船は新羅船と同等なものと思われ船長24m、船幅5m程度のもので三~四百石積ほどであったのではないでしょうか。また、承和五年(838)最後の遣唐使の帰国記録などから新羅船の操船は船長一人に水手六人程度で帆走していたと推定されています。なお、奈良大仏や和銅開珍などの貨幣の原料銅や錫は長門や伊予などからの供給です。そして、その量は年間三千から四千石ほどではなかったでしょうか。まず、人が担いで運搬したのではありません。
 万葉集は時代を詠いますから、このような酔論と調査も必要かと・・・・昭和期までの思い付きや結論を予定した希望からの想像だけではいけません。

 また、馬鹿話で終わりました。反省です。
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再読、今日のみそひと歌 金

2016年12月30日 | 再読、今日のみそひと...
再読、今日のみそひと歌 金

集歌469 妹之見師 屋前尓花咲 時者經去 吾泣涙 未干尓
訓読 妹し見し屋前(やと)に花咲き時は経ぬ吾が泣く涙いまだ干(ひ)なくに
私訳 愛しい貴女が眺めた家の庭にナデシコの花は咲き、時は経った。私が泣く涙は未だに乾くことも無いのに。

集歌470 如是耳 有家留物乎 妹毛吾毛 如千歳 憑有来
訓読 如(かく)のみにありけるものを妹も吾(あ)も千歳(ちとせ)のごとく憑(たの)みたりけり
私訳 人の世は、ただ、このように早く死に判れするものを。生前の愛しい貴女も私も千歳を生きるように互いに当てにしていました。

集歌471 離家 伊麻須吾妹乎 停不得 山隠都礼 情神毛奈思
訓読 家離(さか)りいます吾妹(わぎも)を停(とど)めかね山隠(かく)しつれ情(こころ)神(と)もなし
私訳 家を離れていく愛しい貴女を停めることが出来ず、山へ身を隠してしまった。私の心に安らかな気持ちもありません。

集歌472 世間之 常如此耳跡 可都 痛情者 不忍都毛
訓読 世間(よのなか)し常かくのみと可(あた)れど痛き情(こころ)は忍びかねつも
私訳 この世はいつもこのようなものと思い向き合ってみても、辛い心は耐え忍ぶことが出来ない。

集歌473 佐保山尓 多奈引霞 毎見 妹乎思出 不泣日者無
訓読 佐保山(さほやま)にたなびく霞見るごとに妹を思ひ出泣かぬ日はなし
私訳 佐保山に棚引く霞を見るたびに、愛しい貴女を思い出しては泣かない日はありません。

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再読、今日のみそひと歌 木

2016年12月29日 | 再読、今日のみそひと...
再読、今日のみそひと歌 木

集歌463 長夜乎 獨哉将宿跡 君之云者 過去人之所 念久尓
訓読 長き夜をひとりや寝(ね)むと君し云へば過ぎにし人しそ思ほゆらくに
私訳 長い夜を独りで寝るのかと貴方が云うと、死して過ぎ去ていったあの人の事を思い出されます。

集歌464 秋去者 見乍思跡 妹之殖之 屋前乃石竹 開家流香聞
訓読 秋さらば見つつ思(しの)へと妹し植ゑし屋前(やと)の石竹花(なでしこ)咲きにけるかも
私訳 秋がやって来たら眺めて観賞しなさいと愛しい貴女が植えた家の庭のナデシコは、咲き出した。

集歌465 虚蝉之 代者無常跡 知物乎 秋風寒 思努妣都流可聞
訓読 現世(うつせみ)し世は常なしと知るものを秋風寒(さぶ)し思(しの)ひつるかも
私訳 現実の世は定まり無きものと知ってはいるが、秋風は寒く、亡き妻を思い出してしまう。

集歌467 時者霜 何時毛将有乎 情哀 伊去吾妹可 君子乎置而
訓読 時はしも何時(いつ)もあらむを情(こころ)哀(いた)く去(い)にし吾妹(わぎも)か君子(きみのこ)を置きに
私訳 死ぬべき時はいつでもあろうものに、私に辛い思いをさせて死に逝った私の愛しい貴女よ。貴女の私を残したままで。

集歌468 出行 道知末世波 豫 妹乎将留 塞毛置末思乎
訓読 出(い)でて行く道知らませばあらかじめ妹を留(とど)めむ塞(せき)も置かましを
私訳 この世から出て行く道を知っていたならば、最初から愛しい貴女をこの世に留めるための道を塞ぐ関も置いたのですが。

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再読、今日のみそひと歌 水

2016年12月28日 | 再読、今日のみそひと...
再読、今日のみそひと歌 水

集歌457 遠長 将仕物常 念有之 君師不座者 心神毛奈思
訓読 遠長く仕(つか)へむものと念(おも)へりし君し坐(ま)さねば心神(こころど)も無し
私訳 遠く長くとお仕えするものと願っていました貴方の、その貴方がいらっしゃらないので気もそぞろです。

集歌458 若子乃 匍匐多毛登保里 朝夕 哭耳曽吾泣 君無二四天
訓読 緑児(みどりこ)の這(は)ひたもとほり朝夕(あさよひ)に哭(ね)のみぞ吾が泣(な)く君なしにして
私訳 赤子は這い回り、朝も夕べも、ただ泣くだけ。そのように私は泣く。貴方がいらっしゃらないので。

集歌459 見礼杼不飽 伊座之君我 黄葉乃 移伊去者 悲喪有香
訓読 見れど飽かず座(いま)しし君が黄葉(もみちは)の移(うつ)りい去(ぬ)れば悲しくもあるか
私訳 お慕いしてもしきれない、そのようにいらした御方が、黄葉の彩りのように移ろい散り去ってしまうと、これほどに悲しく思えるのでしょうか。

集歌461 留不得 壽尓之在者 敷細乃 家従者出而 雲隠去寸
訓読 留(とど)めえぬ命(いのち)にしあれば敷栲の家ゆは出でに雲(くも)隠(かく)りにき
私訳 留めることのできない命であるので、夜に床を取る家から出て行ってしまって雲の彼方に隠れてしまった。

集歌462 従今者 秋風寒 将吹焉 如何獨 長夜乎将宿
訓読 今よりは秋風寒く吹きなむを如何(いか)にかひとり長き夜を宿(ね)む
私訳 今からは秋風が寒く吹くでしょうに、これからどのようにして独りで長い夜を寝ましょう。

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再読、今日のみそひと歌 火

2016年12月27日 | 再読、今日のみそひと...
再読、今日のみそひと歌 火

集歌452 与妹為而 二作之 吾山齊者 木高繁 成家留鴨
訓読 妹とせに二人作りし吾(あ)が山斎(しま)は木高(こたか)し繁しなりにけるかも
私訳 愛しい妻と二人で作った我が家の庭は、木が高く茂っている。

集歌453 吾妹子之 殖之梅樹 毎見 情咽都追 涕之流
訓読 吾妹子し植ゑし梅木し見るごとに情(こころ)咽(む)せつつ涙し流る
私訳 私の妻が植えた梅の木を見るたびに心もむせるように涙が切に流れます

集歌454 愛八師 榮之君乃 伊座勢波 昨日毛今日毛 吾乎召座之乎
訓読 愛(は)しきやし栄えし君の座(いま)しせば昨日(きのふ)も今日(けふ)も吾(わ)れを召さざしを
私訳 尊敬し華かでいられた貴方がご存命なら、昨日も今日も私をお召しになったのに。

集歌455 如是耳 有家類物乎 芽子花 咲而有哉跡 問之君波母
訓読 如(かく)のみにありけるものを萩し花咲きにありやと問ひし君はも
私訳 このようにしかないのでしょうが、萩の花が咲いているかと、お聞きになった貴方です。

集歌456 君尓戀 痛毛為便奈美 蘆鶴之 哭耳所泣 朝夕四天
訓読 君に恋ふいたもすべ無み蘆(あし)鶴(たづ)し哭(ね)のみそ泣(な)かゆ朝夕(あさよひ)にして
私訳 貴方を慕う。ただどうしようもない。葦べの鶴のように血の声を絞って泣くばかり、朝となく夕べとなく。

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