万葉雑記 色眼鏡 百九七 今週のみそひと歌を振り返る その十七
今回は少し目先を変えて、奈良時代から平安時代初期の奈良と大宰府とを結ぶ交通路を考えてみたいと思います。
この視線からしますと、今週に鑑賞しました集歌447の歌や集歌449の歌がそれに関係するものです。歌は大伴旅人が大宰府から奈良の都に帰京する時に詠った歌で、地名として鞆浦(広島県福山市)や敏馬(兵庫県神戸市)が詠われています。ここでは紹介しませんが、他に大伴旅人に関して吉備児嶋も他の歌に見えます。
集歌447 鞆浦之 礒之室木 将見毎 相見之妹者 将所忘八方
訓読 鞆浦(ともうら)し礒し室木(むろのき)見むごとに相見し妹は忘らえそやも
私訳 鞆の浦の磯にある室木を眺めるたびに、二人して眺めたその妻を忘れることはないでしょう。
集歌449 与妹来之 敏馬能埼乎 還左尓 獨而見者 涕具末之毛
訓読 妹と来し敏馬(みぬめ)の崎を還(かへ)るさに独(ひと)りに見れば涙ぐましも
私訳 愛しい貴女と奈良の京から来た敏馬の埼を、筑紫からの帰還の折にただ独りだけで眺めると涙ぐむ。
これらの歌などから古代の交通路を考えますと、大伴旅人は大宰府への下向と奈良の都への帰京時に瀬戸内海山陽道側の海上航路を使用していたと推定されています。
さて、弊ブログは御存じのようにへそ曲がりの者が運用をしていますから、古代の交通路が一つとは決め打ちにしていません。そうした時、古代の交通路に関する重要な資料に『延喜式』に載る公務に関わる旅費と運賃規定があります。その平安時代初期に運営されていた行政をまとめた『延喜式』には、以下に示す調・庸・調副物を京師に納入するときの労働代価となる運賃規定「諸國運漕雜物功賃」の他に運搬を担当する運脚への往復での食糧の支給規定があります。運脚費用は農民の自弁ではありません。選抜制ですが官給有償の賃労働だったのです。
1. 右運漕、功賃並依前件。其路粮者各准程給、上人日米二升、塩二勺、下人減半。
2. 凡調庸及中男作物、送京差正丁充運脚、餘出脚直以資。脚夫預具所須之數、告知應出之人、依限検領、准程量宜、設置路次。起上道日、迄于納官、給一人日米二升、塩二勺。還日減半。
こうした時、「諸國運漕雜物功賃」に一般常識を覆す規定があります。それは何かと云うと瀬戸内海航路が二種類は存在したと云う規定です。どう云うことかと云うと、まず、律令七街道時代、南海道と云う平安京から四国への連絡する街道があり、この南海道の運漕雜物功賃のリストの最後に太宰府への海路のものが次のように載せられています。
太宰府海路: 自博多津漕難波津船賃、石別五束、挾杪六十束、水手四十束。自餘准播磨國
<参考:「准播磨國」の意味>
播磨國海路: 自國漕與等津船賃、石別稻一束、挾杪十八束、水手十二束。自與等津運京車賃、石別米五升。但挾杪一人、水手二人漕米五十石。
注意:「與等津」 は淀津であり、現在の京都市伏見区淀町付近の淀川・巨椋池水運の港
不思議でしょう。太宰府海路は瀬戸内海北沿岸ルートである山陽道海路に含まれていないのです。そして、太宰府海路は二段階の輸送となっており、筑前国博多津から河内国難波津までの海洋航路と難波津から京師與等津(よどつ=伏見区淀付近)までの内河川航路を使用します。さらに、この與等津から京師市内へは車を使用することになっています。
大宰府から畿内への交通路で、もし、古くから推定されている山陽道の海路を使うとしますと、次のような規定がありますから、太宰府と長門国との船賃が非常な割高になります。また同時に、太宰府海路を含む南海道においても太宰府と伊予国との船賃が異常な数値となります。
長門國: 自國漕與等津船賃、石別一束五把、挾杪四十束、水手三十束。自餘准播磨國
伊豫國: 自國漕與等津船賃、石別一束二把、挾杪三十束、水手廿五束。自餘准播磨國
太宰府: 自博多津漕難波津船賃、石別五束、挾杪六十束、水手四十束。自餘准播磨國
この規定を合理的に解決しようとしますと、長門國から京師與等津まで、また、伊豫國から京師與等津までは積荷を積み替えることなく航行する規定からは船は淀川や巨椋池を航行できる喫水の浅い船であったことになります。一方、筑前国博多津から河内国難波津へと航行する船は難波津で積荷を載せ換える必要があったことから、淀川や巨椋池を航行出来ない大船であったことになります。つまり、船サイズがまったくに違うと云うことです。
さらに、奈良時代も平安時代も博多と壱岐対馬を結ぶ航路、因幡と隠岐を結ぶ航路は維持されていましたから、それらが航行可能な大船と船員は保有されていたと云うことになります。つまり、現実的には瀬戸内海航路で島伝いに行く地乗り航路も沖合を直行する沖乗り航路も共に運用が可能であったと考えられます。ただし、筑前国博多津から河内国難波津へと航行する沖乗り航路の用船費用は非常に高価です。それは、太宰府から関門海峡を渡り、長門國を経由して京師與等津を結ぶ地乗り航路の用船費用の約三倍です。高額運賃に見合う荷物が大量に集荷されなければ大船での沖乗り直行航路は採算にあいません。小型船舶ですが島伝いに行く地乗り航路で十分と云うことになります。
逆に見ますと、地乗り航路は小型船舶での運用ですから、少量多頻度と云うことで供用頻度は高かったと思われます。大伴旅人の下向や帰京のようにある程度の荷物を伴い日程と随員数が相当前から確定している場合には非常に使いやすい交通手段であったと思われます。
おおよそ、律令時代の旅費運賃規定からしますと、瀬戸内海には三つの海上交通路が存在したであろうと推定することが可能です。その一つが山陽道側地乗り航路、二つ目が南海道側地乗り航路、三つ目が大船での沖乗り直行航路です。すると、万葉集の歌を鑑賞する時、このような瀬戸内海での三つの航路の存在を承知していなければいけないことになります。ただ単純に瀬戸内海山陽道地乗り航路だけを想像しておけばよいと云う訳にもいきません。そのため、歌で詠う地名や航行して来たであろう方角から、どの航路を使ったのかを酔論して、歌を鑑賞する必要があります。ちなみに柿本人麻呂は播磨国には山陽道地乗り航路、筑紫国には沖乗り直行航路を使用し、大伴旅人は大宰府との往復には山陽道地乗り航路を使用しています。
終わりに、
参考として瀬戸内海山陽道地乗り航路で使う船の標準サイズは「但挾杪一人,水手二人漕米五十石」の規定からして四十~五十石船で、操船は船頭一人に水手二人による帆走であったと思われます。まず、魯走ではありません。この四十~五十石船は「ひらた船」などから推定して船長15m、船幅3m程度のもので船室を持っていたと思われます。一方、沖乗り直行航路を行く大船は新羅船と同等なものと思われ船長24m、船幅5m程度のもので三~四百石積ほどであったのではないでしょうか。また、承和五年(838)最後の遣唐使の帰国記録などから新羅船の操船は船長一人に水手六人程度で帆走していたと推定されています。なお、奈良大仏や和銅開珍などの貨幣の原料銅や錫は長門や伊予などからの供給です。そして、その量は年間三千から四千石ほどではなかったでしょうか。まず、人が担いで運搬したのではありません。
万葉集は時代を詠いますから、このような酔論と調査も必要かと・・・・昭和期までの思い付きや結論を予定した希望からの想像だけではいけません。
また、馬鹿話で終わりました。反省です。
今回は少し目先を変えて、奈良時代から平安時代初期の奈良と大宰府とを結ぶ交通路を考えてみたいと思います。
この視線からしますと、今週に鑑賞しました集歌447の歌や集歌449の歌がそれに関係するものです。歌は大伴旅人が大宰府から奈良の都に帰京する時に詠った歌で、地名として鞆浦(広島県福山市)や敏馬(兵庫県神戸市)が詠われています。ここでは紹介しませんが、他に大伴旅人に関して吉備児嶋も他の歌に見えます。
集歌447 鞆浦之 礒之室木 将見毎 相見之妹者 将所忘八方
訓読 鞆浦(ともうら)し礒し室木(むろのき)見むごとに相見し妹は忘らえそやも
私訳 鞆の浦の磯にある室木を眺めるたびに、二人して眺めたその妻を忘れることはないでしょう。
集歌449 与妹来之 敏馬能埼乎 還左尓 獨而見者 涕具末之毛
訓読 妹と来し敏馬(みぬめ)の崎を還(かへ)るさに独(ひと)りに見れば涙ぐましも
私訳 愛しい貴女と奈良の京から来た敏馬の埼を、筑紫からの帰還の折にただ独りだけで眺めると涙ぐむ。
これらの歌などから古代の交通路を考えますと、大伴旅人は大宰府への下向と奈良の都への帰京時に瀬戸内海山陽道側の海上航路を使用していたと推定されています。
さて、弊ブログは御存じのようにへそ曲がりの者が運用をしていますから、古代の交通路が一つとは決め打ちにしていません。そうした時、古代の交通路に関する重要な資料に『延喜式』に載る公務に関わる旅費と運賃規定があります。その平安時代初期に運営されていた行政をまとめた『延喜式』には、以下に示す調・庸・調副物を京師に納入するときの労働代価となる運賃規定「諸國運漕雜物功賃」の他に運搬を担当する運脚への往復での食糧の支給規定があります。運脚費用は農民の自弁ではありません。選抜制ですが官給有償の賃労働だったのです。
1. 右運漕、功賃並依前件。其路粮者各准程給、上人日米二升、塩二勺、下人減半。
2. 凡調庸及中男作物、送京差正丁充運脚、餘出脚直以資。脚夫預具所須之數、告知應出之人、依限検領、准程量宜、設置路次。起上道日、迄于納官、給一人日米二升、塩二勺。還日減半。
こうした時、「諸國運漕雜物功賃」に一般常識を覆す規定があります。それは何かと云うと瀬戸内海航路が二種類は存在したと云う規定です。どう云うことかと云うと、まず、律令七街道時代、南海道と云う平安京から四国への連絡する街道があり、この南海道の運漕雜物功賃のリストの最後に太宰府への海路のものが次のように載せられています。
太宰府海路: 自博多津漕難波津船賃、石別五束、挾杪六十束、水手四十束。自餘准播磨國
<参考:「准播磨國」の意味>
播磨國海路: 自國漕與等津船賃、石別稻一束、挾杪十八束、水手十二束。自與等津運京車賃、石別米五升。但挾杪一人、水手二人漕米五十石。
注意:「與等津」 は淀津であり、現在の京都市伏見区淀町付近の淀川・巨椋池水運の港
不思議でしょう。太宰府海路は瀬戸内海北沿岸ルートである山陽道海路に含まれていないのです。そして、太宰府海路は二段階の輸送となっており、筑前国博多津から河内国難波津までの海洋航路と難波津から京師與等津(よどつ=伏見区淀付近)までの内河川航路を使用します。さらに、この與等津から京師市内へは車を使用することになっています。
大宰府から畿内への交通路で、もし、古くから推定されている山陽道の海路を使うとしますと、次のような規定がありますから、太宰府と長門国との船賃が非常な割高になります。また同時に、太宰府海路を含む南海道においても太宰府と伊予国との船賃が異常な数値となります。
長門國: 自國漕與等津船賃、石別一束五把、挾杪四十束、水手三十束。自餘准播磨國
伊豫國: 自國漕與等津船賃、石別一束二把、挾杪三十束、水手廿五束。自餘准播磨國
太宰府: 自博多津漕難波津船賃、石別五束、挾杪六十束、水手四十束。自餘准播磨國
この規定を合理的に解決しようとしますと、長門國から京師與等津まで、また、伊豫國から京師與等津までは積荷を積み替えることなく航行する規定からは船は淀川や巨椋池を航行できる喫水の浅い船であったことになります。一方、筑前国博多津から河内国難波津へと航行する船は難波津で積荷を載せ換える必要があったことから、淀川や巨椋池を航行出来ない大船であったことになります。つまり、船サイズがまったくに違うと云うことです。
さらに、奈良時代も平安時代も博多と壱岐対馬を結ぶ航路、因幡と隠岐を結ぶ航路は維持されていましたから、それらが航行可能な大船と船員は保有されていたと云うことになります。つまり、現実的には瀬戸内海航路で島伝いに行く地乗り航路も沖合を直行する沖乗り航路も共に運用が可能であったと考えられます。ただし、筑前国博多津から河内国難波津へと航行する沖乗り航路の用船費用は非常に高価です。それは、太宰府から関門海峡を渡り、長門國を経由して京師與等津を結ぶ地乗り航路の用船費用の約三倍です。高額運賃に見合う荷物が大量に集荷されなければ大船での沖乗り直行航路は採算にあいません。小型船舶ですが島伝いに行く地乗り航路で十分と云うことになります。
逆に見ますと、地乗り航路は小型船舶での運用ですから、少量多頻度と云うことで供用頻度は高かったと思われます。大伴旅人の下向や帰京のようにある程度の荷物を伴い日程と随員数が相当前から確定している場合には非常に使いやすい交通手段であったと思われます。
おおよそ、律令時代の旅費運賃規定からしますと、瀬戸内海には三つの海上交通路が存在したであろうと推定することが可能です。その一つが山陽道側地乗り航路、二つ目が南海道側地乗り航路、三つ目が大船での沖乗り直行航路です。すると、万葉集の歌を鑑賞する時、このような瀬戸内海での三つの航路の存在を承知していなければいけないことになります。ただ単純に瀬戸内海山陽道地乗り航路だけを想像しておけばよいと云う訳にもいきません。そのため、歌で詠う地名や航行して来たであろう方角から、どの航路を使ったのかを酔論して、歌を鑑賞する必要があります。ちなみに柿本人麻呂は播磨国には山陽道地乗り航路、筑紫国には沖乗り直行航路を使用し、大伴旅人は大宰府との往復には山陽道地乗り航路を使用しています。
終わりに、
参考として瀬戸内海山陽道地乗り航路で使う船の標準サイズは「但挾杪一人,水手二人漕米五十石」の規定からして四十~五十石船で、操船は船頭一人に水手二人による帆走であったと思われます。まず、魯走ではありません。この四十~五十石船は「ひらた船」などから推定して船長15m、船幅3m程度のもので船室を持っていたと思われます。一方、沖乗り直行航路を行く大船は新羅船と同等なものと思われ船長24m、船幅5m程度のもので三~四百石積ほどであったのではないでしょうか。また、承和五年(838)最後の遣唐使の帰国記録などから新羅船の操船は船長一人に水手六人程度で帆走していたと推定されています。なお、奈良大仏や和銅開珍などの貨幣の原料銅や錫は長門や伊予などからの供給です。そして、その量は年間三千から四千石ほどではなかったでしょうか。まず、人が担いで運搬したのではありません。
万葉集は時代を詠いますから、このような酔論と調査も必要かと・・・・昭和期までの思い付きや結論を予定した希望からの想像だけではいけません。
また、馬鹿話で終わりました。反省です。