竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉雑記 色眼鏡 百九七 今週のみそひと歌を振り返る その十七

2016年12月31日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百九七 今週のみそひと歌を振り返る その十七

 今回は少し目先を変えて、奈良時代から平安時代初期の奈良と大宰府とを結ぶ交通路を考えてみたいと思います。
 この視線からしますと、今週に鑑賞しました集歌447の歌や集歌449の歌がそれに関係するものです。歌は大伴旅人が大宰府から奈良の都に帰京する時に詠った歌で、地名として鞆浦(広島県福山市)や敏馬(兵庫県神戸市)が詠われています。ここでは紹介しませんが、他に大伴旅人に関して吉備児嶋も他の歌に見えます。

集歌447 鞆浦之 礒之室木 将見毎 相見之妹者 将所忘八方
訓読 鞆浦(ともうら)し礒し室木(むろのき)見むごとに相見し妹は忘らえそやも
私訳 鞆の浦の磯にある室木を眺めるたびに、二人して眺めたその妻を忘れることはないでしょう。

集歌449 与妹来之 敏馬能埼乎 還左尓 獨而見者 涕具末之毛
訓読 妹と来し敏馬(みぬめ)の崎を還(かへ)るさに独(ひと)りに見れば涙ぐましも
私訳 愛しい貴女と奈良の京から来た敏馬の埼を、筑紫からの帰還の折にただ独りだけで眺めると涙ぐむ。

 これらの歌などから古代の交通路を考えますと、大伴旅人は大宰府への下向と奈良の都への帰京時に瀬戸内海山陽道側の海上航路を使用していたと推定されています。

 さて、弊ブログは御存じのようにへそ曲がりの者が運用をしていますから、古代の交通路が一つとは決め打ちにしていません。そうした時、古代の交通路に関する重要な資料に『延喜式』に載る公務に関わる旅費と運賃規定があります。その平安時代初期に運営されていた行政をまとめた『延喜式』には、以下に示す調・庸・調副物を京師に納入するときの労働代価となる運賃規定「諸國運漕雜物功賃」の他に運搬を担当する運脚への往復での食糧の支給規定があります。運脚費用は農民の自弁ではありません。選抜制ですが官給有償の賃労働だったのです。

1. 右運漕、功賃並依前件。其路粮者各准程給、上人日米二升、塩二勺、下人減半。
2. 凡調庸及中男作物、送京差正丁充運脚、餘出脚直以資。脚夫預具所須之數、告知應出之人、依限検領、准程量宜、設置路次。起上道日、迄于納官、給一人日米二升、塩二勺。還日減半。

 こうした時、「諸國運漕雜物功賃」に一般常識を覆す規定があります。それは何かと云うと瀬戸内海航路が二種類は存在したと云う規定です。どう云うことかと云うと、まず、律令七街道時代、南海道と云う平安京から四国への連絡する街道があり、この南海道の運漕雜物功賃のリストの最後に太宰府への海路のものが次のように載せられています。

太宰府海路: 自博多津漕難波津船賃、石別五束、挾杪六十束、水手四十束。自餘准播磨國
<参考:「准播磨國」の意味>
播磨國海路: 自國漕與等津船賃、石別稻一束、挾杪十八束、水手十二束。自與等津運京車賃、石別米五升。但挾杪一人、水手二人漕米五十石。
注意:「與等津」 は淀津であり、現在の京都市伏見区淀町付近の淀川・巨椋池水運の港

 不思議でしょう。太宰府海路は瀬戸内海北沿岸ルートである山陽道海路に含まれていないのです。そして、太宰府海路は二段階の輸送となっており、筑前国博多津から河内国難波津までの海洋航路と難波津から京師與等津(よどつ=伏見区淀付近)までの内河川航路を使用します。さらに、この與等津から京師市内へは車を使用することになっています。
 大宰府から畿内への交通路で、もし、古くから推定されている山陽道の海路を使うとしますと、次のような規定がありますから、太宰府と長門国との船賃が非常な割高になります。また同時に、太宰府海路を含む南海道においても太宰府と伊予国との船賃が異常な数値となります。

長門國: 自國漕與等津船賃、石別一束五把、挾杪四十束、水手三十束。自餘准播磨國
伊豫國: 自國漕與等津船賃、石別一束二把、挾杪三十束、水手廿五束。自餘准播磨國
太宰府: 自博多津漕難波津船賃、石別五束、挾杪六十束、水手四十束。自餘准播磨國

 この規定を合理的に解決しようとしますと、長門國から京師與等津まで、また、伊豫國から京師與等津までは積荷を積み替えることなく航行する規定からは船は淀川や巨椋池を航行できる喫水の浅い船であったことになります。一方、筑前国博多津から河内国難波津へと航行する船は難波津で積荷を載せ換える必要があったことから、淀川や巨椋池を航行出来ない大船であったことになります。つまり、船サイズがまったくに違うと云うことです。
 さらに、奈良時代も平安時代も博多と壱岐対馬を結ぶ航路、因幡と隠岐を結ぶ航路は維持されていましたから、それらが航行可能な大船と船員は保有されていたと云うことになります。つまり、現実的には瀬戸内海航路で島伝いに行く地乗り航路も沖合を直行する沖乗り航路も共に運用が可能であったと考えられます。ただし、筑前国博多津から河内国難波津へと航行する沖乗り航路の用船費用は非常に高価です。それは、太宰府から関門海峡を渡り、長門國を経由して京師與等津を結ぶ地乗り航路の用船費用の約三倍です。高額運賃に見合う荷物が大量に集荷されなければ大船での沖乗り直行航路は採算にあいません。小型船舶ですが島伝いに行く地乗り航路で十分と云うことになります。
 逆に見ますと、地乗り航路は小型船舶での運用ですから、少量多頻度と云うことで供用頻度は高かったと思われます。大伴旅人の下向や帰京のようにある程度の荷物を伴い日程と随員数が相当前から確定している場合には非常に使いやすい交通手段であったと思われます。
 おおよそ、律令時代の旅費運賃規定からしますと、瀬戸内海には三つの海上交通路が存在したであろうと推定することが可能です。その一つが山陽道側地乗り航路、二つ目が南海道側地乗り航路、三つ目が大船での沖乗り直行航路です。すると、万葉集の歌を鑑賞する時、このような瀬戸内海での三つの航路の存在を承知していなければいけないことになります。ただ単純に瀬戸内海山陽道地乗り航路だけを想像しておけばよいと云う訳にもいきません。そのため、歌で詠う地名や航行して来たであろう方角から、どの航路を使ったのかを酔論して、歌を鑑賞する必要があります。ちなみに柿本人麻呂は播磨国には山陽道地乗り航路、筑紫国には沖乗り直行航路を使用し、大伴旅人は大宰府との往復には山陽道地乗り航路を使用しています。

 終わりに、
 参考として瀬戸内海山陽道地乗り航路で使う船の標準サイズは「但挾杪一人,水手二人漕米五十石」の規定からして四十~五十石船で、操船は船頭一人に水手二人による帆走であったと思われます。まず、魯走ではありません。この四十~五十石船は「ひらた船」などから推定して船長15m、船幅3m程度のもので船室を持っていたと思われます。一方、沖乗り直行航路を行く大船は新羅船と同等なものと思われ船長24m、船幅5m程度のもので三~四百石積ほどであったのではないでしょうか。また、承和五年(838)最後の遣唐使の帰国記録などから新羅船の操船は船長一人に水手六人程度で帆走していたと推定されています。なお、奈良大仏や和銅開珍などの貨幣の原料銅や錫は長門や伊予などからの供給です。そして、その量は年間三千から四千石ほどではなかったでしょうか。まず、人が担いで運搬したのではありません。
 万葉集は時代を詠いますから、このような酔論と調査も必要かと・・・・昭和期までの思い付きや結論を予定した希望からの想像だけではいけません。

 また、馬鹿話で終わりました。反省です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万葉雑記 色眼鏡 百九六 今週のみそひと歌を振り返る その十六

2016年12月24日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百九六 今週のみそひと歌を振り返る その十六

 万葉集の歌を鑑賞する時、悩ましい古語に「つま」と云う言葉があります。古語辞典や標準的な万葉集の解説書では、この「つま」を夫婦における女性、現代語の妻と男性、現代語の夫の二つの意味があり、歌の解釈により女性か男性かの判断が必要とします。つまり、この「つま」と云う古語は夫婦関係を持つ女性にも男性にも使う言葉と解説します。
 このような古語説明をしますから、次の集歌426の歌は困惑する歌となります。

集歌426 草枕 騎宿尓 誰嬬可 國忘有 家待莫國
訓読 草枕旅し宿(やど)りに誰が嬬(つま)か国忘るるか家待たなくに

 参考として「つま」と男性として解釈しますと、つぎのような意訳が可能です。

訳A 草を枕にするような野宿する旅の宿りの中に、誰の夫がその妻が待つ故郷を忘れたのでしょうか。きっと、故郷の家の人たちはここで草枕している貴方を待っているのに。

 一方、「つま」を女性として解釈しますと、つぎのような意訳が行えます。

訳B 草を枕にするような野宿する旅の宿りの中に、誰の妻が、貴方が帰るべき故郷を忘れた、その故郷の家で、ここで草枕している貴方を待っているのに。

 変な話ですが、歌で「つま」を男性としますと、三句目の「誰嬬可」の「誰」は旅で行き倒れた男の妻となり、歌はその男の妻への同情の歌となります。一方、「つま」を女性としますと、「誰」は家で帰りを待っている妻の夫と云うことになり、歌は旅で行き倒れた男を悼む歌となります。歌は「柿本朝臣人麿見香具山、屍悲慟作謌一首」と云う標題を持つ歌ですから、歌は香具山の辺で行き倒れて死んだ男への挽歌です。そのため、歌は訳Bのように解釈せざるを得ないことになります。ここでは「つま」を男性の夫とは解釈は出来ません。また、集歌426の歌では「嬬」を「つま」と訓じていますが、この「嬬」と云う漢字の原義は『説文解字』からすると「濡、柔也。一曰下妻也。下妻猶小妻」ですから、漢字には男性のイメージはありません。原義では一夫多妻制度での序列の低い妻と云うものです。

 さて、最初に紹介しましたように「つま」を標準解釈では女性にでも男性にでも使える古語です。すると、漢語ではなく万葉仮名表記を使う『古事記』歌謡の「都麻(つま)」、『日本書紀』歌謡の「兎摩・逗摩・都麼(つま)」で表記される「つま」が、標準解釈で示す古語なのでしょうか。
 ところが、以下に紹介しますが、『古事記』歌謡五七の「由玖波多賀都麻(行くは誰が妻)」や『日本書紀』歌謡六九の「和餓儺勾菟摩(我が泣く妻)」は夫婦における女性、現代語での「妻」を意味します。夫婦における男性、夫ではありません。
 では、どこから「つま」と云う言葉に夫婦における男性と云う意味合いが導き出されたのでしょうか。伝聞の又聞きですが、有る解説では『古事記』歌謡六の「那遠岐弖 都麻波那斯(なをきて つまはなし)」と云う一節を根拠にする様です。この「なをきて つまはなし」は「汝を除て 夫は無し」と解釈して、ここから「つま」と云う言葉に夫婦における男性と云う意味合いの根拠を求めるようです。
 ただし、非常に危うい根拠です。誰かの『古事記』歌謡の解釈が唯一の根拠では、それは単なる可能性の仮説にしかすぎません。例えば「那遠岐弖 遠波那志 那遠岐弖 都麻波那斯(なをきて をはなし なをきて つまはなし)」と云う文章は、つぎのように二通りに解釈が可能ではないでしょうか。

訳A 貴方を除くと男はいないし、貴方を除くと夫はいない
訳B 貴方を除くと男はいないし、貴方が居なければ私は妻ではない

 当然、訳Aが標準的な解釈で、訳Bは「吾妹子」の「私の貴女」と同じ発想の解釈です。『続日本紀』の記事に示すように夫の死後、新たな男と婚姻せずに貞操を保つ女性を褒賞するように記紀歌謡が編まれた時代、律令制度の要請などから一夫一婦制を尊重した時代です。そうした時、貞操を保つ女と云う立場からしますと「なをきて つまはなし」と云う言葉は夫婦の契りを為した相手が居なければ「妻」と云う特別な地位を示す名称を名乗れないと云うことです。
 さらに同じ歌謡六の「和加久佐能 都麻母多勢良米(わかくさの つまもたせらめ)」では「若草の 妻持たせらめ」と解釈します。標準的な解釈では同じ歌謡中で現れる「都麻(つま)」と云う同じ万葉仮名表記を「夫」と「妻」との二つの意味合いで歌を詠うことになりますし、歌中では「夫」を「那(な)」と表記しているのに、なぜ、「那遠岐弖 都麻波那」では「那」ではなく「都麻」なのでしょうか。
 つまり、「なをきて つまはなし」を「汝を除て 夫は無し」と解釈した人は「吾背子」、「妹背」、「吾勢」のような万葉集表現に弱く、その態度で「記紀歌謡」を独特に解釈した結果、「つま」を「夫」と解釈出来るとしたのかもしれません。もし、「都麻」と云う万葉仮名表記に対して「つま=夫」と解釈するのですと、『古事記』歌謡六以外の根拠を示す必要があると考えます。ただ、弊ブログでは「記紀歌謡」を資料篇に紹介していますが、「都麻」、「兎摩」、「逗摩」、「都麼」などは「つま」と訓じ、解釈は一律に「妻」です。例外はありません。

 当然、標準的な解釈で「つま」と云う古語に「妻」と「夫」との二通りの解釈があるとしていますと、その解釈根拠があやふやで信頼できないのですと、『万葉集』の解釈に混乱が生じます。例えば次の集歌153の長歌の解釈は相当に変わります。なお『万葉集』と同時代となる『古事記』歌謡での「わかくさの つま」は「若草の妻」が標準解釈であって、「若草の夫」などと云う軟弱でヤワヤワした解釈はありません。大后が歌を奉げた相手は血で血を洗うような皇位継承を戦い勝ち、百済の役なども経験した天智天皇です。その人物が「若草の夫」ですか。それに原歌表記での漢字は「若草乃嬬」ですから、漢字原義からも不適です。

大后御謌一首
標訓 大后の御歌(おほみうた)一首
集歌153 鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来舡 邊附而 榜来船 奥津加伊 痛勿波祢曽 邊津加伊 痛莫波祢曽 若草乃 嬬之 念鳥立
試訓 鯨魚(いさな)取り 淡海(あふみ)の海(うみ)を 沖放(さ)けに 漕ぎ来る船 辺(へ)附きに 漕ぎ来る船 沖つ櫂(かひ) いたくな撥ねそ 辺(へ)つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 嬬(つま)し念(も)ふ鳥立つ

 今回もまた、与太話で終始してしまいました。反省する次第です。
 ただ、弊ブログでの解釈は標準的な古語解釈とは待ったくに違いますが、少なくとも『古事記』や『日本書紀』に載る歌謡と『万葉集』の歌に対して、「つま」と云う古語に「妻」と「夫」との二通りの解釈があると云うものは採用出来ません。採用する場合は、『古事記』や『万葉集』と同時代文献などから、その根拠を示すのが先です。個人的な文章解釈一例だけでもってその言葉の定義として採用することは出来ません。一例だけしか無いのであれば、一義的にその言葉の定義に収束することを証明する必要があります。その証明で社会的肩書は学問根拠にならないことは明らかです。
 で、立場を持つお方、漢字だけで記述された原文や原歌から仮説を確認しましたか。訓じの漢字交じり平仮名文は、時に、訳者によっては意図に叶うように誘導する創訳を行うことがあります。


<参考資料>
古事記 歌謡五七
原歌 夜麻登幣邇 由玖波多賀都麻 許母理豆能 志多用波閇都都 由久波多賀都麻
読下 やまとへに ゆくはたがつま こもりづの したよはへつつ ゆくはたがつま
解釈 倭方に 行くは誰が妻 隠り処の 下よ延へつつ 行くは誰が妻

日本書紀 歌謡六九
原歌 阿資臂紀能 椰摩娜烏菟絇利 椰摩娜箇弥 斯哆媚烏和之勢 志哆那企弐 和餓儺勾菟摩 箇哆儺企弐 和餓儺勾兎摩 去樽去曾 椰主区泮娜布例
読下 あしひきの やまだをつくり やまだかみ したびをわしせ したなきに わがなくつま かたなきに わがなくつま こぞこそ やすくはだふれ
解釈 あしひきの 山田をつくり 山高み 下樋を走しせ 下泣きに 我が泣く妻 片泣きに 我が泣く妻 今夜こそ 安く膚觸れ

古事記 歌謡五
原歌 奴婆多麻能 久路岐美祁斯遠 麻都夫佐爾 登理與曾比 淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許禮婆布佐波受 幣都那美 曾邇奴岐宇弖 蘇邇杼理能 阿遠岐美祁斯遠 麻都夫佐邇 登理與曾比 於岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許母布佐波受 幣都那美 曾邇奴棄宇弖 夜麻賀多爾 麻岐斯 阿多尼都岐 曾米紀賀斯流邇 斯米許呂母遠 麻都夫佐邇 登理與曾比 淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許斯與呂志 伊刀古夜能 伊毛能美許等 牟良登理能 和賀牟禮伊那婆 比氣登理能 和賀比氣伊那婆 那迦士登波 那波伊布登母 夜麻登能 比登母登須須岐 宇那加夫斯 那賀那加佐麻久 阿佐阿米能 佐疑理邇多多牟敍 和加久佐能 都麻能美許登 許登能 加多理碁登母 許遠婆
読下 ぬばたまの くろきみねしを まつふさに とりよそひ をきつとり むなみるとき はたたぎも こればふさはず へつなみ そにぬきうて そにとりの あをきみねしを まつふさに とりよそひ をきつとり むなみるとき はたたぎも こもふさはず へつなみ そにぬきうて やまがたに まきしあたねつき そめきがしるに しめころもを まつふさに とりよそひ をきつとり みなみるとき はたたぎも こしよろし いとこやの いものみこと むらとりの わがぬれいなば ひけとりの わがひけいなば なかしとは なはいふとも やまとの ひともとすすき うなかふし なかなかさまく あさあめの さぎちにたたぬそ わかくさの つまのみこと ことの かたりごとも こをば
解釈 ぬばたまの 黒く御衣を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたぎも これは適さず 辺つ波 そに脱き棄て そに鳥の 青き御衣を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたぎも こも適はず 辺つ波 そに脱き棄て 山県に 蒔きし あたね舂き 染木が汁に 染め衣を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたぎも 此し宜し いとこやの 妹の命 群鳥の 我が群れ往なば 引け鳥の 我が引け往なば 泣かじとは 汝は言ふとも 山処の 一本薄 項傾し 汝が泣かさまく 朝雨の 霧に立たむぞ 若草の 妻の命 事の 語り言も 是をば

古事記 歌謡六
原歌 夜知富許能 加尾能美許登夜 阿賀淤富久邇奴斯 那許曾波 遠邇伊麻世婆 宇知尾流 斯麻能佐岐耶岐 加岐尾流 伊蘇能佐岐淤知受 和加久佐能 都麻母多勢良米 阿波母與 賣邇斯阿礼婆 那遠岐弖 遠波那志 那遠岐弖 都麻波那斯 阿夜加岐能 布波夜賀斯多爾 牟斯夫須麻 爾古夜賀斯多爾 多久夫須麻 佐夜具賀斯多爾 阿和由岐能 和加夜流牟泥遠 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 曾陀多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻伝 多麻伝佐斯麻岐 毛毛那賀邇 伊遠斯那世 登與美岐 多弖麻都良世
読下 やちほこの かみのみことや わがをふくにぬし なこそは をにいませば うちみる しまのさきさき かきみる いそのさきをちず わかくさの つまもたせらめ あはもよ めにしあれば なをきて をはなし なをきて つまはなし あやかきの ふはやがしたに むきふすま にこやかしたに たくふすま さやぐかしたに あわゆきの わかやるむねを たくずぬの しろきただむき そだたき たたきまなかり またまて たまてさしまき ももなかに いをしなせ とよみき たてまつらせ
解釈 八千矛の 神の命や 吾が大国主 汝こそは 男に坐せば 打ち廻る 島の埼埼 かき廻る 磯の埼落ちず 若草の 妻持たせらめ 吾はもよ 女にしあれば 汝を除て 男は無し 汝を除て 妻は無し 綾垣の ふはやが下に 苧衾 柔やが下に 栲衾 さやぐが下に 沫雪の 若やる胸を 栲綱の 白き腕 そだたき たたきまながり 真玉手 玉手さし枕き 百長に 寝をし寝せ 豊御酒 奉らせ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万葉雑記 色眼鏡 百九五 今週のみそひと歌を振り返る その十五

2016年12月17日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百九五 今週のみそひと歌を振り返る その十五

 今週は集歌410と集歌411の歌を取り上げます。まず、この歌二首は相聞問答歌の組歌です。また、歌は譬喩謌と云う部立に載せられていますから、二首が連携し、歌に何らかの比喩があると云うことになります。これが、鑑賞での約束です。
 さて、今回は弊ブログでの解釈と標準的な解釈とが大きく違いますので、最初にインターネットでは有名なHP 河童老「万葉集を訓む」から引用して、標準的な解釈を紹介します。その標準的な解釈では集歌410の歌で詠われる「橘」を「自分の娘=大伴坂上郎女の娘」の比喩として解釈します。その理解での解釈が次のものです。そして、歌は標題に示すように大伴坂上郎女と誰かとの相聞問答歌ですので、河童老氏はその「誰か」を大伴駿河麻呂とし、坂上郎女の娘の事として話題を展開しているとします。
 追記して、坂上郎女の上の娘大嬢は大伴家持と婚姻し、下の娘二嬢は大伴駿河麻呂と懇親しました。しかしながら、家持と大嬢とは共に人間的に幼く二人の婚姻関係は破綻し、この歌が詠われた時期には疎遠になっていました。その姉大嬢の状況を踏まえ、解釈は妹二嬢が初潮を迎え裳着の儀式を経て娘子から成女になり、婚姻が可能になる前後の様子を詠うとしています。そのような背景を想定した解釈です。
 さらに、大伴旅人の屋敷は橘の木が有名であったようで、大伴家の人々や所縁の人々は、この橘の花などを歌に取り込み詠います。その関係で橘=大伴家の人のような解釈も生じて来ます。

大伴坂上郎女橘謌一首
標訓 大伴坂上郎女の橘の歌一首
集歌410
原歌 橘乎 屋前尓殖生 立而居而 後雖悔 驗将有八方
訓読 橘(たちばな)を屋前(やど)に殖(う)ゑ生(お)ほし立(た)ちて居(ゐ)て後(のち)に悔(く)ゆとも驗(しるし)有(あ)らめやも
解釈 橘をわが家の庭に植えて(大事に)育て立ったり坐ったりして心配し (そのあげく人に取られて)後悔しても何の甲斐がありましょうか

和謌一首
標読 和(こた)へたる歌一首
集歌411
原歌 吾妹兒之 屋前之橘 甚近 殖而師故二 不成者不止
訓読 吾妹兒(わぎもこ)が屋前(やど)の橘(たちばな)いと近(ちか)く殖(う)ゑてし故(ゆゑ)に成(な)らずは止(や)まじ
解釈 あなたのお庭の橘は(私の)すぐ身近な所に植えてしまったのですから実らせずにはおきません

 このHP 河童老「万葉集を訓む」では丁寧にこの二首相聞問答歌について、「阿蘇『萬葉集全歌講義』の【歌意】に適切な記述があるので、引用しておく」として次の文を二首の詠う世界の理解のために載せています。ほぼ、これが万葉集解釈での本流と考えます。

 大伴坂上郎女の歌の「立ちて居て後に悔ゆとも」は、娘と結婚させたあとで、夫の不実に娘が泣くようなことになってからいくら後悔しても、の意で、娘への求婚者の誠意に疑問があることを寓しているのである。和した者の名を記さないが、駿河麻呂か。坂上郎女の娘との結婚に積極的である姿勢を示している。「いと近く植ゑてし故に」は、「わたしの身近なところでお育てになったのだから」のように解され、近い親族でもあり互いに行き来もあった関係をいっているとも解せられるが、坂上郎女が長女を早くから家持と結婚させたいと思っていたと同時に、次女を駿河麻呂と結婚させたいと思い、早くからそうなるようにそれとなく働きかけていたのではないかと思われる。大嬢が家持に贈る歌を坂上郎女が代作したように、二嬢が駿河麻呂に贈る歌を代作していたのではないかと推測される。そういうことも承知の上の駿河麻呂の、あなたが下の娘さんを妻にするようにとこれまでずっとしむけていらしたのだから、という気分が、「いと近く植ゑてし故に」という表現にはこもっているようである。

 一方、弊ブログでは「橘」は坂上郎女の家に植えられた樹木の橘ではなく、橘諸兄として解釈しています。この橘諸兄は天平八年(736)に臣籍降下して橘姓を名乗りますが、それまでは葛城王です。ただし、葛城王の母親県犬養三千代は和銅元年(708)に元明天皇から天皇家に対する功労に報いるとして橘宿禰の姓が与えられていますから、天平八年の臣籍降下以前に本名を忌名とし別尊称として諸兄は橘君と呼ばれていた可能性はあります。つまり、「橘」は時代によっては「橘諸兄」の比喩と為り得るのです。そのため、高貴な橘諸兄を比喩するために「橘」は「屋前(=屋敷前の庭)」に「殖生」とします。歌での言葉選定では屋敷や建物を意味する標準的な屋戸ではなく、屋前です。弊ブログではこの言葉選択の感覚から「橘」が人の比喩としても屋敷で同居する人物では無いと考えています。
 ここで、万葉集全体で「屋戸」と「屋前」の語感や用法を眺めて見ますと、紹介するように「屋戸」は居住する屋敷や部屋と云う感覚を持つ言葉であり、対して「屋前」は部屋から見える前庭や野原と云う感覚を持つ言葉です。もし、この言葉感覚が正しいとしますと、同居する人(=娘二嬢)の比喩とするなら「屋戸」と云う言葉選択が相応しく、訪ねて来る人ですと部屋から外を見て確認する意味合いから「屋前」が相応しいのではないでしょうか。

屋戸の用法
<屋敷の目合の為の部屋の意味合い
集歌126 遊士跡 吾者聞流乎 屋戸不借 吾乎還利 於曽能風流士
集歌759 何 時尓加妹乎 牟具良布能 穢屋戸尓 入将座
<養っている若い女性と同居する家の意味合い
集歌384 吾屋戸尓 韓藍種生之 雖干 不懲而亦毛 将蒔登曽念
<居住する屋敷の部屋の意味合い
集歌488 君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹
集歌744 暮去者 屋戸開設而 吾将待 夢尓相見二 将来云比登乎
<居住する屋敷全体の意味合い
集歌594 吾屋戸之 暮陰草乃 白露之 消蟹本名 所念鴨
集歌777 吾妹子之 屋戸乃籬乎 見尓徃者 盖従門 将返却可聞

屋前の用法
<屋敷の前庭または屋敷から見える野原の意味合い
集歌1338 吾屋前尓 生土針 従心毛 不想人之 衣尓須良由奈
集歌1365 吾妹子之 屋前之秋芽子 自花者 實成而許曽 戀益家礼
集歌1478 吾屋前之 花橘乃 何時毛 珠貫倍久 其實成奈武
集歌1627 吾屋前之 非時藤之 目頬布 今毛見壮鹿 妹之咲容乎
集歌1645 吾屋前之 冬木乃上尓 零雪乎 梅花香常 打見都流香裳


 そうした時、坂上郎女は文武天皇四年(700)頃の生まれで、橘諸兄は天武天皇十三年(684)の生まれですから、約十六歳の開きがあります。そして、この歌が詠われた時代、橘諸兄は参議従三位の高官でした。その年齢差や社会的身分の差から、歌を返した人物が為した言葉選定において「吾妹兒」であって、「吾妹子」では無いのだろうと推定しています。およそ、恋愛において男女対等の立場と云うよりも、一方的に庇護し愛育するような関係です。その圧倒的な差を認識しての「後雖悔 驗将有八方」と云う心の発露であろうと鑑賞しています。
 歌は推定で坂上郎女が三十五・六歳、橘諸兄が五十二・三歳でしょうか。中古代の男女ですから肉体関係も想定されますが、それよりも年齢と立場からしますと精神的な関係を前提にした男女の仲と考えた方が良いと考えます。橘諸兄は知的会話を求めたとするのが良いのではないでしょうか。

大伴坂上郎女橘謌一首
標訓 大伴坂上郎女の橘の歌一首
集歌410 橘乎 屋前尓殖生 立而居而 後雖悔 驗将有八方
訓読 橘を屋前(やど)に植ゑ生(お)ほし立ちに居(ゐ)に後(のち)に悔(く)ゆとも験(しるし)あらめやも
私訳 橘を家に植えて、それを育て上げた後にそれを悔いても形として表に現れることはありません
試訳 橘の公の私への愛を受け止めて、その愛情を私の心の中で育てた後になにがあっても、私の心に悔いがあったとしても貴方を責めたり表立って騒ぎ立てたりすることはありません。

和謌一首
標読 和(こた)へたる歌一首
集歌411 吾妹兒之 屋前之橘 甚近 殖而師故二 不成者不止
訓読 吾妹子し屋前(やど)し橘いと近く植ゑにし故(ゆへ)に成らずは止まじ
私訳 私の愛しい貴女の家に橘をとてもすぐそばに植えたのですから、実を成らせずにはおきません。
試訳 私の愛しい貴女が私の貴女を愛する思いを深く受け止めてくれたのですから、その愛の実を成らせずにはおきません。
注意 この歌二首を橘諸兄と坂上郎女との恋愛と受け止めています。そのため、橘とは諸兄の比喩としています。


 推定で、この二首相聞の前にもう一首、歌があったと推定します。その歌を持って後朝の歌の完成です。
 参考に巻十に「詠花」の部立で、次のような歌があります。

集歌1966 風散 花橘叨 袖受而 為君御跡 思鶴鴨
訓読 風し散る花橘と袖し受けて君し御跡(みあと)と思(しの)ひつるかも
私訳 風に散る花橘の花びらなのだと、それを袖に受け止めて愛しい貴女のことと思い浮かべます。

 非常なる与太話ですが、言葉の語感からこのような酔論を展開することが出来ます。しかし、やはり、馬鹿話でしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万葉雑記 色眼鏡 百九四 今週のみそひと歌を振り返る その十四

2016年12月10日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百九四 今週のみそひと歌を振り返る その十四

 今回は集歌367の歌に載る「日本」と云う表記について考えてみたいと思います。この「日本」と云う表記は、一般には「やまと」と訓じ、一部、集歌319の歌では「ひのもと」と訓じます。

集歌367 越海乃 手結之浦矣 客為而 見者乏見 日本思櫃
訓読 越(こし)し海(み)の手結(たゆひ)し浦を旅しせに見れば乏(とも)しみ日本(やまと)思(しの)ひつ
私訳 越の海にある手結の浜辺を旅の途中で見ると気持ちがおろそかになり、大和の風景を思い出します。

 では、この日本と云う言葉は何を指すのでしょうか? 「やまと」との訓じから奈良盆地一帯の倭国を示すのでしょうか。それとも夷の支配地との境界から隼人の支配地の境界までの大和朝廷が支配していた地域全体を指し、その代表として朝廷の所在地である京師を意味するのでしょうか。それとも畿内を示すのでしょうか。当然、朝廷の所在地である京師としますと、万葉集の時代、京師は飛鳥、近江、飛鳥、藤原、奈良、紫香楽、奈良と変転しますから、歌が詠われた時代によっては示す地域は違うかもしれません。一方、畿内ですと孝徳天皇の大化二年の詔「凡畿内東自名墾横河(=伊賀国名張郡横川)以来。南自紀伊兄山(=紀伊国那賀郡背山)以来。西自赤石櫛淵(=播磨国明石郡櫛淵)以来。北自近江狭々波合坂山(近江国滋賀郡逢坂山)以来。為畿内国」により、明確にその域内が定まります。ただし、天智天皇が、孝徳天皇が定めた畿外となる近江大津に都を移したため、天智天皇時代には境界として東海道の鈴鹿関、東山道の不破関、北陸道の愛発関(=敦賀市疋田?)が実質上の役割を果たしたようです。
 他方、万葉集には「日本」と云う言葉を使った歌が十七首ありますので、以下にそれを紹介します。

石上大臣従駕作謌
集歌44 吾妹子乎 去来見乃山乎 高三香裳 日本能不所見 國遠見可聞

藤原宮御井謌
集歌52 八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 麁妙乃 藤井我原尓 大御門 始賜而 埴安乃 堤上尓 在立之 見之賜者 日本乃 青香具山者 日經乃 大御門尓 春山跡 之美佐備立有 畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 耳為之 青菅山者 背友乃 大御門尓 宣名倍 神佐備立有 名細 吉野乃山者 影友乃 大御門従 雲居尓曽 遠久有家留 高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃 水許曽婆 常尓有米 御井之清水

山上臣憶良在大唐時、憶本郷作謌
集歌63 去来子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武

詠不盡山謌一首并短謌
集歌319 奈麻余美乃 甲斐乃國 打縁流 駿河能國与 己知其智乃 國之三中従 出立有 不盡能高嶺者 天雲毛 伊去波伐加利 飛鳥母 翔毛不上 燎火乎 雪以滅 落雪乎 火用消通都 言不得 名不知 霊母 座神香聞 石花海跡 名付而有毛 彼山之 堤有海曽 不盡河跡 人乃渡毛 其山之 水乃當焉 日本之 山跡國乃 鎮十方 座祇可間 寳十方 成有山可聞 駿河有 不盡能高峯者 雖見不飽香聞

集歌359 阿倍乃嶋 宇乃住石尓 依浪 間無比来 日本師所念

角鹿津乗船時笠朝臣金村作謌一首并短謌
集歌366 越海之 角鹿乃濱従 大舟尓 真梶貫下 勇魚取 海路尓出而 阿倍寸管 我榜行者 大夫乃 手結我浦尓 海未通女 塩焼炎 草枕 客之有者 獨為而 見知師無美 綿津海乃 手二巻四而有 珠手次 懸而之努櫃 日本嶋根乎

集歌367 越海乃 手結之浦矣 客為而 見者乏見 日本思櫃

集歌389 嶋傳 敏馬乃埼乎 許藝廻者 日本戀久 鶴左波尓鳴

十六年甲申。春二月、安積皇子薨之時、内舎人大伴宿祢家持作謌六首
集歌475 挂巻母 綾尓恐之 言巻毛 齊忌志伎可物 吾王 御子乃命 萬代尓 食賜麻思 大日本 久邇乃京者 打靡 春去奴礼婆 山邊尓波 花咲乎為里 河湍尓波 年魚小狭走 弥日異 榮時尓 逆言之 狂言登加聞 白細尓 舎人装束而 和豆香山 御輿立之而 久堅乃 天所知奴礼 展轉 埿打雖泣 将為須便毛奈思

集歌956 八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曽念

集歌967 日本道乃 吉備乃兒嶋乎 過而行者 筑紫乃子嶋 所念香聞

悲寧樂故郷作謌一首并短謌
集歌1047 八隅知之 吾大王乃 高敷為 日本國者 皇祖乃 神之御代自 敷座流 國尓之有者 阿礼将座 御子之嗣継 天下 所知座跡 八百萬 千年矣兼而 定家牟 平城京師者 炎乃 春尓之成者 春日山 御笠之野邊尓 櫻花 木晩牢 皃鳥者 間無數鳴 露霜乃 秋去来者 射駒山 飛火賀塊丹 芽乃枝乎 石辛見散之 狭男牡鹿者 妻呼令動 山見者 山裳見皃石 里見者 里裳住吉 物負之 八十伴緒乃 打經而 思並敷者 天地乃 依會限 萬世丹 榮将徃迹 思煎石 大宮尚矣 恃有之 名良乃京矣 新世乃 事尓之有者 皇之 引乃真尓真荷 春花乃 遷日易 村鳥乃 旦立徃者 刺竹之 大宮人能 踏平之 通之道者 馬裳不行 人裳徃莫者 荒尓異類香聞

集歌1175 足柄乃 筥根飛超 行鶴乃 乏見者 日本之所念

天平元年己巳冬十二月謌一首并短謌
集歌1787 虚蝉乃 世人有者 大王之 御命恐弥 礒城嶋能 日本國乃 石上 振里尓 紐不解 丸寐乎為者 吾衣有 服者奈礼奴 毎見 戀者雖益 色二山上復有山者 一可知美 冬夜之 明毛不得呼 五十母不宿二 吾歯曽戀流 妹之直香仁

集歌2834 日本之 室原乃毛桃 本繁 言大王物乎 不成不止

集歌3295 打久津 三宅乃原従 常土 足迹貫 夏草乎 腰尓魚積 如何有哉 人子故曽 通簀文吾子 諾々名 母者不知 諾々名 父者不知 蜷腸 香黒髪丹 真木綿持 阿邪左結垂 日本之 黄楊乃小櫛乎 抑刺 々細子 彼曽吾麗

集歌3326 礒城嶋之 日本國尓 何方 御念食可 津礼毛無 城上宮尓 大殿乎 都可倍奉而 殿隠 々座者 朝者 召而使 夕者 召而使 遣之 舎人之子等者 行鳥之 群而待 有雖待 不召賜者 劔刀 磨之心乎 天雲尓 念散之 展轉 土打哭杼母 飽不足可聞

 かように「日本」と云う表記を紹介しますと、歌によりその「日本」と云う言葉が示すものが時代により変わっていることが推定されます。たとえば、飛鳥浄御原宮から藤原京時代では集歌52の歌の「日本乃 青香具山者」に代表されるように「日本」は飛鳥地域や倭国を示すようです。
 それが次の時代となる藤原京時代から前期平城京時代になると、世界における国家意識が表れ大和朝廷の支配する地域として「日本」と云う表記が使われるようになります。それが集歌1047の歌で詠う「八隅知之 吾大王乃 高敷為 日本國者」です。大和朝廷の大王が支配する地域すべてですから奈良盆地内の倭国でもありませんし、畿内でもありません。一方、集歌63の歌が詠う「日本」は「日本邊」として、直接には唐からの大船が着岸する畿内の河内国大伴の御津付近の景色です。しかしながら、この時代になると「日本」と云う言葉に奈良盆地南縁の飛鳥地域と云うような意味合いは無いと考えられます。
 そうした時、集歌367の歌の「見者乏見 日本思櫃」、集歌1175の歌の「乏見者 日本之所念」などの「日本」は広義では畿内であり、狭義では大和朝廷の都を示します。人々の意識の中に諸外国と比較する認識下では「礒城嶋之 日本國」と云う大和朝廷の大王が支配する地域全体を示し、また同時に大和朝廷の官人たる個人レベルでは大和朝廷の都、それも藤原京や前期平城京などの大規模で最先端の首都を意味するようです。その感覚により集歌956の歌の「御食國者 日本毛此間毛」では、歌中で「日本=前期平城京」と「此間=大宰府」とを並立させています。

 逆に見ますと、歌が詠われた時代推定において、この「日本」と云う言葉の扱いで、飛鳥浄御原宮から藤原京時代のものなのか、それとも藤原京時代から前期平城京時代以降のものなのかと云う比較が可能になります。また、時代における人々の国家意識と云うものまでも推定が可能になります。
 可能性として、飛鳥浄御原宮から藤原京時代のもので「日本」と云う表記がつかわれていても、これは「大和」と云う表記と置き換えが可能です。つまり、後年に「やまと」と云う言葉に「日本」と云う表記を当てた可能性があります。
 一方、統治と領土と云う概念からは、「日本」は「大和」や「倭」と云う表記との置き換えは出来ません。統治と領土と云う概念下、「日本」は大和朝廷が支配・管理する地域の国名ですから、論理上、「大和」にはなりえないことになります。すると、万葉集での国家としての「日本」と云う表記はいつごろからかと云うと、集歌475の歌の「大日本 久邇乃京者」から天平十六年の時点では、それが確認できます。さらに集歌1047の歌の「八隅知之 吾大王乃 高敷為 日本國者」の表記も国家と云う概念がありますが、この歌もまた天平十六年です。これ以前となる天平元年に詠われた集歌1787の歌はどうでしょうか。歌では「礒城嶋能 日本國乃 石上 振里尓」とありますが、この「日本国」の表記が示すものが地域としての大和国か、国家としての日本国かは非常に難しいところです。
 万葉集には日本と云う表記を使った長短歌が全部で十七首ほどありますが、大和朝廷が支配・管理する地域の国名としての「日本」と云う表記を採用したものは少なく、わずか二首を数え、それは天平年間後半の認識です。「日本」と云う国号を記述する日本紀が捧呈されたのは養老四年(七二〇)五月ですが、古事記には「日本」と云う国号表記はありません。おおむね、国号としての「日本」は藤原京時代後半から前期平城京初期の間で使われるようになったもののようです。そのため、外交文書ではなく、人々の間で国号として「日本」と云う言葉が認識されるまでは、万葉集では詠い込まれなかった言葉のようです。一部の専門家の間で言葉が存在しても、人々が認知しなければ世間の言葉とはならなかったのではないでしょうか。

 今回も取り留めの無い与太話に終始しました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万葉雑記 色眼鏡 百九三 今週のみそひと歌を振り返る その十三

2016年12月03日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百九三 今週のみそひと歌を振り返る その十三

 最初に、今回、紹介するものは標準的な解釈やその解釈を解説するものからは、非常に独尊・異端なものとなっています。そのような酔論・与太として扱って下さい。

 さて、今回は大伴旅人が詠った讃酒歌十三首の中から「古昔」と「古」の表現について、遊んでみます。万葉集中ではこの「古昔」と「古」とはともに「いにしへ」と云う訓じが与えられ、「古昔」は時に「神代」の時代を意味するとして「かみよ」と云う訓じが与えられることもあります。

集歌339 酒名乎 聖跡負師 古昔 大聖之 言乃宜左
訓読 酒し名を聖(ひじり)と負(お)ほせし古昔(いにしへ)し大き聖(ひじり)し言(こと)の宣(よろ)しさ
私訳 酒のあだ名に聖と名付けた、その古き昔に大聖(=酒聖杜康)を詠った曹操の漢詩(=短歌行)の中に私の思いが表されている。

集歌340 古之 七賢 人等毛 欲為物者 酒西有良師
訓読 古(いにしへ)し七(なな)し賢(さか)しき人たちも欲(ほ)りせしものは酒にしあるらし
私訳 昔の七人の賢人(=阮籍)たちも欲しいと思ったのは、政争に巻き込まれるのを避けるために酒乱を装う酒なのでしょう。

 ここで、集歌339の歌は魏の太祖曹操の時代の禁酒令を背景とした清酒を聖人、濁酒を賢人呼んだ故事を下にしており、集歌340の歌は魏(三国時代)の時代末期の竹林の七賢人の説話を下にしたものとされます。時代的には集歌339の歌は三世紀初頭頃の出来事からの故事であり、集歌340の歌は四世紀初頭頃に成った説話と云うことになります。大雑把にその出来事には百年の隔たりがあります。

<清酒を聖人、濁酒を賢人と呼ぶ故事の由来>
『三国志』魏志の徐伝によると魏の太祖曹操が後漢末期となる建安十二年(207)に軍令として禁酒令を出しました。ところがあるとき、徐がひそかに酒を飲み泥酔していたのを見つけられ、彼は「只今、聖人と会っておりました」と言い逃れをしました。それを伝え聞いた曹操は大いに怒って、彼を誅罰しようとしました。すると、曹操の側近が「日頃、人々は内緒で酒を飲んでおり、清い酒を“聖人"、濁った酒のことを“賢人"という隠語で呼んでいます」と述べ助命を願い出ました。ここから、清酒を聖人、濁酒を賢人と呼んだ故事が生まれたとします。

<竹林の七賢人とは>
竹林の七賢人とは、三世紀、魏(三国時代)の時代末期に、酒を飲んだり清談を行なったりと交遊した七人の文化人を示す。七人とは阮籍(げんせき)、嵆康(けいこう)、山濤(さんとう)、劉伶(りゅうれい)、阮咸(げんかん)、向秀(しょうしゅう)、王戎(おうじゅう)を指す。

 一方、集歌339の歌を再確認してみますと、歌は「古昔 大聖之 言乃宜左」と表現していますから、「世の人々が清酒を聖人、濁酒を賢人と呼ぶ」と云う風景ではありません。反って、夏王朝時代の人、杜康を酒聖と称して古代に酒を上手に醸造した人物であり、醸造の神と伝承される姿の方が似合っています。すると、魏の曹操は次のような漢詩で杜康を取り上げていますから、大伴旅人は「魏の清酒を聖人、濁酒を賢人」の故事と酒聖杜康とを曹操を通じて結んで歌を詠った可能性が浮かび上がります。そして、この酒聖杜康は中国十大聖の一人ですから、歌と符合して来ます。

短歌行 曹操
對酒當歌、人生幾何 酒に対して當(まさ)に歌うべし、人生幾何(いくばく)ぞ
譬如朝露、去日苦多 譬(たとえ)ば朝露の如(ごと)く、去日 苦は多し
慨當以慷、幽思難忘 慨(がい)して當(まさ)に以(もち)て慷(こう)し、幽思(ゆうし) 忘れ難(がた)し
何以解憂、唯有杜康 何を以て憂いを解かん、唯(ただ)杜康(とこう)有るのみ

 すると、集歌339の歌は少し複雑な構造をしているのかもしれません。先行する集歌338の歌では「濁れる酒を飲むべくあらし」と詠いますが、それは「何以解憂、唯有杜康」と云うことのためだと云うことなのでしょう。その時、「古昔 大聖之 言乃宜左」の「大聖」は杜康であり、「言乃宜左」とは曹操が詠う「短歌行」と云う漢詩です。なお、武将曹操は軍紀のため禁酒令を発布していますが、反面、詩人曹操は酒を詠う人でもありました。同じようにこの讃酒歌十三首は軍人であり、詩人でもあった大伴旅人が詠い、山上憶良・沙弥満誓との相聞・問答歌ではないかともされますから、関係者の教養水準からしますと歌は非常に高度な中国故事・漢詩の引用があっても不思議ではありません。その分、表層とは違い難解になりなります。
 この視線からしますと、集歌340の歌で「欲為物者 酒西有良師」の意味合いは、ただ快楽として酔うための酒ではなく、阮籍が為したように政争に巻き込まれるのを避けるため、酒乱を装う酒となります。つまり、都での政争に巻き込まれるという火中の栗を拾うようなことをせず、その外から静観していた方が良いということになります。このような解釈は従来のものとは違いますが、可能性として排除できなくなります。

 ここで目線を変えますと、万葉集では「古昔」と云う表現は次のような歌に使われています。

集歌13  神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽
集歌45  多日夜取世須 古昔念而
集歌339  古昔 大聖之
集歌431  古昔 有家武人之 倭文幡乃 帶解替而
集歌1240  行之鹿齒 面白四手 古昔所念
集歌1807  吾妻乃國尓 古昔尓 有家留事登
集歌4166  従古昔 可多里都藝都
集歌4254  従古昔 無利之瑞 多婢末祢久
集歌4256  古昔尓 君之三代經 仕家利

 紹介しましたものを見てみますと、集歌13の歌では「神代」と云うものに対して「古昔」ですし、集歌4256では「君之三代經 仕家利」が「古昔」です。使う場面で相当に意味合いが違います。単純に、今日、昨日、古、古昔のような順序の中でのもの、集歌4256の歌のように天皇家三代、約二十年前を古昔とするもの、集歌339の歌のように中国夏王朝の神代を古昔とするもの、集歌4166の歌のようにいつかは知れないが、ずいぶん昔からとするものなどがあります。ただ確かなことは今日、昨日、古と云う時の流れの中で、それより前の時代と云う意味合いです。古も古昔も訓じでは同じ「いにしへ」ですが、意味合いにおいては時の流れの順序があります。しかし、「神代=いにしへ」と決め打ちして解釈することはできませんし、議論にもなりません。順番として「古」よりも前の時代としての「古昔」です。集歌339の歌では「古」とは曹操の魏時代であり、夏王朝はそれよりも前としての「古昔」です。夏王朝の酒聖杜康だから「古昔」ではありません。集歌13の歌は畝傍山を女山として香具山と耳成山との争いを神代の話とし、古代の「桜児伝説」や「蘰児伝説」に代表される妻争いを「古昔」とします。ここでは神代=古昔ではありません。

 今回は「古」と「古昔」との言葉を大伴旅人が詠う讃酒歌十三首の中から紹介し、鑑賞しました。その道中で讃酒歌の解釈にも触れましたが、ここで紹介したものは一般の近代解釈からも遠く、昭和以前の解釈とは全くに相違しています。参考として、昭和以前の讃酒歌に対する解釈は大酒のみの酒飲みに対する言い訳の歌のようなもので、近代解釈の人生の悲嘆と云うものではありません。アララギ派の解釈が好みのお方は現在でもそのような解説書を下に歌を大酒のみの言い訳として鑑賞・紹介します。およそ、かような鑑賞での変遷がありますから、社会人で、個人で万葉集を楽しまれているお方以外では、ここでのものは酔論としてください。単なる与太話です。

 おまけとして、
 讃酒歌十三首はそれぞれが連携し言葉が関連性を持つとしますと、「大聖」と「酒壷」と云う言葉から、次の歌の背景に則天武后の悪行があるかもしれません。その則天武后と云う名は通名で正式には大聖天后や則天大聖皇后と敬称されます。その則天武后には政変で倒した相手である前皇后王氏と前淑妃蕭氏とに対する「骨まで酔わせてやる」として切り刻み酒壷に投げ込み殺した悪行伝説があります。

集歌343 中々尓 人跡不有者 酒壷二 成而師鴨 酒二染甞
訓読 なかなかに人とあらずは酒壷(さかつぼ)になりにしかも酒に染(し)みなむ
私訳 中途半端に人として生きていくより、酒壷になりたかったものを。酒に身を染めさせてみよう。

 扱っています讃酒歌十三首は、現在では「長屋王の変」があった天平元年頃に詠われたものとされます。すると、時に、集歌343の歌は先の長屋王政権のメンバーの一員として、かように今を生きているよりも則天武后の故事に従い政変で負けた者として身を切り刻まれて酒壷に捨てられ、死んだ方がよかったという意味合いを持つかもしれません。裏を返せば、この極悪非道の獣たちと云うことになるのでしょうか。それとも、暗号としての心の苦しみにのた打ち回るような非常なる悲嘆でしょうか。
 これもまた、歌群として意は通じますが異端です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする