竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉雑歌 色眼鏡 八十 鏡王女から「御歌」を鑑賞する

2014年08月16日 | 万葉集 雑記
万葉雑歌 色眼鏡 八十 鏡王女から「御歌」を鑑賞する

 今回は歌の標題や左注に「御歌」と紹介されるものの中から歌を鑑賞します。
 さて、『万葉集』ではその標題や左注で「御歌」と紹介される歌はおよそ三八首を見ることが出来ます。おおむね、「御歌」と云う敬語は天皇、皇后、親王相当の皇子、内親王相当の皇女が詠う歌について使われます。
 例として、歌番号とその作品の作者を紹介しますと、次のようなものが代表的なものです。

集歌10 中皇命
集歌21 皇太子(大海人皇子、後の天武天皇)
集歌60 長皇子
集歌77 御名部皇女
集歌107 大津皇子
集歌110 日並皇子(草壁皇子の尊称)
集歌117 舎人皇子
集歌119 弓削皇子
集歌147 太后(天智天皇皇后倭媛)
集歌162 推定で大后(日本書紀での立場は持統天皇)
集歌236 天皇(日本書紀での立場は持統天皇)
集歌267 志貴皇子
集歌390 紀皇女
集歌484 難波天皇
集歌530 天皇(標題注に「寧樂宮即位天皇也」とあり)

 このように『万葉集』に「御歌」の言葉を探しますと、当然ですが「王」の身分の人物や臣民に使う可能性のない言葉であることが予定されます。ところが、『万葉集』に一首だけ皇女ではなく、王女の身分の女性が詠う歌に「御歌」の敬語が使われています。それが集歌92の歌です。歌は天智天皇の詠う歌への返歌となるもので作歌者は鏡王女です。
 この鏡王女は『延喜式』「諸稜寮」に載る記事に従いますと、舒明天皇の押坂内稜の稜域内の東南、押坂墓に葬られていることになっています。ここから、鏡王女は舒明天皇の皇女または皇孫ではないかとする説があるようです。この時、鏡王女が皇女ですと、彼女と天智天皇(中大兄皇子)との間に異母兄妹の関係を想定することが出来ます。さらに、異母兄妹であれば、当時の慣習からすると、中大兄皇子と鏡王女との婚姻関係は許されることになります。
 すこし、穿った話をしますと、鏡王女が鏡女王と同一人物としますと、壬申の乱以降も額田王との相聞歌などからしますと生存していたと推定されます。すると、天武・持統天皇朝を通じて整備されなかったため正式な天智天皇稜はありませんので、もし、天智天皇(中大兄皇子)との間に婚姻関係があったとしても、王女の死に際し王女に相応しい適切な陵墓が無いと云うことになります。そこから親の陵墓域に埋葬された可能性はあると考えます。それが『延喜式』「諸稜寮」の記事の背景ではないでしょうか。
 下記に紹介する集歌91と92の歌の解釈において、集歌92の歌で使われる「念」の意味するところは恋愛感情ではなく、尊敬の感情であると指摘する解説があります。ただ、個人の鑑賞では「御念従者」の選字から想像して皇太子である中大兄皇子の寵愛に従うと解釈するのが自然なものと考えます。つまり、古代の風習から支配者から問い掛けられた時、女性が拒否しなければ求婚(=目合)を受け入れたと考えます。つまり、二人の間に婚姻関係を認める立場です。

近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇 謚曰天智天皇
標訓 近江大津宮に御宇天皇の代(みよ) 
追訓 天命開別天皇 謚(おくりな)して曰はく天智天皇
天皇賜鏡王女御謌一首
標訓 天皇の鏡王女に賜はる御謌一首
集歌91 妹之家毛 継而見麻思乎 山跡有 大嶋嶺尓 家母有猿尾
訓読 妹し家(へ)も継(つ)ぎて見ましを大和なる大島(おほしま)嶺(みね)に家(へ)もあらましを
私訳 愛しい貴女の家をいつも見ていたいのに、大和の国にある大島の嶺に私の家があれば良いのですが。

鏡王女奉和御謌一首
標訓 鏡王女の奉和(こた)へたる御謌一首
集歌92 秋山之 樹下隠 逝水乃 吾許曽益目 御念従者
訓読 秋山し樹(こ)し下(した)隠(かく)り逝(ゆ)く水の吾(われ)こそ益(ま)さめ御(おほ)念(も)ひよりは
私訳 秋山の木の下の枯葉に隠れ流れ行く水のように、密やかに思う心は、私の方が勝っています。貴方が私を慕いなされるより。

 このように推定しますと、天智天皇(中大兄皇子)との間に婚姻関係や天智天皇(中大兄皇子)との異母兄妹(=親の格が低いが、皇女の立場)の関係から「御歌」と云う敬語が使われたことが説明出来そうです。
 ところが、『万葉集』には次のような鏡王女と内大臣藤原卿との相聞歌が載せられており、一般の解釈では歌の標題から二人には妻問い関係(婚姻関係)があったとします。不思議です。先の即位前の中大兄皇子と鏡王女との相聞歌で中大兄皇子と鏡王女との間には婚姻関係があり、そのために皇孫の身分を持つ「妃」として作品に「御歌」と敬称されると想定しました。ところが、集歌93と94の相聞歌からしますと、鏡王女は親王級の皇族ではなく三世以上の王族の女性ではないかとの推定が生まれます。実に困りました。では、二つの相聞歌での敬称問題を解決する可能性はあるのかと云うと、それは従来から想像されている臣下への下賜です。
 一方、時代として皇族でも皇女の身分を持つ「妃」を臣下に下賜することはあり得るのかという疑問が生じます。それも、身分は皇族から平民への格下げとなる「臣籍降下」の形でなければいけません。そうでなければ、公式には相手の男性は内縁の夫の立場でしかありません。卑猥な言葉ですと、高齢の夫と政略結婚した高貴な身分の女性が持つとされる「セックスハズバント」の立場です。確かに歴史に示す例からしますと、この「セックスハズバント」の可能性は有り得ます。有名な例として光仁天皇の時代、井上皇后と山部王(後の桓武天皇)との関係です。山部王は賭けの景品として光仁天皇が井上皇后に与えた公認の「セックスハズバント」です。では、同様に内大臣藤原卿は天智天皇が鏡王女に与えた公認の「セックスハズバント」だったのでしょうか。

内大臣藤原卿娉鏡王女時、鏡王女贈内大臣謌一首
標訓 内大臣藤原卿の鏡王女を娉(よば)ひし時に、鏡王女の内大臣に贈れる歌一首
集歌93 玉匣 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜裳
訓読 玉(たま)匣(くしげ)覆ふを安(やす)み開けて行(い)ば君し名はあれど吾(わ)が名し惜しも
私訳 美しい玉のような櫛を寝るときに納める函を覆うように私の心を硬くしていましたが、覆いを取るように貴方に気を許してこの身を開き、その朝が明け開いてから貴方が帰って行くと、貴方の評判は良いかもしれませんが、私は貴方との二人の仲の評判が立つのが嫌です。

内大臣藤原卿報贈鏡王女謌一首
標訓 内大臣藤原卿の鏡王女に報(こた)へ贈れる歌一首
集歌94 玉匣 将見圓山乃 狭名葛 佐不寐者遂尓 有勝麻之目
訓読 玉(たま)匣(くしげ)見(み)む円山(まどやま)の狭名(さな)葛(かづら)さ寝(ね)ずはつひに有りかつましめ
私訳 美しい玉のような櫛を寝るときに納める函を開けて見るように貴女の体を開いて抱く、その丸い形の山の狭名葛の名のような丸いお尻の間の翳り。そんな貴女と共寝をしないでいることはあり得ないでしょう。

 ここで、集歌93の歌の標にも使われる「娉」の漢字を調べますと『万葉集』では「よばふ」と訓みますし、日本語としてはネット辞書では「ヘイ・ホウ」と音読みし、意味は「めとる、嫁を迎える、召す」とします。また、古語の世界での「召す」と云う言葉の解釈は「高貴な人物が女性を召す=性的関係を持つ」と解釈する約束事から、「娉」の漢字をそのように解釈するようです。当然、「よばふ」から「夜這ふ」の当て字を与えて、さらなる拡大解釈は存在するでしょう。およそ、『万葉集』の鑑賞では集歌93の歌の標題の「娉」の漢字の意味を「召す」と解釈し、そして、その行動から白文訓読みにおいて「よばう」と云う訓を与えたと考えます。ちょうど、古語で「言い寄る・求婚する」という所作を「よばふ」と呼びますから、その意味合いで解釈していることは明らかと考えます。その帰結が、内大臣藤原卿と鏡王女との関係で、「藤原卿の下に鏡王女を召した=鏡王女は藤原卿の要求で参上し、そこで抱かれた」と解釈するのでしょう。それで、一般には鏡王女が天智天皇から藤原卿の許に下賜されたと解釈するのだと想像します。
 ここで、先の「セックスハズバント」の問題に戻ります。
 個人の帰結は、「セックスハズバント」説や下賜説は成立しないと考えます。単に平安時代に藤原系貴族が意図的に誤読したものを検証も無しに、近代の人々がそれを受け入れ、さらにその意図的誤読から想像を膨らませただけと考えます。厳しく言えば、それらは手抜きからの空想が由来です。
 ここで、確認をして頂きたい漢字があります。それが「聘」と云う漢字です。では、この「聘」の漢字の意味や解釈どうでしょうか。調べますと、ネット辞書では「ヘイ」と音読みし、意味は「贈り物を持って人を訪問する・礼を尽くして人を招く」とあります。なぜ、この「聘」を紹介したかと云うと、公式文章の世界では格式を求める文章では「娉」が正式な漢字で、「聘」は格式が落ちる略式の漢字となっているからです。漢字の世界では、その身分や場面からして皇族の鏡王女や公卿の藤原卿に対しては「聘」の文字より「娉」の文字を使うのが正しいと云うことになります。
 それを有名なHP「漢典」から「娉」の漢字の意味を調べますと、次のように解説します。

《說文》「娉」、問也。凡娉女及聘問之禮古皆用此字。娉者專詞也。聘者汎詞也。耳部曰。聘者訪也。言部曰。汎謀曰訪。故知聘爲汎詞也。

 ここで、個人の解釈である格式ある人物に対しては「聘」の文字より「娉」の文字を使うのが正しいと云う仮説について『万葉集』を調べてみますと、次のようなデータを得ることが出来ます。僧侶である久米禅師を特別としますと、それ以外の男性はすべて「卿」の身分を有する人物であることが判ります。およそ、『万葉集』の標題や左注に載せられる漢文は正しく身分による漢字の選定が為されています。なお、「禅師」は宮中内道場での加持祈祷を許された特別格の僧侶ですから、公卿相当格とみなすことは可能ではないでしょうか。この場合、例外は無くなることになります。
 万葉集が好きなお方は、当惑するかもしれません。恋多き女性として紹介される石川郎女や大伴坂上郎女はどうなるのか、大伴安麻呂と巨勢郎女との恋愛はどうなっちゃうのか等々、諸問題が起きて来ます。

集歌93 内大臣藤原卿娉鏡王女
集歌96 久米禅師娉石川郎女
集歌101 大伴宿祢娉巨勢郎女 (大伴安麻呂、贈従二位:正三位大納言兼大将軍)
集歌407 大伴宿祢駿河麿娉同坂上家之二嬢 (贈従三位:正四位上参議)
集歌528 藤原麿大夫娉之郎女 (従三位参議兵部卿)

 『萬葉集釋注(集英社文庫版)』で伊藤博氏は、集歌91と92の歌は国見行事での宴会で詠われた、疑似歌垣のような場での歌ではないかと推定し、同様に集歌93と94の歌もまたそのような男女が参集する宴で詠われた歌ではないかとします。つまり、その宮中行事に伴う宴での歌が宮中に残り、それが『万葉集』に収容されたとするのが自然な解釈ではないでしょうか。残念ながら、正確に標題や左注の漢文を解釈した場合、「娉」の意味するところは「歌垣のような歌会で問答歌を詠った」というもののようです。男女の恋愛や婚姻関係をここに求めることは出来ません。
 帰結として、集歌91と92の歌からは天智天皇と鏡王女の婚姻の可能性はあると考えますが、それ以外の内大臣藤原卿と鏡王女、久米禅師と石川郎女、大伴安麻呂と巨勢郎女、大伴駿河麿と坂上家之二嬢や藤原麿と大伴坂上郎女との間に恋愛関係や婚姻関係を「娉」という漢字を使う標題を持つ歌から導き出すことは出来ません。宴会で歌垣のような歌会で歌を交換したと認めるだけです。

 現代は厳しい時代のようです。インターネットが発達し、瞬時に必要なデータを求めることが出来るようになりました。旧来のような板書を写し取り、高価な図書を借用・購入しなくてはいけない時代とは違います。そのため、一般の素人でもここでのような趣味の遊びが出来るようになりました。もし、機会がありましたら、ここでのものを漢字辞典などで正確に調べられ、そして納得していただけたらと希望します。
 最後に、ここでのものは素人の趣味の遊びです。学問ではありません。学問では「娉」は「よばふ」と訓むべき言葉です。そうでなければ、鎌倉時代から室町時代に作られた『尊卑分脈』などの人名事典は奈良時代以前の部分について大幅な改訂が必要になります。また、『万葉集』での藤原京から前期平城京時代の人物相関関係の解釈が変わります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万葉雑記 色眼鏡 七九 大津皇子を鑑賞する

2014年08月09日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 七九 大津皇子を鑑賞する

 今回は大津皇子を鑑賞します。
 当然、このブログで扱いますから、普段の解説や歴史観に対してもゼロベースから見直しをします。そのため、紹介するものが、時に常、日頃のものと変わる可能性がありますが、そこは期待を外されたとしてもご容赦を。
 最初に大津皇子をインターネットの「ウィキペディア」に載る解説から紹介します。

大津皇子(天智天皇2年 - 朱鳥元年10月3日)は、飛鳥時代の皇族。天武天皇の皇子。母は天智天皇皇女の大田皇女。同母姉に大来皇女。妃は天智天皇皇女の山辺皇女。

 日本書紀に載る記事を参照しますと、これが最大限の人物紹介です。今日、それ以外の大津皇子を紹介するものは、『万葉集』または『懐風藻』から皇子の人物像を引用するもの、またはそれから派生した創作小説の又引きや個人的な思い入れしかありません。そして、それらは第一次資料の位置にはありません。では、その二次的に引用されるとする『万葉集』または『懐風藻』に載る記事の信頼度はどのようなものかと云うと、同じ、ウィキペディアには続けて次のように説明します。

『万葉集』と『懐風藻』に辞世が残っているが、上代文学にはほとんど辞世の作が残らないこと、また『懐風藻』の詩については陳の後主の詩に類似の表現があることなどから、小島憲之や中西進らによって皇子の作ではなく、彼に同情した後人の仮託の作であろうとの理解がなされており、学会レベルではこの説も支持されることが多い。

 また、インターネットでは次のような解説を「アサヒネット」に見ることが出来ます。一般的な大津皇子の理解では、こちらの方の解説が受け入れられているのではないでしょうか。

斉明天皇の新羅遠征の際、九州に随行した大田皇女の腹に生まれる。長女の子として天智の寵愛を受けたが、程なく母を失う。これに伴い父大海人の正妃の地位は兄草壁皇子の母菟野皇女に移った。『懐風藻』によれば大津は身体容貌ともに優れ、幼少時は学問を好み、博識で詩文を得意としたが、長ずるに及び武を好み剣に秀でたという。天智崩後、672(天武1)年に壬申の乱が勃発した時は兄高市と共に近江にいた。大津はわずか10歳であったが、父の派遣した使者に伴われ、伊勢に逃れた父のもとへ駆けつけた。父帝の即位の後、天武8年5月の六皇子の盟約に草壁・高市・河嶋・志貴ら諸皇子と参加、互いに協力して逆らうこと無き誓いを交わした。翌年兄草壁が立太子するが、度量広大、時人に人気絶大であったという大津は父からの信頼も厚かったらしく、天武12年、21歳になると初めて朝政を委ねられた。天武14年の冠位四十八階制定の際には、草壁の浄広壱に次ぎ、浄大弐に叙せられた。翌年8月、草壁・高市と共に封400戸を加えられた。
これより先、新羅僧の行心に会った際、その骨相人臣のものにあらず、臣下の地位に留まれば非業の死を遂げるであろうと予言され、ひそかに謀反の計画を練り始めたという(懐風藻)。天武15年(686)9.9、父帝が崩じ、翌月2日、謀反が発覚したとして一味30余人と共に捕えられた。『懐風藻』によれば謀反を密告したのは莫逆の友川嶋皇子であったという。連座者の中には伊吉連博徳、大舎人中臣臣麻呂・巨勢多益須(のち式部卿)、新羅沙門行心などの名が見える。翌3日、訳語田の家で死を賜う(24歳)。 妃の山辺皇女が殉死した。これ以前に大津は密かに伊勢に下り、姉の斎宮大伯皇女(大来皇女)に会ったことが万葉に見える(大来皇女の御作歌02/0105・0106)。また大来皇女の哀傷御作歌(02/0165・0166)の題詞には大津皇子の屍を葛城二上山に移葬した旨見える。同月29日には連座者の処遇が決定しているが、帳内1名を除き無罪とされ、新羅僧行心は飛騨国に移配するという軽い処分で済んでいる。このことから、大津の謀反は事実無根ではないにせよ、皇后ら草壁皇子擁立派による謀略の匂いが強いとされている。死に臨んでは磐余池で詠んだ歌(03/0416)が伝わるが、皇子に仮託した後世の作とする説もある。『日本書紀』に「詩賦の興ること、大津より始まる」とあり、『懐風藻』には「臨終一絶」など4篇の詩を残す。但し臨終の詩は、その原典が『浄名玄論略述』という天平19年以前成立の書に引用されており(小島憲之)、即ち模倣作か後世の偽作であることが明らかである。万葉には他に愛人の石川郎女を巡る歌(02/0107・109)、黄葉の歌(08/1512)が見える。

 この解説もまた『万葉集』と『懐風藻』とを大津皇子の人物像を説明する根拠としています。ところが、「アサヒネット」もまた、その解説に苦労をします。解説の前半は『懐風藻』に載る略歴を引用して説明しますが、その後半では小島憲之氏の研究成果を引用し、『懐風藻』に載る大津皇子の作品集は皇子自身のものか、どうか、疑わしいとします。およそ、「ウィキペディア」も「アサヒネット」も共に『懐風藻』を真摯に研究すると、その内容に疑義を持たざるを得ないとします。
 さて、その『懐風藻』について紹介しますと、『懐風藻』は序文に「于時天平勝寶三年歳在辛卯冬十一月也」と云う記述を持つ、奈良時代中期に編まれた現代に伝来する日本最古の漢詩集です。ただし、現在に伝わる『伝懐風藻』と原初の『原懐風藻』が同等なものかと云うとそうではありません。その『伝懐風藻』は長久二年(1041)に文章生惟宗孝言が書写し、それをテクストとして書写した暦応四年(1341)の日付を持つ蓮華王院蔵書本として紹介されるものを天和四年(1684)になって木版本として刊行されたものです。そのため、『原懐風藻』は失われた詩歌集ですし、文章生惟宗孝言が書写本もまた失われた詩歌集です。ここに現代に伝わる『伝懐風藻』に疑義が生じる由縁があります。
 『懐風藻』の序文を読み解きますと、『懐風藻』は六四人の人々が詠った漢詩一百二十篇の詩歌集であり、作品の最初にその作歌者の冠位や人物像を紹介した「姓名并顯爵里」を持つとその序文で宣言しています。一方、『伝懐風藻』は確かに六四人の人々が詠った漢詩を載せてはいますが、それは一百九篇(五編と称し一篇しかないものと、他に一篇が完全体ではないものがある)のみで、また、「姓名并顯爵里」を示すのは八人のみです。なお、『伝懐風藻』は最初の四人について「姓名并顯爵里」を連続して載せますが、五人目の中臣朝臣大島からは 「二首,自茲以降諸人未得傳記」と注記し、人物像などは不明とします。ただし、実際にはそれ以降も不連続で四人の人物については「姓名并顯爵里」を載せています。従いまして、現在に伝わる『伝懐風藻』が天平勝寶三年に編まれたとされる『原懐風藻』と一致するか、どうかは不明なのです。さらに、『伝懐風藻』は奈良時代中期、孝謙天皇の時代のものとしては特異に反天武天皇色の濃い編纂がなされています。そのため、本当に奈良時代中期に編まれたか、どうかも不明なのです。ちょうど、現在の光明皇后伝説が鎌倉時代になって東大寺・興福寺復興運動と共に寄付募集のために生まれたのと同じように、奈良時代末期から平安時代初期、桓武天皇の時代頃(治世781-806)に、藤原氏、それも、祖となる藤原不比等の宣伝のために改訂された可能性があるのです。これらの背景から『伝懐風藻』の編者についての推測では、大友皇子の曽孫で葛野王の孫である淡海三船ではないかと目されていますが、『原懐風藻』の姿自体が不明ですので諸説存在します。従いまして『伝懐風藻』から得られる大津皇子の情報が史実なのか、小説なのか、その区別が困難なのです。
 なお、『日本書紀』などの公式文書では大津皇子は天武天皇の妃大田皇女の二番目の長男となる御子で、天武天皇から見た場合、吉野盟約に従い序列第二位の皇子です。『伝懐風藻』には「皇子者、淨御原帝之長子也」とありますが、これは、正確には「妃大田皇女の長子」と読むべき記事となります。不正ではありませんが、読者が誤解することを意識して作られた文章と考えて下さい。『日本書紀』などの公式文書では「淨御原帝之長子」とは持統天皇時代に太政大臣を務めた高市皇子です。草壁皇子でも、大津皇子でもありません。ここからして、『伝懐風藻』は奈良時代中期に編まれたものではないことが推測されます。『懐風藻』の同様な例では葛野王の「爵里」の記事も読者が誤解することを意識して作られた文章です。このように読者の誤読を意図し、史実ではない事柄等を多々織り込まれているのが『伝懐風藻』の特徴です。この背景があるため、漢文を理解出来る良心的な国文学研究者は『伝懐風藻』は詩歌以外は取り扱わないようです。
 もう一つ、その序文に「龍潛王子翔雲鶴於風筆」と云う文章があります。この「龍潛王子」の言葉は大津皇子を意味しますが、これが困った事態を引き起こします。実は「翔雲鶴於風筆」の言葉は漢詩作品番号六「七言 述志」の作品から取った言葉なのですが、その作品は最初の二句は大津皇子のもので、後の二句は後年に不完全な文章を残念に思い、連句されたものなのです。言葉はその連句された部分から得られたものです。この背景があるのにかかわらず、その作品では、序での言葉、詩題である「述志」、詩の詠う世界が一致しないのです。およそ、詩歌編纂者が詩歌の鑑賞が出来ないと云う非常に不思議な事態を引き起こしているのです。これらから「アサヒネット」の解説では「即ち模倣作か後世の偽作であることが明らかである」と言わざるを得ないのです。(注意:文末に懐風藻の引用部分を載せます)
 さらに参考情報として『日本書紀』には大津皇子に関して次のような記事がありますが、この記事の存在がまた『日本書紀』改竄説を引き起こす要因となっています。日本書紀を改竄した人物は、どうも、日本人ではなかったようです。日本の古くからの風習では高貴な皇族の死罪の場合、形式上、自宅で自死と云う形を取ります。一方、『日本書紀』を改竄した人物はその日本の慣習を知らなかったため、中国の刑罰執行例に従って市場での公開死刑を想定したようです。それで「妃皇女山辺被髪徒跣。奔赴殉焉」と云う文章を織り込むことになったと推測します。これは『懐風藻』に載る辞世の詩「臨終一絶」に罪があるのかもしれません。歌の景色は市場での公開死刑を予告しています。およそ、『伝懐風藻』は天平年間以降に中国より伝来した「臨刑詩」を模倣した作品を大津皇子の作品として載せ、その模倣した作品を載せた『伝懐風藻』から『日本書紀』の記事の一部が創られています。古代史の資料にはこのような時代の要請による改竄や創作が織り込まれていることを前提に、解釈をしていく必要があるようです。

『日本書紀』より抜粋
賜死皇子大津於訳語田舍。時年二十四。妃皇女山辺被髪徒跣。奔赴殉焉。見者皆歔欷。皇子大津。天渟中原瀛真人天皇第三子也。容止墻岸。音辞俊朗。為天命開別天皇所愛。及長弁有才学。尤愛文筆。詩賦之興自大津始也。

 困りました。唯一、大津皇子の人物像を示す『懐風藻』の記事は信頼の置けるものではない疑義が生じました。つまり、補強や裏付資料が無い限り、使えない創作された資料のようです。そして、同時に『日本書紀』の記事にも疑惑が生じました。
 では、『万葉集』はどうでしょうか。その『万葉集』には次のような作品を見ることが出来ます。作品の鑑賞では、一般的な訓読みと意訳として、例によって『万葉集全訳注原文付(中西進 講談社文庫)』を紹介し、それに私訓と私訳を対比として付けます。今回は、原文の漢字の扱いで大きく解釈が違うものがありますので、そこに注目して下さい。

大津皇子竊下於伊勢神宮上来時、大伯皇女御作謌二首
標訓 大津皇子の竊(ひそ)かに伊勢の神宮に下りて上り来ましし時に、大伯皇女の御(かた)りて作(つく)らしし歌二首
集歌105 吾勢枯乎 倭邊遺登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之
訓読 わが背子を大和へ遣(や)るとさ夜更けて暁(あかとき)露(つゆ)にわれ立ち濡れし
意訳 わが背子を大和に送るとて、夜もふけ、やがて明方の露に濡れるまで、私は立ちつづけたことであった。
私訓 吾が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁(あかとき)露(つゆ)に吾(われ)立ち濡れし
私訳 私の愛しい貴方を大和に送ろうと思うと、二人の夜はいつしか深けていき、その早朝に去って往く貴方を見送る私は夜露にも立ち濡れてしまった。

集歌106 二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武
訓読 二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が独り越ゆらむ
意訳 二人でいってさえ越えがたい秋の山を、どのようにしてあなたは今一人で越えていることだろう。
私訓 二人行けど去き過ぎ難き秋山を如何にか君し独り越ゆらむ
私訳 二人で行っても思いが募って往き過ぎるのが難しい秋の二上山を、どのように貴方は私を置いて一人で越えて往くのでしょうか。

大津皇子贈石川郎女御謌一首
標訓 大津皇子の石川郎女に贈る御(かた)りし歌一首
集歌107 足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沽 山之四附二
訓読 あしひきの山のしづくに妹待つと吾立ち濡れし山のしづくに
意訳 あしひきの山の雫に、妹を待つとて私は立ちつづけて濡れたことだ。山の雫に。
試訓 あしひきの山し雌伏に妹待つと吾立ちそ沽(か)れ山し雌伏に
試訳 「葦や檜の茂る山の裾野で愛しい貴女を待っている」と伝えたので、私は辛抱してじっと立って待っている。山の裾野で。
注意 原文の「吾立所沽」の「沽」は、一般に「沾」の誤記として「吾立ち沾(ぬ)れぬ」と訓みます。これに呼応して「山之四附二」は「山の雫に」と訓むようになり、歌意が全く変わります。

石川郎女奉和謌一首
標訓 石川郎女の和(こた)へ奉(たてまつ)れる歌一首
集歌108 吾乎待跡 君之沽計武 足日木能 山之四附二 成益物乎
訓読 吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくに成らましものを
意訳 私を待つとてあなたがお濡れになったという山のしづくに、私はなりたいものです。
試訓 吾を待つと君し沽(か)れけむあしひきの山し雌伏にならましものを
試訳 「私を待っている」と貴方がじっと辛抱して待っている、葦や檜の生える山の裾野に私が行ければ良いのですが。
注意 原文の「君之沽計武」の「沽」は、一般に「沾」の誤記として「君が沾(ぬ)れけむ」と訓みます。これに呼応して「山之四附二」は「山の雫に」と訓むようになり、歌意が全く変わります。

大津皇子竊婚石川女郎時、津守連通占露其事、皇子御作謌一首
標訓 大津皇子の竊(ひそ)かに石川女郎と婚(まぐは)ひし時に、津守連通の其の事を占へ露(あら)はすに、皇子の御(かた)りて作(つく)らしし歌一首
集歌109 大船之 津守之占尓 将告登波 益為尓知而 我二人宿之
訓読 大船の津守が占(うら)に告(の)らむとはまさしに知りてわが二人宿(ね)し
意訳 大船の泊(とま)る津守が占いに現わすだろうことを、まさしく知りながら私は二人で寝たことだ。
私訓 大船し津守し占に告らむとはまさしに知りて我が二人宿(ね)し
私訳 大船が泊まるという難波の湊の住吉神社の津守の神のお告げに出て人が知るように、貴女の周囲の人が、私が貴女の夫だと噂することを確信して、私は愛しい貴女と同衾したのです。

日並皇子尊贈賜石川女郎御謌一首 女郎字曰大名兒也
標訓 日並皇子尊の石川女郎に贈り賜はる御歌一首
追訓 女郎(いらつめ)の字(あさな)は大名兒(おほなご)といへり。
集歌110 大名兒 彼方野邊尓 苅草乃 束之間毛 吾忘目八
訓読 大名児(おほなご)が彼方(をちかた)野辺に刈る草(かや)の束(つか)の間(あひだ)もわが忘れめや
意訳 大名児が遠くの野辺で刈る草の、ほんの束の間も私は忘れるなどということがあろうか。
私訓 大名児(おほなご)し彼方(をちかた)野辺(のへ)に刈る草(かや)の束(つか)し間(あひだ)も吾(われ)忘れめや
私訳 大名児よ。新嘗祭の準備で忙しく遠くの野辺で束草を刈るように、ここのところ逢えないが束の間も私は貴女を忘れることがあるでしょうか。
注意 標の万葉仮名の「大名兒」を漢字表記すると「媼子」となります。つまり、石川女郎とは石川媼子(蘇我媼子)と表記されます。この石川媼子なる人物は、歴史では藤原不比等の正妻で房前の母親です。また、蘇我媼子は皇子の母方親族ですから日並皇子尊の着袴儀での添臥を行ったと考えられます。つまり、初めての女性かも知れませんが、恋人ではありません。

 訓読と私訓を紹介しました。当然、「山之四付二」の「付」は「ツク」と訓むべきであって、音読みで「フ」と読むのは間違いであるとの指摘があると思います。『万葉集』、『新撰万葉集』、『土佐日記』などの手持ちの資料や万葉仮名一覧には大和言葉の「ツ」または「フ」の発音に「付(附)」の文字を使った例はありません。
 ただ、原文の「吾立所沽」に対しては収まりが良いことは確かだと思います。逆に「付」を「ツク」と訓むと原文の「沽」では収まりが悪く、「沾」と文字を訂正し「濡れる」と解釈する方が良くなります。本ブログは『西本願寺本準拠万葉集』を鑑賞すると云う立場を貫いていますから、誤記説や脱字説は採用しません。『西本願寺本準拠万葉集』の原文の範囲でのみ鑑賞をしています。
以下、当ブログの立場での鑑賞です。
 『万葉集』の大津皇子に関する歌の鑑賞では、人々の前提条件に『懐風藻』に載る大津皇子の偶像があったと推測します。『伝懐風藻』では大津皇子に対して「長子」や「太子」と云う言葉を使い、本来なら皇位を継ぐべき人物であったが非業の死をとげたとの解釈を誘導します。ところが、説明しましたように「長子」や「太子」は創作の言葉です。正式の身分証明書を持ち正規の制服を着た人物が「消防署から来ました」と云えば正統な話ですが、私的な会社の身分証明書と制服を着て「消防署の方から来ました」と云えば、これは「詐欺」の始まりです。つまり、『伝懐風藻』は「詐欺」の始まり的な文章を載せた詩歌集であると知り、これを前提に『万葉集』の歌を解釈する必要があるのです。
およそ、『伝懐風藻』に載る大津皇子の偶像を排除すると、万葉集歌の解釈はその歌だけに頼る必要があります。また、大津皇子の時代性を考えると万葉集に載る歌自体が、その表記方法や和歌として整った姿からしますと大津皇子の時代のものかどうかも不確かなものになります。(参考として、柿本人麻呂歌への略体歌と非略体歌の論議での時代性について)
 また、怨霊問題を提起する場合、太平で暇な時代には怨霊は世の中を走り回りますが、平安末期から江戸初期の時代、幕末から昭和三十年代、このような激動の時代には怨霊なるものは、どこかに消え失せますし、奈良時代に怨霊の背景となる地獄思想自体があったか、どうかも不明です。従いまして、万葉集歌に怨霊となった人の心を安らげると云う思想があったかどうかも不明ですし、思想史を考えますとないと考えます。なお、ここでは、死を悼む気持ちと怨霊鎮魂とは違うものと考えます。
 この視点から、紹介した歌は大津皇子物語的なものが奈良時代に創られており、正式な葬送儀礼が為されなかった皇子の死を悼み、物語歌からの転用・編集の成果物と想像します。当時の死者への儀礼として、若い女性は男に愛され子を産める体(=濡れる体)をしていたと讃えますし、男は多くの女を愛し抱いたと讃えます。このような視点で、生前に讃えるべき業績・功績がない人物への挽歌の内容を鑑賞していただければと考えます。残念ながら、儀礼の背景からすると大津皇子は「不明の人物」であったこと以外、不明な人物です。付け加えると、草壁皇子もまたしかりです。
 なお、このような古典文学のテクストを歴史や他方面の資料と照合・点検し鑑賞すると云うことは素人の余技の範疇であって、学問ではありません。集歌107の歌に使われる「付」と「附」の文字の使い分けを全万葉集歌との比較を通じて厳密解釈することや、江戸期以降の著名な注釈を比較することが学問では大切です。この緻密さが重要です。
 最後に、引用した『懐風藻』の資料を以下に紹介します。

<懐風藻 序>より抜粋
資料1
凡一百二十篇、勒成一卷。作者六十四人、具題姓名并顯爵里・冠于篇首
凡そ一百二十篇、勒して一卷と成す。作者六十四人、具さに姓名を題し并せて爵里を顯はして、篇首に冠らしむ。

資料2
龍潛王子翔雲鶴於風筆。鳳翥天皇泛月舟於霧渚。神納言之悲白鬢、藤太政之詠玄造       
龍潛の王子、雲鶴を風筆に翔らし、鳳翥の天皇、月舟を霧渚に泛ぶ。神納言が白鬢を悲しみ、藤太政が玄造を詠ぜる。

参照記事
<懐風藻 大津皇子 四首> より引用
皇子者、淨御原帝之長子也 皇子は淨御原帝の長子なり
狀貌魁梧、器宇峻遠 貌の狀は魁梧にして、器は宇峻遠
幼年好學、博覽而能屬文 幼年にして學を好み、博覽にして能く文を屬す
及壯愛武、多力而能撃劍 壯に及よびて武を愛し、力は多にして能く劍を撃つ
性頗放蕩、不拘法度 性頗ぶる放蕩にして、法度に拘らず
降節禮士、由是人多附託 節を降して士を禮す、是の由に人多く附託す
時、有新羅僧行心、解天文卜筮 時に、新羅の僧行心有り、天文卜筮を解す
詔皇子曰 皇子に詔げて曰く、
太子骨法、不是人臣之相 太子骨法、是れ人臣の相にあらず
以此久在下位、恐不全身 此を以つて久しく下位に在るは恐くは身を全せず
因進逆謀、迷此詿誤 因りて逆謀に進む、此の詿誤に迷ひて
遂圖不軌、鳴呼惜哉 遂に不軌を図る、鳴呼惜しいかな
蘊彼良才、不以忠孝保身 彼の良才を蘊みて、忠孝を以つて身を保たず
近此奸豎、卒以戮辱自終 此の奸豎に近づきて、卒に戮辱を以つて自から終る
古人慎交遊之意、因以深哉 古人の交遊を慎しむの意、因りて以つて深きかな
時、年二十四 時に、年二十四

作品番号四
五言 春苑言宴 一首     春苑宴を言(うた)ふ
開衿臨靈沼         衿を開きて靈沼に臨み
游目步金苑         目を游せて金苑に步す
澄清苔水深         澄清 苔水深く
晻曖霞峰遠         晻曖 霞峰遠し
驚波共絃響         驚波 絃共に響き
哢鳥與風聞         哢鳥 風與に聞ゆ
群公倒載歸         群公 倒に載せて歸る
彭澤宴誰論         彭澤の宴誰か論ぜむ

作品番号五
五言 游獵 一首   獵に游ぶ
朝擇三能士         朝に三能の士を擇び
暮開萬騎筵         暮に萬騎の筵を開く
喫臠俱豁矣         臠を喫して俱に豁矣
傾盞共陶然         盞を傾けて共に陶然
月弓輝谷裏         月弓 谷裏に輝き
雲旌張嶺前         雲旌 嶺前に張る
曦光巳陰山         曦光 巳に山に陰る
壯士且留連         壯士 且く留連す

作品番号六
七言 述志     志を述ぶ
天紙風筆畫雲鶴       天紙風筆 雲鶴を画き
山機霜杼織葉錦       山機霜杼 葉錦を織る
[後人聯句]         [後人、句を聯ぐ]
赤雀含書時不至       赤雀 書を含みて 時に至らず
潛龍勿用未安寢       潛龍 用ゐること勿く 未だ安寢せず

作品番号七
五言 臨終 一絶   終ひに臨む
金烏臨西舍         金烏 西舍に臨み
鼓聲催短命         鼓聲 短命を催す
泉路無賓主         泉路 賓主は無し
此夕誰家向         此夕 誰家に向ふ (注:「此夕向誰家」であるべき)

<懐風藻 河島皇子 一首>より引用
皇子者、淡海帝之第二子也 皇子は淡海帝の第二子なり
志懷溫裕、局量弘雅 志懷溫裕、局量弘雅
始與大津皇子、為莫逆之契 始め大津皇子と莫逆の契りをなし
及津謀逆、島則告變 津の逆を謀るに及びて、島則ち變を告ぐ (注:津とは大津皇子)
朝廷嘉其忠正 朝廷其の忠正を嘉し
朋友薄其才情 朋友其の才情は薄し
議者未詳厚薄 議者未だ厚薄を詳かにせず
然余以為 然、余おもへらく
忘私好而奉公者 私好を忘れて公に奉ずる者は
忠臣之雅事 忠臣の雅事
背君親而厚交者 君親に背きて交を厚する者は
悖之流耳 悖の流のみ
但、未盡爭友之益 但し、未だ爭友の益を盡さざるに
而陷其塗炭者、余亦疑之 其の塗炭に陷るる者は、余またこれを疑う
位終于淨大參 位淨大參に終ふ
時年三十五 時に年三十五
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万葉雑記 色眼鏡 七八 再び、「所」は「そ」と訓む

2014年08月02日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 七八 再び、「所」は「そ」と訓む

 今回もまた、個人の趣味の世界、それも恣意的な解釈の世界での話ですし、蒸し返しです。それを最初にお詫びいたします。申し訳ありません。
 さて、その蒸し返しの話ですが、大和言葉を表現する万葉仮名での「所」の文字は『万葉集』、『日本書紀歌謡』、『秋萩帖』などに使われており、万葉仮名一覧では「所」の文字は「そ・乙類」に分類される音字です。インターネットで調べますと、HP「試作 万葉仮名一覧」で万葉仮名一覧の情報を得ることが出来ます。
 また、弊ブログ記事「万葉集 真仮名と古今和歌集」で、次のような話を過去にしています。それで蒸し返しなのです。

補足参考として、『秋萩帖』は第一紙と第二紙の全体で都合四八首の短歌が載せられています。ここで「之」の字は五四回ほど登場しますが、その読みはすべて「し」です。同じように「所」の字は二三回ほど登場し、その読みは「そ」です。こうした時、なぜ、現代の『万葉集』で使われる真仮名を、厳密に「之」を「し」、「所」を「そ」と読まないのかは不明です。

 「所」の文字は万葉仮名として「そ・乙類」として訓むと研究されているのですから、弊ブログの記事での報告内容は、至極当然であり、『秋萩帖』でも認められるように「そ・乙類」として訓むことが平安時代初期まで継続していたことを単に再確認したに過ぎないことになります。
 つまり、平安時代初期までですと、万葉仮名の「所」は「そ」と訓まないといけないことになります。一方、「所」の文字は場所や位置を示す名詞でもありますから、その場合は外来語として「ところ」や「しょ」等の訓みを持つことになります。
 さて、前置きはここまでにして、『万葉集』に載る短歌で万葉仮名「所」の文字を持つものを鑑賞して行きたいと思います。紹介は巻三までに載る短歌とし、最初に原文、次に有名な『万葉集全訳注原文付(中西進 講談社文庫)』(パクリです)の訓読みと意訳、続けて筆者の私訓と私訳を組にするものとします。なお、「所」の文字が場所を意味すると判断される場合は、鑑賞目的が違うとして、紹介なしに割愛致します。つまり、ここでの古語の「そ」は代名詞として使われる言葉を対象にしています。


集歌7 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百磯所念
訓読 秋の野のみ草(くさ)刈り葺(ふ)き宿(やど)れりし宇治の京(みやこ)の仮(かり)廬(ほ)し思(おも)ほゆ
意訳 秋の野のすすきを刈りとって来て屋根に葺いて泊まった、あの宇治の都での仮のやどりが思われることよ。
私訓 秋し野の御草(みくさ)刈り葺(ふ)き宿(やど)れりし宇治の京(みやこ)の仮(かり)廬(ほ)しそ念(も)ゆ
私訳 (皇位を譲って隠棲した古人大兄皇子は吉野で)秋の野の草を刈り屋根を葺いて住まわれているようです。(古人大兄皇子と同様に皇位を譲って隠棲した菟道稚郎子の伝えられる)石垣を積んで作られた、その宇治の宮の故事が偲ばれます。


集歌10 君之齒母 吾代毛所知哉 磐代乃 岡之草根乎 去来結手名
訓読 君が代もわが代も知るや磐代(いはしろ)の岡の草根(くさね)をいざ結びてな
意訳 あなたの命も私の命も支配していることよ。この磐代の岡の草を、さあ結びましょう。
私訓 君し代も吾が代もそ知るや磐代(いはしろ)の岡し草根(くさね)をいざ結びてな
私訳 貴方の寿命も私の寿命をも、それを司るという磐代の丘の言い伝えにしたがって、この丘の木の若枝を、さあ結びましょう。


集歌24 空蝉之 命乎惜美 浪尓所濕 伊良虞能嶋之 玉藻苅食
訓読 うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良虞(いらご)の島の玉藻刈りをす
意訳 現実に生きているこの命をいとおしんで、浪に濡れては伊良虞の島の玉藻を刈っては食べられておられるのだろう。
私訓 現世(うつせみ)し命を惜しみ浪にそ濡れ伊良虞(いらご)の島し玉藻刈り食(は)む
私訳 この世の自分の命を惜しんで、浪、それに濡れて、伊良湖の島の玉藻を刈り取って食べるのだ。


集歌44 吾妹子乎 去来見乃山乎 高三香裳 日本能不所見 國遠見可聞
訓読 吾妹子(わぎもこ)をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも
意訳 わが妻をさあ見ようという「いざ見み」の山は名ばかりで、高々と聳えているからか大和は見えないことよ。いやこれも国遠く旅して来たからか。
私訓 吾妹子(わぎもこ)をいざ見の山を高みかも大和の見ずそ国遠みかも
私訳 私の恋人をさあ(いざ)見ようとするが、いざ見の山は高くて大和の国はまったく見ることが出来ない。国から遥か遠く来たからか。


集歌48 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
訓読 東(ひむがし)の野(の)に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ
意訳 東方の野の果てに曙光がさしそめる。ふりかえると西の空に低く下弦の月が見える。
私訓 東(ひむがし)し野(の)し炎(かぎろひ)し立つそ見にかへり見すれば月西渡る
私訳 夜通し昔の出来事を思い出していて、ふと、東の野に朝焼けの光が雲間から立つ、その朝日を見て振り返って見ると昨夜を一夜中に照らした月が西に渡って沈み逝く。


集歌64 葦邊行 鴨之羽我比尓 霜零而 寒暮夕 和之所念
訓読 葦辺(あしへ)行く鴨の羽(は)がひに霜降りて寒き夕へは大和し思ほゆ
意訳 葦べを泳ぐ鴨の背に霜が降り、寒さが身にしみる夕べは、大和が思われてならない。
私訓 葦辺(あしへ)行く鴨し羽交(はが)ひに霜降りて寒き夕へは大和し念(おも)ほゆ
私訳 葦の茂る岸辺を泳ぐ鴨の羽を畳んだ背に霜が降りるような寒い夕べは、大和(の貴女)が思い出される。


集歌66 大伴乃 高師能濱乃 松之根乎 枕宿杼 家之所偲由
訓読 大伴の高師(たかし)の浜の松が根を枕(まくら)き寝(ぬ)れど家(いへ)し偲(しの)はゆ
意訳 大伴の高師の浜の松を枕にして寝てはいても、後にして来た家が思われる。
私訓 大伴の高師(たかし)の浜の松し根を枕(まくら)き寝(ぬ)れど家(へ)しそ偲(しの)はゆ
私訳 大伴の高師の浜にある松の根を枕として浜辺を眺めながら野宿をしていても、大和の家、その家に住む家族のことが偲ばれます。


集歌67 旅尓之而 物戀尓 鳴毛 不所聞有世者 孤悲而死萬思
訓読 旅にしにもの恋しき「 」音(ね)も聞けずありせば恋ひて死なまし
意訳 旅にある身が何かと恋しいものを、「 」鳴き声もなかったとしたら、家郷恋しさのあまり命絶えてしまうだろうものを
私訓 旅にしにもの恋しきに鳴(さえづる)も聞けずそありせば恋ひに死なまし
私訳 旅路にあって貴女への想いが募り、そのために、このように啼きさえずる鳥の声も耳に入らないようでは、きっと、私は貴女への想いで死んでしまうでしょう。
注意 原文の「物戀尓 鳴毛」は、一般に歌意を想定し「物戀之伎尓 鶴之鳴毛」と創作改変し「物恋しきに鶴(たづ)が鳴(ね)も」と訓みます。ただ、中西進氏は「 」として、「鶴之」との推定を保留しています。


集歌71 倭戀 寐之不所宿尓 情無 此渚崎尓 多津鳴倍思哉
訓読 大和恋ひ眠(ゐ)の寝(ぬ)らえぬに情(こころ)なくこの渚崎廻(すさきみ)に鶴(たづ)鳴くべしや
意訳 大和を恋しくまんじりともし難い夜半、渚崎のまぐりをいたずらに鶴が騒ぐ。そんなに鳴いてよいのだろうか。
私訓 大和恋ひ眠(ゐ)ねし寝(ぬ)ずそに情(こころ)なくこの渚崎廻(すさきみ)に鶴(たづ)鳴くべしや
私訳 大和を恋い慕い寝るに寝られないのに、思いやりもなく、この渚崎のあたりで夜に鶴が妻を呼び立てて鳴くべきでしょうか。


集歌78 飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之當者 不所見香聞安良武
訓読 飛鳥の明日香の里を置きて去(い)なば君があたりは見えずかもあらむ
意訳 飛ぶ鳥の明日香の里を後にしていったなら、あなたのいるあたりは目にすることができなくなってしまうだろうか。
私訓 飛ぶ鳥し明日香の里を置きて去(い)なば君しあたりは見ずそかもあらむ
私訳 飛ぶ鳥の明日香の里を後にして去って行ったなら、あなたの明日香藤井原の藤原京の辺りはもう見えなくなるのでしょうか


集歌105 吾勢枯乎 倭邊遺登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所之沽  (沽は雨+沽の当て字)
訓読 わが背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁(あかとき)露(つゆ)に吾(われ)立ち濡れし
意訳 わが背子を大和に送るとて、夜もふけ、やがて明方の露に濡れるまで、私は立ちつづけたことであった。
私訓 吾が背子を大和へ遣るとさ夜更けに暁(あかとき)露(つゆ)に吾(われ)立ちそし沽(か)れ
私訳 私の愛しい貴方を大和に送ろうと思うと、二人の夜はいつしか深けていき、その早朝に去って往く貴方を見送る私は夜露の山裾でたちなずんでいた。


集歌107 足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沽 山之四附二
訓読 あしひきの山のしづくに妹待つとわが立ち濡れし山のしづくに
意訳 あしひきの山の雫に、妹を待つとて私は立ちつづけて濡れたことだ。山の雫に。
私訓 あしひきの山し雌伏に妹待つと吾立ちそ沽(か)れ山し雌伏に
私訳 「葦や檜の茂る山の裾野で愛しい貴女を待っている」と伝えたので、私は辛抱してじっと立って待っている。山の裾野で。
注意 原文の「吾立所沽」の「沽」は、一般に「沾」の誤記として「吾立ち沾(ぬ)れぬ」と訓みます。これに呼応して「山之四附二」は「山の雫に」と訓むようになり、歌意が全く変わります。


集歌144 磐代之 野中尓立有 結松 情毛不解 古所念
訓読 磐代(いはしろ)の野中に立てる結び松情(こころ)も解(と)けず古(いにしへ)思(も)ほゆ
意訳 磐代の野の中に立つ結びの松よ、いつまでも枝を解けず、昔の事が思われてならぬ。
私訓 磐代(いはしろ)し野中に立てる結び松情(こころ)も解(と)けず古(いにしへ)そ念(も)ゆ
私訳 磐代の野の中に立っている枝を結んだ松。結んだ枝が解けないように私の心も寛げず、昔の出来事が思い出されます。


集歌149 人者縦 念息登母 玉蘰 影尓所見乍 不所忘鴨
訓読 人はよし思ひ止(や)むとも玉鬘(たまかづら)影に見えつつ忘らえぬかも
意訳 故人をしのぶことも、人はやがてなくなるかもしれぬ。たとえそうであっても、私には鬘のように面影に見えつづけて、忘れられないことだ。
私訓 人はよし念(おも)ひ息(や)むとも玉蘰(たまかづら)影に見えつつ忘れずそかも
私訳 他の人がそうであって貴方をお慕いすることを止めたとしても、目に入る美しい蘰が貴方の面影のように常に思えていて、きっと忘れられないでしょう。


集歌171 高光 我日皇子乃 萬代尓 國所知麻之 嶋宮婆母
訓読 高光るわが日の皇子の万代(よろづよ)に国知らさまし島の宮はも
意訳 高く輝く、わが日の御子が永遠に国土をお治めになってほしかった島の宮よ。
私訓 高光る我が日し皇子の万代(よろづよ)に国そ知らさまし嶋し宮はも
私訳 天まで高く御身が光る我が日の皇子が、万代までにこの国、それを統治されるはずであったのに。あぁ、嶋の宮よ。


集歌191 毛許呂裳遠 春冬片設而 幸之 宇陀乃大野者 所念武鴨
訓読 褻(け)ころもを春冬(とき)片(かた)設(ま)けに幸(い)でましし宇陀の大野は思ほえむかも
意訳 いつもの衣を解き、時を待ちうけてお出ましになった宇陀の大野は、いつまでも思い出されるだろうなあ。
私訓 褻(け)ころもを春冬(とき)片(かた)設(ま)けに幸(い)でましし宇陀の大野はそ念(おも)ほむかも
私訳 普段着の紐を解き(令服に身を包み)、時を定めて御出座しになった宇陀の大野は、いつまでも、それを思い出されるでしょう。


集歌200 久堅之 天所知流 君故尓 日月毛不知 戀渡鴨
訓読 ひさかたの天知らしぬる君ゆゑに日月も知らに恋ひ渡るかも
意訳 遥か彼方の天をお治めになってしまった君なので、いつの日果てるとも知らずに恋いつづけることだ。
私訓 ひさかたし天そ知らしぬ君ゆゑに日月も知らに恋ひ渡るかも
私訳 遥か彼方の天上の、その世界を統治なされる貴方のために、日月の時の経つのも思わずに貴方をお慕いいたします。


集歌202 澤之 神社尓三輪須恵 雖禱祈 我王者 高日所知奴
訓読 哭沢(なきさは)の神社(もり)に神酒(みわ)据ゑ祷祈(いの)れどもわご大君は高日知らしぬ
意訳 泣沢の女神に命のよみがえりを願って、神酒を捧げて祈るのだが、わが大君は、高く日の神として天をお治めになってしまった。
私訓 哭沢(なきさは)し神社(もり)に神酒(みわ)据ゑ祷祈(いの)れども我が王(おほきみ)は高日そ知らしぬ
私訳 哭沢の神の社に御神酒を据えて神に祈るのですが、我が王は天上の世界、それをお治めになった。


集歌206 神樂波之 志賀左射礼浪 敷布尓 常丹跡君之 所念有計類
訓読 ささなみの志賀さされ波しくしくに常にと君が思(おも)ほせりける
意訳 ささなみの志賀の岸によせる小波(ささなみ)のように、しきりに、変りなくありたいとあなたは思っていらしたことだったなあ。
私訓 楽浪(さざなみ)し志賀さざれ波しくしくに常にと君しそ念(おも)ほせける
私訳 楽浪の志賀のさざれ波が、しきりに立って絶え間が無いように、絶えることなく常のことと貴方はそれを思われたことです。


集歌209 黄葉之 落去奈倍尓 玉梓之 使乎見者 相日所念
訓読 黄葉(もみちは)の散(ち)りゆくなへに玉梓の使(つかひ)を見れば逢ひし日(にち)思(おも)ほゆ
意訳 黄葉の散りゆく景色につれて死を告げる使者の訪れをうけると、妻と逢った日が思われてならない。
私訓 黄葉(もみちは)し落(ち)り去(ゆ)くなへに玉梓し使(つかひ)を見れば逢ひし日そ念(おも)ほゆ
私訳 黄葉の落ち葉の散っていくのつれて貴女が去っていったと告げに来た玉梓の使いを見ると、昔、最初に貴女に会ったとき手紙の遣り取りを使いに託した日々、その日々を思い出します。


集歌238 大宮之 内二手所聞 網引為跡 網子調流 海人之呼聲
訓読 大宮の内まで聞こゆ網引(あびき)すと網子(あご)調(ととの)ふる海人(あま)の呼び声
意訳 行宮(かりみや)の中まで聞こえて来ます。網引きをするというので、網子を整えている海人の呼び声が。
私訓 大宮し内にてそ聞こゆ網引(あびき)すと網子(あご)調(ととの)ふる海人(あま)し呼び声
私訳 伊勢の阿胡(あご)の行宮(かりみや)の御殿にいて、その掛け声が聞こえます。網を引こうと阿胡の浦の網子(あこ)達がかけ声を整えている海人(あま)の呼び声よ。
注意 原文の「内二手所聞」の「二手」は、一般に「両手」の意味をとり「真手」のこととします。ここから「まて」の訓みを採る戯訓としています。


集歌253 稲日野毛 去過勝尓 思有者 心戀敷 可古能嶋所見
訓読 稲日野も行き過ぎかてに思へれば心恋しき可古の島見ゆ
意訳 古い伝承にも語られる稲日野も行き過ぎがたく思っていると、心に恋しく思っていた可古の島が見えて来る。
私訓 稲日野も行き過ぎかてに思へれば心恋しき可古の島そ見ゆ
私訳 稲美野も行き過ぎてしまって、ふと思うと目的としていた加古の島、その島影が見える。


集歌255 天離 夷之長道従 戀来者 自明門 倭嶋所見
訓読 天(あま)離(さ)る夷(ひな)の長道(ながぢ)ゆ恋ひ来れば明石の門(と)より大和島見ゆ
意訳 天路遠い夷の長い道のりをずっと恋いつづけて来ると、今や明石海峡から大和の陸地が見える。
私訓 天(あま)離(さ)る夷し長道ゆ恋ひ来れば明石し門(と)より大和島そ見ゆ
私訳 大和の空から離れた田舎からの長い道を大和の国を恋しく思って帰って来ると明石の海峡から大和の山並み、その山並みが見えた。


集歌256 飼飯海乃 庭好有之 苅薦乃 乱出所見 海人釣船
訓読 飼飯(けひ)の海(うみ)の庭好くあらし刈薦(かりこも)の乱れ出(い)づ見ゆ海人の釣船
意訳 飼飯の海の海上は穏やからしい。刈りとった薦のようにあちこちから漕ぎ出して来るのが見える、漁師の釣船よ。
私訓 飼飯海(けひうみ)の庭好くあらし刈薦の乱(あら)れ出づそ見ゆ海人の釣船
私訳 飼飯の海の海上は穏やからしい。刈る薦の茎のように乱れあちらこちらに散っているのを見た。その海人の釣船よ。


集歌266 淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思奴尓 古所念
訓読 淡海(あふみ)の海(み)夕浪(ゆふなみ)千鳥(ちどり)汝(な)が鳴けば情(こころ)もしのに古(いにしへ)思ほゆ
意訳 淡海の海の夕波を飛ぶ千鳥よ、お前が鳴くと心もしなえるように昔のことが思われる。
私訓 淡海(あふみ)の海(み)夕浪(ゆふなみ)千鳥(ちどり)汝(な)が鳴けば情(こころ)もしのに古(いにしへ)そ念(も)ふ
私訳 淡海の海の夕波に翔ける千鳥よ。お前が鳴くと気持ちは深く、この地で亡くなられた天智天皇がお治めになった昔の日々を思い出す。


集歌269 人不見者 我袖用手 将隠乎 所焼乍可将有 不服而来来
訓読 人見ずはわが袖もちて隠(かく)さむを焼けつつかあらむ着(き)せずて来にけり
意訳 袖をかけてあなたを隠せばよかったものを、人目をはばかってそのまま来たので、今もあなたの心は燃えつづけているだろうか。袖をかへずに来たことだなあ。
私訓 人見ずは我が袖もちて隠(かく)さむをそ焼けつつかあらむ着(き)せずて来にけり
私訳 人が見ていなければ私の衣の袖で貴方の体を覆うのですが、きっと、貴方は恋焦がれているでしょう。共寝の衣を貴方に着せずに帰って来たので。
注意 この歌の「所焼乍可将有」の対象をどのように取るかで、歌意は変わります。男が恋心を燃やすのか、屋部坂が禿山になって燃えたような地肌を見せているのか、の差があります。ここでは男の恋心の方を採用しています。


集歌270 客為而 物戀敷尓 山下 赤乃曽呆舡 奥榜所見  (呆はネ+呆の当字)
訓読 旅にして物恋しきに山下(やました)の赤(あけ)のそほ船沖へ漕ぐ見ゆ
意訳 わが身は旅にあって、何となく物恋しいのに、山下の黄葉色の赤丹(あかに)を塗った舟が沖へ漕ぐのが見えることだ。
私訓 旅にしに物恋しきに山下(やました)し赤(あけ)のそほ船沖榜ぐそ見ゆ
私訳 旅路にあって物恋しいときに、山の裾野で、赤丹に塗った官の船が沖合で帆走していく、その船影を見た。
注意 原文の「赤乃曽呆舡」は、一般には「赤乃曽保船」と表記します。


集歌304 大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念
訓読 大君の遠(とほ)の朝廷(みかど)とあり通ふ島門(しまと)を見れば神代(かみよ)し思ほゆ
意訳 大君の遠い朝廷として官人たちが通いつづける海路の、島山の間を見ると神代の昔が思われる。
私訓 大王(おほきみ)し遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代しそ念(も)ゆ
私訳 大王が遥か昔に置かれた都の跡に、大和からはるばるやってきて、その海峡を見ると神の時代、その遥か昔が偲ばれます。


集歌312 昔者社 難波居中跡 所言奚米 今者京引 都備仁鷄里
訓読 昔こそ難波(なには)田舎(ゐなか)と言はれけめ今は京引(みやひ)き都(みやこ)びにけり
意訳 昔こそ「難波田舎」と言われたであろうが、今こそは都のあれこれを引いて来て、いかにも都らしくなったなあ。
私訓 昔こそ難波(なには)田舎(ゐなか)とそ言はれけめ今は京引(みやひ)き都(みやこ)びにけり
私訳 昔でこそ森だらけの難波は奈良と大宰府の間の田舎だと、そのように言われていたが、今は雅の帝都となりざわめき活気ある都らしくなったことよ。


集歌313 見吉野之 瀧乃白浪 雖不知 語之告者 古所念
訓読 み吉野し瀧(たき)の白波知らねども語りし継げば古(いにしへ)思ほゆ
意訳 み吉野の滝にわく白波よ。白波のことばとおりに知らないけれども、人人が語りつぐので、吉野の昔が思われることよ。
私訓 み吉野し瀧(たき)の白波知らねども語りし継げば古(いにしへ)そ念(も)ゆ
私訳 眺めが美しい吉野の激流の白波(しらなみ)、その言葉のひびきではないが、その出来事は良くは知(しら)ないが、人々が語り継ぐと、その昔の出来事が偲ばれます。


集歌329 安見知之 吾王乃 敷座在 國中者 京師所念
訓読 やすみししわご大君の敷きませる国の中(うち)には京師(みやこ)し思(おも)ほゆ
意訳 あまねく統治なさるわが大君の支配される国の中にあっては、やはり都のことが恋しく思われる。
私訓 やすみしし吾(あ)が王(おほきみ)の敷きませる国し中(うち)には京師(みやこ)そ念(おも)ほゆ
私訳 すべからく承知される我々の王が統治される国の中心にある都、その都が偲ばれます。


集歌333 淺茅原 曲曲二 物念者 故郷之 所念可聞
訓読 浅茅(あさぢ)原(はら)つばらつばらにもの思(も)へば故(ふ)りにし郷し思ほゆるかも
意訳 浅い茅がやの原、つくづくと物思いにふけると、あの明日香の故郷がなつかしいことよ。
私訓 浅茅(あさぢ)原(はら)つばらつばらにもの思(も)へば古(ふ)りにし里しそ念(おも)ほゆるかも
私訳 浅茅の原をつくづく見て物思いをすると、時代を経た、その故郷の明日香の里を想い出すだろう。


集歌336 白縫 筑紫乃綿者 身箸而 未者妓袮杼 暖所見
訓読 しらぬひ筑紫の綿(わた)は身につけていまだは著(き)ねど暖(あたた)かに見ゆ
意訳 しらぬひの筑紫の綿は身につけてまだ着たことはないが、暖かそうに見える。
私訓 しらぬひし筑紫の綿(わた)は身に付けていまだは着ねど暖(あたた)かにそ見ゆ
私訳 不知火の地名を持つ筑紫の名産の白く縫った「夢のわた」のような言葉の筑紫の綿(わた)の衣は、僧侶になったばかりで仏法の修行の段階は端の、箸のように痩せた私は未だに身に着けていませんが、きっと女性の体のように暖かいことでしょう。
注意 歌は集歌335の歌を受けてのものです。原文の「未者妓袮杼」の「妓」は、一般に「伎」の誤字とします。ここでは歌意から原文のままとしています。この「妓」の用字は集歌337の歌に影響を与えています。


集歌353 見吉野之 高城乃山尓 白雲者 行憚而 棚引所見
訓読 み吉野の高城(たかき)の山に白雲は行きはばかりてたなびけり見ゆ
意訳 み吉野の高城の山には、白雲が流れなずんで、たなびいているのが見えるよ。
私訓 み吉野し高城(たかき)の山に白雲は行きはばかりにたなびくそ見ゆ
私訳 見渡たし美しい吉野の高城の山に白雲は過ぎ行くことが出来なくて、棚引いている、その白雲を見た。


集歌357 縄浦従 背向尓所見 奥嶋 榜廻舟者 釣為良下
訓読 縄(なは)の浦ゆ背向(そがひ)に見ゆる沖つ島漕ぎ廻(み)る舟は釣りしすらしも
意訳 縄の浦ごしに、浦のうしろに見える沖の島を、今舟が漕ぎ廻っていく。あの舟は釣をしているらしいな。
私訓 縄浦(なはうら)ゆ背向(そがひ)にそ見ゆ沖つ島漕ぎ廻(み)る舟は釣りしすらしも
私訳 縄浦からその反対方向にそれを見た。沖の島の周りを漕ぎ廻るその舟は釣りをしているようだ。
注意 縄浦は、兵庫県相生市那波町の海岸一帯と思われる


集歌359 阿倍乃嶋 宇乃住石尓 依浪 間無比来 日本師所念
訓読 阿倍(あべ)の島鵜の住む磯に寄する波間(ま)なくこのころ大和(やまと)し思ほゆ
意訳 阿部の島の鵜の住みつく岩石の浜、そこに絶えまなくあがる波のように、このごろはたえず大和が思われる。
私訓 阿倍(あべ)の島鵜の住む磯に寄する浪間(ま)無くこのころ日本(やまと)しそ念(も)ゆ
私訳 阿倍の嶋の鵜の住む磯に寄せ来る浪に絶え間が無いように、このころ絶え間なく、その大和の都を恋しく思います。
注意 阿倍の嶋は、兵庫県加古川市阿閉津の海岸一帯と思われる


集歌371 飫海乃 河原之乳鳥 汝鳴者 吾佐保河乃 所念國
訓読 飫宇(おう)し海(うみ)の河原(かはら)の千鳥汝(な)が鳴けばわが佐保(さほ)河(かは)の思(おも)ほゆらくに
意訳 飫海の海の河原の千鳥よ、お前が鳴くと、我が家郷の佐保川が思われてならぬものを。
私訓 飫宇(おう)し海(み)の河原(かはら)し千鳥汝(な)が鳴けば吾(あ)が佐保(さほ)川(かは)のそ念(も)ほゆらくに
私訳 飫海にある河原に居る千鳥よ。お前が啼けば私の故郷の佐保川、その川の風情が思い出される。


集歌396 陸奥之 真野乃草原 雖遠 面影為而 所見云物乎
訓読 陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを
意訳 陸奥の真野の草原は、遠くはあっても面影の中に見えるといいますものを。
私訓 陸奥(みちのく)し真野の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にせにそ見ゆといふものを
私訳 陸奥にある真野の草原は遠いのですが、それを想像することは、きっと出来ると云いますからね。


集歌433 勝壮鹿乃 真々乃入江尓 打靡 玉藻苅兼 手兒名志所念
訓読 葛飾の真間の入江にうちなびく玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ
意訳 葛飾の真間の入江になびいている美しい藻を刈ったろう手児名のことが思われる。
私訓 勝雄鹿(かつしか)の真間(まま)の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手児名(てこな)しそ念(おも)ゆ
私訳 勝鹿の真間の入り江で波になびいている美しい藻を刈っただろう手兒名、その娘女のことが偲ばれます。


集歌447 鞆浦之 礒之室木 将見毎 相見之妹者 将所忘八方
訓読 鞆の浦の礒のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも
意訳 これからも、鞆の浦の磯に生えたむろの木を見るたびに、共に見た妻を忘れることはないだろう。
私訓 鞆浦(ともうら)し礒し室木(むろのき)見むごとに相見し妹は忘られそやも
私訳 鞆の浦の磯にある室木を眺めるたびに、二人して眺めたその妻を忘れてしまう、そのようなことがあるでしょうか。


集歌456 君尓戀 痛毛為便奈美 蘆鶴之 哭耳所泣 朝夕四天
訓読 君に恋ひいたもすべ無み蘆(あし)鶴(たづ)の哭(ね)のみし泣(な)かゆ朝夕(あさよひ)にして
意訳 あなたが恋しくせん術もないので、ただ蘆べの鶴のように打ちしおれて泣くばかりだ。朝となく夜となく。
私訓 君に恋ふいたもすべ無み蘆(あし)鶴(たづ)し哭(ね)のみそ泣(な)かゆ朝夕(あさよひ)にして
私訳 貴方を慕う。ただどうしようもない。葦べの鶴のように血の声を絞ってただ泣くばかり、朝となく夕べとなく。


集歌463 長夜乎 獨哉将宿跡 君之云者 過去人之 所念久尓
訓読 長き夜を独りや寝(ね)むと君が言へば過ぎにし人の思ほゆらくに
意訳 長い夜を一人で寝るのかとあなたがいうと、また、あのなくなった人が思われてなりません。
私訓 長き夜をひとりや寝(ね)むと君し云(へ)ば過ぎにし人しそ念(おも)ほゆらくに
私訳 長い夜を独りで寝るのかと貴方が尋ねると、死して過ぎ去ていったあの人との事、それを思い出されます。


 以上、恣意的に「所(そ)」の言葉を強調して私訳してみました。手前味噌ではありますが、なぜ、万葉人は作歌するとき、文字の制約の中で特段に「所」と云う文字を使ったのかが判ると思います。万葉仮名「そ 乙類」の音字では「曾」と云う文字を使うことも考えられますが、ここで紹介したものは代名詞としての「そ」の用法がもっぱらです。そのため、空間や場所を意味する「所」の文字の方が合うと認識していたのではないでしょうか。それにより、歌の解釈がより緊張あるものになると考えます。
 なお、現在の『万葉集』の訓読みの流れでは『新撰万葉集』や平安時代以降の漢文訓読の影響が大きいのかもしれません。文字の研究では「所」と云う文字は万葉仮名では「そ 乙類」と訓むこととなっていますが、漢文訓読法では時に無声音扱いすることがあります。その慣習から、近代の研究においても『万葉集』の歌を鑑賞するとき、無意識のうちに無声音とする「新しい慣習」を創作したのでしょう。当然、「古典文学体系本」や「古典文学全集本」などをテキストに採用するような専門研究者では気が付かない世界です。あくまで、それは『万葉集』の原文訓読みからの世界です。つまり、素人の遊びの世界です。学問ではありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする