竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 百五十 ややこしい字音の話 唐時代の中国語を唐音とは呼ばない

2015年12月26日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百五十 ややこしい字音の話 唐時代の中国語を唐音とは呼ばない

 恥ずかしい話、今まで一人合点の理解で教養の無さをさらけ出していました。例えば、藤原時代とは平安時代中期頃を指す時代用語のようで、持統天皇から文武天皇の前期万葉集興隆期となる藤原京時代を意味しません。ただし、「藤原京の時代」と云う呼び名はありますので、昭和期以前と平成期以降では認識は違うのかもしれません。
 また、漢字の日本での読解・発声方法での区分からしますと、唐音とは鎌倉時代以降に中国から入ってきた字音で宋音のことで、唐時代の正式な字音は漢音だそうです。その区分では漢時代の字音は漢音とは称せませんので、呉音などとひとくくりにするか、別の字音区分である上古音と称するそうです。弊ブログでは、素養の無さから秦・漢時代の北方系中国語字音を漢音、三国分裂期以降の南方系中国語字音を呉音、隋・唐成立期以降の官庁指定の中国語字音を正音または唐音と認識していました。
 例えば、西暦一世紀前後には大和には大陸からの文字と言葉が流入していたであろうと推定され、それは梅(うめ、むめ)、馬(うま、むま)、郡(くに)、絹(きぬ)、秈(しね)などの言葉に代表されるとします。なお、このような言葉の源となった中国語字音に対してHP「日本語千夜一夜」では上古音での漢音と云う言葉が学術上では使えないために「弥生語」と仮称しています。呉音については、多くの漢語に基づく言葉がありますから、これ以降の例字提示は省略させて頂きます。
 ただ、呉音・漢音・唐音の区分と認識について大変な間違いあったことは実に恥ずかしいことであり、間違った情報を自身による検証や指摘を受けることなく世に垂れ流す「トンデモ説」の典型でありました。反省する次第です。
 ただし言い訳をさせて頂くと、宋時代以降の中国語字音と唐時代以前の字音は違うものであることは宋の北宋時代、真宗のときに従来の韻書に誤りが多く科挙の標準として差し支えがあったため、勅命によって字音研究書であり韻辞典である陳彭年編纂の「宋本廣韻」が発行されたことからも明らかですし、その宋時代の字音である唐音を唐時代の字音(術語では「漢音」)と区別するために術語として「新漢音」と別称するのも変なはなしです。
 唐音と云う区分する人たちも承知の、同じ漢字文字を使いますが人種と発音は同じではないのです。そこで字音が違うことを前提としてその字音区分の「唐音」を唐時代の字音と誤認されると云う混乱を避けるために「『からおん』と訓じる」と補足するようです。実にややこしい話です。この背景には現代日本人が英国をイギリスと称しますが、国際的な認識はブリティシュです。これと同じように唐末以降に中国に私費留学した僧侶や貿易商人たちは中国のことを唐と称していたことに由来するようです。時代に於いて、中国南部の宋に留学したというのと、唐に留学したと云うのでは「宋」と云う国を知らない民衆での受け取り方が違ったことにもあるのでしょう。再度の言い訳ですが、鎌倉時代の仏教僧は実に罪作りです。

<仏教から見た字音区分>
 日本漢字音(音読み)において鎌倉時代以降に中国から入ってきた字音。宋以降の字音である。室町時代には宋音(そうおん)と呼ばれた。
漢音(かんおん)とは、日本漢字音(音読み)の一つ。古くは「からごえ」とも呼んだ。7, 8世紀、奈良時代後期から平安時代の初めごろまでに、遣隋使・遣唐使や留学僧などにより伝えられた音をいう。中国語の中古音のうち、唐中葉頃の長安地方の音韻体系(秦音)を多く反映している。他の呉音や唐音に比べて最も体系性を備えている。また唐末に渡航した僧侶たちが持ち帰った漢字音は中国語の近世音的な特徴を多く伝えており、通常の漢音に対して新漢音と呼ばれることがある。
 持統天皇は、唐から続守言を音博士として招き、漢音普及に努めた。また、桓武天皇は延暦11年(792年)、漢音奨励の勅を出し、大学寮で儒学をまなぶ学生には漢音の学習が義務づけられ、また仏教においても僧侶の試験に際して音博士が経典読誦の一句半偈を精査することが行われ、また漢音を学ばぬ僧には中国への渡航が許されなかった。漢音学習者が呉音を日本なまりの発音として「和音」と呼び、由来もはっきりしない発音として「呉音」と呼んで蔑んだように、漢音は正統の中国語音で発音することが求められたものであった。
 呉音(ごおん)とは、日本漢字音(音読み)の一つ。奈良時代に遣隋使や留学僧が長安から漢音を学び持ち帰る以前にすでに日本に定着していた漢字音をいう。漢音同様、中国語の中古音の特徴を伝えている。一般に、呉音は仏教用語をはじめ歴史の古い言葉に多く使われる。 慣用的に呉音ばかり使う字(未〔ミ〕、領〔リャウ〕等)、漢音ばかり使う字(健〔ケン〕、軽〔ケイ〕等)も少なくなく、両者は日常的に混用されているものである。

<音韻学から見た字音区分>
 上古音(しょうこおん、または、じょうこおん)とは、周代・漢代頃の中国語および漢字音の音韻体系をいう。字音を今音(現代音)と古音(古代音)に分け、古音を上古・中古・近古の3つに分けたものの1つである。
 中古音(ちゅうこおん)は、中国音韻学上、南北朝時代後期から、隋・唐・五代・宋初にかけて使用された中国語の音韻体系。南北朝後期、隋から唐代初期の中古音を前期中古音、唐代中期から五代・宋にかけての中古音を後期中古音に分ける。中古音で重要なのは前期中古音なので、その中心となる時代から隋唐音と呼ばれることもある。狭義としては、中古音の復元の中心となる『切韻』に示されている音韻体系を指す。中古音は、『切韻』などの韻書や韻図、現代中国語の諸方言、日本語・朝鮮語・ベトナム語など周辺言語の漢字音の研究から推定される。


 以上、インターネットからの解説を紹介しましたが、解説にありますように音韻学からしますと「中古音で重要なのは前期中古音なので、その中心となる時代から隋唐音と呼ばれることもある」と云う点です。仏教声明での区分とは異なりますが、万葉集に万葉仮名と云う音字が存在する以上、その読解では解説で示すこの「中古音での隋唐音」と云うものが重要になります。
 面白いことに唐から招聘された続守言たち、音博士は伝授する唐朝廷の使う発音は「正音」と呼んでいたようで、唐時代では征服された被支配者たちを「漢(やから)」とさげすんでいましたから、彼ら自身が自分たちの発音を「漢音」と云う表現を使う可能性はないでしょう。やはり、桓武天皇時代の仏教僧の発音区分が端緒でしょうか。
 さらに、調べますと中国では「呉音」、「漢音」、「唐音」の字音区分は日本での日本語発音区分として紹介し、中国の漢字発音と云うものとはまったくに切り離しています。あくまでも日本の術語です。中国には当たり前ですがこのような区分を示すものはありません。ただし、漢詩の世界では「唐詩唐音」は漢詩研究での韻から重要テーマです。韻が重要な唐代漢詩研究ではその時代の唐王朝正音を知らなければ研究とはなりません。それで「唐音」と云う言葉は中国でも漢詩の世界では存在します。なお、それは当たり前ですが唐時代の字音が意味です。宋時代の字音でないことは明白です。

 ただ、弊ブログでは無知と教養の無さに由来してこの「中古音での隋唐音=漢音」と云う適切な学術用語を知りませんでした。実にご迷惑をお掛けしていますし、誤解を引き起こして申し訳ありませんでした。
 一方、隋唐音は漢音であると云うことは、非常にややこしい話です。ちょうど、日本史での藤原時代が持統天皇から文武天皇・元明天皇前期の藤原京時代を意味しないことと同じようなことなのかもしれません。この日本史での藤原時代は平安時代中期頃の藤原氏摂関政治全盛期の間を示し、持統天皇から文武天皇・元明天皇前期の藤原京時代に対しては適切な時代用語は無いのではないでしょうか。「飛鳥時代」では本格的な藤原京が築かれ、律令政治が始まったことへの時代的区切りとはなりません。また、昭和時代までに使われた「飛鳥浄御原宮時代」では政治や経済事情からからしてまったくに時代が説明出来ません。結局、持統天皇から文武天皇・元明天皇前期の藤原京時代は、「藤原京の時代」なのでしょうね。このためでしょうか、仏像や美術史は、ちょっと混乱があって「藤原時代」、「天平時代」、「白鳳時代」、(「藤原京時代」)、「飛鳥」と順に時代を遡るようです。ただ、この「白鳳時代」の解釈も大化の改新「大化元年」を起点とするものと、天武天皇即位の「壬申の乱」以降とするものとがあるようです。「壬申の乱」の前と後では、まったくに政治や経済体制が違いますし時代性も違いますので、文化史区分では戦前からの昭和と平成を同じ時代区分にするような問題を引き起こしています。

 さて、何が背景にあるのでしょうか。
 日本の字音研究では「中古音での隋唐の字音」は「漢音」であるとしますし、字音区分の「唐音」は日本での中国語区分では「宋時代以降の字音」です。また、日本史の藤原時代は藤原京時代を意味しません。非常にややこしい話ですし、外部者には確実に誤解を招くような術語の設定です。

 今回はとりとめのない話であり、個人の覚書のような学習帳の内容で、万葉集とは直接には関係しませんでした。ただただ、私の頭の中は混乱でお花畑です。
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万葉雑記 色眼鏡 百四九 読み易さへの統一

2015年12月19日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百四九 読み易さへの統一

 現代は、お金に厳しい生活をしているものが、このような趣味をする時、優しい時代になりました。例えば、新古今和歌集の歌の表記について調べようと思うと電子画像データが多く公表されていますから、先達のように多額の交通費と宿泊費を工面し、時間をかけて全国各地の図書館や博物館などを巡り、その閲覧交渉を経て閲覧する必要は無くなりました。実にうれしい時代です。
 歌を詠うとき、作歌者は自己の世界を存分に紹介するためにその表記には万全の配慮を行っているであろうことは、十分に推測されます。弊ブログではそのような判断のために万葉集の原歌紹介として「漢語と万葉仮名と称される漢字だけで表現された歌」を紹介しています。作歌者が選択した、その使われる表語文字である漢語や漢字字体にも意味があるとする立場です。
 一方、平安末期から鎌倉時代にかけて、歌は記録するときには後の読者となる相手に判り易くする必要があるとの機運が高まり、古典文学を本来の「変体仮名連綿表記」から「漢字交じり平仮名」での表記に翻訳するようになりました。古今和歌集の原歌は区切りを持たない変体仮名連綿体による表記ですから、達筆や癖字で書写されたものは当時であっても非常に読解に苦労したようです。例えば、同じ底本写本ですが紀貫之の「土左日記」でも紀貫之自筆本からの写本においても父親である藤原定家の写本「土佐日記」とその子藤原為家の写本「土佐日記」に相違があります。
 そうした時、定家は早く、この問題に気付いたようで、歌の読解と解釈を安定させるために漢語に由来する言葉は漢語漢字表記に翻訳し、その漢語表記を挟むことで区切りを明確にし、そこから容易な読解と解釈の安定を導いたようです。このような状況を背景に、この時代に万葉集や古今和歌集、さらに土左日記や源氏物語もまた「鎌倉時代の現代語」を下に「漢字交じり平仮名」に翻訳されました。その作業の第一人者が藤原定家です。これらの翻訳作業の全貌は平成の時代になって土左日記の母字復元作業や古今和歌集高野切からの古今和歌集復元作業などを通じて明らかになって来ています。
 当然、後の読者となる相手に判り易くすることを目的に古典文学を「漢字交じり平仮名」の表記方法により翻訳されたものは、後年の人々には読み易いものです。この大成功により、昭和時代まで藤原定家版のものを古今和歌集、土左日記や源氏物語などの古典原本と疑似的にみなしていました。当然ですが、藤原定家版の土佐日記と紀貫之の土左日記とは翻訳過程を経ている分だけ微妙に違いますし、古今和歌集もまた藤原定家の歌への解釈と感性は紀貫之たちとは一致していません。その分、歌に相違が生じています。

 さて、以下に新古今和歌集の巻頭二首を紹介します。最初の普及書からのもので、次は文学大系本です。さらに伝本からのものを三種紹介します。確認して頂ければ、そのままでありますが、それぞれ歌の表記は微妙に違っています。また、伝本の「平仮名」の部分は本来ですと「変体仮名」と称される漢字文字です。例えば「は」と云う平仮名文字には「波」からのものと、「者」からのものとがあり、それぞれの伝本では区別されています。今回は弊ブログ者の能力の無さからそれは紹介していませんが、電子画像データからは読み取れるものですので、興味がおありでしたらそれぞれを紹介していますHPを検索して参照願います。

新古今和歌集 春哥上より巻頭二首を紹介
現代版の新古今和歌集
HP「トロントたきのおと会 新古今和歌集」(注 題詞、作者紹介は無し)
参照資料:久保田淳訳注「新古今和歌集上下」(角川ソフィア文庫)
歌番号一
み吉野は山も霞て白雪のふりにし里に春は来にけり

歌番号二
ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山霞たなびく

<資料一>
HP「書籍デジタル化委員会 底本『新古今和歌集』日本古典文学大系11/1995/岩波書店」
歌番号一
はるたつこゝろをよみ侍りける  摂政太政大臣
み吉野は山もかすみて白雪のふりにし里に春はきにけり

歌番号二
春のはじめの歌  太上天皇
ほの/"\と春こそ空にきにけらし天の香具山かすみたなびく

<資料二>
HP「國學院大學図書館ライブラリー:室町時代末期写 大夫阿闍梨本」
春哥上
歌番号一
はるたつこころをよみ侍りける   摂政太政大臣
御よし野は山もかすみてしら雪のふりにし里に春は来にけり

歌番号二
春のはじめのうた   太政天皇
ほの/"\と春こそ空に来にけらしあまのかく山霞たなひく

<資料三>
HP「國學院大學図書館ライブラリー:盛誉筆 延宝二年(1674)版」
春哥上
歌番号一
はるたつこころをよみ侍りける   摂政太政大臣
御よし野は山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり

歌番号二
春のはじめのうた   太政天皇
ほの/"\と春こそ空に来にけらしあまのかく山霞たなひく

<資料四>
HP「龍谷大学電子図書館による画像データ:源通具 他撰写本 天正三年(1575)版」
春哥上
歌番号一
春立つ心をよみ侍りける   摂政太政大臣
み吉野は山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり

歌番号二
春のはじめの哥   太政天皇
ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山かすみたなびく


 以上、紹介しました。この状況から見ますと、歴史的に和歌の表記では、結構、原歌に対して自由であることが推定できるのではないでしょうか。それぞれの写本を行う人、出版物として社会に広めようとする人、それぞれの人がそれぞれの考えに従って歌を解釈し、その解釈に沿って歌の表記を変化させています。これが「歌を判り易くする」ということなのでしょう。

 万葉集に目を向けますと藤原敦隆が編纂した万葉集研究書『類聚古集』と云うものがあり、これは藤原敦隆の没年である白河法皇の元永三年(一一二〇)までに成立したものです。万葉集研究者はこの『類聚古集』について、他の伝本と比較すると当時の正統とされる漢文や漢語の解釈を下に原歌表記が相当数に渡り改変されたものがあるために、『類聚古集』は万葉集写本と云う位置付けではなく、当時の解釈と訓詁学の状況を示す研究書と扱います。
 ここで少し雑学になりますが、近年、万葉集伝本で話題になります廣瀬本があり、これは非仙覚本系の藤原定家本系のものとされています。廣瀬本はその非仙覚本系であり全二十巻が揃っていることに非常に価値がるとされるものです。しかしながら、この廣瀬本は『類聚古集』との関係が強く示唆されるとの指摘がありますから、もし、藤原定家が『類聚古集』を参考に万葉集伝本に対して校訂を行ったとしますと、非常な問題を呈することになります。本来の写本ですと「一字不違」と書写した者が署名をするのが習わしでしたが、その伝統と考え方は平安末期から鎌倉時代以降に変わって来ています。他の読者に対して「判り易い」と云う別な側面からの要請が加わり、「一字不違」であるかは保証されないのです。
 参考として、万葉集巻一に載る集歌四番の歌の表記を紹介します。鹿持雅澄『萬葉集古義』をベースとしたHP「訓読万葉集」、国立博物館所蔵 e-国寶 元暦校本万葉集、京都大学付属図書館 近衛本、京都大学付属図書館 萬朱院本、國學院大學図書館電子ライブラリー 仙覚本系の文永十年版です。ここからも判りますように、訓読万葉集のベースとなる『萬葉集古義』は、まず、本来の万葉集の鑑賞では採用してはいけないスタイルを取っています。「漢字交じり平仮名」表記スタイルにより読者の鑑賞を翻訳者の解釈へと誘導しています。

万葉集巻一
集歌四
原歌 玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野

現代の解釈
HP「訓読万葉集」より (―鹿持雅澄『萬葉集古義』による―)
玉きはる宇智の大野に馬並なめて朝踏ますらむその草深野

伝本の解釈
<資料一>
国立博物館所蔵 e-国寶 元暦校本万葉集 元暦元年(1184)
本歌左に独立和歌として平仮名別提
玉尅春内乃大野尓馬數而朝布麻須等六其草深野
たまきはるうちのおほのにうまなめてあさふますらんそのくさふけの

<資料二>
京都大学付属図書館 近衛本(時代不明、近世初期の書写)
本歌右に片仮名傍訓
タマキハルウチノオフノニウマナメテアサフマスラムソノクサフケノ
玉尅春内乃大野尓馬數而朝布麻須等六其草深野

<資料三>
京都大学付属図書館 萬朱院本
本歌右に片仮名傍訓
タマキハルウチノオフノニウマナメテアサフマスラムソノクサフケノ
玉尅春内乃大野尓馬數而朝布麻須等六其草深野
注:「馬」に「コマ」の朱注有

<資料四>
國學院大學図書館電子ライブラリー 仙覚本系の文永十年版
本歌右に片仮名傍訓
タマキハルウチノオフノニウマナメテアサフマスラムソノクサフケノ
玉尅春内乃大野尓馬數而朝布麻須等六其草深野
注:「草深野」に「クサフカキヌ」の別注有


 「読み易くする」と云う行為は文化や古典文学の継承に於いて重要な入り口です。いきなり、「変体仮名連面体」の達筆で表現された書歌一体の芸術作品が出来るわけもありません。写真や画像処理技術のなかった時代では、原本を紹介することなく「漢字交じり平仮名」翻訳ものを紹介するのは仕方がなかったことと思います。
 しかし、現代は違います。
 研究者と出版社の認識と誠意によります。昭和時代までは、場合により、画像処理技術と印刷技術の未発達による方便の出版事業です。しかし、今日では可能です。その気になれば、原典と訳文を並列表記は可能です。万葉集では中西進氏が『萬葉集 全訳注原文付』を文庫版として発行されています。ユーザーも十分にいますし、商業的にも成立しています。
 それに、現代の子供たちのことを思って下さい。子供たちは藤原定家たちによって「鎌倉時代の現代語」に翻訳された「漢字交じり平仮名」の万葉集の歌と古今和歌集の歌から本質的な違いを学べと指導されます。しかし、歌は藤原定家たちが為した解釈を下に「漢字交じり平仮名」に翻訳されものですから、本来的には違いはありません。当然、「読み易くする」と云う作業の終わった歌には違いはありませんから、受験問題や授業などでは違いが際立つような歌を取捨して紹介します。ただ、意地悪にしようと思えばその逆も可能です。

<春の歌>
春風は 花のあたりを避きて吹け 心づからや 移ろふと見む
春雨は いたくなふりそ桜花 いまだ見なくに 散らまくおしも

<秋の歌>
秋風の 吹きにし日より音羽山 峯の梢も 色付きにけり
雁がねの 来鳴きしなへに唐ごろも 龍田の山は もみぢ染めたり

<初春の歌>
冬ながら 空より花の散り来るは 雲のあなたは 春にやあるらん
沫雪か はだれに降ると見るさへに 流がらへ散るは なむの花そも

<雑歌>
色も香も 昔の濃さに匂へども 植ゑけむ人の 影ぞ戀しき
やちくさに 草木をうゑてときごとに 咲ける花をし 見つつ偲ばむ

 大学入試の古典では、ここに紹介した組歌の違いを明確に指摘できなければいけないようですが、さて、貴方に可能でしょうか。いきなりですと私では無理です。それにこの歌々の組み合わせにおいて歌風では「ますらを振り」と「たおやめ振り」とに分けて評論できますか。それに表現方法や技巧面からしますと一方は「幼く」、「拙い」と云うことを示す必要があります。「読み易くする」と云う翻訳作業で、そのような色眼鏡で、作業することも可能ですし、そのようにもしているのでしょう。しかし、それは翻訳歌であって本歌ではありません。
 確かに「漢字交じり平仮名」と云う表記スタイルで「読み易くする」と云う行為は初心者入門と云う視点では必要悪と思いますが、しかしながら、その「読み易くする」と云うものを「定訓」と云う術語で本歌と同じとみなすことは許されるのでしょうか。疑問です。下手をすると、この先の時代になって万葉集、古今和歌集、新古今和歌集、現代和歌に、特徴だった違いはないと云うような論評が現れるかもしれません。ご存知のように昭和末期から平成初期には漢字交じり平仮名に全歌を翻訳できていないことを根拠に「万葉集は韓国語で詠われた詩歌集」であると云う珍説が登場しています。

 最後に、紹介した二首組歌の上が古今で、下が万葉です。紀貫之はその歌論で「これは君も人も身を合はせたりと言ふなるべし」とします。同じように風流を解する人であれば、その発露である歌も似て来るのではないでしょうか。
 ただ、これでは近代和歌主流であったアララギ派にはとっても都合の悪い話になるのでしょうね。「アララギ派は歌論において古今も万葉も理解できていない」とすれば、唖然たる暴論になるでしょうね。
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万葉雑記 色眼鏡 百四八 雪梅の歌を楽しむ

2015年12月12日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百四八 雪梅の歌を楽しむ

 そろそろ、近代での冬の季節です。和歌の世界では旧暦をベースにしますから、新暦11月中旬頃から冬に入り、新暦2月上旬が初春となります。このような季節感を下に今回は雪梅の歌を楽しみたいと思います。
 さて、万葉集巻八に「冬雑歌」の部立に載せられた雪梅を詠う歌群があります。そこから一首、紹介します。大伴旅人の歌で、役職の肩書からしますと天平元年から前の大宰府時代のものです。

太宰帥大伴卿梅謌一首
標訓 太宰帥大伴卿の梅の謌一首
集歌1640 吾岳尓 盛開有 梅花 遺有雪乎 乱鶴鴨
訓読 吾が岳(おか)に盛(さか)りに咲ける梅の花残れる雪を乱(まが)へつるかも
私訳 私が眺める岳に花の盛りとばかりに咲いている梅の花よ。枝に融け残った雪を梅の花と間違えたのだろうか。

 この歌の解説において伊藤博氏はその『萬葉集釋注』で南北朝時代の政治家であり詩人である江總が詠う《梅花落》の一節「楊柳條青樓上輕、梅花色白雪中明」を引用して「梅の花の白さを引き立てるのに、それと見まごう雪を配置するのは漢詩によくある手法」と指摘しています。そこから大伴旅人には梅と雪とを配置し見間違えるという発想の歌が多数存在すると指摘しています。ただ、江總が詠う《梅花落》での「梅花色白雪中明」は「梅花の色の白きは、雪の中でも明らかなり」と解釈すべきもので、「梅の花」を「枝に残る雪」と見間違えたと云うような発想の歌ではありません。本来は漢詩の約束である春に楊柳と梅花とを詠ったものとすべきです。単純な語字列検索の提示はどうなのでしょうか。
 次いで、和歌での標題「雪梅」について漢籍では雪中の梅の意に用いるとされています。参考としてその「雪梅」を題材とする漢詩を以下に紹介します。「梅花落」は専門の研究者の指摘するもので、他は弊ブログで取り上げたものです。

梅花落 江總(南北朝梁・陳の政治家、詩人:519-594頃の人) (漢詩のみ提示)
臘月正月早驚春、眾花未發梅花新。
可憐芬芳臨玉臺、朝攀晩折還復開。
長安少年多輕薄、兩兩共唱梅花落。
満酌金卮催玉柱、落梅樹下宜歌舞。
金谷萬株連綺甍、梅花密處藏嬌鶯。
桃李佳人欲相照、摘葉牽花來並笑。
楊柳條青樓上輕、梅花色白雪中明。
横笛短簫淒復切、誰知柏梁聲不絶。


雪梅 盧梅坡(南北朝南宋の詩人、不詳)
梅雪争春未肯降 梅と雪は春を争ひて未だ降るを肯んぜず
騒人擱筆費平章 騒人は擱筆して平章を費やす
梅須遜雪三分白 梅は須らく雪に三分の白を遜(ゆず)るべし
却輸梅一段香 雪は却って梅に一段の香りを輸(うつ)すべし


早梅 張謂(中唐の詩人:721-780頃の人)
一樹寒梅白玉條 一樹寒梅、白玉の條(えだ)
迥臨林村傍谿橋 迥(はる)かに林村を臨み谿橋は傍すを
不知近水花先發 知らず水近き花、先に發(ひら)くを
疑是經冬雪未銷 疑ふらくは是(こ)れ、冬を經るに雪の未だ 銷(き)えざるかと

一樹寒梅白玉條 一樹寒梅、白玉の條(えだ)
迥臨村路傍溪橋 迥(はる)かに村路を臨み谿橋は傍すを
應縁近水花先發 緑に應(こた)へ水近き花、先に發(ひら)く
疑是經春雪未銷 疑ふらくは是(こ)れ、春を經るに雪の未だ 銷(き)えざるかと


宮中行樂詞 八首其七 李白(中唐)
寒雪梅中盡 寒雪は梅中に盡き
春風柳上歸 春風は柳上に歸る
宮鶯嬌欲醉 宮鶯は嬌として酔わんと欲し
檐燕語還飛 檐燕は語(さえ)ずりて飛びて還へる
遲日明歌席 遅日は歌席を明(とも)し
新花艶舞衣 新花の舞衣は艶たり
晩來移綵仗 晩来の綵仗を移し
行樂泥光輝 行楽は光輝を泥(よご)す


 漢詩に於いて張謂が詠う「早梅」では梅の花と枝の雪との対比と季節に従って移り行く風情はあります。しかし、他の漢詩では「見間違える」と云うような発想はありません。それに張謂は中唐の人であり、万葉集の歌が詠われた時代と同じか、後の時代の人ですから、彼の作風が万葉集に影響を与える可能性はありません。逆に第七次、第八次遣唐使が紹介する国風が大唐の詩人に影響を与えた可能性の方を探るべきものです。
 一方、その時代の和歌ではどうでしょうか。天平二年初春の大宰府での梅歌三二首に載る歌や先の集歌1640の歌もそうですが、次のような「見立て」の技法を使った歌が詠われています。

巨勢朝臣宿奈麻呂雪謌一首
標訓 巨勢朝臣(こせのあそみ)宿奈麻呂(すくなまろ)の雪の謌一首
集歌1645 吾屋前之 冬木乃上尓 零雪乎 梅花香常 打見都流香裳
訓読 吾が屋前(やど)し冬木(ふゆき)の上に降る雪を梅し花かとうち見つるかも
私訳 私の家の冬枯れした樹の上に降る雪を、梅の花かとつい見間違えた。

 考古学の示すものとは違い、文学の世界では梅は奈良時代初頭に輸入された植物となっています。つまり、大伴旅人以降に梅と云う植物が現れ、同時に漢詩の「雪梅」と云う言葉や概念が到来したと推定します。ただ、繰り返しますが、考古学や植物学からしますと梅は弥生時代以前には日本に存在しますし、柿本人麻呂もまた梅の歌を詠っています。

集歌1891 冬隠 春開花 手折以 千遍限 戀渡鴨
訓読 冬ごもり春咲く花を手折り持ち千遍し限り恋ひ渡るかも
私訳 冬が春の日の光に隠れ、その春に咲く花を手で折って翳し持って、無限の思いで貴女に恋い焦がれるでしょう。

 従いまして、奈良時代初頭において大唐において「梅の花の白さを引き立てるのに、それと見まごう雪を配置する」と云うものが「漢詩によくある手法」かどうか、また、その技法が普遍的に奈良貴族に知られていたかどうかは定かではありません。さらに、逆転的発想では「梅の花の白さと、それと見まごう雪」(逆に、「雪を梅と見まごう」も有り得る)と云う見立ての技法が日本から大陸に紹介されたかもしれません。第七次、第八次遣唐使一行は長安で第一級の文化人として迎えられていることは有名な史実です。つまり、彼らは万葉集の和歌の感性で漢詩を詠った可能性があります。その時代人が長安では張謂です。

 雪と梅、ちょっと、日本人特有の感性で詠われたとして、以下の歌を鑑賞してください。大陸の人と大和の人ではその捉え方は違います。同じ視線と鑑賞態度ですと、それは模倣であり、コピーです。しかし、題材へのヒントを得て発展があれば、それは創作でありコピーではありません。
 ではよろしくお願いします。

角朝臣廣辨雪梅謌
標訓 角朝臣(つのあそみ)廣辨(ひろべ)の雪の梅の謌
集歌1641 沫雪尓 所落開有 梅花 君之許遣者 与曽倍弖牟可聞
訓読 沫雪(あわゆき)に落(ふ)らえて咲ける梅し花君し許(と)遣(や)らばよそへてむかも
私訳 沫雪に降られたから、それで咲いている梅の花。その花を貴方の許に贈ったなら、梅花にこの見る風景を想像されるでしょうか。

 推定で集歌1641の歌は宴会でのものです。角廣辨が宴会の主催者に贈った歌として鑑賞しますと、雪を梅の花に例え、その例えを下に庭の風情を眺めています。当然、先行する大伴旅人が詠う歌が下敷きにあります。その季節が来れば咲くであろう梅の枝に降り積もる雪の風流を主人とともに楽しんでいますと云うものでしょうか。
 やはり、これでは野暮のようです。歌はそれぞれが自由に楽しむべきものです。それを得意がって語るのは野暮でしたし、それを為したことは反省です。

安倍朝臣奥道雪謌一首
標訓 安倍朝臣(あべのあそみ)奥道(おきみち)の雪の謌一首
集歌1642 棚霧合 雪毛零奴可 梅花 不開之代尓 曽倍而谷将見
訓読 たな霧(き)らひ雪も降らぬか梅の花咲かぬし代(しろ)に擬(そ)へてだに見む
私訳 地には霧が一面に広がっている。そこに雪も降って来ないだろうか。梅の花が咲かない代わりに雪を梅の花に擬えたとしても、この景色を眺めたい。

忌部首黒麻呂雪謌一首
標訓 忌部首(いむへのおひと)黒麻呂(くろまろ)の雪の謌一首
集歌1647 梅花 枝尓可散登 見左右二 風尓乱而 雪曽落久類
訓読 梅の花枝にか散ると見るさへに風に乱れて雪ぞ降り来る
私訳 梅の花、枝にと花が散っていると眺めるのにまして、風に交じって雪が降って来た。

紀少鹿女郎梅謌一首
標訓 紀(きの)少鹿女郎(をしかのいらつめ)の梅の謌一首
集歌1648 十二月尓者 沫雪零跡 不知可毛 梅花開 含不有而
訓読 十二月(しはす)には沫雪(あわゆき)降ると知らねかも梅の花咲く含(ふふ)めらずして
私訳 梅の花は、十二月には沫雪が降るとは知らないのだろう。その梅の花が咲いている。莟のままでいないで。

大伴宿祢家持雪梅謌一首
標訓 大伴宿祢家持の雪の梅の謌一首
集歌1649 今日零之 雪尓競而 我屋前之 冬木梅者 花開二家里
訓読 今日(けふ)降りし雪に競(きほ)ひに我が屋前(やど)し冬木(ふゆき)し梅は花咲きにけり
私訳 今日降った雪と競ったからか、私の家の冬枯れした樹に梅の花が咲きました。


 簡単に紹介しました。
 歌は取りようによって景色は変化します。集歌1649の歌で梅の花が二輪ほど咲いたとするか、雪を梅の花と見立てているとするか、その決定は出来ないのではないでしょうか。このような構造を持つ歌が、やがて、古今和歌集へとつながっていくのでしょう。
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万葉雑記 色眼鏡 百四七 近代万葉調歌を楽しむ

2015年12月05日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百四七 近代万葉調歌を楽しむ

 今回は近代万葉集歌の鑑賞と題を打って、万葉集に載る歌の類型歌を鑑賞します。歌は有名な伊藤博氏の『萬葉集釋注(集英社文庫)』(以下、「釋注」)からです。
 最初に「釋注」の歌番号1499の歌を紹介します。

歌番号1499
和歌 言(こと)繁(しげ)み 君(きみ)は来(き)まさず ほととぎす 汝(な)れだれ来(き)鳴(な)け 朝戸(あさと)開(ひら)かむ
歌意 人の口がうるさいのにかこつけてあの方はいっこうにお見えにならない。時鳥よ、せめてお前だけでも来て鳴いておくれ。そうしたら朝戸を開けように。

 この歌の鑑賞において、当時は恋愛において女性は家で男性の訪れを待つと云う約束事を踏まえる必要があります。そのため、この歌について伊藤氏は次のような感想を述べられています。

結句の「朝戸開かむ」は響きのある気持ちよい表現だが、上四句との論理的関係がよくつかめない。したがって、説も多い。

 さて、歌の詠い手が男性であれば、人の噂を避け、夜に人目を忍んで訪れるのは女性でなければいけません。しかし、風習として、また、大和歌の約束としては恋人の許へ訪れるのは男性であるはずです。それで「論理的関係がよくつかめなく、説も多い」のです。
 もう一つ、「釋注」の歌番号1515の歌を紹介します。

歌番号1515
和歌 言(こと)繁(じげ)き里(さと)に住(す)まずは今朝(けさ)鳴(な)きし雁(かり)にたぐひて行(ゆ)かましものを
歌意 人の口のうるさいこんな里なんかに住んでいないで、いっそのこと、今朝鳴いた雁と連れ立ってどこかへ行ってしまえばよかったのに。

 以上、近代万葉調の歌を紹介しました。
 ここで、なぜ「近代万葉調の歌」と云うキャプションを付けたかと云うと、「釋注」で扱う校本万葉集の歌と万葉集の原歌が違うからです。では、その万葉集の原歌を紹介しますと歌番号1499の歌は次のようになっています。

大伴四縄宴吟謌一首
標訓 大伴四縄(よつな)の宴(うたげ)にして吟(うた)ひたる謌一首
集歌1499 事繁 君者不来益 霍公鳥 汝太尓来鳴 朝戸将開

 どこが根本的に違うかと云いますと初句の「事繁」です。万葉集の原歌では「世事」や「用事」を意味する「事」が「繁げ」と表記はしていますが、人の話を意味する「言繁げ」ではありません。つまり、「釋注」などで扱う「言繁」と万葉集原歌で詠う「事繁」とでは詠う歌の世界が違うのです。平安末期以降に始まる『新古今和歌集』の表記スタイルに似せた翻訳版万葉集以降では万葉集原歌表記に縛られない新しい解釈が行われるようになっています。しかしながら、それでも解釈は原歌に訓点を付けるか、原歌と漢字交じり平仮名歌を併記するような姿を取っていますから、まだまだ、万葉集原歌を尊重する姿はあります。ですが、近代では「定訓」と云う術語を創ることで、歌の解釈は万葉集原歌から独立することになりました。
 集歌1499の歌で初句の「事繁」からしますと、初夏の宴に友人を招いたが何らかの都合で深夜になってもやって来ないと解釈出来ます。噂話を気にして人目を忍んでの女からの夜這いではありません。

集歌1499 事繁 君者不来益 霍公鳥 汝太尓来鳴 朝戸将開
訓読 事(こと)繁(しげ)み君は来(き)まさず霍公鳥(ほととぎす)汝(なれ)だに来鳴け朝(あさ)戸(と)開(あ)けなむ
私訳 物事が多くてあの御方は御出でにならない。ホトトギスよ、お前だけでも飛び来て「カツコヒ、カツコヒ」と啼け。そうしたら、朝に戸を開けましょう。

 鑑賞の参考として、四句目の「汝太尓来鳴」は「なれだにきなけ」と訓じますが、「なふとにきなけ」とも訓じることが可能です。この場合、遠く寝床でかすかにホトトギスが鳴いている風情になり、ねぐらから庭近くに飛び来て鳴き声が大きく聞こえるようになったら、朝が来たと感じると云う解釈となります。
 およそ、歌は待ち人来たらず、寝るに寝られず、夜が明けると云うものとなります。まったくに従来の鑑賞とは変わりますし、歌の論理的関係は一直線です。同様に集歌1515の歌は次のような姿です。ただし、歌は秋雑歌に部立されていますから、「鴻雁北」で示す春の北帰行ではありません。反って、「鴻雁哀鳴」の居場所もなく、“さまよう”の方でしょう。但馬皇女は自由奔放で、決まり事をきちんとしなければいけないとされるより、あれこれと気の赴くままに物事をされたかったのかもしれません。

但馬皇女御謌一首  一書云、子部王作
標訓 但馬皇女の御謌(おほみうた)一首  一書(あるふみ)に云はく「子部王の作れり」といへり
集歌1515 事繁 里尓不住者 今朝鳴之 鴈尓副而 去益物乎 (一云 國尓不有者)
訓読 事(こと)繁(しげ)き里に住まずは今朝(けさ)鳴きし雁に副(たぐ)ひて去(い)かましものを (一(あるひは)云(い)ふ 国にあらずは)
私訳 このように些事の多い処に住んでいなければ、今朝啼いた雁に連れ添って飛び去って行くのですが(或いは「国でなければ」といへり)。

 このような観点から「事繁」と云う表記の言葉を「世事でせわしい」とか、「世事でいそがしい」と解釈して以下の歌を鑑賞します。

集歌541 現世尓波 人事繁 来生尓毛 将相吾背子 今不有十方
釋注
訓読 現世(このよ)には人(ひと)言(こと)繁(しげ)し来(こ)む世にも逢はむ我が背子今にあらずとも
解釈 現世では人の噂がやかましくて、思うようにお逢いできません。せめて来世にでもお逢いしましょう。
弊ブログ
訓読 この世には人事(ひとこと)繁し来む生(よ)にも逢はむ吾が背子今ならずとも
私訳 この世の中は人がするべき雑用が沢山ある。この世だけでなく来世でも逢いましょう。私の愛しい貴方。今でなくても。


集歌659 豫 人事繁 如是有者 四恵也吾背子 奥裳何如荒海藻
釋注
訓読 あらかじめ人(ひと)言(こと)繁(しげ)しかくしあらばしゑや我が背子奥もいかにあらめ
解釈 今のうちから人の噂がいっぱいです。こんなだったら、ああいやだ、あなた、この先どうなることでしょう。
幣ブログ
訓読 あらかじめ人(ひと)事(こと)繁(しげ)しかくしあらばしゑや吾が背子(せこ)奥(おく)もいかにあらめ
私訳 最初からこれほど忙しくしているのでしたら、私の愛しい貴方。将来は、どうなるのでしょう。
注意 原文の「荒海藻」を「あらめ」と訓じています。


集歌685 人事 繁哉君乎 二鞘之 家乎隔而 戀乍将座
釋注
訓読 人(ひと)言(こと)を繁(しげ)みか君が二(ふた)鞘(さや)の家を隔てて恋ひつついまさむ
解釈 人の噂がうるさいためでしょうか。二鞘の刀のように間近くにある家なのに、あなたが隔たったまま来て下さりもせずに、私を恋しがっていらっしゃるというのは。
幣ブログ
訓読 人(ひと)事(こと)を繁みか君を二鞘(ふたさや)し家(いへ)を隔(へな)りて恋ひつつをらむ
私訳 世事が多いのでしょうか。御出でにならない愛しい貴方を、中を隔てる二鞘のように家を隔てて恋い慕っています。


集歌788 浦若見 花咲難寸 梅乎殖而 人之事重三 念曽吾為類
釋注
訓読 うら若み花(はな)咲(さ)きかたき梅を植えて人の言(こと)繁(しげ)み思ひぞ我がする
解釈 まだうら若い木なのでなかなか花の咲かない梅を植えて、その梅のことを何度も尋ねてよこす人の便りを見るにつけ、気が気でなりません。
幣ブログ
訓読 末(うら)若(わか)み花咲き難(かた)き梅を植ゑて人し事(こと)繁み念(おも)ひぞ吾(あ)がする
私訳 まだ若くて花は咲き難い、そのような梅を植えると「色々な出来事が多いなあ」と感じて、私はいます。


 このように「人言」と「人事」での「言」と「事」ではおなじ発音「こと」であっても漢字と云う表語文字が持つ言葉を表す力の下では同じ意味とすることは出来ないと考えます。そうした時、万葉集では「言」や「事」とおなじ発音「こと」を示す「辞」と云う文字をも使います。漢字を説明する『説文解字』では「辞、説也」、「辞、訟也」としますから、「他辞」や「人辞」などは「他人がする評論や評判」と云うような意味合いとして解すべき言葉と考えます。つまり、従来の「人言」や「人辞」を噂話とする解釈と等しいものとなります。
 その「他辞」や「人辞」などは「他人がする評論や評判」との解釈で、以下、万葉集に現れる「辞」と云う文字を使う短歌を鑑賞して見ました。

集歌538 他辞乎 繁言痛 不相有寸 心在如 莫思吾背
訓読 他辞(ほかこと)を繁み言痛(こちた)み逢はずありき心あるごとな思ひ我が背
私訳 他人がする批判がひどく煩わしいので逢わないでいました。他の人に思いを寄せているとは思わないで下さい。私の愛しい貴方。


集歌713 垣穂成 人辞聞而 吾背子之 情多由多比 不合頃者
訓読 垣穂(かきほ)なす人(ひと)辞(こと)聞きて吾が背子し情(こころ)たゆたひ逢はぬこのころ
私訳 周囲を取り囲む生垣のように包み込む人がする評論を聞いて私の愛しい貴方の私への気持ちはためらって、貴方に逢わないこの頃です。


集歌748 戀死六 其毛同曽 奈何為二 人目他言 辞痛吾将為
訓読 恋ひ死なむそこも同じぞ何せむに人目(ひとめ)他言(ほかこと)辞痛(こちた)み吾がせむ
私訳 貴女は「恋に死ぬでしょう」と云うが、それは同じです。どうして、他人の目を気にしたり、他の女性に恋を誓ったり、噂を気にしたりと私がするでしょうか。


集歌1793 垣保成 人之横辞 繁香裳 不遭日數多 月乃經良武
訓読 垣ほなす人し横辞(よここと)繁みかも逢はぬ日数多(まね)く月の経ぬらむ
私訳 垣根を作るような多くの人々が、妬みや噂を多くするからでしょうか、逢えない日々が重なり、ただ月日が経っていくのでしょう。


集歌2755 淺茅原 苅標刺而 空事文 所縁之君之 辞鴛鴦将待
訓読 浅茅(あさぢ)原(はら)苅り標(しめ)さして空事(むなこと)も寄そりし君し辞(こと)をし待たむ
私訳 浅茅原で浅茅を刈りその浅茅で標をさし立てるような、そのような些細なことだけでも縁のあった、その貴方からの愛の告白を待ちましょう。


集歌2888 世間之 人辞常 所念莫 真曽戀之 不相日乎多美
訓読 世間(よのなか)し人し辞(こと)と思ほすなまことぞ恋ひし逢はぬ日を多(た)み
私訳 世間一般の人の云う世辞と思わないでください。本当に恋い焦がれています。でも、貴女に逢えない日々が多いからと・・・。


集歌2961 虚蝉之 常辞登 雖念 継而之聞者 心遮焉
訓読 現世(うつせみ)し常しことばと念(おも)へども継ぎてし聞けば心し惑(まと)ふ
私訳 この世の世間一般にする評論だと思っていても、何度も同じ噂を聞くと、私の気持ちは揺れ動いてしまう。


 このように鑑賞して見ますと、「辞」と云う文字の意味する範囲は広いようです。同じ「人辞」と云う表記ですが、集歌713の歌と集歌2888の歌とでは意味するものは一致しません。集歌713の歌では「人のうわさ話」の意味合いが、集歌2888の歌では「社交儀礼のあいさつのような言葉」の意味合いが強いと考えます。つまり、ともに漢字本来の意味合いに忠実であります。当然、集歌2755の歌で使われる「辞」と云う文字を噂話と訳することは出来ません。ここでは「愛情を訴える」と云う意味での「辞、訟也」に基づきます。

 今回もまた、酷い与太話を展開しました。
 ただ、近代万葉集訓読和歌は、時に近代万葉集歌であることを御理解いただければ幸いです。万葉集の原歌は漢字と漢語だけで表現された歌であって、その時、漢字文字に対しては原義を確認する必要があると愚案します。
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