万葉雑記 色眼鏡 百五十 ややこしい字音の話 唐時代の中国語を唐音とは呼ばない
恥ずかしい話、今まで一人合点の理解で教養の無さをさらけ出していました。例えば、藤原時代とは平安時代中期頃を指す時代用語のようで、持統天皇から文武天皇の前期万葉集興隆期となる藤原京時代を意味しません。ただし、「藤原京の時代」と云う呼び名はありますので、昭和期以前と平成期以降では認識は違うのかもしれません。
また、漢字の日本での読解・発声方法での区分からしますと、唐音とは鎌倉時代以降に中国から入ってきた字音で宋音のことで、唐時代の正式な字音は漢音だそうです。その区分では漢時代の字音は漢音とは称せませんので、呉音などとひとくくりにするか、別の字音区分である上古音と称するそうです。弊ブログでは、素養の無さから秦・漢時代の北方系中国語字音を漢音、三国分裂期以降の南方系中国語字音を呉音、隋・唐成立期以降の官庁指定の中国語字音を正音または唐音と認識していました。
例えば、西暦一世紀前後には大和には大陸からの文字と言葉が流入していたであろうと推定され、それは梅(うめ、むめ)、馬(うま、むま)、郡(くに)、絹(きぬ)、秈(しね)などの言葉に代表されるとします。なお、このような言葉の源となった中国語字音に対してHP「日本語千夜一夜」では上古音での漢音と云う言葉が学術上では使えないために「弥生語」と仮称しています。呉音については、多くの漢語に基づく言葉がありますから、これ以降の例字提示は省略させて頂きます。
ただ、呉音・漢音・唐音の区分と認識について大変な間違いあったことは実に恥ずかしいことであり、間違った情報を自身による検証や指摘を受けることなく世に垂れ流す「トンデモ説」の典型でありました。反省する次第です。
ただし言い訳をさせて頂くと、宋時代以降の中国語字音と唐時代以前の字音は違うものであることは宋の北宋時代、真宗のときに従来の韻書に誤りが多く科挙の標準として差し支えがあったため、勅命によって字音研究書であり韻辞典である陳彭年編纂の「宋本廣韻」が発行されたことからも明らかですし、その宋時代の字音である唐音を唐時代の字音(術語では「漢音」)と区別するために術語として「新漢音」と別称するのも変なはなしです。
唐音と云う区分する人たちも承知の、同じ漢字文字を使いますが人種と発音は同じではないのです。そこで字音が違うことを前提としてその字音区分の「唐音」を唐時代の字音と誤認されると云う混乱を避けるために「『からおん』と訓じる」と補足するようです。実にややこしい話です。この背景には現代日本人が英国をイギリスと称しますが、国際的な認識はブリティシュです。これと同じように唐末以降に中国に私費留学した僧侶や貿易商人たちは中国のことを唐と称していたことに由来するようです。時代に於いて、中国南部の宋に留学したというのと、唐に留学したと云うのでは「宋」と云う国を知らない民衆での受け取り方が違ったことにもあるのでしょう。再度の言い訳ですが、鎌倉時代の仏教僧は実に罪作りです。
<仏教から見た字音区分>
日本漢字音(音読み)において鎌倉時代以降に中国から入ってきた字音。宋以降の字音である。室町時代には宋音(そうおん)と呼ばれた。
漢音(かんおん)とは、日本漢字音(音読み)の一つ。古くは「からごえ」とも呼んだ。7, 8世紀、奈良時代後期から平安時代の初めごろまでに、遣隋使・遣唐使や留学僧などにより伝えられた音をいう。中国語の中古音のうち、唐中葉頃の長安地方の音韻体系(秦音)を多く反映している。他の呉音や唐音に比べて最も体系性を備えている。また唐末に渡航した僧侶たちが持ち帰った漢字音は中国語の近世音的な特徴を多く伝えており、通常の漢音に対して新漢音と呼ばれることがある。
持統天皇は、唐から続守言を音博士として招き、漢音普及に努めた。また、桓武天皇は延暦11年(792年)、漢音奨励の勅を出し、大学寮で儒学をまなぶ学生には漢音の学習が義務づけられ、また仏教においても僧侶の試験に際して音博士が経典読誦の一句半偈を精査することが行われ、また漢音を学ばぬ僧には中国への渡航が許されなかった。漢音学習者が呉音を日本なまりの発音として「和音」と呼び、由来もはっきりしない発音として「呉音」と呼んで蔑んだように、漢音は正統の中国語音で発音することが求められたものであった。
呉音(ごおん)とは、日本漢字音(音読み)の一つ。奈良時代に遣隋使や留学僧が長安から漢音を学び持ち帰る以前にすでに日本に定着していた漢字音をいう。漢音同様、中国語の中古音の特徴を伝えている。一般に、呉音は仏教用語をはじめ歴史の古い言葉に多く使われる。 慣用的に呉音ばかり使う字(未〔ミ〕、領〔リャウ〕等)、漢音ばかり使う字(健〔ケン〕、軽〔ケイ〕等)も少なくなく、両者は日常的に混用されているものである。
<音韻学から見た字音区分>
上古音(しょうこおん、または、じょうこおん)とは、周代・漢代頃の中国語および漢字音の音韻体系をいう。字音を今音(現代音)と古音(古代音)に分け、古音を上古・中古・近古の3つに分けたものの1つである。
中古音(ちゅうこおん)は、中国音韻学上、南北朝時代後期から、隋・唐・五代・宋初にかけて使用された中国語の音韻体系。南北朝後期、隋から唐代初期の中古音を前期中古音、唐代中期から五代・宋にかけての中古音を後期中古音に分ける。中古音で重要なのは前期中古音なので、その中心となる時代から隋唐音と呼ばれることもある。狭義としては、中古音の復元の中心となる『切韻』に示されている音韻体系を指す。中古音は、『切韻』などの韻書や韻図、現代中国語の諸方言、日本語・朝鮮語・ベトナム語など周辺言語の漢字音の研究から推定される。
以上、インターネットからの解説を紹介しましたが、解説にありますように音韻学からしますと「中古音で重要なのは前期中古音なので、その中心となる時代から隋唐音と呼ばれることもある」と云う点です。仏教声明での区分とは異なりますが、万葉集に万葉仮名と云う音字が存在する以上、その読解では解説で示すこの「中古音での隋唐音」と云うものが重要になります。
面白いことに唐から招聘された続守言たち、音博士は伝授する唐朝廷の使う発音は「正音」と呼んでいたようで、唐時代では征服された被支配者たちを「漢(やから)」とさげすんでいましたから、彼ら自身が自分たちの発音を「漢音」と云う表現を使う可能性はないでしょう。やはり、桓武天皇時代の仏教僧の発音区分が端緒でしょうか。
さらに、調べますと中国では「呉音」、「漢音」、「唐音」の字音区分は日本での日本語発音区分として紹介し、中国の漢字発音と云うものとはまったくに切り離しています。あくまでも日本の術語です。中国には当たり前ですがこのような区分を示すものはありません。ただし、漢詩の世界では「唐詩唐音」は漢詩研究での韻から重要テーマです。韻が重要な唐代漢詩研究ではその時代の唐王朝正音を知らなければ研究とはなりません。それで「唐音」と云う言葉は中国でも漢詩の世界では存在します。なお、それは当たり前ですが唐時代の字音が意味です。宋時代の字音でないことは明白です。
ただ、弊ブログでは無知と教養の無さに由来してこの「中古音での隋唐音=漢音」と云う適切な学術用語を知りませんでした。実にご迷惑をお掛けしていますし、誤解を引き起こして申し訳ありませんでした。
一方、隋唐音は漢音であると云うことは、非常にややこしい話です。ちょうど、日本史での藤原時代が持統天皇から文武天皇・元明天皇前期の藤原京時代を意味しないことと同じようなことなのかもしれません。この日本史での藤原時代は平安時代中期頃の藤原氏摂関政治全盛期の間を示し、持統天皇から文武天皇・元明天皇前期の藤原京時代に対しては適切な時代用語は無いのではないでしょうか。「飛鳥時代」では本格的な藤原京が築かれ、律令政治が始まったことへの時代的区切りとはなりません。また、昭和時代までに使われた「飛鳥浄御原宮時代」では政治や経済事情からからしてまったくに時代が説明出来ません。結局、持統天皇から文武天皇・元明天皇前期の藤原京時代は、「藤原京の時代」なのでしょうね。このためでしょうか、仏像や美術史は、ちょっと混乱があって「藤原時代」、「天平時代」、「白鳳時代」、(「藤原京時代」)、「飛鳥」と順に時代を遡るようです。ただ、この「白鳳時代」の解釈も大化の改新「大化元年」を起点とするものと、天武天皇即位の「壬申の乱」以降とするものとがあるようです。「壬申の乱」の前と後では、まったくに政治や経済体制が違いますし時代性も違いますので、文化史区分では戦前からの昭和と平成を同じ時代区分にするような問題を引き起こしています。
さて、何が背景にあるのでしょうか。
日本の字音研究では「中古音での隋唐の字音」は「漢音」であるとしますし、字音区分の「唐音」は日本での中国語区分では「宋時代以降の字音」です。また、日本史の藤原時代は藤原京時代を意味しません。非常にややこしい話ですし、外部者には確実に誤解を招くような術語の設定です。
今回はとりとめのない話であり、個人の覚書のような学習帳の内容で、万葉集とは直接には関係しませんでした。ただただ、私の頭の中は混乱でお花畑です。
恥ずかしい話、今まで一人合点の理解で教養の無さをさらけ出していました。例えば、藤原時代とは平安時代中期頃を指す時代用語のようで、持統天皇から文武天皇の前期万葉集興隆期となる藤原京時代を意味しません。ただし、「藤原京の時代」と云う呼び名はありますので、昭和期以前と平成期以降では認識は違うのかもしれません。
また、漢字の日本での読解・発声方法での区分からしますと、唐音とは鎌倉時代以降に中国から入ってきた字音で宋音のことで、唐時代の正式な字音は漢音だそうです。その区分では漢時代の字音は漢音とは称せませんので、呉音などとひとくくりにするか、別の字音区分である上古音と称するそうです。弊ブログでは、素養の無さから秦・漢時代の北方系中国語字音を漢音、三国分裂期以降の南方系中国語字音を呉音、隋・唐成立期以降の官庁指定の中国語字音を正音または唐音と認識していました。
例えば、西暦一世紀前後には大和には大陸からの文字と言葉が流入していたであろうと推定され、それは梅(うめ、むめ)、馬(うま、むま)、郡(くに)、絹(きぬ)、秈(しね)などの言葉に代表されるとします。なお、このような言葉の源となった中国語字音に対してHP「日本語千夜一夜」では上古音での漢音と云う言葉が学術上では使えないために「弥生語」と仮称しています。呉音については、多くの漢語に基づく言葉がありますから、これ以降の例字提示は省略させて頂きます。
ただ、呉音・漢音・唐音の区分と認識について大変な間違いあったことは実に恥ずかしいことであり、間違った情報を自身による検証や指摘を受けることなく世に垂れ流す「トンデモ説」の典型でありました。反省する次第です。
ただし言い訳をさせて頂くと、宋時代以降の中国語字音と唐時代以前の字音は違うものであることは宋の北宋時代、真宗のときに従来の韻書に誤りが多く科挙の標準として差し支えがあったため、勅命によって字音研究書であり韻辞典である陳彭年編纂の「宋本廣韻」が発行されたことからも明らかですし、その宋時代の字音である唐音を唐時代の字音(術語では「漢音」)と区別するために術語として「新漢音」と別称するのも変なはなしです。
唐音と云う区分する人たちも承知の、同じ漢字文字を使いますが人種と発音は同じではないのです。そこで字音が違うことを前提としてその字音区分の「唐音」を唐時代の字音と誤認されると云う混乱を避けるために「『からおん』と訓じる」と補足するようです。実にややこしい話です。この背景には現代日本人が英国をイギリスと称しますが、国際的な認識はブリティシュです。これと同じように唐末以降に中国に私費留学した僧侶や貿易商人たちは中国のことを唐と称していたことに由来するようです。時代に於いて、中国南部の宋に留学したというのと、唐に留学したと云うのでは「宋」と云う国を知らない民衆での受け取り方が違ったことにもあるのでしょう。再度の言い訳ですが、鎌倉時代の仏教僧は実に罪作りです。
<仏教から見た字音区分>
日本漢字音(音読み)において鎌倉時代以降に中国から入ってきた字音。宋以降の字音である。室町時代には宋音(そうおん)と呼ばれた。
漢音(かんおん)とは、日本漢字音(音読み)の一つ。古くは「からごえ」とも呼んだ。7, 8世紀、奈良時代後期から平安時代の初めごろまでに、遣隋使・遣唐使や留学僧などにより伝えられた音をいう。中国語の中古音のうち、唐中葉頃の長安地方の音韻体系(秦音)を多く反映している。他の呉音や唐音に比べて最も体系性を備えている。また唐末に渡航した僧侶たちが持ち帰った漢字音は中国語の近世音的な特徴を多く伝えており、通常の漢音に対して新漢音と呼ばれることがある。
持統天皇は、唐から続守言を音博士として招き、漢音普及に努めた。また、桓武天皇は延暦11年(792年)、漢音奨励の勅を出し、大学寮で儒学をまなぶ学生には漢音の学習が義務づけられ、また仏教においても僧侶の試験に際して音博士が経典読誦の一句半偈を精査することが行われ、また漢音を学ばぬ僧には中国への渡航が許されなかった。漢音学習者が呉音を日本なまりの発音として「和音」と呼び、由来もはっきりしない発音として「呉音」と呼んで蔑んだように、漢音は正統の中国語音で発音することが求められたものであった。
呉音(ごおん)とは、日本漢字音(音読み)の一つ。奈良時代に遣隋使や留学僧が長安から漢音を学び持ち帰る以前にすでに日本に定着していた漢字音をいう。漢音同様、中国語の中古音の特徴を伝えている。一般に、呉音は仏教用語をはじめ歴史の古い言葉に多く使われる。 慣用的に呉音ばかり使う字(未〔ミ〕、領〔リャウ〕等)、漢音ばかり使う字(健〔ケン〕、軽〔ケイ〕等)も少なくなく、両者は日常的に混用されているものである。
<音韻学から見た字音区分>
上古音(しょうこおん、または、じょうこおん)とは、周代・漢代頃の中国語および漢字音の音韻体系をいう。字音を今音(現代音)と古音(古代音)に分け、古音を上古・中古・近古の3つに分けたものの1つである。
中古音(ちゅうこおん)は、中国音韻学上、南北朝時代後期から、隋・唐・五代・宋初にかけて使用された中国語の音韻体系。南北朝後期、隋から唐代初期の中古音を前期中古音、唐代中期から五代・宋にかけての中古音を後期中古音に分ける。中古音で重要なのは前期中古音なので、その中心となる時代から隋唐音と呼ばれることもある。狭義としては、中古音の復元の中心となる『切韻』に示されている音韻体系を指す。中古音は、『切韻』などの韻書や韻図、現代中国語の諸方言、日本語・朝鮮語・ベトナム語など周辺言語の漢字音の研究から推定される。
以上、インターネットからの解説を紹介しましたが、解説にありますように音韻学からしますと「中古音で重要なのは前期中古音なので、その中心となる時代から隋唐音と呼ばれることもある」と云う点です。仏教声明での区分とは異なりますが、万葉集に万葉仮名と云う音字が存在する以上、その読解では解説で示すこの「中古音での隋唐音」と云うものが重要になります。
面白いことに唐から招聘された続守言たち、音博士は伝授する唐朝廷の使う発音は「正音」と呼んでいたようで、唐時代では征服された被支配者たちを「漢(やから)」とさげすんでいましたから、彼ら自身が自分たちの発音を「漢音」と云う表現を使う可能性はないでしょう。やはり、桓武天皇時代の仏教僧の発音区分が端緒でしょうか。
さらに、調べますと中国では「呉音」、「漢音」、「唐音」の字音区分は日本での日本語発音区分として紹介し、中国の漢字発音と云うものとはまったくに切り離しています。あくまでも日本の術語です。中国には当たり前ですがこのような区分を示すものはありません。ただし、漢詩の世界では「唐詩唐音」は漢詩研究での韻から重要テーマです。韻が重要な唐代漢詩研究ではその時代の唐王朝正音を知らなければ研究とはなりません。それで「唐音」と云う言葉は中国でも漢詩の世界では存在します。なお、それは当たり前ですが唐時代の字音が意味です。宋時代の字音でないことは明白です。
ただ、弊ブログでは無知と教養の無さに由来してこの「中古音での隋唐音=漢音」と云う適切な学術用語を知りませんでした。実にご迷惑をお掛けしていますし、誤解を引き起こして申し訳ありませんでした。
一方、隋唐音は漢音であると云うことは、非常にややこしい話です。ちょうど、日本史での藤原時代が持統天皇から文武天皇・元明天皇前期の藤原京時代を意味しないことと同じようなことなのかもしれません。この日本史での藤原時代は平安時代中期頃の藤原氏摂関政治全盛期の間を示し、持統天皇から文武天皇・元明天皇前期の藤原京時代に対しては適切な時代用語は無いのではないでしょうか。「飛鳥時代」では本格的な藤原京が築かれ、律令政治が始まったことへの時代的区切りとはなりません。また、昭和時代までに使われた「飛鳥浄御原宮時代」では政治や経済事情からからしてまったくに時代が説明出来ません。結局、持統天皇から文武天皇・元明天皇前期の藤原京時代は、「藤原京の時代」なのでしょうね。このためでしょうか、仏像や美術史は、ちょっと混乱があって「藤原時代」、「天平時代」、「白鳳時代」、(「藤原京時代」)、「飛鳥」と順に時代を遡るようです。ただ、この「白鳳時代」の解釈も大化の改新「大化元年」を起点とするものと、天武天皇即位の「壬申の乱」以降とするものとがあるようです。「壬申の乱」の前と後では、まったくに政治や経済体制が違いますし時代性も違いますので、文化史区分では戦前からの昭和と平成を同じ時代区分にするような問題を引き起こしています。
さて、何が背景にあるのでしょうか。
日本の字音研究では「中古音での隋唐の字音」は「漢音」であるとしますし、字音区分の「唐音」は日本での中国語区分では「宋時代以降の字音」です。また、日本史の藤原時代は藤原京時代を意味しません。非常にややこしい話ですし、外部者には確実に誤解を招くような術語の設定です。
今回はとりとめのない話であり、個人の覚書のような学習帳の内容で、万葉集とは直接には関係しませんでした。ただただ、私の頭の中は混乱でお花畑です。