竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

再読、今日のみそひと謌 水

2018年02月28日 | 再読、今日のみそひと...
再読、今日のみそひと謌 水

集歌2010 夕星毛 往来天道 及何時鹿 仰而将待 月人壮
訓読 夕星(ゆふつつ)も通ふ天道(あまぢ)をいつまでか仰ぎに待たむ月人(つきひと)壮士(をとこ)
私訳 夕星が移り行く天の道を、年に一度の逢う日をいつまでかと仰いで待っている月人壮士。

集歌2011 天漢 己向立而 戀等尓 事谷将告 麗言及者
訓読 天つ川い向ひ立ちに恋しらに事(こと)だに告(つ)げむ妻言ふまでは
私訳 天の川に向い立って恋しいあまり、逢えないことだけでも告げましょう。直接逢って、貴女を妻と言うまで。

集歌2012 水良玉 五百部集乎 解毛不及 吾者于可太奴 相日待尓
試訓 みら玉し五百重(いほへ)集(あつ)めを解(と)きも得ず吾(あれ)は行(う)かたぬ逢はむ日待つに
試訳 天空の美しく輝く星がたくさん集まったのを散らすことが出来なくて、(天の川が流れるので)私は出かけることが出来ない。貴女が逢うでしょう、その日を待っているのに。
注意 一般に原歌の表記は次のように改訂して解釈します。試訓と試訳は、原歌からの実験です。
改訂 水良玉 五百都集乎 解毛不見 吾者年(又は「干」)可太奴 相日待尓
訓読 しら玉の五百(いほ)つ集(つど)ひを解きも見ず吾(わ)は寝かてぬ(又は「離れてぬ」)逢はむ日待つに

集歌2013 天漢 水陰草 金風 靡見者 時来之
訓読 天つ川水(みず)蔭(かげ)草(くさ)し秋風し靡かふ見れば時は来にし
私訳 天の川よ、川辺の草が秋風に靡くのを見ると、そのときはやってきたようです。

集歌2014 吾等待之 白芽子開奴 今谷毛 尓寶比往奈 越方人迩
訓読 吾(わ)が待ちし秋萩咲きぬ今だにもにほひし行かな彼方(をちかた)人に
私訳 私が待ちわびていた秋萩が咲きました。今こそ、衣を染めていきましょう。彼方に住む人のために。

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再読、今日のみそひと謌 火

2018年02月27日 | 再読、今日のみそひと...
再読、今日のみそひと謌 火

集歌2005 天地等 別之時従 自麗 然叙手而在 金待吾者
訓読 天地と別れし時ゆ己(おの)が妻然(しか)ぞ手にある秋待つ吾(わ)れは
私訳 神代の天と地が別れた時から自分の妻をこのように手の内に抱ける秋。その秋を私は待っている。
注意 原歌の「然叙手而在」の「手」は一般に「年」の誤字として「然(しか)ぞ年にある」と訓みますが、ここでは原歌のままに訓んでいます。

集歌2006 孫星 嘆須麗 事谷毛 告余叙来鶴 見者苦弥
訓読 彦星(ひこほし)し嘆(なげ)かす妻し事(こと)だにも告(つ)げにぞ来つる見れば苦しみ
私訳 彦星が逢えないことを嘆いている妻に、逢えないことすらを告げずに帰って来るのを見ると心苦しいことです。

集歌2007 久方 天印等 水無河 隔而置之 神世之恨
訓読 ひさかたし天つ印(しるし)と水無(みな)し川(かは)隔(へだ)てに置きし神代し恨(うら)めし
私訳 遥か彼方の天の約束の印として水の流れない天の川を隔てて二人を置いた神代の時代が恨めしいことです。

集歌2008 黒玉 宵霧隠 遠鞆 妹傳 速告与
訓読 ぬばたまし夜霧に隠(こも)り遠(とほ)くとも妹し伝へは早く告(つ)げこそ
私訳 漆黒の夜霧に閉じ込められ隠れていて遠くても、恋人への逢えなくなった連絡は早く告げるべきです。

集歌2009 汝戀 妹命者 飽足尓 袖振所見都 及雲隠
訓読 汝(な)し恋ふる妹し命(みこと)は飽き足らに袖振る見えつ雲隠(くもがく)るまで
私訳 貴方が恋している恋人の御方は、貴方との別れに飽き足らなくて袖を振っているのを見える。雲に姿が隠れるまで。

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再読、今日のみそひと謌 月

2018年02月26日 | 再読、今日のみそひと...
再読、今日のみそひと謌 月

集歌2000 天漢 安渡丹 船浮而 秋立待等 妹告与具
訓読 天つ川安し渡りに舟浮けに秋立つ待つと妹し告(つ)げこそ
私訳 天の川の安の渡しに船を浮かべて、川を渡る秋の季節を待っていると、愛しい恋人に告げてほしい。

集歌2001 従蒼天 往来吾等須良 汝故 天漢道 名積而叙来
訓読 大空ゆ通ふ吾すら汝(な)しゆゑに天つ川路をなづみにぞ来し
私訳 大空を自由に行き来する、そんな私ですが、貴女のために天の川の通い路を苦労して遣って来ました。

集歌2002 八千戈 神自御世 乏麗 人知尓来 告思者
訓読 八千戈(やちほこ)し神し御世(みよ)より乏(とも)し妻(つま)人知りにけり告ぐと思へば
私訳 八千戈の神の時代からなおざりにされた妻。人は知ってしまった、そのなおざりにされた人妻に私が恋をしていると告げようとすると。

集歌2003 吾等戀 丹穂面 今夕母可 天漢原 石枕巻
訓読 吾(わ)が恋ふる丹し秀(ほ)し面(おもは)今夕(こよひ)もか天つ川原し石(いは)枕(まくら)まく
私訳 私が恋をする赤く染まる美しい貴女の顔。今宵も天の川原で貴女の代わりに石を手枕にする。

集歌2004 己麗 乏子等者 竟津 荒磯巻而寐 君待難
訓読 己(おの)が妻乏(とも)しき子らは竟(わた)る津し荒礒(ありそ)枕(ま)きに寝(ぬ)君待ちかてに
私訳 貴方の妻、そのなおざりにされている恋人は、貴方の船が渡って来る、今は寂しい岸で石を手枕として寝ている。貴方を待ちわびて。

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資料編 奈良時代の租庸調 税制について考える

2018年02月25日 | 資料書庫
資料編 奈良時代の租庸調 税制について考える

 最初に、この記事は弊ブログ特有の個人の備忘録のようなものになっています。そのため、万葉集の歌の鑑賞には直接に影響しません。ただし、聖徳太子や柿本人麻呂が詠う旅人死の歌の鑑賞に重大な影響を与える可能性があります。
 ここで次の万葉集の歌を見て下さい。歌は旅行く人のその旅の途中での死を悼む歌です。

上宮聖徳皇子出遊竹原井之時、見龍田山死人悲傷御作謌一首
標訓 上宮聖徳皇子の竹原井に出遊(いでま)しし時に、龍田山に死(みまか)りし人を見て悲傷(かな)しみて御作(つくりま)しし謌一首
集歌415
原歌 家有者 妹之手将纒 草枕 客尓臥有 此旅人可怜 (可は忄+可)
訓読 家(へ)にあらば妹し手(た)纏(ま)かむ草枕旅に臥(こ)やせるこの旅人(たびひと)あはれ
私訳 故郷の家に居たら愛しい妻の手を抱き巻くだろうに、草を枕にするような辛い旅で身を地に臥せている。この旅人は、かわいそうだ。

柿本朝臣人麿見香具山、屍悲慟作謌一首
標訓 柿本朝臣人麿の香具山の屍(かばね)を見て、悲慟(かなし)びて作れる歌一首
集歌426
原歌 草枕 騎宿尓 誰嬬可 國忘有 家待莫國
訓読 草枕旅し宿(やど)りに誰が嬬(つま)か国忘るるか家待たなくに
私訳 草を枕にするような野宿する旅の宿りの中に、誰が妻や故郷を忘れたのでしょうか。きっと、故郷の家の人たちはここで草枕している貴方を待っているのに。

讃岐狭峯嶋、視石中死人、柿本朝臣人麿作歌一首并短哥
標訓 讃岐の狭岑(さみねの)島(しま)に、石(いは)の中に死(みまか)れる人を視て、柿本朝臣人麿の作れる歌一首并せて短歌
その反歌二首より一首
集歌222
原歌 奥波 来依荒磯乎 色妙乃 枕等巻而 奈世流君香聞
訓読 沖し波来よる荒磯(ありそ)を敷栲の枕と枕(ま)きに寝(な)せる君かも
私訳 沖からの波が打ち寄せる荒磯を夜寝る寝床として寝ている貴方です。

 従来、万葉集に載るこれらの旅の途中での死の状況から官人の死ではなく庶民(主に農民)の旅の途中での死を考え、その理由を租庸調税制での調庸物の地方から都への運搬人 運脚に求めます。その死の理由も古代では日常的に有り得る病傷死ではなく食料が尽きたことを理由とする餓死を想像し、この想像を根拠に天皇親政を酷政と論難します。
 なお、調庸物の地方から都への運搬や任を終えての帰郷は出発する郡から公務手続きと道中案内を任務とする郡司などが引率しキャラバン隊として集団で行動をします。畿内へと入る街道には関所があり、出発地の郡が作成した本國歴名(公式の旅行者名簿)が無ければ通過することは出来ません。ある種の通行手形が必要で、これはキャラバン隊を引率する郡司などが携えます。従いまして調庸物の運搬を担当する運脚が野晒しになる可能性はそのキャラバン隊が全滅するような重大災害への遭遇や急性伝染病の罹患でなければありえません。先に紹介した歌に詠うような単独死での野晒しは運脚キャラバン隊以外に理由を求める必要があります。まず、歴史家は日本書紀に載る持統三年(689)閏八月に出された詔「今冬、戸籍可造。宜限九月、糺捉浮浪」の「浮浪」の正体を明確にし、農漁村での生活集団から外れた浮浪の生活(衣食住)を検討してから運脚が野晒しになる可能性を論ずるべきです。根拠の無い空想的な歴史解釈では弊ブログ以上に「トンデモ論」となります。

 ここで本題に入る前にお断りとして、弊ブログの記事は建設作業員と云う正統な教育を受けていないものが世に晒すトンデモ記事であることをご笑納ください。紹介する内容はでたらめで、馬鹿話だけです。

 標題が「奈良時代の租庸調 税制について考える」ですので、前期平城京時代の標準税制を以下に簡単に紹介します。

租税:国租は1段当たり1束5把、町租は1段当たり十五束(慶雲三年九月十日格)
庸税:年10日の労働、又は布2丈6尺(二尺六寸で日割)で代納
調税:国及び郡に品目・数量を割り当て、口分田受給者は調達費を布二丈六尺相当で公平分担
中男作物:国及び郡に品目・数量を割り当て、口分田受給者で中男(17~20歳)が公平分担
注意:古代の慣例法では租税は「熟田百代租稲三束」で、稲一束は籾7.5 kgに相当します。また、奈良時代の水田の平均単位面積当たり収量は40束/段(300 kg/段)と推定され、この場合では田租税は41.25 %に相当します。これとは別に救荒に備えて粟の備蓄規定もあり、それへの供出義務があります。

この租庸調について馬鹿話を述べますと、以下のようになっています。
 租税において国租は其の地域での備蓄米扱いで緊急非常時以外での使用は禁止され、緊急時でのその使用にも朝廷の許可が必要です。一方、町租は郡の行政費用として使用します。調庸物などの国税の輸送に関わる運脚や雑徭扱いでの運脚などの出張費用、標準税外の朝集使貢献物調達や神事・仏事の経費などに支出されます。また制度として米は原則として域外搬出は禁止されています。
 庸税は年10日を基準とする労働提供の法定規定ですが、別に例外規定として国司の判断で雑徭として最大年60日の労働提供を指示することが出来ました。なお、庸税としての労働提供が年10日に満たない場合、代替として一日当たり二尺六寸の布(相当価格の稲)を納める必要がありますが、雑徭にはそのような代替規定はありません。正丁で庸の労働を年30日行いますと租税と調税が免除される規定がありますし、無償労働奉仕である徭役従事が規定日数を越えた場合、超過分については公が「直」と称する賃金を支払う規定があります。
 調税及び中男作物は法定税制ですが、中央で必要とする物品について、それを国・郡に割り当て、その割り当てられた物品に対する調達費用の分担金として稲を納める制度です。集められた稲は国衙工房や郡家工房での工人賃料や材料調達費などに当てられます。続日本紀 和銅四年(711)閏六月十四日の記事「遣挑文師于諸国。始教習織錦綾」を参考とするように、朝廷は中央から熟練技能者を地方に派遣し地方の工人に技術の伝授を行ってから錦・綾・羅などの高級布を調物として指定します。また、続日本紀の大宝三年(703)五月の記事「令紀伊国奈我・名草二郡、停布調献糸。但阿提・飯高・牟漏三郡、献銀也」が示すように、朝廷が調物を指定するのであって、地方が独自に布など物品を選定するのではありません。つまり、調物は布が基本物だからと云って該当品や類似品を農民が調庸物として直接に製造・調達するのではありません。それは指定された調物の調達費用の分担額を布と云う古代の代替通貨で換算しただけです。平城京時代の調庸物の規定は明確ではありませんが平安時代の規定である延喜式 卷第廿四 主計寮が伝存していますから、それから納めるべき物品と数量を推測することが出来ます。さらに主計寮の規定には都への運搬日数と帰郷日数、海上輸送や車輸送を使用した場合での日数や経費を規定しますから、徒歩運搬だけではなかった事が規定からも読み取れます。調物で布の代替品として海草や海産物を指定された場合、正丁当たり100kgを越える荷物重量(例:雜海菜一百六十斤:107kg)になりますから、常識的に考えて正丁一人で自己負担分ですら運搬できないのは明らかです。実際運用では平安時代ですと船で郡を出発し 淀川を遡り 伏見の淀の湊で荷卸をする運賃規定がありますので、これを想定するのが良いと思います。
参考資料:調物の指定例
• 和銅六年(713)五月 相摸・常陸・上野・武蔵・下野、五国輸調、元来是布也。自今以後、絁・布並進。又令大倭・参河並献雲母、伊勢水銀、相摸石硫黄・白樊石・黄樊石、近江慈石、美濃青樊石、飛騨・若狭並樊石、信濃石硫黄、上野金青、陸奥白石英・雲母・石硫黄、出雲黄樊石、讃岐白樊石。
• 養老六年(722)九月 令伊賀・伊勢・尾張・近江・越前・丹波・播磨・紀伊等国、始輸銭調。
など

以上、租庸調 税制について紹介しましたが、想像していたものと同じでしたか。ここからはさらに租庸調 税制でも調庸物を運搬した運脚を中心に雑談・馬鹿話をしていきます。まず、従来の風説に対し紹介するものは律令規定を根拠としますのでその内容が大きく違うと思います。眉唾物としてご笑納下さい。
 また、税における「貢」と云うものは朝集使貢献物・貢雑物などの制度上の貢物と、律令体制以前の朝廷と地方豪族や諸外国との隷属関係での貢(または朝貢)と云う律令制度とは関係のない歴史的なものとがあります。ここで扱うものは律令制度からのものであり、大和では大化の改新と称される大化二年に公布された戸籍令と班田収受令に租庸調 税制の施行開始とその根拠を求めます。弊ブログでは大化二年の詔と浄御原宮令・大宝律令・養老律令とで税体系では大きな差は無いと考えます。

 従来、先進研究者は律令時代の農民の生活は重税のため悲惨だったとします。昭和時代ではその理由を田租となる租税が厳しく、収穫のほとんどを税として納める必要があったとしました。ところが藤原京から平城京時代の水稲収穫量について研究が進むと平均で1段当たり300束から400束ぐらいは収穫出来、租税の内 国租は1段当たり1束5把ですので、これは推定収穫量の3から5%程度であることが判明して来ました。これでは税が軽すぎて生活が悲惨であったと云う根拠にはなりません。町租は農民たち自身の自治運用費用ですので古代では最低生活での必要経費的な面がありましたので、この税を酷税とするのは難しいと思います。例:救荒の倉の建設とその維持費など
 そこで、先進研究者は次に農民の生活が悲惨である根拠を調庸税に求めました。調と庸雑物は都で納入する規定であること、また、庸の労働奉仕は都での建設作業で為されるものとし、その往復の旅費は自弁であり、都での労働奉仕中の生活費も自弁であると強調し解説しました。確かに関東や山陰から調物を背負い徒歩で都まで毎年 一切の経費を自弁で出かけなければならないとしたら大変な重税です。昭和の先進研究者は租税から調庸税に事由を変えて農民の生活が悲惨である根拠を見出しました。
 ただし、問題があります。調税は国や郡に割り当てられた税で直接 農民には割り当てられていません。調達分担金の割り当てです。また庸役についてもまた全員が都まで出向くかと云うとそれは違います。国が指定した労働への無償奉仕であり、場所は国が指定します。そして、庸役と云う労働奉仕は必要に応じた労働力に対する選抜制で、選抜されなかった場合は布または布相当代金を稲で拠出するものでした。その選抜においても当時の一戸を単位として選抜しますが、古代の一戸は血縁一族の大家族制ですので、その構成員は20~25人程度だったと考えられています。庸役への選抜確率は働き手の主力である正丁5人に1人ぐらいだったと思われますので、これをもって構成員全員が貧困となる理由としては弱いものがあります。なお、伝存する当時の戸籍資料とは大きく相違しますが昭和期の研究では「戸」に核家族制を想定し、その一戸当たりの構成員は5人未満と云う説が有力でした。この場合、主力働き手である正丁はほぼ全員が選抜されることになりますから、これを貧困の有力な根拠とします。現在では戸籍記録資料とは別に社会経済の維持・成長と云う側面からの研究から昭和期の研究である一戸当たりの構成員は5人未満でそこから正丁を一人選出したと云う説は否定的に扱われています。

 さて、馬鹿話の余興として、日本書紀に載る次の漢文を見て下さい。この漢文で「山部王為蘇賀臣果安・巨勢臣比等見殺」をどのように訓じましょうか。

原文 時近江命山部王・蘇賀臣果安・巨勢臣比等率数万衆、将襲不破。而軍于犬上川浜、山部王為蘇賀臣果安・巨勢臣比等見殺。由是乱、以軍不進。乃蘇賀臣果安自犬上返刺頸而死。

 標準では「天皇為大臣馬子宿禰見殺」の訓じ「(崇峻)天皇は大臣馬子宿禰に見殺しされた」から「山部王は蘇賀臣果安と巨勢臣比等に見殺しにされた」と訳します。一方、弊ブログでは「山部王は蘇賀臣果安と巨勢臣比等を見殺しと為す」と訳します。
 ここで、原文として紹介した漢文の最初の記述が軍の序列を示すとしますと皇族の山部王が上位で蘇賀臣果安・巨勢臣比等は下位です。大和の正規の軍組織は前軍・中軍・後軍の三軍編成ですから、一般的に百済の役で大将で後将軍を執った大華下 阿倍引田臣比邏夫と同様に上官の山部王が総大将で後将軍となります。従来の解釈では後将軍で総大将の山部王だけが息長横河の戦で大海人皇子軍に突撃し、それを前将軍巨勢臣比等・中将軍蘇賀臣果安は援軍せず、そのまま見殺しにしたとします。また、その見殺しとされた山部王は大海人皇子への内々の同調者であり、戦線で戦った相手である将軍高市皇子はその事情を承知しています。この文章ではそのような事情を記載しませんが、巻二九の全文からは全事情を知る事が出来ます。一方、日本書紀は複数人が分担してそれぞれの巻を記述したとの研究報告がありますから、漢文は記述人の癖を踏まえてそれぞれの前後の文章の関連を見て訓じ、解釈するのが適切と考えます。当然、標準と弊ブログでの解釈ではまったくの逆の話となりますし、この原文の解釈次第で壬申の乱の戦いの様相や真相は大きく変わります。さて、貴方はどのように解釈しますか。なお、この漢文章では不破への進軍から蘇賀臣果安が犬上川から大津宮に引き上げ 自殺するまでにあった二つの戦い 息長横河の戦と鳥籠山の戦の戦況と結果を記述していません。そのため、日本書紀 巻二九の記事を戦線毎に時系列を取って並べ直し全体像を把握してからこの漢文章を読み直さないと非常に判りにくいものとなっています。

 では次の漢文はどうでしょうか。文章は延喜式に載る調・庸/調副物を都に納入するときの労働代価となる運賃規定である「諸國運漕雜物功賃」からのものです。

原文 右運漕・功賃並依前件。其路粮者各准程、給上人日米二升・塩二勺、下人減半。

 これを弊ブログでは「右の運漕・功賃は並びに前の件に依る。其の路粮はおのおの路程に准じ、都に上る人に一日米二升・塩二勺を、都から下る人には半分に減じて給す」と解釈しています。延喜式などの規定では公の旅行では国衙や駅家での食料の支給規定があり、官位を持つ役人には一日米二升、塩二勺に加えて酒一升が支給され、それ以外の人には一日米二升、塩二勺が支給されます。なお、上記の原文において「上人」を官位を持つ役人など身分がある人物、「下人」を身分が低い人物と解釈して説明する研究者もいますが、弊ブログでは採用しません。(注:律令の一升は現代の四合、一勺は0.4勺に相当します)
 なお、「諸國運漕雜物功賃」は貢雜物の運搬規定であって調庸物の運脚人への規定では無いと主張する研究者がいるかとも思います。では、次の漢文はどうしましょうか。規定は「延喜式 巻第廿二 民部省」に示す平城京や平安京へ調物・庸物並びに中男作物を運脚が運搬する時の食料支給の規定です。なお、中男作物の中男は17~20歳(『養老令』)の男子の呼称で、これに該当する人々がその地域の特産物を中男作物として納めます。制度としては養老元年(717)に調副物と中男の調を統合して制定され、それぞれの地域の特産物を納めさせる税制度です。

原文 凡調庸及中男作物送京、差正丁充運脚。餘出脚直以資。脚夫預具所須之數、告知應出之人依限検領、准程量。宜設置路次、起上道日迄于納官。給一人日米二升・塩二勺、還日減半。

 他にも延喜式 民部省に次のような規定があります。これも公の荷物を運搬する徭夫に対する食料支給となる路粮規定です。

原文 右別貢雑物竝依前件。自余雑薬見典薬式。其運送徭夫、各給路粮。

 さらに天平八年度の薩摩国正税帳には次のような郡稲支出の記録があります。資料は薩摩国から大宰府に筆の材料となる鹿皮を運搬した時に支給した食料の記録です。推定で運搬に十日、帰郷に九日を要したものと思われます。

原文 運府筆料鹿皮担夫弐人(十九日)、惣単参拾捌人・食稲壱拾壱束陸把(二人十日人別日四把、二人九日人別日二把)
注意:延喜式の規定では薩摩・大宰府の旅程は上十二日、下六日ですので、平安時代よりも四捨五入で一日長いものとなっています。

 上記の規定は行政施行令やその施行記録ですので、その施行根拠は養老律令の賦役令の規定からと考えられます。運脚に対する規定を賦役令に検討しますと次に示す歳役條、役丁匠條に丁匠往来條が関係すると思われます。

 賦役令第四 歳役條:凡正丁歳役十日。若須收庸者布二丈六尺、一日二尺六寸。須留役者滿三十日租調俱免。役日少者計見役日折免。通正役並不得過四十日。次丁二人同一正丁。中男及京畿内不在取庸之例。其丁赴役之日、長官親自點檢并閱衣糧周備、然後發遣。若欲雇當國郡人及遣家人代役、霽者聽之、劣弱者不合。即於送簿名下具注代人貫屬姓名。其匠欲當色雇巧人代役、霽者亦聽之。
 賦役令廿六 役丁匠條:凡役丁匠皆十人外給一人充火頭。疾病及遇雨、不堪執作之日減半食。闕功令陪。唯疾病者給。役日直雖雨非露役者不在此限。
 賦役令卅一 丁匠往来條:凡丁匠往来、如有重患不堪勝致者留付隨便郡里、供給飲食。待差發遣。若無糧食、即給公糧。

 弊ブログでは律令で云う「歳役」には運脚などの公が要求・指名する公事送物の労働も、養老四年(720)三月の太政官通知に養老二年六月の通知を引用して「直」の支払い規定を述べることからも含まれていると考えています。

太政官通知:
又検養老二年六月四日案内云「庸調運脚者、量路程遠近・運物軽重、均出戸内脚。獎資行人労費者、拠案、唯言運送庸調脚直。自余雑物送京」。未有処分。但百姓運物入京、事了即令早還、為無帰国程糧、在路極難艱辛。望請、在京貯備官物毎因公事送物、還准程給糧。庶免飢弊、早還本土。

 ところが、学会での「歳役」の定義・解説は「歳役とは古代の律令国家が公民に賦課した徭役の一つ。養老令によると年に10日使役することになっていたが、もし歳役に差点(さてん=徴発)しない場合は、実役につくかわりに布や米を賦課し、これを庸と称した。また政府が必要とする場合には、この10日の役のほかに、留役といってさらに30日間使役することができたが、その場合には代償として租と調とが免除された。歳役は、国司の指揮のもとで行われる地方的徭役の雑徭と異なり、中央政府の指揮のもとで造宮や造寺にあてられ、往復の食料や10日の就役期間の食料は自弁であった。ただし、大宝令には歳役を実役でとる規定はなく、ただ庸を徴収する規定のみがあったとする見解もある」となっています。つまり、都での建設工事などの役務のみを想定していて、それ以外の労働役務提供は歳役には該当しないとの判断です。参考として中央で働いた匠・丁や仕丁の帰郷時の食料支給については延喜式 民部省の規定に「諸國匠丁還郷者、本司録移送省。省申官給路粮、一人日米一升・鹽一勺。仕丁准此」と通達しますので上京 帰郷は自弁により食料を調達するのではありません。これは先に紹介した一般規定の帰郷時には半減して支給するのと同じ数量です。
 さらに学会通説は、その通説で説明する「造宮や造寺に従事する歳役」での「自弁」と云う従来の解説と養老律令の賦役令や役丁匠條に規定する「疾病及遇雨、不堪執作之日減半食」との整合性をどのように解説するのでしょうか。規定では疾病や雨天などによる仕事が出来ない日であっても給食として「食」を規定の半分 支給します。当然、言外ですが通常作業を行えば規定通りの「食」一日分が支給されたと解釈すべきです。明記されていないから労働日の食事は逆に支給されないと曲説して解釈するのはいかがなものでしょう。それは「知識者が好む為にする議論」ですか。いったいどのように律令規定を読むと「自弁」と云う解釈が出て来るのでしょうか。もし、先の太政官通知の「庶免飢弊」を根拠とするなら違います。通知は朝廷の省庁が求める庸役からの運脚と地方国司が求める雑徭からの運脚に差別を設けることなく路粮を支給することを話題としています。ただし、給食と労働賃金支払いとは違います。規定では食料は支給するが無賃金です。無賃金=無給で、無給だから食事も無支給だと現代日本語において混同してはいけません。さらに賦役令廿二 雇役丁條では「其人限外上役、欲取直者聽」と規定しますから満30日の庸役を越えて役に従事した場合、「直」(賃金)が支払われます。非常に役務に従う人々の公平性を重視した規定になっています。
 次に歳役條の「其丁赴役之日、長官親自點檢并閱衣糧周備」の文章は「長官が自ら親しく点検し、併せて衣糧のあまねく備えるを閲する」と訓じるものでしょう。しかしながらこの文章からは「自弁」と云う内容を専門研究者のようには読解は出来ません。この「糧」については、延喜式では規定の「起上道日迄于納官」の旅程日数に従い「路粮」を支給されましたから、この路粮(又は道中で粮の支給を受けるための押印された公文書)を意味すると考えます。さらにこの旅程途中での重病により旅の中断には丁匠往来條で救護する駅家などが路粮とは別に食料の保有状況を確かめて食料を支給する規定があります。これら路粮規定に対する実際の支給情況については正税帳に載る支出項目から確認でき、インターネット上では「律令地方税制の一考察:山里純一」の論文などから容易にそれが検証が出来ます。
 一方、延喜式に載る規定も賦役令での規定も平城京や平安京での滞在費の規定はありません。延喜式 卷第廿二 民部省では「貢調庸使者、物之與帳同領入京、不得先後零畳脚夫苦久」と指示するように、貢調庸使者は調物とその仕送台帳が同時に京に到着するようにし、調物と台帳との照合をスムーズに行い、検収・収納に日数をかけず、運脚に重ねての苦労をかけさせるなとありますが、その待機期間中の食料・日当への言及はありません。およそ、中央官僚の職務怠慢を前提とする規定は作れないと云うことと思います。その規定に続けて「調庸專當郡司到京者、使國司引見省。若有私還者、省録歴名」とありますから、平安時代初期までには運脚たちが検収・収納を待ちくたびれて勝手に故郷に帰ってしまうことが頻発したと思われます。この場合、自主的な帰路には引率してきた郡司などの役人がいませんから、途中の駅家で「路粮」は受給できなかったのではないでしょうか。つまり、自弁での帰郷と云うことになります。もし、運脚の旅費や食料が「自弁」と云うものが「私還者」での行動だけを指すのですと正しいのでしょう。
 さらに、和銅五年(712)十月の詔の一文「随役夫到任令交易。又令行旅人必齎銭為資。因息重担之労。亦知用銭之便」、養老四年(720)三月の太政官通知の一文「拠案、唯言運送庸調脚直」から考察すると、運脚や丁匠が帰郷するときに朝廷は現金(銅銭)で「直」(賃金)や「路粮」を支払っていたと思われます。一方、地方ではまだ銅銭と舂米との売買が慣習化されていないために運脚たちは交易(売買)が出来なく食料を調達するのが困難だったようです。そこで和銅五年に全国の国司・郡司に貨幣での支払いを街道沿いの農民に知らしめよと通知したのでしょう。また、養老四年(720)三月の太政官通知に「自余雑物送京。未有処分。・・・望請・・・還准程給糧。庶免飢弊」とありますから貢雑物を運搬する地方の国司所掌の雑徭による運脚にも中央 省所掌である庸役運脚と同じように「路粮」が支給されるようになったと考えます。なお、重ねてこれらの詔と太政官通達から運脚は「自費・自弁」だったとの解釈を得ることは出来ませんし、運脚により飢餓となったとの解釈は得られません。詔は最新の和同開珎と云う銭と米との交易促進ですし、太政官通知は貢雑物を運ぶ運脚の立場の解釈です。
 また、都で消費する米を脱穀・精米して舂米の形で地方から庸物として平城京や平安京に運ぶ規定がありますが、一般にこの重荷(比重が重い荷物)に規定される舂米の納入を要求されたのは近隣国と沿海国です。諸國運漕雜物功賃の規定に見られますように、その運搬は主に船を使ったものが中心で、加えて駅馬が陸上運搬を補ったと考えられます。さらに平安時代では淀川を遡った伏見の與等(淀)の湊から平安京へは牛車での運搬が規定されています。およそ、運搬の主力は人力運搬ではありません。
 なお、一部、議論で天平勝宝八年(756)十月の太政官通達「山陽・南海諸国舂米、自今以後 取海路遭送」を根拠にこれ以降 調庸物の海上運搬が許可されたとの指摘があります。しかしながら、現在、発掘される荷札木簡や霊亀元年(715)五月の詔「又海路漕庸、輙委民。或已漂失、或多湿損。是由国司不順先制之所致也。自今以後 不悛改者節級科罪。所損之物、即徴国司」などから、愛媛県史 古代Ⅱ 中世(昭和59年3月31日発行)「古代の瀬戸内海と伊予:京進物資と舟運」では「令制の原則とは別に、現実には八世紀初頭から庸米や春米など重貨たる稲穀を中心に海路運漕が広汎に展開していたのであり、それはやがて軽貨である繊維類などほかの貢納品の搬送にも及ぼされた。八世紀半ばころから律令国家は、その法的公認に踏み切っていったのである」と結論付けています。
 それにそもそも米(稲)は租税として納税するもので、基本はその郡内での貯蔵・消費が原則です。域外移動には舂米規定や救荒指示のような特別許可・通達を太政官から得る必要がありますから、米の域外運搬は非常事態以外ではありえません。なお、昭和時代の研究者は時に律令体制での租庸調制度と江戸時代の年貢制度との違いが判らなかったような不思議な解説をしますので、特別に注意が必要です。
 さらに「律令地方税制の一考察:山里純一」の論文に従うと賦役令集解 封戸条に「運舂米国者米送、遠国者販売軽貨送給耳」との解説がありますから、調庸物条に「不得雑勾隨便糴輸(本国で物品を現金化し、都で納めるべき調庸物を購入することの禁止)」の規定に対する例外として舂米では割り当てられた国や郡は都で納入すべき重荷となる舂米の代価相当を現金や布などの軽い物(軽荷)での代納を認めています。およそ、この背景として代替が限られる各地の特産物は確実に都に運ばせ、米のような一般消費財は柔軟に対応していたようです。この姿も従来に描いていた運脚の姿ではありません。奈良時代の政治は実に柔軟で実際的だったようです。

 さて、その肝心の運脚での重要な事項である一人当たりの運搬貨物重量の規定が、今一つ不明です。従来の考え方では旅行での食費・草履などの消耗費・宿泊費などはすべて農民の自弁と云うことで、何人で所定の調庸部及び中男作物を運んだかは特段には研究されていません。一方、日当賃金となる「直」は支給されないが食料は支給されるとすると、運搬人数が支給路粮(米と塩)の量に直結しますから、行政運営では一人当たり運搬貨物重量は重要な管理項目となります。
 平安時代の格式を記述する延喜式では「凡一駄荷率、絹七十疋・絁五十疋・絲三百絇・綿三百屯・調布卅端・庸布卌段・商布五十段・銅一百斤・鐵卅廷・鍬七十口」の規定があり、これから一駄荷は65 ~ 70kg程度となります。ただ、漢字での「駄」は馬が担う荷物を意味しますから、これを運脚にも適用したかが不明です。参照として、江戸期から明治期にこの運脚に相当する荷負い運搬人である歩荷(ぼっか)は十六貫(60kg)を担ぎ、一日25 ~ 30 kmを運んだと記録します。これは律令時代では駅家間の距離に相当します。養老令 公式令 行程条では一日の行程を荷馬は70里、人は50里と規定します。律令での一里は0.54kmですから、それぞれ38kmと27kmとなります。
 他方、荷札木簡などの資料から舂米は俵詰めで運搬されたようで、当時の一俵は五斗(現在の二斗)詰で重量約30kgです。また、塩三斗と云う荷札木簡が出土しており、これは現代の十二升 22.7kgに相当します。これらの資料から推定しますと運脚は50斤、近世の八貫(30kg)を一荷とするような規定があった可能性があります。
 付け加えて、運脚などの移動では最大十人に一人当ての調理専任担当者(火頭)を同行する規定がありましたから、里から干物の魚や肉を持参し、旅の道中で山菜と薪(枯枝)を採取すると、糧飯ならば土鍋一つあれば米と塩は駅家で支給されますから問題なく調理出来たと考えます。
 不思議なのは、斯様に養老律令や延喜式などを紹介しますと、昭和期の研究者はこれらの漢文で記述された原文が読めたかどうか、彼らがする解説や説明からは確信が持てないのです。専門家が専門とする原典・テキストが読めない、理解できないとしますと非常に悪いジョークではないでしょうか。

 おまけとして、もし、運脚の公式運搬重量が八貫(30kg)程度ですと、江戸時代の歩荷の記録からすると公荷に個人的な荷を加えて都へと運搬した可能性が出て来ます。都では朝廷が管理する東市・西市があり、管理されたレートで物々交換が可能でした。この当たりから都の物品が市易を通じて地方へと流れたのではないでしょうか。
 さらにずるい話ですが、有力農家などは私奴と云う奴隷を持っており、班田では私奴は良民の1/3の田を貰える規定がありました。庸役では良民の成人男子である正丁から役に就く丁(よほろ)を選抜することになっていますが、同等の身体健全性があれば代理を認めていました。つまり、私奴を持つ農家は私奴を本人の代理として出すことも出来ましたし、本人が使用人である私奴を率いて庸役に赴けば、他の家庭の庸役を請け負うことも出来ました。研究者によっては、この本人と私奴たちによる他家の庸役請負が古代の運送業の始まりではないかと指摘する人もいます。当然、前提は経済的利益です。官による「路粮」と云う食料支給があり、租調税免除の規定を最大限に活用しますと、非常に甘味のある話です。東国では伊豆国・甲斐国・越後国から東の国々、西国では石見国・長門国・土佐国の三国が旅程で往復30日を越えます。運脚も庸役に相当するのですと運脚だけで租調税は免除されることになります。そして、食料として現在換算で一日米八合も支給されるとしますと、気心の知れた仲間とその私奴だけで運脚のキャラバン隊を組むとそれぞれの食料を節約して余分な個人的な荷を担ぐ私奴を潜り込ませることも可能で、それは都での商売の種になります。可能性として運脚キャラバン隊を引率する郡司もまた里では有力農家であり私奴を持つ身分ですから、率先して運脚を商売とすることが出来ます。
 面白い参考記事として、愛媛県の瀬戸内海の海運史調査では平安時代、西国の海上輸送された調庸物は伏見の與等(淀)の湊に荷揚げするのが規定ですが、その手前 山崎の湊で一部の荷を荷揚げし、そこに私倉や私市が立ったとします。そしてそこで交易された物品は官物輸送に便乗して運んだ私物ではないかと推定しています。つまり、そうゆうことです。いつの時代も研究者よりも庶民の方がたくましいのです。

 追記して、律令政治が行われた前期平城京、後期平城京、平安京初期でのそれぞれの日本国と云う地域概念は違います。つまり、調庸物を運搬する運脚たちの旅程の距離と所要日数が変わって来ます。特に東国・東北では大きく変わって来ますので、いつの時代を対象にするかで議論は変わります。遅くに加わった九州南部地域については搬入先は大宰府ですので、古くからの南海道や山陰道諸国に比べると影響は小さいものと考えます。

 以上、長々と与太話・馬鹿話をしました。相当に文科省公認の風説とは違いますが、残る当時の公文書からはこのようになります。
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万葉集 長歌を鑑賞する 集歌3310

2018年02月25日 | 万葉集 長歌を楽しむ
万葉集 長歌を鑑賞する 集歌3310

集歌3310 隠口乃 泊瀬乃國尓 左結婚丹 吾来者 棚雲利 雪者零来 左雲理 雨者落来 野鳥 雉動 家鳥 可鶏毛鳴 左夜者明 此夜者昶奴 入而且将眠 此戸開為

<標準的な解釈(「萬葉集 釋注」伊藤博、集英社文庫)>
訓読 こもくりの 泊瀬の国に さよばひに 我が来れば たな曇り 雪は降り来(く) さ曇り 雨は降り来 野つ鳥 雉(ききじ)は響(とよ)む 家つ鳥 鶏(かけ)も鳴く さ夜は明け この夜は明けぬ 入りてかつ寝む この戸開かせ
標準 隠り処のこの泊瀬の国に、妻どいにやって来ると、かき曇って雪は降ってくるし、曇りに曇って雨は降ってくる。野の鳥雉は鳴き騒ぐし、家の鳥鶏も鳴き立てる。夜は白みはじめ、とうとうこの一夜は明けてしまった。だけど、中に入って寝るだけは寝よう。さあ、この戸をお開け下され。

<西本願寺本万葉集の原文を忠実に訓むときの解釈>
訓読 隠口(こもくり)の 泊瀬の国に さ結婚(よはひ)に 吾が来れば たな曇り 雪は降り来 さ曇り 雨は降り来 野つ鳥し 雉は響(とよ)む 家つ鳥 鶏(とり)も鳴きし さ夜は明け この夜は明けぬ 入りにかつ寝む この戸開かせ
私訳 隠口の泊瀬の国に、貴女と一夜の契をしようと私がやって来ると、空は雲に覆われ雪が降って来る。空は曇って雨が降って来る。野の鳥、雉の鳴き声は響き渡る。家の鳥、鶏も鳴く。その夜は明け、この一夜の夜は明ける。貴女の家に入って貴女と寝ましょう、この家の戸を開けてください。
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