竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 五十九 雪を楽しむ

2013年12月28日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 五十九 雪を楽しむ

 『万葉集』の中に雪を詠う歌を多く見ることが出来ます。ここでは恋歌以外のものを中心に個人の好みで雪の歌を集めてみました。
 最初に紹介する三首は官庁で行われる新年の賀詞交換の宴で詠われた定型の寿歌です。今日、紹介しますと、数日ほど年の内となり、タイムリーではありませんが、ご勘弁のほどを。なお、大伴家持が詠う集歌4516の寿歌は典型的な役人が詠う定型歌ですので秀歌として鑑賞するたぐいのものではありませんが、『万葉集』の最後を閉める歌としては有名です。また、紹介しますものは個人的な鑑賞での景色感覚から、その紹介順は『万葉集』での記載順とは違います。

集歌3925 新 年乃婆自米尓 豊乃登之 思流須登奈良思 雪能敷礼流波
訓読 新しき 年の初めに 豊(とよ)の年 しるすとならし 雪の降れるは
私訳 新しい年の初めに、今年はきっと豊作の年だと、預言しているのでしょう。このように雪が降ってくるのは。

集歌4516 新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰
訓読 新しき 年の始(はじめ)の 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事(よこと)
私訳 新しい年の始めの初春の今日、その今日に降るこの雪のように、たくさん積もりあがれ、吉き事よ。

集歌4229 新 年之初者 弥年尓 雪踏平之 常如此尓毛我
訓読 新しき 年し初めは 弥年(いやとし)に 雪踏み平(なら)し 常(つね)かくにもが
私訳 新しい年、その年の初めには、さあこのように毎年に、豊作を預言する雪を踏み均して、いつもいつもこのような宴をしたいものです。

 紹介したものは官庁の新年の賀詞交換の宴で詠う定型の歌ですから、同じような定型歌が平安時代でも新年を祝う宴で詠われています。それが次の歌です。
 儀礼で詠う寿歌ですから定型歌として上二句は決まっています。そのため、下三句をその場の雰囲気に合わせて詠うことが重要です。ただし、気象物では雪は豊作の予兆ですから雪があればそれを詠い込むのは礼儀ですし、同じようにおめでたい詞もまた必要です。

古今和歌集 歌番号1069
新しき 年のはじめに かくしこそ ちとせをかねて たのしきをつめ


 次に紹介する歌は新年の宴会で詠われた抒情の寿歌です。和歌の世界の季節の約束では冬は十二月の末までで、春は一月から三月です。およそ、紹介する歌が詠われたのは新年謹賀の宴と云うことになります。奈良時代前期から中期の貴族たちの新年を賀する宴での酒の肴には、このような歌が詠われたようです。宴の参加条件がこのような歌を詠うことを求められるのですと、現代人では酔いが醒めるような大変な宴です。

集歌1439 時者今者 春尓成跡 三雪零 遠山邊尓 霞多奈婢久
訓読 時は今は 春になりぬと み雪降る 遠き山辺(やまへ)に 霞たなびく
私訳 季節は、今はもう、春になりましたと。美しい雪が降る。その真っ白い雪が積もる遠くの山並に、霞が棚引いています。

集歌1832 打靡 春去来者 然為蟹 天雲霧相 雪者零管
訓読 うち靡く 春さり来れば しかすがに 天(あま)雲(くも)霧(き)らふ 雪は降りつつ
私訳 芳しく風に靡く春が天を去り地上にやって来ると、さすがに空の雲もこのように霧となる。雪は降っていても。

集歌1888 白雪之 常敷冬者 過去家良霜 春霞 田菜引野邊之 鴬鳴焉 (旋頭歌)
訓読 白雪し 常(つね)敷く冬は 過ぎにけらしも 春霞 たなびく野辺(のへ)し 鴬鳴くも
私訳 白雪がいつも降り積もる冬は、きっともう、その季節が過ぎたようです、春霞が棚引く野辺には鶯が鳴いています。

集歌4488 三雪布流 布由波祁布能未 鴬乃 奈加牟春敝波 安須尓之安流良之
訓読 み雪降る 冬は今日(けふ)のみ 鴬の 鳴かむ春へは 明日(あす)にしあるらし
私訳 美しい雪が降る冬は今日までです、鶯が鳴くでしょう、その春は、明日からなのでしょう。


 ここからは、純粋に雪景色に対する個人の好みです。

集歌262 矢釣山 木立不見 落乱 雪驪 朝楽毛
訓読 矢釣山 木立し見えず 降りまがふ 雪し驪(うるは)し 朝(あした)楽(たのし)も
私訳 矢釣山の木立も見えないほど降り乱れる雪が彼方のまっ黒な雪雲から降り来る、その雪が美しい。きっと、白一面となる翌朝も風流なことでしょう。

集歌318 田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留
訓読 田子し浦ゆ うち出(い)でて見れば 真白にぞ 不尽(ふじ)の高嶺(たかね)に 雪は降りける
私訳 田子にある、その浦から出発して見上げると、真っ白な富士の高き嶺。その高き嶺に雪が降ったのでしょう。
注意 この歌は冬の季節の歌ではありません。雰囲気は夏の季節の歌です。しかし、有名な歌ですので、参考として取り上げました。

集歌822 和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母
訓読 吾(わ)が苑(その)に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも
私訳 私の庭に梅の花が散る。遥か彼方の天空から雪が降って来たのだろうか。

集歌1420 沫雪香 薄太礼尓零登 見左右二 流倍散波 何物之花其毛
訓読 沫雪(あわゆき)か はだれに降ると 見るさへに 流らへ散るは 何物(なにも)し花ぞも
私訳 沫雪なのでしょうか、まだら模様に空から白いものが降るのを見ていると、その空から流れ散るのは何の花でしょうか。

集歌1426 吾勢子尓 令見常念之 梅花 其十方不所見 雪乃零有者
訓読 吾が背子に 見せむと念(おも)ひし 梅し花 それとも見えず 雪の降れれば
私訳 私の愛しい貴方に見せましょうと想った梅の花。今、その花がどこにあるのか判らない。真っ白な雪が降ってしまったので。

集歌1639 沫雪 保杼呂保杼呂尓 零敷者 平城京師 所念可聞
訓読 沫雪(あわゆき)し ほどろほどろに 降り敷しけば 平城(なら)し京(みやこ)し 思ほゆるかも
私訳 沫雪が庭にまだら模様に降り積もると、奈良の京を思い出されます。

集歌1848 山際尓 雪者零管 然為我二 此河楊波 毛延尓家留可聞
訓読 山し際(は)に 雪は降りつつ しかすがに この河(かは)楊(やなぎ)は 萌(も)へにけるかも
私訳 山の稜線に雪は降り続けている。目に見る景色はそうなのですが、この川楊は春の季節が来たと芽が萌えだしたのでしょう。

集歌2314 巻向之 檜原毛未 雲居者 子松之末由 沫雪流
訓読 巻向(まきむく)し 檜原(ひはら)もいまだ 雲居ねば 小松し末(うれ)ゆ 沫雪流る
私訳 巻向の檜原にもいまだに雪雲が懸かり居るからか、垂れた小松の枝先の積もった沫雪が流れ落ちる。

集歌2334 沫雪 千里零敷 戀為来 食永我 見偲
訓読 沫雪(あはゆき)し 千里(ちり)し降りしけ 恋ひしこし 日(け)長き我は 見つつ偲(しの)はむ
私訳 沫雪よ。目の前に広がるすべての里に降り積もれ。今までずっと貴女を恋い慕ってきた、所在無い私は、降り積もる雪を眺めて、昔に祭礼で白い栲の衣を着た貴女の姿を偲びましょう。


 おまけですが、次の大原真人今城が詠う集歌4475の歌は柿本人麻呂歌集に載る集歌2334の歌に対する本歌取り技法で詠った歌です。集歌2334の歌の「戀為来」は場合により「こいしくの」とも訓むことが出来ますので、違いはわずかに四句目だけとなります。時に大原今城の恋しい相手とは柿本人麻呂の歌々かもしれません。もう一つ、四句目の「於保加流(おほかる)」からは「多ほかる」と「凡ほかる」との二つの意味が取れます。その姿はちょうど、表記方法を含めて『古今和歌集』の歌と同じ世界の歌です。当然、宴で大原今城の歌を鑑賞する人々は、ここでの説明は承知の事柄です。

集歌4475 波都由伎波 知敝尓布里之家 故非之久能 於保加流和礼波 美都々之努波牟
訓読 初雪は 千重に降りしけ 恋ひしくの おほかる吾は 見つつ偲(しの)はむ
私訳 初雪は幾重にも里に降り積もれ。物恋しい気持ちが募り、気がそぞろな私は、雪一面の里の様子を眺めて物思いをしましょう。


 終わりに、ここでは雪と梅花とを詠う歌はあまり紹介しませんでした。万葉集には多くの雪と梅花とを詠う歌がありますが、これは次回、梅花の歌を楽しむ時に紹介します。
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万葉雑記 色眼鏡 五十八 白亀元年調布の礼

2013年12月21日 | 万葉集 雑記

万葉雑記 色眼鏡 五十八 白亀元年調布の礼

 今回は万葉時代の歌人たちがどのような漢籍を参考資料として使っていたのかについて空想し、与太話をしています。
 なお、題目としました「白亀元年調布の礼」は多治比県守を遣唐大使とする遣唐派遣団が学問伝授の謝恩として、中国の故事「白亀の恩」を引用した上で、正式に大唐から学問伝授を受けたこの年(717)を報恩元年とし、その証として調(みつぎ)の布を鴻臚寺に掲げたことを伝える言葉です。中国からの正統な書籍や学問の将来を考えるときに重要なキーワードとなるものです。
 最初に確認のため有名な漢文章とその訓読みを示します。なお、、「偽」は漢語と日本語では意味合いが違っていますから、日本語基準で漢文を決め打ちして訓読みすると、おかしなことになります。
<キーとなる漢文章>
原文:遺玄默闊幅布以為束修之禮、題云白龜元年調布。人亦疑其偽。
訓読:闊幅(=幅広い)の布を以て束修の禮と為し玄默に遺し、題に云はく「白龜元年、調(みつぎ)の布」。人、亦、その偽(=意味)を疑う(=いぶかしむ)。

 まぁ、漢文章「人亦疑其偽」とあるように「白龜元年調布」の意味を適切に理解することは中国の晋書に載る「白亀の報恩」の故事を知っていることが前提となりますから、ある一定の人でしか判らないと云うことになります。この漢文章作成の背景に当時の日本と唐との知識レベルの戦いがあることを理解しないと読解は無理かもしれません。「禮」に対しての「白龜」がミソです。

 さて、ここのところ柿本人麻呂に関する古い時代の書物を眺めていて気が付いたことですが、昭和中期のものに人麻呂の作品には山上憶良や大伴旅人では確認できる『文選』や『遊仙窟』の姿が見えず、また、『芸文類聚』も見えないとします。そこから人麻呂の人物像を推定して、彼は漢文に弱く、早く中級貴族(朝臣の身分)の子弟として舎人の身分で宮中に出仕をしたが、漢文章の能力に欠け、中年以降は役人としては能力不足により不遇であったと説明します。そして、『懐風藻』には彼の名が無いことから、その漢文章の能力に欠けていたことの証とします。
 実になるほどと思える指摘ですし、解説です。ただし、現代に伝わる『懐風藻』に名が無い有名な人物にもう一人、山上憶良がいます。当然、その人麻呂の解説ではこの憶良と現代に伝わる『懐風藻』との関係の考察を素通りしなければいけません。付け加えて、伊藤博氏はその『萬葉集釋注』で人麻呂歌集の歌に特徴的に使われる「惻隠」なる言葉は『孟子』の「公孫丑上」からの引用であろうと推定されています。現在、巻十二の載る集歌2857の歌を代表して、これらの歌は人麻呂作歌と考えられていますから、必然、人麻呂には『孟子』は自在であったと推定されることになります。研究が進むと同じ人物ですが、その人物像は大きく変わるようです。

 さて、与太話の最初として、御存知のように本来の『万葉集』の姿は、漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された短歌や長歌などの大和歌の歌集です。現代によく目にする「漢字ひらがな交じり」表記の和歌集ではありません。あくまで漢語と漢字が主体ですし、万葉仮名としての漢字文字も、その漢字が持つ表語文字の力を使い、時に音字の借字とするだけでなく語意もまた使うような表記方法です。何度か紹介しましたが、次に例題を挙げます。万葉仮名ですが漢字では志の卑しき者を表す「奴」と中医学では女性器を示す言葉である「金丹」の文字を絶妙に使っている所を感じて頂ければ、本来の『万葉集』の姿がよく判ると思います。

集歌2664 暮月夜 暁闇夜乃 朝影尓 吾身者成奴 汝乎念金丹
訓読 夕(ゆふ)月夜(つくよ)暁(あかとき)闇(やみ)の朝影(あさかげ)に吾(あ)が身はなりぬ汝(な)を念(おも)ひかねに
私訳 煌々と輝く夕刻に登る月夜の月が暁に闇に沈むような朝の月の光のように私は痩せ細ってしまった。貴女への想いに耐えかねて。
裏歌の解釈
試訳 夕暮れの月夜から明け時の闇夜まで(愛を交わして)、その明け時の光が作る影のように弱々しくなるほどに私の身は疲れてしまった。でも、また、貴女の“あそこ”を求めてしまう。

 さて、最初に紹介しましたように、現代に平安時代の和歌や物語を研究する時、国文学の研究者は中国文芸、特に『文選』、『白氏文集』、『遊仙窟』、『芸文類聚』などからの影響に注目します。その視線から『万葉集』の歌にも中国文芸の影響を検討しますし、その検討において、作品成立の時代性から『文選』や『遊仙窟』の影響を特に探ります。確かに、このブログで紹介しましたが、大伴旅人と藤原房前との相聞を鑑賞するには『文選李善注(又は文選六十巻本)』は外せないものです。逆に二人の相聞には『文選李善注』を前提としているものがありますので必須的なものです。ここで、参考として、この話題については、弊ブログ「万葉雑記 色眼鏡 その十九 梧桐日本琴の歌」などを参照下さい。

 歴史において、初期万葉集の時代、『白氏文集』はまだ成立していませんから『白氏文集』を使い、初期万葉集を解説することは基本的にありえません。では、『白氏文集』以前に成立した『文選』や『遊仙窟』などが大和の文芸に対してどの時代まで遡り影響を与えていると考えることが出来るのでしょうか。そこで『遊仙窟』について文献を調べてみますと、現代での研究では昭和三十年代に小島憲之氏はその著書『上代日本文学と日本語 中』の中で『遊仙窟』は一般に第八次遣唐使の帰国年である養老二年(718)以前に遡ることはできないとしています。時代の上限は、ほぼ、この辺りが定説のようです。
 一方、『文選』についてはどうでしょうか。この『文選』についての研究が難しいのは、『文選』自体が春秋戦国時代から梁時代までの文学者131名による賦・詩・文章の800ほどの作品を収録した秀文類聚の作品であることです。このため、単純な方法での『文選』に載る語句を使い『万葉集』への検索を行うことが出来ないのです。『文選』自体が先行する文芸の秀文類聚ですから、『万葉集』に対する検索で該当したものが本来の原文からの引用のものなのか、『文選』に載る原文エッセンスからのものなのかの区別は付けられません。他方、唐代に作られた『文選』の註釈書である『文選李善注』は本質が註釈ですから、語句を使い『万葉集』への検索を行った時、註釈の有無や使われる語句の解釈などにより、その影響を判断できる可能性があります。従いまして、『文選』の影響研究では『文選(文選三十巻)』と『文選李善注(文選六十巻)』との区別を明確化することが必要です。
 さらに『万葉集』への中国の文芸からの影響を考える時、もう一つの問題点はその中国文芸の書物の将来時期はいつなのかと云うことを明らかにしないと評価が出来ないことです。先に紹介しましたが大伴旅人や藤原房前は語句引用と作品の本質を検討しますと確実に『文選李善注』を身に着けています。従いまして、時代と遣唐使派遣のタイミングを考えますと多治比県守が大使を務めた第八次遣唐使が帰朝した養老二年の時か、それ以前に将来しています。個人の感覚ですが、奈良から平安時代の文芸の基盤を作るのに必要な中国からの書籍の大半は第八次遣唐使が将来したであろうと考えています。
 ところで、万葉時代以前に漢字辞典である『説文解字』は将来していたでしょうから、漢字や漢語を使い表現する文章に対して単純なる語句検索からの類似を示すだけでは文芸作品の影響評価とすることはできません。つまり、当たり前のことですが単語が共通することと文芸作品からの影響とは区別しなければいけません。内実が影響されているかどうかです。『説文解字』に載る語句との類似を検索すれば、全ての万葉集作品は重複するはずです。これと同様に、山上憶良が宮中での乞巧奠を歌に詠っているから、その作品は『文選』や『荊楚歳時記』の影響下にあるとするのは論理の暴走です。もし、その論理が許されるなら2月や12月の歳時風景を記した現代小説の多くは聖書の影響下にあると云うことになります。当然、現代小説評論家に、そのような評論態度を取る人はいないでしょう。現代人の現代小説へのアクセス状況を勘案して、評論家は作品内容を熟読して海外作品からの影響を評論するはずです。論拠においてキリスト、バレンタイン、クリスマスなどの単語が聖書に載る言葉と類似している、重複していると云うだけでは、まず、相手にされません。内実です。

 ここで第八次遣唐使に注目をしたいと思います。この第八次遣唐使は従来の遣唐使たちとは違い「白龜元年調布」と云う「束修之礼」を大唐の天下に示し、玄宗皇帝から「須作市買、非違禁入蕃者、亦容之」の勅許を得て、「所得錫賚、盡市文籍」と云うことを行っています。これは日本と中国との外交関係では重大な事件です。
 従来、大唐は朝貢等による管理貿易を行っており、戸籍の規定から役所に対して営業及び納税登録が出来ない外国人は市場での物品売買の権利を持っていません。市場は各都市に置かれた市署と云う役所が管理しており、また、外国との交易を行う都市の市署では市令や市丞が交易を管理していました。交易を希望する外国人は市署から許可を受け、営業及び納税登録である市籍に載る中国人商人を通じ、許可された物品の売買を行うことになっていました。他方、先端技術、行政、軍事に関係する書籍や技能者は貿易禁制品目ですから、遣唐使の人々であっても特別な許可がないと購入が出来ません。また、管理貿易ですから市署の承諾が無いと日本から持ち込んだ物品(水銀、延銀、絹織物など)を市場で売却し、書籍等の購入資金を得ることも出来ないのです。ところが、この第八次遣唐使は玄宗皇帝から広範囲の市場での売買許可を得たようで、長安の書籍をことごとく購入して日本に持ち帰ったと当時の中国の人が驚き、正史に載せるような行動を取っています。そして、この第八次遣唐使は総勢557人の四船団構成で大唐に赴き、無事、全四船団が無傷で帰朝しています。つまり、長安での玄宗皇帝から大量の書籍購入の勅許や派遣した大船団が全て無事に帰朝した事項からして、推定で、ほぼ、このときに奈良・平安時代の大部分の書籍は将来されたものと考えます。
 当然、留学生や学門僧の往来記録などから推定して朝鮮半島経由での日本と中国との民間レベルでの交易はありました。しかしながら、日本側から見て貿易禁制品目に該当する書籍の交易に自由性がありません。民間交易で将来する書籍を全て朝廷が購入したとしても、欲しいものが常に将来する訳でもありませんし、民間レベルではその質が限定されたと考えられます。その制約を想像しますと、やはり、第八次遣唐使が有力な候補ではないでしょうか。

 さて、先ほど「白龜元年調布」と云う「束修之礼」を大唐の天下に示したことが日本と中国との外交関係では、重大な事件であると紹介しました。正式な公表ではありませんが「白龜元年調布」の言葉は日本が文化面では中国の門弟となることを認めたと云うことで、従来の遣隋使や遣唐使などが見せていた両国対等の立場での友好を交わすことや軍事同盟を結ぶことを目的とする使節団からの転換を示しています。ただし、多くの大唐の人々が「白龜元年調布」の言葉を理解出来たか、どうかは、第八次遣唐使の人々にとっては関係のないことです。玄宗皇帝が理解したか、どうかです。玄宗皇帝やその臣下群は「調布」の意味合いを狭く「束修之禮」だけでなく、広く「来朝」までに拡大解釈したと想像します。
 従いまして、玄宗皇帝が遣唐使一行に長安での「所得錫賚、盡市文籍」と云う行動を特別に許したことは、玄宗皇帝やその周囲の人々のプライドを存分に満たした結果と考えます。従来、隋の煬帝や大唐の高宗でもなしとげられなかったことですが、この玄宗皇帝の時代にその治世に靡いて朝貢して来た大和を、大和自身の意思表示から臣下(日本側は文化での門弟)に従えることが出来たと云うことは非常に気持ちがよかったのではないでしょうか。
 参考にこの「白龜元年調布」の文言を説明しますと、「白龜」の語句は『晋書』巻八十一列伝第五十一に載る「毛宝白亀」の故事に因るもので、元号などではありません。玄宗皇帝の計らいからの四門助教である趙玄默による日本に対する正式な総合的古典教養に対する授業への報恩の表しであり、その恩への調ぎの布と云う意味です。つまり、日本は学問では門弟の礼を取り、その報恩の表しをこの玄宗皇帝開元五年を以って元年としますと云う意味です。推定で故事の載る『晋書』は第七次遣唐使が則天武后の長安三年(703)に拝受したものと考えます。
 そして、その十年の後、再び、大唐の都、長安に姿を見せた日本の遣唐使はその拝受した書籍を隅々まで読み込み理解し、そして、そこに載る多くの書籍の下賜とそれらの書物の正統な解釈教授を求めたものと思われます。この要求や態度は大唐の役人や学者たちの大いなるプライドを満たす行為だったと想像します。当然、ある程度の書籍は朝貢した日本に下賜されたと思いますが、諸外国とのバランスから日本の要求を満たす全ての書籍を下賜することは出来なかったと考えます。それで市場からの購入を認めたのではないでしょうか。また、『文選』にも『文選李善注』の註釈書が有名なように正統な解釈の伝授は重要な事項です。
 ここまでの解説に追加して、旧唐書文中の「人亦疑其偽」の句は「束修の礼に対して、この言葉は何を示すのかと人々は訝しんだ」と解釈するのがよいと愚案します。およそ、「偽」の字源には「人の仕業」なる意味もあります。この追加説明のように漢文註釈は重要です。一般には、紹介した句に対し、「布には『白亀元年調布』と書いてある。人はその真偽を疑った」と解釈し、その解釈の背景として「日本での元号や律令体制の成立などの高度な社会成立を唐の人々は疑った」と解説するようです。ただ、その時、読解において文脈全体と「為束修之禮」との整合が難しい所です。つまり、訓読み文が日本語の文章になりません。

 このような推定から『万葉集』を検討する時、養老二年以前と以降では影響を受けたであろう漢籍の分量や内容が大きく違うと考えます。
 では、その養老二年以前ではどのような書籍があったのかと云いますと、『日本書紀』などは最初の伝来書籍は朝鮮半島からの『論語』と『千字文』とします。当然、漢字辞典に相当する『説文解字』もまた早い時期に伝来したと考えられます。また、現代の『日本書紀』の研究からその内容において『詩経』・『書経』・『礼記』・『春秋左氏伝』・『孝経』・『論語』・『孟子』・『荀子』・『墨子』・『韓非子』・『管子』・『史記』・『文選』などの漢籍に載る言葉が散見されるとしますし、聖徳太子の『三教義疏』からは『勝鬘経』・『維摩経』・『法華経』の存在は確実です。特に『万葉集』巻五の作品群は多大に『維摩経』と『法華経』の影響を受けていますから、それらは『万葉集』では重要な書物の一つです。一方、漢籍名称は不明ですが神仙道教関係の書籍が道教僧と共に斉明天皇時代以前には将来していたことは確実ですし、神仙道教に関連して中医書、特に内丹術関係書籍の伝来もしていたと考えます。およそ、網羅的ではありませんが、基本的な漢籍は初期万葉集の時代以前には将来していたものと考えます。
 その具体的な例として、歌が詠われた時期が確定できる初期の柿本人麻呂の作品となる草壁皇子への挽歌の背景には神仙道教が確実にありますし、延喜式に載る祝詞もまた神仙道教と『史記』や『墨子』の影響を強く受けています。指摘しておきますが、天皇(大王)が自ら泥田に入り農作物を育て、神に奉げると云う発想は『史記』と『墨子』の世界です。中国や朝鮮半島が最も重要視した『論語』に代表される儒教からの帝王学には無い世界ですし、伊勢皇太神宮の遷宮式には『道教』の影響があるとします。

 今回の記事の最初に人麻呂の歌には『文選李善注』や『遊仙窟』の姿が無いとし、そこから人麻呂の漢籍への読解能力を疑う解説を紹介しました。しかし、結局は、そのような説を唱える人物は漢籍将来の時代認識が不足していて、語句検索の方法が対象とする人物や時代に対して相応しくなかったと云うことではないでしょうか。それはちょうど『白氏文集』の語句を使い、『懐風藻』の研究をするようなものです。人麻呂の時代、漢字漢文が人々の間に広まり、また、日本語表記である万葉仮名の文字の整備が進んだ時代です。つまり、文字文学黎明期と考えてもよい時代です。そのような時代に教養階級は漢字漢文と万葉仮名文字が自由自在であり、『文選李善注』や『遊仙窟』は必須であったと暗黙下に仮定する研究態度とは、いかがなものでしょうか。
 他方、逆な視線で時代を眺めますと、万葉仮名が不整備な時代、将来した全ての漢籍は中国語原本そのままの姿です。訓点付けはありません。つまり、人麻呂時代、漢字漢文が自由自在でなければ書籍は読めませんし、歌を詠い記録することもできません。最初に紹介しましたような専門家の想いとは違い、『万葉集』は漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された歌集であって、専門家が使う校本版の「漢字ひらがな交じり」表記でのものではありません。およそ、語句の由来を漢籍に見る作業以前に、万葉集原文での使われる一字一字の文字に対し『説文解字』により研究するのが先なのです。使われる文字を単なる音字として扱うには時代が早すぎます。人麻呂の作品に『文選李善注』や『遊仙窟』に共通する語句が無いと云うことがそのままに人麻呂が漢字漢文を読めなかったとの推定を補強したり、裏付けたりするものでもありません。伝来していなかったとの推定だけです。人麻呂の文字への態度について弊ブログ内の「色眼鏡 9 表記について」を参照下さい。そこでは万葉集歌262 「矢釣山木立不見落乱雪驪朝楽毛」の歌を例に取り、説明しています。掻い摘んで紹介しますと、『説文解字』では歌のキーワードとなる「驪」について「馬深色。从馬麗聲」と説明します。そうした時、人麻呂が冬の真っ黒い雪雲から白雪が降り来る情景を「雪驪」の二文字で表わしたとしたならば、大唐の詩人もびっくりの才能ではないでしょうか。
 ここでの例題参考として柿本人麻呂が詠う草壁皇子の挽歌の背景には神仙道教の姿があることについて紹介しますと、「天つ水」と詠う挽歌はまず中臣寿詞の世界を引用します。その中臣寿詞は神仙道教の下元三品五気水官洞陰大帝の神聖な水と登仙思想を引用し、天上の神聖な御井と地上の御井との関係を明らかにします。この思想の流れから人麻呂時代には神仙道教が存在していたことが確認出来ます。ただ、この神仙道教などは今日の正規の学問の対象ではありませんから、国文学の専門家にとってそれは学問的に存在しない世界です。

万葉集巻二 集歌167 日並皇子尊殯宮之時、柿本朝臣人麿作歌一首より抜粋
原文 四方之人乃 大船之 思憑而 天水 仰而待尓
訓読 四方し人の 大船し 思ひ憑みに 天つ水 仰ぎに待つに
私訳 皇子が御統治なされる国のすべての人は、大船のように思い信頼して、大嘗祭を行う天の水を天を仰いで待っていると、

引用先の祝詞
中臣寿詞より抜粋
原文 天玉櫛事依奉 此玉櫛刺立 自夕日至朝日照 天都詔刀太諸刀言以告 如此告。麻知弱蒜由都五百篁生出 自其下天八井出 此持 天都水所聞食事依奉。

訓読 天の玉櫛(たまくし)を事依(ことよ)し奉(まつ)りて、此の玉櫛を刺立て、夕日より朝日照るに至るまで、天つ詔(のり)との太詔(ふとのり)と言(ごと)を以て告(の)れ。此に告らば、麻知(まち)は弱蒜(わかひる)に斎(ゆ)つ五百(いほ)篁(たかむら)生(お)ひ出でむ。其の下より天の八井(やゐ)出でむ。此を持ちて、天つ水と聞こし食せと、事依し奉りき。

私訳 神聖な玉串の神意をお授けになって、「この玉串を刺し立てて、夕日の沈むときから朝日の刺し照るときまで、中臣連の遠祖の天児屋命の祝詞と忌部首の遠祖の太玉命の祝詞を、声を挙げて申し上げなさい。そのように祝詞を申し上げれば、トで顕れる場所には若い野蒜と神聖な沢山の真竹の子が生えて出ている。その下から神聖な天の八井が湧き出るでしょう。これを持って、天つ水と思いなさい」と神意をお授けになった。


 最後に雑談の雑談です。
 「白龜元年調布」の言葉は長安で遣唐大使多治比県守の承認の下、阿倍仲麻呂たちにより選定され、鴻臚寺に掲げられたものと思われます。しかしながら、この言葉が意味するものは従来の日中交流での日本側の基本的立場の原則を根本から変えるものです。従って、この対応は現地での全権を握るとは云え、遣唐大使多治比県守の一存では無かったと考えます。およそ、第八次遣唐使の派遣段階から大和朝廷の意思は膝を屈してでも先端の技術と学問の教えを請うと云うものであったと想像します。その朝廷の意思により四船団557人もの大派遣団が編成されたのでしょうし、当時の天下の秀才である阿倍仲麻呂、吉備真備、井真成、玄たちが選抜されたのでしょう。また、その大和朝廷の下した決定を大唐もまた「善」としたと思われます。
 では、誰がこのような外交原則の大転換を行ったのでしょうか。個人の想像ですが、長屋王と思いますし、彼以外では出来ない重大な決断と思います。不思議に養老から神亀年間、この時代の外交は非常に功利的です。名より実をとり、大唐、新羅、渤海などとは非常に友好な関係が築かれています。 その結果が長安の市中から「盡市文籍」と云う言葉を生まれたような古代に於いては知識略奪に等しい相手国での書籍の大量収集であったと考えられます。また、この功利主義の結果が大唐への渡航ルートにおいて対馬海峡、朝鮮半島西沿岸、山東半島を経由し、大陸沿岸を蘇州へと南下する新羅船と同じ安全な北ルートの選択を可能にしたと想像します。
 これは名分を重んじた天平年間以降とは極端に違います。長屋王がクーデターで殺害・排除された天平年間以降は新羅との関係は悪化し、そのために大唐への渡航ルートは朝鮮半島沿岸経由を避け、運を天に任せるような東シナ海直行となる南ルートを選択するようになります。


 さて、あと数年で日中文化交流では重大な転機の年となる「白龜元年調布」からすると千三百年となります。それを目途に日中の文化人が音頭を取り、正式な日中友好ルートによる大量な漢籍日本伝来を祝い、また、それらの漢籍が今に残ることを両国の友好の証とすることは出来ないものでしょうか。それが、日本が約束した文化伝承での報恩ではないでしょうか。
 最後、非常な脱線事故を起こしました。反省です。


参考資料
旧唐書 日本伝、長安三年(703)より
長安三年、其大臣朝臣真人来貢方物。朝臣真人者、猶中國戸部尚書、冠進冠。其頂為花、分而四散。身服紫袍、以帛為腰帶。真人好讀經史、解屬文、容止温雅。則天宴之於麟殿、授司膳卿、放還本國。

旧唐書 日本伝、開元五年(717)より
開元初、又遣使来朝。因請儒士授經、詔四門助教趙玄默就鴻臚寺教之。乃遺玄默闊幅布以為束修之禮、題云白龜元年調布。人亦疑其偽。所得錫賚、盡市文籍、泛海而還。其偏使朝臣仲滿慕中國之風、因留不去、改姓名為朝衡、仕歴左補闕、儀王友。衡留京師五十年、好書籍、放歸郷、逗留不去。

冊府元亀170 帝王部 來遠、開元五年(717)より
唐玄宗開元五年十月乙酉、鴻臚寺奏、日本国便請、謁孔子廟堂、礼拝寺観。従之。

冊府元亀974  外臣部 褒異、開元五年(717)より
唐玄宗開元五年十月乙酉、鴻臚寺奏、日本国便請、謁孔子廟堂、礼拝寺観。従之。仍令州県金吾相知、検校溺捉、示之以整応、須作市買。非違禁入蕃者、亦容之。

四門助教について、四門学とは中国大学教育機関の一つであり、助教はその機関の助教授。中国の教育制度では国士監の下に総合古典教養を教育する機関として大学があり、出身身分ごとに国子学(身分三品以上)、太学(身分五品以上)、四門学(身分七品以上または身分を問わず選抜試験合格者である俊士)の教育機関で教育を受けた。他に専門教科の教育機関として律学、算学、書学があった。総合古典教養のカリキュラムには九経(易経・書経・詩経・周礼・儀礼・礼記・春秋左氏伝・春秋公羊伝・春秋穀梁伝)があった。
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「職業人としての柿本人麻呂」 ブログ本の出版について 

2013年12月21日 | 万葉集 雑記
「職業人としての柿本人麻呂」 ブログ本の出版について

 柿本人麻呂の職業やその家族などについて、このブログに載せましたものを編集して「職業人としての柿本人麻呂」と云う題名で、ブログ本というジャンルから出版いたします。当然、素人のブログ本と云うものですから、出版に際して、わずかにアマゾン様だけから、その取り扱いを許可して頂けることになりました。

 出版物の参考としまして、「職業人としての柿本人麻呂」の目次構成は、次のようになっています。

はじめに
第一章 氏族社会の和珥族と柿本臣
 職業人としての柿本人麻呂を考えるにあたって
 柿本人麻呂の氏族を考える
 和珥族と柿本臣
 大国主命と高市皇子
 物部氏と和珥族の関係
 和珥族の祭神と金属製錬
 飛鳥池遺跡群から奈良大仏へ
 銅及び銀の製法
 少し休憩して
第二章 職業人としての柿本人麻呂
 若き柿本朝臣人麻呂の行動域
 柿本人麻呂と三神社縁起
 人麻呂と長門国の銅鉱山
 官人柿本朝臣人麻呂の職務と官位
 柿本一族と飛鳥池生産工房
 天武十年十二月の柿本朝臣佐留の叙位に関して
 田中臣鍛師
 田部連国忍
 柿本臣佐留
第三章 柿本朝臣人麻呂の家族と祭祀
 柿本朝臣と柿本朝臣佐留の子孫
 柿本朝臣人麻呂の妻たち
 軽里の妻
 石見国の妻
 引手山の妻
 依羅の妻
 柿本人麻呂と人丸神社
  和歌の聖 人麻呂
  鍛冶や火事の人丸神社
  祖神としての人麻呂神社
おわりに
参考資料
 柿本朝臣人麻呂の推定年譜と関連万葉集歌
 日本後紀 弘仁四年(八一三)十月丁未(廿八)の条
 鉱山開発年表
 江戸時代の阿仁銅山のデータ


 もし、興味がありでしたら、お手にして頂ければ幸いです。
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万葉雑記 色眼鏡 五十七 催馬楽と万葉集

2013年12月14日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 五十七 催馬楽と万葉集

 今回、知っている人は知っていると云う催馬楽を取り上げたいと思います。催馬楽は奈良時代後期から平安時代初頭に興り、平安時代中期以降には今様に取って代わられ衰退し、鎌倉時代までには歌われなくなった宮中歌謡です。お気付きのように、催馬楽と万葉集歌とは同じ時代の同じジャンルの娯楽として、その時代での関係を考えることが必要なものなのです。
 催馬楽と万葉集歌との関係を見る前に、知る人は知ると云うこの催馬楽について説明しますと、ネットでは次のような解説を見ることが出来ます。

<催馬楽の解説案内>
催馬楽(さいばら)は、平安時代に、民間の流行歌や民謡などの詞章を題材に雅楽風の旋律によってつくられました。歌には、現在では笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、龍笛(りゅうてき)、琵琶(びわ)、箏(そう)の伴奏が付きます。独唱者の打つ笏拍子(しゃくびょうし)は、歌唱者と伴奏者の間を調整する役割があります。

催馬楽とは、もともとは庶民達の口ずさむ詩に、貴族達が編曲し、楽器の伴奏を付けたものと言われています。各楽曲の由来は、それぞれいろいろと考えられます。
例えばある詩は、天皇の即位の時に今でも行われる「大嘗会」での神事を行う際に撰定される、「悠紀地方・主基地方」の民謡が原点であったり、またある詩は、農民が租税として米や穀類、布、特産物などを運ぶ時に歌った歌や、仕事歌、わらべ歌からきていたりと、楽曲毎に由来はいろいろあるようです。
もともと民衆の口づさみから出来ているためか、中国の漢詩にメロディーをのせた「朗詠」とくらべると、催馬楽は詩もメロディーもどこか庶民的な雰囲気で、また力強い印象も受けます。
催馬楽は数人のヴォーカリストで歌いますが、冒頭は「句頭」と呼ばれる独唱者のソロで始まり、ワンフレーズを独唱した後に付所で全員で斉唱、楽器の伴奏が加わります。
催馬楽の演奏は、現在では笙、篳篥、龍笛、琵琶、箏の伴奏が付きます。また句頭は笏拍子を打ちながら歌います。

催馬楽は、民間の俚謡や流行歌の類が、貴族の宴席の「歌いもの」にとりいれられたものである。このなかには貴族の新作和歌や新年の賀歌も加わり、また大嘗会の風俗歌がはいっている。室町時代の楽書『體源抄』には「風俗は催馬楽よりは述べて歌うべし」「風俗は拍子あり。多くは催馬楽拍子なり」の記載があり、両者の楽曲の類似性が示唆されるほか、現代に伝わる歌詞の内容もほぼ同類であって、風俗歌と催馬楽とは互いにきわめて近い性質をもっていたと考えられる。ただし、風俗歌が東国を起源とする歌謡であるのに対し、催馬楽はより都に近い地方を発生地とすることが明らかとなっている。
『日本書紀』天武四年(675)条には、大倭、河内、摂津、山背、播磨、淡路、丹波、但馬、近江、若狭、伊勢、美濃、尾張等の諸国から歌を能くする男女が朝廷に貢がれたという記事があり、藤田徳太郎は、これらの国名が催馬楽の歌詞の含む国名とほぼ全て一致していることを指摘している。このことより、古来朝廷との交渉が密であった上記の諸国は一度のみならず風俗歌を奉っていたものと推定され、催馬楽は、このような長く繰り返されてきた慣行ののち、地方出身の歌謡が外来音楽による編曲を受けたものであろうと考えられる。
多様な歌詞内容から考慮して、催馬楽は奈良時代の末から平安時代の初めにかけて発達、成立したものと考えられる。それが宮廷歌謡として雅楽化されたのは平安時代前葉と推定される。

 以上、催馬楽の解説を紹介しました。
 解説では研究者が天武天皇に所縁を求める態度から推測しますと、この催馬楽の作品と『万葉集』に載る歌は、ほぼ、同じ時代に発展整備された詩歌・歌謡であろうと思われます。こうした時、平安初頭期は漢風文化全盛期にあり国風暗黒期であったと称される時代ですが、そのような現代に伝わる作品の数だけに根拠を頼る表面上のことがらだけではなく、歴史の色眼鏡を外し、実態を見詰め直しますと、現代に通じる和風文化の底辺を形造った和歌、催馬楽、神楽歌などの芸能は平安時代初頭の漢風文化全盛期と称される嵯峨天皇から仁明天皇の時代に最初のピークを迎えたと考えられます。良く知られる『古今和歌集』での第一期の歌人が活躍したのもこの時期ですし、今回、話題にしています催馬楽も第一期の流行期を迎えています。およそ、その背景には嵯峨天皇やその皇后橘嘉智子たちの好みが色濃く反映されているのではないでしょうか。
 その催馬楽の整備伝承では重要な位置にあるとされる広井女王について、ネット検索では次のような解説を見ることが出来ます。

<広井女王の解説案内>
天長八年(831)従五位下、尚膳となる。嘉祥三年(850)従四位上、権典侍となる。仁寿四年(854)従三位。天安三年(859)、尚侍となる。同年十月薨去。ときに八十余歳。
薨伝には「少くして徳操を修め、挙動礼あり。歌を能くするを以て称せられ、特に催馬楽歌を善くする。諸大夫及び少年好事の者、多く就きて之を習ふ」とある。また、『和琴血脈』においては、広井女王は嵯峨天皇より伝授され、広井女王から仁明天皇と源信へと伝授されている。『河海抄』においては、嵯峨天皇から広井女王へ和琴の曲が伝授され、一時中絶した後、慈賀善門から仁明天皇と源信に伝承されている。

 ところで、一般に和歌は三十一音で表現すると云う音数律などに規定される律文学であり、催馬楽、神楽や今様は楽器の演奏に合わせて歌う自由詩の歌謡だと区分されます。この律文学である「ひらがな表記」の口唱で詠う和歌と歌謡のジャンルに収められる催馬楽が、共に、その姿を整えられたのが平安時代初頭期です。
 解説にありますように催馬楽は民衆の鄙歌に雅楽の伴奏曲を添え、音楽性を高めたものを楽奏の下に詠うものです。つまり、雅楽があって、初めて存在する歌謡のジャンルです。他方、その雅楽で使う楽器は主に奈良時代に輸入・紹介された楽器であって大和古来の楽器ではありません。奈良時代の文化全般がそうであるように雅楽もまた当初は輸入音楽であって、大和に生きる人々の生活に根差したものではありませんでした。
 その雅楽の歴史を探りますと、天平勝宝四年(752)の東大寺大仏開眼法要のおり、国風歌舞の五節舞、久米舞等と共に、外来音楽の唐楽、渤海楽、呉楽等が盛大に演奏されたと伝えます。これら楽曲は雅楽寮に所属する楽士により唐などからの輸入された外国の音楽として忠実に演奏されたと考えられ、まだ、大和のものではありません。
 次に、時代が下り弘仁四年(813)頃の記録によると、嵯峨天皇は楽奏での大和人の好みに合う新曲の製作を奨励し、正月の内宴で新作「最涼州」を演奏させ、又、南池院に行幸のときは、御自身が作られたといわれる「鳥向楽」が船楽で奏されたと伝えます。およそ、この頃までに輸入音楽を下にした楽曲が日本人の感性やリズムに合わせた和の楽曲へと転換し、出来上がったようです。そして、雅楽の歴史では、この弘仁から承和の時代にかけて、雅楽で演奏される秋風楽・十天楽・賀王恩・承和楽・北庭楽・央宮楽・海青楽・拾翠楽等、現在も伝承されている楽曲が続々と創られたと解説します。
 つまり、作品構成からしますと催馬楽は嵯峨天皇の時代の雅楽の新たな展開に合わせて出来上がった娯楽であり、余興のようなものであったと思われます。大和の国は中国儒教等を背景とする男尊女卑の文化ではなく、母系家族性を背景とするような男女対等の文化です。宮中での宴には皇后を始めとして女御や更衣たち、また、それに従う多くの女性が参集します。そのような宴で押韻・抑揚・リズムの規則や縛りを持つ中国語(それも中国正音の発音)による漢詩朗詠だけで娯楽が成り立つかと云うと、なかなか、そうはいかないと考えます。宴に和歌を添えたとしても、和歌は掛詞や本歌取の技法に添え、時に中国故事や漢語が持つ表語文字の力をも使って詠いますから、判る人には判るという類なものであって、漢詩が選ばれし者たちによる中国語で詠う詩歌と同様に和歌もまた優等な歌人たちだけの日本語で詠う詩歌であったと想像します。
 宴を砕けたものや、寛いだものにするには誰もが簡単に楽しみ理解が出来る催馬楽のような鄙の歌に最新の楽器の伴奏を添え大和のリズムで詠うものが必要だったと想像します。雰囲気として、催馬楽は公式の宴の後の二次会でのものではないでしょうか。このような想像と雅楽や催馬楽の歴史を考えますと、平安時代初頭期の、この時代を国風暗黒期と唱えることはキャッチコピーとしては秀逸ですが、学問的には大和国の文学・歌謡の歴史をまったく理解が出来ていないと云うことを白状しているようなものでしょう。

 さて、下らない与太話はさて置き、催馬楽の歌詞を紹介します。本来は楽奏が必要ですが、諸般の事情にて歌詞のみでの紹介となります。なお、歌は清音表記による「ひらがな歌」で紹介し、近代の「漢字ひらがな交じり歌」ではありません。当然、清音表記による「ひらがな歌」の場合は『古今和歌集』の歌と同じように同音異義語などで解釈の幅は大きく広がります。

催馬楽 我駒
いてあかこま はやくいきこせ まつちやま まつちやま
まつちやま まつらむひとを いきてはや いきてはやみむ
標準的な口語訳
さあ私の馬よ 早く歩み行き峠を越してくれ 真土山を 真土山を
真土山の その向こうで待っているだろう人に 行って早く 行って早く会おう

同様歌 万葉集巻十二 歌番3154
原文 乞吾駒 早去欲 亦打山 将待妹乎 去而速見牟
訓読 いで吾(あ)駒(こま)早く行きこそ真土山(まつちやま)待つらむ妹を行きに早見む
私訳 さあ、私の馬よ。早く行ってほしい。真土山の名前のように、私を待っている愛しい貴女を、帰り行って早く会いたい。

催馬楽 妹之門
いもかかと せなかかと いきすきかねてや
あかいかは ひちかさの ひちかさの あめもや ふらなむ
してたをさ あまやとり かさやとり やとりてまからむ してたをさ
標準的な口語訳
愛しいあの娘の家の門でしょうか 愛する男の家の門でしょうか その前を通り過ぎることは出来ないよ
私がその家の門を行くならば ちょっと肘を笠にする ちょっと肘を笠にする そのようなにわか雨でも降って欲しいよ
幣垂の田長よ 雨が降る間の雨宿りだ 笠がわりの雨宿りだ 雨がやむまで休んで出かけよう 幣垂の田長よ

同様歌 万葉集巻十一 歌番2685
原文 妹門 去過不勝都 久方乃 雨毛零奴可 其乎因将為
訓読 妹し門(かど)去(い)き過ぎかねつひさかたの雨も降らぬかそを因(よし)にせむ
私訳 愛しい貴女の家の門を行き過ぎることが出来ず、遥か彼方の大空から雨も降って来ないだろうか。それを言い訳にしたいものです。

 催馬楽と『万葉集』を比較してみれば一目ですが、民衆の鄙歌に対し洗練された貴族のものと云う雰囲気があります。また、歌の変遷を想像しますと、最初に催馬楽の原歌となった鄙歌があり、次にそれが『万葉集』での題材として使用され形式美を持つ和歌となり詠われ、一方、別の方向として鄙歌に雅楽の伴奏が付き、ある種、流行歌として催馬楽の楽曲になったと考えられます。
 先に一般にされる解説文を載せましたが、催馬楽は笙、篳篥、龍笛、琵琶、箏(又は和琴)などの楽器伴奏が付くと云う特徴があり、楽しむにはある程度の支度や場面が必要なものです。従いまして、催馬楽が生まれるには雅楽の楽団を保持するような大貴族が個人の好みで鄙歌を採り、それに専門の楽士により楽曲を付けさせると云う作業が必要となります。確かに鄙歌が母体ですが、雅楽の伴奏が必要と云う時点で、大がかりで専門的なものにならざるを得ないことになります。そして、さらに催馬楽が時代に残るには、その作品は流行歌的なものですが時代を超えるだけの普遍性を持つ秀逸な作品であることが求められます。そうしたものだけが生き残ると云うことになります。
 以上、概説を紹介してきましたが、『万葉集』は嵯峨天皇の時代に古万葉集歌群の中から秀逸な短歌が選ばれ四巻本万葉集が選集されたのと同じ姿で、催馬楽もまた、国風暗黒時代と称される嵯峨天皇から仁明天皇の時代に都人の好みに合う鄙歌が採られ、それに雅楽が作曲・付与されたと考えられます。こうしますと、嵯峨天皇の時代とは、国風文化への視線からすると実に不思議な時代です。

 ただし、先に紹介しましたように催馬楽は雅楽の楽団を必要とする芸能です。その大仰な舞台装置が必要と云う弱点からか、平安時代中期以前に衰退を始め、今様というものに取って代わられてしまいます。その平安中期以前に、催馬楽に取って代わった今様は次のように解説され、扇や笏での手拍子で調子を取ることも可能な音曲を伴う歌謡です。そして、その付帯する音曲も場面に左右されることなく簡便に行うことを許し、扇や笏による手拍子や口ずさみでも行えるものです。また、内実において、他人に披露する和歌には論理的な思索が求められますが、今様では披露するものとしても即興や座興で「今」を詠うものですから論理より情理であり、口調が大切です。しかしながら、「今」を詠う点から催馬楽の鄙歌の歌詞より、詠われる内容や口調が貴族好みとなっています。その為か、催馬楽から今様への変化は催馬楽が全盛期に達した途端となる平安中期以前に早くも生じたのでしょう。

<今様の解説紹介>
主に七五調四句の形をとり,当時は長いくせのある曲調が特徴と感じられたようです。扇や鼓などで拍子をとる場合や楽器の演奏をともなう場合もあり,また即興で歌ったり,歌詞を歌い替えたりすることもありました。

今様の歌の例:
花の都を振り捨てて くれくれ参るはおぼろけか 
かつは権現(ごんげん)御覧ぜよ 青蓮(じょれん)の眼(まなこ)をあざやかに

遊びせむとや生まれけむ 戯(たぶ)れせむとや生まれけむ
遊ぶ子供の声聞けば 我が身さえこそ揺(ゆ)るがるれ

 今様は基本的に和歌とは違い催馬楽と同じ鄙歌であって下々のものです。出家し貴族階級から解脱した法皇や貴族が今様を男装した巫女に奏上を求めると、演者は後の白拍子と云うものになります。その今様は紹介しましたように七五調で歌が進行します。一方、万葉歌は主に五七調で進行をします。 いつの時代でしょうか、このように人々のリズム観は変化したようです。当然、『万葉集』の歌に七五調好みの人が訓点を付ければ、そのリズム感の相違と云う影響を避けることは難しいのではないでしょうか。その『万葉集』新点が付けられたのはこの七五調好みの今様全盛期の平安末期から鎌倉時代初めです。なお、そのリズムの変化が生じたのが下々の庶民からなのか、それとも上流貴族階級からなのかは、難しいところです。そして、御存知のように七五調と五七調では歌の句切れの位置が変わりますし、訓読みにおいて句切れの位置変化があれば語訳が変わるはずです。

柿本人麻呂の従石見國別妻上来時謌より抜粋
つのさはふ 石見(いはみ)し海の 言(こと)さへく 辛(から)の崎なる 海石(いくり)にぞ 深海松(ふかみる)生(お)ふる 荒礒(ありそ)にぞ 玉藻は生(お)ふる 玉藻なす 靡き寝(ね)し子を 深海松の 深めて思へど

 今回もまた、催馬楽と催馬楽から今様へについてのものが取りとめの無い話となりました。知っている人は知っていると云う話題を提供しましたが、ただ、色眼鏡を外して専門家が説明する解説を味わうと、その解説は時に結構いい加減ですし、おかしなものもあるのではと疑問を持つことがあります。また、『万葉集』を鑑賞する時、催馬楽と万葉集歌とのリズム感の比較と階級性についての研究、五七調から七五調への変化と階級構成人の変遷など、まだまだ、研究すべきことは多いようです。現代日本人は飛鳥時代から平安時代まで貴族階級を構成する出身人種には変化がないことを前提にしていますが、はたして、それでいいのでしょうか。色々、考えさせられます。
 およそ、唐以降の近代漢詩の鑑賞には押韻・抑揚・リズムの規則を理解する必要があるようです。さて、ご存知のように中国の人々は時代により北方、南方、西方など人種の入れ替わりが大きく、使う文字と文法が同じでも発声や文字の意味は日本に古音・呉音・正音が存在するように変化しています。従いまして秦・漢系、呉・晋系や隋・唐系の漢詩では鑑賞態度を同一とすることは難しいと想像します。
 このような視点を持ちますと、嵯峨天皇の父親である桓武天皇は宮中で育った人ではありません。官人として出仕するまで、諸王の一人として百済系の人々の生活の中で育った人です。一方、御子である平城天皇や嵯峨天皇は宮中で幼少期を過ごした人ではありませんが母系は阿部氏ですので、倭の古豪の文化を受け継いだと考えられます。幼少から青年期までの生活環境が人格や好みに大きな影響を与えるとしますと、桓武天皇と平城天皇や嵯峨天皇とは相当に違う生活環境にあったと考えられますので、その影響は無視できないのではないでしょうか。
 さてはて、嵯峨天皇はどのような好みの文化人だったのでしょうか。
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万葉雑記 色眼鏡 五十六 万葉仮名に見る万葉集と新撰万葉集

2013年12月07日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 五十六 万葉仮名に見る万葉集と新撰万葉集

 今まで『万葉集』の歴史や書記システムについて、数回に渡り与太話をして来ました。その与太話の中で『新撰万葉集』について触れましたが、今回は『万葉集』と『新撰万葉集』とで、その和歌表記を比較して、時代と表記方法の変化について考えて見たいと思います。

 現在、漢語と万葉仮名を使い楷書表記された詩歌集としては『万葉集』と『新撰万葉集』が有名です。『万葉集』は国語表記の黎明期から創成期のもので、『新撰万葉集』は国語表記の定着期の作品と考えています。
 御存知のように『新撰万葉集』は和歌と漢詩が対になった詩歌集で、その和歌はおおむね「寛平御時后宮歌合」で詠われた和歌を採用しています。その「寛平御時后宮歌合」の和歌は万葉仮名の草書体表記で記録されていただろうと想像していて、書道と云う観点からしても、まだ、変体仮名の連綿体表記にはやや早いと思います。草体書記では貞観九年(867)の「讃岐国戸籍帳端書(藤原有年申文)」が有名ですが、時代として変体仮名草書連綿(現代人には「ひらがな連綿」と視認される書体)が一般的な和歌書記スタイルとはなっていなかったと考えます。「寛平御時后宮歌合」が詠われた寛平元年(889)から『新撰万葉集』が成った平五年(894)の時代では和歌の表記は、まだ、漢字のイメージが強い草書体のものと考えています。つまり、時代として和歌と書道とはまだその芸術性において少し距離がある関係と考えています。
 ここで、『万葉集』に目を向けますと、『新撰万葉集』の序文とその後の平安時代の書籍から『新撰万葉集』の成立時点で、平城天皇による数十巻本の「古万葉集=平城古万葉集」とそれの抄本と思われる嵯峨天皇の四巻本の「古万葉集=嵯峨古万葉集」の存在が推定されます。つまり、『新撰万葉集』を編纂した時代には現在の「廿巻本万葉集」とは違いますが、その母体となった「古万葉集」は人々の中にあったと考えられます。
 以上の概況を踏まえて、『万葉集』と『新撰万葉集』とに載る和歌の書記表現を比較すると、『古今和歌集』が編纂される時代直前の平安貴族たちの『万葉集』への鑑賞態度が想像できるのではないでしょうか。要約しますと、『古今和歌集』を編纂した紀貫之たちは『万葉集』が読めたか、どうかと云うことです。
 なお、現在に伝わる『新撰万葉集』は「序」と「下巻序」や本文構成とが相違しています。『万葉集』も元明天皇の「原初万葉集」、孝謙天皇の「原万葉集」、平城天皇の「古万葉集」の変遷を経て現在の「廿巻本万葉集」が成立したように、『新撰万葉集』もまた二度以上の変遷を経て現在に伝わっています。そのため、平五年と延喜十三年では、「寛平御時后宮歌合」の和歌を万葉集調書記スタイルへの転換が微妙に違うと感じられます。(ここのところは、直観の感想で、精査をしたものではありません) 直観での仕分けではありますが、四季の歌について「廿巻本万葉集」の古歌と今歌、それと「平五年版新撰万葉集」との比較を紹介しようと思います。また、最後に、これも直観からの仕分けですが、平五年と延喜十三年との相違も紹介いたします。
 追加情報として、本来の『万葉集』や『新撰万葉集』の表記は句読点や句の区切りが無いものです。ここでのものは個人の解釈による区切りが入ったものであることを御承知願います。

春の歌
万葉集 古歌 巻十
集歌1812 人麻呂歌集
和歌 久方之 天芳山 此夕 霞霏微 春立下
読下 ひさかたの あまのかくやま このゆふへ かすみたなひく はるはたつらし

万葉集 今歌 巻十
集歌1933 読み人知れず
和歌 吾妹子尓 戀乍居者 春雨之 彼毛知如 不止零乍
読下 わぎもこに こひつつをれは はるさめの それもしること やますふりつつ

新撰万葉集 平五年
歌番13 藤原興風
和歌 春霞 色之千種丹 見鶴者 棚曳山之 花之景鴨
読下 はるかすみ いろのちくさに みえつるは たなひくやまの はなのかけかも

<夏の歌>
万葉集 古歌 巻十
集歌1939 読み人知れず
和歌 霍公鳥 汝始音者 於吾欲得 五月之珠尓 交而将貫
読下 ほとときす なのはつこゑは われもほり さつきのたまに かへてぬきなむ

万葉集 今歌 巻十
集歌1969 読み人知れず
和歌 吾屋前之 花橘者 落尓家里 悔時尓 相在君鴨
読下 わかやとの はなたちはなは ちりにけり くやしきときに あへるきみかも

新撰万葉集 平五年
歌番36 紀有岑
和歌 夏山丹 戀敷人哉 入丹兼 音振立手 鳴郭公鳥
読下 なつやまに こひしきひとや いりにけむ こゑふりたてて なくほとときす

<秋の歌>
万葉集 古歌 巻十
集歌2095 人麻呂歌集
和歌 夕去 野邊秋芽子 末若 露枯 金待難
読下 ゆふされは のへのあきはき うらわかみ つゆにそかるる あきまちかてに

万葉集 今歌 巻十
集歌2100 読み人知れず
和歌 秋田苅 借廬之宿 尓穂經及 咲有秋芽子 雖見不飽香聞
訓読 あきたかる かりほのやとり にほふまて さけるあきはき みれとあかぬかも

新撰万葉集 平五年
歌番49 佚名
和歌 白露之 織足須芽之 下黄葉 衣丹遷 秋者来藝里
読下 しらつゆの おりたすはきの したもみち ころもにうつる あきはきにけり

<冬の歌>
万葉集 古歌 巻十
集歌2334 人麻呂歌集
和歌 沫雪 千里零敷 戀為来 食永我 見偲
読下 あはゆきは ちりにふりしけ こひしこし けなかきわれは みつつしのはむ

万葉集 今歌 巻十
集歌2340 読み人知れず
和歌 一眼見之 人尓戀良久 天霧之 零来雪之 可消所念
読下 ひとめみし ひとにこふらく あまきらし ふりくるゆきの けぬへくそもゆ

新撰万葉集 平五年
歌番90 壬生忠岑
和歌 白雪之 降手積禮留 山里者 住人佐倍也 思銷濫
読下 しらゆきの ふりてつもれる やまさとは すむひとさへや おもひきゆらむ


『新撰万葉集』 想像での平五年と延喜十三年との相違
<秋の歌>
平五年
歌番71 壬生忠岑
和歌 甘南備之 御室之山緒 秋往者 錦裁服 許許知許曾為禮
読下 かみなひの みむろのやまを あきゆけは にしきたちきる ここちこそすれ

延喜十三年
歌番187 文屋康秀
和歌 打吹丹 秋之草木之 芝折禮者 郁子山風緒 荒芝成濫
読下 うちふくに あきのくさきの しをるれは うへやまかせを あらしなるらむ

<戀の歌>
平五年
歌番107 佚名
和歌 人緒念 心之熾者 身緒曾燒 煙立砥者 不見沼物幹
読下 ひとをおもふ こころのおきは みをそやく けふりたつとは みえぬものから

延喜十三年
歌番236 佚名
和歌 侘沼禮者 誣手將忘砥 思鞆 夢砥云物曾 人恃目那留
読下 わひぬれは しひてうすれむと おもへとも ゆめといふものそ ひとたのめなる


 以上、紹介しましたものから『万葉集』と『新撰万葉集』の平五年と表したものとを比べて下さい。特に使われている漢字に注目して頂くと、それぞれの使う文字は歌の世界との違和感の無い漢字を選択して使っていることが見えてくるのではないでしょうか。そして、最初にも説明しましたが、本来の詩歌集での和歌表記では次のようなものです。本来の表記を示されると、なおさら、それぞれで特徴ある相違を確認できないのではないでしょうか。

春の歌での比較紹介
和歌 久方之天芳山此夕霞霏微春立下 万葉集 古歌
和歌 吾妹子尓戀乍居者春雨之彼毛知如不止零乍 万葉集 今歌
和歌 春霞色之千種丹見鶴者棚曳山之花之景鴨 新撰万葉集

 ここで、再度、確認しますが、上記の作業では『万葉集』は「漢語と万葉仮名だけで表記された原文和歌」を個人の作業で「ひらがな和歌」に読み下しています。次に、『新撰万葉集』のものは「ひらがなに変換された一字一音の万葉仮名歌」を読下原文とし、それを「漢語と万葉仮名だけで表記した和歌」に平安貴族が表記変換したものの紹介です。それぞれの作業手順を比べると、その作業手順の方向は逆です。
 こうした時、『万葉集』と『新撰万葉集』との比較で、その和歌表記には違和感がないと云うことが、(これは個人の感覚だけかもしれませんが)、確認が出来ると思います。これを逆に見れば『新撰万葉集』を編纂した人物は『万葉集』を確実に読解し、楽しんでいたと推定されます。これが重要なことではないでしょうか。
 一般には『新撰万葉集』の「序」に「漸尋筆墨之跡、文句錯亂、非詩非賦、字對雜揉、雖入難悟」と云う文章があり、ここから『新撰万葉集』を編纂した時代には『万葉集』は読めない詩歌集になっていたと説明します。ところが、ここで紹介しましたように『万葉集』と『新撰万葉集』との和歌表記を比較すると同質なものであることからすると、「『新撰万葉集』を編纂した時代には『万葉集』は読めない詩歌集であった」と云う説明は、『新撰万葉集』自体を知らない人たちによる説明ではないかと云う疑惑を持たざるを得ません。例歌紹介が示すように「ひらがな和歌」を「漢語と万葉仮名だけで表記した和歌」に表記変換する人物が、その逆のことを出来ないと断定することは、難しいのではないでしょうか。
 およそ、『万葉集』を読解・理解しているからこそ、類型での表記が可能ではないでしょうか。従いまして、紹介しました歌表記の比較から『新撰万葉集』を編纂した時代と同時代人となる『古今和歌集』を編集した紀貫之たちは『万葉集』を十分に理解し、鑑賞していたものと考えます。

 次に、『新撰万葉集』原文を弊ブログに「万葉雑記 新撰萬葉集」として載せましたが、『新撰万葉集』は上巻が春歌廿一首、夏歌廿一首、秋歌卅六首、冬歌廿一首、戀歌廿首を載せ、下巻には春歌廿一首、夏歌廿二首、秋歌卅七首、冬歌廿二首、戀歌卅一首を載せています。異伝本ではさらに下巻に女郎花歌廿五首を載せた構成となっています。載せる歌数は上巻が一一九首、下巻が一三三首(女郎花歌を含めると一五八首)です。およそ、この構成や歌数は「序」に示す「仍左右上下両軸、惣二百有首」や「四時之歌に戀思之二詠を加えたもの」と云う姿とは違います。推測ですが、平五年に成った「新撰万葉集」と延喜十三年に再編纂された「新撰万葉集」は違うものと思われます。平五年のものは六部立構成で左右上下両軸、併せて二百有首ですから、それぞれの部は四季の歌がそれぞれ廿首、戀歌と述思歌が共に十五首前後ではなかったでしょうか。その後、菅原道真の失脚などの政変を経て、延喜十三年に述思歌を削り、女郎花歌を載せ、さらに各部に延喜十三年までの歌を若干追加したと考えます。そのため、現在、部立が変わり、上下巻で歌数のバランスが崩れ、総歌数も二五二首(女郎花歌を含めると二七七首)となったのであろうと想像します。
 この想像からの解説を踏まえて紹介した平五年のものと延喜十三年のものとを比べて見て下さい。延喜十三年のものと想像した和歌の漢字表記で、その使われる漢字と云う文字自体がその歌が詠う世界を表していないことに気が付きませんか。この使う漢字と云う文字に景色を持たせないと云う用法は『古今和歌集』の表現と類似のものです。当然、『新撰万葉集』の編纂の趣旨から和歌表記は万葉集風の表現を行ったため、漢語となる表現も使われています。
 この「『古今和歌集』の表現と類似のもの」と云う言葉について、下記に紹介するように使われる仮名文字の母字となる漢字は復元されています。ただ、『万葉集』とは違い、『古今和歌集』が示すように、使われる変体仮名の母字となる漢字には表語文字となる力を求めていません。いえ、極力、表語文字となる力を消したと思われます。それが同音異義語の言葉遊びを楽しんだ『古今和歌集』の世界です。その『古今和歌集』は延喜5年以降、延喜12年頃以前に成った詩歌集ですから、「延喜十三年版新撰万葉集」とは同時代の作品です。場合によっては、続万葉集の名を持った「第一次古今和歌集」の方が、「延喜十三年版新撰万葉集」より古いとなります。そうしますと、その時、既に遣唐使は廃止されていますから、当初の目論見である大唐の人に日本の文化を紹介すると云う目的はなくなっています。『新撰万葉集』の読者は大唐の人から平安貴族へと変わらざるを得ないことになります。ここに、『古今和歌集』が持つ和歌を表現する変体仮名から極力、表語文字となる力を消すと云う主張を「延喜十三年版新撰万葉集」が取り入れている可能性があるかもしれません。そのため、『新撰万葉集』の中に二つの和歌表現方法が見える理由かもしれません。

古今和歌集 歌番2
和歌 曽天悲知弖 武春比之美川乃 己保礼留遠 波留可太遣不乃 可世也止久良武
読下 そてひちて むすひしみつの こほれるを はるかたけふの かせやとくらむ

古今和歌集 歌番220
和歌 安幾破起乃 之多者以都久 以末餘理処 悲東理安留悲東乃 以祢可転仁數流
読下 あきはきの したはいつく いまよりそ ひとりあるひとの いねかてにする

 ここのところ、『万葉集』の読解方法や編纂の歴史を取り上げていて、その一貫で『新撰万葉集』を取り上げました。如何にも素人と云うことが明らかになりますが、その中での調べ物で判明したことは、『新撰万葉集』は専門家でもあまり取り上げていない作品で、その原文をネット上で入手することは非常に難しいと云うことです。専門図書として臨川書店から『京都大学蔵 新撰万葉集』や『新撰万葉集 校本篇』がありますが、近々のものはないのではないでしょうか。なお、このブログに資料としてネットから得られたものを再編集して「資料編 新撰万葉集」の名で載せました。もし、今回の『万葉集』と『新撰万葉集』との表記比較に興味を持たれましたら、より詳しく調べて頂ければと希望します。
 さらに、専門とされるお方が来場されていましたら、個人の直観で「平五年版新撰万葉集」と「延喜十三年版新撰万葉集」との相違があるとしましたが、ここのところのご指摘をいただければと考えます。もし、それが正しいものとしますと、場合により平安中期以降の貴族が『万葉集』を原文から読解することが出来なくなった理由が仮定できるかもしれません。感覚ですが「平五年版」と「延喜十三年版」とでは和歌表記に選択した漢字文字が大きく違います。従いまして「延喜十三年版」の延長線では『万葉集』を楽しむことは難しいと想像します。

 もう少し、
 『新撰万葉集』の和歌は万葉調に「寛平御時后宮歌合」の和歌を変換して記述したためか、日本語での助詞に当たる「の」には「之」、「し」には「芝」の仮名文字を当てています。一方、二十年前後の相違はありますが、『土左日記』では「の」には「乃」や「野」、「し」には「之」の変体仮名文字を当てています。国語の進化では、ほぼ、同時代の作品と目される『新撰万葉集』と『土左日記』の和歌表記では、その用字選択に特徴的に相違が現れています。およそ、平安時代の貴族たちは『万葉集』の漢詩体歌や非漢詩体歌をある種の漢詩の部類と考えていたかもしれません。そのためか、同じ和歌ですが、『土左日記』では助詞に万葉仮名の発音に従い、『新撰万葉集』では助詞に漢文訓読での助字を当てたと想像します。ただし、これは平安貴族たちの『新撰万葉集』の和歌表記の約束事でしょうから、それで『万葉集』全体での読みを規定するものではないと考えます。つまり、未だ、「之」を助字として「の」や「が」などと読んでいいのかと云う問題は残ります。

『新撰万葉集』より
歌番1 伊勢
和歌 水之上丹 文織紊 春之雨哉 山之緒 那倍手染濫
読下 みつのうへに あやおりみたる はるのあめや やまのみとりを なへてそむらむ

歌番242 佚名
和歌 髣髴丹見芝 人丹思緒 屬染手 心幹許曾 下丹焦禮
読下 ほのにみし ひとにおもひを つけそめて こころからこそ したにこかるれ

『土左日記』より
和歌 美也己部止 思不毛乃ゝ 加奈之幾者 加部良奴人乃 安礼者奈利个利
読下 みやこへと 思ふものゝ かなしきは かへらぬ人の あれはなりけり

和歌 美那曽己乃 月乃宇部与利 己久舟乃 左於爾左者留者 加川良奈留良之
読下 みなそこの 月のうへより こく舟の さおにさはるは かつらなるらし


 最後に、今回、紹介しました『万葉集』の読み下しは平安貴族が楽しんだであろう姿を想像して「之」や「而」などの文字は漢詩訓読みでの助字と扱っています。本来の万葉仮名としての読み方をしていません。そのため、このブログで紹介しているものとは違っています。およそ、『新撰万葉集』は中国大唐の人を読者として編まれた作品と考えていますので、平安貴族は和歌表記では国語の万葉仮名文字ではなく、中国語での漢詩体助字としなければいけないと考えたものと想像しています。この想像での読み下しです。万葉仮名であるならば、『土左日記』と同様な扱いが必要と考えます。
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