竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

今日のみそひと謌 火曜日

2013年12月31日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと謌 火曜日

集歌1281 君為 手力勞 織在衣服叙 春去 何色 摺者吉
訓読 君しため手(た)力(ちから)疲(か)れし織りたる衣(きぬ)ぞ 春さらばいかなる色し摺りてば吉けむ
私訳 貴方がために手の力も疲れて織った衣です。春になったらどのような色に摺り染めると喜んでもらえるでしょうか。

集歌1282 橋立 倉椅山 立白雲 見欲 我為苗 立白雲
訓読 梯立(はしたて)し倉椅(くらはし)山し立つる白雲 見まく欲りわがするなへに立つる白雲
私訳 梯立の倉椅山に立ち昇る白雲よ、恋人に逢いたいと私が思うほどに立ち昇る白雲よ。

集歌1283 橋立 倉椅川 石走者裳 壮子時 我度為 石走者裳
訓読 梯立(はしたて)し倉椅(くらはし)川し石(いは)し橋はも 壮子(さかり)時我(われ)し渡りて石し橋はも
私訳 梯立の倉椅川の石の橋よ、貴女の許へ通った男盛りの時に私が渡った石の橋よ。

集歌1284 橋立 倉椅川 河静菅 余苅 笠裳不編 川静菅
訓読 梯立(はしたて)し倉椅(くらはし)川し川ししづ菅 わが刈て笠にも編まむ川ししづ菅
私訳 梯立の倉椅川の川の秘めやかな菅よ、私が刈って笠にも編むこともない川の秘めやかな菅よ。

集歌1285 春日尚 田立臝 公哀 若草 麗無公 田立臝
訓読 春(はる)日(ひ)すら田し立ち疲(か)る君しかなしも 若草し妻無き君し田し立ち疲る
私訳 春の日でも田仕事に立ち疲れる貴方はかわいそうだ、労わってくれる若草のような初々しい妻も無い貴方が田仕事に立ち疲れるよ。

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今日のみそひと歌 月曜日

2013年12月30日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと歌 月曜日

集歌376 秋津羽之 袖振妹乎 珠匣 奥尓念乎 見賜吾君
訓読 秋津羽(あきつは)し袖振る妹を珠匣(たまくしげ)奥(おく)に念(おも)ふを見たまへ吾(あ)が君
私訳 蜻蛉(とんぼ)の羽のような薄く透き通った袖を振る愛しいあの女(ひと)を、玉を宝箱の奥に置くように密やかに慕うその女を、御覧なさい、私の尊敬する貴方。

集歌377 青山之 嶺乃白雲 朝尓食尓 恒見杼毛 目頬四吾君
訓読 青山し嶺(みね)の白雲朝(あさ)に日(け)に常に見れども愛(め)づらし吾(あ)が君
私訳 彼方の青く見える山並みの嶺に懸かる白雲は、毎朝毎日、何時も眺めますが美しい。そのように常にお目にかかっても尊敬いたします。私の貴方。

集歌378 昔者之 舊堤者 年深 池之瀲尓 水草生家里
訓読 昔(むかし)はし古(ふる)き堤は年(とし)深(ふか)み池し渚(なぎさ)に水草(みくさ)生(お)ひにけり
私訳 昔からのこの古い堤は、長い年月を経ている。池の渚に水草が生えています。

集歌380 木綿疊 手取持而 如此谷母 吾波乞甞 君尓不相鴨
訓読 木綿(ゆふ)畳(たたみ)手し取り持ちにかくだにも吾は祈(こ)ひなむ君に逢はじかも
私訳 木綿の幣をたたみ手に取り持って、このように私はお祈りしましょう。愛しい貴方に逢えるでしょうか。

集歌381 思家登 情進莫 風候 好為而伊麻世 荒其路
訓読 家(いへ)思(も)ふと情(こころ)進むな風(かざ)守(まも)り好(よ)くせにいませ荒(あら)しその路
私訳 故郷の家を恋しいと心を急かさないで、風向きを良く確かめて無事に帰り行きなさい。危険ですよ、その道程は。

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明日香新益京物語 半島の黒雲

2013年12月28日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
半島の黒雲

 白鳳十八年(665)、皇太后天皇間人皇女が三十七歳で崩御された。このため、倭に祭事を執る天皇位を継ぐ者が居なくなった。そのため、しかたなく、倭の豪族どもは葛城皇子の大王位への就任とその葛城大王が古人大兄皇子の娘である倭姫王を室に入れ皇后と定めることを認めた。そして、その皇后倭姫王を皇后天皇とすることを衆議の下、決めた。
 蘇我石川麻呂殺害事件や百済の役等の始末について、倭豪族の百済派と半島不干渉派、それぞれが葛城皇子の差配に不満があった。また、仏教に肩入れし、倭の神祀りを軽んじる姿もまた、倭の豪族には賛否があった。しかし、皇太后天皇間人皇女の崩御により倭に祭祀を執る天皇が不在になると云う事実に豪族どもは葛城皇子を大王に推挙することを認めた。
 白鳳十九年(666)、葛城皇子は推挙され、大王に就任した。そして、倭の古風に従って、大王の新たな宮を近江国の大津に置くことを決めた。倭の豪族どもは、大王の新たな宮を倭の中に置くことを期待した。しかし、葛城大王は朝鮮半島の政治を考え、大津に宮を置くことにした。
 建前での百済は大和へ貢ぎを出す朝貢国である。ところが、大唐が傀儡国として復興した百済では主要な役人は唐人であり、大唐からすると傀儡国の百済を大和への朝貢国とする考えはない。そこで、葛城大王は百済人が多く住む大津へと宮を遷し、朝廷の主要メンバーを百済派の豪族で固めた。そうすれば、大津宮で傀儡国百済の遣大和使が倭の古風の朝貢の儀礼を取らなくても、苦情を申し立てる者はいない。

 その頃、飛鳥の宮中で蘇我赤兄が葛城大王に報告をしている。
「大王、高麗と耽羅から使いがきております。主だったもの八名」
「求めは何ぞ、単なる朝貢ではあるまい」
「彼らの求めは、大和の兵であります」
「『大和は新羅とは和議はしない』と告げよ、今度はそれで満足するはずじゃ」
「ただし、彼らに十二分に馳走して帰国させよ。特に良き女子をあてがい、奴らの骨を抜くように手配せよ。良き女子の件は内臣の中臣鎌足に相談するように。女子は鎌足の領分じゃてな」
「命に従いまする」

 その足で、蘇我赤兄が内臣の中臣鎌足の許に尋ねている。蘇我赤兄は筑紫太宰で渡来人への馳走で苦労しただけに、大王の「女子で骨を抜くように」との命令が気になっていた。
 右大臣の蘇我赤兄が、わざわざ、自宅を訪ねて来たことに鎌足は機嫌が良い。宮中で大王の妃、夫人や嬪の雑用と天皇に従う采女の管理を行う大王家の執事である内臣と云う職務は、武闘派の安倍臣比邏夫や巨勢臣訳語に嘲笑われる。それが、蘇我赤兄は鎌足を頼りにして尋ねて来た。鎌足にはそれが心地良い。
「内臣。今度、高麗と耽羅からの使いに馳走をせねばならん。それも、大王は良き女子で使いの骨を抜くようにとのご命令じゃ、どうにかなるであろうか」
「倭の遊行女婦(うかれめ)は百済人や新羅人を嫌がる。それで、客に十分な馳走が出来るであろうか」
「右大臣、心配なされるな。この鎌足は父、弥気からの内臣の家の子ぞ。女子の手配は吾等、弥気中臣家の生業じゃ。存分に高麗と耽羅からの使いの骨を抜いて見せましょう」
「そうか、内臣。頼みいる。主が頼りじゃ」
「内臣、これからも大唐や百済から使いが参るであろう、その時の馳走もまた宜しく頼む」
「右大臣。この鎌足に任せていただければ、そのような馳走は十分に用意する。心配は御無用じゃ」
「そうか、安心したぞ。今度の件、よろしく頼む」

 中臣弥気から続く内臣を務める弥気中臣家は、その職務上、貢ぎの采女の管理もするし、大王家の医師や薬師の役割や手配もする。当時の最新の医療には房中術があり、中年以上の高貴な身分の人物に若い性を用意するのも医療行為である。赤兄も筑紫大宰府に居たこともあり、最新の中国医療にも素養はある。その為、鎌足が宮中でする房中術を、十分、理解している。
 また、国々からの貢ぎの采女は、その体質などから神事采女と雑事の采女に仕分ける必要がある。その仕分けを弥気中臣家がする。神事采女は神降りの依代となり、大王と御衾で交接するのが職務である。つまり、鎌足は家業であり職務として貢ぎの采女の中からそれに適う体を持つ神事采女を選び出す行為もする。
 職務柄、弥気中臣家は大和朝廷が誇る性のエキスパートの一族とも云える。それを承知しての、大王の指示である。

 内臣中臣鎌足と別れた後、蘇我赤兄が呟く、
「どうも、吾は女子の扱いは苦手じゃ。ただ、客に素直な良き女子をあてがわんと、その客が国に帰って何を云うか不安だしな。客の真意を知るには良き女子が一番じゃが、どうも、苦手じゃ。その点、鎌足は上手じゃ。代々、宮中の女子の束ねを務める家の子だけのことはある」
「男子が生まれんとこぼしていた葛城大王に見目良き女子を見つけ出し、采女との名で室に入れ、その娘に男子が生まれた。あれはみごとであった。ただ、親の筋が悪い。百済人で仏教徒じゃ。それで騒ぎにならんように伊賀の采女と云わせているが、もし、これからも男子が生まれんと騒ぎの種になる。困ったものだ」
「それも、これも、有間皇子を殺した罰か。おだてればどうでもなる調子者を担ぐためとは云え、やはり、調子者の守りは大変じゃ」

 大唐の意向の下、高麗の能婁と耽羅の王子始如たち遣大和使一行は正月から六月まで大和に滞在した。その間、遣大和使一行は内臣中臣鎌足が手配した宴で歓待を受けた。彼らは、鎌足が手配した女子の馳走と大和は新羅と友好を結ばないことを確信し、満足して帰国していった。

 白鳳二十年(667)二月、葛城大王は先の皇太后天皇であり、妹の間人皇女の遺体を小市岡にある母親であり太皇太后天皇であった宝皇女の陵に合葬した。そして、同時に前年に亡くなった娘、大田皇女の遺体を陵の前塚に葬った。
 この埋葬の儀礼が終わった直後、大王は近江の大津宮に遷った。
 その年の暮、大津宮に凶報がもたらされた。あの高麗が滅んだ。朝鮮半島は、今、大唐と新羅が支配する。その高麗が滅んだ直後、大唐は葛城大王が二年前の白鳳十八年に遣唐使として送った境部連石積たちを朝鮮半島の熊津都督府から送り返して来た。大唐は新羅を牽制するため、大和との友好の深化と同盟軍の盟約の道を探った。
 新羅憎しの百済遺臣を行政実務の顧問団として持つ近江朝廷は、大唐と同盟軍を結成することを決めた。葛城大王は大唐の送使者である司馬法聡を無事に返送することを名目に伊吉連博徳・笠臣諸石たちを大唐に派遣した。
 朝鮮半島の情勢はめまぐるしく変わる。この間、新羅もまた、大和への朝貢を再開し、大和との全面衝突を避ける糸口を探った。
 白鳳二十一年(668)正月、葛城皇子は宮中で大王就任の儀礼を行い、年号を中元と改めた。その中元元年(668)二月、倭姫王を、祭祀を司る皇后天皇と正式に定めた。
 大唐は、この葛城大王の大王位就任を祝い、傀儡の高麗と百済から遣大和使を送り、朝貢した。近江朝廷はこの朝貢使節団に権威を高められ満足した。

 その朝廷の華やかな外交の陰で、大海人皇子は別な道を歩いている。
 大海人皇子は、その技術者の性格を反映して、着実に大和の平和への道を築いた。手始めに、百済人の法律家である沙宅昭明を使い、孝徳天皇の時代からの官僚の身分制度を見直し、それを大和の風習に見合うように改めた。
 そこには、それぞれの氏族の歴史と氏上を尊重する工夫を取り入れた。重要な神事の儀礼序列では、唐風の官僚の官位だけでなく、氏族の氏上と云う立場を組み込み、氏族での長老の立場を立てた。葛城大王に付き添う百済人が唱える官僚中心の秩序好きとは違い、大海人皇子は古豪の長老からの受けは良い。それに、一番肝心なことは、大和の主だった豪族たちからは大海人皇子は学者馬鹿で、政治をしない男と見られている。これが、また、百済派と半島不介入派とに分かれ、王族同士が血で血を洗う政治闘争をした過去を知る人々に安心感を与えた。

 一年ほど時を戻す。
 白鳳二十年(667)、高市皇子は十五歳となり袴着の儀礼を行った。百済の役などの大和の激動は、高市皇子の父、大海人皇子を皇太弟の立場に押し上げた。そして、それに連れ、高市皇子の立場も重く為って来た。
 袴着を機会に、大海人皇子は、長男、高市皇子に鍛冶を束ねる技術者の道を歩かせることを決めた。そのため、凡海一族が治める但馬の間人・竹野から韓鍛冶を呼び寄せ、宗像の韓鍛冶と共に高市皇子の配下に入れた。
 倭鍛冶は柿本・小野一族が生業としている。その柿本比等を高市皇子の舎人とし、柿本臣を中心に大和の主だった鍛冶集団を高市皇子の下に集めた。そして、大海人皇子は高市皇子にその鍛冶集団でもって近江国栗東の丘陵に製鉄を目的とする鍛冶の里を造らせることを決めた。大海人皇子の立場が重くなるにつれ、玉突きのように高市皇子と柿本比等もまた、重くなる。
 今、大海人皇子や高市皇子が行おうとする製鉄は、褐鉄鉱や磁鉄鉱などの鉄鉱石からの製鉄法であり、日本で中世以降に現れてくる砂鉄だけを使う特殊なたたら製鉄法ではない。漢・唐渡りの鉄鉱石からの製鉄法はたたら製鉄法とは違い、複雑な社会システムを求める。大和でこれを管理できるのは皇太弟たる大海人皇子とその子、高市皇子だけである。
 方針を決めた大海人皇子が柿本比等の父、柿本鮪を呼び出した、
「柿本臣、主の子、比等に鉄の鉱石探しに泉川の川筋に行って貰う」
「君、吾等、柿本は銅の鍛冶一族でありますが、それが鉄でありますか」
「臣、主がそのように云うのも判る。じゃが、この大和で鉄を鉱石から鋳ることの大事も、主なら良く判るであろう」
「君、その大事は、十分に判っております。じゃが、倭に鉄の鉱山はありますでしょうか」
「主も知るように、噂はある。ただ、それは倭の吾等が知らぬ種類の鉄の鉱山と云う」
「その鉄の鉱山探しは、吾の朋柄、但馬間人の韓鍛冶が行う。比等は倭人として、倭での案内と鉱山探しで集う者どもの差配をする」
「但馬の韓鍛冶が鉱山探しを行いまするか。判りました。我が子、比等に君の命令を伝えましょう」

 柿本比等は但馬間人(たじまたいざ)の韓鍛冶の長である間人(はしひと)安金(やすかね)と山背国の加茂郡小野邑から泉川(現在の木津川)の川筋を上流へ、上流へと鉄の鉱山を求め探査した。結果は良くない。数年前、柿本比等はこの川筋を探査した折り、多少の鉄や銅の鉱石が有ることは判っている。だが、韓鍛冶の長である安金は「砂鉄はあるが、その嵩が薄い」と云う。
 二人の話を聞いていた、その柿本比等の探査に同行する里人である星川臣麻呂が聞く、
「主、どれほどの鉄の鉱石が入る」
「星川臣、倭の皇太弟のご要望は、百人の鉄鍛冶が、百年、鉄を鋳ても尽きぬほどの鉱石の山を求めている」
 比等と安金は、その探している求めの規模に星川臣が驚くだろうと思った。
 ところが、星川臣が云う、
「なんじゃ、そのような求めか。それなら、なぜ、田上に行かん。あそこなら、あるぞ」
「え、主。それは真か」
「なに、疑う。この矢先を見よ。吾等は冬になれば、田上で鉄を鋳る。これでも吾等は鍛冶もする」
「柿本臣、主はまた銅の鉱石を求めていると思うていた。銅なら、たまに、ここにある」
「違う、今度は鉄じゃ、それも山ほどの鉄の鉱石がいる」
「星川臣、吾等をその田上に連れて行ってくれんか、のう、頼む」
「おお、主たちは、昨夜、吾の末妻と長娘子に胤をくれた貴人じゃ。その礼ある人に、案内の馳走をしようぞ。小者二人に送らそう」
「なんと有り難き馳走じゃ。恩は忘れん」

 柿本比等と間人安金は、星川の里の小者の案内で倭の都祢から上野の多羅尾を経て甲賀の田上山に向かい、そこで褐鉄鉱の露天の鉱山を見つけた。これで、大和に鉄の鍛冶の里を造る目鼻が付いた。
 柿本比等は、この鉱山探査の旅の途中にも、倭にいる片思いの恋人の為に、歌を創った。

妻隠矢野神山露霜尓〃寶比始散巻惜
訓読 妻隠る矢野し神山露霜ににほひそめたり散らまく惜しも
私訳 妻が籠ると云う名張の家野の神山は露霜に色づきだした。その黄葉が散ってしまうのが惜しいことです。

 柿本比等は高市皇子と大海人皇子に、褐鉄鉱の露天の鉱山発見の報告をした。それを受け、大海人皇子は柿本鮪などの意見等を参考に大和の製鉄を行う鍛冶の里を栗東に置くことを決めた。
 栗東は大津宮の対岸に位置し、草津川の水運がある。また、近くには倭では製鉄をする小野一族が居り、田上山の鉱石の掘削には星川の里人が手助けをする。掘り出された鉱石の運搬には野洲川の水運が期待できる。
 柿本比等は高市皇子を補佐し、製鉄の鍛冶の里を栗東に造る。
 この時、その鍛冶の里を現場で動かす高市皇子や柿本比等は、この鍛冶の里の政治的重要性に気付いていない。大和の鍛冶の里の建設は大海人皇子の悲願であった。父、田村王(諱、舒明大王)や叔父、軽王(諱、孝徳大王)が鉄の自立を夢見、それを父や叔父に幼いころから話され諭されて来た大海人皇子にとって、その人生の目標が近づく。悲願であった朝鮮半島に依存せず、大和が製鉄で自立することが、もう、目前に迫っている。そうなれば、鉄の為に朝鮮に出兵する必要はなくなる。
 この政治的インパクトに気付いているのは、この時、大海人皇子、ただ、一人であった。
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万葉雑記 色眼鏡 五十九 雪を楽しむ

2013年12月28日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 五十九 雪を楽しむ

 『万葉集』の中に雪を詠う歌を多く見ることが出来ます。ここでは恋歌以外のものを中心に個人の好みで雪の歌を集めてみました。
 最初に紹介する三首は官庁で行われる新年の賀詞交換の宴で詠われた定型の寿歌です。今日、紹介しますと、数日ほど年の内となり、タイムリーではありませんが、ご勘弁のほどを。なお、大伴家持が詠う集歌4516の寿歌は典型的な役人が詠う定型歌ですので秀歌として鑑賞するたぐいのものではありませんが、『万葉集』の最後を閉める歌としては有名です。また、紹介しますものは個人的な鑑賞での景色感覚から、その紹介順は『万葉集』での記載順とは違います。

集歌3925 新 年乃婆自米尓 豊乃登之 思流須登奈良思 雪能敷礼流波
訓読 新しき 年の初めに 豊(とよ)の年 しるすとならし 雪の降れるは
私訳 新しい年の初めに、今年はきっと豊作の年だと、預言しているのでしょう。このように雪が降ってくるのは。

集歌4516 新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰
訓読 新しき 年の始(はじめ)の 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事(よこと)
私訳 新しい年の始めの初春の今日、その今日に降るこの雪のように、たくさん積もりあがれ、吉き事よ。

集歌4229 新 年之初者 弥年尓 雪踏平之 常如此尓毛我
訓読 新しき 年し初めは 弥年(いやとし)に 雪踏み平(なら)し 常(つね)かくにもが
私訳 新しい年、その年の初めには、さあこのように毎年に、豊作を預言する雪を踏み均して、いつもいつもこのような宴をしたいものです。

 紹介したものは官庁の新年の賀詞交換の宴で詠う定型の歌ですから、同じような定型歌が平安時代でも新年を祝う宴で詠われています。それが次の歌です。
 儀礼で詠う寿歌ですから定型歌として上二句は決まっています。そのため、下三句をその場の雰囲気に合わせて詠うことが重要です。ただし、気象物では雪は豊作の予兆ですから雪があればそれを詠い込むのは礼儀ですし、同じようにおめでたい詞もまた必要です。

古今和歌集 歌番号1069
新しき 年のはじめに かくしこそ ちとせをかねて たのしきをつめ


 次に紹介する歌は新年の宴会で詠われた抒情の寿歌です。和歌の世界の季節の約束では冬は十二月の末までで、春は一月から三月です。およそ、紹介する歌が詠われたのは新年謹賀の宴と云うことになります。奈良時代前期から中期の貴族たちの新年を賀する宴での酒の肴には、このような歌が詠われたようです。宴の参加条件がこのような歌を詠うことを求められるのですと、現代人では酔いが醒めるような大変な宴です。

集歌1439 時者今者 春尓成跡 三雪零 遠山邊尓 霞多奈婢久
訓読 時は今は 春になりぬと み雪降る 遠き山辺(やまへ)に 霞たなびく
私訳 季節は、今はもう、春になりましたと。美しい雪が降る。その真っ白い雪が積もる遠くの山並に、霞が棚引いています。

集歌1832 打靡 春去来者 然為蟹 天雲霧相 雪者零管
訓読 うち靡く 春さり来れば しかすがに 天(あま)雲(くも)霧(き)らふ 雪は降りつつ
私訳 芳しく風に靡く春が天を去り地上にやって来ると、さすがに空の雲もこのように霧となる。雪は降っていても。

集歌1888 白雪之 常敷冬者 過去家良霜 春霞 田菜引野邊之 鴬鳴焉 (旋頭歌)
訓読 白雪し 常(つね)敷く冬は 過ぎにけらしも 春霞 たなびく野辺(のへ)し 鴬鳴くも
私訳 白雪がいつも降り積もる冬は、きっともう、その季節が過ぎたようです、春霞が棚引く野辺には鶯が鳴いています。

集歌4488 三雪布流 布由波祁布能未 鴬乃 奈加牟春敝波 安須尓之安流良之
訓読 み雪降る 冬は今日(けふ)のみ 鴬の 鳴かむ春へは 明日(あす)にしあるらし
私訳 美しい雪が降る冬は今日までです、鶯が鳴くでしょう、その春は、明日からなのでしょう。


 ここからは、純粋に雪景色に対する個人の好みです。

集歌262 矢釣山 木立不見 落乱 雪驪 朝楽毛
訓読 矢釣山 木立し見えず 降りまがふ 雪し驪(うるは)し 朝(あした)楽(たのし)も
私訳 矢釣山の木立も見えないほど降り乱れる雪が彼方のまっ黒な雪雲から降り来る、その雪が美しい。きっと、白一面となる翌朝も風流なことでしょう。

集歌318 田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留
訓読 田子し浦ゆ うち出(い)でて見れば 真白にぞ 不尽(ふじ)の高嶺(たかね)に 雪は降りける
私訳 田子にある、その浦から出発して見上げると、真っ白な富士の高き嶺。その高き嶺に雪が降ったのでしょう。
注意 この歌は冬の季節の歌ではありません。雰囲気は夏の季節の歌です。しかし、有名な歌ですので、参考として取り上げました。

集歌822 和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母
訓読 吾(わ)が苑(その)に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも
私訳 私の庭に梅の花が散る。遥か彼方の天空から雪が降って来たのだろうか。

集歌1420 沫雪香 薄太礼尓零登 見左右二 流倍散波 何物之花其毛
訓読 沫雪(あわゆき)か はだれに降ると 見るさへに 流らへ散るは 何物(なにも)し花ぞも
私訳 沫雪なのでしょうか、まだら模様に空から白いものが降るのを見ていると、その空から流れ散るのは何の花でしょうか。

集歌1426 吾勢子尓 令見常念之 梅花 其十方不所見 雪乃零有者
訓読 吾が背子に 見せむと念(おも)ひし 梅し花 それとも見えず 雪の降れれば
私訳 私の愛しい貴方に見せましょうと想った梅の花。今、その花がどこにあるのか判らない。真っ白な雪が降ってしまったので。

集歌1639 沫雪 保杼呂保杼呂尓 零敷者 平城京師 所念可聞
訓読 沫雪(あわゆき)し ほどろほどろに 降り敷しけば 平城(なら)し京(みやこ)し 思ほゆるかも
私訳 沫雪が庭にまだら模様に降り積もると、奈良の京を思い出されます。

集歌1848 山際尓 雪者零管 然為我二 此河楊波 毛延尓家留可聞
訓読 山し際(は)に 雪は降りつつ しかすがに この河(かは)楊(やなぎ)は 萌(も)へにけるかも
私訳 山の稜線に雪は降り続けている。目に見る景色はそうなのですが、この川楊は春の季節が来たと芽が萌えだしたのでしょう。

集歌2314 巻向之 檜原毛未 雲居者 子松之末由 沫雪流
訓読 巻向(まきむく)し 檜原(ひはら)もいまだ 雲居ねば 小松し末(うれ)ゆ 沫雪流る
私訳 巻向の檜原にもいまだに雪雲が懸かり居るからか、垂れた小松の枝先の積もった沫雪が流れ落ちる。

集歌2334 沫雪 千里零敷 戀為来 食永我 見偲
訓読 沫雪(あはゆき)し 千里(ちり)し降りしけ 恋ひしこし 日(け)長き我は 見つつ偲(しの)はむ
私訳 沫雪よ。目の前に広がるすべての里に降り積もれ。今までずっと貴女を恋い慕ってきた、所在無い私は、降り積もる雪を眺めて、昔に祭礼で白い栲の衣を着た貴女の姿を偲びましょう。


 おまけですが、次の大原真人今城が詠う集歌4475の歌は柿本人麻呂歌集に載る集歌2334の歌に対する本歌取り技法で詠った歌です。集歌2334の歌の「戀為来」は場合により「こいしくの」とも訓むことが出来ますので、違いはわずかに四句目だけとなります。時に大原今城の恋しい相手とは柿本人麻呂の歌々かもしれません。もう一つ、四句目の「於保加流(おほかる)」からは「多ほかる」と「凡ほかる」との二つの意味が取れます。その姿はちょうど、表記方法を含めて『古今和歌集』の歌と同じ世界の歌です。当然、宴で大原今城の歌を鑑賞する人々は、ここでの説明は承知の事柄です。

集歌4475 波都由伎波 知敝尓布里之家 故非之久能 於保加流和礼波 美都々之努波牟
訓読 初雪は 千重に降りしけ 恋ひしくの おほかる吾は 見つつ偲(しの)はむ
私訳 初雪は幾重にも里に降り積もれ。物恋しい気持ちが募り、気がそぞろな私は、雪一面の里の様子を眺めて物思いをしましょう。


 終わりに、ここでは雪と梅花とを詠う歌はあまり紹介しませんでした。万葉集には多くの雪と梅花とを詠う歌がありますが、これは次回、梅花の歌を楽しむ時に紹介します。
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今日のみそひと歌 金曜日

2013年12月27日 | 万葉 みそひと謌
今日のみそひと歌 金曜日

集歌3941 鴬能 奈久々良多尓々 宇知波米氏 夜氣波之奴等母 伎美乎之麻多武
訓読 鴬の鳴く崖(くら)谷にうちはめて焼けは死ぬとも君をし待たむ
私訳 鶯の鳴く崖谷にわが身を投げ捨てて、恋心に身が焦がれて焼け死ぬほどであったとしても、貴方のご帰還を待っています。

集歌3942 麻都能波奈 花可受尓之毛 和我勢故我 於母敝良奈久尓 母登奈佐吉都追
訓読 松の花花(はな)数(かず)にしも我が背子が思へらなくにもとな咲きつつ
私訳 貴方を待つ、その言葉のひびきのような松の花、その数えきれないほどの花の数のように私が待っていても、私の愛しい貴方は私の事を思って下さらないのに、それでも松の花(=待つ気持ち)は咲いている。

集歌3943 秋田乃 穂牟伎見我氏里 和我勢古我 布左多乎里家流 乎美奈敝之香物
訓読 秋し田の穂向き見がてり吾(わ)が背子がふさ手折(たお)り来る女郎花(をみなへし)かも
私訳 秋の田の穂の実りを見回りながら、私の大切な貴方がたくさん手折って来られた女郎花ですね。

集歌3944 乎美奈敝之 左伎多流野邊乎 由伎米具利 吉美乎念出 多母登保里伎奴
訓読 女郎花(をみなへし)咲きたる野辺を行き廻(めぐ)り君を思ひ出たもとほり来ぬ
私訳 女郎花が咲いた野辺を行き見回りながら、貴方のことを思い出して寄り道して手折って来ました。

集歌3945 安吉能欲波 阿加登吉左牟之 思路多倍乃 妹之衣袖 伎牟餘之母我毛
訓読 秋の夜は暁(あかとき)寒し白栲の妹が衣手着む縁(よし)もがも
私訳 秋の夜は暁時が寒い、共寝で着る白栲の貴女の衣の袖をこの身に掛ける、その機会がありません。

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